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陸軍に注文の多い初年兵たち。 [気になるエトセトラ]

近衛師団司令部師団長室の窓.JPG
 国立公文書館に保存された、軍関係の資料(おもに陸軍が大多数)を参照していると、ときどき目についてひっかかる資料がある。それは、「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」というようなタイトルをつけた陸軍大臣や陸軍省副官あての報告書で、大正後期から昭和初期にかけて特に急増しているドキュメント類だ。
 内容をくだいていえば、帝国陸軍とはあい入れない思想の持ち主たちが、徴兵制により少なからずわが部隊に入営してきたので、「どうしたもんでしょ?」、「なるべく説諭で思想を矯正してはいますが」、「いうことをきかないし、上官の命令もきかない」、「宣誓文に署名しません」、「差別反対のパンフレットを撒きそうです」、「アナキズム研究をやらせろといってます」、「休暇で外出したまま、どっかへ行っちゃいました」……etc.といった、なかば困惑を含んだ内容が多い。これに対し、陸軍省では兵役期間は短いながらも、できるだけ地道に説諭するよう指示を出しているのだろう、その後の「要注意兵卒」に対する説得の経過や動向を知らせる報告書がつづく。
 報告書の出だしは、たとえばこんな具合だ。1926年(昭和元)12月に上げられた「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」から、典型的な文章を引用してみよう。
  
 陸軍大臣 宇垣一成殿
 本年度第〇師団に入営シタル思想要注意初年兵ハ六名ニシテ中三名ハ特ニ思想ノ根柢強因ナルモノノ如ク各々部隊長ニ連絡 言動視察中ナリ 状況別紙ノ如シ
  
 徴兵制は入営してくる人物を選べない、すなわちハナから軍人をめざす志願兵ではないため、多種多様な思想をもった若者たちが大量に入営してくることになる。特に、大正後期から昭和初期にかけては共産主義や社会主義、民本主義、自由主義、アナキズム、サンディカリズムなどさまざまな思想をもった初年兵が増え、いくら上官が「説諭」して考えを改めさせようとしても、逆に理屈をぶつけ合う議論ではまったく歯が立たなかったり、腕力で抑えつけようとしても組合運動を経験して来た筋金入りの「闘士」がいると、逆にやられかねないような危機感も報告書には見え隠れしている。
 現場から陸軍大臣や副官あての報告書では、ハッキリと明確に請願はしてはいないけれど、どうしても手に負えない兵卒たちは本人の不利や不名誉にならないよう、なんらかの理由をつけて穏便に除隊ないしは退官させるのが適切……といったようなニュアンスさえ感じとれるものさえある。「説諭」しようとした上官が、おそらく逆に思想堅固で闘志満々な兵卒に脅かされているような雰囲気だ。中には、争議の先頭に立っていた「兵隊やくざ」みたいな人物もいて、「てめえ、シャバに出たらタダじゃおかねえからな。おぼえてろよ」などと、脅迫された上官さえいたのかもしれない。
 中には理不尽な扱いを受けたら「抗争」も辞さずと、宣言してから入営する者もいた。1926年(大正15)1月の、金沢第九師団の報告事例をいくつか見てみよう。
  
 「自分ハ入営後軍規ニ服従スルモ不合理ナル制裁ヲ受クルトキハ下僚ヲ相手トセズ少クモ中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル意図ナリ」ト語レルコトアリ(中略) 宣誓式ニ於テ「如何ニ上官ノ命令ナリトモ反国家社会的行動ニハ服従スル能ハズ」トノ理由ノ下ニ最初宣誓ヲ拒ミタル (工兵第九大隊)
 入営前水平社同人ニ対シ軍隊ニ於テ差別的待遇ヲ為スニ於テハ徹底的糾弾ヲ為スベシ洩レ語リタリト云 (歩兵第十九聯隊)
  
入営生活.jpg
第九師団19260125.jpg
第三師団19260220.jpg
 また、名古屋第三師団では勤務中でもアナキズム研究をつづけさせろと、中隊長にねじこんだ初年兵がいる。1926年(大正15)1月の報告書から引用してみよう。
  
 入隊宣誓式ニ際シ直チニ署名セズ、中隊長ニ更ニ〇法第三条ノ説明ヲ求メシヲ以テ中隊長ハ之ニ答へ尚他人ヨリ不条理ノ取扱ヲ受ケタル時ハ上申ノ処置ヲ取ルコト許サレアルコトヲ説明セシ(中略) 又中隊長ニ在営間自己ノ研究ニ就キ自由ヲ許サレ度キ旨申出デタルモ中隊長ハ隊内ニテ主義ノ研究ハ許サザルコトヲ言ヒ渡セリ (歩兵第三十四聯隊)
 農民組合ニ関係シ岐阜県中部農民組合青年部ノ部長タリシコトアリ 間々過激ノ言ヲ吐ケルコトアリ (歩兵第六十八聯隊)
  
 また、休暇で外出旅行したら、そのままもどってこないエスケープ下士官や、尉官クラスの士官の中には「勉強したいのに忙しくて、もうやってらんないし!」と、ストライキまがいに勤務放棄をするなど、のちの日中戦争あたりから本格化したファシズム時代の陸軍に比べると、なんとも“牧歌的”な事件が次から次へと起きている。
 これらの報告書は、もちろんマル秘の印が押されて、陸軍省の資料室の奥へと仕舞いこまれていたのだろう。換言すれば、軍隊とはいえそれだけ人間臭い一面が大正期から昭和初期にかけての陸軍には、まだ色濃く残っていたということかもしれない。
 周囲の状況に刺激されたのか、あるいは初年兵の逆オルグにあって新たに思想を形成をしたものか、下士官が休暇をとったまま帰ってこないエスケープ事件を見てみよう。兵舎の所持品を調べてみると、アナキズム関連の書籍が見つかっている。1926年(大正15)4月に報告された、大阪第四師団から陸軍大臣あての報告書より引用してみる。
  
 大正十五年四月三、四日ノ両日奈良見物ト称シ外泊休暇ヲ願出所定ノ時間ニ帰営セザルヲ以テ伯太憲兵分遣所ト協力シテ捜索ニ従事シ其手懸ヲ得ル為 本人ノ手箱等ヲ点検シタル結果 無政府主義者ト認ムベキ逸見吉造(水平社幹部)石田政治(水平社幹事)両名ヨリノ来信ト主義ニ関スル左ノ書籍ヲ発見シ思想上ニ関シ相当研究セルコトヲハッケンセリ/左記/クロポトキンノ研究/大杉栄ノ日本脱出記/ゴーリキー全集第五編/啼レヌ旅/薄明ノ下ニ/解放/改造/自然科学/文章往来/アフガスチンノ懺悔録 (野砲兵第四聯隊)
  
閲兵式.jpg
第四師団19264026.jpg
近衛師団司令部(近美工芸館).JPG
 さらに、1927年(昭和2)2月には将校の少尉が、軍隊では多忙すぎて自身が進めている「支那に関する研究」が満足にできないのを理由に、いきなりいっさいの勤務を放棄してサボタージュし、懲罰として重謹慎30日を命じられたものの、その後も勤務放棄のストライキをつづけ、ついには退職が認められた事例も報告されている。
  
 (少尉は)精神ニ動揺ヲ来シ軍隊生活ヲ厭忌シ退職ノ手段トシテ素行ヲ紊シ隊務ヲ顧ミザル件ニ関シテハ既報ノ処 一月二十九日附免官ノ内達ヲ受ケ挨拶、整理ヲ済マシ翌三十日奉天ニ向ヒ出発セルガ支那事情ヲ研究セントスルモノゝ如シ (歩兵第七十三聯隊)
  
 彼ら軍内部のアナキズムや共産主義思想、あるいは社会主義思想などを少しずつ「説諭」(オルグ)して取りこみ、原理主義的社会主義Click!とでもいうべき思想が徐々に浸透して拡がった結果、陸軍皇道派によるクーデターとして爆発したのが、1936年(昭和11)の二二六事件Click!だという見方さえできうるかもしれない。
 1927年(昭和2)1月に、軍隊内へ配られそうになったアナキズム雑誌「無差別」に掲載の、『軍国主義ヲ吟味セヨ―無産青年諸君ヨ―』から、その一部を引用してみよう。全文漢字/カタカナで句読点もなく読みにくいので、ひらがな文に直し句読点を付加した。
  
 愛国と云ふ言葉も底を割つて見れば資本家の肥満し切つた懐中を余計に太くせんが為に、戦争が無ければ無益有害な軍閥領土的野心を満足せんが為に、そして彼等の存在を民衆にとつて意義あらしむべく俺達のたつた一つしかない生命を投出せと云ふ事になるのだ位の事は判つてきた。こうした意識が民衆の中に濃厚となつて人間的必然に、或は人道的主義立場人類平和の為に非戦的傾向を取るに至つた現今社会状態を見て取つた侒奸な奴ブルジヨアと軍閥共は俺達を尚ほこの上搾取せんために、何とかうまい考へはないかと頭を搾つた結果が彼の破壊的軍事思想の鼓吹を目的とする軍事教練と青年訓練所とである。
  
軍人会館(九段会館).jpg
少尉免官の件19270215.jpg
大久保射撃場解体1960.jpg
 1929年(昭和4)10月、竣工して間もない戸山ヶ原Click!大久保射撃場Click!で発見された、「軍隊ハ資本家ノ番犬ナリ/我等ハ真ノ国民ノ番犬ノ軍隊ナランコトヲ望ム」の落書事件Click!から、わずか6年と少しで国家を揺るがす二二六事件Click!が勃発している。

◆写真上:北ノ丸にある、近衛師団司令部(現・東京近代美術館工芸館)の師団長室の窓。
◆写真中上は、入営後に寝起きする兵舎。は、不合理な制裁を受けたら「中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル」と宣言する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)1月25日付け金沢第九師団報告書。は、入営後も「主義研究」の継続を申請する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)2月20日付け名古屋第三師団報告書。
◆写真中下は、代々木練兵場Click!における閲兵式。は、休暇中の伍長が出奔し所持品から無政府主義関連の書籍が見つかって動揺する、1926年(大正15)4月26日付け大阪第四師団報告書。は、明治期に竣工した近衛師団司令部の全景。
◆写真下は、東日本大震災の直前に撮影した旧・軍人会館(元・九段会館/解体)。は、勤務放棄のストライキで免官になった少尉の1927年(昭和2)2月16日付け最終報告書。は、1960年(昭和35)に撮影された解体が進む戸山ヶ原の大久保射撃場。
おまけ
10月10日になっても、セミの声が鳴きやまない。秋の深まりを感じさせるヒヨドリとアブラゼミ、そして秋の虫の3重奏はめずらしいので記録。

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大隈重信邸門前の妖怪「枕返し」。 [気になるエトセトラ]

大隈重信邸1944.jpg
 So-netブログのドメイン変更にともない、FacebookなどSNSとの連携やカウントがすべての記事でゼロにもどり、外部からのリンクも、昨年のSSL設定時と同様無効になった……と思いきや、今回はリダイレクトできるではないか。これは外部サイトを修正する、膨大な手間ヒマをかけずに済んだかもと思っているが、油断は大敵。リダイレクトがいつまで有効か不明だし、今回のWebサーバはSSL未対応なので、ほどなく再対応などといだしかねない。メンテ作業がチームとして対応できるならまだしも、わたしひとりのメンテでは2,300記事ほどもあるので、そろそろ限界なのだが……。
  
 親父のアルバムを整理していたら、戦災で焼ける直前に撮影された大隈重信邸の写真が出てきた。早稲田第一高等学院Click!の制服を着た親父たちが前面に写り、背後には瓦職人が屋根を修繕している大隈重信邸がとらえられている。ゲートルを巻いた高校生たちの様子から、1944年(昭和19)ごろの撮影だとみられる。(冒頭写真)
 ほかにも、同高等学院(大学教養課程)から早稲田大学理工学部へ進学予定の、学徒出陣Click!からまぬがれたクラスメイトたちとともに写る、大隈講堂Click!の写真も残っていた。大隈講堂の背後には、当時はいまだ現役で使われていた焼却炉の煙突がとらえられている。親父たちはこのあと、高等学院の授業が停止されて勤労動員に駆りだされ、実際に卒業試験が実施され大学へと進学(復学)できるのは、敗戦後の1947年(昭和22)4月以降のことになる。大隈講堂はともかく、戸塚町下戸塚稲荷前68~108番地(現・新宿区戸塚町1丁目)にあった大隈邸とその庭園の写真は、戦災で焼けてしまったので貴重だ。
 いつかの記事でも取り上げたが、明治中期の大隈庭園で確認できる瓢箪型の突起(築山にされていたと思われる)や、いくつかの円形あるいは楕円形の丘が気になる。これらは、戸塚(十塚Click!)の地名由来となった富塚古墳Click!や、百八塚Click!の伝承に連なる古墳の墳丘ではないかと疑われるからだ。大正初期に書かれた大隈邸の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)から、一部を引用してみよう。
  
 大隈伯爵邸 下戸塚の東隅にあり、牛込区早稲田鶴巻町に接するを以て、俗間には早稲田の大隈邸を通称す、同邸はもと高松藩主松平頼聰の別邸なりしが、明治六年以後松本病院、英学校等の敷地となり、同十七年始めて伯の所有に帰せり、其の庭園は慈善会若くは公共団体の集会等には何人にも随意に之を使用せしむ、(中略) 此処より庭園に入る路と菜園に入る路とに岐る、即ち庭園に入れば左方小丘の上に一宇の神祠あり、神祠の下に数寄屋あり、其の稍々前方なる小丘には老檜三株聳立し、樹下に大理石の平盤を置く、一隅に桜樹ありて露仏を安置し、一隅に古松ありて石燈籠を配す、此の丘と相並べる一丘は悉く松林にして渠流を隔てゝ桜楓の林と対す、渠水々潺々丘を遶りて流る、前方芝生の画くる処に邸舘あり、(後略)
  
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 大隈邸の敷地にあった「松本病院」とは、幕府の御殿医だった松本順Click!(松本良順)の病院のことだ。松本順は、日本初の海水浴場Click!大磯Click!に開設した人物として湘南海岸ではつとに有名だが、大磯のこゆるぎの浜Click!に面して建つ藩主筋の鍋島直太郎邸と陸奥宗光邸にはさまれた大隈重信の別邸Click!(現存)も、松本がなんらかの関与をしている可能性がある。子どものころ、親に連れられて大磯の旧・東海道沿いの松並木を散歩するたび、親父が「ここが大隈重信の別荘だ」と指さしていたのを思いだす。もうひとつの「英学校」は、松本病院に隣接して建てられていた「明治義塾」のことだ。やはり明治初期に、山東直砥が開設した英語を学ぶ学校だった。
 また、庭園の小丘の上には「神祠」が建立されていたり、「露仏」が安置されているのが興味深い。もちろん、これらの史蹟は大隈家が配置したものではなく、もともとそこにあった小丘に建立されていたものを、そのまま庭園の風情に取り入れているとみられる。ちょうど、華頂宮邸の庭に残された亀塚Click!や、松平摂津守の下屋敷にあった津ノ守山=新宿角筈古墳(仮)Click!、水戸徳川家上屋敷(後楽園)に残された後楽園古墳、駒込にあった土井子爵邸の祠が奉られた稲荷古墳などと同様のケースだ。「神祠」は、かなり歴史のある石祠を感じさせるし、「露仏」は室町期に百八塚を供養したと伝えられ、大隈邸のすぐ南にある宝泉寺にもゆかりが深い僧・昌蓮Click!の仕事を連想させる。
 さて、大隈邸の門前に位置し、昌蓮の百八塚の伝承が色濃く残る宝泉寺に、面白い妖怪譚が伝えられているのでご紹介したい。宝泉寺の境内には、江戸末期まで毘沙門堂が建立されていたが、おそらく明治政府の廃仏毀釈で寺が困窮した際、境内を切り売りしたのか毘沙門山とともに現在は残されていない。当初は4,540坪あった境内が、大正期には700坪ほどに縮小されている。
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 その毘沙門堂に宿泊した人々は、翌朝になるとみな驚愕することになる。自身が就寝していた場所から、布団や枕とともにとんでもない位置にまで身体が移動しているからだ。再び、『豊多摩郡誌』より引用してみよう。
  
 毘沙門堂の怪談 維新の頃まで大字下戸塚宝泉寺旧境内に毘沙門堂ありたり、其の地今は石黒邸内に入れり、旧時の堂は丹塗りにして左まで大なる建物にあらざりしも、妖怪ありて、堂内に宿泊するときは、寝入れる間に其の人の位置変ぜらるゝが例なりしよし、村の若人等そは不可思議なる事よとて、再三試みたるに、皆な夢の間に枕の向きを変へられ、孰れも怪み怖れて再び試みんものもなかりしよし。
  
 戸塚村の村民は、そろいもそろって寝相が悪かったのでないとすれば、明らかに妖怪「反枕(枕返し)」のしわざだと思われるが、同様の妖怪譚あるいは類似の伝承を近辺では聞かないので、宝泉寺の毘沙門堂だけに出現していたものの怪だろうか。
 枕返しの怪談は、関東地方や東北地方ではよく耳にするが、その正体はどの地方でもいまいちハッキリしない。東北では、枕返し=座敷童(ざしきわらし)とされている地域も多いようだ。また、その部屋で死んだ亡霊のしわざとか、実は化け猫Click!が真夜中に悪さをしているのだとか、人をたぶらかす狐狸のしわざだとか、各地にはさまざまな説があって一定しない。その姿も、子どもや坊主、怖ろしい幽霊、鬼、化け猫、はては美女にいたるまで多種多様だ。ちなみに、北陸地方に伝わる美女の枕返しは、その姿を目にしたとたんに死ぬといわれているおっかない妖怪だ。
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画図百鬼夜行「反枕(まくらかえし)」1776.jpg
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 晩年に早稲田大学で教鞭をとっていた小泉八雲Click!だが、宝泉寺の毘沙門堂怪談を耳にしていたら、さっそく同寺に取材を申しこんでノートに記録していただろうか。あるいは、大隈重信は肥前(佐賀)の鍋島藩の元藩士なので、「鍋島屋敷ノ化ケ猫Click!騒動ッテ、マジデスカ?」と総長室に突撃取材を試みていたかもしれない。w

◆写真上:1944年(昭和19)に撮影されたとみられる、下戸塚の大隈重信邸と大隈庭園。
◆写真中上は、1917年(大正6)の写真に人着がほどこされた大隈邸。は、冒頭写真と同じく1944年(昭和19)に撮影された大隈講堂。は、1886年(明治19)の1/5,000地形図にみる大隈邸。庭園のあちこちに、気になる突起が採取されている。
◆写真中下は、1909年(明治36)に撮影された大隈庭園で、北側の小丘の上から撮影されたとみられる。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる大隈邸と宝泉寺。は、大磯のこゆるぎの浜にある大隈重信別邸。
◆写真下上左は、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)。上右は、1776年(安永5)に出版された『画図百鬼夜行』(前編/陰の巻)。は、同書に収録された「反枕(まくらがえし)」。は、現在の宝泉寺境内で左手のビルは早大法学部8号館。

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戸山ヶ原の旧・陸軍コンクリート構築物。 [気になるエトセトラ]

陸軍軍楽隊階段1.JPG
 以前、大正期から昭和初期に建てられた、下落合のコンクリート構造物Click!について書いたことがある。大正後期から、一般の住宅Click!や宅地造成でセメントClick!が多用されるようになった。おもにコンクリート塀を観察した事例が多かったが、多摩川の砂利と秩父のセメント資材Click!を運搬する、高田馬場駅の南に西武鉄道Click!が設置した建設資材・砂利置き場Click!や、大正期に同社が全面協力した村山貯水池Click!(多摩湖)の建設に用いられたコンクリート堤防Click!などを観察して記事にしている。
 今回は、旧・陸軍施設が集中し、新宿が戦前に「軍都」Click!と呼ばれるきっかけとなった、戸山ヶ原Click!について細かく観察してみたい。ただし、山手線をはさみ東西に展開していた陸軍施設Click!構造物Click!については、これまでも何度か取り上げ、素材のコンクリートが壊されたあとの残滓については、何度か記事Click!に取りあげてきているので、きょうは山手線東側の戸山ヶ原Click!に残るコンクリートの構造物について、改めて細かく観察してみたい。
 まず、明治期から設置されていた陸軍戸山学校Click!と、古くからの陸軍軍楽学校の周辺を観察してみよう。初期の陸軍戸山学校は、大正期まではのちの陸軍衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の位置から、大久保通り沿いに箱根山Click!の南東下ぐらいまで細長くつづいていた。戸山学校が、東側の敷地を陸軍衛戍病院にゆずり、大久保通りから箱根山の東側一帯へ広く、そして深く展開するのは、大正末から昭和期に入ってからのことだ。また、箱根山をはさんで戸山学校の西側に、陸軍幼年学校の校舎が建てられるのも大正末以降のことだ。
 軍楽学校と軍楽隊は混同されがちだが、軍楽学校の西側の箱根山東山麓、戸山学校敷地の北側へ、昭和初期に軍楽隊の兵舎が建設されている。また、陸軍衛戍病院の北側へ陸軍軍医学校を建設する際、戸山ヶ原の大きな谷戸が中途で埋め立てられ、衛戍病院と軍医学校の往来をしやすくしている。ちょうど、下落合の第一文化村Click!における前谷戸の追加造成Click!と同様に、谷戸の途中が土砂で埋められてしまったため、湧水源にあたる谷戸の突き当たりの谷間は、ほぼそのままの地形で残されている。現在、国立健康・栄養研究所の南側敷地が、急に凹状にへこんでいるのはそのせいだ。このあたりの土木工事は、戸山学校が西側へ移動するとともに衛戍病院が建設される、大正末から昭和初期にかけて行なわれている可能性が高い。
 さっそく、その付近のコンクリートの残滓を観察すると、戸山学校の敷地や軍楽学校、あるいは軍楽隊のあたりには、それらしい遺物をいくつか確認することができる。まず、昭和初期に建てられた将校会議室Click!(現・戸山教会)の西側には、随所に玉砂利の粒が大きいコンクリート片が散らばっている。当時は、鉄筋を支柱あるいは芯にしてコンクリートの構造物を造るよりも、多摩川の良質で大きめな玉砂利をふんだんに使い、セメントとともにそのまま固めて用いる例が少なくなかった。場所からいえば、これらの玉砂利(というか小石と表現したほうが適切な大きさだ)を用いたコンクリートの残滓は、戸山学校の校舎かその基礎、外壁、あるいは塀などに使われていたものではないだろうか。
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戸山ヶ原東部1944.jpg
 その戸山学校跡から、箱根山を左まわりへ西へ歩くと、軍楽隊兵舎跡と野外音楽堂跡に出る。軍楽隊の野外音楽堂は1943年(昭和18)3月に竣工したものだが、実はそれ以前から軍楽学校の練習場として、この窪地は使用されていたのではないだろうか。なぜなら、同音楽堂へと下る階段のコンクリートが、意外に古いとみられるからだ。この階段は、表面を薄いコンクリートでコーティングされているが、その下からのぞくコンクリート階段は、やはり大粒の玉砂利が用いられていて古い仕様だ。つまり、表面を覆うコンクリートは、階段を設置するのと同時の可能性もあるが、野外音楽堂ができた際、あるいは後世に追加でコーティングされたのかもしれず、本来のコンクリート階段はその下層に塗りこめられている可能性がある。
 大正期から昭和初期にかけてのコンクリート構造物には、大粒で良質な玉砂利がふんだんに使われている。ところが、昭和に入ってしばらくすると、河川で採取できる良質な玉砂利がなかなか採れずに高騰し、セメントとともに混ぜる砂利は、より安価な小粒のものへと変わっていく。戦時中から戦後にかけてはさらに不足し、小粒の砂のような砂利が用いられるようになった。戦後は、河川の良質な砂利(小粒でさえ)を手に入れるのが困難となり、やむをえず海の砂利を用いることが多いため、塩分で内部の鉄筋が腐食しやすいという課題が浮上しているのは周知のとおりだ。
 つまり、見分け方のひとつの目安として、大粒の良質な玉砂利をふんだんに用いて、芯として鉄筋が用いられていないコンクリート構造物は年代が古く、その砂利が細かくなるほど新しい……という、たいへん大雑把なとらえ方だが、あながち的外れではない観察法ができることになる。もっとも、昭和10年代に建設された大金持ちの住宅には、良質な玉砂利が惜しげもなく使われているだろうし、経費節約のために小粒の砂利を用いた大正初期のコンクリート建築もあるので、いちがいに決めつけるわけにはいかない。そしてもうひとつ、それがなんらかの軍事施設であれば、少しぐらい経費がかさんでもコンクリートに高価な玉砂利を混ぜることには、なんら支障がなかったという事情も考慮しなければならないだろう。
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 さて、つづいて戸山学校と衛戍病院の北側一帯を見てみよう。このあたりは、昭和10年代に入ると次々に陸軍施設(おもに秘匿を要する特別施設)が建てられるエリアだ。戸山学校の北側には、陸軍中野学校Click!の統括機関である兵務局分室Click!(通称ヤマ)が設置されている。また、軍医学校の西側にある谷間には、防疫研究室や細菌研究室Click!(731部隊の本拠地)が設置されている。だが、10年ほど前に歩いて写真に収めた、戸山学校北側のコンクリートブロックを重ねた築垣が、コンクリートの新しい擁壁に変わってしまっていた。かろうじて、衛戍病院の北側に少し残されていたが、こちらの築垣は西側の箱根山までつづいていた築垣に比べやや新しそうだ。
 防疫研究室や細菌研究室と兵務局分室(ヤマ)を仕切っていたコンクリート塀はそのままだが、10年ほど前に撮影した随所に転がる大粒の玉砂利を用いたコンクリート片は、すっかり片づけられてなくなっていた。元・看護師の証言から、敗戦と同時に戸山ヶ原の随所へ埋められたとみられる人骨標本の第2次発掘調査の際に、散らばるコンクリート片を集めて廃棄したものだろうか? 衛戍病院の西側につづくコンクリート塀も、のちに補修されているとはいえ古そうだ。ただし、用いている砂利がかなり細かいため、昭和期に入ってからの建築ではないかと思われる。この塀の上には、かつて新しいコンクリートを重ねたり、新たなブロックを積み上げたりした痕跡が残っている。
 防疫研究室や細菌研究室の跡にできた、戸山公園多目的広場も歩きまわってみたかったが、あいにく少年野球の試合日でゆっくり見学することができなかった。ほかにも、戸山公園の西側、明治通りに面してつづいていた幼年学校跡にも、大正末から昭和初期とみられるコンクリート片がいまだに散在している。校舎の基礎あるいは塀、外壁などに用いられたものか大きな玉砂利が密に詰まる、たいへん贅沢な造りをしている。
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陸軍衛戍病院西側.JPG
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 先述した軍楽隊の野外音楽堂へ下りる階段の造りは、1922年(大正11)に橋上駅化された目白駅Click!でも見ることができる。内面は、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜて頑丈な構造にしつつ、外面にはなめらかなコンクリートを薄くコーティングして、階段を上り下りしやすいようにしている。確かに、大粒の玉砂利がのぞく階段は、蹴つまずく怖れがあって危険だし、なによりもなめらかにコーティングしたほうが見栄えがいいにちがいない。ちなみに戸山ヶ原Click!への散歩は、自宅からすべて徒歩でまわったため約10kmも歩いてしまった。緑が多いとはいえ、盛夏の戸山ヶ原Click!散歩は疲れるのだ。

◆写真上:陸軍軍楽隊の野外音楽堂に下りる、谷間の2ヶ所に設置された階段。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の戸山ヶ原東部の1/10,000地形図。は、以前に撮影していたコンクリート残滓で、戸山学校北側の擁壁(上)、防疫研究所跡に転がるコンクリートブロック(中)、防疫研究所・最近研究所と兵務局を仕切る塀(下)。は、1944年(昭和19)の敗戦直前に撮影された戸山ヶ原東部。
◆写真中下は、軍楽隊の野外音楽堂へと下りる階段の表面が剥がれた中面の様子。は、1956年(昭和31)に地元で復元された野外音楽堂(上)と、公園のまるで四阿風に変えられた現代の風情(下)。は、2枚とも戸山学校跡の周辺(箱根山の東側)に散らばる大粒の良質な玉砂利を使ったコンクリート片。
◆写真下は、陸軍衛戍病院の東側擁壁(上)と西側の塀(中)。東側の擁壁表面に貼られたコンクリートブロックの亀裂から、中面のより頑丈な擁壁がのぞいている。コンクリート建築のため空襲でも焼けず、戦後は国立第一病院としてそのまま使われつづけた陸軍第一衛戍病院。は、明治通り沿いに残る陸軍幼年学校跡のコンクリート塊。は、エレベーター工事のため解体中の目白駅階段の断面。鉄筋は使われておらず、大粒の玉砂利を使った無垢のコンクリートで、表面を小砂利混じりのセメントでなめらかにコーティングしているのは、戸山ヶ原の軍楽学校あるいは軍楽隊の階段と同じ仕様だ。
おまけ
東五反田は池田山のバッケ坂に残る、大正末の建設とみられるコンクリートの柵柱(上)と、大正期に竣工した村山貯水池(多摩湖)の高欄柱の断面(下)。
コンクリート柵柱(池田山).JPG
セメント多摩湖堤防.JPG

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下町と山手の用法がゴチャゴチャする件。 [気になるエトセトラ]

歌舞伎座場内.JPG
 「下町」という言葉が、城下町をちぢめた用語であることは、ずいぶん前に江戸期からつづく江戸東京語のひとつであることを、三田村鳶魚(えんぎょ)Click!の証言としてご紹介したことがある。江戸東京地方では、まだるっこしい言葉はどんどんちぢめて発音されるので、別の地方の人が誤解することも多い。
 たとえば水道(すいどう)は「すいど」Click!と読まれ、それでも長いので「いど」と略されて呼ばれていたため、江戸の街中に乃手にあるような井桁が組まれた、地下水の井戸が登場するおかしな時代劇も少なくない。江戸市街地で井戸を掘っても、塩分を含む水が湧いて飲用に適さなかったから、ほぼ100%の水道網Click!の普及が幕府の大きな課題となったのだ。江戸期から白木屋の井戸や佃島の井戸が有名だったのは、めずらしく真水が湧いてしょっぱくはなかったからだ。
 ちょっと余談だけれど、先日、佃島の丸久Click!の主人と長話をしてたら、このところ佃島の井戸に塩分が混じりはじめてしょっぱくなり、生活水には適さなくなってしまったというのを知った。石川島の高層マンションや、月島に増えはじめたビルの杭打ちで、地下水脈の形状が変わるか、地層の破壊で海水が入りこんでしまったのではないかと思う。(城)下町にはめずらしい400年来の井戸だけに、たいへん残念なことだ。
 ちぢめ言葉の話をつづけよう。清元や常磐津、長唄などの三味Click!、あるいは茶道や華道、能、詩吟、踊りなどのお師匠さんも、「おししょうさん」などとは呼ばれずに「おっしょさん」あるいは「おしょさん」となり、師弟関係が親しくなるとついには「おしさん」と略されて呼ばれるようになる。「おしさん」を、江戸東京へ布教や商売(病気平癒の祈祷や巫術)にやってきた三峯講や大山講、富士講などの修験者や霊山ガイドの「御師」Click!と勘ちがいした時代劇もどこかにありそうだ。真剣で「真面目なこと」が、江戸芝居の世界で「マジ」Click!と略されたことはすでに書いた。
 「(城)下町」と「(山)乃手」が、あたかも海外の街のように、平地と丘陵地帯を表すダウンタウン(平地)やアップタウン(丘陵地)とほぼ同義でつかわれるようになったのは、おもに明治期以降のことだろうか。「(城)下町」は本来、「(山)乃手」を含む旧・大江戸(おえど)市街地(旧・東京15区Click!)の概念であり、「下町」は「山手」の対語ではない。それが、いつの間にか海外の街並みを表現する用法にならい、平地が「下町」で丘陵地が「山手」としてつかわれるようになっている。
 だが、少し考えればわかることだが、いわゆる山手にある江戸期からの町々のことを、そこに住む地付きの人たちは誰も乃手だとは思ってはいない。神田(旧・神田区エリア)の半分は丘陵地帯だが、岡本綺堂Click!が「銭形平次」の舞台に選び、神田明神Click!のある一帯を江戸期からの地付きの方は、誰も山手だと思ってやしないだろう。同様に、江戸期や明治期から江戸東京(というか日本)を代表する商業地として発達した、日本橋や京橋・尾張町(銀座)のことを誰も山手とは呼ばないのと同様だ。地形がどうであるにせよ、それとは無関係に神田も日本橋も京橋・銀座も(城)下町だ。
 うちの義父は麻布出身(ちなみに江戸期からの龍土町でも六本木町でもない)だが、チャキチャキの町っ子だった。わたしの家によく遊びにきては、家庭麻雀を楽しんで1週間ほど泊っていったが、典型的な下町の雰囲気を漂わせていた。逆に、根っからの下町である日本橋育ちの親父のほうが、謡(うたい)Click!をやるなど乃手人のような趣味をしていたので、このふたりの性格は合わなかった。東京弁も、義父のほうは江戸の少し品のない職人言葉の流れをくんだざっくばらんな町言葉(いわゆる「べらんめえ」)だったが、親父は江戸期からの商人言葉をルーツとするていねいな(相対的にきれいな)東京弁下町言葉を話すので、どっちが「下町」っぽいのかわからないふたりだった。
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 私立の麻布中学校に通うようになって、初めて(城)下町人と接したときの驚きを書いたエッセイがある。今年(2019年)の7月14日に日本経済新聞に掲載された、古典芸能評論家の矢野誠一『東京やあいッ』だ。少し引用してみよう。
  
 麻布中学に入って、私は初めて東京は東京でも、下町育ちの友達を知ることになる。彼ら下町育ちは、幼い頃から親の手に引かれ、芝居小屋や寄席の木戸をくぐり、相撲や洲崎球場の当時は職業野球と称していたプロ野球観戦などを体験していた。ごくたまに、文部省推薦の健全きわまる映画を観せてくれた、山の手の素堅気のサラリーマン家庭に育った身には信じかねることだった。/彼らはふだんの会話でも、下町特有の生活環境をうかがわせてくれた。中学生の分際で、/そりゃきこえませぬだの、絶えて久しき対面ですなとか、/遅なわりしは手前が不調法/などと芝居や浄瑠璃の文句が、ぽんぽんとび出すのだ。そんな下町育ちの手引きで、放課後の肩鞄を提げたまんまの格好で、盛り場をうろつき、映画館や日本劇場、国際劇場のレビューをのぞくことを覚えた。
  
 矢野誠一は、「山の手の素堅気」などとユーモラスな表現をしているが、「すっかたぎ」は東京弁の下町言葉であって山手言葉には存在しない。
 著者の故郷は代々木八幡(旧・代々幡町代々木)だが、位置的にいえば落合地域と同様に山手線に接した内外地域は、大正期以降に住宅地が拓かれた新山手(新乃手)ということになる。中学生の当時、麻布という地域を「下町」ととらえていたのか「山手」ととらえていたのか、それとも(城)下町=旧・市街地という意味で下町ととらえていたのかは曖昧だが、少なくとも義父にいわせれば山だらけの麻布地域は、江戸からつづくれっきとした由緒正しい下町の認識だったろう。
 いつか、不用意に「日本橋や銀座は下町じゃないですよ~」などといったら、誇り高い下町人の岸田劉生Click!「バッカ野郎!」Click!とぶん殴られると書いたが、義父もまったく同じ感覚をしていたにちがいない。第一師団へ入営前の学生時代にはボクシングが趣味だったと聞いたので、義父の前で「麻布は下町じゃないですよ~」などといったら、マジにカウンターパンチが飛んできたかもしれない。
 つまり、海外の都市で見られるダウンタウンとアップタウンの関係と、東京の(城)下町と山手との関係は、少なくとも親の世代まではそこに暮らす住民の意識からして、まったく異なっている地域も少なくなかったのだ。そこには、「農工商」に寄生して生きる「士」に対する、「人が悪いよ糀町(麹町)」(町人からの借金を踏み倒す大旗本が住んでいた地域)に象徴される、江戸期からの階級的な反発の残滓もあったろうし、明治以降しばらくすると旧・幕臣たちClick!が続々と(城)下町にもどりはじめたとはいえ、丘陵地帯(用法がアップタウン化して混乱しはじめた「山手」)には地元民ではない人間が入りこみ威張り散らしているという反感が、少なくとも薩長政府(大日本帝国)が破産・滅亡する1945年(昭和20)までの77年間Click!、底流として執拗に連綿とつづいていたのかもしれない。
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 さて、うちの親はわたしが子どものころ、芝居(歌舞伎・新派・新国劇など)に寄席、都内の神社仏閣や名所旧蹟はほとんど連れまわしてくれたが、相撲は母親がキライで出かけず、プロ野球は親父がまだるっこしくて好まず観戦にはいかなかった。母親は、むしろ「文部省推薦の健全きわまる映画」(要するにつまんない映画)と怪獣映画Click!は見せてくれたが、夏になると『トゥオネラの白鳥』や『悲しきワルツ』(ともにシベリウス)を聴いている、おしなべて乃手人らしい趣味Click!をしていた。
 麻布出身で下町娘だった向田邦子Click!の母親は、正月になると来客の接待に駆り出される娘を哀れでかわいそうに思い、父親には内緒で遊びに逃がしてClick!くれたことがあった。下町の娘は、正月は外出して初詣のあと、街へ遊びに繰りだすのがあたりまえだったが、「山手」の一部では「おっかない父親Click!のもとに家族全員が集合してないと許されない家が多かったようだ。この「怖い父親」という概念も、たとえば日本橋育ちの小林信彦Click!にしてみれば、とうてい信じられない存在だった。
 矢野誠一『東京やあいッ』は、いわば新山手の眼差しから見た(城)下町人(旧・山手人含む)の姿だが、どこか乃手人の永井荷風Click!から見た(城)下町地域に通じる眼差しを感じる。矢野誠一『東京やあいッ』から、もう少し引用してみよう。
  
 世にいう江戸っ子気質、いなせな生活は、東京の下町にその威を見出してきた。山の手は地方から侵入してきた部外者によって構築された、言ってみれば植民地のようなものだった。/一九六四年の東京オリンピックは、その後の東京の町をすっかり様がわりさせてしまった。私たちが子供の頃を過ごした東京とは、およそ肌合のちがった東京に生まれ変ってしまったのである。気がついてみれば、風景、風俗、言語、文化、趣味嗜好、すべての面でかなりはっきりとしてあった、下町と山の手との生活習慣のちがいが失われてしまった。世の中みんな一色化していくこの国の傾きぐあいに、我らが東京も追従しているのがつまんない。
  
 「つまらない」ではなく「つまんない」と、東京方言の下町言葉をここでもう一度つかう著者だが、1964年(昭和39)の東京オリンピックが、そしてついでに同時期に行われた愚劣な町名変更Click!が、旧・大江戸市街地に当時まで連綿とつづいていたコミュニティを、次々と打(ぶ)ちこわしClick!ていったという認識は、わたしもまったく同感だ。
 だが、わたしはそれほど悲観はしていない。東京の風景は関東大震災Click!東京大空襲Click!、そして東京オリンピック1964Click!で破壊されたが、江戸東京地方ならではの風俗Click!言語Click!文化Click!趣味嗜好Click!は想像以上に根強くて根深く、かなり頑固に残りつづけている。換言すれば、それが残り守られつづけているからこそ、いまだ「江戸東京らしさ」がどこかで連綿とつづいているのだし、風景でさえ変革(復元)Click!していこうというモチベーションにつながっているのだと思うのだ。  
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「素堅気(すっかたぎ)」で思い出したが、いつかTBSの男性アナが千住の小塚原Click!を「こづかはら」と読んだのを聞いて、思わず噴きだしてしまった。幕府の処刑場があり、杉田玄白が腑分けを行なった地名は「こづかっぱら」だ。噴きだすのとは逆にキレたのは、テレビ東京の女性アナが日本橋のことを「にっぽんばし」と読んだので、劉生ではないが思わず「てめぇ、もいっぺんいってみろ、バカ野郎」(職人言葉で失礼)とTVに向かって話しかけてしまった。w 地元のTV局であるテレビ東京が、江戸東京の中核であり日本の五街道の起点にある地名をまちがえるとは、心底、恥っつぁらしで情けない!

◆写真上:歌舞伎座が建て替えられた2013年(平成25)以前の、懐かしい4代目・歌舞伎座の場内。先年の秋、久しぶりに歌舞伎座を訪れたが、なぜか季節外れの黙阿弥Click!『三人吉三巴白浪』Click!(さんにんきちさ・ともえのしらなみ)を演っていた。最近、人気芝居なら季節には関係なくいつでも上演するのだろうか?
◆写真中上は、2019年7月14日に日本経済新聞に掲載された矢野誠一のエッセイ『東京やあいッ』。は、麻布中学の友人は上方の浄瑠璃か芝居、あるいは落語が趣味だったものだろうか、「そりゃきこえませぬ伝兵衛さん」の『近頃河原達引』(ちかごろかわらのたてひき)に登場する与次郎の文楽人形Click!
◆写真中下は、「絶えて久しき対面に~」の『仮名手本忠臣蔵』五段目で、千崎の3代目・市川左団次(右)に勘平の3代目・尾上松緑(左)。は、上方落語の『七段目』でも登場する「遅なわりしは不調法」の『仮名手本忠臣蔵』七段目。7代目・尾上梅幸のおかる(左)に、3代目・坂東寿三郎の由良助(右)。
◆写真下は、『仮名手本忠臣蔵』八段目で由良助の8代目・松本幸四郎や本蔵の2代目・市川猿之助などが見える。は、1955年(昭和30)ごろ撮影の山科大石閑居跡。は、歌舞伎座にある歌舞伎稲荷大明神の社(やしろ)にお詣り。
おまけ
「そりゃ聞えませぬの伝兵衛さん」でフテ寝するうちのネコで、仔ネコだったのが大型化して座布団からはみ出す最近のオトメオオヤマネコ(♀/2歳/御留山出身)。
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雑司ヶ谷地域の関東大震災。 [気になるエトセトラ]

目白駅付近より東京市街地19230901.jpg
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今回は高田町の北東側に位置する、雑司ヶ谷の震災当時の様子を書いてみたい。
 雑司ヶ谷における関東大震災時のエピソードは、少し前に地震による延焼で全滅した洲崎遊郭から脱出し、楼主たち追手から逃れるために、鬼子母神参道前の雑司ヶ谷の交番へと駆けこんだ娼妓たちのエピソードClick!をご紹介している。その記事で、事件の経緯を記録していた資料として、同年10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)から引用しているが、地元の高田町の資料では関東大震災に関する記述がほとんどないことにも触れている。
 たとえば、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述はわずか5行弱にすぎない。同書より引用してみよう。
  
 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
  
 実際には、学習院の特別教室から出荷した火災で同校舎が全焼したり、住宅にも少なからず被害が出て負傷者もいたはずなのだが、それほど深刻な被害がなかったせいか東京市街地の街々とは異なり、非常にあっさりとした記述になっている。
 これは、豊島区全体の歴史を概観した区史でも同様で、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)にいたっては、わずか2行と少しの記述で終わっている。同書の、「各町の町制時代」の項目から引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日、関東地方に大震火災起り、幸にこの地方は災禍を免れたが、東京市中は殆んど全滅の状態となつた。罹災者は陸続とこの町に避難して来たので、町は全力をあげて救済につとめた
  
 豊島区のレベルで見るなら、立教大学のレンガ造りの本館が崩落したり、そこそこの被害は出ているはずなのだが、犠牲者がほとんど出なかったことが、おしなべて関東大震災の印象を希薄にしているのだろう。
 地震による被害よりは、市街地から押し寄せる膨大な被災者たちの救援や、罹災者の避難場所としての記憶のほうが強く残ったのだと思われる。大震災の当時は、住宅が近接して建てられておらず、火災が拡がる怖れはきわめて低かっただろうし、住宅の周囲には田畑や空き地があちこちに残っていたせいで、避難場所にも困らなかった。
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高田村役場(高田若葉7)1918.jpg
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 また、東京市街地と武蔵野の台地エリアでは、地震による揺れの大きさが異なっていた可能性が高い。2011年(平成23)の東日本大震災でも、東京の低地や埋め立て地を中心とする市街地一帯では震度5強を記録したのに対し、新宿区の上落合に設置されている地震計は震度5弱にとどまっている。関東大震災でも同様だったとは、具体的なデータが残されていないので断言できないが、目白崖線沿いの地盤は市街地よりも震動がひとまわり小さかった可能性がある。
 しかし、それまで経験のない関東大震災の大きな揺れは、雑司ヶ谷の住民たちを驚愕させるには十分だった。1977年(昭和52)に新小説社から出版された、中村省三『雑司ヶ谷界隈』から引用してみよう。著者は子どものころ雑司ヶ谷電停のすぐ西側、雑司ヶ谷水原621番地界隈(現・南池袋2丁目)に住んでいた。
  
 私の家は今でも残っているその土蔵の西側で、大震災の時にはこの土蔵の瓦が数枚、私の家のせまい庭先に落下してきたものだ。(中略) 大正十二年九月一日、いわゆる関東大震災は、私の小学校一年生の時、その雑司ヶ谷の家で遭遇した。始業式を終えて家へ帰ると、父が昼食の仕度をしていた。母は夏休みで郷里へ戻った姉と妹とを迎えるために帰省して不在であった。 / 父に言われるまま茶卓の上に茶碗や箸などを並べていたが、いきなり大きくゆれ出したと思うともう坐ってもいられなかった。襖が大きく弓なりに曲り、はじかれたようにとんできた。気が付くとその時はもう父は私のかたわらに居て、私をおさえつけるようにして茶卓の下にもぐり込ませていた。後での父の話だと、大ゆれがくる前にゴーッという物凄い地鳴りのような音がしたということだが、子供の私にはおぼえがない。
  
 このあと父親は、著者を家の北側にあった空き地へ避難させたあと、隣家で腰を抜かして動けずにいた「小母さん」を助けだして、空き地へと連れてきている。
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 父親は、昼食がまだなのを思いだし、家の中へ何度か駈けこんでは飯櫃や茶碗などの食事道具を持ちだすと、「小母さん」も含めた3人で茶漬けClick!を食べはじめた。その後、周辺の住民たちが全員無事なのを確認すると、家の中にいては余震が危ないということで、住民たちは柿の木のある広場状の空き地へ集まった。
 しばらくすると南の空、つまり早稲田方面に黒煙が上がりはじめたのを見て、著者の父親は様子を見に出かけている。この黒煙は、おそらく学習院のキャンパス内で起きた、特別教室が全焼した火災の煙だろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ところが夕方近くなっても父が戻って来ないので私は心細かったが、とにかく泣きもしなかったことだけはおぼえている。夜はその柿の木を中心に隣り組の者達が畳をしき蚊帳を吊って雑魚寝をした。流言が出始めたのはその頃からで、男の大人達は竹槍などを用意し交代に見張りについた。私の父も隣りのお兄さんもいつの間にか戻っていて、仲間に加わっていたのを蚊帳の中から眺めた記憶はある。/一方私の母は郷里で、東京方面全滅のニュースで居ても立ってもいられなかったそうである。(中略) 母と叔父は惨たんたる下町方面の被害状況を目のあたりにして、雑司ヶ谷までたどりついてみると、余り変っていない町の姿にかえってびっくりしたそうである。事実雑司ヶ谷の私の家の附近で、倒れたり傾いたりした家は殆ど皆無で、私の家の被害も障子や襖の破損と、棚の上などから落ちてこわれた器具などで大したことではなかったらしい
  
 しかし、1923年(大正12)当時の1/10,000地形図を参照すれば明らかだが、雑司ヶ谷はあちこちに森が点在する緑豊かな地域で、家々も密集して建てられてはおらず、随所に空き地が拡がるような風情だった。したがって、同じ関東大震災クラスの揺れが再び雑司ヶ谷地域を襲ったら、現在の稠密な住宅街では被害がどれほど拡がるのかは不明だ。
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 東日本大震災がそうだったように、(城)下町Click!に比べて揺れがやや小さめなのはまちがいかもしれないが、どこかで大きな火災が発生すれば、おそらくひとたまりもないだろう。関東大震災では、犠牲者のおよそ95%以上が大火災による焼死者だった。

◆写真上:関東大震災の直後、目白駅付近から眺めた東京市街地の大火災による煙。
◆写真中上は、1918年(大正7)に撮影された四ッ谷(四ッ家)付近の目白通り。右手に見えている白亜の洋館は、できたばかりの高田農商銀行Click!は、同年に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道近く(高田若葉7番地)にあった高田村役場。は、震災と同年に作成された1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷地域とその周辺。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月の関東大震災で崩落した立教大学本館の中央塔。は、同震災で火が出て全焼した学習院の特別教室跡。
◆写真下は、いまも大正当時の面影が残る雑司ヶ谷の森の大樹。は、1975年(昭和50)ごろに撮影された中村省三の旧居跡。奥に見えるのが大震災で屋根瓦が落下した土蔵で、背後の高層ビルは建設中のサンシャイン60。は、本記事とは直接関係ないが鬼子母神の参道沿い雑司ヶ谷古木田487番地にあった初見六蔵邸跡。初見六蔵は、長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!を企画して建設している。

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