若いころのJAZZ喫茶めぐりのことなど。 [気になる音]
今年の11月24日で、ブログをはじめてから丸17年が経過し、18年目に入りました。同時に今週の初め、訪問者数がのべ2,100万人を超えました。いつも拙サイトをご訪問いただきありがとうございます。さすがにくたびれてきたのか、打鍵しすぎの腱鞘炎とドライアイが進み、新型コロナ禍も重なって思うような取材や記事が書けなくなりました。ある日、記事のアップロードが途切れたら、「あ、とうとうくたびれてイヤんなっちゃったんだな」……とご賢察ください。さて、18年目の最初の記事は、落合地域とも江戸東京ともあまり関係のない音楽の話ですので、興味のない方は早々にフォールアウトいただければ幸いです。
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わたしの学生時代には、京都に老舗のJAZZ喫茶がごまんとあったのだが、そのほとんどが廃業して、いまでは既知の店は「大和屋」(最近はローマ字綴りの「YAMATOYA」のようだ)のみになっている。東京や横浜でも、ずいぶんと廃業した店が多いけれど、いまだに頑張っているJAZZ喫茶Click!も少なくない。左記のリンク先の記事に書いた、学生時代からいきつけの「マイルストーン」は、2019年(平成31)に閉店してしまった。
JAZZ喫茶というと、条件反射のように「吉祥寺」を挙げる人も少なくないが、JAZZの基盤となった2ビートのニューオリンズなど最初期のJAZZはもちろん、4ビートから出発している8ビート(60年代)も16ビート(70年代)も許容しない、この音楽を4ビートのみに収斂して矮小化しようとする、偏屈なマスター(米国でいえば、時代とともに息づいている音楽=JAZZを博物館へピンでとめて展示するようなW.マルサリスみたいな存在)のいる街には昔から近づかなかったので、どうなっているのかは知らない。
学校へ出かける前、または終ってから、あるいはアルバイトの勤め帰りなど、時間に余裕があると東京じゅうのJAZZ喫茶やライブハウスを訪ねてまわった。学校が休みに入ると、首都圏はおろか旅行がてら地方のJAZZ喫茶まで探訪して歩いたものだ。たいがい、どこの店でもLP片面のリクエストを受けつけていたが、初めてリクエストを断られたのは後にも先にも岩手県一関にある「ベイシー」のみだ。「いま、東京からお客さんがみえてるから」というのが、店員から伝えられたお断りのトンチンカンな理由だが、わたしも東京からの「お客さん」なんだけどな……と、あきれて連れと顔を見あわせたのを憶えている。
当時は、『日本列島JAZZ喫茶巡り』とか『ジャズ日本列島』とかいうようなムックも出版されていて、日本全国どこへ旅行するにも持って歩くか、旅行先にあたる地方のページをメモしてもっていった。そんな中でも、とても居心地がよくて印象に残っているのは、横浜については以前に詳しく記事Click!にしているので省略するが、特に離れたところの店を挙げると、島根県松江の宍道湖温泉街にある「ウェザーリポート」だ。
1970年代に開店した新しい店だったが(もちろん当時JAZZシーンを席巻していた「ウェザーリポート」にちなんだ店名だろう)、お客を好きなだけ放っておいてくれ、温泉街のせいか空いていて静かなのも快適だった。とうに閉店しただろうと思っていたのだが、あにはからんや現在も健在で内装も一新して営業をつづけている。わたしが立ち寄ったころは、なんだかJAZZ喫茶というよりは豪華な内装の名曲喫茶のような意匠だったが、いまではいかにも居心地がよさそうな店内に衣がえしている。今度、松江へ遊びにいく機会があれば、絶対に立ち寄るので閉じませんように。
JAZZ喫茶だけが出版する独自のカタログが欲しくて、通いつづけた店もあった。高田馬場にいまもある「イントロ」で、現在は夜間のみのライブハウスになっているようだが、わたしの学生時代にはJAZZ喫茶としても午後から営業していた。この店のみで出版されている『JOHN COLTRANE DISCOGRAPHY』は、当時(1980年前後)に存在するコルトレーン(ts,ss,fl)の完全ディスコグラフィーとして全国的というか世界的にも有名で、手に入れられる限りのブートレグClick!まで網羅した、この店でしか手に入らないものだった。
ちょうど増刷か、あるいは再編集のタイミングだったのかもしれないが、わたしが求めに訪れたときはたまたま品切れで、その後、何度か通ってようやく手に入れたときはうれしかった。いまも手もとに置いているが、1977年(昭和52)の夏に出版されているので、わたしが手に入れたのは制作から3年後ということになる。
ちょっと懐かしい同ディスコグラフィーの、小野勝による序文から引用してみよう。
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ジョン・コルトレーンのディスコグラフィーは過去に何回作られたであろうか? 私の記憶によれば、国内ではまず、コルトレーンの死んだ年のSJ誌(リーダーアルバムの写真のみ)、次に同じくSJ誌別冊(これはイエプセンを参考にしたと思われる)、その他さまざまなジャズ専門誌において取り上げられている。外国では、イエプセン、それに現在一番詳細であると思われる、ブライアン・デヴィス氏の編集がある。日本のものはジャケット写真を載せているものが多いが、レコード単位の編集の為、未発表セッションが抜けていて明らかにデータ不足と思われるし、また、外国のものは、データは非常に詳しいが、ジャケット写真が載っていないということで、どちらも不満に思っていた。/そこで今回、その両方を満足させるべく、ジャケット写真は出来るかぎり、オリジナルなものを茂串氏と私のものでそろえ、現在日本で得られる最新の情報を基に作成した。
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この中に「SJ誌」と出てくるのは、2010年(平成22)に休刊(廃刊?)となった「スイングジャーナル」(スイングジャーナル社)のことだ。当時は、「スイングジャーナル」と「ジャズ批評」(ジャズ批評社/健在)が2大JAZZ誌といわれ、プロのミュージシャンや専門家向きには「JAZZ Life」(ジャズライフ社/健在)や「ADLIB」(スイングジャーナル社/2010年休刊)などがあった。当時はおカネがなかったので、たいてい書店で新着ニュースや新譜のリリース情報を立ち読みしていたのを憶えている。
当時の「イントロ」は、コルトレーンのブートレグを含めた完全コレクションが聴ける店として全国的に知られていたが、完全ディスコグラフィーを発行している店としても有名だった。もっとも、現在ではコルトレーンのアルバムは当時の倍以上、つまり彼が生きていた時代よりも圧倒的に数が多く、ブートレグにいたっては世界じゅうで数えきれないほどリリースされているので、いま「完全ディスコグラフィー」を画像入りで作成するとすれば、とてつもなくたいへんな仕事になってしまうだろう。
わたしも、当時から新宿や御茶ノ水、神田などにあった輸入盤の専門店で、日本ではめったに手に入らないアルバムやブートレグを漁っていたが、コルトレーンほどのビッグネームならともかく、ちょっとメジャーから外れるミュージシャンだと国内盤が充実していて輸入されるLPレコードは枚数が少なく、「きのう売り切れました」といわれることも多かった。輸入盤のLPレコードは、国内のリリース盤よりも30~50%も安かったため(そのかわり、ジャケットのどこかが必ず三角形に切りとられていたが)、わたしのように貧乏な学生がしじゅうマメに訪れては、美味しい作品をいち早くかっさらっていったのだ。
当時、JAZZ喫茶へ出かけると面白い遊びをしたことがある。たいがいJAZZの名盤と呼ばれるようなメジャーレーベルのアルバム、たとえばVerveやPrestige BlueNote、Impulse!、Columbia、RIVERSIDE、Bethlehem、ECMなどの作品が、有名どころのJAZZ喫茶ではしょっちゅうかかっていることが多かったが、わたしの好きなアルバムだけれど滅茶苦茶マイナーで地味な、クロード・ウィリアムソン(pf)Click!の『クレオパトラの夢』(Venus Record /1977年)とかをリクエストして店内に流れると、お客たちが「このアルバムはなんなんだよ?」と、柱や壁などのスタンドに立てかけられたジャケットを確認しに、ゾロゾロとあちこちから席を立って見にくる。
いまから考えてみれば、野暮でイヤミでつまらない遊びを臆面もなくしていたものだが、当時は「こんなアルバム、知らないだろ?」「モブレー聴くなら、こんなのもあるよ」と自慢しているようで、それが恥ずかしながら面白かったのだ。玄人好みといわれ、「白いバド・パウエル」などと呼ばれたクロード・ウィリアムソン(pf)でもそうだが、まるで演歌かよと思うようなコブシのきいたFlying Dutchmanのガトー・バルビエリ(ts)や、デビューして間もない高瀬アキ(pf)でも同じような現象が起きて、内心「やった!」などと思っていたのだから、いまから思えば汗顔のいたりだ。
でも、有名なアルバムばかりでなく、こういう作品もちゃんとそろえているJAZZ喫茶が、都内ではどこでもあたりまえのように存在していた。名盤や名前の知られたミュージシャンから大きく外れ、アルバムがリリースされたこと自体さえあまり知られていないような作品でも、たいがいの店には当たり前のようにたいてい置いてあったのだ。つまり、店のオーナーやマネージャーが、それだけ敏感にアンテナを張りめぐらして、毎月リリースされる作品を几帳面にチェックし、いつリクエストがあっても応えられるよう店の棚にきちんとそろえていたことになる。ただし、こんなJAZZアルバムは置いてないだろうと、ブートレグレベルの作品を次々にリクエストして「なぜ置いてないの?」とマスターを困らせる客もいたというから、わたしの遊びなどかわいい部類に入るのかもしれないが……。
だが、メディアがLPレコードからCDへ移行するにつれ、広い収納スペースが必要で場所をとる(そしてとてつもない重量の)LPレコードを整理・処分するJAZZ喫茶も増えはじめ、LPからCD化されなかったアルバムは、次々とこの世から姿を消していくことになった。いまだにアナログプレーヤーで、DENONやオーディオテクニカ、GRADO、オルトフォンなどのカートリッジを装備してLPレコードを処分していない店では、そんな古いアルバムをリクエストしてもたいていは聴くことができるが、1980年代以降に開店したJAZZ喫茶orJAZZバー(もどき?)ではCDが主体で、しかもリクエストを受けつけない店も少なくない。
頑固にLPレコードをそのまま保存し、最新のオーディオシステムClick!ではなく、当時のレコードの再生に見あった昔のシステムで聴かせる店は、いまやJAZZ喫茶よりもクラシックの名曲喫茶のほうが多いだろうか。いまにして思えば、JAZZ喫茶がバタバタと店じまいをはじめたのは、新宿の歌舞伎町にあった「木馬」の閉店がきっかけだったかもしれない。お客はいつも多く入ってにぎやかだったし、新派Click!の水谷良重(現・水谷八重子)が経営していたので、まさか早々に閉店するとは思ってもみなかった。「木馬」でのリクエストは、地下の広い空間に大音量で流せる、エレクトリック・マイルスがいちばん多かっただろうか。
◆写真上:LPジャケットを壁紙がわりにして、壁一面に貼っている店も多かった。ジャケットデザインを見ただけで、サウンドやvoが聴こえてくる“名盤”アルバムばかりだ。
◆写真中上:上は、2019年に閉店した高田馬場の「マイルストーン」。学生時代はオリジナルエンクロージャの巨大なJBLだったが、今世紀に店内を改装してからはマッキントッシュClick!+JBLオリンパスになった。中は、こちらもオリンパスの松江「ウェザーリポート」。わたしが寄ったときは、もっと豪華な内装でかなり明るかった印象だ。下は、後藤マスターで有名な四谷の「いーぐる」で、マイルス作品はよくここで勉強した。
◆写真中下:上は、地味なクロード・ウィリアムソン『クレオパトラの夢』(1978年/左)と、ガトー・バルビエリ『アンダー・ファイアー』(1973年/右)。中は、1986年に発行された最新版(?)『ジャズ日本列島』(ジャズ批評社/左)と、1977年に発行された『JOHN COLTRANE DISCOGRAPHY』(イントロ/右)。下は、学生時代とはちょっと印象がちがうイントロの店内で、当時の装置はALTECだったと思う。
◆写真下:上・中は、同ディスコグラフィーのコンテンツで緑色の〇印がついている作品は入手済みだったが、〇印のない希少盤は東京じゅう探しまわったのを憶えている。下は、同冊子の奥付で「ムトウ楽器店」とか「タイムレコード」などの店名が懐かしい。(あっ、画像にネコの毛が……。スキャナの上が温かいものだから、最近そこで寝たりするのだ)
ラテン系サウンドが似合う神奈川の海辺。 [気になる音]
わたしはもの心つくころ、台風の目で遊んだことがある。調べてみると、1965年(昭和40)8月22日(日)の昼間、伊豆半島からやってきて平塚の馬入川(相模川)河口の須賀海岸あたりから茅ヶ崎の柳島にかけて上陸した台風17号ではないかと思われる。台風の目は正円だというのを、実際に初めて目にした瞬間だった。360度の視界が厚い雲で覆われているが、真上の空は快晴だ。湘南海岸の上陸時は965hp(当時はmb単位だった)なので、かなり勢力が衰えていたのだろう。翌8月23日には、早くも熱帯低気圧に変わっている。
当時は親父の仕事の関係から、平塚の海岸っぺりClick!に住んでいたころだった。台風の目に入ると、いきなり強い陽射しで青空が拡がり、あたりはピタリと無風状態になった。いままで荒れ狂っていた嵐が、まるでウソのような情景だった。これは遊べると思って外へ飛びだすと、近所の子たちも空を見あげながら出てきていた。もちろん、母親は台風の目の中に入ったのを知っているので、「急に雨と風が強くなるから、すぐに帰ってきなさいよ!」と、わたしの背中に声をかけたのを憶えている。なにをして遊んだのか、いまではまったく記憶にないが、強風で折れて飛んできたマサキかサンゴジュの木の枝で、近所の友だちと水滴のかけっこかなにかしたような気がする。台風でシーンと静まり返っていたセミたちの鳴き声も、あちこちから聞こえはじめていた。
30分ほど遊んだだろうか、道路の大きな水たまりに映っていた青空が灰色に曇り、いきなり先ほどの豪雨と強風が襲ってきた。みんな叫び声(脳内アドレナリン噴出の歓声)をあげながら、各自の家々へ引っこんだのだと思う。わたしもズブ濡れになって帰宅し、さっそく着替えさせられた。2階の自室から外を眺めると、まるでさっきの晴れ間と無風状態がウソのように、クロマツの林が強風で大揺れし荒れ狂っている。ベランダの窓ごしに相模湾を見やると、沖のほうから波が割れて白い波頭が押し寄せてきていた。
台風がくる直前、突然あたりがシーンと静まり返るというのはほんとうだ。「嵐の前の静けさ」とはよくいうが、目の前に台風がいるのに物音ひとつ聞こえなくなる時間がある。セミたちも、鳴りをひそめて鳴き声ひとつ立てない。あまりの穏やかな風情に、「ほんとに、台風なんかくるのかな?」と思ってると、いきなり強い風が吹きはじめ横なぐりの雨がやってくる。子どものころ、夏から秋にかけときどき経験した情景だが、台風の目を体験したのは後にも先にもこのとき一度だけだった。
なぜ、当時の記憶が鮮明なのかといえば、翌日、遅い夏休みをとっていた親父に連れられて一家で鎌倉Click!へ遊びに出かけているからだ。翌日は台風一過の快晴で、空気も澄んで秋の気配がそろそろ漂いはじめていたかと思う。ユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)で鎌倉行きのバスに乗り、ガラ空きの道路をまっすぐ東に向かって走っていると、海岸ではいまだ少し高めな波を相手に波乗りClick!(サーフィン)をする地元のお兄ちゃんたち(お姉ちゃんサーファーはまだ少ない)がたくさんいた。
上原謙が経営していた「パシフィックホテル茅ヶ崎」(現・パシフィックガーデン茅ヶ崎)をすぎ、辻堂海浜公園(当時は砂丘のままで存在しなかったかもしれない)の界隈、もともとは米軍が射爆場にしていた茅ヶ崎砂丘が拡がっていたあたりから、高波なので遊泳禁止(同様に出漁禁止)の赤い旗が、あちこちの海水浴場に立っていたのを憶えている。茅ヶ崎の汐見台から辻堂海岸にかけて、当時は一度も泳いだことがないのでよく知らなかったが(わたしがよく泳いだのは鎌倉と大磯海岸から西にかけてだった)、3年後、ここで映画の撮影をすることになったので馴染みができた。映画の撮影を見物したのではなく、映画に出演したのだ。
そのころ、わたしはボーイスカウトに入っており(親に“入れられた感”が強く、軍隊のような組織で最後まで馴染めなかった……というか、土日の休みがつぶされるのでキライだったが)、地元の団隊に映画会社からの出演依頼がきたらしい。わたしたちの隊は、茅ヶ崎の汐見台あたりに野営(テントを張ってキャンプすること)して、確か「海洋研究所」にされてしまったパシフィックホテルを背景に、出演者たちとやり取りするようなシチュエーションだった。ロケに参加していた出演者は、本郷功次郎に篠田三郎、八重垣路子、渥美マリたちだったが、本郷功次郎は気さくな人なのかなにか話した記憶があるのと、ちょっと色っぽい渥美マリお姉さんが気になったのが、特に印象に残っている。w
映画のタイトルは、大映の『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』(1968年)という作品だが、わたしは圧倒的に東宝のゴジラファンClick!だったので、あまり感動も感激もしなかったのだろう。どこかからガメラが出てくるわけでもなく、地味で退屈な撮影カットの連続で陽が傾くころには飽きあきしはじめていた。「隊長」の本郷功次郎がなにか話をしたとき、隊員たちが喜ぶシーンがあったのだが、わたしの喜び方がおざなりだったらしく、湯浅憲明監督からNGを出されて撮り直しになったのをよく憶えている。(いまさらながら天国の本郷功次郎さん、NGを出してスミマセン) むしろ、映画というのはこうやって地味に作っていくのかという、制作の裏側を観察できたのが貴重で面白かった。
さて、話が横道にそれたので1965年(昭和40)にガラ空きだったユーホー道路(湘南道路)を走るバスにもどろう。この日は、鎌倉駅Click!に着くとすぐに金沢街道を走る浄明寺ヶ谷(やつ)行きのバスに乗り換え、杉本観音Click!のバス停で降りて南側の山に入っていったのだと思う。断定できないのは、わたしがまだ小さく記憶が曖昧で不確かなせいだが、台風の翌日なので山道がひどく滑りやすかったのは憶えている。ただし、急峻なコースは木々が鬱蒼と繫っているので、それほどぬかるんではおらず、むしろ台風で折れた小枝が散乱して歩くのを邪魔していた。当時は住宅が谷(やつ)の奥まで入りこまず、金沢街道から滑川Click!の橋をわたると、ほどなくハイキングコースのような山道だったと思う。
この道をそのまま登っていくと、やがて釈迦堂ヶ谷(しゃかどうがやつ)切通しに差しかかる。切通しといっても、鎌倉にある他の切通しとはまったく異なり、山を二分して掘り下げるClick!のではなく、岩をくりぬいて隧道(トンネル)状にした唯一の切通しだ。当時は、現在のように通行禁止ではなく自由に往来でき、山道を少しずつ下るとやがて1.5kmほどで安養院Click!や八雲社のある材木座海岸の方面へと抜けることができた。釈迦堂ヶ谷切通しの中は乾いていたが、前日が台風だったせいで上部の木々の間からときどき夏の光が反射する水滴が頻繁に落ちていた。それが、切通しの明るい鎌倉ならではの岩肌や、セミ時雨がかまびすしい山中の情景とあいまって美しく、ことさら子ども心に強く焼きついたものだろう。
もうひとつ映画の話をしてしまうと、台風に釈迦堂ヶ谷切通しとくれば『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督/1990年)がすぐに思い浮かぶ。従来はVHSしかなかったが、ようやくDVDが発売されたのでつい衝動買いしてしまった。ずいぶん前に、いい映画と好きな映画はちがうという記事Click!を書いたけれど、この作品はストーリーはどうでもいいが、わたしが子どものころの神奈川県の海っぺりの匂いや雰囲気が、とてもよく描かれていて好きだ。海で遊んでいたのは、まさに同映画に登場するお兄ちゃんやお姉ちゃんのような子たちだった。もっとも、ひとつ違和感があるとすれば、登場人物たちの肌が白すぎること。わたし自身を含め、みんなもっと日焼けしていて真っ黒だった。
あの時代、相模湾の雰囲気を出すのに、加山雄三のハワイアンはまったく似合わず場ちがい筋ちがいなサウンドに響いていた。地元に溶けこんで育っていない彼には、地場の雰囲気や感覚がわからなかったのだろう。それに比べ、『稲村ジェーン』に流れるラテン系の旋律はとてもよく似合う。上原家は、「湘南」を商品化して「洗練」されたイメージにしようとしたようだが、地元の人々にしてみればもっと泥臭い、この地域ならではのこだわりがあって、脳天気なカラッとした陽気さがある半面どこかさびし気な哀愁感が漂う、潮臭い(生臭い)湿り気のある空気感があったように思う。
それは、TVや映画で流れる神奈川県の夏の海岸がいつもピーカンで、海水浴客やサーファーたちが楽し気に遊んでいるシーンが多かったせいもあるのだろうが、真夏の海辺の天気はクルクルと変わりやすくめまぐるしい。毎日のように、午後か夕方になると入道雲が近づいてきて、たいがい激しい雷と夕立が降っていた。家の2階から、海に落ちるブルーやピンクの雷を飽きずに眺めていると、1時間ほどで雨があがり洗われたようなオレンジの夕陽が射してくる。8月下旬ともなれば、陽射しには秋色が感じられて、どこか祭りのあと、夢のあとのような哀愁感が漂ったものだ。サーファーや海水浴客の数も、風が西に変わりクラゲが多くなってくると目に見えて減っていった。
そんな情景にフィットする音楽として、わたしは昔からギターで演奏する、どこか悲しくさびし気な『いそしぎ(The Shadow of Your Smile)』Click!(Johnny Mandel/1965年)を常にイメージしてきた。JAZZでもよく演奏されるお馴染みのスタンダード曲だ。この曲が、湘南を直撃した台風の年と同時期に作曲されているのも面白い偶然だ。おそらくラテン系のスパニッシュモード(ときにボサノヴァ)のサウンドが神奈川の海辺の匂いにはピッタリだと、どこかで桑田佳祐の感覚と同期するものがあったのだろう。そういえば茅ヶ崎育ちの、当時は同じく小学生だった彼は、『ガメラ』映画のロケを見物していたかもしれない。
1965年(昭和40)という年は、西湘バイパスの工事がスタートしたころで、あちこちにあった海辺の空き地には、炭住(たんじゅう=炭鉱夫とその家族が暮らした住宅)によく似た作業員用の宿舎(飯場:はんば)ができはじめていた。住んでいたのは、ほとんどが家族連れの人々だったが、実際に炭鉱が閉山して土木作業員になった人たちもいたのかもしれない。ちょうど東京の河川や運河にあまたいた船上生活者の家庭のように、多くの子どもたちが小学校へ通っている様子がなく、地域で問題化していたのを憶えている。西湘バイパスが完成に近づくと、彼ら家族はどこへともなく姿を消していった。
ギラギラした太陽と、男女のはかなくて短い夢の季節がすぎると、神奈川の海辺はすぐに静けさを取りもどす。そんなさびしさや季節の移ろいは、小学生のわたしにも意識できたが、浜で遊んでいたお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、もっと切なくさびしかったろう。「暑かったけど、短かったよね、夏……」は、彼らの実感だったのではないだろうか。ハワイは年じゅう泳げるかもしれないが、湘南にはハッキリとした四季がある。そんな中で響くサウンドは、まかりまちがっても楽天的なハワイアンなどではなく、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちの哀惜と追憶が似合うマイナーコードが効果的な、ほの暗いラテン系のサウンドなのだ。
◆写真上:「落石注意」で通れるときに撮影した、2007年(平成19)の釈迦堂ヶ谷切通し。
◆写真中上:上は、1965年(昭和40)8月に神奈川の海辺に上陸した台風17号の軌跡。中は、1965年(昭和40)に撮影した杉本寺の山門へ向かう階段(きざはし)。スキャニングで気づいたが、階段を上る黒い半透明な人影(親子連れ?)が写っている。下は、釈迦堂ヶ谷切通しの入口と内部のやぐら。切通しの周囲は、鎌倉時代の遺跡だらけだ。
◆写真中下:釈迦堂ヶ谷切通しの内部と、反対側の出口。
◆写真下:上左は、1968年(昭和43)に公開された『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』(大映)のポスター。上右は、1990年(平成2)に公開された『稲村ジェーン』(東宝)DVDのフォトブック。中は、茅ヶ崎の撮影ロケでは宇宙怪獣バイラスの姿がわからず期待したけれど、招待券をもらって映画館で観たらスルメイカみたいなやつだった。戦うカメとイカ、いやガメラとバイラス(上)と海洋研究所にされてしまった懐かしいパシフィックホテル茅ヶ崎。(下) 下は、『稲村ジェーン』で印象的なカットとして挿入された釈迦堂ヶ谷切通しのシーン。
★おまけ1
台風8号が去った翌7月28日に、静寂をとりもどす岸田劉生アトリエClick!があった鵠沼海岸の夕暮れ。いい波が立ち、少し前まで大勢のサーファーたちで賑わっていた。手前には、営業時間を短縮した海の家がズラリと並ぶ。ちなみに、海水浴のあと身体の洗浄と休息をとる海の家を考案したのも、日本初の海水浴場を大磯に設置した松本順(松本良順)Click!だ。
★おまけ2
昭和10年代に国道134号線が整備されると、海岸沿いの地元の町々では大磯の照ヶ崎から藤沢の鵠沼海岸までの道筋を「湘南遊歩道路」と名づけた。わたしが子どものころには、それが「ユーホー道路」と縮められて(転訛して)呼ばれたが、1960年代後半になりクルマの往来が激しくなるにつれ、地元では「湘南道路」と呼ばれることが多くなっていく。ちょうど、東海道線を走る蜜柑のオレンジと葉のグリーンをデザインした新しい電車の愛称を、1950年(昭和25)に地元で一般公募し、一度は「湘南伊豆電車」と名づけられたが、いつの間にか短く「湘南電車」と呼ばれるようになった経緯とよく似ている。下の写真は、整備された直後の1935年(昭和10)ごろに、大磯の海岸線を通る「ユーホー道路」を撮影したもの。
「レコード演奏家」という趣味と概念。 [気になる音]
あけまして、おめでとうございます。本年も「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」サイトを旧年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2020年最初の記事は、落合地域やその周辺域とも、はたまた江戸東京地方ともまったく関係のないテーマなので、音楽とその再生に興味のない方はパスしてください。
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たまに、コンサートへ出かけることがある。音響の専門家が設計し、倍音(ハーモニック)や残響(リバヴレーション)が考慮されたコンサートホールでの演奏もあれば、落合地域やその周辺にある施設を利用した音楽会のときもある。同じ音楽家が演奏しても、ホールや施設によってサウンドが千差万別に聴こえ、またスタジオ録音のレコード(音楽記録媒体またはデータ=CDやネット音源)とも大きく異なるのは周知のとおりだ。
落合地域や周辺の施設を使って演奏されるのは、必然的にクラシックないしは後期ロマン派以降の現代音楽が多い。確かに教会や講堂でJAZZやロックを演奏したら、もともとがライブ空間(音が反射しやすく残響過多の空間)なので、聴くにたえないひどいサウンドになるだろう。近くの高田馬場や新宿、中野などにはJAZZ専門のライブハウスがいくつかあるのだが、若いころに比べて出かける機会がグンと減ってしまった。
わたしは、音響技術が高度に発達していく真っただ中を生きてきたので、「生演奏」が素晴らしく「レコード演奏」が生演奏の代用である「イミテーション音楽」……だとは、もはや考えていない戦後の世代だ。むしろ、音響がメチャクチャでひどい劇場やコンサートホール、ライブハウスで生演奏を聴くくらいなら、技術的に完成度の高いレコード演奏のほうがはるかにマシだと考えている。
ちょっと例を挙げるなら、F.L.ライトClick!の弟子だった遠藤新Click!設計の自由学園明日館Click!講堂で演奏される小編成のクラシックは、どうせダメな音響(超ライブ空間だと想定していた)だろうと思って出かけたにもかかわらず、ピアノやハープが想定以上にいいサウンド(予想外にデッド=残響音の少ない空間だった)を響かせていたが(もっとも、イス鳴りや床鳴りが耳ざわりで酷いw)、すでに解体されてしまった国際聖母病院Click!のチャペルClick!は、残響がモワモワこもるダメな空間ケースの代表だった。もっとも、このふたつの事例に限らず、重要文化財や登録有形文化財などの建物内を、音響効果のために勝手に改造するわけにもいかないだろう。
気のきいた音響監督がいれば、ライブすぎる室内には柔らかめのパーティションやマットレス、たれ幕、カーテンなどを運びこんで残響を殺すだろうし、デッドな空間にはサウンドが反射しやすい音響板やなにかしら固い板状のものを用意して演奏に備えるだろう。ただし、おカネが余分にかかるので、録音プロジェクトでもない限りは、なかなかそこまで手がまわらないのが現状だ。
生演奏のみが音楽本来のサウンドで、各種レコードによる演奏がその代用品とは考えないという“論理”には、もちろん大きな前提が存在する。音楽家が演奏する空間(屋内・屋外を問わず)によって、得られるサウンドの良し悪しが多種多様なのと同様に、レコードを演奏する装置やリスニング環境(空間)によってもまた、得られるサウンドは千差万別だ。ホールや劇場で奏でられる生演奏が、音楽のデフォルトとはならないように、とある家庭のリスニングルームで鳴らされているサウンドが「標準」にならないのと同じなのだ。そこには、生演奏にしろレコード演奏にしろ、リスナーのサウンドに対する好みや音楽に対する趣味が、要するにサウンドへの好き嫌いが大きく影響してくる。
もっとも、ここでいうレコード演奏とは、ヘッドホンを介してPCやiPod、タブレット、スマホなどの貧弱なデバイスにダウンロードした音楽を聴くことではない。また、TVに接続されたAVアンプや大小スピーカーの多チャンネルで、四方八方からとどく不自然でわざとらしい音(いわゆるサラウンド)を聴くことでもない。音楽の再生のみを目的としたオーディオ装置Click!を介して、空気をふるわせながらCDやダウンロードした音楽データ(ネット音源)を聴くレコード演奏のことだ。すなわち、個々人のサウンドに対する好き嫌いや音楽の趣味が前提となるにせよ、できるだけコンサートの大ホールや小ホール、ライブハウスなどで音楽を楽しむように、それなりに質のいいオーディオ装置類をそろえ、部屋の模様を音楽演奏に適するよう整えることをさしている。
音楽を奏でるオーディオ装置は、この60年間に星の数ほどの製品が発売されているので、家庭で聴く音楽は個々人が用意する装置によっても、またその組み合わせによっても、それぞれまったく異なっている。たとえ、同一機種ばかりのオーディオシステムを揃えたとしても、その人の音の嗜好を前提としたチューニングによって、かなり異なるサウンドが聴こえているはずだし、なによりも個々人の部屋の設計や仕様・意匠、置かれた家具調度の配置、装飾品の有無などがそれぞれ異なることにより、スピーカーから出るサウンドはひとつとして同じものは存在しない。畳の部屋にイギリスのオートグラフ(TANNOY)を置いてクラシックを聴く作家もいれば、コンクリート打ちっぱなしの地下室に米国のA5モニター(ALTEC)を設置してJAZZを鳴らす音楽評論家だっている。だから、家庭で音楽を聴く趣味をもつ人がいたら、その人数ぶんだけ異なるサウンドが響いているということだ。この面白さの中に、自身のオリジナリティを強く反映させた音楽を楽しむ、オーディオファイルの趣味性やダイナミズムがあるのだろう。
「レコード演奏家」という言葉を発明したのは、オーディオ評論家の菅野沖彦Click!だ。2017年(平成29)の秋に、久しぶりに買った「Stereo Sound」誌について記事を書いたが、その1年後、一昨年(2018年)の秋に萱野沖彦は亡くなった。彼はもともとクラシックやJAZZを得意とする録音技師(レコード制作家)で、優れた録音作品を数多く残しており、そのディスクはサウンドチェック用として日本はもちろん、世界各地で使われている。彼は録音再生の忠実性(いわゆる「原音再生」論)は、現実の家庭内における音響空間には実現しえないと説いている。2005年(平成17)にステレオサウンド社から出版された、菅野沖彦『レコード演奏家論』から少し引用してみよう。
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論理性に基づく録音と再生音の同一性は再生空間が無響空間である以外に成り立たないのである。そして、無響室は残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることは万人が認めるところ。音楽を楽しむどころか、一時間もいたら気が変になるだろう。したがって、時空の隔たった録音再生音響の物理的忠実性は、論理的にも現実的にも成り立たないことが明白なのだ。/さらに、これに関わるオーディオ機器の性能の格差や個体の問題は大きい。特にスピーカーが大きな問題であることはよくご存じの通りである。今後も、この現実についての論理的、技術的、そして学術的な解決はあり得ないであろう。伝達関数「1」は不可能なのである。
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したがって、個々の家庭における音楽再生は、個々人が選ぶ好みのオーディオ装置と、個々人が好む音楽を楽しむ環境=部屋の仕様や意匠によって千差万別であり、そこに音楽のジャンルはなんにせよ好みのサウンドを響かせるのは、個々人の趣味嗜好が大きく反映されるわけだから、それを前提にレコード(CDやダウンロードしたネット音源)をかける(演奏する)オーディオファイルは、「レコード演奏家」と呼ぶのがふさわしい……というのが菅野沖彦の論旨だ。
なるほど……と思う。カメラ好きが、同じ機種のデジカメを使って撮影するのが同じ被写体でないのはもちろんだが、同一の被写体を撮影したとしてもプロのカメラマンとアマチュアカメラマン、それに写真撮影が好きな素人とでは、撮影する画面や画質、構図、さまざまな機能やテクニック、表現を駆使した技術面でも大きく異なるのは自明のことだ。機械はあまり使わないが、絵画の表現も同様だろう。画家によって、好みの道具(筆・ナイフ・ブラシなど)や好みの絵の具は大きくちがう。レコードの再生にも、人によって道具のちがいやサウンドの「色彩」や響きのちがいが顕著だ。
1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された、菅野沖彦『音の素描―オーディオ評論集―』の中から少し引用してみよう。
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音への感覚も、多分に、この味覚と共通するものがあるわけで、美しい音というものは、常に音そのものと受け手の感覚の間に複雑なコミュニケーションをくり返しながら評価されていく場合が多い。もちろん、初めからうまいもの、初めから美しい音もあるけれど、そればかりがすべてではない。(中略) 物理学では音を空気の波動(疎密波)と定義する。もちろん、この定義はあくまで正しい。しかし、特に音楽の世界において、音を考える時には、それでは不十分だし、多くの大切なものを見落してしまうのである。私たちにとって大切なことは、音として聴こえるか否かということ。音として感じるかどうかということであって、その概念は、あくまで、私たち人間の聴覚と脳の問題なのである。音は、それを聴く人がいなければ何の意味をも持たない。受信器がなければ、飛び交う電波の存在は無に等しいのと同じようなものである。
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確かに音楽を再生して聴くという行為は、うまいもんClick!を味わう舌に似ていると思う。もともとデフォルトとなる味覚基盤(多分に国や地方・地域の好みや伝統的な“舌”に強く左右されるだろう)が形成されていなければ、そもそもなにを食べても「美味い」と感じてしまう野放図な味オンチの舌か、なにを食べても「こんなものか」としか感じられない不感症の舌しか生まれない。そこには、相対的に判断し、味わい、受け止め、感動する基準となる舌が「国籍不明」あるいは「地方・地域籍不明」で不在なのだ。
音楽を愛し多く聴きこんできた人が、オーディオ装置を通して奏でるサウンドは、その響かせる環境を問わずおしなべて軸足がしっかりしており、リアルかつ美しくて、説得力がある。換言すれば、どこか普遍化をたゆまず追求してきた“美”、料理で言えば普遍的な美味(うま)さが、そのサウンドを通じてにじみ出ている……ということなのだろう。
そんな経験を多くしてきたわたしも、オーディオ装置には少なからず気を配ってきたつもりなのだが、ここ数年で大きめな装置が家族から「これジャマ、あれも、ジャマ!」といわれ、処分せざるをえなくなった。現在は、一時期の4分の1ほどの面積ですむ装置で聴いているけれど、それでも工夫と努力をすれば、それなりに美しい(わたしなりの)サウンドを響かせることは可能だ。それだけ、現代のオーディオ装置の質や品位は高い。最後に、わたしのオーディオの“師”だった菅野先生のご冥福をお祈りしたい。
◆写真上:舞台上に大小のハープが並ぶ、遠藤新が設計した自由学園明日館講堂。
◆写真中上:上は、2005年(平成17)出版の菅野沖彦『レコード演奏家論』(ステレオサウンド社)と同年撮影の著者。中・下は、菅野沖彦のリスニングルームの一部。スピーカーはユニットを自由に組み合わせられるJBLのOlympusやマッキントッシュXRT20、CDプレーヤーにはマッキントッシュMCD1000+MDA1000やスチューダA730、プリ・パワーアンプ類にはアキュフェーズやマッキントッシュなどが並んでいる。JBLの上に架けられている絵は、“タッタ叔父ちゃん”こと菅野圭介Click!の作品だろうか?
◆写真中下:上は、英国のタンノイ「オートグラフ」。下は、作家・五味康祐の練馬にあった自宅のリスニングルームで日本間にオートグラフが置かれている。
◆写真下:上は、米国のアルテック「A5」でJAZZ喫茶でも頻繁に見かけた。下は、JAZZ評論家・岩崎千明のリスニングルームに置かれたアルテック「620Aモニター」。よく見ると、JBLの「パラゴン」の上に「620A」が置かれているのがビックリだ。反響音を減殺するために、カーテンを部屋じゅうに張りめぐらしているようだ。TANNOYとALTECの製品写真は、いずれも「Stereo Sound」創刊50周年記念号No.200より。
中国民謡を演奏する陸軍軍楽隊。 [気になる音]
少し前に、戸山ヶ原Click!の陸軍軍楽学校や戸山学校軍楽隊の野外音楽堂にいまでも残されている、良質な玉砂利をふんだんに使用したコンクリート塊Click!についての記事を書いた。そのとき、野外音楽堂では実際にどのような吹奏楽曲が演奏されていたのかに興味をもった。戦後1956年(昭和31)に復元された、軍楽隊野外音楽堂(現在は解体されて再整備され、屋根のない四阿風のモニュメントに変わっている)では、かなり大編成の軍楽隊が演奏できたと思われる。(冒頭写真)
野外音楽堂はコンクリート製で、ステージは低層の3段に分かれており、両側に反響壁が設置されている。いちばん手前の広いステージは、大編成の際は楽団員が、小編成の場合は将官やゲストのイスが並べられたのかもしれない。音楽堂のステージは、窪地の南南東側に向けて口を開いており、なんらかの記念日などで観客が多い場合には、平坦な客席ばかりでなく周囲の斜面にもあふれていただろう。
箱根山の北東に位置する野外音楽堂は、戦前までふたつの湧水池が形成されていた南東側の段斜面にあたり、江戸期の尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)Click!だったころは、この位置にも水が湧き小流れや小池が形成されていた可能性がある。音楽堂は三方が傾斜地となる窪地として造成されたため、そこで演奏された楽曲は野外にもかかわらず、特に南東側に向けてよく反響したかもしれない。
明治期に陸軍軍楽隊が設立されたころ、当然だが洋楽も洋楽器も経験のない日本では、ヨーロッパから専門分野の外国人を招聘した。いわゆる“御雇外国人”だが、陸軍ではフランスとドイツから教師を招いている。フランスからは、陸軍軍楽隊長の経験があるシャルル・ルルーが来日し、陸軍軍楽隊のために『抜刀隊』や『陸軍分列行進曲(扶桑歌)』Click!などを作曲している。2曲目は、1943年(昭和18)に「小雨にけぶる神宮外苑競技場……」の実況で有名な、学徒出陣の壮行会Click!で演奏されたタイトルで、文系の学生を戦場へ送ったいまやおぞましい曲だ。
また、ドイツからは、やはり海軍軍楽隊長の経験があるフランツ・エッケルトが招聘された。エッケルトは陸軍軍楽隊へ教師として赴任する前後、宮内省雅楽課の顧問もつとめていたので、『君が代』の吹奏楽への編曲や『哀の極』などを作曲している。1899年(明治32)に帰国するが、再び東アジアへやってきて今度は朝鮮で李王朝の音楽教師をつとめている。1910年(明治43)の日韓併合で教職を失うが、そのまま朝鮮にとどまり民間での洋楽普及に尽力し、ドイツにもどることなく現地で死去している。エッケルトの墓は、現在でも韓国国内にある。
さて、陸軍軍楽隊(のち陸軍戸山学校軍楽隊と呼称された)は、どのような曲を演奏していたのだろうか? いわゆる「軍歌」「軍楽」はもちろんだが、ときにシューベルトやベートーヴェン、ワグナーなどエッケルト故国の作品も演奏したらしい。また、軍楽隊のメンバーが作曲した作品も、積極的に演奏していた。さまざまな学校の校歌をはじめ、李香蘭Click!出演の映画音楽(国策映画)用に作曲したテーマ音楽Click!の演奏、有名な歌曲や日本民謡の編曲・演奏なども手がけている。陸軍軍楽隊の出身者で、戦後に活躍することになる作曲家には芥川也寸志や団伊玖磨、萩原哲晶、奥村一などがいる。
先日、「MUSIC MAGAZINE」(2019年9月号)を読んでいたら、寺尾紗穂のエッセイ『戦前音楽探訪』の中に上記のフランツ・エッケルトの名前と、陸軍戸山学校軍楽隊のネームが出てきて、思わず声を出して反応してしまった。陸軍軍楽隊の演奏曲の中には、中国の民謡が含まれていたことを初めて知ったからだ。いまでも演奏され、唄われる機会も多い中国民謡『太湖船』Click!だ。それをフランツ・エッケルトが行進曲として編曲し、『太湖船行進曲』Click!として軍楽隊のレパートリーに加えている。
確かに、どこかで聴きおぼえのある行進曲で、全体がヨーロッパの協和音のように構成されてはいるが、ふいに中国の旋律が顔をのぞかせたりする。彼が編曲した『君が代』(のちに低音部2ヶ所が修正されるが、現在でも基本的にそのまま)も中国の旋律を思わせる響きがあるが、おそらく中国の旋律も日本の旋律も大雑把に“東アジアモード”とでもカテゴライズして、作曲や編曲に用いたものだろう。明治期の日本では、いまだヨーロッパの協和音よりも中国の旋律のほうに、より多くの親しみを感じていたのかもしれない。だが、今日ではあたりまえだが日本国内でさえ、それぞれ地方によっては地域ベースのモード(旋律)はかなり異なっている。
ではなぜ、フランツ・エッケルトは日本の陸軍軍楽隊に、中国民謡の「太湖船」を取り入れたのだろうか? 『戦前音楽探訪』から、少し引用してみよう。
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その彼が作った「太湖船行進曲」は、元は「膠州湾行進曲」として、明治31年のドイツによる山東(膠州湾)租借の報を知って作曲されたものらしい。明治39年10月には日比谷公園で陸軍軍楽隊によって演奏もされている(『本邦洋楽変遷史』)から、このころから民間にも広まっていった可能性があるだろう。ドイツが山東を租借という名で99年間占領するとした、その喜びから、中国民謡と管弦楽を合わせたこの曲を日本にいたエッケルトは作ったのだろうか。
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「山東(膠州湾)租借」とは、1898年(明治31)に渤海湾と黄海の間にある山東半島の南部一帯を、ドイツが清国政府に圧力をかけて租借・統治する「膠州湾租借条約」を締結したこと、要するに植民地化することに成功したことをさしている。この租借地獲得によって、アジアへの進出に出遅れたドイツは、東アジアに橋頭保を確保したことになるが、それを祝うためにエッケルトは『太湖船』のメロディーラインを拝借して、『膠州湾行進曲』を作曲(編曲)しているとみられる。
でも、陸軍軍楽隊が演奏するときは『膠州湾行進曲』ではなく、原曲の名を冠して『太湖船行進曲』としたのは、中国への配慮からなどではなく、欧米列強のアジア侵略に対する軍内部の反感や警戒感からではないだろうか。軍楽隊が日比谷公園で同曲を演奏した1906年(明治39)、日本は日露戦争に勝利してロシアの南下を喰い止め、「アジアの盟主」を自任しはじめていたころだ。下落合にあった東京同文書院Click!(=目白中学校Click!)には、欧米の侵略から祖国を救い独立を勝ちとるため、数多くの中国人留学生Click!やベトナム人留学生Click!が参集していた時期と重なる。
だが、1914年(大正3)に日本は日英同盟を口実にして山東半島のドイツ租借地を攻撃・占領すると、翌1915年(大正4)にはときの袁世凱政府に対華二十一カ条の要求を突きつけ、ドイツの租借地ばかりでなく、より広範囲の権益拡大を要求することになる。このとき以来、『太湖船行進曲』は中国人にとって侵略国ドイツを象徴する楽曲ではなく、新たに侵略国として立ち現れた日本を象徴する楽曲へと変異していったのだろう。事実、この要求の直後から中国各地で反日のデモやストライキ、暴動が頻発することになる。
原曲の『太湖船』は、中国の江蘇省にある太湖のたそがれどき、湖面の風を受けた船がすべるように静かに進む情景を唄ったものだが、『太湖船行進曲』のほうは中国大陸を奥へ奥へと際限なく踏み入ってくる、軍靴の響きを感じさせるような曲になってしまった。
◆写真上:戸山ヶ原Click!にあった、軍楽学校の近くに設置された野外音楽堂(戦後復元)。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる軍楽隊の野外音楽堂が設置された位置。中は、1947年(昭和22)の空中写真にとらえられた野外音楽堂の残滓(復元前)。下は、野外音楽堂の現状で東西南を斜面に囲まれている。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)に東京駅前で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。下左は、ドイツの御雇教師フランツ・エッケルトの肖像。下右は、1928年(昭和3)にビクターから発売された『太湖船行進曲』のレーベルで演奏は陸軍戸山学校軍楽隊。
◆写真下:上は、1944年(昭和19)3月10日の陸軍記念日に街中で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。紅白幕の指揮台が設けられ、どこかの新聞社か出版社の前だろうか戦時標語Click!「撃ちてし止まむ」の横断幕が掲げられている。翌1945年(昭和20)の陸軍記念日には、東京大空襲Click!で市街地の大半が炎上・壊滅する惨憺たるありさまだった。下は、野外音楽堂跡の現状でコンクリートの演奏ステージは画面の左手背後にあった。
1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。 [気になる音]
戦時中、日本本土への空襲が予測されるようになると、各町内には防護団による各分団が組織され、盛んに防空・防火訓練が行われた。以前にもこちらで、淀橋区の落合防護団第二分団の名簿とともに、団内の班組織を詳しくご紹介Click!している。
だが、家々の間に緑が多く、延焼を食い止める余裕のある郊外の山手住宅地ならともかく、市街地の防護団による消火活動は“自殺行為”に等しかった。B29から降りそそぐM69集束焼夷弾や、ときに低空飛行で住宅街に散布されるガソリンに対して、悠長な防火ハタキやバケツリレーなどで消火できるはずもなく、逃げずに消火を試みた人々は風速50m/秒の大火流Click!に呑まれて、瞬時に焼き殺されるか窒息死した。
かなり前の記事で、ふだんの訓練では威張りちらしていた、元・軍人だった東日本橋の防護団の役員が、空襲がはじまるやいなや「退避~っ!」と叫んで真っ先に防空壕へ逃げこんだ親父の目撃談をご紹介Click!しているが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!が防護団の稚拙な防火訓練や、粗末な消火7つ道具などでとうてい消火できるレベルでないことが判然とするやいなや、これまた防護団の役員は真っ先に家族を連れて避難しはじめている。だが、この一見ヒキョーに見える元軍人の「敵前逃亡」は、結果論的にみればきわめて的確で正しかったことになる。
当時、防護団の防空・防火訓練で必ず唄われた歌に、『空襲なんぞ恐るべき』Click!というのがあった。親父も、ときどき嘲るように口ずさんでいた歌だ。
1 空襲なんぞ恐るべき/護る大空鉄の陣
老いも若きも今ぞ起つ/栄えある国土防衛の
誉れを我等担いたり/来たらば来たれ敵機いざ
2 空襲なんぞ恐るべき/つけよ持場にその部署に
我に輝く歴史あり/爆撃猛火に狂うとも
戦い勝たんこの試練/来たらば来たれ敵機いざ
陸軍省と防衛司令部の「撰定歌」として、全国の防空・防火訓練で必ず唄われていた。この勇ましい歌に鼓舞され、東京大空襲で消火を試みようとした人々は、ほぼ全滅した。取るものもとりあえず、火に周囲をかこまれる前、すなわち大火流が発生する前に脱出Click!した人たちが、かろうじて生命をとりとめている。
ふだん、あまり紹介されることは少ないが、東京大空襲Click!がはじまってから出動した消防自動車の記録が残っている。もちろん、消防車による消火活動でも、まったく手に負えないレベルの大火災が発生していたのだが、それでも彼らは出動して多くの消防署員が殉職している。中には、出動した消防車や消防署員が全滅し、誰も帰還しなかった事例さえ存在している。
前日の3月9日の深夜から、ラジオのアナウンサーは東部軍司令部の発表(東部軍管区情報)をそのまま伝えていた。「南方海上ヨリ、敵ラシキ数目標、本土ニ近接シツツアリ」 「目下、敵ラシキ不明目標ハ、房総方面ニ向ッテ北上シツツアリ」 「敵ノ第一目標ハ、房総半島ヨリ本土ニ侵入シツツアリ」 「房総半島ヨリ侵入セル敵第一目標ハ、目下海岸線附近ニアリ」 「房総南部海岸附近ニ在リシ敵第一目標ハ、南方洋上ニ退去シツツアリ、洋上ハルカニ遁走セリ」……と空襲警報も解除され、住民たちは安心して就寝しようとしていた矢先、おそらく、消防の各署でも待機していた署員たちは、休憩あるいは仮眠をとりはじめていただろう。だが、翌3月10日の午前0時8分、もっとも燃えやすい材木が集中して置かれた、深川区木場2丁目に、B29からの第1弾は突然着弾した。燃えやすくて、大火災の発生しやいところから爆撃する、非常に綿密に練られた大量殺戮の爆撃計画だった。
深川の消防隊が、火の見櫓から真っ先に着弾を確認して全部隊を出動させているが、焼夷弾とガソリン攻撃に消火活動は無力だった。また、周辺の地域へ応援隊30隊を要請しているが、まったくどこからも応援の消防隊はこなかった。深川区の周囲、すなわち本所区、向島区、城東区、浅草区、日本橋区も同時に火災が発生し、他区への応援どころではなかったからだ。大空襲当夜の様子を、1987年(昭和62)に新潮社から出版された、早乙女勝元『東京大空襲の記録』から引用してみよう。
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深川地区に発生した最初の火災を望楼から発見したのは、深川消防署員である。すぐ地区隊合わせて計一五台の消防自動車が、サイレンのうなりもけたたましく平之町、白河町方面の火災現場へと急行した。全部隊がならんで火災をくいとめようと必死の集中放水の最中に、隣接する三好町、高橋方面が圧倒的な焼夷弾攻撃を受け、火の玉がなだれのように襲ってきた。/あわてて消火作戦を変更しようとしたが、時すでにおそく頭上に鉄の雨が降りそそぎ、二台の消防自動車に直撃弾が命中、隊員もろともに火の塊になってしまった。(中略) 火を消しにいったはずの消防自動車一五台も、みな大火流に呑まれ、大勢の隊員は車もろともに焼失して殉職しなければならなかった無念の心情が、都消防部「消教務第二三一号」報告書にしるされている。
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隣りの本所区では、全隊7台の消防車を出動させているが、隊員10名と消防車全車両を失っている。特に空襲も後半になると、B29は煙突スレスレの低空飛行で焼夷弾やガソリンをまき散らし、7台の消防車のうち2台が狙い撃ちされ、直撃弾を受けて隊員もろとも火だるまになっている。
この夜、各区で出動した消防車だけでも100台を超えたが、うち96台焼失、手引きガソリンポンプ車150台焼失、消火栓焼失約1,000本、隊員の焼死・行方不明125名、消火に協力した警防団員の死傷者500名超という、惨憺たるありさまだった。特に、消火消防の熟練隊員たちを一気に125名も失い、多くの隊員が重軽傷を負ったのは、東京都(1943年より東京府→東京都)の市街地消防にとっては致命的だった。たった2時間半の空襲で、市街地の消防組織は壊滅した。
燃えるものはすべて燃えつくし、ようやく延焼の火も消えつつあった翌3月11日※、19歳の少女が巣鴨の住居焼け跡の防空壕からヴァイオリンケースを抱えながら、ひたすら日比谷公会堂をめざして歩きはじめた。顔はススで黒く汚れ、着ているものは汚れたブラウスにズボンでボロボロだった。あたりは一面の焼け野原で、日比谷の方角がどこだかさっぱりわからなかったが、カンだけを頼りに南へ向かって歩きつづけた。
やがて、焼けていない日比谷公会堂がようやく見えはじめると、大勢の人々が少女へ向かって歩いてきた。そして、彼女とヴァイオリンケースを目にしたとたん、あわてて歩いてきた道を引き返していった。そのときの様子を、向田邦子Click!が「少女」にインタビューしているので、1977年(昭和52)発行の「家庭画報」2月号から引用してみよう。
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最も心に残る演奏会は、東京大空襲の翌日、日比谷公会堂で催されたものだという。/すでに一度焼け出され、避難先の巣鴨も焼夷弾に見舞われた。ヴァイオリン・ケースだけを抱えて道端の防空壕に飛び込み命を拾った。こわくはなかった。明日演奏する三つの曲だけが頭の中で鳴っていた。/一夜明けたら一面の焼野原である。カンだけを頼りに日比谷に向って歩いた。公会堂近くまで行くと、沢山の人が自分の方へ向ってくる。その人達は、巌本真理を見つけ、“あ”と小さく叫んで、くるりと踵を返すと公会堂へもどって行った。恐らく来られないだろうと出された“休演”の貼紙で、諦めて帰りかけた人の群れだったのである。その夜の感想はただひとこと。/「恥ずかしかった……」/煤だらけの顔と父上のお古のズボン姿で弾いたのが恥ずかしかったというのである。明日の命もおぼつかない中で聞くヴァイオリンは、どんなに心に沁みたことだろう。その夜の聴衆が妬ましかった。
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公会堂では、「来られない」ではなく「大空襲で焼け死んだかも」とさえ思い、休演の貼り紙を出したのかもしれない。「あ」は、「あっ、生きてた!」の小さな叫びだろう。一夜にして、死者・行方不明者が10万人をゆうに超える大惨事だったのだ。
※その後、巌本真理がコンサート会場である日比谷公会堂まで歩いたのは、第1次山手空襲の翌日=同年4月14日(土)であることが判明Click!した。彼女はそのときの空襲を「東京大空襲」と表現したため、向田邦子は当然同年3月10日の翌日と解釈したようだ。
巌本真理(メリー・エステル)の演奏に聴き入る聴衆の中には、前日の空襲で焼け出され火災のススで黒い顔をした、着の身着のままの人々もいたにちがいない。この夜、演奏された3曲とはなんだったのかまで向田邦子は訊いていないが、すぐにブラームスの話に移っているので、演奏が許されていたブラームスのソナタが入っていた可能性が高い。
前夜、M69集束焼夷弾が雨あられのように降りそそいだ、生き死にのかかった(城)下町Click!の夜に聴く、たとえばブラームスのヴァイオリンソナタ第1番Click!は、はたしてどのように響いたのだろうか。明日死ぬかもしれない中で聴くブラームスは、美しい湖の避暑地に降りそそぐ雨の情景などではなく、ヴァイオリンのせつない音色に聴き入りながら、前日まで生きていた人々を想い浮かべつつ、よく生きのびて、いま自分がこの演奏会の席にいられるものだという、奇蹟に近い感慨や感動を聴衆にもたらしたかもしれない。
◆写真上:古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に気どってみた。擦りガラスの上に載せ、下からライトを当てないとそれっぽくならない。古いアルバムとドングリの煙草入れは、二度にわたる山手空襲をくぐり抜けた親父の学生下宿にあった焼け残りだが、現代のロングサイズ煙草は入らない。
◆写真中上:東京各地で行われた、さまざまな防空演習で新宿駅舎(現・新宿駅東口)の演習(上)に大病院の演習(中)、毒ガス弾の攻撃に備えてガスマスクを装着した東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)の防空演習(下)。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)1月27日の銀座空襲で消火にあたる防護団の女性。同爆撃は局地的なものだったので、消火作業をする余裕があった。下は、偵察機F13が同年3月10日午前10時35分ごろに撮影したいまだ炎上中の東京市街地。
◆写真下:上は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された日比谷公園(上)と、戦後の1948年(昭和23)撮影の同公園(下)。中は、日比谷公会堂の現状。下は、ヴァイオリニストの巌本真理(メリー・エステル/左)と向田邦子の左眼(右)。向田邦子の瞳には、敗戦から18年で自裁するカメラマンだった恋人の姿が映っている。