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どこまでホントか小原龍海へのインタビュー。 [気になるエトセトラ]

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 上落合1丁目482番地の龍海寺は空襲で焼失し、戦後は上落合1丁目230番地に移転した同寺の小原龍海Click!へ、戦後間もない1950年(昭和25)の夏に取材した雑誌があった。同年に漫画社から発行された、「漫画/見る時局雑誌」7月号だ。
 この中で語られていることが、いや多彩な資料類に残され小原龍海の言質として記録されていることが、どこまでが事実でどこからが虚構なのかはまったく不明だ。そもそも、本名としていた小原唯雄さえ偽名だとする長野県松本市小柳町の出身者による証言も残っており、本姓は小原ではなく北陸や信州に多い「海岸(うみぎし)」という苗字だったという。それが、突然「小原」姓になり「華族の養子に入った」と町内に吹聴して歩き、徴兵検査には華族然としたフロックコートを着て現れたという。
 また、松本市郊外にあった真言宗の海岸寺(かいがんじ/廃寺)へ「海岸(うみぎし)」の本姓で乗りこみ、自分は寺の跡とりだと称して無理やり同寺の住職に就いたようだ。そして、同寺に残されていたといわれる古文書には、黄金300枚が境内に埋められていると書かれていたと“発表”し、欲に目がくらんだ村人たちを集めては境内のあちこちを発掘してまわった。もちろん、境内からは黄金など1枚も出てこなかった。そして、1928年(昭和3)に海岸寺を放りだし、1体の観音像を手に東京へとやってきている。
 この観音像については、前回の記事でも触れたように、東京へやってきた当初は「日本橋の入船町で(略)観音さまを拾った」(昭和初期)として、上落合の自宅を改造した「寺院」の祭壇で奉っていたはずだ。ところが、戦後になると「淀橋のある古道具屋でおふくろにすゝめられて廿円で買った観音像が高村光雲さんの鑑定の結果偶然五百年以上のものと分りとたんに坊主になる気になつたんですよ」(1950年)と、まったく異なる証言をしている。「坊主になる気になつた」のは、「海岸」という本姓を根拠に松本市の海岸寺へ乗りこんだときのはずで、別に観音像を手に入れてからではなかったはずだ。
 先述の「漫画/見る時局雑誌」7月号より、小原の証言を少し引用してみよう。
  
 幼少のころ御多分にもれずおふくろの『よしの』が近所の占師にあたしの手相を見て貰つたところ、『太閤様とそつくり寸分違わぬ、天下取りの相じや』といわれて喜んだことゝ云つたら、あたしに何度も何度も繰返しましたよ。当時はもつと可愛らしく自分の口からは何ですが芸術的天分があつたというんでしようか、絵、彫刻、音楽何でも好きで美校か音楽学校へ行きたかつたが松本商業に入つた悲しさ、資格がなく明大専門部商科へ入つて上京しました。そこを卒業してヘルマンエンドアレキサンダー株式会社という羊毛輸入会社の東京支店長となり、次いで自分のちつぽけな会社をつくり社長となつたものです。
  
 どうやら、信州松本には豊臣秀吉の手相を見たことがある占い師が、明治時代まで生きていたようなのだが、ヘルマン&アレキサンダーというドイツの文献学者のような名前を冠した会社も、実際に東京で営業していたかどうかは不明だ。
 その後、元・首相だった伯爵・清浦奎吾の八男である、フランスから留学帰りの清浦末雄(当時は陸軍騎兵少尉)と親しくなり、その家庭へ出入りするうちに同じフランス留学組だった、東久邇宮稔彦(当時は陸軍歩兵第三聯隊長)とも親しくなっていったという経緯のようだ。この3人は、「既存の宗教は大嫌い」「宗教改革が必須」という点で意気投合したといわれ、マルクス主義の書籍まで読みまわしていたらしい。このときから、小原龍海は東久邇宮の邸へ自由に出入りするようになったようだ。
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 二二六事件Click!が起きた1936年(昭和11)の夏、信州の浅間温泉で遊山していた小原龍海は、駒込警察署に詐欺罪と不敬罪の容疑で逮捕された。上落合に龍海寺を建立する計画とともに、有力者たちへ観音像を見せてまわり、東久邇宮をはじめ松井石根(陸軍)、大西瀧治郎Click!(海軍)、山本五十六Click!(海軍)、関屋敏子(声楽家)などから多額の寄付金を集めては生活費や遊興に費やしたという詐欺容疑だった。大西瀧治郎は上落合の近所なので、小原はふだんから訪問していたのかもしれない。
 不敬罪の容疑は、東久邇宮からもらった菊紋入りの衣装を着て、横浜鶴見の総持寺へ出向き、随世式(出家し住職になるための儀式)へ出席したという理由からだった。これら一般刑事犯の摘発・検挙は、特高警察Click!(思想を取り締まる高等警察組織)ではなく、通常は捜査二課が担当する事件のはずだが、小原の証言は戦後になると「特高に逮捕され思想・宗教弾圧を受けた」という話にすりかわっていく。
 上落合へ龍海寺を建てるために集めた資金は、詐欺罪で逮捕されるころにはあらかた消費してしまったらしく、新たに大口の資金源が必要になった。そこで、トンネル工事で莫大な財産を築き、先代からそれを相続していたケンブリッジ大学卒の星野正一に近づき、142万円を寄進させることに成功している。当時の物価指数にもとづき、現代の価値に換算すると42億円ほどに相当する巨額だ。この資金を元手に、小原は「お堂なんてケチ臭い。ひとつ立派な昭和の代表的建築として残るお寺を建てようと決心」して、自宅近所の上落合1丁目482番地に1,000坪の土地を購入し、周辺住民たちの想像をはるかに超えた豪壮な伽藍(18間四方)が建ち並ぶことになった。
 建築材を多めに調達していた小原龍海は、余った部材で建設した住宅を多額の寄付をした星野正一にプレゼントしたが、星野は1939年(昭和14)に召集され海外へ出征したため、空き家になった星野邸を勝手に売却・処分してしまい、そのカネを龍海寺の追加普請費に組みこんでしまった。そこで、1942年(昭和17)に今度は詐欺横領罪で戸塚警察署Click!に再び検挙され、巣鴨拘置所で5ヶ月間も拘留されて有罪となった。だが、1年余の執行猶予がついたため服役はまぬがれている。このとき、曹洞宗の総持寺からも縁切り(破門)をいいわたされている。だが、この事件も戦後のインタビューでは捜査二課による詐欺横領事件ではなく、特高警察による「宗教弾圧」事件にすりかわっていく。
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 この事件をきっかけに、上落合の龍海寺は詐欺師の坊主Click!が建てた寺として、往来から投石を受けるまでになり、小原龍海は本堂の縁側に日本刀をもちだして、前通りを往来する人々を威嚇していたという。戦局の悪化もあり、小原は広大な龍海寺を軍需省に貸して同省の職員寮とし、自分は東京を離れ茨城県笠間町で、徴用学生たちとレンガ製造工場を運営している。そして、敗戦を迎えると首相になった東久邇宮稔彦のもとへ、再び頻繁に出入りするようになった。
 前掲の雑誌「漫画」で小原龍海は、臆面もなく自賛してこんなことをいっている。
  
 『私はリベラリストです。しかも芸術的です。/彫刻は高村光雲に親しく習つて、もう玄人の域に達しているといわれるし、絵は子供の時からやるし、楽器と来たらマンドリン、ギター、チエロ、ピアノ何でもやります。これでどこか柔くこなされている所が態度に出て、之が人に好かれるのでしよう』『それに医学、経済、法律、哲学何でも読むから経済方面が得意でない東久邇氏に何かと相談を受ける、この間も会社の種類を聞かれたところですよ』(中略) 処が彼の敵は、市井の裏町から身を起して高貴な連中に交る立志伝的怪物が誰も身につけている思わせぶりな断片的教養目次的学問、本は最初の一ページと最後の一句だけ読んで、マルクスの資本論だろうがカントの純粋理性批判だろうが言葉の響だけしか知らないくせに、さも精読したかのようにその一節を連ねて絶え間なくしゃべる、あのデイスインテリの一人とコツピドク彼をくさしている。/小原龍海さんが何故身上残したかの秘密は案外こんな所にあるのかも知れない。
  
 戦後は、すでに高村光雲の弟子ということにもなっていたようだが、一度だけ会ったことのある人のことを「師匠」「弟子」「先輩」「後輩」「子分」「同窓」「学友」「親友」「友人」と親しげに表現して相手の警戒心を解き信用させるのは、昔もいまも詐欺師の常套手段であることに変わりはない。「ボクは芸能界の〇〇や映画監督の〇〇と親しいから、今度会ったら口をきいといてやるよ」などと口からでまかせをいいながら、いたいけな少女を騙す事件は現代でもたまに聞く。
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 「禅宗ひがしくに教総本山」の寺兼事務所は、麻布市兵衛町の東久邇宮邸の焼け跡に建設された。ここでも小原龍海は、建設業者への支払いを手形にしてなかなかカネをわたさず、竣工直前にひと悶着を起こしている。建設業者の支店長が、たまたま小原と同郷の松本出身で、彼の前歴や前科をよく知る人物だったため、支払いを受けるまで新築の建物はすべてクギづけして使用禁止にしてしまった。したがって、1950年(昭和25)4月15日の小原龍海から東久邇稔彦への得度式(同教開教式)は、「総本山」では実施することができなかった。

◆写真上:いわゆる「高輪御殿」といわれた、高輪3丁目の広大な東久邇宮邸跡(一部が現・高輪の森公園)で、西武鉄道へ売却後はホテルの施設だらけだ。
◆写真中上は、いまも上落合に残る龍海寺の大谷石による旧境内の築垣。は、山手大空襲で焼け戦後に130mほど北東へ移動した上落合の龍海寺跡。
◆写真中下は、1950年(昭和25)に発刊された「漫画/見る時局雑誌」7月号(漫画社)による小原龍海へのインタビュー記事。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる龍海寺の焼け跡。撮影の角度から、北側には大谷石による高い築垣が見えている。は、高輪の東久邇宮邸の庭園跡とみられるエリアに残る古墳状のふくらみ。
◆写真下は、前掲の「漫画/見る時局雑誌」7月号に掲載されたコラム。中左は、麻布市兵衛町にあった東久邇邸の門に掲げられた「禅宗ひがしくに教総本山」。中右は、1958年(昭和33)に撮影された教祖の東久邇稔彦。は、「ひがしくに教」の得度式(開教式)。
おまけ
 高輪は東側が東京湾に向いたバッケ状の地域で、どこか下落合の地形に似ている。空襲の被害が比較的少なかったせいか、明治期から戦前までの近代建築があちこちに残っている。上から下へ、1924年(大正13)築の西洋館から下っていく高輪の典型的なバッケ階段、ヴォーリズClick!設計の旧・朝吹邸、ロールスロイスが停まっていた旧・竹田宮邸、目の前が交番の旧・高松宮邸、そして1933年(昭和8)築の高輪消防署。
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落合とは反対側の渋谷を描く花沢徳衛。 [気になるエトセトラ]

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 これまで拙サイトでは、落合地域やその周辺域を流してまわる物売りClick!について、大正期から現代にいたるまであちこちの記事Click!ご紹介Click!してきた。おそらく、伝承されたり記録に残っているのはごく一部のみで、そのほかにも数多くの物売りがふれ歩きしていたのではないかと想像している。今回は、従来の記事に登場してこなかった、東京近郊におけるふれ歩き商売について書いてみたい。
 参照するのは、落合地域と同じ東京郊外の住宅街として発展し、新宿駅をはさみちょうど反対側にあたる渋谷地域における大正期の記録だ。神田生まれで渋谷に育ち、斎藤与里Click!へ師事した洋画家で俳優の、ここは花沢徳衛に登場してもらおう。1987年(昭和62)に新日本出版社から刊行された花沢徳衛『幼き日の街角』から、彼自身の挿画でご紹介したい。同書は、季節を追って正月にはじまり年間を通じて、おもに大正期の渋谷の街角で見られた風俗や、季節の風物詩を追いかける構成になっている。
 花沢徳衛がようやく物心ついたころの渋谷風景を、同書より引用してみよう。
  
 私は一九一一年東京神田の生まれ。「へェ神田ッ児ですか」なんてよくいわれるが、私が物心ついた頃、一家は渋谷に住んでいたから、神田のことはまるで知らない。私は自分の故郷は渋谷だと思っている。しかし現今の渋谷はあまりにも様変りが激しく、故郷として懐かしむよすがもない。そこで、私が幼い頃街角で見かけた風物を、想い出しては描いたのがこの絵本である。/私たち一家が渋谷で住んでいたのは、豊多摩郡と荏原郡の境を流れる三田用水に近い、東京府下豊多摩郡渋谷町大字中渋谷六七六番地(現渋谷区神泉)の地で、少し駅に向って歩けば荒木山(現円山)の色街があり、三田用水を渡って駒場に出れば、輜重兵第一大隊、近衛輜重兵大隊、騎兵第一聯隊と兵隊屋敷が並び、世田谷には砲兵旅団があったから、渋谷は馬と兵隊の通行のはげしい町だった。
  
 花沢徳衛は神田生まれだが記憶がないため、江戸東京の習慣Click!にしたがえば自身のことを「渋谷っ子」と規定していた。彼は「中渋谷676番地(現渋谷区神泉)」と書いているが、同番地は現・渋谷区円山町23番地で、「神泉」は京王井の頭線の最寄りの駅名だ。神泉の谷から、南の丘上に通う道沿いが中渋谷676番地にあたる。もちろん、いまだ神泉駅など存在せず、彼のいう「駅に向って歩けば」は、自宅から道玄坂上にでて電車道を通り、600~700mほどでたどり着ける山手線・渋谷駅のことだ。
 渋谷は落合と同じく豊多摩郡に属しており、ちょうど花沢徳衛が物心つくころの、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)によれば、渋谷の人口は70,057人(16,494戸)であり、同時期の落合は1,292人(237戸)なので、よほど渋谷のほうが郊外住宅地として拓けるのが早く、すでに市街地が形成されていた様子がわかる。だからこそ、多種多様なふれ売りが各地から集合してきたのだろう。ちなみに、新宿駅のある当時の淀橋町は28,812人(6,933戸)で、渋谷のほうが市街地化が早かった様子がわかる。
 さて、正月は江戸の馬鹿囃子(ばかっぱやし)とともに獅子舞いClick!がやってくるのは同じだが、落合地域ではあまり聞かない物売り・ふれ売りをご紹介したい。まるで祭りのような派手な衣装を着た男女が5~6人、家財道具のような荷物を積んだ大八車Click!でやってきて、往来や店先など場所もかまわず、いきなり餅つきをはじめる「粟餅や」が渋谷に現れている。落合地域では聞かないが、親父Click!からは日本橋の昔話とともに聞かされた江戸期からつづく商売だ。その様子を、同書より引用してみよう。
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 (前略)せいろを仕掛けたへっついには火がはいったままで、煙をなびかせてやってきて、営業中の商家の前でもかまわず、総がかりで手早く荷を降ろして店を開く。/店先をふさがれた商家でも、そこは東京市内とちがい郊外の町のこと、一刻店先がにぎやかになっていいや、とばかり平気である。/やがて鳴物入りで歌を唄いながら餅つきがはじまる。見物人が道にあふれ、往来もくそもあったものではない。一商売すますと「おやかましゅう」と一言残して、さっと消えて行く。
  
 この「粟餅や」には子連れもあり、親父の話では子どもたちに派手な服を着せては、音曲にあわせて躍らせるケースもあったようだ。ひょっとすると、東京市内からの転居者も多かった落合町にも、大正後期には姿を見せていたかもしれない。
 「子どもだまし」も、小学校の門前に姿を見せている。香具師(やし)あるいはテキヤと呼ばれる露天商は、わたしの子どものころにもいて校門前に見世を拡げていたが、学校かPTAかは忘れたけれど、「買ってはいけません」というお触れがでたことを記憶している。
  
 小学校の先生のような背広を一着に及び、子どもたちが前に立つと、ペン先がガラスでできた万年筆を一本取り上げ、いきなりあき缶の底にたたき込み、缶の底をガラスペンで穴だらけにしてしまう。次にそのペンで紙にすらすらと丸や直線を書いて見せる。万年筆は子どもたちの憧れの品である。買って帰ると、インクがボタボタ出すぎたり出なかったりで使い物にならなかった。/X光線というのを売る奴がいた。径二センチの長さ一〇センチほどの黒いクロスを張ったボール紙の筒にレンズが付いている。これを使えば何でも透視できるというのだ。買って帰ると、何を見ても外見とはちがうモヤモヤした物が見える。こわして見たら中に鳥の羽根がはいっていた。
  
 「これ、不良品だよ!」と、校門前の「子供だまし」にクレームを入れようとするが、下校時間をすぎればとうにどこかへ消えている。見つけたとしても、「そりゃ悪かった、新しいのをあげる」といって交換するが、間をおかず尻に帆かけて逃亡するのだろう。テキヤと同じで、それでも文句をいおうものなら、「万年筆が5銭で買えるか!」などと開き直ったりするので、子どもたちにとっては興味津々だが怖い対象でもあっただろう。
 渋谷には、市内と同様に角兵衛獅子もやってきたようだ。これも江戸期からの風物詩で、はるばる越後(新潟県)から農閑期に出稼ぎでやってくる人たちだったが、明治以降は専門職として成立していたのだろう。たいがいふたり以上の子どもを連れていて、太鼓にあわせ子どもたちに曲芸のような獅子舞いを踊らせる。
 大正期には、困窮する農村から売られてきた子も多く、親方からアクロバットのような芸をきびしく仕込まれ、悲惨な生活を送る子も少なくなかったにちがいない。食事さえ満足にさせてもらえず、やせ細った子どもたちに同情して見物客は財布のヒモをゆるめるのだが、それが親方のつけ目でもあった。もちろん、子どもたちは小学校へなど通っていない。
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 渋谷にも、富山の薬売りClick!はやってきている。中には、ツキノワグマの剥製を背負って歩く富山の胆売りもいたようで、子どもたちはもう嬉しくてパニックのような騒ぎになっただろう。子どもたちは、富山から歩いてくるものとばかり思っていたようだが、団体で汽車に乗り東京へ着くと、決められたテリトリーへそれぞれ散開していったらしい。現代の富山の薬売りは、もちろん最寄りの東京支社・支店からやってくる。
  
 「奥州仙台さい川の名産孫太郎虫――」何の薬か分らないが、孫太郎という人が川で死んだ時、遺体にたくさんついていた虫だというのを聞いて気味悪かった。/熊の胆売りは、自分の商品が正真正銘の物であることを印象づけるため、暑さの中をご苦労にも熊の剥製を背負って歩いていた。/特殊構造の天秤棒で細長い薬ダンスを担ぎ、ガチャガチャ、リズミカルな音をたてて歩く定斎やさん。この人たちは決して被り物をかぶらない。この薬を飲んでいれば、決して暑さに負けない、といいたいのである。
  
 東京市内には、官設の消防署があったが郡部の渋谷にはなく、落合地域とまったく同様に鳶職を中心とした消防組Click!が組織されていた。江戸期と同じ印半纏に猫頭巾という姿で、消防ポンプはあったが纏(まとい)もちが先頭をきって走っていた。
 「ほうかいや」も門口にきては、さまざまな芸を見せていたようだ。「ほうかいや(法界屋)」は全国を流浪する旅芸人のことで、演歌師とも呼ばれていたようだが、わたしは見たことがないし知らない。また、落合地域の資料にも記録が見えない。八木節や安来節など有名な民謡を奏でながら、小さな子どもたちに踊らせては駄賃をとる、角兵衛獅子に近い芸人たちだったようだ。楽器も三味線や月琴、胡弓、尺八、太鼓などさまざまで、江戸期から街中にいた新内流しClick!の門づけのような存在だったのだろう。
 新聞の号外売りは、なにか事件があればどこの街でも新聞店から大きな鈴を腰につけて走りでてたろうが、大正期ともなれば宣伝屋もよく姿を見せるようになる。「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」はわたしもすぐに唄えるが、1918年(大正7)ごろにつくられエノケンClick!が浅草で唄って大ヒットした『東京節』Click!だ。親父が風呂場などで口ずさんでいるのを聴いて、いつのまにか自然に憶えたのだが、親父が生まれるかなり以前の曲なので、おそらく祖父母あるいは年長のオトナから教わったのだろう。宣伝広告屋のBGM(客寄せ歌)として、街中ではよく使われていたようだ。
  
 一九二一年初夏のある日、裏長屋に住んでいた九歳の私は、突然表通りから聴こえてくる大音響にビックリして飛び出した。表通りへ出て見ると、それは「ギッチョンチョン」とは全く関係のない化粧品の広告で、馬力とよばれていた荷馬車を大きな箱で擬装し、それに広告文が書かれ、音は箱の上に仕掛けた拡声器から出ていた。
  
 落合地域にも、「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョン」の広告屋がきたかどうかは証言がないので不明だが、大正期に新宿で開店していたカフェ「ブラジル」の広告ビラを、上空から撒いていた飛行機が目白学園Click!校庭に墜落Click!しているほどなので、おそらく「♪パ~リコとバナナでフライフライフラ~イ」もきているのではないか。ちなみに、連れ合いや友人たちに訊いてみたら「♪ギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」と難なく唄えたので、祖父母の世代から広く東京じゅうで唄い継がれてきた曲ではないだろうか。
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 上記の『東京節』の動画にも登場するが、渋谷にはラオ屋も頻繁にきている。もっとも、下落合にある飯田高遠堂Click!の前で、わたしはピーーッと蒸気音を景気よく鳴らす小型トラック仕様のラオ屋を見かけているので、いまでも下落合・目白地域にはキセルの愛好者がいるのだろう。渋谷には、幕府の鷹匠の末裔である「鳥刺し」もきているが、幕府鷹狩り場Click!で野鳥も多い御留山Click!のある下落合にも、鳥刺しはやってきているにちがいない。

◆写真上:江戸期に将軍鷹狩り用のタカの生餌を捕まえた幕府鳥刺しは、明治になると野鳥を捕獲して売る小鳥屋へ転職した。以下、挿画はすべて花沢徳衛。
◆写真中上中上は、粟餅屋と子どもだまし。中下は、1911年(明治44)作成の「渋谷町全図」にみる花沢宅位置。は、現在の同番地界隈(画面左)。
◆写真中下中上は、江戸期から街中ではお馴染みの角兵衛獅子と多彩な意匠でやってくる富山の薬売り。中下は、ほうかいや(法界屋)と渋谷町消防組。
◆写真下は、「ギッチョンチョン」の広告屋といまでも見かけるラオ屋。は、1987年(昭和62)出版の花沢徳衛『幼き日の街角』(新日本出版社/)と著者()。
おまけ
 子どものころTVを観ていると職人の親方や大工の棟梁、ガンコな爺さん、老舗の職人、ベテランの刑事などで頻繁に登場した花沢徳衛。かなり歳をとってからのバイプレーヤーの姿しか知らないが、若いころから洋画家をめざしていて個展も何度か開催しているらしい。
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あまりにもあからさまな下練馬地域のフォルム。 [気になるエトセトラ]

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 「濕化味(シツケミ/シゲミ)」Click!の地名音に惹かれて、前回の下練馬地域に残る小名「丸山」Click!を調べているとき、あまりにもあからさまなフォルムを発見して絶句したことがあった。落合地域をはじめ新宿区域にも、古墳地名Click!とともに大きな幾何学模様Click!がいくつか存在することは、過去記事Click!何度Click!も触れてきているとおりだが、これほど明確に古墳の形状が現代まで残されているのは、耕地整理と宅地開発が市街地よりもかなり遅く、戦後になって行われた練馬地域全体の特徴だろうか。
 インターネット上で同地域の情報を調べていると、これらの幾何学的なかたちは昭和期におけるモダンな住宅街の形成テーマとともに語られていることが多い。すなわち、多摩川台(のち田園調布)Click!国立学園都市Click!と同様に、このような円形の、あるいは方形の道路網が整備されたのだろうというとらえ方だ。だが、歴代の空中写真を参照すれば明白だが、これら整った正円や方形の幾何学フォルムは、戦後、同地域で耕地整理が進捗し住宅街が形成される以前、すなわち周辺が田園風景で農家が散在する時代から、田畑の畔や畦道、境界、農道がこのような形状をしていた様子が歴然としている。
 モダン住宅街の特徴は、これら正円(あるいは半円)・方形の中心には鉄道駅や広場があるのが通例だが、下練馬に地下鉄・有楽町線が成増駅まで延長され、氷川台駅や平和台駅が設置されたのは1983年(昭和58)になってからのことだ。しかも、これらの駅は確認できる幾何学フォルムからは大きく外れており、円形や方形の中心はもちろんそれまで田畑→耕地整理→宅地のままだった。むしろ、旧来の田畑の畔や畦道、境界(地形的に段差や窪地が形成されていたとみられる)に沿って、後世に宅地化の道路敷設や宅地造成が進められた結果とみるのが自然だろう。中でも、もっとも典型的な“鍵穴”型をしている、平和台駅に近いフォルムを取りあげてみよう。(冒頭写真) 現在の住所でいうと、平和台4丁目から北町4丁目~7丁目に展開する、巨大な前方後円墳とみられる痕跡だ。
 この一帯(平和台4丁目)は、江戸期の小名では「西本村」「丸久保」と呼ばれた地域であり、近くには「大山」「中ノ台」「庚申塚」「富士山」(北町4~7丁目)などの小名が散在する。この中で、「富士山」は北町の氷川明神社にある富士塚にちなんだ、または富士講Click!が富士登山に向かう街道筋に見られる小名だが、「大山」は大山講の阿夫利社詣での街道筋にふられた小名だろうか? 「大山」や「大塚」は全国に展開する古墳地名の典型例であり、「大山(大仙)古墳」Click!「大山〇号墳」などが各地に存在している。また、「中ノ台」も突起地形を表す小名であり、田畑の中に起立している墳丘を想起させる呼称だ。タタラ集団Click!が奉った「荒神」が、江戸期に流行した庚申信仰Click!で転化したかもしれない、小名「庚申塚」があるのも地域的に興味深い特徴だ。ちなみに、小名「庚申塚」は平和台4丁目(西本村)に現存する庚申塔とは別の存在だ。
 平和台4丁目側、前方後円墳フォルムの東に位置する江戸期からの小名「丸久保」は、円形に窪んだ地形(湧水をともなう)からそう呼ばれていた可能性が高いが、これも古墳の周壕(濠)を感じさせる名称だ。事実、“鍵穴”フォルムの東側には、戦後まで灌漑用水が通っており、また正円形の北西側にも灌漑用水の流路が確認できる。
 平和台駅北側に位置する前方後円墳のフォルムをした畑地だが、全長を計測するとおよそ500mをゆうに超えている。もちろん、500m級の前方後円墳(日本最大となってしまう)があったわけではなく、他の耕地開拓事例と同様に墳丘を崩しその土砂で周壕(濠)を埋め、さらに外周域へ均して整地化Click!していったのだろう。江戸近郊の開拓が盛んに行われ、生産性の向上が急務だった江戸前期の事業だったかもしれない。
 小名「大山」の存在とともに、この地域には「塚」と認識できるレベルではなく、「山」と表現されるような大規模な突起(下落合の摺鉢山Click!のように)があった可能性を否定できない。墳丘が崩されて均され、整地化した農地Click!にされたとはいえ、少なくとも300mを超える前方後円墳を想定するのは、あながちピント外れではなさそうに思う。それほど、地形図や空中写真を参照すると、まるでナスカの地上絵のように、田畑の中に忽然と出現する幾何学形なのだ。
 一帯は、1950年代まではほとんど畑地(一部は田圃)だが、それ以降の時代になると農家以外の家屋が急増して住宅街が形成されている。だが、現在でも同フォルムの周辺には、農地(おもに練馬のダイコン畑)が随所に残っている。江戸期に行われた、大規模な農地開拓の土木工事で古墳の膨らみは跡形もなく、ほとんど平地に均されてしまったとみられるが、ここは実際に現地を歩いて検証してみるに限る。では、さっそく平和台へ出かけてみよう。
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 平和台駅から北東へ300mほど歩くと、前方後円墳フォルムの南端に当たる東西道(前方部南端)にたどり着くことができる。この前方部の形状の底辺となる、西北西から東南東にのびるほぼ直線の道路はゆうに250mを超えており、これほど規模が大きい古墳だったとみられる痕跡を歩くのは、青山墓地に隣接した南青山ケースClick!や目黒駅東口の森ヶ崎ケースClick!以来かもしれない。中野三谷ケースClick!や新宿駅西口の角筈ケースClick!などが、ひとまわり小さなサイズに感じられるスケールだ。
 前方部から後円部へ地形を確認しながら歩いていくと、江戸期の徹底した土木技術による農地開拓が行われたのだろう、前方部はほとんど平地化されているが、後円部はちょうど環状8号線と補助235号線が交差する正円の中心部あたりから、おもに南側と北側へ明らかに傾斜していることがわかる。つまり、後円部北側の一画は現在、パイの4分の1ピースほどが陸上自衛隊の練馬駐屯地として削られて不明だが、後円部だったとみられる正円部は、中心部の盛りあがっている地形が歴然としている。
 後円部とみられる、二重の円形に道路が敷設された道筋を歩いていると、なんともいえない不思議な気分になってくる。効率のよい道路の敷設や宅地開発なら、必ず直線状に拓かれるべき道筋が、わざわざきれいな正円形に敷かれている。そこに建つ住宅群やアパートも、畑地時代からつづく変形の敷地が多く、それぞれ妙な向きで建設されている。中央にある内側の小さな正円形を、墳丘が崩される以前に存在した本来の後円部のサイズだとしても直径は200mほど、南に延びる前方部を加えれば、やはり全長300mをゆうに超えるサイズの前方後円墳を想定することができる。
 また、外側の大きな正円形の東側=外廓の位置に、同じ曲線の境界(畔)跡を確認できるので、崩された墳丘の土砂は西側よりも、おもに東側へより多く運ばれて周壕(濠)や谷戸(久保・窪地)の埋め立てに使われたのかもしれない。特に後円部の地下は羨道や玄室が存在する位置なので、周囲の公園や庭先に大きめな房州石Click!が、庭石Click!などになって残されていないかどうか気になったが、今回の散策では発見できなかった。
 さらに、前方部の東側、古墳フォルムのほぼ造り出しClick!にあたるような位置に、西本村稲荷社と同御嶽社、それに庚申塔がまとめて配置されているのも気になった。なぜなら、大型古墳の急斜面を活用して古代以降のタタラ集団Click!神奈(鉄穴)流しClick!を行った事蹟かもしれず、稲荷は「鋳成」の庚申は「荒神」への江戸期における転化が疑われるからだ。換言すれば、これらの社(聖域)や塔などの史蹟は、崩される以前の墳丘のどこかに奉られていたものが、江戸期に入り農地開拓とともにこの位置に移され、社や塔への信仰とともに名称も変更された可能性がある。「久保」や「窪」Click!の地名、すなわち湧水源には噴出する地下水とともに砂鉄の堆積場Click!が形成されやすいのも史的事実だ。
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 さて、地下鉄・平和台駅の北側に位置する前方後円墳のフォルムを、便宜上、西本村古墳(仮)と名づけてみよう。同古墳(仮)だけでなく、古い時代の空中写真から周囲の状況はどうなっていただろうか? 特に、戦後もしばらくしてから宅地開発にともなう道路敷設が進捗する以前、いまだ農地と農家が散在するのみで、一面に広がる田畑の畔や畦道、境界、農道などがあるるだけの、この地域にどのような光景が見えるのだろうか? 戦前の空中写真を年代順に参照すると、その結果は一目瞭然だった。西本村古墳(仮)の周辺には、同じように幾何学的なフォルムだらけだったのだ。
 いまだ、多くの農地が耕地整理も宅地開発も行われていない、陸軍航空隊が撮影した1944年(昭和19)の比較的鮮明な空中写真を参照すると、西本村古墳(仮)の南東側、すなわち氷川台側に大型の円形および方形のかたちを見ることができる。これは、大型の前方後円墳跡とみられるフォルムと同一エリアに、大型の方墳あるいは前方後方墳とみられる痕跡が並列していた、目黒駅東口の上大崎今里ケースClick!に近似している。また、西本村古墳(仮)のすぐ近くにも、やや小さめな正円形のフォルムを確認することができる。これらは、主墳に付属した陪墳の古墳群跡だろうか。
 さらに、西本村古墳(仮)の南には周壕(濠)跡とみられる形状まで残る、やはり前方後円墳のフォルムが明らかに見てとれる。これだけ古墳跡とみられる痕跡が残るエリアでは、ある墳丘を崩して周壕(濠)を埋め立てる際、周壕(濠)域の面積が大きい古墳のケースは、周囲の余った墳丘の土砂もあわせて埋め立てに活用したのかもしれない。
 これらの幾何学フォルムの数々は、氷川台駅から平和台駅の先まで、およそ一辺が2km前後の方形エリアに集中して存在している。関東地方でいえば、100mを超える古墳が密集している埼玉(さきたま)古墳公園、あるいは千葉県の内房線にある青堀駅周辺に集中する50基ほどの大小古墳群に近似した光景といえるだろうか。北武蔵勢力とみられる埼玉(さきたま)古墳群も、千葉県に展開する南武蔵勢力とみられる古墳群も、大規模な農地開拓や宅地開発が行われなかったために、今日までその形状をよく残している史蹟だ。
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 今日、関東各地の宅地開発が進んでいない地域では、微細な土地の隆起や農地の形状を上空からの熱赤外照射や、X線照射によって観察する空中考古学が盛んだ。特に、群馬県や栃木県では大きな成果をあげており、それまで未発見だった大型古墳や玄室などが次々と発見されている。現代の住宅街の上空から、それらの照射は不可能だが、それに代わるなんらかの観察・分析法が見つからないものか、今後のテクノロジー進化に期待したい。

◆写真上:耕地整理が行われる以前、戦前の1944年(昭和19)に撮影された空中写真にみる下練馬の「西本村」から「丸久保」界隈。北側の陸軍練馬倉庫から拡大された陸軍用地が、後円部の痕跡だったとみられる北側に喰いこんでいる。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる同所のフォルム。陸軍の用地は米軍に接収され、物資の集積場として使用されていたようだ。は、現在でも農地で多く栽培されている練馬のダイコン畑。
◆写真中下:1944年(昭和19)の空中写真と、はその現状を撮影したもの。田畑の境界や畔、畦道、農道などがそのまま住宅道路になっている。戦後の耕地整理の際、あらかじめ幾何学的なフォルムの農地がモダンな形状に見えたディベロッパーが、そのまま道路を敷設して宅地開発を行ったものか。写真は近くに西本村稲荷や庚申塔がある道筋で、墳丘の土砂がおもに東側の埋め立てや整地に使われたとみられる痕跡。
◆写真下は、戦前1944年(昭和19)と戦後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる氷川台から平和台にかけて随所に確認できる幾何学的なフォルム。この時代には、いまだに墳丘の残滓が残る地点があったかもしれない。は、西本村稲荷社と保存された庚申塔。
おまけ1
 同じようなフォルムが展開していた、目黒駅の東側に拡がる上大崎地域。こちらは、前方後円墳や方墳(前方後方墳?)とみられる墳丘の土砂が、江戸期に谷戸や谷間の埋め立て・整地=耕地開拓に使われず、森ヶ崎や今里の形状は後世までそのまま残っていた。
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おまけ2
 大型・中型古墳が密集したエリアが、そのまま大規模な公園化された埼玉(さきたま)古墳公園(上)と、内房線・青堀駅(千葉県富津市)の周辺に展開する大小の古墳群(下)。後者の青堀駅は、駅前のグリーンロータリーからして50mほどの前方後円墳(上野塚古墳)であり、内房線線路の南側には周壕(濠)をともなう大型古墳や陪墳などが密集して築造されている。千葉県は出雲圏の鳥取県を抜いて現在、古墳ランキングでは全国2位となっているが、頻繁に発見ニュースを耳にする群馬県は、もうすぐ5位の京都府を抜きそうな勢いだ。けれども、1457年(康正3)に太田道灌が江戸城Click!を築城して以来、農地化と都市化が急速に進んだ江戸東京地方では、その大多数が破壊され農地や家屋の下になってしまったのだろう。
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下練馬村の氷川明神社と小名「丸山」。 [気になるエトセトラ]

下練馬氷川社(氷川台氷川社).JPG
 先日、下練馬村の「シクジツケミ」Click!(現・練馬区桜台)とその周辺地名が気になり、台地に刻まれた谷戸や丘上を取材していたとき、石神井川へ下り氷川台へと上る段丘一帯が、下落合の雰囲気によく似ていることに改めて気づいた。石神井川の南岸は、目白崖線に似ているバッケ(崖地)Click!もつづいている。もっとも、この一帯の石神井川両岸の段丘は、神田川(古代は平川)が流れる目白崖線ほど規模は大きくはないが。
 「濕化味」の地名を調べているとき、「宿濕化味」とともに明治期には「前濕化味」(東濕化味と西濕化味に分化か?)の小名があり、石神井川にはそのエリアには濕化味橋と名づけられた橋が古くから架けられていることも知った。濕化味橋は現存しており、城北中央公園で発掘された栗原遺跡へと抜けられる橋で、同遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳・奈良・藤原(平安)と、各時代の遺物が一貫して出土した重層遺跡だ。
 すなわち、周辺の他の遺跡とあわせて考えれば、この練馬地域もまた旧石器時代から現代まで間断なく人が住みつづけてきた経緯が、落合地域とまったく同様の土地がらだということになる。また、落合地域から片山地域Click!江古田地域Click!、そして下練馬地域と西北方面を直線状に鳥瞰してみれば、これらのムラ同士では古代から人的あるいは物的な交流が頻繁にあったとみるのが、ごく自然な史的解釈なのだろう。
 下落合と下練馬およびその周辺域で、なんとなく地勢や風情がよく似ているため、『新編武蔵風土記稿』(雄山閣版)などで旧蹟や小名をたどってみると、下練馬村の総鎮守として位置づけられている練馬の氷川明神(現・氷川台氷川明神社)をはじめ、牛頭天王社(スサノオ社)、おびただしい数の稲荷社、弁天社、第六天社Click!金山社Click!(上練馬村)などなど、落合地域とその周辺域に酷似した地域性が浮かびあがってくる。
 また、小名を詳細に参照してみると、氷川台の氷川明神社の南側を流れる石神井川には丸山橋(この架橋は新しい)が設置され、その南の段丘一帯が「丸山」と呼ばれていたことも判明した。ちょうど、下落合氷川明神社Click!と小名「丸山」Click!とがセットになっている下落合とよく似た地勢だ。さらに、下練馬村と上練馬村では「本村(ほんむら/もとむら)」Click!と呼ばれる小名、すなわち鎌倉期あるいはそれ以前から集落があったとみられる場所が、下練馬村の氷川明神社のすぐ北北西並びに近接していることも確認できた。これも、下落合村と上落合村とでは、「本村」が川沿いのやや標高が高めな下落合村の南向き斜面にあり、下落合氷川明神社の西並びにあるのと近似している。
 このような地勢で氷川社と、全国に展開する古墳地名の「丸山」Click!とがセットになった地域には、なんらかの古墳時代における痕跡が、下落合の「丸山」のすぐ西にあった小名「摺鉢山」Click!の大きなサークル跡や、上落合の小名「大塚」Click!エリアにおける巨大なサークル跡Click!と同様に見つかるのではないかと考えたわたしは、明治期以降の地形図や1936年(昭和11)以降の空中写真をシラミつぶしに当たってみることにした。すると、あちこちに人工的と思われる地形の痕跡を見つけることができた。
 下練馬の氷川明神(スサノオ)が、下落合の氷川明神社(クシナダヒメ)と同様に大きな釣鐘型をしていたかどうかは、各時代の地形図を見ても、また空中写真を見ても樹林や田畑に覆われて判然としないが(農村地帯だったため空襲の被害は受けていない)、石神井川の北岸に古くから通う丘麓の街道、すなわち下落合の目白崖線沿いに通う雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)に相当する道筋に、大きな半円形の蛇行がいくつも確認できるのに気がついた。特に、氷川台氷川明神の西に位置する南に大きくふくらんだ半円が、ちょうど下落合氷川明神の西に位置する「摺鉢山」Click!の小名が残る、南へ大きくふくらんだ道筋に酷似しているのがわかる。この道筋から北を向くと、現在はなだらかな上り坂の住宅街が造成されている。
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 「下落合摺鉢山古墳(仮)」Click!の記事でも書いたけれど、昔も現代も街道(道路)を通すのであれば直線状に敷設していくのが利用者にはもっとも効率的であり、あえて半円形のような曲線の道筋を通すのは、そこになんらかの“障害物”があったため、その“障害物”の周囲を迂回する必要に迫られたからだと解釈するのが妥当だろう。特に、トンネル技術も大規模な切通しを拓く土木技術も乏しかった昔日では、“障害物”を避けて道路を敷設するほうが、よほど手早く効率的だったのだ。そのような、古(いにしえ)の視線で地形図や空中写真を見ていると、興味深い事実に気づくことが多々ある。
 以上のようなことを考えている最中、友人からさらに興味深い情報が寄せられた。石神井川の南岸に位置する古くからの小名「丸山」の丘上に、巨大なサークル痕が見えるというのだ。さっそく、空中写真を年代順にたどってみると、同地区は戦前戦後を通じて本格的な宅地化が進んでいないせいか、古い時代の農道(畔および畦道)がそのまま戦後まで引きつづき残存している。その形状を観察していると、確かに大きなサークル状の痕跡になることが判明した。位置的には、西側に切れこむ宿濕化味の東谷戸と、東側に切れこむ羽根沢の谷戸との中間にある高台に見えている。
 サークルの直径は約250mで、正円形の北東部が江戸期に整備されたとみられる、埼玉(さきたま)道に薄く削られているのがわかる。正円は、東西の谷戸に沿うように南側で途切れており、前方後円墳の墳丘を崩して周囲四方へ均すように開拓すればこのような形状になるだろうか。ことに西側の土砂は、宿濕化味の東谷戸へ落とし農地を拡げるのに適していただろう。ちょうど、下沼袋の丸山・三谷ケースClick!南青山ケースClick!と同様の、大規模な土木技術が浸透した江戸期における開墾事業を想起させる。
 計測してみると、小名「丸山」に残された鍵穴型の全長は南北に約380mほどだが、先述のように墳丘の土砂を崩して周囲に均しているとすれば、下落合の「摺鉢山」と同様に200mクラスの前方後円墳、ないしはホタテ貝式古墳を想定できそうだ。その後円部の上には、1950年(昭和25)に練馬区立開進第三中学校が移転・開校しているが、その建設工事の際になにか遺物が出土してやしないだろうか。あるいは、江戸期の農地開拓で玄室や羨道の組石(房州石Click!?)、埴輪などの出土物はあらかた打ち棄てられてしまったのかもしれないが、下落合のケースのように田畑など地面を掘り起こすと、埴輪片や土器片、ときには副葬品とみられる遺物が出土する事例がなかったかどうか気になるところだ。
濕化味橋.jpg
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埼玉道庚申塚1765明和2.jpg
 1987年(昭和62)の古い『練馬区小史』(練馬区)には、次のような記述が見えている。
  
 <古墳造営の>関東での動きは鈍く、北関東を勢力圏とする毛野<ケヌ>国(毛国→群馬・栃木の平野部)が、上毛野<カミツケヌ>(のち上野)、下毛野<シモツケヌ>(のち下野)へと展開する。この毛野勢力は新文化を十分吸収したものであり、時代は弥生から次の古墳文化へと進む。時代は四世紀に入る。東京都地域では、多摩川中流域に大小の古墳Click!が造られ、今の芝公園付近にも大型の古墳Click!を残すようになるが、練馬には古墳として特に記載するほどのものはなく、広い武蔵野平野の一部として古墳時代末の開発を待った形になっていた。(< >内引用者註)
  
 北関東の強大な毛野勢力Click!については触れているものの、全体が古い記述のままで、おもに1980年代以降に関東各地でダイナミックに展開された最新の発見・発掘成果に関しては、いまだ触れられずにいる。「古墳として特に記載するほどのものはなく」ではなく、早くから江戸近郊の農地開拓が行われていたため破壊されたケースが多く、また戦後は宅地化が急速に進み調査・発掘する機会を逸しているだけではないだろうか。
 ちょっと余談だが、旧石器時代や縄文期(遺跡数および遺跡規模による)はもちろん、弥生期や古墳期を通じても坂東(関東地方)の人口は現代と同様に、他の地方を凌駕するほど多かったのではないかという、人文科学ばかりでなく社会科学をベースとした「古代経済論+人口論」の切り口が非常に興味深い。近畿圏(関西史)の視点から、明治以降は薩長政府によるおもに教育分野のプロパガンダによってイメージづけられた、古代はまつろわぬ「蛮族」の「坂東夷」が跋扈する「未開の原野」=武蔵野という皇国史観Click!のレッテル貼りが、戦後もしばらくの間つづいていた。もちろん、敵対する勢力を「蛮族」として蔑称するのは、中国や朝鮮半島から借りた政治思想的視座だ。
 けれども、1980年代以降の古代史学あるいは考古学における群馬・栃木(ケヌ地方=毛野勢力のクニグニ)の巨大古墳群をはじめ、千葉(チパ地方=南武蔵勢力のクニグニ)、埼玉(サキタマ地方=北武蔵勢力のクニグニ)、および茨城などにおける膨大な大小古墳群が次々と発見されるにおよび(南武蔵勢力圏である江戸東京地方は、早くからの都市化および近郊農地化のため破壊ないしは発掘が不可能となっている)、それら古墳群をこれほど大規模かつ大量に造営するのに必要な、当時の肥沃な生産性を基盤とした経済力とマンパワー(労働力)が、必然的に「未開の原野」の神話史観ではまったく説明がつかないからだ。特に山林が比較的多く残され、古墳調査に熱心な千葉県と群馬県(つづいて埼玉県もかな?)では最先端の古墳探査技術を駆使し、21世紀に入ってからは続々と新発見がつづいている。
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 以前、下練馬の丸山地域の東側にあたる向原地域で、妖怪譚とともに鍵穴型のフォルムが残るポイントClick!を探ったが、同様に早くからの農地化で崩されてしまった「百八塚」(無数の塚)Click!と同様の大小古墳Click!が、練馬各地に散在していたのではないか。それは、各所に見え隠れする古墳地名(小名)からも、それをうかがい知ることができる。たとえば、自衛隊練馬駐屯地の周辺には、宅地開発がはじまる前の農村時代から田畑の畔や用水を含め、驚くほどあからさまなフォルムが残されているが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:下練馬地域の総鎮守である、氷川台の氷川明神社。境内のフォルムが判然としないが、多くの氷川社Click!のように古墳上に築かれた社だろうか。
◆写真中上は、石神井川の南につづく崖線の坂道。は、崖線上に築かれている高稲荷社の擁壁。ひな壇状の擁壁は、まるでタタラClick!神奈(鉄穴)流しClick!跡を想起させるが、高稲荷は高鋳成が中世以降に転化したものか。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる氷川台氷川社の周辺で、あちこちに気になる半円形の道筋が見られる。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された濕化味橋。田畑の中に点在する、樹木が繁るこんもりとしたふくらみが気になる。は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる丸山地域。は、埼玉道の明和年紀が残る庚申塚。
◆写真下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる丸山地域。は、同じく1947年(昭和22)の丸山地域。は、急速に宅地化が進む1948年(昭和23)の丸山地域。
おまけ
 バッケ(崖地)上に設置された高稲荷社(上)で、いつの時代かは不明だがタタラ集団Click!が創建した鋳成神Click!の聖域だったものが、中世以降に農業神の稲荷へ転化しているのではないか。埼玉道の付近には、江戸期からの大農家だったとみられる屋敷(中)がいまも多く残っている。丸山地域の丘上に開校している、練馬区立開進第三中学校のキャンパス(下)。
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いろは牛肉店の木村荘八とその周辺。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログでは木村荘八Click!について、岸田劉生Click!との関連などでいろいろ書いてきたが、それは同店が明治期に、わたしの実家のご近所Click!だったせいでもある。日本橋吉川町(両国広小路/現・東日本橋2丁目)に、有名な「第八いろは牛肉店」Click!(牛鍋店)があったからで、日本橋米澤町の実家とは直線距離で150mほどしか離れていない。
 木村荘八Click!の父親で創業者の木村荘平は、1906年(明治39)に67歳(数え歳:以下同)になると芝浦の自邸(芝浜館)で病没しており、跡を継いだ2代目・木村荘平(長男・木村荘蔵)には経営能力がなく、大正期に入るとまもなく倒産している。親父が生まれたとき、第八いろは牛肉店はとうに閉店していたはずだが、祖父母に連れられて通った親の世代からから、さまざまなエピソードを聞かされたのだろう、親父の昔話Click!の中にも両国広小路Click!の「いろは牛肉店」は幾度となく登場していた。
 だが、木村荘八Click!が日本橋吉川町で生まれた経緯や、洋画家をめざす以前の様子についてはあまり触れてこなかったように思う。吉川町の第八いろは牛肉店は、現在は東日本橋2丁目の両国広小路の南寄りにあった町だが、同店舗が建っていた跡はその後の両国広小路の大規模な拡幅工事とともに、現在は通りの下になってしまったとみられる。木村荘平は、もともと力士になりたかったほどガタイの大きな人物だったようだが、京の伏見で青物屋を開店していたところ明治維新を迎え、まもなく店が倒産してしまった。その後、神戸で製茶業をはじめたが、これもほどなく倒産している。
 1878年(明治11)に39歳になっていた木村荘平は、東京にやってきて一旗あげようと三田四国町(現・港区芝3丁目の一部)に大屋敷を借りて住んでいる。同町には、明治政府が設置した屠畜場があり、彼は官有物払い下げの動きに乗じて同施設を安価で手に入れた。江戸期より、大江戸(おえど)ではももんじ(獣肉)Click!が盛んに食べられていたが、牛は運搬や農耕に役立つ動物なので食べていない。だが、これからは牛肉を使った洋食や和食が流行るとみた、彼の思惑はみごとに当たることになる。
 屠畜場の入手とほぼ同時に、まずは三田に牛鍋屋Click!の1号店を開店した。江戸期からつづく、各種すき焼き料理Click!とは異なり、したじ(濃口醤油)ベースの出汁をあらかじめ張った鉄製鍋に牛肉を入れ、すき焼きClick!と近似した東京近郊の野菜や豆腐を入れて煮る料理法だった。店の経営は、いっさいを“2号さん”の岡本まさ(のち正妻)に任せている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に学藝書林から出版された『ドキュメント日本人第9巻/虚人列伝』収録の、小沢信男『いろは大王・荘平』から引用してみよう。
  
 明治十一年、上京して新事業にとりかかった荘平は、さっそく三田四国町の一角に牛鍋屋をひらき、ツレアイの岡本まさに経営させた。どうせ四辺は原っぱ、屠殺場の従業員やマッチ工場の職人相手の掘立小屋みたいな小食堂だった。屋号を「いろは」と名づけた。いろはは手習い学問のはじまり、初心忘るべからず。新天地で新事業に立ちむかう荘平の、率直な決意がしのばれる。/それから二十余年、「いろは」は東京中はおろか日本中にも知られるような大店になるのだ。やはり荘平の最も成功した事業といわねばなるまい。
  
 木村荘平が死去したとき、いろは牛肉店は東京で20店舗を数えるまでになっていた。牛鍋店が流行るとともに、木村荘平には大金が転がりこみ、やがて生来の女好きから愛人を次々につくることになった。だが、彼には愛人を妾宅に囲って遊ばせておくという発想がなく、次々とできる愛人にいろは牛肉店の支店を任せていくことになる。つまり、「自分の食い扶持は自分で稼いでよね」という、まことに都合のよい“経営方針”を打ちだしていた。
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 彼の死後、1908年(明治41)現在で3人の妹や愛人たちに経営を任せ、営業していた店は以下のとおりだ。すでに5店舗がつぶれるか、人手にわたっていたのがわかる。
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 この中で、第八いろは牛肉店が木村荘八が生まれた日本橋吉川町の店舗だ。同店の経営は、三田で知りあった当時はまだ16歳の鈴木という女性が切り盛りしている。第八いろは牛肉店の開店当時は、いまだハイティーンの年齢だったろう。木村荘八は、彼女の二男として生まれた。長男が木村荘太なのに、なぜ二男が「荘八」なのかというと、彼は木村荘平の正妻や愛人の間でできた子どもたちのうち、8番目に生まれた男の子だからだ。父親が死去したとき、木村荘八はまだ14歳の中学生だった。
 ところで、落合地域からいろは牛肉店の牛鍋が食べたいと思ったら、明治末では牛込通寺町(現・神楽坂6丁目の一部)の第十八いろは牛肉店が、最寄りの店ということになる。落合地域から、街道筋である現在の早稲田通りをそのまま神楽坂方面へ歩けば、3.5~4.0kmほどで同店に到着できる。たとえば、目白駅や高田馬場駅あたりからだと、当時の未整備な道筋を考慮しても、およそ歩いて40~50分前後で店の暖簾をくぐれただろう。
 余談だけれど、わたしの学生時代まで神楽坂には、いくつかの古い牛鍋屋が営業をつづけていた。座敷の2階に上がると、窓の手すり越しに神楽坂の毘沙門横丁を眺めながら牛鍋をつつくことができた。牛鍋は、すき焼きとは異なり出汁を先に張るので、薬研(やげん=七色唐辛子Click!)や山椒をかけて食べることが多かったが、中でも毘沙門天(善國寺)の南隣りにあった「牛もん」が安くて気どらず、古い建物で風情もあり好きだった。
 さて、第十八いろは牛肉店は木村荘平の愛人が経営していたか、あるいは子どもがいたのかは不明だが、つごう30人にものぼる彼の子どもたちの構成は以下のとおりだ。
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 実に男子13人・女子17人で、このうち生まれてまもなく早逝した子どもを除くと、男子11人・女子10人の息子や娘たちがいたことになる。
 木村荘平は、妻や愛人たち、それに子どもたちを養うために次々と事業を起こしていった。三田で屠畜場を経営していたのは先に触れたが、その東京家畜市場の社長をはじめ、東京諸畜売肉商(食肉店)組合の頭取、東京博善会社(火葬場)の社長、東京本芝浦礦泉会社の社長、日本麦酒醸造会社(現・ヱビスビール)の社長などなどを兼業し、はては東京商会議所議員、日本商家同志会顧問、東京市会議員、東京府会議員などまでつとめている。この中で、現在も事業が社名そのままで存続しているのは、東京に7ヶ所の斎場を運営している博善社のみだ。もちろん、上落合の落合斎場Click!も同社の経営となっている。
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 木村荘八は、父・荘平のことを「興味が湧かず、親愛感を起さない」、「『滑稽』で『ヘンてこ』で大べらぼうClick!」(『続現代風俗帖』)と書いているが、彼が17歳になり兄の荘太が結婚すると、第八いろは店は兄夫婦が経営することになり、荘八と母親は浅草東仲町(浅草広小路)にある第十いろは店を任されることになった。
 そこには、1890年(明治23)に21歳で別荘地Click!大磯Click!に没した長女の木村栄子(曙)が住んでいた店であり、中学生の木村荘八は彼女のいた部屋をあてがわれている。そして、23歳もちがう一面識もない姉の使っていた机も、そのまま彼が受け継いだ。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『続現代風俗帖』から引用してみよう。
  
 机には曳出しが二つあると云つたが、見ると、その一方はカラで、向つて右の方だけに厚さ一寸程の黒のクロース表紙のノートと、いはゆる「唐ちりめん」のやうな小切れを菊形にはいでふつくらと綿を入れて作つた古びた肘突き(さしわたし四五寸)。この二品と、曳出しの奥に、一つまみ程、紫紺色の毛糸屑がつくねてあつた。(中略) 曙さんは手細工に奇用(ママ)だつたと伝へられたから、勿論肘突きは曙さんの手製であつたらうし、毛糸は手編みものの残りでもあらう。ノートは小説の原稿の書いてあるものだつた。/僕は僕のモノにしてから、机はよごしたし、曳出しの中は乱雑にしたけれども、三つの品物はいつも「尊敬」と「愛情」を持つて丁寧にしてゐた。毛糸屑の入れ場には困りながら、いつも別にその辺へつまんで入れておいた、その手触りも、今懐しく思ひ返すことが出来る。
  
 木村曙は、1889年(明治23)に読売新聞へ連載小説『婦女の鑑』を連載したのをはじめ、次々に新聞各紙へ連載作品を執筆するなど、明治以降に出現した女性作家の第1号だった。その活動は、同じ歳の樋口一葉Click!よりも5~6年ほど早い。
 彼女は、東京高等女学校(現・お茶の水大学付属高等学校)を出ると、フランス語と英語に堪能なため、文部省からフランス留学を命じられた女性の随行員としてヨーロッパへ留学しようとしたが、父親の荘平に反対され、浅草広小路の第十いろは店の帳簿係に就いている。その仕事の合い間に、のちに荘八が使う書机で次々と作品を執筆していたのだろう。
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 木村荘八がもの心つくころ、すでに死去した木村栄子は「曙さん」と呼ばれ偶像化されており、木村一族(おもに女性)から尊敬されていた。だが、伝説的な存在ではあっても、彼には姉としての情が湧かず、あくまでも高名な女性作家として「曙さん」を眺めている。

◆写真上:日本橋吉川町にあった、木村荘八が描く記憶画『第八いろは牛肉店』。
◆写真中上上左は、晩年の木村荘平。上右は、明治前期に撮影の左から右へ「現代ひさ子夫人・木村荘平・先代まさ子夫人」のキャプション。1908年(明治41)出版の松永敏太郎『木村荘平君伝』(錦蘭社)の掲載写真で、早い話が「愛人ひさ子・荘平・正妻まさ子」ということだ。は、木村荘八が描いた記憶画で三田四国町の『第一いろは牛肉店』。は、同町の木村荘平邸(芝浜館)に集合し木村夫妻と愛人たち(孫含む)の記念写真。
◆写真中下は、第八いろは牛肉店を描いた木村荘八の記憶画『牛肉店帳場』(1932年)。は、木村荘八の記憶画で長男の結婚で吉川町から引っ越した浅草広小路の『第十いろは牛肉店』。建物1階に、「曙女史室」の吹き出しがみえる。は、同店の居間を描いた記憶画だろうか木村荘八『室内婦女』(1929年)。新聞を読む母親と、遊びにきた近所の少女と外出するのか髪を結いなおす妹(士女)を描いているのかもしれない。
◆写真下は、前出の『木村荘平君伝』に掲載された第八いろは牛肉店の写真だが暗くてよくわからない。中上は、木村一族の長女で明治最初期の小説家だった木村曙(栄子/)と木村荘八()。中下は、浅草の第十いろは店で木村荘八が受け継いだ木村曙の書机。は、1912年(大正元)ごろに撮影されたフュウザン会の木村荘八(右)と岸田劉生(左下)。

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