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資料によく登場する江戸川アパートメント。 [気になるエトセトラ]

江戸川アパートメント跡.jpg
 拙ブログで何度か登場しているアパートに、牛込区新小川町10番地(現・新宿区新小川町6番地)に建っていた同潤会江戸川アパートメントClick!がある。大田洋子Click!が、改造社にいた黒瀬忠夫Click!と同棲をはじめたのも同アパートだったし、その黒瀬が社交ダンス教室を開いていた金山平三アトリエClick!から、金山平三Click!が知人の山内義雄が障子を貼りかえたと聞いて、さっそく下落合からビリビリ破りに出かけたのも同アパートだ。
 高田町四ッ谷(四ツ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた安部磯雄Click!が、晩年に暮らしていたのも江戸川アパートメントだった。そのほか、同アパートには正宗白鳥や見坊豪紀、鈴木東民、なだいなだ、原弘、前尾繁三郎、増村保造、雲井浪子、坪内ミキ子など多種多様な職業の人々が住んでいた。江戸川アパートメントが竣工したのは1934年(昭和9)と、同潤会アパートの中でも新しい建築だが、竣工直後の様子を当時は津久戸小学校の生徒だった、ロシア・ソ連史家の庄野新が記録している。
 1982年(昭和57)に新宿区教育委員会が発行された『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編―』収録の、庄野新『思い出の「牛込生活史」』から引用してみよう。
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 (江戸川アパートメントは)今の高級マンションのハシリかと思うが、たしか四階建ての大きく立派な建物で、ピンクの外装がひどくモダンであった。われわれ小学生を引きつけたのは、そこに備えつけられていた自動押ボタン式エレベーターで、これを自由に操作するのが実に面白く、そしてスリルさえあった。学校が終ると友だち数人と語らって、数日ここにかよいつめた。管理人などいるのかいないのか、われわれが入りこんでも一度もとがめられなかった。ところがある日、エレベーターが途中で止まってドアがあかないのである。一瞬顔が引きつって、友だちとあれこれボタンを押した。やっとドアがあいて外に出られたときは本当にホッとしたものだ。その間、時間にして数分にすぎないと思うが、正直いって生きた心地はなかった。以来、自動エレベーター熱は一挙にさめてしまった。(カッコ内引用者註)
  
 庄野少年たちがエレベーターで遊んだのは、おそらく地上4階建ての2号棟だったのだろう。ほかに、1号棟は地上6階地下1階(一部は塔状になって地上11階地下1階になっていた)という仕様だった。鉄筋コンクリート仕様の同潤会アパートは、関東大震災Click!の火災による被害が甚大だったため、不燃住宅の建設ニーズから1926年(大正15)より1934年(昭和9)まで、東京市内に14ヶ所と横浜市内に2ヶ所が建設されている。
 同潤会アパートについては、詳細な書籍や資料がふんだんにあるのでそちらを参照してほしいが、当時としては圧倒的にモダンでオシャレな集合住宅だった。生活インフラとして、電気・ガス・水道・ダストシュート・水洗便所は基本で、大規模なアパートによってはエレベーターや共同浴場、食堂、洗濯室、音楽室、サンルーム、談話室、理髪店、社交場、売店などが完備していた。江戸川アパートメントは、同潤会アパートの中でも大規模なもので、1934年(昭和9)の竣工から2001年(平成13)の解体まで、実に70年近くも使われつづけた。
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 江戸川アパートメントは、北側の1号棟と南側の2号棟に分かれており、棟の間にはかなり広い中庭が設置されていた。家族向けの広めの部屋が多かったが、1号棟の5階と6階は独身者向けで4.5~6畳サイズのワンルーム仕様が多かった。庄野新の想い出にあった自動エレベーターをはじめ、共同浴場、食堂、理髪店、社交室などを備え、中庭には子どもたちの遊具がいくつか造られて、コミュニティスペースも充実していた。江戸川Click!(1966年より上流の旧・神田上水+江戸川+下流の外濠を統一して神田川)の大曲りの近くなので、同河川の名前をとって江戸川アパートメントと名づけられている。
 面白いのは、今日のマンションとはまったく発想が逆で、上階にいくほど単身者向けの安い部屋が多く、低い階に広めで豪華な部屋が多かったことだ。つまり、しごくあたりまえだが低層階のほうが短時間でスムーズに外部との出入りができ、また関東大震災の記憶が生々しかった当時としては、火災や地震など万が一のときにすぐ避難できる安全・安心が担保されているところに大きな価値があったのだろう。大震災の経験をまったく忘れた現在、集合住宅はハシゴ車さえとどかない高層になるほどリスクが高く、大地震が多い東京の価値観が逆立ちしていると思うのは、わたしだけではないだろう。
 江戸川アパートメントは戦災からも焼け残ったが、1947年(昭和22)6月17日に山田風太郎が、同アパートに住んでいた同業の水谷準を訪ねている。この日、近くにある超満員の後楽園球場では早慶戦が開かれており、山田風太郎の日記から引用してみよう。
  
 新小川町江戸川アパートにゆく。巨大なるアパート大いに感心す。無数の窓より無数の洗濯物ブラ下がる。このアパートの住人のみにて一町会作りて猶余あるべし。ここに安部磯雄翁も住めりとか。その一棟の一三四号室の水谷準氏、部屋をたたく。廊下のつき当り、網戸に小さき鈴つき、この内側に扉あり。鈴の音ききて準氏出で、入れと言う。四畳半に絨毯敷き、ピアノ、洋服、箪笥、電蓄、ラジオ、書棚etcギッシリ並べ、窓際の空間に机、椅子三個ばかりあり。水谷氏、ピースを喫しつつラジオの早慶戦聞きあるところなりき。「妻も後楽園にゆきてお茶も出せぬ」という。
  
 山田風太郎は、早慶戦の立役者であり早大野球部の創立者だった安部磯雄Click!が、同アパートにいるのを知っていたので、早慶戦についても触れているのだろう。
 水谷準が住んでいた「一三四号室」は、1号棟の3階4号室ということだろうか。おそらく、独身者向けの部屋を借りて夫婦で住んでいたとみられるが、住宅不足が深刻だった敗戦当時、家族5人で1号棟6階の6畳サイズのワンルームに住んでいた例もあるので、当時としてはめずらしくない光景だったろう。また、表参道の青山アパートも同様だが、戦後まで残っていた同潤会アパートは人気が高く、狭い部屋で数人が共同生活する例も多かった。
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 少し前から、日本経済新聞の「私の履歴書」に、ソニーミュージックエンタープライズの社長だった丸山茂雄がエッセイを書いている。江戸川アパートメントには、祖父の早大教授で国会議員の社会主義者だった安部磯雄と、日本医科大学教授で丸山ワクチンを研究開発した父親の丸山千里とともに住んでいた。丸山茂雄は「やわらかい社会主義者」と表現しているが、安部磯雄は別のフロアに住んでおり、戦後に社会党内閣が発足したとき、片山哲首相が江戸川アパートメントまで報告にきていたのを憶えている。
 戦後の江戸川アパートメントについて、2022年7月2日に発行された日本経済新聞の丸山茂雄「私の履歴書―住人も暮らしぶりも多彩―」から引用してみよう。
  
 コンクリート建築の江戸川アパートは焼けずに無事だった。住んでいるのは世帯主が40代半ばより上という家庭がほとんどで、戦争には行っていない。200世帯以上が暮らしていたと思うが、「あの家はお父さんが戦死して大変」といった話は聞かなかった。あのころの日本では特殊な環境だったと思う。(中略) 住人たちの職業は文学者にイラストレーター、いまでいうフリーランサーと多彩。私くらいの世代だと、子供のころは近所の悪友とチャンバラ遊び、いたずらをして親に叱られて、なんていう話が定番だが、このアパートにそういう雰囲気はなかった。/やがてあちこちに団地ができ、50年代の終わりになると「団地族」という言葉がマスコミで使われるようになった。60年代版の国民生活白書にこの言葉の解説が載った。/過度な競争意識に包まれやすいのが団地族のひとつの特質だったろうか。あの家が洗濯機を買った、テレビを買った、あそこの子供がどこそこの学校に入った、うちも負けられない……と。しかし、丸山家に関して言えば、競争心とは無縁だった。
  
 おそらく、戦前からの住民も多かったのだろう、いわゆる戦後の「団地族」とは趣きが異なる人々が、江戸川アパートメントで暮らしていた。丸山家は同アパートの3階に住んでいたようだが、同エッセイを読むかぎり北側の1号棟か南側の2号棟かは不明だ。
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 飯田橋駅近くに勤務していたとき、深夜まで残業したあとは下落合までたまに徒歩で帰宅することがあったので、目白通りへ抜けるために江戸川アパートメントの前を何度か通過しているはずだが、夜更けで暗かったせいか印象が薄い。2003年には建て替えられているので、頻繁に徒歩帰宅Click!をするようになったころには、すでに存在しなかった。

◆写真上:江戸川アパートメント跡へ2003年(平成15)に建設されたアトラス江戸川アパートメント(右手)で、正面に見えているのは凸版印刷の本社ビル。
◆写真中上は、1934年(昭和9)ごろに作成された同潤会江戸川アパートメントの完成予想図。は、解体直前に撮影された江戸川アパートメント。は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた竣工2年後の江戸川アパートメント。
◆写真中下からへ、戦災から焼け残った1947年(昭和22)撮影の江戸川アパートメント、1979年(昭和54)の同アパート、1984年(昭和59)の同アパート。
◆写真下:2022年7月3日発行の日本経済新聞に連載された丸山茂雄「私の履歴書」。

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「江戸へいってくら」「東京へいってくら」。 [気になるエトセトラ]

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 江戸初期に、大川(隅田川)の砂洲を埋め立てて造成した佃島Click!の住民は、佃の渡しClick!に乗って川向こうの明石町や築地に出かけていくことを、「江戸へいく」といっていた。もともと徳川家康に招かれて、30戸ほどの漁民が大坂(阪)から江戸へやってきて住みついたのが佃島なので、当時は大川の西からこっちが江戸で東側は下総国だったわけだから、感覚的に「江戸へいく」でも自然でおかしくはなかっただろう。
 ところが、江戸後期の大江戸時代、すなわち朱引き墨引きが大きく拡大して、大川の東側に拡がる本所や深川、向島、亀井戸(亀戸)などの地域が江戸市中に編入されたあとも、「江戸へいく」という表現は変わらなかった。時代が明治になり京橋区佃島になってからも、佃島の住民は西側の対岸へわたることを「東京へいく」と称していた。
 あくまでも、徳川家康に招かれて江戸にやってきたという彼らの自負心と、川中の島であるがゆえに住民の間で形成されたとみられる閉鎖的なミクロコスモス(ムラ社会)のような意識から、佃の渡しやポンポン蒸気に曳かれた渡船、のちに佃大橋をわたって明石町や築地側へいくことを、現代までつづく「東京へいってくら」(「東京へいってくるわ」を略した東京弁下町方言の男言葉)と表現しつづけてきたのだろう。そのような自負心や優越感が、室町期の江戸城下からつづく江戸地付きの漁民たちとの間で齟齬やイザコザを起こし、訴訟沙汰にまで発展した記録Click!がいまに伝えられている。
 佃島の自負心は、最近までつづく徳川家への白魚Click!献上という“年中行事”にも表れていた。1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』より、佃島住民へのインタビューの一部を引用してみよう。
  
 今でも徳川さんには白魚を毎年、届けてるんだ。天皇家の方は昭和天皇が生物学をやってたでしょう、この白魚はどこでとれるのか、と聞かれてチョン。いま、佃島でとれるわけないやね。まァもともとオレらが献上してたのは徳川様なんだから、いいんだけどね。
  
 「チョン」は、東京方言で「不要」「お払い箱」「用済み」「クビ」などの意味だ。
 さて、この「江戸へいってくら」、明治以降は「東京へいってくら」という表現は、佃島とは反対側にあたる江戸近郊の西北部でもつかわれただろうと想像していたが、驚いたことに、つい最近まで「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていた地域が、落合地域の西隣りにあたる旧・野方町(中野区)に残っていたのを知った。
 江戸後期、すなわち大江戸時代の朱引き墨引きは大きく拡大し、下落合村や上落合村、葛ヶ谷村、長崎村、柏木村、角筈村、代々木村、渋谷村などは、かろうじて朱引き内側の御府内(江戸市中)、つまり南北の江戸町奉行所の管轄内となったが、上高田村や新井村、中野村、片山村、江古田村などは朱引きに接する外側のエリアであり、江戸勘定奉行所の出役(代官)か関東取締出役(八州廻り)の管轄だった。
 1989年(平成元)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続 中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。
  
 「きょうはどちらへ」、「きょうは江戸」
 中野駅を中野停車場といった。ともかく電車に乗れば、まあ仮りに、駅の近所で人に会うでしょ、知り合いの人に。「きょうはどちらへ」って、こう言うわね。そうすんとね、年寄りは、「うん、きょうは江戸」。われわれ若い、子どもだとか若者は、「うん、きょうは東京」って。電車乗って、どっか行くと、東京。年寄りは「きょうは江戸」。だいたいがまあ、新宿から先は江戸だよ。
  
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 西隣りの中野区で上記のような地理感覚、つまり「新宿から先」の四谷区から向こっかわへ、つまり江戸東京の(城)下町Click!東京15区Click!エリアへ出かけることを、「江戸へいく」「東京へいく」と表現していたとすれば、落合地域でもまったく同様の感覚だったのではないか?……という想像が働いていた。ましてや、中野地域は早くから甲武鉄道、のちに中央線が敷設されていたにもかかわらず、そのような表現が近年まで残っていたとすれば、昭和初期までは最寄り駅が山手線の目白駅か高田馬場駅しかなかった落合地域でもまた、「江戸へいく」「東京へいく」といういい方が、かなりあとの時代までつかわれていたのではないかと想定したからだ。
 だが、地元の資料にいろいろ当たってみても、そのようなエピソードは記録されておらず、落合地域が江戸東京の城下町に対して、地理的にどのような意識を抱いていたのかがつかめていない。ただ、「彰義隊」になりすまして商家や農家へ強盗に入った江古田村の半グレ息子Click!たちが、上落合村の村人たちに袋叩きにあって打ち殺された(東京方言では「ぶちころされた」「ぶっころされた」)あるいは捕縛されたとき、町奉行所から取り調べのために同心たちが出張ってきた際、わざわざ八丁堀からきたのかどうかを気にしているので、やはり市街地に対して江戸近郊という意識が強かったのだろうと想定していた。
 ところが最近、それが中野地域や落合地域どころではなく、東京15区=大江戸の旧・市街地でも、「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていたのを知った。自分の住む地域を、「江戸」とも「東京」ともとらえていなかった住民は、赤坂や麻布、牛込、小石川あたりの、(城)下町の中でも「山手」「乃手」と呼ばれた一帯に住む人々だ。彼らは、山や森におおわれた乃手は江戸東京の「街中」ではなく、江戸東京は商業が発達し水道網が普及していた繁華街ととらえていたフシが見られる。また、明治になってからも、たとえば小泉八雲Click!の「東京の赤坂には紀伊国坂があった」の出だしで有名な『貉(むじな)』で描かれるように、赤坂の谷間は人もめったに往来しない寂しい場所だった。
 記録したのは永井荷風Click!で、1994年(平成6)に岩波書店から出版された永井荷風『荷風全集』第17巻収録の、『井戸の水』から引用してみよう。
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 江戸のむかし、上水は京橋、日本橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れていたばかりで、辺鄙な山の手では、たとえば四谷また関口あたり上水の通路になっている処でも、濫(みだり)にこれを使うことはできなかった。それ故、おれは水道の水で産湯をつかった男だと言えば江戸でも最(もっとも)繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ッ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といえば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでいるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったそうである。)
  
 永井荷風は、山手の年寄りから「江戸へ行ってくる」というエピソードを聞いているとみられるが、明らかに神田上水Click!玉川上水Click!による水道網Click!がいきわたった街場=繁華街=江戸東京ととらえていたのがわかる。面白いのは、中野区あたりでは「新宿から先」、すなわち山手線の内側(四谷大木戸が目安か?)あたりからが江戸東京ととらえていたのに対し、(城)下町の乃手ではさらに範囲を狭めて、中でも水道が普及している江戸前期からつづく繁華な(城)下町が「江戸」だととらえられていることだ。
 この伝でいけば、芝や虎ノ門、市ヶ谷、本郷などではどうだったのかが気になるが、おしなべて千代田城Click!の西から北にかけて形成された乃手の住民たちが、(城)下町の全体からみると繁華な商業地(おもに千代田城の南東から北東にかけてある街々)のことを「江戸(東京)」と表現していたように思われる。永井荷風も書いているように、神田明神社Click!山王権現社Click!の氏子町の、さらに外側に拡がる地域で「江戸へいく」、明治前期あたりまでは「東京へいく」という表現が用いられていたのではないか。
 ちなみに、明治以降は京橋エリアと規定された佃島の住民たちは、神田明神社でも山王権現社でもなく、大坂(阪)から同島に分祀した住吉社の氏子町だった。また、江戸期の佃島には水道が引かれず、大川の中洲で良質な清水が湧きでる井戸水を活用していたが、最近は井戸水に海水が混じりしょっぱくなってしまったと、丸久の主人から聞いている。
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 うちの親父が、盛んに「東京へいってくら」といっていたのは、先祖代々の故郷Click!を離れて、仕事の関係から相模湾の海街Click!に住んでいたころだ。本人にしてみれば、「東京へいってくら」は非常に忸怩たる思いがこめられていたのかもしれないが、わたしはそんなこととは露知らず、東京のお土産を期待したものだが、買ってくる土産物が江戸期からつづくどうしようもない玩具Click!ばかりで、ガッカリしたことはすでに書いたとおりだ。

◆写真上:佃島から築地や明石町方面へ、「江戸東京にいく」架け橋の佃大橋。
◆写真中上は、佃堀ごしに眺めた佃島住吉社の本殿裏。は、1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』()と、同年に岩波書店から刊行された永井荷風『荷風全集』第7巻()。は、『佃に渡しがあった』に掲載の尾崎一郎が撮影したポンポン蒸気に曳かれる佃の渡船。見えている対岸が佃島で、わたしも親に連れられ本場の佃煮を買うために渡船には乗っている。
◆写真中下は、佃堀から佃小橋ごしに石川島方面を眺めたところ。は、1929年(昭和4)に撮影された中央線・中野駅。戦後しばらくの間まで、中野から電車で新宿方面に出ることを「東京へいく」といっていた。は、明治初期に撮影された千代田城外濠の北にあたる牛込御門(牛込見附)で現在の中央線・飯田橋駅あたり。
◆写真下は、小日向にあった黒田小学校Click!の跡地で発掘された神田上水の開渠跡。は、経年や地震ではビクともしなかった水道管の幹線である万年石樋()と、明治以降の金属製による水道管よりも耐久性が高く漏水率も低いといわれる、江戸の船大工が総がかりで製造した木材の伸縮を抑えた水道管の支線木樋()。は、ビルの工事などで地下から出現する木樋の水道支管と、流水を汲む枡(ます)。これを地下水を汲みあげる井桁を組んだ「井戸」と勘ちがいした、江戸が舞台の大ウソ時代劇ばかりだ。(時代考証がいい加減な、京都にある時代劇のセットあたりで撮影されているものだろうか?) 乃手では「井戸端会議」だったが、町場では「水道(すいど)端会議」だろう。このような水道網が、大江戸の(城)下町の地下には縦横に張りめぐらされていた。世界最大の都市だったにもかかわらず、井戸が主体のヨーロッパ諸国のように、街人口の大半が死滅してしまう伝染病・感染症禍を最小限に食い止められたのは、常に流れる衛生的な水道網の普及によるところが大きいともいわれる。

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文学座アトリエの杉村春子。 [気になるエトセトラ]

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 わたしは長い間、勘ちがいをしていた。新宿区信濃町にある文学座のアトリエは、空襲からも焼け残った戦前から建つ大きな西洋館を、戦後になって内部を改築したものとばかり思っていた。近くにはカルピスClick!三島海雲邸Click!もあり、てっきり戦前からの近代建築だと思いこんでいた。でも、防空の目的から重要施設が黒く塗りつぶされた戦中の空中写真を参照していて、信濃町の北側にこの建物がないことに気がついた。
 戦前は、同所には和館とみられる大きな屋敷が建っていて、山手大空襲Click!により周囲の屋敷林ともども全焼している。現在の信濃町9~10番地のほぼ全体を占めるほどの広さで、誰の屋敷だったのかは不明だが、その広い敷地の北寄り、ちょうど母家があったあたりに、現在の文学座アトリエは建っていることになる。
 文学座アトリエは、同劇団のサイトによれば竣工が1950年(昭和25)で、伊藤義次の設計だそうだ。英国のチューダー様式を採用した意匠で、完成当時から「アトリエの会」の上演場所として利用されている。また、附属演劇研究所の発表会の舞台としても利用されていて、同研究所の研究生が卒業する際にはここで学んだ成果を表現するのだろう。おそらく連れ合いも、ここで発表会(舞台)をやっているにちがいない。
 文学座附属演劇研究所による卒業発表会のときに制作された冊子を見ると、この信濃町にある文学座アトリエで演技の学習や演劇の講義、舞台の練習などを行なっていた様子がとらえられている。卒業発表会のパンフレットは、学校でいえば卒業アルバムに相当するもので、同期に卒業した研究生全員のプロフィールとともに、集合写真やアトリエでの稽古、講師や先輩たちによる講義の様子などが掲載されている。
 連れ合いの卒業時には、36名の研究生がいたことがわかるが、現在の文学座附属研究所の研究生の募集人数は30名なので、当時は研究所への入学希望者がかなり多かったのだろう。あのころでいえば、東京芸大の人気学科を超える“狭き門”だったらしい。男女の比率は、男子が18名で女子が18名のちょうど半々で、中でも演劇の伝統Click!からか早大の劇研などの演劇グループや、文学部演劇科の学生が多かったと聞いている。
 これらの卒業生たちは、俳優や声優になったり、演劇の演出家や劇団の主催者など、現在でも演劇にかかわる仕事をしている人たちが多い。連れ合いのように、とりあえず演劇から離れ、まったくちがう方向へ進んでいった卒業生のほうが、むしろめずらしいのかもしれない。同期の仲間から、ときどき連絡があるようだが男子の卒業生は演劇人が多く、女子の場合はまったくちがう生活を送っている方が多いのは時代のせいもあるのだろう。
 また、卒業発表会の冊子には、同研究所で演劇を教えていた講師陣による寄せ書きが掲載されており、卒業生へたむけたひと言が手書きの文字で掲載されている。たとえば、以下のようなコメントだ。1975年(昭和50)に発行された「第十四期卒業発表会」(文学座附属研究所)から、その一部を引用してみよう。
  
 あれっ! もう卒業なの? 何もしないうちに終っちゃったね。まあ、残んなくても、街で会ったら、飲みましょう:楠本章介/あなた方の芝居観るの、ホント、勉強になるわ! アーラいやだ、私なんか鼻たれ小僧もいいとこよ、何年、やっても……。どう遊ぶかよ。遊んでる時が恐いのよ!:田代信子/う~ん……そうねえ、あん時のことは……今言う江戸弁は、曲がりなりにもよくやるけど、東京弁というのは難しいもんですよ。皆、なかなかうまくやった。実は僕、驚いてますよ。:龍岡普/才能の乏しい人は粘ること!……あの人を見よ!:藤原新平/早くうまくなってオレみたいな役者になれよ!:小林勝也/精一杯自分を出しなさいネ:南一恵/日常の色々な音をつかまえること 生きたセリフのいえる役者になれ:横田昌久(順不同:以下略)
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 演劇の世界はただ観るばかりで、その内情はほとんどまったく知らないが、まるで進路が決まった高校生を送りだす熱血教師のような言葉が並んでいて熱い。
 なんらかの表現や成果物を求められる仕事には、必ず才能の有無が常に問われてくることになる。それは、別に他者に問われるばかりでなく、自分自身への問いかけも折々何度でも発生してくるだろう。また、それは一生の仕事になるかならないか、人生を賭けてもいいのかどうか、どれぐらいつづければ仕事に自信がつくのか……、別に演劇に限らず、なんらかの専門分野で仕事をする人間なら、誰しも自問自答を繰り返すことになる。
 同じく講師のひとりだったと思われる、先年84歳で他界した演出家の岩村久雄は、冒頭に『雑感』と題してこんなことを書いている。同冊子より、つづけ引用してみよう。
  
 何年か続けて卒業生に送る言葉を書いてきたが今思いつくことがすべて何年か前に書いたような気がして筆がうまく運ばない。しかし、そう沢山のことを言っているわけではなく、芝居のむづかしさを、時には、俳優としての才能のない者は直ちに止めて転業せよとすすめたり、努力すれば何とかなるだろう等とわけしりだてにいっているにすぎないのだ。自分に才能あり、という幻想を抱きながら泥沼にづるづる(ママ)とのめりこんで行く悲劇を自覚せよと書いた年に何人かの生徒が自分にはそういう才能があるかどうか打割って話して欲しいと言われて困ったことを覚えている。あの時、しかし何と答えようと、決してその人達は止めることなく続けているだろう。
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 「自分には才能がなく、向かない世界かもしれない」と、早めに見切りをつけて転身した連れ合いのようなケースもあれば、せっかく文学座の演劇研究所を卒業したのだからと、演劇の世界をあきらめきれずに現在でも地道につづけている方もいるのだろう。好きで飛びこんだ世界なのだから、本人がとても満足しているならそれはそれでいいのではないかと思う。上記の文章で、「才能があるかどうか」を訊ねた卒業生がいたようだが、それはどこかで自分自身が見きわめることであって、あえて他者に訊くことではないだろう。
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 好きな演劇の世界にいる仲間ということで、なんとなく講師と研究生たちの和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるが、アトリエにひときわ緊張が走る時間もあった。アトリエの裏に住んでいる杉村春子Click!が、演技指導で姿を見せるときだ。まず、アトリエ内を隅々まで掃除してきれいにし整理整頓しておかないと、汚れているところを見つけたら最後プイッと母家へ帰ってしまうので、まるで研究生たちは昔の「姑」のチェックを待つ「嫁」のような心境だったのではないだろうか。いかにも、歳をとった杉村春子Click!は佐々木すみ江と同様、ちょっと意地悪な「姑」役がピッタリ似合いそうだが……。w
 まあ、文学座の実質上のボスなのでしかたがないのだろうけれど、母家へ呼びにいくのは研究生たちが順番で(いやいや?w)かわりばんこに担当していたようだ。そして、彼女はそのときどきで多種多様な役どころを演じて見せると、アトリエから再び母家へ泰然ともどっていったらしい。要するに、細かな演技の指導や技術の講釈をするよりも、最初は見よう見マネでおぼえろという教育方針だったのだろう。
 杉村春子が若い子たちに向け、あまり教育熱心でなかったのには理由がある。彼女には、せっかく建設したアトリエで自由に稽古をすることができず、文学座の研究生たちに半ば“占領”されていまった……というような意識が強くあったのではないか。つまり、文学座の俳優たちが舞台稽古のため、いつでも自由に使えてこそ劇団のアトリエとしての意味があるのに、いつも駆けだしで右も左もわからないような若い子たちが占有して、自分の思うように稽古ができないという不満がくすぶっていたのだろう。
 2002年(平成14)に日本図書センターから出版された杉村春子『舞台女優』Click!では、こんな不満をチラッともらしている。
  
 それでもしばらく、私が芝居をすれば、古いの何のといわれ、いやな思いをしましたが、私がそれまで生きてきたのは芝居がしたかったからで、文学座のアトリエは私にとっては何にもかえ難いところでした。このアトリエで一つの芝居をはじめからああでもない、こうでもないとつくり上げることができます。その魅力です。/しかし、それもなかなか自由にはできませんでした。アトリエが若い人たちの道場のようになることは大いに結構なことでしたが、私たち古くからいる者はアトリエの椅子一脚でさえ、どれを使ってよいかわからなくて寂しい思いをした時もありました。
  
 どうやら、自分たちが稽古に使いたいのに、いついっても「若い人たちの道場」化してて、思いどおりにならないことにちょっとスネていたようなのだ。杉村春子のような女性が一度スネると、機嫌が直るまでに少し時間がかかりそうだけれど、「私のかけがえのないアトリエを汚さないでちょうだいな、ここは芝居が生まれるとても神聖なところなのよ」という、彼女の思いもなんとなくわかるような気がする。
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 文学座には、同劇団を応援する“友の会”のような「文学座パートナーズ倶楽部」というのがある。研究所を卒業した連れ合いは、当然この倶楽部に入っていると思いきや、劇団民藝を応援する「民藝の仲間」になってたりする。ご近所に住んでいた白石珠江さんClick!つながりで、民藝の芝居のほうが好きらしいのだが、これって慶應を卒業したOGが稲門会に入っているような、妙な具合なんじゃないだろうか。両劇団とも、ここ数年の新型コロナウィルス感染症禍ではリモート舞台へ積極的に取り組んでおり、生き残りを賭けて必死だ。

◆写真上:信濃町の文学座アトリエで、裏には生前の杉村春子が住んでいた。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大きな和館とみられる屋敷があった現・文学座敷地の一画。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる文学座アトリエ。は、1975年(昭和50)撮影のちょうど連れ合いが研究生として通っていたころの同アトリエで、西側にはテニスコートが見えている。
◆写真中下は、1974年(昭和49)撮影の文学座への入口あたり。は、「第十四期卒業発表会」に寄せられた講師陣のコメント。は、1975年(昭和50)に卒業した第14期生の集合写真(意図的にぼかしている)で、現在でもTVや映画で目にする方もいる。
◆写真下は、同発表会に掲載された講師陣コメント。中左は、「第十四期卒業発表会」の冊子表紙。中右は、なにかの仕事で取り寄せた写真入りの文学座「演技者名簿」。は、1994年(平成6)上演の文学座『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で舞台上の杉村春子。

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落合地域の周辺で設計された昭和初期住宅。 [気になるエトセトラ]

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 以前、落合地域で設計された昭和初期の住宅を「文化住宅を超える落合の次世代型住宅」シリーズClick!として、落合町の3邸Click!ほどをご紹介していた。朝日新聞社が主催したコンペに、建築設計士たちが500点ほど応募し、そのうちの上位85作品が1929年(昭和4)に『朝日住宅図案集』Click!(朝日新聞社)として出版されている。また、上位16案の住宅設計図が、当時は新興住宅地の成城学園Click!で実際に建設されている。
 さて、以前は落合地域に限定して住宅作品を紹介してきたが、隣接する周辺域では大正末から昭和初期にかけどのような住宅が設計され、建てられたとすればどのような意匠をしていたのだろうか。まずは、落合地域の東隣りにあたる高田町高田1497番地、建築士・吉田亨二事務所に所属していた松浦嘉市の作品(朝日住宅29号型)から見ていこう。ちなみに、1497番地は当時の高田町の高田エリアには存在せず、字名が高田町鶉山1497番地とならないとおかしいが、地番のほうがまちがっている可能性が高い。おそらく、高田町高田1417番地の誤植ではないだろうか。
 高田町高田1417番地には、“オール電気の家”Click!で有名な電気工学の早大教授・山本忠興邸Click!があり、同じ早大教授で建築学の吉田亨二邸(事務所)も近接して建っていたのではないか。同事務所の松浦嘉市は、設計図に添えて次のように書いている。
  
 屋根は銅板瓦棒葺にして、壁は外部をクリーム色「アサノマイト」内部を白色「アサノマイト」塗とす、玄関及びポーチ、テレス(テラス)、コンクリート打とし、外部腰は茶色スクラツチタイル貼りとす、玄関内部腰は泰山タイル貼りとす、外部に面せる出入口の扉はシユラーゲのボタンロツクを使用す、便所は特に内務省式改良便所とせり。(カッコ内引用者註)
  
 「アサノマイト」は、石灰を主原料とする燃えにくい壁材で、当時は外壁用と内壁用が売られていた。シュラーゲは米国のドア金具メーカーで、現在でも多くの製品が販売されている。また、「内務省式改良便所」とは、便槽の内部に上下からの隔壁を設置し汲取り口までの経路を長くして、寄生虫Click!の卵や菌の死滅率を高めた便所のことだ。以前、「大正便所」というような呼称が登場していたが、同様に寄生虫の卵や菌を死滅させるため、構造に工夫をほどこした汲取り便所のことだ。
 外観および内観は、一部の女中室(3畳)を除けば今日の住宅とほとんど大差なく、和室も6畳間が1室あるだけで残りはすべて洋間となっている。また、あらかじめ主寝室や子ども部屋には、ベッドが造りつけで設置されていて、押入れから蒲団を取りだし敷いて寝るという生活スタイルをやめている。応接間は書斎を兼ねており、また2階の和室6畳は来客を泊めたりする予備の部屋のような扱われ方だったようだ。
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 次に、同じ高田町の雑司ヶ谷472番地に住む、猪瀬靑葦による朝日住宅69号型の設計図をみていこう。この住所は、当時の高田第一小学校(現・雑司が谷公園)のすぐ北側あたりの地番だ。平家建てでコンパクトな木造住宅だが、内部はかなり凝った造りとなっている。玄関を入ると、ステンドグラスによるオリジナルの窓が目にとまる。客間(応接間)と書斎(図書室)とを分け、また台所(4畳半)と茶の間(=食堂/4畳半)がつながった今日のダイニングキッチンのような仕様が採用されている。すでに女中部屋はなく、家族が参加して家事を分担するような設計だ。
 また、ベランダの先にはテラスが設けられ、パーゴラにはブドウやヘチマ、フジなどの蔦植物を這わせることで日陰ができるようになっている。面白いのは、家族の茶の間と居間とが分かれており、この2室だけが7畳と4畳半の日本間だったことだ。
  
 居間――は家族のもの、常住する所たるは言を待ちません故に一番便利で而も衛生上最良の処を選びました、人数の少ない家ですから来客の場合を考へ、主婦の居り勝ちな台所と居間とを玄関に近くとり、しかも二室は寝室ともなり、又夏など浴衣一枚で横臥に涼をとることもある関係上、仕切り戸を解放のまゝでも直接玄関より見えぬやうに、三尺の廻し戸を以てこの目的を達せしめました。/茶の間――使用時間の短い室ですが一家の団欒する所です、うらゝかな朝陽のもとに、又月の夜の室として配置させました、花台も作り、ラヂオも置けばこの室とします、タンス入れはカーテンにて隠すだけ
  
 つまり、居間は主寝室として使用するが、家族が同時に寝るとは限らないので、誰かが起きているときは常に茶の間が使えるようにしている……ということなのだろう。「人数の少ない家」と書いているが、夫婦に子どもふたりの家族を想定している。
 建設費は3,000円なので、物価指数をもとに現代の貨幣価値に換算すると210万円ほどになり、設計費を入れても当時のサラリーマンには無理のないマイホームだったのだろう。ただし、これらの住宅はみなコンパクトで効率的にできているが、今日と大きく異なる点は庭が広めだということだ。庭園には、広めの芝生や花壇を設置してもまだ余るほどの広さで、のちに子どもが増えたりした際の増築を前提にしているのかもしれない。
 この住宅は、日本の気候に合わせて和室をできるだけ活かす設計をしているが、冬はかなり寒かったのではないだろうか。外観もどこか和風の雰囲気を残しているが、モダンな窓やテラスなどはともかく、これは当時の雑司ヶ谷に拡がる街並みや風情にフィットするようにとデザインされた設計者の意図をなんとなく感じる。
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 次に、落合地域の南東側に接する戸塚町諏訪172番地に住む、牧野正治と御田鋼男による共同設計の住宅だ。この地番は、高田馬場駅から早稲田通りを東へ200mほど歩いて右折した、ちょうど蒲焼き「愛川」Click!の斜向かいあたりの住所だ。
 朝日住宅76号型は和風の造りなのだが、同じく3,000円でできる住宅として設計されている。外観は一見洋風なのだが、室内は畳の部屋がメインで10畳の客間に6畳の居間、4畳半の子ども部屋という構成になっている。洋間は10畳大の書斎にキッチン、狭い化粧室の3部屋だが、すでにこの住宅にも女中部屋は存在しない。和風らしさは、南側に設けられた縁側廊下に表れているが、庭には積み石によるサークル状の噴水が設置されており、芝庭の拡がりとともに洋風な雰囲気を漂わせている。
 牧野正治と御田鋼男が書いた解説文、「設計に関する特長」から引用してみよう。
  
 家族本位とし間取りに変化を与へたり/便所は大正便所/盗難除けの為外部を洋風とせり/子供室を東南の最上の位置に配置せり
  
 西洋館には泥棒や強盗が入りにくいというのは、大正期からいわれていたことで、建物自体が堅牢な造りに加え、海外から輸入した頑丈なドアや窓などの部材・金具が使われていて、簡単には侵入できなかったからだ。確かに、大正末から昭和初期にかけて説教強盗Click!がねらった家々も、その多くが日本家屋か和館併設の和洋折衷住宅だった。
 大正期の落合地域には、それまでの日本家屋を否定するような西洋館が、東京土地住宅Click!箱根土地Click!、あるいはあめりか屋Click!などによって次々と建設されていったが、雑司ヶ谷や戸塚町は同じ郊外でも市街地により近く、落合地域よりも古い街並みなので、どちらかといえば従来の家々を……というか街並みに合うような住宅が設計され、建設されているように見える。
 昭和初期の新しい住宅は、和洋折衷の設計で女中部屋や書生部屋を排し、家族が積極的に家事へ参加できるような造りになっている。しかも、急増する勤め人=サラリーマンの核家族向けに、それほどコストがかからずコンパクトな設計が主流になっていく。『朝日住宅図案集』の編集に参画したらしい、上落合470番地Click!に住む東京朝日新聞社の記者・鈴木文四郎(文史郎)Click!は、同書の「和洋折衷に就いて」で次のように書いている。
  
 服装と同じく、住宅についても和洋折衷の可否についてはいろいろ議論があるやうで、何れか一方に決める可しといふ人も多いやうです。併し、私の観る所では、体裁や調和の上から和洋何れか一方にするのが望ましいやうですが、実用本位からは折衷少しも差支えないのみならずむしろ奨励すべしだと思ひます。総て西洋式の家に住むことは、寝室にしても食堂にしても他に流用が出来ず不便であります。少くとも建坪五十坪以上の家で、経済的にも可成り余裕のある家庭でないと、中途半端なものになるおそれがあります。純日本式の住宅は、一つの室が客間にも寝室にも利用され、その点では経済的であります。
  
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 鈴木文四郎Click!はこう書くが、戦後、建築資材の品質や建築技術が向上し住宅の密閉度が高くなるにつれ、事情は大きく変わってくる。日本の気候で、機密性が高い住宅の日本間(畳部屋)は、たちどころにカビやダニの温床となってしまう。わたしの家で唯一設置していた約7畳の和室を、先年のリフォームでついに洋間に変えてしまった。いくら殺虫剤で燻蒸Click!しても、機密性が高い現代住宅ではカビやダニの繁殖を防げないことがわかったからだ。

◆写真上:大正末に建てられた家の2階から、樹木が大きく育った庭先を眺める。
◆写真中上:高田町の松浦嘉市が設計した、朝日住宅29号型。
◆写真中下:高田町雑司ヶ谷の猪瀬靑葦が設計した、朝日住宅69号型。
◆写真下は、3葉とも戸塚町諏訪の牧野正治と御田鋼男の設計による朝日住宅76号型。
は、大正末から昭和初期の住宅で流行したステンドグラスを活用した窓。

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石堂守久一派は赤坂から雑司ヶ谷に移ったか? [気になるエトセトラ]

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 少し前になるが、石堂八左衛門守久Click!の年紀入りの脇指が発見されて、刀剣界ではちょっとした話題になった。八左衛門は、滋賀県蒲生郡石堂を出自とする、備前伝を得意とする石堂派の刀鍛冶だが、江戸石堂の主流である石堂是一一派に比べ謎が多い刀工として知られている。石堂守久は、蒲生郡石堂を出たあと、初代・石堂是一(川上左近)のようにすぐに江戸へやってきてはおらず、美濃ないしは尾張(諸説ある)へ転居したあと、しばらくしてから出府していることが判明している。
 新たに見つかった脇指には、指し表に「武州豊嶋郡江戸庄石堂秦守久」と銘が切られ、裏には「慶安元年」の年紀が刻まれていた。ここで興味深いのは、「豊島郡江戸庄」という地域名だ。江戸時代の初期、江戸全域は「豊島郡」と呼ばれており、その中で「江戸庄」というのはおよそ江戸の旧市街地、すなわち東京15区Click!のエリア(それより少し狭いが)に相当する。当時、街並みが形成されていたのは、1600年代初めに描かれた「武州豊島郡江戸庄図」を参照すると、区域でいえば麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区ぐらいの範囲だろうか。
 つまり、石堂守久一派は江戸へ出府した当初、石堂是一一派が工房をかまえていた、すでに市街地(江戸庄)の赤坂に逗留して、鍛刀していた可能性が高いことがわかる。だが、「武州豊嶋郡江戸庄」と銘を切る彼の作品は、現在のところこの脇指のひと振りのみで、その後は「武州住石堂……」あるいは「武州石堂……」(すなわち江戸ないしは江戸近郊に在住しているという意味)と切るのみになっていく。すなわち、石堂是一一派から独立し、別の地へ工房をかまえたとみるのが自然だろう。
 事実、正保から慶安年間(1644~1652年)にかけ、石堂是一の赤坂工房からは筑前(福岡)石堂派が独立して九州におもむき、日置光平が分派して日置一派を形成している。一説には、石堂守久は日置光平の「兄」だとする史料もあるようだが、刀剣界では作風が似ているとすぐに「兄弟」や「親子」にされた時代があり、いまとなっては詳細は不明だ。もし、石堂守久が日置光平の兄であるのが事実だとすれば、石堂是一の赤坂工房へ弟を頼って、美濃ないしは尾張から出府したことになる。
 ちなみに、赤坂の石堂是一工房から筑前(福岡)石堂派が分派したのは、もともと同派の石堂是次が江戸で石堂是一に鍛刀を学んでいたからであり、その学費の面倒をみていた筑前福岡藩主の黒田光之の国許へ、藩工として迎えられ独立したからだ。また、日置光平が分派したのは、尾張徳川家の剣術指南・柳生厳知の指し料を鍛刀したのがきっかけで、柳生家御用の仕事を定期的に得ることができたからだといわれている。ただし、日置一派は工房を石堂是一の近く、同じ赤坂の地にかまえている。だが、石堂守久にはこのようなパトロンが現れず、石堂是一の赤坂工房から離れ(おそらくかなり早い時期だったのではないか)、「武州」のいずれかの土地に工房をかまえて独立しているとみられる。
 わたしは、石堂八左衛門守久Click!雑司ヶ谷金山Click!にいた「石堂派」ではないかと想定しているのだが、パトロンが存在しない刀工一派は生活が苦しくClick!、技術を長く子孫に伝え継承することができない。事実、石堂守久は2代までの作刀が確認できるものの、およそ3代までつづいたかつづかないかで消滅している。一方、赤坂工房の石堂是一一派は、明治期にいたるまで7代も継承され、特に7代目の石堂運寿是一Click!は幕府の抱え工に取り立てられ、備前伝を離れて相州伝を習得し「相伝備前」などと呼ばれる作品群を生みだしている。また、運寿是一は幕府からその高い作刀技術を認められ、赤坂ではなく現在の新橋駅前あたりに屋敷を拝領して工房をかまえていた。
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 ちょっと余談だけれど、初代・石堂是一が江戸へ出府した当初、赤坂へ居住する以前は市ヶ谷に工房をかまえていたとする説がある。『御府内備考』に市ヶ谷鍛冶坂の由来として、「昔武蔵大掾惟久といへる鍛冶此處に住せしゆへ名とすと砂子にいへり」と書かれているからだが、江戸の刀工で「武蔵大掾」を受領しているのは石堂是一の初代と2代しかおらず、2代目は赤坂で鍛刀しているので、初代が赤坂へ工房をかまえる前の出府当初、市ヶ谷の鍛冶坂あたりで一時的に作刀していたのではと想定されている。もちろん、「武蔵大掾惟久」は「武蔵大掾是一」の誤りだろう。この伝でいくと、江戸へ出府した当初の石堂守久は、赤坂ではなく市ヶ谷の石堂是一工房にいたのかもしれない。
 江戸(というか東日本)には、鎌倉の相州正宗Click!を頂点とする相州伝を規範・理想にすえた刀工が多いが、当然、江戸には西日本から出府した大名の藩邸があり、備前伝を好む藩士たちも存在していたにちがいない。だが、江戸期になると相州伝の人気が全国的に拡がり、備前伝のマーケットはますますニッチになっていった。
 赤坂の石堂是一一派のように、一文字派を理想とする備前伝にこだわらず、相州伝を学びなおして作刀すれば市場は拡がり、ついには幕府からも注目されて抱え工への道も拓けたのだろうが、石堂守久は備前伝の匂い本位で焼く丁子刃にこだわりつづけたようだ。このあたり、石堂守久は江戸のマーケティングを読み誤ったというか、無視していたというのか、備前伝に固執する頑固一徹な性格が透けて見えるようだ。
 初代・石堂守久は、1676年(延宝4)に入道して「秦東連(しんとうれん)」あるいは「東蓮」「東連」と改銘している。このころには、2代・石堂守久に工房を継がせ、自身は半分隠居したような身分で好きな作刀をつづけていたのだろう。この2代目ないしは3代目の守久の名前が、「石堂孫左衛門」ではなかったか?……というのが、雑司ヶ谷金山にいた「石堂派」について、わたしがいまのところ想定しているテーマだ。
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 さて、初代・石堂(八左衛門)守久のあとを追いかけていたら、またしても「石堂孫右衛門」Click!の誤記に出あった。刀剣界では、基本的な必読書といわれている川口陟の『定本・日本刀剣全集』(歴史図書社)で、戦前から戦後にかけて書き継がれた刀剣の教科書のような存在だ。1972年(昭和47)に同社から出版された『定本・日本刀剣全集』第7巻「江戸時代(1)」から、当該箇所を引用してみよう。
  
 『新編武蔵風土記稿』巻の十豊島郡の部に次のような記載がある。/〇雑司ヶ谷村 金山稲荷社/土人鐵液稲荷ととなふ、往古石堂孫右衛門と云刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり。今も社辺より鉄屑を掘出すことまゝあり、村民持。又この社の西の方なる崕元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上の段に骸骨及び国光の短刀あり、今名主平治左衛門が家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならず。/右の石堂一派の系図(石堂是一の系図)及びその他にも、孫右衛門と名乗ったものは見当らない。しかし刀鍛冶が金山神を祭ることは、当然ありうべきことであるから、石堂一派の何人かがここにおいて鍛刀したことがあったであろう。古墳らしい横穴と石堂とはおそらく何の関係もないものと考えられる。(カッコ内引用者註)
  
 同巻が執筆された時期からみて、おそらく戦前の資料を参考にしていると思われるが、著者は『新編武蔵風土記稿』を直接参照しているのではなく、高田町あるいは豊島区で作成され石堂孫左衛門を「石堂孫右衛門」と誤記した、なんらかの戦前資料を見ていた可能性がある。『新編武蔵風土記稿』には、そうは書かれていない。
  
 〇金山稲荷社/土人鐵液(カナクソ)稲荷ととなふ、往古石堂孫左衛門と云ふ刀鍛冶居住の地にて、守護神に勧請する所なり、今も社邊より鐵屑を掘出すことまゝあり、村民持、又この社の西の方なる崕元文の頃崩れしに大なる横穴あり、穴中二段となり上の段に骸骨及ひ國光の短刀あり、今名主平治左衛門か家蔵とす、下段には骸のみありしと云、何人の古墳なるや詳ならず、
  
 川口陟が書くように、「古墳らしい横穴」と石堂派の刀鍛冶とはなんの関係もないととらえるのは、わたしもまったく同意見だが、「刀鍛冶が金山神を祭ることは、当然ありうべきことである」とするのはいかがなものだろう? 刀鍛冶が奉るのは火床の神である「荒神」=鋳成(いなり)神が主流で、だからこそ江戸期には刀鍛冶の工房で「荒神祭」Click!が栄えるのであって、「金山神」=産鉄神を祭るのは目白(鋼)Click!を製錬するタタラ集団=製鉄集団Click!だとするのが、今日的な史的解釈といえるのではないか。
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 石堂(八左衛門)守久の足跡について、少しずつ見えてきたような気がするが、いまだ雑司ヶ谷金山の「石堂孫左衛門」が、守久一派の2代目あるいは3代目だという確証は得られていない。このテーマについて、またなにか進展があったら記事にしてみたいと思う。

◆写真上:金山稲荷社があった、雑司ヶ谷の金山あたりに拡がる裾野。
◆写真中上:「武州住」や「石堂八左衛門」の銘を切る、石堂守久の茎(なかご)。
◆写真中下は、1909年(明治42)の1/3,000地形図にみる雑司ヶ谷村の金山稲荷社。は、典型的な備前伝の丁子刃を焼く刃文と、入道して「秦東連」の銘を切る茎(なかご)。は、雑司ヶ谷金山の裾野に築かれた大谷石の擁壁。
◆写真下は、7代・石堂運寿是一の茎銘。は、もはや備前伝の技法から離れ相州伝と見まごう銀粉・銀砂をまいたような石堂運寿是一による錵(にえ)本位の刃文。下左は、雄山閣版の『新編武蔵風土記稿』(1957年)にみる金山稲荷社の記述。下右は、1972年(昭和47)に歴史図書社から出版された川口陟『定本・日本刀剣全集』第7巻「江戸時代(1)」の「石堂是一一派」項にみる「石堂孫右衛門」の誤記。

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