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もっとも早い時期の「武蔵野」写真集。 [気になる本]

武蔵野らしさ.JPG
 時代が大正期から昭和期に入ると、大震災の影響もあって東京郊外に残っていた武蔵野Click!の風情は、急速に姿を消していった。戦後になると、山手線の内外は住宅が密集し、もはや武蔵野と呼べるような風景は東京23区の外周域に後退していった。こちらでも、武蔵野については折りにつけ、その植生Click!織田一磨Click!『武蔵野風景』シリーズClick!、文学に登場する「武蔵野」Click!などさまざまな角度から触れてきている。
 そんな姿を消しつつあった武蔵野を、まとめて写真で記録しようとする動きが1932年(昭和7)に企画されている。それまでは、いわゆる「武蔵野」の農村地帯は東京郊外に出ればどこでも見られる、ありふれた日常風景だった。画道具を抱えた洋画家が、ときたま風景画を制作Click!するため写生に訪れるぐらいだったろう。そんな風景を、個人的に撮影していた人物はいたかもしれないが、急速に変貌しつつある武蔵野の風情を、組織的な企画で大勢のカメラマンがいっせいに撮影してまわったのは、このときが初めてだったろう。
 組織名は「日本写真会」といい、セミプロやアマチュアの写真家たちが集うカメラ愛好家組織だった。日本写真会は、月ごとに例会を開催していたが、ときに撮影するテーマを決めては作品を持ち寄って、お互いに批評しあうような活動もしていた。1932年(昭和7)11月の例会では、「失はれ行く武蔵野及郷土の風物」というテーマが出題された。
 同年から翌年にかけ、多くの会員たちは東京の郊外へ出かけて、急速に宅地化が進んで消滅しつつある武蔵野風景を撮影し記録しつづけた。そして、1933年(昭和8)には合評会が開かれているのだろうが、持ち寄られた膨大な武蔵野の写真は特に写真集にするでもなく、そのまま“お蔵入り”となった。これらの写真作品が、再び写真集として陽の目を見るのは10年後、戦時中で新たな出版企画が立てにくくなった1943年(昭和18)のことだった。ただし、写真集の編集は1942年(昭和17)春ごろには終了しており、出版まで時間がかかったのは用紙とインクの配給が戦時で思うように進まなかったせいだろう。
 1932年(昭和7)現在で、「武蔵野」の風情が色濃く残る地域といわれているのは、わたしの世代で「武蔵野」Click!らしいと認識していたエリアよりもかなり内側、東京市街地に近い山手線からそれほど離れていない外側の一帯だ。すなわち、1932年(昭和7)に東京35区制Click!へ移行した自治体の名称でいえば、中野区をはじめ目黒区、杉並区、世田谷区、練馬区、板橋区、葛飾区、蒲田区(現・大田区の一部)、さらに三鷹、調布といった地域だ。
 1943年(昭和18)に靖文社から出版された『武蔵野風物写真集』より、その編者であり日本写真会の幹事だった福原信三の「はしがき」から引用してみよう。
  
 武蔵野には武蔵野の風物があります。自然にも人世にも、そして此の人世といふ中にも、信仰や、衣食住や、職業、行為、其の他百般の人間の作つたもの等々……。しかも此れらは急テムポを以て淘汰されつゝあります。今日に於て是れらの記録を結集して置かなければ、幾年かの後には、地上から全く跡を絶つて、復た再び想像する事すら不可能となるのは言を俟ちません。敢て百年後の史家のみとは云はず、僅か五年の後、我等の予言の適中我等自ら驚く事がないとは誰にも断言し得ない處でありませう。
  
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杉並区南阿佐ヶ谷.jpg
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 戦時中にもかかわらず、非常に質のよい半光沢のある用紙を使い(78年後の現在もほとんど褪色せず傷んでいない)、写真製版もきわめて精緻で高品質だ。これら武蔵野の鮮明な写真が撮影されてから、2021年でおよそ90年が経過しているが、ここに記録された風景のほぼすべてが消滅してしまった。かろうじて、それらしい姿をとどめているのは、日本写真会のカメラマンがさらに足を伸ばして撮影した、府中地域から以西や埼玉県の南西部、千葉県の西北部ぐらいだろうか。
 また、わたしが高校生のころに「武蔵野」と認識し撮影して歩いたエリアの風情も、そのほとんどが1980年代を境にたちまち姿を消していった。現在では、公園や緑地帯として保存された一部の例外的な区画に、かろうじて昔日の面影をとどめるだけだ。でも、それはごく狭いエリアに押しこめられた風景であり、雑木林の木々を透かして見えるのは、高層マンションや高速道路の高架、またはどこまでも連なる住宅街だったりする。
 写真集が出版された当時、世田谷区の成城に住んでいた柳田國男Click!は、同写真集の「序」で武蔵野の開発の様子をこんなふうに書いている。
  
 今日はもはやその昔の片影も残るまいと思つて居ると、稀にはまだ敏感なる技術家に見出されて後の世に伝へられるやうな、しほらしい場面もあつたといふことを知つたのである。私の今住んで居る西南郊外の丘陵地などは、ちやうど同じ大きな変化がまさに始まつて、すばらしい勢ひでそれが進行して居る。一週に一度ぐらゐは必ずこの間をあるきまはつて居るので、却つて以前とのちがひに心づくことが少ないが、静かに考へて見ると今あるいて居るのは皆新道で、それが両側の石垣生垣と共に、僅かな歳月のうちに尤もらしく落ちついてしまひ、一方にはそれと併行する榛(はん)の並木の細路が、段々に崩れてたゞの畔みたやうにならうとして居る。林がつて居たうちは必要であつた多くの路しるべの石塔も、拓かれて畠となつて見とほしがきくやうになれば、もはや不用だから知らぬ間に片付けられる。
  
 同写真集には、武蔵野の各地域にある特産物や名物、名品なども登場している。たとえば、豊島区では雑司ヶ谷鬼子母神Click!の茶屋で出されていた里芋の味噌田楽やすすきみみずくClick!、練馬のダイコン、深大寺Click!蕎麦Click!などだが、わたしが意外だったのは目黒のタケノコや竹林が何度も登場していることだ。写真を数えてみたら、目黒の竹林が3枚も収録されていた。同じ地域で同じテーマの写真が3枚は、同写真集でもめずらしい。
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板橋区徳丸ヶ原.jpg
蒲田区下丸子.jpg
葛飾区金町.jpg
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 目黒村は、江戸時代からタケノコの名産地として知られているが、昭和初期になってもいまだ孟宗竹の竹林で採れるタケノコが、市場へ出荷されていたようだ。武蔵野の中でも、めずらしく昔から竹林(薮=やぶ)が多かった目黒では、開業する医者もことごとく薮ばかりと書いたのは、目黒川は太鼓橋の近くに住んでいた随筆家の磯萍水Click!(いそひょうすい)だ。「笑ひごとぢやない」と書いているので、過去に目黒の医者にかかってひどい目にあわされた、苦々しい経験でもあったのだろうか。
 写真集と同じ年、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から引用してみよう。ちなみに、このころには目黒の竹藪もだいぶ減少していたらしい。
  
 寔(まこと)に昔の目黒は栗の木と竹藪の天地、栗飯筍飯が名物だつたのも故ある哉であつた。その亡された筍の怨念か、未だに目黒の医者は薮ばかり、恐らくこの祟りは、目黒の名物は筍と、その噂の消えない限り、永久に、百年でも二百年でも、扁鵲(へんじゃく=古代中国の春秋戦国時代にいたとされる優れた医者)と雖も目黒で看板をかければ、忽然と薮にある、笑ひごとぢやない、何とも恐しい事ではないか。(カッコ内引用者註)
  
 目黒の“枕詞”はタケノコという、慣用的な表現がこの世から消滅しない限り、その祟りである医者の“薮”化は数百年はおろか永久につづくだろうとしているが、およそ1980年代には早くも自然消滅し、目黒の名産はタケノコだと聞けば、「ウッソ~ッ!」という人が大多数になったろう。だが、磯萍水が嘆息する薮医者の数も減ったかどうかは、1967年(昭和42)に死去した彼の追跡エッセイがないので、さだかではない。
 『武蔵野風物写真集』が特異なのは、同写真集を刊行したのが東京ではなく大阪の出版社だったことだ。靖文社は、天王寺区夕陽丘町20番地にあった会社だが、この手の書籍は東京でかなり売れるだろうと見こんだ、あえて戦略的な出版だったのだろうか。それとも、通常なら地元の出版社に持ちこむこのような企画だが、写真集に見あう用紙やインクの配給先(出版社)が東京では見つからず、大阪でようやく探し当てることができたからだろうか。
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三鷹駅四谷丸太.jpg
調布深大寺蕎麦.jpg
 いずれにせよ、きわめて貴重な武蔵野の記録を残してくれたわけで、今日から見れば靖文社様々というところだろう。なぜなら、このあとの大空襲により、日本写真会の会員たちが東京に保管していたネガや写真の多くが、この世から永久に消滅してしまっただろうから。

◆写真上:埼玉県南部の志木付近で見つけた、昔日の武蔵野らしい風景の一画。
◆写真中上:以下、『武蔵野風物写真集』より1932年(昭和7)に記録された貴重な武蔵野風景のほんの一部をご紹介したい。からへ、世田谷区の砧、同じく下北沢に通う林間の小道、同じく瀬田の陸稲畑、同じく等々力、杉並区の西荻窪駅付近、同じく阿佐ヶ谷駅の付近、中野区の鷺宮の芋畑に設置されたネズミ除けの狐絵馬。
◆写真中下からへ、豊島区雑司ヶ谷の落ち葉焚き、板橋区の徳丸ヶ原、蒲田区(現・大田区)は下丸子の街道茶屋、葛飾区の水郷金町の池にみる水難除けの水神牛札、練馬区名物の大根干し、同じく練馬を貫通する清戸道Click!から志木街道への連続。
◆写真下からへ、目黒区大岡山は東京工業大学周辺のススキ原、同区名物の竹林3葉、三鷹駅近くの「四谷丸太」製造林、調布は深大寺参道の蕎麦屋。
おまけ
 同写真集には、残念ながら落合風景は収録されていないが、めずらしい風景も記録されている。1932年(昭和7)の当時、倒壊寸前だった千代田城Click!は和田倉門の最後の姿だ。関東大震災Click!で大きな被害を受けた和田倉門は、このあとほどなく解体されている。
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1年で心を入れかえた(?)『長崎町政概要』。 [気になる本]

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 7年ほど前に、「『長崎町誌』に感じてしまう違和感」Click!という記事を書いたことがある。周辺の町々、たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!をはじめ、1919年(大正8)の『高田村誌』Click!、1930年(昭和5)の『高田町政概要』Click!、1933年(昭和8)の『高田町史』Click!、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』Click!、1933年(昭和8)の『中野町誌』Click!などと比べ、あまりに内容がなさすぎて貧弱だった。
 町役場の町長や幹部連をはじめ、長崎町の有力者、各学校の校長、郵便局長、青年団長、在郷軍人会長、椎名町町会長、国粋会などの地域ボス、なぜか他地域のお呼びでない区会議員(日本橋区会議員なのが恥ずかしい)、町誌の執筆者などが巻頭のグラビア全ページを飾り、それぞれ個人的な紹介と顕彰ばかりを本文中でも繰り返し、「町誌」とタイトルしてはいるが、まるで自己顕示欲充足メディアか選挙用の宣伝媒体パンフレットのような内容と化していた。きわめつけは巻末の町役場全職員名簿で、いったい町の様子や町民の暮らしはどこにいったのだ?……というような、非常にお寒いコンテンツだった。
 周辺地域の町誌史に比べ、あまりにもひどい内容なので上記の記事となったわけだが、『長崎町誌』の出版から1年足らずで、長崎町はもう一度『長崎町政概要』という名の書籍を出版している。そして、「町政概要」と名づけてはいるが、『長崎町誌』ではなぜかほとんど無視されていた長崎町の北部(町誌では長崎町の南部が中心)も含め、町の名所旧跡や伝承、行事なども町の地図などを挿入しながら詳しく紹介している。こちらのほうがよほど町誌らしい構成や体裁であり、事実『長崎町誌』とほとんど重複する記述(概要、地理、沿革、人口と戸数、行政財政、教育など)も多々みられるのだ。
 なぜ、2年つづけて「町誌」を出版するような、こんなムダなことをしているのだろうか? 最初は、『長崎町誌』ではいまだ長崎町2887番地に計画中だったとみられる、町政が注力していたライト風デザインClick!の新・長崎町役場が存在せず(『長崎町誌』出版時は、新庁舎予定敷地に隣接する日本家屋が仮庁舎だった)、その竣工を記念して『長崎町政概要』を改めて作成しているのかと思ったが、正式な町役場庁舎の竣工時期はあらかじめ計画当初から判明していたはずだ。そのタイミングで『長崎町誌』を出版すれば、わずか11ヶ月ほどのズレでなんら問題はなかったはずだ。
 おそらく、町民たちから「なんだ、あの町誌は? 面(つら)洗ってつくり直せ!」という、少なからぬ不満の声が上がったのではないだろうか。「世界大恐慌で暮らしが厳しいというのに、あんなものに町民の血税を協賛出費したのか!?」という声が高まり、ついでに「この苦難の時代に、ライトを真似たオシャレな新庁舎を建設するカネがあるなら、町民の暮らしに還元しろ!」、「豪華なモダン新庁舎をつくるために、税金払ってんじゃねえぞ!」とかなんとか、住民たちの不満が爆発したのではなかろうか。事実、『長崎町政概要』は前年の『長崎町誌』とはまったく異なり、人物写真がただの1点もなければ、歯の浮くような美辞麗句を並べて町の有力者やボスたちを顕彰する文章も皆無となっている。
 なぜ、町民たちからの強い不満や抗議を感じるのかというと、『長崎町政概要』に「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」という、別刷りのリーフレットが付録のように挿みこまれているからだ。つまり、今日でいうなら地上2階・地下1階の新庁舎建設に関する、建設総工費の項目別詳細報告書を情報公開したといったところだろう。
 町民から、「贅沢な新庁舎の建設に関して、われわれの税金がどのようにつかわれたのか明細を見せろ!」とか、「戸数も人口も多く、税収が倍近くもある隣りの落合町は、住宅に毛の生えたようなボロい町役場のまんまなのに、なんで長崎町はライトの自由学園Click!みたいな豪華庁舎が必要なんだよ!?」とか、怒りや不満が町役場にドッと寄せられたせいで、急遽、新庁舎建設にかかった経費概要を一般に公開せざるをえなくなり、急いでリーフレットを別刷りして『長崎町政概要』に挿みこんでいる……、そんな気配が濃厚なのだ。
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 これら町民の抗議や不満を意識したのか、『長崎町政概要』にはいわずもがなの「序」が、長崎町長の鴨下六郎によって書かれている。同概要より引用してみよう。
  
 町民相集つて、長崎町といふ一家を形成し、家族である町民が一致協力して、一家である本町は興る。換言すれば、我長崎町が完全に成長して行く為には何と云つても全町民の愛町心に愬へなければならぬ。/自分の住む郷土を尊敬し、愛護し、公共の為めには労苦をも惜まぬ町民の覚悟があつて初めて、大長崎町建設の目的は達しられる。
  
 要するに「愛だよ愛、それに犠牲精神」と、不満や抗議の声をつまらない感情論でかわそうとしているようだが、前年の『長崎町誌』を目にし建設中の豪華なライト風町役場を目の当たりにした町民たちは、こんな子どもだましの文章に納得できはしなかっただろう。町役場がなにをしようが、「ムダづかいを黙って見てるのが郷土愛なのか? おきゃがれてんだ!Click!」……と、かえって町民たちから強い反発を招いたのではないだろうか。
 『長崎町政概要』には、もうひとり協賛会長の岩崎満吉の「序」がつづくが、ライト風の新庁舎建設に関して、いいわけがましい文章がつづく。再び引用してみよう。
  
 昭和五年二月、町会に於て、役場庁舎改築の議を決し、木造二階建本館及付属建物総延坪二百四十八坪七合二勺の設計に基き四月十七日より工事を起し、茲に落成の運びに至つたことは、御同様慶賀に堪えない。殊に此の改築は、町債を起すことなく、全町民の自力を以て、之が実現を見たのであつて、より一層衷心より祝福するところである。只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾ありと雖比較的理想に近いものとして諒とすべきである。而も町費を以て及ばざる施設の一部を援助するの目的を以て、茲に協賛会が組織されたのであるが、これ又、町内有志諸賢の熱誠なる御協賛を辱ふし、相当の成果を挙げ得たことは、燃ゆるが如き愛町心の発露を雄弁に物語るものであり、当事者として、感謝に辞なきところである。(赤文字引用者註)
  
 長崎町役場の庁舎は、まったくの新築だったはずなのに、あえて「改築」などと言い換えている点にも留意したい。モダンでオシャレな新庁舎なのに、いくら「改築」だと言葉だけ変えても町民の目はごまかされず、まったく納得も了解も得られなかったのではないか。
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 この一文で、コトのなりゆきがなんとなく透けて見えてくる。町議会で、町債の発行を前提とせず町費のキャパシティを超えるような、新庁舎の予算が計上されることなどありえない。当初に予定されていた膨大な建設予算が、町民たちからの抗議や異議申し立てのせいで、途中から見直さざるをえず減額縮小されたのだ。そのため急遽、町の有力者で構成された「協賛会」を設置せざるをえなくなった。この協賛会自体も、豪華な庁舎建設を推進した町長や、長崎町議会議員たちが重ねて名前を連ねているのだろう。
 「只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾あり」とは、その設計や意匠から建物の構造が当初は庁舎全体、あるいはその大部分を鉄筋コンクリート造りにする計画だったと思われる。なぜなら、基礎工事から地下室の建設まで、すべての工程がRC(鉄筋コンクリート)構造で進められていたからだ。ところが、工事がスタートしてしばらくしてから、「なぜ、そんな豪華な町役場が必要なのか?」という声が、町のあちこちから強まりだしたのだろう。そこで、上部の2階建ての庁舎は木造モルタル構造(大谷石外壁)に変更して予算を緊縮し、それでも足りない経費は「協賛会」を組織して募金しているように見える。
 また、新庁舎問題とは別に、前年の『長崎町誌』に対する不平不満も、住民たちから数多く寄せられたにちがいない。「金剛院や長崎神社が載ってるのに、なんで天祖神社や五郎窪稲荷神社を無視しゃがるんだよ!?」と、各社の町内氏子連はこぞって抗議の声を上げただろうし、長崎富士Click!を掲載してるのに「なんで粟島弁天社や千川上水の史跡や、地蔵堂や観音堂を素どおりするんだよ!?」と、長崎町の中北部からは不満の声が頻々と聞こえてきただろう。『長崎町政概要』には、ようやく町内全体をなんとかカバーできる主だった旧跡・史蹟・石碑などが、地図とともに紹介されている。ただし、五郎窪(五郎久保)稲荷社Click!はなぜか今回も取りあげられていない。
 『長崎町政概要』(長崎町役場)のライターは、『長崎町誌』(国民自治会)と同じく長崎町大和田2118番地の塩田忠敬だが、今回は自身のポートレートを巻頭グラビアにちゃっかり1ページ挿入して掲載などしていない。w 町誌が出てから半年もたたないのに、再びオーダーを受け「また書くんですか? ほう、今度は町政と町の歴史や史蹟を中心にですね」と引き受けた彼は、1929年(昭和4)の暮れから1930年(昭和5)の前半期にかけて町内で起きた、さまざまな動向や騒動のたぐいを熟知していただろう。「1年足らずで町誌を二度も書けて、ギャラをもう一度もらえるんだから、ま、いっか」とホクホク顔だったのかもしれない。
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 豪華でオシャレな新・長崎町役場については、竣工直後の鮮明な外観や建物内部の写真が手に入ったので、『長崎町政概要』に挿みこまれた工費報告書と併せ、近いうちにご紹介したい。「おたくは自由学園か!」と周囲から突っこみを入れられそうなほど、ファサードから窓枠のデザインまで、自由学園の付属施設だと思うぐらいソックリなのだ。

◆写真上:こちらのほうが町誌らしい体裁の、1930年(昭和5)出版の『長崎町政概要』。
◆写真中上:『長崎町政概要』の目次で、折りこまれた全町の地図には公共施設や名所旧跡が記載されている。目次の内容は、前年の『長崎町誌』とほとんど変わらないが、町内の歴史や史蹟、伝承・伝説などのページが増加している。
◆写真中下は、実質の町誌らしく長崎町全域にわたって町内の公共施設や名所・旧跡が紹介された折りこみ「長崎町地図」。は、『長崎町政概要』の奥付。は、町誌らしい構成や記述が増えた『長崎町政概要』本文の一部。
◆写真下は、前年の『長崎町誌』ではパスされていた粟島社(粟島弁天社)。は、同じくパスされていた目白天祖社(長崎天祖宮)。は、著者の自宅からそれほど離れていないのに今回もなぜか取りあげられていない五郎窪(五郎久保)稲荷社。

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「池袋池尻辺の女」はいまや55,000人超え。 [気になる本]

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 今年も夏がやってきたので、恒例の怪談話Click!を記事にしようと思うのだが、たまには落合地域にもほど近い「池袋」怪談などを少し。以前、戦災で亡くなった人たちを仮埋葬した、山手線・池袋駅東口の根津山Click!で語られつづけている怪談Click!について書いたが、「池袋」怪談はそれより90年も前の江戸期にかかる物語だ。
 岡本綺堂Click!が、1902年(明治35)に「文藝倶楽部」4月号の誌上へ発表した小説に、『池袋の怪』という作品がある。別に、当時の池袋村が舞台なのではなく、1855年(安政2)に麻布にあったさる大名の上屋敷で起きた怪談というかたちで紹介されている小品だ。異変は、同屋敷の隠居部屋にカエルが夜な夜な入ってきて(特に怪異とも思えないが)、蚊帳に飛び乗る現象からはじまった。
 最初は草深い麻布六本木のことなので、家中の者たちは誰も不思議には思わなかったのだが、日を追うごとにカエルの数が増えつづけ、しまいには「無数」のカエルが座敷に入りこむようになった。屋敷では、さっそく庭師を呼んで庭に生える草や木々の手入れをさせ、カエルが棲息できないよう環境を整備すると、以降、カエルの侵入はピタリと止まった。だが、今度は屋敷の屋根になぜか石が降ってくるようになった。その様子を、2008年(平成20)にメディアファクトリーから出版された『綺堂怪奇名作選-飛騨の怪談』収録の、『池袋の怪』から引用してみよう。
  
 ある日の夕ぐれ、突然だしぬけにドドンと凄じい音がして、俄に家がグラグラと揺れ出したので、去年の大地震に魘えている人々は、ソレ地震だと云う大騒ぎ、ところが又忽ちに鎮って何の音もない。で、それからは毎夕点燈頃になると、何処よりとも知らず大浪の寄せるようなゴウゴウという響と共に、さしもに広き邸がグラグラと動く。詰合の武士も怪しんで種々に詮議穿索して見たが、更にその仔細が分らず、気の弱い女共は肝を冷して日を送っている中に、右の家鳴震動は十日ばかりで歇んだかと思うと、今度は石が降る。この「石が降る」という事は往々聞く所だが、必らずしも雨霰の如くに小歇なくバラバラ降るのではなく何処よりとも知らず時々にバラリバラリと三個四個飛び落ちて霎時歇み、また少しく時を経て思い出したようにバラリバラリと落ちる。けれども、不思議な事には決して人には中らぬもので、人もなく物も無く、ツマリ当り障りのない場所を択んで落ちるのが習慣だという。で、右の石は庭内にも落ちるが、座敷内にも落ちる、何が扨、その当時の事であるから、一同ただ驚き怪しんで只管に妖怪変化の所為と恐れ、お部屋様も遂にこの邸に居堪れず、浅草並木辺の実家へ一先お引移りという始末。
  
 さっそく、妖怪を退治するために同家の血気にはやる若侍たちが、刀や鉄砲をもち出して泊まりこみ、屋敷じゅうを調べてまわったが怪異はやまず、ついには飛んできた石でケガ人まで出る始末だった。狐狸のしわざも疑われたが、屋敷の庭に巣穴は見つからなかった。すると、こんなことをいう者が出てきた。
 それは、江戸の巷間で以前からささやかれていた伝説の引用で、「池袋村の女を下女に雇うと、不思議にもその家に種々の怪異がある」(同書)というものだった。そこで、屋敷内に「池袋村」出身の下働きの女がいるかどうか調べさせたところ、ひとり見つかったのでさっそく暇を出した(クビにした)ところ、怪異はそのまま2~3日はつづいたけれど、1週間ほどで少しずつ収まっていった……というものだ。
 だが、ここには岡本綺堂の古い怪談を参考にした、意図的な怪異の創作があったと思われる。麻布六本木の大名屋敷での怪異は安政年間=幕末の想定だが、それに先立つ50年以上も前の、天明年間ごろから江戸市中でささやかれていた伝説は「池尻村」と「池袋村」であり、実際に怪異が記録され伝承されたのは「池尻村」のケーススタディだった。それを、岡本綺堂が明治期になって実際の事例が伝わらなかった「池袋村」のほうを取りあげ、新たな怪談として創作しているとみられる。
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 その巷間に伝わる怪異話を、南町奉行だった根岸鎮衛Click!が有名な『耳嚢』に記録している。『耳嚢』巻之二に収録された、「池尻村の女召使ふ間敷事」から引用してみよう。
  
 池尻村とて東武の南池上本門寺などより程近き一村有。彼村出生の女を召仕へば果して妖怪など有と申伝へしが、予評定所留役を勤し頃、同所の書役に大竹栄藏といへる者有。彼者親の代にふしぎなる事ありしが、池尻村の女の故成けると也。享保延享の頃にもあらん、栄藏方にて風と天井の上に大石にても落けるほどの音なしけるが、是を初として燈火の中へ上り、或は茶碗抔長押を越て次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と台所の庭垣を隔てけるが、台所の庭にて米を舂き居たるに、米舂多葉粉抔給て休みける内、右の臼垣を越て座敷の庭へ至りし也。其外天井物騷敷故人を入て見しに、何も怪き事なけれども、天井へ上る者の面は煤を以て黒くぬりしと也。其外燈火抔折ふしはみづからそのあたりへ出る事有りければ、火の元を恐れ神主山伏を頼みて色々いのりけれども更にそのしるしなし。ある老人聞て、若し池袋池尻辺の女は召仕ひ給はずやと尋し故、召仕ふ女を尋しに、池尻の者の由申ければ早速暇を遺しけるに、其後は絶て怪異なかりし由。
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 「池袋池尻辺の女」を雇うと怪異が起こるというのは、どのような起源で伝承されるようになったのだろうか? 双方の地名に「池」がつくことから、なんらかの水辺にからんだ怪異話がもとになり、そのような伝承へ発展したのかもしれない。
 確かに、江戸期にはお玉ヶ池Click!や溜池の周辺で、池をめぐる怪談がいくつか語り伝えられている。しかし、それは江戸市中のことであって、突然、江戸市街から遠い池袋村や池尻村と結びつけられるのが理解できない。昭和初期、新聞ダネにもなった青山墓地からタクシーに乗り、途中で消えた女が告げた行き先が「入谷」または「池袋」Click!だったというのは、江戸期からの怪異譚がどこかで生きていたものだろうか。
 当の池袋村のごく近く、下高田村と小石川村の境界にある豊川町にも、非常によく似た怪談が伝承されている。江戸後期から大岡忠正が主膳正を受領していた、豊川稲荷のある大岡家下屋敷と近くで開業していた打紐屋とのエピソードだ。現在の文京区目白台1丁目で、豊川稲荷や日本女子大付属小学校がある目白崖線沿いの一帯だ。こちらは、怪異の原因が「池袋池尻辺の女」ではなく、タヌキのしわざだったとされている。
 1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)に収録の「大岡屋敷の狸の悪戯」から、短いので全文を引用してみよう。
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 豊川町の大岡越前守(ママ)の屋敷の前にあつた打紐屋に、毎日何処からともなく、沢山の石が降つて来るので、大評判となり、遠方から見物に来るものも多い。一日、雲低く空暗く、五月雨の蕭々として物淋しき夕、激しく大岡屋敷から石が飛んで来るので、多くの見物人の中から一人が屋敷内に入り調べて見たるに、永くこの屋敷内に棲んで居る幾疋かの古狸が、人間を驚かさんとする悪戯である事が判かつた。
  
 なぜ、「古狸」のしわざ(タヌキたちの投石)だとわかったのか、その経緯が記録されていないので不明だが、いちおう直接の原因が「判明」している。
 だが、市中で起きた石が降る怪異は、「池袋池尻辺の女」の存在が「原因」とされているだけで、なぜ彼女たちがいると屋敷が揺れたり石が降ってくるのか(体力のある彼女たちが家を揺らしたり、石をまいたのではなさそうだw)、その因果関係の説明がまったくなされていない。そこに、なんとなくウサン臭さを感じるのは、わたしだけではないだろう。
 屋敷内のある女中を追いだしたくなった、なんらかの不都合やよんどころない事情が大名屋敷側にあり、たまたま追いだした女中の出身地が「池袋池尻辺の女」だったのではないか。それを、ことさら家が揺れるだの石が降ってくるだのとあれこれ尾ひれをつけ、妖女の怪異譚に仕立てあげて巷間にウワサをリークした気配が濃厚だ。大名屋敷内は基本的に「治外法権」であり、なにか事件があっても幕府でさえ調査をするのはなかなかむずかしい。ちなみに、大岡屋敷の投石怪談は打紐屋と、下屋敷の門番か中元あたりとの間で、なんらかのイザコザがあった近隣トラブルではないだろうか。w
 さて、現在の豊島区にある「池袋」という地名がつく街や地域に住んでいる女性は、5年前に実施された2016年の国勢調査ベースの数字によれば、上池袋が8,369人、東池袋が9,272人、南池袋が3,990人、西池袋が7,897人、池袋が8,823人、池袋本町が8,717人のつごう47,068人となる。また、世田谷区の池尻1~4丁目の女性人口は、池尻まちづくりセンターの調査によれば2021年現在で8,170人が暮らしている。特に文化・芸術事業に注力して、昭和のイメージを一新した池袋地域は、若い女性に人気な「住みたい街」の上位エリアなので、今後とも女性の人口が増えつづけそうだ。
 すなわち、現在では「池袋池尻辺の女」は合計55,000人をゆうに超えるわけだが、残念ながら彼女たちの自宅やその勤務先で建物が揺れたり、石が降ってくるというような怪談はまったく聞かない。もし江戸期の「池袋池尻辺の女」怪談が事実であれば、現代の東京では同様の怪異が少なくとも数万件の単位で起きてなければおかしいことになるが、怪談Click!都市伝説Click!が好きなわたしの耳にさえ、そんなウワサはただのひとつも入ってこない。
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 岡本綺堂が書いた『池袋の怪』が「実話怪談」系であれば、ここは神田三河町に住む半七親分にでも登場してもらって、大名屋敷の怪を解明してほしいものだが、なぜか綺堂の怪異譚はその原因を探ろうともせず、不思議をうっちゃったまま恐怖を楽しむだけのことが多いようだ。それとも、綺堂自身がじっくり腰をすえ調査しながら書いている時間的な余裕がなかったのか、あるいは編集者のニーズやケチな原稿料も含めた“大人の事情”がいろいろと介在し、「文藝倶楽部」編集者が半七捕物帖シリーズの1編だと期待して、なかなか脱稿しない原稿を督促しに岡本邸を訪ねたら、それが「実は怪談」だったのかもしれない。

◆写真上:江戸期には高田豊川町とも小石川豊川町とも呼ばれた、現在は目白台1丁目になっている大岡家下屋敷にあった豊川稲荷社。
◆写真中上上左は、『池袋の怪』が収録された『綺堂怪奇名作選-飛騨の怪談』(メディアファクトリー/2008年)。上右は、著者の岡本綺堂。は、麻布丘陵の随所に通う細い坂道。は、現在は大名屋敷よりももっと怖い麻布の古い西洋館。
◆写真中下は、屋根に石をまいていたのは「砂かけ婆」ならぬ「石かけ婆」だろうか。は、国立公文書館に保存されている根岸鎮衛の『耳嚢』巻之三。は、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大岡家下屋敷。
◆写真下は、大岡家下屋敷跡に建つ「目白台一丁目遊び場」。もうすぐ、都道25号線の大道路建設で壊されてしまうだろう。は、豊川稲荷の小祠。は、麻布地域と同様に目白崖線のあちこちに通う細い急坂の1本で目白台の「幽霊坂」(バッケ坂Click!)。

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関東大震災の「土産」「贈物」グラフ誌。 [気になる本]

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 1923年(大正13)9月1日に起きた関東大震災Click!のあと、東京を中心に被災地見物の観光旅行が流行った様子が記録されている。こちらでも、物見遊山で被災地を訪れる観光客に、違和感をおぼえたらしい竹久夢二Click!のエッセイをご紹介Click!していた。そのような観光客相手に、記念絵はがきや写真集が出版され、当時の新聞には盛んに広告が掲載されている。
 そのコピーを読むと、地方への「土産」や「贈物」として最適……といった、今日の感覚では考えられない、被災者の心情を逆なでするような表現もめずらくしない。これらの写真を撮り、印刷をして販売していたのは、大震災の被害が比較的少なかった乃手Click!や郊外の出版社、または東京地方ではなく別の地方にある出版社が主体だった。
 もちろん、新聞社も画報(グラフ誌)などを通じて、写真集のような仕様の出版物を刊行していたが、市街地にあった新聞社や印刷・製本工場のほとんどが壊滅しているため、大震災の直後に出版できたところは稀だ。それらは、出版機能が回復した同年の10月下旬以降が多く、被害をあまり受けていない乃手や地方の出版社に比べると、およそ1ヶ月遅れで発行されたものが多い。
 東京市内でいえば、たとえば大正当時は本郷区駒込坂下町(現・千駄木2~3丁目)に社屋があった大日本雄弁会講談社(現・講談社)や、赤坂区丹後町(現・赤坂4丁目)にあった東京写真時報社、小石川区大塚仲町の歴史写真会など、火災が発生せず被害があまりなかったか軽微な地域にあった出版社だ。また、東京地方を離れると関西方面、特に大阪地方の出版社が多く、たとえば大阪市東区大川町の関西文藝社などが、記者とカメラマンを東京に派遣し被災地を次々と撮影してまわっている。
 震災から間もない同年9月23日には、被災地の取材や撮影を終え早くも印刷・製本を進めていた、大日本雄弁会講談社が発行元のグラフ誌『大正大震災大火災』は、横山大観に装丁を依頼し、同日の東京朝日新聞紙上で大々的に予約注文を募集している。そして、9月下旬には書店に並ぶと予告しているが、3日後の9月26日発行の読売新聞に掲載された広告では、「目下印刷中十月一日発売」と、印刷や製本が遅れている様子が伝えられている。おそらく、用紙やインクの手配が間に合わず、震災で印刷機の調子がかなり悪かったのかもしれない。
 余談だが、先の東日本大震災では、東北地方や関東北部にあった大手印刷工場が大きなダメージを受けている。別に工場が倒壊したり津波をかぶったわけではなく、強烈な揺れに印刷機がさらされ、メンテナンスを受けなければ印刷が不可能になってしまったのだ。ご存じの方も多いと思うが、印刷機は精密機械なので機構にわずか1mm以下のズレや狂いが生じても、もはや使い物にならなくなる。
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 さて、講談社のグラフ『大正大震災大火災』は9月下旬の発行に間に合わず、奥付には1923年(大正12)9月27日印刷、同10月1日発行となっている。そして、10月3日の新聞各紙上で大々的に販売広告を掲載している。この時点で、主要書店の店頭に平積みになったのだろう。地域によっては配送ルートが回復せず、配本が不可能だったものか講談社への予約注文も受け付けている。広告のキャッチフレーズを、少し引用してみよう。
  
 噫! 悲絶凄絶空前の大惨事! 後世に伝ふべき万代不朽の大記録成る
 読め! 泣け! 幾百万罹災同胞の上に万斛同情の灼熱涙を濺げ
 果然! 世の信望本書に集り注文殺到! 試みに店頭一瞥を給へ
 痛ましき哀話怖ろしき惨話はあはれ 涙なくして読み得ぬ一大血涙記! 老幼男女日本国民必読の名著! 各家庭必ず一本を備へよ! 永く子々孫々に伝へられよ
  
 もう大日本雄弁会講談社らしく、まるで講釈師が講談を朗々と語るかのようなキャッチが踊っている。そして、翌10月4日の新聞紙上では、グラフ『大正大震災大火災』の広告と同時に、おそらく月刊誌の復刊態勢が整ったのだろう、同社の発行する「婦人倶楽部」が10月8日に店頭に並ぶという予告が掲載されている。
 相変わらずの講談口調のまま、その予告口上を引用してみよう。
  
 婦人倶楽部十月号予告/大震火災画報血涙記
 あゝ大正十二年九月一日! この日の追憶の如何に悲きことぞ! 花の都は一朝にして忽ち死灰の原と化した。わが『婦人倶楽部』はこの大震大火の真只中に必死の努力を続け大震災後いち早く皆様に見える事が出来たのは何たる幸ひでせう この血と涙と汗の結晶たる本号は是非多くの方に見て頂き良く又永く語り草として御家庭にお伝へが願ひ度いのであります
  
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 翌10月5日の読売新聞には、東京写真時報社が出版した『関東大震災画報』の小さな囲み広告が掲載されている。「類書中の白眉製本出来、九月二十九日より発売す」と、明らかに講談社の『大正大震災大火災』を意識し、同書よりも早くから出版していることを強調している。だが、講談社ほど配本ルートや取次網が整備されていなかったのか、「取次販売人至急募集」と「至急御注文ありたし(前金着次第即時送本す)」と、通信販売に力を入れている様子がうかがえる。
 10月も末になると、震災の画報や写真集はあらかた読者に行きわたったのか、広告の扱いも小さくなっていく。そして、東京の被災地をまわる観光客をめあてに、新聞紙上には小さめな広告を反復して掲載するようになった。同年10月29日の読売新聞から、広告の全文を引用しよう。
  
 地方へ海外へ絶好の贈物
 ◇地方への土産、海外同胞への無二の贈物として大日本雄弁会の『大正大震災大火災』と云ふ本が一番いいと大評判。郵便事務復興小包で送れる至極適当であるとて非常に売れる売切れぬ中至急郵送あれ(各地書店にあり)
  
 今日では、阪神・淡路大震災にしろ東日本大震災、熊本・大阪・北海道大地震などの被災地を写真に撮り、「土産」や「贈物」に最適……などと売り出したら、即日出版社は抗議の嵐にみまわれるだろうが、新聞以外にニュースを知る手段がない大正時代の当時、全国の出版社や新聞社は東京にカメラマンを派遣し、次々と同様の写真集やグラフ誌、記念絵はがきなどを出版・発行していった。
 講談社の『大正大震災大火災』は、1924年(大正13)1月に入ると累計50万部を超え、さらに増刷中の広告を掲載している。同年1月16日の東京朝日新聞には、「一挙売り尽す五十万部 増刷又増刷而も残部頗る僅少也/本書は以後絶対に増刊せず求め損つて悔を千載に残す勿れ」という広告を掲載しているので、おそらく60万部ほどは売り尽くしたのではないかとみられる。
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 現在、わたしたちが目にする関東大震災の写真は、その多くが東京地方にあった新聞社のカメラマンが撮影したり、記念絵はがきを制作するために写真館が撮ったものが多い。しかし、東京の中小出版社や地方から派遣されたカメラマンが撮影し、間をおかず写真集として出版されたものの中には、これまで見たことのない写真類が数多く収録されている。機会があれば、それらの貴重な写真類を、少しづつ紹介できればと考えている。
                                 <つづく>

◆写真上:震災直後に撮影された、大手町にある大蔵省の焼跡。中央の右手に前方後円墳の芝崎古墳Click!将門首塚」古墳Click!とみられる墳丘がとらえられている。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月23日の東京朝日新聞に掲載された大日本雄弁会講談社の『大正大震災大火災』広告。は、同年9月26日の読売新聞に掲載された同広告。は、同年10月3日の読売新聞に掲載された同広告。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月25日発行(実際は10月1日発行だと思われる)の大阪にあった関西文藝社による『震災情報/SHINSAIJYOHO』。は、同年10月4日の読売新聞に掲載の『大正大震災大火災』広告。下左は、『大正大震災大火災』の表紙。下右は、同年10月29日の東京朝日新聞に掲載された同書の広告。
◆写真下は、1923年(大正12)11月1日に出版された歴史写真会の『関東大震大火記念号』。中左は、同年10月5日の読売新聞に掲載された写真時報社『関東大震災画報』広告。中右は、1924年(大正13)1月16日の東京朝日新聞掲載の『大正大震災大火災』広告。下左は、1923年(大正12)10月1日発行の写真時報社『関東大震災画報』。下右は、同年10月28日発行の遅れた東京朝日新聞社『アサヒグラフ-大震災全記-』。

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江戸東京方言でも七は「ひち」だ。 [気になる本]

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 ふだん“ベストセラー”とうたわれる本は、たいがい読むとガッカリして後悔するケースが多いのであまり手にしないが、昨年(2015年)の秋に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)は、子どものころから数えておそらくゆうに50回以上は訪れている街がテーマなので、ついネットで注文してしまった。
 もっとも、大人になってから訪れた回数は少なく、最近では一昨年に旅行と出張で二度ほど出かけているだけで、しかも仕事では打ち合わせのみのわずか3時間ほど滞在しただけだった。したがって、この街を訪れたのは子どものころから学生時代までが圧倒的に多い。それは、建築土木畑Click!出身の親父が仏教彫刻や建築に興味があったせいだが、同時に奈良を訪れる機会も多かった。いや、むしろ彫刻では奈良のほうが圧倒的だろう。
 京都の仏教彫刻には、著者が差別を受けて「京都ではない」とされる洛中以外の場所に、注目すべきいい作品が多い。著者の故郷である嵯峨(京都ではないそうだが)の、いわゆる清凉寺式の釈迦をはじめ、子ども心にも面白いと感じた宇治と日野の“定朝伝承”が残る阿弥陀如来の比較、鄙びて味わい深い大原の跪く観音・勢至など、「京都」ではない地域の仏像に興味を惹かれた憶えがある。
 さて、著者が「洛中以外は京都ではない」と徹底した差別を受けてきた本書の内容は、わたしにとってはめずらしかった。そんなに根強い差別意識がいまだに残る街だとは正直、外から眺めていただけではわからなかった。「洛中=京都」であり、そのエリアが尊くて特別に貴重であるためには、「尊くなくて貴重じゃない」エリアを相対的な概念としてつくらなければならない。なにやら、尊い人々をつくるためには尊くない、卑しい人々を形成しなければならず、特別に尊い人々をつくるためには、特別に卑しい人々を設定しなければならない……という、シンプルで概念的な(政治制度的でなく)階級形成にもとづく「天皇制」論を思い出してしまった。事実、嵯峨よりも外側の人々を洛中=京都からさらに遠く離れた田舎だと、著者の地域では差別していたフシもうかがえる。
 たとえば、これを江戸東京に置き換えてみると、どうだろうか? わたしは、ここの記事で江戸前期の江戸時代の市街地と、江戸後期の大江戸Click!(おえど)時代の朱引墨引の市街地とを意図的に規定して記述している。また、明治以降の東京15区エリアと、1932年(昭和7)以降の東京35区も意識的に区別して記述している。でも、それは歴史を正確に表現するうえでの境界規定上の区別であって、別に大江戸時代の市街地以外は「江戸」でも「東京」でもないなどと思って書いているわけではない。
 わたしはいま、江戸期の市街地から遠く離れ、かろうじて神田上水(現・神田川)がかよう大江戸Click!期の境界規定でいえば、朱引墨引の境界線内ギリギリのところに住んでいる。1964年(昭和39)の東京オリンピックで、防災インフラの破壊Click!を含め“町殺し”Click!が徹底して行なわれた大江戸の日本橋エリアより、江戸期には「場末」(当時は「郊外」というほどの意味)と呼ばれたエリアのほうが、よほど緑が多くステキな土地柄で住みやすいからだ。ここに住んで37年になるが、日本橋にしろ神田にしろ、尾張町(銀座)にしろ、別に「落合人」を蔑んだり差別したりはしない。
 ただし、親の世代以前ではオリンピックで破壊された街を離れる際、山手線の西側=日枝権現社の氏子町のさらに外側へ転居することを、「郊外へ引(し)っ越す」といっていた。山手線の西側エリアのことを、「東京郊外」だとする意識は、そのエリアを差別しているというよりも、明治期以来の東京15区+外周の郊外(武蔵野Click!)意識の名残りが、60年代まで(城)下町の地元でつづいていたのと、日本橋をこよなく愛する気持ち=郷土愛のほうが強く、その裏返しの自虐的な意識をこめた揶揄だったのだろう。『京都ぎらい』の著者が描く、洛中と洛外のような「いけず」で性悪で、陰湿で執拗な差別意識ではなかったように感じている。
 ちょっと余談だけれど、著者がいう京都=洛中(著者によれば敵地w)を歩いているとき、一度だけ親父が明らかにイラついた表情を見せたことがあった。当時、創業250年を超える漬物屋(現在は300年近いだろう)で、“からし茄子”を購入しているときだった。京都の老舗へやってきた東京人ということで、創業から製品の史的工夫までをクドクドと15分ほどかけて亭主が長話したときのことだ。「たかが漬物(つけもん)で、なに大層なご託を並べてんだい」と、親父の顔には書いてあった。江戸期から営業をつづける店舗や企業が、軒なみ建ち並ぶ日本橋Click!で育った親父にしてみれば、「創業250年で、なにをもったいぶってやがる」という反感をおぼえたのだろう。
 執拗でクドいのはわたしも苦手だが、確かに商売人が、たかが漬物で顧客の(しかも旅行者の)足を止めるものではない。そういう“気づき”や“気づかい”がなく、とても客商売らしくない傲慢な点、わたしもどうしようもなく野暮で洗練されていない店だと思う。著者がいう、「東京」のマスメディアにかつがれ、おだてられて勘ちがい(心得ちがい)をしている、わきまえない漬物屋のひとつだったものだろうか。
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 さて、本書を読んでいてゴリッとひっかかり違和感をおぼえた記述がある。もちろん、「七」の発音についてだ。同書から、当該箇所を引用してみよう。
  
 七七禁令では、「しち」もやむをえないと判断した。それ以降、私は歴史の用語もふくめ、東京へあわせるふんぎりをつけている。生涯を京都ですごした七条院も、後鳥羽天皇の母だが、「しちじょういん」でいい。七卿落ちの場合でも、みんな幕末の京都人だが、「しちきょうおち」にしておこう、と。/しかし、地名だけは、ゆずりたくない。私もふくめ、京都およびその周辺ですごす人々は、みな上七軒を「かみひちけん」とよぶ。誰も「かみしちけん」とは言わない。七条院の名を知らない人々も、地元にはおおぜいいる。しかし、上七軒は「かみひちけん」という音で、多くの人になじまれてきた。地名では譲歩をしたくないと思うゆえんである。/鎌倉の七里ヶ浜まで、「ひちりがはま」にしたいと言っているわけではない。あちらは、「しちりがはま」でかまわないと思っている。ただ、「かみしちけん」だけはかんべんしてくれと、そう言っているにすぎない。
  
 わたしは、子ども時代を湘南の海辺Click!ですごしているので、七里ヶ浜は「しちりがはま」と発音するのに抵抗感は少ないが、唱歌『鎌倉』を唄うときは「ひちりがはま」と発音する。「♪七里ヶ浜の磯伝い~」は、「♪ひちりがはまのいそづたい~」だ。同じように、7番の「♪歴史は長き七百年~」も、「♪れきしはながきひちひゃくねん~」だ。これは、親父が千代田小学校Click!で習った当時のまま唄っているのを聞き、そのまま憶えてしまったから、ついそう歌うクセがついてしまって抜けない。
 千代田小学校の音楽教師は、「ひちりがはま」ではなく、「標準語」Click!を押しつけて「しちりがはま」だと訂正しなかったらしいところをみると、地付きの教師だったのだろう。江戸東京方言(とりあえず日本橋地域の方言で話を進めるが、近隣地域もおしなべて同様だと思う)では、「…5、6、7、8」は、「…ごう、ろく、ひち、はち」で「しち」とは発音しない。
 だから、「東京」Click!(方面から)の影響で、七条は「ひちじょう」が正しいにもかかわらず、「しちじょう」と無理やり呼ばされるようになってしまった……というようなニュアンスで書かれるのは、できればやめていただけないだろうか?
 江戸東京方言でも、本来的にいえば七五三は「ひちごさん」だし、七軒町は「ひちけんちょう」、五七五七七は「ごうひちごうひちひち」、「七三分け」は「ひちさんわけ」、七輪は「ひちりん」が正しい。親の世代からこっち、学校で教える「標準語」の影響からか、七を「ひち」と呼ばなくなってしまった言葉には、七福神や七面鳥、七五調Click!などがあるけれど、質屋は「しちや」ではなく「ひちや」が正しいというように、いまだ明治期の教部省(のち文部省)がこしらえた得体の知れない「標準語」と対立している江戸東京方言は、発音に限らず言葉のイントネーションも含め、著者の故郷「京都」と同様に数が知れないほど多いのだ。
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 著者は、朝日新聞社の出版局が「七七禁令」の項目を、「ハ行」ではなく「サ行」の項目に加えたことを批判している。再び、同書から引用してみよう。
  
 ただ、当時の私は七七を「ひちひち」としてしか読まなかった。五十音順となる索引づくりにさいしても、最初はこれをハ行のならびにおいている。非常時、七七禁令、ヒトラーという順番で。/私のこしらえたこの索引案に、しかし東京の編集部は、強い拒絶反応をしめした。どうして、七七禁令を、非常時とヒトラーの間に、はさむのか。これは「しちしちきんれい」であり、とうぜんサ行のところに記載されるべきである。けっこうえらそうに、そう要求してきたのである。/七七を「ひちひち」とよびならわしてきた私は、もちろんあらがった。「しちしち」などという日本語は、ありえない。これは、あくまでももとどおりに、ハ行へならべられるべきである。はじめのうちは、東京の編集部にもそう言いかえした。
  
 「しちしち」などという「日本語」が「ありえない」かどうかは、日本語のすべての方言を押さえていないので知らないけれど、少なくともこの地域の(城)下町方言に立脚すれば、著者の地域と同様に江戸東京地方でもありえない。
 でも、「標準語」では「しちしちきんれい」と読むのだから、「標準語」を意識的に社是あるいは表現規範として導入しているマスメディア(企業)なら、いたしかたないのだろう。編集部の担当者が江戸東京の出身者であれば、もう少していねいな対応をしてくれたのかもしれない。いわく、「わたしも、できればハ行に入れたいのですが、社の表現規定で“七”はサ行に入れなければならないんです」……と。
 おそらく、江戸東京方言に疎かったらしい「えらそう」な編集担当者は、1920年前後に東京へやってきた方(この年代の方の子どもが小学校へ上がるころから、授業における「標準語」の徹底化が実施されているようだ)の子孫か、あるいは戦後のより徹底した「標準語」教育を学校で受けてから(または、東京弁=「標準語」だという根本的な錯誤に気づかないまま)、東京地方へこられた方だろう。つまり、わたしとしては「東京」の新聞社ないしは出版社だから、そのせいで“七”がサ行に入れられるのではないことを、著者に了解してほしいのだ。
 朝日新聞社が、古くは薩長政府の教部省(のち文部省)ないしは戦後の文部省(のち文部科学省)が推進する「標準語」にことさら忠実なだけで、同じ社内規定をもつ新聞社や出版社であれば、札幌だろうが大阪だろうが、福岡だろうが「七七禁令」はなんの疑問も抱かれず、サ行の索引に入れられてしまうだろう。当の文部省(文科省)があるのは「東京」なのだから、どこか江戸東京言葉らしきものを押しつけられているという印象(イメージ)が、ひょっとして著者にはあるのかもしれないが、江戸東京方言もまた「標準語」の被害者でありつづけている点に、深く留意していただければと思う。
 著者が洛中とのこだわりで書く、洛外・嵯峨を起源とする「南朝」は56年つづいたが、13年間しかなかった豊臣政権を例外とすれば、薩長の大日本帝国は未曽有の犠牲者を生みながら、わずか77年(ひちじゅうひちねんw)で破産・滅亡した。日本史上では総じて短命な国家(室町期以前の「こっけ」概念含む)であり政治体制だが、その過程で「標準語」を推進してきたのは江戸東京地方でもなければ、地付きの江戸東京人でもない。
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 なるほど、地域言語の尊重に不熱心で地名(音)の保存にも無頓着な、著者が怒りをこめて書く「霞が関の役人」は、現在でも江戸東京地方にいるのだけれど、できれば苦情やお怒り、批判、非難、罵詈雑言のいくばくかは江戸東京の方角ではなく、その基盤となる怪しげな「標準語」なるものをこしらえた出身者たちが顕彰されている山口県と鹿児島県の方角へ、ほんの少しばかり向けていただければ、ありがたいのだが……。

◆写真上:江戸東京のカナメ、日本橋をくぐって真下から橋底をのぞく。2011年(平成23)に補修を完了した箇所や、石材を洗浄した跡が見えている。
◆写真中上上左は、2015年(平成27)に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)。上右は、京都の町家(町屋)路地裏。は、本書にも登場する徳川幕府が再興に全力で取り組んだ華頂山・知恩院。は、御池大橋から眺めた鴨川の流れ。
◆写真中下は、大川(隅田川)に架かる大橋(両国橋)の橋底を真下から。は、江戸東京の大動脈だった大川(隅田川)。は、千代田城を本丸側から眺めた朝靄の富士見櫓。
◆写真下は、雪が降りしきるひっそりとした東山・八坂ノ塔。は、松原橋から川上を眺めた鴨川右岸。は、木屋町あたりにつづく町家建築。
いわずもがなだが、江戸東京では「まちや」は多くの場合「町家」と書いて、関西地域や「京都」をおだてる『家庭画報』あるいは『婦人画報』wなどで見うけられる「町屋」とは書かない。


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