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「レコード演奏家」という趣味と概念。 [気になる音]

自由学園明日館講堂.JPG
 あけまして、おめでとうございます。本年も「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」サイトを旧年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 2020年最初の記事は、落合地域やその周辺域とも、はたまた江戸東京地方ともまったく関係のないテーマなので、音楽とその再生に興味のない方はパスしてください。

  
 たまに、コンサートへ出かけることがある。音響の専門家が設計し、倍音(ハーモニック)や残響(リバヴレーション)が考慮されたコンサートホールでの演奏もあれば、落合地域やその周辺にある施設を利用した音楽会のときもある。同じ音楽家が演奏しても、ホールや施設によってサウンドが千差万別に聴こえ、またスタジオ録音のレコード(音楽記録媒体またはデータ=CDやネット音源)とも大きく異なるのは周知のとおりだ。
 落合地域や周辺の施設を使って演奏されるのは、必然的にクラシックないしは後期ロマン派以降の現代音楽が多い。確かに教会や講堂でJAZZやロックを演奏したら、もともとがライブ空間(音が反射しやすく残響過多の空間)なので、聴くにたえないひどいサウンドになるだろう。近くの高田馬場や新宿、中野などにはJAZZ専門のライブハウスがいくつかあるのだが、若いころに比べて出かける機会がグンと減ってしまった。
 わたしは、音響技術が高度に発達していく真っただ中を生きてきたので、「生演奏」が素晴らしく「レコード演奏」が生演奏の代用である「イミテーション音楽」……だとは、もはや考えていない戦後の世代だ。むしろ、音響がメチャクチャでひどい劇場やコンサートホール、ライブハウスで生演奏を聴くくらいなら、技術的に完成度の高いレコード演奏のほうがはるかにマシだと考えている。
 ちょっと例を挙げるなら、F.L.ライトClick!の弟子だった遠藤新Click!設計の自由学園明日館Click!講堂で演奏される小編成のクラシックは、どうせダメな音響(超ライブ空間だと想定していた)だろうと思って出かけたにもかかわらず、ピアノやハープが想定以上にいいサウンド(予想外にデッド=残響音の少ない空間だった)を響かせていたが(もっとも、イス鳴りや床鳴りが耳ざわりで酷いw)、すでに解体されてしまった国際聖母病院Click!チャペルClick!は、残響がモワモワこもるダメな空間ケースの代表だった。もっとも、このふたつの事例に限らず、重要文化財や登録有形文化財などの建物内を、音響効果のために勝手に改造するわけにもいかないだろう。
 気のきいた音響監督がいれば、ライブすぎる室内には柔らかめのパーティションやマットレス、たれ幕、カーテンなどを運びこんで残響を殺すだろうし、デッドな空間にはサウンドが反射しやすい音響板やなにかしら固い板状のものを用意して演奏に備えるだろう。ただし、おカネが余分にかかるので、録音プロジェクトでもない限りは、なかなかそこまで手がまわらないのが現状だ。
 生演奏のみが音楽本来のサウンドで、各種レコードによる演奏がその代用品とは考えないという“論理”には、もちろん大きな前提が存在する。音楽家が演奏する空間(屋内・屋外を問わず)によって、得られるサウンドの良し悪しが多種多様なのと同様に、レコードを演奏する装置やリスニング環境(空間)によってもまた、得られるサウンドは千差万別だ。ホールや劇場で奏でられる生演奏が、音楽のデフォルトとはならないように、とある家庭のリスニングルームで鳴らされているサウンドが「標準」にならないのと同じなのだ。そこには、生演奏にしろレコード演奏にしろ、リスナーのサウンドに対する好みや音楽に対する趣味が、要するにサウンドへの好き嫌いが大きく影響してくる。
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 もっとも、ここでいうレコード演奏とは、ヘッドホンを介してPCやiPod、タブレット、スマホなどの貧弱なデバイスにダウンロードした音楽を聴くことではない。また、TVに接続されたAVアンプや大小スピーカーの多チャンネルで、四方八方からとどく不自然でわざとらしい音(いわゆるサラウンド)を聴くことでもない。音楽の再生のみを目的としたオーディオ装置Click!を介して、空気をふるわせながらCDやダウンロードした音楽データ(ネット音源)を聴くレコード演奏のことだ。すなわち、個々人のサウンドに対する好き嫌いや音楽の趣味が前提となるにせよ、できるだけコンサートの大ホールや小ホール、ライブハウスなどで音楽を楽しむように、それなりに質のいいオーディオ装置類をそろえ、部屋の模様を音楽演奏に適するよう整えることをさしている。
 音楽を奏でるオーディオ装置は、この60年間に星の数ほどの製品が発売されているので、家庭で聴く音楽は個々人が用意する装置によっても、またその組み合わせによっても、それぞれまったく異なっている。たとえ、同一機種ばかりのオーディオシステムを揃えたとしても、その人の音の嗜好を前提としたチューニングによって、かなり異なるサウンドが聴こえているはずだし、なによりも個々人の部屋の設計や仕様・意匠、置かれた家具調度の配置、装飾品の有無などがそれぞれ異なることにより、スピーカーから出るサウンドはひとつとして同じものは存在しない。畳の部屋にイギリスのオートグラフ(TANNOY)を置いてクラシックを聴く作家もいれば、コンクリート打ちっぱなしの地下室に米国のA5モニター(ALTEC)を設置してJAZZを鳴らす音楽評論家だっている。だから、家庭で音楽を聴く趣味をもつ人がいたら、その人数ぶんだけ異なるサウンドが響いているということだ。この面白さの中に、自身のオリジナリティを強く反映させた音楽を楽しむ、オーディオファイルの趣味性やダイナミズムがあるのだろう。
 「レコード演奏家」という言葉を発明したのは、オーディオ評論家の菅野沖彦Click!だ。2017年(平成29)の秋に、久しぶりに買った「Stereo Sound」誌について記事を書いたが、その1年後、一昨年(2018年)の秋に萱野沖彦は亡くなった。彼はもともとクラシックやJAZZを得意とする録音技師(レコード制作家)で、優れた録音作品を数多く残しており、そのディスクはサウンドチェック用として日本はもちろん、世界各地で使われている。彼は録音再生の忠実性(いわゆる「原音再生」論)は、現実の家庭内における音響空間には実現しえないと説いている。2005年(平成17)にステレオサウンド社から出版された、菅野沖彦『レコード演奏家論』から少し引用してみよう。
  
 論理性に基づく録音と再生音の同一性は再生空間が無響空間である以外に成り立たないのである。そして、無響室は残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることは万人が認めるところ。音楽を楽しむどころか、一時間もいたら気が変になるだろう。したがって、時空の隔たった録音再生音響の物理的忠実性は、論理的にも現実的にも成り立たないことが明白なのだ。/さらに、これに関わるオーディオ機器の性能の格差や個体の問題は大きい。特にスピーカーが大きな問題であることはよくご存じの通りである。今後も、この現実についての論理的、技術的、そして学術的な解決はあり得ないであろう。伝達関数「1」は不可能なのである。
  
 したがって、個々の家庭における音楽再生は、個々人が選ぶ好みのオーディオ装置と、個々人が好む音楽を楽しむ環境=部屋の仕様や意匠によって千差万別であり、そこに音楽のジャンルはなんにせよ好みのサウンドを響かせるのは、個々人の趣味嗜好が大きく反映されるわけだから、それを前提にレコード(CDやダウンロードしたネット音源)をかける(演奏する)オーディオファイルは、「レコード演奏家」と呼ぶのがふさわしい……というのが菅野沖彦の論旨だ。
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 なるほど……と思う。カメラ好きが、同じ機種のデジカメを使って撮影するのが同じ被写体でないのはもちろんだが、同一の被写体を撮影したとしてもプロのカメラマンとアマチュアカメラマン、それに写真撮影が好きな素人とでは、撮影する画面や画質、構図、さまざまな機能やテクニック、表現を駆使した技術面でも大きく異なるのは自明のことだ。機械はあまり使わないが、絵画の表現も同様だろう。画家によって、好みの道具(筆・ナイフ・ブラシなど)や好みの絵の具は大きくちがう。レコードの再生にも、人によって道具のちがいやサウンドの「色彩」や響きのちがいが顕著だ。
 1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された、菅野沖彦『音の素描―オーディオ評論集―』の中から少し引用してみよう。
  
 音への感覚も、多分に、この味覚と共通するものがあるわけで、美しい音というものは、常に音そのものと受け手の感覚の間に複雑なコミュニケーションをくり返しながら評価されていく場合が多い。もちろん、初めからうまいもの、初めから美しい音もあるけれど、そればかりがすべてではない。(中略) 物理学では音を空気の波動(疎密波)と定義する。もちろん、この定義はあくまで正しい。しかし、特に音楽の世界において、音を考える時には、それでは不十分だし、多くの大切なものを見落してしまうのである。私たちにとって大切なことは、音として聴こえるか否かということ。音として感じるかどうかということであって、その概念は、あくまで、私たち人間の聴覚と脳の問題なのである。音は、それを聴く人がいなければ何の意味をも持たない。受信器がなければ、飛び交う電波の存在は無に等しいのと同じようなものである。
  
 確かに音楽を再生して聴くという行為は、うまいもんClick!を味わう舌に似ていると思う。もともとデフォルトとなる味覚基盤(多分に国や地方・地域の好みや伝統的な“舌”に強く左右されるだろう)が形成されていなければ、そもそもなにを食べても「美味い」と感じてしまう野放図な味オンチの舌か、なにを食べても「こんなものか」としか感じられない不感症の舌しか生まれない。そこには、相対的に判断し、味わい、受け止め、感動する基準となる舌が「国籍不明」あるいは「地方・地域籍不明」で不在なのだ。
 音楽を愛し多く聴きこんできた人が、オーディオ装置を通して奏でるサウンドは、その響かせる環境を問わずおしなべて軸足がしっかりしており、リアルかつ美しくて、説得力がある。換言すれば、どこか普遍化をたゆまず追求してきた“美”、料理で言えば普遍的な美味(うま)さが、そのサウンドを通じてにじみ出ている……ということなのだろう。
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 そんな経験を多くしてきたわたしも、オーディオ装置には少なからず気を配ってきたつもりなのだが、ここ数年で大きめな装置が家族から「これジャマ、あれも、ジャマ!」といわれ、処分せざるをえなくなった。現在は、一時期の4分の1ほどの面積ですむ装置で聴いているけれど、それでも工夫と努力をすれば、それなりに美しい(わたしなりの)サウンドを響かせることは可能だ。それだけ、現代のオーディオ装置の質や品位は高い。最後に、わたしのオーディオの“師”だった菅野先生のご冥福をお祈りしたい。

◆写真上:舞台上に大小のハープが並ぶ、遠藤新が設計した自由学園明日館講堂。
◆写真中上は、2005年(平成17)出版の菅野沖彦『レコード演奏家論』(ステレオサウンド社)と同年撮影の著者。は、菅野沖彦のリスニングルームの一部。スピーカーはユニットを自由に組み合わせられるJBLのOlympusやマッキントッシュXRT20、CDプレーヤーにはマッキントッシュMCD1000+MDA1000やスチューダA730、プリ・パワーアンプ類にはアキュフェーズやマッキントッシュなどが並んでいる。JBLの上に架けられている絵は、“タッタ叔父ちゃん”こと菅野圭介Click!の作品だろうか?
◆写真中下は、英国のタンノイ「オートグラフ」。は、作家・五味康祐の練馬にあった自宅のリスニングルームで日本間にオートグラフが置かれている。
◆写真下は、米国のアルテック「A5」でJAZZ喫茶でも頻繁に見かけた。は、JAZZ評論家・岩崎千明のリスニングルームに置かれたアルテック「620Aモニター」。よく見ると、JBLの「パラゴン」の上に「620A」が置かれているのがビックリだ。反響音を減殺するために、カーテンを部屋じゅうに張りめぐらしているようだ。TANNOYとALTECの製品写真は、いずれも「Stereo Sound」創刊50周年記念号No.200より。

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中国民謡を演奏する陸軍軍楽隊。 [気になる音]

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 少し前に、戸山ヶ原Click!の陸軍軍楽学校や戸山学校軍楽隊の野外音楽堂にいまでも残されている、良質な玉砂利をふんだんに使用したコンクリート塊Click!についての記事を書いた。そのとき、野外音楽堂では実際にどのような吹奏楽曲が演奏されていたのかに興味をもった。戦後1956年(昭和31)に復元された、軍楽隊野外音楽堂(現在は解体されて再整備され、屋根のない四阿風のモニュメントに変わっている)では、かなり大編成の軍楽隊が演奏できたと思われる。(冒頭写真)
 野外音楽堂はコンクリート製で、ステージは低層の3段に分かれており、両側に反響壁が設置されている。いちばん手前の広いステージは、大編成の際は楽団員が、小編成の場合は将官やゲストのイスが並べられたのかもしれない。音楽堂のステージは、窪地の南南東側に向けて口を開いており、なんらかの記念日などで観客が多い場合には、平坦な客席ばかりでなく周囲の斜面にもあふれていただろう。
 箱根山の北東に位置する野外音楽堂は、戦前までふたつの湧水池が形成されていた南東側の段斜面にあたり、江戸期の尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)Click!だったころは、この位置にも水が湧き小流れや小池が形成されていた可能性がある。音楽堂は三方が傾斜地となる窪地として造成されたため、そこで演奏された楽曲は野外にもかかわらず、特に南東側に向けてよく反響したかもしれない。
 明治期に陸軍軍楽隊が設立されたころ、当然だが洋楽も洋楽器も経験のない日本では、ヨーロッパから専門分野の外国人を招聘した。いわゆる“御雇外国人”だが、陸軍ではフランスとドイツから教師を招いている。フランスからは、陸軍軍楽隊長の経験があるシャルル・ルルーが来日し、陸軍軍楽隊のために『抜刀隊』や『陸軍分列行進曲(扶桑歌)』Click!などを作曲している。2曲目は、1943年(昭和18)に「小雨にけぶる神宮外苑競技場……」の実況で有名な、学徒出陣の壮行会Click!で演奏されたタイトルで、文系の学生を戦場へ送ったいまやおぞましい曲だ。
 また、ドイツからは、やはり海軍軍楽隊長の経験があるフランツ・エッケルトが招聘された。エッケルトは陸軍軍楽隊へ教師として赴任する前後、宮内省雅楽課の顧問もつとめていたので、『君が代』の吹奏楽への編曲や『哀の極』などを作曲している。1899年(明治32)に帰国するが、再び東アジアへやってきて今度は朝鮮で李王朝の音楽教師をつとめている。1910年(明治43)の日韓併合で教職を失うが、そのまま朝鮮にとどまり民間での洋楽普及に尽力し、ドイツにもどることなく現地で死去している。エッケルトの墓は、現在でも韓国国内にある。
 さて、陸軍軍楽隊(のち陸軍戸山学校軍楽隊と呼称された)は、どのような曲を演奏していたのだろうか? いわゆる「軍歌」「軍楽」はもちろんだが、ときにシューベルトやベートーヴェン、ワグナーなどエッケルト故国の作品も演奏したらしい。また、軍楽隊のメンバーが作曲した作品も、積極的に演奏していた。さまざまな学校の校歌をはじめ、李香蘭Click!出演の映画音楽(国策映画)用に作曲したテーマ音楽Click!の演奏、有名な歌曲や日本民謡の編曲・演奏なども手がけている。陸軍軍楽隊の出身者で、戦後に活躍することになる作曲家には芥川也寸志や団伊玖磨、萩原哲晶、奥村一などがいる。
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 先日、「MUSIC MAGAZINE」(2019年9月号)を読んでいたら、寺尾紗穂のエッセイ『戦前音楽探訪』の中に上記のフランツ・エッケルトの名前と、陸軍戸山学校軍楽隊のネームが出てきて、思わず声を出して反応してしまった。陸軍軍楽隊の演奏曲の中には、中国の民謡が含まれていたことを初めて知ったからだ。いまでも演奏され、唄われる機会も多い中国民謡『太湖船』Click!だ。それをフランツ・エッケルトが行進曲として編曲し、『太湖船行進曲』Click!として軍楽隊のレパートリーに加えている。
 確かに、どこかで聴きおぼえのある行進曲で、全体がヨーロッパの協和音のように構成されてはいるが、ふいに中国の旋律が顔をのぞかせたりする。彼が編曲した『君が代』(のちに低音部2ヶ所が修正されるが、現在でも基本的にそのまま)も中国の旋律を思わせる響きがあるが、おそらく中国の旋律も日本の旋律も大雑把に“東アジアモード”とでもカテゴライズして、作曲や編曲に用いたものだろう。明治期の日本では、いまだヨーロッパの協和音よりも中国の旋律のほうに、より多くの親しみを感じていたのかもしれない。だが、今日ではあたりまえだが日本国内でさえ、それぞれ地方によっては地域ベースのモード(旋律)はかなり異なっている。
 ではなぜ、フランツ・エッケルトは日本の陸軍軍楽隊に、中国民謡の「太湖船」を取り入れたのだろうか? 『戦前音楽探訪』から、少し引用してみよう。
  
 その彼が作った「太湖船行進曲」は、元は「膠州湾行進曲」として、明治31年のドイツによる山東(膠州湾)租借の報を知って作曲されたものらしい。明治39年10月には日比谷公園で陸軍軍楽隊によって演奏もされている(『本邦洋楽変遷史』)から、このころから民間にも広まっていった可能性があるだろう。ドイツが山東を租借という名で99年間占領するとした、その喜びから、中国民謡と管弦楽を合わせたこの曲を日本にいたエッケルトは作ったのだろうか。
  
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 「山東(膠州湾)租借」とは、1898年(明治31)に渤海湾と黄海の間にある山東半島の南部一帯を、ドイツが清国政府に圧力をかけて租借・統治する「膠州湾租借条約」を締結したこと、要するに植民地化することに成功したことをさしている。この租借地獲得によって、アジアへの進出に出遅れたドイツは、東アジアに橋頭保を確保したことになるが、それを祝うためにエッケルトは『太湖船』のメロディーラインを拝借して、『膠州湾行進曲』を作曲(編曲)しているとみられる。
 でも、陸軍軍楽隊が演奏するときは『膠州湾行進曲』ではなく、原曲の名を冠して『太湖船行進曲』としたのは、中国への配慮からなどではなく、欧米列強のアジア侵略に対する軍内部の反感や警戒感からではないだろうか。軍楽隊が日比谷公園で同曲を演奏した1906年(明治39)、日本は日露戦争に勝利してロシアの南下を喰い止め、「アジアの盟主」を自任しはじめていたころだ。下落合にあった東京同文書院Click!(=目白中学校Click!)には、欧米の侵略から祖国を救い独立を勝ちとるため、数多くの中国人留学生Click!ベトナム人留学生Click!が参集していた時期と重なる。
 だが、1914年(大正3)に日本は日英同盟を口実にして山東半島のドイツ租借地を攻撃・占領すると、翌1915年(大正4)にはときの袁世凱政府に対華二十一カ条の要求を突きつけ、ドイツの租借地ばかりでなく、より広範囲の権益拡大を要求することになる。このとき以来、『太湖船行進曲』は中国人にとって侵略国ドイツを象徴する楽曲ではなく、新たに侵略国として立ち現れた日本を象徴する楽曲へと変異していったのだろう。事実、この要求の直後から中国各地で反日のデモやストライキ、暴動が頻発することになる。
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 原曲の『太湖船』は、中国の江蘇省にある太湖のたそがれどき、湖面の風を受けた船がすべるように静かに進む情景を唄ったものだが、『太湖船行進曲』のほうは中国大陸を奥へ奥へと際限なく踏み入ってくる、軍靴の響きを感じさせるような曲になってしまった。

◆写真上戸山ヶ原Click!にあった、軍楽学校の近くに設置された野外音楽堂(戦後復元)。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる軍楽隊の野外音楽堂が設置された位置。は、1947年(昭和22)の空中写真にとらえられた野外音楽堂の残滓(復元前)。は、野外音楽堂の現状で東西南を斜面に囲まれている。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に東京駅前で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。下左は、ドイツの御雇教師フランツ・エッケルトの肖像。下右は、1928年(昭和3)にビクターから発売された『太湖船行進曲』のレーベルで演奏は陸軍戸山学校軍楽隊。
◆写真下は、1944年(昭和19)3月10日の陸軍記念日に街中で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。紅白幕の指揮台が設けられ、どこかの新聞社か出版社の前だろうか戦時標語Click!「撃ちてし止まむ」の横断幕が掲げられている。翌1945年(昭和20)の陸軍記念日には、東京大空襲Click!で市街地の大半が炎上・壊滅する惨憺たるありさまだった。は、野外音楽堂跡の現状でコンクリートの演奏ステージは画面の左手背後にあった。

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1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。 [気になる音]

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 戦時中、日本本土への空襲が予測されるようになると、各町内には防護団による各分団が組織され、盛んに防空・防火訓練が行われた。以前にもこちらで、淀橋区の落合防護団第二分団の名簿とともに、団内の班組織を詳しくご紹介Click!している。
 だが、家々の間に緑が多く、延焼を食い止める余裕のある郊外の山手住宅地ならともかく、市街地の防護団による消火活動は“自殺行為”に等しかった。B29から降りそそぐM69集束焼夷弾や、ときに低空飛行で住宅街に散布されるガソリンに対して、悠長な防火ハタキやバケツリレーなどで消火できるはずもなく、逃げずに消火を試みた人々は風速50m/秒の大火流Click!に呑まれて、瞬時に焼き殺されるか窒息死した。
 かなり前の記事で、ふだんの訓練では威張りちらしていた、元・軍人だった東日本橋の防護団の役員が、空襲がはじまるやいなや「退避~っ!」と叫んで真っ先に防空壕へ逃げこんだ親父の目撃談をご紹介Click!しているが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!が防護団の稚拙な防火訓練や、粗末な消火7つ道具などでとうてい消火できるレベルでないことが判然とするやいなや、これまた防護団の役員は真っ先に家族を連れて避難しはじめている。だが、この一見ヒキョーに見える元軍人の「敵前逃亡」は、結果論的にみればきわめて的確で正しかったことになる。
 当時、防護団の防空・防火訓練で必ず唄われた歌に、『空襲なんぞ恐るべき』Click!というのがあった。親父も、ときどき嘲るように口ずさんでいた歌だ。
 1 空襲なんぞ恐るべき/護る大空鉄の陣
   老いも若きも今ぞ起つ/栄えある国土防衛の
   誉れを我等担いたり/来たらば来たれ敵機いざ
 2 空襲なんぞ恐るべき/つけよ持場にその部署に
   我に輝く歴史あり/爆撃猛火に狂うとも
   戦い勝たんこの試練/来たらば来たれ敵機いざ
 陸軍省と防衛司令部の「撰定歌」として、全国の防空・防火訓練で必ず唄われていた。この勇ましい歌に鼓舞され、東京大空襲で消火を試みようとした人々は、ほぼ全滅した。取るものもとりあえず、火に周囲をかこまれる前、すなわち大火流が発生する前に脱出Click!した人たちが、かろうじて生命をとりとめている。
 ふだん、あまり紹介されることは少ないが、東京大空襲Click!がはじまってから出動した消防自動車の記録が残っている。もちろん、消防車による消火活動でも、まったく手に負えないレベルの大火災が発生していたのだが、それでも彼らは出動して多くの消防署員が殉職している。中には、出動した消防車や消防署員が全滅し、誰も帰還しなかった事例さえ存在している。
 前日の3月9日の深夜から、ラジオのアナウンサーは東部軍司令部の発表(東部軍管区情報)をそのまま伝えていた。「南方海上ヨリ、敵ラシキ数目標、本土ニ近接シツツアリ」 「目下、敵ラシキ不明目標ハ、房総方面ニ向ッテ北上シツツアリ」 「敵ノ第一目標ハ、房総半島ヨリ本土ニ侵入シツツアリ」 「房総半島ヨリ侵入セル敵第一目標ハ、目下海岸線附近ニアリ」 「房総南部海岸附近ニ在リシ敵第一目標ハ、南方洋上ニ退去シツツアリ、洋上ハルカニ遁走セリ」……と空襲警報も解除され、住民たちは安心して就寝しようとしていた矢先、おそらく、消防の各署でも待機していた署員たちは、休憩あるいは仮眠をとりはじめていただろう。だが、翌3月10日の午前0時8分、もっとも燃えやすい材木が集中して置かれた、深川区木場2丁目に、B29からの第1弾は突然着弾した。燃えやすくて、大火災の発生しやいところから爆撃する、非常に綿密に練られた大量殺戮の爆撃計画だった。
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 深川の消防隊が、火の見櫓から真っ先に着弾を確認して全部隊を出動させているが、焼夷弾とガソリン攻撃に消火活動は無力だった。また、周辺の地域へ応援隊30隊を要請しているが、まったくどこからも応援の消防隊はこなかった。深川区の周囲、すなわち本所区、向島区、城東区、浅草区、日本橋区も同時に火災が発生し、他区への応援どころではなかったからだ。大空襲当夜の様子を、1987年(昭和62)に新潮社から出版された、早乙女勝元『東京大空襲の記録』から引用してみよう。
  
 深川地区に発生した最初の火災を望楼から発見したのは、深川消防署員である。すぐ地区隊合わせて計一五台の消防自動車が、サイレンのうなりもけたたましく平之町、白河町方面の火災現場へと急行した。全部隊がならんで火災をくいとめようと必死の集中放水の最中に、隣接する三好町、高橋方面が圧倒的な焼夷弾攻撃を受け、火の玉がなだれのように襲ってきた。/あわてて消火作戦を変更しようとしたが、時すでにおそく頭上に鉄の雨が降りそそぎ、二台の消防自動車に直撃弾が命中、隊員もろともに火の塊になってしまった。(中略) 火を消しにいったはずの消防自動車一五台も、みな大火流に呑まれ、大勢の隊員は車もろともに焼失して殉職しなければならなかった無念の心情が、都消防部「消教務第二三一号」報告書にしるされている。
  
 隣りの本所区では、全隊7台の消防車を出動させているが、隊員10名と消防車全車両を失っている。特に空襲も後半になると、B29は煙突スレスレの低空飛行で焼夷弾やガソリンをまき散らし、7台の消防車のうち2台が狙い撃ちされ、直撃弾を受けて隊員もろとも火だるまになっている。
 この夜、各区で出動した消防車だけでも100台を超えたが、うち96台焼失、手引きガソリンポンプ車150台焼失、消火栓焼失約1,000本、隊員の焼死・行方不明125名、消火に協力した警防団員の死傷者500名超という、惨憺たるありさまだった。特に、消火消防の熟練隊員たちを一気に125名も失い、多くの隊員が重軽傷を負ったのは、東京都(1943年より東京府→東京都)の市街地消防にとっては致命的だった。たった2時間半の空襲で、市街地の消防組織は壊滅した。
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 燃えるものはすべて燃えつくし、ようやく延焼の火も消えつつあった翌3月11日、19歳の少女が巣鴨の住居焼け跡の防空壕からヴァイオリンケースを抱えながら、ひたすら日比谷公会堂をめざして歩きはじめた。顔はススで黒く汚れ、着ているものは汚れたブラウスにズボンでボロボロだった。あたりは一面の焼け野原で、日比谷の方角がどこだかさっぱりわからなかったが、カンだけを頼りに南へ向かって歩きつづけた。
 やがて、焼けていない日比谷公会堂がようやく見えはじめると、大勢の人々が少女へ向かって歩いてきた。そして、彼女とヴァイオリンケースを目にしたとたん、あわてて歩いてきた道を引き返していった。そのときの様子を、向田邦子Click!が「少女」にインタビューしているので、1977年(昭和52)発行の「家庭画報」2月号から引用してみよう。
  
 最も心に残る演奏会は、東京大空襲の翌日、日比谷公会堂で催されたものだという。/すでに一度焼け出され、避難先の巣鴨も焼夷弾に見舞われた。ヴァイオリン・ケースだけを抱えて道端の防空壕に飛び込み命を拾った。こわくはなかった。明日演奏する三つの曲だけが頭の中で鳴っていた。/一夜明けたら一面の焼野原である。カンだけを頼りに日比谷に向って歩いた。公会堂近くまで行くと、沢山の人が自分の方へ向ってくる。その人達は、巌本真理を見つけ、“あ”と小さく叫んで、くるりと踵を返すと公会堂へもどって行った。恐らく来られないだろうと出された“休演”の貼紙で、諦めて帰りかけた人の群れだったのである。その夜の感想はただひとこと。/「恥ずかしかった……」/煤だらけの顔と父上のお古のズボン姿で弾いたのが恥ずかしかったというのである。明日の命もおぼつかない中で聞くヴァイオリンは、どんなに心に沁みたことだろう。その夜の聴衆が妬ましかった。
  
 公会堂では、「来られない」ではなく「大空襲で焼け死んだかも」とさえ思い、休演の貼り紙を出したのかもしれない。「あ」は、「あっ、生きてた!」の小さな叫びだろう。一夜にして、死者・行方不明者が10万人をゆうに超える大惨事だったのだ。
その後、巌本真理がコンサート会場である日比谷公会堂まで歩いたのは、第1次山手空襲の翌日=同年4月14日(土)であることが判明Click!した。彼女はそのときの空襲を「東京大空襲」と表現したため、向田邦子は当然同年3月10日の翌日と解釈したようだ。
 巌本真理(メリー・エステル)の演奏に聴き入る聴衆の中には、前日の空襲で焼け出され火災のススで黒い顔をした、着の身着のままの人々もいたにちがいない。この夜、演奏された3曲とはなんだったのかまで向田邦子は訊いていないが、すぐにブラームスの話に移っているので、演奏が許されていたブラームスのソナタが入っていた可能性が高い。
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 前夜、M69集束焼夷弾が雨あられのように降りそそいだ、生き死にのかかった(城)下町Click!の夜に聴く、たとえばブラームスのヴァイオリンソナタ第1番Click!は、はたしてどのように響いたのだろうか。明日死ぬかもしれない中で聴くブラームスは、美しい湖の避暑地に降りそそぐ雨の情景などではなく、ヴァイオリンのせつない音色に聴き入りながら、前日まで生きていた人々を想い浮かべつつ、よく生きのびて、いま自分がこの演奏会の席にいられるものだという、奇蹟に近い感慨や感動を聴衆にもたらしたかもしれない。

◆写真上:古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に気どってみた。擦りガラスの上に載せ、下からライトを当てないとそれっぽくならない。古いアルバムとドングリの煙草入れは、二度にわたる山手空襲をくぐり抜けた親父の学生下宿にあった焼け残りだが、現代のロングサイズ煙草は入らない。
◆写真中上:東京各地で行われた、さまざまな防空演習で新宿駅舎(現・新宿駅東口)の演習()に大病院の演習()、毒ガス弾の攻撃に備えてガスマスクを装着した東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)の防空演習()。
◆写真中下は、1945年(昭和20)1月27日の銀座空襲で消火にあたる防護団の女性。同爆撃は局地的なものだったので、消火作業をする余裕があった。は、偵察機F13が同年3月10日午前10時35分ごろに撮影したいまだ炎上中の東京市街地。
◆写真下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された日比谷公園(上)と、戦後の1948年(昭和23)撮影の同公園(下)。は、日比谷公会堂の現状。は、ヴァイオリニストの巌本真理(メリー・エステル/)と向田邦子の左眼()。向田邦子の瞳には、敗戦から18年で自裁するカメラマンだった恋人の姿が映っている。

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ブートレグより正規盤がダメなアルバム。 [気になる音]

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 きょうの記事は、落合地域とその周辺の地域あるいは江戸東京地方とはまったく関係のない音楽がテーマなので、興味のない方はさっさと読みとばしていただければと思う。
  
 ブートレグ(海賊盤・私家盤)Click!は音が悪いというのは、わたしが学生時代ぐらいまでの話で、1990年代以降はかなり音質のいいブートレグが出まわりはじめた。デジタル機器の普及によるのだろう、80年代以前の録音とは、比べものにならない品質のサウンドが急増している。また、ジャケットもLP時代の味も素っ気もないものから、グラフィックデザイナーが手がけたような、ちょっとこじゃれたパッケージが目立っている。LP時代の海賊版ジャケットといえば、手づくり感満載で版ズレや文字のにじみ、版下の傾きなどあたのまえ、ジャケットの紙質も実に粗悪なものが多かった。
 そもそもブートレグは、多くの国々では違法行為なのだが、ライブやコンサートの会場で違法録音している例は意外にも少ない。エアーチェック盤と呼ばれる、当日のコンサートやライブをラジオやTVなどで中継したサウンドを、リスナーが手もとのレコーダーで必死に録音し、それをLPやCDに焼いてこっそりとカタログに掲載するケースがいちばん多い。ポップスやクラシックでは、これらの行為は法的に厳しく追及されているが、JAZZやロックの場合は少々事情が異なる。
 もちろん、JAZZとロックはライブやコンサートのたびに、同一の曲目といえどもすべて異なるインプロヴィゼーション(即興演奏)のため、二度と同じ(類似の)演奏が聴けないことから、ミュージシャンの音楽的なステップやサウンドの変遷を知るうえでは、かけがえのない貴重な音源であり、「ブートレグ文化」は1級の史的な資料となる。中には、リスナーからではなくTVやラジオの放送局、あるいはライブやコンサートの主催者や団体から流出したらしい音源もあったりするので、そのようなブートレグはことのほか音質がよいケースもある。
 学生だった1980年前後、1枚のブートレグを必死に探していたのを憶えている。10年前の1970年、イギリスのワイト島Click!で開催されたワイト島ミュージック・フェスティバルに出演した、マイルス・デイヴィス・セプテットの海賊版が、イギリスで発売されていたからだ。同フェスは、イギリスのテレビ局が中継録画しており、もしも流出したのがその音源だとすると、かなり高品位な音が期待できたからだ。チック・コリアとキース・ジャレットのダブルkeyも、大きな魅力だった。1970年代末、マイルスは沈黙したままで新盤が出ず、彼のフリークたちはいまだ未聴のブートレグでも漁るしか楽しみがなかった。いまだ、『AT The Isle of Wight』(Videoarts Music)のビデオやDVDなど、どこにも存在しなかった時代の話だ。
 くだんのブートレグ『WIGHT!/Miles Davis』(LP)を、ようやく聴けたときには狂喜したが、少なからずガッカリもした。音源はテレビで放送されたものを、家庭用のテープレコーダーで録音したらしいのだが、当時の受像機の性能からか、ひどく貧弱なサウンドに聴こえた。くぐもったような劣悪な音質でひずみも多く、音楽を鑑賞するというより、史的な資料音源としては貴重だな……ぐらいの感想だった。おしなべて、ブートレグの音質は私的に録音されたせいか痩せていて貧弱で、同じ演奏を収録した正規盤がのちに発売されたりすると、驚くほどクリアな音質に感激した憶えは一度や二度ではなかった。
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 だが、例外もある。ブートレグではなく、双方ともに正規盤なのに、まったくサウンドが異なってしまった(悪化した)ケースだ。以前にも、こちらで記事にしたことがあるけれど、マイルス・デイヴィス(tp)の『アガルタ』Click!が好例だろうか。当初、発売されたオリジナルLPは、マイルス自身とプロデューサーのテオ・マセロの編集の手が入ったサウンドであり、それをデフォルトディスクとして聴きつづけてきた。ところが、CD化されたとたん、バランスが悪く妙なところでssやel-gがやたらと張りだし、まったく異質なまとまりのないサウンドになってしまっていた。
 1990年代のJAZZレコード業界では、テープ倉庫から演奏当初のマザーテープを発掘し、デジタルでCDにプレスするという仕事が一大ブームになっていた。テープ倉庫を専門に調査する、「発掘男(Excavator)」などと呼ばれる業界人も登場していたくらいだ。くだんの『アガルタ』も、単純にマザーテープの録音を野放図にそのままプレスするという、同アルバムと『パンゲア』に関しては、「やってはいけないこと」をやってしまったのだろう。(もっともマイルスとテオ・マセロによる意識的な録音編集は、1969年の『IN A SILENT WAY』からとされているが……)
 おかしなサウンドで楽器の音が散らかったままバラバラ、オリジナルのLPとはまったく別モノになってしまったCD版の『アガルタ』と『パンゲア』について、「音がヘンだよ、おかしいよ!」という批評家が現れなかったので、念のためCBSソニーへ問い合わせてみた。すると、やはり音源は倉庫にあったマザーテープからで、マイルスとテオ・マセロの編集テープが当時、どうしても見つからず行方不明であることがわかった。でも、2010年に米コロンビアから発売された。『The Complete Columbia Album Collection』を聴くと、LP発売当初のオリジナルサウンドへともどっているので、その後、米国のCBSかコロンビアの倉庫で編集テープが見つかったのだろう。以来、両作は日本公演にもかかわらず、米国のオリジナル編集版のCDを聴くようになった。
 さて、ブートレグに話をもどそう。1980~1990年代にかけ、もっとも多く出まわっていたブートレグLPはといえば、もちろん人気が圧倒的に高かったマイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーン(ss、ts、fl)の演奏だった。1990年代に入り、CDが爆発的に普及するようになると、LPよりもはるかに制作しやすい海賊版CDが急増することになる。そんな中でひそかに発売されたのが、『A DAY BEFORE』(MEGADISK/1998年)だ。1985年7月13日に、オランダのハーグで開催されたノース・シーJAZZフェスティバルに登場した、マイルス・デイヴィス・グループの全演奏を収録したものだった。
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 オランダのテレビ局が中継録画していた同演奏は、数日後にいち早く録音がFM-TOKYOにとどき、わたしは高価なメタルテープを用意して、エアチェックをしようと待ちかまえていた。ところが、マイルスの演奏(1曲目の『ONE PHONE CALL』)がスタートしているにもかかわらず、DJのしゃべりが終わらない。同フェスティバルについての解説をつづけ、背後でペットが鋭く響きわたっているのに話をやめない。スタートしてから数分がたち、ようやく「では、お聴きいただきましょう」と話を切りあげたころには、マイルスのソロは半分ほど終わってしまっていた。「こいつ、バカなのか?」とDJにキレながら、それでも録音したのを憶えている。ところが、これはDJが悪いのではなかった。オランダのテレビ局が、録音の大失敗をやらかしていたのだ。
 それが判明したのは、ブートレグ『A DAY BEFORE』を入手してからだ。冒頭の曲からして、おそらくマイクケーブルの接続ミスか端子の接触不良、ないしはいずれかのサウンド入力機器の不具合なのだろう、演奏音が大きくなったり小さくなったりとメチャクチャだ。つまり、FM-TOKYOのDJは、録音に失敗して演奏がメチャクチャなところに、解説をかぶせてフォローしていたわけだ。1曲目の半ばから、ようやく安定したように聞こえるのだけれど、その後もときどき音のバランスが崩れ不安定になる。同フェスで、マイルス・グループは13曲(メドレーを含めれば14曲)を演奏しているが、サウンドの不安定感は最後まで変わらなかった。
 それから15年がすぎた2013年、オランダからようやく正規盤の『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』(AVRO/NTR)が発売された。よりまともな音が聴けると思ったわたしは、さっそく購入したのだが、これがまったくの期待外れだった。先の1998年に発売されたブートレグよりも、音質がはるかに劣悪なのだ。録音の失敗をカバーしようとしたのか、サウンドのヘタな編集作業をしつづけて、もとの演奏録音を台なしにしてしまった……というような出来だった。ブートレグのほうが不安定とはいえ、はるかにオーディオClick!から流れる音が鮮明で響きもよく、演奏の熱気がストレートに感じられるのに、正規盤はサウンド全体がくぐもっており、まるで水中にもぐったまま演奏を聴いているような、無残な仕上がりになっていた。
 同演奏では、録音機器ばかりでなくPA装置も不調だったらしく、正規盤『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』にはコンサートのDVDも付属しているが、背後をふり返ってPA機器を指摘するボブ・バーグ(ss、ts)や、怒気を含んだけわしい表情で音響スタッフを呼ぶジョン・スコフィールド(el-g)の姿がとらえられている。マイルスが残した、1980年代のコンサートではもっとも好きな演奏なだけに残念でならない。『アガルタ』や『パンゲア』とはまったく逆に、ヘタな編集などいっさいせずブートレグの音質のまま、つまり録音の失敗が露わなマザーテープのまま、正規盤を出してくれればよかったのに……と、切に思ったしだいだ。
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 1990年代へと向かうマイルスの『トスカ』構想にからめ、復帰後の録音を追いつづけて「マイルス論はどんなものが出るか、赤痴(アカ)に白痴(バカ)と言わせるなよ」と書いたのは平岡正明だが、「白痴(バカ)」を承知でいわせてもらえば、1985年の演奏で唯一、ヴィンセント・ウィルバーンJr(ds)の存在がいただけない。マイルスの甥だというだけで、グループに入れたのかどうかは知らないが、微妙なタメをつくってリズムに“後ノリ”する場ちがいなドラマー(生来のリズム感なのだろう)が在籍中は、演奏の足を引っぱっているような気がしてならない。それまでのドラマーはリズムに“前ノリ”し、文字どおり前のめりの疾走感と、独特な緊迫感のある演奏を繰り広げたのではなかったか? だが、80年代半ばのグループはマイルスの悪い右足ではないが、少し足を引きずっている。

◆写真上:1991年に死去する直前、最晩年に撮影されたマイルスのポートレート。
◆写真中上:1960~70年代にかけて登場した、マイルスとコルトレーンのブートレグLPジャケット。版ズレや印刷の不鮮明、版下の傾きなどはあたりまえだった。
◆写真中下が、1985年7月13日のノース・シーJAZZフェスティバルでの演奏を収録したブートレグ『A DAY BEFORE』(MEGADISK/1998年)のジャケット表裏。が、同録音の正規盤となる『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』(AVRO/NTR/2013年)のジャケット表裏。ブートレグのほうが優れたサウンドで、編集で音をいじりすぎたため正規盤の音質がひどくなった典型的なケースだ。は、同日のコンサートをFMからエアチェックした懐かしいメタルテープ。
◆写真下:現在、膨大な「作品」がリリースされているマイルスのブートレグCDの一部。

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久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。 [気になる音]

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 きょうは、落合地域やその周辺、さらに江戸東京地方とはまったく関係のない記事だ。音楽やオーディオに興味ない方は、どうぞ読み飛ばしていただきたい。
  
 昨年の暮れ、季刊「Stereo Sound」誌が200号を迎えたというので、久しぶりに買ってはみたけれど、そのまま読まずにCDラックの中へ入れっぱなしにしておいた。ベルリンPhレコーディングスが制作している、付録のSACDにも惹かれたのだが、“おまけ”のディスクだけ聴いて本誌は開かないままだった。だが、ほんとうに久しぶりに同誌を読んでみて、わたしがほとんど“浦島太郎”状況なのに気がついた。
 最後に「Stereo Sound」を手にして読んだのは、もう20年近くも前のことで、それ以来、特にオーディオ装置Click!には不満をおぼえず音楽を聴いてきた。だから、かなり高価な同誌を買って情報を手に入れる必要がなくなり、ごく自然に離れてしまったのだ。わたしはオーディオマニアではないので、先のベルリンPhでいえば、せいぜいC.アバドの時代ぐらいまでで、SACDをみずから制作するS.ラトル時代のベルリンPhは、さほど録音など気にすることもなく、そのまま現装置でふつうに聴いてきた。
 そもそもディスク会社(いわゆるレコード会社)が、確実に売れるCD(レコード)しか制作しなくなり、それも売れなくなって青息吐息なのは知っていた。だが、思いどおりのCDを制作してくれないレコード会社を見かぎり、オーケストラ自身がCDを制作し音楽データサイトを起ち上げて販売する「直販」システムが、ここまで広まりつつあるのは知らなかった。BPhレコーディングスもそうだが、ロンドンOのLSOライブやロイヤル・コンセルトヘボウOのRCOライブなども、みなオーケストラ直営のレーベルだとか。確かに、音楽のカテゴリーを問わず、オーケストラやビッグバンドの演奏を録音することは、莫大な経費の発生とリスクを覚悟しなければならない。
 いまの若い子たちは、そもそもCDさえ買おうとはしない。好きな曲があれば、アルバムではなく1曲ごとにダウンロードし、ローカルのスマートデバイスで気が向いたときに聴くだけだ。街中からレコード店が次々と消滅していったのと、スマートデバイスの普及はみごとにシンクロしている。さすがに、録音時間の長いクラシックはCDが主流だったが、それでも通信速度が1Gbps時代を迎えたあたりからPCや専用コンソールへダウンロードし、オーディオ装置に接続して直接データを再生するファンが増えている。つまり、ディスクというメディア自体が不要な時代を迎えたわけだ。
 音楽業界でも、本の世界とまったく同じ現象が起きていたことがわかる。つまり、あらかじめ売れると営業判断されたレコーディングしか行われず、できれば定評のある過去の「名盤」だけをプレスしていれば、なんとか各ジャンルごとの部門ビジネスをつづけられる……というような事業環境だ。だから、よほど売れそうなミュージシャン(の演奏)でないかぎり、新盤を制作するプロジェクトは「冒険」と考えられ、クラシック(JAZZも同様だろう)などのジャンルだと音楽家の想いどおりのアルバム(CD)など、まず制作することが不可能になった。だから、音楽家やオーケストラ自身が直接CDをプレスするか、音楽データサイトを構築してサウンドデータを直販するのは必然的な流れだったのだろう。1980年代から90年代にかけて、世界じゅうの音楽会社が競い合うようにいい録音を繰り返し、多彩なコンテンツを制作していたころが、まるで夢のような状況になっている。
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 ちょうど、ある分野では重要で十分に意味のある内容なのに、本の量販が見こめないため首をタテにふらない出版社を見かぎり、やむなく著者がネット出版に踏みきるのと同様の流れだ。これは、レコード会社や出版社にしてみれば、一時的に「リスクと赤字を回避した」ように見えるけれど、もう少し長めのスパンで考えた場合のより危機的で深刻なリスク、すなわちメディア(ディスクや本など)自体がそもそも消滅しつつある事態に拍車をかけている……ということになる。徐々に、ときには急激に、マーケットが縮小する「自主制作」へのシフトは、書籍よりも音楽の世界のほうが速いのかもしれない。
 いまの若い子たちは、オーディオ装置さえ持っていない。わたしのいうオーディオ装置とは、スマートデバイスに付随するイヤホンやヘッドホン、小型スピーカーではなく、TVモニターの周囲に展開され通常「AV」と呼称される、映像をともなうサラウンドシステムでもない。できるだけライブハウスやコンサートホールに近い空間のサウンドをめざし、純粋に音楽を再生する機器群、すなわちアナログ/デジタル各ターンテーブルやDAコンバータ、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカー、イコライザー、各種レコーダー……などの装置を組み合わせたものだ。
 いつか、子どもにFOSTEXの自作スピーカーとプリメインアンプ、CDプレーヤーを買ってあげたらほとんど興味を示さず、音楽はおもにヘッドホンで聴いていた。そのうち、お小遣いをためてステレオCDラジオを買っていたが、それもスマホが手に入るとあっさり不要になった。でも、音楽をちゃんと空気を震わせてリアルに聴きたいという欲求はあるらしく、ときおり椎名林檎Click!のCDやDVDを、わたしのオーディオ装置で聴いていた。
 なにが「いい音」なのか、あるいはどのような「音がリアル」なのか、おそらく音楽におけるサウンドの定義からして、わたしとはかなりズレがある世代なのだろう。深夜にヘッドホンで、大きめに鳴らすレスター・ケーニッヒの西海岸Contemporaryサウンドもいいけれど、やはりJAZZClick!やクラシックなどの演奏は実際の音で、空気をビリビリClick!震わせる少しでもリアルな空間で聴きたくなるのだ。
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 「Stereo Sound」200号を眺めていたら、SACDプレーヤーがずいぶん安価になり、手に入りやすくなっているのに気づいた。同時に、さまざまなオーディオ機器が目の玉が飛び出るほどの価格になっていることに唖然としてしまった。20年前と同じレベルの装置が、2倍あるいは3倍もするのに呆れ果ててしまった。ちょっとしたアンプやスピーカーは、100万円以下のものを探すのさえむずかしい。国産の中型スピーカーでさえ、従来は30~50万ほどでそれなりに品位が高く非常に質のいい音を響かせていた製品が、100万円を超えるのだからビックリだ。アンプにいたっては、もはや冗談としか思えないような値段の製品が並んでいる。これもまた、若い子のオーディオ離れとスマートデバイスの普及にシンクロした、先細りをつづけるマーケットにともなう現象なのだろう。
 それなりの品質をしたオーディオ機器は、各メーカーとも小ロット限定生産どころではなくなり、限りなく個別受注生産に近づいてしまったため、この20年間でとんでもない値上がりをしてしまったのだろう。また、大手オーディオメーカーの内部でさえ事業を支えきれなくなり、独立した技術者たちが新たにガレージメーカーを起ち上げ、良心的な製品を提供するとなると、「これぐらいの価格は覚悟してください」ということなのかもしれない。デフレスパイラルがずっとつづいてきた中、これほど高騰をつづけた製品分野もめずらしいのではないだろうか。
 そんな中で、がんばっているメーカーもある。高価なのでなかなか手に入れられず、せめてJAZZ喫茶やライブスポットなどでサウンドを楽しむだけだった、アンプ(とスピーカーXRTシリーズ)のマッキントッシュ(McIntosh)社だ。音楽好き(特にJAZZ好き)が「マッキントッシュ」と聞けば、アップル社のPCClick!ではなく、まずアイズメーターがブルーに光る同社のアンプをイメージするのは、いつかの記事にも書いたとおりだ。たまたま「Stereo Sound」200号には、同社の訪問記や社長・社員へのインタビューが掲載されているが、製品のラインナップと価格は20年前とそれほど大きく変わってはいない。一時期は日本のクラリオンに買収され、どうなってしまうのかと案じていたけれど、なんとか危機を脱して新社屋や開発研究拠点を建設し、米国の精緻な職人技を受け継いで、R&Dも含め経営は安定しているらしい。ちなみに、何十年にもわたって精緻な技術を支えている職人たちに女性が多いのも、同社の大きな特徴だろう。
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 残念な記事も載っている。わたしがサウンドの指針(師匠)として昔から頼りにしていた菅野沖彦が、数年来の病気で同誌の執筆を中止していることだ。このサイトでは、三岸節子Click!の再婚相手である菅野圭介の甥として、三岸アトリエClick!を訪れた菅野沖彦Click!をご紹介している。「Stereo Sound」誌を買うのは、彼が新製品や新たに開発された技術によるサウンドに対し、どのような受けとめ方や感想を述べるのかが知りたかったという側面も大きい。お歳からして無理なのかもしれないが、可能であれば執筆を再開してほしいと切に願うしだいだ。
 こんな記事を書いていたら、無性に音楽が聴きたくなった。夜中なので大きな音は出せないが、いまターンテーブルに載せたのはJAZZでもクラシックでもなく、丸山圭子の『どうぞこのまま』Click!。オーディオ+音楽文化が滅びませんよう、どうぞこのまま……。

◆写真上:「Stereo Sound」の名機たちにはとても及ばない、わが家の迷機の一部。
◆写真中上は、読んでいるだけで楽しかった1980~90年代の「Stereo Sound」表紙。掲載されている製品は、当時からほとんど手が出ないほど高価だった。は、長期間にわたり「Stereo Sound」誌のリファレンスモニターだったJBL4344の“顔”。
◆写真中下は、ニューヨーク州ビンガムトンにあるマッキントッシュ・ラボラトリー本社。は、JAZZ用のアンプリファイアーとして憧れのコントロールアンプC52。
◆写真下は、ベルリンPhレコーディングが制作したS.ラトル指揮のベートーヴェン・チクルス。日本で買うと非常に高価なので、ドイツに直接注文したほうが安く手に入りそうだ。下左は、1967年(昭和42)の創刊号から数えて「Stereo Sound」創刊50周年・200号記念号。下右は、執筆活動を再開してほしい菅野沖彦。

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