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劉生日記にみる体調と地震の気になる関係。 [気になるエトセトラ]

藤沢駅1923神田写真館.jpg
 かなり以前、岸田劉生Click!日記Click!をベースに、関東大震災Click!の予兆とみられる現象が起きていたかどうかの記事Click!を書いた。相模トラフのプレートがズレたとみられる同大震災だが、1923年(大正12)9月1日に起きた本震の前に、その前兆と思われる地震が記録されていないかどうかを、劉生日記の記述に求めたものだった。
 あんのじょう、同年1月14日に鵠沼の松本別荘13号から東京へ出かけた劉生は、銀座で大きな揺れに遭遇している。この日は、春陽会の例会と改造社の編集者との打ち合わせがあり、木村荘八Click!と銀ブラしていて「ひどい地震」に遭遇していた。また、6月3日にも「今朝方か又地震ありよく地震あり」と記録されているので、このころには日記にはあえて書かないものの、頻繁に地震が発生していた様子がわかる。
 一般的なプレートテクトニクス理論にしたがえば、おそらくプレートが反作用で少しずつズレはじめたために起きる「予震」現象なのだろう。以前の記事では、このような大地震の前ぶれである前兆地震について日記からひろってみたが、今回はまったく別の切り口から関東大震災の「予兆現象」を探ってみたい。それは、人間の体調と地震に関する医学あるいは物理学分野のテーマだが、その前に岸田劉生の鵠沼時代における1923年(大正12)という年の出来事について、簡単にまとめておきたい。
 同年は、岸田劉生が自身のアトリエを建設しようと、東京の荻窪と目黒の宅地を物色していた時期と重なる。結核を疑われて海辺で療養していた劉生だが、6年以上の鵠沼生活ですっかり体調が恢復したため、東京へもどる計画を立てている。そして、4月28日には「やはり目黒にしておこうと思ふ」と、目黒でのアトリエ建設に決定していた。5月14日には、建設予定地を下見するために目黒駅で待ち合わせをし、蓁(しげる)夫人と土地の紹介者とみられる「沢田さん」(鵠沼の沢田竹治郎?)、設計士の「ダザイさん」とともに現地を見学したあと、その場でアトリエの設計を「ダザイさん」に依頼している。
 アトリエ建設の資金が必要だったのか、同年の劉生は広告の仕事も引き受けている。中央商会が発売していた「第一クレイヨン」広告Click!のコピーを書いたり、子どもたちが描いた絵の審査会に出席したりと、制作ばかりではない忙しい日々を送っていた。以前、こちらでもご紹介したが、2月25日に黒田清輝Click!と高田早苗から手紙をもらい、神宮外苑に建設予定の聖徳記念絵画館に納める作品の依頼かと思い、ウキウキして上野精養軒へ出かけたが、会場にいた山本鼎Click!から早稲田大学の大隈記念講堂建設Click!のための寄付依頼集会Click!だと聞かされ、プンプン怒って鵠沼へ帰ってきたのも同年3月3日だ。
 目黒でのアトリエ建設計画もあったのだろうが、同年の劉生はほとんど毎日のように東京へと出かけている。鵠沼のアトリエへ俥(じんりき)を呼び、藤沢駅まで走らせることが多かったようで、江ノ電の利用は鎌倉へ出かけるとき以外にはほとんど書かれていない。また、藤沢駅前からめずらしいタクシーで帰ることもあったようだ。東京での用事は、画会の相談や骨董店まわりもあったが、草土社以来の友人たちを訪問することが多かった。当時は、落合地域のすぐ北側に住んでいた長崎の河野通勢Click!や、下落合の南隣りの上戸塚に住んでいた椿貞雄Click!を訪ねるため、よく目白駅や高田馬場駅で下車している。
 1923年(大正12)という年は天候が不順つづきだったようで、1月25日には鵠沼に大雪が降っている。東京や横浜が「雪」でも、相模湾沿いの街々は気温が高めなため「雨」が多いのはいまも昔も変わらないが、同日に大磯Click!へ出かけた劉生は「大磯は又ひどく雪がふつてゐた」とことさら驚いている。江戸期からつづく銀座凮月堂の息子が、大磯に建てた住宅(別荘か?)を見学しに出かけたらしい。相模湾沿いの海街Click!で雪が降るのは、わたしが子どものころも含めてめずらしいのだ。ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、東京は1月22・23日が「雨」、1月24・25日が「雪」と記録されているが、劉生日記では1月22日が「晴」、23日が「雨」、24日が「曇小雨」、そして25日が「大雪」と記されている。
鵠沼日記1948建設社.jpg 鵠沼日記中扉.jpg
岸田劉生全集第8巻1979岩波.jpg 岸田劉生(晩年).jpg
岸田劉生「竹籠含春」192304.jpg
 また、同年7月6日には夏にもかかわらず冷たい北風が吹きつけて、劉生は「寒い」と記録している。どうやら、1923年(大正12)は年間を通じて異常気象だったようだ。そんな中、4月25日の劉生日記には「この頃の気候はわるい」と書いたあと、「新聞に、人面の小牛が生れて『今年は雨多く天然痘がはやる』と予言して死んだとか出てゐた」と記録している。大きな災害が起きる前に現れるといわれる、いわゆる「件(くだん)」伝説のたぐいを記したものだが、劉生は迷信だとほとんど信じていない。
 さて、関東大震災を前にして、岸田劉生とその家族たちの体調はどうだったのだろうか? なぜ人間の身体と大地震がつながるのかというと、大きな地震が起きる直前には頭痛や吐き気、めまい、発熱など体調不良を訴えて医療機関を訪れる患者が、昔もいまも急増することが報告されているからだ。通常は「風邪」か「偏頭痛」として見すごされてしまう現象だが、「頭痛と地震」という医学分野や物理学分野のテーマさえ存在し、「プレートの強い圧力で大気中の陽イオンが急増し、セロトニンという脳内物質の低下が原因で起きるからではないか?」とか、「大地震の前に流れる、微弱な電流や磁力に人体が感応しているのではないか?」などなど、かなり以前から仮説が立てられ疑われているからだ。
 岸田劉生は1923年(大正12)早々から「風邪」を引き、以降、震災が起きる9月まで頻繁に頭痛で悩まされることになる。たとえば、こんな具合だ。1979年(昭和54)に岩波書店から出版された、『岸田劉生全集/第8巻/日記』の代表的な記述から引用してみよう。
  
 四月三日(火) 雨後曇/今日は雨、写生はそれで駄目。眼がさめた時、頭痛があつたが起きてミグレニンなどのんだらなほつてしまふ。少し風邪気なのだ。(後略)
  
 こんな記述が随所に見られ、劉生はミグレニンClick!を常用していたようだ。また、岸田麗子Click!の体調も、早春から発熱を繰り返して思わしくない。さらに、同居していた劉生の妹である岸田照子も、関東大震災の直前(8月26日)に「風邪」をひいて体調を崩しているが、蓁夫人は元気で特に不調の記述は見られない。換言すれば、岸田家の血を引く人々に、頭痛や発熱などの体調不良が頻繁に表れていることになる。地震と身体の不調には、大気中の異変を感じる遺伝的な体質のちがいでもあるのだろうか。
 関東大震災が起きる半月前、8月16日には健康を気にする劉生が近所の沢田竹治郎宅を訪れ、主人が実演する自彊術Click!を見学している。ちなみに、岩波書店版『岸田劉生全集』でも岸田麗子『父 岸田劉生』(中央公論社)でも、自彊術を「自強術」と誤記している。そして、岸田一家の体調がなんとなく思わしくない中で、9月1日午前11時58分を迎えることになる。このとき、岸田麗子は「夏休みの宿題の勉強をおわって」、近所の友だちの家に遊びにいこうと自宅を出た直後だったと、『父 岸田劉生』(1979年)で回想している。
岸田劉生・麗子192308.jpg
鵠沼の商店街(大正期).jpg
被災岸田劉生一家19230907.jpg
 大地震の直後、劉生が真っ先に「つなみの不安」を感じたのは、祖父母や親の世代から1855年(安政2)の江戸安政大地震で江戸湾(東京湾)に来襲した津波について聞いていたからだろう。同地震は、活断層に起因する江戸直下型地震と想定されているが、湾内の海底で活断層が大きくズレたか、あるいは大規模な海底崩落(海底地すべり)が起きたかで、江戸湾岸一帯に津波が短時間で押し寄せている。また、津波は江戸の主要河川をさかのぼり、かなりの内陸部Click!にまで被害が及んでいたと伝承されている。
 劉生が家族を連れ、境川を越えたすぐ東側にある近めな丘陵地ではなく、アトリエからかなり距離のある北側の藤沢駅方面の石上(当初は東海道線の北側にある遊行寺の丘陵地帯が目的地だった)まで避難した際、境川には近寄らなかったのも江戸安政大地震の教訓を誰かから聞いて、劉生あるいは蓁夫人が知っていた可能性が高い。
 岸田一家は、石上の農家兼米店を経営していた親切な鈴木家に呼びこまれ、ここで震災が落ち着くまで避難生活を送ることになる。自宅の松本別荘13号は、和館だった母家はその後の余震で潰れたが、アトリエのある2階建ての洋館部分は倒壊をまぬがれている。そして、一家であと片づけをしている最中に、片瀬の写真館の主人が通りかかったため、倒壊した母家を背景に記念撮影をしてもらっている。同書より、9月7日の日記を引用してみよう。
  
 夕方鵠沼の町の方へ歩いてみた。兵隊が来てゐて米みそしよう油等売つてゐた。〇朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を聞いたのでそれと分り、こわれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた。
  
 岸田劉生は、家族を連れてよく写真館に通っている。たいていは故郷の銀座7丁目にある子どものころから通いなれた、佐伯米子Click!の実家である池田象牙店Click!の向かい、土橋をはさんだ東詰めにある馴染みの江木写真館Click!だった。
 1923年(大正12)の劉生日記には、写真屋(写真館)が3店舗ほど登場している。1店めは、春陽会の図録ないしは絵はがき用の写真撮影のために、鵠沼のアトリエに通ってきていた東京の清和堂専属のカメラマンだ。2店めが、鵠沼の近所に開店していた神田写真館(戦後のカンダスタジオだろうか?)で、ときどき家族写真を撮らせていたようだ。なお、神田写真館は関東大震災のとき藤沢市街地の惨状を撮影しているのでも有名だ。そして3店めが、9月7日の日記に登場している片瀬写真館だ。
 片瀬写真館Click!については、同年の劉生日記にはもう1ヶ所登場している。東京へ出かけた同年7月8日の日記には、「新橋を十時三十八分の汽車で帰つたが汽車の中で酔つた奴が同車の片瀬の写真屋に怒つて少し乱暴などして気の毒であつた。不快な奴也。」と書きとめている。どうやら、酔っ払いにからまれている片瀬写真館の主人を見かけたらしい。したがって、少なくとも7月以前から片瀬写真館の創業者・熊谷治純Click!のことを劉生は見知っていたようで、だからこそ倒壊した母家の前を通りかかった彼に撮影を依頼したのだろう。
鵠沼西浜橋1923.jpg
海岸線1923津波.jpg
片瀬海岸通り1923.jpg
 片瀬写真館は1913年(大正2)の創業で、現在も片瀬の洲鼻通りで営業をつづけているが、創業者の熊谷治純が独立美術協会Click!熊谷登久平Click!の姻戚であり、岩手から東京へとやってきた熊谷登久平が同写真館を訪ねていることを、熊谷明子様よりうかがっている。

◆写真上:鵠沼の神田写真館が撮影した、関東大震災により倒壊した藤沢駅。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に建設社から出版された『鵠沼日記』<大正九年>の表紙()と中扉()。中左は、1979年(昭和54)に岩波書店から出版された『岸田劉生全集/第8巻/日記』。中右は、最晩年の岸田劉生。は、1923年(大正12)の春に制作された岸田劉生『竹籠含春』。数ヶ月にわたり劉生は「椿」をモチーフに制作しているが、同時期には鵠沼に椿貞雄が訪れたり劉生が上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)のアトリエへ遊びに寄ったりしているので、日記では「椿」の文字が氾濫していて面白い。
◆写真中下は、関東大震災の直前1923年(大正12)8月に鵠沼で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、岸田一家が目にしていた大正期の鵠沼の商店街風景。は、1923年(大正12)9月7日に片瀬写真館の熊谷治純が撮影した被災直後の岸田一家。
◆写真下は、関東大震災で倒壊した境川に架かる西浜橋。は、津波で全滅した海岸沿いの住宅街。は、地震による津波と隆起で壊滅した片瀬海岸通り。
おまけ
 岸田劉生一家の、松本別荘13号から石上までの想定避難コース。1946年(昭和21)の空中写真だが、劉生日記には「田の中に腹迄つかつて、逃れくる。」(9月1日)とあり、おぶられた小林さん(書生)の「股まで泥田につかりながら」避難したと岸田麗子『父 岸田劉生』にあるように、当時の石上周辺は家が少なく田圃だらけだったと思われる。また、同年撮影の空中写真にみる岸田邸の松本別荘13号跡地には、やはり同じような雰囲気の戦災をまぬがれた家屋が見えているので、昭和初期にも貸し別荘として建て直されていたのかもしれない。
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近衛騎兵連隊の敷地を割譲させた石井機関。 [気になるエトセトラ]

防疫研究室.jpg
 下落合からおよそ南東へ1.8kmほどのところ、山手線をはさんだ広大な戸山ヶ原Click!の東側を見わたしていて、ひとつ不思議に思いひっかかっていたことがある。陸軍軍医学校Click!が、なぜ近衛騎兵連隊Click!の敷地まで削って、防疫研究室Click!(石井機関=731部隊の国内本部)を建設できたのか?……という不可解な疑問だ。
 日本の軍隊内では、前線で戦闘を行う将兵を擁する部隊=連隊・師団の立場や勢力が強く、その補助的な役割りをになう輜重や鉄道、諜報、医療などの部隊は、相対的に立場が弱い。軍医学校側が、近衛騎兵連隊の用地拡大のためにやむなく敷地を譲渡することはあり得ても、その逆は通常考えられないからだ。ましてや、相手は天皇を警衛する近衛師団なので、なおさら以前から不可解に感じていた。
 その疑問が解けたのは、今年(2022年)に高文研から出版された常石敬一『731部隊全史』を読んだからだ。そのキーマンは、陸軍軍医学校の軍医監であり近衛師団軍医部長を兼任していた小泉親彦だ。陸軍部内では、軍医学校の整理・縮小が検討されていたが、これに対し小泉は「軍医学校の満州移動」を提唱していた。1931年(昭和6)当時の小泉は、軍医学校教官で衛生学教室主幹だったが、翌1932年(昭和7)には上記のように軍医監と近衛師団の役職を兼任し、1933年(昭和8)には軍医学校校長に就任している。
 このトントン拍子の昇進には、そのバックにもっと上層の意向(軍務局長以上)が働いていたとみるのが自然だろう。「軍医学校の満州移動」の代わりに、小泉は満州国に関東軍防疫部(石井機関=731部隊)の設置に成功している。そして、小泉は1934年(昭和9)に軍医総監、1941年(昭和16)には厚生大臣へと昇りつめている。すなわち、満州で細菌戦の研究開発および実行を推進する石井機関=731部隊の背後には、陸軍の最上層部の思惑が反映されていたととらえるのが当然なのだろう。
 1932年(昭和7)に、近衛騎兵連隊の敷地5,000坪超を軍医学校に割譲させたのは、近衛師団の軍医部長だけの力では到底不可能なことであり、そのバックにいる強大な権力をもつ陸軍の最上層部を想定しなければ説明がつかない。このネゴシエーションには、もちろん小泉親彦だけでなく石井四郎が陰に陽に付き添い、バックアップしていたとみるのが自然だ。石井四郎の「根まわし上手」は、軍医学校でもよく知られており、中間の将官職や取次ぎをとばしていきなりトップと交渉することも稀ではなかった。
 石井四郎のプレゼンテーションは、敵から押収したと称する自ら捏造した「証拠」を見せ、上層部の危機感をあおるのが常套手段だった。戦後、GHQの尋問に答えた増田軍医大佐の供述調書では、「ソ連の密偵」が所持していたと称する「アムプレ(アンプル)」と「薬壜」を調べたところ、コレラ菌を検出したと供述しているが、その供述表現から石井の言質をまったく信用していない様子がうかがえる。つまり、敵が細菌戦をしかけてきているのだから、日本も細菌戦を準備し積極的に実行しなければならないというのが、石井四郎によるマッチポンプ式の大型予算獲得と組織拡大の手口だった。
 また、当時の陸軍には正規軍同士が戦って勝敗を決するのが軍隊の本領であり、石井四郎のような作戦は姑息で卑怯だとする見方の傾向が根強く残っていた。だからこそ、多くの組織を飛び越えた陸軍トップとの秘密交渉が必要だったのだ。
 近衛騎兵連隊に5,000坪余の土地を提供させ、石井機関の本部建物が建設される際、1932年(昭和7)7月から同年12月までの間に、施設名称が二転三転していることが『731部隊全史』で指摘されている。対外的にも、細菌戦の研究所を想起させるような名称を避けたかったのだろうが、逆に短期間における名称のたび重なる変更は、ジュネーブ条約違反の組織を強く臭わせる結果になっているように思える。すなわち「細菌研究室」→「戦疫研究室」→「戦疫研究所」→「戦疫研究施設」→「戦疫研究室」と推移し、最終的には「防疫研究室」となった。近衛騎兵連隊では、防疫研究室に敷地を提供するために、兵器庫と油脂庫などの敷地内移転を余儀なくされている。
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陸軍軍医学校細菌研究室新築工事の件1932.jpg 近衛騎兵連隊兵器庫其他移築工事の件1934.jpg
常石敬一「731部隊全史」2022.jpg 陸軍軍医学校五十年史内扉.jpg
 石井四郎は、そのころ「東郷部隊」という秘密部隊名を使い、ハルビン南方80kmほどの背陰河で極秘の任務に就いていた。この間の詳細は、GHQによる731部隊員の供述調書ではなく、1948年(昭和23)に起きた帝銀事件Click!の取り調べに当たった、警視庁捜査一課の甲斐文助警部がまとめた詳細な捜査手記に記録されている。「東郷部隊」に参加しているスタッフは、発覚するのを怖れて全員が偽名をつかっており、石井四郎は「東郷一」と名のっていた。警視庁の捜査員たちは、石井機関の事業を緻密に記録していくことになる。
 もちろん、捜査対象は遅効性の青酸ニトリ―ル(アセトンシアンヒドリン)Click!などについてだったが、731部隊所属の元隊員たちへ片っ端から尋問していった結果、当時の「東郷部隊」=石井機関の行動が浮き彫りにされている。帝銀事件の容疑者にされてはたまらないためか、731部隊の元隊員たちは具体的な実験内容まで次々に供述している。
 石井四郎は背陰河で、すでに数々の人体実験を行っていた。付近には研究施設が建ち並び、これらの人体実験を誰が実施し誰が立ちあったのかまで、731部隊の関係者は詳しく供述している。用いられた細菌は、炭疽菌をはじめコレラ菌、赤痢菌、腸チフス菌、ペスト菌、馬鼻疽菌などだった。実験内容は、饅頭に指示どおりの病原菌を入れ、それを摂取した被験者がどうなるかを観察するもので、もちろん被験者の全員が死亡している。
 この人体実験中に、コレラ実験棟で20人前後による被験者の脱走事件が発生し、監視にあたっていた予備役看護長の2名が殺害されている。『陸軍軍医学校五十年史』(1936年)では「戦死」とされた、平岡看護長と大塚看護長のふたりだ。そのときの様子を、『731部隊全史』から栗原義雄予備看護兵の証言とともに引用してみよう。
  
 部隊の敷地は六〇〇米平方と広大でそこにいくつもの建物があり、炭疽やコレラそれにペストなどの研究課題毎に建物が割り当てられていた。各実験・研究棟には廊下をはさんで部屋が並んでおり、そのうちのいくつかには「ロツ」と呼ばれた檻がいくつも置かれ、被験者は二人一組で閉じ込められていた。ロツの広さは六畳ほどで、天井は人が立つと頭が着くかどうかという低さで、端にはトイレが付いていた。/栗原は一九三四年の戦死事件(図表番号略)を覚えており、これは被験者の脱走によるものだったという。コレラの実験棟から被験者二〇人近くが世話係の看守二人を殺害し、逃げおおせたのだった。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、極秘の「東郷部隊」は解散して石井四郎は日本へもどり、関東軍防疫部(のち関東軍防疫給水部)の設置へ向けたプロジェクトに邁進していくことになる。「防疫給水」は名目で、実態は生物兵器と化学兵器の研究開発が事業の中心だった。そして、莫大な予算を手に入れた石井は、母校の京都帝大医学部を中心に各大学から研究者を募る“人集め”に奔走し、1936年(昭和11)8月には正式に関東軍防疫部=731部隊が発足している。
 なお、当初は満州へ出向するのを嫌がる医師が多かったが、のちには京都帝大と東京帝大、慶應大学などの各医学部から競いあうように医師たちが731部隊へ送りこまれるようになる。部隊へ着任した医師たちは、尉官・佐官レベルの将校として優遇された。
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防疫研究室外観1936.jpg
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 関東軍防疫給水部=731部隊の本部は、ハルビンの平房に置かれていたが、そこでどのような実験が行なわれていたのかは、あまたの書籍や資料が世の中に出まわっているので、そちらを参照していただきたい。ここでは、近衛騎兵連隊に敷地(現・戸山公園内の多目的運動広場とその周辺)を提供させ、防疫研究室を同部隊の国内本部にしていた石井四郎について、もう少し追いかけてみよう。
 1942年(昭和17)4月、ドーリットル隊Click!が日本本土を空襲Click!した直後、陸軍では同爆撃隊がめざした中国の飛行場を破壊するために、浙江省と江西省の拠点を攻撃する「浙贛作戦」を発動した。この作戦で、石井四郎の部隊は実証実験レベルではなく本格的な細菌戦を実施している。軍用機から水源地や貯水池に雨下(撒布)したのはコレラ菌や赤痢菌で、市街地にはペスト菌(PX)が撒布された。その結果、中国側では42人の罹患死者が出たと報告されている。だが、被害は中国側だけにとどまらなかった。
 陸軍部隊が占領したあとの惨状を、同書収録の米軍捕虜の尋問記録より引用しよう。
  
 一九四二年の浙贛作戦で細菌攻撃した地域を日本軍部隊が占領した時、非常に短時間で一〇,〇〇〇人以上が罹患した。病気は主にコレラだが、一部赤痢およびペストもあった。患者は通常後方の、だいたい杭州陸軍病院に急送されたが、コレラ患者は多くが手遅れとなり死亡した。捕虜(防疫給水部隊員)が南京の防疫給水本部で目にした統計では死者は主にコレラで一,七〇〇人を超えていた。捕虜は実際の死者数はもっと多いと考えている。それは、「不愉快な数字は低く見積もるのがいつものやり方だから」。(カッコ内引用者註)
  
 1万人以上の将兵がコレラなどに罹患し、少なくとも1,700人以上が死亡したということは、1個師団が全滅したに等しい数字だ。「中国大陸で戦死」という死亡公報のうち、いったいどれぐらいの将兵が石井機関による細菌戦の犠牲になったものだろうか。
 石井四郎は、この浙贛作戦の大失態がもとで1942年(昭和17)8月、関東軍防疫給水部を追われているが、もうひとつの更迭理由として本来の防疫給水の領域で「石井式無菌濾水機」の虚偽が明らかになったせいもあった。石井が無菌濾水機に採用したベルケフェルトⅤ型フィルターでは、菌がフィルターを通過してしまい無菌にはならなかったからだ。
 占領地の井戸や水源へ、コレラ菌や赤痢菌を撒かせて「敵が細菌戦を展開している」と扇動したり、「ソ連の密偵から奪った」アンプルや薬壜にはコレラ菌が仕組まれていたと、自ら捏造した「証拠」をもとに危機感をあおり、膨大な予算や人員を要求してくるほとんど詐欺師のような男に、陸軍部内でもさすがに「おかしい」と感じる将官か増えていく。
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 それでも、石井四郎は敗戦色が濃くなった1945年(昭和20)3月、関東軍防疫給水部へ復帰している。風船爆弾に細菌雨下(撒布)装置をつけて米国本土へ飛ばす計画(中止)や、ペスト菌(PX)の一斗缶を抱えて敵陣に突撃させる「夜桜特攻隊」計画(中止)と、731部隊員の供述によれば「やけくそ戦法、めちゃくちゃの戦法」の実現に奔走している。敗戦後、いちはやく満州から帰国した石井四郎は千葉の実家で自身の「葬式」を偽装するが、陸軍上層部とは異なり米軍のCICClick!G2Click!は稚拙なフェイクには騙されなかった。やがて、1943年(昭和18)に金沢医科大学の石川太刀雄教授が部隊から持ち帰っていた、8,000枚におよぶ人体実験のスライド標本が米軍に発見されるのは時間の問題だった。
 最後に余談だが、近衛騎兵連隊から敷地を提供された防疫研究室の西隣りには、陸軍兵務局分室Click!すなわち陸軍中野学校Click!工作室(通称:ヤマ)Click!が建設されている。その施設の存在を秘匿するために、近衛騎兵連隊の馬場との間には「防弾土塁」と称して、高い目隠し用の土手が築かれた。その土手は、現在でもそのまま見ることができる。

◆写真上:1980年代半ばまでそのまま建っていた、石井四郎の旧・軍医学校防疫研究室。
◆写真中上は、1923年(大正12)と1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる近衛騎兵連隊と軍医学校の敷地。中左は、1932年(昭和7)7月に陸軍大臣にあて「陸軍軍医学校細菌研究室新築工事ノ件」(のち「防疫研究室」)。中右は、1934年(昭和9)12月の「近衛騎兵連隊兵器庫其他移築工事ノ件」。下左は、2022年出版の常石敬一『731部隊全史』(高文研)。下右は、1936年(昭和11)出版の『陸軍軍医学校五十年史』の内扉。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された陸軍軍医学校の校内だが、軍陣衛生学教室の左手(西側)にある防疫研究室は画角から外されている。は、同年撮影の防疫研究室。は、防疫研究室で細菌繁殖用の寒天を製造する同研究員。
◆写真下は、1946年(昭和21)11月の増田軍医大佐による供述書をはじめ、米軍による731部隊員たちへの尋問・供述調書。は、戸山公園内の防疫研究室跡の現状。は、さまざまな記録や資料、証言などから731部隊へ競争するように医師を送りこんだ各大学医学部と軍学コンプレックスの軌跡を追跡したNHKドキュメンタリー資料(2017年)。
おまけ
 国立公文書館に保存されている、1941年(昭和)6月10日付けの陸軍軍医学校長から当時の陸相・東條英機Click!あてに提出された、731部隊の国内本部にあたる防疫研究室に関するスタッフ増員要望書。「特殊研究」などで「将校」(軍医将校のこと)が81名必要なのに対し、現状はその4分の1しか確保できていないとしている。
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資料によく登場する江戸川アパートメント。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログで何度か登場しているアパートに、牛込区新小川町10番地(現・新宿区新小川町6番地)に建っていた同潤会江戸川アパートメントClick!がある。大田洋子Click!が、改造社にいた黒瀬忠夫Click!と同棲をはじめたのも同アパートだったし、その黒瀬が社交ダンス教室を開いていた金山平三アトリエClick!から、金山平三Click!が知人の山内義雄が障子を貼りかえたと聞いて、さっそく下落合からビリビリ破りに出かけたのも同アパートだ。
 高田町四ッ谷(四ツ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた安部磯雄Click!が、晩年に暮らしていたのも江戸川アパートメントだった。そのほか、同アパートには正宗白鳥や見坊豪紀、鈴木東民、なだいなだ、原弘、前尾繁三郎、増村保造、雲井浪子、坪内ミキ子など多種多様な職業の人々が住んでいた。江戸川アパートメントが竣工したのは1934年(昭和9)と、同潤会アパートの中でも新しい建築だが、竣工直後の様子を当時は津久戸小学校の生徒だった、ロシア・ソ連史家の庄野新が記録している。
 1982年(昭和57)に新宿区教育委員会が発行された『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編―』収録の、庄野新『思い出の「牛込生活史」』から引用してみよう。
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 (江戸川アパートメントは)今の高級マンションのハシリかと思うが、たしか四階建ての大きく立派な建物で、ピンクの外装がひどくモダンであった。われわれ小学生を引きつけたのは、そこに備えつけられていた自動押ボタン式エレベーターで、これを自由に操作するのが実に面白く、そしてスリルさえあった。学校が終ると友だち数人と語らって、数日ここにかよいつめた。管理人などいるのかいないのか、われわれが入りこんでも一度もとがめられなかった。ところがある日、エレベーターが途中で止まってドアがあかないのである。一瞬顔が引きつって、友だちとあれこれボタンを押した。やっとドアがあいて外に出られたときは本当にホッとしたものだ。その間、時間にして数分にすぎないと思うが、正直いって生きた心地はなかった。以来、自動エレベーター熱は一挙にさめてしまった。(カッコ内引用者註)
  
 庄野少年たちがエレベーターで遊んだのは、おそらく地上4階建ての2号棟だったのだろう。ほかに、1号棟は地上6階地下1階(一部は塔状になって地上11階地下1階になっていた)という仕様だった。鉄筋コンクリート仕様の同潤会アパートは、関東大震災Click!の火災による被害が甚大だったため、不燃住宅の建設ニーズから1926年(大正15)より1934年(昭和9)まで、東京市内に14ヶ所と横浜市内に2ヶ所が建設されている。
 同潤会アパートについては、詳細な書籍や資料がふんだんにあるのでそちらを参照してほしいが、当時としては圧倒的にモダンでオシャレな集合住宅だった。生活インフラとして、電気・ガス・水道・ダストシュート・水洗便所は基本で、大規模なアパートによってはエレベーターや共同浴場、食堂、洗濯室、音楽室、サンルーム、談話室、理髪店、社交場、売店などが完備していた。江戸川アパートメントは、同潤会アパートの中でも大規模なもので、1934年(昭和9)の竣工から2001年(平成13)の解体まで、実に70年近くも使われつづけた。
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 江戸川アパートメントは、北側の1号棟と南側の2号棟に分かれており、棟の間にはかなり広い中庭が設置されていた。家族向けの広めの部屋が多かったが、1号棟の5階と6階は独身者向けで4.5~6畳サイズのワンルーム仕様が多かった。庄野新の想い出にあった自動エレベーターをはじめ、共同浴場、食堂、理髪店、社交室などを備え、中庭には子どもたちの遊具がいくつか造られて、コミュニティスペースも充実していた。江戸川Click!(1966年より上流の旧・神田上水+江戸川+下流の外濠を統一して神田川)の大曲りの近くなので、同河川の名前をとって江戸川アパートメントと名づけられている。
 面白いのは、今日のマンションとはまったく発想が逆で、上階にいくほど単身者向けの安い部屋が多く、低い階に広めで豪華な部屋が多かったことだ。つまり、しごくあたりまえだが低層階のほうが短時間でスムーズに外部との出入りができ、また関東大震災の記憶が生々しかった当時としては、火災や地震など万が一のときにすぐ避難できる安全・安心が担保されているところに大きな価値があったのだろう。大震災の経験をまったく忘れた現在、集合住宅はハシゴ車さえとどかない高層になるほどリスクが高く、大地震が多い東京の価値観が逆立ちしていると思うのは、わたしだけではないだろう。
 江戸川アパートメントは戦災からも焼け残ったが、1947年(昭和22)6月17日に山田風太郎が、同アパートに住んでいた同業の水谷準を訪ねている。この日、近くにある超満員の後楽園球場では早慶戦が開かれており、山田風太郎の日記から引用してみよう。
  
 新小川町江戸川アパートにゆく。巨大なるアパート大いに感心す。無数の窓より無数の洗濯物ブラ下がる。このアパートの住人のみにて一町会作りて猶余あるべし。ここに安部磯雄翁も住めりとか。その一棟の一三四号室の水谷準氏、部屋をたたく。廊下のつき当り、網戸に小さき鈴つき、この内側に扉あり。鈴の音ききて準氏出で、入れと言う。四畳半に絨毯敷き、ピアノ、洋服、箪笥、電蓄、ラジオ、書棚etcギッシリ並べ、窓際の空間に机、椅子三個ばかりあり。水谷氏、ピースを喫しつつラジオの早慶戦聞きあるところなりき。「妻も後楽園にゆきてお茶も出せぬ」という。
  
 山田風太郎は、早慶戦の立役者であり早大野球部の創立者だった安部磯雄Click!が、同アパートにいるのを知っていたので、早慶戦についても触れているのだろう。
 水谷準が住んでいた「一三四号室」は、1号棟の3階4号室ということだろうか。おそらく、独身者向けの部屋を借りて夫婦で住んでいたとみられるが、住宅不足が深刻だった敗戦当時、家族5人で1号棟6階の6畳サイズのワンルームに住んでいた例もあるので、当時としてはめずらしくない光景だったろう。また、表参道の青山アパートも同様だが、戦後まで残っていた同潤会アパートは人気が高く、狭い部屋で数人が共同生活する例も多かった。
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 少し前から、日本経済新聞の「私の履歴書」に、ソニーミュージックエンタープライズの社長だった丸山茂雄がエッセイを書いている。江戸川アパートメントには、祖父の早大教授で国会議員の社会主義者だった安部磯雄と、日本医科大学教授で丸山ワクチンを研究開発した父親の丸山千里とともに住んでいた。丸山茂雄は「やわらかい社会主義者」と表現しているが、安部磯雄は別のフロアに住んでおり、戦後に社会党内閣が発足したとき、片山哲首相が江戸川アパートメントまで報告にきていたのを憶えている。
 戦後の江戸川アパートメントについて、2022年7月2日に発行された日本経済新聞の丸山茂雄「私の履歴書―住人も暮らしぶりも多彩―」から引用してみよう。
  
 コンクリート建築の江戸川アパートは焼けずに無事だった。住んでいるのは世帯主が40代半ばより上という家庭がほとんどで、戦争には行っていない。200世帯以上が暮らしていたと思うが、「あの家はお父さんが戦死して大変」といった話は聞かなかった。あのころの日本では特殊な環境だったと思う。(中略) 住人たちの職業は文学者にイラストレーター、いまでいうフリーランサーと多彩。私くらいの世代だと、子供のころは近所の悪友とチャンバラ遊び、いたずらをして親に叱られて、なんていう話が定番だが、このアパートにそういう雰囲気はなかった。/やがてあちこちに団地ができ、50年代の終わりになると「団地族」という言葉がマスコミで使われるようになった。60年代版の国民生活白書にこの言葉の解説が載った。/過度な競争意識に包まれやすいのが団地族のひとつの特質だったろうか。あの家が洗濯機を買った、テレビを買った、あそこの子供がどこそこの学校に入った、うちも負けられない……と。しかし、丸山家に関して言えば、競争心とは無縁だった。
  
 おそらく、戦前からの住民も多かったのだろう、いわゆる戦後の「団地族」とは趣きが異なる人々が、江戸川アパートメントで暮らしていた。丸山家は同アパートの3階に住んでいたようだが、同エッセイを読むかぎり北側の1号棟か南側の2号棟かは不明だ。
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 飯田橋駅近くに勤務していたとき、深夜まで残業したあとは下落合までたまに徒歩で帰宅することがあったので、目白通りへ抜けるために江戸川アパートメントの前を何度か通過しているはずだが、夜更けで暗かったせいか印象が薄い。2003年には建て替えられているので、頻繁に徒歩帰宅Click!をするようになったころには、すでに存在しなかった。

◆写真上:江戸川アパートメント跡へ2003年(平成15)に建設されたアトラス江戸川アパートメント(右手)で、正面に見えているのは凸版印刷の本社ビル。
◆写真中上は、1934年(昭和9)ごろに作成された同潤会江戸川アパートメントの完成予想図。は、解体直前に撮影された江戸川アパートメント。は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた竣工2年後の江戸川アパートメント。
◆写真中下からへ、戦災から焼け残った1947年(昭和22)撮影の江戸川アパートメント、1979年(昭和54)の同アパート、1984年(昭和59)の同アパート。
◆写真下:2022年7月3日発行の日本経済新聞に連載された丸山茂雄「私の履歴書」。

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「江戸へいってくら」「東京へいってくら」。 [気になるエトセトラ]

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 江戸初期に、大川(隅田川)の砂洲を埋め立てて造成した佃島Click!の住民は、佃の渡しClick!に乗って川向こうの明石町や築地に出かけていくことを、「江戸へいく」といっていた。もともと徳川家康に招かれて、30戸ほどの漁民が大坂(阪)から江戸へやってきて住みついたのが佃島なので、当時は大川の西からこっちが江戸で東側は下総国だったわけだから、感覚的に「江戸へいく」でも自然でおかしくはなかっただろう。
 ところが、江戸後期の大江戸時代、すなわち朱引き墨引きが大きく拡大して、大川の東側に拡がる本所や深川、向島、亀井戸(亀戸)などの地域が江戸市中に編入されたあとも、「江戸へいく」という表現は変わらなかった。時代が明治になり京橋区佃島になってからも、佃島の住民は西側の対岸へわたることを「東京へいく」と称していた。
 あくまでも、徳川家康に招かれて江戸にやってきたという彼らの自負心と、川中の島であるがゆえに住民の間で形成されたとみられる閉鎖的なミクロコスモス(ムラ社会)のような意識から、佃の渡しやポンポン蒸気に曳かれた渡船、のちに佃大橋をわたって明石町や築地側へいくことを、現代までつづく「東京へいってくら」(「東京へいってくるわ」を略した東京弁下町方言の男言葉)と表現しつづけてきたのだろう。そのような自負心や優越感が、室町期の江戸城下からつづく江戸地付きの漁民たちとの間で齟齬やイザコザを起こし、訴訟沙汰にまで発展した記録Click!がいまに伝えられている。
 佃島の自負心は、最近までつづく徳川家への白魚Click!献上という“年中行事”にも表れていた。1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』より、佃島住民へのインタビューの一部を引用してみよう。
  
 今でも徳川さんには白魚を毎年、届けてるんだ。天皇家の方は昭和天皇が生物学をやってたでしょう、この白魚はどこでとれるのか、と聞かれてチョン。いま、佃島でとれるわけないやね。まァもともとオレらが献上してたのは徳川様なんだから、いいんだけどね。
  
 「チョン」は、東京方言で「不要」「お払い箱」「用済み」「クビ」などの意味だ。
 さて、この「江戸へいってくら」、明治以降は「東京へいってくら」という表現は、佃島とは反対側にあたる江戸近郊の西北部でもつかわれただろうと想像していたが、驚いたことに、つい最近まで「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていた地域が、落合地域の西隣りにあたる旧・野方町(中野区)に残っていたのを知った。
 江戸後期、すなわち大江戸時代の朱引き墨引きは大きく拡大し、下落合村や上落合村、葛ヶ谷村、長崎村、柏木村、角筈村、代々木村、渋谷村などは、かろうじて朱引き内側の御府内(江戸市中)、つまり南北の江戸町奉行所の管轄内となったが、上高田村や新井村、中野村、片山村、江古田村などは朱引きに接する外側のエリアであり、江戸勘定奉行所の出役(代官)か関東取締出役(八州廻り)の管轄だった。
 1989年(平成元)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続 中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。
  
 「きょうはどちらへ」、「きょうは江戸」
 中野駅を中野停車場といった。ともかく電車に乗れば、まあ仮りに、駅の近所で人に会うでしょ、知り合いの人に。「きょうはどちらへ」って、こう言うわね。そうすんとね、年寄りは、「うん、きょうは江戸」。われわれ若い、子どもだとか若者は、「うん、きょうは東京」って。電車乗って、どっか行くと、東京。年寄りは「きょうは江戸」。だいたいがまあ、新宿から先は江戸だよ。
  
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 西隣りの中野区で上記のような地理感覚、つまり「新宿から先」の四谷区から向こっかわへ、つまり江戸東京の(城)下町Click!東京15区Click!エリアへ出かけることを、「江戸へいく」「東京へいく」と表現していたとすれば、落合地域でもまったく同様の感覚だったのではないか?……という想像が働いていた。ましてや、中野地域は早くから甲武鉄道、のちに中央線が敷設されていたにもかかわらず、そのような表現が近年まで残っていたとすれば、昭和初期までは最寄り駅が山手線の目白駅か高田馬場駅しかなかった落合地域でもまた、「江戸へいく」「東京へいく」といういい方が、かなりあとの時代までつかわれていたのではないかと想定したからだ。
 だが、地元の資料にいろいろ当たってみても、そのようなエピソードは記録されておらず、落合地域が江戸東京の城下町に対して、地理的にどのような意識を抱いていたのかがつかめていない。ただ、「彰義隊」になりすまして商家や農家へ強盗に入った江古田村の半グレ息子Click!たちが、上落合村の村人たちに袋叩きにあって打ち殺された(東京方言では「ぶちころされた」「ぶっころされた」)あるいは捕縛されたとき、町奉行所から取り調べのために同心たちが出張ってきた際、わざわざ八丁堀からきたのかどうかを気にしているので、やはり市街地に対して江戸近郊という意識が強かったのだろうと想定していた。
 ところが最近、それが中野地域や落合地域どころではなく、東京15区=大江戸の旧・市街地でも、「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていたのを知った。自分の住む地域を、「江戸」とも「東京」ともとらえていなかった住民は、赤坂や麻布、牛込、小石川あたりの、(城)下町の中でも「山手」「乃手」と呼ばれた一帯に住む人々だ。彼らは、山や森におおわれた乃手は江戸東京の「街中」ではなく、江戸東京は商業が発達し水道網が普及していた繁華街ととらえていたフシが見られる。また、明治になってからも、たとえば小泉八雲Click!の「東京の赤坂には紀伊国坂があった」の出だしで有名な『貉(むじな)』で描かれるように、赤坂の谷間は人もめったに往来しない寂しい場所だった。
 記録したのは永井荷風Click!で、1994年(平成6)に岩波書店から出版された永井荷風『荷風全集』第17巻収録の、『井戸の水』から引用してみよう。
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 江戸のむかし、上水は京橋、日本橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れていたばかりで、辺鄙な山の手では、たとえば四谷また関口あたり上水の通路になっている処でも、濫(みだり)にこれを使うことはできなかった。それ故、おれは水道の水で産湯をつかった男だと言えば江戸でも最(もっとも)繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ッ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といえば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでいるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったそうである。)
  
 永井荷風は、山手の年寄りから「江戸へ行ってくる」というエピソードを聞いているとみられるが、明らかに神田上水Click!玉川上水Click!による水道網Click!がいきわたった街場=繁華街=江戸東京ととらえていたのがわかる。面白いのは、中野区あたりでは「新宿から先」、すなわち山手線の内側(四谷大木戸が目安か?)あたりからが江戸東京ととらえていたのに対し、(城)下町の乃手ではさらに範囲を狭めて、中でも水道が普及している江戸前期からつづく繁華な(城)下町が「江戸」だととらえられていることだ。
 この伝でいけば、芝や虎ノ門、市ヶ谷、本郷などではどうだったのかが気になるが、おしなべて千代田城Click!の西から北にかけて形成された乃手の住民たちが、(城)下町の全体からみると繁華な商業地(おもに千代田城の南東から北東にかけてある街々)のことを「江戸(東京)」と表現していたように思われる。永井荷風も書いているように、神田明神社Click!山王権現社Click!の氏子町の、さらに外側に拡がる地域で「江戸へいく」、明治前期あたりまでは「東京へいく」という表現が用いられていたのではないか。
 ちなみに、明治以降は京橋エリアと規定された佃島の住民たちは、神田明神社でも山王権現社でもなく、大坂(阪)から同島に分祀した住吉社の氏子町だった。また、江戸期の佃島には水道が引かれず、大川の中洲で良質な清水が湧きでる井戸水を活用していたが、最近は井戸水に海水が混じりしょっぱくなってしまったと、丸久の主人から聞いている。
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 うちの親父が、盛んに「東京へいってくら」といっていたのは、先祖代々の故郷Click!を離れて、仕事の関係から相模湾の海街Click!に住んでいたころだ。本人にしてみれば、「東京へいってくら」は非常に忸怩たる思いがこめられていたのかもしれないが、わたしはそんなこととは露知らず、東京のお土産を期待したものだが、買ってくる土産物が江戸期からつづくどうしようもない玩具Click!ばかりで、ガッカリしたことはすでに書いたとおりだ。

◆写真上:佃島から築地や明石町方面へ、「江戸東京にいく」架け橋の佃大橋。
◆写真中上は、佃堀ごしに眺めた佃島住吉社の本殿裏。は、1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』()と、同年に岩波書店から刊行された永井荷風『荷風全集』第7巻()。は、『佃に渡しがあった』に掲載の尾崎一郎が撮影したポンポン蒸気に曳かれる佃の渡船。見えている対岸が佃島で、わたしも親に連れられ本場の佃煮を買うために渡船には乗っている。
◆写真中下は、佃堀から佃小橋ごしに石川島方面を眺めたところ。は、1929年(昭和4)に撮影された中央線・中野駅。戦後しばらくの間まで、中野から電車で新宿方面に出ることを「東京へいく」といっていた。は、明治初期に撮影された千代田城外濠の北にあたる牛込御門(牛込見附)で現在の中央線・飯田橋駅あたり。
◆写真下は、小日向にあった黒田小学校Click!の跡地で発掘された神田上水の開渠跡。は、経年や地震ではビクともしなかった水道管の幹線である万年石樋()と、明治以降の金属製による水道管よりも耐久性が高く漏水率も低いといわれる、江戸の船大工が総がかりで製造した木材の伸縮を抑えた水道管の支線木樋()。は、ビルの工事などで地下から出現する木樋の水道支管と、流水を汲む枡(ます)。これを地下水を汲みあげる井桁を組んだ「井戸」と勘ちがいした、江戸が舞台の大ウソ時代劇ばかりだ。(時代考証がいい加減な、京都にある時代劇のセットあたりで撮影されているものだろうか?) 乃手では「井戸端会議」だったが、町場では「水道(すいど)端会議」だろう。このような水道網が、大江戸の(城)下町の地下には縦横に張りめぐらされていた。世界最大の都市だったにもかかわらず、井戸が主体のヨーロッパ諸国のように、街人口の大半が死滅してしまう伝染病・感染症禍を最小限に食い止められたのは、常に流れる衛生的な水道網の普及によるところが大きいともいわれる。

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文学座アトリエの杉村春子。 [気になるエトセトラ]

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 わたしは長い間、勘ちがいをしていた。新宿区信濃町にある文学座のアトリエは、空襲からも焼け残った戦前から建つ大きな西洋館を、戦後になって内部を改築したものとばかり思っていた。近くにはカルピスClick!三島海雲邸Click!もあり、てっきり戦前からの近代建築だと思いこんでいた。でも、防空の目的から重要施設が黒く塗りつぶされた戦中の空中写真を参照していて、信濃町の北側にこの建物がないことに気がついた。
 戦前は、同所には和館とみられる大きな屋敷が建っていて、山手大空襲Click!により周囲の屋敷林ともども全焼している。現在の信濃町9~10番地のほぼ全体を占めるほどの広さで、誰の屋敷だったのかは不明だが、その広い敷地の北寄り、ちょうど母家があったあたりに、現在の文学座アトリエは建っていることになる。
 文学座アトリエは、同劇団のサイトによれば竣工が1950年(昭和25)で、伊藤義次の設計だそうだ。英国のチューダー様式を採用した意匠で、完成当時から「アトリエの会」の上演場所として利用されている。また、附属演劇研究所の発表会の舞台としても利用されていて、同研究所の研究生が卒業する際にはここで学んだ成果を表現するのだろう。おそらく連れ合いも、ここで発表会(舞台)をやっているにちがいない。
 文学座附属演劇研究所による卒業発表会のときに制作された冊子を見ると、この信濃町にある文学座アトリエで演技の学習や演劇の講義、舞台の練習などを行なっていた様子がとらえられている。卒業発表会のパンフレットは、学校でいえば卒業アルバムに相当するもので、同期に卒業した研究生全員のプロフィールとともに、集合写真やアトリエでの稽古、講師や先輩たちによる講義の様子などが掲載されている。
 連れ合いの卒業時には、36名の研究生がいたことがわかるが、現在の文学座附属研究所の研究生の募集人数は30名なので、当時は研究所への入学希望者がかなり多かったのだろう。あのころでいえば、東京芸大の人気学科を超える“狭き門”だったらしい。男女の比率は、男子が18名で女子が18名のちょうど半々で、中でも演劇の伝統Click!からか早大の劇研などの演劇グループや、文学部演劇科の学生が多かったと聞いている。
 これらの卒業生たちは、俳優や声優になったり、演劇の演出家や劇団の主催者など、現在でも演劇にかかわる仕事をしている人たちが多い。連れ合いのように、とりあえず演劇から離れ、まったくちがう方向へ進んでいった卒業生のほうが、むしろめずらしいのかもしれない。同期の仲間から、ときどき連絡があるようだが男子の卒業生は演劇人が多く、女子の場合はまったくちがう生活を送っている方が多いのは時代のせいもあるのだろう。
 また、卒業発表会の冊子には、同研究所で演劇を教えていた講師陣による寄せ書きが掲載されており、卒業生へたむけたひと言が手書きの文字で掲載されている。たとえば、以下のようなコメントだ。1975年(昭和50)に発行された「第十四期卒業発表会」(文学座附属研究所)から、その一部を引用してみよう。
  
 あれっ! もう卒業なの? 何もしないうちに終っちゃったね。まあ、残んなくても、街で会ったら、飲みましょう:楠本章介/あなた方の芝居観るの、ホント、勉強になるわ! アーラいやだ、私なんか鼻たれ小僧もいいとこよ、何年、やっても……。どう遊ぶかよ。遊んでる時が恐いのよ!:田代信子/う~ん……そうねえ、あん時のことは……今言う江戸弁は、曲がりなりにもよくやるけど、東京弁というのは難しいもんですよ。皆、なかなかうまくやった。実は僕、驚いてますよ。:龍岡普/才能の乏しい人は粘ること!……あの人を見よ!:藤原新平/早くうまくなってオレみたいな役者になれよ!:小林勝也/精一杯自分を出しなさいネ:南一恵/日常の色々な音をつかまえること 生きたセリフのいえる役者になれ:横田昌久(順不同:以下略)
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 演劇の世界はただ観るばかりで、その内情はほとんどまったく知らないが、まるで進路が決まった高校生を送りだす熱血教師のような言葉が並んでいて熱い。
 なんらかの表現や成果物を求められる仕事には、必ず才能の有無が常に問われてくることになる。それは、別に他者に問われるばかりでなく、自分自身への問いかけも折々何度でも発生してくるだろう。また、それは一生の仕事になるかならないか、人生を賭けてもいいのかどうか、どれぐらいつづければ仕事に自信がつくのか……、別に演劇に限らず、なんらかの専門分野で仕事をする人間なら、誰しも自問自答を繰り返すことになる。
 同じく講師のひとりだったと思われる、先年84歳で他界した演出家の岩村久雄は、冒頭に『雑感』と題してこんなことを書いている。同冊子より、つづけ引用してみよう。
  
 何年か続けて卒業生に送る言葉を書いてきたが今思いつくことがすべて何年か前に書いたような気がして筆がうまく運ばない。しかし、そう沢山のことを言っているわけではなく、芝居のむづかしさを、時には、俳優としての才能のない者は直ちに止めて転業せよとすすめたり、努力すれば何とかなるだろう等とわけしりだてにいっているにすぎないのだ。自分に才能あり、という幻想を抱きながら泥沼にづるづる(ママ)とのめりこんで行く悲劇を自覚せよと書いた年に何人かの生徒が自分にはそういう才能があるかどうか打割って話して欲しいと言われて困ったことを覚えている。あの時、しかし何と答えようと、決してその人達は止めることなく続けているだろう。
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 「自分には才能がなく、向かない世界かもしれない」と、早めに見切りをつけて転身した連れ合いのようなケースもあれば、せっかく文学座の演劇研究所を卒業したのだからと、演劇の世界をあきらめきれずに現在でも地道につづけている方もいるのだろう。好きで飛びこんだ世界なのだから、本人がとても満足しているならそれはそれでいいのではないかと思う。上記の文章で、「才能があるかどうか」を訊ねた卒業生がいたようだが、それはどこかで自分自身が見きわめることであって、あえて他者に訊くことではないだろう。
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 好きな演劇の世界にいる仲間ということで、なんとなく講師と研究生たちの和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるが、アトリエにひときわ緊張が走る時間もあった。アトリエの裏に住んでいる杉村春子Click!が、演技指導で姿を見せるときだ。まず、アトリエ内を隅々まで掃除してきれいにし整理整頓しておかないと、汚れているところを見つけたら最後プイッと母家へ帰ってしまうので、まるで研究生たちは昔の「姑」のチェックを待つ「嫁」のような心境だったのではないだろうか。いかにも、歳をとった杉村春子Click!は佐々木すみ江と同様、ちょっと意地悪な「姑」役がピッタリ似合いそうだが……。w
 まあ、文学座の実質上のボスなのでしかたがないのだろうけれど、母家へ呼びにいくのは研究生たちが順番で(いやいや?w)かわりばんこに担当していたようだ。そして、彼女はそのときどきで多種多様な役どころを演じて見せると、アトリエから再び母家へ泰然ともどっていったらしい。要するに、細かな演技の指導や技術の講釈をするよりも、最初は見よう見マネでおぼえろという教育方針だったのだろう。
 杉村春子が若い子たちに向け、あまり教育熱心でなかったのには理由がある。彼女には、せっかく建設したアトリエで自由に稽古をすることができず、文学座の研究生たちに半ば“占領”されてしまった……というような意識が強くあったのではないか。つまり、文学座の俳優たちが舞台稽古のため、いつでも自由に使えてこそ劇団のアトリエとしての意味があるのに、いつも駆けだしで右も左もわからないような若い子たちが占有して、自分の思うように稽古ができないという不満がくすぶっていたのだろう。
 2002年(平成14)に日本図書センターから出版された杉村春子『舞台女優』Click!では、こんな不満をチラッともらしている。
  
 それでもしばらく、私が芝居をすれば、古いの何のといわれ、いやな思いをしましたが、私がそれまで生きてきたのは芝居がしたかったからで、文学座のアトリエは私にとっては何にもかえ難いところでした。このアトリエで一つの芝居をはじめからああでもない、こうでもないとつくり上げることができます。その魅力です。/しかし、それもなかなか自由にはできませんでした。アトリエが若い人たちの道場のようになることは大いに結構なことでしたが、私たち古くからいる者はアトリエの椅子一脚でさえ、どれを使ってよいかわからなくて寂しい思いをした時もありました。
  
 どうやら、自分たちが稽古に使いたいのに、いついっても「若い人たちの道場」化してて、思いどおりにならないことにちょっとスネていたようなのだ。杉村春子のような女性が一度スネると、機嫌が直るまでに少し時間がかかりそうだけれど、「私のかけがえのないアトリエを汚さないでちょうだいな、ここは芝居が生まれるとても神聖なところなのよ」という、彼女の思いもなんとなくわかるような気がする。
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 文学座には、同劇団を応援する“友の会”のような「文学座パートナーズ倶楽部」というのがある。研究所を卒業した連れ合いは、当然この倶楽部に入っていると思いきや、劇団民藝を応援する「民藝の仲間」になってたりする。ご近所に住んでいた白石珠江さんClick!つながりで、民藝の芝居のほうが好きらしいのだが、これって慶應を卒業したOGが稲門会に入っているような、妙な具合なんじゃないだろうか。両劇団とも、ここ数年の新型コロナウィルス感染症禍ではリモート舞台へ積極的に取り組んでおり、生き残りを賭けて必死だ。

◆写真上:信濃町の文学座アトリエで、裏には生前の杉村春子が住んでいた。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大きな和館とみられる屋敷があった現・文学座敷地の一画。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる文学座アトリエ。は、1975年(昭和50)撮影のちょうど連れ合いが研究生として通っていたころの同アトリエで、西側にはテニスコートが見えている。
◆写真中下は、1974年(昭和49)撮影の文学座への入口あたり。は、「第十四期卒業発表会」に寄せられた講師陣のコメント。は、1975年(昭和50)に卒業した第14期生の集合写真(意図的にぼかしている)で、現在でもTVや映画で目にする方もいる。
◆写真下は、同発表会に掲載された講師陣コメント。中左は、「第十四期卒業発表会」の冊子表紙。中右は、なにかの仕事で取り寄せた写真入りの文学座「演技者名簿」。は、1994年(平成6)上演の文学座『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で舞台上の杉村春子。

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