大鍛冶(タタラ)集団による操業は千人規模? [気になる下落合]
目白崖線に残る、古代か中世かは不明だがタタラ遺跡Click!とみられる金糞=鐵液Click!が出土した3地域について、少し前の記事に書いた。また、神奈(鉄穴)流しを必要とせず、あらかじめ良質の砂鉄が堆積している天然の神奈(鉄穴)流し場について、香取神宮の金久保谷と目白駅Click!のある金久保沢Click!についてもつづけて記事にしている。
その際、各地を移動して目白(鋼)Click!を製錬した古代の大鍛冶(タタラ)集団は、100人単位の大所帯だったのではないかと書いた。そのヒントとなるような数字が、1885年(明治18)の出雲地方で記録されている。まず、大鍛冶(タタラ)を専業としていた小村の記録から見てみよう。島根県飯石郡吉田村吉田菅谷の菅谷タタラ集落では、戸数が34戸で158人の村人が生活していた。そのうち、労働人口は52人で、大鍛冶(タタラ)を専業とする職に携わっていた人は32名となっている。残り労働人口20名は山仕事や農作業などで、他の106人はその扶養家族あるいは仕事をもたず地域で扶養していた人々だ。
大鍛冶(タタラ)にかかわる32名(32戸)の内わけは、次の表のとおりだ。
この32名が、大鍛冶(タタラ)作業をするすべてではない。彼らは、その多くの役職が部門長格であり、その下に派遣職工(アルバイト職人)として村外から参加する、一時雇いのスタッフたちが周辺地域に数多く存在している。たとえば、足踏み鞴(ふいご)を24時間(×3日間)にわたって約2時間(1刻)交代で踏みつづけ、大鍛冶(タタラ)作業ではもっともきつい力仕事のひとつである、代番子(かわりばんこ)が含まれていない。彼らは、周辺の地域から集められた健脚自慢の人たちだったろう。
読者のみなさんはすでにお気づきかと思うが、なにかの行為を交代で担当することは「かわりばんこ」であり、「たたらを踏む」「ひょっとこ(火男)」Click!などと同様に現代に伝わるタタラ用語のひとつだ。また、菅谷タタラ場の山子は、単に山の樹林を伐採して炭焚(炭焼き)に引きわたすだけでなく、菅谷地域に定住している彼らは、伐採した跡地には数十年後に再び樹木を調達できるよう、積極的に植林作業も行っていたと思われる。
1885年(明治18)ごろ行われていた、政府から支給される大鍛冶(タタラ)の特別手当ては、村下の最高責任者が米9合/日、炭坂(副村下)の初心者が2合/日で、ベテランになればなるほど炭坂は米1合/日単位で増え、村下に近い特別な扶持米が与えられていた。これらは上席の特別な賞与だが、各職工の通常の日当(通常の生活費)は、村下・炭坂・炭焚・番子が1升2合/日、鋼造・内洗が1升/日などと決められていた。もちろん、これだけでは食べていくのがきついので、家族たちは神奈(鉄穴)流しが行われなくなった跡地などを利用して耕し、田畑で米や野菜などを栽培していたのだろう。鉄の需要が急増し、もっとも景気がよかった日露戦争(1904~1905年)のころは、扶持米に代わり賃金が支払われたようで、村下が10銭/日、炭坂が8銭/日という記録が残っている。
近世に入ると、わざわざ砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しでは、短期間で十分な砂鉄量が集まらないため、各地で営業する砂鉄採集の専門業者から大量に購入したり、周辺の山々の樹木を伐採して木炭を焼けば、すぐに森林が丸裸になってしまうので、製錬に必要な不足分の莫大な木炭を炭業者へ注文したり、タタラ炉を築造する鑪土(粘土)を集めるのは非常に手間と労力がかかるので、粘土の専門業者へ発注したり、山火事や火災などで燃えた焼木(やけぎ)を、生木よりも短時間で木炭化が可能なためどこからか調達したりと、大鍛冶(タタラ)集団自体の作業も非常に効率化・省力化され、大幅に分業化が進捗していたのがわかる。
これらをひとつの大鍛冶(タタラ)集団のみでまかなうとすれば、すぐにも100人単位の人数が必要なことは自明だろう。明治期には、ここまで生産性の向上による作業の省力化・分業化が進んでいたが、古代の大鍛冶(タタラ)が製錬事業を行うためには、厖大な職人や労働力が必要であり、その移動はちょっとした“民族の大移動”だったろう。
明治期の出雲に残った菅谷タタラ場では、不足する資材を専門業者から大量に仕入れ、それでも足りない人材を数多く臨時雇用していたが、その人数は各職で123人にもおよんだ。これに、菅谷タタラの専門職の責任者たち32人を加えると、近現代でさえ大鍛冶(タタラ)を行うのに合計155人のスタッフが必要だったことになる。明治期の、かなり効率化され省力化された大鍛冶(タタラ)作業でさえ、150人以上の人員が必要なことを考えると、古代の作業ではどれほど多くの人員を必要としたのかがおおよそ見えてくる。
彼ら大鍛冶(タタラ)の作業には、少なくとも200人を下ることはなかっただろう。この200人という数字は、あくまでも大鍛冶(タタラ)の仕事を直接手がける職人数であり、その家族たちを含めれば大規模な集団を想定することができる。上記の菅谷タタラ場をモデルとすれば、集落の人口158名のうち52名が労働人口であり、大鍛冶(タタラ)仕事を専業としているのが32名で他の職(林業など)が20名と記録されているから、単純な比率計算をすると大鍛冶の家族は97名、その他の家族は34名(=計158名)という見当になる。つまり、大鍛冶(タタラ)1人あたりの家族構成は、平均3.031名ということになる。
これを、古代の大鍛冶(タタラ)集団に当てはめるのはかなり乱暴な気もするが、父母に子どもひとりの3人家族としても、200人の大鍛冶(タタラ)職人の集団には400人以上の家族、つまり最低でも計600人余の集団の形成を想定することができる。複数の子どもや老人たちを想定すれば、各地を移動する集団はさらに大規模なものになっただろう。もちろん、当時の乳幼児死亡率は現代と比べものにならないし、老人の平均寿命も短かったにちがいないので、単純に5~6人家族を想定するわけにはいかないが。
さて、菅谷タタラ場にある村下家系の堀江家には1883年(明治16)に記録された、一度の大鍛冶(タタラ)作業で購入した資材などの物品(分業化が進み専門業者から購入)、およびその際に雇用した職人や人夫へ賃金を支払った支払台帳(「製鋼所壱代ニ付入用物件及代価」/雲南市教育委員会所蔵か?)が残っている。以下、その項目を一覧表化してみよう。
ここに記録されている砂鉄や木炭、鑪土(粘土)などの資材数値は、これがすべてではなく菅谷タタラ場周辺で採れたそれら地元の資材や人材に加え、これらの資材と人材を他所から調達している数値(入用物件及代価)だとみられる。
この中で、「村下」と書かれているのは、タタラの製錬炉を監督する他の地域から招いた村下、あるいはベテランの炭坂(村下助手)が含まれているとみられる。それだけ、作業規模が大きめな大鍛冶(タタラ)作業だったのではないだろうか。また、番子が18人ということは、1つの炉に3人ひと組で2時間おきの「代番子(かわりばんこ)」が通常だから、5~6つのタタラ炉を構築して同時にパラレルで操業した可能性が考えられる。
また、堀江家には大鍛冶(タタラ)事業における、年間の支出と収入を記録した収支決算書(1883年度)が伝わっている。以下、明治期の大鍛冶(タタラ)の営業成績を見てみよう。
これでは43.7%もの大赤字となり、まったく事業の採算がとれていなかったことがわかる。それでも、菅谷タタラ場がつぶれなかったのは、良質な銑鉄や鉧(けら)、目白(鋼)に対する兵器生産の需要が、当時は国家事業として重要視されていたからだ。菅谷タタラ場の大鍛冶(タタラ)操業は、1921年(大正10)までつづけられている。
明治期には、おもに海軍を中心に貫通力の高い徹甲弾の開発が進んでおり、鋼を弾頭に装着することで、敵艦の頑丈な装甲を貫通する砲弾の研究が行われていた。その徹甲弾に用いられる良質な鋼は「玉(弾)鋼」と呼ばれ、刀剣に使用する目白(鋼)とほぼ同質のものが使われていたという。明治以降、現代にいたるまで刀剣に用いられる良質な目白(鋼)のことを「玉鋼」と表現するのは、当時の呼称が慣例化したものだ。
良質な銑鉄や鉧、そして目白(鋼)を製錬する大鍛冶(タタラ)集団が、地域の有力者や政治勢力、各時代の武家幕府、あるいは近代国家などの政治権力に優遇されたのは、いつの時代でも変わらず同様だったろう。ちょうど、徳川幕府の庇護を受けた佃島Click!の漁民たちが、室町期の江戸城下(太田道灌)Click!のころから操業をつづける地元の漁民たちとの間で、少なからず対立Click!を生じたのと同様に、もともとその地域に住んでいた農耕民や林業民と大鍛冶(タタラ)集団との間には、数多くの深刻な軋轢や訴訟沙汰を生んでいたにちがいない。
目白崖線に沿った河川を遡上していく大鍛冶(タタラ)集団が600人以上、ときには1,000人規模の集団であったとすれば、地域で生活する村単位の農民たちだけでは、とても彼らに対抗できなかったにちがいない。ましてや、彼らが権力者から庇護される職能集団であれば、農民たちはどうすることもできず、彼らのすることを黙認せざるをえなかったのではないだろうか。また、タタラ集団が大規模であった場合、構成メンバーの全員が一度期に移動するのではなく、次のタタラ操業地に適した場所を捜索する探鉱グループ(山師)Click!や、樹木を伐採して炭を焼く山子・炭焚集団が“本隊”に先行するケースもあったかもしれない。
◆写真上:島根県飯石郡吉田村菅谷地域(現・雲南市吉田町)に残る菅谷タタラ場の集落。現在は「鉄の歴史博物館」Click!が開館し、往年の面影を伝えている。
◆写真下:『もののけ姫』(宮崎駿監督/1997年)に描かれた、室町期とみられる大鍛冶(タタラ)の移動集団。同作でも、明らかに出雲と思われるタタラ場が舞台として登場している。上から下へ、崖地での神奈(鉄穴)流し、炭焚(炭焼き)、そして丸型製錬炉によるタタラ操業。現代のタタラでは、丸型の炉ではなく角型の炉で砂鉄を製錬するのが一般的だ。
「もっとも景気がよかった日露戦争(1904~1905年)のころは.........」
この一年半、日露戦争の事を初めて知った米国人が
http://www.myjapanesehanga.com/home/artists/utagawa-kokunimasa-1874---1944-/russo-japanese-war-great-japan-re-1f2d8e1adec9ebb8.html
"Russo-Japanese War: Great Japan Red Cross Battlefield Hospital Treating Injured"
インターネットで、勉強したみたいです....ロシアのウクライナ侵攻開始時には、(サンフランシスコの)日本町に反露の客が押し掛けました...
by サンフランシスコ人 (2023-08-09 02:46)
サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
日本には、戦争から避難してきたウクライナの人たち(特に女性や子ども)がたくさんいますが、彼らは「反プーチン」のデモはするものの、日本に住む多くのロシア人たちと対峙しているようには見えません。日本にいるロシア人の多くは根っからの親日家であり、プーチンの独裁的政治体制を嫌悪して「脱出」している人たちも多く、中には反プーチンデモにウクライナ人とともに参加する、マスクにサングラス姿のロシア人たちも見られます。あくまでも、「反ロシア」ではなく「反プーチン政権」である点に、日本にいる両国人の近未来を見すえた冷静かつ沈着な眼差しを感じますね。
by ChinchikoPapa (2023-08-09 10:15)
>菅谷タタラ場の大鍛冶(タタラ)操業は、1921年(大正10)まで
もっと昔の物、と漠然と思っていましたが、大正時代まで操業していたのですね。
この記事を読みながら、工業と言うのは多くの労働力が必要になる、裾野の広い産業だと改めて思いました。
by アヨアン・イゴカー (2023-08-11 08:38)
アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
大正時代までのタタラ操業に、150人以上もの人員が必要だったのは、わたしも驚きでした。これに、分業化や省力化されなかった過程、すなわち山の地形改造を含む砂鉄の採集から、樹林の大量伐採、膨大な木炭の製造、それらの物資を運搬する機械化されていない準備段階をプラスすると、中世以前は多大な労働力をともなう作業だったでしょうね。
by ChinchikoPapa (2023-08-11 10:28)