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二二六事件の関連将校が下落合にもうひとり。 [気になる下落合]

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 二二六事件Click!を調べていて、もうひとり皇道派Click!ではないがその思想に共鳴する、下落合で生まれ育った将校がいたことに気づいた。事件当時は、陸軍参謀本部付きで陸軍大学校の教官だった、歩兵大尉の田中彌(わたる)だ。
 二二六事件については、これまで岡田啓介首相Click!が官邸を脱出し、下落合1丁目1146番地の佐々木久二邸Click!に潜伏していた様子や、蹶起した将校のひとりで陸軍豊橋教導学校歩兵学生隊付きの竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地にあった関係からときどき記事にしていた。だが、田中彌は生まれも育ちも下落合であり、この東京の慣例的な表現Click!でいえば“落合っ子”ということになる。
 田中彌は、1900年(明治33)に落合村下落合299番地で生まれている。当時の地勢にあてはめていえば、いまだ相馬孟胤邸Click!が存在していない御留山Click!の東側斜面に建っている、藤稲荷社Click!(東山稲荷)の南西山麓に位置する番地で、鎌倉街道の支道・雑司ヶ谷道Click!に面した家屋だ。ただし、父親の田中小三郎も陸軍軍人だったため、転勤によるものか一時的に長野へ赴任していたようで、田中彌は旧制上田中学校(現・上田高等学校)へ通っているが、その後ほどなく東京へともどり陸軍幼年学校へ入学している。
 1936年(昭和11)2月に起きた二二六事件の当時は、生家だった下落合299番地の住居表示は淀橋区下落合1丁目299番地となり、裁判記録(起訴状や判決文など)に記載された本籍地も同表記になるが、田中一家はすでに下落合から他所へ転居したあとで、田中彌は1936年(昭和11)現在、一家をかまえ陸軍大学校(北青山)への通勤の便を考えたものか、渋谷区代々木初台町540番地に自宅があった。
 生家は明治期の下落合なので、おそらく就学年齢になった田中彌は落合尋常高等小学校Click!へと通っているのだろう。1907年(明治40)で就学しているとすれば、『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)のグラビアに掲載されている、明治期の古い校舎に通っていたはずだ。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、すでに田中邸は見あたらず、下落合299番地には「殿井」「河西」「古川」の3つの名前が採取されているので、田中家はそれ以前の明治末か大正期に入って転居しているのだろう。1936年(昭和11)の二二六事件当時は、陸軍大学の教官を勤めており36歳の若さだった。
 1931年(昭和6)の三月事件と十月事件、1932年(昭和7)の五一五事件、1934年(昭和9)の陸軍士官学校事件、1935年(昭和10)の相沢事件、そして1936年(昭和11)の二二六事件Click!と、陸海軍の青年将校たちによるテロルやクーデター計画が立てつづけに起きる中で、田中彌は参謀本部を中心とした「桜会」のメンバーとして三月事件にも関係しているが、その姿がハッキリと事件の中心人物として表面に現われるのは、1931年(昭和6)の十月事件だ。田中彌は、同事件で具体的な行動計画案を立案している。その様子を、1964年(昭和39)に日本週報社から出版された前田治美『昭和叛乱史』から引用してみよう。
  
 行動計画案は、田中弥大尉が作成に当ったといわれる。/十月十二日の夜、行動計画案をねるために大森の料亭『松浅』に、橋本<欣五郎>中佐を中心に、長勇少佐、馬奈木敬信大尉、田中弥大尉、田中清大尉らが出席し、田中弥大尉の作成した行動計画案を中心に共同謀議が行なわれた。/その夜決定した行動計画は次のようなものであった。/一、決行の時期……十月二十一日(ただし、日中に決行するや払暁とい可きやは一に情況による)/二、参加兵力……将校百二十名、歩兵十個中隊、機関銃二個中隊(参加兵力中大川<周明>に私淑せる中隊長は一中隊全部を以て、また西田税に血盟せる将校は殆んど所属中隊全員を以てす)/三、外部よりの参加者……大川一派、西田および北<一輝>の一派、海軍将校の抜刀隊約十名、海軍爆撃機十三機、陸軍機三~四機。/四、襲撃目標/(1)首相官邸……閣議の席を急襲し首相以下を斬殺――長少佐を指揮官とす。/(2)警視庁の占領……小原大尉指揮。/(3)陸軍省、参謀本部の占拠包囲……外部との連絡を遮断。/(4)報道、通信機関の占拠。/五、軍政権樹立行動<以下略>(< >内引用者註)
  
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昭和初期陸軍系譜1975「昭和陸軍派閥抗争史」.jpg
 ところが、決行日が近づくにつれ計画のずさんさが目立ちはじめ、実行部隊からの脱落者が続出することになった。『松浅』での会合は、参謀本部側の主導者と在京の近衛師団Click!第一師団Click!、憲兵隊(憲兵学校Click!)などの青年将校たち、陸軍戸山学校Click!や砲工学校、歩兵学校の若手将校たちなどの初顔合わせに近く、ネゴシエーションが不十分だったのに加え、意見対立を抱えたままの行動計画案の提示だった。
 つづいて1931年(昭和6)10月15日の夜、渋谷の料亭『銀月』で開かれた参加将校たちの集会では、計画の不備や思想的な対立で激論となってしまい、陸軍皇道派や憲兵隊の将校たちは蹶起に不参加、脱退を表明するにまでなってしまった。確かに、上記の行動計画は既存の政体の破壊だけで、なんら建設的な展望や新しい国家建設の計画が含まれておらず、「否定」ばかりで「対案」が存在しない空想的な計画書だったからだ。
 また、参謀本部の「桜会」がカネをふんだんにつかい、連日連夜、若手将校たちを集めては高級料亭で派手に豪遊するのを不愉快に感じた将校たち(彼らは参謀本部の将校たちのことを“宴会派”と呼んで軽蔑した)は、反感や不信感とともに計画から離れていった。しかも、この料亭豪遊はすでに警視庁や憲兵隊に察知されており、当時の内相・安達謙蔵をはじめ陸軍省や参謀本部の中枢にも計画は漏れていた。10月17日には、計画の首謀者だった橋本欣五郎や田中彌などが憲兵隊に一斉検挙されている。
 だが、未遂に終わったとはいえ政党政治の破壊と、閣僚の殺害予定を含むクーデター計画への罪状としては、橋本欣五郎中佐が重謹慎20日、田中彌と長勇の両大尉が重謹慎10日という軽い処分で、参謀本部を中心とした「桜会」は解散を命じられたとはいえ、その勢力がいまだ根強かったことがうかがわれる。この事件のあと、首謀者たちは地方・海外勤務や「満洲」に転勤させられた。田中彌は、1932年(昭和7)からポーランドの日本大使館付きに、翌1933年(昭和8)にはソ連の大使館付き駐在武官補佐官となり、翌1934年(昭和9)12月には帰国して陸軍大学校の教官に就任している。
 そして、1936年(昭和11)2月に二二六事件が勃発すると、陸軍部内では統制派に所属していた田中彌だが、各方面に向けて赤坂郵便局から「帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進ス」と、蹶起をうながす檄文電報を発信している。ふつうに考えれば自明のことだが、逓信省の郵便局から平文(普通文)で電報を打ったりしたら、その内容からすぐに不審に思われるのはあたりまえだが、案のじょう電文を怪しんだ東京中央郵便局により、各地への発信は同局内で押さえられた。また、蹶起部隊と戒厳司令部との仲介を試み、蹶起部隊が有利になるよう工作も行っているが、二二六事件の終結後に検挙され同年8月に起訴されている。
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 だが、田中彌は軍法会議への起訴後、判決の日を迎えることなく1937年(昭和12)10月18日に自宅で拳銃自殺をしている。この自決について、田中彌が打電した先、あるいは背後で連携していた陸軍幹部や幕僚たちに累が及ぶのを避けるためとしている資料を見かけるが、それではまったく説明がつかない。赤坂郵便局から発信された電報は、東京中央郵便局で差し押さえられ憲兵隊が入手済みで、受信先の人物はとうに判明していただろうし、すでに憲兵隊による聴取は済み、8月の起訴後には軍法会議が開廷していたのであって(起訴状の内容も知っていただろう)、取り調べや法廷で証言する機会、つまり田中彌の口から連携していた人物たちの名が漏れる機会は、すでに終了していたのだ。
 田中彌は、起訴後に保釈されて自宅ですごしており、すなわち現代の司法でいう在宅起訴の状態にあり、他の事件への協力者ケースと同じく禁固3~5年ほどの刑期だったとみられ、ことさら重罰が下されるとは思えないこと、特に本人から精神的に追いつめられているような様子は見られなかったことなどから、自殺の原因は不明のままとなった。以下、1937年(昭和12)10月19日に開かれた軍法会議の、田中彌に対する判決文を引用してみよう。
  
 決定/本籍 東京市淀橋区下落合一丁目二百九十九番地/住所 東京市渋谷区代々木初台町五百四十番地/参謀本部附 陸軍歩兵大尉 田中 彌(後略)
 主文/本件公訴ハコレヲ棄却ス/理由/本件公訴ハ、被告人ガ、昭和十一年二月二十六日、東京ニ於ケル村中孝次、磯部浅一等反乱事件ニ際シ、反乱軍ノ企図セル維新断行ノ目的ヲ達成セシメンガタメ、同日、東京市赤坂郵便局ニ到リ、友人歩兵大尉中馬太多彦ソノ他数名ニ対シ、帝都ニ於ケル決行ヲ援ケ、昭和維新ニ邁進スル方針ナル旨ノ電報頼信紙ヲ提示シ、又前掲村中孝次ヨリ、蹶起将校等ハ歩兵第一聯隊ニ撤退スルヲ肯ゼザルニツキ、部隊ヲ内閣総理大臣官邸附近ニ終結セシメラルルヤウ、尽力セラレ度キ旨懇請セラレ、戒厳司令部ニ到リ、同人ノ希望ヲ伝達スル等、反乱者ニ軍事上ノ利益ヲ与ヘタリトイフニアレドモ、被告人ハ、昭和十一年十月十八日死亡シタルコト、被告人所属参謀本部ヨリノ通牒並ビニ死亡診断書ニヨリ明ラカナルヲ以テ、陸軍軍法会議法第三百九十九条第二号ニヨリ、控訴棄却ノ言渡ヲナスベキモノトス。(以下略)
  
田中彌.jpg 立野信之「叛乱」1952.jpg
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安田優.jpg 安田優デスマスク(長田平次)19360712日本の謎1964東潮社.jpg
 この判決文を見ても、田中彌への捜査および本人の供述は結了しており、軍人という立場や矜持から、法廷で裁判長・若松只一陸軍歩兵中佐からの罪状認否に、「まちがいありません!」と答えたであろうことも想定できる。あるいは、有罪判決を受けて陸軍を免官になるのが、本人にとっては絶望して自決するほどに、残念無念なことだったのだろうか?

◆写真上:明治期まで田中彌の実家があった、下落合299番地の現状。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の陸軍大学校卒業者名簿。中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合299番地で「田中」のネームはすでにない。中下は、1907年(明治40)撮影の落合尋常高等小学校の卒業写真。は、1975年(昭和55)出版の今西英造『昭和陸軍派閥抗争史』(伝統と現代社)の陸軍派閥系譜図。
◆写真中下は、1936年(昭和11)2月26日に撮影された蹶起部隊。は、1936年(昭和11)2月28日に“原隊復帰”する麻生三聯隊(上)と麻布一連隊(下)の兵士たち。は、下落合の佐々木久二邸から参内直後の岡田啓介首相。
◆写真下上左は、三月事件・十月事件と二二六事件に関与し自決した田中彌大尉。上右は、1952年(昭和27)に出版された立野信之Click!『叛乱』(六興出版社)。は、1937年(昭和12)10月19日に開廷した軍法会議における田中彌への判決全文。下左は、二二六事件に参加して処刑された安田優陸軍砲兵少尉。下右は、1936年(昭和11)7月12日に遺族とともに同行した彫刻家・長田平治が制作した安田優少尉のデスマスク。

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