御留山の相馬孟胤邸を拝見する。(上) [気になる下落合]
下落合の大屋敷といえば、旧・下落合全体の東側(目白駅寄り)一帯を所有し、大正の半ばまで現在の近衛町に広大な屋敷をかまえていた近衛篤麿(のち文麿)邸Click!と、もうひとつ、近衛家からおそらく1913~14年(大正2~3)ごろに敷地の西側区画を譲り受け、いまの御留山(おとめやま)とその周辺一帯に屋敷をかまえていた将門相馬孟胤(たけたね)邸とが有名だ。でも、意外なことに両邸内部の様子を伝える詳しい資料や伝承は、地元の下落合にもあまり残っていない。
ふたつの大屋敷のうち1915年(大正4)、御留山の丘上に建設された相馬邸Click!の、敷地内部の貴重で鮮明な写真をお譲りいただいた。わざわざ写真をお送りくださったのは、当の将門相馬家ご一族の相馬彰様からだ。うちは先祖代々、神田明神の氏子なのでこんなにうれしいことはない。これらたいへん貴重な写真の数々は、1915年(大正4)の新邸完成時に撮影され、同家が制作した『相馬家邸宅写真帖』というアルバムに収録されたものだ。現在は、福島県南相馬市にある相馬小高神社の宮司でおられる、相馬胤道様がたいせつに保存されている。これらの写真を詳細に観察すると、陸軍航空隊によって撮影された1936年(昭和11)の空中写真にみる、どこか“北斗七星”Click!のフォルムをした相馬邸の、具体的な家屋配置がつかめてくる。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』の、相馬孟胤(たけたね)の項目から引用してみよう。ちなみに、『相馬家邸宅写真帖』が制作されたのは、先代の相馬順胤(ありたね)時代であり、1919年(大正8)に順胤が逝去すると、長男の孟胤が下落合の相馬邸を継承した。
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当家は平高望の次男良将の後である、其子将門相馬小次郎と称す、後十世師常に至り源頼朝に従ひ軍功を以て陸奥国行方郡に封ぜらる夫より十六世を経て長門守義胤の時、豊臣氏に属し、其子大膳亮利胤徳川氏に従ひ、磐城中村六万石を領す、十二世を経て先代順胤に至り明治十七年華族に列せられ子爵を賜はる、現主は其長男にして明治二十二年八月を以て出生、大正八年家督を嗣ぎ襲爵仰付らる、是先同四年東京帝大理科大学植物学科を卒業し宮内省御用掛となり、新宿御苑勤務を命ぜられ、次で式部官に任じ朝香宮御用掛を兼ね、現時式部職庶務課長兼楽部長、朝香宮御用掛の任にあり。 (同誌「人物事業偏」より)
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まず、冒頭の写真は、下落合でもお馴染みの「黒門」として親しまれていた、片袖の相馬邸正門だ。(①) 以前、こちらでもご紹介した長谷部進之亟・作の「黒門」イラストClick!は、この写真をベースに描かれているように思える。門の屋根の左横から見える、玄関のある2階建ての事務所と応接室のある建物や、写真の左端(東側)に見えている母屋の一部である「表屋敷」の屋根は、イラストにもまったくそのまま表現されている。玄関のある建物の1階には、相馬邸の事務室と来客を迎えるための応接室が置かれ、2階には居間が設けられていたようだ。
黒門をくぐると、樹木が密に植えられた車廻しがあり、その先にシンプルな武家屋敷らしい正面玄関があった。(②) 玄関のあるこの建物が、黒門屋根の左側にチラリと見えている2階屋根の建築だ。車廻しは、邸が1939年(昭和14)に売却され、解体されたあと戦後すぐのころまで、空中写真でもはっきりとその痕跡を確認することができる。写真の画面左手が車廻しの茂みで、右手が玄関になる。また、画面正面の奥には、相馬邸の大きな蔵群のひとつがとらえられている。
氷川明神の祭礼のとき、あるいは太素神社の主柱である妙見神の祭礼のとき、神輿は黒門をくぐって一面に玉砂利が敷かれた、相馬邸の玄関先まで担ぎこまれていた。その際、相馬夫妻が玄関先で、祭りへ参加した周辺の住民たちへ樽酒や茶菓をふるまっては接待していた様子が、地元の記録にも多く残されている。また、年に二度の祭りと同時に相馬家の蔵も開放され、刀や鑓、鎧兜など伝来の武具が展示され、近所の子供たち(特に男の子たち)はそれを楽しみにしていたらしい。
住民たちが目撃した相馬邸の様子は、黒門のすぐ内側、つまり玄関先のこのエリアだけで、南側の母屋から御留山の谷戸についての記録はほとんど残ってはいない。南側エリアの詳細についてが記録されるのは、戦後の一時期、東邦生命の所有地となってからのことだ。
黒門からチラリと見ることができた屋根のうちのひとつ、「表座敷」と名づけられた母屋の一部が、敷地の東寄りに南に面して建てられていた。(③) 重厚な和建築で、広い座敷を囲み長々とつづく縁側廊下がとても印象的だ。いかにも重たそうな瓦屋根で、切妻部の造りはまるで寺院建築のように美しい意匠をしている。きっと、当時の一流大工による建築なのだろう。ひょっとすると、下落合の建築にときどき見うけられる宮大工の仕事かもしれない。
手前に拡がる広大な芝庭と、その中を曲線を描いて敷かれた小径は、御留山の深い谷戸を迂回するようにどこまでも延々とつづいていく。この芝庭から目白崖線の下まで、つまり南のバッケ下を通る雑司ヶ谷道(新井薬師道)までが、相馬邸の広大な庭園だったのだ。 <つづく>
■写真上:北に面した相馬邸の正門で、下落合では「黒門」Click!の名称で親しまれてきた。この黒門前では、時代劇の映画ロケーションが頻繁に行なわれていた。
■写真中上:左は、1936年(昭和11)に撮影された相馬邸の空中写真と、邸内で撮られた建物写真の撮影ポイント。右は、相馬邸の建築位置と現在の空中写真を重ねてみる。相馬邸の母屋南端が、新たに拓かれたちょうど東西道のあたりまで建っていたのがわかる。
■写真中下:上は、相馬邸の車廻しと正面玄関。下左は1936年(昭和11)の、下右は1947年(昭和22)の空中写真にみる車廻しの茂み。戦後すぐのころまで、黒門と車廻し跡は残っていた。
■写真下:上は、邸の東側に建つ、「表座敷」と名づけられた母屋の一部。下左は1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」、下右は1938年(昭和13)の「火保図」にみる相馬邸。
握手だけで、平手打ちはありませんでしたか?^^;
nice!をありがとうございました。>甘党大王さん
by ChinchikoPapa (2008-07-12 11:13)
入って長居したくなりそうな、魅力的な店舗デザインですね。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-07-12 11:17)
ハンク・ジョーンズとかマル・ウォルドロン、バリー・ハリスといったピアニストは地味なのですが、ときどき無性に聴きたくなりますね。チャーリー・ヘイデンとのコラボならなおさらです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-07-12 11:23)
どこかホオズキに似て、チロリアンランプかわいいですね。
nice!をありがとうございました。>takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2008-07-12 15:47)
みなもに映るみどりのたゆたいは、何度観ても美しいです。
nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-07-13 01:05)
かろうじて憶えていますが、「おめえ、ヘソねえじゃねうかよ」というケロヨンCMがありましたね。nice!をありがとうございました。>mustitemさん
by ChinchikoPapa (2008-07-13 19:50)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2009-05-03 12:42)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-07-24 13:07)