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落合とは反対側の渋谷を描く花沢徳衛。 [気になるエトセトラ]

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 これまで拙サイトでは、落合地域やその周辺域を流してまわる物売りClick!について、大正期から現代にいたるまであちこちの記事Click!ご紹介Click!してきた。おそらく、伝承されたり記録に残っているのはごく一部のみで、そのほかにも数多くの物売りがふれ歩きしていたのではないかと想像している。今回は、従来の記事に登場してこなかった、東京近郊におけるふれ歩き商売について書いてみたい。
 参照するのは、落合地域と同じ東京郊外の住宅街として発展し、新宿駅をはさみちょうど反対側にあたる渋谷地域における大正期の記録だ。神田生まれで渋谷に育ち、斎藤与里Click!へ師事した洋画家で俳優の、ここは花沢徳衛に登場してもらおう。1987年(昭和62)に新日本出版社から刊行された花沢徳衛『幼き日の街角』から、彼自身の挿画でご紹介したい。同書は、季節を追って正月にはじまり年間を通じて、おもに大正期の渋谷の街角で見られた風俗や、季節の風物詩を追いかける構成になっている。
 花沢徳衛がようやく物心ついたころの渋谷風景を、同書より引用してみよう。
  
 私は一九一一年東京神田の生まれ。「へェ神田ッ児ですか」なんてよくいわれるが、私が物心ついた頃、一家は渋谷に住んでいたから、神田のことはまるで知らない。私は自分の故郷は渋谷だと思っている。しかし現今の渋谷はあまりにも様変りが激しく、故郷として懐かしむよすがもない。そこで、私が幼い頃街角で見かけた風物を、想い出しては描いたのがこの絵本である。/私たち一家が渋谷で住んでいたのは、豊多摩郡と荏原郡の境を流れる三田用水に近い、東京府下豊多摩郡渋谷町大字中渋谷六七六番地(現渋谷区神泉)の地で、少し駅に向って歩けば荒木山(現円山)の色街があり、三田用水を渡って駒場に出れば、輜重兵第一大隊、近衛輜重兵大隊、騎兵第一聯隊と兵隊屋敷が並び、世田谷には砲兵旅団があったから、渋谷は馬と兵隊の通行のはげしい町だった。
  
 花沢徳衛は神田生まれだが記憶がないため、江戸東京の習慣Click!にしたがえば自身のことを「渋谷っ子」と規定していた。彼は「中渋谷676番地(現渋谷区神泉)」と書いているが、同番地は現・渋谷区円山町23番地で、「神泉」は京王井の頭線の最寄りの駅名だ。神泉の谷から、南の丘上に通う道沿いが中渋谷676番地にあたる。もちろん、いまだ神泉駅など存在せず、彼のいう「駅に向って歩けば」は、自宅から道玄坂上にでて電車道を通り、600~700mほどでたどり着ける山手線・渋谷駅のことだ。
 渋谷は落合と同じく豊多摩郡に属しており、ちょうど花沢徳衛が物心つくころの、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)によれば、渋谷の人口は70,057人(16,494戸)であり、同時期の落合は1,292人(237戸)なので、よほど渋谷のほうが郊外住宅地として拓けるのが早く、すでに市街地が形成されていた様子がわかる。だからこそ、多種多様なふれ売りが各地から集合してきたのだろう。ちなみに、新宿駅のある当時の淀橋町は28,812人(6,933戸)で、渋谷のほうが市街地化が早かった様子がわかる。
 さて、正月は江戸の馬鹿囃子(ばかっぱやし)とともに獅子舞いClick!がやってくるのは同じだが、落合地域ではあまり聞かない物売り・ふれ売りをご紹介したい。まるで祭りのような派手な衣装を着た男女が5~6人、家財道具のような荷物を積んだ大八車Click!でやってきて、往来や店先など場所もかまわず、いきなり餅つきをはじめる「粟餅や」が渋谷に現れている。落合地域では聞かないが、親父Click!からは日本橋の昔話とともに聞かされた江戸期からつづく商売だ。その様子を、同書より引用してみよう。
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 (前略)せいろを仕掛けたへっついには火がはいったままで、煙をなびかせてやってきて、営業中の商家の前でもかまわず、総がかりで手早く荷を降ろして店を開く。/店先をふさがれた商家でも、そこは東京市内とちがい郊外の町のこと、一刻店先がにぎやかになっていいや、とばかり平気である。/やがて鳴物入りで歌を唄いながら餅つきがはじまる。見物人が道にあふれ、往来もくそもあったものではない。一商売すますと「おやかましゅう」と一言残して、さっと消えて行く。
  
 この「粟餅や」には子連れもあり、親父の話では子どもたちに派手な服を着せては、音曲にあわせて躍らせるケースもあったようだ。ひょっとすると、東京市内からの転居者も多かった落合町にも、大正後期には姿を見せていたかもしれない。
 「子どもだまし」も、小学校の門前に姿を見せている。香具師(やし)あるいはテキヤと呼ばれる露天商は、わたしの子どものころにもいて校門前に見世を拡げていたが、学校かPTAかは忘れたけれど、「買ってはいけません」というお触れがでたことを記憶している。
  
 小学校の先生のような背広を一着に及び、子どもたちが前に立つと、ペン先がガラスでできた万年筆を一本取り上げ、いきなりあき缶の底にたたき込み、缶の底をガラスペンで穴だらけにしてしまう。次にそのペンで紙にすらすらと丸や直線を書いて見せる。万年筆は子どもたちの憧れの品である。買って帰ると、インクがボタボタ出すぎたり出なかったりで使い物にならなかった。/X光線というのを売る奴がいた。径二センチの長さ一〇センチほどの黒いクロスを張ったボール紙の筒にレンズが付いている。これを使えば何でも透視できるというのだ。買って帰ると、何を見ても外見とはちがうモヤモヤした物が見える。こわして見たら中に鳥の羽根がはいっていた。
  
 「これ、不良品だよ!」と、校門前の「子供だまし」にクレームを入れようとするが、下校時間をすぎればとうにどこかへ消えている。見つけたとしても、「そりゃ悪かった、新しいのをあげる」といって交換するが、間をおかず尻に帆かけて逃亡するのだろう。テキヤと同じで、それでも文句をいおうものなら、「万年筆が5銭で買えるか!」などと開き直ったりするので、子どもたちにとっては興味津々だが怖い対象でもあっただろう。
 渋谷には、市内と同様に角兵衛獅子もやってきたようだ。これも江戸期からの風物詩で、はるばる越後(新潟県)から農閑期に出稼ぎでやってくる人たちだったが、明治以降は専門職として成立していたのだろう。たいがいふたり以上の子どもを連れていて、太鼓にあわせ子どもたちに曲芸のような獅子舞いを踊らせる。
 大正期には、困窮する農村から売られてきた子も多く、親方からアクロバットのような芸をきびしく仕込まれ、悲惨な生活を送る子も少なくなかったにちがいない。食事さえ満足にさせてもらえず、やせ細った子どもたちに同情して見物客は財布のヒモをゆるめるのだが、それが親方のつけ目でもあった。もちろん、子どもたちは小学校へなど通っていない。
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 渋谷にも、富山の薬売りClick!はやってきている。中には、ツキノワグマの剥製を背負って歩く富山の胆売りもいたようで、子どもたちはもう嬉しくてパニックのような騒ぎになっただろう。子どもたちは、富山から歩いてくるものとばかり思っていたようだが、団体で汽車に乗り東京へ着くと、決められたテリトリーへそれぞれ散開していったらしい。現代の富山の薬売りは、もちろん最寄りの東京支社・支店からやってくる。
  
 「奥州仙台さい川の名産孫太郎虫――」何の薬か分らないが、孫太郎という人が川で死んだ時、遺体にたくさんついていた虫だというのを聞いて気味悪かった。/熊の胆売りは、自分の商品が正真正銘の物であることを印象づけるため、暑さの中をご苦労にも熊の剥製を背負って歩いていた。/特殊構造の天秤棒で細長い薬ダンスを担ぎ、ガチャガチャ、リズミカルな音をたてて歩く定斎やさん。この人たちは決して被り物をかぶらない。この薬を飲んでいれば、決して暑さに負けない、といいたいのである。
  
 東京市内には、官設の消防署があったが郡部の渋谷にはなく、落合地域とまったく同様に鳶職を中心とした消防組Click!が組織されていた。江戸期と同じ印半纏に猫頭巾という姿で、消防ポンプはあったが纏(まとい)もちが先頭をきって走っていた。
 「ほうかいや」も門口にきては、さまざまな芸を見せていたようだ。「ほうかいや(法界屋)」は全国を流浪する旅芸人のことで、演歌師とも呼ばれていたようだが、わたしは見たことがないし知らない。また、落合地域の資料にも記録が見えない。八木節や安来節など有名な民謡を奏でながら、小さな子どもたちに踊らせては駄賃をとる、角兵衛獅子に近い芸人たちだったようだ。楽器も三味線や月琴、胡弓、尺八、太鼓などさまざまで、江戸期から街中にいた新内流しClick!の門づけのような存在だったのだろう。
 新聞の号外売りは、なにか事件があればどこの街でも新聞店から大きな鈴を腰につけて走りでてたろうが、大正期ともなれば宣伝屋もよく姿を見せるようになる。「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」はわたしもすぐに唄えるが、1918年(大正7)ごろにつくられエノケンClick!が浅草で唄って大ヒットした『東京節』Click!だ。親父が風呂場などで口ずさんでいるのを聴いて、いつのまにか自然に憶えたのだが、親父が生まれるかなり以前の曲なので、おそらく祖父母あるいは年長のオトナから教わったのだろう。宣伝広告屋のBGM(客寄せ歌)として、街中ではよく使われていたようだ。
  
 一九二一年初夏のある日、裏長屋に住んでいた九歳の私は、突然表通りから聴こえてくる大音響にビックリして飛び出した。表通りへ出て見ると、それは「ギッチョンチョン」とは全く関係のない化粧品の広告で、馬力とよばれていた荷馬車を大きな箱で擬装し、それに広告文が書かれ、音は箱の上に仕掛けた拡声器から出ていた。
  
 落合地域にも、「♪ラ~メちゃんたらギッチョンチョン」の広告屋がきたかどうかは証言がないので不明だが、大正期に新宿で開店していたカフェ「ブラジル」の広告ビラを、上空から撒いていた飛行機が目白学園Click!校庭に墜落Click!しているほどなので、おそらく「♪パ~リコとバナナでフライフライフラ~イ」もきているのではないか。ちなみに、連れ合いや友人たちに訊いてみたら「♪ギッチョンチョンでパイのパイのパ~イ」と難なく唄えたので、祖父母の世代から広く東京じゅうで唄い継がれてきた曲ではないだろうか。
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 上記の『東京節』の動画にも登場するが、渋谷にはラオ屋も頻繁にきている。もっとも、下落合にある飯田高遠堂Click!の前で、わたしはピーーッと蒸気音を景気よく鳴らす小型トラック仕様のラオ屋を見かけているので、いまでも下落合・目白地域にはキセルの愛好者がいるのだろう。渋谷には、幕府の鷹匠の末裔である「鳥刺し」もきているが、幕府鷹狩り場Click!で野鳥も多い御留山Click!のある下落合にも、鳥刺しはやってきているにちがいない。

◆写真上:江戸期に将軍鷹狩り用のタカの生餌を捕まえた幕府鳥刺しは、明治になると野鳥を捕獲して売る小鳥屋へ転職した。以下、挿画はすべて花沢徳衛。
◆写真中上中上は、粟餅屋と子どもだまし。中下は、1911年(明治44)作成の「渋谷町全図」にみる花沢宅位置。は、現在の同番地界隈(画面左)。
◆写真中下中上は、江戸期から街中ではお馴染みの角兵衛獅子と多彩な意匠でやってくる富山の薬売り。中下は、ほうかいや(法界屋)と渋谷町消防組。
◆写真下は、「ギッチョンチョン」の広告屋といまでも見かけるラオ屋。は、1987年(昭和62)出版の花沢徳衛『幼き日の街角』(新日本出版社/)と著者()。
おまけ
 子どものころTVを観ていると職人の親方や大工の棟梁、ガンコな爺さん、老舗の職人、ベテランの刑事などで頻繁に登場した花沢徳衛。かなり歳をとってからのバイプレーヤーの姿しか知らないが、若いころから洋画家をめざしていて個展も何度か開催しているらしい。
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いっぷく

山田洋次御用達俳優でしたが、なぜか『男はつらいよ』だけは出ていないのが不思議です。
by いっぷく (2024-02-24 02:06) 

ChinchikoPapa

いっぷくさん、コメントをありがとうございます。
そういえば、同映画シリーズで花沢徳衛の印象が薄いです。初期のころにテキ屋の親分として出演したのは、山田監督ではなかったようですね。
by ChinchikoPapa (2024-02-24 12:18) 

skekhtehuacso

花沢徳衛って、顔に似合わず(失礼)、こんな繊細な絵を描いていたのですね。
今日、伝七捕物帳(梅雀のではなく、中村梅之助のほう)のDVDを見ながら夕食を作っていたのですが、ちょうど花沢徳衛が出ている回でした。
by skekhtehuacso (2024-02-25 19:22) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
油彩画よりも、花沢徳衛は何げない挿画がとてもうまいですね。ほかにも、いろいろ作品集を出版しているようですので見てみたいです。圧倒的に俳優の印象が強いのですが、ヒマを見つけてはスケッチブックやキャンバスに向かっていたようです。
by ChinchikoPapa (2024-02-25 19:45) 

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