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長崎ダットが原の快進社DAT自動車工場。 [気になるエトセトラ]

ダット自動車工場1.jpg
 今年(2024年)の夏、小川薫様Click!アルバムClick!から引用された写真類を中心に、日刊自動車新聞の中島公司編集委員による、ダット乗合自動車Click!の記事が連載された。それに刺激され、わたしももう少し東長崎駅の北口一帯に拡がる、地元の住民たちからは“ダットが原”と呼ばれていた長崎村西原3922番地(登記上は同番地だが、厳密には工場は3923番地で3922番地はダット自動車工場の社員寄宿舎の位置)の、快進社(Kwaishinsha Motor Car Company,Ltd.)によるダット自動車工場について書いてみたい。
 米国デトロイトで、ガソリンエンジンによる自動車産業の未来に気づき、農商務省の海外実業練習生として留学からもどった橋本増治郎は、さまざまな製造現場を転々としながら、快進社自動車工業の設立へ向けて事業を収斂させていく。その過程では、快進社の起ち上げ時に資金の提供や社屋・工場敷地の斡旋などで世話になる男爵・田健治郎をはじめ、親友となった青山禄郎、鉱業所の社長だった竹内明太郎などに出会っている。
 1911年(明治44)の時点で、出資額は田が2,000円、青山が2,500円、竹内が2,500円、そして橋本自身が4,700円の計11,700円となった。物価指数をめやすに単純に換算すると、いまの貨幣価値でいえば約5千万円ほどが集まったことになるが、当時の国民の所得水準を加味すると、現代ではおよそ1億円弱ぐらいの感覚だろうか。これを元手に、橋本は渋谷町麻布広尾88番地(現・渋谷区広尾5丁目)に快進社を設立している。当初、会社はオフィスというよりは設計・製造の研究所+町工場然としたものであり、いわゆるベンチャーのガレージ・メーカーに近い姿だったろう。
 それまでの日本社会は、鹿鳴館時代そのままに「舶来品が高級で一番」の感覚が染みついており、自動車は米国のフォードやGMが主流だった。そのような市場に向け、部品にいたるまですべてが国産で、4気筒・15馬力、時速33kmの独自設計による自動車の開発をめざしている。だが、開発は挫折に次ぐ挫折の連続で、1913年(大正2)にようやく完成した1号車は、エンジンがV型2気筒で10馬力にとどまった。同年に開催された「東京大正博覧会」には、出資してくれた田・青山・竹内の頭文字をとり、「DAT自動車」と命名して出品している。もちろん、DATは「脱兎」にもからめたネーミングだった。
 1916年(大正5)、橋本は当初の開発計画だった水冷4気筒で15馬力のエンジン、33km/時のスピードで走るダット41型の開発に成功する。同年、米国における自動車生産台数は160万台を超えていたが、それに対抗できる国産車が1台ようやく完成したにすぎなかった。ダット41型は、あくまでもガレージメーカーが手づくりで製造した1台の国産車にすぎず、大量生産への道は遠かった。しかも、当時の自動車でさえ必要部品は5,000点もあり、それら部品製造の品質向上も大きな課題だった。
 橋本増治郎は自動車だけでは食べていけず、この時期には竹内明太郎の依頼により石川県小松にあった小松鉄工所(のち小松製作所Click!)の所長も兼務している。その給与で、なんとか快進社の開発事業を継続しながら、1918年(大正7)に株式会社快進社を設立し、同時にダット41型の本格的な量産に向け工場敷地を探すことになった。
ダット1号車1913.jpg
ダット自動車工場1921.jpg
快進社事業案内カタログ1921.jpg
 その様子を、2017年(平成29)に三樹書房より出版の、下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』から引用してみよう。
  
 橋本は大正七(一九一八)年「株式会社快進社」を設立した。場所は現在の西武池袋線・東長崎駅北側の一帯六〇〇〇坪、東京府北豊島郡長崎村三九二二番地。武蔵野の面影を残しており、土地の人はこの一帯を「ダットが原」と呼んだ。資本金は六〇万円。株主は橋本増治郎、田篤、田艇吉(健治郎の兄)、青山禄郎、青山伊佐男、竹内明太郎。「小松製作所の幹部社員」白石多士郎、田中哲四郎、吉岡八二郎、松本俊吉、各務良幸、「早稲田大学教授」の山本忠興、中村康之助、岩井興助、「快進社の技師と工場長」の小林栄司と倉垣知也など、九一名の出資者が集まった。
  
 長崎村西原一帯の土地6,000坪を提供したのは、白石基礎工業の社長だった白石多士郎で、竹内明太郎の孫にあたる人物だ。白石の名前は、関東大震災Click!のあとの両国橋Click!蔵前橋Click!厩橋Click!駒形橋Click!などの復興・再建で、(城)下町Click!では有名だ。また、高田町字高田1417番地(現・豊島区高田2丁目)のオール電化の家Click!に住んだ、早大理工学部の教授・山本忠興Click!が出資しているのも興味深い。
 ダット自動車工場は、武蔵野鉄道の東長崎駅を北口で降りた西側一帯で、原は北西側を流れる旧・千川上水Click!までつづいている立地だった。工場の建坪は600坪あり、機械工場から仕上工場まであったが、当時はライン生産ではないため、1台1台が手づくり生産に近い工程だった。また、工場周辺の広い「ダットが原」を活用して、テスト走行をする試運転環路までが設置されている。ダット自動車の部品を、すべて国産製造でまかなうため、専門工作機械を20台以上も導入し、橋本は純国産自動車の製造にこだわった。
 1918年(大正7)に「軍用自動車補助法」が施行され、陸軍のおもにトラックを開発すると政府から製造補助金(1台あたり3,000円まで)が支給されることになった。これは、いつか海軍の「大型優秀船建造助成」Click!でも触れたが、この制度を利用すると大型の貨客船を建造する場合、海軍から少なからぬ補助金が支給された。だが、戦時になるとこれら大型貨客船は海軍に徴収され、空母などに改装されたヒモつきの助成金だった。軍用自動車補助法も同様で、戦時には陸軍が兵站の輸送にトラックを徴用するという条件が存在していた。
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 経営を軌道に乗せるため、快進社のダット自動車工場ではダット41型保護トラックを開発することになる。だが、陸軍にダット41型自動車をベースとしたトラックを持ちこむと、ボルトやナットが陸軍の制式と合わないため不合格になった。陸軍のナット・ボルトの制式は特殊なものだったため、快進社の橋本はさっそくこれに異議を唱えた。広く販売されている市販品のボルト・ナットが、自動車やトラックの修理に利用できなければ意味がないとし、陸軍に制式の変更を迫った。それから2年後の1920年(大正9)に、陸軍はようやく橋本の主張を認めトラックに使用されているボルト・ナットを制式に採用し、ダット41型保護トラックは軍用自動車補助法の検定に合格している。
 ちょうど同じころ、ダット41型保護トラックを改装したダット41型応用乗合自動車改装車も生産を開始した。大正後期から昭和初期にかけ、バスガール上原とし様Click!が勤務し目白通りを走るダット乗合自動車Click!の初期型車体は、このダット41型応用乗合自動車改装車Click!だったとみられる。また、2年後の1922年(大正11)に上野で開催された「平和記念東京博覧会」で、ダット41型自動車は東京府金牌を受賞している。このような華々しい業績にもかかわらず、快進社=ダット自動車工場の経営は困難の連続だった。工員の給与が足りなくなると、橋本は子どもたちの貯金まで借りて給料日に支払っている。
 その困窮する様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 ある時、退職工員が退職金の不満を訴えてきたという。橋本は「私の家庭に貴君の家以上に贅沢な衣類や調度品があったら、何品でも良いから自由に持ち帰ってくれ」と応答したので「私の思慮が浅うございました。成功してください」と涙ながらに帰ったという。/橋本家の生活信条は「簡素第一」で慎ましいものだった。とえ夫人は工場員の制服だけでなく、子供達の洋服やズック靴をシンガーミシンで縫い繕った。四男三女をもうけ、清貧そのものの生活の中にも、精神的な豊かさを感じさせる独自の生き方があった。
  
 夫妻とも長身で洋装が日常だったため、子どもたちが入学した大正期の長崎尋常小学校(現・長崎小学校)では、「外人の子」としていじめられている。
 1926年(大正15)、困窮する快進社に大阪の実用自動車との合併話が持ちこまれている。仲介したのは陸軍で、実用自動車もまた製品が売れずに経営危機にみまわれていた。同年9月に両社は合併し、社名をダット自動車製造に変更している。日本におけるフォードとGMのシェアが98%という、米国車の圧倒的な植民地的市場をにらみながらの再出発だった。
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 少し前、(城)下町の番町で生まれた貫井冨美子Click!について書いたが、彼女に「東京から来たって顔は絶対にしないで」と頼んだ夫Click!は、米国へ自動車設計を勉強しに留学し、帰国後は自動車工場に勤務している。その勤め先は、近くのダット自動車工場ではなかったろうか。彼の落合町葛ヶ谷132番地(西落合1丁目132番地)の自宅から、長崎村西原3922番地までは1,000m、徒歩10分ほどの距離だ。彼は早大理工学部を卒業しているが、快進社の出資者に同学部教授・山本忠興らの名前が見えるので、可能性が高いように思えるのだ。

◆写真上:長崎村西原3922番地に建設された、快進社・ダット自動車工場の記念写真。
◆写真中上は、麻布広尾88番地で1913年(大正2)に完成したダット1号車。は、1918年(大正7)に竣工した長崎のダット自動車工場。は、1921年(大正10)に作成された快進社事業案内カタログ。「Nagasaki-mura,Ochiai,Tokyo,Nippon」=日本(国)・東京(府)・落合・長崎村という、不可思議な住所が記載されている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみるダット自動車工場と社員寄宿舎。中上は、ダット41型自動車とダット41型保護トラックが写る大正期のダット自動車工場。中下は、同工場があった“ダットが原”の現状。は、陸軍の規定に合格する1922年(大正11)に同工場で撮影されたダット41型保護トラック。
◆写真下は、1922年(大正11)ごろ撮影のダット41型保護トラックを改造したダット41型応用乗合自動車改装車。は、1931年(昭和6)ごろに作成された「ダットソン号」カタログ。のちに「ソン」は「損」を連想させるとして、「ダットサン」に改名されている。下左は、2017年(平成29)に出版された下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』(三樹書房)。下右は、少し古いが1995年(平成7)に出版された『歴史を読みなおす24/自動車が走った・技術と日本人』(朝日新聞社)。

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酷暑だった夏の終わりの密室怪談。 [気になるエトセトラ]

密室オバケ.jpg
 下落合に日本民話の会の事務所があることは、以前の記事Click!でもご紹介しているが、同会が発行している紀要というか機関誌『聴く 語る 創る』は、日本で語り継がれてきた多種多様な民話や説話を収録・研究していて興味深い。
 1993年(平成5)5月に創刊号が刊行された同誌だが、最初に「トイレの花子さん」や「赤いはんてん」、「厠神(トイレの神様)」などの登場しているのがおもしろい。人がどうしてもひとりにならざるをえない密室の怪談として、ロシアのバーニャ(ロシア式サウナ風呂小屋)と日本のトイレに伝わる怪談の比較論を展開する、民俗学的なアプローチによる論文なのだが、その具体的な相違点や共通点を考察したものだ。
 ロシアのオバケが、「妖精」あるいは「妖怪」の部類に分類されそうなのに対し、日本のオバケは「厠神(トイレの神様)」を除いて「幽霊」「心霊」に近しい存在として語られている。たとえば、ロシアのバーニャに出現するオバケとしてバンニクあるいはバエンニクというのが存在するが、その多くが老人のような姿をして出現している。また、バーニャの中から声だけ聞こえるときは、男女を問わない会話のざわめきとして聞こえたりもする。おしなべて、「妖精」あるいは「妖怪」のイタズラとされているようだが、ときに人の生命を奪い生皮をはいだりする、残酷で怖い側面もあったりする。
 ロシアのバーニャ(サウナ小屋)は、家屋に付属する施設ではなく、自宅から離れた場所(川や湖の岸辺や森の中)に設置される丸太小屋だが、昔の日本の農家に多かった母家から離れた庭先のトイレの位置よりも、はるかに遠い場所に建てられていた。たとえば、代表的なバンニク怪談には次のようなものがある。同誌に掲載の、渡辺節子『<密室の怪>日本のトイレとロシアのバーニャー』から引用してみよう。
  
 これは私の女友達にあったことだよ。年寄りたちはあの娘に一人でバーニャへ洗いにいくもんじゃないよ、って言ってたの。それなのにあの娘ったら、うっかりしたんだか、バカにしてたのかしらね、一人でバーニャへなんか洗いにいって、それもいっとう最後によ。/入って、頭を洗ってて、水をとろうとかがんだら、なんと腰掛台の下に小さい爺さんが座ってるんだって! 頭が大きくて、ひげが緑色なの! あの娘の方を見ているものだから、きゃーってとび出したのよ!
  
 この怪談は、1976年(昭和51)にチタ州ネルチンスクで採取されたものだが、バンニクが姿を見せるのはめずらしいことらしい。若い娘が入ってきたので、つい現れてしまったのだろうか。通常の怪談だと、誰もいないはずの真っ暗なバーニャの中から会話や呼びかける声が聞こえたり、白樺などの枝葉で身体をパシャパシャたたく音が聞こえてきたりと、人に怪しい気配を感じさせて脅かすことが多いようだ。
 また、屋外にポツンと建つ人家からかなり離れたバーニャ(サウナ小屋)には、バンニクだけでなく森の精霊(レーシー)や悪魔などの魔物(妖怪)が入りこんで居すわりやすいといわれており、特に人間が活動する時間帯ではない夜間には、多くの地方でバーニャに入ってはならないと戒められている。また、そのいい伝えを無視して深夜にバーニャへ足を踏み入れたりすると、ひどい目に遭うとされている。
 これは、若者が肝試しに深夜のバーニャへ出かけバンニクに殺されたケースだ。
  
 「夜、バーニャに行って炉の煉瓦をとってきてみせる」っていうわけ。で、/「とってこれっこないさ」/「なんでさぁ?」/そういって夜、出かけていったんだよ。でもね、煉瓦に手を出したとたん、魔モノがとび出してきて、/「ここで何やってるんだ? なんだ!?」/「煉瓦をもってかなきゃいけないんだ」/バンニクがその人をしめ殺してしまったのさ。戻ってこないわけ。さんざっぱら待ってたんだよ。きてみたら、しめ殺されてころがってたんだよ。(1979年/ネルチンスク)
  
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 絞め殺すだけでなく、人間の生皮をはいで石の上に拡げて乾燥させる、地域によってはより恐怖度の高い残虐なバンニクもいたらしい。また、やはり人家から離れたオビン(穀物の乾燥小屋)に棲みつくオビンニクという精霊もいるが、こちらは妖怪や妖精というよりも怪獣に近い存在で、やはりバンニクと同じようなイタズラや悪さをするらしい。
 おもしろいのは日本のトイレと同じように、ロシアでも小屋の方位(方角)を気にしている点だろう。バーニャ(サウナ)の設置場所や方角が悪いと、家族にさまざまな障害(病気)が現れて不幸になるといい伝えられている。日本でも、トイレの位置を北東側(鬼門)あるいは南西側(裏鬼門)に設置すると、家庭内にさまざまな災厄をもたらすといわれてきたのと同じような伝承だ。また、妖怪や精霊の邪魔になるところに小屋を建てると「霊障」にみまわれるというのも、霊が通過する「霊道」をさえぎると霊が滞留してよくないという、日本の怪談ではよく登場するシチュエーションだ。
 さて、日本の代表的な密室であるトイレには「厠神」が宿るとされているが、その姿はバーニャのバンニクほど鮮明ではない。ありがちな怪異現象として、汲みとり式のトイレから手が出てきて尻を撫でたりするが、これは「厠神」ではなく河童やタヌキ、化け猫の仕業だったりする。毛深い手なので、妖怪的な“毛物”の仕業にされているようだが、この毛むくじゃらの手こそ「厠神」のものだとする出雲地方の伝承もある。
 だが、日本で語られるほとんどのトイレ怪談は人間の幽霊・心霊によってもたらされるものであり、そこが精霊・妖精のイメージが強いロシアのバンニクやオビンニクとの大きな差異だという。人間の霊による代表的なトイレ怪談ケースを、同論文から引用してみよう。
  
 「あかずの便所」 学校、寮、旅館等集団の生活の場に釘づけになったトイレが一つあり、その理由をきく。大体は自殺や事故がらみの死亡事件のあと、幽霊騒ぎがあり、そこを使わないように閉めきった、というもの。つまり「怪の正体」ははっきりしていて、ナニモノかではなくあくまでも人間、その霊作用であり、事件の現場がトイレであったためにそこにいついた地縛霊であって、他の幽霊話と同じ、といえる。
  
 このよくある幽霊話と、センサーと洗浄器付きの全自動水洗トイレになってからも、下から手や顔がでてくる妖怪譚とは、昔から語り継がれてきた日本の伝統的な怪談パターンだが、近年はそれらとは明らかに傾向が異なる3種類の怪談が語られているという。
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怪談発生場所(日本トイレ研究所)2020.jpg
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 そのひとつが、「上からのぞく」怪談だ。小学生が夜、忘れ物をとりに学校へいくと、暗い体育館や廊下でワゴン(または車椅子)を押す看護婦や老婆の幽霊に出遭う。霊から「見たな~」といわれ、トイレのいちばん奥の個室に飛びこんで鍵をかけると、幽霊がキリキリキリとワゴン(車椅子)の音をさせながらトイレに入ってくる。
 手前の個室からドアを開け、順番に「いな~い」といってはバタンとドアを閉め、徐々に奥の個室へと迫ってくる。ついに小学生が隠れたいちばん奥の個室の前までやっくるが、急にシーンと静かになって気配が消えてしまう。いつまでも物音がしないので、ようやく幽霊があきらめて消えてくれたかと思いフッと上を見ると、追いかけてきた霊が天井近くから、生気のない顔でジッと小学生を見下ろしていた……という結末だ。
 さらに、前世紀末から語られている残り2パターンの新怪談とは次のような展開だ。
  
 <トイレの>中に入っている時、「赤いハンテン着せましょうか」と声があり(手が下からなのにくらべ、大概は天井から)、応じるとナイフ等がとんできてささり、とびちった血で赤いハンテンを着たようになる。バリエーションは種々あるが、この「ナニモノ」かは今だ<ママ:未だ>かって姿を見せたことがない。(中略) <花子さん>だけは新たにトイレの中にいついた怪、といえるかもしれない。北海道から沖縄まで全国の小学校の女子トイレ、三番目あたりに住み、一定のルールにのっとった呼びかけに対し、返事をする。「遊びましょ」というと「何して遊ぶ」とかいう。姿をみせることもあって、六才とか、一三才とかの女の子、遊び方は「首しめごっこ」と首をしめてきたり「殺しあい」と幾分かは恐い。(中略) が、花子の話は絶対的に子供の世界、それも小学校までにしかない。(< >内引用者註)
  
 この「トイレの花子さん」は、20世紀末から今世紀にかけ活動範囲が大きく拡がっているという。彼女は、トイレで自殺した何年何組の子とかトイレで殺された子という、妖怪ではなく人間の幽霊・心霊としての位置づけがなされ、出現場所もトイレばかりでなく理科室や体育館、音楽室、はては校庭にまで出現するようになっている。
 ロシアのトイレは、昔から母なる大地の「外で用足しする」ことが多く密室にはならないため、代わりに丸太でこしらえたバーニャ(サウナ小屋)が密室怪談の温床となった。逆に日本では、江戸期から銭湯が利用されており風呂場は密室になりにくく、トイレがひとりになる空間として多くの怪談を育んできた。ロシアでは「人でないもの」=妖精・精霊の類だが、日本では多くの場合「人でないもの」=幽霊・心霊としてとらえられる傾向が顕著だ。だが、バーニャ=風呂場だから全裸、トイレ=用足しのため下半身裸と、怪異が出現してもすぐには逃げだせない(あるいは逃げ場のない)空間であるのが共通している。
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 戦後、日本では銭湯が廃れ、風呂付きの住宅があたりまえになると(密室化すると)、さっそく風呂場の怪談が登場している。自宅やホテル、旅館、合宿所と場所は多彩だが、いきなりシャワーの水音がして風呂に誰かがいる気配がしたり、風呂場のドアを開けてずぶ濡れの幽霊が這いでてきたりする。これは上記論文から離れた私見だが、「おひとりさま」が増えるにつれて部屋(室)レベルでなく、生活環境の全体までが密室化し、これから同じような怪談が数多く再生産されていくのではないだろうか。心霊マンション・アパートや幽霊ホテルはめずらしくなくなったが、トイレから解放されて行動範囲を拡げた「花子さん」のように、幽霊街とか心霊通りなどといったエリア単位の怪談が増えそうな気がするのだ。

◆写真上:トイレや風呂場からのぞくオバケは、こんなイメージが多いようだ。
◆写真中上は、ロシアの屋外に建てられるバーニャ(サウナ小屋)の内部。は、水木しげるによる「バンニク」。は、同じく乾燥小屋の「オビンニク」。
◆写真中下は、日本トイレ研究所Click!によるトイレ怪談の全国分布グラフ。関東地方は思いのほか少なめで、中部地方から近畿地方にかけてがかなり多いようだ。は、同研究所の統計からトイレ怪談の起きる場所として学校が大半なのがわかる。下左は、1993年(平成5)に日本民話の会から刊行された機関誌『聴く 語る 創る』5月創刊号。下右は、2015年(平成27)に出版された日本民話の会・編『学校の怪談』(ポプラ社)。
◆写真下は、水木しげるによる「トイレの花子さん」。は、「看護婦幽霊の便所オバケ(見たな~)」のフィギュア(TAKARATOMY)。は、夏になるとネットのあちらこちらで顔を見かける「♪赤いハンテン着せましょか~」で独特な節まわしの稲川淳二Click!

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ほんとうに古城のような外観の目白市場。 [気になるエトセトラ]

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 目白駅前に建っていた、戦前の目白市場の写真が見つからない。目白市場の紹介は、戦前の高田町や豊島区の資料類で頻繁に登場するのだが、その外観写真がなかなか発見できないでいる。東京府内でも5本の指に入るほど、デパート並みの大規模な公設市場Click!だった目白市場なので、必ずどこかに写真が残っているはずだ。
 以前、小熊秀雄Click!『目白駅附近』Click!に描かれた目白市場はご紹介していたが、おおざっぱなスケッチであり建物の詳細はわからなかった。だが、もうひとり目白市場を描いた画家がいる。拙サイトでは初登場の、帝展に出品していた矢島堅土だ。1932年(昭和7)の目白駅前を描いたスケッチ『目白駅』(1932年)で、川村学園の校舎の手前に、まるで中世ヨーロッパの古城を思わせる大きな建築物がとらえられている。(冒頭画面)
 また、手前に「荷物あずかり」の看板が見えている目白駅Click!の改札前には、モダンな装いの男女がいきかい、着物姿の人物がひとりもいない。左手には自動車の前部が見え、改札前の横(東側)にはダット乗合自動車Click!が乗客を待ちながら、発車時刻まで停車しているのが見えている。川村女学院Click!の独特な半円形デザインの大窓を備えた第二校舎と、目白市場との間には樹木が見えているが、同女学院の運動場が設置されていたスペースだ。けれども、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、目白市場と第二校舎の間はこれほど狭くはなく、画家の“望遠眼”による伸縮自在な構成だろう。
 目白市場の上には、同市場の焼却炉とみられる煙突が突きだしており、その左手(西側)の屋上には、東京府市場協会のロゴマークが入った協会旗が掲揚されているのだろう。正円の中に、TM(Tokyo Markets)のイニシャルを重ねてデザインした、誰もが憶えやすいロゴマークだった。当時、東京府による直接間接の公設市場は府内に34館あり、中にはデパートと直接競合するような大規模な市場も建設されている。
 1932年(昭和7)の時点で、もっとも敷地面積が広く建物の規模が大きかったのは、1918年(大正7)2月15日に開設された渋谷市場だ。建坪が326.62坪と広く、館内には30店舗が入居していた。東京府内の最大市場ということで、記念絵はがきなども制作されている。2番目は西巣鴨(池袋)の西巣鴨市場で、250.1坪の敷地に建ち17店舗が開店していた。3番目は青山の248坪の敷地に建っていた青山市場で、28店舗が営業していた。4番目が寺島(墨田区)にあった寺島市場で、207.27坪の敷地に10店舗が開店していた。
 そして5番目に大規模だったのが、1929年(昭和4)10月3日に開業した、建坪200坪の古城のような特異なデザインのビルに、23店舗が入居していた目白市場だ。しかも、1935年(昭和10)の時点で目白市場は、同年12月20に竣工した蒲田市場と並び、最新の設備を備えたもっとも新しい公設市場だった。当時の様子を、1935年(昭和10)に東京毎夕新聞社から刊行された、『大東京の現世』より引用してみよう。
  
 新市部(東京市区部)に於ては蒲田及目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店(デパート)式に設計せられたる市場である。(カッコ内引用者註)
  
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 目白市場は、開設と同時に女性販売員の募集をしたと思われ、その募集広告も残されている。府内にある34ヶ所の市場には、合計約500店舗もの小売店が入居していたが、東京府市場協会で一括して募集をかけていたようだ。ただし、協会直営で新しい目白市場と蒲田市場のみは協会が直接面接して採用し、残りの32市場は募集している店舗の責任者を紹介され、その面接を受けてから採用されていた。
 販売員の募集要項を見ると、小学校または女学校の卒業者で、16歳から19歳ぐらいまでと限定されているのは、デパートガールClick!と同じだ。協会直営の目白市場は身元保証人が必要で、勤務時間は午前9時から午後8時までとなっている。ただし、この勤務時間もデパートと同様で、早番と遅番のローテーションが組まれていたのだろう。面接のあと採用が決まると、1か月前後の見習い期間をへて本採用の販売員となった。
 日給は60~70銭で、現代の貨幣価値にすると382~445円ほどだろうか。時給のまちがいではと思われるかもしれないが、当時の生活必需品の物価や家賃は、現代とは異なり相対的にかなり廉価なため、早番か遅番で月26日勤務したとして15円60銭~18円20銭は、当時、女子の稼ぎとしてはまあまあだったろう。いまだ少数だった、大卒(学士)サラリーマン(男子)の初任給が50円の時代だった。ただし、勤務時間内の休み時間に弁当をとって食べると、日給から10銭が引かれたが弁当持参は自由だった。
 東京府市場協会による当時の募集要項の一部を、1936年(昭和11)に発行された東京女子就職指導会・編のパンフレット『東京女子就職案内』から引用してみよう。
  
 東京府市場協会の監督を受けてゐる日用品市場は全市に三十四ヶ所あり売店の数は約五百ヶ店となつてゐます。/其中(そのうち)目白市場と蒲田市場丈(だ)けは協会の直営でありますが其他は只監督丈けで店の販売員の如きも各其店の所有者が自由に売子を使つてゐると云ふ風でありますから目白と蒲田を除く外の市場で販売員を希望せらるゝ人々は各其市場内の店主と交渉して就職するのであります。(カッコ内引用者註)
  
 矢島堅土が、『目白駅』のスケッチを描いた当時、目白市場は竣工してから3年めであり、館内の店舗はすべて埋まっていたと思われる。また、目白市場のオープンとほぼ同時に開店した、川村女学院の割烹部を中心とした「女学生市場」Click!=女学生たちによる飲食&喫茶店が、周辺の男子たちを数多く集めて大繁盛していたころだろう。
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 また、昭和10年代に入ると、四谷区麹町12丁目16~17番地にあった東京府市場協会では、新聞や雑誌などへ積極的に媒体広告を打ちはじめている。これは、山手線のターミナル駅前に進出しはじめた競合相手のデパートを意識しているとみられるが、デパートの隆盛とともに集客率や売上がこの時期に低減していたのかもしれない。
 その大量広告による露出度アップの成果だろうか、新宿駅に近い淀橋市場Click!では事実、伊勢丹や三越新宿店をしのぐ売上を記録しており、地域の生活に根づいた安心の「公設百貨店」というイメージづくりが成功したかたちだ。東京府市場協会の広告はいずれも似かよったもので、「当協会ハ小売市場ヲ経営スル我ガ国唯一ノ公益法人ニシテ大東京市民ノ生活安定ニ資スルヲ以テ使命トス」というキャッチフレーズが添えられ、以下34ヶ所の市場名がズラリと並ぶレイアウトだった。
 さて、スケッチ『目白駅』を描いた矢島堅土の添えられたキャプションを、1932年(昭和7)に日本風景版画会から出版された、『大東京百景』より引用してみよう。
  
 ローブ、シヤポー、サツク、パラソールと新を競つたのが、ヌーベル・モード欄。/コーンビーフの缶詰と沢庵とを、ハトロン紙か何かにくるんだのが、家庭料理欄。/ヰオリン(ママ:ヴァヰオリン)のケースや、小型のスケツチ箱を下げたのが、趣味欄。/日に焼けた、逞しい二の腕をむき出したのや、ゴルフパンツのムシウ(ムッシュ)と腕を組んだのが、スポーツ欄。等、々、々。/やがて、大東京に抱擁される、現在の、郊外の文化住宅なるものに帰つて行つたり、新らしき女性インテリの製作所たる、(日本)女子大や川村女学院に通ふ、彼女氏等で、此処では如何なるシツクな男性も、てんで眼界には這入らない。/要するに、婦人雑誌を生地で行つたのが、此の目白駅のプラツトフオームである。(カッコ内引用者註)
  
 当時のカタカナ用語をふんだんにつかった、やや皮肉も混じる文章だが、昭和初期に見られた目白駅前の様子を写しておもしろい。「やがて、大東京に抱擁される」と書かれているので、同年10月に東京35区Click!制が施行される以前の文章で、矢島に限らず当時の人々が(城)下町Click!=東京15区に対して、目白駅を「郊外」Click!と認識していたのがわかる。
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小島善太郎「浅政醤油店前」1932.jpg
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 『大東京百景』には矢島堅土による『(雑司ヶ谷)鬼子母神』や、当時は荏原郡駒沢町555番地にアトリエがあった、独立美術協会Click!小島善太郎Click!も『哲学堂』『浅政醤油店前』『塔の側(宝仙寺)』のスケッチを描いている。それぞれのスケッチには、モチーフとその周辺について書いたキャプションが添えられているが、また機会があればご紹介したい。

◆写真上:1932年(昭和7)の『大東京百景』に描かれた、矢島堅土のスケッチ『目白駅』。
◆写真中上:同スケッチ『目白駅』の部分拡大。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる目白市場。は、1945年(昭和20)4月2日撮影の第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の空中写真にみる目白市場。目白市場は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼しているとみられる。は、1936年(昭和11)7月に制作された東京府市場協会の媒体広告。
◆写真下:3点とも1932年(昭和7)出版の『大東京百景』(日本風景版画会)のために描かれた、小島善太郎のスケッチで『哲学堂』()『浅政醤油店前』()『塔の側』()。

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状況の“先読み”ができなかったオレ。 [気になるエトセトラ]

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 学生時代に、約1年ほどバイトをしていたコーヒーショップのカウンター業務Click!で、わたしは貴重な体験をしている。それは、次に発生する仕事の手順や方法を予測して先どりすることで、作業の手間ヒマが大きく異なるということだった。それは、コーヒーClick!(サイフォン方式)を淹れるときも料理をつくるときも同様で、仕事の導線(動線)や道具・食材の収納・配置における工夫なども含め、“先読み”をすることで業務にかかるリードタイムを短縮したり、料理にかかる手間を省力化したりすることができた。
 わたしがバイトをしていたコーヒーショップは、4人がけのボックス席が10組あり、カウンターを含め混雑すると最大50人前後が入れる規模だった。ただし、すべてのイスが埋まることはほぼなかったので、満員でも30~40人ほどだったろう。平日のランチタイムや休日などは満席に近い状態となり、てんてこまいの忙しさになったので、仕事の“先読み”による省力化・短縮化・効率化は、お客にオーダーが「遅いぞ!」といわれないためにも、常に考えなければならない切実な課題だった。
 カウンターの言葉数の少ない前任者は、新たに開店する支店へ転勤するとかで、カウンター業務の右も左もわからないわたしに、基本的な仕事の流れを教えてくれただけで、わずか2週間の引き継ぎ期間を終えるとどこかへいってしまった。仕事の動きをよく観察して、見よう見まねで憶えろ……ということだったのだろう。だから、あとは自分で考えながら憶えて工夫を重ねるしかなく、たとえばAというオーダーにはどのような手順を組み立てたら最速でお客に提供できるか、Bというオーダーにはカウンター内でどのように動けば最短のリードタイムで対応できるか、あるいはAとCという組み合わせのオーダーには、空いた隙間時間に下ごしらえをどの程度までやっておけば即座に対応できるか……というような、作業の“先読み”=予測をベースとした柔軟な創意工夫が求められた。
 もちろん、当時は端末もデータもない時代なので、今日のデータドリブンによる次のアクション予測などありえず、すべてが経験値を積み重ねたカンとノウハウが頼りな人的依存の業務だった。土日のオーダーにはAとBが多いので、前日の発注は素材を多めにとか、このところ暑い平日のランチはCかD+アイスコーヒーが圧倒的なので、ロースト系の豆を多めに仕入れよう……とかを、わたしが遅番の場合は自分で発注するが、早番の場合は遅番のカウンター担当に発注を引き継いでから学校へ出かけていた。
 つまり、カウンター内の業務プロセスにしろ、売上に直結する受発注の基本的な経営判断にしろ、単なるアルバイトにもかかわらず作業の“先読み”と需給の予測が常に問われていたわけで、それが的中すると嬉しかったが、外れるとゲームに負けたかのように悔しくガッカリしたものだ。あまり外れつづけていると、当然のことだが古くなったコーヒー豆やムダになった野菜などの食材を廃棄しなければならず、ときどき現れるショップのオーナー(6~7店舗を経営していたようだ)からは、ひとこと注意されることになる。
 けれども、「ビジネスの重要なテーマはバイトで学んだ」ではないが、当時のコーヒーショップClick!のカウンターという業務には、あらゆるビジネスの重要なファクターがまんべんなく含まれていたんだと、あとになってから思い当たることになる。中でも、常に次のことを考えて行動する、作業する、備えるという作業の“先読み”と受発注の予測が、飲食店というオーダーがあってから短時間で商品を提供し、コーヒーの淹れ方や料理にできるだけ上達して工夫をほどこし、「美味しい」付加価値を生みつつ他店との差別化を図り、仕入れは新鮮野菜をはじめ生モノが多いので常に最小在庫で、不足しそうなぶんは店内在庫を意識しつつ時間を見はからいながら、ジャストインタイムで調達できるよう発注するという、調達-製造-ロジスティクス-販売-経営判断(BI)的な側面など、大げさにいえば“ものづくり”ビジネス全般に共通する、ベーシックなメソッドやフローを学ばせてもらった。
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 つまり、今日ではERPやSCMで管理されているデータ流や、モノが動くロジスティクス(物流/在庫管理)まで、当時はすべてが属人化によるアナログだったが、コーヒーショップ店内には一連の業務プロセスが完結して存在したということだ。現代のチェーン形式のカフェでは、おそらく人がほとんど介在せず、“本部”からのデータ流とロジスティクスが存在し、カウンター業務は純粋にマニュアルどおりの定型作業に徹するだけなのだろう。需給が、現場の状況に合わない場合(天候や近場のイベント、観光客の多寡など)は、店舗のマネージャーが個別のデータ操作で対応し、カウンターは関与しない業務になっており、大規模なカフェチェーンでは人的依存を最小化し、それさえ繊細な予測データとして組みこまれ、AI・機械学習なども援用しながら運営されているにちがいない。
 いい勉強をさせてもらったアナログ時代のコーヒー店バイトだが、作業の“先読み”についてひとつ気がついたことがある。それは、いろいろな調理作業(オーダー処理)をするうえで、そのフローや手順の“先読み”ができる人と、できない人がいるということだ。ショップが混雑する期間や、夏休み・冬休みなど人出が多い時期に合わせ、カウンター業務では期間限定でアルバイトを雇うことがあった。(わたしもバイトなのだが。w) また、他店の早番・遅番のカウンターに欠員ができそうになると、急いで新たに長期バイトを募集して業務を憶えてもらう必要が生じた。そんなとき、助手や見習いとしてわたしのいるバイト店にも、雇用したスタッフたちが派遣されてくる。この人たちの中に、業務手順や作業導線(動線)の気づきや“先読み”ができる人と、できない人がいたのだ。
 別に“先読み”の可否には、学歴や職歴はいっさい関係ない。カウンターで作業をしている、わたしの次に動く先々へいつも立ちはだかる(仕事の邪魔をする)有名大学の学生もいれば、次に欲しい道具や食材をいつも先まわりして用意してくれる、高校を中退した暴走族あがりのようなお兄ちゃんもいた。つまり、相手のことをよく観察して作業手順を理解し、次に相手がなにをするか、なにをしたいのかを“先読み”して、自身の行動を選択・決定できる人と、いちいち口でいわなければわからない人とがいるのだ。換言すれば、アタマが柔軟で即時的に対応できる人とそうでない人、観察力の優れている人とそうでない人、即興で創造的な対応ができる人とできない人……ということになるだろうか。
 これは、学歴が高いからできることではなく、また学歴が低いからできないことでもない。実は、アタマの回転の「速さ」や「柔軟さ」というのは、学校における記憶力中心のテストや成績にはあまり比例せず、こういうところで如実に表面化してくるのではないかと感じた経験だった。これは、別にコーヒーショップのカウンター業務に限らず、さまざまな分野の業種職種における職員や職人の世界でもまったく同様なのではないだろうか。その能力は、幼いころからの家庭教育や家庭環境に由来するものなのか、あるいはもって生まれた性格からなのか、後天的に自分で努力して獲得した鋭敏な能力なのかは不明だが、バイト先での非常に印象的な体験だったので、いつまでも忘れずに憶えている情景だ。
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 さて、わたしは学生時代から、そんな仕事や生活における“先読み”のたいせつさについて学んできたはずなのに、この歳になってうかつにも大失敗をやらかしてしまった。わたしの予想や計画、思惑がことごとく外れ、180度の“先読み”まちがいをしてしまった。まわりの社会的状況をよく観察せず、周囲の環境や背景を十分に把握せずに、甘い認識のまま時代を大きく見誤っていたことに改めて気がついたのだ。
 実は、もう一般の企業や組織では定年時期もすぎてるし、昨年(2023年)の12月31日づけで仕事を廃業して、“隠居”生活に入る予定・計画を以前から立てていた。既存の仕事も、8年先か10年先かはわからないが、AIやAI絡みのRPA(S/Wロボット)、量子アニーリングなどに取って替わられるのは時間の問題だし、そろそろ年齢とともに引きどきだと考えていたのだ。従来より継続している、PaaS上のシステム案件は定期的なマネジメントのみを残し、ほかの仕事からはすべて引退しようと思い、クライアント各社にもそう宣言したのが昨年の10月中旬のことだった。翌11月に入り、新規に発生する案件(仕事)がピタリと止まったので、クライアントのみなさんが了解してくれたものとばかり考えていた。
 これで、ようやく日々の仕事に束縛される時間が減り、休日や祝日ばかりでなく、落合地域や江戸東京の以前から気になっている各種テーマについて、平日も含めたっぷりと十分な時間をかけて、従来とは比較にならないほど柔軟な取材や調べものができるし、特に興味のあるテーマについては好きなだけ深掘りできると楽しみにしていた。廃業宣言から1ヶ月、以前から継続している案件とシステムの定例的な運用管理のほか、新たな仕事は発生せず、各クライアントも了解してくれたとホッとしていた。
 ところが、12月に入るとわたしの「廃業・引退宣言」など、まるで聞こえなかったかのように仕事が続々と入りはじめ、最初は「ウソだろ?」と思っていたのが、正月をすぎて春・夏を迎えてみれば、以前とまったく変わらない“日常業務”に忙殺される笑えない自分がいた。わたしの「宣言」は、いつのまにか「なかったこと」にされ、結局、拙ブログでの記事や表現は深掘りして取り組めない、文字校正Click!さえかなり不十分なままの、いままでどおり空いた時間を見つけての片手間で浅い「取材・調査記事」のままになっている。それほど、世の中は人手不足が深刻であり、こんな拙いわたしでさえ辞めさせてくれない状況を迎えていたのも見抜けず、まったく生活設計の“先読み”ちがい=空振りをしてしまった。このまま死ぬまで、“戦場”を離脱できないのだろうか?
 たとえば、以前の下練馬記事Click!では日を改めて、古い農家を訪ね(あちこちに大農家らしい住宅を見かけた)房州石や埴輪の欠片を所有してないかどうかを確認したいし、下落合の小名「摺鉢山」Click!の後円部とみられる場所で住宅が解体され、掘り返された赤土の土砂の中に素焼きの埴輪片のようなものを多数見かけたので、土地の所有者や工事業者に当たって確かめたいし、上落合の八幡公園Click!が設置される際に房州石や埴輪片が出土していないかどうか、どこかに眠っている1960年代の古い工事記録を探ってもみたいのだが、そのような深掘り時間が現状では到底とれそうもない。田畑の畔や畝へ、出土した土器片や埴輪片が邪魔なので鋤きこんだ話が、あちこちに伝わる落合地域なのだ。
 また、久しぶりに最新のミラーレス一眼でも手にし、いつもはコンデジやスマホの拙い写真ばかり掲載してきたのを少しこだわりたかったし、落合地域の記事と連動した動画を撮影してじっくり編集にも取り組みたかったのに、そんな時間も余裕すらも相変わらずない。夢に描いていた理想の隠居生活など、どこかへ吹っ飛んでしまった。
 最近のICTテーマで、プロセスマイニングという手法が注目されブームになりかかっている。業務フローをデータドリブンで分析して可視化し、その非効率的なプロセスや業務コスト(人手と時間)がかかる部分を検討して改善サイクルを廻し、AIや量子コンピューティングなども援用しつつプロセスの整流化と、ヒューマンエラーの最小化で生産性を高めようとする考え方だ。労働人口の減少や人材不足が進む今日、より注目を集めそうな仕組みづくりだ。現在はERPのIFS(スウェーデン)やSAP(ドイツ)とからめCelonis社(ドイツ)がシェアNo.1で、事実上の世界標準だろう。
 この業務の変革手法を、拙記事の取材や調べもののリードタイム短縮や効率化、エラーの低減に応用できないかどうか、そして短時間で効率よく文章化できないかどうか、マジメ半分ジョーダン半分で考えている。取材の遠まわりや調べもののムダを、できるだけ回避したいという想いがますます強くなっている。そうでもしないと、従来の拙記事のレベルからより精確で深耕した内容への質的向上は、日常業務を抱えていては望めそうにないからだ。
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 そのようなプラットフォームを形成するには、データ基盤を周到に整理=可視化して、短いリードタイムで検索・参照ができるよう、常にBI環境のような基盤整備が必要だ。また、取材や調査の流れを、習慣化した手順やカンに頼った曖昧な作業フローを排除し、ムダで非効率と思われるプロセスを省いた各種フローパターンを抽出し、いくつかケース別にモデルフローとして可視化・規定する作業が不可欠になる。けれども、そんなことをやってる時間は、いったいどこにあるのだろう? 寄る年波とともに、面倒なことは「まっ、いっか~」で済ますことが多い、きょうこのごろのオレがいる。
 こういう心がささくれ立って、なにをする気も起きないときは、フォーレ『パヴァーヌ Op.50』でも聴いて早寝に限る。うんと懐かしいバレンボイム=パリo.か、先日亡くなったばかりの小澤=ボストンso.か、JAZZのヒューバート・ロウズ(fl)にしようか……、やっぱり、わたしにはネコジャケの後者Click!のほうが、いまの気持ちにフィットしそうだ。

◆写真上:目白にある、いつもJAZZが流れている喫茶店Click!のカウンターにて。
◆写真中上は、早朝に出勤する早番がまずやることは、モーニングセットやタマゴサンドに使う50個ほどの鶏卵を茹でることだった。このあと、客足を見ながら10個ずつ茹で卵を追加していく。は、とどいている大量の野菜類を洗浄して皮のある野菜はすべてむいておく。卵や野菜が不足しそうな場合はリアルタイムで発注する。
◆写真中下は、次に10斤ほどとどいている温かい食パンをトースト用とサンドイッチ用にスライス。すべてスライスすると乾いてしまうので、朝は2斤ほどからスタート。は、トーストやサンドなどの調理中にどのタイミングでサイフォンに点火すれば、コーヒーClick!と料理とを同時に提供できるのかも経験とカンがものをいう。そのタイミングは料理の種類ごと、あるいはオーダーの人数・分量でそれぞれ異なっている。もちろんコーヒー豆Click!はオーダーが入ってから挽き、豆が残り少なくなるごとに発注していた。
◆写真下は、マッキントッシュClick!C29+MC7300によるスタンダードな“コンビ顔”に魅かれて立ち寄ってしまう目白の喫茶店。は、Celonis Process Miningの業務プロセス可視化画面。アクションフローを検討して、遠まわりな作業を改善・効率化できるかも。
おまけ1
 かつて、下落合の小名で「摺鉢山」と呼ばれたエリアの中心部で住宅が解体され、掘り返された土砂の中に大量の素焼きとみられる破片の含有が確認できた。これらが土器片か埴輪片かは不明だが、調査・確認してみたいテーマのひとつなのだが……。特に、裏側が朱に近い色あいをした欠片は、墳丘に並べられた形象埴輪の特徴で破片の一部かもしれない。
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おまけ2
 コーヒーショップといえば、自宅近くの店に毎日通っていたらしいコーヒー好きなこの人を思いだす。亡くなる2年前の1986年(昭和61)に、福音館書店の「こどものくに」シリーズで出版された『ぼくのおじいちゃんのかお①』(天野祐吉+沼田早苗)の大好きな加藤嘉。
ぼくのおじいちゃん表.jpg ぼくのおじいちゃん裏.jpg
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おまけ3
 隠居したら、これも時間をかけてやってみたかったお遊び。ここで暮らした人々の存在感をよりリアルに表現したいため、AIエンジンを使って下落合を自在に歩かせてみたかった。「ニヤニヤ佐伯祐三」のポートレートと、風景に眼をこらす「モチーフ探しの金山平三」。清水多嘉示がパリから送った“タピ”らしい布を背景に、アトリエで「絶対安静の中村彝」。(画像の下にある「こちら」のリンク先へアクセスすると、大きな画面で表示される)

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板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。 [気になるエトセトラ]

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 先日、千葉市美術館で開かれていた「板倉鼎・須美子・パリに生きたふたりの画家」展Click!を観にでかけたが、板倉鼎の連れ合いである板倉/昇須美子(いたくら/のぼりすみこ)の面白さに惹かれてしまった。アカデミズムにまったく縛られず、すべて無視した構図や表現に思わず見とれてしまったのだ。夫婦ふたり展だったので夫の表現に比べると、ことさらその自由度や柔軟性の高さが際立っている。もう、絵を描くのが楽しくて面白くてしかたがないという感覚が、画面のそこかしこから溢れでていた。
 須美子の作品の中でも、特に目を惹いた画面があった。1926年(大正15)2月から6月まで、ハワイのホノルルに滞在していたときの情景をモチーフに制作した『ベル・ホノルル』シリーズだが、その中に『ベル・ホノルル23』(1928年)と題して、海岸に生えたヤシの樹間をゆったり散歩する人たちを描いた作品がある。画面を仔細に観察すると、彼女はユーモラスな性格というかかなり“変”で、ヤシの樹の陰に入りこんだ人物の半身や、画面の外(右側)へ歩いていき画角から外れようとしている人物の半身像などを描いている。つまり、風景の中に描かれている人々の姿の多くが、みんな中途半端で半身なのだ。樹の陰などで、前に歩く踏み足の見えない人物が、画面に5人も登場しており、おまけに黒いイヌの後足もヤシの陰に隠れて見えない。
 このイヌを連れた、薄いブルーのワンピース姿の女性が顕著な例で、左へ歩いていく女性の顔を含めた前半分がヤシの陰になって見えず、イヌは樹のさらに左側から姿を現わしている。同様に、画面右手の枠外へ歩み去ろうとしている、白いコットンスーツにストライプのシャツ姿をしたラフな男は、画家に視線を送りつつ身体の左半分しか描かれていない。当時の画家だったら、こんな構図や表現はまったくありえないだろうという、画面の“お約束”をまったく無視した「タブー」で非常識だらけの仕上がりなのだ。
 そして、中でももっとも目を惹かれたのは、ホノルル沖に停泊している濃い灰色をした巨大な船だ。この軍艦とみられる艦影は、手前に描かれたヨットのサイズと比較すると、ゆうに200mを超えそうな大きさをしている。しかも、この軍艦も樹影で断ち切られており、異様に長い艦尾が手前のヤシの右側から、ちょこんと顔を見せているようなありさまだ。戦前に生まれた方、あるいは艦船マニア(プラモマニア含む)なら、2本の煙突のうち前方の煙突が独特な形状で後方に屈曲しているのを見たら、絵が制作された1928年(昭和3)現在、想定できる軍艦は世界で2隻しか存在していないことに気づかれるだろう。
 軍縮時代の前、八八艦隊構想をもとに建造され「世界七大戦艦」と呼ばれた日本海軍の長門型戦艦の1番艦と2番艦、戦艦「長門」Click!「陸奥」Click!だ。排煙が前檣楼(艦橋)に流れこんでしまうため、第1煙突が屈曲型に改装されたのは第1次改装時で、「陸奥」が1925年(大正14)、「長門」が1926年(大正15)のことだ。以降、1934年(昭和9)の大規模な第2次改装までの約10年間、両艦は屈曲煙突の独特で印象的な艦影をしていた。
 でも、長門型戦艦にしては前檣楼(艦橋)が低すぎて、当時は平賀譲の設計で建艦技術が世界的に注目された軽巡洋艦「夕張」か、あるいはより排水量が大きな古鷹型重巡洋艦のような姿をしている。また、マスト下の後楼も存在しないように見えるし、そもそも40センチ2連装の砲塔4基がどこへいったのかまったく見えない。だが、須美子のデフォルメは大胆かつ“常識”にとらわれないのだ。これほどのサイズの艦船で、屈曲煙突を備えた軍艦は彼女が生きていた当時、戦艦「長門」「陸奥」の2隻以外には考えられない。
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 では、両艦のうちのいずれかが大正末、米太平洋艦隊の本拠地で真珠湾Click!もあるオアフ島のホノルル沖へ親善訪問をしており、須美子はそれを目にしているのだろうか? だが、両艦の艦歴を調べてみても、そんな事実は見あたらないし、そもそも当時は海軍の主力艦で最高機密に属する戦艦(特に「長門」は連合艦隊旗艦だった)が、お気軽に親善航海して海外の人々の目に艦影をさらすとも思えない。しかも、『ベル・ホノルル23』が描かれたのは1928年(昭和3)のパリであり、板倉鼎は落選したが、須美子の『ベル・ホノルル』シリーズのうち2点が、サロン・ドートンヌに入選している。
 『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦の謎を解くカギは、この1928年(昭和3)という年紀にありそうだ。前年の1927年(昭和2)は、大正天皇の葬儀が新宿御苑Click!を中心に行われ、摂政だった昭和天皇が即位した年だった。そして、同年10月30日には海軍特別大演習の実施と同時に、昭和天皇による初の観艦式が横浜沖で開催されている。その際、「御召艦」(天皇が乗る軍艦)の役をつとめたのが、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」ではなく、姉妹艦の戦艦「陸奥」だった。観艦式の様子は、日本で発行されている新聞の1面で報道され、天皇が乗る「御召艦」の写真も掲載されている。
 余談だが、わたしの母方の祖父Click!は、このとき横浜沖の観艦式に出かけており、同式典で販売されていた軍艦のブロマイドを購入している。わたしが祖父宅へ遊びにいったとき、その写真を見せてくれたのだが、祖父が購入したのは「御召艦」だった戦艦「陸奥」ではなく、同様に第1煙突が奇妙に屈曲した戦艦「長門」のほうだった。
 当時、日本の新聞がパリへ配送されるのに、どれほどの時間が必要だったかは不明だが、須美子は掲載された写真を見ているのではないか。当時は船便なので、日本の新聞は数週間遅れ(ヘタをすると1ヶ月遅れ)で、パリの日本人コミュニティまでとどいていたと思われるのだが、彼女はその1面に掲載された独特な艦影の戦艦「陸奥」がことさら印象に残り、のちに『ベル・ホノルル23』に描き加えているのではないだろうか。彼女が日本海軍の“軍艦ヲタク”でないかぎり、そう考えるのが自然のように思える。
 須美子は、いつものようにベル(美しい)ホノルル風景を描いていた。海岸にヤシの樹々が並び、その樹間には海辺の散策を楽しむ人々が、面白い配置やポーズで次々と加えられていく。奥に描かれるハワイの海には、いつも夫と同様に白い三角帆のヨットやディンギーばかりを描いてきたが、「そうだわ、たまにはちがう船でも描いてみましょ!」と、以前に新聞で見た横浜沖の観艦式における戦艦「陸奥」の姿をイメージし、彼女にはめずらしく灰色の絵の具で写真を思いだしながら、その姿を再現してみた。
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 でも、彼女は軍艦のことなどよく知らないし、艦影もぼんやりとウロ憶えなので、戦艦の前檣楼をかなり低く描いてしまい、4基の砲塔はそもそもハッキリと記憶にとどめてはおらず、面白いと感じた煙突の鮮明なフォルムばかりが目立ってしまった。軍艦の中央構造部と全長を描いてみて、「こんな、寸詰まりのカタチじゃなかったかも。もっと長くて大きかったはずなのよ」と、右手の海岸に描いたヤシの端から艦尾をちょっとだけのぞかせることにした……。制作時の、そんな情景が想い浮かんでしまう『ベル・ホノルル23』の画面なのだ。ちなみに、同作を制作中の彼女の写真も残されている。
 ほかにも須美子の画面は、東京美術学校の教授や従来の画家たちが観たら、眼を吊りあげていきり立ちそうな、突っこみどころが満載だ。『ベル・ホノルル23』の次作『ベル・ホノルル24』(1928年ごろ)では、「キミ、この人物をタテにした構図の意図はなんだね? 手前のラリッてる半グレの金髪男で、背後の紳士の片足が隠れてるじゃないか。海の虹も2色だしサボテンも変だし、こんなのありえないよ!」と教授に叱責されそうだ。『ベル・ホノルル12』では、「右に歩いていく男の足先がキャンバス外れで欠けてるし、樹から半分のぞく女性は松本清張の『熱い空気』(家政婦は見た)なのか? なんでいつも半分で中途半端で、どこかが欠けてるんだよ!」と、官展の画家から説教されそうだ。w
 『ベル・ホノルル26』では、「キミは、なにか危ない思想にかぶれちゃいないだろうね。特高に尾けられてやしないか? 樹の陰には、それらしい男があちこちウロウロしてこちらをうかがってるよ! 中條百合子Click!なんかと仲よくするんじゃない!」と教授に懸念され、『公園』では「おい、メリーゴーランドの近くにいる人影からするってえと、奥の噴水脇にいる人物は身長5mかい? バッカ野郎!Click! 絵の基礎から面洗って勉強しやがれ!」と、プロの画家あたりに怒鳴られそうなのだ。けれども、彼女の描く絵は面白く、夫の余った絵の具を使ったといわれている色彩感覚もみずみずしくて新鮮だ。
 油絵の具の使い方をはじめ、板倉鼎からなにかとアドバイスを受けて描いているのだろうが、帝展画家の助言など無視して、のほほんと自由に描いているらしいところに、須美子の真骨頂やプリミティーフな魅力がありそうだ。上記の叱責や説教は、戦後の美術界ではほぼ無効になっていることを考えると、彼女は40年ほど早く生まれすぎたのかもしれない。
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よみがえる画家板倉鼎・須美子展2015.jpg 水谷嘉弘「板倉鼎をご存知ですか」2024コールサック社.jpg
 パリで短期間のうちに夫と次女に先立たれ、帰国してからは長女を亡くして、とうとうひとりになってしまった須美子は、1931年(昭和6)から佐伯米子Click!の紹介で有島生馬Click!の画塾に通いはじめている。妙なアカデミズムに染まらないほうが、彼女らしいオリジナル表現が保てるのに……と思うのは、わたしだけではないだろう。同じ境遇の佐伯米子Click!とは親しく交流しているようだが、1934年(昭和9)に須美子はわずか25歳で病没している。

◆写真上:1928年(昭和3)制作とみられる、板倉/昇須美子『ベル・ホノルル23』。
◆写真中上は、『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦部分の拡大。中上は、第1次改装を終えた1925年(大正14)撮影の戦艦「陸奥」。中下は、竣工間もない1924年(大正13)撮影の軽巡洋艦『夕張』。は、横浜沖で挙行された海軍特別大演習・観艦式を1面で報道する1927年(昭和2)10月30日の毎日新聞夕刊。
◆写真中下は、パリで撮影されたとみられる板倉/昇須美子。スマホのイヤホンで音楽を聴いているような風情から、100年近い年月をまるで感じさせない。中上は、1927年(昭和2)秋に横浜沖で行われた特別大演習・観艦式の戦艦「陸奥」を写した記念絵はがき。中下は、1928年(昭和3)の撮影とみられる『ベル・ホノルル23』を制作する須美子。は、同年ごろ制作された同『ベル・ホノルル24』。
◆写真下は、1927年(昭和2)ごろ制作の板倉/昇須美子『ベル・ホノルル12』(部分)。中上は、1928年(昭和3)ごろ制作の『ベル・ホノルル26』(部分)。中下は、1931年(昭和6)に制作された同『公園』。下左は、2015年(平成27)に目黒区美術館で開催された「よみがえる画家/板倉鼎・須美子」展図録。下右は、(社)板倉鼎・須美子の画業を伝える会Click!代表の水谷嘉弘様よりお送りいただいた著作『板倉鼎をご存じですか?』(コールサック社)。二瓶等(二瓶徳松)Click!の画業に関連し、拙ブログの紹介もしていただいている。
おまけ
 米軍が撮影した、長門型戦艦の写真を探しに米国サイトをサーフしていたら、米国防省から情報公開されたあまり見たことのない写真数葉を見つけたので、ついでにご紹介したい。上の写真は、1944年(昭和19)10月24日の捷1号作戦(レイテ沖海戦)中に、フィリピンのシブヤン海で米空母艦載機と交戦し、回避運動をする戦艦「長門」(手前)と戦艦「大和」Click!(奥)。なお、「長門」の同型艦で板倉/昇須美子がモチーフにしたとみられる戦艦「陸奥」は、1943年(昭和18)6月に広島沖の柱島泊地で謎の爆発事故により沈没している。中の写真は、同海戦で右舷に至近弾を受ける戦艦「武蔵」Click!で、同艦は同日の19時すぎに転覆してシブヤン海に沈没している。下の写真は、母港の横須賀港で係留砲台とされた敗戦時の戦艦「長門」。上空は米軍の艦載機で、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた戦艦だった。
戦艦長門・大和19441024.jpg
戦艦武蔵19441024.jpg
戦艦長門194508_2.jpg

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