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自意識がしっかりした子は乗り物酔いをする? [気になるエトセトラ]

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 子どものころ、バスで遠足にいったりすると、必ず乗り物酔い(正式には「動揺病」というのだそうだ)で吐く子が何人かいた。学生時代にも、フェリーなどの船に乗ったりすると青白い顔をして、デッキで潮風に吹かれてやたら寡黙になっていた友人がいたのを憶えている。わたしは、クルマも列車も船も飛行機も、乗り物にはまったく酔わないので、そんな光景を不思議に思って眺めていた。
 うちの母親もバスのジグザグ走行には弱く、子どものころ小田原から急峻な箱根の山道をクネクネ走る登山バスに乗ると、宮ノ下あたりで「気持ちワル」とつぶやいていた。だが、タクシーや乗用車はまったく平気なようで、40代からギアが5段まであるスポーツタイプのセダンを、親父を乗せては平然とぶっ飛ばしていた。なにか、特別な振動や揺れ、車内の臭いなどがあると気持ちが悪くなったのではないだろうか。ユーホー道路Click!(遊歩道路=湘南道路=国道134号線)をほぼまっすぐ走る鎌倉行きClick!のバスでは、一度も酔った姿を見たことがない。母親は、山道をジグザグ走行する登山バスは苦手だったようだが、ほかの乗り物には別に酔うことはなく大丈夫だったようだ。
 隣りの座席(窓側)に座ったバスに酔う子へ、視線を車内や手もとに置かないで、窓の外の景色を見るようにすれば気持ち悪くならないよといったら、外の景色を見たまま吐いた子もいた。こうなると、「自分は乗り物には弱くて、必ず気持ち悪くなる」という自己暗示にかかっているのではないかとも思えるが、道路を走るバスの不規則な揺れや、運転がヘタだとアクセルとブレーキのきかせ方などちょっとした操作のちがいで、急に胸がむかついて気持ちが悪くなってしまうのかもしれない。
 ちなみに、乗り物酔いは病気だとは思えないので、やはり「動揺病」という名称は不可解に感じる。もともと、平衡感覚をつかさどる三半規管が脆弱で、生来揺れに弱く耐えにくい体質や性格をしているだけで、別に病気ではないだろう。ときどき気圧の急激な変化で頭痛がして、わたしは頭痛薬を飲むのだけれど、それを「気圧病」とはいわないのと同様に、乗り物酔いの薬を飲んでバスに乗る子を「動揺病」と、病人扱いするのはおかしいと感じる。なんでも「病気」にすれば、売り上げが伸びて嬉しがる1970年代以来の日本医師会と製薬会社がつるんだ販促用の病名だろうか?
 子どものころから、鉄道の旅はずいぶんしているけれど、電車や列車に長時間乗って気持ちが悪くなった人はあまり見かけない。変則的な動揺ではなく規則的で予測できる揺れだし、頻繁にアクセルとブレーキを使いわけるクルマとは異なり、一度走りだしてしまえばいちおう安定したスピードを維持するので、身体がそれに馴れてしまい気持ちが悪くならないものだろうか。列車や電車では、別に車窓から風景を眺めず手もとのスマホや本を読んでいても、たいがいの人は気持ちが悪くならないだろう。たまに、通勤電車などで具合が悪くなった人を、駅員が介抱している光景を目にするが、満員電車の人いきれや圧迫で気持ちが悪くなったか、もともと調子が悪かったのに無理して出勤し、途中で症状が悪化した人たちで、乗り物酔いではないように思える。
 もうひとつ、これまでの経験からいうと、船に弱いのは女性のほうが多いような気がする。わたしはボートからディンギー、ヨット、屋形船Click!クルーザーClick!、フェリーや客船などの外洋船にいたるまで乗るのが楽しみだが、船がダメという女性はかなりたくさんいる。「揺れるエレベーターに連続して乗ってるような感じがイヤ」というので、おそらく船のローリングやピッチングが苦手なのだと思うのだが、あれが船に乗る面白さであり醍醐味であり、楽しみだといってもまったく聞く耳をもってくれない。
 「揺れない船なら、乗ってみてもいいけど」とかいうので、「タイタニック」(約4万6,000t)レベルだとまだ多少揺れるだろうから、台風に突っこんでもローリングもピッチングもたいして発生せず、艦首に魚雷を食っても艦内にいた乗組員の大半が気づかなかった戦艦「大和」Click!とか同型艦の「武蔵」Click!(約7万2,000t)クラスだと、たぶん酔わないで大丈夫だと思うといったら、「戦艦『武蔵』なら乗ってもいいわ」などという、わけのわからない会話をした憶えがある。80年ほど前に就役していた両艦が、船酔い防止のフネとして語られることになるとは、当時の海軍工廠の設計・造船技師は思ってもみなかっただろう。
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 わたしは、かなり乗り物には強いはずなのだが、一度だけ吐きそうになったことがある。子どものころ、遊園地で乗ったコーヒーカップだ。若い子は知らないと思うので少し解説すると、メリーゴーランドのように回転する大きなソーサーの上に載った、いくつかのコーヒーカップがまわる遊具だが、カップの真ん中にハンドルがついていて、それを回すとカップ自体もグルグル回転する仕組みになっていた。
 わたしはそれが面白く、調子にのってハンドルをグルグル際限なく回していたら、降りるとき目がまわって気持ちが悪く、両親ともども吐きそうになった。そのあと、回復するまで全員が木陰のベンチで休んでいたのを憶えている。そういえば、ジェットコースターに乗っていて吐いた子もいた。うしろの人たちはたまったものではないが、金山平三Click!「車窓からオシッコ」Click!よりはまだマシだったような気もする。
 東京の市街は、バス路線が網の目のように張りめぐらされているので、それを乗り継げば鉄道を使わなくてもたいがいのところへはいける。しかも、鉄道駅とはちがって目的地のすぐそばにバス停がある可能性が高く、かえって便利なケースも多い。ただし、目的地までどれぐらいの時間を要するか交通事情が日々変化するので、確実性からいえばやはり鉄道のほうが有利だろうか……と、いままで思ってきたけれど、このところ電車や地下鉄も事故で遅延することが頻繁に起きるので、どちらが確実ともいえなくなってきた。
 そんな都バスにたびたび乗っていても、気持ちが悪くなる人を見かけたことはない。もともと酔わない人がバスを利用していると考えることもできるし、乗り物に弱い人は気持ちが悪くなったらボタンを押せば、いつでもすぐに最寄りのバス停で下車してしまえばいいと思って乗車している人もいるだろう。そんな情景を想像していると、乗り物酔いでもうひとつ、重要なファクターに気がつく。つまり、強制されて乗車しているとか、どこでもすぐに降りることができないケースで、乗り物酔いが多く発生していることだ。
 遠足のバスで酔ったら「ここで降りて、しばらく休ませいください」とは、その日のスケジュールや他の参加者たちの手前なかなかいえないし、船舶やジェットコースターならなおさら途中でイヤになったから降りることなどできない。箱根のジグザグカーブを走る登山バスも、途中で気持ちが悪くなったからといって山の中で下車しても、再びバスかタクシーに乗ってジグザグの登山道を走らなければ、進むことも帰ることもできない。つまり、一度乗ったら最後、目的地に着くまで絶対に降りられないという緊張感や強制感(脅迫感)が、乗り物酔いの原因に大きく作用しているのではないだろうか。
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 そんなことを考えながら思い返してみると、乗り物酔いをする子はけっこう頭がよくて几帳面で、自意識がしっかりしたタイプが多かったような気がする。換言すれば、想像力が豊かで先読みができる頭のいい子が、「これに乗ると1時間は走りっぱなしなんだから、途中で気持ちが悪くなるかもしれないわ。バス酔いしたらどうしよう、先生やみんなに迷惑はかけられないし。きょうは、そう考えて朝食はほとんど食べてこなかったんだけど、お腹が空いてるとよけいに乗り物酔いするっていうし。いちおう薬は飲んできたけど、この前は薬を飲んでも酔ったことがあったし」と、緊張とともに几帳面な自意識や心配性が頭をもたげ、いろいろ先々のことを考えているうち、ほんとうに気持ちが悪くなってくる……というようなシチュエーションではなかったろうか。
 わたしのように、きょうは遠足でお菓子をいっぱい持ってきたし、バスの中でも誰かとお菓子の交換しながらどんどん食べちゃおうかな~、「待ちに待った遠足だよん、ウヒャヒャヒャヒャヒャ」というような、刹那的で目先の楽しさしか目に入らない脳天気なガキだと、絶対に乗り物酔いなどしないような気もする。自分の内面を見つめていろいろ考えることができる子、そして少し先の自分の状況を想像できる子、やや自意識が過剰気味で心配性な子が、バスに乗ると青い顔をしていたような気がしないでもない。
 そんな女子には、大人になってからもたまに出会うことがあり、エレベーターに乗ったら先客の女性がひとりで乗ってたりする。わたしが奥に入って、彼女の斜めうしろに立ったりすると、ブラウスの背中がみるみる緊張していくのがわかるのだ。無意識にか“話しかけるなオーラ”がすごく、背中全体でバリアを張っているような気配が漂っている。
 「この人、危ない人じゃないかしら。そのうち、髪が艶やかでキレイですねとか、雨の日の女性はしっとりして見えてステキだ……とかなんとか、いい加減で適当な甘いことをいいながら馴れなれしく近づいて、髪の毛に触るんじゃないかしら。いいえ、ひょっとすると耳もとでそんなことを囁きながら、何気なくウェストからお尻に手をまわすんじゃないかしら」……などと饒舌に語っているような背中が、見るからにピリピリと緊張している。そこで、わたしがうかつに身じろぎをしようものなら、いきなり「さっ、触らないでください!」とか叫びかねないような自意識過剰な女子だ。
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 痴漢にまちがえられないうち、距離をとって両手をうしろで組み、早々にエレベーターを降りたほうが安全な状況だが、わたしの中で乗り物酔いと自意識過剰なエレベーターの女子とが、どこでどう結びついてしまったものだろうか。確かに、子どものころの乗り物酔いは女子のほうがかなり多かったし、また小学生ぐらいだと女子のほうが成長も早く圧倒的にオトナで、自我や自意識をしっかりもった子が多かったのは、確かにまちがいないのだが。

◆写真上:1979年(昭和54)に撮影された、高田馬場駅前を出発する都バス。
◆写真中上は、同じく1979年(昭和54)に撮影された高田馬場駅前の様子。は、1970年(昭和45)前後の母親が途中で気持ちが悪くなった箱根登山バス。小田原から元箱根まで一気に運んでくれて、箱根登山鉄道よりもはるかに便利だった。
◆写真中下は、わたしの知らない1937年(昭和12)のユーホー道路(国道134号線)。遠景に見えているのは、高麗山や湘南平(千畳敷山)などの大磯丘陵。は、同じくわたしの知らない1949年(昭和24)撮影の七里ヶ浜から眺めた稲村ヶ崎。は、わたしもよく知っている1960年代後半のユーホー道路(湘南道路)を走るバスと江ノ島。
◆写真下は、わたしが吐きそうになったコーヒーカップ遊具の残骸。は、船に弱い人でも絶対に酔わないと思われる世界最大の客船「シンフォニー・オブ・ザ・シー号」(22万8,000トン)。は、女子とふたりになったりするとたまに要注意なエレベーター。

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『高田村誌』と『高田町政概要』の間に。 [気になるエトセトラ]

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 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、先ごろご紹介した1930年(昭和5)出版の『高田町政概要』Click!(高田町役場)、あるいは1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)との間に、1929年(昭和4)に三才社から出版された江副廣忠『高田の今昔』がある。
 当時はめずらしい和綴じ本の仕様で、全ページが和紙へのガリ版(謄写版)刷りだ。町政にはじまり、史蹟や伝承など歴史や文化の記述で終わる構成は『高田町史』とほぼ同じだが、『高田の今昔』のほうが部分的にはるかに詳細で、微に入り細に入り具体的だ。しかも、4年後に出版される『高田町史』の記述とほぼ同じ文章の項目も数多く、同町史の高田町教育会には江副廣忠も参画していたのではないだろうか。『高田町史』が250ページほどのボリュームなのに対し『高田の今昔』は300ページを超えており、しかも1ページの文字量も多くガリ版刷りにもかかわらず名所旧跡がイラストなどで挿入されている。
 当時、少部数の本をつくる場合に、ガリ版(謄写版)印刷を選択するのは、別にめずらしいことではなかっただろう。学生街だった神田や早稲田には、謄写版専門の印刷所が軒を連ねていた時代だ。ただし、ガリ版で印刷された本は、ほとんどがインクの沁みこみやすい「わら半紙」と呼ばれる、安価で黄ばんだ質の悪い紙を用いたため、長い時間が経過するとボロボロになり、現在まで伝えられているものはあまりない。
 だが、『高田の今昔』は手ざわりのいい高級和紙に刷られているため、今日でもまったく腐食していない。それどころか、刷られてからそれほど時間がたっていないような、謄写版インクの匂いが漂いそうなほど真新しく感じる品質を保っている。著者の江副廣忠は、北豊島郡高田町雑司ヶ谷24番地に住んでいるが、この住所は秋田雨雀邸Click!の数軒隣りの敷地であり、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の門前にあたる位置(威光山法明寺Click!の広い境内のうち)だ。同書の巻頭にも、秋田雨雀が序文を寄せているので、両者は親しく交流していたのだろう。1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」には、残念ながら三才社も江副廣忠のネームも採取されていない。
 印刷所は、同じ所在地の三才社印刷部となっており、発行所は著者の住所と同じ三才社なので、江副廣忠は鬼子母神の門前で、なんらかの会社か店舗を経営していたのだろうか。また、印刷者は長崎町3732番地の大橋一邦と記されており、著者が書いた原稿を見ながら実際にガリ切りして印刷したのは彼なのだろう。この住所は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の東長崎駅の北側で、以前ご紹介した片多徳郎Click!描く『郊外の春』Click!(1934年)の旧家・田島邸がある南西側、やはりいくつか田島家が並ぶ駅寄りの一画だ。
 わたしの手もとにある『高田の今昔』は、表紙裏に「拙著壱部/八雲文庫ニ献呈ス/昭和四年九月十六日著者」と献呈書きがあるが、この「八雲文庫」とはどこの施設だろうか。西大久保の旧・小泉八雲邸Click!に、そのような蔵書を公開する施設が当時オープンしてたものか、あるいは晩年に講師をしていた早稲田大学の図書館に、彼の特設コーナーでも設けられていたのだろうか。献呈書きの対向ページが同書の中扉であり、その次には折りたたまれた高田・雑司ヶ谷・落合・長崎地域の絵図、すなわち金子直德Click!が書いた『和佳場の小図絵(若葉の梢)』Click!をもとにした、1798年(寛政10)現在と同一の「曹司谷 白眼 高田 落合 鼠山全図」が付属している。
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 おそらく、江副廣忠は秋田雨雀Click!よりも年長で、著作に『大日本帝国御皇統大系図』などもあることから、社会主義者の秋田とは思想的に対極だったが、学者同士として積極的に交流していたようだ。同書の巻頭に掲載された、秋田雨雀の序文を少し引用してみよう。
  
 私達の住つてゐる雑司谷の土地は千年以来歴史的に著名な土地であり、七百年来仏教文化の発祥地であり、宗論の伝説を持つてゐる大威光山を有し、また徳川末期に於ては大名、武士、町人三階級の信仰と享楽の土地であつたと言ふ点からも文化史的に重大な位置を占めてゐるものといはなければなりません。然るに私達はその歴史の真相についてはほんの少ししか知つてゐません。或は全く知つてゐないといつていゝ位です。江副さんのこの著述は歴史、伝説、口伝を一々調査して、それに整理を与へてゐます。就中感服に堪へないことは威光寺伝説を研究して、史実により大胆にそれを修正しやうとしてゐることです。著者は威光山の寺内に住居してゐながら、少しも妥協しやうとされなかつたことは学者の態度として尊敬の念を禁じ得ません。
  
 雑司ヶ谷は「千年以来」の歴史どころか、落合地域と同様に旧石器時代から現代まで、間断なく人が住みつづけてきた数万年の重層遺跡が眠る地域となっている。
 秋田雨雀は、威光山法明寺の「寺内」と書いているが、雑司ヶ谷鬼子母神の門前は往年の法明寺境内の一部であり、その借地の上に建てられた江副邸であり三才社だったのだろう。江副廣忠が雑司ヶ谷24番地に住みはじめたのは、1929年(昭和4)の時点で丸9年=1920年(大正9)に転居というから、同町ではかなり新参の住民だった。それが、なにをきっかけに雑司ヶ谷の歴史や風情、文化に惹かれたのかは著者の序文にも書かれていないが、自宅周辺の環境や人情が気に入って調べてみる気になったのだろうか。
 同書より、かなり謙遜がすぎる江副廣忠の「自序」を少し引用してみよう。
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 九年も住んで居ればその土地の名蹟、伝説等にも通暁して居らねばならぬ筈でせうが、鈍感の私には其の知識は欠乏して居ります。誠にお愧かしい次第です。/私へ此の土地の事を少しでも教へて呉れたのは、黴の生えさうな昔の文献(それも少数)で、官公衛の統計等を頂いた外、土地の古老より一言の教へを受けた事もなく、又篤家とかに蔵せらるゝ(若しありとするも)一枚の文書でも借覧致した事がありませぬ。浅学粗笨の頭脳と、史料は貧弱至つて貧弱の書架と、ノートより引出して組立てました此の拙著、先輩各位の御一顧の価のない事は、私自身で百も承知二百も合点いたして居ります。
  
 それにしては、わずかな時間でよくこれだけのコンテンツを取材・編集・執筆できたものだ。威光山法明寺もそうだが、幕末に破却された鼠山Click!感応寺Click!の項目にいたっては、現存する文献のほとんどを網羅しているのではないだろうか。伝説や口伝も、往古の昔から現代に近いウワサ話まで収録してあり、名所旧跡の解説は高田町史よりもよほどボリュームがあって詳細だ。むしろ、『高田の今昔』を要約したり転載したのが、『高田町史』の記述のようにも思えてくる。
 また、現代の高田町については、位置や面積、地勢、沿革などの総説にはじまり、財政や教育、衛生、寺社宗教、商工業、警察、道路などほとんど『高田町史』と変わらない。もっとも、『高田町史』は1933年(昭和8)の出版なので、その4年前の町内データということになる。また、『高田町政概要』(1930年)からみれば前年のデータが網羅されており、『高田村誌』(1919年)からは10年後の高田町の姿をとらえていることになる。
 中には、『高田町史』よりもはるかに詳細な記述が見られ、たとえば高田警察署に関しては、江戸期の警察制度(町奉行所)からの歴史が解説されており、地元の警察署が板橋警察署管下から出発して、1918年(大正7)には板橋警察署巣鴨分署管下となり、1919年(大正8)に高田警察署としで独立。1929年(昭和4)の時点では、警部(署長)×1名、警部補×8名、巡査部長×10名、巡査×132名、書記×3名の計154名で構成されており、高田町と長崎町を管轄として派出所12ヶ所+駐在所5ヶ所で構成されていた……というように、各派出所や駐在所名までこと細かく収録されている。
 また、ところどころに挿入されたガリ切りのイラストも秀逸で、たとえば雑司ヶ谷鬼子母神の境内は、1929年(昭和4)現在ではどのような風情をしており、どのような人物たちが往来していたのかが細かく描きとめられている。イラストの左手には、江戸期創業の上川口屋Click!が見えているが、右手には枝折戸を開けている江戸期からの庭園付き料理屋とみられる店が残っている。また、参道手前の右下には鬼子母神名物の「すすきみみずく」を売る露店や、参道の左手には骨董品のようなものを並べて売る露天商の姿も見えている。当時の記念写真や絵はがきのたぐいは、人物をすべて省いた情景を撮影するのが通例であり、このような境内の日常を活写したイラストはとても貴重だ。
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 挿画の中に、地元の工芸品「すすきみみずく」を何種か描いたイラストがあるが、そのひとつがいわゆる“オーパーツ”のようだ。どう見ても、1988年の「となりのトトロ」(スタジオジブリ)が横を向いた姿そのものだ。ミミズクのほかに、ひょっとすると当時はタヌキやキツネを形象化したものも売っていたのかもしれないが(鬼子母神にかかわる狐狸伝説Click!は周辺地域に多い)、いまでは「すすきみみずく」のみになっている。「すすきみみずく」ではなく、「すすきトトロ」についてなにか判明したら、またこちらでご紹介したい。

◆写真上:鬼子母神の仁王阿形像で、江副廣忠の三才社は画面右手あたりにあった。
◆写真中上は、1929年(昭和4)出版の江副廣忠『高田の今昔』(三才社/)と献呈書き()。は、同書の奥付()と三才社の『大日本帝国御皇統大系図』広告()。は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる雑司ヶ谷24番地界隈。
◆写真中下は、三才社(江副邸)があったあたりの現状。は、高田警察署の沿革について詳述したページ。は、当時の新聞記事まで収録したページ。
◆写真下は、同書の挿画で1929年(昭和4)の鬼子母神境内の様子。は、「すすきみみずく」のイラストだが中にはミミズクに見えない作品がある。は、現在の雑司ヶ谷鬼子母神と境内の茶屋で売っている「おせん団子」。笠森お仙Click!に関連する団子かと思って訊いたら、鬼子母神の子ども千人にちなんだ安産祈願の「お千団子」だそうだ。

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失意のなかの鶴田吾郎『長崎村の春』。 [気になるエトセトラ]

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 1926年(大正15)5月に開催された第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に、鶴田吾郎Click!は『長崎村の春』と題する風景画を出品している。同作は、日本橋にあった巧藝社により記念絵はがきが制作され、会場だった東京府美術館で販売されたものだろう。絵はがき店で見つけた、あまり見かけることのないめずらしい1枚だ。
 画面を見ると、制作年の春先のようにも思えるが、右側に描かれた稲を収穫したと思われる稲木(藁干し)がどこか秋を感じさせる。左手の遠景に見えている黄土色のかたちは、黍(きび)殻を三角錐に束ねたキビガラボッチだろうか。でも、手前の田畑と思われる地面には青々とした草叢ができており、晩秋のようには見えない。畑地の中央に、茶色い窪地のような描きこみがあり、左から右へ線状に描かれているのは用水路だろうか。あるいは、当時の谷端川や千川上水であっても、決しておかしくはない風情だろう。また、遠景に見える木立ちは葉を落とした(あるいは若葉をふいて間もない)ケヤキの、空へ拡がる枝幹のような描き方であり、空に描かれた雲も強い気流に吹かれる筋雲のような趣きを見せているので、どこか冬のような雰囲気も漂っている。
 タイトルが『長崎村の春』なのだから、「春」にまちがいはないのだろうが、どことなく描き方にチグハグさを感じてしまう。右の藁干しから、「秋」の10月といわれればそんな気もするし、遠景のケヤキなど落葉樹と思われる木々や、よく晴れあがった空模様だけを取りだして見れば、「冬」だといわれてもおかしくない風景だ。また、下の草叢だけに視点を合わせれば、そろそろバッタが飛びだす初夏のような風情にさえ感じる。タイトルには「春」としっかり規定されているが、どこか季節感が曖昧で虚ろな感覚を画面から受けてしまうのは、わたしだけだろうか?
 このとき鶴田吾郎Click!は、関東大震災Click!のあと夏目利政Click!が設計し手配してくれた下落合804番地のアトリエClick!を放棄し、短期間の仮住まいをへて、長崎村地蔵堂971番地(現・千早1丁目)のささやかなアトリエClick!へ転居したばかりのころだった。ちなみに、長崎村が町制へ移行して長崎町になるのは、『長崎村の春』が出品された聖徳太子奉讃美術展の1ヶ月後、1926年(大正15)6月のことだ。
 当時、地蔵堂のアトリエを出て、『長崎村の春』のような風景を探すのは非常にたやすかっただろう。作品と同年に作成された「長崎町事情明細図」を見ると、地蔵堂971番地にはすでに「ツル田」のネームが採取されている。そのアトリエから西側に拡がる、字名でいえば西向(現・千早/長崎/要町界隈)、あるいは北側の北荒井や北原(きたっぱら)、境窪、高松(現・要町/千川/高松界隈)には、画面のような風景があちこちに拡がっていたとみられる。したがって、地形的な特徴や目印となる構造物が描かれていない、同作の描画ポイントを絞りこむのはむずかしい。
 『長崎村の春』を描いたとき、鶴田吾郎はいまだ失意と虚脱感を抱えていただろう。1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素顔』によれば、「私の身辺は決して面白いものではなかった」と書いている時期から、まだそれほど時間が経過していない。1924年(大正13)の夏、自信をもって描いた100号(宇都宮まで写生に出かけた作品)が帝展に落選したのを皮切りに、同年の秋には中村彝Click!が名づけ親だった長男の徹一を、疫痢によりたった一晩で亡くしている。つづいて、同年12月には兄事していた中村彝が病没する。彼にしてみれば、下落合804番地のアトリエは忌まわしい想い出がこもる住まいとなった。
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 そのあたりの経緯を、1999年(平成11)に木耳社から出版された鈴木良三Click!『芸術無限に生きて』収録の、「目白のバルビゾン」から引用してみよう。
  
 (鶴田吾郎アトリエは)曽宮(一念)さんのところも近かったので往来は繁く曽宮さんのアトリエで、二人でドンタクの会を毎日曜日、アマチュアのために指導を始めた。その間に曽宮さんをモデルにして百号に「初秋」を描き、第三回帝展に入選し、その次の年にも「余の見たる曽宮君」を出品した。/この年夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
  
 この文章の中で、鈴木良三の記憶にいくらかの齟齬がみられる。まず、関東大震災に遭遇したとき、鶴田吾郎は目白通りも近い下落合645番地の借家Click!(佐伯祐三Click!アトリエの北約140mのところ)に住んでいたのであり、震災で傾いた同住宅には住めなくなったので、夏目利政Click!に相談して下落合804番地に「小画室」を建てている。
 また、長男・徹一が疫痢で急死したのは1924年(大正13)の秋であり、その葬儀や法事の後始末が終わらないうちに、今度は中村彝の死去に遭遇している。鈴木良三の「翌年は彝さんの死にあい」は、明らかに記憶ちがいだろう。中村彝に関する残務があり(息子や彝の死を、身辺の忙しさで紛らせようとしていたのかもしれない)、1925年(大正14)までは下落合804番地に住みつづけていたが、たび重なる不幸に嫌気がさして、「祥雲寺前の新築の貸家を見つけて三ヶ月ばかり」(『半世紀の素顔』より)住んだあと、翌1926年(大正15)に長崎村地蔵堂971番地へと引っ越している。
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 さて、描かれた『長崎村の春』のころの長崎地域は、どのような様子だったのだろうか。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)が走り椎名町駅Click!東長崎駅Click!のある長崎村の南部と、山手線の池袋駅に近いエリアには、すでに住宅街が形成されていたが、広大な長崎村の北部や西部は明治期とさして変わらない風景をそのまま残していた。幕末から明治にかけ、千川上水にはニホンカワウソが棲息しており、地域の昔話にも登場しているが、そのころとさして変わりない風景が展開していただろう。
 明治期から大正期にかけての、長崎地域における土地活用(耕作)について、明治末の1/10,000地形図をもとに解説した文章がある。1996年(平成8)に発行された「長崎村物語」展図録(豊島区立郷土資料館)から引用してみよう。
  
 一見してわかることは、畑が広がり、そのなかに家々が点在しているということです。そして、字並木、字地蔵堂の集落が立地する舌状台地に沿って、西から東へ谷端川が流れ、その周囲に水田ができていることもよくわかります。南には、東西を結ぶ道路が通っています。これは、江戸時代には通っていた道で、江戸と郊外を結ぶ清戸道です。昭和の初め頃までは、長崎の特産だった茄子や大根が、この道を通って神田市場等へ運ばれていました。清戸道の途中に人家が密集するところがありますが、ここが、西武池袋線の駅名の由来ともなった椎名町です。商店が多く、農家の人たちが買物にいく場所でした。椎名町の東には、等高線の幅が狭くなっているところがありますが、これが鼠山で、現在は住宅地となっています。(中略) 椎名町から北上する道も旧道のひとつで、板橋に向かう幹線道路でした。金剛院の西を通りますが、この道筋は、今もあまり変わっていません。道の両脇は、苗木畑として利用されていたようです。
  
 現在、住宅街に埋めつくされている長崎地域からは想像もできないが、その北部(現在の千早/千川/高松界隈)は、戦後まで田畑が拡がる農村の面影を色濃く残していた。田畑には米や麦、黍、野菜類などが栽培されていた。
 特に黍殻は、名産だった茄子の苗床をつくるときには欠かせない風よけに使われたため、田畑のあちこちにキビガラボッチ(別名「ニュウ」)が立てられている。だから、鶴田吾郎の『長崎村の春』(左手の奥)にそれが描かれていても不自然ではない。画面の正面に見える、遠く離れた農家の屋根は茅葺きであり、屋敷林に植えられた常緑樹(おそらく針葉樹)が、空に向けて濃い緑を突きだしている。その背後に描かれた地平線に近い空が、どこか濁ったように灰茶がかっているのは、強い春風にあおられて舞いあがった赤土(関東ローム)が混じる色だからかもしれない。
地形図1909.jpg
本橋司「長崎町の農家」1932頃.jpg
キビガラボッチ.jpg
 新しい生命の息吹を感じる、春の風景をモチーフに選んだにしては、なんとなくチグハグで不安定な感覚をおぼえるのは、鶴田吾郎の心のうちをそのまま画面に写しているからだろうか。立ち直らなければという思いを背に、春の野へ出て写生をはじめてはみたものの、さまざまな思い出が去来してタブローにうまく集中できない、そんな感慨を抱かせる画面だ。

◆写真上:下落合から転居後、1926年(大正15)に制作された鶴田吾郎『長崎村の春』。
◆写真中上は、第1回聖徳太子奉讃美術展覧会で販売された『長崎村の春』の絵はがき(巧藝社製)。は、同画面の中央部と左側の部分拡大。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる地蔵堂971番地の鶴田吾郎アトリエ。は、戦後の1950年(昭和25)ごろ撮影された千川4丁目の風景。は、1929年(昭和4)制作の春日部たすく『長崎(池袋よりのぞむ)』。
◆写真下は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図に書きこまれた長崎村の字名。いまでこそ、「長崎」の地名は半分以下のエリアに限定されているが、「下落合」の地名が3分の1の面積になってしまったのと同様に、本来の長崎地域は広大だった。は、1932年(昭和7)ごろに描かれた本橋司『長崎町の農家』。は、長崎村(町)のあちこちの畑地で見られたキビガラボッチ(ニュウ)。

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『高田村誌』と『高田町史』の間に。 [気になるエトセトラ]

高田町役場総舎1930.jpg
 高田地域(およそ現・目白/高田/雑司が谷/西池袋/南池袋/東池袋界隈)は、大正期から昭和初期にかけて多種多様な記録が残されている、資料(史料)的にたいへんめぐまれた地域だ。1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)の間には、先年ご紹介した自由学園Click!学生たちClick!による綿密な全町が対象のフィールドワーク(社会調査)をともなった、1925年(大正14)出版の『我が住む町』Click!や、1929年(昭和4)に三才社から出版された江副廣忠『高田の今昔』などがある。
 また、『高田町史』(1933)以降にも、江戸期から昭和初期までの高田地域について記録した資料には、元・高田町長の海老澤了之介Click!による『追憶』Click!(非売品/1954年)や『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会/1958年)、森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房/1978年)など、周囲の地域に比べて資料類がたいへん豊富だ。これらの資料に、『北豊島郡誌』(北豊島郡役所/1918年)や『豊島区史』(豊島区役所/1951年)を加えれば、高田地域の近代から現代にかかる事跡をかなり詳しくトレースすることができる。
 このような記録は、その地域の地勢や風土、特徴、風俗、習慣、気質などを知るうえでは欠かせない貴重な資料となるのだが、残念ながら落合地域には当時のリアルタイムな記録としては、『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会/1932年)と、より古い『豊多摩郡誌』Click!(豊多摩郡役所/1916年)、『自性院縁起と葵陰夜話』Click!(自性院/1932年)ぐらいしか見あたらない。そこで、私家版でもいいから落合地域の古い記録がないかどうかを探していたら、またしても高田地域(高田町時代)の希少本を見つけた。
 ちょうど、海老澤了之介が町長に就任していた1930年(昭和5)に出版されたもので、高田町役場による『高田町政概要』(非売品)がそれだ。高田町の多種多様な当時の調査統計を、円グラフや棒グラフなどを使ってカラーでビジュアル化したり、高田町が実施している事業や施策あるいは計画の詳細を、同様にビジュアルなカラー地図や図版を使って解説したりする、これまで見たことのない行政記録だ。
 同書に近似した構成や表現は、自由学園の卒業間近な高等科2年生たちが発案し、ほぼ全校生徒が参加して実施した『我が住む町』(見やすいようカラーグラフ表現を採用している)に見られるので、高田町では彼女たちの意思や成果物を参考にし引き継ぐかたちで、同様のコンセプトにもとづき『高田町政概要』を出版しているのかもしれない。事実、自由学園の学生たちが興味をもったテーマや事象について、高田町役場側からより詳細に解説しているページがあちこちに散見される。
 豊島区の成立を記念し、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』に先駆けるように、大正中期から昭和初期にかけてのより仔細な町政の状況を紹介した同書は、『高田村誌』(1919年)と『高田町史』(1933年)の間を埋める、かけがえのない貴重な資料といえるだろう。特に統計資料では、町政が施行された1920年(大正9)以降の数字を扱うグラフが多く、前年の1919年(大正8)に出版された『高田村誌』以後の町内状況の推移を、意識的かつ積極的に紹介しているように見える。
 中でも特徴的なテーマは、自由学園の学生たちも強く意識していた関東大震災Click!以降の急激な戸数・人口増加(人口動態)の実態や、高田町予算における歳入・歳出の内訳、年度ごとの歳入・歳出の推移、町内建築物の増加推移、企業や商店をはじめ営業者数の増加率、町内車両(馬車・自動車・自転車など)の増加推移、死亡者の病名ごとに分類された累計、出生率と死亡率の変遷、道路建設計画の推移、町内の河川流域の整備状況、衛生と上下水に関する整備計画など、フィールドワークを前に自由学園の学生たちがノドから手が出るほど欲しがっていたようなデータが、1920年(大正9)を起点に(統計によっては1919年を起点に)して、1929年(昭和4)現在まで目白押しに掲載されている。
 おそらく、自由学園から寄贈された社会調査資料『我が住む町』(1925年)に刺戟を受けた町役場のスタッフたちは、その後、ほどなく町役場内に蓄積された資料を改めて整理しなおし、4年間かけて詳細な統計グラフや統計表組、イラスト、図版などを駆使した『高田町政概要』を編集しているのではないだろうか。ひょっとすると、海老澤了之介は統計のビジュアル表現について自由学園の学生たちと同様に、当時は高田町四ッ谷(家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた、母校の教授である安部磯雄Click!に相談しているのかもしれない。
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 当時の町長が、海老澤了之介だったことも幸いしたように思える。彼は文化的な事業や、地域の歴史に深い興味をもつ人物であり、「高田町のいま」を後世に残しておこうと考えたのかもしれない。いや、自由学園の『我が住む町』を見て刺激を受け、町内の詳細な状況を記録しておこうと意思決定したのは、彼自身だったのかもしれない。1928年(昭和3)に海老澤了之介は、早くも助役の役職に就いていた。
 また、『高田町史』(1933年)の記述が町内の歴史的な事蹟や物語に偏重し、町政についての記述内容が薄かったのは、これまで高田町教育会による編纂だからだろうと考えてきた。だが、そうではなく3年前に『高田行政概要』を出版したばかりで、あえて再び行政の仔細について触れる必要がなかったからなのだ。東京35区制Click!が施行され、豊島区に編入されて高田町が消滅したとき、最後の町長も海老澤了之介だった。
 『高田町史』を隅々まで読むと、巻末の「町史編纂経過記」には次のような文章が掲載されている。同書より引用してみよう。
  
 当時、高田町に関する著書としては、大正八年一月二十五日発行、山口霞村氏著『高田村誌』櫻井北洲氏著『高田総覧』あり、次て昭和四年五月三日発行、江副廣忠氏の『高田の今昔』等あり。而して同五年六月十五日、高田町役場庁舎改築落成式に際し、高田町は『高田町政概要』を発行せり。/惟ふに之等の著書は地誌又は行政に付き記述せられたるものにして、史実として多く見るべきもの無かりき。/本史は専ら本町に関し、古来より遺されたる史実的文献、並に口碑伝説等を収集調査し、以て郷土史として其の史跡を永久に伝ふることに努めたり。
  
 つまり、詳しい町政の内実については『高田町政概要』を参照してもらい、『高田町史』は最初から地域の歴史や伝承に重点を置いた、いわば“風土記”的な構成を編集のコンセプトとしていたのがわかる。海老澤了之介にしてみれば、『高田町史』のほうがはるかに編集しがいのある、面白い仕事だったのではないだろうか。
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 自由学園の『我が住む町』では、高田町内の道路の悪さや下水道の不備、塵埃処理にともなう衛生環境の未整備などが挙げられていたが、『高田町政概要』では特に上下水道と河川の整備や疾病、塵埃掃除(ゴミ収集)など衛生について独立した章を設けて記述しているのは、『我が住む町』に取りあげられている課題の多くが、そのまま町政に対する“町民の声”(フィードバック)だと判断していたのかもしれない。
 特に、自由学園の学生たちが各戸訪問で苦情が多かった塵芥掃除と汚物掃除は、1927年(昭和2)3月に町内で開業する清掃業者を作業員も含め丸ごと買収して町営とし、同年4月から町営事業としてサービスや料金の平準化と清掃作業の均一・徹底化を行なっている。また、下水道の不備については、『高田町政概要』が出版された1930年(昭和5)に、なんとか実地調査および測量が終わった段階だった。
 下水道計画の進捗が遅れていたのは、関東大震災後の住民増加により道路計画が数多く発生していたせいで、住宅の急増に対し道路の敷設さえ遅延ぎみで間に合わず、道路と一体化していた当時の下水道計画もまた遅れに遅れていたようだ。計画変更による二度手間を避けるために、町内の道路計画がある程度フィックスしてから下水道整備にかかろうとしていたのが、『高田町政概要』が出版された1930年(昭和5)ごろのことだった。ちょうど、宅地開発の爆発的な増加に下水道はおろか、上水道の整備がまったく追いつかないでテンテコ舞いだった、1960~1970年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 『高田町政概要』では、当時の苦労を次のように記述している。
  
 之が(下水道計画が)最善を期する為めには、本町の道路計画及び神田上水の一部防水及排水の設備をも考慮せる計画にあらざれば、町永久施設の意義をなさざるのみならず、(東京府の)認可後に於て設計を変更し再び実地設計に依り認可を得るのは、実に煩雑を生じ事業の進捗に大なる影響があるを感じ、昭和四年十二月二十九日高田町下水調査費四千九百余円を臨時費とし町会に提出して其協賛を得、昭和五年一月十日茂庭博士を顧問に招聘し、一月十四日実地調査員として嘱託六名工夫二名人夫四名を採用し直ちに諸般の準備を整へ、同月十八日より実地に就き下水道中心線の先点に着手し、爾来鋭意調査の進捗に努めたる (カッコ内引用者註)
  
 文中に登場する「茂庭博士」とは、土木工学の専門家だった茂庭竹生のことだろう。
建物累年比較グラフ1930.jpg
下水構造イラスト1930.jpg
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 『高田町政概要』は、落合地域の東隣りにあたる高田町の大正後期から昭和初期にかけての生活を、こと細かに知ることができる点で『高田町史』よりも格段に優れている。馬車や自動車ばかりでなく、自転車にも60銭の税金がかけられていたのも初めて知った事実だ。この地域の街の様子を詳しく知ることができる、願ってもない一級資料だろう。これから内容を読みこんで、なにか面白いテーマを見つけたら順次記事にしてみたい。

◆写真上:1930年に撮影された、目白通り沿いに建つ高田町役場総舎。手前は拡幅工事中の目白通りで、町役場は現在の警視庁目白合同庁舎の敷地にあった。役場の右(東側)隣りに見えているのは、火の見やぐらを備えた高田町消防組本部。
◆写真中上は、『北豊島郡誌』(1918年/)内扉と『高田村誌』(1919年/)。は、『高田町史』(1933年/)と『豊島区史』(1951年/)。下は、1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』(高田町役場/)と、当時の町長だった海老澤了之介()。
◆写真中下は、『高田町政概要』に掲載された1920~1929年の「人口及戸数」推移グラフ。は、同じく「人口動態数」推移グラフ。は、高田町立の職業紹介所。
◆写真下は、『高田町政概要』に掲載された「建物累年比較」推移グラフ。は、町内に敷設計画が進められていた各種下水道の構造イラスト。は、1929年(昭和4)に開校したばかりの目白駅前にある高田第五尋常小学校(現・目白小学校)。手前は拡幅工事が進捗する目白通りで、目白文化村Click!の前谷戸埋め立て写真Click!佐伯祐三Click!『目白の風景(中井の風景)』Click!と同様に、建築資材である大量の大谷石が道路端に集積されている。
おまけ
今年も、夏の到来をつげるお客様。サブノートPCのマウスほどもある、すごい力もちの巨大なカブトムシ♀だ。成虫になったばかりなのかボーッとしていて、キュウリに塗ったメープルシロップで水分補給をしたあと、うちのヤマネコに見つかるとかなりヤバいので外へ逃がしたけれど、網戸にたかってなかなか森へ帰らない。
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壺井栄にポカポカ殴られ蹴られる徳永直。 [気になるエトセトラ]

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 世の中には自分の意思や考え、感想などをハッキリさせず、モゴモゴとその場かぎりのおざなりで曖昧な言葉を並べているうちに、あれよあれよという間に物事が周囲に決められて迅速にコトが運んでしまい、にっちもさっちもいかなくなって呆然自失の態に陥ってしまう、優柔不断で情けない人物が確かに存在している。長編『太陽のない街』を著した徳永直が、そんな性格をした人物の典型だったようだ。
 徳永直といえば、小林多喜二Click!と並んで上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!の機関誌「戦旗」Click!に掲載された作品群とともに、プロレタリア文学の一方の“雄”だったイメージが強く、『太陽のない街』では小石川にある共同印刷の労働争議をたくましい印刷工たちの活躍を通じて描き、国内のみならず海外でも大きな反響を呼んだ作家だ。ところが、私生活ではまったく「たくましく」はなく、いろいろ問題を引き起こしている。その典型的な例が、彼の再婚をめぐるとある“事件”だった。
 1945年(昭和20)の敗戦が迫る6月、徳永直は長年にわたり連れ添った愛妻のトシヲ夫人を病気で亡くしている。あとには、高等学校(旧制)へ通う息子と、まだ幼い女子たち3人が残された。まだまだ手のかかる子どもたちを抱え、料理や裁縫などの家事をこなさなければならない徳永は、原稿を執筆するまとまった時間がとれずに四苦八苦していた。そんなとき、彼の脳裏に浮かんだのは、いつもニコニコと穏やかな笑顔をたたえている、世話好きの大仏さんのような壺井栄Click!の面影だった。
 徳永直は、日々子どもの世話がたいへんで仕事がまったくできないと、窮状を壺井栄あての手紙で切々と訴え、「文学がわからなくともけっこうです。お針のできるやさしい人なら理想的です」と、再婚の相手探しを依頼した。この手紙を読んだ壺井栄は、すぐにも頭の上にピカッとライトが点灯しただろう。彼女の妹は、郷里近くの女学校で裁縫教師をしており、40歳をすぎていたが独身だった。実妹は丙午(ひのえうま)の年に生まれているので、理不尽な迫害を受け敬遠されて結婚できなかったのだ。
 ここでちょっと余談だけれど、前回の丙午は1966年(昭和41)だったが、同年の出生率は急低下している。翌1967年の出生率は例年を超えて急上昇しているので、20世紀半ばの当時でもいまだに丙午の迷信を信じている人たちがたくさんいたことになる。丙午の年に生れた人物(男女を問わず)は、「気が強く支配欲が強い」という虚妄は、中国の陰陽五行に起源があるといわれ、それに中国や朝鮮の「女子は男子の上に立つべからず」という儒教思想とあいまって日本に“輸入”されたものだ。また、芝居や講談の「八百屋お七」が丙午生まれだったとされ(伝承と芝居とでは年齢が不一致で虚構)、ことさら女子の丙午生まれがタブー視されるようになった。次回の丙午は5年後の2026年だが、いまだに中国や朝鮮の儒教思想と一体化した迷信を信じている人たちがいるのだろうか?
 政府の厚生行政基礎調査(1974年)という、面白い調査報告書がある。1966年(昭和41)の丙午に各都道府県の出生率がどのように影響を受けているのかを調べた統計資料だ。それによれば、「八百屋お七」の地元・東京はあまり影響を受けておらず、東日本全体は例年とあまり変わらないが、近畿地方から西の出生率が著しく低下していることがわかった。おそらく九州がいちばん低いだろうと予想したが、さにあらず、四国がきわめて低い出生率なのが目立つ。特に高知県では、日本の出生率の最低を記録していた。つまり、1960年代まで西日本には中国の陰陽五行や朝鮮の儒教思想がベースの、丙午の迷信を気にする人々がたくさんいたことになる。そういえば、壺井栄(岩井栄)の故郷も四国だ。また、関東地方では唯一、群馬県の出生率低下が相対的に目立つ。これは、「いま以上に女子(かかあ)天下が激しくなっては困る」という、ワラにでもすがりたい切実な思いだろう。w
 徳永直からの手紙を受けとった数日後、壺井栄Click!は夫の壺井繁治Click!を連れて、いそいそと経堂の徳永邸へやってきた。そこで、壺井栄はふたりの女性を結婚相手に紹介している。ひとりは、もちろん「お針」が得意な女学校で裁縫教師をしている彼女の実妹、もうひとりが女子大出身で雑誌の編集を仕事にしている女性だった。そして、壺井栄は「ぶきりょうだし、年齢も四十を過ぎてゐるんですよ」と実妹を紹介している。このとき、徳永直は両者のどちらにするかハッキリした返事をしていない。むしろ、器量よしだという女子大出身の女性が、自分のような家庭にきてくれるだろうかと心配し、彼女の妹よりもむしろそちらに惹かれているようなニュアンスさえ感じる。徳永は、「いやもう、来てくださるということだけでありがたいことです」などと答えるだけだった。
 壺井栄はふたりの女性を紹介し、どちらかを選択できるようにしているようだが、実情はひとりの女性しか紹介していないことになる。共同印刷の植字工だった徳永直が、女子大出身で絵画が趣味の女性を選ぶことはまずありえないのを、徳永のやや卑屈気味な性格を知っている壺井栄にはわかっていた。しばらくすると、壺井栄の妹の写真が、佐多稲子Click!を通じて送られてきた。縁談を断るにしても、気の弱い徳永直のことだから、親しい佐多稲子を介してのほうが断りやすいだろうという壺井栄の配慮だった。
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 しばらくして、徳永直は写真を返しに佐多稲子のもとを訪れている。「どうもぼくの好きなタイプじゃない」と断りをいうと、佐多稲子は「やはり、徳永さんに好きな人ができるのが一番いいんだがなア」と正論で答えている。だが、徳永直はもうひとり女子大を卒業した器量よしで編集者の女性に大きな望みをつないでいた。縁談の候補のひとりを断ったのだから、もうひとりの候補を紹介してくれるだろうと、徳永直は1ヶ月も待ってみた。しかし、壺井栄からの連絡はこなかった。
 待ちきれなくなった徳永は、いそいそと上落合から鷺宮へ転居した壺井邸へと出かけていった。まず、写真の返却を詫びて、女子大卒の候補のことを切りだそうとした矢先、壺井栄が「妹は近く上京します」といった。妹の上京は、縁談の有無に関係なく以前からの予定で、遠縁の戦災孤児を引きとり育てなければならなくなったため、壺井家では人手が必要だった。妹の話を聞くうちに、徳永直は性格がよさそうなので会うだけ会ってみるかという気分になってきた。一度断りを入れているのだから、ハッキリとした態度をとりつづければ問題ないのだが、こういうところが周囲から「優柔不断」だといわれるゆえんなのだろう。気がつくと、「一度、妹さんに会わせてくれませんか」などと口走っていた。
 見合いの日は、とてもひとりでは会えないので、徳永直は佐多稲子に付き添いを頼んでいる。彼は壺井栄の妹の真向かいに座ったが、よく容姿を確認せず、ろくに話もしないうちにすっかり酔っぱらってしまった。帰りぎわ、壺井栄が彼の耳もとで、「あとで手紙を下さいね」と囁いたのは憶えている。翌日、妹さんの田舎の人らしい素朴なところがよかった……などと、お世辞を並べた感想の手紙を壺井栄あてに書いてしまった。ここから、徳永直のハチャメチャな言動がスタートする。
 なんとなく、壺井栄が縁談を進めそうな気配を感じた徳永直は、急いで仲立ちになっている佐多稲子に「この縁談はしばらく中止したい」と縁談解消を伝えている。ところが、早まったのではないかとすぐに後悔し、どうしたらいいのかわからなくなって中野重治Click!に助けを求めている。中野重治には、壺井栄の妹が「わたしの妹にたいへんケチンボなのがいまして」(徳永の虚言)その妹と横顔がよく似ていると話し、どうしたらいいでしょうと相談しているが、「そんなこと知らん、自分で決めろ!」とはいわず、やさしい中野重治は「ふん、ふん」といちいち聞いてあげている。
 すると、壺井栄の妹が「ケチンボ」な性格なのかどうかを徳永直が気にしているようだ……というのが、中野重治から佐多稲子の耳に伝わり、壺井栄からさっそく否定の返事がきて、佐多は「そんなとこ、ない人なんですって」とサバサバした表情で徳永に伝えてきた。自分のついたウソがきっかけで、どんどん土壺にはまって身動きがとれなくなり、徳永直はついにエポケー(判断停止)状態に陥ってしまった。そして、「清水の舞台から飛び降りる」思いで、つい佐多稲子には縁談を進めてくれなどと答えてしまった。
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 1946年(昭和21)8月、「ケチンボぎらいな徳永直」のために、壺井夫妻は新橋の高級中華料理店で結婚の披露宴を開くことにした。徳永にしてみれば、なぜ敗戦直後で食糧難にもかかわらず、このようにぜいたくな料理屋が選ばれたのか不可解に感じただろう。事実、彼の高校生になる長男は、「餓死者がどんどん出ているというのに、ブルジョア相手のヤミ料理でやるなんて、何がプロレタリア作家だい」と、しごくまっとうなことをいって出席を拒否している。徳永直の狼狽ぶりが目に浮かぶようだが、高級料理屋が「ケチンボ嫌いな」自分のために決められたことさえ気づかなかった。
 結婚までの経緯は、壺井栄『妻の座』『岸うつ波』と、徳永直『草いきれ』など双方の著作を突き合わせると、ほぼ以上のとおりだったのだろう。結婚披露宴には、壺井夫妻や佐多稲子、中野重治、宮本百合子Click!、村雲毅一(日本画家)、渡辺順三Click!(歌人)、立野信之Click!など十数人が出席している。ところが、やはり壺井栄の妹がどうしても気に入らず、好きになれなかった徳永直は2ヶ月後、「やっぱり、ダメだ」と新妻の手さえ握ることなく、離婚の意思表示を壺井栄に伝えている。
 そのあとの修羅場は、立野信之『青春物語』(河出書房新社/1962年)から引用しよう。
  
 壺井夫妻は最後の談判に徳永を訪れたが、話がけっきょく不調に終ると、栄は憤激をおさえることが出来なくて、手をついて詫びている徳永を蹴ったり、殴ったりした。/それでも足りなくて、栄は夫の繁治の手をつかんで振り上げさせ、/「ぶちなさい、こいつを……ぶちなさいったら……人間一匹をダメにしやがったこいつを、ぶちなさいったら……!」/その絶叫にそそのかされて、繁治の拳がいくつか徳永の頭に打ちおろされた。
  
 ポカポカ打(ぶ)たれる徳永直はまさに自業自得だが、壺井栄の「人間一匹ダメにしやがった」は、要するに初婚の妹を精神的にも肉体的にも「キズモノ」にされたという、古い概念から出た言葉なのだろう。いまや女性の自立が進み離婚の急増とともに、「キズモノ」になったなどというような感覚は消滅し、男女ともに「相性がよくなかった」「性格や反りが合わなかった」で語られる時代だ。
 ここで再びちょっと横道にそれるけれど、ドラマで再婚の見合い相手に「キズモノ同士だから気楽」だといわれて、「あたし、キズモノじゃありません! 身体のどこにもキズなんてないわよ! なんなら、ここで調べてごらんになる!?」と洋服を脱ぎかける森山良子と、その前でオドオドして汗をぬぐっている泉谷しげるのワンシーンを思い出してしまった。1980年代末のドラマだが、当時でさえそのような感覚がまだ残っていたのだろう。
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 いつもニコニコやさしく、まるで穏和な大仏さんのように見える壺井栄Click!だが、ほんとに怒らせると鬼のように怖い。いつか、中野鈴子Click!と壺井繁治のエピソードClick!もご紹介しているが、非のある相手には「教育的措置」として自ら暴力で身体に教えこむようだ。それにしても、あの身体でおもいっきりポカポカ打(ぶ)たれたら、けっこう痛いだろうに。

◆写真上:「太陽のない街」を流れる、旧・千川上水Click!に架かっていた猫股橋の橋脚石。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)出版の徳永直『太陽のない街』(戦旗社/装丁・柳瀬正夢Click!)。上右は、著者の徳永直(奥)と大宅壮一(手前)。は、舞台となった旧・千川上水の暗渠道路と住宅街。共同印刷は現存するが、住宅街に当時の面影はない。
◆写真中下は、1954年(昭和29)制作の『太陽のない街』(新星映画/監督・山本薩夫)。は、川沿いの簸川社(氷川社)。は、石橋だった猫股橋の橋脚。
◆写真下は、1935年(昭和10)の「文学案内」10月号座談会の記念写真。は、いつもニコニコ大仏さんのように温和な壺井栄だが、激怒するとガブClick!のように豹変して……。は、1931年(昭和6)に上演された東京左翼劇場『太陽のない街』の舞台記念写真。

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