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『落合町誌』の基盤となった『落合町現状調査』。 [気になる下落合]

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 東京市では、1932年(昭和7)10月に迫った東京市35区制Click!を目前に、新たに形成される20区内に含まれる町村の概況について、その実態調査を前年に実施している。市庁舎内へ、新たに臨時市域拡張部という部署を新設して、市域へ新たに編入される町村へ調査員を派遣したり、さまざまなデータを収集させたりした。
 1年後に、淀橋区(現・新宿区の一部)へ編入される落合町にも、東京市臨時市域拡張部から派遣された調査員が、町の様子を視察したり多種多様な自治データを収集したりしている。そして、1931年(昭和6)11月に「市域拡張調査資料」として、折りこみ地図を含めると50ページ弱のコンパクトな冊子にまとめて刊行していた。ガリ版(謄写版)による手刷りで作成された調査資料冊子は、東京市臨時市域拡張部の編集による『豊多摩郡落合町現状調査』と名づけられ関連部局に配布されている。
 ところが、この資料に目を通していると、すでにどこかで読んでいる、あるいはどこかで一度目にした統計資料(表組のレイアウトまで酷似)、あるいは分類表など既視感を強く感じた。そう、1年後の1932年(昭和7)8月に落合町誌刊行会から出版される、『落合町誌』Click!の編集のしかたやレイアウトにそっくりなのだ。いや、このいい方は逆さまで、『落合町誌』の「第四篇 現勢」でで綴られている「人口」や「行政」、「財政租税」「教育」「寺社及教会」「衛生」「各種団体」「交通」「産業」「電燈瓦斯水道」などの記述や統計資料、レイアウトなど、ときに文章までが、前年に東京市臨時市域拡張部が編集した『豊多摩郡落合町現状調査』と、非常によく似ているのだ。
 つまり、『落合町誌』(1932年)の「緒言」、「第一篇 維新前の沿革及歴史的考証」「第二篇 寺社の沿革」「第三篇 明治維新後期」の前半73ページまでと、後半の「第五篇 人物事業編」の216ページから最後まではオリジナルの制作コンテンツだが、真ん中の74ページから215ページ(141ページ分)まで、すなわち落合町の「現勢」を語る中心的な内容は、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』から、よくいえばそのままの引用または流用、悪くいえばほぼ丸ごとパクリの編集に近い構成になっていることがわかる。
 いい方を換えれば、『落合町誌』の編集者兼発行者(編集責任者)である近藤健蔵は、落合町の「現勢」は東京市臨時市域拡張部による調査結果の内容をおおよそ踏襲し、落合町の歴史や暮らしている住民たちの紹介に力点を置いて編集したかった……ということになるだろうか。では、落合町の現勢について、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』に収録された「町勢現況」から少し引用してみよう。
  
 妙正寺川ノ西南大字上落合ノ地ハ中野町野方町ニ起レル岡脈連亘シテ一帯ノ高台ヲナシ東北部下落合ノ地ハ目白台ニ連ル一帯ノ高阜ニシテ小丘陵ノ起伏スルモノ多ク展望開ケ且ツ樹林ニ恵マレ最適ノ住宅地タリ。又町ノ北方大字葛ヶ谷ノ地方ハ概シテ平坦ナル畑地ヲナセリ。(中略) 前述セル如ク本町ノ地勢ハ妙正寺川ノ流域及大字葛ヶ谷ノ地ヲ除ク外ハ土地高燥ニシテ起伏ニ富ミ展望開ケテ好個ノ住宅地ヲナス。サレバ全町ヲ通シテ良住宅多ク目白文化村、翠丘住宅地等特ニ名高シ。/交通機関ハ省線目白駅ノ便ヲ有スルト共ニ西武電車線ノ町内ヲ縦貫スルモノアリ。然レドモ町ノ西北部地方ハ未ダ交通上不便ナル地域アリ。/将来此ノ方面ニ交通機関ノ完備スルハラバ本町ノ殆ンド全部ハ住宅地トシテ発展ヲナスベキ状勢ニアルモノナリ。
  
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 下落合の南側と上落合の東側を流れる、旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)の流域については存在が忘れられているし、目白文化村Click!と同時期(1922年)に開発がスタートした近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!の記載がないが、「翠丘住宅地」(ママ:翠ヶ丘Click!)すなわち今日では十三間通りClick!(新目白通り)の貫通で分断されてしまい、ほとんどネームが伝承されなくなってしまった、六天坂Click!から西坂Click!あたりにまでかけての丘陵地帯に形成された住宅街については触れている。
 もうひとつ、「西武電車線」という地元ではあまり聞き慣れない用語がつかわれているが、同書に挿入された地図には「西部電気鉄道」と記載されているので、地元や同時代の各種地図、あるいは当時のマスコミの一般用語として普及していた「西武電鉄」Click!と書くところを、新宿駅から荻窪方面へ通っていた通称「西武電車」Click!(西武軌道線)と混同したか、あるいは西武鉄道が媒体広告を使い繰り返し浸透を図った、「西武電車」Click!の愛称(戦前は普及しなかった)を踏襲したものだろうか。
 さて、『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)に掲載された多種多様な統計表は、1930年(昭和5)に実施された国勢調査にもとづいて掲載されている。それを、ほぼそのまま表組のかたちや項目、レイアウトまで借用したのが『落合町誌』(1932年)の「第四篇 現勢」だ。これに、数字が判明している表には1931年(昭和6)分の実数値を追加して掲載しているが、不明なものは東京市の表組のまま1930年(昭和5)現在で収録している。ほかに、町長や町会議員、町議会、各尋常小学校や教育機関の紹介、在郷軍人会の活動などを付加し、「第四篇 現勢」は東京市の資料に比べやや肉厚に編集されている。
 編集責任者の近藤健蔵は、公的資料を参照すればすぐに情報を入手できる「第四篇 現勢」の大半の情報は、東京市が調べた『豊多摩郡落合町現状調査』をほぼそのまま踏襲し、むしろ歴史や名所・史跡の紹介、そして住民や町内の事業紹介に注力したかったように見える。近藤健蔵は、もともと東京市電気局に勤務しており、退職してからは上落合721番地で化粧品・文房具店を開業している。その人物像を、『落合町誌』のほぼ最後に掲載された文章から引用してみよう。
  
 栗原新和会副会長 近藤健蔵  上落合七二一
 軒滴石を穿つと言ふ諺がある、人生に於ける如何なる小さな努力でも其の継続に依つて相応の結果を得、収穫を挙ぐると云ふ事は疑もない事実である。之が氏の社会公共に対する思想行動の核心を為すものにして、亦方今町衛生委員、栗原新和会副会長、第二小学校児童保護会評議員として郷党の間に声望ある所以に外ならない、氏は近藤兼吉氏の長男にして落合の地に生れ、大正二年東京市電気局に勤め、昭和元年退職後化粧文房具商を経営する、努力鉄膓の士である、一面前記公職に推されて治績尠からざる而巳乃木講社の先達と為り或は自治研究会の組織に介在する等、孜々(しし)として当町文化の発展に資するところ多大である、(以下略)
  
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 東京市の電気局に、わずか13年ほどしか勤務しなかったのは、おそらく先代の跡を継ぐためだったのではないか。先代の近藤兼吉は、上落合の地主だったのかもしれない。彼は上落合にもどり、「化粧文房具店」を開業している。
 上落合721番地は、ちょうど中井駅の南側、寺斉橋Click!をわたってすぐ右手の角地だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、その位置に「文具店」のネームを見つけることができる。これが、文房具および化粧品を扱っていた近藤商店だろう。また、『落合町誌』を発行した落合町誌刊行会も同地番となっているので、ここが実質的に同誌編集局の役割りをはたしていたにちがいない。
 編者の近藤健蔵は、同誌「自序」の中で「顧れば本書の編録に着手せしより約半歳」と書いているので、『落合町誌』は約6ヶ月で編纂されたことがわかる。これほど短期間で、400ページを超える町誌を編集・執筆できたのは、まさにベースとして東京市による『豊多摩郡落合町現状調査』が存在したからだろう。しかも、かつて彼は東京市に勤めていた。同誌の「自序」より、もう少し引用してみよう。
  
 然るに落合町には古来其の歴史を語るべき記録がない、発達変遷の跡を知るべき郷土史がない、落合町に生れ、落合町に人と為り、落合町に居住する人々の多数は、愛国の至誠を培ふべき、郷土に関して何等の知識を有たない、之れ不肖自ら揣らずも此の編纂を企画したる所以である、乍併(しかしながら)修史の事業の容易ならざるは史家にあらざるも亦肯定するに難からず、而も短日稿を脱し倉卒編を了したるを以て、精粗繁簡、素より欠陥なきを保せずと雖(いえども)、町史の大本を示し、現勢を述べ、自治政の実態を叙し得たることは、三万町民諸氏の前に捧ぐるに躊躇しない。
  
 これを読んでも分かるが、わずか6ヶ月で出版するには、他資料からの援用が不可欠だったにちがいない。しかも、近藤健蔵は5~6年前まで東京市の職員であり、『豊多摩郡落合町現状調査』の存在は、当時の同僚あるいは来町した調査員から聞いて知っていた可能性が高い。また、だからこそ出版の6ヶ月前、すなわち1932年(昭和7)の2月あたりに執筆を開始し、同年8月の前半に脱稿、8月27日に滝野川で営業していた土井軍平印刷所へと入稿し、8月31日には発行という短い制作リードタイムが可能だったのだろう。
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 近藤健蔵は、もともと文章を書くのが好きだったのではないか。よく作家たちに「商店を経営するならどんな店?」というような昭和期のアンケートを見かけるが、「(古)本屋」や「文房具屋」と答える人が多かった記憶がある。文房具類は、物書きのもっとも身近な道具だ。彼は元来、文章を書くのも読むのも好きだったからこそ、400ページをゆうに超える『落合町誌』を、わずかな期間で編集できたのかもしれない、そんな気が強くするのだ。

◆写真上:西へ入る道路が山手通りの敷設でつぶされた、寺斉橋南詰めの近藤健蔵が経営する化粧文具店があった上落合721番地あたりの現状。
◆写真中上:東京市による、ガリ版刷りの『豊多摩郡落合町現状調査』の内容。
◆写真中下上左は、東京市が発行した『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)表紙。上右は、近藤健蔵が出版した『落合町誌』(1932年)函と背。は、『豊多摩郡落合町現状調査』に掲載の落合町地図。1930年(昭和5)7月には西武電鉄の下落合駅Click!は聖母坂の下に移動しているが、同地図では下落合氷川明神前のままになっている。
◆写真下は、『落合町誌』の中扉()と著者・編者の近藤健蔵()。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる上落合721番地界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合721番地で「文具店」のネームが収録されている。
おまけ
 下落合を取材中に近藤健蔵も目にしてたとみられる、大正期から変わらない下落合風景。
下落合風景.jpg

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