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「日本心霊学会」のスムーズな転身。 [気になる本]

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 以前、上落合にある(財)日本心霊科学協会Click!について記事にしたことがある。大正時代の中期から後期にかけ、日本は「心霊」ブームのさなかにあった。それは、今日のようにオカルト的な視点からの「心霊」現象ばかりでなく、目に見えない存在あるいは目に見えない力に対する、自然科学や人文科学の視座からのアプローチによるもので、あくまでも不思議な現象をさまざまな仮説を立てて、科学的に検証しようとした時代だった。
 この点をよく念頭に置き、当時の「心霊」関連の団体や活動を見ないと足もとをすくわれることになる。先にご紹介した上落合の日本心霊科学協会は、おもに「霊界(幽霊)」の存在を肯定する立場からの活動だったが、同時期に京都で産声をあげた今回ご紹介する「日本心霊学会」の「心霊」は、その唯心論的な立場からおもに「霊力」、すなわち未知の「精神力」「治癒力」「自然力」の存在について科学的に究明する団体だった。
 だから、現在の精神分析医が用いる催眠術も、当時は「心霊」による効果(精神・治療力)現象としてとらえられており、パラサイコロジー(超心理学)分野のテーマであって、今日のオカルティズムやスピリチュアリズムとはかなり趣きが異なる点を考慮しないと、大きな勘ちがいを生じることになる。すでに原子や電子(素粒子)の存在は知られており、目に見えないそれらの「運動(力)」によってあらゆる世界や宇宙が存在・成立しているということは、人間の内部にも目に見えない力=「心霊(力)」Click!が存在している可能性が高い……と仮定した、科学的な追究であり証明へのプロセス(頓挫するが)だった。
 そう考えてくると、下落合356番地Click!に住んだ岡田虎二郎Click!「静坐法」Click!も、また下落合617番地に住んでいた「光波のデスバッチ」Click!で患者を治す劇作家の松居松翁Click!も、今日の目から見ればたいへん奇異に映るが、当時ははるかに社会へ説得力をもって受け入れられていたのだろうし、また本人たちも大マジメで治療あるいは施術を行なっていたのだろう。「病は気から」であり、身体の「元気」や「気力」が弱まれば「病気」がとりついて身体がむしばまれていくという考え方が、現在よりははるかに科学的な仮説やテーマとして語られていた時代だった。
 たとえば、「真怪」Click!(科学的に説明不能な現象)以外の幽霊話・妖怪譚・迷信などを全否定する、落合地域の西隣りに接する井上哲学堂Click!井上円了Click!は、ことさら催眠術や異常心理学に興味をしめしつづけたが、「病は気から」や「元気の素」など古来からいわれている有神論的な精神主義を、科学的な「心理療法」のなせるわざとして研究しつづけた人物でもあった。つまり、当時の言葉でいえば科学的な「心霊(精神)」力をもってすれば、病気の治療Click!には心理学的にたいへん有効かも……ということになる。
 ちょっと余談だけれど、井上円了Click!は英国のテーブルターニング理論を応用して、日本の「こっくりさん」を徹底して調査・研究し、生理的あるいは心理的な作用による現象のひとつだと解明(『妖怪玄談』など論文多数)していたはずだが、いまでは彼の科学的理論などとうに忘れ去られ、相変わらず「こっくりさん」や「ウィジャボード」は子どもたちを中心に好かれ、21世紀の今日でさえ「不思議」で「不可解」なおキツネさん現象などとして素直に受け入れられている。
 科学的な解明が、とうに行なわれているようなテーマであっても、人がそれを「受け入れたくない」「分かりたくない」あるいは「不思議大好き」というような心理が大きく働けば、科学がいかに“無力”であり「心霊」=精神の力が大きく作用するかの見本のような“遊び”だろう。つまり、目に見えない原子や電子が宇宙規模で存在して法則的な運動をしているのなら、いまだ科学的に解明されていないだけで、目に見えない「心霊」力=精神力を構成する微小物体の法則だっていつか見つかるはずだというのが、大正後期から昭和初期までつづく「心霊」ブームを支えていた共通認識であり、科学的な仮定にもとづく「一般論=世界観」だったのだ。この文脈を押さえないで、「ほんとにあった怖い話」とか「呪いの心霊ビデオ」の「心霊」と同一視すると、大きな勘ちがいをおかすことになる……ということだ。
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 だからこそ、岡田虎二郎の静坐法や藤田霊齋の息心調和法、松居松翁の光波のデスバッチなどが、それほどマユツバでウサン臭く見られもせず、むしろ知識人や芸術家、実業家、官僚、教育者など論理的な思考回路を備えているはずの人々に案外たやすく浸透し、数多くの信奉者(あるいは信者)を獲得できていったとみられる。すなわち、宗教の教理や礼拝環境もまた「心理療法」の一種だととらえれば、あながちマト外れではないのだろう。古くから治療のことを「手当て」というが、患部に手を当てただけで痛みが緩和する「気」がする、その「気」(心霊)について研究していたのが京都に本部を置く日本心霊学会だった。
 2022年に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究』から、渡邊藤交による日本心霊学会の創立時の様子について引用してみよう。
  
 渡邊藤交(久吉)は明治四〇年前後に精神療法を学び、「心霊治療」を掲げて日本心霊学会を創始した。(中略) 当時、多数出現した霊術団体の中でも特に大規模な団体として知られていた。東京帝国大学心理学助教授で千里眼実験Click!や心霊研究で知られる福来友吉Click!、福来の協力者でもあった京都帝国大学精神科初代教授の今村新吉、日本の推理小説文壇の成立に貢献した医学者の小酒井不木などとも交流があり、仏教僧侶を中心に会員を増やしていった。大正期には「心霊」が社会を風靡した時代であり、文芸への影響も大きなものがあったが、その一角を担っていたのが、この日本心霊学会だったのである。
  
 また、大正期は民俗学の創生プロセスとも重なっており、日本心霊学会出版部の機関誌「日本心霊」には柳田國男Click!折口信夫Click!、西田直二郎らの研究も少なからず紹介されている。つまり、「心霊」治療を標榜する団体ではあっても、常にアカデミズムの自然科学や人文科学の諸分野とも結びつき、基盤のところで科学的な研究姿勢を崩さなかった側面が、同学会を大きく成長させた要因なのだろう。
 さらに、京都という地域の利をいかして薩長政府による廃仏毀釈以来、経営や事業に四苦八苦Click!しつづけていた仏教寺院の坊主Click!たちを、檀家や信徒たちに対する「心霊」治療の施術者として、全国的に取りこんでいった点にも、渡邊藤交をはじめ同学会出版部のターゲット設定とともに、優れたマーケティング戦略を感じる。
 1927年(昭和2)になると突然、日本心霊学会出版部は社名を変更している。この社名変更について、警視庁が隆盛をきわめた「心霊術」を取り締まる「療術講ニ関スル取締規則」を公布したからだとされているようだが、同規則の公布は1930年(昭和5)であって直接的には関係がないものと思われる。むしろ、大学を中心としたよりアカデミックな学術分野と結びつくためには、出版社の社名が「日本心霊学会」ではかなりマズイと考えたからだろう。
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日本心霊学会編「現在及将来の心霊研究」1918.jpg 今村新吉「神経衰弱に就て」1925.jpg
福来友吉「観念は生物なり」1925.jpg 福来友吉「精神統一の心理」1926.jpg
 日本心霊学会の病気患者に対する治療術について、同書より少し引用してみよう。
  
 まず、活元呼吸という特殊な呼吸法をおこなって「丹田に八分の程度で気力を湛えると、一種の波動的震動を起す」。「これが光波震動である。この震動と共に病気を治してやろうとする目的観念を旺盛たらしめねばならぬ。目的観念とは予め構成したる腹案を念想する、つまり一念を凝せば腹案は遂に力としての観念となるものである。而して此観念が術者の全身に伝わり指頭を通じて弱者、即ち病人の疾患部に光波として放射集注するのである。之が終って又呼気を新たにし光波震動を起し病者の心身に光波感応する。此刹那の感応が人心光波の交感である。福来博士の所謂観念力一跳の境である、心霊学者の所謂交霊であり心電感応の現象である」。
  
 なにをいっているのか、意味不明のチンプンカンプンで思考を停止せざるをえないが、この施術で檀家や信者からいくばくかの謝礼をもらえるとすれば、檀家の少ない寺や墓をもたない寺には、副収入のいいアルバイトぐらいにはなっただろう。
 さて、拙ブログをお読みの方々は、どこかで日本心霊学会の本をすでに読まれているのではないかと思う。哲学や思想関連でいえば、版権独占のサルトルあるいはボーヴォワールの全集や著作集は、この出版社からしか前世紀には刊行されていなかったし、さまざまな専門諸分野の書籍や文芸書、少しかためな学術書や研究書などで同出版社はおなじみだ。大学の教科書や必読書、参考資料に指定されることも少なくなく、わたしは学生時代にサルトルの『自由への道』や『嘔吐』、ボーヴォワールの『第二の性』などを読んでいる。そう、日本心霊学会の出版部は、そのままイコール人文書院だったのだ。
 日本心霊学会の機関誌「日本心霊」は、1915年(大正4)から1939年(昭和14)まで発行されているので、同誌を編集し発行していたのは人文書院ということになる。人文書院では、「心霊」ブームが下火になることを見こしてか、昭和期に入ると学術書や文芸書を積極的に出版していくことになる。戦前に執筆している人物には、既出の心霊学者たちはもちろん、拙サイトへ登場している人物だけでも佐々木信綱Click!金田一京助Click!中河與一Click!岸田国士Click!前田夕暮Click!岡本かの子Click!円地文子Click!相馬御風Click!古畑種基Click!太宰治Click!若林つやClick!室生犀星Click!真杉静枝Click!舟橋聖一Click!などなど、いちいち挙げきれないほどの人々が執筆している。
 人文書院が自ら出版した『「日本心霊学会」研究』(2022年)だが、掲載あるいは挿入されている出版書籍の広告にサルトルの『嘔吐』やS.アーメッドの『フェミニスト・キルジョイ』、W.ブラウン『新自由主義の廃墟で』、B.エリオ『中島敦文学論』、野村真理『ガリツィアのユダヤ人』、C.ブリー『レイシズム運動を理解する』などが紹介されているのに、思わず噴きだしてしまった。同書は、日本心霊学会について真摯な研究論文としてまとめ、テーマや課題別に整然と掲載しているのだけれど、真摯でマジメに論じれば論じるほど、どこかユーモラスな雰囲気がにじみ出てくるような気がしないでもない。
野村瑞城「霊の神秘力と病気」1924.jpg 野村瑞城「霊の活用と治病」1925.jpg
日本心霊学会編「『病は気から』の新研究」1926.jpg 小酒井不木「慢性病治療術」1927.jpg
サルトル「自由への道」1978.jpg 人文書院『「日本心霊学会」研究』2022.jpg
 日本心霊学会は、スマートかつ見事に学術専門のアカデミックな出版社へと脱皮し、戦後も順調に事業を継承してきた。それは、『漱石全集』を出すことで神田の古書店から学術出版社へと変貌した、岩波書店のように鮮やかだ。でも、日本心霊学会=人文書院と聞いてもいまだに消化しきれず、「ほんまに、たいがいにおしやす」の部分が残るのだけれど。w

◆写真上:病気の患者を心霊治療中の、日本心霊学会に所属する施術師。
◆写真中上は、日本心霊学会のバイブルだった1925年(大正14)出版の渡邊藤交『心霊治療秘書』()と渡邊藤交()。は、機関紙「日本心霊」の膨大な封入作業。は、壁一面に積み上げられた機関誌「日本心霊」の入った封筒。
◆写真中下は、荷馬車による機関誌「日本心霊」の郵便発送作業。中左は、1918年(大正7)に出版された日本心霊学会編『現在及将来の心霊研究』。中右は、1925年(大正14)出版の今村新吉『神経衰弱に就て』。は、1925年(大正14)に出版された福来友吉『観念は生物なり』()と、1926年(大正15)出版の同『精神統一の心理』()。
◆写真下は、1925年(大正13)に出版された野村瑞城『霊の神秘力と病気』()と、1925年(大正14)に出版された同『霊の活用と治病』()。中左は、1926年(大正15)に出版された日本心霊学会・編『「病は気から」の新研究』。中右は、1927年(昭和2)に出版された小酒井不木『慢性病治療術』。下左は、1978年(昭和53)に人文書院から出版されたサルトル『自由への道 第一部/分別ざかり』。下右は、2022年に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究―霊術団体から学術出版への道―』。

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