SSブログ

下落合を描いた画家たち・安井曾太郎。 [気になる下落合]

安井曾太郎「落合風景」.jpg
 下落合404番地の近衛町Click!に住んだ安井曾太郎Click!は、これまで地元の「下落合風景」をモチーフにした作品を描いていないのではないかと考えてきた。ところが、制作時期は不詳だが、『落合風景』(10号)のタブローが現存しているのが判明した。
 『落合風景』を所有していたのは、1978年(昭和53)に物故した三井物産社長をつとめた新関八洲太郎で、1972年(昭和47)に刊行された「東洋経済」7月号(東洋経済新報社Click!)に自身が好きな絵画として所有作品を紹介している。現在でも、同家に『落合風景』があるのかどうかは不明だが、出所がハッキリした安井作品だろう。
 いつごろ入手したのかは書かれていないが、新関八洲太郎はもともと洋画好きだったようなので、戦後、三井物産の役員全員がパージされ、いきなり常務取締役に就任したころかもしれない。それまでの新関は、アジア各国やオーストラリアなど海外勤務ばかりで、敗戦後は1946年(昭和21)の夏にようやく奉天(中国)から引きあげてくるような生活だった。したがって、ゆっくり展覧会や画廊などへ足を運んで絵画を観賞し、気に入った作品を購入できる機会や余裕はなかったように思われる。
 また、これは画題や風景モチーフとも関連するが、安井曾太郎が豊島区目白町2丁目1673番地から岡田虎二郎Click!の娘である岡田禮子Click!が住んでいた下落合404番地の敷地へ、山口文象の設計によるアトリエClick!を建設し転居してくるのは1935年(昭和10)のことなので、『落合風景』を描いているのはそれ以降の時代だと考えるのが自然だろう。
 さて、『落合風景』の画面を仔細に観察してみよう。明らかに東京地方へ大雪が降ったあと、その積雪が溶けはじめた翌日か、翌々日のころに描かれているとみられる。なぜ大雪だったのがわかるのかというと、面積が小さめな棒杭の上の切り口にまで積雪がかなり残っており、中途半端な降りの雪ではこのような残雪の風情が見られないからだ。棒杭が、半ば埋まるほどの積雪だったのではないだろうか。また、なぜ大雪が降った日のあと、それが溶けはじめたころに描いているのがわかるのかというと、周辺の樹木の枝葉には雪がほとんど残っていないからだ。すでに木々に積もった雪が溶けるか、あるいは風で振り落とされるかした、大雪が降った数日後の風景ではないだろうか。
 下落合へ転居した安井曾太郎が、各地を旅行せず比較的アトリエに落ち着いていたころ、あるいは好きな写生旅行が実質的にできにくくなった戦時中、さらには戦後になり1955年(昭和30)に死去するまで、東京に30cmを超える大雪が降った年は東京中央気象台によれば都合6回ある。転居して間もない二二六事件Click!があった1936年(昭和11)と1937年(昭和12)の2月、敗戦色が濃厚になりどこへも出かけられなくなった1945年(昭和20)の1月と2月、戦後にようやく食糧難の時代が終わろうとしていた1951年(昭和26)の2月、そして安井曾太郎が死去する前年の1954年(昭和29)1月の6回だ。
 この中で、1945年(昭和20)の1月に降った大雪の風景作品は、すでに拙記事でもご紹介している。同年1月に制作された、中野区上高田422番地に建つ耳野卯三郎Click!アトリエの丘上に立ち、妙正寺川越しに西落合から下落合に連なる丘陵を眺めた宮本恒平Click!『画兄のアトリエ』Click!だ。戦争も末期なので、すでに旅行は禁止され、軍部への協力に消極的な画家たちは、絵の具やキャンバスなど画材の配給Click!も満足に受けられずに、アトリエにあるストックの絵の具や画布、ときに板などを用いて静物画や肖像画を画室で描くか、アトリエ周辺を散策して気に入った風景を写生するしかなかった。『落合風景』は、安井曾太郎が戦争末期にあわただしく中国にいた関係から戦時中の作品とは考えにくいが、同様に画材が入手しにくく旅行どころではなかった敗戦直後に描かれているのかもしれない。
下落合風景1922.jpg
近衛町酒井邸19310202と林泉園谷戸.jpg
安井アトリエ1944.jpg
 『落合風景』は、陽光(光源)が明らかに左手から射しているが、棒杭や樹々の影が描かれていないので晴天の日とは思えない。雲を透かした光線から、画面の左手が南側あるいは南に近い方角だろう。棒杭が並ぶすぐ向こう側はけわしい崖地になっているようで、急斜面から生える樹木の枝が左手のすみに描かれている。また、谷とみられる窪地をはさんだ向かい側にも木々が繁っているようで、やはり同じような崖地とみられる少し離れた急斜面に樹木が密に生えている様子が、画面上部の描き方から想定できる。このあたり、さすがに安井曾太郎はバルールが正確だ。このように画面を観察してくると、下落合の特に近衛町にお住まいの方なら、すでに描画ポイントがおわかりではないだろうか。
 安井曾太郎は、自宅を出て『落合風景』を描いてはいない。溶けはじめた雪で、ぬかるんだ道路を無理して歩くような仕事ではなく、自宅西側(おそらく南西端)の庭先にイーゼルを立て、深く落ちこんだ林泉園Click!からつづく谷戸を、南西の方角に向いて写生をしている。また、この作品は死去する直前の1954年(昭和29)の1月に描かれたものでもない。なぜなら、1954年(昭和29)には地下鉄・丸の内線の掘削工事がはじまっており、そのトンネル工事で出た大量の土砂を運び、ちょうど現在のおとめ山公園Click!にある弁天池Click!の北側あたりから安井曾太郎アトリエのある西側にかけ、大蔵省の官舎を建設するために深い谷戸の埋め立て工事が進捗していたからだ。
 この位置の谷戸については、近衛町Click!が開発される直前、1922年(大正11)に中村彝Click!アトリエに立ち寄った清水多嘉示Click!が描いた『下落合風景』Click!や、安井曾太郎アトリエの南隣りに建っていた酒井邸Click!の、庭先で撮影された家族写真などでもすでにご紹介している。安井曾太郎の『落合風景』が、もし1939年(昭和14)以前であれば、谷戸の“対岸”は御留山Click!つづきの相馬孟胤邸Click!であり、1940年(昭和15)以降であれば東邦生命Click!による開発地、すなわち同年に淀橋区へ提出された同社の「位置指定図」Click!をもとにした宅地造成Click!が進んでいたはずだ。
 安井曾太郎の『落合風景』が、戦前・戦中・戦後のいずれの作品かは不明だが、ことさら三井物産の新関八洲太郎が内地へ引きあげたあと、1946年(昭和21)の夏以降に入手したらしい点を考慮すると、戦後に開催された美術展、あるいは個展や画廊などで見かけた作品ではないだろうか。1945年(昭和20)の冬、安井曾太郎は前年から中国へ出かけており、帰国するのは3月をすぎたころで、すかさず同月に埼玉県大里郡へ疎開しているので、同年の大雪の日に『落合風景』を描けたとはタイミング的にも考えにくいのだ。
安井曾太郎1938.jpg
安井曾太郎19450402.jpg
安井曾太郎1947.jpg
 安井曾太郎は下落合に画室を残したまま、1949年(昭和24)には湯河原のアトリエClick!(旧・竹内栖鳳アトリエ)へ移り、下落合ではあまり制作しなくなるが、東京藝大の教授はつづけており、同時に日本美術家連盟会長や国立近代美術館評議員などにも就任しているので、湯河原と下落合を往復するような生活だったろう。したがって、大雪が降った画面の風景は、消去法的に考えれば1951年(昭和26)2月に制作された可能性が高い……ということになるだろうか? このころ、安井曾太郎は『画室にて(夫人像)』『孫』など家族の人物画を多く手がけており、身のまわりの人物や風景にも画因が向きやすかったのではないかと思われる。ただし、そのころの風景画にしては、『落合風景』はかなり写実に寄りすぎているようにも思えるが、画廊に依頼された「売り絵」を意識していたとすれば、出展作品とは異なり気負わず気軽に描いた画面なのかもしれない。
 美術評論家の松原久人は、1956年(昭和31)に美術出版社から刊行された『安井曽太郎と現代芸術』で、安井曾太郎による風景画を第1期から第17期までと分類しているが、それによると『落合風景』が戦後に描かれているとすれば、第16期と第17期の中間あたりに位置するタブローということになるだろうか。第16期は埼玉県大里郡への疎開時代で、下落合へ帰る1947年(昭和22)までであり、第17期は熱海来之宮や湯河原時代で1955年(昭和30)に死去するまでということになるが、この間も下落合のアトリエは存続しており、二度にわたる山手大空襲Click!からも安井邸は焼けずに残っていた。したがって、東京ですごすときは常に下落合の近衛町にいたはずだ。
 また、美術評論家の徳大寺公英は安井曾太郎の死後、同年に出版された『安井曾太郎論集』(美術出版社)収録の、「安井曾太郎氏のレアリスム」で次のようにいう。
  
 氏のレアリスムは対象の把握において客観的、合理的ではなく、主観的、情緒的なのである。安井氏は氏自身のレアリスムを自ら説明して「自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンバスにはりつけたい。樹を描くとしたら、風が吹けば木の葉の音のする木を描きたい。自動車が通つている道をかくのだつたら、自動車の通る道をかきたい。人の住むことの出来る家、触れば冷い川、灌木の深さまでも表したい。云々」(一九三三年)と述べている。如何にもプリミティヴな言葉である。これによって分るように、氏はモデルニスムの画家の陥つているような観念の過剰を知らない。モデルニスムと日本画との折衷による表現形式自身プリミティヴであり、それは極めて常識的な、日本的な、氏自身の感情に基づく自然観照とその表現なのである。このようにして氏のユニークな絵画様式が打ちたてられたのであり、氏はこれを現代的なレアリスムといつているわけなのである。そして安井氏の絵画のあらゆる限界もここにあるといわなければならないのである。
  
 「モデルニスム」とは聞きなれないワードだが、スペイン語の「Modernismo」(仏語のアールヌーボーと訳される場合が多い)、あるいは英語の「modernism」と同義で用いていると思われ、ここでは「モダンアート」か「近代主義絵画」とでもいうような意味だろう。
安井アトリエ0.jpg
安井アトリエ1.jpg
安井アトリエ2.jpg
 わたしは、安井曾太郎アトリエを見たことがなく(のちには新築した邸に子孫が住まわれていた)、とうに地下鉄・丸の内線の土砂で埋め立てられ、その上に建つ大蔵省の官舎しか知らないので、『落合風景』の描画位置はこの一画だとピンポイントで規定するのは難しい。

◆写真上:新関八洲太郎が所有していた、安井曾太郎『落合風景』(制作年不詳)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に中村彝アトリエのある林泉園つづきの谷戸を描いた清水多嘉示『下落合風景』(清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様による)。は、1931年(昭和6)2月2日に安井曾太郎アトリエの隣家である酒井邸から、庭の家族がいるテラス越しに深い林泉園谷戸を撮影した写真(AI着色)。は、1944年(昭和19)に下落合のアトリエで『安倍能成氏像』を描く安井曾太郎。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安井アトリエと想定描画ポイント。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日撮影の安井アトリエ。左手(西側)の赤土がむき出しの空き地は、相馬邸を解体し東邦生命が開発する新興住宅地。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った安井アトリエ。
◆写真下:1935年(昭和10)撮影の山口文象設計による安井曾太郎アトリエ(2葉AI着色)。

読んだ!(20)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

読んだ! 20

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。