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上落合の幸山五左衛門の治療はダメだゾウ。 [気になるエトセトラ]

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 1972年(昭和47)に、中国から上野動物園へパンダがやってきたとき、いまからは想像もつかないほどの行列ができていた。ところが、何度かパンダを見にでかけると飽きるのか、5~6年もすぎれば行列は少なくなり、団体客がくれば少し混雑する動物舎ぐらいの光景になった。いまでは、人気のある他の動物舎と同じぐらいの混みぐあいだろうか。
 同じことが、江戸中期に落合地域の南南西側にあたる中野村とその周辺域で起きていたと思われる。このとき、中野村にいためずらしい動物はアジアゾウ(種類は不明)で、同村をはじめ周辺の住民たちはいくばくかの文銭を払って見物していたのだろう。また、幕府が浜御殿(現・浜離宮公園)で飼育していた時期には、江戸各地の大名屋敷へも連れ歩かれて披露され、また浜御殿へゾウ見物にくる大名や幕臣たちも多かったようだ。
 中野村へ移ってからは本所や両国広小路Click!、浅草など寺社の催事に合わせ見世物小屋Click!(今日の移動動物園に近い)にも出展されたので、江戸の街を歩くゾウの姿は武家や町人を問わず、大騒ぎをするほどにはめずらくなくなっていたかもしれない。ことに、幕府から払い下げられて中野村のゾウ小屋に移ってからは、少しでも飼料代を稼ぐために“入園料”をとって見物させていたとみられ、ゾウ小屋の周辺地域の住民はもちろん、遠方からもわざわざ見物人が訪れたのだろう。当時は、ゾウの糞を乾燥させて粉にすると「疱瘡除け」の薬になると信じられていたので、江戸の各地には専売薬局まで造られている。九州の長崎から、延々と陸路で江戸へやってきたのはオスのアジアゾウだったが、メスの個体は長崎へ上陸したあとほどなく病死している。
 1728年(享保3)に長崎へ上陸した2頭のアジアゾウは、海外の情勢や文物に関心の高かった徳川吉宗Click!が、清国の商人に発注してベトナムから取り寄せたものだ。来日したゾウが江戸へくるまでの経緯については、詳細な書籍があるのでそちらを参照いただきたい。現在、入手あるいは図書館などで閲覧が可能なものは、 『江戸時代の古文書を読む<享保の改革>』(德川林政史研究所・徳川黎明会Click!/2002年)所収の太田尚宏『享保の渡来象始末記』、「歴博」第89号(国立歴史民俗博物館/1998年)収録の太田尚宏『渡来象の社会史』、和田実『享保十四年、象、江戸へ行く』(岩田書院/2015年)などがある。
 ゾウ小屋があった地元の中野では、『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所/1916年)や『中野町誌』(中野町教育会/1933年)、地元の伝承を集めた『続/中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会/1997年)などに詳しい。ただし、『続/中野の昔話・伝説・世間話』に収録された「昔話」は、口承伝承のためか事実誤認が多い。また、古いところでは神田白竜子『三獣演談』や植村藤三郎『象志』(以上1729年)、古川辰『四神地名録』(1794年)、昌平坂学問所地理局『新編武蔵風土記』(化政年間)、市古夏生『江戸名所図会』(天保年間)などにも享保のゾウに関する記載がある。
 1729年(享保14)5月に江戸へ着いたゾウは、さっそく千代田城Click!に招かれて吉宗をはじめ幕臣たちが見物している。以来12年もの間、浜御殿で飼育されたあと膨大な維持・管理費がかかるため、柏木村の弥兵衛(ほどなく死去)と中野村の源助に払い下げられることになった。経費の多くはゾウの飼育料と人件費だったが、江戸でしばしば発生した大火事などの際に、ゾウが暴れて街中へ逃げだしては危険だとの指摘もあり、幕府では江戸市中から離れた民間の飼育請負人をかなり以前から募集していた。
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 浜御殿でゾウが食べていた、1日分のメニューが記録されている。天保年間に出版された、市古夏生『江戸名所図会』の「明王山宝仙寺」から引用してみよう。
  
 飼料(一日の間に、新菜二百斤、青草百斤、芭蕉二株<根を省く>。大唐米八升、その内四升ほどは粥に焚きて冷やし置きてこれを飼ひ、湯水<一度に二斗ばかり>、あんなし饅頭五十、橙五十、九年母三十。また折節大豆を煮冷やして飼ふことあり。/以下略)
  
 「青草」の中でも好んだのが、角力取草(すもとりぐさ)=スミレの一種だったようで、「大唐米」はインド原産の米粒が細長い外国米、「九年母(くねんぼ)」は東南アジアに自生しているミカンの原種のことだ。また、あんこを入れない饅頭が大好物だったらしい。飼育にはこれらを日々用意して、大唐米や大豆、饅頭はいちいち調理をしなければならず、その手配・手間に必要な人件費には多大な経費がかかっていたのだろう。
 これらの飼料をまかなうために幕府から支給される金銭をごまかして、ゾウには粗末なものしか食べさせない「よろしからぬ者」がいたようで、その飼育人は怒ったゾウに投げ飛ばされて死亡している。ゾウは頭のいい動物なので、飼育人や調教師の性格を見抜くともいわれ、粗末な扱われ方によほど腹を立てていたのだろう。そのときの様子を、1794年(寛政6)に出版された古川辰(古松軒)『四神地名録』から引用してみよう。
  
 名主の物語を聞きしに、象の囲有し所はくるくると堀をほりまはし、象をば鉄の太鎖を以て四足を繋ぎ、外へ出ぬ様にして数多の象つかひ付添て飼置かれし事なり、象つかひの中によろしからぬ者ありて、象に与ふる食物を減じて私す、象かしこきものにして、是を知りて或時大にいかりて、四足の鎖縄を糸をきるよりも安くはねきりて、かの象つかひを鼻にてくるくると巻て投出せしに、十間余も投られし事故に即死す、夫よりあれちらして、眼にかゝる木にても石にても鼻に巻て飛すゆゑに、人々大に恐れて近付くものなし、
  
 中野村の名主が語った、後世の談話として採録されたものだが、1741年(寛保元)正月に浜御殿で起きた事故を、中野村のゾウ小屋での出来事と混同して記憶していたのではないだろうか。この事故のあと、急いでゾウに信頼されている飼育人を呼び寄せ、いつもどおりの好物飼料を与えたところ、ゾウはおとなしくなって再びいうことをきくようになったという。
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 1741年(寛保元)2月に中野村のゾウ小屋が完成し、4月には幕府からゾウが引き渡されている。ゾウ小屋は、幕府の経費で本郷村成願寺の北裏にあたる源助の地所(現・朝日が丘公園あたり)に建てられたというが、地元には朝日が丘公園より西北西へ300mのところ、桃園尋常小学校(現・中野第一小学校)が象小屋の跡地だとする伝承も残っている。ゾウが死んだあと皮は幕府に納められ、肉は樽に塩漬けで保存されたものの腐敗し、その樽を埋めた大塚が桃園尋常小学校あたりのゾウ小屋跡に残っていたという経緯のようだが、この大塚は古代に築造された古墳とゾウ小屋のエピソードとを混同した後世の付会ではないだろうか。もうひとつ、古くから忌み地=禁忌伝承Click!が残るエリアへ、腐敗したゾウの肉樽が埋葬されたという流れの解釈も可能かもしれない。
 ゾウは、払い下げられてから1年8ヶ月後に病気になり、1742年(寛保2)12月に中野村で死亡している。このとき病気の治療にあたったのが、上落合村で馬医(獣医)をしていた幸山五左衛門という人物だが、落合村(町)の資料をひっくり返しても同人の記録は見つからない。もともと漢方を学んだらしく、ふだんは上落合村と周辺域の伝馬や農耕馬などの治療をしていた医師なのだろう。ゾウの治療には、「肩と尾の末に針を打ち、両足の爪の裏へ焼き鉄を当て、粉薬のなかに人参一匁を入れ、蜜柑を饅頭に包んで食べさせた」(『享保十四年、象、江戸へ行く』)とあるが、どれだけ効果があったのかは疑わしい。
 化政年間に昌平坂学問所地理局から刊行された『新編武蔵風土記』によれば、先述のように皮は幕府へ、肉は塩漬けにして60樽を保存、頭と牙と鼻は飼育人の源助と中野村名主の卯右衛門に下賜された。だが、のちに頭と牙と鼻は同村の伊左衛門に譲渡され、さらに1779年(安永8)1月には地元の宝仙寺へと売却されている。
 中野村の源助は、もともと現在の東中野駅近辺の高台に冠木門をかまえた掛茶屋「見はらしや」を経営しており、村内では通称「見はらし源助」と呼ばれていたが、ゾウ小屋を経営するようになると地元では「象の源助」と呼ばれるようになった。特に源助を有名にしたのは、ゾウの糞からつくる疱瘡除け薬「象洞」の製造・販売を、柏木村の弥兵衛と多摩郡押立村の平右衛門の3人ではじめたからだ。
 この源助の子孫である中野町の関谷萬次郎という人物は、1933年(昭和8)現在でも東中野駅近くに在住しており、江戸期の薬局「象洞」の看板を保存していたというが、戦争をはさみ現在では行方不明になっている。江戸期に書かれた医師の加藤玄悦『我衣』によれば、「象洞十六文づゝ売る」とあるので、特別に高額な「薬」ではなく当初から民間療法薬のような位置づけだったのだろう。もちろん、ゾウの糞が疱瘡の予防に効果があるわけもないので、事業は遠からずいき詰まったにちがいない。
 源助の子孫である関谷家は、1990年代まで東中野に店を開いていたようだ。『続/中野の昔話・伝説・世間話』収録の、「宝仙寺と象」の座談から引用してみよう。
  
 源助さんていう人がね、中野で象を飼ってたって、そういう話は年寄りから聞いた。/その源助って人は、関谷さんの家だよ。今、東中野銀座にいますよ。「みはらしや」って。
  
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 源助の子孫が、ゾウ小屋を経営していたころの掛茶屋と同じ「みはらしや」という屋号を継いで、東中野銀座(東中野3丁目)で店舗を経営していたようだ。なんの店舗だったかは調べきれなかったが、いまの東中野銀座通りにある関谷ビルがその跡地にあたるのだろう。

◆写真上:源助が経営していた、掛茶屋「見はらしや」があったとみられる跡地。
◆写真中上は、1729年(享保14)に書かれた植村藤三郎『象志』の表紙()と挿画()。は、『象志』の記述。は、『享保十四年渡来象之図』(国会図書館蔵)。
◆写真中下は、ゾウ小屋があったといわれる成願寺裏の跡地(現・朝日が丘公園)。は、神田白竜子『三獣演談』に挿入されたゾウとゾウつかいの絵。
◆写真下は、古川辰『四神地名録』の表紙()と、『新編武蔵風土記稿』第124巻の「象骨」ページ()。中上は、『四神地名録』に収録されたゾウが怒って「よろしからぬ者」を投げ飛ばして死亡させた記事。中下は、『新編武蔵風土記稿』掲載の「中野村桃園図」。大塚があちこちに記録されており、古墳の忌み地伝承エリアへゾウ肉60樽を埋葬した経緯があったのではないか。は、1729年(享保14)に描かれた鳥居清培(2代)『象』。

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下落合駅と野方駅を描く鳥居敏文。 [気になるエトセトラ]

鳥居敏文「野方駅」19470831.jpg
 5月10日(火)に、拙サイトへの訪問者がのべ2,200万人を超えました。いつも調査不足ぎみの拙い記事をご覧いただき、ほんとうにありがとうございます。
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 敗戦から間もない1947年(昭和22)8月31日、鳥居敏文は西武新宿線の下落合駅Click!と野方駅をスケッチしに訪れている。当時は、空襲でもかろうじて焼けなかった長崎1丁目1番地にアトリエがあったころで、彼はアトリエから徒歩で下落合駅まできて写生し、電車に乗って野方駅で降りると再び写生しているとみられる。
 鳥居敏文が暑いさなか、なぜ下落合や野方を訪れているのかは不明だが、このころに人が集散する「駅」をテーマに、モチーフ探しをしていた気配があり、同年の春に東京都美術館で開かれた第15回独立展には『駅の人々』を出品している。また、同時に毎日新聞社が主催する美術団体連合展にも作品を出展しており、戦後につづく旺盛な創作活動をスタートしはじめていた。ひょっとすると、独立美術協会Click!の画家仲間が同地域に住んでいたため、彼は訪問したついでに駅をスケッチしているのかもしれない。
 野方駅の画面を観ると、戦災を受けていないため駅舎は戦前から変わっていないのがわかる。郵便ポストが駅舎の角に設置されているのも、売店が駅舎の横に付属するのも下落合駅と同じ仕様だが、下落合駅の駅舎が北向きなのに対し、野方駅は南向きなので売店に日除けの幕が下がっている。その売店では、子どもたちがなにかを買っており、駅舎の入口にはうしろ手にバックをもち、人待ちをしている女性が描かれている。
 また、改札では駅員と話す女性がいて、構内の右手には時刻表を見ているらしい人物がとらえられている。駅のネームプレートは、「野方驛/NOGATA STATION」と書かれているが、戦後の簡略字だった「下落合駅」の「駅」とは異なり、戦前からつづく焼け残った駅なので旧字の「野方驛」としたものだろうか。戦後、突貫工事でこしらえたバラック風な下落合駅(まだ駅舎はなく改札施設と呼んだほうがふさわしいかもしれない)とは異なり、野方駅は戦後もコンパクトでモダンな姿をとどめていた。
 1991年(平成3)に出版された『鳥居敏文画集』(鳥居敏文画集刊行会)の中で、新潟市美術館長の林紀一郎は「鳥居敏文の絵画」と題して次のように書いている。
  
 だが鳥居敏文の半世紀を超える歴程を跡づけてみて気付くのは、(特に近年その傾向が顕著に思われるのだが) 風景画だとか、人物画や静物画だとかいった表現のジャンルに拘泥しない、画家自身の自由な絵画的発言が大作の画面を借りて折々に行われていることである。この絵画のメッセージの大いなる特徴は、大画面の空間に人物も風景も静物もそれぞれの造形要素を共生させて、調和と秩序を保っている点にある。鳥居絵画のこの共生がもたらすものは、ロマンティシズムの無言劇である。そしてその舞台に展開する人間のドラマには寓意と象徴が主題化されるのである。
  
 わたしも、戦前戦後を通じた作品には、常になにかを語りたそうな表情をした人物たちが登場し、あえて黙して語らずのように感じていたが、特高Click!から徹底的に弾圧されたプロレタリア美術時代に起因するものかと想定していた。だが、戦後に制作された作品群を通してみると、確かに「無言劇」という言葉がいい得て妙でしっくりくるように思う。
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 1947年(昭和22)の『駅の人々』では、画面に20人前後の人物が登場しており、駅の雑踏を描いているにもかかわらず、どことなく静寂感がただよう。手前の人物たちは、それぞれの想いの中に沈潜し、自己の内面を見つめているような表情さえ感じとれる。駅とは、人がなにかを選択あるいは決心して向かう場所であり、人々がなにか目的や想いを抱きながら出かけてゆく、あるいは来訪する物語の交差点のような場所だ。
 『野方驛』のなに気ないスケッチにしても、それぞれ人物の表情までは描かれていないものの、手前の人待ちポーズでたたずむ女性にしろ、改札で駅員と話しこむ女性にしろ、構内で時刻表をジッと見つめる人物にしろ、なにか深い事情がありそうな物語性を感じさせる。戦争前後のタブローでは、そのようなモノいいたげな無言の人物たちが登場しているが、1970年代以降の画面になると、文字どおりキャンバスを“舞台”に設定したような、「無言劇」を演じる人物たちが画面に配置されていく。
 そんな視点から、改めて鳥居敏文の作品画面を観ていると、特に人物たちの背景になっている風景や建物、部屋などが、実は舞台の書割だったり映画のオープンセット、あるいはドラマのスタジオセットのように思えてくる。作品と向きあう観賞者に対して、描かれた人物たちの想いや願いなどの内面を想像させるように設(しつら)えられたのが、書割の風景や大道具としての建物あるいは部屋のように思えてくるのだ。これは、鳥居敏文という画家がもつ、表現上の大きな特徴であるのかもしれない。
 さて、下落合駅から西へ4つ先の野方駅が登場したので、せっかくだからなにか野方地域に関する地元のエピソードなどをご紹介したいと思うのだが、残念ながら野方駅の周辺については詳しく調べていないので、すぐには思いつかない。現在の住所としての「野方」という地名は、もともとの野方町のほんのごく一部のエリアにすぎず、本来の野方町は中野区のおよそ北半分もの面積をもつ大きな町だった。
 同町が成立した1924年(大正13)には野方をはじめ新井、江古田(えごた)、江原、鷺宮、上高田、大和、若宮、白鷺、沼袋、松が丘、丸山の各地域が同じ町内だった。そこで、野方駅のある狭義の野方エリアに限定して、地域の資料に当たってみた。
 先日、江戸東京の民話のひとつ「小ザルの恩返し」Click!をご紹介したが、広い意味での野方町(落合地域の西隣りにあたる上高田地域)にある松源寺に伝えられた昔話だ。そこで、もうひとつ明治生まれで野方地域にお住まいの女性が語り伝えた昔話をご紹介したい。1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』収録の「鼠の嫁入り」という昔話だ。
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 あるところに住んでいたネズミの一家は、娘が年ごろになったのでどこかに嫁入りさせたいと考えていた。どうせ嫁がせるなら、「世間でいちばん偉いとこにやろう」ということで、お天道様(太陽)のもとへ縁談を持ちこむと、お天道様は黒雲が出てくると光ることができないから、黒雲さんのほうが自分よりも偉いと答えた。そこで、今度は黒雲さんへ縁談を持ちこむと、風さんが出てくると吹き飛ばされてしまうから、自分よりも風さんのほうがよほど偉いのではないかと答えた。以下、同資料より引用してみよう。
  
 それで風さんのとこ行って、「家の娘をもらっていただきたい」って言ってお話したら、「どうもあたしはね、風でいばってるけれども、壁さんに当たられると、どうも壁さんがあると、壁のところを通ることができないから、壁にはかなわないから、壁さんに行きなさい」って。(中略) そしたら壁さんは、「あなたに似たそのしっぽのある、口のとがった、そのチュースケさんにね、突っつかれると、壁がみんな食われちゃう」って。/だから、やっぱり壁よりも、チューさんのほうが、ねっ、いちばん偉いんだから、やっぱり鼠さんは、鼠さんのところへおやりなさいってことなの。
  
 この太陽<雲<風<壁<ネズミは、どこかで聞いたことのある笑い話で、太陽<雲<風<樹木<キツツキとか、太陽<雲<風<大地<タヌキ(キツネ)とか、野方ばかりでなく類似の話が各地に散らばっているような気がする。
 もうひとつ、野方地域に伝わる笑い話に「ニンジンを食べるやつはスケベだ」というのがある。1989年(平成元)に中野区教育委員会がつづけて出版した、『続/中野の昔話・伝説・世間話』収録の昭和ヒトケタ男性が語る同話を、短いので全文引用してみよう。
  
 「ニンジンを食べるやつはスケベだ」って言うんだけどね。それ、その語源、それは、理由はね、ニンジンを蒔いたりなんかするときは、忙しいらしいんですよね。で、近所で、手助けってことを「すけべえ」っていうんだけどね。「じゃあ、すけるべえや」って。まあ、それから来たんじゃねえかってことは、おやじが言ってましたがね。/よく、関東語っていうんですか。「手助けしべえ」とかなんかありますね。「じゃ、すけべえか」って。「手助けしようか」ってことを、「すけべえか」って言って、「そこから『スケベエ』ってきちゃったんじゃねえか」なんてこと、おやじが言ってましたがね。
  
 もちろん、「助ける」「助けられる」を「スケる」「スケられる」と省略するのは、江戸東京の市街地でも同様で、少なくとも安永年間(1772~1781年)の古文書から見ることができる。助太刀(スケだち)や「助人(スケっと)」など、いまでも江戸期からそのままつかわれている言葉も残っている。これに、関東南部(おもに海岸に近い地域に多い方言)の「べえ」がつくと、確かに「スケるべえ(助けよう)」になる。
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 ことに、相手に対して問いかける場合は「スケるべえか?」とはならず、より省略型の「スケべえか?(助けようか?)」になるのだろう。おそらく、神奈川県や千葉県でも、「ニンジンを食べるやつはスケベだ」なんて話が、どこかで語り継がれているのかもしれない。近郊の農村だった野方地域で、おそらく明治期からいわれていた「スケベ」話だろう。

◆写真上:1947年(昭和22)8月31日に描かれた、鳥居敏文のスケッチ『野方駅』。
◆写真中上は、スケッチと同年の1947年(昭和22)の空中写真にみる西武新宿線の野方駅。駅周辺の住宅街も、空襲を受けていないのがわかる。は、戦後まもないころの野方駅。は、『野方駅』に描かれた人物部分のクローズアップ。
◆写真中下は、野方駅周辺の宅地開発にともなう乗降客の急増から、左手にあった売店を撤去して改札口を増設した1965年(昭和40)撮影の野方駅。は、1960年代の撮影と思われる改札の内側から駅前を眺めたところ。は、野方駅の現状。
◆写真下は、1950年(昭和25)制作の鳥居敏文『私は二度と欲しない』。は、1975年(昭和50)の同『ある群像』。は、1980年(昭和55)の同『平和へのねがい』。

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忘れられた江戸東京の昔話。 [気になるエトセトラ]

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 「むかしむかし、あるところに……」というような昔話が、江戸東京の各地にもたくさん伝わっているが、いまや住民の移動が頻繁になり地域性が稀薄化してきたせいか、それらを子どもたちに語り伝えるという習慣がなくなって久しい。
 佐々木喜善Click!森口多里Click!が明治末から昭和初期にかけて収集した、遠野をはじめとする東北地方などでは、それらの物語がいまでも活きいきと伝承されているようだが、江戸東京の(城)下町Click!とその周辺域で語られていた膨大な数の昔話は、もはや書籍や地域資料の中でしか、なかなかお目にかかれない状況ではないだろうか。
 もちろん、地付きの方の家では子や孫へ、地元の昔話を語って聞かせる事例があるのかもしれないが、特に面白い説話でないかぎりは、時代とともに忘れ去られてしまうほうが多いのだろう。ずいぶん以前に、落合地域で語り継がれていた人間の女がキツネに化けてカネを騙しとる、詐欺事件の昔話Click!をご紹介したことがあったが、たまたま新宿区の民俗資料に記録されていたせいで“事件”を知ることができたけれど、戦後も日常的に落合地域で語り継がれてきたとは思えない。
 (城)下町では急速に住民の移動や流入、核家族化が進むとともに、地元に残る昔話を知る人たちが別の地域へと散ってしまい、また語り継ぐ相手(多くは子どもや孫だが)の不在や減少とともに途絶えてしまうケースも多かったにちがいない。確かに、いまの子どもたちは祖父母や親から寝物語に昔話を聞くよりも、ポータブルゲームやタブレットを操作していたほうがよほど楽しいのだろう。下落合にある日本民話の会Click!が記録した語りべたちの出版物を、大人が楽しんでいたりするのがちょっとさびしい気がする。
 そこで、きょうは江戸東京で語り継がれてきた昔話をひとつご紹介したいのだが、落合地域となんら関係のない話では面白くないので、350年の時を超えて結果的に落合地域のごく近くで、そのエピソードの建物や“証拠”を確認することができる昔話について書いてみたい。東京メトロ東西線・落合駅の出口から、早稲田通りを西へ約550mほど歩いたところに、この昔話の中心となった松源寺がある。上落合の西端からはおよそ350mほどの距離で、所在地は中野区上高田1丁目にある寺だ。
 だが、別名「さる寺」と呼ばれている同寺は、もともと上高田の地にあったのではなく、1906年(明治39)に牛込神楽坂から上高田村へ移転してきたもので、それ以前は旗本の屋敷街が形成されていた麴町(当時は糀町)の四番町に建立されていた。この昔話は、同寺が牛込神楽坂にあった元禄年間の出来事だと伝えられている。当時の神楽坂は、千代田城Click!の外濠に面した牛込御門(牛込見附)Click!が近いにもかかわらず、昼間も薄暗い鬱蒼とした森林が連なる斜面だった。夏目漱石Click!『硝子戸の中』Click!によれば、明治になってからも追いはぎが出るような人家の少ないさびしいところで、女子が外濠へ出るときは下男が必ず付き添っていったらしい。
 『江戸名所図会』の記述より、松源寺の項目から引用してみよう。
  
 蒼龍山松源寺
 同所向かふ側にあり。花洛妙心寺派の禅林にして、江戸の触頭四ヶ寺の一員たり。本尊に釈迦如来の像を安ず。開山は霊鑑普照禅師と号す。禅師、諱は宗丘、字を蓬山といへり。(俗に長刀蓬山といふ。昔境内に猿をつなぎて置きたりとて、いまも世に猿寺と号く。旧地は番町なりといへり。観音堂本尊は聖観音にて、弘法大師の作なり)。
  
 天正年間に創建された同寺なので、弘法大師(空海)Click!作の本尊はご愛嬌だが、元禄年間の当時、松源寺の住職は徳山(とくざん)といい、麹町四番町から移転して以降も、江戸の各地に檀家を抱える寺だったようだ。ある春の日、徳山は向島Click!の檀家から法事を頼まれ、小坊主をひとり連れて出かけていった。神楽坂の松源寺から、隅田川を向島へ渡る竹屋の渡しまで地図上の直接距離でも6.4kmほどあり、道を歩けば10km前後にはなったと思われるが、当時の人は往復20kmぐらいはなんでもなかっただろう。
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 花が見ごろ時節で、竹屋の渡しは墨田堤のサクラを見物する客でごったがえしていた。渡しの舟を待つ間、住職と小坊主は隅田川の土手に腰をおろして対岸の風景に見とれていた。やがて舟がもどり、ふたりが腰をあげて乗ろうとすると、背後から法衣を引っぱられた。見ると、1匹の小ザルが法衣の裾をつかんでいる。1979年(昭和54)に社会思想社から出版された、小池助雄・万代赫雄『東京の民話』から引用してみよう。
  
 「おかしなサルだ」――と、住職はそう思いながら岸の方に歩きはじめた。すると、また追ってきて裾を引っ張る。住職は不思議に思って、腰をかがめ手を差し出すと、小ザルは逃げようともせず、住職の膝にひょいと飛び乗った。/あまりに人なつっこい振舞いに住職はサルの頭をなでながら、「お前はどこのサルかな。なぜわしの着物を引っ張るのだ」と、ひとりごとをいっているところへ、サルに逃げられたといって、一人の男が駆けてきた。橋場(台東区)で酒屋をしている武蔵屋という檀家の主人だった。二人が立ち話をしているうちに、渡し船は住職をおいてきぼりにしてこぎ出してしまった。/ところが、舟が川の中ほどに差しかかったころ、舟は突然ひっくりかえり沈んでしまった。すぐ助け舟も出たがたくさんの人がおぼれ死んだ。
  
 住職が、岸に揚げられた水死者に向けて合掌していると、先ほど法衣の裾を引いたのは「サルの恩返し」だろうと、武蔵屋の主人がそばにきていった。そして、そのサルは1年前に松源寺からもらったものだとつけ加えた。住職は最初、なんのことをいわれているのかわからなかったが、ようやく1年前の出来事を思いだした。
 神楽坂の深い森には、ときどきサルが出没しては松源寺の境内でいたずらをするので困っていた。ある日、住職が外出中に小坊主がしかけたワナに、1匹の小ザルがかかっていた。小坊主が町で売りとばそうとしているのを聞いて、住職は急に小ザルがかわいそうになり、小坊主へ代わりに小遣いをやるから放してやれといった。
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 ちょうどそこへ、武蔵屋の主人が寺を訪れて、かわいがって育てるから小ザルをゆずってくれと頼みこんだ。住職は、檀家の申し出に異存はなかったので、そのまま小ザルを武蔵屋の主人へまかせることにした。そして、それっきり住職は小ザルのことなど忘れていた。それから1年、小ザルは武蔵屋の花見に連れられて竹屋の渡しまできたところ、急に主人のもとから逃げだして住職の裾を引いたというわけだった。
 『東京の民話』の「小ザルの恩返し」から、つづけて引用てみよう。
  
 住職はあらためて武蔵屋に「サルに助けられるという尊い体験をはじめてした。恩返しの意味でサルを大切に育てます。このサルをわたしに譲って下さらぬか」と、申し入れた。武蔵屋も心よく(ママ:快く)サルを住職に譲った。それ以来、サルは松源寺で住職の手厚い保護を受けながら暮らした。/近くの人々は、いつしかこの寺を「さる寺」と呼ぶようになった。サルはお参りに来る人たちからもかわいがられたが、数年後に死んだ。この物語はその後ながく語り伝えられていたという。
  
 1906年(明治39)に、松源寺が牛込神楽坂から上高田村へと移転する際、小ザルの昔話にちなんでサルの石像を彫らせ、サル像を載せた台座へ「さる寺」と彫刻した石碑を門前に建立した。このサル像は、いまでも同寺山門の右脇に置かれて見ることができる。落合地域には、ネコ寺で有名な自性院Click!があるが、すぐ隣り町に江戸の昔話に語られたサル寺があるのは、あまり知られていない。
 さて、ここでちょっと余談だが、松源寺から北へ直線距離で950mほどのところにあった上高田小学校が、中野区の学校統廃合で消滅してしまった。上高田小学校跡の同所には、新井小学校と上高田小学校を統合した「令和小学校」が暫定的に創立されている。ゆくゆくは新井小学校の跡地に新校舎を建設して、令和小学校が入る予定だという。
 わたしの世代からいえば、「鉄腕アトム」も「ビッグX」も、「マグマ大使」も、「スーパージェッター」も、「少年探偵団」も、「レインボー戦隊ロビン」も、「宇宙少年ソラン」も、「キャプテンウルトラ」も、アニメなど子供向け番組の主題歌は、みんな上高田小学校の生徒たちClick!(上高田少年合唱団)が唄っていたので、非常に親しみのあるネームだったのだ。それが少子化とはいえ消えてしまったのは、いかにも残念だ。
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 アトムが産まれた、山手線・高田馬場駅に流れる発車音のメロディーは「鉄腕アトム」だが、それらを唄っていたのが上高田小学校の児童たちだったというエピソードも、これからだんだん忘れられる昔話になるのかと思うと、少年時代が消えていくようでさびしい。

◆写真上:白銀公園の西側にあたる、牛込神楽坂通りに面した松源寺跡。
◆写真中上は、『江戸名所図会』の長谷川雪旦Click!が描く「松源寺」。は、1851年(嘉永4)に作成された尾張屋清七版の切絵図「市ヶ谷牛込絵図」にみる牛込神楽坂の松源寺。は、翌年の1852年(嘉永5)作成の同切絵図にみる松源寺。
◆写真中下:上高田にある現在の松源寺の山門()と門前のサル像()、本堂()。
◆写真下は、昔話ブームの1979年(昭和54)出版の小池助雄『東京の民話』(社会思想社/)と、同年出版の中村博『東京の民話』(一声社/)。は、『東京の民話』に掲載の松下紀久雄「小ザルの恩返し」挿画。は、浅草の人気者だったニホンザル。

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タタリ話や呪い譚が盗掘を防いだ古墳。 [気になるエトセトラ]

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 少し前、古墳の盗掘にからんだタタリ譚Click!の記事をアップしたら、奈良にはもっと強烈なタタリ古墳があるよ……と、関西の知人が教えてくれた。その強烈な禁忌伝承Click!の継続により、近世に入って横行した盗掘の被害にも遭わず、密閉されたまま副葬品がほぼ完璧なかたちで保存されてきたのだという。同古墳で2006年(平成18)に作成された、発掘調査の報告資料もお送りいただいた。
 その呪いやタタリが現代まで強烈に伝承されてきた古墳とは、奈良市高畑町にある奈良教育大学のキャンパス北端に残された吉備塚古墳のことだ。戦前は、平城京の公卿であり遣唐使の使節としても有名な吉備真備の墓だと規定されていたようだが、これもまた皇国史観Click!によるいい加減な規定だったものか、現在では否定されている。
 事実、同古墳がある奈良教育大学による発掘調査では、5世紀後半から6世紀初頭の遺物が出土し、8世紀後半に死去している吉備真備とは、まったくなんの関係もない6世紀はじめの古墳であることが証明された。それでも、「吉備塚」の名称をそのまま採用し、「吉備塚古墳」と命名しているのは地元で根づいた呼称とはいえ、学術的にはいかがなものか。明らかに時代ちがいな大山古墳や誉田山古墳Click!のことを、もはや学術的には「仁徳天皇陵」とも「応仁天皇陵」とも呼ばないように、「吉備塚古墳」も高畑古墳とか奈良教育大学古墳と名称を変更すべきではないだろうか。
 この吉備塚には、「触れた者は祟られる」「粗末にあつかえば呪われる」という伝承が、つい最近まで語られつづけてきたようだ。その伝説は、江戸時代にはすでに地元では口承されていたようで、周囲は田畑に囲まれた農村地帯だったにもかかわらず、それほど大きくはない同古墳は開墾で崩されもせず現代まで伝わった。おそらく、タタリの禁忌伝説Click!は江戸期以前から語り継がれてきたのではないだろうか。なんらかの屍家・死屋(シイヤ・シンヤ)伝説Click!が、延々とこの地で伝承されつづけてきた可能性が高い。
 そのタタリの信憑性を決定的にしたのは、1909年(明治42)に陸軍歩兵第53連隊が駐屯地として高畑村の同地を開発した際、吉備塚を崩そうとした者が次々と病気になったため、「やはりタタリ話は本当だ」ということになり、手つかずのまま連隊内に保存されることになった。なにやら、大手町の旧・大蔵省跡地Click!にある柴崎古墳(将門首塚)Click!にまつわる伝説に近似している。
 このタタリ話は、明治末の歩兵53連隊内ではなく、1925年(大正14)に駐屯していた歩兵38連隊内の出来事だとする説や、歩兵53連隊の時代に崩そうとして止めたにもかかわらず、歩兵38連隊内でも同様に崩そうとして病人が出たとする、繰り返されたタタリ話として語られるケースなど、いずれが事実だったのかは曖昧だ。
 2002~2003年(平成14~15)にわたり、吉備塚のある奈良教育大学による発掘調査が行われ、穿たれた十文字のトレンチからは盗掘を受けていない貴重な副葬品が数多く見つかっている。これほど保存状態がよい理由を、同大学の調査報告書では「吉備真備の墓」と伝えられてきたことと、明治以降は官有地として買収され軍隊が駐留していたからだとし、江戸期から伝承されていたとみられるタタリ話には触れていない。
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 2006年(平成18)に発行された、同大の「吉備塚古墳の調査」から引用してみよう。
  
 明治41年に旧帝国陸軍歩兵第53連隊が高畑町に置かれたことによって、吉備塚は連隊の敷地内に取り込まれた。昭和20年に米軍に駐屯地(米軍キャンプC地区)として接収された後、昭和33年に奈良学芸大学(当時)が登大路町から移転した。大学校舎の建設によって旧陸軍の建造物は現在教育資料館として使用されている旧糧秣庫のみが残されたが、吉備塚古墳は西南角が削平されているものの、江戸時代の状態がほぼ現存していると推定される。吉備塚古墳周辺の若草山山頂から古市にかけては多くの古墳があるが、その多くは寺社の築造や土地利用によって改変され、墳丘の形を留めている例は少ない。吉備塚古墳が大きな改変を受けずに残されたのは、吉備真備の墓である伝承とともに、明治時代以降に官有地とされたことが幸いしたのだろう。
  
 あえて民俗学的な側面を無視した書き方をしているが、これはおそらく結果論的なとらえ方だろう。吉備真備の名前に、江戸期の古墳泥棒が盗掘をためらうほどのネームバリューがあったとはとても思えないし(事実、より権威のありそうな大型古墳が軒並み盗掘されている)、地元の農民に開墾を躊躇させるほど彼は畏れ多い“有名人”でもなかったはずだし、また開墾が困難なほど古墳のサイズは大きくない。そこには、現代にまで語り継がれる強烈な禁忌伝説がまつわりついていたからこそ、誰も「触れなかった」と考えるほうが自然だし事実に近いのではないか。
 文中で興味深いのは、奈良市でも古墳がその形状を活用して寺社の境内にされたり、破壊されて住宅地の下になってしまったケースが、東京の市街地Click!と同様に多々ありそうなことだ。報告書の文面からも、早い時期から墳丘が崩されて寺社や住宅の下になってしまい、いまからでは調査が不可能になってしまった無念さがにじみ出ている。
 発掘調査によれば、吉備塚古墳は直径25m余の円墳とみられていたが、北西方面に前方部が伸びる40mほどの前方後円墳になる可能性もあるようだ。墳墓からは2基の埋葬施設が発見され(一方は陪墳だろうか)、三累環刀大刀などの古墳刀類Click!や貝装雲珠、画文帯環状乳神獣鏡、挂甲(古代の鎧)、ガラス玉、埴輪片などが出土している。また、同古墳は羨道や玄室を設けずに、木棺を直葬する簡易な構造であることも判明した。特に、近世に横行した盗掘の目標になりそうな、金や銀をほどこした三累環刀大刀の刀装具が完璧なかたちで発見されたのは貴重な成果だろう。
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 さて、今世紀の初めに学術的(人文科学的)な発掘調査が行われたので、タタリ話や呪い譚はようやく消滅したのかといえば、相変わらず現代までそのまま地元の「怪談」として伝承されている。2010年(平成22)前後の出来事らしいが、男子学生が深夜、タバコを吸いながら自転車を押して吉備塚古墳の横を通りかかった際、吸い終えたタバコの吸い殻を道端の古墳があるあたりへポイ捨てしたところ、いきなり自転車ごと路上に弾き飛ばされたという「怪談」が記録されている。
 奈良市に住む「宮地」という方の証言で、ファーストフード店でたまたま隣りあわせた奈良教育大の女子学生たちの会話を聞いていたようだ。2015年(平成27)にKADOKAWAから出版された黒木あるじ『全国怪談オトリヨセ』収録の「ガールズトーク」によれば、弾き飛ばされたのは「クサカベ君」という男子学生だったようだ。同書より引用してみよう。
  
 ほんで、クサカベ君のカノジョがな……ああ、そうそう二年のあの子、ちょっとケバい。あのコが先生から聞いたらしいんよ。/あそこの丘な、すごい昔の偉い人……名前忘れたわ。とにかく、偉い人のお墓なんやて。ワケ解らんでしょ。なんで学校の敷地に墓あんのって。ほんならな、先生が言うにはな、前もあそこを掘りかえそうとした人たちがおってんけど……全員、死んだんやて。/触ろうとした人はみんな、百パー死んでまうねんて。/せやから私な、タツヤに教えたんよ。/あそこの丘な、昔のお宝が埋まってるらしいよ、って。うん、もちろんウソ。/あいつ、私とミキと二股かけとんねん。気づいてないと本人は思ってるけど、こないだメール見てしもてん。私がバイト入っとる日に、アイツらヤッとんねん。/アホやから信じたんちゃうん。ここ数日、メールしても返信ないもん。
  
 今世紀初頭に同大学が発掘調査をして、6世紀はじめの古墳らしいという報告書まで出しているにもかかわらず、相変わらず地元の女子学生は「偉い人」(吉備真備)の墓だと信じているし、タタリや呪いも以前よりパワーアップしているようだ。
 陸軍の兵営時代に、古墳を崩そうとして病人が出たという経緯だったものが、古墳に触れたら「百パー死んでまうねん」に、タタリのレベルが強化されている。この伝でいくと、発掘に参加し調査に関わった90名近い調査メンバーの全員が、「百パー死んで」ないとおかしなことになる。もっとも、同大学の「先生」が古墳にイタズラしないよう、かなりオーバーに話して学生たちを脅した……ということも十分に考えられるが。
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 民俗学的な視点から見ると、上記のケースは非常に興味深い。タタリ話や呪い譚というものは、時代の経過とともに伝承力が徐々に弱まって人々の記憶から薄れ、ついには忘れ去られていく事例も多々あるだろうが、逆に時代をへるにつれて恐怖が増幅され、なんら根拠がなくなった21世紀の今日まで語り継がれていくケースもある……ということだ。近世に入り、そのような記憶が薄れず反対に禁忌が増幅され、地元に伝承されてきた古墳が盗掘をまぬがれ、また農地化の開墾からも取り残されてきたと考えられる。ところで、彼女に隠れて浮気をする「アホ」な「タツヤ」君が、その後どうなったかはさだかでない。

◆写真上:奈良教育大学キャンパスの道路側から見た、吉備塚古墳の墳丘。
◆写真中上は、旧・陸軍の兵営のまま米軍が接収していた1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる吉備塚古墳。は、大正末か昭和初期の撮影とみられる東大寺の南に拡がる浅茅ヶ原を行進する陸軍歩兵第38連隊。は、奈良学芸大学が奈良教育大学へと改称された翌年の1967年(昭和42)に撮影された空中写真にみる同古墳。
◆写真中下は、1975年(昭和50)に撮影された冬枯れの吉備塚古墳。は、2008年(平成20)撮影の空中写真にみる緑がこんもり繁った夏の同古墳。
◆写真下は、吉備塚古墳の解説碑と墳丘。下左は、2006年(平成18)に奈良教育大学が作成した報告書「吉備塚古墳の調査」。下右は、女子学生たちの「ガールズトーク」を収録した2015年(平成27)出版の黒木あるじ『全国怪談オトリヨセ』(KADOKAWA)。
おまけ1
 ところで、宮内庁に属する皇国史観Click!の御用考古学・古代史学者たちが、大山古墳で発掘されたヨコハケメが入る円筒埴輪Click!を、ついに5世紀後半から6世紀初頭にかけて造られたものだと認めた。それはそうだ、さもなければ古墳期に関して戦後日本が積みあげてきた膨大な学術成果を否定することになってしまう。じゃあ、当然ながら大山古墳も同時代の築造だと想定するのかと思いきや、今度は「仁徳天皇陵」が荒廃してきたので、5世紀後半から6世紀にかけての人々が同古墳を「補修」するために、同時代に一般化していた円筒埴輪を改めて並べた……などといいだしている。人文科学という学術分野を、バカにしてるかおちょくっているとしか思えない、非科学的で非論理的なひどい妄言だ。
 だとすれば、「あそこの古墳が荒廃してきたから、そろそろリフォームしよう」というような具体的な事例が、同時代の古墳期に他のケーススタディとして存在証明されていなければならないし、それが事実だということを学術的に証明(論証)しなければならないが、そんな考古学的事例はかつて見たことも聞いたこともない。これも毛松の『猿図』Click!と同様、源平の対立激化で国内が大混乱していた藤原時代の末期に、「そちらへニホンザルを船便で送るから、絵が描けたらお手数だけど送り返してちょうだい」などと、日本から中国にいる画家・毛松のもとに依頼したと解説する学者たちに対し、前・天皇と徳川義宣Click!が「ありえない」と認識していた妄言と同じレベルの、学術分野とは無縁な不マジメきわまりない空想物語だ。どこまで自国の歴史を歪めておとしめ、自ら墓穴を掘るような言動を繰り返せば薩長政府に由来する皇国史観を止揚できるのだろうか?
 ちなみに、学習院の考古学チームが1923年(大正12)に発掘して持ち帰った、大阪羽曳野市の誉田山古墳Click!(宮内庁が「応仁天皇陵」と空想規定している墳墓)の5世紀に造られた水鳥埴輪などの副葬品は、「なかったこと」「見なかったこと」にされているようだ。
(大山古墳から出土した、5世紀後半以降に制作されたとみられる円筒埴輪群)

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おまけ2

 先日のGWのさなかに、近所の主(ぬし)である2mをゆうに超える美しいアオダイショウが玄関先にきたので、しばらく撫でながら遊んであげた。人に馴れておとなしく、頭に近い部位を触らなければまったく警戒しない。掃除をしていた家とお隣りの女子たちは、「ヒェ~~~ッ!」と叫んでいたけれど……。さすが、楳図かずおのへび女Click!世代なのだ。w
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寺院からの離脱現象が止まらない理由。 [気になるエトセトラ]

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 ショルダーに寺院住職実務情報誌と銘打つClick!、寺院向けの「月刊住職」Click!が面白い。坊主は戒名や卒塔婆、朱印を書くとき、あるいは写経をするときに、もちろん墨と毛筆を用いるけれど、その毛筆に使われている毛は動物を殺して得たものではないか? 殺生を禁ずる仏教僧が、殺した動物の毛を平然と使用しているのはマズイのではないか?……というような、問題提起の記事までが掲載されている。
 毛筆には馬やヤギ、タヌキ、イタチなどの毛が使われているけれど、ちょっと毛を少しだけ刈るからおとなしくしててね……などといって収集したものではないのは自明のことだろう。特に高級とされる、野生動物の毛を用いた毛筆ならなおさらだ。いまや文房具の筆ペンにさえ、殺したイタチの毛が使われている。そのような指摘に対する、坊主の答えがふるっている。SDGsや動物愛護の時代的な背景に触れたうえで、「要は地球環境や動物愛護の問題と、文化の問題とのバランスをどう取るかだと思うんです」だってさ。
 動物を殺して毛筆にするのは、仏教でも環境問題とか社会問題、SDGs、文化論のテーマなのだろうか? 「ちがうだろ、社会的な課題や文化がテーマの一般論ではなく、あんた自身の宗教の根幹にかかわる宗教としてのレゾンデートルと、宗教者としての主体性を正面から問われてる深刻で切実なテーマだろ?」と、つい突っこみを入れたくなる、あたかも第三者の評論家のような回答をしている。こういう宗教者らしからぬ欺瞞性やご都合主義が、生命の危機を目前に恐怖感や不安を抱える檀家と向きあうこともせず、東京からさっさと逃げだして帰郷していった坊主たちClick!を生みだす土壌となっているのだろう。
 近ごろ流行の「樹木葬」についても、同誌は鋭い指摘をしている。「生きた木を墓標とする樹木葬から木が消えた理由」という記事では、樹木葬をうたっている寺院が多いにもかかわらず、樹木が存在しない寺々について取材している。その理由を訊くと、樹木は手がかかるし管理がむずかしく、面倒でおカネもたいへんだから、芝庭や花壇にして「樹木葬」にしているところが多いようだ。既存の樹木をわざわざ伐採して、芝や花を植えたところは「看板に偽りはない」としているが、どういう意味だろうか?
 寺院のコンサルを請け負っている人物の、きびしいコメントが掲載されている。
  
 樹木がなく、その代わりに草花や芝、龍の髭などが植えてあるだけで樹木葬と名乗っているものも多く見受けられます。当初は土に直接埋葬するのが樹木葬でしたが、最近ではカロートのあるものが主流となっています。もはや、樹木葬を名乗ればどんな形態でも樹木葬である、といっても過言ではありません。最近では塩ビ管を縦に埋めただけのカロートなど、遺骨の尊厳という点で疑問を感じる樹木葬も増えてきました。
  
 また、樹木葬自体に疑問を感じており、「お寺の経済は潤うかもしれないが、信仰を伝える場がない」と嘆く坊主の談話も紹介している。樹木葬は、遺族と寺との接点は埋骨のときだけで、実質的には遺骨の捨て場になっていると指摘する。
 「看板に偽り」なく詐欺まがいではない、ほんとうに樹木の下へ埋骨している寺もある。その樹木に選ばれているのは、寺の置かれた周囲の環境や宗派によってさまざまだが、たとえば東京の某寺(浄土真宗)では武蔵野らしくケヤキが採用され、長野の某寺(曹洞宗)ではヒノキ、富山の某寺(真言宗)ではサクラ、和歌山の某寺(臨済宗)ではシナノキ、愛知の某寺(臨済宗)ではサクラと、寺ごとにまちまちなようだ。たまたま境内に生えていた樹木もあれば、近くの山の一画を買収し「樹木葬霊園」にしているところもあるのだろう。
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 東京での寺の存在は、一部の観光寺を除けば存在が希薄だと書く加門七海Click!は、同誌2022年2月号に寄稿した『門前でうろうろする』に、日本各地には仏教がらみの祭事や儀礼、民俗芸能、験かつぎなどは残っているが、都会ではそれらが形骸化し、また個人の行事としてまかされる「盆」や「彼岸」などの年中行事は廃れつつあると書いている。
 そして、地方との落差が大きくなるにつれ、「私は東京で生まれ育ったが、他府県の友達と話していると、時代や世界が違うのかと思うほどに意識が食い違う」と書いている。わたしも、まったく同様の感覚をもっていて、なぜそれほど宗教の(特に仏教の)行事や思想観・価値観に縛られなければならないのか、不可解に思うことが少なくない。
 盆で8月(東京では「藪入り」Click!=旧盆のこと)に実家へ帰り、墓参りをしてくるという友人に、「あれ、けっこう信心深いんだ」といったら「お盆が会社の夏休みと重なるから」と答えた。「じゃあ、2月1日に旧正月を祝うの?」と訊くと、「いや、正月は1月1日だよ」、「そんじゃ、仏教的に日暦がまったく合わないじゃん」、「親戚が集まって墓参りするのは盆のときぐらいだから、毎年恒例になってるんだよ」、「じゃあ、信心じゃないんだ」、「うん、習慣だね」……と、まったく無意識のうちに“仏教的慣習”が身体に沁みついているというわけなのだろう。
 墓参なら、思いたったときに休暇をとって家族や親族と出かければいいし、せっかくの夏休みに仏教へ義理立てして律儀に墓参しなくても……と思うのだが、この感覚からしてすでに「時代や世界が違う」と思うほどの、意識の食いちがいなのだろう。
 また、加門七海はなんらかの宗教的な背景を持たずに、「呪術」や「祓い」を行なうマンガに衝撃を受けている。つづけて、『門前でうろうろする』から再引用してみよう。
  
 最近ヒットしている『呪術廻戦』という漫画では、登場人物すべての能力に神仏は一切関与しない。ゆえに、それらの存在に訴えかける願文や祭文、呪文の類、祈禱も神事も出てこない。すべては個人の能力だ。少年漫画だからということもあろうけど、本来、高次の力なくしては成立しないはずの呪術がこのように描かれるのは、私にとっては衝撃だった。/もちろん、創作の世界では超能力を身につけた登場人物はいくらでもいる。ただ、元々は限定され、それゆえに扱いにくかった呪術という単語が、今までとは違うベクトルで正面に躍り出てきたのに驚いたのだ。/良い悪いという問題ではない。そうなってきた、ということだ。
  
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 従来なら、「呪術」や「祓い」を実行するときは、必ずなんらかの神仏に関する祝詞や経文めいた「呪文」が唱えられ、その力を基盤に「超能力」を発揮できていたはずなのだが、『呪術廻戦』ではそれらがまったく無視され、「呪術」や「祓い」はあらかじめ個人が備えた能力に過ぎないことになっているという。つまり、背景となる神仏の存在自体が抹消され、あくまでも個の力へと収斂されようとしている同漫画を見て、神仏から乖離したまったく別次元の世界に驚いたのだろう。
 「呪術」はもちろん、そのうちに「経文」や「念仏」、「祝詞」、「真言」、「九字」なども本来の宗教から切り離され、個々の人物が勝手に唱えはじめるのかもしれない。現に、修行僧でも山伏でも六部でもない人間が(つまり宗教的な基盤をもたない人物が)、真言に由来する「九字切り」をして「魔を祓う」のを平然と行うのを見ても、それを仏教の浸透ととるか形骸化ととるかは別にして、わたしの感覚からいえば基盤のない形骸化した乖離現象以外の何ものでもないように見える。
 「月刊住職」の、読者からの投稿ページもたいへん興味深い。匿名の投稿が多いようだが、寺をあずかる坊主たちの本音が聞けるコーナーとして貴重だ。以前は銀行に勤め、融資係の主任をまかされて行内の出世街道を歩いていた人物が、融資交渉でウソと知りつつ書類をつくり、保身や成績を上げるためにすごす日々に嫌気がさして、30代後半に退職して仏門に入ったという投稿が紹介されている。融資先の会社では自殺者も出たようで、仏教で懺悔と転身をはかることに決めたのだという。
 住職をつとめる投稿者の、「もう転職できぬプレッシャー」から引用してみよう。
  
 実際に住職になると、また銀行で悩んだ気分が蘇りました。ひたすら読経、限られた檀家の葬儀法事だけで、成果や成長とは無縁で過ごせると思ったのに、多くのお寺はラインを操り、様々なイベントや活動をしている姿は融資先と同じに見えます。そんなのが嫌で、交渉や人集めも苦手のままでいいと妄想したのは甘かった。いくらイベントで人気が出てもお布施が増えるより持ち出しの方が多いのに皆さん一生懸命なのにも感心です。それだけやらないと世間は寺や僧侶を評価、尊敬してくれない日本の貧しさも知りました。
  
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 はたして、「寺や僧侶を評価、尊敬してくれない」のは精神的な「日本の貧しさ」へ帰着させてもいいのだろうか? 少なくとも東京では、「寺や僧侶の評価」は戦争末期の77年前Click!に、(城)下町Click!の多くの人々の間ではすでに定まっている。「尊敬してくれ」そうもないことを、外来宗教の坊主たちが史的にこの街で平然としでかしているからだ。

◆写真:文中の「樹木葬」にからみ、下落合に生えている(生えていた)大樹や樹林いろいろ。「樹木葬」が人気のようだが、実際に樹木が存在する寺院はそれほど多くない

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