400万人のビジターのみなさんありがとう。 [気になるWeblog]
サイトへのアクセス数が、少し前に400万人を超えた。毎日の仕事に追われ、このところ取材時間や資料の下調べの時間が不足していて、不満足な記事しか書けておらず、とてももどかしくて恥ずかしいのだけれど、目白・落合地域を中心にたくさんの方々から支えていただき、また読んでいただけるのはとても嬉しい。いつもお読みいただき、ありがとうございます。<(_ _)>
あと少し突っこんで調べたくても、時間がなくて不明のまま、あるいは曖昧なまま記事にしてしまうことも少なくない。その曖昧な部分がのちに判明し、追加で書いた記事もたくさん存在している。そのようなケースでは、以前の記事に註釈を挿入して、できるだけ最新の記事へとリンクを張るようにしているのだが、これだけ記事数が増えてくると、見逃している箇所もたくさんあるのではないかと思う。気づいた時点で註釈を入れてはいるけれど、もし読まれていてお気づきの点、あるいはリンク漏れなどがあれば、どうかご教示いただければと思う。
それにしても、目白・落合地域あるいはその周辺域にお住まいの方のみならず、これほど多くの方々がこの地域へ興味を持たれているとは、正直、思いもしなかったことだ。いつだったか、ある特定の地域や街を切り取り、キメ細かに調べていく(ドリルダウンしていく)プレパラートの話Click!を書いたことがあった。日本全国、どこの地域や街でも同じような“地層”が存在すると思うのだが、東京のほんのごく一部であり、どちらかといえば地味な新乃手Click!の目白・落合地域は、旧石器時代から現代にいたるまで、江戸東京の地誌や歴史、民俗、地勢、暮らし、自然などを博物学的にとらえ、そこに生きた人々の物語を紡ぎだすには最適なフィールドのひとつであり、象徴的な“素材”だったようにも思えてくる。
もちろん、それは結果論的な感想にすぎないのだけれど、どこの地域でも街でも同じようなフィールドワークを行えば、おそらく結果的には「象徴的な素材」だった・・・と思える物語が、多数埋没しているように思われるのだ。このようなプレパラートの設定は、別に東京の新宿地方だろうが大阪の西成地方だろうが、はたまた山形の古屋敷村だろうが島根の荒神谷だろうが、まったく同様にちがいない。目白・落合地域の多彩な時代(街の性格からして近代史の物語が多い)について、さまざまな角度から記事を書いてきたけれど、それはある時代状況を「教科書」的に語るよりも、その時代に生きた人々について、より具体的かつ実体的に語ることだった。
わたしは、どちらかといえば図書館や資料室に置かれた文献・資料類の記録よりも、その地域や街に残る“現場”のナマの記憶や伝承を、できるだけ優先している。「公式な歴史」として、あとからまとめられた記録には、意図的にそれをまとめ上げた主体の都合や粉飾、化粧、付会、あとづけの理屈、結果論、ひどい場合には事実の歪曲やウソが含まれていることが多々あるからだ。
戦前の「教科書」を例に出すまでもなく、現在でさえ「日本史」や「地方史」、「地域史」、「公文書」、あるいは「社史」といった記録には、そのようなご都合主義的な側面が垣間見えている。でも、実際にその“現場”で生きていた人々の“眼”や“耳”や記憶を、あとからの都合で改変したり、「なかったこと」にして誤魔化すことはできない。このような“現場”の記憶や伝承が、明らかな思いちがいや勘ちがいと思われる場合でない限りは、文献や資料類に先んじ“現場”での記憶や伝承などを優先して記事を書いてきたつもりだ。
文献や資料類へ極端に依存しつづけ、現場でのウラ取りをしないままテーマを解釈し表現すると、誤りを再生産Click!しつづけるばかりでなく、既定の事実をその誤りに合わせて逆に改変してしまう危ういケースClick!についても見てきた。また、満足な調査もなされないまま、講談本などをもとにしたのか安易に「定説」化されようとしている、地元の「歴史」もご紹介Click!した。このケースなどは、そもそも初歩的な資料当たりや、地付きの人間への取材さえしてないのではないか?
さて、ビジターの総数400万人にちなみ、ちょっとこじつけめいてはいるけれど、日本列島の人口が400万人だったと推定される時代、すなわちナラ時代の落合地域について少し想いをめぐらしてみよう。江戸東京のナラ時代というと、この地方に散在する出雲系の古社Click!は、すでに聖域(既存の古墳上が多い)として成立してから久しかったと思われる。仏教面からいえば、ナラ時代の初期には浅草寺が、つづいて深大寺などが次々と建立された時期に当たる。
落合地域のあちこちで、あるいは周辺域である戸塚(十塚)や高田、戸山、柏木、上高田などのエリアでは、ナラ時代の遺跡や遺構が数多く発見されている。落合地域のみに限れば、もっともなじみ深いのが下落合横穴古墳群Click!(下落合4丁目)の存在だろうか? 薬王院の西側に位置する同古墳群は、宅地造成の最中にたまたま発見されたものだが、ナラ時代以前の古墳時代の遺構も含め、同じような古墳が目白崖線の斜面ないしは川沿いの高所にあったことは、江戸期から明治にかけての農地開墾や戦後の住宅建設あるいは改築にともない、副葬品と思われる遺物が多数出土している、地元の伝承や記憶(もちろん現存する物証)からも明らかだと思われる。
このほかにも、ナラ時代の落合地域には随所に集落が形成されていたと思われ、現在の中井1丁目~2丁目・4丁目にまたがる、広大な遺跡の総称「落合遺跡」Click!をはじめ、中井No.3遺跡(中井2丁目)、妙正寺川No.1遺跡(西落合2丁目)、上落合二丁目遺跡(上落合1丁目~2丁目)など、ナラ期の遺跡は多地点かつ広範囲にわたっている。これらの遺跡や遺構が“点”ではなく、現在の丁目をまたがる“面”であるところに注目したい。集落が点々と散在するのではなく、ある程度まとまって広い地域から遺構が発見されているということは、もはや「村」レベルではなく、もう少し大きな「町」と表現したほうが適切なようにも思えてくる。現在の神田川や妙正寺川の両岸には、ナラ期の町がかなりの密度で広範囲にわたって存在していたのかもしれない。
それは、下落合横穴古墳群を営み、豊かな副葬品とともに死者を埋葬する経済力やマンパワーを備えた「町」だった可能性がある。おそらく、古墳期には考古学的に南武蔵勢力Click!と名づけられた、巨大な古墳を南関東の各地に築造した人々の末裔なのだろう。換言すれば、400万人という
日本列島の人口密度がかなり低い時代に、広い範囲にわたって集落を形成できていた地域状況(落合地域に限らず江戸東京の各地)・・・という点にも、併せて留意したい。
よく「武蔵野の原野」というワードを、歴史書などで目にする。でも、発掘された事実や成果をもとに、縄文時代から近代あたりまでの様子を眺めてみると、実情はどうだったのか? 戦前からつづく、神話世界の「未開の原野・武蔵野」というイメージが、相変わらずそのままアタマの中に刷りこまれていやしないだろうか?・・・と疑い、疑問や問題意識を持つことは非常に重要なことだと思う。近世の歌にさえ詠まれつづける、どこか「自虐」的で寂しげな「武蔵野の原野」は、あくまでも武蔵野を「未開の原野」のままにしておきたい勢力、武蔵野の大小さまざまな古墳の存在Click!をなかったことにしたい勢力、縄文時代を野蛮で暗愚な「原始人」の時代にしておきたい自国の歴史へ泥を塗りつづける勢力の、ご都合主義的な史観によって築き上げられてきたイメージにすぎないだろう。
戦後、このような感情的に「そうあってほしい史観」は次々と崩壊しつづけ、そのイメージ史観や印象史観は、今後とも事実や科学的な成果の前に、さらに崩壊と後退をつづけていくにちがいない。その格好の事例が、学習院の史料館Click!に眠っているのだけれど、それはまた、別の物語・・・。
◆写真上:木洩れ日が美しい、御留山(おとめ山公園)の雑木林。
◆写真中上:左は、スレート葺きではなくこちらのほうが馴染み深い、なつかしい茅葺きの中井御霊社(下落合御霊社)。右は、目白学園キャンパスに復元された縄文時代の住居だが、最新の発掘成果を踏まえるならばこの復元レプリカも見直される必要があるかもしれない。
◆写真中下:左は、中井御霊社の境内から発見された多彩な時代層の土器類。右は、妙正寺川No.1遺跡のある1955年(昭和30)ごろに撮影された西落合2丁目界隈。
◆写真下:左は、いまにも氾濫しそうな1974年(昭和49)の上落合を流れる妙正寺川。平川(現・神田川)とともに、古代から氾濫を繰り返してきたと思われ、周辺に営まれた集落もずいぶん被害にあっただろう。右は宅地造成中の斜面だが、このような場所から次々と遺跡や遺物が見つかる。
300万人のご訪問ありがとうございます。 [気になるWeblog]
8月17日の深夜、このブログへの訪問者が300万人を超えた。東京23区内の全人口の、約40%近いこの数値を考えると、改めて茫然としてしまった。茫然自失でめまいがしてしまったので、300万人めの方への記念品はご容赦いただきたい。(爆!) 普段はあまり書かないのだけれど、このブログをやっていて日ごろから想うことや感じることを、つれづれとめどなく書きとめておきたいと思う。
以前、慶應大学へお邪魔したときの記事Click!にも書いたが、非常に限定された地域をテーマにしたメディアであるにもかかわらず、記事にしたくなる課題やエピソードが尽きることなく、一向に先が見えてこない。当時、手元にある資料や集まった情報の10分の1ぐらいしか書けていない・・・とお話したけれど、現在も状況はまったく変わっていない。同時に、いまだ地域のほんの上っ面(うわっつら)しかなぞっていないという感覚も当時と変わらない。ひとつのテーマを取り上げて取材すると、それに関連した資料や情報が新たに3つも4つも集まってくる。
これは、別に落合地域(あるいは江戸東京地方)でなくても、全国いずれの地域でも同じ現象が起きるのではないかと思う。あるテーマに探りを入れていくと、いくつか別のテーマが待ちかまえてでもいたように浮上してくる。それらを追いかけはじめると、今度はそれぞれのテーマごとに別の課題が見えはじめ・・・という、一種の連鎖反応とでもいうべき現象だ。取材が芋づる式に拡がっていくので、わたしはこれを芋づる型物語取材とひそかに名づけている。
芋づる型が、同じレイヤを水平方向へ拡がるのに対し、まるで地面を掘り起こしていくような垂直型の取材や調査もある。これも、初期のころ記事Click!に書いたことだけれど、落合地域というひとつのプレパラートをドリルダウンしていくと、期せずしてより大きなテーマの地層へとぶつかり、この国の巨大な歴史そのもの=「日本史」レベルのテーマへとぶち当たってしまうという現象だ。落合地域に堆積している歴史を掘り起こしていくと、芋づる型とはまた異なり、テーマや課題が深層へ向けてネズミ算式に増えていく・・・というような、物語の深淵をのぞきこむことになる。地下茎がどこまで深くつづいているのかわからないこの現象を、わたしは自然薯(じねんじょ)型物語取材とひそかに呼んでいる。いつかの記事で、小川紳介監督の記録映画『ニッポン国古屋敷村』(1982年)の例を出したけれど、いずれの地域でも芋づる型、あるいは自然薯型の現象が見られるにちがいない。
現代に伝わる、そこにある“モノ”に改めて気がつき、あるいはメルクマールとして残された“モノ”にふと気をとめるとき、さらに記念としてピンでとめられた“モノ”をジッと意識的に凝視するとき、そこから聞こえてくるのは、そこから紡ぎだされてくるのは気が遠くなるような、めまいを起こして倒れそうになるほどの、膨大な物語の連鎖だ。ちょっと古いけれど、2000年に出版された瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)から、不思議な博物館の少女・美宇(みう)の言葉を少し長いが引用してみよう。
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ミュージアムにはね、物語が必要なの。(中略) 昔の人は、集めたものをたくさん部屋の中に飾っていたでしょ。お客さんが来たらそこに案内するの。みんなが見たことがないようなものをいっぺんに見せて、驚かせるの。それからどうすると思う? お話を始めるのよ。あそこにある剥製は、何という国に行ったときに仕留めたもので、向こうの貝殻は何という船が太平洋を航海したときに集めたもので、あそこの太鼓は何という島の人からもらったもので・・・・・・そんな具合にお話を始める。みんなそれをどきどきしながら聞くの。主人のお話を聞いているうちに、みんなはそのコレクションの凄さがわかってくる。さっきまではただの変てこなものにしか見えなかったのに、だんだん生き生きと輝いて見えるようになってくる。それが物語の力。集めたものは、ただ見せるだけじゃだめなの。どうして展示されているのか、どうして集められたのか、どうしてそれが大事なのか、そういったことが説明されて、わたしたちは初めてその価値がわかる。初めて楽しめる。(後略)
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ミュージアムを「街」や「地域」、「地方」に置き換えても、本質的にはまったく同じだと思う。ただ単に記念物が街中に置かれ並べられているだけでなく、そこで生きてきた人々の物語が紡がれなければ、現に生きている人々の物語が語られなければ、また、いまも残されている“モノ”の物語が聞こえてこなければ、あるいはすでに消えてしまった“モノ”についての物語が受け継がれなければ、そこがどのような「凄さ」をもったところなのかがわからない。並べられた記念物は、単なる「変てこなもの」にしか見えないのだ。美宇の言葉を読んでいたら、誰かが「街は博物館だ」Click!と表現していたのを思い出した。別に落合地域や江戸東京地方に限らない、人々が暮らしてきたあらゆる地域についても、まったく同様のことが言えるのではないか。
もうひとつ、記事を書くとき気にとめていることがある。それは、難しいテーマの内容であっても、難解な言葉や専門用語、もってまわった言いまわしはできるだけ避け、誰にでも理解できるフツーの言葉で表現すること・・・という基本的な“お約束”だ。そこには、「難しいテーマを専門用語や難解な言葉をつかって表現するのは比較的たやすいが、難しいテーマを誰にでもわかる言葉をつかって表現するのは至難のワザだ」・・・という、文章表現上の理想があるからだ。これはわたしの考えではなく、学生時代に世話になったいまは亡きゼミ論(卒論)の教授に、繰り返し教えられたことだ。
竹田助雄Click!が、『落合新聞』の発行をハナから50号までと限定してスタートしたのは、夫人からの「圧力」があったとはいえ正解だったと思う。これまで書いてきたボリュームをざっと計算したら、400字詰め原稿用紙に換算するとおよそ8,200枚。プルーストの『失われた時を求めて』(1913~1927年)の3分の1強に当たる量になっていた。それだけ書いてもこの程度で、表層レベルの内容しかすくい取れていないのだ。あるところで思い切ってフェーズを区切らなければ、栗本薫の『グイン・サーガ』(1979~2009年)状況になってしまうのは目に見えている。
日本全国どの地域でも、一度物語の世界に足を突っこんでしまうと、まったく同じことが言えるのかもしれないが、わたしの「落合物語」もミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1979年)ではないけれど、どこまでいっても底が知れない“危うい”様相を呈してきていると思うのだ。
◆写真上:1957年(昭和32)1月ごろに下落合の第二文化村で撮影された、病気で倒れ首相を辞任直前の石橋湛山Click!邸前の様子。取材のクルマが路上にずらりと並び記者たちが詰めているが、近所の目白文化村Click!の子供たちも何がはじまるのかウキウキしながら集まっている。
◆写真中上:左は、石橋邸前の現状。右は、南側のテラスで静養する石橋首相を捉えたショット。
◆写真中下:左は、大磯の相模国総社・六所神社に伝わる、下落合でもお馴染みのクシナダヒメ像(平安期)。右は、わたしが最近取材で愛用しているフジオプロの「バカ田大学」ノート。表ニには校歌も載っていて、「♪かがや~くわれら~のバカぶ~りみろよ~♪」とつい唄いながら下落合を歩いている。w ちなみに、このあたりでは早稲田大学Click!とカフェ杏奴Click!で販売しているらしい。
◆写真下:左は、下落合を流れる神田川。右は、雨で小川が濁流となった昭和初期の妙正寺川。
Webログをやっていて楽しいこと。 [気になるWeblog]
2004年の11月にWebログをスタートしてから、今月で丸5年がすぎた。われながら、よく飽きずにつづくものだ・・・と、つくづく呆れている。中には、かなりのオフザケ記事もあるのだけれど、そこは面白くて楽しいこともなければ煮詰まって行き詰まってつづかない・・・ということで、なにとぞ目をつぶってご容赦いただければと思う。ビジターのカウンターを見ると、きょうで227万人を超えていた。
ちょっと、そら怖ろしくなる数字だ。今年は目白・落合地域を少し離れてもう少しテーマを拡げ、江戸東京(特に御城下町Click!あたり)についていろいろ書こうと思い、東京のあちこち出歩いたりもしていたのだけれど、とても貴重な地元の資料が次々と寄せられ、あるいは多数見つかり、やはり目白・落合地域中心の記事ばかりになってしまった。これはもう、落合総鎮守の女神「クシナダヒメ」様が出雲から出張してきて、「もっとなんぞかんぞ、書かないけんよいけんよ」(かわいい出雲弁の女の子には昔から弱いのだ/爆!)と言っているのだろう。では、6年目のしょっぱなの記事は・・・。
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このような地域サイトを起ち上げていて、なによりもうれしいのは、目白・落合地域にお住まいの(あるいは、かつてお住まいだった)大勢のみなさんから、あるいはこの地域にゆかりや興味のある方々から、貴重な情報や資料をお寄せいただくことだ。地元に連綿とつづいてきた記憶や伝承ももちろんだけれど、地元ではなぜか途切れてしまった記憶、あるいは語り継がれなかったエピソードが、意外なところからもたらされることも少なくない。
また、先日のように、とてもそのような作品が存在しているとは思ってもみなかった、大正時代の下落合界隈の風景をとらえた大黒葡萄酒のプロモーション映画Click!を、掲載した記事に関連してご教示いただいたり、1935年(昭和10)ごろに起きた目白通りを走る乗合自動車の労働争議Click!について、警察当局に弾圧され抹殺されて“なかったこと”にされてしまった出来事が、当時の貴重な目白風景の写真とともによみがえったり・・・と、地域をめぐるさまざまな物語は限りなく広くあるいは深く、いまだほんのわずかだけれど、その姿を少しずつ垣間見せてくれている。エンデ風にいうなら、いくら書いてもキリがない「果てしない物語」といったところだろうか。
もうひとつ、貴重な情報や資料をお寄せくださるうれしさとは別に、単純にウキウキと楽しくなってしまう出来事が起きることもある。以前、目白崖線から出土する旧石器Click!を探してペンダントにしたいとたくらんでいる・・・などと書いたら、さっそく石器のペンダントをお送りいただいた。きっと、よそ様の庭先に露出している関東ローム層をほじくっては、「まあ、わたくしの家の敷地ですのよ。そんなところ、掘ってはなりませんことよ!」と叱られそうなわたしに呆れ、同情してくださったのだろう。(汗) お送りくださったのは、長野で木彫をされている「きぎ工房絵日記2」Click!のカタギリさんと、ペンダントに加工してくださったのはとある美術家の方だ。
お送りいただいた石器は、黒曜石を産出する信州の縄文時代(新石器時代)のもので、ナイフ状の鋭い刃が付いている。カミソリのような非常に鋭いエッジで、ペンダントを肌へじかに下げると血だらけになってしまう怖れがあるので、服の上から下げるようにしている。でも、うっかりペンダントをしたまま満員電車に乗ると周囲の人たちを傷つけ、“通り魔”にされかねないので注意が必要だ。顔を濡らせばヒゲを剃れそうなほど、カッターナイフのような切れ味なのが、数万年前の旧石器とは異なり、さすがに縄文期の新石器は鋭利なのだ。
会津八一が所有していた救世観音マスクの記事Click!にからめて、「救世ちゃん焼き」Click!をいただいたときには、もうビックリしてしまった。法隆寺の門前で、実際に売られているのかと信じてしまったぐらいだ。記事のあと、法隆寺のどこへ行けば「救世ちゃん焼き」が買えるのかというお問い合わせを、何人かの方々からもいただいた。ある方が、早稲田大学の会津八一記念館が所蔵している、救世観音の石膏マスクを参考に焼いてくださったケーキなのだが、ほのかな甘さとドラ焼きのような風味で美味しかった。「救世ちゃん焼き」は、マスクとともに足型も作られていてムシャムシャといただきながら、「包帯グルグル巻きでいわく付きの、呪いの観音像を食っちゃっていいのかな?(爆!)」という想いもあったのだけれど、美味しさの誘惑に負けてしまった。
最近、とってもうれしかったのは、四国の今治造船株式会社のボート部Click!のみなさんからいただいた、「今造くん」グッズの数々だ。特に、「今造くん」携帯ストラップは、船好きなわたしが前々から目をつけていて、欲しいと思っていたアイテムのひとつ。チャンスがあったら、戸田のレースへ応援に行こうとまで思いつめていたストラップだ。たまたま、偶然に20,000nice!ピタリ賞Click!でいただいたのだけれど、お送りいただくまでワクワクとても待ち遠しかった。ストラップのほかに、「今造くん」のクリアファイル、ノート、鉛筆・消しゴムセット、シールなど、わたしの地域取材にはもってこいのグッズをいただき、さっそく翌日から次々と愛用している。
近くの第二文化村Click!にある下落合教会Click!の関係者の方からは、「下落合教会みどり留学生寮」の絵ハガキをいただいた。こちらでも、下落合みどり幼稚園Click!とともに何度も同教会のことをご紹介しているので、とてもうれしかった。同教会では、ずいぶん以前からアジアを中心とした海外留学生の受け入れ活動をしてきている。寮の建物は、別に戦前の近代建築でもなければ、めずらしい意匠でもないごく普通の集合住宅なのだけれど、温和なグリーンで印刷されたスケッチの絵ハガキは、同教会の温かみのある活動やリベラルな姿勢が感じられて好きだ。さまざまな催しが行なわれており、入りきれないほどの聴衆を集めたコンサートClick!も記憶に新しい。
銀座通(つう)のある方からは、「銀座柳染め」Click!ハンカチをお送りいただいた。新宿を散歩するのも好きだが、銀ブラももちろん大好きだ。特にうまいもんClick!屋が多く、画廊もあちこちに存在する銀座は、いつも新しい発見がある街なので飽きない。地元の目白・落合界隈は別格として、東京では新宿や故郷の日本橋とともに、最近のお気に入りな街のひとつとなっている。いただいた銀座の柳染めハンカチは、数日おきに愛用するほど気に入っていたのだけれど、4ヵ月をすぎるころから染めの色落ちが激しくなり、現在ではほとんど模様が見えなくなるまで褪色してしまった。(汗) ハンカチは毎日愛用するものなので、もう少ししっかりした染めをしていほしい。いただいておきながらナンですが、せっかく新しい銀座名物として定着しそうな柳染めなので、あえて・・・。^^;
みなさん、ほんとうに貴重な、あるいは稀少でめずらしいものをお送りくださり、ありがとうございます。改めて、心よりお礼申し上げます。<(__)> さて、新石器の美しいペンダントをいただいたので、次は目白崖線の旧石器を見つけて、ぜひペンダントに・・・。(爆!) オバカなわたしは性懲りもなく、ぜんぜん諦めてなかったりするのだ。^^;
■写真上:お送りいただいた、縄文時代の黒曜石で作られた新石器ペンダント。
■写真中上:左は、記事を書いて以来どこで売っているのかをしばらく訊かれつづけた、会津八一記念の「救世ちゃん焼き」。右は、「今造くん」ストラップを下げたわたしのケータイ。
■写真中下:1992年(平成4)の「みどり留学生寮」スケッチを用いた下落合教会の絵ハガキ。サインが「kazu」と読めるのだけれど、作者をご存知の方がいらしたらご教示いただきたい。
■写真下:左は、4ヵ月ぐらいから色落ちが激しい銀座柳染めハンカチ。右は、もちろん「サエキくん」と「ソミヤはん」。いただいてから、ときどきサエキくんが記事に登場するようになった。
「正史」と地元の記憶とのはざまに。 [気になるWeblog]
Webログをスタートしてから、24日で丸3年がたった。正直、われながらよくつづいていると思う。子供のころから、夏休みの日記だって1週間とつづいたためしはないのだ。いつだったか、「ローカリズムを突き詰めると、いつしかインターナショナリズムに転化する」・・・というテーマを、映画分野の表現法Click!にからめて書いたことがある。この伝でいけば、目白・落合地域に眠る物語を、ひとつひとつ発掘し連鎖させていくと、期せずして日本近代/現代史を中心とした「日本史」そのものになってしまう・・・ということに気がつくのだ。
それは、より細かく分ければ政治史だったり、美術史だったり、あるいは経済史、思想史、文学史、演劇史、建築史、民俗/風俗史、生活史だったりするわけだけれど、その集大成あるいは抽象・捨象化の過程がいわゆる「歴史学」の一般化作業だとすれば、この地域をめぐる伝承や物語は「日本史」のプラットフォームであり、かけがえのないナマの一次情報としての基盤そのものといえるだろう。いや、それは目白・落合地域に限らず、わたしの日本橋でも大磯でも、また鎌倉でも、日本のあらゆる地方・地域に眠る物語を同様にドリルダウンして連鎖させれば、狭い「地域史」を超えた、教科書的ではない新たな「日本史」が姿を現わすかもしれない。
先日、慶應大学からお招きClick!をうけたとき、西武新宿線に関わる面白いお話をうかがった。下落合には、西武電気鉄道が開通する以前の大正期から、線路はすでに敷かれ貨物線として利用されていた・・・という伝承が根強く残っている。ところが、「正史」では西武電鉄が開通するのは1927年(昭和2)4月で、それまでは下落合に線路は“存在しない”ことになっている。「公」の記述としては、千葉(津田沼)の陸軍鉄道第二連隊が「演習」用と称してきわめて短期間(約3ヶ月!)に線路を敷設したあと、西武鉄道へ払い下げられた・・・ということになっているようだ。しかし、すでに大正末には線路の敷設を終え、当初は軍用貨物の輸送線として運用されていたのではないか?・・・という、やはり疑義を研究会のメンバーの方からうかがった。
西武電鉄の“終点”である、埼玉の川越あたりから物資を運搬するのが、西武電鉄開業前の線路の役割だったとすれば、大正末に貨物列車が走る下落合の目撃証言ばかりでなく、他のさまざまな記録や計画、証言などとも多くの点でツジツマが合ってくる。客車運行の駅が存在しない線路上で、住民たちが目撃した貨物列車は、実は陸軍の軍用貨物列車だった・・・ということになる。これらの貨物の行き先は、もちろん広大な戸山ヶ原に展開していた陸軍の巨大な施設群だったろう。
このような仮説に立つと、他の証言や記録と符合することがいくつも出てくる。まず、当初は「志もおちあひ」が終点であり、高田馬場駅(当初の“仮駅”含む)には乗り入れていなかったという証言。大正末から軍用貨物線として使われていたとすれば、当然のことながらできるだけ衆目に触れにくい輸送を考慮しただろうから、山手線に近接して“終点”を設定するなど論外だ。また、当初予定された十三間道路(現・新目白通り)の建設計画の記録。なぜか、環5(明治通り)へと合流する放射状道路として計画されず、氷川明神前にあった下落合駅(当初の終点とされる終端位置)から急に南下して、早稲田通りへと合流してしまう不自然な点。なぜ神田川に架かる田島橋だけが、片側2車線ほどの大型橋へと新造・巨大化しているのか? 田島橋Click!の拡幅・鉄筋コンクリート化は、早ばやと大正末にはすでに完了していたという計画のすばやさだ。
「終点」だったとされる下落合駅前へ陸軍の調達物資を下ろし、トラックで十三間道路から特別強固に拡幅・補強された田島橋を経て、省線の高田馬場駅のあたりから早稲田通りへと入れば、あとは戸山ヶ原のどこへ入りこむのも一直線でたやすい。では、陸軍が敷設したこの線路上を、軍用貨物列車はなにを運んでいたのだろうか? 東村山さらに川越から先にある“モノ”を想定すれば、おのずと答えは見えてくる。大正末から昭和初期にかけて、いっせいに建築がはじまった戸山ヶ原の圧倒的なコンクリート建築群Click!。秩父で生産された、膨大なセメントとその関連物資だ。
国(内務省)が発行する1926年(大正15)前後の地図には、のちに西武電気鉄道となる線路は存在しないことになっている。そこには、東京電燈谷村線の高圧鉄塔のラインが描かれているだけだ。もちろん、戸山ヶ原全域の陸軍施設も詳しくは描かれておらず、おおざっぱな描画にすぎない。しかも、戸山ヶ原の「白地図」化と「文字なし」化は、1945年(昭和20)の敗戦までつづく。地図の専門家間でよくいわれる、いわゆる地図へ「化粧する」という作為編集だ。田島橋にも、同様の「化粧」が「公」の地図にはほどこされている。すでに田島橋は4車線ほどの幅をもつ巨大な橋梁と化していたのに、敗戦になるまで他の橋と同じ小橋として描きつづけられた。でも、地域に密着した地図、たとえば1926年(大正15)10月までに作成された「下落合事情明細図」には、停車場が存在しない線路と、鉄筋コンクリート製となった大きな田島橋が、すでにしっかりと描きこまれている。
いや、一致しないのは鉄道や橋ばかりではない。国の地図に描きこまれた道路のかたちも、当時の実際の姿とは異なっていることがわかる。研究会で指摘されていたのは、二ノ坂上部の坂のかたちが土地台帳や、いわゆる地籍の“公図”とまるで一致していないことだ。佐伯祐三Click!が、のちに「遠望の岡?」Click!とみられる風景を描いた、アビラ村のまさにその描画ポイント。屈曲する道が、まるで直線道路のように「化粧」されてしまっている。
国や「公」とこの地域との齟齬こそが、消されてしまい、なかったことにされてしまった史実ではないだろうか? 公的な発表ではゴマカせても、その現場にいて生活している地域住民の目まではゴマカすことはできない。いくら大本営が全国へ向け東京大空襲Click!は「盲爆」で、マスコミが損害は軽微だと発表しても、東京下町の住民の目には「バカをいうな!」と、目前の事実が見えていたのと同様のケースだったのではないか。当時の国が、そして軍がひた隠そうとする史実の一端が、地域史では期せずして浮かび上がってくる一例のように思える。慶應大学の研究会では、実に貴重な多くのことを学ばせていただいたと思う。
先週、このサイトへのアクセス数が83万人を超えた。コメントをお寄せくださった方々から拝察するに、地元の目白・落合界隈の方ばかりでなく、また東京の(御城)下町Click!からの方ばかりでもなく、実際には日本各地からアクセスいただいているようだ。にわかに信じられない、めまいを起こしそうなアクセスカウントだけれど、3周年ということで、ここに改めてお読みいただいているみなさまへ、深くお礼申し上げるしだいです。<(__)>
■写真上:左は、当初の下落合駅があった氷川明神社前あたりの現状。この駅を、西の現在地へと移転する町内運動も起きた。右は、大正末にはすでに拡幅・コンクリート製となっていた田島橋。
■写真中:左は、大正末の「早稲田・新井1/10,000地形図」。下落合の神田川・妙正寺川沿いに鉄道は描かれておらず、東京電燈の谷村線のみの記載が見える。右は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」。停車場が存在しない鉄道が、現在の西武新宿線の位置へすでに描かれている。
■写真下:左は、当初の下落合駅前から田島橋を経て、早稲田通りへと合流するように計画された十三間通りの、1933年(昭和8)時点での完成予想図。もちろん、下落合駅はすでに氷川前から西へと移動し、戦後の道路計画は山手線をくぐり明治通りへと合流するように変更される。右の巨大なコンクリート構造物は、戸山ヶ原に建設され当時は「東洋一」とうたわれた陸軍の戸山ヶ原射撃場の全景。(戦後のB29による空中写真より) 早くから射撃場は存在したが、大正期になると周囲に住宅街が押し寄せて騒音苦情が出たため、昭和初期(1929年完成)に射撃場全体を巨大なコンクリートで覆った。戸山ヶ原では第一衛戌病院とともに、もっとも大量のセメントを必要とした構造物だろう。
すてきな三田の慶應キャンパス。 [気になるWeblog]
先日、かつてほとんどお邪魔したことのない慶應義塾大学の、三田にある本学キャンパスへと出かけてきた。わたしのWebログへ、いつも貴重な情報をお寄せくださっている炭谷太郎様のご紹介で、高橋潤二郎名誉教授が主宰される「東京解読研究会」へ、情報環境学部の金安岩男教授を通じてわざわざお招きいただいたのだ。また、会場で貴重なご意見をいただいた、慶應義塾大学産業研究所長の清水雅彦教授と情報環境学部の熊坂賢次教授にも、同時に厚くお礼を申し上げたい。ほんとうにありがとうございました。
わたしのWebログの経緯をはじめ、過去から現在、そして現在から未来について、たいへんおこがましくもお話させていただいた。テーマは、「目白・下落合の地域Web2.0」。(^^; こんなたいそうな題名を付けちゃって、つまらない話にもかかわらず、学部や研究所の教授のみなさんと研究者の方々、あるいは地方自治体の方々など大勢がお集りで、たいへん恐縮してしまった。
慶應大学は、キャンパスがすばらしい。まず、三田の本学キャンパスからしてとても風情がいい。いかにも、学問や研究をするための学舎の雰囲気が横溢している。お招きを受けたのが土曜日だったせいか、ほんとうに静謐な空気が漂っていた。街中の延長のような、主婦たちが近道できるので買い物帰りに、「最近、Santokuのお弁当が美味しくていいのよ!」などと立ち話をしていたり、近所の子供たちが校舎の前で寄ってたかって大きなマンガを描いてたりする、どこかの大学のキャンパスとは大違いなのだ。(爆!) まあ、それはそれで、どこかの大学のよいところではあるけれど・・・。
お話をするにあたり、Webログをはじめてから2年半の経緯や、目白・下落合地域との関わり、あるいは江戸東京の下町との関わりなどを、改めて大雑把に整理しホントいい加減に総括したのだけれど、その作業を通じて記事の方向性やテーマがどんどん変遷していくのに、われながら改めて驚いている。あと少しで、Webログを起ち上げてから丸3年が経過しようとしているけれど、さまざまな地域との関わりや活動が生まれる反面、書きそびれている、または積み残しているテーマや資料、物語は日々、累進的に増えつづけていくような気がする。おそらく、一生かかっても目白・下落合界隈のことを、表現し記録にとどめ、描きつづけることなどできはしないのだろう。
お話のあとの質疑応答で、やはり多くの方が訊かれたのは、書きつづける・・・という行為そのもののモチベーションについてだった。わたしは、目白・下落合界隈が好きだから、あるいは江戸東京の下町方面=ふるさとのこの街全体が好きだから・・・としか、おおむねお答えできなかったけれど、もうひとつ、ひそかに眠る物語を探し出し、それをわたしなりの感覚で描いて記録するのが好きだから、つまり突き詰めれば、書き表現することが好きだから・・・という単純な欲求もあるのだろう。
また、「いつまでつづけるのか?」、「目白・下落合に関するテーマが尽きたらどうするのか?」というご質問もあった。正直、いつまでつづくかわかりません・・・という、まるっきり気のきかないお返事しかできなかった。地域をめぐるテーマは、いまのところ、わたしには無尽蔵のように思える。書いても書いても、まるでネズミ算式にテーマが増えていくのは、どうしたことだろう? おそらく、この地域で生きてきた人々の数だけ、物語が存在し眠っている・・・ということなのだろう。
下町についても同様に感じるのだけれど、人間を見つめて表現すること=それが足元の街を眺めること、街を識ること、そして街を語るということ・・・なのではないだろうか。
■写真上:慶應義塾大学本学キャンパスにある、昔ながらの造りの図書館旧館。
■写真中:左は、東門前の東京タワーも近い桜田通り。右は、東門上の東館。
■写真下:左は、福澤公園から見た塾長室のある塾監局。右は、福澤諭吉の胸像のある旧館。