「目白会」と「五月会」で検挙された華族たち。 [気になるエトセトラ]
学習院を卒業した華族の中には、マルクス主義に共感してシンパになる若者たちがいた。自らの出身である、華族という特権階級(少し前の流行語でいえば「上級国民」)を否定し、人民はみな平等であるという資本主義革命における政治思想(デモクラシー)の入口に立った彼らは、すぐにも資本主義社会が抱える本質的な矛盾に気づき、当時はそれを乗り越えられる唯一の思想ととらえられていた共産主義に傾倒していった。
学習院高等科を出たあと、東京帝大に進んだ華族の息子たちは、一般学生が多く出入りする新人会Click!や帝大セツルメントClick!に属することなく、1930年(昭和5)ごろに「目白会」というサークルを結成している。ちょうど、夫の小林多喜二Click!を虐殺された伊藤ふじ子Click!が打撃からの立ち直りをかけて、喪服姿のまま下落合からプロレタリア美術研究所Click!や帝大セツルメントClick!に通っていたころだ。
1931年(昭和6)には、すでに特高Click!は「目白会」の会員名簿を入手しており、そこには85名にものぼる学習院出身者が掲載されていた。なぜ、特高がこれほど早く「目白会」の動向をつかみ名簿を手に入れられたのかといえば、当時の共産党指導部に特高の毛利基Click!と通じた「スパイM」こと松村昇=飯塚盈延がいたからだ。
翌1932年(昭和7)より、特高は地下にもぐった共産党員だけでなく、その支援をするシンパも積極的に検挙しはじめているが、「目白会」では特に共産党へのカンパや、地下活動をする党員へのアジト提供などが取り締まりの対象となり、「目白会」名簿をもとに容疑の選別化が行われている。名簿には、〇印とチェック印が入れられており、〇印は犯罪(治安維持法違反)の「嫌疑十分」、チェック印は「要注意」に分類されていた。
「目白会」の様子を、1991年(平成3)にリブロポートから出版された浅見雅男『公爵家の娘―岩倉靖子とある時代―』から、その一部を引用してみよう。
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「犯罪ノ嫌疑十分(注・もちろん治安維持法違反の嫌疑)」とされたのは十八人で、その名前はつぎのとおりである(ちなみに「要注意」は七名)。/横田雄俊、八条隆孟(以上法学部卒業)、小谷善高、益満行雄、粟沢一男、管豁太、信夫満二郎(以上法学部在学中)、隅元淳、副島種義、森俊守、豊沢通明、井染寿夫、山口定男、田口一男、山田駿一(以上経済学部在学中)、小倉公宗、森昌也、永島永一郎(以上文学部在学中)/関係者の話や当時の資料などから判断すると、これらの中でもとくに熱心に活動していたのは、横田、八条、森(俊)、小谷、管、森(昌)らだったようだ。このうちの何人かは共産党に入党していた。
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特高による摘発は1933年(昭和8)1月から行われるが、実際に検挙された「目白会」のメンバーの中には、上掲の名前には含まれていない松平定光(文学部在学中)や、学習院から京都帝大経済学部へ進学した中溝三郎もいた。
「目白会」の集会は、東京帝大内ではなく目白の学習院構内で開かれ、特高の動向などには特に注意を払わなかったという。このあたりが、“お坊ちゃん”でノーテンキな華族の息子たちらしいが、八条隆孟らが中心となっておもに読書会が開かれていたようだ。当初は岩波文庫の伏字だらけのマルクスなどを読みながら、サークルのメンバーたちで議論をする程度だったので、参加者たちは特に治安維持法の違法行為とは気づかなかったらしいが、そのうち共感が生れたのか共産党への資金カンパにも応じるようになり、「無産者新聞」などの資料配布へ積極的に協力するようになっていった。この中には、下落合の学習院昭和寮Click!に住む学生がいたかもしれず、寮内での活動も想定できそうだ。
学習院を中心に生まれた、華族の息子たちによる「目白会」のシンパ網のことを、彼らは自ら「ザーリア」と名づけている。だが、資金のカンパといっても小づかい銭程度の少額にすぎず、メンバー同士の結束も強固なものではなかったため、特高に検挙され脅されると次々に「手記」を書いては、「目白会」の内情をベラベラ供述してしまっている。ただし、指導的な役割をはたした八条隆孟と森俊守はすぐに「自白」せず、「改悛」していないと判断されたため起訴されることになった。
他のメンバーたちは、ほぼ1~2ヶ月のうちに保釈されているが、八条と森は市ヶ谷刑務所に移され、翌1934年(昭和9)早々に法廷に立つことになった。ただし、両名ともすでに「転向」を表明していたため、八条隆孟は1審で懲役3年の実刑判決(控訴せず服役)、森俊守は1審で懲役2年の実刑判決だったが控訴し、2審で懲役2年執行猶予3年の判決を受けている。

さて、「目白会」が学習院で読書会を開きシンパを増やしつづけていたころ、同じ目白の日本女子大学校Click!でも「五月会」と称するサークルが結成されていた。1932年(昭和7)5月に創立されたので「五月会」と名づけられたが、その中心にいたのは上村春子であり、のちに「目白会」メンバーだった横田雄俊と結婚して横田春子となる女性だ。その従妹には、「堂上華族」と呼ばれた岩倉具視の曾孫にあたる岩倉靖子がいた。
岩倉靖子は、もともと女子学習院Click!へ通学していたが、子どもを喪って寂しがっていた叔父の古河虎之助のもとで一時的に暮らすうち、女子学習院では近代女性としての教育を受けられないので、叔父から日本女子大への転校を勧められたといわれる。また、彼女自身もキリスト教への興味が湧き、教会へ通ううちに女子学習院Click!(封建的な超高級花嫁養成学校)の教育内容に疑問をいだいたともいわれている。
1927年(昭和2)9月、14歳の岩倉靖子は女子学習院の中期8年を修了して退校すると、そのまま日本女子大付属高等女学校3年へ編入している。当時、「堂上華族」と呼ばれた岩倉公爵家の娘が、女子学習院から日本女子大へ転校することなどありえないことだったので、女子学習院の教師から文句をいわれたと岩倉雅子は証言している。また、母親からの影響もあったようだ。愛人と莫大な借金問題で爵位を追われ出奔した、浪費家の父親・岩倉具張に代わって娘を育てあげた妻の岩倉桜子は、靖子を主体的な自我をもった女性に育てたいと思ったのかもしれない。
岩倉靖子が、付属高等女学校から大学校へと進むころ、3歳年上だった従姉の上村春子からの影響で、共産主義に興味をもったのが「五月会」に加わるきっかけだった。のちに特高に書かされた「手記」で、彼女はこう書いている。同書より、つづけて引用してみよう。
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靖子はこう書いている。/「五月会は党の指導下に創立されました。従つてその目的は上流中流階級の青年の集りを作り、親しむ機会を作って其の個性を観察し、素質のよい人間を選んで働きかけ、日常会話の中に社会問題を持ち込んでアヂリ獲得する事を目的とするのです。そして五月会内の組織を拡大し、資金、家屋の提供をする事も目的とします」/七年三月の段階で、このように明確な目標を立てて動く仲間に入っていたのだから、靖子はそのかなり前から共産党シンパになっていた可能性が高い。さきほど靖子が昭和六年後半から七年初めにはシンパ網に連なっていたのでは、と推測した理由はここにある。
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特高に書かされている「手記」なので、どこまで供述を「受け入れ」られるよう「いいなり」に書いたのかは不明だが、岩倉靖子は「改悛」の情をしめさず「反省」も「転向」もしなかったので起訴され、市ヶ谷刑務所に送られている。
この「手記」を見ると、「五月会」と「目白会」は明らかに地下で通じており、のちに結婚することになる「目白会」の横田雄俊と「五月会」の上村春子は、両会でシンパの組織化という目的を共有していたことがわかる。「五月会」は、日本女子大のキャンパスで学生たちのオルグをつづけるが、やがて横田雄俊が名古屋の裁判所へ転任することになり、すでに結婚していた横田(上村)春子も夫とともに名古屋へ去ってしまった。
残された岩倉靖子は、「五月会」の活動をつづけようとしたが、上村春子に比べるとあまり社交的な性格ではなかったために、新たなシンパ獲得はむずかしかったようだ。それでも、彼女が検挙されるまでの間にピクニック3回、運動会、映画鑑賞会3回、演劇会、スキー会2回などを「五月会」イベントとして実施している。彼女の手記は、こうつづけている。
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「会員の一人々々の性質をよく知つて、素質のよい者に働きかけるのですが、総括して自己の地位生活に満足し、贅沢な事に慣れてゐる人達なので、階級問題、社会問題に話題を持ち掛ける事も不可能な位でした」「五月会を振り返つて見ると、五月会の合法的発展さへ困難なのに、その中の非合法的発展は一層困難でした。費用倒れになつて、むしろ労力の浪費に終つた様に思ひます。(後略)
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特高に検挙されたあとも抵抗し、起訴されて市ヶ谷刑務所に送られた岩倉靖子を「転向」させたのは、従姉の横田(上村)春子の病死と、1933年(昭和8)10月ごろに知らされた横田雄俊の「転向」だといわれている。それまで、「五月会」の詳細な活動内容や関係した人物たちの供述を、いっさい拒んできた岩倉靖子だが、精神的なよりどころだった従姉の死と横田の「転向」で決定的な打撃を受けたのだろう。また、同年10月ごろより獄中で「旧約聖書」を読むことが多くなった。



岩倉靖子は1933年(昭和8)12月11日、特高に検挙されてから8ヶ月半ぶりにようやく保釈された。その10日後、12月21日に渋谷にあった岩倉邸の寝室で、両脚をしばり右頸動脈を切断して自刃した。来年にひかえた裁判のことで、岩倉家にこれ以上の迷惑をかけられないと、思いつめたあげくの自裁だったといわれている。まだ、20歳の若さだった。
◆写真上:学習院大学のキャンパスに残る、1913年(大正2)に建設された寮の入口。
◆写真中上:上は、同じく学習院東別館(寮)。中は、1927年(昭和2)建設の学習院理科特別教場。下は、学習院の逮捕者が続々と報じられる1933年(昭和8)11月20日の東京朝日新聞。左下には起訴された八条隆孟や森俊守、岩倉靖子らの記事が見える。
◆写真中下:上は、1877年(明治10)建設の女子学習院(現・学習院女子大学)の正門。中・下は、1906(明治39)年建設の日本女子大学成瀬記念講堂とその内部。
◆写真下:上は、岩倉靖子の検挙を伝える1933年(昭和8)4月20日の国民新聞。中は、大正末に行われた日本女子大の第16回運動会の記念絵はがき。下は、保釈から10日後に発行された岩倉靖子の自刃を伝える1933年(昭和8)12月22日の東京朝日新聞。
犠牲者が囁きかけてくる言問橋。 [気になるエトセトラ]
親父Click!は、わたしが具のほとんど入っていないレトルトカレーを食べていると、心底イヤな顔をしていた。諏訪町Click!に下宿していた学生時代、学校から帰ると賄いとして出されるカレーが、具の入っていないルーだけだったからだ。
この粉(うどん粉)っぽいルーのみカレーは、配給切符制になった戦時中も、また戦後の食糧難だった時代の下宿でも変わらずにつづいていたらしい。戦災をくぐりぬけた親の世代は、いつかも書いたように花火の音Click!に異常に敏感だったり、上空を大型のプロペラ機が飛んだりすると、ギョッとしたように気にして見あげたりしていたが、食べ物に関わるテーマについてはさらに敏感だった。
特に、わたしの両親に関していえば、戦中戦後を通じ“代用食”として配給されていた、メリケン粉食品(いわゆる粉料理Click!)とサツマイモClick!には嫌悪感を隠さなかった。もっとも、これらの食品は昔から江戸東京の食文化Click!としても、あまり褒められた“食いもん”でなかったせいもあるのだろう。サツマイモはともかく、わたしがおでんの“ちくわぶ”を喜んで食べるのを見ると、親父が顔をしかめていたのを憶えている。
連れ合いの義父Click!は、夏にスイカを切っているのを見るのがダメだった。中国戦線での情景を思いだしてしまうのか、あるいは空襲時に負傷者をトラックで下落合の国際聖母病院Click!へピストン輸送Click!する際、頭の割れた遺体でも見かけているのか、パックリ割れたスイカが苦手なのは終生変わらなかった。退役軍人(1941年退役)として、戦争末期には徴用されていた義父もまた、花火の打ちあげ音や大型プロペラ機が上空を飛んでいると、やはり不安げな眼差しであたりを見まわしていたのを思いだす。
1945年(昭和20)3月10日夜半の東京大空襲Click!で、うちの親父は東日本橋Click!(当時は両国橋の西詰めで西両国Click!)の実家Click!から命からがら東京駅Click!方面へと避難し、義父は翌朝から負傷者を満載した陸軍のトラックを運転して、被災地である(城)下町Click!と下落合とを1日に何度も往復していた。義父は、下落合のわたしの家へ遊びにきて連泊していくと、散歩がてら国際聖母病院Click!の前で立ち止まってはジッと建物を眺めていたが、東京大空襲のあと数日間の惨状を目に浮かべていたのだろう。
うちの親父は不運としかいいようがなく、高校生(現在の大学教養課程)になってから諏訪町(現・高田馬場1丁目)の下宿で暮らすようになったが、たまたま帰郷していた東日本橋で東京大空襲に遭い、命からがら諏訪町の下宿にもどったところ、今度は同年4月13日夜半Click!と5月25日夜半Click!の二度にわたる山手大空襲Click!にも遭遇している。
親父もそうだが、東京大空襲の3月10日にたまたま(城)下町の実家にもどっていた学生や生徒の数は意外に多い。ちょうど、卒業や学年が変わる時期なので、本来は疎開していたはずの子どもたち、特に高学年の生徒たちがわざわざ卒業式に出席するため、東京の自宅にもどっていたのだ。東京大空襲では、とうに学童疎開Click!していたはずの子どもたちに犠牲者が多いのは、進級や卒業のシーズンと重なっていたためだ。
先日、隅田川の言問橋の近くを散歩Click!したとき、やはり橋の西詰めにある東京大空襲Click!の慰霊碑へ立ち寄ってしまった。言問橋をわたるとき、この前に立たずにはいられない。1945年(昭和20)3月10日の深夜、本所・向島一帯が火の海になったとき、浅草方面へ逃げようとする膨大な群集が、言問橋を西へわたりはじめた。ところが、浅草も爆撃で大火災が発生していたため、隅田川(浅草川)をわたって本所・向島方面へ避難しようとする群集が、言問橋を東へわたりはじめた。そのとき、橋上の中央付近で群集が衝突し、まったく身動きがとれない状態になった。
避難する膨大な群集は、言問橋の東西両側から絶えず押し寄せていたため、その圧力は先年の韓国で起きた梨泰院(イテウォン)のハロウィーン事故どころではなかっただろう。このとき、すでに圧死者や負傷者が多数でていたとみられるが、圧力に耐えきれず橋上から隅田川に飛びこんで溺死する人たちも多かったという。言問橋とその周辺が、無数の群集で埋まり身動きがとれなくなったところへ、空襲の大火災で生じた大火流Click!が言問橋を襲った。

そのときの様子を、「きかんし」WebサイトClick!に掲載された画家・狩野光男の証言、「川面まで火がなめていく言問橋付近の火焔地獄」から引用してみよう。
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隅田川の言問橋のところまで逃げてきたんですが、あまりにも熱いので川に下りる階段の途中まで逃げました。しかし、火は川面をなめていくんですね。そして、川の中にいる人の顔や上半身を焼いていくんです。/炎は川の中央からひどい時は向こう岸まで届いていました。川の中に後から後から人が飛び込んでくるんですが、先に飛び込んだ人が沈んでしまいます。人が何重にもなって、その上にさらに人が乗っかってしまう。/言問橋の上には、橋から見て向島側の人たちは浅草側に向かって、浅草側の人たちは向島側に向かって逃げてきました。そのため、橋の上でぶつかり合って動けなくなってしまいました。だれかの荷物に火がついて、そこから人に火が移りました。橋の上は大火災になりました。下から見ると橋が燃えているように見えるんですが、鉄の橋なので燃えるはずがありません。人が燃えていたんです。欄干に張りついていた人はみんな亡くなりました。飛び降りた人もいましたが、ほぼ亡くなったそうです。
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まだ3月なので川の水温は低く、たちどころに低体温症となって意識を失い、大火流で焼かれる前に溺死した人たちもいただろう。ひとたび川に落ちれば流されるので、いったいどれぐらいの遺体が岸辺に打ちあげられず、東京湾まで流されて沈んでしまったのかは不明だ。言問橋の上で焼死した犠牲者は約1,000人といわれているが、隅田川に落ちて(または入って)焼死あるいは窒息死、溺死して流された犠牲者はカウントされていない。
いつかも書いたけれど、大火事による大火流Click!が発生すると、一帯の酸素が急激に奪われていく。火災を避けるなら川に浸かって、ときにはもぐって炎を避ければいいと考えがちだが、川面を大火流が舐めただけで、空気中から酸素が一瞬のうちに奪われ窒息してしまった犠牲者も少なくなかったとみられる。また、川面を舐める大火流の熱さを避けているうち、水中で溺死してしまった人も多かっただろう。



1928年(昭和3)に竣工した言問橋は、現在でもほぼそのままの姿をしているが、橋の四隅に残るネームプレートが嵌められた親柱は、どれもまだら状に黒ずんでいる。これは、単に大火流に焼かれた跡ではなく、犠牲者の血や脂肪が石材の表面に焼きつけられてしまい、長年の風雨にさらされても落ちないのだと聞いた。同様のケースは、表参道の大灯籠でも聞いている。大灯籠の下に盛りあがって焼かれた犠牲者の脂肪や血が、石材の表面に沁みこんでしまい、何度も繰り返し洗浄しても決して取れないのだとか。こういうものを目にするとき、この土地が前世代からそのまま“地つづき”なのを実感する瞬間だ。
東京大空襲で両親と妹たちを失った画家・狩野光男は、「大混乱の隅田公園」の中で次のように書いている。同サイトより、再び引用してみよう。
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その中を逃げて隅田公園に行ったんですが、家の近所や日本堤などから逃げてきた人が殺到して、いっぱいになってしまいました。隅田公園には高射砲陣地があってふだんは入れなかったんですが、緊急事態ですからみんな入ってしまいました。/周りには木もあるし、このまま助かるのかなと思っていたんですが、そのうち火の手が迫ってきました。火の粉がものすごい勢いで突き刺さってきます。それから急激に酸素がなくなってきて、呼吸が困難になりました。/防空頭巾というのはいいようで、危ないものなんです。布でできているので火の粉がつくと、気づかないうちに燃えてしまうんですね。それが着物に移って燃えだして初めて気がつくんですが、その時はすでに遅く、全身が炎に包まれて、そのまま倒れてしまうか、絶叫して走っていく。そんな状況がだんだん周りで起こってきました。
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いつか、「大火事の近くには絶対に近づくな」という、親父の言葉とともにご紹介Click!したことがあったが、大火流が起きるような大規模な火災の場合、酸素が急速に奪われるだけではない。衣服が極端に乾燥するため、わずかな火の粉を浴びただけで、一瞬のうちに全身が火だるまになってしまう事例が数多く見られた。著者は防空頭巾のことを書いているが、現在、学校で用意されている地震などに備えた「防災頭巾」も、防空頭巾からまったく進歩していない、燃えやすい布製のままだ。大震災で大火事が起きなければいいが、起きたときの危険性がそのままなのが、かなり以前から気になっている。



少し前にも書いたが、地元の自治体では東京大空襲で犠牲になった市民の遺骨や、行方不明になったとみられる犠牲者の捜索Click!を、21世紀の今日までつづけている。戦後78年がすぎ、10万人をゆうに超えるとされる死者・行方不明者だが、一家全滅や隣り近所の街角全滅、ひどいところでは地域一帯が全滅したり、また上記のように川から東京湾へと消えたままになるなど証言者が見つからず、さらに、東京に住まいをもたない季節労働者だったのでカウントされていない人々が、あと何千人何万人いたのか、いまだに見当がつかない。
◆写真上:1992年(平成4)の修理で、東京大空襲慰霊のために保存された言問橋の縁石。
◆写真中上:上は、花川戸側の隅田公園から写した言問橋。中は、大火流による犠牲者の脂肪や血が沁みこんで黒ずむ親柱。下は、昭和初期の意匠が残る同橋西詰め。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲直後に米軍の偵察機F13によって撮影された隅田川界隈。中は、同年3月10日午前10時35分ごろ同機に撮影された言問橋。いまだ火災はつづいており、高度が高くて見えないが言問橋とその周辺は遺体の山だったはずだ。下は、画家・狩野光男が描いた『言問橋の火焔地獄』。手前の岸辺では、防空頭巾に火が点いて逃げまい全身が火だるまになっている人物たちが描かれている。
◆写真下:上は、川に避難した人々もほとんど助からなかった狩野光男『言問橋の惨状』。中・下は、東京大空襲による膨大な遺体を仮埋葬する右岸の隅田公園とその現状。
★おまけ
東京大空襲ではM69集束焼夷弾に加え、1,000~2,000mの低空から250キロ爆弾やガソリンなどがバラ撒かれた。写真は空襲直後に撮影された250キロ爆弾の不発弾だが、いまだに建設工事現場などで、不燃焼の焼夷弾や爆弾の不発弾が見つかることがある。

桜餅めざして隅田川を芝居散歩。 [気になるエトセトラ]
ずいぶん前だが、長命寺の桜餅を食べに出かけ、美味そうなので写真を撮るのをすっかり忘れてついペロッと食べてしまい、もぬけのからの容器Click!だけ写した憶えがある。それが魚の小骨のように、どこかにひっかかっていたので久しぶりに元祖・桜餅Click!を食べに……いや、撮影しに長明寺の桜餅(山本屋)界隈を散歩することにした。
でも、長明寺の桜餅だけでは面白くないし、いまでは記事をひとつ書きあげるには明らかにテーマ不足なので、ここは芝居のエピソードだらけの界隈もついでに散歩することにし、ひとつ大川沿いの芝居めぐり散策という趣向で少し書いてみたい。歌舞伎座がガラガラで閑古鳥というニュースも流れるし、ここ数年は外出が少なく芝居がらみの記事をまったく書いてないので、久しぶりにまとめてウサ晴らしといきたい。
ところで、「大川沿い」と書いたけれど、江戸期に大川と呼ばれていたのは、おもに両国橋(大橋)Click!あたりから下流だが、江戸後期になって「大川橋」が新たに架けられ、それが周囲から通称「吾妻橋」と呼ばれるようになってからは、浅草の大川橋から下流のことを大川と呼んでいる。明治以降は正式な名称の大川橋ではなく、なぜか通称だった吾妻橋(まぎらわしかったからだろう)が橋名になっているが、それまでは浅草界隈を流れる隅田川の流域は、「浅草川」ないしは「宮戸川」と呼ばれていた。
さっそく、大川橋(吾妻橋)の西詰めから浅草寺Click!の横を通って川沿いを北上すると、すぐにも花川戸の街並みだ。江戸前期には、この街に幡随院長兵衛(本名:塚本伊太郎→塚本長兵衛)が住んでいたけれど、これもかなり以前になるが、拙記事では『浮世柄比翼稲妻(うきよがら・ひよくのいなづま)』(一幕物は「鈴ヶ森」Click!)の舞台に登場していた。もともとは、肥前唐津藩の藩士の家に生まれたが同僚と喧嘩をして斬り、上州へ逃れたあと江戸へもどってくる実在の人物だ。幡随院と呼ばれるのは、下谷神吉町の幡随院長屋にしばらく身を隠していたからだといわれる。
花川戸を舞台にした芝居では、河竹黙阿弥Click!の『極附幡随長兵衛(きわめつき・ばんずいちょうべえ)』がいちばん知られているだろうか。浅草の顔役になってからの彼は、小頭36人を筆頭に町奴(まちやっこ)3,000人余を抱えていたといわれているが、旗本のドラ息子(旗本奴)たちが結成した「白柄組」と対立し、組の頭領だった牛込見附の水野十郎左衛門に殺され、江戸川(1966年より神田川)に架かる隆慶橋Click!のたもとで死体が発見されたと伝えられている。1650年(慶安3)のことで、長兵衛はまだ38歳の若さだったが、浅草清島町(現・東上野6丁目)にある源空寺の墓所で眠っている。
もうひとつ、「鈴ヶ森」の後日譚として書かれた芝居に、鶴屋南北Click!の一幕物『俎板乃長兵衛(まないたのちょうべえ)』がある。これに対し、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』は風呂場で水野のだまし討ちにあうので、以前から通称「湯殿の長兵衛」と呼ばれることが多い。ちなみに、最近は幡随院長兵衛は「ばんずいいんちょうべえ」などと発音あるいは表記する人がいるが、「い」が重なって発音しにくいため、昔から東京の(城)下町Click!では「い」をひとつ省略して「ばんずいんちょうべえ」と発音するのが一般的だ。
少し時代が下った花川戸には、もうひとり有名な侠客がいた。もちろん、みなさんもよく“御存知”の助六だ。歌舞伎十八番の『助六』は通称で、芝居の筋立てによって外題はいろいろに変わる。助六は、浅草で開業していた義侠の米問屋助八がモデルだといわれるが、死後いつの間にか助六に変わったともいわれており、実像はハッキリしない。寛文年間(1661~1673年)ごろ、殺人事件に連座して小伝馬町Click!に入牢したあと、刑期を終えて釈放されたが、ほどなく病死したと伝えられている。山谷の易行院に伝承されている墓の塚名は、実在の「助八」ではなく「助六」とされている。
江戸の元祖・桜餅が目的なので、今回は新吉原Click!(現・千束3~4丁目界隈)には寄らないが、助六が見栄をきる「三浦屋」は、有名な五大楼には含まれていない。五大楼(大籬=おおまがき)は「角海老」「稲本」「尾彦」「品川」「大文字」の五楼なので、三浦屋はもう少しランクが下の楼閣なのだろう。ただし、11代までつづいたとされる高尾太夫も、何代目かは不明な白井権八の恋人・小紫も三浦屋にいたので、主人の三浦四郎左衛門は「絶世の美女」宣伝や、「傾城」プロモーションがうまかったのかもしれない。



東京大空襲Click!のとき、多大な犠牲者がでた言問橋Click!をわたると、桜並木が美しい江戸名所のいわゆる隅田堤がつづき……じゃなくて、現在は無様な高速道路がのしかかっているが、すぐに「お染久松」の三圍稲荷(三囲稲荷:みめぐりいなり)が見えてくる。南北の『道行浮塒鴎(みちゆき・うきねのともどり)』については、すでに記事Click!にしているので詳しくは触れないが、COVID-19禍がつづいたこの3年間、これが大江戸の街ならば町家だけでなく旗本や御家人の武家屋敷も含め、ほぼ全戸に「久松るす」あるいは「お染御免」の札が貼られていたかもしれない。なお、三圍稲荷が登場する演目には、上記の芝居だけでなく白藤源太が登場する『昔形松白藤(むかしがた・まつにしらふじ)』(「身代わりお俊」)があるが、わたしは残念ながら一度も観たことがない。
三圍稲荷のあるあたりの濹東一帯は、かつては小梅町(江戸期は向島・小梅村)といって、江戸の商家や武家の寮(別荘)が建ち並んでいた閑静な街並みだった。いわゆる「向島に寮(亭・別荘)がある」といえば、この界隈がその南端だったろう。明治になってからも、このあたりは閑静なままで別荘や別邸が建ちつづけたが、中でも言問団子Click!のやや北側、隅田川に面した大倉喜八郎の向島別邸Click!は、その目立つ派手な外観からも有名だった。いまでは埋め立てられてしまったが、曳舟のほうから十間川までつながっていた運河があり、その出口あたりは源兵衛堀と呼ばれていた。並木五瓶が書いた『隅田春妓女容性』(すだのはる・げいしゃかたぎ)は、このあたりが舞台だ。
主人公は「梅の由兵衛(よしべえ)」で、女房が小梅、源兵衛堀の源兵衛などが登場するが、この作品もいまや上演される機会が少なく、わたしは芝居本でしか知らず一度も観たことがない。梅の由兵衛は、遊郭に身を沈めている主家筋の娘・小さんと、彼女の恋人である金五郎のためにひと肌ぬぐという筋立てで、原型が大坂(阪)の並木宗輔が書いた浄瑠璃『茜染野中隠井(あかねぞめ・のなかのかくれい)』にあるという。それが要因なのかは知らないが、こちらで舞台にかけられる機会が少ない。
舞台の場面は、序幕が三圍稲荷の土手、そのかえしが向島の大黒屋、二幕目が蔵前の米屋、つづいて大川端、三幕目が小梅町(村)の由兵衛の家、そして隅田川沿いにつづく墨田堤の土手というような展開になっている。作者の並木五瓶は、周囲の名所や風景を書割として芝居の中へたくみに取り入れてうまく活かすのが特徴で、世話物を数多く手がけている。大坂を舞台にした、彼の『五大力恋緘(ごだいりき・こいのふうじめ)』はたいへん有名だが、わたしはこの作品も観ていない。



さて、ようやく長命寺の桜餅「山本屋」にたどり着いた。享保年間からつづく桜餅を、今度はがっつかないで忘れないうちに、ちゃんと写真撮影(冒頭写真)をして……。桜餅(長命寺)は、1717年(享保2)にここで発明された江戸菓子だが、それ以前に開店していた山本屋は柏餅の菓子店(だな)だったというから、創業はさらに古く実際にはゆうに400年近いのかもしれない。柏の葉のかわりに、樽に塩漬けした香りの高いオオシマザクラの葉を使い、餡をくるむ皮を工夫してオリジナルの桜餅が生れた。この長命寺界隈を舞台にした、芝居の通称「桜餅」=『都鳥廓白波(みやこどり・くるわのしらなみ)』は、以前の桜餅記事で取りあげているので省略するが、河竹黙阿弥Click!の出世作となった作品だ。
長命寺の境内には、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶところまで」の句碑が建っている。芭蕉の門人だった夕道(せきどう:風月堂孫助)の亭(邸)で詠まれた一句だが、これは向島雪景ではなく名古屋雪景の句だろう。ただし、向島の雪景(雪見の名所)は江戸期からつづく風流で、多くの浮世絵師も描いているモチーフだ。ほかに、境内には幕府の外国奉行をつとめ、明治以降は新聞界で活躍し随筆家としても知られる成島柳北の記念碑や、ネズミを捕るネコならぬイヌの六助塚、古い筆を供養する筆塚などが建っている。
長命寺までくると、上流の白鬚橋(しらひげばし)はもうすぐだが、今回は旧・赤線地帯だった「鳩の街」や永井荷風Click!あるいは高見順Click!の「玉の井」(現・東向島界隈)へ寄りたいので、これ以上の北上はしないことにする。白髭橋の周辺も木母寺(もくぼじ)や梅若公園など、舞台に関連する名所は多い。もっとも、その中心は梅若伝説の謡曲「隅田川」Click!だろうか。梅若公園には、榎本武揚Click!の銅像や移転した梅若塚(跡)があるが、この塚とされる土饅頭は柴崎村(現・大手町)の柴崎古墳Click!(将門首塚伝説Click!)と同様に、既存の小型古墳の上へ梅若伝説をかぶせたものではないか。
梅若伝説は、いわゆる芝居の「隅田川物」と呼ばれる作品群の中核となる物語だが、先の『都鳥廓白波』や奈河七五三助の『隅田川続俤(すみだがわ・ごにちのおもかげ)』(通称:法界坊)が知られている。面白いのは、梅若伝説は江戸芝居のネタによく取りあげられるが、『伊勢物語』の在原業平伝説は、まったくといっていいほど芝居には採用されていない。主人公が京の公家Click!では、おそらく大江戸(おえど)の観客は興味がまったく湧かず、芝居連をほとんど呼べないという、芝居小屋のマーケティングによる“読み”もあったのだろう。



梅若伝説は、清元の『すみだ川』や長唄の『賤機帯』でも知られている。線道Click!をつけられた親父は、『すみだ川』を習っていた可能性が高そうだ。また、木村荘八Click!の「和田堀小唄学校」Click!でも、『すみだ川』や『賤機帯』が唄われていたのかもしれない。それにしても、長命寺の桜餅を食べたあと、そこから50mほどの言問団子は、もう入らない。
◆写真上:桜餅ファンの滝沢馬琴が1824年(文政7)に実施した統計によれば、1年間で売れた桜餅は377,501個、1日平均で1,034個余が売れたことになる。消費された塩漬けのオオシマザクラの葉は、775,000枚(31樽)という膨大な量だった。COVID-19禍対策だろうか伝統的な木箱での提供はやめ、紙にくるむ仕様になっていた桜餅(長命寺)。
◆写真中上:上は、1953年(昭和28)に撮影された花川戸(上)と、整備された助六夢通り側から撮影した花川戸の現状(下)。中は、『俎板の長兵衛』で2代目・市川左団次Click!(左)の幡随長兵衛と7代目・市川中車Click!(右)の寺西閑心。ちなみに9代目・市川中車(TV名:香川照之)は、つまらないTVや芸能マスコミには懲りたろうから、そろそろ“本業”にもどるころだろう。下は、『助六』の舞台で15代目・市村羽左衛門Click!(中央)の助六に初代・中村吉右衛門Click!(右)の門兵衛と7代目・坂東彦三郎Click!(左)の仙平。
◆写真中下:上は、墨田堤側から眺めた三圍稲荷の鳥居だが現在はこちら側からは入れない。中は、1953年(昭和28)に墨田堤から隅田川をはさんで撮影された待乳山Click!(上)と同所の現状(下)。下は、同年に撮影された向島・小梅町の大通り。
◆写真下:上は、『隅田春妓女容性』で梅の由兵衛を演じる初代・中村吉右衛門Click!。中は、1953年(昭和28)に撮影された桜餅・山本屋(上)と現在もあまり変わらない同店(下)。COVID-19禍で、店内はずいぶん模様がえされていた。下は、「すみだ川」の舞台で6代目・中村歌右衛門Click!(右)の狂女と17代目・中村勘三郎Click!の舟人(左)。
紀ノ川沿岸と浅草の地名相似。 [気になるエトセトラ]
世界各地には、ある地方の地名と別の地方の地名がそっくりな、あるいはよく似ている「地名相似」Click!という現象がみられる。たとえば、英国のジャージー島に由来するのが米国のニュージャージ州だし、英国のヨーク市にちなんだ名称がニューヨーク市だ。近代における日本の例をあげると、本州から南に位置する地方や地域、町などの名称が、北海道に点在するのにも似ている。これらは、おもに入植や移住、開拓といった人々の「民団」移動から生まれた近代の現象だ。
ところが、古代からつづいているとみられる地名相似は、単なる入植や移住、開拓といった人々の“移動”だけでなく、大規模なものはなんらかの政治的な変動や侵略的な動乱と、それにともなう避難や亡命Click!といった史実が疑われる。古代における地名相似で、もっとも著名なものは、九州北部(福岡~熊本)と大和(奈良周辺)の地名相似と、日向地方(宮崎)と熊野地方(和歌山)との地名相似がある。
これらの地名相似は、北九州に上陸してきた勢力(おそらく古代ヤマト勢力)が、なんらかの理由から日向(ひむか)の地へと移動し(阿蘇の大噴火による経済基盤の壊滅被害が疑われている)、やがて記紀に描かれた神話的故事Click!のように瀬戸内海を軍船で東進して、浪速(なみはや)地方(現在の大阪湾あたりの旧・湿地帯)に上陸したが、そこで先住の「原日本」のクニグニに迎撃され大敗したため、大きく迂回して熊野地方(和歌山)へと再上陸し、最終的には奈良盆地へと侵入してナラ(古朝鮮語でも現代朝鮮語でも「国」「国家」の意)を打ち立てた……というような侵略の経路を想像することができる。
上記の想定(仮説)だと、日向地方から熊野へと上陸した勢力は、熊野の地が日向と同様に過渡的な侵略地(居留地)であり入植地だと規定して、日向地方で用いていた地名と同様のものを周辺の土地や山河に付加し、やがて奈良盆地へと侵入し古代ヤマトを名乗るようになってから、改めて故地である北九州に残してきた由緒・由来のある地名を、再び周辺の土地や山河にふり分けているということになる。記紀の故事によれば、日向から浪速へと向かった軍勢(「神武」とされている侵入勢力)は、瀬戸内海を東進する直前に、わざわざ迂回して九州北部へと立ち寄っているのも、彼らが最初に居住していた故地へのこだわり(思い入れ)がどこかに感じられる。
記紀に描かれた、やたらにリアルな侵略ルートの記述は、なんらかの史的事実をより古い時代の故事に見せかけようと、千子二運(あるいはもっと上代まで)さかのぼらせた、大昔の出来事として記述されているように見える。今日の科学的な考古学や歴史学の視点から見れば、明らかに「偽史」「神話」の部分や、北九州生まれとされる「応仁」=「神武」のダブルイメージなのでは?……といった、「神話」上の創作・捏造・改変などを差し引いて解釈したとしても、なんらかの史的事実や経緯を神話に託して記録したものではないか?……と解釈するのが、現代の「文献史学」の方向性を位置づけているようだ。
事実、熊野地域(和歌山)では、従来はひそかに語り継がれてきた、「神武」を迎撃したとみられる「日本」側の女王ナグサトベやミナカタ(南方)氏などの伝承が、1945年(昭和20)の敗戦以降に次々と明らかにされてきている。もっとも、それらの伝承は紀元前の出来事(縄文時代)とされたままであり、「神武」の記紀年代に合わせて“都合”よく神話レベルで語られているのが現状のようだが、「文献史学」だけでなく自然科学を含めた学術的な視座による将来的な発見・発掘で、大きな展開や成果がありそうな気配がしている。


さて、同じ紀国(木国)と南関東でよく似た地名が、たとえば都内に散在している。古代からの地名相似とみられ、紀国(和歌山)の紀ノ川沿いの古地名と、隅田川沿いを中心に江戸東京地方の古地名がよく似ているのは、あまり知られていない事実だろう。紀ノ川沿いには、隅田(隅田村を流れる紀ノ川は「隅田川」と呼ばれていた)や真土山(まつちやま)、庵崎(芋生)、安楽川(荒川とも)、千寿(せんじゅ)、上野、神田、愛宕山などの地名が点在している。一方、江戸東京にも浅草地域を中心に、現代にいたるまで隅田(墨田)、隅田川、真土山(江戸期以降は待乳山Click!)、庵崎(芋生:近代に消滅)、荒川、千住、上野、神田、愛宕山などなど、紀ノ川沿いと隅田川沿いで一致する地名が少なくないのだ。
35年ほど前に、紀ノ川沿いの地名と隅田川Click!沿いに展開する地名の相似について、折口信夫Click!の「古代における民団の移動」に触れつつ記した、地元の地域本が存在している。1987年(昭和62)に三弥井書店から出版された、中尾達郎『色町俗謡抄』から引用しよう。
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こうして見ると、江戸の隅田川の流域の待乳山、庵崎、隅田村は、それぞれ紀伊の隅田川沿いの真土山(待乳山)、庵崎(芋生)、隅田村の地形に似ているために名付けられた名称と考えられる。更に、紀伊の安楽川(荒川とも表記する)があり、北上して紀ノ川に注ぐが、これは荒川郷を流れる流域の部分名のようである。これも江戸の荒川と隅田川との関係に似ている。また、浅草の三社権現と紀伊の日前神宮とは、それぞれ隅田川、紀ノ川の川口に近い流域にある。因みにわたしは三社権現と日前神宮とは関係が深いと考えている。(註釈略) 更に『紀伊名所図会』によると、この日前神宮に関連して千寿河原の名を挙げているが、これも江戸の千住と対応していると看做すことができる。
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古代の浅草は、江戸湾の突きあたりの奥にある天然の良港だったらしく、早期から浅草湊Click!が拓かれ、関東地方の物流拠点として機能していた。房総半島で切りだされた房州石Click!が、南関東に展開する数多くの大小古墳の、玄室や羨道の石材Click!として用いられているが、同じ江戸湾の三浦半島にある六浦湊Click!(現・金沢八景あたり)とともに、当時は地方からのさまざまな物資を陸揚げする物流の一大拠点だったのだろう。
その浅草湊の周辺に展開する地名が、紀ノ川沿いの地名と相似しているのがとても興味深い。先のヤマトの紀国への侵略にともない、女王ナグサトベの国が滅亡するとともに、紀ノ川沿いに先住していた「日本」人たちが、ヤマトの圧力に耐えかねたか戦いに敗れるかして、関東のクニグニへ亡命または避難してきているのではないか?……と想定するのは、それほど困難なことではないだろう。


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このような視点で見ると、関東から中部地方に展開する諏訪社Click!の祭神で、従来は出雲のオオクニヌシがらみとされてきた勇猛なタケミナカタ(建御名方)と、紀国の熊野地方で「神武」を迎撃した女王ナグサトベに仕えた南方(みなかた)氏とのかかわりが必然的に気になる。タケミナカタは、頑強に侵略者のヤマトへ抵抗をつづけて奉られた「猛(タケル)南方」、あるいは「武南方」ではないかという想定が成り立つのだ。
ちょっと余談になるが、江戸期になると紀国は「紀伊国」と母音の“黙字”である「伊」を補って書かれることが多いが、本来は紀ノ国(木ノ国)であって紀伊は「き」と発音される地名であり、「きい」とは読まない。黙字はスルーし、発音しないのが江戸期の“お約束”のはずだった。出雲の地域名である斐川(氷川)が、「斐伊川」と書かれていても本来は「ひいかわ」と読まず、母音黙字を無視して「ひかわ」と読むのと同様だ。
紀ノ川沿いと江戸東京の地名相似は、以前にも出雲の事例で書いたけれど、出雲にしか産出しない碧玉製の勾玉Click!が関東各地の古墳から出土したり、関東南部に氷川明神(斐川明神)Click!の社(やしろ)が数多く展開したりと、明らかに出雲を故地とする人々(ヤマトへの「国譲り」を許容できなかった少なからぬ集団)が、おそらく海路で関東のクニグニへとやってきている痕跡を感じるのと同様に、ヤマトの侵略へ容易に同調できない紀国の人々が、黒潮にのって関東南部へと亡命あるいは避難してきた証跡を感じるのだ。
彼らは、江戸湾のもっとも奥地にあたる浅草地域へと上陸して居留地としたか、あるいは既存のクニグニから土地を分けてもらって新たな入植地としたものか、のちに浅草湊を開拓した川筋から海へとルートを拡げる、物流や貿易を得意とした人々だったかもしれない。ちょうど、タタラ製鉄Click!に関する専門知識やスキルが豊富だったとみられる出雲の人々が、砂鉄から目白(鋼)Click!を製錬するために南関東の河川をさかのぼり、バッケ(崖地)Click!や段丘に沿ってカンナ(神奈)流しClick!を行いながら、各地に氷川(斐川)あるいは鋳成神(近世に「稲荷」と習合されたものも多い)のメルクマールをしるしていったのと同様に、紀国の特殊技能や専門の職能・知見を身につけた人々は、関東のクニグニ(南武蔵勢力圏や北武蔵勢力圏)では特殊な技能に優れた人々として優遇されたかもしれない。だからこそ、故地の地名やメルクマールとなる神を奉る社(やしろ)について、周辺の似たような地形に付与することを、あえて許されていたのかもしれないのだ。
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浅草や真土山(待乳山)は、わたしもたまに出かけて散歩をするが、三社権現Click!や浅草寺Click!ばかりでなく、古くからの地名をたどりながら周辺の地形を観察するのも楽しいかもしれない。もちろん、江戸幕府によって大規模な土木工事が行われ、河川の改修や埋め立てが実施される中世以前の、浅草湊が江戸湾の奥入り江に面する貿易港だった時代の復元地図を片手に、奥東京湾の名残り池Click!などを避けながら古代散策してみるのも面白いだろう。
◆写真上:現在はかなり南へ移動したが、古代には浅草あたりが河口だった隅田川。
◆写真中上:上左は、1987年(昭和62)出版の中尾達郎『色町俗謡抄』(三弥井書店)。上右は、親父が愛読した1964年(昭和39)出版の今井栄『隅田川散歩』(非売品)。中は、三社権現社(明治以降は「浅草神社」)。下は、金龍山浅草寺(浅草観音)。
◆写真中下:上は、鳥居龍蔵Click!の調査時からあまり変わらず前方後円墳の形状をよく残した待乳山(真土山)聖天。中は、台東区立下町風俗資料館が出版した『下谷・浅草の歴史散歩』(1997年/左)と、同資料館出版の明治から現代まだの古老による証言を詳細に収集・記録した『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和<総集編I>』(1999年/右)。下は、紀ノ川沿いの隅田地区を流れる隅田川(紀ノ川の一部)。
◆写真下:上は、『港区史』(2020年)に掲載された「東京低地地形分類図」。中は、紀国と同地名の上野東照宮の金色殿から撮影した唐門と寛永寺五重塔。下は、同東照宮の灯籠群。
大正末に連続した高田町の大火。 [気になるエトセトラ]
落合地域とその周辺域で、火災事件の史料を調べていると二度にわたる山手空襲Click!や関東大震災Click!、落合第二小学校の失火による校舎焼失Click!、ピクニックにやってきたハイカーたちの火の不始末による西坂・徳川邸Click!周辺の草木火災Click!、相馬孟胤邸Click!の神楽殿炎上事件Click!などが印象に残る。戦争や大地震による大規模な火災はともかく、なにごともない平常時に町内の一画がすべて延焼してしまうような大火事は、少なくとも落合地域では確認できない。
ところが、下落合の北東側に隣接している豊島郡高田町Click!では、地域全体が焼失してしまう大火事が連続して二度、大正末に記録されている。この大火事については、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)の記述で読んでいたはずだが、それほど印象には残らなかった。それが、想像以上の大きな火事だったのに改めて気づいたのは、まったく地域ちがいの資料に高田町大火について触れている記録を、何度か目にしてからだ。同大火は、どうやら東京市街の各地から遠望されていたようだ。
特に、1926年(大正15)3月15日夜間の火災はことさら大きかったらしく、わたしがまったく地域の異なる浅草や向島の地域資料に目をとおしていたときにも、高田町大火の記述を見つけて驚いた。その記述では、著者が眺めていたのは麻布区(現・港区)の永坂町からだったが、郊外の高田町とは8km近くも離れている。それが麻布区からはっきり視認できるほど、ひとつの町内域が全焼してしまうほどの大火だったようだ。
この大火を眺めていたのは、もともと向島の長命寺桜餅Click!や言問団子Click!の少し北側、大学対抗レガッタのゴール近くに建っていた、大倉喜八郎Click!の別邸に住んだ息子の大倉雄二だ。大火の当時は、向島から麻布へ一時的に転居して住んでいたことから、たまたま目撃することになった。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された大倉雄二『逆光家族―父・大倉喜八郎と私―』から、麻布時代の証言の一部を引用してみよう。
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永坂上という芝、赤羽から品川の方まで見渡せる場所がら、そのころ多かった仮建築の火災をいくつか見ていたのだろう。ある寒い夜、北の空がほんのり小さく紅く、それがだんだん拡がって来ると暗い坂の下から野次馬が登って来て騒いでいる。/間もなく町会の老人が火事を知らせる太鼓を打ちながら、「火事は巣鴨」とわざわざ闇を選んでくぐもった声で触れて歩き、濃い闇の中へ消えてゆく。そのころの新聞を調べてみると、豊島郡高田町(当時巣鴨に接していた)で六百戸焼ける大火の記事が見えている。それならば大正十五年三月ということになるはずである。だから寒いと云っても外に出て見ていることが出来たのであろう。
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文中の「仮建築」とは、関東大震災で倒壊あるいは延焼してしまった建物のうち、本格的な復興建築を建てる前に、過渡的な用途として建設された建物=バラック建築のことだ。このときの大火では、豊島郡高田町(大字)雑司ヶ谷(字)水久保(のち日出町2丁目)の一帯を焼きつくしており、焼失家屋は600戸以上で罹災者は2,000人を超えていた。しかし、幸運にも死傷者はでておらず、罹災者は近くの高田第四尋常小学校へ避難している。
1978年(昭和53)に豊島区立図書館から発行された『豊島の歳時記』(豊島区郷土シリーズ/第3集)によれば、1926年(大正15)3月15日の夜間に雑司ヶ谷水久保地域から出火し、最終的に鎮火したのは翌16日の昼ごろになってからのことだった。したがって、翌朝になってからも麻布の永坂町にある坂上からは、高田町方面から上がる濃い煙が見えていたのではないだろうか。この大火を契機として、高田町では消防車両としてポンプ自動車を消防第一部に配置し、消火用の貯水池を新たにいくつか町内に設置している。


だが、上記の高田町雑司ヶ谷水久保で起きた大火は二度めであり、前々年の1924年(大正13)3月26日にも同じような大火が発生している。1933年(昭和8)の『高田町史』(高田町教育会)から、火災の様子を引用してみよう。ただし、『高田町史』Click!では二度めの火災と消防ポンプ車の配置の年度を1年ズレて誤記しており、『豊島の歳時記』(豊島区立図書館)や大倉雄二(『逆光家族』)の記憶と当時の新聞記事、あるいはのちに高田町町長へ就任する海老澤了之介Click!の記憶のほうが正しいと思われる。
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同十三年(大正13年)一月十七日、警視庁令丙第五号を以て、組織を部制に改められたので、従来の公設消防組を第一部とし、更に私設消防組砂楽連を第二部、保久会消防部を第三部、高田町青年団第六分団消防部を第四部とし、定員百五十四名となつた。折りから同年三月二十六日、水久保二百三番地の火災にて六百三十四戸を焼失し、其の損害七十九万四百円に及び、翌年(ママ:翌々年)三月同地に六百余戸の火災あり引続き火災多き故、施設の完全を期するの必要を痛感し、大正十四年(ママ:大正15年)十二月、第一部に自動車ポンプを備へ且貯水池数ケ所新設 (カッコ内引用者註)
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この記述によれば、1926年(大正15)の大火よりも、2年前の1924年(大正13)のほうが規模や被害が大きかったような印象を受ける。二度の大火とも3月に起きているのは、春先に多い強風が吹いていたせいで、新設の消防部隊が消火に手間どったものだろうか。春先は、西南から吹きつける風が多いので、ひょっとすると水久保から水久保新田(のち日出町1丁目)のほうまで延焼しているのかもしれない。
水久保地域には大地主が数人おり、お互いが競いあうように棟割長屋を建てては住民に貸していた。関東大震災の被害で、家を失った市街地の住民が大挙して東京郊外へ押し寄せており、高田町も新住民の急増で住宅不足が深刻だった。そのニーズに目をつけた地主たちが、数多くの棟割長屋を建てては低賃料で貸しだしていた。
棟割長屋同士の間隔は、わずか1~2mほどの路地空間しか設けず、できるだけ多くの家族を収容できるよう密に設計した建築だった。だから、ひとたび出火すればすぐに隣りの棟へと燃え移るような環境で、またたく間に大火となったものだろう。



水久保地域に多かった棟割長屋について、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版/非売品)から引用してみよう。
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水久保一帯は小さな、余り上等でない長屋が沢山立ち(ママ:建ち)並んで居た。この長屋を人々は呼んで、汽車長屋と云つた。間口二間位の家が、一棟五戸七戸続いて居つて、丁度汽車がつながつて居る様に見える。又人呼んで烏長屋とも云つた。屋根は古トタンで、その上にコールター(ママ:コールタール)が塗られてある。見るからに真つ黒であるから、烏長屋と云はれたのであらう。この町の開発者は木村栄太郎氏で、氏はどこからか古家を買つて来ては長屋を作る。こうして幾十幾百の長屋を所有した。西巣鴨の原定良君等もこうした長屋を所有して居た。(カッコ内引用者註)
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また、同地域は「久保」Click!という地名が示すとおり谷状の地形をしており、1913年(大正2)と1919年(大正8)の二度にわたり、大雨による床上浸水や洪水の被害にもみまわれている。海老澤了之介の記憶によれば、上記の洪水被害のときは水久保地域に舟を浮かべて、高田町役場が用意した炊きだしの握り飯を各戸に配ったという。
このような街並みだったので、1軒が火をだせばたちまち街全体に拡がり、ひとたまりもなかったのだろう。現在の地下鉄や高速道路が走り、サンシャインシティの南側に展開する豊島区役所をはじめ高層ビルが林立する同地域(現・東池袋)の風情からは、まったく想像もできない当時の光景だ。ただ、丹念に街を歩いていると、昔の細い路地が残り大谷石の築垣や階段、古い黒ずんだコンクリートの縁石や塀を発見することができるが、洪水や大火の痕跡はもはやどこにも存在しない。


目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!は、高田町雑司ヶ谷の水久保245番地に自邸Click!があった。ときどき、同僚の英語教師で親しかった金田一京助Click!を誘い、雑司ヶ谷墓地Click!を抜けて水久保の家までいっしょに帰っている。清水七太郎が日記を残していれば、大正末の二度にわたる大火について、なにか書き残している可能性が高い。ひょっとすると、雑司ヶ谷墓地が近かった自邸も、なんらかの被害を受けているのかもしれない。
◆写真上:東池袋に残る、昭和初期ごろと思われる狭い路地のひとつ。
◆写真中上:上・中は、1921年(大正10)と1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷水久保地域。後者の地形図は、豊島区の成立とともに町名変更が行われている最中のもの。下は、同地域に残る大谷石の古い築垣と階段。
◆写真中下:上左は、1985年(昭和60)に出版された大倉雄二『逆光家族―父・大倉喜八郎と私―』(文藝春秋)。上右は、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)。中は、清水七太郎の旧邸跡(旧・水久保245番地)あたりから眺めた水久保地域の現状。下は、首都高速道路や都電、地下鉄などが走る現在の同地域。
◆写真下:上は、同地域に建つ豊島区役所(としまエコミューゼタウン)が入ったブリリアタワー池袋。中は、1924年(大正13)3月26日の大火で火元となった水久保203番地の現状。下は、水久保203番地の跡地へ立とうとすると高層ビルの谷間になってしまう。