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雑司ヶ谷金山の呉越同舟。 [気になるエトセトラ]

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 立野信之が兵役Click!からもどり、アナキズムに急接近しはじめていたころ、山田清三郎Click!雑司ヶ谷金山Click!の借家に住んでいる。そこは山田の自宅であると同時に、プロレタリア文学雑誌「文芸戦線」の編集部でもあった。隣家が、ストックホルム五輪のマラソンで有名な金栗四三が住んでおり、その向こう側に菊池寛Click!の自邸があった。
 菊池邸は文芸誌「文藝春秋」の編集部も兼ねており、当時は対立する左翼系の文芸誌と“芸術派”の文芸誌とが、金栗邸をはさんで対峙していたことになる。金山稲荷社Click!から、直線距離で東へわずか100mほどのところ、高田町雑司ヶ谷金山392番地(現・雑司が谷1丁目)あたりの一画だ。菊池邸と山田邸は、同じ文芸誌の編集部があるため郵便局にはまぎらわしかったらしく、よく「文藝春秋」あての手紙や荷物が、「文芸戦線」のある山田邸に配達され、またその逆も多かったらしい。
 当初、雑司ヶ谷墓地にある古い墓地茶屋の安価な2階を借りていた「文芸戦線」編集部だが、山田清三郎の自宅とはいえようやく1戸建ての建物に移ることができた。山田は、「ひとつ『文芸春秋』とツバぜりあいをやろう!」(『プロレタリア文学風土記』より)とそのときの気持ちを書いているが、多少の茶目っ気もあったらしい。山田邸は、板塀に囲まれたごく小さな家で6畳、3畳、2畳のわずか3間しかなかったが、「文藝春秋」編集部のある菊池邸は大豪邸で、周囲からは「金山御殿」と呼ばれていた。そこには、たまに芥川龍之介Click!里見弴Click!川端康成Click!などが出入りしていた。
 その邸宅の玄関に、山田清三郎はわざわざ誤配達された郵便物をとどけにいき、「『文芸戦線』の者ですが、あなたのほうの郵便物が間違って入っていました」と、“敵情視察”がてら社員に念を押してわたしていた。それを受けとっていた社員の中には、当時東京へやってきたばかりで、菊池邸に寄宿していた大田洋子Click!もいただろう。のちに大田洋子は「女人藝術」の常連作家となり、落合地域へとやってきて暮らすことになる。
 そのころの「文芸戦線」には、葉山嘉樹や林房雄Click!黒島伝治Click!平林たい子Click!、小堀甚二、里村欣三らが執筆している。立野信之も、同誌に詩などを投稿していたが、いまいちやりたいことが見つからなかったようだ。雑司ヶ谷金山の「文芸戦線」編集部について、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 山田は、一面また非常に几帳面な男で、玄関わきの三畳をプロ連の事務所兼「文芸戦線」の編集室に使って、細君の積田きよ子を助手にし、六畳のほうは自分たちの居間に使って、両方を混同することなくキチンと生活していた。山田は文芸戦線社からいくぶんの手当をもらっていたようだが、それだけで生活できる筈はなく、当時加藤武雄の編集していた新潮社の「文章倶楽部」に「文豪遺族訪問記」とか、「文豪墓めぐり」とか、「文壇覆面訪問記」といったような雑文の連載物を書いて生活をおぎなっていた。山田はすでに「新興文学」に「幽霊読者」という短編小説を発表して新進作家として名を連ねてはいたが、まだ小説で食えるほどではなかったのである。/わたしは、と言えば、「文芸戦線」に詩をのせてもらったおかげで、執筆メンバアに加えられていたが、その後は何も書いていなかった。自分にはそんな才能はない、と思い、続々と輩出する有能な新人作家をただ羨望の眼をもって傍観していたのだった。
  
 「文芸戦線」の雑司ヶ谷金山編集部(山田の自宅)は、夏目漱石Click!をはじめ作家の墓が多い雑司ヶ谷墓地のすぐ近くなので、「文豪墓めぐり」はすぐに思いつきそうなシリーズ連載企画だ。また、当時の雑司ヶ谷Click!には作家や画家たち芸術家が数多く住んでいたので、その地元ネットワークを活用していろいろな記事が書けたのだろう。ちなみに「プロ連」とは、日本プロレタリア文芸連盟の略称だ。また、「文芸戦線」編集部には執筆している作家たちが頻繁に来訪するので、その紹介やツテを頼る仕事もできたにちがいない。これは、2軒隣りの「文藝春秋」編集部でも同様で、さまざまな作家たちが出入りしていた。小林多喜二通夜1933.jpg
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 そのころ、立野信之は演劇や映画に興味をおぼえていたのか、それらの人脈をたどって自身の居場所を見つけようとしている。それを聞きつけた山田清三郎から、前衛座Click!の旗揚げに参加しないかと誘われた。築地小劇場で上演される予定のルナチャルスキー『解放されたドン・キホーテ』(千田是也/辻恒彦・共訳)の舞台で、演出は後藤新平の孫にあたる佐野碩、舞台装置は村山知義Click!柳瀬正夢Click!だった。
 ほどなく、立野信之は六義園の北側にあるモダンな住宅地・大和郷に住んでいた、佐野碩の自宅へ通いはじめている。この前衛座で、彼は前記の人々のほかに小野宮吉や関鑑子、久坂栄二郎、林房雄Click!佐々木孝丸Click!、花柳はるみらと知りあっている。立野は佐野邸で舞台装置の準備にまわされ、ついでに「旗持ちの廷臣」の役で舞台に出演しているが、村山知義は「反動宰相」役で、山田清三郎と佐々木孝丸は「革命家」役で、林房雄や葉山嘉樹らは「門衛」や「廷臣」役などで同作品に出演しており、文芸部も美術部も俳優部も関係のない垣根を越えた混成舞台だった。
 前衛座の旗揚げ公演は、劇団員の予想を上まわる大成功をおさめた。東京帝大の林房雄つながりで、帝大新人会のメンバーとも「文芸戦線」や前衛座を通じて交流することになり、当時は帝大のマルクス主義芸術研究会に属していた中野重治Click!鹿地亘Click!、川口浩、小川信一、辻恒彦、谷一らが合流して、日本プロレタリア文芸連盟結成への端緒となった。当時の様子を、1961年(昭和36)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から引用してみよう。
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 私の周囲は、数ヵ月前とは較べものにならないほどの、若々しい活気に溢れていた。帝大新人会メンバーのうちの、文学・芸術に関心をもつ学生たちによって作られていた“マルクス主義芸術研究会”(マル芸と略称)の連中が、大挙してプロ連や文芸戦線の組織の中へ入り込んできたことが、これらの組織に活力素を注射することになったのだ。林房雄、中野重治、久坂栄二郎、佐野碩、鹿地亘、小川信一、川口浩、などが主なメンバーで、学生以外からは、築地小劇場の俳優千田是也や小野宮吉なども加わっていた。千田や小野が築地小劇場をやめるようになったのは、このマル芸の面々に尻をひっぱたかれたのが最大の原因だろう。
  
 だが、多くのグループを包括して組織がふくらんだプロ連は、さまざまな「セクト主義」を産むことになり、理論闘争の支柱になっていた福本和夫Click!からの影響で、分裂につぐ分裂を繰り返すことになる。中でも、マル芸の谷一や鹿地亘が「福本イズム」の急先鋒で、無産者団体の離合集散に拍車をかけた。弾圧する警察当局にとっては、まことに都合がいい運動の分裂と弱体化が促進されていった。
 山田清三郎は、身の危険を感じたのか雑司ヶ谷金山から高円寺に転居していたが、分裂騒ぎの中で対立する「セクト」の葉山嘉樹や小堀甚二、里村欣三らから家をとり囲まれ、眠れない一夜をすごしている。彼らは手に手に棍棒をもってウロついていたので、いつ押し入ってきて袋だたきに遭うかわからないような状況だった。「セクト主義」によるテロルは、別に1960年代以降の新左翼による「内ゲバ」だけのことではない。佐々木孝丸は当時の組織内対立のことを、早くから「セクト主義」というワードで表現している。
 山田清三郎や立野信之らが、落合地域にやってくるのはこの直後のことだ。このとき、立野は山田清三郎からなにか小説を書かないかと誘われている。立野の記憶によれば、「葉山はマドロスの体験を書いて作家になったのだし、黒島伝治はシベリヤ出兵の体験を書いて作家になった。平林たい子は放浪の体験を、小堀甚二は鉄道工夫や大工の体験を、里村欣三はルンペンの体験を書いて作家になったんだ……君も軍隊生活の経験があるんだから、それをモトにして何か書けないかね?」と、山田に激励されたようだ。
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 1928(昭和3)3月に起きた三・一五事件Click!の弾圧をきっかけに、蔵原惟人Click!の呼びかけで全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)が結成され、分裂していた運動や組織に再び合同の機運が生じた。そして、機関紙「戦旗」Click!が発行されはじめている。上記に登場した数多くの人々が、上落合あるいは下落合に転居してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:空襲をまぬがれた雑司ヶ谷金山界隈には、古い住宅があちこちに残っている。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月21日深夜の小林多喜二の通夜にて。は、山田清三郎()と葉山嘉樹()。は、山田清三郎邸(「文芸戦線」編集部)があった雑司ヶ谷金山392番地界隈。左手奥の茶色いマンションが菊池寛邸(「文藝春秋」編集部)があったあたりで、そこから手前にかけて金栗四三邸と山田清三郎邸が並んでいた。
◆写真中下は、右翼のボスを演じる佐々木孝丸()と近衛文麿Click!を演じる千田是也()。は、大和郷に住んでいた佐野碩()と前衛座の女優・花柳はるみ()。
◆写真下は、1935年(昭和10)2月21日に神田神保町の中華料理店で開催された「あの人(小林多喜二)を偲ぶ会」に参集した面々。は、雑司ヶ谷金山の山田清三郎邸や菊池寛邸と同じ道筋(弦巻通り)に建っていたサンカ小説の三角寛邸。

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再び「事故物件」に引っかかる岡倉天心。 [気になるエトセトラ]

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 東京美術学校Click!(当時は小石川植物園内の美術学校創立事務所)の岡倉天心Click!は、よほど引っ越し運がなくツイてなかったものか、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)の「凶宅」Click!を逃げだしてから、わずか2年後の1887年(明治20)に、またしても同じような「凶宅」の借家を引き当ててしまった。しかも、今度の家は筑土町の怪(あやかし)レベルではなく、本格的な「幽霊屋敷」だったのだ。
 このような事例は、明治から大正にかけてはめずらしくなかったらしく、小山内薫Click!も転居をするたびにひどい目に遭っている。岡倉天心や小山内薫に共通しているのは、家を借りる前に隣り近所の住民や商店に、その空き家の経緯や評判などをあらかじめ聞き取りせず、下調べなしに大急ぎで決めて引っ越してしまうことだ。関東大震災Click!の前、東京には江戸期からの住宅がまだたくさん残っており、さまざまな因縁話やエピソードが伝わっていたのだろう。それらを転居したあとになって聞き、不可解な出来事と重ねあわせて「やっぱり!」となるケースがほとんどだ。
 筑土町の「凶宅」から新小川町へと逃げ出した岡倉家は、2年間に九段上から神田猿楽町と転居し、天心の留学をはさみ1887年(明治20)には、江戸期から寺町として知られていた池之端七軒町の屋敷に落ち着いている。ところが、この広い屋敷がとんだ「お化け屋敷」で、幽霊がゾロゾロと集団で出現する筑土町以上の「凶宅」だった。そして、この屋敷は高田町四ッ谷(現・豊島区高田1丁目)の根生院とも関係が深い敷地に建っていた。
 池之端七軒町は、現在でいうと池之端2丁目の一部で、不忍通りから1本西側に入った忍小通りに沿って形成された江戸期からの街並みだ。ちょうど、南側の東京大学医学部と北側の地下鉄・丸ノ内線の根津駅Click!とにはさまれた界隈で、不忍池Click!からもほど近い位置にあたる。のちに、不忍通りを走る東京市電から、ヴァイオリンを抱えた佐伯祐三Click!が無茶な飛びおりをして、側溝工事中の穴に転落Click!したのもこのあたりだ。
 広壮な屋敷は、1887年(明治20)の時点でかなり住み古したボロい様子をしていたというから、おそらく江戸期からつづく元・旗本屋敷かなにかだったのだろう。周囲が寺町で寺院だらけなので、そのまま通りすぎれば寺のひとつと勘ちがいされそうな造りや風情をしていたらしい。広大な屋敷なので、建物や敷地を家主だった橋本という家と二分し、岡倉一家は南側の屋敷を借りて住んでいる。この屋敷で舶来ものの「アソシエーション式の蹴鞠」(アソシエーション・フットボールの球=サッカーボール)を手に入れ、弟子の岡倉秋水や本多天城Click!たちとともにサッカーに興じていた。
 当時の池之端はうらさびしい一帯で、岡倉天心邸を訪ねて酒を飲んだ狩野芳崖Click!が、帰りがけに弥生町の切り通しで追いはぎに遭い、身ぐるみ剥がれて天心宅に逃げ帰ったエピソードが知られている。北側の隣家、すなわちこの屋敷の持ち主である橋本の家では、とうから怪事は起きていたようで、そこに住み両親を早くに亡くした少女は、しばしば軸の架かった床の間から手まねきをする父母の幽霊を目撃していた。そして、北側の屋敷で起きている怪異が南側の岡倉家へ伝播するのに、それほど時間はかからなかった。
 「凶兆」が最初に表れたのは、当時行われていた不忍池をめぐる春季競馬大会が開催される直前、1888年(明治21)の3月初旬のことだった。まず、天心の長女が競馬馬の蹄(ひづめ)にかけられて負傷している。翌4月になると、天心の元子夫人の枕元へ、男女5人の幽霊が頻繁に姿を現すようになった。5人の男女は、なにかを哀願するように正座して頭を下げていたが、その向こう側に立てかけた枕屏風が透けてよく見えたという。天心はまったくの無関心で、そのままイビキをかいて寝ていたらしい。
 夜明けとともに、元子夫人は義父の岡倉勘右衛門の部屋に駈けこむと、夜更けに表れた男女5人の幽霊のことを報告した。すると、勘右衛門はしばらく思案したあと、心当たりでもあるのか急いで女中を隣家にやって、1枚の写真を借りてこさせた。以下、1971年(昭和46)に中央公論社から出版された岡倉一雄『父岡倉天心』から引用してみよう。
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 「お前の夢にあらわれた男女というのは、その人びとではなかったかね。」/元子はさしだされた写真に一瞥を投げると、頭から冷水を浴びせかけられたように、ぞッと悪寒を覚えた。そして、しばらくして胸の動悸が鎮まるのを待って、彼女は、/「たしかにこの五人の人たちでした。しかし、どういう因縁で、この人たちが、縁もゆかりもないわたしの夢なんかにあらわれるのでしょう?」/畳みかけて問いかけた。勘右衛門はしばらく口の中に称名を唱えていたが、やがて長大息を洩らして、/「そうだったか、争えんもんじゃのう。あの一家は死に絶えているのじゃから、大方、願い事でもあって、お前の夢枕にあらわれたのだろう。万一、ふたたびあらわれたなら、落着いて、言うことを聴いてやってくれ、何かの功徳になると思われるから。」/と、ようやく答えを与えたのであった。
  
 元子夫人が、夫ではなく舅の勘右衛門に相談したのは、筑土町の「凶宅」でもそうだったように、天心はまったく頼りにならないのを知っていたからだろう。気丈夫な元子夫人は、再び幽霊が出たら仔細を訊ねてみようと決意している。
 ところが、一連の経緯や事情を夫に話すと、さっそく天心は「そんなおっかないところに、今夜からおいらは寝ることは閉口じゃ」といって、自分だけさっさと寝所を変えてしまった。そして、美術学校創立事務所に出勤すると、誰彼かまわずにこの怪談話を吹聴してまわったらしい。もっとも天心が幽霊を信じて、ほんとうに恐怖を感じたかどうかは不明で、ヨーロッパに留学までしている彼のことだから、非科学的かつ非現実的で時代遅れな旧時代の迷信とでも、アイロニカルにとらえていたかもしれない。
 夫が2階の寝室から逃げだしてしまったので、元子夫人はその夜からひとりで休むことになった。すると、ほどなく再び男女5人の幽霊が出現して、元子夫人の枕元に坐った。そこで、彼女は蒲団の上に座して居ずまいを正すと、なんの怨みがあって家内に現れるのかと鋭く詰問した。そのときの様子を、再び同書より引用してみよう。
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 すると、五人の中の長老とみえる七十四、五の老人が、お辞儀をしていた顔を揚げ、おもむろに口をきったが、その音調はすこぶる幽かで、しかも福井訛りがあったということである。/「別に私どもは、あなたがた御一家に怨みなど毛頭ございません。ただ不運な私ども一家の冥福を祈っていただく念願から、ここを寺にしたいのでございます。委細は谷中の和尚に頼んでありますから、日ならず和尚が参上しましょう。どうか、この願いを聴きとどけられて、お立ち退きくださいませ。永くお立ち退きがないと、御一家に大病人ができますぞ。」/と、警告つきの懇願をやったそうである。/翌朝元子は起きいでて、父の勘右衛門にも夫の天心にも、昨夕のありようを物語ると、勘右衛門は信じたが、天心は冷笑を酬い、例によって交友の間にこの噂を振りまいて歩いた。
  
 別の施設(寺院)にするから早く立ち退けと、脅迫をまじえて転居を迫る幽霊たちは、まるでバブル期の地上げ屋のような連中だけれど、例によって天心は信じたのか信じなかったのか、転居するしないも曖昧なまま、友人たちへ怪談話を披露して歩いた。もともと“引っ越し魔”の天心だが、短期間で何度も借家を変えて転居するのが、この時期は億劫になっていたのかもしれない。また、勤務先の小石川植物園にある美校創立事務所までは1.5kmほどしかなく、自宅が近くて便利だったせいもあるのだろう。
 天心が噂をふりまいたせいで、怪談好きな友人知人がこぞって池之端七軒町の岡倉邸へ、肝試しにやってくるようになった。ひと晩だけでなく何日間も泊まりこむ連中もいて、岡倉邸はたちまち有名な“心霊スポット”になってしまった。だが、夜になるとたいがい酒盛りとなり、幽霊が出そうな時刻にはみな酔いつぶれて正体がない始末だった。
 天心は、屋敷内をにぎやかにすれば幽霊騒ぎなど雲散霧消すると考えたのかもしれないが、とりあえず引っ越しは検討しなかったようだ。すると、今度は長男の乳母が倒れて大病を発症してしまう。おそらく、元子夫人は「御一家に大病人ができますぞ……の警告どおりだわよ!」と天心を説得したのだろう、ほどなく一家は西黒門町の借家へと転居している。引っ越し先は、下谷警察署に隣接した家だったので、天心も池之端七軒町の屋敷が少なからず怖くて、本音では怯えていたのではないだろうか。
 岡倉一家が大急ぎで西黒門町に転居したあと、翌1889年(明治22)には明治維新とともに廃寺になっていた、根生院(江戸期には湯島天神裏に建立されていた)がさっそく再建されている。ちなみに、『父岡倉天心』では「根性院」とされているが根生院が正しい。
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 根生院は、岡倉一家がいた屋敷をそのまま流用して池之端七軒町で再興されたが、1903年(明治36)には目白崖線の山麓にあたる高田村四ッ谷345番地へと移転した。池之端七軒町の幽霊屋敷は、そのまま残されていたが関東大震災による延焼で焼失している。

◆写真上:1903年(明治36)に、池之端七軒町の岡倉邸跡から移転してきた根生院の本堂。戦災で焼けているので、本堂は何度か新しく建て替えられている。
◆写真中上は、1861年(万延2)に制作された尾張屋清七版の切絵図「小石川谷中本郷絵図」にみる池之端七軒町。江戸期なので、湯島天神裏には廃寺になる前の根生院が採取されている。は、戦災をまぬがれた池之端に残る古い住宅や屋敷。
◆写真中下は、1918年(大正7)に撮影された戦災で焼失前の根生院本堂。背後の斜面には、高田町四ッ谷337番地に建つ芳賀剛太郎邸とみられる大きな西洋館がとらえられている。は、元・岡倉邸の池之端七軒町時代に建てられた赤門。池之端七軒町からそのまま移築されたもので、いまだベンガラの色が鮮やかに残っている。
◆写真下は、1960年代に撮影された池之端七軒町も近い不忍通りを走る都電。は、不忍池とその周辺でよく見かける上からユリカモメ、キンクロハジロ、オオハクチョウなど。人間によくなついているのか、近づいてカメラを向けても物怖じせず逃げない。

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「カウヒイ」は堪えられない大田南畝(蜀山人)。 [気になるエトセトラ]

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 明けまして、おめでとうございます。相変わらずCOVID-19禍は終息せず、先行きの生活が見えない1年のスタートですが本年も旧年同様、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 江戸期にコーヒーを飲み、初めてその風味までを記録したのは大田南畝(蜀山人)Click!だといわれている。彼が落合地域を散歩しながら、観月会Click!を開催した1776年(安永5)から28年後、1804年(文化元)8月9日(以下旧暦)のことだ。
 幕府勘定方の役人だった大田南畝は、田沼時代から松平定信による寛政の改革時代をへて、職務に専念するようになったといわれている。田沼時代以前は、幕府の官僚であるにもかかわらず狂歌師あるいは詩文学者として全国的に有名になり、町方の文人・風流人などとともに各地を遊び歩いていたが、1787年(天明7)に寛政の改革がスタートすると状況は一変する。彼のパトロンだった土山宗次郎が、横領の罪を着せられて斬首されたのも身にこたえたのだろう。
 また、版元だった蔦屋重三郎や山東京伝が処罰され、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜もねられず」を詠んだとされていた大田南畝は、おそらく気が気ではなかったにちがいない。だが、翌年になると半ば開きなおったのか、1788年(天明8)には喜多川歌麿と組んだ狂歌集『画本虫撰』を蔦屋から刊行している。以降、松平定信が老中首座にいる間は狂歌づくりを控え、勘定方の仕事に精勤するようになった。
 大田南畝がコーヒーを味わうのは、勘定方の支配勘定(いまでいうと財務省の課長クラスぐらいだろうか)になり、大坂銅座へ出向したあとのことだ。南畝は、仕事で1年間ほど長崎に出張しているが、1804年(文化元)8月9日(現在の暦だと9月中旬)にはオランダの貿易船に乗せてもらい、船上でお茶をごちそうになっている。それが、見たこともない真っ黒い茶=「カウヒイ」だったのだ。
 同年に書かれ、翌1805年(文化2)9月に出版された大田南畝『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』には、そのときの感想が記されている。1908年(明治41)に吉川弘文館から出版された、大田南畝『蜀山人全集巻三』から引用してみよう。
  
 紅毛船にて「カウヒイ」といふものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず、「ゼネイフル」といふ酒は、松の子を以て製したり、外に葡萄酒を〇〇〇〇〇といふ肉桂酒を〇〇〇〇〇〇〇〇といふ、又船頭の部屋に入りて見しに、床の間とをぼしきところに画あり、浮画なり、その上に鹿の頭の形を木にて造り、角は鹿の角を用ひたるをかけ置けり、当地諏訪の社に、鹿の角を額にしたるを見しが、かゝる夷俗を見ならひしにや。八月九日記
  
 大田南畝の口には、どうやらコーヒーはまったく合わなかったようだ。緑茶や抹茶を飲みなれた舌には、紅茶のほうがまだマシだったのかもしれない。おそらくコーヒーは彼の舌に、ことさら苦い漢方薬でも飲まされているような味覚しか残らなかったのではないだろうか。酒の「ゼネイフル(jenever)」は蒸留酒のジンのことだが、空白になっているオランダ語の酒名は、南畝がよく聞きとれなかった部分なのだろう。
 文中にもあるように、大田南畝は江戸と同様に長崎でも頻繁に市中散策を繰り返していた。長崎にある寺社はもちろん、名所旧跡はほとんど観光し、当地にある文物や物語・伝承にいたるまでを詳細に取材している。そんな中に、面白いエピソードが書きとめられている。『瓊浦又綴』に先だつ、1805年(文化2)5月に出版された『瓊浦雑綴(けいほざってつ)』に収められた逸話だ。
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 長崎市中の立山に出かけ、麓の下野稲荷社を訪れたとき、社の扁額に「正一位下野稲荷大明神東都南畝大田覃書」とあるのを発見している。だが、書いた本人はまったく憶えておらず、「いつのとしにか書たりけん今は忘れにけり」と記している。つまり、狂歌師あるいは詩文学者として広く有名だった大田南畝は、江戸の屋敷で数多くの書を依頼されたが、まさか揮毫の1作が長崎で稲荷社の扁額になっているとは思わなかったのだろう、ビックリした様子が記録されている。
 この伝でいくと、下落合の御留山Click!にある藤稲荷社Click!の神狐像台座に刻まれた彼の揮毫も、角筈熊野十二社Click!の手水に彫られたそれも、とうに忘れられていた可能性がありそうだ。たまたま本人が両社を訪れるかした際、「ここに、なにか彫られておるな。どらどら……あっ、オイラか!」と大ボケしていたのかもしれない。w また、長崎では大田南畝筆とされる詩歌短冊や書物が市中に出まわっていたが、弟にあてた書簡では「偽物多く候 此度鑑定致候」と、長崎人が持ち寄る作品がホンモノかどうか、みずから鑑定会まで開いていた様子がうかがわれておもしろい。
 さて、日本に初めてコーヒーがもたらされたのは17世紀の元禄時代といわれるので、それを淹れて飲んだのは大田南畝が初めてではないだろう。彼は「カウヒイ」を飲んでその風味の記録を残しているが、それ以前にも、長崎の出島に出入りしていた日本人たちは、オランダ人からコーヒーをふるまわれていたにちがいない。なぜなら、当時はオランダの欧文呼称ではなく、コーヒーにはすでに「なんばんちゃ」あるいは「唐茶」という和名がついていたからだ。その味わいの記録が残されていないのは残念だが、大田南畝とたいしてちがわない感想だったのかもしれない。
 初めてコーヒーという語音を記録したのは、1782年(天明2)にオランダの本を翻訳した蘭学者・志筑忠雄の『萬国管窺』といわれている。カタカナで、「阿蘭陀の常に服するコツヒイといふものは形豆の如くなれども実は木の実なり」と書かれているが、文献知識のみで現物は一度も見たことがなかったのではないか。また、オランダの百科事典を蘭学者たちが幕府の指示で訳した『紅毛本草』下巻に所収の、「阿蘭陀海上薬品記」にもコーヒーに関する詳細な記述が見られるが、これも文献知識の域を出ていないのだろう。コーヒーの木の栽培や種子にあたる豆について、あるいは飲み方などの詳しい記述があるが、「薬品記」とあるようにコーヒーを嗜好飲料ではなく薬物だととらえて記述している。
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 大田南畝の「カウヒイ」以前に、確実にコーヒーを味わっているとみられるのは、1790年(寛政2)と1795年(同4)の二度にわたり、都合3年間も長崎に滞在していた広川獬(かい)だと思われる。彼は京の医師だが、1803年(寛政12)にその経験をまとめた『長崎聞見録』を出版している。同書の第5巻に、コーヒー豆やコーヒーポットなどのイラストとともに「かうひい」が紹介されている。
 広川は、おそらく飲んでいるにちがいないが、医師らしく「かうひい」を薬品としてとらえ、効能として「其効稗を運化し。留飲を消し気を降す。よく小便を通じ。胸痺を快くす。是れを以て。平胃散。茯苓飲等に加入して其効あるものなり」と記載している。これは、自身が実際に試飲して効用を身体で確認しているとみられるが、かんじんの風味については記録していない。わたしも、日ごろからコーヒーを常飲しているが、確かに利尿作用があって気分がスッキリし、消化器系の働きを助け調子を整えてくれるようだ。
 コーヒーの和語については、先にあげた「なんばんちゃ」や「唐茶」のほかに、「紅闘比伊」や「波无」、「保宇」、「比由无ナ那阿」などの漢字が、オランダの百科事典を訳した『紅毛本草』では当てはめられている。だが、コーヒーを漢字で「珈琲」と表現するようになったのは、どうやら同書の下巻に収録されている津山藩(現・岡山県)出身の蘭学者、宇田川榕庵による表記が一般化したもののようだ。
 大田南畝(蜀山人)は、「カウヒイ」は口に合わず二度と飲まなかったのかもしれないが、長崎の街はことのほか気に入り、出張中のわずか1年間で5作(計9冊)もの本を著している。1804年(文化元)10月の風邪をひいて病臥中に書いた『百舌の草茎』(全2巻)をはじめ、ほぼ同時期出版の仕事について記した『長崎表御用会計私記』、同年12月の『長崎表御用会計私記』、1805年(文化2)5月の『瓊浦雑綴』(全3巻)、同年9月の「カウヒイ」が登場する『瓊浦又綴』(全2巻)と、ひきもきらずに次々と長崎がテーマの本を執筆していった。
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  四のうみ みなはらからの まじはりも 深紅の浦の 名残つきせじ
 1805年(文化2)10月10日の午前6時ごろ、長崎立山にある官舎(通称「しゃちほこ家舗」)を出て友人たちに見送られ、故郷の江戸をめざして帰路についた際に詠まれた歌だ。

◆写真上:近年はほとんど顔を出さなくなってしまった、某所のJAZZ喫茶にて。
◆写真中上は、大田南畝が出張前の1792年(寛政5)に描かれた円山応挙『長崎港之図』。は、ペーパードリップ式で淹れるコーヒーと炒ったコーヒー豆。
◆写真中下は、1908年(明治41)に吉川弘文館から出版された大田南畝『蜀山人全集巻三』()と、1795年(寛政4)に出版された広川獬『長崎聞見録』()。は、「カウヒイ」を飲んだ感想が記載された『蜀山人全集巻三』のページ。は、イラスト入りで「かうひい」の詳細を紹介した『長崎聞見録』第5巻の当該ページ。
◆写真下は、死後に描かれた大田南畝(蜀山人)の肖像画。は、長崎古版画に描かれた『阿蘭陀船』。は、5月の声を聞くと飲みたくなるアイスコーヒー。

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年を越せない貧乏な刀鍛冶たち。 [気になるエトセトラ]

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 今年も、拙サイトをわざわざ訪問いただきありがとうございました。くれぐれも健康に留意され、よいお年をお迎えください。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

  
 下落合の藤稲荷社Click!には、いつのころからかは不明だが「正宗」Click!の太刀が奉納されていたという江戸期のエピソードが残っている。もちろん、鎌倉期に生きた日本刀の最高峰といわれる相州伝(神奈川の鎌倉で生まれた鍛刀技術の技法)の五郎入道正宗Click!とは思えず、別銘の「正宗」(室町期?)か偽名の可能性が高いが、江戸期には目白不動Click!がその名にちなんでおもに目白(鋼)を使う金工師の崇敬を集めていたように、藤稲荷社はある時期に小鍛冶(刀鍛冶)との縁でもあったのだろうか。
 また、隣りの雑司ヶ谷村の金山には、江戸石堂の流れをくむ石堂一派Click!が住みついて鍛刀していた。江戸期に入ると、後期に鍛えられる一部の新々刀Click!を除き、砂鉄からのタタラ製鉄(大鍛冶)Click!目白(鋼)Click!を精錬する技術は膨大なコストがかかるため廃れるので、雑司ヶ谷の石堂派は金山稲荷周辺の砂鉄が目的ではなかっただろう。今日でも、日本美術刀剣保存協会が主宰する出雲タタラの目白(鋼)は生産量も少なく貴重であり、その配給を受けられる刀鍛冶も限られている。
 目白を精錬するタタラの火男(ひょっとこ)Click!たちも、仕事量に比べて収入が少なく貧乏だったが、刀鍛冶はさらに輪をかけて貧乏だった。毎年11月に行われるフイゴ(鞴)祭りClick!で、近所の子供たちがはやし立てるかけ声が、「♪鍛冶屋の貧乏、鍛冶屋の貧乏、貧乏鍛冶屋!」(江戸期)というのにも、その生活の苦しさがうかがわれる。実際、鍛刀だけでは年が越せず、生活が成り立たない刀鍛冶が大量に生まれ、確実に需要を見こめる鉄製の生活用品や、農機具を製造する「野鍛冶」へと転向する刀鍛冶が多かった。
 江戸期に入ると、戦がほとんど途絶えて刀の需要が激減し、武士が腰に指す刀剣または拵(こしらえ=刀装具)は装飾品あるいは美術品としての価値が急速に高まるようになる。刀鍛冶もマーケティングを全面的に見直すようになり、武家相手の鍛刀から、豊臣政権のように刀剣の所有が禁止されておらず、刀剣趣味や鑑定会趣味をもつおカネ持ちの町人へとターゲットを全面的にシフトしていく。書き入れ(注文帳)が焼けずに保存されていた京都の刀屋では、江戸後期になると顧客の7割が町人だった様子が記録されている。
 2尺(約60.6cm)以上の大刀について、町人は帯刀を禁止されていたが所有するのは“勝手”であり、また2尺以下の脇指ないしは短刀は自由に帯刀することができた。「江戸期に刀を指しているのは武家」……という大きな誤解・錯覚は、おそらく時代劇の影響が多大にあるのだろう。物見遊山や旅行の際、町人たちは護身用に必ず帯刀(2尺以下の脇指)して出かけている。町人文化に根づいた身近な刀剣からは、さまざまな刀剣用語Click!が日常の生活用語として浸透するようになった。
 さて、江戸期には特別に高名な刀工はともかく、ふつうの刀鍛冶は生活苦にあえいでいた。消費ニーズがなければ売り上げはほとんどゼロに近く、相槌(あいづち=目白の折り返し鍛錬の際に向こう槌を打つ助手)さえ雇えずに、たったひとりで鍛刀する鍛冶もいた。その生活を少しでも安定させるために、どこかの藩の専属あるいは契約の刀工=藩工になって、定期的に刀を収めて収入を得る刀鍛冶が多かった。以前にご紹介した荘司箕兵衛(大慶直胤)Click!や娘婿の荘司次郎太郎直勝は、秋元家の上州館林藩と契約して1年のうちで鍛刀した作品の幾振りかを秋元家に納品している。
 刀鍛冶は、基本的にひとりの作業では困難なため、相槌を雇ったり弟子をとったりして作業をすることになる。また、膨大な炭(おもに高温が持続する松炭が好まれた)や薪を消費するため、火床(ほと)の燃料費もバカにならない。それに加えて、硬軟とり混ぜた高価で良質な目白(鋼)や、寺社の解体修理などででる、大昔の砂鉄を製錬した良質な古釘などを購入しなければ作品は造れないので、地金屋からの原材料費の調達にも終始腐心していた。
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 江戸前期の高名な刀工に長曾祢興里入道虎徹Click!がいるが、寺社の解体修理などで不要になった良質な古鉄(こてつ)を用いて作刀することから、刀銘に「虎徹」と切るようになる。これらの経費を捻出するため、自身が理想とする作刀とは異なる、意にそぐわない注文打ちにも対応しなければならなかった。江戸期に生きた、そんな生活苦にあえぐ貧乏な刀鍛冶のエピソードが、現代まで数多く伝えられている。
 相州(鎌倉)住の廣光は、江戸期を代表する相州伝直系の刀工のひとりだが、弟子たちへなかなか給料が払えずに苦労している。そこで、弟子たちが稽古のために鍛えた“練習刀”をもってこさせ、その茎(なかご)に「廣光」の銘を切って刀屋へ卸し、なんとか年を越せるカネを捻出している。したがって、廣光なのに明らかに出来の悪い作品は、実は彼の作刀ではない可能性が高いのだが、これは商売のうえでも詐欺にはあたらない。刀屋も見る目があるので、明らかに刀匠自身の作ではないと知りつつもあえて引き取っているとみられる。人気のある刀工は、たとえ当人の作でなくとも「廣光工房」の作品として十分に販売価値があり、リーズナブルな価格に設定することで商売が成り立ったからだ。
 作刀の名人であり藩工もつとめていたが、あまりにも貧乏なので藩に願いでて当時の「非人小屋」(無料宿泊救済施療所のようなシェルター施設)に収容してもらい、そこで作刀をつづけた加賀藩の6代目・清光のようなケースもある。目白(鋼)や薪炭などを藩から支給してもらい、なんとか飢えずに作刀をつづけられたが、自身でも「非人清光」あるいは「乞食清光」を名のるようになる。加賀百万石の藩工であるにもかかわらず、満足に生活できないことへの痛烈な皮肉や批判が、その行動や刀銘にはこめられているような「非人清光」だが、その作品の出来は非常に優れており、沖田総司の愛刀としてもよく知られている。
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 幕末に生きた新々刀の巨匠、新宿区が地元で「四谷正宗」の異名をとるいまや人気No.1の山浦(源)清麿は藩工にならず、源清麿ファンの刀屋や町人、武家たちから出資してもらった「武器講」を生活の糧にして作刀していた。だが、講の資金をすべて生活費や酒代でつかいはたし、大江戸(おえど)から夜逃げをして“蒸発”している。
 にもかかわらず、もともと憎めない性格や容姿をしていたらしく、しばらくすると江戸へともどり、再び武器講へ出資してもらって作刀をつづけている。いま風にいえばイケメンだったらしく、生活に困窮すると近所にある商家のお内儀(かみ)さんたちのもとへ顔をだし、「ちょいと一万石貸してくださいな」「百文さね。頼むよ」と訪ね歩いたという。1854年(安政元)に自刃するまで、困窮生活はつづいていただろう。
 源清磨の弟子であり名工の栗原信秀も、しじゅう生活苦にあえいでいたひとりだ。信秀はカネがなく薪が買えなくなると、邸内の食膳など木製の調度品をたたき壊しては、竈や火床の火点けに利用していた。また、越後の弥彦社から鋼製の神鏡制作を依頼され、前渡し金として制作費の半金をもらったが、制作をはじめる前にすべて生活費につかいはたしてしまった。いざ仕事という段になって、どうしても目白(鋼)を購入するカネを工面することができず、地金屋に泣きついて材料を前借りしている。
 江戸期の刀鍛冶は、弟子入りを希望する若者が工房に現れると、まっ先に「刀鍛冶は貧乏だ。カネが欲しけりゃ商人になれ」と諭して追い返していた。事実、刀鍛冶で一生を貧乏のまま終えるのであれば、商人になって日々地道に稼いだほうが、よほど楽でマシな暮らしができたのだろう。新刀時代がスタートする室町期以前(刀剣美術史の時代区分に安土桃山時代は存在しない)の古刀時代のように、刀が鍛造するそばから売れていた時代はとうの昔話となり、また実際の戦闘では大砲(おおづつ)や鉄砲など火器の重要性が増すにつれ、武器としての刀剣の比重は時代をへるごとに低下していった。
 同時に、武家や町人を問わず、刀剣や刀装具の作品を美術的に鑑賞する“趣味”が拡がり、名刀やそれにまつわる物語を書いた本が出版されたり、美術的に優れた当時の刀工や人気刀工の作品を紹介する本などが売れるようになった。また、刀剣コレクションも武家・町人を問わず当たり前のようになり、刀剣の折り紙つき(鑑定書)を発行する専門職までが流行るようになる。江戸の街中や武家屋敷では、茎(なかご)の銘を隠して刀工を当てるブラインドテスト=鑑定会が、武家や町人が入り混じって開催されるようになった。
 つまり、よほどの名工か有名刀工、人気刀工、給与を保証してくれる藩工でなければ生き残れない、非常にシビアなマーケットが形成されていたのが江戸期であり、一般的な刀工は貧乏にあえぐか、鍛錬技術を活かせる別の職業への転職を考えざるをえなかった。
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 江戸の後期、砂鉄のタタラによる目白(鋼)復興を唱えた新々刀の刀匠・水心子正秀は、「刀剣は変に臨んで身命決断の重器なり」と書いているが、幕末に起きた「変」で威力を発揮したのは、もはや刀剣ではなく最新式の圧倒的な銃火器の導入による戦闘だった。

◆写真上:皮金・芯金・刃金・棟金など、多種多様な目白(鋼)を組み合わせて鍛錬する。
◆写真中上は、日本美術刀剣保存協会(日刀保)が主宰する出雲タタラ(島根県)の目白(鋼)で鍛えられた現代刀の茎。は、のたれ気味の刃文に銀砂を散らしたような荒錵(あらにえ)や砂流し、ときに金筋銀筋が見られる美しい相州伝の鍛錬技法。は、1688年(貞享5)に描かれた『正月揃』に収録された刀鍛冶の正月仕事始め。
◆写真中下は、文化年間に鍬形蕙斎(北尾政美)によって描かれた浮世絵『職人尽絵詞』の刀鍛冶。は、江戸後期に描かれた『名誉職人画之内』の「岡崎五郎【政】宗」。鎌倉の五郎入道正宗がどのように鍛刀していたかはまったく不明で、後世にすべて想像によって描かれたもの。は、鎌倉の本覚寺にある「五郎入道正宗墓」だが、小田原(後北条)帰りの相州伝・綱廣一派が後世になって建立した供養塔だろう。
◆写真下は、新々刀を代表する水心子正秀の茎銘。は、浅草本然寺にある荘司美濃介(大慶)直胤(箕兵衛)と娘婿の荘司直勝(次郎太郎)の墓で、江戸後期を代表する大江戸の刀匠。は、「刀女子」の圧倒的な人気をさらう幕末の源清麿が鍛造した相州伝作品の茎銘。新宿が地元の「四谷正宗」=源清麿の企画展を、作品を中心に新宿歴史博物館あたりで開催すれば、おそらく関東一円の「刀女子」たちが参集するだろう。いまでこそ「刀女子」と呼ばれているが、20年ほど前から都内で開かれた刀剣展に出かけると、やたら若い女性の姿が目立っていた。刀剣は総合芸術といわれ、美しい刀身ばかりでなく拵え(こしらえ=刀装具)の精緻な金工・木工・漆芸・織物・組紐などの伝統工芸や細工にも惹かれるのだろう。

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高田町を訪ね歩いた感想文1925。(下) [気になるエトセトラ]

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 『我が住む町』Click!の巻末に収録された膨大な感想文Click!は、当然のことながら学年が上がるにつれて長文が多くなる。特にプロジェクトを企画した高等科の学生たち(19歳前後)の文章は、感想文というよりも調査後の総括文のような内容が多い。また、最高学年にあたる高等科2年生の文章は4名ぶんしか掲載されておらず、他の学生たちは「貧乏線」Click!「衛生環境」Click!の統計調査の処理や、集計後の論文(本文)執筆に忙しく、巻末の文章にまでは手がまわらなかったのだろう。
 前回と同様に、とてもすべての文章を紹介することはできないので、今回も代表的な感想文の一部を引用してみよう。まずは、本科4年生から。
  
 相当立派な構へのお家でもすぐ主人自ら出ていらしつて心よく(ママ)応対して下さつた所も多くありました。なんでも女中を通じての家はほんとに厄介でした。一事毎に中へ聞きに入るのでこちらも面倒だし、あたらにもお気の毒に思ひました。ちやんと分つてゐるのに、留守だと言はせる家もありました。こういふ家よりも労働してゐる方たちの方は、矢張り初めはこちらの心が通じないので変な顔をしてゐますけれど、分つてくると一生懸命に聞かないことまでも話して呉れます。只もう少し常識と礼儀とかあつて欲しいと思ひました。(本四 菅谷美恵子)
 「頼まれもしないのに御苦労様」と冷めたい目で言つた方がありました。さう云ふ時怒つてはならないと云ふのは、私等の約束でしたので、落ち付(ママ)いて思ひました。私は忍びました。冷めたい打算的な気持で出来る仕事ではない。人から強制されて出来る仕事ではない。唯自分自身したいと云ふ心だけで出来る仕事だと。(本四 宇佐川せつ子)
  
 「もう少し常識と礼儀とかあつて欲しい」人たちとは、おそらく当時の職工の家庭で、彼女たちの調査に主人がいろいろ親切に応対してはくれるものの、いつか女性専用車両の記事に登場した鬼瓦権蔵さんClick!のように、「よっ、ねえちゃん、ハイカラなべべだねい」とか「チョーサ終わったらよ、上がって一杯いこ、よっ、ねえちゃん!」とか、そのたぐいの“気さく”な家ではないかと思われるのだが。w
 中には、海外の衛生環境を知る主人が出てきて、彼女たちにその様子をわかりやすく具体的に解説しながら、衛生設備の改良をぜひ町役場に強くアピールしてほしいと依頼する家庭もあった。おそらく学者か、海外を視察したことのある企業家だったようで、ひょっとすると“電気の家”の山本忠興邸Click!の北隣りにあたる、高田町千登世1番地に住んでいたあめりか屋Click!の技師長・山本拙郎邸Click!だったかもしれない。
 次に、予科の女学生たちの感想を聞いてみよう。予科は、自由学園の本科出身ではなく、通常の女学校(4年間)を卒業してから、高等科(2年間)に進むための教養課程のようなコースで、尋常高等小学校+女学校で、すでに17歳前後の女子たちが多かった。彼女たちが高等科を卒業するころは、20歳を迎える女学生もいただろう。
  
 唯一軒どうしても答へて下さいませんでしたので、悪いとは知りながらも、謙遜な態度をすることが出来なかつたことを、今考て、ほんとうに残念に思つて居ります。少しでも忍耐することが未だ出来ない自分を今更の様に恥しく思ひます。/その外には真剣に親切な謙遜の態度で朝から晩まで働き通し得たのは本当に不思議な位でした。一軒毎に自分の態度言葉が洗練されてゆくのが目に見えて嬉しく心強く感じました。(予科 杉本泰子)
 調査の日は寒い路の悪い日でした。あの日をふり返つてみると、第一にきたない路をこねて歩いた事が思ひ出されます。それ程私達は路の悪いのになやまされました。然しあの二日は私達にとつてはよい勉強の日でした。大きい実社会の仕事にはじめてふれた時、学校で習つて居る事がどんなに役立つかと云ふ事を深く思はされました。(予科 村瀬春子)
  
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 道路の悪さや調査日の悪天候は、これまでも『我が住む町』のレポート記述の随所に出てきているが、1925年(大正14)2月26日(木)と27日(金)は、東京中央気象台の記録によれば「曇り」と「雪」なので、当時は地面がむき出しの路面はグチャグチャだったろう。気象台のある市街地では「曇り」と「雪」だが、高田町は両日とも雨もよいの日だったらしい。特に、高田町の南側には目白崖線があり、その急坂を上り下りするのはたいへんだったにちがいない。転んで泥だらけになった女学生も、何人かいたかもしれない。
 当時の東京は、市街地(東京15区Click!)はともかく、郡部では舗装されている道路がきわめて少なかった。いまだ砂利や砂を撒いて、滑り止めやぬかるみ除けにしたり、幹線道路には石炭がらを撒いて固め、水を吸収するイギリスの方式をまねた「炭糟道」Click!と呼ばれる簡易舗装は行われていたが、住宅街の中に敷かれた三間道路や二間道路は土面がむき出しのままだった。
 ひと雨降れば、平地の道路なら靴を取られるClick!ほどのぬかるみになり、大雨の坂道なら水が滝のように流れ落ちた。道路わきにある側溝(ドブ)が雨であふれると、汚水が道路まで拡がるのも、高田町を縦横に調査する女学生たちを悩ませたにちがいない。当時は、玄関先に靴洗い場Click!を設置している邸も少なくなかった。
 つづけて、高等科1年生による取材の様子を聞いてみよう。
  
 或る炭屋のおかみさんは、眼のとげとげした本当に恐ろしい顔をした人で、始めは一と言二た言こちらが言つても何とも云はずに頭の上から足の先までじろじろ眺めてゐた時には、私の弱い心は何だかいやないやな気になりましたが、又勇気をだして、色々丁寧に幾度も幾度もたずねたずねたので、だんだん心がとけたらしく、しまひにはよけいな事まで丁寧に話して呉れる様になり、すつかり始めとは様子が変つてしまひました。(高一 相良淑子)
 大抵のお家は、ちやんと気持のいゝ返事をして下さいましたが、唯一軒だけ、可なり立派そうなお家で、気を悪くさせられました。その時もう少しで私は自由学園の学生らしい態度を失ひかけました。色んな事にすぐ破裂しそうになる私には、小さい事ですけれど我慢すると云ふ事のいゝ勉強だつたと思ひます。(高一 林始子)
 直接社会の仕事にあたつて見ると、段々自分が忍耐強くなれて行くと云ふことを感じて本当に嬉しく思ひます。前には意地の悪い人にあつたり、また人に侮辱されたりすると、怒つてしまふ自分であつたのに、忍耐して、お互ひに解り合ふまでつとめて行きたいと思ふやうになりました。(高一 安東千鶴子)
  
 おそらく、わたしは女学生たちよりも、はるかに短気で忍耐力がないだろう。
 わたしは、彼女たちのようにキリスト教的な思想や倫理観は持ちあわせていないので、もし「気を悪くさせられ」ることがあったりすれば、彼女たちも文中で書いている「左の頬を打たれると右の頬を差しだす」どころか、相手の左右の頬を打ち返す以上のダメージを与える報復権を留保し、機会があれば即座に実行するか、機会を自ら進んでつくろうとするだろう。わたしには、当時の高田町の社会調査にはおそらく参加できそうにない。w
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 林さんが、別のところでホンネを書いているように、社会調査に参加することについて「何だか嫌だつたのです。一昨年の蒲団デーで蒲団を集めた時の事を思ふと」と、関東大震災Click!時に展開した被災者支援のボランティア活動Click!でも、高田町内でイヤな思いを味わっていたようなのだ。
 同様に、「自分の我儘を全く捨てなければ出来ないこのお仕事は、二日間の教場の授業よりも、私のやうなものゝ生命の本当に成長して行く上に大事なお仕事であつたと思ひます」(高一 横田のり子)と書くように、自我を滅却し広いキャパシティのある鷹揚な心を鍛える、ほとんど“悟り”に近い精神力を獲得するための、修練あるいは修業のような2日間だったのかもしれない。
 最後に、卒業を目前にした高等科2年生の感想を引用してみよう。
  
 調査のことをきめる前に、一万にも近い高田町全体を、一軒一軒戸別訪問して面倒なことを聞いたりすることが出来るだらうか、モツトたやすい仕事を擇んだ方がよくはないか、そんな心配はしながらも、かう云ふ必要な調査が、町役場にも警察署にも、まだないと云ふことを聞いて、力一つぱいやつて見る気になつた。調査に出かける一週間位前からは、毎日全体講堂に集つて、説明したり質問したりして、色々に研究し相談をした。少ない人数で考へてゐるよりも、大勢になればなる程又沢山のよい考へが出るものだと云ふことを学んだ。(高二 山脇登志子)
 一度も怒鳴られず、却つてどこへ行つても御礼を云はれ、ほんとうに、恐縮してしまひました。怒鳴られた方々もあつた様でしたけれど、聞く方の人の態度も十分でなかつたのではないでせうか。(高二 奥村數子)
  
 山脇さんは商店レポートで乾物屋Click!を、奥村さんは菓子屋Click!を担当している。奥村さんの「一度も怒鳴られず」は、女学生の多くがイヤな思いを感想文に書いていることを考慮すれば、非常に幸運でまれなケースだろう。自由学園の町勢調査だと聞くと、なぜか顔色を変えて怒りだす住民がけっこういたらしい。社会調査について、なにか大きな勘ちがいをしている家庭か、もともと女子の自立や「職業婦人」をめざす同学園の教育方針を、快く思ってはいない住民たちだったのかもしれない。
 「だけどあの(床屋の)主人のことを思ふと馬鹿らしいと思ひながら腹が立つた」(高二 渡邊みき)と、自身の素直な想いをそのまま綴る彼女たちの文章に惹かれるのは、自分の考えや感じたことを率直に、宗教の教義による妙なオブラートに包んで自己規制せず、また、なにものからも検閲を受けずに表現できることこそ、「自由」なのだと感じるからだろう。
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 もちろん、「ウェ~イ、好き勝手書きゃがって、てめ~出てこい! コノヤロー!」と、どこか泉谷しげる似の床屋が、酒臭い息で学園に怒鳴りこんできたら、「コノヤローとはなんです、腹が立つのはこちらですの! だいたい、わたくしは野郎じゃないわ。おとついいらっしゃい、このナマズヒゲの大べらぼう*の床屋いらずのハゲ頭!」とケンカを買う責任は、羽仁夫妻はさておき、「自由」な表現をした渡邊さんにはついてまわるのだが。w
 *おおべらぼう:東京地方の方言で、この場合はばか野郎を上まわる救いようのない「大ばか野郎」の意。
                                  <了>

◆写真上:敗戦直後の1947年(昭和22)に、米軍のF13Click!から爆撃効果測定用に撮影された自由学園。旧・高田町の上屋敷界隈は、戦災の延焼からまぬがれている。
◆写真中・下:同様に、F13によって撮影された旧・高田町界隈。

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