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経営者へ転身する前の洋画家・島津一郎。 [気になる下落合]

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 下落合(4丁目)2096番地にある旧・島津一郎アトリエClick!の主であり、島津源吉Click!の長男・島津一郎Click!について、これまであまり触れてこなかったので少し書いてみたい。ただし、彼が島津製作所の取締役になる以前、1932年(昭和7)に東京美術学校西洋画科を卒業し、しばらく洋画家として活動した時期に限定したいと思う。
 島津一郎は、東京美術学校の西洋画科を卒業しているが、卒業後の一時期、同美術学校の彫刻科塑像部へ通っていたらしい様子が、1935年(昭和10)に刊行された『東京美術学校一覧』で確認することができる。だからこそ、美校在学中の1931年(昭和6)に吉武東里Click!の設計で竣工した絵画用のアトリエに近接して、彫刻の作業用アトリエが付属しているのがストンと納得できる美校の記録だ。少し余談だが、島津一郎が卒業した1932年(昭和7)を最後に、東京美術学校の西洋画科は油画科と科名を変更している。
 下落合では、満谷国四郎Click!に師事していた島津一郎だが、美校を卒業した直後から画会の展覧会へは積極的に出品している。東京府青山師範学校の付属小学校を卒業した、洋画家をめざす同窓生で東京美術学校の卒業生および在校生5人が集まり、1932年(昭和7)からスタートした東京の画会「靑巣会」が活動の中心だった。靑巣会の結成時には、島津一郎のほか黒田頼綱、楢原健三、島崎政太郎、そして中山正義が参加していた。少し遅れて木下幹一が加わり、ほどなく会員が6名になっている。なお、東京の画会「靑巣会」と書いたのは、まったく同名の画会「靑巣会」が岡山県にも存在し、昭和初期に展覧会を毎年開催しているので留意する必要があるからだ。
 この画家志望者たちが集った靑巣会について、1933年(昭和8)12月に銀座紀伊国屋で開催された靑巣会第2回展を観賞した、島津一郎と美校を同期卒業の画家・白川一郎の展評を、1934年(昭和9)刊行の「美術」1月号(美術発行社)より引用してみよう。
  
 靑巣会は/「同人は東京美術学校卒業生在学生にて青山師範附属小学校よりの旧友であります。」/と招待文にもある如く、溢れるばかりの親睦と友情とを以て、集へる新人の一団である。/同人諸氏は、此の団楽裡に於て、其の年来の努力を、作品の質と量に夫々具現し、四十六点の画面は、手堅い手法のうちに、温雅の美を、親しみ深く感じしめる。/然し又他面、其の温雅の内に、積極的なるもの――思ひ切つてぶつかつた新人の意気が、今少しあればなどと、将来の飛躍を思ひ、思はないでもない。深く大きいものへの内訌透徹への苦しみ静慄を望む。
  
 このときの島津一郎は、『けし』『室内』『窓』の3点を出品しており、いずれも島津アトリエか島津邸母家の室内あるいは庭園の一画を描いたものだろうか。白川一郎は、「三点共に温かく柔かなる色感、筆触、一寸ボンナールを想はしめる」と評しているが、「ボンナール」は、もちろんフランスの“ナビ・ジャポナール”(日本かぶれ)な画家P.ボナールのことだ。また、3点のうちでは『室内』が力作だとしている。
 なお、靑巣会展は毎年暮れの12月に開催するのが慣例だったようで、会場も銀座紀伊国屋と決めていたようだ。上記の第2回展の前年、1932年(昭和7)の第1回展も12月3日から7日まで銀座紀伊国屋で開かれている。ちなみに、銀座6丁目にあった銀座紀伊国屋は、新宿の紀伊国屋書店の銀座店で1930年(昭和5)にオープンし、本店のギャラリーClick!と同様に2階をレンタルギャラリーとして美術家に開放していた。靑巣会の第1回展を撮影した記念写真が残されているが、銀座紀伊国屋のギャラリーはかなり広かった様子がうかがえる。
東京美術学校彫刻科塑像部1935東京美術学校一覧.jpg
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 1934年(昭和9)の靑巣会第3回展ごろから、師事していた満谷国四郎Click!の影響が色濃くなったものか、先輩画家の猪熊弦一郎は「満谷氏のにほひ」が強すぎるとしている。1935年(昭和10)刊行の「美術」1月号より、猪熊の島津一郎評を引用してみよう。
  
 島津一郎君。「曇り日」は情味のある画である。静かな美しさを持つて居るが作画動機の感激が小さい。「みづき」色感は仲々面白いと思つてゐるが味の仕事にならない事を望む。/もつと画面にかぢりついた苦しみの跡も見度いものだ。画面の左方は成巧(ママ:功)してゐるが右方の黄色の花は少々一様になつて平凡に終つてゐる。「磯」は一番佳作だと思つた。「湖畔」及び「早春」は満谷氏のにほひで君のよき処を逃がしては居まいか。
  
 島津一郎は、第3回展では5点の作品を出展しているのがわかる。しかも、前年の第2回展が室内や身のまわりのモチーフばかりだったものが、今回は風景画が主体だったようで、作品のタイトルから画因を探して遠出をしている様子がうかがえる。満谷国四郎にアドバイスを受けたか、あるいは満谷に同行して制作しているのかもしれない。
 以降、靑巣会の展覧会は1936年(昭和11)の第5回展まで開催されているが、それからの記録が見あたらないので、おそらく1937年(昭和12)ごろに解散しているのだろう。第5回展は1936年(昭和11)の少し早め、11月21日から25日の5日間にわたり銀座紀伊国屋で開かれている。同展の様子を、1937年(昭和12)に刊行された「美術」1月号から引用してみよう。この展評には署名がなく、「美術」編集部の文責となっているようだ。
  
 青山師範の附属小学校出身の同窓の五名の集りだが、何処となくゆとりのある飽迄趣味に活きた友情を感ずる(中略) 島津一郎の情熱的な光へのセンシビリテーは、フオーブから更に表現主義へと、朗らかに進展して行かうとする、色彩画家であるが余りに抒情を求めて聊か割切れないレアリズムへの分析に苦慮してゐる所が見える。これは亦、消極的な個性の弱さからであるかも知れない。
  
 読み方によっては、「ゆとりのある飽迄趣味」=プロの画家ではないと痛烈な批判にも解釈できる表現だが、この5回展を最後に靑巣会は活動を停止・解散しているようだ。
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 靑巣会の(おそらく発展的な)解散後、島津一郎のネームはふたつの画会に見ることができる。ひとつは、「立陣社」という画会で島津一郎は13名の同人のひとりとして参加している。1937年(昭和12)7月23日から27日の5日間、立陣社近作洋画小品展が銀座青樹社で開かれているが、彼も小品を出展しているのだろう。銀座青樹社は、画商で実業家の鈴木里一郎が経営していた青樹社画廊のことだ。この展覧会についての展評は記録になく、島津一郎がどのような作品を展示していたのかは不明だ。
 また、もうひとつは1936年(昭和11)創立の画会「銀座美術協会」だ。同画会について、1937年(昭和12)に刊行された『日本美術年鑑』(美術研究所)から引用してみよう。
  
 昭和十一年二月房野德夫の発起にて発会。「芸術発表の合理化、芸術行動の実際化」を趣旨とする。同年四月銀座聯合会公園の下に銀座通両側商店ウインドウにて洋画展を開催す。/[会員]井手坊也、房野德夫、島津一郎、石川滋彦、木下幹一、川端實、富川潤一、三輪孝、沼田一郎、大貫松三、島崎政太郎、副島秀生、黒田頼綱、眞木小太郎、須田壽、千葉樹、笹岡了一
  
 会員名を見ると、靑巣会の画家が4名も参加しているのがわかる。銀座通連合会Click!による全面バックアップで、銀座通りのショウウィンドウへ画家たちの作品を並べてしまおうという、これまでにない斬新な企画だった。銀座美術協会の事務所は、銀座4丁目の三和ビル内に置かれ、毎年洋画展覧会というよりは街頭美術イベントが開かれた。
 なぜ、銀座通連合会を巻きこんだ、このような大規模な美術イベントが可能だったのかといえば、顧問や賛助者に高名な画家たちの名前がズラリと並んでいたからだろう。顧問には岡田三郎助Click!、賛助出品者には下落合にアトリエのある大久保作次郎Click!牧野虎雄Click!をはじめ、伊原宇三郎Click!辻永Click!寺内萬治郎Click!柚木久太Click!中村研一Click!安宅安五郎Click!清水良雄Click!高間惣七Click!田辺至Click!中野和高Click!、そして小林萬吾Click!らが名を連ねていた。銀座美術協会の街頭イベントは、その後も1943年(昭和18)まで継続されているが、敗戦色が露わになった翌年から中止になっている。
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 さて、島津一郎の作品(画面)は見つけるのがむずかしかった。1936年(昭和11)刊行の「美術」11月号に掲載された『婦人像』は、靑巣会第5回展に出品されたものだろうか。また、1937年(昭和12)刊行の「美術」5月号に残る『室内』は、1933年(昭和8)の靑巣会第2回展に出品作品と同一のものだろうか。1934年(昭和9)の靑巣会第3回展のあと、風景作品へ積極的に取り組んでいる様子がうかがえるが、特に下落合の西部、島津アトリエがあったアビラ村(芸術村)Click!の風景をモチーフにした画面がないかどうか気になっている。

◆写真上:下落合2096番地の、自身のアトリエの前に立つ島津一郎(AI着色)。
◆写真中上は、1935年(昭和10)刊行の『東京美術学校一覧』の彫刻科塑像部に名が見える島津一郎。中上は、島津一郎が卒業した西洋画科教室。中下は、1932年(昭和7)に銀座紀伊国屋で開かれた靑巣会第1回展の記念写真。印刷が不鮮明だが、後列中央が島津一郎とみられる。は、1937年(昭和12)刊行の『日本美術年鑑』にみる靑巣会の紹介文。当時の同会事務局が、下落合の島津アトリエだったことがわかる。
◆写真中下は、1920年(大正9)に竣工した大熊喜邦Click!吉武東里Click!の設計による島津源吉邸Click!(AI着色)。中上中下は、1931年(昭和6)ごろ竣工した吉武東里の設計による島津一郎アトリエの外観および内観で、島津邸敷地の東側(三ノ坂寄り)に建っていた。おそらく下落合はおろか、日本でも最大クラスのアトリエ建築だろう。
◆写真下は、1936年(昭和11)の「美術」11月号に掲載の島津一郎『婦人像』。中上は、1937年(昭和12)の「美術」5月号に掲載の島津一郎『室内』。中下は、1931年(昭和6)ごろに撮影された刑部人Click!(左)と島津一郎(右)。は、島津一郎アトリエの前で撮影された島津家の記念写真(AI着色)。左から右へ島津一郎、島津源吉、七面鳥Click!、島津とみ、島津源蔵。よく見ると、左端の島津一郎と右端の島津源蔵のズボンの裾や靴が泥だらけだが、刑部人アトリエClick!湧水池Click!周辺を歩き、思わず泥濘にでもはまったのだろうか? なお、島津家の家族写真は刑部人のご子孫である中島香菜様Click!のご提供による。

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目白会館から妙齢婦人へハガキばらまき事件。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)の秋口から翌年にかけ、山手線や中央線沿いに住む若い女性ばかりにあてて、大量のハガキが舞いこみはじめた。差出人は、東京市外落合町目白文化村Click!「目白会館内 木村」と書かれており、意味不明の内容だった。
 ハガキの裏面には、ガリ版(謄写版)刷りで以下のようなことが書かれていた。
  
 あなたは昭和三年九月九日、下関発特急で午前十一時頃品川駅へ下車なすつた方と違ひますか。さうでしたらお知らせ下さい。 落合町目白文化村 目白会館内 木村
  
 なにやら、松本清張Click!の時刻表を駆使した短編小説のプロローグのようだが、これを見た若い女性たちは、わけがわからず薄気味の悪い文面だったので、父親に相談するか、あるいは夫に相談して善後策を検討しただろう。相手には自身の住所がバレており、娘や妻の安全・安心を考慮すれば事件性の臭いさえ漂うハガキだった。けれども、「木村」という差出人は落合町目白文化村の「目白会館」Click!という住所を明記しているので、それほど深刻な状況だとは考えず黙殺した人たちも大勢いたかもしれない。
 のちに判明するが、この不可解な文面の刷られたハガキはゆうに1,000枚を超える量が投函されており、おもに東京市郊外の西部地域にバラまかれていた。1928年(昭和3)の時点で、逓信省が発行するハガキ1枚の値段は1銭5厘なので、たとえば1,500枚を購入するには22円50銭ものカネが必要だったことになる。物価指数にもとづき、今日の貨幣価値に換算すれば1万4,310円となり、ガリ版印刷も街中の印刷所へ依頼していたとすれば、おそらく現在の貨幣価値では2万円を軽く超える出費だったと思われる。当時の大卒初任給は50~60円だったので、その月給の大半がハガキ購入と印刷につぎこまれたことになる。
 目白会館で暮らす住民は、さすが裕福で余裕だ……などと感心している場合でなく、不安に思った娘の親や兄弟、あるいは妻の夫や親族たちが下落合1470番地の目白会館めざして、「木村」にハガキの真意を詰問しようと押しかける事態になっている。訪問するのはハガキを受けとった女性ではなく、必ず「いかつい男」がやってきたという。
 その様子を、報知新聞に連載のコラム「談話室」から引用してみよう。なお、同コラムはのちに千倉書房から『談話室漫談篇』として、1929年(昭和4)に出版されている。
  
 その葉書をもらつた婦人は出向かないで、必ずいかつい男が目白会館を訪問して、/「実に怪しからん。木村といふ人に会はせてくれ給へ」といふ見幕を示す。/目白駅から旧目白中学校の方へ行つて、ライオン・ガレーヂといふ横を左へ折れたところに目白会館がある。なる程あとからあとから奇異な葉書を持つ人が来る。/「木村といふ人はゐるかね」
  
 この時期、目白中学校Click!が練馬に移転Click!してから数年後なので、その跡地はいまだ草ぼうぼうの広い空き地Click!が拡がる原っぱClick!だったろう。
 文中に、「ライオン・ガレーヂ」という店舗が登場するが、大正末から営業している街中に増えはじめた乗用車の整備を引き受ける町工場で、江戸川自動車商会の河合鑛が創立して経営していた。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を見ると、目白通りから目白会館へ左折し南へ入る東西の角地に自動車整備会社は見あたらないが、目白通りをはさんだ向かいの長崎町の通り沿いを見ると、同じく1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」には、長崎町大和田1963番地にライオンガレージの前身である「二葉自動車(双葉自動車)」のネームを発見することができる。
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 目白通りのライオンガレーヂは、1925年(大正14)に創立されたはずだが、翌年につくられた「長崎町事情明細図」では二(双)葉自動車の旧名のままになっている。ちょっと横道にそれるが、目白通りで双葉自動車やライオンガレーヂを経営した河合鑛について、1932年(昭和7)によろづ案内社から出版された『現代日本名士録』より引用してみよう。
  
 河合鑛 小石川区音羽町九ノ一二 電話牛込四、五四三/江戸川自動車商会総支配人、大正自動車(株)専務、ライオンガレーヂ経営者 明治三二年六月生、東京市
 帝都自動車業界に声望隆々たる氏は、河合清次郎氏の長男として市内芝区に生誕した。当家は代々江戸に住み、徳川幕府の御用を勤め畳表の納入を業としてゐた。(中略) 除隊後更に帝国自動車学校に学んだ。同校卒業後目白自動車商会に勤めたが幾何もなく之を辞し、大正十二年十二月市外長崎町に独力を以て双葉自動車商会を創立し、翌十三年四月匿名組合の江戸川自動車商会を興し、更に同十四年双葉自動車商会を廃して同所にライオンガレーヂを開設し、又江戸川自動車商会の姉妹会社たる大正自動車株式会社の専務に選ばれた。(後略)
  
 このあと、河合鑛は1932年(昭和7)に東京の西部を走る武蔵野乗合自動車(現・小田急バス)を創立して社長になり、戦後の1950年(昭和25)には関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)の社長に就任し、乗用車トヨペットの生産を開始している。また、自動車に関連するさまざまな団体の理事を歴任しているのが資料類に見えている。
 さて、本筋にもどろう。「奇異な葉書」を手に、目白会館へ怒鳴りこんだ「いかつい男」たちは、まず同アパートの主事(管理人)に木村本人が不在であることを告げられる。そして、「あなたの御用件はわかつて居りますから」と、わけ知り顔で応接されることになる。ますます奇怪に感じた男たちは、主事室で次のような話を聞かされることになる。報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』より、つづきを引用してみよう。
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 葉書差出人の木村といふのは若い製図師であるが、昭和三年九月九日下関からの特急で上京の途中、急に病気になつて苦しみはじめたところを、一人の婦人が親切に介抱してくれた。その時はそのまゝ婦人の名も聞かずに別れたが、今になつて一度は礼を述べたいと思ふと、矢もたてもたまらなくなつて、その婦人が品川駅で下車したといふ記憶をたよりに、多分それは山手線か中央線の沿線にゐる人だらうと、役場やその他で手当り次第に妙齢婦人の名を調べ、かくは葉書を出したのだといふ。
  
 なにやら、数寄屋橋の「君の名は」(菊田一夫Click!)の世界を想起するが、木村という製図師にややパラノイア的な性格を想像してしまうのは、おそらくわたしだけではないだろう。山手線と中央線沿線の町役場を片っ端から訪問し、生年月日を調べて20歳前後の女性の名前と住所を1,000人以上も転記してもち帰り、あらかじめ謄写版で印刷しておいたハガキの表に、アパートの1室でエンエンと毎日、女性あての住所・氏名を書きつづけている男の姿を想像すれば、彼女たちの肉親でなくても不気味な気配や、えもいわれぬ危機感をおぼえるのは、しごく当然ではないだろうか。
 ましてや、娘や妻の住所を確実に知られているので、いつ彼女たちの前に突然現れ危害を加えられないとも限らない……と、周囲の者たちは考え危惧したにちがいない。中には、娘や妻にまとわりつく変質者や尾行者(ストーカー)を疑い、警察にとどけた家庭もかなりあったようだ。さっそく、ハガキを出した各地の警察署から呼びだしを受け、「木村」は仕事どころではなくなり日々警察署へ出頭するのが日課のようになっていく。
 各町の警察署では、あのような奇妙なハガキを妙齢の婦人たちに投函するのは「怪しからん」と叱責されているが、「木村」は逓信省が発行する官製ハガキを使い、助けてくれた恩人を探しているのが犯罪であるというなら、「警察の力で調べてくれるのか?」と逆に取調官へ食ってかかるため、違法行為が見あたらない以上どうしようもなく、二度と同じ警察署には呼ばれなくなったようだ。結局、助けてくれた女性が見つかったかどうかは不明だが、「あっ、わたしのことだ」と心あたりのある女性がいても、ちょっと執拗で気味(きび)の悪い男なので名のりでなかったのではないか。各地の役場をわざわざ訪ね歩き膨大な手間やコストを費やすなら、なぜ新聞各紙の尋ね人欄を利用しなかったのかが不可解だ。
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 「木村」のおかげで新聞ダネとなり、第三文化村の目白会館は東京西部にその名があまねく知れわたったけれど、アパートの主事は「木村さんのお蔭で、私は仕事などする暇もなく、毎日皆さんに事情をお話するので日が暮れます」と、ボヤくことしきりだったという。

◆写真上:2007年(平成19)に撮影した、第三文化村の目白会館跡(右手)。
◆写真中上は、八つ山橋Click!から撮影した東海道線や新幹線、横須賀線、山手線、京浜東北線などの鉄路が走る品川駅付近。は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅・山手線ホーム。は、1931年(昭和6)ごろにに撮影された中央線。
◆写真中下は、昭和初期に販売されていた1銭5厘の官製ハガキ。中左は、1929年(昭和4)に報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』(千倉書房)。中右は、1932年(昭和7)に出版された『現代日本名士録』(よろづ案内社)。は、1940年(昭和15)に日本乗合自動車協会が発行した「交通機関懇親会」の出席者名簿。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる同町1963番地の二葉(ママ:双葉)自動車だが、すでにライオンガレーヂになっていたはずだ。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる「いかつい男」たちがたどる目白会館クレームコース。は、1931年(昭和6)ごろ目白会館で撮影された妙齢婦人の矢田津世子Click!(AI着色)。

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ロケが行われた七ノ坂の大正住宅。 [気になる下落合]

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 下落合(中落合・中井含む)の西部は、下落合の東部や中部に比べ二度にわたる山手空襲Click!の被害をあまり受けてはおらず、近年まで大正期や昭和初期に建てられた住宅がたくさん残っていた。特に、蘭塔坂(二ノ坂)Click!から西側は近代建築の住宅だらけで、学生時代には街角丸ごと登録有形文化財にでもできそうな風情をしていた。
 先日、知人から「新宿の高層ビル群が見える、戦前に下落合の南斜面へ建てられたらしい住宅を使って、全編ロケーションしためずらしいドラマを見つけた!」……と連絡をいただき、さっそく当該の作品を視聴してみる。はい、まちがいなく下落合4丁目(現・中井2丁目)で撮影されたものだ。また、撮影場所もすぐに特定することができた。ドラマの撮影時、この邸宅はハウススタジオとして使用されていたのか、あるいは建て替えの直前に空き家となっていた邸の撮影が許可されたものか、ほとんどのシーンが邸内外のロケであり、室内の様子もよくとらえられている。
 坂道を下った先には、道路に沿って西武新宿線が走り、その線路の向こう側には落合公園の緑地が拡がっている。即座に撮影場所を特定できたのは、道路に面して西武線が平行に敷かれている点と、まるでバームクーヘンのピースのような、アールをきかせた独特な形状のマンション「落合公園ハウス」が、同公園の森の向こう側(旧・下落合5丁目)に見えたからだ。このマンションの円筒形をした建築(エレベーターホール?)が、このような角度で見える目白崖線の斜面は、七ノ坂をおいて他にない。ドラマの撮影は、七ノ坂Click!の中腹にあった今井勝太郎邸でロケが行われている。
 今井邸は戦前どころか、関東大震災Click!からほどなく建てられた大正建築だ。外観は、当時の典型的な日本家屋だが、撮影された内部の様子からすると板張りの洋間もあったのではないかと思われる。1926年(大正15)作成の、「下落合事情明細図」に描かれた七ノ坂にもすでに採取されており、大正末から宅地開発が盛んだった目白学園Click!中井御霊社Click!のすぐ南側にあたる一画で、建設された当時は下落合2152番地(のち下落合4丁目2152番地)の邸宅だ。
 くだんのドラマは、1993年(平成5)に制作された原作・連城三紀彦で監督・南部英夫の『夢の余白』Click!という作品だ。当時は、かなり視聴率が稼げていたとみられる、いわゆる2時間サスペンスドラマの1作で、林美智子や池上季実子、平幹二郎ら芸達者な舞台俳優たちが出演していた。ドラマのストーリーはともかく、昼夜を問わずに登場する七ノ坂の坂上や坂下の光景、今井邸の室内の様子がよくわかる屋内シーンなどに惹きつけられた。サスペンス(?)ドラマではなく、大正期の下落合に建てられた日本家屋の記録映像として観ると、たいへん興味深い画面ではないだろうか。
 撮影時(1993年)は、七ノ坂の一段下(南側)の住宅敷地に赤い屋根の2階家が建ち、今井邸の1階テラスに面した居間からは、新宿方面の眺めがさえぎられていたが、建築当時はテラスの先にある芝庭から新宿駅西口の一帯にあった淀橋浄水場Click!の光る水面が、よく眺められたのではないだろうか。ドラマでも、おそらく今井邸の2階から、屋上にクレーンを残したままの東京都庁Click!が望見できる。都庁は1991年(平成2)に丸の内から新宿へ移転してきたが、2年後の当時でも、いまだ部分的に工事中だったのだろう。
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 今井邸の室内の柱や床板、ドアなどは黒光りして、大正期の住宅らしいしぶくて落ち着いた色あいを見せており、同邸の西側や北側には大正期のほぼ同時期に建てられたとみられる、灰色の瓦屋根の古い日本家屋とみられる住宅群が何軒かとらえられている。そういえば、下落合4丁目2162番地の仲嶺康輝・林明善のアトリエClick!や、歌手で東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の教授だった渡辺光子(月村光子)Click!が住んでいた寺尾光彦邸は、今井邸から西へ3軒隣りの八ノ坂に面していた。
 少し細かい余談だが、今井邸のある七ノ坂は、坂上が旧・小野田定次郎邸へT字に突きあたるが、その上にある目白学園を映したシーンは登場していない。ただし、エキストラに同学園の制服を着せたとみられる2名の女子を登場させており、昼間の六ノ坂下=中井4号踏み切り脇でのアクシデントや、夜間の七ノ坂を上がる今井邸の玄関シーン(弓道部の部活帰り?)を撮影している。だが、目白学園の正門は六ノ坂上にあり、同学園生徒が七ノ坂を、しかも夜間に上がるのは不自然だろう。また、今井邸の北西側にある中井御霊社は、境内の杜が冒頭のカメラがパンするシーンでチラリととらえられている。
 大正期から七ノ坂に住んでいた今井勝太郎は、1870年(明治3)に東京市内で生まれ育った、内閣印刷局に勤務する国家公務員だった。1934年(昭和9)に国際公論社から出版された『東京紳士録』によれば、印刷局主事となっており、同時に内閣印刷局総務部経理課会計掛長と用度掛長を兼務していた。1934年(昭和9)の時点で64歳なので、とうに内閣印刷局は定年退職していたとみられるが、そのあとも嘱託として同局に勤めていたのかもしれない。国家公務員のせいか、今井勝太郎は1932年(昭和7)に編纂された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、辞退をしたのか名前が掲載されていない。
 今井勝太郎が、下落合へ自邸を建設して転居するきっかけになったのは、もちろん関東大震災だと思われるが、それ以前には麻布区麻布六本木町に住んでいたものだろうか。当時の短歌を収録した文芸誌に、同姓同名の人物を見つけることができるが、職業が公務員なので作品を発表している人物が同一人物かは不明だ。
 今井邸の2階部分は、部屋が1室ないしは小さめな2室のコンパクトな造りで、1階部分に過重な負荷をかけない設計になっているのも、関東大震災による建築分野への影響のひとつだろう。同様の大正建築は、絵画にも数多く描かれており、例を挙げれば佐伯祐三Click!『テニス』Click!に描かれた第二文化村Click!外れの宮本邸Click!や、同じく佐伯がスケッチブックに残した素描Click!の『屋根の上の職人』あるいは『洋館の屋根と電柱』も、同じような設計・構造で建設された住宅事例だ。
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 震災後、行政により重い瓦葺きの住宅建設が禁止された時期があり、その間に建てられた住宅、または震災被害を修復した住宅の屋根は、スレートかトタンに変更され、あるいは瓦状の屋根の風情を保ちたい住宅には、「布瓦」Click!と呼ばれる石綿で造られた軽量の代用品が用いられている。こちらでも、佐伯祐三アトリエの屋根に一時期葺かれていた布瓦(おそらく石綿瓦Click!)について、過去の記事でもご紹介している。
 七ノ坂沿いの住宅は、大正後期からの開発にもかかわらず、ひな壇の造成に用いられていたのは大谷石Click!による縁石や擁壁ではなく、東京土地住宅Click!から開発を引き継いだ箱根土地Click!が造成したとみられる、蘭塔坂(二ノ坂)Click!と同様にコンクリート造りだった。ドラマが撮影された1993年(平成5)、いまだ坂道(道路)と同じ平面に車庫を設置する邸はほとんどなく、開発当時のコンクリートによる古い擁壁が、そのままよく残された七ノ坂の様子がとらえられている。これは、大谷石による擁壁がほとんどだった少し前の三ノ坂や五ノ坂、六ノ坂の住宅地にもいえることだが、たとえば七ノ坂の今井邸から中井駅までは直線距離で500m余なので、歩いても7~8分ほどで西武線を利用できたため、クルマの必要性をそれほど感じなかったせいもあるだろう。また、どうしてもクルマが欲しい家庭では、七ノ坂の上か下の駐車場を借りて利用していたと思われる。
 さて、これだけ書いてサヨナラではドラマの制作者にあまりにも失礼なので、少しだけ『夢の余白』について触れておきたい。「黒のサスペンス」とショルダーがつけられた同ドラマは、親子2代にわたって愛人をつくり、父親は家を出て愛人と再婚し、息子は家になかなか帰ってこなくなった家庭環境を前提に、家に取り残された仲の悪い嫁と姑がいがみあう、もう七ノ坂がたいへんなことになっているストーリーなのだ。平幹二郎の、優柔不断でなかなか意思決定できない「僕」Click!を連発する父親と、短時間で気持ちが大きく揺れ動く林美智子の演技が秀逸なのが救いだろうか。観ているこっちまでが暗鬱とした気分になる、どこがサスペンスなんだと思ってしまうドロドロの展開だ。
 アルトサックスによるスタンダード『As Time Goes By』Click!が流れるどこかのJAZZバーで、父と子がしみじみと語るシーンは、まるで同曲のハンフリー・ボガートで有名なセリフ「(昨日?)そんな昔のことは忘れた」「(今夜?)そんな先のことはわからないさ」といった、ふたりの刹那的な雰囲気そのままの情景なのだが、バーの次に起きる出来事がサスペンスといえばいえるだろうか。このあとは、ネタバレになるので興味のある方はどうぞ。
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 上落合829番地のなめくぢ横丁Click!で暮らした檀一雄Click!ではないが、「火宅」になってしまった家庭に大正期の落ち着いた和館はあまり似合わない。ドラマではなく、下落合の西部に建てられた大正建築を観察するには、もってこいの映像記録だとは思うのだけれど。

◆写真上:ドラマ『夢の余白』(1993年)のロケ地となった、七ノ坂を坂下から望む。
◆写真中上:同ドラマでとらえられた、30年以上も前の七ノ坂からのパノラマ風景。
◆写真中下:同じく、大正後期に建設された今井勝太郎邸とその周辺。いちばん下の、交通事故寸前のシーンに映る中井4号踏み切り端の床屋だが、その左手にあった六ノ坂下のパン屋で、学生時代の散歩の途中でパンを買った憶えがある。
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる今井邸。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる今井邸。中下は、1989年(昭和64)に撮影された空中写真にみる今井邸とその周辺。は、坂上から眺めた七ノ坂の風景。
おまけ
 大正末に佐伯祐三が描く日本家屋。建築中の屋根(素描)と、『テニス』に描かれた第二文化村に隣接する宮本邸。下は、今世紀に入っても残っていた二ノ坂上の和館群。
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第三文化村の目白会館で暮らした人々。 [気になる下落合]

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 以前より、拙サイトでは下落合1470番地に建っていた第三文化村Click!目白会館文化アパートClick!に住んでいた、作家の矢田津世子Click!や同じく龍膽寺雄Click!、あるいは洋画家の曾宮一念Click!について触れてきていた。ただし、曾宮一念Click!の場合は綾子夫人の病気と、それに起因する離婚に関連した一時的な居住だったとみられ、ほどなく下落合623番地の自邸兼アトリエClick!にもどっている。
 目白会館文化アパートClick!には、建設とほぼ同時にアパートの管理人室、当時の呼称でいえばアパートメント主事室へ代表の電話が引かれている。竣工直後の、1927年(昭和2)に設置されたのは「大塚86-3621番」で、冒頭の「大塚」は大塚電信電話局のことだ。また、1929年(昭和4)には代表番号がひとつ増え、「牛込34-2933番」が追加されている。アパートに備えつけの電話を利用する住民たちが増え、主事室の電話を2台に増設したのだろう。だが、のちに住民たちがアパートの各部屋へ個人用の電話機を設置する事例が急増し、代表番号の電話利用は減ったのではないだろうか。「大塚86-3621番」の代表番号は1934年(昭和9)までの利用で、その後は牛込局のみとなっている。
 目白会館に住んだ住民を、昭和初期(1927~1935年)の紳士録や興信録を通じて調べてみると、その職業は多種多様だが、おしなべて裕福な住民が多かったのではないかと思われる。当時の最先端をいくモダンなアパートメントは、月々の家賃も高く、また家賃とは別に設備費や共有費(応接室や談話室、浴室、洗濯室などの利用費)も発生したとみられ、それなりに多めの収入がある人でないと住めそうもなかったからだ。芸術家を含め、個人である程度の高収入が見こめる自営業の人物や、高学歴で給料も多めなサラリーマン、大学や専門学校に勤める教授、官公庁の幹部クラスの役人などが多く見うけられる。
 まず、芸術家でみると上記の3人のほかに、1929年(昭和4)ごろから洋画家の佐藤文雄Click!が暮らしている。佐藤文雄は、近くに住む田口省吾Click!と同じ秋田県の出身で、東京美術学校Click!(現・東京藝術大学美術部)を卒業したあと、しばらくして学習院Click!の向かいにある川村学園Click!へ美術教師として勤務しているので、目白通り沿いの通勤しやすい近所に住まいを探したものだろう。下落合のあと世田谷に転居してから、戦前は牧野虎雄Click!が中心となっていた画会「旺玄社」に所属し、戦後は佐藤文雄らが中心となって「旺玄会」を起ち上げたが、顧問には牧野虎雄のほか森田亀之助Click!が名前を連ねている。いずれも、戦前は下落合の住民たちだ。
 戦前の旺玄社について、1937年(昭和12)に美術研究所から出版された『日本美術年鑑/昭和12年版』収録の、旺玄社展についての展評から引用してみよう。
  
 旺玄社は牧野虎雄外二十数名の同人に依つて組織されてゐるが、牧野を除いては所謂既成作家として知名の画家は少く、比較的年少な新進洋画家の団体である。そして出品を公募して同人作品の外二百数十点の一般出品を入選させ、総計三百六十三点を陳列して量に於ては大展覧会を開いてゐる。従つて全体として技術の程度はかなり低く、此の量に対して見るべき作品の少いことは怪しむに足りないであらう。併し一般に新奇を衒ひ或は無理をした大作と云ふ如きものが少く、真面目に自己の道を進んでゐる手頃な作品が多かつたことは好もしく見られる所であつた。
  
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 同展には、「旺玄社賞」のほか「目白賞」や「中村彝賞」などが設けられ、いかにも下落合をはじめ目白駅の周辺に住む画家たちを中心に結成された画会の特色が顕著だ。たとえば、1937年(昭和12)1月に東京府美術館で開催された、第4回旺玄社展覧会の入賞者を見ると、中村彝賞には鈴木良三Click!が選ばれ、他の入賞者には佐藤文雄をはじめ深沢省三Click!深沢紅子Click!など、この近所に住んでいた画家たちの名前が目につく。なお、佐藤文雄アトリエに通った弟子のひとりには、アニメ監督の宮崎駿Click!がいる。
 ほかに芸術家としては、詩人の山路青佳が1934年(昭和9)ごろから住んでいる。和歌山県の出身で、詩誌の「詩人現代」や「日本詩壇」、あるいは「歌謡音楽」などへ詩や歌詞を掲載していた人物だが、戦後の創作の様子はよくわからない。また、音楽関係者では東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)出身で、1930年(昭和5)の時点では日本交響楽団(当時の略称は国響=現・NHK交響楽団)に所属していた、フルート奏者の丸山時次が住んでいる。丸山時次も、その後の消息は記録が少ないのでよくわからない。
 公務員としては、東京商科大学教授で同大学付属の東京商科専門学校の教授も兼任していた、如水会会員で歴史学者の金子鷹之助が1929年(昭和4)ごろから住んでいる。京都府の出身で、自身も東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し1919年(大正8)から1923年(大正12)にかけての4年間、イギリスとフランス、それにドイツへ留学して帰国後に同大学へ勤務しはじめている。戦時中は、積極的に軍部や戦争へ協力したものだろうか、1947年(昭和22)に同大学を追放され免官となった。
 1931年(昭和6)ごろには、愛知県出身の航空工学の専門家で、逓信省の航空技師(航空官)だった松浦四郎が住んでいる。松浦四郎は、航空機の技術や歴史についての多彩な本を執筆しており、1933年(昭和8)には文部省嘱託となっている。おそらく、1927年(昭和2)に逓信省と帝国飛行協会の嘱託としてヨーロッパを視察旅行した、下落合801番地(転居後は下落合1丁目476番地)の安達堅造Click!ともコンタクトがあったとみられる。
 目白会館文化アパートの住民で、サラリーマンと思われる人物は3人ほど見つけることができる。まず、芝区愛宕山放送所にある(社)東京中央放送局(日本放送協会関東支部)に勤務していたのが、熊本県出身で早大電気工学科を卒業した岡松眞尚だ。電気学会の会員で、1928年(昭和3)ごろから目白会館に住んでいる。
 また、千葉県出身で1931年(昭和6)ごろから住んでいたのが、帝国海上火災保険(現・損害保険ジャパン)に勤務していた杉本貞雄という人物だ。面白いことに、杉本も航空機分野のいわば専門家で、同保険会社の航空課に勤務している。ちょうど、上記の松浦四郎と杉本貞雄の居住時期がピタリと一致するので、両者には交流があったのではないか。
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 目白会館には、土木建築会社の経営者も住んでいる。本社は東京市麻布区笄町にあり、工場(作業場)は同区の霞町に開設されていた、鈴木組の代表・鈴木茂一だ。また、第三文化村の目白会館は落合町支店として登録されているので、鈴木組は下落合とその周辺で盛んだった開発や建築を手がけていたのだろう。鈴木組は1929年(昭和4)に設立され、代表の鈴木茂一が居住していたのは1933年(昭和8)ごろからだ。新潟県出身の鈴木茂一は、一般の住宅建設も手がけたが、商業ビルやアパートメント、倉庫、競馬場、変電所など、規模の大きな土木をともなう施設の建設が得意だったようだ。
 佐賀県の出身で、東京帝大の法学部を卒業した小川忠惠という人物も、1933年(昭和8)ごろに住んでいた。法学士で、勤務先の記述が見つからないことから、弁護士の個人事務所として目白会館で開業していたものだろうか。戦前、東京帝大大学院法学政治学研究科が刊行していた法律誌「国家学会」の会員であり、同誌の刊行へ盛んに資金カンパしている様子が記録されている。戦後になると、自治体の行政に関連した著作に小川忠惠のネームが数多く見られ、特に大阪府や同府吹田市に関するものが多いので、敗戦を機会に地方公務員として勤務していた可能性がある。
 明らかに無職の住民も、目白会館には住んでいた。興信所の信用調査や、人物紹介を兼ねた興信録・紳士録などで、氏名と住所以外は空欄という山本安三郎という人物だ。1934年(昭和9)ごろに住んでいるが、無職で収入がなければ家賃が高額な目白会館には住めないので、最初は地方の裕福な家庭の学生か東京の地主ではないかと考えた。だが、のちに芭蕉研究家で俳人として有名になる山本六丁子(安三郎)に気づき、当時はすで隠居するような年齢になっていたため無職だったのではないかと思いあたった。山本安三郎の前職は医師なので、目白会館に住むころには十分な貯えがあったのだろう。
 こうして、第三文化村に建っていた目白会館の住民を調べてみると、ほとんどの人物が高収入を得られる職業だったことがわかる。当時、モダンでオシャレなアパートメントへ住むには、一戸建ての借家よりもかなり高額な家賃が必要であり、目白文化村のネームとともに一種のステータスでもあったのだろう。昭和初期のアパートメント居住者は、住所に番地を省略して記載せず、町名のすぐ下にアパート名を記すだけの場合が多い。目白会館文化アパートの場合は、「東京市外落合町目白文化村 目白会館」という表記が多く、東京市35区制Click!が施行されたあとは「淀橋区下落合目白文化村 目白会館」の住所表記が目立つ。
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 部屋番号などの具体的な表記がなくても、郵便物が住民たちへ支障なくとどくのは、目白会館を管理運営していた主事が郵便物や荷物などをまとめて受けとり、各部屋に配布するか、当該の住民が帰宅するのを待って手渡すなどのサービスをしていたからだ。いま風にいえば、いろいろ依頼できるコンシェルジュ付きの高級マンションというところだろう。

◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館文化アパート跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1933年(昭和8)に東京朝日新聞社で開催された同郷の画家たちによる秋田美術展。は、1957年(昭和32)制作の佐藤文雄『花と水』。は、1946年(昭和21)発行の「自由美術」5月号に掲載された旺玄社→旺玄会の告知。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館文化アパート。は、1935年(昭和10)ごろに南側の斜めフカンから撮影された目白会館。は、第1次山手空襲Click!直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された目白会館。
◆写真下は、1930年(昭和5)に撮影されたモダンアパートをわたり歩く龍膽寺雄。は、目白会館時代の1932年(昭和7)に撮影された矢田津世子。は、1935年(昭和10)10月撮影の1931年(昭和6)に自ら設計し増築した「静臥小屋」Click!の南庭に立つ曾宮一念。

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下落合を描いた画家たち・高瀬捷三。 [気になる下落合]

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 山形県の米沢市上杉博物館に収蔵されている、高瀬捷三『下落合風景』は1921年(大正10)制作とされているが、キャンバス裏へ記載があるとか、なにか具体的な根拠のある年紀だろうか? わたしは、画面を観てほどなく描画ポイントを想定できたが、1921年(大正10)では描かれた住宅の建設時期とつじつまが合わないのだ。少なくとも、この風景は1924年(大正13)以降でなければ、下落合の実景とは合致しない。
 では、画面を仔細に観察してみよう。陽光はやや右手から射しており、正面から右手にかけてが南側だと想定することができる。なぜ正面まで南に含めるのかといえば、右手に描かれた坂道の存在だ。東西にのびる目白崖線の、丘上へと通う下落合の坂道のほとんどが時代を問わず、おおよそ南北に拓かれているからだ。しかも、正面に向けて全体の地形が傾斜しているのが画面からは判然としている。正面を南とした場合は右手が西となり、太陽がやや西へ傾いた昼下がりの情景ということになる。
 手前の緩斜面には畑地(ダイコン畑か)が残り、高瀬捷三がイーゼルを据えている地面は、畑地よりさらに高い位置なのがわかる。左手の丘上には、スパニッシュ風(米国西海岸タイプのスペイン風デザイン)の洋館が描かれており、ほぼ同時期に建てられたとみられる赤い屋根の洋館が奥に見える丘上と、右手に描かれた坂道の下にも建設されている。また、地付きの農家とみられる灰色の屋根も、右手の坂下には確認できる。
 右手の坂道には、坂下へと向かう人物がひとり描かれている。この人物の右手には、まるで橋の欄干のような柵(いま風にいえばガードレール)が設けられている。したがって、この柵のさらに右側は、滑落すると危険な深い崖地(谷底)になっているか、あるいは描かれた畑地のある斜面から噴出する、湧水を逃がす水路が設置されている可能性が高い。下落合の斜面=バッケ(崖地)Click!は、関東ロームClick!シルト層および礫層Click!が露出しやすく、自然に湧水が流れでて泉や池を形成したり、農地開墾や宅地造成などで斜面を掘削すると、地下水が噴出するような地勢をしている。
 左手の丘上に建つ洋館群だが、これらの住宅が建てられているということは、丘上に通う道路を想定しなければ不自然だろう。しかも、この道路は左手の住宅群を抜けて正面奥へ向かうとともに、右手の坂道と同じく南へ向け傾斜が深くなるはずだ。そして、丘上の住宅地を南北に通う道路と、右手の湾曲した南へ通う坂道との間には、近接した両坂を往来できる坂道が設置されていた可能性が高い。画面の正面を、左から右へと下がる畑地の変色した草地の境界が、両坂を連結する細い小坂なのかもしれない。
 畑地の土手(境界)にある草が変色しているところをみると、秋の風景だろうか。樹々の葉もやや茶が混じり変色しかかりのように見えるが、落葉がはじまっていないので10月下旬から11月ごろにかけての風景だと思われる。高瀬捷三は、下落合の尾根道沿いを歩くうち、あちこちに建てられはじめたモダンな西洋館と畑地が混在する風景に画因をおぼえ、小高い山の草むらが拡がる斜面へ、画材を抱えながら入りこんだのだろう。左手には、イーゼルを立てた位置とあまり変わらない高さの丘があり、右手の坂道のさらに右側は、谷戸地形で急激に落ちこんでいる。谷底には樹木が鬱蒼と繁っているが、その樹間から谷戸の随所で湧いた小流れが光って見えただろうか。
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 下落合(現・中落合/中井含む)の、特に目白文化村Click!がある中部に古くからお住まいの方なら、すでに画面から描画ポイントを特定できているのではないだろうか。高瀬捷三は、のちに改正道路(山手通り)Click!の工事計画が具体化する1930年代には、「赤土山」Click!と呼ばれることが多くなった丘上の、斜面ないしは崖淵から南側を向いて『下落合風景』を描いている。右手に一部描かれたカーブする坂道は、坂下に向かうにつれて大きく湾曲している、第二文化村からつづく振り子坂Click!だ。
 左手の丘上の、洋館群を縫うようにして敷設されているのは、六天坂Click!筋の三間道路だろう。左端に屋敷の半分ほどしか見えていないのは、六天坂上へ1924年(大正13)に竣工した中谷義一郎邸Click!だ。画面の左手枠外、画家の左横には、同じく赤い屋根をしたより大きな西洋館が建っていたはずだ。有岡一郎Click!『或る外人の家』Click!で描いている、ドイツ人のギル夫人Click!が住む家だ。中谷邸の奥、六天坂へと下る三間道路の右手に描かれているのは、こちらも新築まもない大きな屋敷の上仲尚明邸だろう。
 また、右手の振り子坂沿いに目を向けてみよう。坂下の中ノ道Click!(下の道=現・中井通り)へと向かっているのか、あるいはそこから上ってきたのかは人物の姿勢が曖昧なので不明だが、この時期に西武線Click!はいまだ敷設されておらず中井駅は存在しない。大きく西から東へカーブして、坂下へと抜ける振り子坂の、おそらく右手に建っていた西洋館は竣工まもない陸辰三郎邸で、坂下に近い陸邸の向こう側に見えている古い屋敷は、農家で地主だった宇田川新次郎邸ではないだろうか。
 さて、高瀬捷三について少し書いてみよう。山形県米沢市出身の高瀬が、当初、師と仰いだのは岸田劉生Click!だが、劉生が1929年(昭和4)に死去すると、弟子で同郷だった椿貞雄Click!に師事している。関東大震災Click!ののち、高瀬捷三が出品していたのは春陽会展Click!大調和展Click!であり、のちに国画会Click!展へも出品するようになる。1944年(昭和19)の40歳を迎えた時点で、春陽会展への入選は3回、大調和展で特大学賞を受賞、国画会では13回入選と、洋画家の中堅的な存在になっていた。
 また、この間、椿貞雄が結成し米沢出身の画家たち9人を集めた画会「七渉会」にも、高瀬は積極的に出品している。同画会は1926年(大正15)に結成され、1927年(昭和2)に第1回展を開催している。その様子を、1929年(昭和4)6月9日刊の米沢新聞から引用してみよう。ちなみに、同記事は1992年(平成4)に刊行された「米沢市史編集資料」より。
  
 米沢出身の洋画家椿貞雄氏を中心として、米沢人のみでなる七渉会では、今秋東京丸善本店に於て、第三回の展覧会を開催して、大いに米沢の画家達の腕前を天下に発表すべく目下準備中で、過日千葉県船橋町三丁目の椿氏方で/土田文雄、村山英雄、村山政司、高瀬捷三、上杉勝雄、佐藤豊吉、山下品蔵、志賀三郎、椿貞雄/等の会員が集合し、種々協議するところあった。七渉会は故郷の奇勝関根ナナワタリを偲んで名付けられたものである。
  
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 ここで、下落合の重要な人物が登場している。岸田劉生Click!の愛弟子で、のちに高瀬が師事する椿貞雄だ。椿貞雄は1924年(大正13)から1925年(大正14)に鎌倉町扇ヶ谷192番地へ転居するまで、下落合2118番地に住んでいる。この番地は、翌1926年(大正15)に吉屋信子Click!が自邸を建てる下落合2108番地へ、丘上の道から南へ折れる道路の西側角にあたる敷地だ。ちょうど、四ノ坂と五ノ坂の中間地点にあたる。
 この事実から、高瀬捷三の『下落合風景』は椿貞雄を訪ねたときか、あるいは高瀬自身も下落合の借家に住んでいたか(または椿邸に寄宿していたか)は不明だが、1921年(大正10)の制作ではなく、1924年(大正13)以降の作品である可能性が高いと思われるのだ。そのような経緯を想定すれば、左手に描かれた竣工後の中谷邸をはじめ、周囲に拡がる下落合の風情に時代のズレによる違和感をおぼえないからだ。
 高瀬捷三の『下落合風景』が発表されたのは、1926年(大正15)2月26日から3月20日まで、上野公園竹之台陳列館で開かれた春陽会第4回展であり、高瀬は同作と『鎌倉風景』『風景』の3点を出品している。この時点で1921年(大正10)制作の、つまり5年も前に描いた作品を出展するとは思えない。したがって、『下落合風景』は前年か前々年に制作されたと考えるのが自然なのだ。わたしは、1925年(大正14)の制作ではないかと考えている。また、『鎌倉風景』は同年に椿貞雄が鎌倉へ転居したあと、扇ヶ谷(おおぎがやつ)Click!のアトリエを訪ねて描いた画面ではないだろうか。もう1点の『風景』は、下落合か鎌倉のどちらかの風景作品だろう。
 このように考えてくると、高瀬捷三の足どりがおおよそ見えてくる。彼は1924年(大正13)または1925年(大正14)の秋、椿貞雄のアトリエを訪ねたあと、丘上の道をたどりながら落合第一尋常小学校Click!落合町役場Click!のある東側へと歩いてきた。その途中、赤い屋根の大小西洋館が建ち並ぶ六天坂あたりにさしかかると、画因をおぼえて翠ヶ丘(のち赤土山)のほうへ歩いていった。左手(東側)に見えるギル夫人邸は、いかにもこのあたりに住む画家が描いていそうなので、建設されて間もない中谷邸から振り子坂にかけての谷戸を見下ろす構図で写生することにした……。
 ちなみに、現在は大きく地形が改造され、改正道路(山手通り)の敷設で赤土山は崩されて消滅し(というか逆に掘削された土砂は谷戸の埋め立てにも使われた)、戦後の十三間通りClick!(新目白通り)のより深い掘削工事で、残りの山らしい風情が丸ごと破壊されてしまった。現在は、『下落合風景』の描画ポイントに立とうとしても、クルマの往来が激しい山手通りの真ん中あたりになり、また視点も画面とは正反対に中谷邸のある六天坂の丘を見あげるような、“地下”の視点から眺望するような地形に改造されている。
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 高瀬捷三が春陽会へ出品した、『風景』というタイトルの画面が気になる。『下落合風景』と同時期の、もうひとつの「下落合風景」ではないだろうか。また、下落合2118番地に1年余ほど住んでいた椿貞雄にも、下落合を描いた作品が存在していないかどうか、これから注意してみたいテーマだ。なお、七渉会の上杉勝輝も『目白風景』『落合風景』を、同じく山下品蔵も『落合風景』を同時期に描いているので、下落合の椿貞雄アトリエを頻繁に訪問していたか、あるいは彼らも近くにアトリエをかまえていたのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)ごろに制作されたとみられる高瀬捷三『下落合風景』。
◆写真中上中上は、『下落合風景』の六天坂上にある中谷邸と振り子坂の湾曲部分の画面拡大。中下は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる描かれた風景界隈。
◆写真中下は、高瀬捷三『下落合風景』に描かれている1924年(大正13)以降に見られた下落合の風景モチーフいろいろ。は、同作が出品された1926年(大正15)2月~3月開催の春陽会第4回展目録で、同年に刊行された「芸天」3月号(芸天社)より。は、1931年(昭和6)に神田文房堂のギャラリーで開かれた七渉会第5回展の様子。右からふたりめに椿貞雄がいるが、高瀬捷三はこの中に写っているだろうか。
◆写真下は、Google Earthで見た『下落合風景』の現状。手前の赤土山は、1940年前後の改正道路(山手通り)と戦後の十三間通り(新目白通り)の工事で全的に失われている。は、坂上から眺めた六天坂の現状。は、1924年(大正13)竣工の中谷邸。

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「近衛町」と「長崎町」を耕す川村女学院。 [気になる下落合]

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 以前、目白駅前の目白市場Click!で喫茶&飲食店を運営する、昭和初期の川村女学院Click!で学ぶ生徒たちClick!についてご紹介していた。院長の川村文子による、女子の実践教育の一環として1929年(昭和4)の夏よりスタートした店舗だった。
 この飲食・喫茶店が、いつごろまでつづいたのかは不明だが、まるでヨーロッパの古城のようなデザインをした、目白駅前に位置する目白市場(現・トラッド目白の位置)に入る店舗は、生徒たちのセーラー服に白い割烹着ないしはエプロン姿(ちなみにキャンパス内でも家政科の生徒はこの姿が普通だった)とともに、モダンでオシャレな店だったのではないだろうか。運営の中心となっていたのは、同学院の「割烹部」(高等部家政科)だ。この目白市場について、1932年(昭和7)に東京毎夕新聞社から出版された『東京の現勢』では、次のように報告している。
  
 市場の規模及び設備/(中略) 新市部に於ては蒲田及び目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく 殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店式に設計せられたる市場である。
  
 「新市部」とは、1932年(昭和7)10月に施行された東京市35区制Click!のことで、目白市場は旧・高田町にあるので同年より豊島区に属することになった。
 川村女学院が、生徒の家族や一般の人たちへ授業の成果物(製造品)を販売するのは、1925年(大正14)から「バザー」と名づけて行なわれていた。目白市場ができると、接客が必要な料理や喫茶、雑貨などは実践教育として同市場内で販売されたとみられるが、それまでは年に春4月と秋10月の2回にわたり「学院バザー」および「謝恩バザー」を開催し、授業で製作したさまざまな物品(手芸品が中心だったようだ)を販売している。今日でいえば、多彩な模擬店が並ぶ学園祭のような催しだったろうか。
 「バザー」のはじまりは、同学院の「音楽会」で多種多様な製品を販売したのがきっかけだったようだ。販売されたのは、生徒たちが毎週火曜と金曜に設けられた「自習時間」で、技芸修得を目的とした教育の一環として製作する日用品が中心だった。当初は、ガーゼ布やハンカチ布へ縁縫いをしたような単純な「技芸」だったが、徐々に複雑な手芸・工芸品にまで製作の範囲を拡げていった。子ども用のお手玉をはじめ、百華眼鏡(万華鏡)、手提げ袋、切符入れ、キューピー人形の着せかえ洋服、封筒づくり、造花づくりなど、しまいには多種多様な製品づくりにまで挑戦するようになった。
 年に2回開催される「バザー」と、それとは別の「謝恩バザー」について、1934年(昭和9)に川村女学院鶴友会雑誌部から出版された『川村女学院十年史』より引用してみよう。
  
 学院のバザーは、バザーとは言つても他の一般のものとは余程趣旨の異なるものであつて、陳列品の主体は生徒の製作品であつて、それも極めて簡単な手芸品が其の大部分である。それでも父兄の方方(ママ)が年々大勢お出かけ下さつてなかなかの盛会である。このバザーの収益は主として公益事業に充てられるのであつて、災害の場合に奉仕部より贈る慰問費の一部ともなるのである。/謝恩バザーといふのは、主催者として卒業生が中心となり、学院の職員であるところの旧師のために謝恩の意を表したいといふところから由来して居るのであつて、其の収益の一部を職員の勤績功労者の慰労等に充てたいといふ趣意が含まれて居るのである。
  
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 これらのバザーでは、「手芸品」が大部分を占めると書かれているが、川村女学院の園芸部が収穫した生花や野菜なども販売されていたのではないだろうか。同学院では、生徒たちの寮舎があった高田町と長崎町で、わりと規模が大きめな農園を経営している。そこでは、生花・野菜を育てるばかりでなく、家畜(ヒツジなど)も飼育されていた。
 また、割烹部を中心とした高等部家政科では、目白市場Click!にオープンした飲食&喫茶店の料理に、農園で収穫した野菜類などを材料に用いていたのではないだろうか。割烹部は、高等部家政科の生徒と家事科の教職員、および卒業生などで構成されており、学院内の会食や音楽会、バザーなどにおける食事会や接待などの料理・喫茶いっさいを担当していた。割烹部は、1924年(大正13)に川村女学院が創立された直後から活動しており、同学院では1934年(昭和9)の時点でもっとも古いサークル活動となっている。
 では、高田町と長崎町に農園のある園芸部の活動を同書より引用してみよう。
  
 質素の風を養成すると共に、花を愛することが女性には特に必要である、といふ院長の考から、創立のはじめ頃から、我が学院には園芸部が設けられたのであつた。そして主として和田先生の指導のもとに、或は学院の校庭に或は長崎町の農場に或は近衛町の農園に於て、部員である職員及生徒が土に親しんで居る。播種、害蟲の駆除、除草、其の他園芸の仕事は実に愉快であると言つて居る。
  
 「和田先生」とは、同学院教師の和田德三のことだ。ここでは、草花の育成についてしか記載されていないが、農場あるいは農園には野菜も植えられ、ニワトリの飼育やヒツジの放牧も行われていた。ちなみに、「女=花好きという刷りこみ教育じゃないか」とか、「わたし花粉症なので花は大っキライ!」とかいう声は存在せず、当時の川村女学院は「良妻賢母」教育が川村文子の創立趣旨だったので、「女性とはこうあるべきもの」という画一的な教育が、なんら不自然かつ不可解に感じられなかった時代だ。
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 さて、「長崎町の農場に或は近衛町の農園」とは、いったいどこのことだろうか? まず、「近衛町の農園」は、すぐに場所を特定することができる。現在でも、川村女子大学の校舎や図書館、学生寮が建っている目白3丁目の崖上Click!キャンパスだろう。
 1932年(昭和7)までは高田町金久保沢1142~1146番地、東京35区制の施行で豊島区が成立してからは目白町1丁目1142~1146番地で、淀橋区下落合の近衛町Click!ではなく北東側に隣接するエリアだ。豊島区の成立とともに、本学キャンパスが目白町2丁目で農園が目白町1丁目なので、キャンパスを明確に区別するために、東京土地住宅Click!が開発した下落合側の住宅地名「近衛町」Click!を借用したものだろう。
 もう1ヶ所の「長崎町の農場」は、武蔵野鉄道・東長崎駅Click!の北側、長崎仲町3丁目3793番地にあった。1932年(昭和7)までは長崎町水道向3793番地で、豊島区になってからは長崎仲町の新しい町名+番地となっている。『川村女学院十年史』が出版された1934年(昭和9)の時点では、いまだ周囲には住宅よりも畑地が多い風情だった。
 「近衛町の農園」に比べ、「長崎町の農場」のほうが規模が大きく、前述したように家畜舎や鶏舎まで設けられていた。飼われていたヒツジは年に一度、羊毛が採取されて毛糸への加工のうえ、編み物に使われていたものだろうか。ニワトリの飼育は、鶏卵の採取が目的だったのだろう。1936年(昭和11)の空中写真で確認してみると、「近衛町の農園」は同学院の建物(寮舎など)と近衛町の開発で開かれた三間道路にはさまれた、それほど広くはない農園の耕作だが、「長崎町の農場」はヒノキ林や芝生、あるいは飛び地として家畜舎や牧草地などもあって、かなり本格的な農場として営まれていたようだ。
 『川村女学院十年史』(1934年)に収録の、川村文子「序にかへて――過ぎし十年の回顧」では、園芸部について「和田先生も、十周年を機会に園芸部の拡張発展を計つて下さるといふことで、これも楽しみの一つ」と書いているので、同年以降はさらに「長崎町の農場に或は近衛町の農園」の耕作規模を拡げていったのかもしれない。
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 戦前から戦後にかけ、目白駅のホームで行われていたガーデニングは同学院園芸部の活動であり、山手線の線路土手に咲く花々の世話もまた、園芸部が少なからず協力しているのだろう。これら園芸部の院外活動は、創立10周年を契機にスタートしたのかもしれない。

◆写真上:川村学園(左手)と、川村中学校・川村高等学校(右手)の現状。
◆写真中上は、1930年(昭和5)ごろに制作された小熊秀雄『目白駅附近』(部分)。椿坂から坂上を描いたもので、正面に見える古城のような建築が目白市場。中上中下は、川村女学院の本校舎と第二校舎。は、1934年(昭和9)に川村女学院鶴友会雑誌部から出版された『川村女学院十年史』()と、同学院の創立者・川村文子()。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「近衛町の農園」=目白町1丁目のキャンパス。中上中下は、同年の写真にみる「長崎町の農場」と同平面図。は、長崎仲町の農場で飼育されていたヒツジとニワトリが見える。
◆写真下は、1930年(昭和5)に撮影された元・川村院長邸。中上は、1934年(昭和9)現在のキャンパス平面図。中下は、同年に目白市場側から撮影された川村女学院全景。は、現在は川村学園女子大学になっている下落合の近衛町に隣接する「近衛町の農園」跡。
おまけ
 『川村学園40年のあゆみ』(1964年)には、本校舎から西南西を向いて1925年(大正14)に撮影されたパノラマ写真が掲載されている。中央左寄りに、3年前に橋上駅化された目白駅舎Click!とともに、そこには下落合の近衛町も写っているが、なぜかキャプションには「目白文化村」と誤記されている。w また、遠景ながら画面に戸田康保邸Click!のとらえられているのがめずらしい。写真下は、戦後に目白駅ホームの花壇を手入れする同校生徒たち。
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社内ガバナンスで激論の三宅勘一と堤康次郎。 [気になる下落合]

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 箱根土地Click!の代表取締役だった堤康次郎Click!と、東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!とは、大正後期のどこかでお互いに邂逅している。しかも、出会ってまもなく社員教育をめぐり、ふたりは激しい議論を交わしているようだ。それは、40年後まで堤康次郎がその出来事を記憶していたことでもうかがえる。
 堤康次郎が、1964年(昭和39)の時点で「三、四十年前」と回顧する、三宅勘一と顔をあわせた時期は、おそらく下落合にいた1922年(大正11)から1925年(大正14)にかけての4年弱のどこかではないだろうか。1925年(大正14)に箱根土地本社は下落合から国立Click!へと移転しているので、同年以降ということは考えにくい。当時、東京土地住宅Click!が開発していた近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!との間に、ちょうど箱根土地が開発する目白文化村Click!があり本社ビルClick!が建っていた。
 三宅勘一は、近衛町からアビラ村(芸術村)への打ち合わせや視察などで、下落合の東西を頻繁に往復するうち、ちょうど中間にある箱根土地本社へ立ち寄り堤康次郎を表敬訪問しているのではないか。一方、堤康次郎のほうでも、東側から近衛町と近衛新町(のち林泉園住宅地)Click!の建設で、西側からはアビラ村(芸術村)の開発計画で、あたかも目白文化村をサンドイッチのように挟みこもうとしている東京土地住宅の仕事に興味をおぼえ、同社の常務取締役で事業責任者だった人物に会ってみたくなったのだろう。堤康次郎の著書にも、「提携していったら互いに事業も発展していく」と書かれている。
 ふたりが出会ってから最初のころは、実業界における世間話や、下落合の郊外住宅地開発あるいは田園都市構想をめぐる建設事業についての話題が中心だったろうが、なにかの拍子に社内組織や内部のガバナンス(統制)についての話になったとみられる。そこで両人は、互いの考え方が正反対であることに気づいたのではないだろうか。特に社員に対する接し方で、両者は激しく議論を交わしたようだ。
 堤康次郎は、すでにワンマン的な経営で知られており、社員へは強権的な姿勢でのぞんでいたが、三宅勘一は社員からの要求を聞いては、その課題を業務や人事で解消させるような経営姿勢を見せていた。したがって、堤康次郎からは大正デモクラシーにかぶれた脆弱な組織や事業で、三宅勘一は経営者向きではないと映ったろうし、三宅勘一のほうでは常に労働争議のタネを内包し、有力社員の離反を招きかねない危険性をはらんだ、堤康次郎はいまどき時代遅れの経営手法だと感じたかもしれない。
 そのせいか、ふたりともかなりムキになったやり取りとなったようだ。その様子を、1964年(昭和39)に有紀書房から出版された堤康次郎『叱る』から引用してみよう。
  
 いまから三、四十年もむかしのことだが、東京土地住宅会社という会社があって、社長(ママ)は三宅勘一といった。この人は才気煥発で、なかなかの人物で、当時三井財閥の重役で政・財界での大物山本条太郎という人の深い信頼を受けて、事業も活発にやっていた。私にとっては強敵と思われていたくらいで、提携していったら互いに事業も発展していくだろうと交際をつづけていた。/あるとき、社員の使いかたについて、三宅君と議論したときの話だが、社員はきびしく叱って教育をすることが社員のためになると私はいった。それに対して三宅君は、叱って教育することは効果がない。社員に不平があれば、いっしょに会食して、一杯飲ませて意思の疎通をはかる。つまり、不平があれば一杯飲ませるというやりかたがいいといって、私の叱って教育するやりかたとは逆な議論であった。
  
 ちなみに、堤康次郎は三宅勘一を「社長」と表記しているが、事業のいっさいを任されている常務取締役が正確な役職で、三宅が代表取締役社長になったことはない。このふたりが下落合で連携していたら、おそらくシナジー効果でアビラ村(芸術村)Click!建設計画はかなり進捗していたかもしれないし、1940年(昭和15)の勝巳商店地所部Click!による「第五文化村」Click!ではなく、社員寮建設予定地Click!(現・下落合教会=下落合みどり幼稚園Click!界隈)を含めた箱根土地による、第五文化村が開発されていたかもしれない。
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 だが、結果からいえば東京土地住宅は1925年(大正14)に、債務超過で事実上の経営破綻に陥り、箱根土地は同年に国立Click!へ本社を移転してしまった。したがって、東京土地住宅が開発に手をつけていた近衛町やアビラ村(芸術村)、東村山中流郊外住宅別荘地(東村山経営地)、大船田園都市(新鎌倉住宅地)Click!などは、中途半端な開発のまま終わってしまった。特に、東村山経営地と大船田園都市は、一部の道路を敷設しモデルハウスを建設しただけで、実際にはほとんど事業が進捗していなかった。
 たとえば、東村山中流郊外住宅別荘地について、当時の様子を1980年(昭和55)に出版された『東村山郷土のあゆみ』(東村山郷土研究会)から引用してみよう。
  
 東京土地住宅(社長は三宅勘一)は、当時東洋製糖社長の山成喬六、東京瓦斯社長の渡辺勝三郎を監査役に、そして東武鉄道社長の根津嘉一郎、政友会幹事長の山本条太郎らを相談役にと、いずれも一流の財界人・政界人を看板に並べて世間の信用をつないでいたが、その経営の内幕は乱脈をきわめ、詐欺同様の悪徳商法を重ねていたのである。たとえば、他人の土地で契約金をせしめたり、相談役などの顔ぶれを利用して無担保で金を借りまくったり、といった具合で、前者の被害者は作家の菊池寛、俳優の森田勘弥をはじめ全国にわたったという。/そして大正一四年の七月以降、借金の累積、信用の失墜、分譲の失敗から満身創痍の状態となった東京土地住宅はついに営業を停止し、数年後には消滅の運命となった。このことは、東村山の分譲広告を最後に、東京土地住宅の派手な広告が新聞・雑誌の上から一切姿を消したことからも明らかである。
  
 かなり怒気を含んだ文章だが、古くからの東村山住民が多かったとみられる東村山郷土研究会なので、東京土地住宅に協力して土地を提供した地主(の子孫)の方が執筆しているものだろうか。ここでも、「社長は三宅勘一」と誤記されている。
 また、東京土地住宅は「消滅の運命」と書いているが、経営が破綻して事業継続は不可能になったが、債務の整理後はそのまま会社が存続している。もちろん、銀行から多くの借り入れをともなう大規模な開発はできなくなったが、昭和に入ってからも引きつづき宅地開発はつづけており、1941年(昭和16)ごろまで同社の存在が確認できる。しかも、三宅勘一は失敗に懲りたものか、ひとつの事業をしくじっても他の事業で補える多角経営に乗りだしており、複数企業の代表取締役社長や役員を兼任している。
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 皮肉なことに、東京土地住宅の破綻で中断した、下落合における近衛町Click!やアビラ村(芸術村)の一部は、箱根土地が開発を引き継いで事業を継続しているので、三宅勘一がすでに知りあっていた堤康次郎に開発継承(後始末)を委託したものだろう。特に、下落合西部のアビラ村(芸術村)開発では、東京土地住宅が手を引いたのちに、箱根土地や下落合2095番地の島津源吉Click!(島津家宅地開発Click!)、少し遅れて勝巳商店地所部などが参入する、多重的な宅地開発に向かったと思われる。
 さて、三宅勘一と堤康次郎の邂逅にもどろう。ワンマンな堤康次郎は、東京土地住宅の失敗に「それみたことか」という文章を残している。『叱る』より、つづけて引用しよう。
  
 その後、三宅君の会社は民主的でますます隆盛になっていったが、社員のなかで、うちの社長(ママ)は不平をいうと一杯飲ませる、不平をいわないとソンだという気風が出てきた。三宅社長(ママ)の一杯飲ませるというやりかたで、はたして社長(ママ)がやっていけるのか、また会社がやっていけるのかという疑問を起こすようになった。こうなると、社員の士気が衰えてきたのか、三宅君の会社は、逆にしだいに左前になってきた。/これを検討すると、社員に不平があると一杯飲ませるというやりかたは、社員に対して決して親切でない。ほんとうに社員のためを思うならば、社員をきびしく教育していくことが会社のためにもプラスになる。それと同時に、社員も幸福になる。つまり、叱ることは、社員に対してほんとうの親切というものである。
  
 堤康次郎は、東京土地住宅が「左前」になったのは、同社社員の士気が落ちたのが要因だといいたげだが、かなりのこじつけがありそうだ。東京土地住宅が破綻したのは、連続する大規模開発で銀行からの無計画な借り入れがふくらみ、その利子の支払いや社債の償還さえできなくなるほどの債務超過=放漫財政に陥っていたからであり、その経営破綻を社員のせいにするのは無理筋だろう。責められるべきは、三宅勘一の甘い経営判断と事業計画および経営手腕であって、「左前」の原因は同社の社員たちではないはずだ。
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 いま、堤康次郎のようなワンマン経営で、社長が社員をみなの前で叱りとばしていたら、優秀な人材はすぐに他社へ引き抜かれてしまうだろう。それでなくても、人手不足の状況で就職先には困らないから、事業を継続できなくなるのは箱根土地型の企業かもしれない。

◆写真上:武蔵野鉄道・久米川駅前にモデルハウスが数棟建つ、東京土地住宅が開発した東村山中流郊外住宅別荘地(東村山経営地)<AI着色>。
◆写真中上は、近衛町の藤田進様Click!のもとに保存されている「近衛町地割図」の裏面に残された三宅勘一のサイン。「大正十一年五月廿八日/(東京)市京橋区銀座二丁目一/東京土地住宅KK/常務取締役/三宅勘一」と読める。中左は、1917年(大正6)に実業之世界社の記者時代に撮影された三宅勘一。中右は、下落合で近衛町計画を東京土地住宅の三宅勘一とともに推進した近衛文麿Click!。1937年(昭和12)7月に、目白台にある細川護立邸Click!で開かれた仮装パーティーでヒトラーに扮する近衛文麿だが、二二六事件Click!(1936年)の翌年であまりにも軽率かつ冗談がすぎるだろう。は、1923年(大正12)に下落合414番地に建っていた小林盈一邸の2階から撮影された建設中の近衛町。
◆写真中下は、1964年(昭和39)に出版された堤康次郎『叱る』の表紙()と中扉()。中上は、下落合1340番地に建っていたレンガ造りの箱根土地本社ビル(初期型)。中下は、1924年(大正13)刊行の『全国土木建築業者並ニ材料業者人名録』(日本実業興信所)。両社ともに掲載されているが、箱根土地の「下落合村」は落合町下落合の誤り。は、下落合で顔をあわせているとみられる堤康次郎()と三宅勘一()。
◆写真下上左は、1919年(大正8)出版の三宅勘一『住宅問題と田園都市』(都市事情研究会)。上右は、1939年(昭和14)刊行の『法人個人職業別調査録』(国際探偵社)にみる事業を継続中の東京土地住宅。は、経営破綻直前に分譲をはじめていた東村山中流郊外住宅別荘地(東村山経営地)の広告。は、1980年代まで建っていた久米川駅前のモデルハウス。
おまけ
 先日、目白台の細川護立邸(写真上)をGoogle Mapで上空から眺めていたら、その手前でついつい噴きだしてしまった。この1月8日に突然の火災で焼失した田中角栄邸Click!だが、Mapには「臨時休業」のキャプションが挿入されている。保険で再建されるまでやむなく「臨時休業」にせざるをえないだろうが、レストランや喫茶店じゃあるまいし、これは真紀子さんがGoogle Mapに申請して挿入したユーモア・キャプションだろうか? いや、思いがけぬ火事で罹災されたのだから、まちがっても笑ってはいけないのだけれど……。
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二二六事件の関連将校が下落合にもうひとり。 [気になる下落合]

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 二二六事件Click!を調べていて、もうひとり皇道派Click!ではないがその思想に共鳴する、下落合で生まれ育った将校がいたことに気づいた。事件当時は、陸軍参謀本部付きで陸軍大学校の教官だった、歩兵大尉の田中彌(わたる)だ。
 二二六事件については、これまで岡田啓介首相Click!が官邸を脱出し、下落合1丁目1146番地の佐々木久二邸Click!に潜伏していた様子や、蹶起した将校のひとりで陸軍豊橋教導学校歩兵学生隊付きの竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地にあった関係からときどき記事にしていた。だが、田中彌は生まれも育ちも下落合であり、この東京の慣例的な表現Click!でいえば“落合っ子”ということになる。
 田中彌は、1900年(明治33)に落合村下落合299番地で生まれている。当時の地勢にあてはめていえば、いまだ相馬孟胤邸Click!が存在していない御留山Click!の東側斜面に建っている、藤稲荷社Click!(東山稲荷)の南西山麓に位置する番地で、鎌倉街道の支道・雑司ヶ谷道Click!に面した家屋だ。ただし、父親の田中小三郎も陸軍軍人だったため、転勤によるものか一時的に長野へ赴任していたようで、田中彌は旧制上田中学校(現・上田高等学校)へ通っているが、その後ほどなく東京へともどり陸軍幼年学校へ入学している。
 1936年(昭和11)2月に起きた二二六事件の当時は、生家だった下落合299番地の住居表示は淀橋区下落合1丁目299番地となり、裁判記録(起訴状や判決文など)に記載された本籍地も同表記になるが、田中一家はすでに下落合から他所へ転居したあとで、田中彌は1936年(昭和11)現在、一家をかまえ陸軍大学校(北青山)への通勤の便を考えたものか、渋谷区代々木初台町540番地に自宅があった。
 生家は明治期の下落合なので、おそらく就学年齢になった田中彌は落合尋常高等小学校Click!へと通っているのだろう。1907年(明治40)で就学しているとすれば、『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)のグラビアに掲載されている、明治期の古い校舎に通っていたはずだ。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、すでに田中邸は見あたらず、下落合299番地には「殿井」「河西」「古川」の3つの名前が採取されているので、田中家はそれ以前の明治末か大正期に入って転居しているのだろう。1936年(昭和11)の二二六事件当時は、陸軍大学の教官を勤めており36歳の若さだった。
 1931年(昭和6)の三月事件と十月事件、1932年(昭和7)の五一五事件、1934年(昭和9)の陸軍士官学校事件、1935年(昭和10)の相沢事件、そして1936年(昭和11)の二二六事件Click!と、陸海軍の青年将校たちによるテロルやクーデター計画が立てつづけに起きる中で、田中彌は参謀本部を中心とした「桜会」のメンバーとして三月事件にも関係しているが、その姿がハッキリと事件の中心人物として表面に現われるのは、1931年(昭和6)の十月事件だ。田中彌は、同事件で具体的な行動計画案を立案している。その様子を、1964年(昭和39)に日本週報社から出版された前田治美『昭和叛乱史』から引用してみよう。
  
 行動計画案は、田中弥大尉が作成に当ったといわれる。/十月十二日の夜、行動計画案をねるために大森の料亭『松浅』に、橋本<欣五郎>中佐を中心に、長勇少佐、馬奈木敬信大尉、田中弥大尉、田中清大尉らが出席し、田中弥大尉の作成した行動計画案を中心に共同謀議が行なわれた。/その夜決定した行動計画は次のようなものであった。/一、決行の時期……十月二十一日(ただし、日中に決行するや払暁とい可きやは一に情況による)/二、参加兵力……将校百二十名、歩兵十個中隊、機関銃二個中隊(参加兵力中大川<周明>に私淑せる中隊長は一中隊全部を以て、また西田税に血盟せる将校は殆んど所属中隊全員を以てす)/三、外部よりの参加者……大川一派、西田および北<一輝>の一派、海軍将校の抜刀隊約十名、海軍爆撃機十三機、陸軍機三~四機。/四、襲撃目標/(1)首相官邸……閣議の席を急襲し首相以下を斬殺――長少佐を指揮官とす。/(2)警視庁の占領……小原大尉指揮。/(3)陸軍省、参謀本部の占拠包囲……外部との連絡を遮断。/(4)報道、通信機関の占拠。/五、軍政権樹立行動<以下略>(< >内引用者註)
  
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 ところが、決行日が近づくにつれ計画のずさんさが目立ちはじめ、実行部隊からの脱落者が続出することになった。『松浅』での会合は、参謀本部側の主導者と在京の近衛師団Click!第一師団Click!、憲兵隊(憲兵学校Click!)などの青年将校たち、陸軍戸山学校Click!や砲工学校、歩兵学校の若手将校たちなどの初顔合わせに近く、ネゴシエーションが不十分だったのに加え、意見対立を抱えたままの行動計画案の提示だった。
 つづいて1931年(昭和6)10月15日の夜、渋谷の料亭『銀月』で開かれた参加将校たちの集会では、計画の不備や思想的な対立で激論となってしまい、陸軍皇道派や憲兵隊の将校たちは蹶起に不参加、脱退を表明するにまでなってしまった。確かに、上記の行動計画は既存の政体の破壊だけで、なんら建設的な展望や新しい国家建設の計画が含まれておらず、「否定」ばかりで「対案」が存在しない空想的な計画書だったからだ。
 また、参謀本部の「桜会」がカネをふんだんにつかい、連日連夜、若手将校たちを集めては高級料亭で派手に豪遊するのを不愉快に感じた将校たち(彼らは参謀本部の将校たちのことを“宴会派”と呼んで軽蔑した)は、反感や不信感とともに計画から離れていった。しかも、この料亭豪遊はすでに警視庁や憲兵隊に察知されており、当時の内相・安達謙蔵をはじめ陸軍省や参謀本部の中枢にも計画は漏れていた。10月17日には、計画の首謀者だった橋本欣五郎や田中彌などが憲兵隊に一斉検挙されている。
 だが、未遂に終わったとはいえ政党政治の破壊と、閣僚の殺害予定を含むクーデター計画への罪状としては、橋本欣五郎中佐が重謹慎20日、田中彌と長勇の両大尉が重謹慎10日という軽い処分で、参謀本部を中心とした「桜会」は解散を命じられたとはいえ、その勢力がいまだ根強かったことがうかがわれる。この事件のあと、首謀者たちは地方・海外勤務や「満洲」に転勤させられた。田中彌は、1932年(昭和7)からポーランドの日本大使館付きに、翌1933年(昭和8)にはソ連の大使館付き駐在武官補佐官となり、翌1934年(昭和9)12月には帰国して陸軍大学校の教官に就任している。
 そして、1936年(昭和11)2月に二二六事件が勃発すると、陸軍部内では統制派に所属していた田中彌だが、各方面に向けて赤坂郵便局から「帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進ス」と、蹶起をうながす檄文電報を発信している。ふつうに考えれば自明のことだが、逓信省の郵便局から平文(普通文)で電報を打ったりしたら、その内容からすぐに不審に思われるのはあたりまえだが、案のじょう電文を怪しんだ東京中央郵便局により、各地への発信は同局内で押さえられた。また、蹶起部隊と戒厳司令部との仲介を試み、蹶起部隊が有利になるよう工作も行っているが、二二六事件の終結後に検挙され同年8月に起訴されている。
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第三第一聯隊原隊復帰.jpg
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 だが、田中彌は軍法会議への起訴後、判決の日を迎えることなく1937年(昭和12)10月18日に自宅で拳銃自殺をしている。この自決について、田中彌が打電した先、あるいは背後で連携していた陸軍幹部や幕僚たちに累が及ぶのを避けるためとしている資料を見かけるが、それではまったく説明がつかない。赤坂郵便局から発信された電報は、東京中央郵便局で差し押さえられ憲兵隊が入手済みで、受信先の人物はとうに判明していただろうし、すでに憲兵隊による聴取は済み、8月の起訴後には軍法会議が開廷していたのであって(起訴状の内容も知っていただろう)、取り調べや法廷で証言する機会、つまり田中彌の口から連携していた人物たちの名が漏れる機会は、すでに終了していたのだ。
 田中彌は、起訴後に保釈されて自宅ですごしており、すなわち現代の司法でいう在宅起訴の状態にあり、他の事件への協力者ケースと同じく禁固3~5年ほどの刑期だったとみられ、ことさら重罰が下されるとは思えないこと、特に本人から精神的に追いつめられているような様子は見られなかったことなどから、自殺の原因は不明のままとなった。以下、1937年(昭和12)10月19日に開かれた軍法会議の、田中彌に対する判決文を引用してみよう。
  
 決定/本籍 東京市淀橋区下落合一丁目二百九十九番地/住所 東京市渋谷区代々木初台町五百四十番地/参謀本部附 陸軍歩兵大尉 田中 彌(後略)
 主文/本件公訴ハコレヲ棄却ス/理由/本件公訴ハ、被告人ガ、昭和十一年二月二十六日、東京ニ於ケル村中孝次、磯部浅一等反乱事件ニ際シ、反乱軍ノ企図セル維新断行ノ目的ヲ達成セシメンガタメ、同日、東京市赤坂郵便局ニ到リ、友人歩兵大尉中馬太多彦ソノ他数名ニ対シ、帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進スル方針ナル旨ノ電報頼信紙ヲ提示シ、又前掲村中孝次ヨリ、蹶起将校等ハ歩兵第一聯隊ニ撤退スルヲ肯ゼザルニツキ、部隊ヲ内閣総理大臣官邸附近ニ終結セシメラルルヤウ、尽力セラレ度キ旨懇請セラレ、戒厳司令部ニ到リ、同人ノ希望ヲ伝達スル等、反乱者ニ軍事上ノ利益ヲ与ヘタリトイフニアレドモ、被告人ハ、昭和十一年十月十八日死亡シタルコト、被告人所属参謀本部ヨリノ通牒並ビニ死亡診断書ニヨリ明ラカナルヲ以テ、陸軍軍法会議法第三百九十九条第二号ニヨリ、控訴棄却ノ言渡ヲナスベキモノトス。(以下略)
  
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軍法会議判決全文19371019.jpg
安田優.jpg 安田優デスマスク(長田平次)19360712日本の謎1964東潮社.jpg
 この判決文を見ても、田中彌への捜査および本人の供述は結了しており、軍人という立場や矜持から、法廷で裁判長・若松只一陸軍歩兵中佐からの罪状認否に、「まちがいありません!」と答えたであろうことも想定できる。あるいは、有罪判決を受けて陸軍を免官になるのが、本人にとっては絶望して自決するほどに、残念無念なことだったのだろうか?

◆写真上:明治期まで田中彌の実家があった、下落合299番地の現状。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の陸軍大学校卒業者名簿。中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合299番地で「田中」のネームはすでにない。中下は、1907年(明治40)撮影の落合尋常高等小学校の卒業写真。は、1975年(昭和55)出版の今西英造『昭和陸軍派閥抗争史』(伝統と現代社)の陸軍派閥系譜図。
◆写真中下は、1936年(昭和11)2月26日に撮影された蹶起部隊。は、1936年(昭和11)2月28日に“原隊復帰”する麻生三聯隊(上)と麻布一連隊(下)の兵士たち。は、下落合の佐々木久二邸から参内直後の岡田啓介首相。
◆写真下上左は、三月事件・十月事件と二二六事件に関与し自決した田中彌大尉。上右は、1952年(昭和27)に出版された立野信之Click!『叛乱』(六興出版社)。は、1937年(昭和12)10月19日に開廷した軍法会議における田中彌への判決全文。下左は、二二六事件に参加して処刑された安田優陸軍砲兵少尉。下右は、1936年(昭和11)7月12日に遺族とともに同行した彫刻家・長田平治が制作した安田優少尉のデスマスク。

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落合第一尋常小学校の校長ボコボコ事件。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)1月28日に、上野精養軒Click!では全国校長会や全国教育51団体の主催による、中学校の「試験撤廃祝賀会」が開かれていた。その会場で、落合第一尋常小学校Click!の校長・大塚常太郎は、同祝賀会に参加していた同役職の小学校長たちから、ボコボコに殴られヒドイめに遭っている。冗談のような話だが、事実だ。
 小学校の校長たちによる、ひとりの校長への集団暴行なので立派な刑事事件だが、大塚校長は警察には被害とどけを出さなかったらしい。そのかわり、この年の3月を最後に落合第一尋常小学校を辞め、同校には新校長として佐口安治が就任している。大塚常太郎は、その後も東京市内の小学校校長を歴任しているので、この事件をきっかけに教師を辞めてしまったわけではない。では、なぜこんなことが起きてしまったのだろうか?
 大正末から昭和初期にかけ、小学校から中学校へ進学する際の受験戦争が、子どもの親たちまで巻きこんで過熱していた。ちょうど、1960~1970年代に登場した「教育ママ」「教育パパ」に象徴される、大学受験戦争のようなありさまだったようだ。当時の中学校は5年制で、それを終えると高等学校に進むわけだが、当時の高校は現代とは異なり大学の予科に相当するので、進学校の中学校(現代の高校に近い感覚)に入学できれば、次の進学先である大学への切符を手に入れたも同然だった。
 だから、小学校時代から親たちは中学受験に向けて子どもの尻をたたいていたわけで、最初から尋常高等小学校を卒業したら働きはじめる子どもたちは別にして、中学校への進学組は教師たちも特に目をかけ力を入れて教えていたのだろう。そのあまりに加熱しすぎた受験戦争に待ったをかけたのが、文部省や各種教育団体だった。すなわち、中学の入学試験撤廃を打ちだしたのだ。中学への入学は、小学校の校長から送られてくる内申書(成績+生活態度)のみを判断材料に、入学者を決定するよう通達が行われた。
 ところが、頭を抱えてしまったのが当の中学校だった。少し考えればわかることだが、Aという小学校でトップの成績を修めた生徒でも、Bという小学校では中程度に相当しかねないことは、地域や学区ごとに学力がてんでバラバラな状況を見れば明らかだった。だが、A小学校もB小学校も成績優秀生徒には、両校とも「特等」の内申書を作成することになる。だから、中学校側としては、A小学校の「特等」生徒をそのまま入学させてしまうと、より優秀な生徒が入学機会を奪われてしまうのではないかと懸念した。
 また、もうひとつ別の問題も生じていた。中学受験が、小学校の内申書しだいになるのを知った親たちの間では、校長や教師たちへ盆暮れの付け届けはもちろん、料亭やレストランに招いては高額な酒食でもてなすなど、常軌を逸した接待攻勢が聞かれるようになっていく。事実、小学校から中学校への進学を希望する生徒たちの内申書が、ほぼ全員トップクラスの成績というような、当時の用語でいえば「情実地獄」のありえない小学校も出現している。中には、最優秀の「特等」成績を修めた生徒が、なぜか20人もいる小学校さえあった。また、先手を打つと称して、進学希望先の中学校にいる校長や教師たちの自宅にまで押しかけ、贈物・接待攻勢に乗りだす親たちまでが現れた。
 裏口入学の詐欺師も登場している。「どこそこの中学校には顔がきくので、おカネをあるていど積めば内申書が悪くてもなんとかなる」……と親の弱みにつけこみ、同年3月28日付け東京朝日新聞によれば、「試験地獄が生んだ驚くべき新犯罪」の見出しで、情実入学をネタに500~1,000円(物価指数をもとに現代価値に換算すると31万8,000~63万6,000円)を、多くの親たちから騙しとった事件の記事が掲載されている。
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 受験戦争をなくそうと試みられた中学校の入試廃止だったが、教育現場の腐敗=「情実地獄」を招きかねない事態を見るにつけ、文部省の態度は急にグラグラしはじめる。中学校側も、これでは生徒の実力がわからないので、入学試験と同等の各種諮問をやるけどいいよね?……と文部省に念押しし、結局、大多数の中学校では実質的な入学試験がそのまま継続している。文部省は、その動きに対して「交渉の度毎に態度が変る」を繰り返し、結局、ほぼ全中学校での名称を変えた入学試験を黙認するかたちとなった。東京府立第一中等学校の川田校長が、同年3月の入試について談話を発表している。
 「今度の様に試験課題から採用決定までに苦心したことはない……小学校で一番を十人も二番を十五人も作つたところがあるとの事だ。何れを甲、乙と決め難いからといふことだが内申を受けた方は鳥渡考へさせられる。僕のところなどにも父兄が訪問にきて物を置いて行き一々それを返送するのにどれ位骨が折れたか知れない」。
 このような状況や流れの中で、上野精養軒での全国小学校長会などが主催した冒頭の「試験撤廃祝賀会」だったのだ。会場には、鳩山一郎首相代理や永野修身文相、平塚広義東京府知事らが出席して行われ、永野文相が「我々は教育の本義の上からも児童育成の上からも、今日試験地獄の名ある現制度を改革する必要ありとして改正を断行した次第でありまして、敢て世論の非難を恐れず実施した次第であります」と挨拶した。けれども、試験廃止に異議を唱えているのは「世論の非難」ばかりでなく、当の受験される中学校側の廃止反対や教育現場の腐敗を懸念する強い批判だった。
 さっそく、中学校側の出席者からヤジが飛び、入試廃止を推進してきた教育評論家たちとの間でケンカに近い激しい応酬となった。誰も永野文相のあいさつなど聞いてはおらず、会場は乱闘寸前の混乱状態になったようだ。そんな緊迫した状況の中で、どうやら教育現場の腐敗=「情実地獄」に腹を立て、中学校の入試廃止には反対だったらしい落合第一尋常小学校Click!の校長・大塚常太郎は、不用意なことを叫んでしまったようだ。
 以下、1929年(昭和4)出版の『昭和年史/昭和三年』(年史刊行会)から引用しよう。
  
 (永野文相が)手前みそをならべたにもかゝわらず、席上中学校長側と教育評論家協会側との間に激論が起こつたり、或は府下落合小学校長大塚氏が「預つてゐる生徒全部に満点の成績をくれても之を取締る規則がない」と情実の猛烈になつて来ることを皮肉つただけで、同席の他の小学校長から「馬鹿なことをいふ奴はなぐれ」といつて乱打されたり、全くお話にならない混乱に陥つた。此の混乱は実に新制度の未熟と欠陥に起因してゐるものと見るべきであつた。(カッコ内引用者註)
  
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昭和三年史1929.jpg 学校から実社会へ我が児に何を為さしむべき乎1927章華社.jpg
 もう、上野精養軒の会場は昭和初期の戸塚町議会Click!にも似た、格闘技リングと化してしまったようだ。自分の意見に反対の者は殴って血を流させて黙らせるという、しごく単純でフィジカルな「論理」だ。落合第一尋常小学校の大塚校長は、美味しい思いをして「入試廃止」賛成の小学校長たちの間にまぎれこんだためヒドイ目に遭ったのか、それとも当時はほとんどの小学校長が「入試廃止」に賛成で、全国校長会も組織全体の統一見解としてそれでまとまっており、大塚校長のような存在が“異端”だったのかはさだかでないが、少なくとも学校長ともあろう者が、寄ってたかってひとりの校長を「乱打」するなど、上掲の文章のとおり「お話にならない」常軌を逸した行為だろう。
 混乱の様子は、さっそく翌日の新聞でも詳しく報道されているようだが、会場でボコボコにされた大塚校長に対して、落合第一尋常小学校に子どもを通わせていた親たちはどのような感慨をおぼえたのだろう? 学校へ「情実地獄」の攻勢をかけるには、カネ持ちや地域の有力者が有利なことはいうを待たず、ふつうの勤め人家庭の親たちにしてみれば、子どものためにしてやれることには限界がある。そんなふつうの親たちから見れば、「大塚校長よくぞ叫んでくれた!」と歓迎されそうだが、このボコボコ事件のわずか2ヶ月後に、大塚校長は落合第一尋常小学校から転出している。
 結局、文部省が「入試廃止」を決めたにもかかわらず、中学校では入学試験に代わり「筆記諮問」と「口頭試問」=表現を変えた入学試験がつづくという、ほとんど詐欺のような結果に終わった。同年の教育専門誌「教育」6月号(茗渓会)は、以下のように総括している。
  
 当局の弁護なるもの一ツに一大痛棒を呈したい。曰く「何といつても此度の一大収穫は小学校の準備教育を廃止したことである」と。成る程準備教育は一時止めた。併し是はペテンにかかつて止めたのだから今後益々盛になるとも決して衰へまい。ペテン、勿論当局者には毛頭此の如き考へのなきは充分知悉して居る。唯事実がペテンになつた丈である。
  
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 結局、小学校における受験の「準備教育」は行われなくなったが、以前にも増して「補習」という名の受験勉強が熱心に行われるようになる。中学校側も、入学試験は全廃したが「筆記諮問」「口頭試問」は実施する……、まさにコトバだけを操る口八丁のペテンだ。

◆写真上:前谷戸の谷間にプールが設置されている、落合第一小学校の校庭。
◆写真中上は、1929年(昭和4)5月24日に松下春雄Click!が旧・箱根土地本社Click!の前庭からモッコウバラ越しに撮影した、竣工直後の落合第一尋常小学校の講堂と西ウィングの校舎。は、1932年(昭和7)に市郎兵衛坂側から前谷戸越しに撮影された落合第一尋常小学校。は、1960年代に撮影された落合第一小学校の運動会(AI着色)。
◆写真中下は、1960年代の戦災をくぐり抜けさすがに老朽化が進んだ同校校舎。下左は、1929年(昭和4)に出版された『昭和年史/昭和三年』(年史刊行会)。下右は、1927年(昭和2)に出版された岡田怡川『学校から実社会へ我が児に何を為さしむべき乎』(章華社)。性格や思考を推し測る児童向け「知能テスト」のはしりで、落合第一尋常小学校の校長・大塚常太郎がモデル校として全面的に協力している。
◆写真下:落合第一小学校の、南側にある体育館()と北側にある校門()の現状。

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箱根土地主催の目白文化村写真コンクール。 [気になる下落合]

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 1924年(大正13)の11月、箱根土地Click!は写真月報社から発行されていた「写真月報」12月号の誌上で、下落合の目白文化村Click!に建つモダンな住宅街の雰囲気を感じさせる街角(住宅)写真の、「目白文化村懸賞写真募集」という写真コンクールを開催している。
 同誌に掲載された応募要項を、そのまま引用してみよう。
  
 目白文化村懸賞写真募集
 一、題材 市外下落合目白文化村にある住宅建築物
 一、応募印画 大さ及点数制限なし/但し必ず台紙に貼り。裏面に撮影日時。/
  題目。住所氏名を明記すること。応募印画は返却せず
 一、 締切 大正十三年十二月二十日
 一、 届先 市外下落合目白文化村箱根土地株式会社宛
 一、 審査 小西写真専門学校 結城林蔵氏/東京写真研究会主幹 秋山轍輔氏/
  『カメラ』主筆 高桑勝雄氏
 一、 褒賞 壱等 五拾円 壱名 弐等 参拾円 五名 参等 拾円 拾名
  選外佳作 若干名 商品贈呈/但し一人一賞とし、同一人にて二点以上入賞の際は最高
  賞一点を採る。褒賞は永く保存せられたき方には御希望により本社に於て調整すべし。
  審査発表 大正十三年十二月二十五日 目白文化村本社階上に印画陳列、審査発表。
  
 褒賞された作品について、「永く保存せられたき方」には箱根土地本社で相談に応じるとしているので、これらの入選作は箱根土地本社屋Click!の壁面に、パネルにして架けられていた可能性もありそうだ。ひょっとすると、これらの懸賞写真はいまでもどこかに眠っているのかもしれない。なぜなら、箱根土地は翌1925年(大正14)には国立(くにたち)Click!へ移転しており、下落合で戦災に遭うことはなかったからだ。国立は戦後まで本格的な住宅街が形成されず、ほとんど空襲を受けていない。
 なお、審査員のネームで小西写真専門学校の教授だった結城林蔵は、下落合1379番地の第一文化村で暮らした住民で、昭和期に入ると東京写真専門学校を創立している。また、東京美術学校Click!東京高等工業学校Click!の教授もつとめていた。第一文化村の神谷卓男邸Click!から、二間通りをはさんで西隣りに位置する敷地だ。
 さて、「目白文化村懸賞写真募集」に対して、12月20日の締め切り日までに300点をゆうに超える応募作品が集まっている。これらの作品には、もちろん目白文化村の住民たちもこぞって応募していただろうが、住民ではなく落合・目白地域に住むカメラが趣味の人たちや、市街地に住むアマチュアカメラマンたちも、下落合にやってきてはカメラのレンズを文化村の街角へ向けていたにちがいない。1924年(大正13)の11月末から暮れにかけ、目白文化村の道をカメラ片手にゾロゾロ歩く人々を見て、箱根土地の写真コンクールを知らない住民たちは、「いったいなにごと?」と訝しんだかもしれない。
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 コンクールの結果を、1925年(大正14)の「写真月報」2月号より引用してみよう。
  
 目白文化村懸賞写真審査
 箱根土地株式会社にては、目白文化村建築物の写真画懸賞を以て募集しつゝありしが、客歳十二月二十日の締切期日までに参百数十点の作品集まり結城林蔵、秋山轍輔、高桑勝雄三氏の審査にて左記の三十六及び佳作三十点を入選せしめた。
  
 以下、同誌に掲載された入賞作品リストを見てみよう。ただし、入選の写真自体は「写真月報」に掲載されておらず、いろいろな資料を漁ったが発見することができなかった。
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 なんだか、入選者の苗字を見ていると、文化村の住民がかなり多くまじっていそうだけれど、「静かな」とか「淋しい」「静日」などのタイトルから、大正期の目白文化村が市街地からはかなり離れた東京の郊外住宅地だった風情が感じられる。
 「画家の或る日」は、文化村を写生してまわる画家をとらえた写真だと思われるが、当時はイーゼルを立てモダンな西洋館群をモチーフに制作する画家の姿が、村内のあちこちで見られただろう。当時の下落合はモダン住宅で飼うペットブームClick!で、特にイヌClick!は人気が高かった。「主を待つ犬」は、目白文化村のどこかで勤めから帰る飼い主を待つイヌをとらえたものだろう。同コンクールの入選作が発表された1925年(大正14)、死んだ主人の帰りを渋谷駅頭で待つ“ハチ公”が評判になるのは、もう少しあとのことだ。
 3等の当選者には、作品「無題」を応募した伊藤文子という女性がいるが、下落合2108番地Click!に住んでいた吉屋信子Click!がイヌを連れて近所を散歩をするとき、いつもコンパクトな「ベストポケット・コダック」Click!を携帯していたように、大正末になるとカメラを手にする女性もそれほどめずらしくなくなっていく。
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 入選作のタイトルから、課題である「目白文化村にある住宅建築物」のとおり、大正末の西洋館を中心とした邸宅群がとらえられていると想像できるが、ぜひ入選作の画面を見てみたい。モノクロの画面しか残っていない笠原吉太郎Click!『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!以来、久しぶりに“指名手配”の下落合コンテンツだ。
 箱根土地は、目白文化村ばかりでなく新宿にあった遊園地「新宿園」Click!や、東大泉を開発した「大泉学園都市」Click!のテーマでも、同様に「写真懸賞募集」を行っている。このような手法が、SP施策として現地に人を集めやすいと考えたのだろうか。
 大泉学園のケースを、1924年(大正13)の「写真月報」12月号から引用しよう。
  
 大泉学園都市内写真懸賞募集
 箱根土地株式会社の経営する大泉学園内の写真を左記規定によつて募集してゐる。/大泉学園都市は学校を中心として大泉公園、電車、停車場、公園道路、娯楽場を新設して新住宅地を経営せんとする全面積五十萬坪、富士を眺め松林うちつゞく近郊最高の形勝地(ママ:景勝地)なる由にて目下その一部を分譲売出中である。/大泉都市に至るには、省電山手線池袋駅にて武蔵野電鉄(ママ)に乗換へ約二十分にて新設東大泉駅に着。東京駅より東大泉駅までは約一時間を要すといふ。(カッコ内引用者註)
  
 箱根土地が、いまだ学校の誘致をあきらめていないころの大泉学園都市分譲の様子だが、ここでは武蔵野鉄道のことを「武蔵野電鉄」と表現しているのが面白い。西武鉄道村山線のことを、地元でも地図制作会社でもマスコミでも「西武電鉄」と表現していたのと同じ感覚だろうか。また、「五十萬坪」と書かれているが、実際に敗戦時まで開発されたのはその半分弱ほどの面積だった。やはり市街地から遠かったせいか、戦後1947年(昭和22)に撮影された空中写真でさえ、開発済みのエリアでも空き地がかなり目立っている。
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 目白文化村でも大泉学園でも、また新宿園でも写真コンクールが催されているところをみると、東京商科大学Click!(現・一橋大学)の誘致に成功した国立(くにたち)でも、同様のコンクールが行われていたのではないか。国立は戦災をほとんど受けていないので、それらの応募作品がどこかに残されてやしないだろうか。もっとも、国立は戦後にならないと住宅街が形成されていないので、撮影のモチーフはかなり限られるような気がするけれど。

◆写真上:第一文化村にいまも残る、日本画家の旧・渡辺玉花アトリエ。
◆写真中上からへ、解体された井門邸(第一文化村)、神谷邸(同)、梶野邸(同)、安食邸(のち会津八一邸/同)、末高邸(同)、中村邸(同)、林邸(同)。
◆写真中下からへ、前谷戸の埋め立てと文化村倶楽部(左手のライト風建築/1923年)、第一文化村の二間道路で正面は神谷邸の門(1925年)、鈴木邸(第二文化村)、松下邸(同)、宮本邸(同)、先年解体された安東邸(同)、石橋邸(同)。
◆写真下からへ、吉田邸(第三文化村)、須藤邸(同)、箱根土地本社ビル、第一文化村から眺めた旧・箱根土地本社(中央生命保険倶楽部)と穂積邸、第二文化村の鈴木邸から見る第一文化村の渡辺邸(冒頭の渡辺玉花邸とは別)、いちばん下は1925年(大正14)発刊の「写真月報」2月号(写真月報社)に掲載された「目白文化村懸賞写真審査」結果。これら目白文化村写真の邸宅および街角風景は、すべて過去の拙記事でご紹介済みClick!だ。

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