SSブログ
気になるエトセトラ ブログトップ
前の5件 | -

福沢諭吉の幽霊は乃木希典に猛抗議したか。 [気になるエトセトラ]

乃木館.JPG
 以前、華族女学校Click!(のち学習院女子部Click!女子学習院Click!)の卒業生で、女優になった山川浦路Click!をご紹介していた。報知新聞の記者だった磯村春子が、同紙に連載していた「今の女」のインタビューに答えたものだが、帝劇で上演されるシェークスピア劇に出演していた彼女を、院長の乃木希典Click!は「河原乞食」と蔑んだ。
 院長の言葉を聞いた、山川浦路の同窓生だったお姫様(ひいさま)たちは、彼女を同窓会以外の集まりから締めだし、学校関連の催しすべてに出入禁止を通達する嫌がらせを行っている。また、同窓会へ出席する場合には、髪型(日本髪)やコスチューム(和装)にまで細かな注文をつけるという、いわば卒業生たちからの絶縁状を受けとった。ちなみに、山川浦路は新劇の女優なのでふだんから洋装であり、髪はうしろで束ねて巻きあげるかポニーテールのように背中へたらした、いわば今日的な装いだった。
 当時、日本における新しい演劇創造の先端を走っていた早大の大隈重信Click!が、乃木希典が口にした「河原乞食」というワードを聞いたら「きさま、なんばいうか!」と、学習院へ怒鳴りこんだかもしれないと書いたが、今回は同じく乃木希典のいる目白の院長館へ、大隈重信よりは一見穏やかそうだが軽蔑の眼差しを向けながら、「あんた、何ゆうてるんや!」とさっそくクレームを入れにいきそうな事件が起きている。今回のクレーマーになりそうなのは、残念ながら1901年(明治34)にすでに他界していた、時事新報社の社主で慶應義塾の塾長・福沢諭吉Click!(の幽霊)だ。
 1907年(明治40)に、時事新報社はシカゴ・トリビューン社からの呼びかけに応じて、同社が企画していた「世界美人写真競争」へ参加することになった。今日の「ミス・ワールド」や「ミス・ユニバース」のひな型のような催しだが、当時は本人が出席して舞台に立つことはなく、また水着審査などももちろんなく、未婚や既婚を問わない写真応募のみによる審査だった。しかも、条件としては“美”を職業にしているプロの芸者や女優、モデルなどは応募できず、あくまでも素人でアマチュアの一般女性が対象だった。そして、写真館で撮影されるような鮮明な画像が応募条件だった。
 今日のように、なぜ女だけに「美人コンテスト」があって男にはないの?……というような、フェミニズム的な問題意識の視座は存在せず、他の国々ではむしろ「世界美人写真競争」で有名になり、より有利な職業やポジション、あるいは結婚を実現できる可能性を考え、女性たちが積極的に応募するような時代のイベントだった。当時の新聞を参照すると、応募者は地元の米国を中心にヨーロッパ各国にまでまたがっている。
 日本で写真審査を担当したのは、岡田三郎助Click!(洋画家)をはじめ嶋崎柳塢(日本画家)、高村光雲Click!(彫刻家)、新海武太郎(彫刻家)、三宅秀(医師)、三島通良(医師)、坪井正五郎Click!(人類学者)、中村芝翫Click!(歌舞伎役者)、河合武雄Click!(新派役者)、大築千里(写真家)、前川謙三(写真技師)、高橋義雄Click!(美術鑑定家)、前田不二三(容貌研究家)の男ばかり13名だった。美術関係者が審査員になるのはなんとなくわかるが、考古学者で人類学者の坪井正五郎とか、動きや所作を見るわけでもないのに歌舞伎役者や新派の俳優たち、頭蓋骨の形質でも観察するのか医療関係者たち、はては写真家や写真技師にいたっては「世界美人写真競争」とどのような関係があるのか不明だ。ひょっとすると、写真の修正や加工の小細工を警戒したのかもしれないが。
 応募条件の写真館撮影や、審査員に写真家あるいは写真技師が混じっていたことで、すでに混乱の原因はこのときからはじまっていたといえるだろう。お気づきの方もいると思うが、この「世界美人写真競争」に応募してみようと思ったのは、当の女性本人ばかりでなく、写真館の主人が自分の撮影した作品で応募できると勘ちがいしてしまったのだ。したがって、本人はまったく知らず、当人の応募意志とは関わりのないところで、「美人」たちの写真が時事新報社へ集まることになってしまった。
 時事新報社に集合した、審査員たちによる「美人」審査は1年がかりで進み、1908年(明治41)3月5日の時事新報には、1等の応募写真入りで審査結果が発表された。
  
 時事新報社の募集美人写真/一等は末弘ヒロ子/美人写真第二次審査の結果
 去月二十九日の第二次即ち最終審査において、全国第三等まで当選したる美人写真は左の三名にして、愈々そのまゝ確定したるにつき、こゝに写真募集に参同せられたる全国各新聞社の尽力を謝すると同時に、諸者諸子に披露することゝせり/小倉市室町四十二 直方 四女 一等 末弘ヒロ子(十六)/仙台市東四番町 皈逸 娘 二等 金田ケン子(十九)/宇都宮市上河原町五九 三等 土屋ノブ子(十九)/次に次点者中得点最も多かりし者を挙げれば左の如し/四 三重県飯坂町 尾鹿貞子(廿二)/五 東京市麹町区三番町 武内操子(十七)/六 茨城県水戸市 森田ヨシ子(廿二)/七 東京市日本橋区中洲 鵜野ツユ子(十九)
  
女子学習院卒業写真1905M38.jpg
末弘ヒロ子応募写真.jpg
時事新報19080305.jpg
 1等の末弘ヒロ子自身はもちろん、当時は小倉市長だった父親の末弘直方は驚愕することになる。華族女学校の4年生だった末弘ヒロ子は、あと少しで同校を卒業できる予定だし、市長と同郷で親しかった侯爵・野津家の長男・野津鎮之助との婚約もまとまったばかりだった。乃木希典は、末弘ヒロ子をすかさず退学処分にしている。
 末弘市長は、婚約者の父親で陸軍元帥の野津道貫への釈明と、なぜ娘の写真が時事新報社に送られたのかを調査するために東京へやってきた。事情はすぐに判明する。東京で撮影した末弘ヒロ子のポートレートを、写真館が末弘家には無断で「世界美人写真競争」に応募してしまったのだ。また、旧知の野津家では特に問題にはされておらず(むしろ婚約者も父親もともに喜んでいたようだ)、どうしたら乃木希典の退学処分を撤回させられるかを検討し、立憲政友会の代議士・古賀庸蔵に相談している。古賀は、日露戦争では第二軍司令官として乃木と親しい、陸軍元帥・奥保鞏に仲立ちを依頼することにした。
 こうして、末弘小倉市長と野津元帥、奥元帥に古賀代議士の4人は、乃木希典Click!がいる目白の院長館で直談判を行うが、乃木は「(華族女学校は)美人をつくる学校じゃない」と、本人にまったく責任がないにも関わらず退学処分の撤回をかたくなに拒否した。そのときの様子を、1963年(昭和38)に小倉市が出版した『小倉六十三年小史』から引用しよう。
  
 乃木院長にすれば、二人の息子を日露戦役に喪い身辺とみに寂寥を覚える時、学習院で華族の青少年と起居を共にするのは唯一の慰めであった。然し同じ学習院でも女子部の方は院長としてあまり強い関心を持っていなかった。質実剛健を旨とする武士道を叩きこむには華族少女は不向きな相手である。それにその前年、女子学部長下田歌子の辞職問題があり、皇族、華族間に生まれた選民意識や、女性間の複雑微妙な葛藤や、嫉妬による権謀術策等には弱りきっていたときだから、末弘ヒロ子の美人入選はひどく乃木院長の気に障ったのも無理はなかった。その日、末弘と古賀が野津について彼の邸宅に行くと/「今日は全く悪い日だった、乃木にはヒロ子さんのことよりも、まだ気になることが多すぎるのだ。(以下略)」
  
 下田歌子は、軍人の乃木希典とは女性の自立や自活をめぐって教育方針がまったく噛みあわず、徹底的に対立して当局に辞表をたたきつけた人物だ。
 このあと、末弘小倉市長は娘のヒロ子をともなって小倉へと帰っている。これに黙っていなかったのが、時事新報社をはじめ新聞各紙だった。本人のあずかり知らぬところで応募がなされたうえに、「学習院だからといつて日本一の美人に入選した故を以て退学を命じるとは、まつたくの没義道である」とし、乃木希典を激しく批判している。
応募女性1.jpg 応募女性3.jpg
応募女性2.jpg 応募女性4.jpg
末弘直方.jpg 乃木希典.jpg
 さて、小倉に帰ったふたりは、今度は末弘ヒロ子をひと目でも見ようとする群集に市長官舎を取り囲まれている。また、彼女あてに同性からの激励の手紙が全国からとどいたが、末弘市長によりすべて開封せずに焼却された。彼女が病気だった兄の見舞いに、馬借の小倉市立病院まで外出しようとすると、市長官舎から病院までの沿道に見物人が並んだというから、すさまじい評判ぶりだったようだ。特に京町から常盤橋の広場は、大勢の市民たちで埋めつくされたと『小倉六十三年小史』は伝えている。そして、実際に彼女を見た感想は、「かなり背が低く、少女のようだった」としている。
 翌1909年(明治42)の1月、時事新報社にシカゴ・トリビューン社から連絡が入り、「世界美人写真競争」の審査結果がもたらされた。その知らせによれば、末弘ヒロ子は第6位に入選したとのことだった。以下、コンテストの入選順位は第1位はいわずもがなの米国でマクエライト・フレー嬢、第2位はカナダのバイオレット・フッド嬢、第3位はスウェーデンのゼーン・ランドストーム嬢、第4位はイングランドのアイビー・リリアン・クローズ嬢、第5位はスペインのセーリタ・ドナハース嬢、第6位が日本の末弘ヒロ子嬢、第7位がノルウェーのケート・ホーウィント嬢、第8位がスコットランドのネッケー・チャドック嬢、第9位がアイルランドのダビン・ホワー夫人(既婚)という結果だった。
 その後、末弘ヒロ子と野津鎮之助とは結婚するが、おかしなことにその媒酌人をつとめたのが乃木希典・静子夫妻だった。当時は、学習院内のゴタゴタで気が立ち、いつになく感情的になっていたのが、さすがに自身でも事情をよく斟酌せず退学処分にし、あとから時事新報社のいうとおり「没義道」だとかなり気がとがめていたものか、当時の報道や周囲からの批判で遅まきながら収拾を図りたかったのか、それとも福沢諭吉(の幽霊)が連夜抗議に枕辺を訪れたのかはさだかでないが、乃木希典Click!が仲人の仕事を引き受けるのはめずらしいことだった。のちに、「乃木希典の大岡裁き」などといわれるが、地元・小倉における末弘家の動向や、東京の古賀代議士あるいは野津家などの証言からすると、「大岡裁き」は後世につくられたまったくのフェイク美談だろう。
 大磯の高田保Click!は、『第3ブラリひょうたん』(1951年)にこんなことを書いている。
  
 ミス日本に当選した末弘嬢は、その後間もなく、日露役の司令官将軍だつた野津大将の息子さんの夫人に迎えられたように記憶しているが、今でも健在でいられるかどうか。最近選ばれたミス日本と二人会わせてみたら、この間約半世紀の時代の距たりなどはつきりして面白いだろうとおもうが、どこの雑誌社でもまだやつていない。
  
 ちなみに、1950年度(昭和25年度)の「ミス日本」は山本富士子だった。高田保もまったく勘ちがいをしているが、シカゴ・トリビューンと時事新報が実施した「世界美人写真競争」は、未婚・既婚を問わない世界各国の女性写真による審査で、第9位にアイルランドの代表で既婚者(ホワー夫人)の女性がいるように、未婚者の「ミス」には限定していない。また、末弘ヒロ子は華族女学校在学中から、父親と同郷で親しかった野津家の野津鎮之助と婚約していたのであり、ことさら「ミス日本」に選ばれたから結婚したのでもない。
小倉六十三年小史1963.jpg 物語特ダネ百年史1968表紙.jpg
高田保「第3ブラリひょうたん」1951.jpg 山下洋輔「ドバラダ門」朝日新聞社.jpg
山本富士子.jpg
 戦後、末弘ヒロ子に会った人物がいる。JAZZの山下洋輔Click!(pf)で、彼はヒロ子の姉の末弘直子と結婚した建築家・山下啓次郎の孫にあたる。山下の小説『ドバラダ門』では、腰が曲がりリューマチに罹患していた彼女のことを、ひそかに「カイブツ」と呼んでいた。

◆写真上:学習院大学内に保存されている、乃木希典が起居していた「乃木館」。
◆写真中上は、1905年(明治38)撮影の華族女学校卒業アルバムで軍服姿が乃木希典。は、時事新報社にとどいた末弘ヒロ子のポートレート。は、「世界美人写真競争」の審査結果を伝える1908年(明治41)3月5日刊の時事新報。
◆写真中下は、同コンテストに応募してきた女性4人の肖像。氏名は不詳だが、中には既婚者も含まれていたとみられる。下左は、当時は小倉市長だった末弘直方。下右は、のちになぜか結婚の仲人を引き受ける院長時代の乃木希典。
◆写真下上左は、1963年(昭和38)に出版された『小倉六十三年小史』(小倉市)。上右は、新聞各紙のセンセーショナルな記事を集めて1968年(昭和43)に出版された高田秀二『物語特ダネ百年史』(実業之日本社)。中左は、1951年(昭和26)に出版された高田保『第3ブラリひょうたん』(創元社)。中右は、1990年(平成2)に出版された山下洋輔『ドバラダ門』(朝日新聞社版)。は、1950年度の初代「ミス日本」に選ばれた山本富士子。

読んだ!(23)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

誤った位置にある目黒の化坂(ばけさか)。 [気になるエトセトラ]

目黒化坂1.jpg
 拙ブログをはじめたころ、ずいぶん以前の話になるが、東京方言に残る「バッケ」Click!の語源や地形を調べ、またバッケ坂Click!が「オバケ坂」や「バケ坂」、「幽霊坂」へと転訛(転化)したのではないかという仮説を立てて検証したことがあった。
 下落合(現・中落合/中井含む)と上高田のバッケが原Click!との境界に残る、「バッケ坂」Click!をはじめ、下戸塚(現・早稲田/高田馬場界隈)に昭和初期まで残っていた江戸期からの小名で字名となった「バッケ下」Click!や、目白台に残る「幽霊坂」Click!など目白崖線の斜面沿いはもちろん、大森バッケ(八景)Click!や根津のオバケ階段Click!など、各地に残るバッケの地形について現地を歩きながら検証してきた。
 また、東京の市街地から外れ西部の郊外にかかると、バッケではなく「ハケ」Click!という表現に変わることも、大岡昇平Click!『武蔵野夫人』Click!にからめて何度か記事にしている。バッケやハケは、おしなべて崖地や急峻な斜面を意味する地勢用語であり、関東ロームClick!の下部に位置する露出したシルト層Click!と礫層のすき間から、湧水が噴出するような地層面や地形を指してそう呼んでいる。
 以前、都内に残るそのような地形や地名(小名や坂名など)を調べている際、当然、目黒区に残る「化坂(ばけさか)」にも注目した。ところが、目黒区八雲3丁目にある化坂は、とても急峻な斜面とはいえない緩斜面のダラダラ坂となっており、地形からではなく別の理由から「化坂」というネームがふられたのだろうと解釈して、調べる対象から外した憶えがある。ところが、八雲3丁目に目黒区が建立した「化坂」の碑が、そもそも設置する場所を大きくまちがえているらしいことが判明している。
 現在、「化坂」碑が建つ坂道は、耕地整理のあと昭和初期に拓かれた宅地用の新しい坂道であり、江戸期からつづく本来の化坂から東へ250m前後もズレているのだ。歴史に関するネームを、行政が一度まちがえると再び検証されることなく、エンエンとその誤りが踏襲されていく例は、雑司ヶ谷の金山Click!に小鍛冶工房をかまえた石堂孫左衛門Click!と、『高田町史』Click!や『豊島区史』(1951年版)で誤記された「石堂孫右衛門」Click!の例でも取りあげて書いたが、いまや目黒の地図上でも昭和の宅地造成のときに拓かれた、なんの関係もない新しい坂道が「化坂」と表記されるようになってしまった。おそらく、古くから同地域に住んできた人たちは、下落合における不動谷Click!と同様に、「化坂は、なんで東へいっちゃったんでしょうね?」と不可思議に思っているのだろう。
 さて、「あの土地から私たちが去った後に誤った場所に化坂の区碑が立」てられたと証言するのは、耕地整理後の間もない昭和初期(1936年ごろ)に、当の化坂に土地を購入して住んでいた一家だ。念のため、1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図を、いちおう“ウラ取り”で参照すると、証言者が語る化坂はすぐに見つかるが、「化坂」の区碑が建立されている現「化坂」は周辺の住宅地ともども、いまだ影もかたちも存在していない。
 同家の祖父は、東京帝大法科大学政治学科を卒業したあと、当時の内務大臣だった同じ政治学科卒の後藤文夫Click!による“引き”で内務省に入り、同時に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の夜間部に入学して、謡曲(流派Click!は不明)の勉強をするような人物だった。彼の妻は大分出身で、媒酌をつとめた同じ大分出身の後藤文夫から奨められた結婚相手だった。ここまで書けば、当時の内務省の人脈に詳しい方なら、誰だか特定できてしまうのかもしれないが、いちおう証言者が匿名を望んだのか姓は明かされていないので、とりあえず拙記事でもそれを尊重して踏襲したい。証言しているのは、1967年(昭和42)に生まれた同家の孫娘にあたる「博子」さんだ。
化坂地形図1930.jpg
化坂1936広範.jpg
化坂1936.jpg
化坂1947.jpg
 化坂に住居を決めたのは、博子さんの祖父が内務省の所用で深沢1丁目を訪れたあと、帰りがけに呑川沿いを歩き、しどめ坂の下に差しかかったところ、北側の丘陵地に竹藪と八重桜が満開の森を見つけたことにはじまる。このとき、祖父は自邸を建てる敷地を探しており、南向きの丘上から斜面に咲くみごとな八重桜の樹林を見て、ここに住みたいと考えた。誰の地所か確認しようと、さっそく近くの農家を訪ねている。すると、その農家の主人は「あそこはよしたほうがいいですよ」と忠告した。以下、2020年に竹書房から出版された川奈まり子『実話奇譚 怨色』収録の、「化坂の家」から引用してみよう。
  
 「昔は墓地だったんですから! それに、今じゃすっかり竹藪に隠れていますが、斜めに抜ける細い坂道があって、そこはバケサカっていって、この辺では誰も近づきません。ひとりぼっちでそこを通ると、十中八九、何かに足首をグイッと摑まれて、湧き水に引き込まれるんですよ!/だから私なんかも、子どもの時分から、バケサカにはなるべく行くな、特に絶対に一人で通ってはいけないと言われてきたもんで……」
  
 博子さんが、祖父母や親の世代から、繰り返し聞かされた昔話なのだろう。
 バッケ(崖地)に墓地が拓かれるのは、東京ではめずらしくないことで、下落合の六天坂Click!蘭塔坂(二ノ坂)Click!に沿った位置にも、大正末まで農家の墓地が設置されている。また、目白崖線つづきの小日向のバッケ沿いにも、江戸期から寺町となり急斜面には墓地が形成されている。これはバッケという江戸方言が、もちろん「オバケ」や「幽霊」を連想するからではなく、田畑や宅地にできない急斜面だからこそ、バッケ(坂)の周囲には墓地が形成されやすいのだろう。事実、目黒の「バケサカ」も等高線が密になった急斜面に通う坂道であり、農地として開墾しにくい場所だったのが歴然としている。
 近くの農家の証言にみえる「墓地」は、いまの川崎市にある平間寺(通称:川崎大師)の離れ墓地で、おそらく檀家が目黒近辺に多かったために設置されたとみられる。明治期に入ると、墓地は「魂抜き」して他所へと移転し、博子さんの祖父が土地を購入したころは、井戸がポツンと残る湧水が豊かな地所だった。
 祖父は、合理的な考え方をする人物だったので、農家の主人が語るような怪談を迷信としてまったく信用せず、八重桜が美しく南向きで眺望もすばらしい、バッケ(崖地)に通う化坂の土地をさっそく購入することに決めた。役所で土地の登記簿を調べてみると、確かに農家の主人がいったとおり、川崎大師が地主だということがわかった。
化坂1975.jpg
化坂1979.jpg
目黒化坂2.jpg
目黒化坂3.jpg
 祖父は、川崎大師の僧侶をわざわざ呼びよせて地鎮祭を行っているが、その僧からも墓地跡のいろいろないわれを聞かされたという。いわく、化坂の坂下にある異様な色彩の花が咲くツバキの樹林へ、足を踏み入れてはいけないというのと、残されている井戸を使うぶんには障りはないが、埋めたり掘り返したりするとよくないという僧のアドバイスは、いちおう迷信を笑う祖父の代からも、おおむね家族間では守られてきたらしい。
 祖父が役所を退職し、能楽師として弟子を集めて能舞台を踏むようになった1960年代の後半、つまり博子さんが生まれる1967年(昭和42)ごろから、周辺には住宅が急速に建ち並びはじめている。400坪あった自邸敷地の半分に、国立東京第二病院(現・東京医療センター)に勤める看護師たちの入居を見こんだ、鉄筋コンクリート仕様の賃貸アパートを建設し、つづけて1975年(昭和50)には老朽化した日本家屋を解体し、洋館の自邸を新築することになった。ところが、家のリニューアルにともない、井戸を埋めツバキの樹林を伐採してしまったころから、さまざまな怪異が同家を襲いはじめる……という展開だ。
 怪異の詳細は同書を読んでいただくことにして、もう少し化坂の地形にこだわってみよう。谷間を流れる呑川(のみがわ)の北側につづく丘陵地は、豊かな湧水のせいか地図上では斜面の随所に湧水池らしい水色の池が描かれている。丘陵の下には等高線に沿って農道が通い、ところどころに丘上の街道筋へと抜ける坂道が開拓されている。しどめ坂の道筋もそうだが、化坂も丘上に通う街道筋へと抜けるため、地元の人々に踏みならされた細い山道のひとつだったのだろう。ちなみに、呑川は戦後に暗渠化されて、現在は通りの中央にグリーベルトと遊歩道のある「呑川本流緑道」となっている。
 呑川沿いには水田が拓け、川から離れるにつれて畑が多くなる。丘上もまた畑地だが、傾斜が急なバッケはあまり開墾されず、広葉・針葉樹林の記号が多い。そんな樹林帯を抜け、丘上の街道筋へと抜ける山道(坂道)のことを、江戸期から周辺では特に固有名をつけることなく、一般名称としてのバッケ坂と呼んでいたのだろう。バッケ坂という呼称が先か、平間寺の墓地が先でそこに通う坂道だからそう呼ばれたのかは、厳密には規定できないが(わたしはバッケ坂の呼称が先だと考えている)、それが墓地の存在ともからめていつからか「バケサカ(化坂)」と呼ばれるようになり、地域の小名にも採用されているのではないか。
宮前公園.jpg
バッケ坂.JPG
オバケ坂2006.JPG
 現在でも「く」の字の化坂は、坂の中途まで緑の多い宮前公園があり、宅地開発とともに傾斜角がかなり修正された様子が見える。だが、昭和初期であれば鬱蒼とした樹林におおわれ、緑のトンネルのような風情だったろう。ちょうど、下落合の野鳥の森公園Click!がある急坂が、わたしの学生時代までハイキングコースの山道と見まごうようなバッケ坂(通称「オバケ坂」Click!)だったのと同様に、江戸東京方言であるバッケの意味が通用しなくなった時代のどこかで、「オバケ坂」や「幽霊坂」のケースと同じく、バッケ坂が「化坂」へと表記を変えたように思われるのだ。ただし、目黒の化坂ケースは証言類からすると、ほんとうにお化けが出たため、転訛(転化)がわりと早めに起きているのかもしれないけれど。w

◆写真上:ツバキ林があった、化坂の坂下から「く」の字屈曲部の坂上を眺めた現状。右側は宮前公園で、八雲氷川明神とともに出雲の影Click!が濃い地域だ。
◆写真中上は、ピンボケで恐縮だが1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる本来の化坂の位置と目黒区が「化坂」と誤って規定した坂道の位置。中上は、ちょうど博子さんの祖父が自邸の敷地を決めたころ、1936年(昭和11)の空中写真にみる化坂と田畑だらけだった周辺の様子。中下は、同年の別角度から撮られた空中写真にみる化坂界隈。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる化坂界隈。
◆写真中下中上は、博子さんが生まれたあと1975年(昭和50)と1979年(昭和54)に撮影された空中写真にみる化坂。中下は、化坂中腹から坂上を見上げたところで右手は宮前公園。は、化坂の坂上から坂下を見下ろした現状。
◆写真下は、化坂沿いに設置された夜の宮前公園の緑地。は、下落合(現・中井2丁目)の西端に通うバッケ坂。は、下落合の野鳥の森公園脇に通うオバケ坂(2006年撮影)。
おまけ
 落合地域の周辺に、昭和初期あるいは戦後まで残っていた「バッケ」地名。は、住所表記の字名として残っていた戸塚町(大字)下戸塚(字)バッケ下(現・新宿区西早稲田3丁目)。は、下落合の南あたる戸塚町上戸塚(現・新宿区高田馬場4丁目)に残った「バッケが原」。は、下落合の西側に隣接する中野区上高田に残った「バッケが原」と「バッケ坂」。
下戸塚バッケ下1923.jpg
上戸塚バッケが原1936.jpg
中野区上高田バッケが原1936.jpg

読んだ!(22)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

どこまでホントか小原龍海へのインタビュー。 [気になるエトセトラ]

東久邇宮高輪御殿跡1.JPG
 上落合1丁目482番地の龍海寺は空襲で焼失し、戦後は上落合1丁目230番地に移転した同寺の小原龍海Click!へ、戦後間もない1950年(昭和25)の夏に取材した雑誌があった。同年に漫画社から発行された、「漫画/見る時局雑誌」7月号だ。
 この中で語られていることが、いや多彩な資料類に残され小原龍海の言質として記録されていることが、どこまでが事実でどこからが虚構なのかはまったく不明だ。そもそも、本名としていた小原唯雄さえ偽名だとする長野県松本市小柳町の出身者による証言も残っており、本姓は小原ではなく北陸や信州に多い「海岸(うみぎし)」という苗字だったという。それが、突然「小原」姓になり「華族の養子に入った」と町内に吹聴して歩き、徴兵検査には華族然としたフロックコートを着て現れたという。
 また、松本市郊外にあった真言宗の海岸寺(かいがんじ/廃寺)へ「海岸(うみぎし)」の本姓で乗りこみ、自分は寺の跡とりだと称して無理やり同寺の住職に就いたようだ。そして、同寺に残されていたといわれる古文書には、黄金300枚が境内に埋められていると書かれていたと“発表”し、欲に目がくらんだ村人たちを集めては境内のあちこちを発掘してまわった。もちろん、境内からは黄金など1枚も出てこなかった。そして、1928年(昭和3)に海岸寺を放りだし、1体の観音像を手に東京へとやってきている。
 この観音像については、前回の記事でも触れたように、東京へやってきた当初は「日本橋の入船町で(略)観音さまを拾った」(昭和初期)として、上落合の自宅を改造した「寺院」の祭壇で奉っていたはずだ。ところが、戦後になると「淀橋のある古道具屋でおふくろにすゝめられて廿円で買った観音像が高村光雲さんの鑑定の結果偶然五百年以上のものと分りとたんに坊主になる気になつたんですよ」(1950年)と、まったく異なる証言をしている。「坊主になる気になつた」のは、「海岸」という本姓を根拠に松本市の海岸寺へ乗りこんだときのはずで、別に観音像を手に入れてからではなかったはずだ。
 先述の「漫画/見る時局雑誌」7月号より、小原の証言を少し引用してみよう。
  
 幼少のころ御多分にもれずおふくろの『よしの』が近所の占師にあたしの手相を見て貰つたところ、『太閤様とそつくり寸分違わぬ、天下取りの相じや』といわれて喜んだことゝ云つたら、あたしに何度も何度も繰返しましたよ。当時はもつと可愛らしく自分の口からは何ですが芸術的天分があつたというんでしようか、絵、彫刻、音楽何でも好きで美校か音楽学校へ行きたかつたが松本商業に入つた悲しさ、資格がなく明大専門部商科へ入つて上京しました。そこを卒業してヘルマンエンドアレキサンダー株式会社という羊毛輸入会社の東京支店長となり、次いで自分のちつぽけな会社をつくり社長となつたものです。
  
 どうやら、信州松本には豊臣秀吉の手相を見たことがある占い師が、明治時代まで生きていたようなのだが、ヘルマン&アレキサンダーというドイツの文献学者のような名前を冠した会社も、実際に東京で営業していたかどうかは不明だ。
 その後、元・首相だった伯爵・清浦奎吾の八男である、フランスから留学帰りの清浦末雄(当時は陸軍騎兵少尉)と親しくなり、その家庭へ出入りするうちに同じフランス留学組だった、東久邇宮稔彦(当時は陸軍歩兵第三聯隊長)とも親しくなっていったという経緯のようだ。この3人は、「既存の宗教は大嫌い」「宗教改革が必須」という点で意気投合したといわれ、マルクス主義の書籍まで読みまわしていたらしい。このときから、小原龍海は東久邇宮の邸へ自由に出入りするようになったようだ。
龍海寺跡(戦前)1.JPG
龍海寺跡(戦前)2.JPG
龍海寺跡(戦後).JPG
 二二六事件Click!が起きた1936年(昭和11)の夏、信州の浅間温泉で遊山していた小原龍海は、駒込警察署に詐欺罪と不敬罪の容疑で逮捕された。上落合に龍海寺を建立する計画とともに、有力者たちへ観音像を見せてまわり、東久邇宮をはじめ松井石根(陸軍)、大西瀧治郎Click!(海軍)、山本五十六Click!(海軍)、関屋敏子(声楽家)などから多額の寄付金を集めては生活費や遊興に費やしたという詐欺容疑だった。大西瀧治郎は上落合の近所なので、小原はふだんから訪問していたのかもしれない。
 不敬罪の容疑は、東久邇宮からもらった菊紋入りの衣装を着て、横浜鶴見の総持寺へ出向き、随世式(出家し住職になるための儀式)へ出席したという理由からだった。これら一般刑事犯の摘発・検挙は、特高警察Click!(思想を取り締まる高等警察組織)ではなく、通常は捜査二課が担当する事件のはずだが、小原の証言は戦後になると「特高に逮捕され思想・宗教弾圧を受けた」という話にすりかわっていく。
 上落合へ龍海寺を建てるために集めた資金は、詐欺罪で逮捕されるころにはあらかた消費してしまったらしく、新たに大口の資金源が必要になった。そこで、トンネル工事で莫大な財産を築き、先代からそれを相続していたケンブリッジ大学卒の星野正一に近づき、142万円を寄進させることに成功している。当時の物価指数にもとづき、現代の価値に換算すると42億円ほどに相当する巨額だ。この資金を元手に、小原は「お堂なんてケチ臭い。ひとつ立派な昭和の代表的建築として残るお寺を建てようと決心」して、自宅近所の上落合1丁目482番地に1,000坪の土地を購入し、周辺住民たちの想像をはるかに超えた豪壮な伽藍(18間四方)が建ち並ぶことになった。
 建築材を多めに調達していた小原龍海は、余った部材で建設した住宅を多額の寄付をした星野正一にプレゼントしたが、星野は1939年(昭和14)に召集され海外へ出征したため、空き家になった星野邸を勝手に売却・処分してしまい、そのカネを龍海寺の追加普請費に組みこんでしまった。そこで、1942年(昭和17)に今度は詐欺横領罪で戸塚警察署Click!に再び検挙され、巣鴨拘置所で5ヶ月間も拘留されて有罪となった。だが、1年余の執行猶予がついたため服役はまぬがれている。このとき、曹洞宗の総持寺からも縁切り(破門)をいいわたされている。だが、この事件も戦後のインタビューでは捜査二課による詐欺横領事件ではなく、特高警察による「宗教弾圧」事件にすりかわっていく。
漫画195007漫画社.jpg
龍海寺1947.jpg
東久邇宮高輪御殿跡2.JPG
 この事件をきっかけに、上落合の龍海寺は詐欺師の坊主Click!が建てた寺として、往来から投石を受けるまでになり、小原龍海は本堂の縁側に日本刀をもちだして、前通りを往来する人々を威嚇していたという。戦局の悪化もあり、小原は広大な龍海寺を軍需省に貸して同省の職員寮とし、自分は東京を離れ茨城県笠間町で、徴用学生たちとレンガ製造工場を運営している。そして、敗戦を迎えると首相になった東久邇宮稔彦のもとへ、再び頻繁に出入りするようになった。
 前掲の雑誌「漫画」で小原龍海は、臆面もなく自賛してこんなことをいっている。
  
 『私はリベラリストです。しかも芸術的です。/彫刻は高村光雲に親しく習つて、もう玄人の域に達しているといわれるし、絵は子供の時からやるし、楽器と来たらマンドリン、ギター、チエロ、ピアノ何でもやります。これでどこか柔くこなされている所が態度に出て、之が人に好かれるのでしよう』『それに医学、経済、法律、哲学何でも読むから経済方面が得意でない東久邇氏に何かと相談を受ける、この間も会社の種類を聞かれたところですよ』(中略) 処が彼の敵は、市井の裏町から身を起して高貴な連中に交る立志伝的怪物が誰も身につけている思わせぶりな断片的教養目次的学問、本は最初の一ページと最後の一句だけ読んで、マルクスの資本論だろうがカントの純粋理性批判だろうが言葉の響だけしか知らないくせに、さも精読したかのようにその一節を連ねて絶え間なくしゃべる、あのデイスインテリの一人とコツピドク彼をくさしている。/小原龍海さんが何故身上残したかの秘密は案外こんな所にあるのかも知れない。
  
 戦後は、すでに高村光雲の弟子ということにもなっていたようだが、一度だけ会ったことのある人のことを「師匠」「弟子」「先輩」「後輩」「子分」「同窓」「学友」「親友」「友人」と親しげに表現して相手の警戒心を解き信用させるのは、昔もいまも詐欺師の常套手段であることに変わりはない。「ボクは芸能界の〇〇や映画監督の〇〇と親しいから、今度会ったら口をきいといてやるよ」などと口からでまかせをいいながら、いたいけな少女を騙す事件は現代でもたまに聞く。
漫画195007漫画社コラム.jpg
ひがしくに教総本山.jpg 東久邇宮稔彦1958.jpg
ひがしくに教開教式.jpg
 「禅宗ひがしくに教総本山」の寺兼事務所は、麻布市兵衛町の東久邇宮邸の焼け跡に建設された。ここでも小原龍海は、建設業者への支払いを手形にしてなかなかカネをわたさず、竣工直前にひと悶着を起こしている。建設業者の支店長が、たまたま小原と同郷の松本出身で、彼の前歴や前科をよく知る人物だったため、支払いを受けるまで新築の建物はすべてクギづけして使用禁止にしてしまった。したがって、1950年(昭和25)4月15日の小原龍海から東久邇稔彦への得度式(同教開教式)は、「総本山」では実施することができなかった。

◆写真上:いわゆる「高輪御殿」といわれた、高輪3丁目の広大な東久邇宮邸跡(一部が現・高輪の森公園)で、西武鉄道へ売却後はホテルの施設だらけだ。
◆写真中上は、いまも上落合に残る龍海寺の大谷石による旧境内の築垣。は、山手大空襲で焼け戦後に130mほど北東へ移動した上落合の龍海寺跡。
◆写真中下は、1950年(昭和25)に発刊された「漫画/見る時局雑誌」7月号(漫画社)による小原龍海へのインタビュー記事。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる龍海寺の焼け跡。撮影の角度から、北側には大谷石による高い築垣が見えている。は、高輪の東久邇宮邸の庭園跡とみられるエリアに残る古墳状のふくらみ。
◆写真下は、前掲の「漫画/見る時局雑誌」7月号に掲載されたコラム。中左は、麻布市兵衛町にあった東久邇邸の門に掲げられた「禅宗ひがしくに教総本山」。中右は、1958年(昭和33)に撮影された教祖の東久邇稔彦。は、「ひがしくに教」の得度式(開教式)。
おまけ
 高輪は東側が東京湾に向いたバッケ状の地域で、どこか下落合の地形に似ている。空襲の被害が比較的少なかったせいか、明治期から戦前までの近代建築があちこちに残っている。上から下へ、1924年(大正13)築の西洋館から下っていく高輪の典型的なバッケ階段、ヴォーリズClick!設計の旧・朝吹邸、ロールスロイスが停まっていた旧・竹田宮邸、目の前が交番の旧・高松宮邸、そして1933年(昭和8)築の高輪消防署。
高輪バッケ.JPG
旧朝吹邸.JPG
旧竹田宮邸.JPG
旧高松宮邸.JPG
高輪消防署.JPG

読んだ!(21)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

落合とは反対側の渋谷を描く花沢徳衛。 [気になるエトセトラ]

鳥刺し.jpg
 これまで拙サイトでは、落合地域やその周辺域を流してまわる物売りClick!について、大正期から現代にいたるまであちこちの記事Click!ご紹介Click!してきた。おそらく、伝承されたり記録に残っているのはごく一部のみで、そのほかにも数多くの物売りがふれ歩きしていたのではないかと想像している。今回は、従来の記事に登場してこなかった、東京近郊におけるふれ歩き商売について書いてみたい。
 参照するのは、落合地域と同じ東京郊外の住宅街として発展し、新宿駅をはさみちょうど反対側にあたる渋谷地域における大正期の記録だ。神田生まれで渋谷に育ち、斎藤与里Click!へ師事した洋画家で俳優の、ここは花沢徳衛に登場してもらおう。1987年(昭和62)に新日本出版社から刊行された花沢徳衛『幼き日の街角』から、彼自身の挿画でご紹介したい。同書は、季節を追って正月にはじまり年間を通じて、おもに大正期の渋谷の街角で見られた風俗や、季節の風物詩を追いかける構成になっている。
 花沢徳衛がようやく物心ついたころの渋谷風景を、同書より引用してみよう。
  
 私は一九一一年東京神田の生まれ。「へェ神田ッ児ですか」なんてよくいわれるが、私が物心ついた頃、一家は渋谷に住んでいたから、神田のことはまるで知らない。私は自分の故郷は渋谷だと思っている。しかし現今の渋谷はあまりにも様変りが激しく、故郷として懐かしむよすがもない。そこで、私が幼い頃街角で見かけた風物を、想い出しては描いたのがこの絵本である。/私たち一家が渋谷で住んでいたのは、豊多摩郡と荏原郡の境を流れる三田用水に近い、東京府下豊多摩郡渋谷町大字中渋谷六七六番地(現渋谷区神泉)の地で、少し駅に向って歩けば荒木山(現円山)の色街があり、三田用水を渡って駒場に出れば、輜重兵第一大隊、近衛輜重兵大隊、騎兵第一聯隊と兵隊屋敷が並び、世田谷には砲兵旅団があったから、渋谷は馬と兵隊の通行のはげしい町だった。
  
 花沢徳衛は神田生まれだが記憶がないため、江戸東京の習慣Click!にしたがえば自身のことを「渋谷っ子」と規定していた。彼は「中渋谷676番地(現渋谷区神泉)」と書いているが、同番地は現・渋谷区円山町23番地で、「神泉」は京王井の頭線の最寄りの駅名だ。神泉の谷から、南の丘上に通う道沿いが中渋谷676番地にあたる。もちろん、いまだ神泉駅など存在せず、彼のいう「駅に向って歩けば」は、自宅から道玄坂上にでて電車道を通り、600~700mほどでたどり着ける山手線・渋谷駅のことだ。
 渋谷は落合と同じく豊多摩郡に属しており、ちょうど花沢徳衛が物心つくころの、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)によれば、渋谷の人口は70,057人(16,494戸)であり、同時期の落合は1,292人(237戸)なので、よほど渋谷のほうが郊外住宅地として拓けるのが早く、すでに市街地が形成されていた様子がわかる。だからこそ、多種多様なふれ売りが各地から集合してきたのだろう。ちなみに、新宿駅のある当時の淀橋町は28,812人(6,933戸)で、渋谷のほうが市街地化が早かった様子がわかる。
 さて、正月は江戸の馬鹿囃子(ばかっぱやし)とともに獅子舞いClick!がやってくるのは同じだが、落合地域ではあまり聞かない物売り・ふれ売りをご紹介したい。まるで祭りのような派手な衣装を着た男女が5~6人、家財道具のような荷物を積んだ大八車Click!でやってきて、往来や店先など場所もかまわず、いきなり餅つきをはじめる「粟餅や」が渋谷に現れている。落合地域では聞かないが、親父Click!からは日本橋の昔話とともに聞かされた江戸期からつづく商売だ。その様子を、同書より引用してみよう。
粟餅や.jpg
子どもだまし.jpg
渋谷町中渋谷676.jpg
渋谷裏通り.jpg
  
 (前略)せいろを仕掛けたへっついには火がはいったままで、煙をなびかせてやってきて、営業中の商家の前でもかまわず、総がかりで手早く荷を降ろして店を開く。/店先をふさがれた商家でも、そこは東京市内とちがい郊外の町のこと、一刻店先がにぎやかになっていいや、とばかり平気である。/やがて鳴物入りで歌を唄いながら餅つきがはじまる。見物人が道にあふれ、往来もくそもあったものではない。一商売すますと「おやかましゅう」と一言残して、さっと消えて行く。
  
 この「粟餅や」には子連れもあり、親父の話では子どもたちに派手な服を着せては、音曲にあわせて躍らせるケースもあったようだ。ひょっとすると、東京市内からの転居者も多かった落合町にも、大正後期には姿を見せていたかもしれない。
 「子どもだまし」も、小学校の門前に姿を見せている。香具師(やし)あるいはテキヤと呼ばれる露天商は、わたしの子どものころにもいて校門前に見世を拡げていたが、学校かPTAかは忘れたけれど、「買ってはいけません」というお触れがでたことを記憶している。
  
 小学校の先生のような背広を一着に及び、子どもたちが前に立つと、ペン先がガラスでできた万年筆を一本取り上げ、いきなりあき缶の底にたたき込み、缶の底をガラスペンで穴だらけにしてしまう。次にそのペンで紙にすらすらと丸や直線を書いて見せる。万年筆は子どもたちの憧れの品である。買って帰ると、インクがボタボタ出すぎたり出なかったりで使い物にならなかった。/X光線というのを売る奴がいた。径二センチの長さ一〇センチほどの黒いクロスを張ったボール紙の筒にレンズが付いている。これを使えば何でも透視できるというのだ。買って帰ると、何を見ても外見とはちがうモヤモヤした物が見える。こわして見たら中に鳥の羽根がはいっていた。
  
 「これ、不良品だよ!」と、校門前の「子供だまし」にクレームを入れようとするが、下校時間をすぎればとうにどこかへ消えている。見つけたとしても、「そりゃ悪かった、新しいのをあげる」といって交換するが、間をおかず尻に帆かけて逃亡するのだろう。テキヤと同じで、それでも文句をいおうものなら、「万年筆が5銭で買えるか!」などと開き直ったりするので、子どもたちにとっては興味津々だが怖い対象でもあっただろう。
 渋谷には、市内と同様に角兵衛獅子もやってきたようだ。これも江戸期からの風物詩で、はるばる越後(新潟県)から農閑期に出稼ぎでやってくる人たちだったが、明治以降は専門職として成立していたのだろう。たいがいふたり以上の子どもを連れていて、太鼓にあわせ子どもたちに曲芸のような獅子舞いを踊らせる。
 大正期には、困窮する農村から売られてきた子も多く、親方からアクロバットのような芸をきびしく仕込まれ、悲惨な生活を送る子も少なくなかったにちがいない。食事さえ満足にさせてもらえず、やせ細った子どもたちに同情して見物客は財布のヒモをゆるめるのだが、それが親方のつけ目でもあった。もちろん、子どもたちは小学校へなど通っていない。
角兵衛獅子.jpg
富山の薬売り.jpg
ほうかいや.jpg
消防組.jpg
 渋谷にも、富山の薬売りClick!はやってきている。中には、ツキノワグマの剥製を背負って歩く富山の胆売りもいたようで、子どもたちはもう嬉しくてパニックのような騒ぎになっただろう。子どもたちは、富山から歩いてくるものとばかり思っていたようだが、団体で汽車に乗り東京へ着くと、決められたテリトリーへそれぞれ散開していったらしい。現代の富山の薬売りは、もちろん最寄りの東京支社・支店からやってくる。
  
 「奥州仙台さい川の名産孫太郎虫――」何の薬か分らないが、孫太郎という人が川で死んだ時、遺体にたくさんついていた虫だというのを聞いて気味悪かった。/熊の胆売りは、自分の商品が正真正銘の物であることを印象づけるため、暑さの中をご苦労にも熊の剥製を背負って歩いていた。/特殊構造の天秤棒で細長い薬ダンスを担ぎ、ガチャガチャ、リズミカルな音をたてて歩く定斎やさん。この人たちは決して被り物をかぶらない。この薬を飲んでいれば、決して暑さに負けない、といいたいのである。
  
 東京市内には、官設の消防署があったが郡部の渋谷にはなく、落合地域とまったく同様に鳶職を中心とした消防組Click!が組織されていた。江戸期と同じ印半纏に猫頭巾という姿で、消防ポンプはあったが纏(まとい)もちが先頭をきって走っていた。
 「ほうかいや」も門口にきては、さまざまな芸を見せていたようだ。「ほうかいや(法界屋)」は全国を流浪する旅芸人のことで、演歌師とも呼ばれていたようだが、わたしは見たことがないし知らない。また、落合地域の資料にも記録が見えない。八木節や安来節など有名な民謡を奏でながら、小さな子どもたちに踊らせては駄賃をとる、角兵衛獅子に近い芸人たちだったようだ。楽器も三味線や月琴、胡弓、尺八、太鼓などさまざまで、江戸期から街中にいた新内流しClick!の門づけのような存在だったのだろう。
 新聞の号外売りは、なにか事件があればどこの街でも新聞店から大きな鈴を腰につけて走りでてたろうが、大正期ともなれば宣伝屋もよく姿を見せるようになる。「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」はわたしもすぐに唄えるが、1918年(大正7)ごろにつくられエノケンClick!が浅草で唄って大ヒットした『東京節』Click!だ。親父が風呂場などで口ずさんでいるのを聴いて、いつのまにか自然に憶えたのだが、親父が生まれるかなり以前の曲なので、おそらく祖父母あるいは年長のオトナから教わったのだろう。宣伝広告屋のBGM(客寄せ歌)として、街中ではよく使われていたようだ。
  
 一九二一年初夏のある日、裏長屋に住んでいた九歳の私は、突然表通りから聴こえてくる大音響にビックリして飛び出した。表通りへ出て見ると、それは「ギッチョンチョン」とは全く関係のない化粧品の広告で、馬力とよばれていた荷馬車を大きな箱で擬装し、それに広告文が書かれ、音は箱の上に仕掛けた拡声器から出ていた。
  
 落合地域にも、「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョン」の広告屋がきたかどうかは証言がないので不明だが、大正期に新宿で開店していたカフェ「ブラジル」の広告ビラを、上空から撒いていた飛行機が目白学園Click!校庭に墜落Click!しているほどなので、おそらく「♪パ~リコとバナナでフライフライフラ~イ」もきているのではないか。ちなみに、連れ合いや友人たちに訊いてみたら「♪ギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」と難なく唄えたので、祖父母の世代から広く東京じゅうで唄い継がれてきた曲ではないだろうか。
広告や.jpg
ラオや.jpg
花沢徳衛「幼き日の街角」1987.jpg 花沢徳衛プロフィール.jpg
 上記の『東京節』の動画にも登場するが、渋谷にはラオ屋も頻繁にきている。もっとも、下落合にある飯田高遠堂Click!の前で、わたしはピーーッと蒸気音を景気よく鳴らす小型トラック仕様のラオ屋を見かけているので、いまでも下落合・目白地域にはキセルの愛好者がいるのだろう。渋谷には、幕府の鷹匠の末裔である「鳥刺し」もきているが、幕府鷹狩り場Click!で野鳥も多い御留山Click!のある下落合にも、鳥刺しはやってきているにちがいない。

◆写真上:江戸期に将軍鷹狩り用のタカの生餌を捕まえた幕府鳥刺しは、明治になると野鳥を捕獲して売る小鳥屋へ転職した。以下、挿画はすべて花沢徳衛。
◆写真中上中上は、粟餅屋と子どもだまし。中下は、1911年(明治44)作成の「渋谷町全図」にみる花沢宅位置。は、現在の同番地界隈(画面左)。
◆写真中下中上は、江戸期から街中ではお馴染みの角兵衛獅子と多彩な意匠でやってくる富山の薬売り。中下は、ほうかいや(法界屋)と渋谷町消防組。
◆写真下は、「ギッチョンチョン」の広告屋といまでも見かけるラオ屋。は、1987年(昭和62)出版の花沢徳衛『幼き日の街角』(新日本出版社/)と著者()。
おまけ
 子どものころTVを観ていると職人の親方や大工の棟梁、ガンコな爺さん、老舗の職人、ベテランの刑事などで頻繁に登場した花沢徳衛。かなり歳をとってからのバイプレーヤーの姿しか知らないが、若いころから洋画家をめざしていて個展も何度か開催しているらしい。
花沢徳衛.jpg

読んだ!(20)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

あまりにもあからさまな下練馬地域のフォルム。 [気になるエトセトラ]

平和台1944.jpg
 「濕化味(シツケミ/シゲミ)」Click!の地名音に惹かれて、前回の下練馬地域に残る小名「丸山」Click!を調べているとき、あまりにもあからさまなフォルムを発見して絶句したことがあった。落合地域をはじめ新宿区域にも、古墳地名Click!とともに大きな幾何学模様Click!がいくつか存在することは、過去記事Click!何度Click!も触れてきているとおりだが、これほど明確に古墳の形状が現代まで残されているのは、耕地整理と宅地開発が市街地よりもかなり遅く、戦後になって行われた練馬地域全体の特徴だろうか。
 インターネット上で同地域の情報を調べていると、これらの幾何学的なかたちは昭和期におけるモダンな住宅街の形成テーマとともに語られていることが多い。すなわち、多摩川台(のち田園調布)Click!国立学園都市Click!と同様に、このような円形の、あるいは方形の道路網が整備されたのだろうというとらえ方だ。だが、歴代の空中写真を参照すれば明白だが、これら整った正円や方形の幾何学フォルムは、戦後、同地域で耕地整理が進捗し住宅街が形成される以前、すなわち周辺が田園風景で農家が散在する時代から、田畑の畔や畦道、境界、農道がこのような形状をしていた様子が歴然としている。
 モダン住宅街の特徴は、これら正円(あるいは半円)・方形の中心には鉄道駅や広場があるのが通例だが、下練馬に地下鉄・有楽町線が成増駅まで延長され、氷川台駅や平和台駅が設置されたのは1983年(昭和58)になってからのことだ。しかも、これらの駅は確認できる幾何学フォルムからは大きく外れており、円形や方形の中心はもちろんそれまで田畑→耕地整理→宅地のままだった。むしろ、旧来の田畑の畔や畦道、境界(地形的に段差や窪地が形成されていたとみられる)に沿って、後世に宅地化の道路敷設や宅地造成が進められた結果とみるのが自然だろう。中でも、もっとも典型的な“鍵穴”型をしている、平和台駅に近いフォルムを取りあげてみよう。(冒頭写真) 現在の住所でいうと、平和台4丁目から北町4丁目~7丁目に展開する、巨大な前方後円墳とみられる痕跡だ。
 この一帯(平和台4丁目)は、江戸期の小名では「西本村」「丸久保」と呼ばれた地域であり、近くには「大山」「中ノ台」「庚申塚」「富士山」(北町4~7丁目)などの小名が散在する。この中で、「富士山」は北町の氷川明神社にある富士塚にちなんだ、または富士講Click!が富士登山に向かう街道筋に見られる小名だが、「大山」は大山講の阿夫利社詣での街道筋にふられた小名だろうか? 「大山」や「大塚」は全国に展開する古墳地名の典型例であり、「大山(大仙)古墳」Click!「大山〇号墳」などが各地に存在している。また、「中ノ台」も突起地形を表す小名であり、田畑の中に起立している墳丘を想起させる呼称だ。タタラ集団Click!が奉った「荒神」が、江戸期に流行した庚申信仰Click!で転化したかもしれない、小名「庚申塚」があるのも地域的に興味深い特徴だ。ちなみに、小名「庚申塚」は平和台4丁目(西本村)に現存する庚申塔とは別の存在だ。
 平和台4丁目側、前方後円墳フォルムの東に位置する江戸期からの小名「丸久保」は、円形に窪んだ地形(湧水をともなう)からそう呼ばれていた可能性が高いが、これも古墳の周壕(濠)を感じさせる名称だ。事実、“鍵穴”フォルムの東側には、戦後まで灌漑用水が通っており、また正円形の北西側にも灌漑用水の流路が確認できる。
 平和台駅北側に位置する前方後円墳のフォルムをした畑地だが、全長を計測するとおよそ500mをゆうに超えている。もちろん、500m級の前方後円墳(日本最大となってしまう)があったわけではなく、他の耕地開拓事例と同様に墳丘を崩しその土砂で周壕(濠)を埋め、さらに外周域へ均して整地化Click!していったのだろう。江戸近郊の開拓が盛んに行われ、生産性の向上が急務だった江戸前期の事業だったかもしれない。
 小名「大山」の存在とともに、この地域には「塚」と認識できるレベルではなく、「山」と表現されるような大規模な突起(下落合の摺鉢山Click!のように)があった可能性を否定できない。墳丘が崩されて均され、整地化した農地Click!にされたとはいえ、少なくとも300mを超える前方後円墳を想定するのは、あながちピント外れではなさそうに思う。それほど、地形図や空中写真を参照すると、まるでナスカの地上絵のように、田畑の中に忽然と出現する幾何学形なのだ。
 一帯は、1950年代まではほとんど畑地(一部は田圃)だが、それ以降の時代になると農家以外の家屋が急増して住宅街が形成されている。だが、現在でも同フォルムの周辺には、農地(おもに練馬のダイコン畑)が随所に残っている。江戸期に行われた、大規模な農地開拓の土木工事で古墳の膨らみは跡形もなく、ほとんど平地に均されてしまったとみられるが、ここは実際に現地を歩いて検証してみるに限る。では、さっそく平和台へ出かけてみよう。
平和台1947.jpg
平和台1948.jpg
練馬ダイコン畑.JPG
 平和台駅から北東へ300mほど歩くと、前方後円墳フォルムの南端に当たる東西道(前方部南端)にたどり着くことができる。この前方部の形状の底辺となる、西北西から東南東にのびるほぼ直線の道路はゆうに250mを超えており、これほど規模が大きい古墳だったとみられる痕跡を歩くのは、青山墓地に隣接した南青山ケースClick!や目黒駅東口の森ヶ崎ケースClick!以来かもしれない。中野三谷ケースClick!や新宿駅西口の角筈ケースClick!などが、ひとまわり小さなサイズに感じられるスケールだ。
 前方部から後円部へ地形を確認しながら歩いていくと、江戸期の徹底した土木技術による農地開拓が行われたのだろう、前方部はほとんど平地化されているが、後円部はちょうど環状8号線と補助235号線が交差する正円の中心部あたりから、おもに南側と北側へ明らかに傾斜していることがわかる。つまり、後円部北側の一画は現在、パイの4分の1ピースほどが陸上自衛隊の練馬駐屯地として削られて不明だが、後円部だったとみられる正円部は、中心部の盛りあがっている地形が歴然としている。
 後円部とみられる、二重の円形に道路が敷設された道筋を歩いていると、なんともいえない不思議な気分になってくる。効率のよい道路の敷設や宅地開発なら、必ず直線状に拓かれるべき道筋が、わざわざきれいな正円形に敷かれている。そこに建つ住宅群やアパートも、畑地時代からつづく変形の敷地が多く、それぞれ妙な向きで建設されている。中央にある内側の小さな正円形を、墳丘が崩される以前に存在した本来の後円部のサイズだとしても直径は200mほど、南に延びる前方部を加えれば、やはり全長300mをゆうに超えるサイズの前方後円墳を想定することができる。
 また、外側の大きな正円形の東側=外廓の位置に、同じ曲線の境界(畔)跡を確認できるので、崩された墳丘の土砂は西側よりも、おもに東側へより多く運ばれて周壕(濠)や谷戸(久保・窪地)の埋め立てに使われたのかもしれない。特に後円部の地下は羨道や玄室が存在する位置なので、周囲の公園や庭先に大きめな房州石Click!が、庭石Click!などになって残されていないかどうか気になったが、今回の散策では発見できなかった。
 さらに、前方部の東側、古墳フォルムのほぼ造り出しClick!にあたるような位置に、西本村稲荷社と同御嶽社、それに庚申塔がまとめて配置されているのも気になった。なぜなら、大型古墳の急斜面を活用して古代以降のタタラ集団Click!神奈(鉄穴)流しClick!を行った事蹟かもしれず、稲荷は「鋳成」の庚申は「荒神」への江戸期における転化が疑われるからだ。換言すれば、これらの社(聖域)や塔などの史蹟は、崩される以前の墳丘のどこかに奉られていたものが、江戸期に入り農地開拓とともにこの位置に移され、社や塔への信仰とともに名称も変更された可能性がある。「久保」や「窪」Click!の地名、すなわち湧水源には噴出する地下水とともに砂鉄の堆積場Click!が形成されやすいのも史的事実だ。
丸久保1944.jpg
平和台①.JPG 平和台②.JPG
平和台③.JPG 平和台④.JPG
平和台⑤.JPG 平和台⑥.JPG
平和台⑦.JPG 平和台⑧.JPG
平和台⑨.JPG 平和台⑩.JPG
平和台⑪.JPG 平和台⑫.JPG
平和台⑬.JPG 平和台⑭.JPG
平和台⑮.JPG 平和台⑯.JPG
 さて、地下鉄・平和台駅の北側に位置する前方後円墳のフォルムを、便宜上、西本村古墳(仮)と名づけてみよう。同古墳(仮)だけでなく、古い時代の空中写真から周囲の状況はどうなっていただろうか? 特に、戦後もしばらくしてから宅地開発にともなう道路敷設が進捗する以前、いまだ農地と農家が散在するのみで、一面に広がる田畑の畔や畦道、境界、農道などがあるるだけの、この地域にどのような光景が見えるのだろうか? 戦前の空中写真を年代順に参照すると、その結果は一目瞭然だった。西本村古墳(仮)の周辺には、同じように幾何学的なフォルムだらけだったのだ。
 いまだ、多くの農地が耕地整理も宅地開発も行われていない、陸軍航空隊が撮影した1944年(昭和19)の比較的鮮明な空中写真を参照すると、西本村古墳(仮)の南東側、すなわち氷川台側に大型の円形および方形のかたちを見ることができる。これは、大型の前方後円墳跡とみられるフォルムと同一エリアに、大型の方墳あるいは前方後方墳とみられる痕跡が並列していた、目黒駅東口の上大崎今里ケースClick!に近似している。また、西本村古墳(仮)のすぐ近くにも、やや小さめな正円形のフォルムを確認することができる。これらは、主墳に付属した陪墳の古墳群跡だろうか。
 さらに、西本村古墳(仮)の南には周壕(濠)跡とみられる形状まで残る、やはり前方後円墳のフォルムが明らかに見てとれる。これだけ古墳跡とみられる痕跡が残るエリアでは、ある墳丘を崩して周壕(濠)を埋め立てる際、周壕(濠)域の面積が大きい古墳のケースは、周囲の余った墳丘の土砂もあわせて埋め立てに活用したのかもしれない。
 これらの幾何学フォルムの数々は、氷川台駅から平和台駅の先まで、およそ一辺が2km前後の方形エリアに集中して存在している。関東地方でいえば、100mを超える古墳が密集している埼玉(さきたま)古墳公園、あるいは千葉県の内房線にある青堀駅周辺に集中する50基ほどの大小古墳群に近似した光景といえるだろうか。北武蔵勢力とみられる埼玉(さきたま)古墳群も、千葉県に展開する南武蔵勢力とみられる古墳群も、大規模な農地開拓や宅地開発が行われなかったために、今日までその形状をよく残している史蹟だ。
平和台氷川台1944.jpg
平和台氷川台1947.jpg
西本村稲荷.JPG
西本村庚申塔.JPG
 今日、関東各地の宅地開発が進んでいない地域では、微細な土地の隆起や農地の形状を上空からの熱赤外照射や、X線照射によって観察する空中考古学が盛んだ。特に、群馬県や栃木県では大きな成果をあげており、それまで未発見だった大型古墳や玄室などが次々と発見されている。現代の住宅街の上空から、それらの照射は不可能だが、それに代わるなんらかの観察・分析法が見つからないものか、今後のテクノロジー進化に期待したい。

◆写真上:耕地整理が行われる以前、戦前の1944年(昭和19)に撮影された空中写真にみる下練馬の「西本村」から「丸久保」界隈。北側の陸軍練馬倉庫から拡大された陸軍用地が、後円部の痕跡だったとみられる北側に喰いこんでいる。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる同所のフォルム。陸軍の用地は米軍に接収され、物資の集積場として使用されていたようだ。は、現在でも農地で多く栽培されている練馬のダイコン畑。
◆写真中下:1944年(昭和19)の空中写真と、はその現状を撮影したもの。田畑の境界や畔、畦道、農道などがそのまま住宅道路になっている。戦後の耕地整理の際、あらかじめ幾何学的なフォルムの農地がモダンな形状に見えたディベロッパーが、そのまま道路を敷設して宅地開発を行ったものか。写真は近くに西本村稲荷や庚申塔がある道筋で、墳丘の土砂がおもに東側の埋め立てや整地に使われたとみられる痕跡。
◆写真下は、戦前1944年(昭和19)と戦後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる氷川台から平和台にかけて随所に確認できる幾何学的なフォルム。この時代には、いまだに墳丘の残滓が残る地点があったかもしれない。は、西本村稲荷社と保存された庚申塔。
おまけ1
 同じようなフォルムが展開していた、目黒駅の東側に拡がる上大崎地域。こちらは、前方後円墳や方墳(前方後方墳?)とみられる墳丘の土砂が、江戸期に谷戸や谷間の埋め立て・整地=耕地開拓に使われず、森ヶ崎や今里の形状は後世までそのまま残っていた。
目黒駅東口.jpg
おまけ2
 大型・中型古墳が密集したエリアが、そのまま大規模な公園化された埼玉(さきたま)古墳公園(上)と、内房線・青堀駅(千葉県富津市)の周辺に展開する大小の古墳群(下)。後者の青堀駅は、駅前のグリーンロータリーからして50mほどの前方後円墳(上野塚古墳)であり、内房線線路の南側には周壕(濠)をともなう大型古墳や陪墳などが密集して築造されている。千葉県は出雲圏の鳥取県を抜いて現在、古墳ランキングでは全国2位となっているが、頻繁に発見ニュースを耳にする群馬県は、もうすぐ5位の京都府を抜きそうな勢いだ。けれども、1457年(康正3)に太田道灌が江戸城Click!を築城して以来、農地化と都市化が急速に進んだ江戸東京地方では、その大多数が破壊され農地や家屋の下になってしまったのだろう。
さきたま古墳群.jpg
富津市青堀駅.jpg

読んだ!(24)  コメント(8) 
共通テーマ:地域
前の5件 | - 気になるエトセトラ ブログトップ