SSブログ

福沢諭吉の幽霊は乃木希典に猛抗議したか。 [気になるエトセトラ]

乃木館.JPG
 以前、華族女学校Click!(のち学習院女子部Click!女子学習院Click!)の卒業生で、女優になった山川浦路Click!をご紹介していた。報知新聞の記者だった磯村春子が、同紙に連載していた「今の女」のインタビューに答えたものだが、帝劇で上演されるシェークスピア劇に出演していた彼女を、院長の乃木希典Click!は「河原乞食」と蔑んだ。
 院長の言葉を聞いた、山川浦路の同窓生だったお姫様(ひいさま)たちは、彼女を同窓会以外の集まりから締めだし、学校関連の催しすべてに出入禁止を通達する嫌がらせを行っている。また、同窓会へ出席する場合には、髪型(日本髪)やコスチューム(和装)にまで細かな注文をつけるという、いわば卒業生たちからの絶縁状を受けとった。ちなみに、山川浦路は新劇の女優なのでふだんから洋装であり、髪はうしろで束ねて巻きあげるかポニーテールのように背中へたらした、いわば今日的な装いだった。
 当時、日本における新しい演劇創造の先端を走っていた早大の大隈重信Click!が、乃木希典が口にした「河原乞食」というワードを聞いたら「きさま、なんばいうか!」と、学習院へ怒鳴りこんだかもしれないと書いたが、今回は同じく乃木希典のいる目白の院長館へ、大隈重信よりは一見穏やかそうだが軽蔑の眼差しを向けながら、「あんた、何ゆうてるんや!」とさっそくクレームを入れにいきそうな事件が起きている。今回のクレーマーになりそうなのは、残念ながら1901年(明治34)にすでに他界していた、時事新報社の社主で慶應義塾の塾長・福沢諭吉Click!(の幽霊)だ。
 1907年(明治40)に、時事新報社はシカゴ・トリビューン社からの呼びかけに応じて、同社が企画していた「世界美人写真競争」へ参加することになった。今日の「ミス・ワールド」や「ミス・ユニバース」のひな型のような催しだが、当時は本人が出席して舞台に立つことはなく、また水着審査などももちろんなく、未婚や既婚を問わない写真応募のみによる審査だった。しかも、条件としては“美”を職業にしているプロの芸者や女優、モデルなどは応募できず、あくまでも素人でアマチュアの一般女性が対象だった。そして、写真館で撮影されるような鮮明な画像が応募条件だった。
 今日のように、なぜ女だけに「美人コンテスト」があって男にはないの?……というような、フェミニズム的な問題意識の視座は存在せず、他の国々ではむしろ「世界美人写真競争」で有名になり、より有利な職業やポジション、あるいは結婚を実現できる可能性を考え、女性たちが積極的に応募するような時代のイベントだった。当時の新聞を参照すると、応募者は地元の米国を中心にヨーロッパ各国にまでまたがっている。
 日本で写真審査を担当したのは、岡田三郎助Click!(洋画家)をはじめ嶋崎柳塢(日本画家)、高村光雲Click!(彫刻家)、新海武太郎(彫刻家)、三宅秀(医師)、三島通良(医師)、坪井正五郎Click!(人類学者)、中村芝翫Click!(歌舞伎役者)、河合武雄Click!(新派役者)、大築千里(写真家)、前川謙三(写真技師)、高橋義雄Click!(美術鑑定家)、前田不二三(容貌研究家)の男ばかり13名だった。美術関係者が審査員になるのはなんとなくわかるが、考古学者で人類学者の坪井正五郎とか、動きや所作を見るわけでもないのに歌舞伎役者や新派の俳優たち、頭蓋骨の形質でも観察するのか医療関係者たち、はては写真家や写真技師にいたっては「世界美人写真競争」とどのような関係があるのか不明だ。ひょっとすると、写真の修正や加工の小細工を警戒したのかもしれないが。
 応募条件の写真館撮影や、審査員に写真家あるいは写真技師が混じっていたことで、すでに混乱の原因はこのときからはじまっていたといえるだろう。お気づきの方もいると思うが、この「世界美人写真競争」に応募してみようと思ったのは、当の女性本人ばかりでなく、写真館の主人が自分の撮影した作品で応募できると勘ちがいしてしまったのだ。したがって、本人はまったく知らず、当人の応募意志とは関わりのないところで、「美人」たちの写真が時事新報社へ集まることになってしまった。
 時事新報社に集合した、審査員たちによる「美人」審査は1年がかりで進み、1908年(明治41)3月5日の時事新報には、1等の応募写真入りで審査結果が発表された。
  
 時事新報社の募集美人写真/一等は末弘ヒロ子/美人写真第二次審査の結果
 去月二十九日の第二次即ち最終審査において、全国第三等まで当選したる美人写真は左の三名にして、愈々そのまゝ確定したるにつき、こゝに写真募集に参同せられたる全国各新聞社の尽力を謝すると同時に、諸者諸子に披露することゝせり/小倉市室町四十二 直方 四女 一等 末弘ヒロ子(十六)/仙台市東四番町 皈逸 娘 二等 金田ケン子(十九)/宇都宮市上河原町五九 三等 土屋ノブ子(十九)/次に次点者中得点最も多かりし者を挙げれば左の如し/四 三重県飯坂町 尾鹿貞子(廿二)/五 東京市麹町区三番町 武内操子(十七)/六 茨城県水戸市 森田ヨシ子(廿二)/七 東京市日本橋区中洲 鵜野ツユ子(十九)
  
女子学習院卒業写真1905M38.jpg
末弘ヒロ子応募写真.jpg
時事新報19080305.jpg
 1等の末弘ヒロ子自身はもちろん、当時は小倉市長だった父親の末弘直方は驚愕することになる。華族女学校の4年生だった末弘ヒロ子は、あと少しで同校を卒業できる予定だし、市長と同郷で親しかった侯爵・野津家の長男・野津鎮之助との婚約もまとまったばかりだった。乃木希典は、末弘ヒロ子をすかさず退学処分にしている。
 末弘市長は、婚約者の父親で陸軍元帥の野津道貫への釈明と、なぜ娘の写真が時事新報社に送られたのかを調査するために東京へやってきた。事情はすぐに判明する。東京で撮影した末弘ヒロ子のポートレートを、写真館が末弘家には無断で「世界美人写真競争」に応募してしまったのだ。また、旧知の野津家では特に問題にはされておらず(むしろ婚約者も父親もともに喜んでいたようだ)、どうしたら乃木希典の退学処分を撤回させられるかを検討し、立憲政友会の代議士・古賀庸蔵に相談している。古賀は、日露戦争では第二軍司令官として乃木と親しい、陸軍元帥・奥保鞏に仲立ちを依頼することにした。
 こうして、末弘小倉市長と野津元帥、奥元帥に古賀代議士の4人は、乃木希典Click!がいる目白の院長館で直談判を行うが、乃木は「(華族女学校は)美人をつくる学校じゃない」と、本人にまったく責任がないにも関わらず退学処分の撤回をかたくなに拒否した。そのときの様子を、1963年(昭和38)に小倉市が出版した『小倉六十三年小史』から引用しよう。
  
 乃木院長にすれば、二人の息子を日露戦役に喪い身辺とみに寂寥を覚える時、学習院で華族の青少年と起居を共にするのは唯一の慰めであった。然し同じ学習院でも女子部の方は院長としてあまり強い関心を持っていなかった。質実剛健を旨とする武士道を叩きこむには華族少女は不向きな相手である。それにその前年、女子学部長下田歌子の辞職問題があり、皇族、華族間に生まれた選民意識や、女性間の複雑微妙な葛藤や、嫉妬による権謀術策等には弱りきっていたときだから、末弘ヒロ子の美人入選はひどく乃木院長の気に障ったのも無理はなかった。その日、末弘と古賀が野津について彼の邸宅に行くと/「今日は全く悪い日だった、乃木にはヒロ子さんのことよりも、まだ気になることが多すぎるのだ。(以下略)」
  
 下田歌子は、軍人の乃木希典とは女性の自立や自活をめぐって教育方針がまったく噛みあわず、徹底的に対立して当局に辞表をたたきつけた人物だ。
 このあと、末弘小倉市長は娘のヒロ子をともなって小倉へと帰っている。これに黙っていなかったのが、時事新報社をはじめ新聞各紙だった。本人のあずかり知らぬところで応募がなされたうえに、「学習院だからといつて日本一の美人に入選した故を以て退学を命じるとは、まつたくの没義道である」とし、乃木希典を激しく批判している。
応募女性1.jpg 応募女性3.jpg
応募女性2.jpg 応募女性4.jpg
末弘直方.jpg 乃木希典.jpg
 さて、小倉に帰ったふたりは、今度は末弘ヒロ子をひと目でも見ようとする群集に市長官舎を取り囲まれている。また、彼女あてに同性からの激励の手紙が全国からとどいたが、末弘市長によりすべて開封せずに焼却された。彼女が病気だった兄の見舞いに、馬借の小倉市立病院まで外出しようとすると、市長官舎から病院までの沿道に見物人が並んだというから、すさまじい評判ぶりだったようだ。特に京町から常盤橋の広場は、大勢の市民たちで埋めつくされたと『小倉六十三年小史』は伝えている。そして、実際に彼女を見た感想は、「かなり背が低く、少女のようだった」としている。
 翌1909年(明治42)の1月、時事新報社にシカゴ・トリビューン社から連絡が入り、「世界美人写真競争」の審査結果がもたらされた。その知らせによれば、末弘ヒロ子は第6位に入選したとのことだった。以下、コンテストの入選順位は第1位はいわずもがなの米国でマクエライト・フレー嬢、第2位はカナダのバイオレット・フッド嬢、第3位はスウェーデンのゼーン・ランドストーム嬢、第4位はイングランドのアイビー・リリアン・クローズ嬢、第5位はスペインのセーリタ・ドナハース嬢、第6位が日本の末弘ヒロ子嬢、第7位がノルウェーのケート・ホーウィント嬢、第8位がスコットランドのネッケー・チャドック嬢、第9位がアイルランドのダビン・ホワー夫人(既婚)という結果だった。
 その後、末弘ヒロ子と野津鎮之助とは結婚するが、おかしなことにその媒酌人をつとめたのが乃木希典・静子夫妻だった。当時は、学習院内のゴタゴタで気が立ち、いつになく感情的になっていたのが、さすがに自身でも事情をよく斟酌せず退学処分にし、あとから時事新報社のいうとおり「没義道」だとかなり気がとがめていたものか、当時の報道や周囲からの批判で遅まきながら収拾を図りたかったのか、それとも福沢諭吉(の幽霊)が連夜抗議に枕辺を訪れたのかはさだかでないが、乃木希典Click!が仲人の仕事を引き受けるのはめずらしいことだった。のちに、「乃木希典の大岡裁き」などといわれるが、地元・小倉における末弘家の動向や、東京の古賀代議士あるいは野津家などの証言からすると、「大岡裁き」は後世につくられたまったくのフェイク美談だろう。
 大磯の高田保Click!は、『第3ブラリひょうたん』(1951年)にこんなことを書いている。
  
 ミス日本に当選した末弘嬢は、その後間もなく、日露役の司令官将軍だつた野津大将の息子さんの夫人に迎えられたように記憶しているが、今でも健在でいられるかどうか。最近選ばれたミス日本と二人会わせてみたら、この間約半世紀の時代の距たりなどはつきりして面白いだろうとおもうが、どこの雑誌社でもまだやつていない。
  
 ちなみに、1950年度(昭和25年度)の「ミス日本」は山本富士子だった。高田保もまったく勘ちがいをしているが、シカゴ・トリビューンと時事新報が実施した「世界美人写真競争」は、未婚・既婚を問わない世界各国の女性写真による審査で、第9位にアイルランドの代表で既婚者(ホワー夫人)の女性がいるように、未婚者の「ミス」には限定していない。また、末弘ヒロ子は華族女学校在学中から、父親と同郷で親しかった野津家の野津鎮之助と婚約していたのであり、ことさら「ミス日本」に選ばれたから結婚したのでもない。
小倉六十三年小史1963.jpg 物語特ダネ百年史1968表紙.jpg
高田保「第3ブラリひょうたん」1951.jpg 山下洋輔「ドバラダ門」朝日新聞社.jpg
山本富士子.jpg
 戦後、末弘ヒロ子に会った人物がいる。JAZZの山下洋輔Click!(pf)で、彼はヒロ子の姉の末弘直子と結婚した建築家・山下啓次郎の孫にあたる。山下の小説『ドバラダ門』では、腰が曲がりリューマチに罹患していた彼女のことを、ひそかに「カイブツ」と呼んでいた。

◆写真上:学習院大学内に保存されている、乃木希典が起居していた「乃木館」。
◆写真中上は、1905年(明治38)撮影の華族女学校卒業アルバムで軍服姿が乃木希典。は、時事新報社にとどいた末弘ヒロ子のポートレート。は、「世界美人写真競争」の審査結果を伝える1908年(明治41)3月5日刊の時事新報。
◆写真中下は、同コンテストに応募してきた女性4人の肖像。氏名は不詳だが、中には既婚者も含まれていたとみられる。下左は、当時は小倉市長だった末弘直方。下右は、のちになぜか結婚の仲人を引き受ける院長時代の乃木希典。
◆写真下上左は、1963年(昭和38)に出版された『小倉六十三年小史』(小倉市)。上右は、新聞各紙のセンセーショナルな記事を集めて1968年(昭和43)に出版された高田秀二『物語特ダネ百年史』(実業之日本社)。中左は、1951年(昭和26)に出版された高田保『第3ブラリひょうたん』(創元社)。中右は、1990年(平成2)に出版された山下洋輔『ドバラダ門』(朝日新聞社版)。は、1950年度の初代「ミス日本」に選ばれた山本富士子。

読んだ!(23)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

読んだ! 23

コメント 4

サンフランシスコ人

1860年3月17日は咸臨丸がサンフランシスコへ到着した日です.....近日、福沢諭吉について考えていました....
by サンフランシスコ人 (2024-03-27 02:53) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
2つ前の土肥庄次郎(松廼家露八)の記事で幕府の「咸臨丸」が登場していますが、1867年の時点で同船はすでにボロボロになっていたようで、箱館(函館)に向かっていたはずが難破して、逆方向の駿河湾へ漂流しています。太平洋の横断などで、かなり船体が傷んでいたのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2024-03-27 09:52) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。乃木希典は軍人として現役の頃は、後に司馬遼太郎からは酷評され、退役して学習院校長としては、後生の誰が見ても低評価であったかと思われます。後生の人間からは、どウ評価していいのやらわかりませんが、第二次世界大戦前に軍の装備を冊子しようとした動きに対して、それに反対する勢力に担がれて反対勢力に回ったという話を聞くに及んでこれは間違いなく老害だなと思ったしだいです。いまだに神格化している方も多いようですがー
by pinkich (2024-03-29 21:05) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
第二次大戦前に、軍縮に反対したのは東郷平八郎ですね。乃木希典は明治天皇が死去すると、つづいて殉死していますので。
明治の日露戦(日本海海戦)にこだわり、兵器や戦術の進化を見抜けずに、1930年(昭和5)のロンドン軍縮会議では大艦巨砲主義をかざして反対し、最後まで八八艦隊構想を諦めなかったのは東郷平八郎です。大和型戦艦を1隻建造するなら、空母3隻+艦載機+熟練パイロットを養成できたと、いまでもいわれていますね。
by ChinchikoPapa (2024-03-29 22:38) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。