コーヒーが欲しい敗戦国と緑茶が欲しい米軍。 [気になるエトセトラ]

JAZZのハービー・マン(fl)の曲に、「Turkish Coffee」Click!という楽しい曲がある。『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)という、めったにJAZZ喫茶Click!でもリクエストされることのない、とても地味ィ~なアルバム収録の自作のナンバーだ。日本では、むしろ「Uskudar」のほうが有名だろうか。
ハービー・マンも、かなりコーヒーClick!好きだったようだが、米国のコーヒーはあまりうまくはなかっただろう。全日本コーヒー協会(JCQA)によれば、コーヒーの産地ベスト5(2022年)は、1位がブラジル、2位がヴェトナム、3位がコロンビア、4位がインドネシア、5位がエチオピアだそうだが、なぜかコーヒーが美味しい国の上位には、これらの国々が入ってこないという不思議な現象がある。やはり、コーヒーClick!の美味しさは水と品質管理、そして淹れる道具立てや凝り方に大きなカギがあるのだろう。
JCQAによれば、外国人にコーヒーがうまい印象の国はどこかと近年アンケート(あるいはインタビュー?)をとると、日本とオーストリア、イタリアの3国を挙げる人が多いそうだ。なるほど、コーヒーにこだわりをもち、豆や水の質、炒り方、道具類などに凝る、ちょっとヲタッキーで凝り性の人たちが多くいそうなところが、美味しいコーヒーを飲ませる国……ということなのかもしれない。それに、クセのない美味しい水や、美味しさを保つ豆の厳重な品質課題も、もちろん重要なテーマなのだろう。
物書きには“コーヒー中毒”の人が多いらしく、1日にマグカップで6杯も7杯も飲まないと気がすまない作家やライターたちの話をよく聞く。上落合581番地(1918~1927年)からしばらく外遊のあと、すぐ東隣りの区画である上落合2丁目569番地(1932年~)の家で暮らした詩人の川路柳虹Click!も、そんなコーヒー中毒のひとりだったようだ。大正期に、1杯のコーヒーを詠んだ詩「珈琲茶碗」を残している。
1921年(大正10)に玄文社から出版された、川路柳虹『曙の声』から引用してみよう。
▼
白い船のやうにかがやく/硬質の土器/その上にかかれた唐草は/朝の光りに花と見える/なみなみと盛られた/黒い珈琲 一口すするうちに/かけぬ詩のこと/女のこと……/冒涜の思想の一閃//しかし画家のするやうに/じつとみつめるコツプの/おもてには/ふと青々とした野がうつる/ブラジルの野原で/黒こげになつた百姓が/汗しづくの手に摘む珈琲/さてまたうつるは/陶工の竈 熱い火の室内/ろくろ廻す若人の顔……//げに自分を慰める一杯の珈琲には/これを盛る粗末な茶碗には/汗と悩みと苦労がまつはる/生はどこまでも喘ぎ/歓びは悩みに培はれる/わたしの詩作の汗は/いつも何の幸福をもたらす?
▲
川路流行とその周辺はよく知らないが、確かにコーヒーを飲んでいるときに読んだ本や、流れていた曲や、棚に光るMcIntoshClick!のマッキンブルーClick!や、なにかモノ想いに沈んでいた夕暮れや、いっしょにいた友人たちや、もちろん女性たちなど、さまざまな情景がコーヒーの香りとともに甦ることがある。「♪一杯のコーヒーから~夢の花咲くこともある~」(藤浦洸/1939年)という歌は、実は若い恋人たちの歌などではなく、歳をとってから過ぎし日のノスタルジーまたはセレナーデに浸っている情景のようにも感じる。そういえば、「あのときは、ああだったな」と鮮やかに思い出せるのは、コーヒーの香りにまつわりついた「匂いの記憶」が脳を刺激して呼び醒まされるからかもしれない。
親父は、コーヒーはそれほど好んでは飲まず、ふつうの煎茶や番茶が好きだったけれど、若い学生時代には代用品ではないコーヒーや、ふつうの飯をたらふく食べたくて、敗戦直後から米軍のPXで料理場のアルバイトをしている。いや、正確にいえば飯(めし=コメ)ではなく、米国らしい風味のパンということになるだろうか。だから、世間が食糧難の時代にもかかわらず、それほど困窮して飢えずには済んでいたらしい。





米軍の隊内で支給されるコーヒー豆ないしは粉末コーヒーは、ドラム缶や石油缶へ大量に入れたような大雑把かつ品質もあまりよろしくないしろもので(しかし代用品ではなくホンモノだ)、決して現代のコーヒーのように美味しくはなかったと思うのだが、モノがなく代用品ばかり食わされ、飲ませられつづけた親父にしてみれば、それでも美味しく感じたのかもしれない。ただし、日本橋をはじめ京橋や銀座などの食いもん屋を、「母語」ならぬ「母味」として育った親父の舌にしてみれば、戦時中に比べればかなりマシと感じる、あくまでも相対的な「美味しさ」だったにちがいない。
戦時中の代用コーヒーには、大豆を深炒りして「コーヒー」豆に見立てたり、大麦や小麦などの籾を焦がし、それを布などで濾した茶色い水を「コーヒー」と称して代わりに飲んでいたが、食糧の配給が困難になるとそれらもなくなり、タンポポの根を掘り返して乾燥させ、それを焦がしては「コーヒー」と自己暗示をかけて飲むなど、味も香りも本来のものとは似ても似つかない飲料を代用コーヒーと称していた。もっとも、タンポポの根を焦がして煎じたものは、古くから消炎剤や利尿剤の生薬として用いられており、現在でも薬局やスーパーなどでは自然療法の「タンポポコーヒー」として販売されている。
さて、無類のコーヒー好きだった大泉黒石Click!も、戦時中はかなり不自由したようだ。おそらく彼の性格からすると、代用コーヒーなどもってのほかで、あまり口にしなかったのではないだろうか。太平洋戦争の初期には、欲しい品物が手に入ったが、「戦争の中頃から、混り物が入って来た。戦争の終わる頃は、完全なニセモノ、よく言へば代用品だけになった」と述懐している。大泉黒石は、コーヒーについて次のように書いている。
1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.8」(1988年9月29日)より、大泉黒石『終戦と珈琲』から引用してみよう。
▼
それでも(代用コーヒーを)買ふ人があり売る店があって、戦争は終った。私は珈琲の先生ではない。たゞ五十年の経験から、素人の話をするに止るのだが、尋常の心臓を持ってゐる人にとって、これがその日の仕事を仕易くし、生活を楽しくする適度の昂奮を与へることは事実だ。萎弛してゐるエネルギーを鼓舞し胃酸の分泌を促すから消化不良には効果があるらしく、腎臓の作用をも助けるが、潰瘍を何所かに持ってゐる人は刺戟を避けるために余り沢山喫まないことだ。それだけだ。(カッコ内引用者註)
▲
大泉黒石Click!は当初、大豆や無花果(イチジク)の実を焦がしては代用コーヒーを試みていたようだが、「精神的にも肉体的にも効果ゼロだ」とやめている。




大泉黒石は、米軍の通訳になればコーヒーや砂糖もたくさん手に入ると思い、敗戦直後に外務省を訪れ、正式に通訳官になっている。当時は、横浜のニュー・グランド・ホテルがGHQの本部になるとウワサされていたので、さっそく外務省が指定した横浜の旅館に滞在している。だが、ロクな仕事がなかったので、すぐに横須賀の米海軍基地へと向かった。ここでなら、うまいコーヒーにも飯にもありつけると思ったのだろう。
横須賀での大泉黒石の仕事は、海兵隊の兵舎に図書館を創設するというものだった。各国語に堪能で、世界の多種多様な文献に通じていた彼には、まさにピッタリな仕事だったろう。当時の様子を、「黒石廻廊/書報No.8」の『終戦と珈琲』からつづけて引用しよう。
▼
これがアメリカの兵隊に塗れて九年何ヶ月の生活を送る皮切となったのだ。洋酒は兎も角も、珈琲と砂糖とクリームにありついた。この時分のことを「海兵図書館」といふ表題で東京新聞に書いた。海軍から陸軍の騎兵第五連隊に移ったのは十八ヶ月後で、珈琲に不自由はしなかったが、現にアメリカの兵隊が、喜んで使ってゐる石油缶大の缶詰の珈琲は、美味しくないといふ。美味しくないといふのは、女士官と女兵隊で、彼女等は一封(ポンド)入の缶詰を買ってゐる。無償と有償とは違ふだらうし、兵隊の用ひる珈琲を最上品とは思はぬが、美味しくないとは思はぬまんま、朝鮮戦乱が片づいて、何年間か喫みつゞけたのである。
▲
石油缶のような容器に入った船便でとどく大量のコーヒーは、長期輸送による品質劣化と金属の臭気が移り、とても美味しいとは思えないのだが、戦時中はまったく口にできなかった黒石の舌には、それでも「美味しい」と感じたのかもしれない。
敗戦後、横須賀に勤務していた将校や士官たちと親しくなった大泉黒石は、面白いエピソードを記録している。神奈川から東京にもどった黒石は、さっそく1日「五杯も六杯も喫む」コーヒーの入手に困ることになった。そこで、米軍からのコーヒー横流しルートを探しまわるのだが、おかしなことに米海軍航空隊司令官をはじめ、将校や士官たちは軍支給のコーヒーを飲まずに「緑茶党」だったことが判明している。「緑茶党」の米軍人(特に上級将校)は相当数にのぼり、大量の緑茶が米軍基地へ運びこまれていたらしい。
.jpg)
-faf08.jpg)
-1e4fd.jpg)
米軍の横流しルートには、コーヒーと煎茶の物々交換によるあまり知られていないルートも、日本のレストランや料理屋を介して存在したのではないだろうか。敗戦国の日本人たちはコーヒーを欲しがり、進駐してきた米軍では「緑茶党」が急増して煎茶を欲しがる不思議な構図。「なんだこれは?」と、大泉黒石は不思議に思い書きとめたのかもしれない。
◆写真上:夏のアイスコーヒーには、丹念にローストしたコーヒー豆が欠かせない。
◆写真中上:上は、ハービー・マン『Impressions Of The Middle East(中東の印象)』(Atlantic/1966年)。中は、ペギー・リー『Black Coffee』(Decca/1956年)。下は、こんな海の午後風景を観ながらゆったりとJAZZでも聴きたい夏の終わり。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)出版の川路柳虹『曙の声』(玄文社/左)と著者(右)。中は、米兵にコーヒーをわたす英兵。下は、1950年代の横須賀米海軍基地。
◆写真下:いずれも戦時中によく見られた代用コーヒーで、大豆コーヒー(上)、大麦コーヒー(中)、タンポポコーヒー(下)。コーヒーだと思って飲むと即棄てたくなるが、あらかじめこういう独特な飲み物だと納得して飲めば、それなりの風味が味わえるだろうか?
陸軍に“占拠”される以前の戸山ヶ原の情景。 [気になるエトセトラ]

このところ、陸軍科学研究所Click!や陸軍技術本部Click!など、戸山ヶ原Click!がらみのテーマではキナ臭い記事がつづいているので、陸軍に全体を“占拠”される以前の、武蔵野の面影が色濃い同地域について、少しまとめて書いてみたい。
これまで、戸山ヶ原Click!の風景や情景などについては三宅克己Click!や正宗得三郎Click!、中村彝Click!、中原悌二郎Click!、小島善太郎Click!、曾宮一念Click!、佐伯祐三Click!、萬鐵五郎Click!、濱田煕Click!などの絵画作品やエッセイについては、機会があるごとに数多くご紹介してきたように思うが、文芸がらみの作品類に登場する戸山ヶ原の記事は、夏目漱石Click!や小泉八雲Click!、江戸川乱歩Click!、岡本綺堂Click!ぐらいしか思い浮かばず、美術分野に比べてかなり少なかったように思う。
そこで、きょうは文章として描かれている戸山ヶ原について、少しご紹介してみたい。なお、既出の人物たちはできるだけ避け、これまで拙サイトではあまり取りあげてこなかった文学者たちの、「戸山ヶ原風景」の描写を中心にピックアップしてみよう。
影のごと今宵も宿を出でにけり 戸山ヶ原の夕雲を見に 若山牧水
若山牧水Click!が、早大近くの高田八幡(穴八幡)Click!に接する下宿から、下落合方面へ散策にやってくる様子を、『東京の郊外を想ふ』(改造社『樹木とその葉』収録/1925年)を引用しながら18年ほど前に記事Click!にしている。戸山ヶ原の夕暮れに、かけがえのない美しさを感じたのは若山牧水Click!だけではない。大久保町西大久保205番地に住んだ、フランス文学者の吉江孤雁(喬松)もそのひとりだった。1909年(明治42)に如山堂から出版された、随筆集『緑雲』より晩秋の風景を少し引用してみよう。
▼
或夕方私は戸山の原へ出て、草の深く茂つた丘の上へ登り、入り日の後の鈍色の雲を眺めて立つてゐた。すると不意にけたゝましい音をたてて、空を鳴きつれて行くものがある。驚いて見上げると、幾百かの群鳥が一団となつて、空も黒くなるばかりに連なつて行くのであつた。それは私の立つてゐる丘から、さまで隔らない空の上であるから、羽音まで明らかに聞えて怖ろしい位であつた。(中略) 其渡鳥が過ぎた翌日であつた。夕嵐が烈しく起つて原を吹き、杜を吹き、枯草を飛ばし、僅かに残つてゐた木の葉を挘ぎちぎり、雲の中から霰がたばしつて来た。もう秋の終り、今日よりは冬の領ぞ、とやう感ぜられた。私は又一人、嵐に吹かれながら野路を辿つて行つた。
▲
渡り鳥はおそらくカリやカモの群れであり、近くの自然に形成された湧水池や、田畑にある溜池などへ北の国から飛来したものだろう。
ひとところ夕日の光濃くよどむ 野の低き地をなつかしみ行く 前田夕暮
同じく、戸山ヶ原の夕暮れをめでた歌人に前田夕暮Click!がいる。大久保町西大久保201番地に住んだ前田夕暮は、戸山ヶ原を含む大久保を「第二の故郷」として愛した。1940年(昭和15)に八雲書林から出版された前田夕暮『素描』から、その様子を引用してみよう。
▼
私は西大久保に明治四十三年から昭和九年六月まで二十五年間の間棲んでゐた。(生れた村には十六、七年しかをらなかつた) で、西大久保は私の第二の故郷であつた。その第二の故郷に棲みついた長い「時」のながれのなかの戸山ヶ原こそは、いろいろの意味で親しい交渉をもつてゐた。若し、私の過去の作品のなかから、この戸山ヶ原を削除したならば、可成り淋しいものになるにちがひない。私はこの戸山ヶ原を夕日ヶ丘といひ、またただ草場とよんでゐた。(中略) 私はよく戸山ヶ原に行つた。その頃の戸山ヶ原は、高田馬場寄りの東南一面、身を埋めるばかりの草原であつた。その草原のなかを細い一本の路が雑木林のはしをうねつて戸塚の方に通つてゐた。秋になると、その野路をコトコトと音をたてゝ荷車を挽いた農夫が行つた。
▲

吉江孤雁の西大久保205番地や、前田夕暮の同201番地は山手線・新大久保駅も近い、現代でいえば金龍寺墓地の周辺にあたる住宅街であり、当時は秋になるとスズムシが鳴き、空には渡り鳥の群れがいきかう、夕日がとびきりキレイな郊外の閑静な住宅地(現・大久保1丁目界隈)だったろう。大久保通りを越え、少し北へ歩けば戸山ヶ原の広大な草原や雑木林が拡がり、静かに歌作をするには最適な散策地だったにちがいない。
ちなみに、上記の住所は新大久保駅から220mほど東へ歩き、大久保通りから南へ数十メートル入ったあたりの番地に相当する。つまり、現代では周囲を“韓流”商店に囲まれ、そこから南へ200mほど歩けば新宿の歌舞伎町という、とんでもなく賑やかな立地になってしまった。金龍寺の山門脇には、集まる観光客の多さや騒音に怖れをなしたのだろう、「檀信徒以外立入禁止」「撮影禁止」の立て看がいかめしく設置されている。大久保の文士たちが現代に現れたら、きっと目をまわして卒倒するにちがいない。
明治末の戸山ヶ原について、小説家で詩人の岩野泡鳴との間で恋愛のゴタゴタを抱えていた作家・遠藤清子(のち岩野清子)は、1915年(大正4)に米倉書店から出版した『愛の争闘』に収録の「大久保日記」で、戸山ヶ原を次のように描いている。
▼
明治四三年六月八日 夕ぐれの戸山の原を一緒に散歩した。夕陽が小さい鳥居の立つてゐる森の間に沈みかけてゐた。目白につゞく一帯の麦圃はもう充分に熟してゐた。馬鈴薯畑には白く花がついてゐた。雲雀が私達の頭上で囀つてゐた。
▲
「一緒に散歩した」のは、もちろん恋愛相手の岩野泡鳴だ。このとき岩野には妻があり、9歳年下の遠藤清子とは大久保で同棲生活を送っていた。「小さい鳥居」とは、皮肉なことに大久保通りをはさんで金龍寺の北東に建っていた、戸山ヶ原の夫婦木社(現・大久保2丁目)のことだろう。草むらから、空へ垂直に飛びたつヒバリの声を聞きながら、戸山ヶ原を複雑な想いを抱いて歩くふたりだったのではないだろうか。
戸山ヶ原といえば、戸川秋骨の文章をどこかで読んだ方もおられるだろうか。田山花袋Click!や永井荷風Click!とともに、戸山ヶ原の風情を記録したひとりだ。1913年(大正2)に籾山書店から出版された、『そのまゝの記』収録の「霜の朝の戸山の原」から引用しよう。



▼
戸山の原は、原とし言へども多少の高低があり、立樹が沢山にある、大きくはないが喬木が立ち籠めて、叢林を為した処もある。そしてその地上には少しも人工が加はつて居ない。全く自然のままである。若し当初の武蔵野の趣を知りたいと願ふものは此処にそれを求むべきであらう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽はれて居て、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人の擅まゝ散策するに任す。四季の何時と言はず、絵画の学生が此処其処にカンヴァスを携へて、この自然を写して居るのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊園地である。その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものがある。
▲
物音が途絶えたような静謐な住宅街と、昔日の武蔵野の姿をとどめた戸山ヶ原の存在は、多くの文学者や画家たちを惹きつけてやまなかったようだ。
ねがはくば戸山が原の赤樫の かげに木洩れ日あびて眠らむ 並木秋人
文人たちが、戸山ヶ原を北にのぞむ西大久保や東大久保、あるいは山手線の外側にあたる百人町へ参集したのには理由がある。明治期のベストセラーとなった1冊、『武蔵野』Click!を著した国木田独歩Click!もまた大久保に住んでいたからだ。明治末の当時、36歳で病没したこの作家の人気は衰えず、彼の面影を慕って大久保界隈はさしづめ文士村のような様相をていしていた。また、東京郊外だったこともあり、家賃や物価が安かったのも、貧乏暮らしが多かった作家や画家たちを惹きつけた理由だろう。
1999年(平成11)に岩波書店から出版された、歌人で国文学者の窪田空穂『わが文学体験』から、国木田独歩の家を訪ねた様子を引用してみよう。
▼
とにかく当時の西大久保は、貧しい者の代名詞のようになっていた文学青年の好んで住んでいた所で、私には親友関係となっていた吉江孤雁、前田晃、水野葉舟など、みな西大久保の小さな借家に住んでいた。誰も内心には、一種の寂蓼感を蔵していたので、よく往ったり来たりしていた。(中略) 独歩の家は、私達仲間とほぼ同じ程度の小家であった。一間道路に面して、青垣根で仕切った三室か四室くらいの平屋であった。そのころは貸家は幾らでもあり、したがって家賃も安かった。独歩の家は家賃十五円程度の家で、二十円はしなかったろうと見えた。書斎は広く、八畳ではなかったかと思うが、これが家の主室で、客室でもあり、寝室でもあったろう。装飾品は何もなく、机が一脚すわっているだけで、がらんとして広く感じられた。
▲

戸山ヶ原は、大正期に入ると山手線の内側(東側)には、陸軍の近衛騎兵連隊Click!が駐屯し、大久保射撃場Click!や軍医学校Click!、戸山学校Click!、第一衛戍病院Click!などをはじめ多種多様なコンクリート施設が建設されていく。昭和に入ると、それまでは「着弾地」などと呼ばれて建物が少なく、子どもたちの格好の遊び場や大人たちの散歩道となっていた山手線の外側(西側)の戸山ヶ原にも、陸軍科学研究所・技術本部Click!のビル群がひしめくように建設されていく。江戸川乱歩Click!の作品に登場した、戸山ヶ原の大きな目印だった「一本松」Click!も、陸軍科学研究所の敷地が北へ大きく拡張されるにつれ戦時中に伐採されている。
◆写真上:戸山ヶ原を東西に分ける山手線で、ビル側が明治~大正期の射撃演習場跡。
◆写真中上:戸山・大久保地域に残る、昔日の戸山ヶ原の面影いろいろ。
◆写真中下:上は、西側の戸山ヶ原から戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)へ移設された天祖社Click!。中・下は、昔日の戸山ヶ原を想像させる風景いろいろ。
◆写真下:上は、明治期と変わらない昔ながらの戸山ヶ原風景。中は、いまも残る防弾土塁のひとつ。下は、1931年(昭和6)に制作された川瀬巴水『冬の月 戸山ヶ原』。
実は美味しい“冷や飯喰らい”の妙。 [気になるエトセトラ]

わたしの母方の祖父は、冷や飯(ひやめし)が好きだった。祖父に限らず、冷や飯が好きな人が昔はたくさんいたように思う。“冷や飯喰らい”というと、江戸の武家の間では“厄介叔父”などとも呼ばれ、嫡子(長男)以外の弟たちは家の中では煙たがられたようだ。どこかへ養子のもらい手もない、あまり優秀でない、または幸運にめぐまれない男たちは生涯、家長あるいは嫡子が食事をしたあと、残った冷めた飯を遠慮しながらこっそり食わなければならない存在で、“石(ごく=米)つぶし”ともいわれて蔑まれた。
だが、中国や朝鮮半島由来の儒教思想に根のある、「家制度」にまつわるこのような習慣は、幕府の小旗本や御家人の間ではあまり根づかず、ましてや江戸の町人(商家・職人)の世界では家庭内の様相Click!がまったく異なっていた。一家の女性Click!(いわゆるお上Click!)がマネジメントをつかさどる家庭が多く、男は職技=仕事に精通して店(たな=企業)や家の経営は女性に委任する、男女の役割分担(分業化)が進んでいた。そのような家では、お上Click!の統括のもと“冷や飯喰らい”は不良にでもなっていなければ存在せず、兄弟そろって同じ仕事(職技)に励む家も少なくなかった。
少し横道へそれたけれど、“冷や飯喰らい”はあまりいい意味の言葉ではないが、炊きたての熱い飯ではなく、冷や飯を好んで食べる人が昔は多かった。もちろん、電子(保温)ジャーや電子レンジなど昔は存在しなかったので、冷や飯を食べる機会も多かったのだろうが、熱い飯では米の味がよくわからず、あえて飯を冷ましてから食べる人がたくさんいたのだ。冷めた飯のほうが、熱々の飯よりもじっくり噛みしめて味わえるので、米がもつ本来のうまさがよくわかり美味しいと感じたのだろう。
夏場の小腹満たしには、冷や飯の上に冷ました煎茶をかけて食べる冷や茶漬けClick!が好まれ、冬でも炊きたてではなく、飯を冷ましてから食事をする人たちが多かった。ただし、おみおつけ(味噌汁)やおすまし(すまし汁)は熱々でなければダメで、どのようにしたらもっともうまい飯が食べられるのか、昔の人たちはいろいろ食事の工夫や作法にこだわっていたにちがいない。確かに、熱々の飯よりは少し冷ましてから食べたほうが、米のうまさや銘柄による味わい、風味のちがいなどがよくわかる。
わたしも食べ物には意地きたないが、もっと意地きたない人の言葉を聞いてみよう。冷や飯以外は食わないといっているのは、ことのほか食にうるさい作家の子母澤寛Click!だ。1977年(昭和52)に出版された『味覚極楽』(新評社版)から引用してみよう。
▼
しかしこの時にきいた飯の味は冷や飯が本物だということは間違いない。私は道重さんの話をきいていったい本当かどうかと、試してみたのが病みつきで三十年来飯は冷や飯に限るとしている。寒中に冷や飯へ水をかけて沢庵で、なんてところまではいかないが、絶対熱い飯は喰わない。いや、喰えなくなってしまった。そのため朝など、女中さんが困ることもあるらしいが、少し硬目の冷や飯に、その代りだしのよく利いた舌の焼けるようなうまい味噌汁、これが私の一番好物で、ずっと今日までこれをやっているのだから、道重さんも地下で微笑していられるかも知れない。
▲
「道重さん」とは、徳川家の菩提寺Click!で巨刹のひとつである芝増上寺Click!の大僧正・道重信教のことだ。冬でも冷や飯に水をかけて食べていたらしいが、3000年前のシャカの教えのとおり「肉を喰うと慈愛の精神がなくなる」と説いた、動物の殺生を禁ずる戒律をもつ仏教僧Click!としては、しごくあたりまえの食生活だったのだろう。旅行などでよその地方に出かけ、現地で馴れないものを食べては吐いていたというから、ふだんから食べ馴れた飯(米)を持参する、まるで配給制度があった食糧難時代Click!のような趣きだが、それほど食や味に関してはうるさい人物だったらしい。
わたしの親父も、熱々の飯が苦手だった。多少ネコ舌だったせいもあるのだろうが、少し冷ましてから食べたほうがうまいといっていた。母方の祖父Click!も同様で、食事の最初に飯をよそらせ、しばらく酒を飲んだあと、ほどよく冷めたころを見はからって食べていた。この人も食に関してはこだわりがあり、めっぽううるさい人だった。



江戸の芝居茶屋から普及したうなぎ飯(うな重Click!)だが、あれは炊きたての飯の熱さを逆に利用したもので、すぐに食べなくても(幕間になるまでしばらく放置しても)、うなぎの焼きたて感が保てるための工夫だった。脂がのっているうなぎは、冷めると硬くなるので蒸しを強くするが、それでも芝居が役者のセリフまわりで長丁場だったりすると、皮が硬くなり食べにくくなる。うなぎが適度に温かみを保ち、飯がほどよく冷めたころ、双方がいちばん美味しく食べられるコツだったのだろう。
ちょっと余談だが、わたしはときに蒲焼きClick!の皮がパリッとして香ばしいのも好きで棄てがたい。たっぷりと蒸しをきかせて、口の中でとろけるような蒲焼きもいいが、焦げめの香ばしさを残したタレの味が映える食味も好きだ。現在は前者が乃手の店に多く、後者が今日いわゆる下町Click!と呼ばれている地域の店に多いだろうか。
蒲焼きヲタクだった新派Click!の俳優・伊井蓉峰Click!は、とにかく蒲焼きの皮が硬いなどもってのほかで、通りがかりではなくいきつけの店で蒲焼きをちぎろうと、箸を立てたら皮が抵抗してうまくいかず、さっそく店の親父に文句をいったところ、皮の硬いのが好みの客が増えているといわれた。「馬鹿なことで、うなぎは皮があってなきがごとしを上とするもんだ」と、子母澤の取材では話しているが、おそらく伊井は蒸しにたっぷりと時間をかけられる、高級な蒲焼き屋ばかりを食べ歩いていたのだろう。
ざっかけない蒲焼き屋では、通りすがりの客の回転も考えるため、蒸しの時間を短縮して出すことが多いのか、焼きが強い蒲焼きにお目にかかることがある。だが、それはそれなりにまた香ばしくタレがのって美味しく食べられるもので、わざわざ「上」だの「下」だのというほどのことでもないように感じる。もっともダメな蒲焼き屋(伊井の表現にならうなら「下」)は、うなぎの泥臭さをうまく処理できていない、料理の初歩的な技術からして知らないか、手抜きをしているような店だ。
さて、新宿の河田町には小笠原伯爵邸がいまもレストランとなってそのまま残るが、その小笠原家の誰かが京で面白い飯の食い方をしている。おそらく、江戸期の逸話ではないかと思われるが、まるで江戸市中で暮らした忙しい職人か俸手振(ぼてふり)、日雇取(ひようとり)のような食事の「作法」だ。同書より、子爵・小笠原長生が語る伝承を引用してみよう。
▼
むかし私の家の何代目かの人間が京都へ使いに行って宮中で御膳が出た。小笠原流の一家の者だ、どんなふうにして飯を食うだろうとさらでだにこんなことにはやかましい公卿さん達は唐紙障子のかげにかくれてすき見をしている。小笠原はただちにこれに気がついたのでまずいきなりお汁もお平のおわんもふたをとると飯の上へざぶりと汁をかけ、その上へお平をまた打ちかけ、また香の物を打ちかけてさくりと食い出した。公卿達は肝をつぶした。なあんだ小笠原一家の者だなどといって、あれでは田夫野人にも劣るというので、しきりに冷笑したが、いよいよ膳部を下げて箸を洗うことになってはじめてびっくりした。そんな荒っぽい食い方をしているにもかかわらず、箸の先が二分とはよごれていなかった。小笠原流などといってむやみに形式ばかり論ずるがそんなものじゃないということを示した訳である。
▲

わたしの世代でいえば、これは「木枯し紋次郎」風な食い方で、こんなことをすればわたしの家でもさっそく「お行儀が悪い!」と母親から叱責されただろう。
だが、礼儀や礼法で形式化された食べ方では、食事のほんとうの美味しさや醍醐味がわからないのは、『味覚極楽』でも多くの人が証言している。炊きたてで熱々のご飯を出して客をもてなしたり、うなぎを香ばしく皮がほんの少しパリッとするところ残して出したところ、かえって嫌な顔をされるシチュエーションもあることを考えると、料理というのはほんとうに奥が深くてむずかしいものだと思う。食に対する個々人の趣味嗜好はもちろんあるが、その外枠の“くくり”として地域・地方の食文化のちがいもあるのだろう。
やはり冷や飯が好きだったとみられる、子母澤寛Click!がインタビューした当時は民政党の影のボス、実質的な党首だった榊田清兵衛はこんなことを書いている。
▼
江戸生粋の料理でつづいた「八百善」がこの節はもなどを出したりするくらいで、いわゆるむかしからのうまい物屋もだんだんなくなってしまう。/江戸の料理というものは今ではなかなか味わえない。いろんなことはいっても上方料理の影響が利いて第一魚の切り方からが変わっている。それに支那料理風が流れこんだり、西洋風がはいったりして、つまり自然のものその物の味を出して、すべて淡白にやっていくという江戸料理よりは調味料をうまく使って食わせるというやり方が多くなっている。
▲
新鮮な素材がふんだんに手に入る、自然の風味を活かした料理が確かに江戸東京地方の大きな特徴であり持ち味なので、ゴテゴテといじくりまわすような料理を榊田が批判するのも無理はない。榊田が話すころから東京の料理屋の味、つまり“うまいもん”Click!の風味が少しずつ変化してきたのだろう。ただし、彼は政界のボス的な存在なので、八百善のような高級料理屋や新橋・赤坂あたりの料亭などで食事をする機会が多かったにちがいない。そのような店では明治以降、薩長政府の政治家や役人たちの舌にあわせた味つけを、あえてするようになっていたのに気づく。
八百善でハモ(鱧)が出たのが、よほど腹立たしく気障りだった榊田だが、確かに多彩な太平洋の魚に比べそれほどうまいとも思えないハモは、いまでも東京では普及していない。



わたしも、冷や飯食いをマネしようと何度か試みたのだが、湯気が立つ炊きたての飯の香りも棄てがたく、いまではかわりばんこClick!に味わうようになった。だから、道重信教や子母澤寛などにいわせれば、いまだ舌が未熟で米のほんとうの味を知らないのかもしれない。
◆写真上:新宿・河田町にある、2000年(平成12)よりレストランとなった小笠原長幹邸。
◆写真中上:上は、毎日食べるご飯で近ごろは山形の「つや姫」が定番。中は、めずらしくサルといっしょに写らない子母澤寛。下は、芝の増上寺境内。
◆写真中下:上は、新派の人気俳優だった伊井蓉峰のブロマイド。中・下は、牛込区(現・新宿区の一部)の河田町にレストランとして残る小笠原長幹邸(1927年築)。
◆写真下:上は、天保年間に制作された安藤広重Click!『江戸高名会亭尽/八百善』。中は、民政党のボスだった榊田清兵衛。下は、目黒不動ではなく巣鴨「にしむら」のうな重。
★おまけ
クーラーの冷たい風が苦手なのか、夏になるとどこかの天井近くで昼寝をする凶暴なアライグマ……ならぬ、うちのオトメヤマネコ(6歳♀)も猫舌で冷や飯しか食わない。

海辺で関東大震災に遭遇した画家たち。 [気になるエトセトラ]

1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!のとき、海辺のごく近くにいた画家としてこれまで岸田劉生Click!の証言を何度かご紹介してきた。劉生は津波を懸念して、鵠沼から藤沢駅の北にある丘陵地帯をめざしたが、幸い津波は境川を遡上してそこまでは到達せず、途中の石上駅近くの親切な農家で避難生活を送っている。
岸田劉生Click!と同じく、関東大震災と同時に発生した大津波Click!の際、海岸べりにいた画家は湘南海岸Click!(神奈川県)のほかに千葉県の房総半島側にもいる。明治末から大正期にかけ、画家の写生地として人気が高かった、太平洋に面する南房総の布良Click!や白浜だ。そこでは、画家たちが大津波の前に沖へ向け、いっせいに波が引いていく光景を目のあたりにしている。その様子は、曾宮一念Click!がとある高名な帝展画家から取材して、その思い出をエッセイに書き残している。
曾宮一念Click!自身も、風景画のモチーフとして南房総の村々は何度も繰り返し訪れているので、たまたま風景画の写生地について話題になったとき、その画家から大震災時の様子を聞いたのだろう。曾宮一念は、その画家のことを「謹厳で無口なその先生」と表現しているので、かなり年上の彼にとっては師匠格にあたる洋画家だったと思われる。
ちょうどこの時期、布良に滞在して制作をしていそうな洋画家には、寺崎武男や倉田白羊Click!、多々羅義雄らがいるが、寺崎はのちに南房総にアトリエをかまえている。また、倉田は1922年(大正11)に信州の上田へ転居しているが、夏季になったので南房総へ写生に訪れていたものだろうか。特に倉田白羊は、明治期に牛込弁天町のアトリエで絵画教室Click!を開いており、早稲田中学を中退した鶴田吾郎Click!が最初の弟子として入門している。寺崎も倉田も、曾宮一念よりは10歳以上も年長であり「先生」と呼んでもおかしくなく、彼も鶴田吾郎Click!を通じて「先生」のことを知っていたのかもしれない。
その帝展画家は、夏の初めから9月まで布良に滞在しており、地元の家の2階をアトリエとして写生に出ていたようだ。浜辺にある漁師の家や波、岩などを描いていたようで、8月末には40枚近いタブローが完成していたと曾宮一念に話している。
1923年(大正12)9月1日に大震災を経験した、その画家の証言を聞いてみよう。収録されているのは、1955年(昭和30)に四季社から刊行された曾宮一念『橎の畔みち』を底本に、1995年(平成7)に講談社から出版された曾宮一念『橎の畔みち・海辺の熔岩』(文庫版)から引用してみる。ちなみに、収録の「掘出した絵具箱」が書かれたのは1940年(昭和15)1月のことで、文中の「私」とは取材相手だった画家の一人称だ。
▼
その日九月一日も朝のうち仕事をして帰り、昼食前にパレットの掃除をしていた時、平素の風波の音とはちがって地の底から湧き出し身体まで戦かせるような響きの海鳴り、地鳴がしだした。と間もなく、私の体はポンと宙に吹き飛ばされ、これは大地震と気付くと共に着の身着のままで二階から駈け下り戸外へ出た。駈け下りる時のほんの瞬間に眼に映った景色は、遠く遠く潮が引いて海底が赤肌色に露われていた。この時の印象は今に忘れられない。/私も海水の引くのは津波の前兆だと知っていたし、近所の人々も山へ逃げろと呼ばわっているので夢中になって山手の方へ走り小高い丘に上り、その上更に大きな松の木の頂に攀じ登ってしまった。
▲



太平洋の沖に向かって海が後退していく、いわゆる海洋性=相模トラフ(わたしが子どものころまでは「相模湾トラフ」と呼称されていた)に由来した、巨大地震直後に起きる強烈な引き波を目撃して、津波の恐怖に襲われているのがわかる。鵠沼の岸田劉生のアトリエは、海岸から少し内陸へ入った場所にあったので海の様子が見えず、『劉生日記』Click!にも相模湾の引き波の様子は記録されていないが、その後に襲った津波の規模からすると、南房総と同様にかなり大規模な引き波が見られただろう。
最初、身体が浮き上がるように家屋の床面から投げだされ、あるいは屋外であれば身体が突き飛ばされたように転倒し、その直後から立っていられないほどの激しい横揺れがはじまったという、残された数多くの記録とも一致する証言Click!だ。横揺れの中、屋外へ逃げだした人々の多くは、屋根から落ちてくる瓦で負傷Click!している。また、当時の家屋は耐震設計などない時代の住宅なので、屋内にとどまった人たちあるいは逃げ遅れた人たちは、同大震災で5,000人以上が圧死Click!したとみられている。
今日、特に都市部などの住宅では耐震設計がほどこされ、瓦屋根を廃した軽量のスレート葺きが主流なので、簡単に倒壊してしまう住宅はそれほどないとみられる。ただし、鉄筋コンクリートの集合住宅では倒壊の危険が少ない反面、割れた窓ガラスの落下や壁面の剥脱・破壊によるコンクリート片の落下、割れた窓からの家具調度類の落下などが大きな懸念となっている。特に繁華な地域では、高層のビルやマンションなどの下にいる歩行者や、走行車の危険が改めて指摘されている。
さて、曾宮一念に話している帝展画家は、もうひとりいた知り合いの画家といっしょにアトリエの裏山へ避難し、松の木へ登ったのはいっしょにいた画家がそうしたので、自身もそれにつられて登ったと話している。小高い丘に上ったぐらいでは安心できず、大きめな松の木を選んでさらに高いところに登っているのは、沖合いから南房総の海岸線めがけて押し寄せてくる津波の巨大な“壁”に恐怖したからにちがいない。
つづけて、曾宮一念が採取した画家の証言を引用してみよう。
.jpg)
-033af.jpg)
-d5bb6.jpg)
▼
ちょうどこの時山のような、全く山のような波で、あんな波は北斎の版画で見たほかにはまだ本物には会ったことがないがそれが押し寄せて来る。それが来ると布良の部落は一嘗めにされ、私の居た二階家は一たん浮いて他の家々と打合って粉々に破壊されてしまった。私はまもなく松の木から下りたが、も一人の男は夜中松の木の上で明かした。/多勢(ママ:大勢)いた画家たちは八月末迄に布良を引揚げていて、私と松の木の男と日本画家の三人が震災に遭ったわけである。(カッコ内引用者註)
▲
このとき、画家はアトリエに描きためていた40枚近くのタブローと、絵の具箱をはじめ画道具をすべて津波に持っていかれて失った。上記の描写は、東日本大震災の被害を目のあたりにしているわたしたちの世代には、すぐにもその情景がリアルに浮かんでくる。特に津波の“音”には触れていないが、家屋や生木が根こそぎ押し倒され流される際には、海岸一帯にすさまじい騒音が響いていただろう。
しばらくすると、布良の部落の子が津波にさらわれ砂に埋もれていた絵の具箱を見つけ、画家の避難先までとどけてくれた。その後、この絵の具箱は画家にとって特別な存在になっていく。1935年(昭和10)すぎごろ、波太の岩礁で写生をしていた際、高波にさらわれて画架や絵の具箱が海底に沈んだが、翌日になると再び画家の手にもどっている。そのときのエピソードを、同書より引用してみよう。
▼
引潮であったが、まさか此処まではと思って画架を据え岩の上に絵具箱を置いて写生をしていた。もう少し、もう少しと日没後の明るさで仕事をしていた時、追々荒れていた波がとても逃げられぬ高さで押しよせて来て私は頭に(ママ:の)上までスッポリと波をかぶり、首が水から出た時はカンバスは十間も流されていたのを必死に泳ぎついて宿に持ち帰ることが出来た。箱は沈んでしまったのを翌日行って拾うことが出来た、(ママ:。) 絵具の重みが碇の役をして流されずに済んだらしい。こんな因縁があるとただの古び方とは違って一寸捨てられないのである。こういってその先生は焦土色の絵具箱を撫でまわした。
▲
このあとも、「先生」画家は荒れ海あるいは冬山で危うく遭難しそうになるが、この幸運の絵の具箱を持ち歩いていたせいか、そのつど危機を脱して無事に生還している。こうなると、画家は野外の写生には手放せない、“お守り”のような絵の具箱になっていたのだろう。



曾宮一念は、画家の絵の具箱について「今すぐにでも博物館に珍蔵されるだけの外見と因縁」を備えていると書き終えている。笠間日動美術館では、画家たちのパレットや絵の具箱を蒐集しているが、この帝展画家の絵の具箱も収蔵しているだろうか。海水に何度もつかって、古び方が半端ではない「焦土色」をした絵の具箱を、一度見てみたいものだ。
◆写真上:1923年(大正12)9月1日に撮影された、南房総・館山の地割れした北條通り。房総半島は、大震災で地面が2m前後も隆起している地域が多い。
◆写真中上:上は、相模湾の各地で見られるのと同じく関東大震災で海底から浮上した南房総・布良の岩礁で、沖の左手に見えている大きな島は伊豆大島。中は、1922年(大正11)ごろ制作された多々羅義雄『房州布良ヲ写ス』。下は、南房総の鴨川市太海浜にある画家たちの常宿のひとつだった江澤館Click!(裏山より江澤館様撮影Click!)。
◆写真中下:上は、国立科学博物館に保存されている津波で壊滅した相模湾の伊東風景(作者不詳)。中は、関東大震災で2m以上も隆起した南房総の岩礁。下は、関東大震災で2m前後もズレた南房総を走る延命寺断層(道路左手の小崖)。
◆写真下:上は、大正末から昭和初期に南房総をモチーフに制作された笠原吉太郎Click!『房州』Click!。のち1928年(大正3)9月に、東京朝日新聞社で開かれた第3回笠原吉太郎展に出品された、『船のとも』と同一画面ではないかと思われる。渚に近い海には、関東大震災で浮上したとみられる岩礁がいくつも描かれている。中は、刑部人Click!の絵の具箱と写生用パレット。下は、1925~1926年(大正14~15)ごろに描かれた佐伯祐三Click!『絵具箱』。
『高田村誌』(1919年)の編者たちは怪談好き。 [気になるエトセトラ]

1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)には、妖怪譚や幽霊話がいくつか掲載されている。高田村の行政に関連した情報は、わずか45ページに凝縮し、あとは名所・旧跡や記念物、伝承・説話、そして村内の多彩な事業について記述しているところをみると、編者たちには文化や歴史好きが多かったとみられる。
代表的な幽霊話は、物語の前提としてなにがあったのかは不明だが、諸国をわたり歩くようになった、うら若くて可憐な巡礼姉妹のエピソードだ。日本女子大学校の学生寮Click!が建っている丘(金山稲荷Click!のあった丘)の東側に通う、いまもつづくダラダラ坂が怪談の舞台だ。同村誌に収録された伝承のひとつ、「巡礼妹の墓」より少し長いが引用してみよう。
▼
時代は既に変りて、今こそは日本女子教育の淵叢、学術知識の権威である私立日本女子大学の輪奐たる大建築を並べて、殷賑小石川の街衢となつてゐるが、昔は昔、笹薮続く閑寂の里であつた、空低うして雲暗き五月雨頃の夕まぐれ、見るも可憐な姉妹の巡礼、今の女子大学寄宿舎わきのだらだら坂を巡礼唄の声もほろほろに哀を罩めて通りかけたか(ママ:が)、ふとしたことで二人は死んでしまつた、姉には墓をた(ママ)てたが、どうしたものか妹には立てなかつた、哀れは更に深く暗い幕を垂れた、それからは、だらだら坂を通る人々に、がたがたと身の毛もよだつ音をたてたり、哀願の声を振りたてたりして啜泣いた、里人はこの哀れ深き妹巡礼のためにも墓を立てた、それからは、泣き声も消えたれば、哀れの姿も消え失たと。
▲
巡礼の姉妹が、なぜ「ふとしたことで」死んだのかは語られていないが、巡礼がめずらしくない伝承の様子からすると江地時代から伝わる怪談のようだ。
このような口承伝承の場合、姉妹が死んだとされる原因、たとえば栄養失調で行き倒れたとか、たまたま地域で流行っていた疫病や、追いはぎの襲撃、バッケ(崖地)Click!からの滑落……等々、なんらかの死因が伝わるのがこの手の話の常だが、それが飛ばされ欠落しているのが、そしてふたり同時に死亡しているのが不可解だ。
巡礼姉妹は、先ゆきを悲観して近くの溜池にでも身を投げ自殺でもしたか、あるいは護身用の短刀で自害でもしたのだろうか。あるいは、死因を伝承してはマズイことでも小石川村内、あるいは雑司ヶ谷村(のち高田村へ併合)で起きたのだろうか。
現在でも、このダラダラ坂は片側(西側)が金山Click!のバッケ(崖地)がつづき、坂の上から見ると家々が建つのは坂の左手(東側)だけで、夜間などは仄暗い闇の空間がつづいている。この坂道のどこかに、おそらく江戸期からつづく巡礼姉妹の墓があったとみられるが、もはや一面の住宅街に埋もれて当時の面影はどこにも存在しない。
つづいて、雑司ヶ谷鬼子母神Click!にあったことになっている、お化けツバキの伝承だ。この怪談は、それほど古くはないようで、『高田村誌』が編纂された当時も、リアルタイムで当該のツバキは存在していたようだ。同村誌より、「伝説化椿の話」から引用しよう。ただし、文中では「鬼子母神境内」とされているが、正確には「法明寺境内」の誤りだ。
▼
鬼子母神境内仁王門を潜つて安国様題目堂に突当る、題目堂のわき、楠木正成公息女の墓に、一株の椿ががある、灌木性としての椿としては可なりの歳経りたるものである、里人之を化椿といふ、今は昔夜更けて茲を通る時は其形様々に変りて通行人に呼び声をかけしと言ふ、時には枯木寒厳の老和尚とも変り、妙齢窈窕たる美人にも化して見えしとか。
▲


既述のように、「楠木正成息女の墓」があるのは、法明寺Click!の境内(墓地)であり雑司ヶ谷鬼子母神Click!の境内ではないのだが、鬼子母神も法明寺の伽藍の一部なので、より読者へわかりやすく伝えるために、有名で“通り”がいい名称を付加したものだろう。夜の法明寺墓地へ、ちょっと散歩がてら出かけたくなる怪談ではないか。
「幽霊の正体見たり……」の類の典型話だが、この怪談を年寄りから聞いて“肝だめし”に出かけた周辺の若者たちも多かったのではないか。わたしも、夜に法明寺墓地の脇を通る機会があれば、「枯木寒厳の老和尚」なら即座に無視して通過するが、「妙齢窈窕たる美人」ならちょっと立ち寄ってもみたくなる。ただし、ここに書かれている法妙寺境内の風景は戦災で焼失しているので、かなり趣きが異なっているのだろう。名前を借りたとみられる雑司ヶ谷鬼子母神のほうは、戦災をまぬがれて昔日の姿を残している。
さて、もちろん場ちがいな関東に楠木正成の事蹟が存在するわけがなく、明治以降に誰かが皇国史観Click!にもとづき適当な「姫塚」(女性墓)に、南朝の「忠臣」である「楠木正成」伝説をくっつけて創作したものだろうと考えていた。前世紀の末、豊島区郷土資料館が調査したところによると、この墓は江戸期の1838年(天保9)に「中沢」という人物が建立したものであることが判明している。建立の時期が幕末に近いため、「中沢」という人物が国学に傾倒していた可能性があり、雑司ヶ谷に伝わる既存の伝説や説話に「楠木正成」を接合したのではなかろうか。
次の怪談は、動物がらみの祟り譚だ。目白界隈は、昔からタヌキClick!がらみの怪談が多く、拙サイトでは目白台の大岡屋敷での怪談もご紹介している。今回は、清戸道(せいどどう)Click!に面していた田安家(おそらく下屋敷or抱え屋敷?)での怪談だ。目白に田安屋敷があったのは、いったいいつごろのことだろうか。少なくとも江戸後期ではないと思われるので、ずいぶん古くから伝わる怪談なのかもしれない。あるいは、この怪談も屋敷名をまちがえた伝承だろうか。同村誌より、「田安邸狸征伐の伝説」から引用してみよう。
▼
徳川御三家、田安様のお邸は現今の交番から高田銀行の向ふに渡つて広々と取られてあつた、其屋敷中に狐狸が多数に棲んで居つた、すると同家では年々三度の練兵があるので鉄砲の声ききては狐狸の驚き荒ぶ事一方ならず、この事殿様の御目に止り、誰か討取るものなきかと下令あり、誰か誰かと評定の末、大砲方の西原某といふ男に一番槍にて右足をつかれ、狐狸はどんどんと生捕られた、此事より西原某は殿より御加俸あり大方の面目を施した。/其後西原の妻は病に罹つたか恁うしたのか狸の真似をしながら狂死の如くになつて辞世した、それかあらぬか生れし女児も半身不随の不具者と成つたので西原氏は今更に応報が恐ろしく遂に行衛不明となつた。
▲
文中に登場する「交番」は、高田大通りClick!(目白通り)をはさみ鬼子母神の表参道入口前にあった交番Click!だとみられ、「高田銀行」は大通りをはさんで東側の斜向かいにあった新倉徳三郎Click!が頭取をつとめていた高田農商銀行Click!のことだ。
「化け猫」Click!ならぬ「化け狸」の復讐譚だが、当事者が「行衛不明」になってあとからの検証のしようがない、現代にありがちな怪談の類に似ている。知りあいの、そのまた知りあいの友だちの弟が経験したらしい怪談で、「その弟が現在では行方不明なんだって」……などという落ちで、最初から“ウラ取り”がまったくできず検証を拒否するような構成になっている、ありがちな江戸期の都市伝説だろうか。
冒頭でご紹介した「巡礼妹の墓」や次の「伝説化椿の話」は、なにか印象的な物語が紡がれ伝承されてきたような、その基盤となるなんらかの故事や事実・実話が、確かに存在していたようなリアリズムの手ざわりを感じる。けれどもタヌキの祟り譚は、なにかよくないことや都合の悪いことが起きるとすべて狐狸のせいにして、無理やり納得(課題や混乱を収拾)していた時代の、野放図な説話の焼きなおしにすぎないように感じる。
確かに、江戸前期あたりに目白・雑司ヶ谷地域に広い屋敷があれば、タヌキは喜んで縁の下などを恰好の棲みかとしていただろうし(下落合にはいまでも棲んでいるが)、屋敷の残飯をねらって厨房へ忍びこみ、保存してあった食料などを掻っさらっていったかも知れず、その被害をなくすために「殿様」は家臣に退治するよう命じたかもしれない。だが、「西原某」の不幸とタヌキとは、まったく関係のない出来事だろう。
「大岡様のお屋敷狸の悪戯」でも書いたが、なにか釈明の困難な出来事や、人々が動揺し混乱するような出来事、あえて誰かが重い責任を問われかねないような事件がもちあがり、それが家名や藩名を傷つけるような事態に立ちいたった場合、すべてを“丸く収める”ために狐狸のせいにしたり、「池袋の女」Click!が原因だとしているような感触をおぼえる。それを怪談に仕立てさえすれば、とりあえず誰かが強い責めや恥辱をうける心配もなくウヤムヤとなり、世間への体面や釈明もなんとかなる……というような時代だったのだろう。



同村誌には「南蔵院」も紹介されているが、有名な『怪談乳房榎』Click!は収録されていない。編者は落語や講談、芝居の演目としてフィクションだと判断したらしい。だが、1929年(昭和4)に三才社から発行された江副廣忠Click!の『高田の今昔』Click!では、同寺に類似のエピソードが伝承されてきている事実を突きとめている。この怪談も、まったくの根も葉もないフィクションではなく、痴情のもつれによる殺人事件という史実を知った怪談作者(圓朝)が、それをベースに枝葉をつけ足して怪談に仕立てなおしているとみられる。
◆写真上:雑司ヶ谷鬼子母神の北、威光稲荷Click!の近くにある円形にカーブする路地。
◆写真中上:上は、1919年(大正8)ごろに撮影された日本女子大学校の「櫻楓館」。中は、金山稲荷のあった丘。下は、その丘の東側に通うダラダラ坂。
◆写真中下:法明寺の境内にある山門(上)と本堂(画面右手/中)、そして墓地(下)。
◆写真下:上は、「田安屋敷」があったとされる目白台から南の眺望。中左は、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)。中右は、同村誌に掲載された戦災で焼ける前の南蔵院境内。南蔵院本堂は、1847年(弘化4)に大江戸を襲った台風で倒壊しているとみられ、その際に『怪談乳房榎』の由来となった狩野朱信の「雄龍、牝龍」が失われている。下は、清戸道の読みに「せいどどう」のルビをふっている同村誌の記述。