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ようやく入手した籾山牧場絵はがき。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域や長崎地域、高田地域などの周辺域には、明治後期から昭和初期にかけ「東京牧場」Click!と呼ばれた、たくさんの乳牛牧場が存在していた。落合地域では、上落合429番地一帯にあった福室軒牧場Click!、葛ヶ谷374番地(のち西落合1丁目374番地)にあった斎藤牧場Click!、そして上落合と上高田の境界にあたる上落合(2丁目)882番地にあった牧成社牧場Click!の3ヶ所が現在まで確認できる。
 この中で、戦争をはさむ1940年代まで事業を継続していたのは、当時は有名だった「キング牛乳」の加工を引き受けていたとみられる上落合の牧成社牧場だが、戦時中は乳牛Click!だけでなく馬(軍馬)の飼育も行われていたことを、上落合の古い住民の方からうかがっている。1930年代になると、上落合には住宅が密に建ち並ぶようになり、風向きで牧成社牧場から漂ってくる家畜の臭気が住宅街に流れこんで、何度か立ち退き問題にまで発展していることも取材させていただいた。
 これら住宅街に近接した「東京牧場」Click!は、大正末から昭和初期にかけて、さらに郊外域へと次々に移転している。上記のように関東大震災Click!の影響から、建物が稠密な東京の市街地から郊外へ市民の移動が急増するにつれ、住宅街の中に取り残されていく牧場には、臭気や衛生の課題から白い眼が向けられるようになっていった。
 また、警視庁による牛乳の衛生管理Click!が厳しくなるにつれ、より郊外への移転を断念し廃業した牧場も少なくない。行政による衛生管理規制では、牛が十分に運動できる広々とした敷地が求められ、より広い土地を確保できない面積の狭い牧場は廃業に追いこまれている。当時の様子を、1990年(平成2)に発行された「ミルク色の残像」展図録(豊島区立郷土資料館)から引用してみよう。
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 一九〇〇(明治三三)年には、警視庁から「牛乳営業取締に関する施行規則」が公布され、牧場経営者は「公衆衛生」を軸にした国家の統制の下で、搾乳と販売を行わなければならなくなった。包装容器の標示や営業者の定義と許可、病気にかかった乳牛の規制や搾乳所の規制などが定められ、特にその後、搾乳所の構造を規定し運動場の設置を義務づけるなどの条件が付けられ、狭い市内では経営が立ち行かず、大部分の牧場が市外へ移転していく。明確なデータは提示できないものの、当時全くの郊外であった豊島区地域における牧場の数も、この時期を前後して上昇していくようである。
  
 上気の記述は、そのまま落合地域にも重ねて当てはまるだろう。この衛生管理の厳しさは、以前、守山商会Click!の牧場経営にからめて神奈川県の事例でご紹介しているが、東京でも事情はまったく同じだった。
 当時、牛乳による食中毒の防止を名目に、各自治体や警視庁衛生部が次々と厳しい規制による管理・監督強化を実施しているが、これは裏返せば十分な衛生設備へ資本を投下できる大規模な乳製品企業による中小牧場の統合・吸収、ないしは中小牧場への事業つぶしとみごとにシンクロしている。現存する大手乳製品企業の多くは、警視庁や自治体による中小搾乳牧場への規制強化と比例して、急速に成長・発展をとげている。
 やがて、東京郊外だった現在の豊島区や淀橋区(現・新宿区の一部)の市街地化が進んでくると、街中になりつつあった牧場は事実上追いだされ、より地価が安く広い「運動場」を確保できる外周域へと移転していった。その跡地は、大手ディベロッパーや地元の開発業者が入り、新たな分譲住宅地として販売されているケースが多い。
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 さて、落合地域とは道路1本隔てるだけで隣接していた、北豊島郡長崎村五郎窪4277番地(現・南長崎6丁目9番地)の籾山牧場Click!について、かなり以前に記事を書いてご紹介している。そして、籾山英次という人が経営していた、同牧場の写真をようやく手に入れることができた。(冒頭写真) 同牧場が記念絵はがきになっているのは、ずいぶん以前から知っていたが、なかなか現物に出あえなかったのだ。
 籾山牧場は、東京市内で牛乳の需要が急増した明治後期から、大正末あるいは昭和の最初期まで営業していたとみられ、1928年(昭和3)ごろに「籾山分譲地」として宅地開発・販売されている。ただし、この時点で販売されているのは、牧場全体の北西部にあたる籾山牧場の本社屋が建っていた区画であり、全面積の約50%ほどだった。つまり、牛舎や運動場があった残り南東部の広い区画は、牧草地ともどもそのままの状態がつづくので、ひょっとすると昭和に入ってからも規模を縮小して乳牛が飼育されていたか、あるいは乳牛の繁殖所ないしは品種改良所として機能していたのかもしれない。
 文字どおり、「牧歌的」な住宅地だった籾山分譲地は30の区画に分割され、面積は100坪前後から最大472坪までの敷地が販売されている。1928年(昭和3)の販売開始と同時に、すでに4区画が売約済みになっているので、同牧場の住宅地はかなり注目されていたようだ。武蔵野鉄道の東長崎駅まで徒歩5分という好立地も、人気が高かった要因だろう。籾山分譲地のパンフレットについて、1996年(平成8)に発行された「長崎村物語」展図録(豊島区立郷土資料館)のキャプションから引用してみよう。
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 南長崎6丁目には、かつて籾山牧場という牧場があった。その牧場が住宅地として分離(ママ:分譲)されたときの案内パンフレットである。発行年の記載はないが、分譲地の一角(ママ:一画)を購入した方のお話から、1928年(昭和3)年頃の発行と推定される。パンフレットは三つ折り。分譲の場所(「清戸道沿い」とある)、交通、設備等が記され、すでに売買済の区画に「済」の押印がある。表紙の図柄は緑色、分譲地一帯は田園風景で、そのなかに洋風の建物が見える。富士山が望見され、当地が東京郊外の住宅地として適地であることを宣伝している。(ママカッコ内引用者註)
  
 籾山牧場は、その敷地内に千川分水(落合分水Click!=葛ヶ谷分水)が流れており、その小流れを含む牧場の北西敷地が開発されている。その落合分水の様子は、冒頭の籾山牧場絵はがきの門手前、道路沿いにもとらえられている。
 おそらく、大正前期に撮影されたとみられる絵はがきの写真だが、撮影された場所の特定はかなり容易だった。籾山牧場への入口(門)がとらえられた同写真は、明らかに逆光ぎみで撮影されており、北側から南方面を向いて写された可能性が高いことがわかる。すなわち、画面の正面または左寄りが南の方角ということになる。そして、1926年(大正15)に作成された「長崎町西部事情明細図」を参照すると、籾山牧場への入口の記号は、北側の清戸道に面して3ヶ所あることがわかる。
 その入口のうち、いちばん西寄りにあるのが籾山牧場株式会社の本社屋への入口であり、いちばん東寄りにあるのが牛を放牧する牧草地への入口だ。その真ん中にあるのが、おそらく牧場の関係者宅なのだろう、門から向かって右手に小川幸次郎邸が建っている入口だ。したがって、絵はがきの写真は籾山牧場への入口の中央門を撮影したものだろう。
 門を入って、写真の右手に写っているのが小川幸次郎邸だとみられる。そして、写真の左手つまり東側一帯には、籾山牧場の広い牧草地(運動場)が拡がっていることになる。その写真部分を拡大してみると、乳牛らしい姿が何頭かとらえられているのが見える。そして、門の手前に小さな橋が架かっているが、その下を流れているのが直角に折れた千川上水Click!から分岐したばかりの落合分水(葛ヶ谷分水)の小流れだ。この門のある位置から見える奥の敷地は、のちに籾山分譲地として販売される一帯の土地だ。
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長谷川利行「朝霞のなかの牛」1938.jpg
 昭和初期、牧草地の隣りに赤や青の屋根を載せた西洋館が建ち並ぶ風情は、のどかで美しい眺めだったろう。籾山牧場の周辺は、戦争による絨毯爆撃を受けていないので、西落合と同様に昭和初期に建てられた近代建築の住宅を、いまでも目にすることができる。

◆写真上:大正前期の撮影とみられる、「東京府北豊島郡長崎村籾山牧場」絵はがき。
◆写真中上は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる籾山牧場。は、1926年(大正15)の「長崎町西部事情明細図」にみる同牧場。の2枚は、絵はがきに写る小川幸次郎邸とみられる住宅と、牧草地に放牧されている牛たちの拡大。
◆写真中下の4枚は、1928年(昭和3)ごろに作成された「籾山分譲地」案内パンフレット。の3枚は、同分譲地に残る昭和初期に建設された西洋館いろいろ。
◆写真下は、西落合1丁目306番地(のち303番地)にアトリエがあった鬼頭鍋三郎Click!のデッサン『牛』(1932年)。松下春雄アトリエClick!に残された作品で、近くの籾山牧場での写生と思われる。中上は、下落合1599番地にアトリエがあった江藤純平Click!『牛』。中下は、1928年(昭和3)夏に下落合2108番地の吉屋信子Click!が下落合2143番地あたりで撮影した木陰の乳牛。西武線の際なので、おそらく上落合の牧成社牧場に関係している乳牛だろう。は、同じく1928年(昭和3)に描かれた長谷川利行Click!『朝霞のなかの牛』。

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日本の艦船基盤技術と目白水槽。(下) [気になるエトセトラ]

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 目白水槽は、逓信省の船舶試験所Click!として敗戦を迎えたあと、ほどなく1946年(昭和21)には試験所創立30周年の記念式典を開催している。逓信省から運輸省の管轄に移され、1950年(昭和25)3月には船舶試験所の名称は廃止され、運輸技術研究所に統合されることになった。そして、1967年(昭和42)に財団法人日本造船技術センターとなり、2003年(平成15)4月に目白水槽が廃止・解体されるまで業務をつづけている。
 1927年(昭和2)から、廃止される2003年(平成15)までの間に、目白水槽の第1試験水槽および第2試験水槽では4,500隻(船型模型番号に準拠の数値)もの船型試験が行われている。また、より高速な第2試験水槽の設置で行われた航空機の試験を加えれば、さらに数多くの船型(機体)テストが繰り返し実施されたのだろう。
 (財)日本造船技術センターになった1967年(昭和42)には、設備や建屋の老朽化が目立ちはじめ近代的な改装工事が必要になっている。1963年(昭和48)に行われた設備の近代化と建屋の改装たが、その後、徐々に船型試験業務の案件は下降線をたどることになる。2004年(平成16)に出版された『日本造船技術センター目白史(36年の歩み)』(日本造船技術センター・編/非売品)から、当時の様子を引用してみよう。
  
 当センターの施設を大別すると、第1及び第2船型試験水槽、プロペラキャビテーション水槽、減圧回流水槽、工場の各施設、及び建屋があり、さらにこれらのハードウェア群を円滑に運用するための計算機システムが整備されている。この中で船型試験水槽には、建設以来76年余(第1水槽)の歴史があるので、水槽の運用の仕方は時代の要求に従ってさまざまに変化してきた。/特に当センターの36年間は、それ以前の時代と対比すると、造船業界及び造船技術にかつてない大きな変化があった時代と考えられる。/当センターが設立された当初(昭和42年)は、造船業が活況であったため国内に船型試験水槽の不足が目立ち、水槽の現場を与る者としてはこの問題の解消が急務であった。しかし、その後の第1次石油危機(昭和48)を契機に造船市況は不況期に移り、さらに大手造船所による新設試験水槽の建設が相次いだため、結果的に試験業務量が不足して、目白水槽の運営にも大きな影響が現れた。
  
 著者は、造船所における自前水槽の増加や、オイルショックによる造船不況を目白水槽の衰退の原因として挙げているけれど、もっとも大きな要因は日本の造船業がよりコストパフォーマンスの高い韓国や中国に追い抜かれたのと、文中にも書かれている「計算機システム」、すなわち実試験を必要としないコンピュータシステムによるシミュレーション技術が、飛躍的に発達した要因が大きいだろう。
 現在、高層ビルを建設する際に行う耐震・耐暴風テストや、ビル風の対策テストなどのシミュレーションは、ほとんどがHPCクラスタシステムかスパコン(日本独自のVectorエンジンが得意)などを用いて行われている。同様に、船舶の水流試験や航空機の風洞試験なども、実際にモックアップを製作して実験するのではなく、より正確で精密な計測や影響評価ができる、大規模なシミュレーションシステムを使って行うのが一般化している。
 つまり、実際に設計されたのと同一の船舶の模型を製作し、長大な水槽を使って人工的に起こした波の上を航行させて、水流や波形の影響を評価するというアナログ試験は時代遅れになりつつあり、試験業務のリードタイムやコスト、検証効率などに優れたVRをも含む高度なシミュレーションシステムに取って代わられつつあった……というのが実情だろう。
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 文中に、なぜか店頭からトイレットペーパーとティッシュペーパーが消えた(COVID-19禍と同様にデマだった)、第1次石油ショックについて書かれているけれど、戦後に建造された日本の石油タンカーをはじめ貨物船や客船など商船のほとんどが、船首の喫水下にバルバス・バウ(Bulbous Bow)を採用している。おそらく、戦前に船型試験所だった時代の目白水槽でも、バルバス・バウの研究が行われていたと思われる。
 バルバス・バウは、1911年(明治44)に米国で考案された古くからある造船設計技術で、航行する艦船自体が生みだす造波抵抗を軽減するために、球状のかたちをした突起物を船首の喫水下へ装備したものだ。重量のあるタンカーが、積み荷の原油をオイルタンクに陸揚げし、軽くなった喫水の浅い船体で航行するのをご覧になったことがある方は、船首の喫水線下部に丸く突きでたコブのようなふくらみをよくご存じだろう。軍艦だと、その球体の中に対潜ソナーが装備されていたりするが、船首にあの丸みのある突起をつけるだけで、船速の向上や燃料の節約など、船舶の航行を目に見えて効率化することができる技術だ。排水量が大きな艦船ほど、その効果が大きいといわれている。
 戦前、日本の貨客船にバルバス・バウを採用したものはなさそうだが、戦後に建造された商船のほとんどには、この技術が「標準仕様」のように採用されている。また、戦前の日本海軍が建造した大型艦船には、バルバス・バウを採用したものが登場している。代表的なものには、戦艦「大和」Click!「武蔵」をはじめ、空母「翔鶴」「瑞鶴」「大鳳」「信濃」Click!などがある。これらの運用を通じて、船足の高速化や燃費の効率化から目白水槽でもバルバス・バウの船型装備について、水槽試験を含め早くから注目していたと思われるのだ。
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 目白水槽が廃止になる少し前、同センターの変電室で大きな事故が発生している。この事故で、目白地域にあるオフィスビルや住宅、商店などを含む一帯が停電し、同センターでは地域の緊急防災拠点だった目白消防署へ謝罪に出かけているようだ。『日本造船技術センター目白史(36年の歩み)』に収録された、第5代理事長の岡町一雄「(財)日本造船技術センターの思い出」から引用してみよう。
  
 (前略) 今でもはっきりと脳裏に刻まれているのは、変電室の事故のことです。造技セの仕事は言わば現場作業が主であり、事故、とくに人身事故のないよう絶えず最優先で努力していたのですが、私の在任中に一度、地下に設置されている変電室で作業中の職員二人が感電し、突然遮断器が下りる停電事故がありました。一人は軽傷でしたが、もう一人は電気が人体を通り抜ける重傷で、救急車を呼んで信濃町にある東京女子医大の病院に入院させました。/幸い後遺症もなく、元通り元気になったのは不幸中の幸いでした。しかし、停電のため近隣の事務所のコンピューターを狂わせたとかで、目白の消防署に謝りにいった苦い思い出があります。
  
 1990年前後に、学習院とその周辺のオフィスビルへお勤めだった方、あるいは自宅で仕事をしていた方の中で、いきなり停電またはUPS稼働初期の瞬電が起こり、PCに入力中のデータが全部パーになって(当時のPCには、瞬電と同時に入力中のデータを退避させる機能が未装備だった)、「バッカヤロー!」と叫んだ方はおられるだろうか? それは電力会社が悪いのではなく、目白水槽の変電室が原因だったのだ。w
 試験業務が減少し事業経営が苦しくなりはじめたころ、巨大な目白水槽の上にオフィスやマンションが入る高層ビルを建設し、その家賃収入で収益を上げる計画が浮上している。それまでにも、同センターでは事務所ビルの3階および2階・中2階を別の組織や団体に賃貸しており、その収入でずいぶん経営が助けられていたようだ。窮状をメインバンクに相談したところ、バブル景気の真っ最中だったので銀行も複合ビル建設には乗り気だったらしいが、学習院大学のキャンパスは学園地区に指定されており、高層建築は困難だといわれたようだ。その後、バブルがはじけるとともにビルの建設はうやむやになった。
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 オフィスと住居が混在する目白水槽複合ビルは、その完成予想図までが制作されているので、当時はかなりリアルな建設計画として進捗していたのだろう。同書では「高層ビル」という表現がつかわれているけれど、今日的な視点から見るなら「中層複合ビル」といったところだろうか。目白水槽が廃止されたのち、同敷地に建設されたマンション「目白ガーデンヒルズ」のほうが、よほど「高層」で大きく見えてしまうのだ。
                                  <了>

◆写真上:2003年(平成15)ごろ撮影の、第2試験水槽(手前)と第1試験水槽(奥)。
◆写真中上は、戦後の1956年(昭和31)に撮影された運輸省の運輸技術研究所。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白水槽。2本の水槽全体を覆う、ひとつの長大な屋根にリニューアルされている。は、2003年(平成15)ごろに撮影された(財)日本造船技術センターの正門付近で、背後の森は学習院大学のキャンパス。
◆写真中下は、廃止前に撮影された日本造船技術センターの模型製作工場。は、船型模型を使って試験水槽で行われる波浪試験。は、戦前にバルバス・バウを採用した代表的な艦型の戦艦「武蔵」。雷撃訓練中の航空機からの撮影で、前檣楼のニコン製測距儀のトップが白く塗られていることから1942年(昭和17)の撮影だろうか。同艦は旗艦設備を備えていたため、同型艦の「大和」よりも排水規模が大きかったが、艦船では例外的に舷側窓がふさがれ全廃されているところが「大和」との大きな相違点だとみられる。
◆写真下は、1992年(平成4)の空中写真にみる日本造船技術センター全景。は、目白水槽を包括した複合ビル完成予想図。は、高層マンションになった目白水槽跡の現状。

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日本の船舶基盤技術と目白水槽。(上) [気になるエトセトラ]

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 下落合から山手線のガードClick!をくぐり抜け、学習院の下に通う雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)を歩いていくと、2003年(平成15)ごろまで学習院馬場Click!のある手前左手に3階建てのビルとともに、全長200mほどの細長い倉庫のような建物があった。1927年(昭和2)11月に竣工(建物や付属工場の完工は1929年)した、戦前からつづく旧・逓信省船型試験所(のち船舶試験所)の「目白水槽」だ。
 船型試験所の水槽とは、艦船が水の抵抗を抑えてできるだけ効率的に航行するために、あるいは高速な船速を確保し維持するために、船型やプロペラ(スクリュー)の形状などを研究開発する、R&Dセンターのような役割を担っていた。1931年(昭和6)現在で、日本には大型の船型試験水槽が3ヶ所しか存在せず、ひとつが1907年(明治40)竣工ともっとも古い、長崎の三菱造船所の試験水槽(全長約122m)、ふたつめが上記の学習院の下に位置する高田町(現・目白1丁目)の逓信省試験水槽(当初は全長約140m)で、3つめが1931年(昭和6)に目黒へ建設された海軍技術研究所の試験水槽(全長約246m)だ。この中で、目黒にあった海軍の試験水槽は、世界でも最大クラスの水槽だった。
 基本的には、目白の逓信省船型試験所は民間船舶の研究に、目黒の海軍技術研究所は軍艦建造の研究に利用されたが、1930年(昭和5)のロンドン海軍軍縮会議以降は、将来の戦時においては民間船を空母などの軍艦に改装することを前提に船型や船速、船内構造などに対して、さまざまな注文が海軍から民間の汽船会社や造船会社に出され、目白の逓信省船型試験所も多種多様な実験を通じて、その影響を大きく受けていただろう。拙サイトでも、上落合の吉武東里Click!が内装を手がける予定だった、日本郵船の豪華客船「橿原丸」Click!が空母「隼鷹」に改装された経緯を記事にしている。
 さて、昭和初期に建設された試験水槽について、1978年(昭和53)発行の「日本造船学会誌」に連載された、竹沢誠二『本邦試験水槽発達小史』から引用してみよう。
  
 昭和初期の本邦試験水槽界の状況について、永年東大船舶工学科の抵抗推進講座を担当されていた山本武蔵教授著の“船舶”(昭和5年発行)に次の記述がある。「最近完成した東京府下目白の逓信省船型試験所の水槽は大形の部に属し、幅33呎(フィート:約10m)、水深19呎(約6.2m)、長さは459呎(約140m)で、後日更に千呎(約300m)余まで延長し得る敷地を備えて居るという事である。海軍の艦型試験所はもと築地に在ったのであるが、関東大震災の厄に逢い、目下東京府下目黒に新たに建造中の由で、完成の上は恐らく世界で最新式かつ最大の完備したものになることであろう。」/このように昭和の初期に語呂合せのようであるが“目白”に逓信省の大水槽(現在の造船技術センター目白水槽)、次いで“目黒”に海軍の大水槽(現在の防衛庁目黒水槽)が完成し、本邦の試験水槽界は一躍一流へ伸し上がったのである。(呎単位のカッコ内引用者註)
  
 当時、世界各国は造船技術の研究開発にしのぎを削っており、巨大な試験水槽は米国やイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア、オーストリア、オランダ、ノルウェーなどで競うように建造されていた。これらの国々は、19世紀からつづく海洋国であり、また強力な海軍力を保有していた国々であったことにも留意したい。
 逓信省船型試験所目白水槽の建造が企画されたのは、1920年(大正9)とかなり早い。翌1921年(大正10)に逓信省から予算が計上され、帝国議会の承認をえて4年間にわたる建設工事計画がスタートした。建設予定地が学習院の敷地内だったため、同年には学習院の目白崖線斜面を東西に長く2,846坪ほど買収している。
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 水槽設備や機器を、ドイツとオーストリアに発注して建設準備が進められたが、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!で建設工事がとん挫し、計画の遂行が不可能になった。建設予算がすべて震災の復興費にまわされたため、目白水槽の完成は3年遅れて1927年(昭和2)の晩秋までずれこんでいる。
 逓信省の目白水槽は、巨大な試験施設にもかかわらず当初は技師が2名に技手が1名、技工が2名、その他の守衛や小使いが4名の、計11名しか勤務していなかった。だが、太平洋戦争がはじまった翌日の1941年(昭和16)12月9日には、逓信大臣直轄の渉外部局の試験所となり、実質は海軍の管轄下に入って所員も179名に急増している。同時に、水槽の長さが60mほど延長され、全長200mの巨大な試験水槽を備えるにいたった。
 設備は100%外国製で(当時の日本には試験水槽を建設する技術もノウハウもなかった)、曳引車がマシーネン・ウント・ワーゴンバウ・ファブリック社製、レールがカーネギー社製、電源装置がシーメンス・シュケルト社製、抵抗動力計・自航試験用推進器動力計・推進器単独試験用動力計がオットー・エリー・ガンゼル社製、模型船削成機がフルカン社製と、導入された全設備・全機器の構成は欧米製で、目白水槽の設計・指導はF.ゲーバースという、オーストリアからの雇われ技師が担当していた。
 このような状況で、ワシントン軍縮会議や二度のロンドン軍縮会議をへて無条約時代に入ると、よく「欧米列強」の海軍力を相手に建艦競争などできたものだと呆れてしまうほど、日本には艦船の基礎研究に関する設備や技術の蓄積基盤がまったくなかったのだ。明治末から、「欧米に追いつけ追いこせ」が官民を問わずスローガンのように叫ばれていたが、欧米の成果物(製品)を模倣する手法には長けていたものの、基礎研究や基礎技術の分野における脆弱性は、1945年(昭和20)の敗戦まで基本的には変わらなかった。
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 1927年(昭和2)に建造され、1941年(昭和16)に200mの大型に改装された水槽は、のちに目白水槽の「第1試験水槽」と呼ばれることになる。それは、しばらくすると「第2試験水槽」と呼ばれる高速水槽が建設されているからだが、その経緯を同誌の『本邦試験水槽発達小史』から、再び引用してみよう。
  
 昭和7年より政府による助成船はすべて水槽試験を実施する事を強制されたため、目白の試験業務は急増した。さらに昭和12年度から優秀船建造助成制度が発足し、水槽試験業務は繁忙を極めた。このような情勢にともない、設立以来の懸案であった拡充計画を優秀船建造助成施設の一部として実現できる事になった。その結果、在来水槽の60m延長(前述)、第二試験水槽(新高速水槽)、空洞水槽の建設が行われた。
  
 「優秀船建造助成制度」とは、もちろん国が大型で高速な商船の建造を支援する仕組みのことで、背後にはもちろん海軍の意向や思惑が強く反映されていたのはいうまでもない。第二次ロンドン軍縮会議が決裂し、日本が同会議から脱退して無条約時代を迎えると、国から同建造助成制度の適用を受けて建造された民間船のうち、公試運転の成績が優秀な船舶は軍用船として改装されることになる。
 たとえば、1940年(昭和15)の東京オリンピック(中止)をめざして建造が計画されたといわれる、日本郵船の大型高速豪華客船「橿原丸」と「出雲丸」は空母「隼鷹」と「飛鷹」に改装され、同じく日本郵船の貨客船「春日丸」「八幡丸」「新田丸」が空母「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」に、大阪商船の貨客船「あるぜんちな丸」が空母「海鷹」に、石原汽船の油槽船「しまね丸」が護衛空母に改装されている。これらの船舶は、建造時に優秀船建造助成制度を利用していたため、日米戦がリアルに感じられるようになった時期、あるいは太平洋戦争中に海軍から徴用され軍用艦に改装された。
 文中にある目白水槽の第2試験水槽は、航空機用の試験にも利用できる高速水槽的な性格を備えた設備で、全長は第1試験水槽を上まわる207mの長大なものだった。船舶試験場なのに航空機の試験も実施するのは、飛行艇や水上機の開発のためだ。また、水面上の空間を活用した風洞実験なども行われたようだ。第2試験水槽は、設計を当時の船舶試験所内の技師が担当し、設備や機器類もすべて国内で生産されたものを使用しているので、ようやく純国産の試験水槽が誕生したことになる。
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 逓信省船型試験所(船舶試験所)の目白水槽は、目白駅Click!や高田町の工業地域が近かったにも関わらず、二度の山手空襲Click!でも被爆せずに1945年(昭和20)の敗戦を迎え、戦後まで残った唯一稼働が可能な試験水槽となった。戦前から戦後にかけての空中写真を観察しても、目白崖線にへばりつくように建てられた施設は、無傷で戦災を奇跡的にまぬがれているのがわかる。そして、戦後に急成長をとげる日本の造船業界の大きな原動力となった。
                                <つづく>

◆写真上:1921年(大正10)撮影の船型試験所水槽工事の様子。右手が学習院バッケ(崖地)Click!で、背景に開発直前の下落合は近衛町Click!の森がとらえられている。このあと起きた関東大震災の影響で、建設工事は数年間にわたって中断される。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に竣工した逓信省船型試験所あらため逓信省船舶試験所の建物。中ほどに見える、細長い目白水槽の右手(北側)が学習院敷地の崖で、左手遠方には山手線をはさんで近衛町の丘が見え、丘上には大きな西洋館がひとつ見てとれる。位置的に観察すると、下落合414番地の丘上から斜面にかけて建つ島津良蔵邸Click!だろうか。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる船舶試験所と目白水槽の全景。は、1938年(昭和13)撮影の浅喫水船舶試験を行う仮底設置工事で背景はやはり下落合の近衛町。
◆写真中下は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる無傷で戦後を迎えた目白水槽。は、戦前と変わらない風情だった運輸省の運輸技術研究所(旧・逓信省船舶研究所)の正門。は、敗戦後ほどなく撮影された目白水槽の第1試験水槽。
◆写真下は、1960年(昭和35)に改装された第1試験水槽。は、1966年(昭和41)の空中写真にみる(財)日本造船技術センターになったころの目白水槽全景。は、2003年(平成15)の廃止直前に撮影された目白水槽の第1試験水槽(左)と第2試験水槽(右)。

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雑司ヶ谷金山の呉越同舟。 [気になるエトセトラ]

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 立野信之が兵役Click!からもどり、アナキズムに急接近しはじめていたころ、山田清三郎Click!雑司ヶ谷金山Click!の借家に住んでいる。そこは山田の自宅であると同時に、プロレタリア文学雑誌「文芸戦線」の編集部でもあった。隣家が、ストックホルム五輪のマラソンで有名な金栗四三が住んでおり、その向こう側に菊池寛Click!の自邸があった。
 菊池邸は文芸誌「文藝春秋」の編集部も兼ねており、当時は対立する左翼系の文芸誌と“芸術派”の文芸誌とが、金栗邸をはさんで対峙していたことになる。金山稲荷社Click!から、直線距離で東へわずか100mほどのところ、高田町雑司ヶ谷金山392番地(現・雑司が谷1丁目)あたりの一画だ。菊池邸と山田邸は、同じ文芸誌の編集部があるため郵便局にはまぎらわしかったらしく、よく「文藝春秋」あての手紙や荷物が、「文芸戦線」のある山田邸に配達され、またその逆も多かったらしい。
 当初、雑司ヶ谷墓地にある古い墓地茶屋の安価な2階を借りていた「文芸戦線」編集部だが、山田清三郎の自宅とはいえようやく1戸建ての建物に移ることができた。山田は、「ひとつ『文芸春秋』とツバぜりあいをやろう!」(『プロレタリア文学風土記』より)とそのときの気持ちを書いているが、多少の茶目っ気もあったらしい。山田邸は、板塀に囲まれたごく小さな家で6畳、3畳、2畳のわずか3間しかなかったが、「文藝春秋」編集部のある菊池邸は大豪邸で、周囲からは「金山御殿」と呼ばれていた。そこには、たまに芥川龍之介Click!里見弴Click!川端康成Click!などが出入りしていた。
 その邸宅の玄関に、山田清三郎はわざわざ誤配達された郵便物をとどけにいき、「『文芸戦線』の者ですが、あなたのほうの郵便物が間違って入っていました」と、“敵情視察”がてら社員に念を押してわたしていた。それを受けとっていた社員の中には、当時東京へやってきたばかりで、菊池邸に寄宿していた大田洋子Click!もいただろう。のちに大田洋子は「女人藝術」の常連作家となり、落合地域へとやってきて暮らすことになる。
 そのころの「文芸戦線」には、葉山嘉樹や林房雄Click!黒島伝治Click!平林たい子Click!、小堀甚二、里村欣三らが執筆している。立野信之も、同誌に詩などを投稿していたが、いまいちやりたいことが見つからなかったようだ。雑司ヶ谷金山の「文芸戦線」編集部について、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 山田は、一面また非常に几帳面な男で、玄関わきの三畳をプロ連の事務所兼「文芸戦線」の編集室に使って、細君の積田きよ子を助手にし、六畳のほうは自分たちの居間に使って、両方を混同することなくキチンと生活していた。山田は文芸戦線社からいくぶんの手当をもらっていたようだが、それだけで生活できる筈はなく、当時加藤武雄の編集していた新潮社の「文章倶楽部」に「文豪遺族訪問記」とか、「文豪墓めぐり」とか、「文壇覆面訪問記」といったような雑文の連載物を書いて生活をおぎなっていた。山田はすでに「新興文学」に「幽霊読者」という短編小説を発表して新進作家として名を連ねてはいたが、まだ小説で食えるほどではなかったのである。/わたしは、と言えば、「文芸戦線」に詩をのせてもらったおかげで、執筆メンバアに加えられていたが、その後は何も書いていなかった。自分にはそんな才能はない、と思い、続々と輩出する有能な新人作家をただ羨望の眼をもって傍観していたのだった。
  
 「文芸戦線」の雑司ヶ谷金山編集部(山田の自宅)は、夏目漱石Click!をはじめ作家の墓が多い雑司ヶ谷墓地のすぐ近くなので、「文豪墓めぐり」はすぐに思いつきそうなシリーズ連載企画だ。また、当時の雑司ヶ谷Click!には作家や画家たち芸術家が数多く住んでいたので、その地元ネットワークを活用していろいろな記事が書けたのだろう。ちなみに「プロ連」とは、日本プロレタリア文芸連盟の略称だ。また、「文芸戦線」編集部には執筆している作家たちが頻繁に来訪するので、その紹介やツテを頼る仕事もできたにちがいない。これは、2軒隣りの「文藝春秋」編集部でも同様で、さまざまな作家たちが出入りしていた。小林多喜二通夜1933.jpg
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 そのころ、立野信之は演劇や映画に興味をおぼえていたのか、それらの人脈をたどって自身の居場所を見つけようとしている。それを聞きつけた山田清三郎から、前衛座Click!の旗揚げに参加しないかと誘われた。築地小劇場で上演される予定のルナチャルスキー『解放されたドン・キホーテ』(千田是也/辻恒彦・共訳)の舞台で、演出は後藤新平の孫にあたる佐野碩、舞台装置は村山知義Click!柳瀬正夢Click!だった。
 ほどなく、立野信之は六義園の北側にあるモダンな住宅地・大和郷に住んでいた、佐野碩の自宅へ通いはじめている。この前衛座で、彼は前記の人々のほかに小野宮吉や関鑑子、久坂栄二郎、林房雄Click!佐々木孝丸Click!、花柳はるみらと知りあっている。立野は佐野邸で舞台装置の準備にまわされ、ついでに「旗持ちの廷臣」の役で舞台に出演しているが、村山知義は「反動宰相」役で、山田清三郎と佐々木孝丸は「革命家」役で、林房雄や葉山嘉樹らは「門衛」や「廷臣」役などで同作品に出演しており、文芸部も美術部も俳優部も関係のない垣根を越えた混成舞台だった。
 前衛座の旗揚げ公演は、劇団員の予想を上まわる大成功をおさめた。東京帝大の林房雄つながりで、帝大新人会のメンバーとも「文芸戦線」や前衛座を通じて交流することになり、当時は帝大のマルクス主義芸術研究会に属していた中野重治Click!鹿地亘Click!、川口浩、小川信一、辻恒彦、谷一らが合流して、日本プロレタリア文芸連盟結成への端緒となった。当時の様子を、1961年(昭和36)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から引用してみよう。
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 私の周囲は、数ヵ月前とは較べものにならないほどの、若々しい活気に溢れていた。帝大新人会メンバーのうちの、文学・芸術に関心をもつ学生たちによって作られていた“マルクス主義芸術研究会”(マル芸と略称)の連中が、大挙してプロ連や文芸戦線の組織の中へ入り込んできたことが、これらの組織に活力素を注射することになったのだ。林房雄、中野重治、久坂栄二郎、佐野碩、鹿地亘、小川信一、川口浩、などが主なメンバーで、学生以外からは、築地小劇場の俳優千田是也や小野宮吉なども加わっていた。千田や小野が築地小劇場をやめるようになったのは、このマル芸の面々に尻をひっぱたかれたのが最大の原因だろう。
  
 だが、多くのグループを包括して組織がふくらんだプロ連は、さまざまな「セクト主義」を産むことになり、理論闘争の支柱になっていた福本和夫Click!からの影響で、分裂につぐ分裂を繰り返すことになる。中でも、マル芸の谷一や鹿地亘が「福本イズム」の急先鋒で、無産者団体の離合集散に拍車をかけた。弾圧する警察当局にとっては、まことに都合がいい運動の分裂と弱体化が促進されていった。
 山田清三郎は、身の危険を感じたのか雑司ヶ谷金山から高円寺に転居していたが、分裂騒ぎの中で対立する「セクト」の葉山嘉樹や小堀甚二、里村欣三らから家をとり囲まれ、眠れない一夜をすごしている。彼らは手に手に棍棒をもってウロついていたので、いつ押し入ってきて袋だたきに遭うかわからないような状況だった。「セクト主義」によるテロルは、別に1960年代以降の新左翼による「内ゲバ」だけのことではない。佐々木孝丸は当時の組織内対立のことを、早くから「セクト主義」というワードで表現している。
 山田清三郎や立野信之らが、落合地域にやってくるのはこの直後のことだ。このとき、立野は山田清三郎からなにか小説を書かないかと誘われている。立野の記憶によれば、「葉山はマドロスの体験を書いて作家になったのだし、黒島伝治はシベリヤ出兵の体験を書いて作家になった。平林たい子は放浪の体験を、小堀甚二は鉄道工夫や大工の体験を、里村欣三はルンペンの体験を書いて作家になったんだ……君も軍隊生活の経験があるんだから、それをモトにして何か書けないかね?」と、山田に激励されたようだ。
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 1928(昭和3)3月に起きた三・一五事件Click!の弾圧をきっかけに、蔵原惟人Click!の呼びかけで全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)が結成され、分裂していた運動や組織に再び合同の機運が生じた。そして、機関紙「戦旗」Click!が発行されはじめている。上記に登場した数多くの人々が、上落合あるいは下落合に転居してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:空襲をまぬがれた雑司ヶ谷金山界隈には、古い住宅があちこちに残っている。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月21日深夜の小林多喜二の通夜にて。は、山田清三郎()と葉山嘉樹()。は、山田清三郎邸(「文芸戦線」編集部)があった雑司ヶ谷金山392番地界隈。左手奥の茶色いマンションが菊池寛邸(「文藝春秋」編集部)があったあたりで、そこから手前にかけて金栗四三邸と山田清三郎邸が並んでいた。
◆写真中下は、右翼のボスを演じる佐々木孝丸()と近衛文麿Click!を演じる千田是也()。は、大和郷に住んでいた佐野碩()と前衛座の女優・花柳はるみ()。
◆写真下は、1935年(昭和10)2月21日に神田神保町の中華料理店で開催された「あの人(小林多喜二)を偲ぶ会」に参集した面々。は、雑司ヶ谷金山の山田清三郎邸や菊池寛邸と同じ道筋(弦巻通り)に建っていたサンカ小説の三角寛邸。

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再び「事故物件」に引っかかる岡倉天心。 [気になるエトセトラ]

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 東京美術学校Click!(当時は小石川植物園内の美術学校創立事務所)の岡倉天心Click!は、よほど引っ越し運がなくツイてなかったものか、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)の「凶宅」Click!を逃げだしてから、わずか2年後の1887年(明治20)に、またしても同じような「凶宅」の借家を引き当ててしまった。しかも、今度の家は筑土町の怪(あやかし)レベルではなく、本格的な「幽霊屋敷」だったのだ。
 このような事例は、明治から大正にかけてはめずらしくなかったらしく、小山内薫Click!も転居をするたびにひどい目に遭っている。岡倉天心や小山内薫に共通しているのは、家を借りる前に隣り近所の住民や商店に、その空き家の経緯や評判などをあらかじめ聞き取りせず、下調べなしに大急ぎで決めて引っ越してしまうことだ。関東大震災Click!の前、東京には江戸期からの住宅がまだたくさん残っており、さまざまな因縁話やエピソードが伝わっていたのだろう。それらを転居したあとになって聞き、不可解な出来事と重ねあわせて「やっぱり!」となるケースがほとんどだ。
 筑土町の「凶宅」から新小川町へと逃げ出した岡倉家は、2年間に九段上から神田猿楽町と転居し、天心の留学をはさみ1887年(明治20)には、江戸期から寺町として知られていた池之端七軒町の屋敷に落ち着いている。ところが、この広い屋敷がとんだ「お化け屋敷」で、幽霊がゾロゾロと集団で出現する筑土町以上の「凶宅」だった。そして、この屋敷は高田町四ッ谷(現・豊島区高田1丁目)の根生院とも関係が深い敷地に建っていた。
 池之端七軒町は、現在でいうと池之端2丁目の一部で、不忍通りから1本西側に入った忍小通りに沿って形成された江戸期からの街並みだ。ちょうど、南側の東京大学医学部と北側の地下鉄・丸ノ内線の根津駅Click!とにはさまれた界隈で、不忍池Click!からもほど近い位置にあたる。のちに、不忍通りを走る東京市電から、ヴァイオリンを抱えた佐伯祐三Click!が無茶な飛びおりをして、側溝工事中の穴に転落Click!したのもこのあたりだ。
 広壮な屋敷は、1887年(明治20)の時点でかなり住み古したボロい様子をしていたというから、おそらく江戸期からつづく元・旗本屋敷かなにかだったのだろう。周囲が寺町で寺院だらけなので、そのまま通りすぎれば寺のひとつと勘ちがいされそうな造りや風情をしていたらしい。広大な屋敷なので、建物や敷地を家主だった橋本という家と二分し、岡倉一家は南側の屋敷を借りて住んでいる。この屋敷で舶来ものの「アソシエーション式の蹴鞠」(アソシエーション・フットボールの球=サッカーボール)を手に入れ、弟子の岡倉秋水や本多天城Click!たちとともにサッカーに興じていた。
 当時の池之端はうらさびしい一帯で、岡倉天心邸を訪ねて酒を飲んだ狩野芳崖Click!が、帰りがけに弥生町の切り通しで追いはぎに遭い、身ぐるみ剥がれて天心宅に逃げ帰ったエピソードが知られている。北側の隣家、すなわちこの屋敷の持ち主である橋本の家では、とうから怪事は起きていたようで、そこに住み両親を早くに亡くした少女は、しばしば軸の架かった床の間から手まねきをする父母の幽霊を目撃していた。そして、北側の屋敷で起きている怪異が南側の岡倉家へ伝播するのに、それほど時間はかからなかった。
 「凶兆」が最初に表れたのは、当時行われていた不忍池をめぐる春季競馬大会が開催される直前、1888年(明治21)の3月初旬のことだった。まず、天心の長女が競馬馬の蹄(ひづめ)にかけられて負傷している。翌4月になると、天心の元子夫人の枕元へ、男女5人の幽霊が頻繁に姿を現すようになった。5人の男女は、なにかを哀願するように正座して頭を下げていたが、その向こう側に立てかけた枕屏風が透けてよく見えたという。天心はまったくの無関心で、そのままイビキをかいて寝ていたらしい。
 夜明けとともに、元子夫人は義父の岡倉勘右衛門の部屋に駈けこむと、夜更けに表れた男女5人の幽霊のことを報告した。すると、勘右衛門はしばらく思案したあと、心当たりでもあるのか急いで女中を隣家にやって、1枚の写真を借りてこさせた。以下、1971年(昭和46)に中央公論社から出版された岡倉一雄『父岡倉天心』から引用してみよう。
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 「お前の夢にあらわれた男女というのは、その人びとではなかったかね。」/元子はさしだされた写真に一瞥を投げると、頭から冷水を浴びせかけられたように、ぞッと悪寒を覚えた。そして、しばらくして胸の動悸が鎮まるのを待って、彼女は、/「たしかにこの五人の人たちでした。しかし、どういう因縁で、この人たちが、縁もゆかりもないわたしの夢なんかにあらわれるのでしょう?」/畳みかけて問いかけた。勘右衛門はしばらく口の中に称名を唱えていたが、やがて長大息を洩らして、/「そうだったか、争えんもんじゃのう。あの一家は死に絶えているのじゃから、大方、願い事でもあって、お前の夢枕にあらわれたのだろう。万一、ふたたびあらわれたなら、落着いて、言うことを聴いてやってくれ、何かの功徳になると思われるから。」/と、ようやく答えを与えたのであった。
  
 元子夫人が、夫ではなく舅の勘右衛門に相談したのは、筑土町の「凶宅」でもそうだったように、天心はまったく頼りにならないのを知っていたからだろう。気丈夫な元子夫人は、再び幽霊が出たら仔細を訊ねてみようと決意している。
 ところが、一連の経緯や事情を夫に話すと、さっそく天心は「そんなおっかないところに、今夜からおいらは寝ることは閉口じゃ」といって、自分だけさっさと寝所を変えてしまった。そして、美術学校創立事務所に出勤すると、誰彼かまわずにこの怪談話を吹聴してまわったらしい。もっとも天心が幽霊を信じて、ほんとうに恐怖を感じたかどうかは不明で、ヨーロッパに留学までしている彼のことだから、非科学的かつ非現実的で時代遅れな旧時代の迷信とでも、アイロニカルにとらえていたかもしれない。
 夫が2階の寝室から逃げだしてしまったので、元子夫人はその夜からひとりで休むことになった。すると、ほどなく再び男女5人の幽霊が出現して、元子夫人の枕元に坐った。そこで、彼女は蒲団の上に座して居ずまいを正すと、なんの怨みがあって家内に現れるのかと鋭く詰問した。そのときの様子を、再び同書より引用してみよう。
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 すると、五人の中の長老とみえる七十四、五の老人が、お辞儀をしていた顔を揚げ、おもむろに口をきったが、その音調はすこぶる幽かで、しかも福井訛りがあったということである。/「別に私どもは、あなたがた御一家に怨みなど毛頭ございません。ただ不運な私ども一家の冥福を祈っていただく念願から、ここを寺にしたいのでございます。委細は谷中の和尚に頼んでありますから、日ならず和尚が参上しましょう。どうか、この願いを聴きとどけられて、お立ち退きくださいませ。永くお立ち退きがないと、御一家に大病人ができますぞ。」/と、警告つきの懇願をやったそうである。/翌朝元子は起きいでて、父の勘右衛門にも夫の天心にも、昨夕のありようを物語ると、勘右衛門は信じたが、天心は冷笑を酬い、例によって交友の間にこの噂を振りまいて歩いた。
  
 別の施設(寺院)にするから早く立ち退けと、脅迫をまじえて転居を迫る幽霊たちは、まるでバブル期の地上げ屋のような連中だけれど、例によって天心は信じたのか信じなかったのか、転居するしないも曖昧なまま、友人たちへ怪談話を披露して歩いた。もともと“引っ越し魔”の天心だが、短期間で何度も借家を変えて転居するのが、この時期は億劫になっていたのかもしれない。また、勤務先の小石川植物園にある美校創立事務所までは1.5kmほどしかなく、自宅が近くて便利だったせいもあるのだろう。
 天心が噂をふりまいたせいで、怪談好きな友人知人がこぞって池之端七軒町の岡倉邸へ、肝試しにやってくるようになった。ひと晩だけでなく何日間も泊まりこむ連中もいて、岡倉邸はたちまち有名な“心霊スポット”になってしまった。だが、夜になるとたいがい酒盛りとなり、幽霊が出そうな時刻にはみな酔いつぶれて正体がない始末だった。
 天心は、屋敷内をにぎやかにすれば幽霊騒ぎなど雲散霧消すると考えたのかもしれないが、とりあえず引っ越しは検討しなかったようだ。すると、今度は長男の乳母が倒れて大病を発症してしまう。おそらく、元子夫人は「御一家に大病人ができますぞ……の警告どおりだわよ!」と天心を説得したのだろう、ほどなく一家は西黒門町の借家へと転居している。引っ越し先は、下谷警察署に隣接した家だったので、天心も池之端七軒町の屋敷が少なからず怖くて、本音では怯えていたのではないだろうか。
 岡倉一家が大急ぎで西黒門町に転居したあと、翌1889年(明治22)には明治維新とともに廃寺になっていた、根生院(江戸期には湯島天神裏に建立されていた)がさっそく再建されている。ちなみに、『父岡倉天心』では「根性院」とされているが根生院が正しい。
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 根生院は、岡倉一家がいた屋敷をそのまま流用して池之端七軒町で再興されたが、1903年(明治36)には目白崖線の山麓にあたる高田村四ッ谷345番地へと移転した。池之端七軒町の幽霊屋敷は、そのまま残されていたが関東大震災による延焼で焼失している。

◆写真上:1903年(明治36)に、池之端七軒町の岡倉邸跡から移転してきた根生院の本堂。戦災で焼けているので、本堂は何度か新しく建て替えられている。
◆写真中上は、1861年(万延2)に制作された尾張屋清七版の切絵図「小石川谷中本郷絵図」にみる池之端七軒町。江戸期なので、湯島天神裏には廃寺になる前の根生院が採取されている。は、戦災をまぬがれた池之端に残る古い住宅や屋敷。
◆写真中下は、1918年(大正7)に撮影された戦災で焼失前の根生院本堂。背後の斜面には、高田町四ッ谷337番地に建つ芳賀剛太郎邸とみられる大きな西洋館がとらえられている。は、元・岡倉邸の池之端七軒町時代に建てられた赤門。池之端七軒町からそのまま移築されたもので、いまだベンガラの色が鮮やかに残っている。
◆写真下は、1960年代に撮影された池之端七軒町も近い不忍通りを走る都電。は、不忍池とその周辺でよく見かける上からユリカモメ、キンクロハジロ、オオハクチョウなど。人間によくなついているのか、近づいてカメラを向けても物怖じせず逃げない。

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