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救世観音の呪いではなさそうな天心邸の怪。 [気になるエトセトラ]

筑土八幡社.JPG
 岡倉覚三(天心)Click!は、1883年(明治16)から1885年(明治18)の3年間に、4回も転居を繰り返しているようだ。まず、日本橋蠣殻町にあった実家から根岸の御行の松Click!に近い鄙びた寮風(江戸期の別荘風)の家へ、半年ほどで巣鴨庚申塚Click!に近い音無川の新築の家へ、次にやはり1年足らずで牛込区の筑土町に建っていた江戸期の大屋敷へ、つづいてほんの数ヶ月で同じ牛込区を流れる江戸川(現・神田川)の舩河原橋Click!も近い新小川町へと、まことにせわしない生活を送っていた。
 岡倉天心の“引っ越し魔”は有名だったらしく、家族はもちろん友人・知人たちは別に驚かなかったらしい。彼は、引っ越しを気分転換のように考えていたようだが、それに付き合わされる家族や書生、女中たちはたまったものではなかっただろう。しかも、このときの岡倉天心は、E.フェノロサとともに関西の美術品調査への出張を繰り返していた時期と重なり、本人がほとんど家にいないような状態だった。にもかかわらず、出張から帰ってくると引っ越しをしているような生活だった。
 ちょうど1884年(明治17)、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされ、法隆寺の夢殿に封印されていた救世観音Click!を、僧たちが止めるのも聞かず開扉して布を取り去り、強引に“取調”を行なっている。聖徳太子伝説とともに、「呪い」や「祟り」で名高い救世観音だが、そのときの様子を『天心全集』(美術院版)から引用してみよう。
  
 余明治十七年頃フェノロスサ、及加納鉄斎と共に、寺僧に面して其開扉を請ふ。寺僧の曰く之を開かば必ず雷鳴あるべし。明治初年、神仏混淆の論喧しかりし時、一度之を開きしが、忽ちにして一天搔き曇り、雷鳴轟きたれば衆大に怖れ、事半ばにして罷めり。前例此くの如く顕著なりと、容易に聴き容れざりしが、雷の事は我等之を引受く可しとて堂扉を開き始めしかば、寺僧皆怖れて遁去る。開けば則ち千年の鬱気紛々鼻を撲ち殆ど堪ゆ可からす、蛛糸を掃ひて漸く見れは前に東山時代と覚しき几案あり。之を除けば直に尊像に触るを得べし、像高さ七八尺計。布片経切等を以て幾重となく包まる。人気に驚きてや蛇鼠不意に現はれ、見る者をして愕然たらしむ。頓かて近より其布を去れば白紙あり、先に初年開扉の際雷鳴に驚きて中止したるはこのあたりなるべし。白紙の影に端厳の御像を仰がる。実に一生の最快事なり。
  
 このサイトでは、なぜか救世観音の「救世ちゃん焼き」Click!でかなりのアクセス数を記録しているが、このときに夢殿から出現し、その後も法隆寺の秘仏あつかいが長いことつづいた同像は、大正期に入ると顔面の石膏型までとられ、下落合の霞坂秋艸堂Click!に住んでいた会津八一Click!までがマスクを所有するまでになっていた。
 さて、岡倉天心が夢殿を開扉し救世観音の調査を行なった翌年、すなわち1885年(明治18)の初夏に転居してきたのが、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)に建っていた元・旗本屋敷のひとつだった。このころの天心は、政府の官階も進んで文部属となり、正式の判任官となっていたころだ。給料も上がり“一等下級俸”と決められたので、生活はかなり楽になっていただろう。
 岡倉天心は、短期間で引っ越しを頻繁に繰り返すので、転居を予定している家の由来や謂れなどを落ち着いて調べたり、その物件や地域について隣り近所を調査してまわるような手間のかかることはせず、空き家の話を聞きつけると一度ザッと下見しただけで、すぐに引っ越し先を決めていたようなふしが見える。しょっちゅう転居を繰り返していると、当時の表現でいえば「凶宅」あるいは「凶屋敷」、現代風にいえば「事故物件」を引き当ててしまうのは、小山内薫Click!も岡倉天心も同様のようだ。
岡倉天心.jpg 岡倉元子.jpg
岡倉一雄「父岡倉天心」岩波現代文庫.jpg 救世観音.jpg
 当時、岡倉家には岡倉天心に元子夫人、子ども(長女のみで岡倉一雄は祖父母の家にいた)、画学生の岡倉秋水(天心の甥)、本多天城、山本松谿などの書生たち、女中や俥夫などが住んでいた。下宿していた書生たちは、いずれも狩野芳崖の弟子たちで、のちに四天王と呼ばれるようになる画学生たちが含まれていた。
 ちょっと余談だが、本多天城は下落合(現・中落合/中井含む)にアトリエをかまえていたのを、岡不崩Click!のご子孫であるMOTさんよりうかがった。不崩と天城ともに、芳崖四天王の日本画家たちだ。岡不崩は下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の二ノ坂上だが、本多天城は一ノ坂沿いの下落合4丁目1995番地にアトリエがあった。これら日本画家たちが下落合の中部から西部にかけてに集合したのも、1922年(大正11)から東京土地住宅により計画されていた「アビラ村(芸術村)」Click!と関連があるのだろうか? 一ノ坂上の本多天城アトリエについて、それはまた、次の物語……。
 さて、筑土町の屋敷での凶事は、引っ越しの当日に起きた長女の大怪我からはじまった。長女は、玄関の式台から靴脱ぎの石の上に転落し、石の角で左頬をえぐる大怪我をしている。裂傷はかなり深く、その傷跡は生涯消えなかったようだ。つづいて、屋敷の中2階の8畳間に住んでいた画学生たちがおびえはじめた。その様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された、岡倉一雄『父 岡倉天心』から引用してみよう。
  
 六月に入って、五月雨そぼ降る陰鬱の日がつづいたある日の真昼時、素絢を展べて画事に精進の筆を走らせていた二人が、二人ながら急に悪寒を感じて、滅入るような心地となり、あたかも鬼気に襲われたように、うちつれてドヤドヤと階段を転び落ちてきた。そして、茶の間に下りてくると異口同音に、/「どう考えても不思議だ。われわれは何か超自然のものから呪いをかけられているようだ。」/と、元子はじめ家人の前で訴えるのであった。/元子はあまり二人の態度が真面目なので、くだんの中二階をくまなく捜索してみると、白紙に包んだ一丁の古剃刀が、天井の上に封じこめられたのを発見した。稀有なものとみてとった彼女は、中年の下女を隣家につかわして、年配の者にたずねさせると、彼らはひとしく驚異の面持ちで、/「そんなものが残っていましたかねえ……」/と首を傾けるのであった。
  
 ここで、「すわ、夫が無理やりこじ開けちゃった救世ちゃんの祟りだわ!」とならないところに、元子夫人の剛胆さがあるのだろう。おびえる画学生たちを尻目に、中二階の捜索をして天井裏に封印された剃刀を発見している。その封印を、いともたやすく解いてしまう元子夫人もまた、夫と同じように迷信を信じない文明開化の女子だったようだ。
筑土町.JPG
礫川牛込小日向絵図1852.jpg
筑土八幡社拝殿.JPG
 天井裏に封印されていた古剃刀は、ここに住んでいた旗本の愛妾が明治維新による世の中の急激な転変をはかなんで、自害した際に使ったものだということが判明した。この旗本屋敷に限らず、江戸東京の古い屋敷の天井裏には、多種多様なモノが封印されたり隠匿されている例が多い。たとえば、死者の毛髪や形見、位牌、刀剣、書簡類、書画骨董などだが、その家で死んだ人間にかかわる遺品は、死者の魂がいつまでも身近に宿ることを祈願したものか、あるいは一種の「魔除け」「護符」の意味がこめられているのか、個々の屋敷によってさまざまな理由や事情があったのだろう。
 つづけて、岡倉一雄『父 岡倉天心』より引用してみよう。
  
 くだんの剃刀は、維新のさい、先住の旗本の愛妾が、急激に変りはてた世を恨み、時代を呪って、自殺をとげたさい、使用した凶器であると、のみならず台所にある内井戸は、その妾が剃刀の一剔で死にきれず、身を投げたところだと、因縁が明らかになった。元子は気丈な女性であったものの、こういう因縁を聞いてみると、晏然そこに落着いているに耐えられなくなってきた。そして、京阪地方の宝物取調べの旅から戻ってきた天心にありようを告げると、彼は、/「そうか、そんな因縁づきの家だったか、では、さっそく他を捜すがよかろう。」/と、わけもなく移転に同意したので、急に船河原橋に近い、江戸川に畔する新小川町に仮越して、この筑土の凶宅とは縁を切ってしまった。
  
 日々の飲料水に使われる、台所の内井戸に身を投げて死んだと聞かされては、いくら胆が太い元子夫人でもさすがに気味が悪くなったのだろう。舩河原橋に近い新小川町は、筑土町の屋敷とはわずか300~400m前後の距離しか離れていないが、千代田城の外濠も近い静かなたたずまいで、桜並木の神田川(当時は江戸川Click!)沿いの街並みが、岡倉家の人々は気に入っていたのかもしれない。天心は散歩に出ると、よく江戸川の大曲(おおまがり)付近の釣り人たちを眺めてすごしていたという。
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新小川町.JPG
 徳川幕府が倒れると、山手Click!に屋敷や長屋のあった旗本や御家人たちの多くは無理やり追いだされ、空き屋敷だらけになってしまった時期がある。そこで語り継がれてきた、薩長政府に対する恨み怪談のひとつが、筑土町でも伝承されていたものだろう。

◆写真上:旧・筑土町の中核に位置する、筑土八幡社Click!の階段(きざはし)。左手には将門伝承が残る筑土明神社があったが、1954年(昭和29)に九段へ遷座している。
◆写真中上:上は、岡倉天心()と元子夫人()。は、2013年(平成25)出版の岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波書店/)と法隆寺の救世観音()。
◆写真中下は、筑土八幡社の門前町にあった近代住宅だが道路建設ですでに解体された。は、1852年(嘉永5)に出版された尾張屋清七版の切絵図「礫川牛込小日向絵図」にみる筑土町界隈。は、長い階段を上ると正面にある筑土八幡社の拝殿。
◆写真下は、1887年(明治20)の1/5,000地形図にみる筑土町界隈。このどこかに、岡倉家の「凶宅」が描かれているはずだ。は、新小川町にみる古い建物の一画。

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島抜けをまたかとため息つくだじま。 [気になるエトセトラ]

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 先日、佃島Click!「丸久」Click!さんへ佃煮を買いに出かけたら、舟入堀の水を抜いた面白い風景に出あった。漁舟のもやい場だった堀に土砂がたまり、より深く浚渫する工事のまっ最中だったのだろう。堀底にカルガモの親子がにぎやかに駈けまわる、めったに見られない光景だ。住吉祭の例大祭で使われる、大幟の柱と抱木を埋めておく佃小橋ぎわに囲われた堀底も、引き潮を待たずによく観察できた。
 佃島の舟入堀には、江戸最初期の普請の痕跡が残っていただろうか? 中央区の教育委員会による学術調査が入ったのかどうかは知らないが、堀割りを浚渫すると面白いものがいろいろ見つかりそうな気がする。まさか、この浚渫作業によって「丸久」の主人Click!が嘆いていたように、佃島の井戸に塩分が混じるようになったのではあるまい。地下水脈の破壊は、石川島や月島の再開発でもっと以前から進行していたのだろう。
 佃島は、もともと大川(隅田川)の河口に近い三角洲で、2丁四方の小島だった。また、佃島の北側には同様に鎧島と呼ばれた洲があったのだが、鎧島を埋め立てて佃島に隣接させ、新たに石川島と呼ばれるようになる。例の寛政年間に、加役(若年寄支配火付盗賊改方)の長谷川平蔵らが設置した、元罪人や終身懲役人、無宿者などに手職をつける世界初の犯罪者更生プログラム=「人足寄場」だ。当時、大川の河口域にあった島はこのふたつだけで、1892年(明治25)に埋め立てられた月島は、いまだ存在していない。
 わたしが物心つくころ、佃島には1964年(昭和39)竣工の佃大橋が架けられておらず、都営の佃渡し舟(蒸気船:無料)で渡ったのをかすかに憶えている。親父はいつも「天安」の佃煮が定番だったが(祖父母の代も「天安」だったのだろう)、子どもの舌に「天安」の製品はかなりしょっぱく感じたので、わたしの代からは「丸久」で買うようになった。当時、佃島の北側に接する石川島は、ところどころにクレーンが建つほとんどが倉庫街だったらしいのだが、わたしの記憶はハッキリしない。
 子どもの目に映った佃島は、まるで時代劇のセットか芝居の書割りに登場するような街並みだった印象があるので、おそらく江戸期からの建物や明治期の住宅が、いまだそのままの姿で残っていたのだろう。佃島は、1923年(大正12)の関東大震災Click!でも、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!でも炎上せず、江戸期から明治期そのままの姿を残してきた。それは、島民が一丸となって防火や消火に努めてきたからだが、バブル経済がスタートする1980年代ごろから明治以降の建物ばかりになり、現在は明治・大正・昭和初期の住宅は数えるほどしか残っていない。
 ちなみに、1984年(昭和59)に東京都教育庁社会教育部文化課が行なった実地調査「中央区佃島地区文化財調査報告」によれば、明治期の住宅は22軒、大正期の住宅が83軒、昭和初期で戦前の建物が27軒、その他が戦後の現代住宅だった。もし、震災や戦争がなくて焼けていなければ、1980年代まで東京の他の地域にも佃島と同様の割合で、近代建築の住宅が街中のいたるところに残っていたかもしれない。
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 さて、江戸の寛政期から元罪人や終身懲役人、無宿者の更生施設=人足寄場として機能していた石川島だが、もちろん「なんでおいらが、マジな仕事しなきゃならねえんだよ」と、更生を拒否して人足寄場から逃げだす者も少なからずいた。人足寄場は、小伝馬町の牢屋敷Click!とは異なり、罪をつぐなった元罪人や無宿者なども手に職をつけるために収容していた施設なので、彼らが逃げたからといってすぐさま追手を差し向け、執拗に探索して捕縛するわけにはいかない。だが、服役中の終身懲役人が逃げた場合には牢破りとみなされ、火盗やのちには町奉行所の追及を受けることになる。
 現在では、上演される機会もまれになってしまったけれど、石川島の人足寄場を舞台にした「安政奇聞佃夜嵐(あんせいきぶん・つくだのよあらし)」という芝居がある。1892年(明治25)に古河新水(こがしんすい=12代目・守田勘弥と同人)が書き下ろした、いわゆる「菊吉時代」(人気の高かった6代目・尾上菊五郎Click!初代・中村吉右衛門Click!の大看板コンビ)の当たり狂言だ。初演は1914年(大正3)というから、佃島の住民たちも「ちょいと、江戸東京へいってくら」(佃島では築地側や日本橋側など大川の右岸へでかけることを「江戸へいく」、または明治以降は「東京へいく」と表現していた)と、浅草の市村座まで観劇に出かけていたのかもしれない。
 この芝居は、安政年間に起きた実際の牢破り事件を題材にしており、終身懲役刑で送りこまれた元・幕府御家人で主人公の青木貞次郎と神谷源蔵のふたりは、石川島の人足寄場で日々絶望的な苦役をさせられていた。青木貞次郎は、親を殺害した仇を探しだしてどうしても仇討ちがしたいと望んでいたが、それを聞いた神谷源蔵が、人足寄場からの脱出を勧めるという筋立てだ。ところが、牢破りを勧めた神谷源蔵こそが、親を殺害した張本人で憎んでも憎みきれない旧仇だった……という、現代では韓流ドラマでしかお目にかかれないようなストーリー展開だ。
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 物語はさして面白くもなく、当時は花形で大人気だった菊五郎と吉右衛門でもっていた舞台のせいか、1987年(昭和62)以降は上演される機会がなくなってしまったのだろうが、その中の1幕だけが有名でいまでも語り草になっている。それは、石川島を脱出した青木貞次郎と神谷源蔵が、大川の水に流されながら対岸めざして泳ぎわたる、それまでの歌舞伎では見られなかった水泳シーンが登場したからだ。ふたりは当然、佃の渡しがある築地側へ泳いでいったのだが、流れがあるので対岸の本湊町や舩松町ではなく、もう少し流されて十軒町や明石町のほうへ上陸しているのかもしれない。
 ふたりが大川を泳ぐシーンは、舞台全体に張られた波模様の大きな布の、横に引き裂かれたところから首だけをだし、いかにも泳いでいるような浮き沈みの演技をしてみせる。役者は、舞台に膝をついて身体の浮沈を表現するため、立って演技をするのとは勝手がちがい、かなり体力を消耗しただろう。これまでに見られない、新鮮な舞台表現を「菊吉」コンビがやって見せたので話題をさらい、以降、「安政奇聞佃夜嵐」の上演はストーリー展開などもはやどうでもよく、歌舞伎の舞台にはめずらしい斬新な水泳シーンの一幕のみ上演されるようになっていく。
 親父は、大正期以前の薬研堀近くにあった水練場Click!ではなく、昭和10年代には両国橋の本所側に設置されていた水練場Click!で泳ぎをおぼえ、実際に大川を何度か泳いでわたっているが、木村荘八Click!のように台場までの遠泳をやったかどうかは訊きそびれている。たぶん、大川や東京湾が工場排水で汚染された昭和初期には、そのような遠泳は禁止され、別の「試験」で水泳帽の赤線を増やし、進級していったのだろう。潮の干満にもよるが、引き潮のときの大川は案外流れが速く、対岸へ泳いでわたるのはかなりの体力が必要だと聞いている。青木貞次郎と神谷源蔵のふたりも、潮の満ち引きを十分に考慮に入れて人足寄場を脱出しているのだろう。
 ふたりが水に流されながら泳ぎわたったあたりは、1879年(明治12)になって海面平均値の「0m」が規定・採用され、日本のすべての標高値を決める水準原点Click!となった大川河口の間近だ。月島はいまだ影もかたちもなく、佃島の南側の水面は陸軍参謀本部(陸地測量部)Click!が7年間にわたり0m測量を繰り返していたエリアだ。0mを規定するのに7年間もかかるほど、潮の干満が激しかったことがわかる。現在、大川から東京湾にかけての潮位変化は、ゆうに2mを超えている。
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 大川の流れや太平洋の潮の干満により、江戸東京を縦横に走っていた堀割りには土砂など大量の堆積物が運ばれてくる。それを除去し、堀割りの定期メンテナンスで水深を確保しないと、舟の通行にも支障をきたすことになる。佃島の舟入堀も、この400年間にわたり何度か浚渫を繰り返してきたにちがいない。今回の工事では、同時に舟入堀のビオトープの観察施設も建設されるらしい。神田川Click!と同様に大川(隅田川)にも、サケをはじめ多種多様な生き物がもどってきている証拠で、わたしとしても嬉しいかぎりだ。そういえば、日本橋川にもサケがもどってきたという話も近ごろ聞いたばかりだ。

◆写真上:水が抜かれた舟入堀で、手前にカルガモの親子が8羽ほどエサを漁っている。
◆写真中上は、佃小橋から眺めた水抜きの舟入堀で右手の囲いが大幟柱や抱木の埋設地。は、住吉社裏から西を向いた舟入堀。堀の右岸には石川島の人足寄場役所や見張番所、女長屋などが並んでいた。は、佃大橋がない1960年前後に撮影された佃の渡し。対岸の右手には聖路加病院が写り、遠景には東京タワーが見える。
◆写真中下は、「安政奇聞佃夜嵐」のブロマイドで6代目・尾上菊五郎の青木貞次郎(左)と神谷源蔵の初代・中村吉右衛門(右)。は、大川の水門上から水抜きの舟入堀を眺めたところで右岸が佃島で左岸が石川島。
◆写真下は、1953年(昭和28)撮影の舟入堀。正面の石川島にある倉庫あたりが、人足寄場の長屋や稲荷のあったところ。は、上写真と同じ方向で撮影した普段の舟入堀。は、牢破りしたふたりが泳いでわたった佃大橋のある築地側の川面。
おまけ
1861年(文久元)制作の、尾張屋清七版の切絵図「京橋南築地鉄砲洲絵図」に描かれた佃島と石川島。切絵図が制作された数年前に、石川島からの島抜け事件が起きている。
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平民の子を抱くのは死ぬより辛い屈辱。 [気になるエトセトラ]

上屋敷公園.JPG
 目白通りの北側、高田町雑司ヶ谷上屋敷(あがりやしき)3621番地(現・西池袋2丁目)で暮らしていた宮崎白蓮Click!(柳原白蓮Click!)、あるいはその夫である宮崎龍介Click!については、これまで落合地域から遠くない場所で起きたことなので、ここの記事でも何度か取りあげて書いてきた。
 1921年(大正10)10月22日に大阪朝日新聞に掲載された、いわゆる白蓮の「絶縁状」Click!についても、ずいぶん以前にご紹介している。これに対し、夫である伊藤伝右衛門の「反論」が、1921年(大正10年)10月24日の大阪朝日新聞から4回にわたり連載されはじめている。いくらご近所であるとはいえ、白蓮側の視点のみだけ掲載しているのはフェアではないので、いちおうご紹介しておきたい。白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論は、両人の了承を得たものか同年の「婦人世界」12月号に全文が転載されている。なお、伊藤伝右衛門の反論は、大阪朝日新聞の記者が行なったインタビューにもとづきまとめたもので、本人が執筆したものではない。
 白蓮側の資料のみを読んでいると、伊藤伝右衛門が「野卑」で「カネ」のことしか考えておらず、成金特有の下品な人物像を想定してしまうわけだが、反論の内容を読むかぎり、頭がよく人間の観察眼に優れており、教養や倫理観は希薄だったのかもしれないが、ものごとを論理的かつ理性的にとらえ深く考えることができる人物だったことがわかる。また、直接カネのことに触れているのは、長い反論の中でたった2ヶ所にすぎない。白蓮批判の中でもっとも多いのが、伊藤伝右衛門をはじめ関係者に対する彼女の「平民」蔑視の眼差しについてだ。
 「白蓮事件」を、単に「大正デモクラシーを背景に、主体的に生きることに目ざめた女性」のエピソードという一面だけで眺めていては、実態を見誤るだろう。伝右衛門の批判骨子をテーマ別に分類してみると、以下のような構成になる。
 (1)「平民」への差別観について(華族の選民意識)……4ヶ所
 (2)思いどおりにならない生活へのイラ立ち(野放図な自尊心)……2ヶ所
 (3)すぐに被害者意識へ逃げこむ卑怯さ(没主体性)……2ヶ所
 (4)気まぐれなカネづかいの荒さ(浪費癖)……2ヶ所
 伝右衛門は反論『絶縁状を読みて叛逆の妻に与ふ』の冒頭、自身を大磯Click!の別荘で暗殺された安田善次郎Click!にたとえ、「安田は刀で殺されたが、伊藤は女の筆で殺された」などといっているが、それほどのことでもないだろう。また、大金を贈って白蓮を妻にしたという風説には、「柳原家には、俺としてお前の為に鐚(びた)一文送つた事は無い」と完全否定している。
 (1)の、「平民」蔑視への批判から見てみよう。伝右衛門は、結婚式の直後からそれに気づいている。帰りのクルマの中で、式の付添人が何人かいるにもかかわらず、白蓮はシクシク泣きだした。「平民」の伝右衛門が、華族である自分よりクルマへ先に乗ったので、悔しくて泣いていたのだ。
 生活をはじめてからも、「平民」蔑視はつづいた。伝右衛門は死んだ姉の子を引きとり、同じ家の中に住まわせていたが、まだ幼児なので母親代わりにいっしょに寝てやってくれと頼むと、「平民の子を抱いて寝るといふことは死ぬより辛い屈辱」だといって、また悔し涙を流した。この幼児は、女中にはなつくが白蓮が現われるとベソをかいたらしい。ときどき起こる「ヒステリイ」に対し、伝右衛門はなだめたりすかしたりしながら諭そうとしたが、白蓮はまったく聞く耳をもたなかったようだ。
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上屋敷1926.jpg
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 俺はお前のために何事でも良かれとこそ願へ、悪かれとは少しも思はなかつた筈だ。時時家庭内に起る黒雲は、お前の生れながらにもつた反撥的な世間知らずから起つたのに過ぎない。家庭といふものをまるで知らず、当然自分は貴族の娘として尊敬されるものとのみ考へて居たお前の単純さは、一平民から血の汗を絞つてやつと今日までの地位を得て、人間世間といふものを知り過ぎて居るほどの俺にとつては、叱つたりさとしたりしなければならなかつた。それを叱れば虐待だといつて泣いた。
  
 白蓮は、「伊藤」という「平民」の苗字を名のることも拒否している。第三者にも、夫のことは常に「伊藤」と呼び、自身のことは「燁子」と表現している。
 (2)の、思いどおりにならないことへの癇癪は、生活のあらゆる場面で起きていたようだ。まず、その矛先は家庭内をとり仕切る女中の“おさき”に向けられた。家事いっさいができないことを前提に、家内をマネジメントする女中頭を用意していた伝右衛門だが、白蓮はことあるごとに彼女と衝突したらしい。
  
 お姫様育ちで、主婦としては何の経験も能力もない自分のことを棚に上げてしまひ、おさきがまめに家内に立働くのを見て、お前はムラムラと例のヒステリイを起した。おさきのする事を見、おさきの顔を見れば腹が立つといつて泣いた……しかしおさきに対する嫉妬的な、狂気じみた振舞は、ますます盛んになつて止め度がなく、毎日病気といつては寝てしまひ、食事もせずに泣き通してゐた。
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 おそらく、(1)のような姿勢とともにこんなことをつづけていれば、誰からも尊敬も好かれもせず、周囲の「平民」からは呆れられ嫌われたのではないか。その裏返しとして、被害者意識のみが大きくなり、ますますカネづかいが荒くなっていったようだ。伊藤家の財産は、いくらつかっても尽きないと思っていたらしく、伝右衛門に箱島神社のある観光地の「(丸ごと)箱島を買つてくれ」とねだり、彼を呆れさせている。
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 (3)の、被害者意識のかたまりになっていく主体性のなさは、当時の華族に生まれた女性にはしかたのない面もあるのだろうが、すべてを伝右衛門のせいにしていく没主体的な主張は、のちの「白蓮事件」にみられる自身の主体的な行為・行動と、どう整合性がとれるのだろうか?……と、つい考えてしまう。
  
 お前は虚偽の生活を去つて真実に就く時が来たといふが、十年十年と一口にいふけれども、十年間の夫婦生活が虚偽のみで送られるものであるまい。永い年月には虚偽もまた真実と同様になるものだ。嫌ひなものなら一月にしても去ることができる。何の為に十年といふ永い忍従が必要であつたのだ。お前は立派さうに「罪ならぬ罪を犯すことを恐れる」といふが、さういふ罪を恐れるほどの真純な心がお前にあつたかどうか。
  
 たとえ周囲からの強い勧めで結婚されられたにせよ、白蓮は伝右衛門を一度は選択して10年間にもわたりともに生活をつづけており、次の宮崎龍介Click!も自身が選択した人生ではないのか? 「自身の選択を棚上げなどにせず、自分自身の主体性はどこにある?」という伝右衛門の問いかけは、しごく当たり前の疑問だったろう。
 生活の後半には、白蓮自身の被害者意識が当時のジェンダーフリー思想からか、女性一般の被害意識へと敷衍化されていた様子がわかる。だが、これも自身が夫に望んだことが、いつの間にか夫から押しつけられた虐待行為へとスリかわってしまったようだ。白蓮が、伝右衛門の妾になり話し相手になってくれと懇願した“おゆう”が、病気で京都へ帰ってしまったあと、今度は舟子という女性を夫の妾にと懇願して家に入れたあとの話だ。
  
 今度の舟子(燁子が夫に勧めた妾のこと)のことも、自分としてはもう止したらといふのを、おゆうも居ないし、どうか私の話相手にしてくれと頼むから、お前の好いやうにさせたのだ。お前はそれを、金力を以て女を虐げるものだといつてゐる。お前こそ同じ一人の女を犠牲として虐げ泣かせ、心にもない躓きをさせてゐるではないか。
  
 (4)の、カネづかいの荒さについては、具体的に金額をあげて批判しているのは2ヶ所だ。ひとつは、夫婦は毎月のこづかいを500円と平等に決めていたが、白蓮は宝飾類や着物は500円の中に含まれないと考えたらしく、そのつど伝右衛門にねだっている。また、歌集の出版もこづかいの範囲の外で、歌集『踏絵』には600円の特別支出をさせている。そして、伝右衛門はこう嘆く。「それから漸くお前の文名が世の中に知れて来た。夫として罵(のの)しられながら、呪はれながら、なほお前の好きな事だ、お前が楽しむ事だとさう思つて、じつゝと耐へたことは一度や二度ではない」。
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宮崎白蓮.jpg 宮崎龍介.jpg
 反論を読むかぎり、伝右衛門は確かに品がなく知的な会話もできない男だったのかもしれないが、ことさら暴君でも残虐でも守銭奴でもなく、まともな生活を営みたかった、大金持ちだが本質的には平凡な「平民」のように見える。このふたり、上野精養軒Click!で出逢ってはならない、ましてや結婚などしてはならない正反対の相性だったのだろう。

◆写真上:宮崎邸のすぐ北側に位置する、上り屋敷公園の大きなムクノキ。
◆写真中上は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の上屋敷駅があったあたりの現状。は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる宮崎邸。は、1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真にみる宮崎龍介・白蓮邸。
◆写真中下は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」12月号で白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論が併載されている。は、伊藤伝右衛門と柳原燁子(白蓮)の結婚写真。は、高田町雑司ヶ谷上屋敷3621番地にある宮崎邸の現状。
◆写真下は、伊藤家を出た直後の白蓮と宮崎龍介。は、ふたりのプロフィール。

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シラスが大漁だと漁師は泣いた。 [気になるエトセトラ]

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 ときどき、身厚で美味しいムロアジの干物やキンメの煮付け、懐かしいシラスなどを食べに平塚Click!大磯Click!、二宮、鎌倉Click!を散歩することがある。海岸の近くには、たいがい昔からの食堂があり、その朝に獲れた魚を食べさせてくれる。特に、わたしの大好きな大型のムロアジ一夜干しは絶品だ。地産地消が原則で、東京の魚市場経由ではあまり食べることができない、相模湾と黒潮・親潮流れる太平洋の新鮮で豊富な魚介類は、わたしが子どものころからの“舌”を形成したかけがえのない魚たちだ。
 わたしがもの心つくころ、湘南海岸のあちらこちらでは盛んに地曳き網漁Click!が行なわれていた。「湘南海岸」という大くくりの名称ではなく、それぞれの街ごとにつけられた海岸名や浜辺名ごとに、海が荒れて浜から地曳き舟が出せない日を除き、毎朝、地元の漁師たちが地曳き漁をしていた。たとえば、湘南海岸の中央にあたる平塚や大磯では、それぞれ東から西へ須賀ノ浜、袖ヶ浜、虹ヶ浜、花水川河口をはさんで北浜、こゆるぎの浜と地曳きが行なわれていて、各漁場は当時の相模湾沿いに展開していた漁業組合によって規定・管理されていたのだろう。
 地曳き漁で獲れた魚たちは、その日のうちに近所の魚屋の店先で売られるか、干物の場合は翌日から数日後になって店頭に並んだ。(魚屋が自ら干物づくりをしていた時代だ) もちろん、魚屋では地曳き漁で獲れた魚ばかりでなく、漁港にもどった漁船から揚がった新鮮な魚たちも扱っており、その種類はたいへん豊富だった。神奈川県の中央だと、三浦半島の三崎港で揚がった黒潮や親潮にのってやってくる魚たち、あるいは小田原から伊豆半島の各港で獲れた魚たちの双方が、新鮮なうちに競り落とされては魚屋に並んだ。いま考えてみれば、魚に関しては非常に贅沢な環境だったと思いあたる。
 わたしが地曳きを手伝いはじめたのは、幼稚園へ入園前後のころだろうか。午前5時半から6時ごろ、わたしの家へ遊びにきていた祖父Click!に連れられ海岸に出かけると、ちょうど網を曳きはじめるころだった。当時は、巻き上げモーターの耳障りな音の記憶がまだないので、漁師たちは腰紐と素手で曳いていたように思う。1時間ぐらい曳くのを手伝うと、沖に出て網を張った舟がだんだん浜に近づいてきて、当時は木製の小さな樽などでできた網の“浮き”が海岸に揚がりはじめる。すると、朝暗いうちからはじまった地曳き漁も終盤だ。やがて網が開かれ、かかった魚は樽や木箱に分類される。
 漁師たちは手伝った礼にと、生きたままのマサバなら1尾、ムロアジやマアジなら数尾ほどを分けてくれる。祖父はそれを喜々として持ち帰り、台所でさばいて刺身にすると、朝から葡萄酒(ワインという言葉は一般的ではなかった)を飲みながら味わっていた。1960年代の当時、相模湾の地曳き漁で獲れる魚には、マアジ、ムロアジ、メアジ、コアジ、アオアジ、マサバ、ゴマサバ、イサキ、イナダ、ブリ、マダイ、カマス、タチウオ、サワラ、ホウボウ、マイワシ、キンメ(台風の接近時か通過した直後)などがいただろう。あとは、雑魚(ざこ)の稚魚としてのシラスも大量に網へかかった。他の魚はともかく、雑魚のシラスはほとんど値打ちがなく、二束三文で売られていた。
 ちょっと余談だが、近ごろ雑魚(ざこ)のことを「じゃこ」と発音する方がいるが、西のほうの出身者だろうか? 江戸東京を舞台にした映画などで、「雑魚はすっこんでろ」を「じゃこはすっこんでろ」じゃ、セリフ的にも地域的にも変でおかしいでしょ?
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 魚屋の店先で、ざるに大盛り10~20円で売られるシラスは、たいがい生のままではなく潮水で茹でられたものが多かった。いまにして思えば、漁師たちは生シラスを市場に持ちこんでも、ほとんど値がつかなかったので、潮水で茹でてひと手間加え、“付加価値”をつけてから市場へ卸していたのだろう。まるで駄菓子同然の値段で売られるシラスは、もちろん家計にはやさしいのでわたしは毎朝、大根おろしとともに食べさせられるハメになった。いい加減ウンザリしたけれど、母親から「カルシウムがたくさんあって、虫歯にならないのよ」といわれ毎日食べつづけたが、この歳になるまで虫歯になったことがないのは、確かに相模湾のシラスのおかげかもしれない。
 ただ、シラスを食べるときのひそかな楽しみもあった。シラスと呼ばれる小魚は、たいがいカタクチイワシやマイワシ、ウルメイワシ、コウナゴ(イカナゴ)などの稚魚なのだが、たまにタコやイカ、カニ、エビの“赤ちゃん”が混じっていることがあり、それを見つけるとなんだか得をしたような気分になった。当時は、現在ほど品質管理が厳密ではないので、シラスをひと山買うと思いがけない魚介類の稚魚が混じっていたりして、それを探すのが面白かったのだ。特にタコは、茹でられると赤くなるので見つけやすかった。でも、そんなことをしていると学校に遅れるので、いつも「なにしてるの、早く食べなさい!」と叱られていた記憶がある。
 小学生になったころ、ユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線でいわゆる湘南道路)が、大磯の国道1号線まで舗装されてクルマの往来が徐々に増え、やがて西湘バイパスが開通するころから、相模湾の地曳きは振るわなくなっていった。おそらく海岸沿いの緑地が減り、魚たちが徐々に沿岸へ近づかなくなったのだろう。いくら網を仕掛けても、かかるのはシラスばかりで大型の魚はなかなか獲れなくなってしまった。漁師の数も減って、若い人は勤めに出て年寄りばかりになり、そのぶん網の巻き上げモーターを導入して機械化されたが、魚たちは二度と浜の近くにはもどってこなかった。
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 わたしが最後に地曳きを手伝ったのは、小学校の高学年になるころだったろうか。網にかかるのはほとんどがシラスばかりで、漁師たちはみんな暗い顔をしていたのを憶えている。威勢のいい掛け声や、網が砂浜に引き揚げられるとき、その膨らみ具合から起きた「おおーーっ!」というようなどよめきも絶え、地曳きは波音と耳障りなモーター音が響く中で静かに行われていた。たまにイワシの群れが入ることもあったが、イワシとシラスを市場へ出荷しても、当時はほとんど値がつかなかったろう。以前は、手伝うとくれていた魚もなくなり、浜辺の地曳き漁は荒んだ雰囲気に変わっていた。
 湘南各地の地曳きが、いつまで行われていたのか厳密には知らないが、自分たちの食べるぶんとモーターなどの燃料費を除けばほとんど手もとには残らず、網の修繕費や舟のメンテ費なども捻出できなかったのではないだろうか。現在、観光用に行われている地曳き漁のうち、わたしが子どものころから操業をつづける地曳き漁師の家系がはたしてどれぐらい残っているのか、調べたことがないので不明だ。
 1960年代末ごろまで操業していた、相模湾の地曳き漁師たちが生きていたら、現在の「シラスブーム」には目を丸くして驚愕するだろう。まともな魚がかからず、シラスばかりがあふれるほどに入ったいくつかの樽を前にし、暗い顔でため息をついていた漁師たちは、いまなら十分に生活が成り立つと思うだろうか。それとも、地曳き漁は手間ばかりかかって効率が悪く、港から船で沖漁に出たほうがシラスも含めて実入りがいいと考えるだろうか。おそらく、わたしが子どものころに比べれば、シラスの価格は500~1,000倍ぐらいにはなっていそうだ。
 毎日、くる日もくる日も食べさせられてウンザリした相模湾のシラスだが、この歳になるとたまに懐かしくなって食べたくなることがある。東京で売っているシラスは、しょっぱくて硬くてマズイばかりだ。その日の朝に獲れたシラスは、料亭か高級料理屋へいってしまうのだろう。だから、ときどきシラスやアジ類の干物が食べたくなると、相模湾が見える街に出かけては料理屋や旅館、食堂などで欲求を満たすことになる。
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 わたしは魚の中では、アジの仲間がいちばん好きだが、中でも大型で身厚な相模湾のムロアジには目がない。もちろんムロアジは刺身でも美味いが、うす塩で一夜干しにすると旨味が格段に増す魚だ。相模湾の海辺にある魚屋や市場を歩くと、必ず30cmをゆうに超えるムロアジの干物に出あうことができる。でも、子どものころの思い出が詰まった頭のままで出かけるわたしは、たいがい値札を見ると買うのをためらうことになる。同様に、雑魚のシラスをかけた丼飯が1,500円とかの価格を見ると、1960年代末の暗い顔をしてシラスの樽を見つめていた漁師たちのように、ハァ~ッと深いため息をつくのだ。

◆写真上:網にかかった獲れたてのシラスで、しょうが醤油かわさび醤油が美味い。
◆写真中上は、吾妻山から眺めた相模湾で、沖に連なるのは三浦半島と房総半島の山々。は、地曳き漁が行なわれていた平塚海岸の虹ヶ浜。は、潮水で茹でたシラス。子どものころは「茹でシラス」で、「釜揚げシラス」とは呼ばなかった。
◆写真中下は、大磯海岸のこゆるぎの浜。は、二宮海岸にある地曳き漁向けの舟だがおそらく観光地曳き用だろう。は、二宮海岸の穏やかな袖ヶ浦。
◆写真下は、鎌倉の七里ヶ浜。は、同じく鎌倉の由比ヶ浜から材木座海岸。は、いまでは目の玉が飛びでるほどの高級品になってしまったムロアジの開き。

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陸軍に注文の多い初年兵たち。 [気になるエトセトラ]

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 国立公文書館に保存された、軍関係の資料(おもに陸軍が大多数)を参照していると、ときどき目についてひっかかる資料がある。それは、「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」というようなタイトルをつけた陸軍大臣や陸軍省副官あての報告書で、大正後期から昭和初期にかけて特に急増しているドキュメント類だ。
 内容をくだいていえば、帝国陸軍とはあい入れない思想の持ち主たちが、徴兵制により少なからずわが部隊に入営してきたので、「どうしたもんでしょ?」、「なるべく説諭で思想を矯正してはいますが」、「いうことをきかないし、上官の命令もきかない」、「宣誓文に署名しません」、「差別反対のパンフレットを撒きそうです」、「アナキズム研究をやらせろといってます」、「休暇で外出したまま、どっかへ行っちゃいました」……etc.といった、なかば困惑を含んだ内容が多い。これに対し、陸軍省では兵役期間は短いながらも、できるだけ地道に説諭するよう指示を出しているのだろう、その後の「要注意兵卒」に対する説得の経過や動向を知らせる報告書がつづく。
 報告書の出だしは、たとえばこんな具合だ。1926年(昭和元)12月に上げられた「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」から、典型的な文章を引用してみよう。
  
 陸軍大臣 宇垣一成殿
 本年度第〇師団に入営シタル思想要注意初年兵ハ六名ニシテ中三名ハ特ニ思想ノ根柢強因ナルモノノ如ク各々部隊長ニ連絡 言動視察中ナリ 状況別紙ノ如シ
  
 徴兵制は入営してくる人物を選べない、すなわちハナから軍人をめざす志願兵ではないため、多種多様な思想をもった若者たちが大量に入営してくることになる。特に、大正後期から昭和初期にかけては共産主義や社会主義、民本主義、自由主義、アナキズム、サンディカリズムなどさまざまな思想をもった初年兵が増え、いくら上官が「説諭」して考えを改めさせようとしても、逆に理屈をぶつけ合う議論ではまったく歯が立たなかったり、腕力で抑えつけようとしても組合運動を経験して来た筋金入りの「闘士」がいると、逆にやられかねないような危機感も報告書には見え隠れしている。
 現場から陸軍大臣や副官あての報告書では、ハッキリと明確に請願はしてはいないけれど、どうしても手に負えない兵卒たちは本人の不利や不名誉にならないよう、なんらかの理由をつけて穏便に除隊ないしは退官させるのが適切……といったようなニュアンスさえ感じとれるものさえある。「説諭」しようとした上官が、おそらく逆に思想堅固で闘志満々な兵卒に脅かされているような雰囲気だ。中には、争議の先頭に立っていた「兵隊やくざ」みたいな人物もいて、「てめえ、シャバに出たらタダじゃおかねえからな。おぼえてろよ」などと、脅迫された上官さえいたのかもしれない。
 中には理不尽な扱いを受けたら「抗争」も辞さずと、宣言してから入営する者もいた。1926年(大正15)1月の、金沢第九師団の報告事例をいくつか見てみよう。
  
 「自分ハ入営後軍規ニ服従スルモ不合理ナル制裁ヲ受クルトキハ下僚ヲ相手トセズ少クモ中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル意図ナリ」ト語レルコトアリ(中略) 宣誓式ニ於テ「如何ニ上官ノ命令ナリトモ反国家社会的行動ニハ服従スル能ハズ」トノ理由ノ下ニ最初宣誓ヲ拒ミタル (工兵第九大隊)
 入営前水平社同人ニ対シ軍隊ニ於テ差別的待遇ヲ為スニ於テハ徹底的糾弾ヲ為スベシ洩レ語リタリト云 (歩兵第十九聯隊)
  
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 また、名古屋第三師団では勤務中でもアナキズム研究をつづけさせろと、中隊長にねじこんだ初年兵がいる。1926年(大正15)1月の報告書から引用してみよう。
  
 入隊宣誓式ニ際シ直チニ署名セズ、中隊長ニ更ニ〇法第三条ノ説明ヲ求メシヲ以テ中隊長ハ之ニ答へ尚他人ヨリ不条理ノ取扱ヲ受ケタル時ハ上申ノ処置ヲ取ルコト許サレアルコトヲ説明セシ(中略) 又中隊長ニ在営間自己ノ研究ニ就キ自由ヲ許サレ度キ旨申出デタルモ中隊長ハ隊内ニテ主義ノ研究ハ許サザルコトヲ言ヒ渡セリ (歩兵第三十四聯隊)
 農民組合ニ関係シ岐阜県中部農民組合青年部ノ部長タリシコトアリ 間々過激ノ言ヲ吐ケルコトアリ (歩兵第六十八聯隊)
  
 また、休暇で外出旅行したら、そのままもどってこないエスケープ下士官や、尉官クラスの士官の中には「勉強したいのに忙しくて、もうやってらんないし!」と、ストライキまがいに勤務放棄をするなど、のちの日中戦争あたりから本格化したファシズム時代の陸軍に比べると、なんとも“牧歌的”な事件が次から次へと起きている。
 これらの報告書は、もちろんマル秘の印が押されて、陸軍省の資料室の奥へと仕舞いこまれていたのだろう。換言すれば、軍隊とはいえそれだけ人間臭い一面が大正期から昭和初期にかけての陸軍には、まだ色濃く残っていたということかもしれない。
 周囲の状況に刺激されたのか、あるいは初年兵の逆オルグにあって新たに思想を形成をしたものか、下士官が休暇をとったまま帰ってこないエスケープ事件を見てみよう。兵舎の所持品を調べてみると、アナキズム関連の書籍が見つかっている。1926年(大正15)4月に報告された、大阪第四師団から陸軍大臣あての報告書より引用してみる。
  
 大正十五年四月三、四日ノ両日奈良見物ト称シ外泊休暇ヲ願出所定ノ時間ニ帰営セザルヲ以テ伯太憲兵分遣所ト協力シテ捜索ニ従事シ其手懸ヲ得ル為 本人ノ手箱等ヲ点検シタル結果 無政府主義者ト認ムベキ逸見吉造(水平社幹部)石田政治(水平社幹事)両名ヨリノ来信ト主義ニ関スル左ノ書籍ヲ発見シ思想上ニ関シ相当研究セルコトヲハッケンセリ/左記/クロポトキンノ研究/大杉栄ノ日本脱出記/ゴーリキー全集第五編/啼レヌ旅/薄明ノ下ニ/解放/改造/自然科学/文章往来/アフガスチンノ懺悔録 (野砲兵第四聯隊)
  
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 さらに、1927年(昭和2)2月には将校の少尉が、軍隊では多忙すぎて自身が進めている「支那に関する研究」が満足にできないのを理由に、いきなりいっさいの勤務を放棄してサボタージュし、懲罰として重謹慎30日を命じられたものの、その後も勤務放棄のストライキをつづけ、ついには退職が認められた事例も報告されている。
  
 (少尉は)精神ニ動揺ヲ来シ軍隊生活ヲ厭忌シ退職ノ手段トシテ素行ヲ紊シ隊務ヲ顧ミザル件ニ関シテハ既報ノ処 一月二十九日附免官ノ内達ヲ受ケ挨拶、整理ヲ済マシ翌三十日奉天ニ向ヒ出発セルガ支那事情ヲ研究セントスルモノゝ如シ (歩兵第七十三聯隊)
  
 彼ら軍内部のアナキズムや共産主義思想、あるいは社会主義思想などを少しずつ「説諭」(オルグ)して取りこみ、原理主義的社会主義Click!とでもいうべき思想が徐々に浸透して拡がった結果、陸軍皇道派によるクーデターとして爆発したのが、1936年(昭和11)の二二六事件Click!だという見方さえできうるかもしれない。
 1927年(昭和2)1月に、軍隊内へ配られそうになったアナキズム雑誌「無差別」に掲載の、『軍国主義ヲ吟味セヨ―無産青年諸君ヨ―』から、その一部を引用してみよう。全文漢字/カタカナで句読点もなく読みにくいので、ひらがな文に直し句読点を付加した。
  
 愛国と云ふ言葉も底を割つて見れば資本家の肥満し切つた懐中を余計に太くせんが為に、戦争が無ければ無益有害な軍閥領土的野心を満足せんが為に、そして彼等の存在を民衆にとつて意義あらしむべく俺達のたつた一つしかない生命を投出せと云ふ事になるのだ位の事は判つてきた。こうした意識が民衆の中に濃厚となつて人間的必然に、或は人道的主義立場人類平和の為に非戦的傾向を取るに至つた現今社会状態を見て取つた侒奸な奴ブルジヨアと軍閥共は俺達を尚ほこの上搾取せんために、何とかうまい考へはないかと頭を搾つた結果が彼の破壊的軍事思想の鼓吹を目的とする軍事教練と青年訓練所とである。
  
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 1929年(昭和4)10月、竣工して間もない戸山ヶ原Click!大久保射撃場Click!で発見された、「軍隊ハ資本家ノ番犬ナリ/我等ハ真ノ国民ノ番犬ノ軍隊ナランコトヲ望ム」の落書事件Click!から、わずか6年と少しで国家を揺るがす二二六事件Click!が勃発している。

◆写真上:北ノ丸にある、近衛師団司令部(現・東京近代美術館工芸館)の師団長室の窓。
◆写真中上は、入営後に寝起きする兵舎。は、不合理な制裁を受けたら「中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル」と宣言する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)1月25日付け金沢第九師団報告書。は、入営後も「主義研究」の継続を申請する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)2月20日付け名古屋第三師団報告書。
◆写真中下は、代々木練兵場Click!における閲兵式。は、休暇中の伍長が出奔し所持品から無政府主義関連の書籍が見つかって動揺する、1926年(大正15)4月26日付け大阪第四師団報告書。は、明治期に竣工した近衛師団司令部の全景。
◆写真下は、東日本大震災の直前に撮影した旧・軍人会館(元・九段会館/解体)。は、勤務放棄のストライキで免官になった少尉の1927年(昭和2)2月16日付け最終報告書。は、1960年(昭和35)に撮影された解体が進む戸山ヶ原の大久保射撃場。
おまけ
10月10日になっても、セミの声が鳴きやまない。秋の深まりを感じさせるヒヨドリとアブラゼミ、そして秋の虫の3重奏はめずらしいので記録。

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