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下落合を描いた画家たち・安井曾太郎。 [気になる下落合]

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 下落合404番地の近衛町Click!に住んだ安井曾太郎Click!は、これまで地元の「下落合風景」をモチーフにした作品を描いていないのではないかと考えてきた。ところが、制作時期は不詳だが、『落合風景』(10号)のタブローが現存しているのが判明した。
 『落合風景』を所有していたのは、1978年(昭和53)に物故した三井物産社長をつとめた新関八洲太郎で、1972年(昭和47)に刊行された「東洋経済」7月号(東洋経済新報社Click!)に自身が好きな絵画として所有作品を紹介している。現在でも、同家に『落合風景』があるのかどうかは不明だが、出所がハッキリした安井作品だろう。
 いつごろ入手したのかは書かれていないが、新関八洲太郎はもともと洋画好きだったようなので、戦後、三井物産の役員全員がパージされ、いきなり常務取締役に就任したころかもしれない。それまでの新関は、アジア各国やオーストラリアなど海外勤務ばかりで、敗戦後は1946年(昭和21)の夏にようやく奉天(中国)から引きあげてくるような生活だった。したがって、ゆっくり展覧会や画廊などへ足を運んで絵画を観賞し、気に入った作品を購入できる機会や余裕はなかったように思われる。
 また、これは画題や風景モチーフとも関連するが、安井曾太郎が豊島区目白町2丁目1673番地から岡田虎二郎Click!の娘である岡田禮子Click!が住んでいた下落合404番地の敷地へ、山口文象の設計によるアトリエClick!を建設し転居してくるのは1935年(昭和10)のことなので、『落合風景』を描いているのはそれ以降の時代だと考えるのが自然だろう。
 さて、『落合風景』の画面を仔細に観察してみよう。明らかに東京地方へ大雪が降ったあと、その積雪が溶けはじめた翌日か、翌々日のころに描かれているとみられる。なぜ大雪だったのがわかるのかというと、面積が小さめな棒杭の上の切り口にまで積雪がかなり残っており、中途半端な降りの雪ではこのような残雪の風情が見られないからだ。棒杭が、半ば埋まるほどの積雪だったのではないだろうか。また、なぜ大雪が降った日のあと、それが溶けはじめたころに描いているのがわかるのかというと、周辺の樹木の枝葉には雪がほとんど残っていないからだ。すでに木々に積もった雪が溶けるか、あるいは風で振り落とされるかした、大雪が降った数日後の風景ではないだろうか。
 下落合へ転居した安井曾太郎が、各地を旅行せず比較的アトリエに落ち着いていたころ、あるいは好きな写生旅行が実質的にできにくくなった戦時中、さらには戦後になり1955年(昭和30)に死去するまで、東京に30cmを超える大雪が降った年は東京中央気象台によれば都合6回ある。転居して間もない二二六事件Click!があった1936年(昭和11)と1937年(昭和12)の2月、敗戦色が濃厚になりどこへも出かけられなくなった1945年(昭和20)の1月と2月、戦後にようやく食糧難の時代が終わろうとしていた1951年(昭和26)の2月、そして安井曾太郎が死去する前年の1954年(昭和29)1月の6回だ。
 この中で、1945年(昭和20)の1月に降った大雪の風景作品は、すでに拙記事でもご紹介している。同年1月に制作された、中野区上高田422番地に建つ耳野卯三郎Click!アトリエの丘上に立ち、妙正寺川越しに西落合から下落合に連なる丘陵を眺めた宮本恒平Click!『画兄のアトリエ』Click!だ。戦争も末期なので、すでに旅行は禁止され、軍部への協力に消極的な画家たちは、絵の具やキャンバスなど画材の配給Click!も満足に受けられずに、アトリエにあるストックの絵の具や画布、ときに板などを用いて静物画や肖像画を画室で描くか、アトリエ周辺を散策して気に入った風景を写生するしかなかった。『落合風景』は、安井曾太郎が戦争末期にあわただしく中国にいた関係から戦時中の作品とは考えにくいが、同様に画材が入手しにくく旅行どころではなかった敗戦直後に描かれているのかもしれない。
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近衛町酒井邸19310202と林泉園谷戸.jpg
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 『落合風景』は、陽光(光源)が明らかに左手から射しているが、棒杭や樹々の影が描かれていないので晴天の日とは思えない。雲を透かした光線から、画面の左手が南側あるいは南に近い方角だろう。棒杭が並ぶすぐ向こう側はけわしい崖地になっているようで、急斜面から生える樹木の枝が左手のすみに描かれている。また、谷とみられる窪地をはさんだ向かい側にも木々が繁っているようで、やはり同じような崖地とみられる少し離れた急斜面に樹木が密に生えている様子が、画面上部の描き方から想定できる。このあたり、さすがに安井曾太郎はバルールが正確だ。このように画面を観察してくると、下落合の特に近衛町にお住まいの方なら、すでに描画ポイントがおわかりではないだろうか。
 安井曾太郎は、自宅を出て『落合風景』を描いてはいない。溶けはじめた雪で、ぬかるんだ道路を無理して歩くような仕事ではなく、自宅西側(おそらく南西端)の庭先にイーゼルを立て、深く落ちこんだ林泉園Click!からつづく谷戸を、南西の方角に向いて写生をしている。また、この作品は死去する直前の1954年(昭和29)の1月に描かれたものでもない。なぜなら、1954年(昭和29)には地下鉄・丸の内線の掘削工事がはじまっており、そのトンネル工事で出た大量の土砂を運び、ちょうど現在のおとめ山公園Click!にある弁天池Click!の北側あたりから安井曾太郎アトリエのある西側にかけ、大蔵省の官舎を建設するために深い谷戸の埋め立て工事が進捗していたからだ。
 この位置の谷戸については、近衛町Click!が開発される直前、1922年(大正11)に中村彝Click!アトリエに立ち寄った清水多嘉示Click!が描いた『下落合風景』Click!や、安井曾太郎アトリエの南隣りに建っていた酒井邸Click!の、庭先で撮影された家族写真などでもすでにご紹介している。安井曾太郎の『落合風景』が、もし1939年(昭和14)以前であれば、谷戸の“対岸”は御留山Click!つづきの相馬孟胤邸Click!であり、1940年(昭和15)以降であれば東邦生命Click!による開発地、すなわち同年に淀橋区へ提出された同社の「位置指定図」Click!をもとにした宅地造成Click!が進んでいたはずだ。
 安井曾太郎の『落合風景』が、戦前・戦中・戦後のいずれの作品かは不明だが、ことさら三井物産の新関八洲太郎が内地へ引きあげたあと、1946年(昭和21)の夏以降に入手したらしい点を考慮すると、戦後に開催された美術展、あるいは個展や画廊などで見かけた作品ではないだろうか。1945年(昭和20)の冬、安井曾太郎は前年から中国へ出かけており、帰国するのは3月をすぎたころで、すかさず同月に埼玉県大里郡へ疎開しているので、同年の大雪の日に『落合風景』を描けたとはタイミング的にも考えにくいのだ。
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 安井曾太郎は下落合に画室を残したまま、1949年(昭和24)には湯河原のアトリエClick!(旧・竹内栖鳳アトリエ)へ移り、下落合ではあまり制作しなくなるが、東京藝大の教授はつづけており、同時に日本美術家連盟会長や国立近代美術館評議員などにも就任しているので、湯河原と下落合を往復するような生活だったろう。したがって、大雪が降った画面の風景は、消去法的に考えれば1951年(昭和26)2月に制作された可能性が高い……ということになるだろうか? このころ、安井曾太郎は『画室にて(夫人像)』『孫』など家族の人物画を多く手がけており、身のまわりの人物や風景にも画因が向きやすかったのではないかと思われる。ただし、そのころの風景画にしては、『落合風景』はかなり写実に寄りすぎているようにも思えるが、画廊に依頼された「売り絵」を意識していたとすれば、出展作品とは異なり気負わず気軽に描いた画面なのかもしれない。
 美術評論家の松原久人は、1956年(昭和31)に美術出版社から刊行された『安井曽太郎と現代芸術』で、安井曾太郎による風景画を第1期から第17期までと分類しているが、それによると『落合風景』が戦後に描かれているとすれば、第16期と第17期の中間あたりに位置するタブローということになるだろうか。第16期は埼玉県大里郡への疎開時代で、下落合へ帰る1947年(昭和22)までであり、第17期は熱海来之宮や湯河原時代で1955年(昭和30)に死去するまでということになるが、この間も下落合のアトリエは存続しており、二度にわたる山手大空襲Click!からも安井邸は焼けずに残っていた。したがって、東京ですごすときは常に下落合の近衛町にいたはずだ。
 また、美術評論家の徳大寺公英は安井曾太郎の死後、同年に出版された『安井曾太郎論集』(美術出版社)収録の、「安井曾太郎氏のレアリスム」で次のようにいう。
  
 氏のレアリスムは対象の把握において客観的、合理的ではなく、主観的、情緒的なのである。安井氏は氏自身のレアリスムを自ら説明して「自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンバスにはりつけたい。樹を描くとしたら、風が吹けば木の葉の音のする木を描きたい。自動車が通つている道をかくのだつたら、自動車の通る道をかきたい。人の住むことの出来る家、触れば冷い川、灌木の深さまでも表したい。云々」(一九三三年)と述べている。如何にもプリミティヴな言葉である。これによって分るように、氏はモデルニスムの画家の陥つているような観念の過剰を知らない。モデルニスムと日本画との折衷による表現形式自身プリミティヴであり、それは極めて常識的な、日本的な、氏自身の感情に基づく自然観照とその表現なのである。このようにして氏のユニークな絵画様式が打ちたてられたのであり、氏はこれを現代的なレアリスムといつているわけなのである。そして安井氏の絵画のあらゆる限界もここにあるといわなければならないのである。
  
 「モデルニスム」とは聞きなれないワードだが、スペイン語の「Modernismo」(仏語のアールヌーボーと訳される場合が多い)、あるいは英語の「modernism」と同義で用いていると思われ、ここでは「モダンアート」か「近代主義絵画」とでもいうような意味だろう。
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 わたしは、安井曾太郎アトリエを見たことがなく(のちには新築した邸に子孫が住まわれていた)、とうに地下鉄・丸の内線の土砂で埋め立てられ、その上に建つ大蔵省の官舎しか知らないので、『落合風景』の描画位置はこの一画だとピンポイントで規定するのは難しい。

◆写真上:新関八洲太郎が所有していた、安井曾太郎『落合風景』(制作年不詳)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に中村彝アトリエのある林泉園つづきの谷戸を描いた清水多嘉示『下落合風景』(清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様による)。は、1931年(昭和6)2月2日に安井曾太郎アトリエの隣家である酒井邸から、庭の家族がいるテラス越しに深い林泉園谷戸を撮影した写真(AI着色)。は、1944年(昭和19)に下落合のアトリエで『安倍能成氏像』を描く安井曾太郎。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安井アトリエと想定描画ポイント。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日撮影の安井アトリエ。左手(西側)の赤土がむき出しの空き地は、相馬邸を解体し東邦生命が開発する新興住宅地。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った安井アトリエ。
◆写真下:1935年(昭和10)撮影の山口文象設計による安井曾太郎アトリエ(2葉AI着色)。

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杉邨ていと久生十蘭の佐伯アトリエ。 [気になる下落合]

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 1枚の興味深い写真(AIエンジンにより着色)が残されている。1934年(昭和9)6月に、三岸好太郎・節子夫妻Click!の野方町上鷺宮407番地Click!にあった旧アトリエClick!で撮影されたものだ。左には、1ヶ月後に急死する三岸好太郎Click!が、右端には当時、山本發次郎Click!が集めた佐伯祐三Click!作品の画集を出版しようと企画中だった編集者の國田弥之輔がいる。そして、中央にいる女性がハーピストの杉邨ていClick!だ。
 おそらく、杉邨ていが國田弥之輔と連れだって三岸アトリエを訪問しているのは、翌々年の1937年(昭和12)に座右寶刊行会から出版される『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(限定500部)の取材なのかもしれない。1930年協会Click!から独立美術協会Click!への流れで、國田は会員だった三岸好太郎Click!に訊きたいことでもあったのだろうか。三岸アトリエを紹介したのは、三岸節子Click!と知り合いで、当時は芝区新橋1丁目21番地に住んでいた佐伯米子Click!だとみられる。ちなみに画集の出版を引きうけた、座右寶刊行会の社長だった後藤真太郎の住所は下落合2丁目735番地、すなわち昭和初期に自邸の建て替えで一時的に住んでいた、村山知義・籌子アトリエClick!と同一番地だ。
 佐伯祐正・祐三兄弟Click!の姪である杉邨ていは1927年(昭和2)8月、2回めの渡仏である佐伯一家Click!とともに、シベリア鉄道に乗ってパリへと向かっている。すでにご存じかと思うが、1928年(昭和3)の夏に夫と娘をフランスで相次ぎ亡くした佐伯米子Click!は、下落合2丁目661番地のアトリエClick!にもどってきてはいない。帰国直後から前記の芝区新橋1丁目21番地、つまり土橋Click!にあった池田象牙店Click!の実家で暮らしている。夫と娘との想い出が詰まった、下落合のアトリエではすごしたくなかったのだろう。実家暮らしは、「美術年鑑」によれば1936年(昭和11)までつづき、翌1937年(昭和12)には下谷区谷中初音町1丁目20番地に転居している。そして、佐伯米子が下落合のアトリエへもどってくるのは、「美術年鑑」によれば翌1938年(昭和13)になってからのことだ。
 この間、下落合の佐伯アトリエには誰が住んでいたのだろうか? わたしは、杉邨ていが久生十蘭の母親・阿部鑑といっしょに帰国した1932年(昭和7)から、佐伯米子が下落合にもどる直前の1937年(昭和12)までの5年間のどこかで、彼女が借りて住んでいたのではないかと想定している。もちろん、この間に杉邨ていは演奏活動を含め、大阪と東京の間を頻繁に往復していたとみられるが、東京における拠点は下落合の佐伯アトリエではなかっただろうか。大きなハープを置くのに、アトリエの広めなスペースはもってこいだ。これには、もうひとつの重要な証言がある。
 帰国後、東京での住まいの記録がなく、昭和初期にはハッキリしない杉邨ていの暮らしだが、1937年(昭和12)になると牛込区矢来町の牛込荘にいたことが、石田博英の証言から明確になる。つまり、佐伯米子が下落合のアトリエへもどると決意した直後、彼女は矢来町へと転居している可能性が高いことだ。1970年(昭和45)に大光社から出版された石田博英『明後日への道標』には、1937年(昭和12)に杉邨ていと同じ牛込荘に住んでいた石田が、彼女の部屋で巨大なハープと出版されたばかりの國田弥之輔・編『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』を見せられ、以来、芸術(特に美術)に魅せられたと書いている。すなわち、その少し前まで同画集を企画・出版するために、國田弥之輔は佐伯祐三の姪である杉邨ていを東京での足がかりに、佐伯米子の実家である池田家Click!や佐伯の関係者に取材、あるいは原稿を依頼してまわっていた可能性が高いのだ。冒頭の写真も、佐伯米子に紹介されたのか、そのような取材プロセスでの1枚ではないだろうか。
 そして、パリで杉邨ていと交際していたとみられる久生十蘭Click!が帰国するのは、1933年(昭和8)になってからであり、翌1934年(昭和9)にはさっそく新劇の拠点Click!だった早稲田大学Click!大隈記念講堂Click!で「ハムレット」を上演している。以降、久生十蘭は演劇の分野で活躍しているが、1935年(昭和10)前後から小説も発表するようになっていく。それら小説の中には、地域としての「落合」や楽器の「ハープ」、「絵描き」、「アトリエ」などのキーワードをよく見かけるのが、以前から非常に気になっていた。
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 たとえば、1939年(昭和14)に発表された『昆虫図』には、アトリエで暮らす貧乏絵描きたちが登場している。隣り同士のアトリエに住む、一方の絵描きの妻殺しが同作のテーマだが、画家のアトリエが建ち並んでいた落合地域の風情を感じるのはわたしだけではないだろう。戦後の1947年(昭和22)に発表された『予言』では、「落合」と「ハープ奏者」双方のキーワードが登場している。登場人物の「石黒」は、「落合にある病院」をうまく経営しており、絵描きの「安部」はステージ上で「娘がいいようすでハープを奏いている」会場へいき、ピストルで自分の胸を撃って死にかけるが、フランスへは「船はいやだから、シベリアで行く」などと、杉邨ていや佐伯一家のような旅程を病室で語っている。
 そして、1946年(昭和21)に発表された久生十蘭『ハムレット』では、下落合の情景がより詳細に記されている。もっとも、『ハムレット』の原型となった『刺客』(1938年)の舞台は、南伊豆にある「波勝岬」(ママ:波勝崎)にある城のような大邸宅であり、下落合の情景はどこにも登場しない。では、筑摩書房版の『ハムレット』より、少し引用してみよう。
  ▼
 小松の父は外交官として長らく英国におり、落合の邸は日本でただ一つの純粋なアングロ・ロマネスクの建築で、その書庫は大英図書館と綽名されたほど有名なものでしたので、こういうディレッタンティズムを満足させるにはまず十分以上だったのです。(中略) 翌朝早く家を出てバスで落合まで行き、聖母病院の前の通りを入って行くと、突当りに小松の邸が見えだしました。数えてみますとあれからちょうど二十八年たっているわけでしたが、家の正面がすこし汚れ、車寄せのそばに防空壕が掘ってあるほかなにもかもむかしどおりになっていました。
  
 落合地域にお住まいの方ならすぐにピンとくるが、「聖母病院の前の通り」を(西へ)入っていくと突き当りは第三文化村Click!になる。そこに豪壮な「アングロ・ロマネスク」の意匠をした「小松の邸」が建っていたことになっているが、戦前、そのような建築が第三文化村にあった事実はない。強いていえば、「聖母病院の前の通り」から南北に通う「八島さんの前通り」Click!(星野通りClick!)へとでる手前の左手角地には、落合地域では二度にわたる山手大空襲Click!からも焼け残ることになる、やはり第三文化村のエリア内にあたる石材を多用して堅牢な吉田博・ふじをアトリエClick!が建っていた。
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 同じ筑摩書房の、都築道夫『久生十蘭-「刺客」を通じての史論-』から引用しよう。
  
 改作<『ハムレット』>は東京の落合――聖母病院の前を入ったところ、というから、現在の新宿区中落合二丁目で、いわゆる目白文化村のとば口あたり。昭和二十年五月二十五日の大空襲(あのへんは四月十四日<ママ>にも被害をうけているけれど、作ちゅうの記述から推理すると、その日はとうに過ぎている)の夜が、クライマックスになっている。(< >内引用者註)
  
 「四月十四日」は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が正確だが、『ハムレット』は5月25日夜半の第2次山手空襲Click!までが物語の終盤となっている。そして、下落合に昔からお住まいの方ならお気づきだろう。第三文化村へと向かう「聖母病院の前の通り」の途中、中島邸Click!(のち早崎邸=旧・鶏舎Click!)と辻邸の間の路地を入ると、40mほどで佐伯アトリエの門前にたどり着けたのは1938年(昭和13)以前のことだった。
 つまり、やたら聖母病院界隈の描写に詳しい土地勘のある久生十蘭が、聖母病院前のバス停(当時は関東乗合自動車Click!「国際聖母病院前」Click!)で降り、聖母坂Click!を少し上ったところを左折して「聖母病院の前の通り」を歩いたとすれば、眼のすみで左手の奥にある大きな吉田博・ふじをアトリエClick!を認めながら、手前で路地を(北へ)右折して佐伯アトリエの門前へと、すぐに立つことができたはずだ。だが、それは1938年(昭和13)以前の話で、それ以降は私道の路地は、旗竿地だった高田邸の門やアプローチとしてふさがれてしまい、佐伯アトリエへは南側(病院側)から入ることができなくなった。
 つまり、この私道だった路地がふさがれる前、それは久生十蘭がフランスから帰国し、杉邨ていが佐伯アトリエを東京の拠点として使っていたとみられる、1933年(昭和8)から1936年(昭和11)までの3年間、久生十蘭にしてみれば通いなれたバス路線であり道筋ではなかったろうか。このふたりが、いつまで付き合っていたのかは不明だが、杉邨ていは1944年(昭和19)に虫垂炎から腹膜炎を併発し31歳で早逝しているので、少なくとも交際は1942年(昭和17)に久生十蘭が結婚する以前までなのだろう。
 どなたか、1935年(昭和10)前後に佐伯アトリエからのハープの音色をご記憶の方、または親世代がそんなことをいっていたという伝承をご存じの方はおられないだろうか?
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 このような観点から『ハムレット』を読み直すと、どこか一部に杉邨ていへのトリビュートを含んでいるように感じてしまうのは、はたしてわたしだけだろうか。もちろん、久生十蘭は1946年(昭和21)に同作を執筆していた際、通いなれた「聖母病院の前の通り」の佐伯アトリエへと右折する路地が、とうにふさがれていたことなど知らなかっただろう。

◆写真上:1934年(昭和9)6月に撮影された、三岸アトリエの杉邨ていと國田弥之輔。
◆写真中上は、1927年(昭和2)8月の渡仏直前に大阪の光徳寺で撮影されたAI着色Click!による14歳の杉邨てい(右)と佐伯米子(左)。は、パリへ到着しアトリエを借りたばかりの佐伯一家と杉邨てい。は、1937年(昭和12)に國田弥之輔の編集で刊行された『山本發次郎氏蒐集 佐伯祐三画集』(座右寶刊行会)の奥付。
◆写真中下は、1966年(昭和41)に雑誌「新評」10月号に再録された久生十蘭『ハムレット』とその挿画。は、久生十蘭()と杉邨てい()。
◆写真下は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる青柳ヶ原(のち聖母病院)へと抜けられる養鶏場の路地。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる中島邸と辻邸にはさまれた路地。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる旗竿敷地の高田邸の門からアプローチへとふさがれた早崎邸(旧・中島邸)東側の路地。
おまけ
 1945年(昭和20)5月17日にF13Click!から撮影の佐伯アトリエと周辺。アトリエから北側と西側の第三文化村の大半は延焼していそうだが、吉田アトリエから南は焼けていない。
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福沢諭吉の幽霊は乃木希典に猛抗議したか。 [気になるエトセトラ]

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 以前、華族女学校Click!(のち学習院女子部Click!女子学習院Click!)の卒業生で、女優になった山川浦路Click!をご紹介していた。報知新聞の記者だった磯村春子が、同紙に連載していた「今の女」のインタビューに答えたものだが、帝劇で上演されるシェークスピア劇に出演していた彼女を、院長の乃木希典Click!は「河原乞食」と蔑んだ。
 院長の言葉を聞いた、山川浦路の同窓生だったお姫様(ひいさま)たちは、彼女を同窓会以外の集まりから締めだし、学校関連の催しすべてに出入禁止を通達する嫌がらせを行っている。また、同窓会へ出席する場合には、髪型(日本髪)やコスチューム(和装)にまで細かな注文をつけるという、いわば卒業生たちからの絶縁状を受けとった。ちなみに、山川浦路は新劇の女優なのでふだんから洋装であり、髪はうしろで束ねて巻きあげるかポニーテールのように背中へたらした、いわば今日的な装いだった。
 当時、日本における新しい演劇創造の先端を走っていた早大の大隈重信Click!が、乃木希典が口にした「河原乞食」というワードを聞いたら「きさま、なんばいうか!」と、学習院へ怒鳴りこんだかもしれないと書いたが、今回は同じく乃木希典のいる目白の院長館へ、大隈重信よりは一見穏やかそうだが軽蔑の眼差しを向けながら、「あんた、何ゆうてるんや!」とさっそくクレームを入れにいきそうな事件が起きている。今回のクレーマーになりそうなのは、残念ながら1901年(明治34)にすでに他界していた、時事新報社の社主で慶應義塾の塾長・福沢諭吉Click!(の幽霊)だ。
 1907年(明治40)に、時事新報社はシカゴ・トリビューン社からの呼びかけに応じて、同社が企画していた「世界美人写真競争」へ参加することになった。今日の「ミス・ワールド」や「ミス・ユニバース」のひな型のような催しだが、当時は本人が出席して舞台に立つことはなく、また水着審査などももちろんなく、未婚や既婚を問わない写真応募のみによる審査だった。しかも、条件としては“美”を職業にしているプロの芸者や女優、モデルなどは応募できず、あくまでも素人でアマチュアの一般女性が対象だった。そして、写真館で撮影されるような鮮明な画像が応募条件だった。
 今日のように、なぜ女だけに「美人コンテスト」があって男にはないの?……というような、フェミニズム的な問題意識の視座は存在せず、他の国々ではむしろ「世界美人写真競争」で有名になり、より有利な職業やポジション、あるいは結婚を実現できる可能性を考え、女性たちが積極的に応募するような時代のイベントだった。当時の新聞を参照すると、応募者は地元の米国を中心にヨーロッパ各国にまでまたがっている。
 日本で写真審査を担当したのは、岡田三郎助Click!(洋画家)をはじめ嶋崎柳塢(日本画家)、高村光雲Click!(彫刻家)、新海武太郎(彫刻家)、三宅秀(医師)、三島通良(医師)、坪井正五郎Click!(人類学者)、中村芝翫Click!(歌舞伎役者)、河合武雄Click!(新派役者)、大築千里(写真家)、前川謙三(写真技師)、高橋義雄Click!(美術鑑定家)、前田不二三(容貌研究家)の男ばかり13名だった。美術関係者が審査員になるのはなんとなくわかるが、考古学者で人類学者の坪井正五郎とか、動きや所作を見るわけでもないのに歌舞伎役者や新派の俳優たち、頭蓋骨の形質でも観察するのか医療関係者たち、はては写真家や写真技師にいたっては「世界美人写真競争」とどのような関係があるのか不明だ。ひょっとすると、写真の修正や加工の小細工を警戒したのかもしれないが。
 応募条件の写真館撮影や、審査員に写真家あるいは写真技師が混じっていたことで、すでに混乱の原因はこのときからはじまっていたといえるだろう。お気づきの方もいると思うが、この「世界美人写真競争」に応募してみようと思ったのは、当の女性本人ばかりでなく、写真館の主人が自分の撮影した作品で応募できると勘ちがいしてしまったのだ。したがって、本人はまったく知らず、当人の応募意志とは関わりのないところで、「美人」たちの写真が時事新報社へ集まることになってしまった。
 時事新報社に集合した、審査員たちによる「美人」審査は1年がかりで進み、1908年(明治41)3月5日の時事新報には、1等の応募写真入りで審査結果が発表された。
  
 時事新報社の募集美人写真/一等は末弘ヒロ子/美人写真第二次審査の結果
 去月二十九日の第二次即ち最終審査において、全国第三等まで当選したる美人写真は左の三名にして、愈々そのまゝ確定したるにつき、こゝに写真募集に参同せられたる全国各新聞社の尽力を謝すると同時に、諸者諸子に披露することゝせり/小倉市室町四十二 直方 四女 一等 末弘ヒロ子(十六)/仙台市東四番町 皈逸 娘 二等 金田ケン子(十九)/宇都宮市上河原町五九 三等 土屋ノブ子(十九)/次に次点者中得点最も多かりし者を挙げれば左の如し/四 三重県飯坂町 尾鹿貞子(廿二)/五 東京市麹町区三番町 武内操子(十七)/六 茨城県水戸市 森田ヨシ子(廿二)/七 東京市日本橋区中洲 鵜野ツユ子(十九)
  
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 1等の末弘ヒロ子自身はもちろん、当時は小倉市長だった父親の末弘直方は驚愕することになる。華族女学校の4年生だった末弘ヒロ子は、あと少しで同校を卒業できる予定だし、市長と同郷で親しかった侯爵・野津家の長男・野津鎮之助との婚約もまとまったばかりだった。乃木希典は、末弘ヒロ子をすかさず退学処分にしている。
 末弘市長は、婚約者の父親で陸軍元帥の野津道貫への釈明と、なぜ娘の写真が時事新報社に送られたのかを調査するために東京へやってきた。事情はすぐに判明する。東京で撮影した末弘ヒロ子のポートレートを、写真館が末弘家には無断で「世界美人写真競争」に応募してしまったのだ。また、旧知の野津家では特に問題にはされておらず(むしろ婚約者も父親もともに喜んでいたようだ)、どうしたら乃木希典の退学処分を撤回させられるかを検討し、立憲政友会の代議士・古賀庸蔵に相談している。古賀は、日露戦争では第二軍司令官として乃木と親しい、陸軍元帥・奥保鞏に仲立ちを依頼することにした。
 こうして、末弘小倉市長と野津元帥、奥元帥に古賀代議士の4人は、乃木希典Click!がいる目白の院長館で直談判を行うが、乃木は「(華族女学校は)美人をつくる学校じゃない」と、本人にまったく責任がないにも関わらず退学処分の撤回をかたくなに拒否した。そのときの様子を、1963年(昭和38)に小倉市が出版した『小倉六十三年小史』から引用しよう。
  
 乃木院長にすれば、二人の息子を日露戦役に喪い身辺とみに寂寥を覚える時、学習院で華族の青少年と起居を共にするのは唯一の慰めであった。然し同じ学習院でも女子部の方は院長としてあまり強い関心を持っていなかった。質実剛健を旨とする武士道を叩きこむには華族少女は不向きな相手である。それにその前年、女子学部長下田歌子の辞職問題があり、皇族、華族間に生まれた選民意識や、女性間の複雑微妙な葛藤や、嫉妬による権謀術策等には弱りきっていたときだから、末弘ヒロ子の美人入選はひどく乃木院長の気に障ったのも無理はなかった。その日、末弘と古賀が野津について彼の邸宅に行くと/「今日は全く悪い日だった、乃木にはヒロ子さんのことよりも、まだ気になることが多すぎるのだ。(以下略)」
  
 下田歌子は、軍人の乃木希典とは女性の自立や自活をめぐって教育方針がまったく噛みあわず、徹底的に対立して当局に辞表をたたきつけた人物だ。
 このあと、末弘小倉市長は娘のヒロ子をともなって小倉へと帰っている。これに黙っていなかったのが、時事新報社をはじめ新聞各紙だった。本人のあずかり知らぬところで応募がなされたうえに、「学習院だからといつて日本一の美人に入選した故を以て退学を命じるとは、まつたくの没義道である」とし、乃木希典を激しく批判している。
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 さて、小倉に帰ったふたりは、今度は末弘ヒロ子をひと目でも見ようとする群集に市長官舎を取り囲まれている。また、彼女あてに同性からの激励の手紙が全国からとどいたが、末弘市長によりすべて開封せずに焼却された。彼女が病気だった兄の見舞いに、馬借の小倉市立病院まで外出しようとすると、市長官舎から病院までの沿道に見物人が並んだというから、すさまじい評判ぶりだったようだ。特に京町から常盤橋の広場は、大勢の市民たちで埋めつくされたと『小倉六十三年小史』は伝えている。そして、実際に彼女を見た感想は、「かなり背が低く、少女のようだった」としている。
 翌1909年(明治42)の1月、時事新報社にシカゴ・トリビューン社から連絡が入り、「世界美人写真競争」の審査結果がもたらされた。その知らせによれば、末弘ヒロ子は第6位に入選したとのことだった。以下、コンテストの入選順位は第1位はいわずもがなの米国でマクエライト・フレー嬢、第2位はカナダのバイオレット・フッド嬢、第3位はスウェーデンのゼーン・ランドストーム嬢、第4位はイングランドのアイビー・リリアン・クローズ嬢、第5位はスペインのセーリタ・ドナハース嬢、第6位が日本の末弘ヒロ子嬢、第7位がノルウェーのケート・ホーウィント嬢、第8位がスコットランドのネッケー・チャドック嬢、第9位がアイルランドのダビン・ホワー夫人(既婚)という結果だった。
 その後、末弘ヒロ子と野津鎮之助とは結婚するが、おかしなことにその媒酌人をつとめたのが乃木希典・静子夫妻だった。当時は、学習院内のゴタゴタで気が立ち、いつになく感情的になっていたのが、さすがに自身でも事情をよく斟酌せず退学処分にし、あとから時事新報社のいうとおり「没義道」だとかなり気がとがめていたものか、当時の報道や周囲からの批判で遅まきながら収拾を図りたかったのか、それとも福沢諭吉(の幽霊)が連夜抗議に枕辺を訪れたのかはさだかでないが、乃木希典Click!が仲人の仕事を引き受けるのはめずらしいことだった。のちに、「乃木希典の大岡裁き」などといわれるが、地元・小倉における末弘家の動向や、東京の古賀代議士あるいは野津家などの証言からすると、「大岡裁き」は後世につくられたまったくのフェイク美談だろう。
 大磯の高田保Click!は、『第3ブラリひょうたん』(1951年)にこんなことを書いている。
  
 ミス日本に当選した末弘嬢は、その後間もなく、日露役の司令官将軍だつた野津大将の息子さんの夫人に迎えられたように記憶しているが、今でも健在でいられるかどうか。最近選ばれたミス日本と二人会わせてみたら、この間約半世紀の時代の距たりなどはつきりして面白いだろうとおもうが、どこの雑誌社でもまだやつていない。
  
 ちなみに、1950年度(昭和25年度)の「ミス日本」は山本富士子だった。高田保もまったく勘ちがいをしているが、シカゴ・トリビューンと時事新報が実施した「世界美人写真競争」は、未婚・既婚を問わない世界各国の女性写真による審査で、第9位にアイルランドの代表で既婚者(ホワー夫人)の女性がいるように、未婚者の「ミス」には限定していない。また、末弘ヒロ子は華族女学校在学中から、父親と同郷で親しかった野津家の野津鎮之助と婚約していたのであり、ことさら「ミス日本」に選ばれたから結婚したのでもない。
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 戦後、末弘ヒロ子に会った人物がいる。JAZZの山下洋輔Click!(pf)で、彼はヒロ子の姉の末弘直子と結婚した建築家・山下啓次郎の孫にあたる。山下の小説『ドバラダ門』では、腰が曲がりリューマチに罹患していた彼女のことを、ひそかに「カイブツ」と呼んでいた。

◆写真上:学習院大学内に保存されている、乃木希典が起居していた「乃木館」。
◆写真中上は、1905年(明治38)撮影の華族女学校卒業アルバムで軍服姿が乃木希典。は、時事新報社にとどいた末弘ヒロ子のポートレート。は、「世界美人写真競争」の審査結果を伝える1908年(明治41)3月5日刊の時事新報。
◆写真中下は、同コンテストに応募してきた女性4人の肖像。氏名は不詳だが、中には既婚者も含まれていたとみられる。下左は、当時は小倉市長だった末弘直方。下右は、のちになぜか結婚の仲人を引き受ける院長時代の乃木希典。
◆写真下上左は、1963年(昭和38)に出版された『小倉六十三年小史』(小倉市)。上右は、新聞各紙のセンセーショナルな記事を集めて1968年(昭和43)に出版された高田秀二『物語特ダネ百年史』(実業之日本社)。中左は、1951年(昭和26)に出版された高田保『第3ブラリひょうたん』(創元社)。中右は、1990年(平成2)に出版された山下洋輔『ドバラダ門』(朝日新聞社版)。は、1950年度の初代「ミス日本」に選ばれた山本富士子。

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誤った位置にある目黒の化坂(ばけさか)。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログをはじめたころ、ずいぶん以前の話になるが、東京方言に残る「バッケ」Click!の語源や地形を調べ、またバッケ坂Click!が「オバケ坂」や「バケ坂」、「幽霊坂」へと転訛(転化)したのではないかという仮説を立てて検証したことがあった。
 下落合(現・中落合/中井含む)と上高田のバッケが原Click!との境界に残る、「バッケ坂」Click!をはじめ、下戸塚(現・早稲田/高田馬場界隈)に昭和初期まで残っていた江戸期からの小名で字名となった「バッケ下」Click!や、目白台に残る「幽霊坂」Click!など目白崖線の斜面沿いはもちろん、大森バッケ(八景)Click!や根津のオバケ階段Click!など、各地に残るバッケの地形について現地を歩きながら検証してきた。
 また、東京の市街地から外れ西部の郊外にかかると、バッケではなく「ハケ」Click!という表現に変わることも、大岡昇平Click!『武蔵野夫人』Click!にからめて何度か記事にしている。バッケやハケは、おしなべて崖地や急峻な斜面を意味する地勢用語であり、関東ロームClick!の下部に位置する露出したシルト層Click!と礫層のすき間から、湧水が噴出するような地層面や地形を指してそう呼んでいる。
 以前、都内に残るそのような地形や地名(小名や坂名など)を調べている際、当然、目黒区に残る「化坂(ばけさか)」にも注目した。ところが、目黒区八雲3丁目にある化坂は、とても急峻な斜面とはいえない緩斜面のダラダラ坂となっており、地形からではなく別の理由から「化坂」というネームがふられたのだろうと解釈して、調べる対象から外した憶えがある。ところが、八雲3丁目に目黒区が建立した「化坂」の碑が、そもそも設置する場所を大きくまちがえているらしいことが判明している。
 現在、「化坂」碑が建つ坂道は、耕地整理のあと昭和初期に拓かれた宅地用の新しい坂道であり、江戸期からつづく本来の化坂から東へ250m前後もズレているのだ。歴史に関するネームを、行政が一度まちがえると再び検証されることなく、エンエンとその誤りが踏襲されていく例は、雑司ヶ谷の金山Click!に小鍛冶工房をかまえた石堂孫左衛門Click!と、『高田町史』Click!や『豊島区史』(1951年版)で誤記された「石堂孫右衛門」Click!の例でも取りあげて書いたが、いまや目黒の地図上でも昭和の宅地造成のときに拓かれた、なんの関係もない新しい坂道が「化坂」と表記されるようになってしまった。おそらく、古くから同地域に住んできた人たちは、下落合における不動谷Click!と同様に、「化坂は、なんで東へいっちゃったんでしょうね?」と不可思議に思っているのだろう。
 さて、「あの土地から私たちが去った後に誤った場所に化坂の区碑が立」てられたと証言するのは、耕地整理後の間もない昭和初期(1936年ごろ)に、当の化坂に土地を購入して住んでいた一家だ。念のため、1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図を、いちおう“ウラ取り”で参照すると、証言者が語る化坂はすぐに見つかるが、「化坂」の区碑が建立されている現「化坂」は周辺の住宅地ともども、いまだ影もかたちも存在していない。
 同家の祖父は、東京帝大法科大学政治学科を卒業したあと、当時の内務大臣だった同じ政治学科卒の後藤文夫Click!による“引き”で内務省に入り、同時に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の夜間部に入学して、謡曲(流派Click!は不明)の勉強をするような人物だった。彼の妻は大分出身で、媒酌をつとめた同じ大分出身の後藤文夫から奨められた結婚相手だった。ここまで書けば、当時の内務省の人脈に詳しい方なら、誰だか特定できてしまうのかもしれないが、いちおう証言者が匿名を望んだのか姓は明かされていないので、とりあえず拙記事でもそれを尊重して踏襲したい。証言しているのは、1967年(昭和42)に生まれた同家の孫娘にあたる「博子」さんだ。
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 化坂に住居を決めたのは、博子さんの祖父が内務省の所用で深沢1丁目を訪れたあと、帰りがけに呑川沿いを歩き、しどめ坂の下に差しかかったところ、北側の丘陵地に竹藪と八重桜が満開の森を見つけたことにはじまる。このとき、祖父は自邸を建てる敷地を探しており、南向きの丘上から斜面に咲くみごとな八重桜の樹林を見て、ここに住みたいと考えた。誰の地所か確認しようと、さっそく近くの農家を訪ねている。すると、その農家の主人は「あそこはよしたほうがいいですよ」と忠告した。以下、2020年に竹書房から出版された川奈まり子『実話奇譚 怨色』収録の、「化坂の家」から引用してみよう。
  
 「昔は墓地だったんですから! それに、今じゃすっかり竹藪に隠れていますが、斜めに抜ける細い坂道があって、そこはバケサカっていって、この辺では誰も近づきません。ひとりぼっちでそこを通ると、十中八九、何かに足首をグイッと摑まれて、湧き水に引き込まれるんですよ!/だから私なんかも、子どもの時分から、バケサカにはなるべく行くな、特に絶対に一人で通ってはいけないと言われてきたもんで……」
  
 博子さんが、祖父母や親の世代から、繰り返し聞かされた昔話なのだろう。
 バッケ(崖地)に墓地が拓かれるのは、東京ではめずらしくないことで、下落合の六天坂Click!蘭塔坂(二ノ坂)Click!に沿った位置にも、大正末まで農家の墓地が設置されている。また、目白崖線つづきの小日向のバッケ沿いにも、江戸期から寺町となり急斜面には墓地が形成されている。これはバッケという江戸方言が、もちろん「オバケ」や「幽霊」を連想するからではなく、田畑や宅地にできない急斜面だからこそ、バッケ(坂)の周囲には墓地が形成されやすいのだろう。事実、目黒の「バケサカ」も等高線が密になった急斜面に通う坂道であり、農地として開墾しにくい場所だったのが歴然としている。
 近くの農家の証言にみえる「墓地」は、いまの川崎市にある平間寺(通称:川崎大師)の離れ墓地で、おそらく檀家が目黒近辺に多かったために設置されたとみられる。明治期に入ると、墓地は「魂抜き」して他所へと移転し、博子さんの祖父が土地を購入したころは、井戸がポツンと残る湧水が豊かな地所だった。
 祖父は、合理的な考え方をする人物だったので、農家の主人が語るような怪談を迷信としてまったく信用せず、八重桜が美しく南向きで眺望もすばらしい、バッケ(崖地)に通う化坂の土地をさっそく購入することに決めた。役所で土地の登記簿を調べてみると、確かに農家の主人がいったとおり、川崎大師が地主だということがわかった。
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 祖父は、川崎大師の僧侶をわざわざ呼びよせて地鎮祭を行っているが、その僧からも墓地跡のいろいろないわれを聞かされたという。いわく、化坂の坂下にある異様な色彩の花が咲くツバキの樹林へ、足を踏み入れてはいけないというのと、残されている井戸を使うぶんには障りはないが、埋めたり掘り返したりするとよくないという僧のアドバイスは、いちおう迷信を笑う祖父の代からも、おおむね家族間では守られてきたらしい。
 祖父が役所を退職し、能楽師として弟子を集めて能舞台を踏むようになった1960年代の後半、つまり博子さんが生まれる1967年(昭和42)ごろから、周辺には住宅が急速に建ち並びはじめている。400坪あった自邸敷地の半分に、国立東京第二病院(現・東京医療センター)に勤める看護師たちの入居を見こんだ、鉄筋コンクリート仕様の賃貸アパートを建設し、つづけて1975年(昭和50)には老朽化した日本家屋を解体し、洋館の自邸を新築することになった。ところが、家のリニューアルにともない、井戸を埋めツバキの樹林を伐採してしまったころから、さまざまな怪異が同家を襲いはじめる……という展開だ。
 怪異の詳細は同書を読んでいただくことにして、もう少し化坂の地形にこだわってみよう。谷間を流れる呑川(のみがわ)の北側につづく丘陵地は、豊かな湧水のせいか地図上では斜面の随所に湧水池らしい水色の池が描かれている。丘陵の下には等高線に沿って農道が通い、ところどころに丘上の街道筋へと抜ける坂道が開拓されている。しどめ坂の道筋もそうだが、化坂も丘上に通う街道筋へと抜けるため、地元の人々に踏みならされた細い山道のひとつだったのだろう。ちなみに、呑川は戦後に暗渠化されて、現在は通りの中央にグリーベルトと遊歩道のある「呑川本流緑道」となっている。
 呑川沿いには水田が拓け、川から離れるにつれて畑が多くなる。丘上もまた畑地だが、傾斜が急なバッケはあまり開墾されず、広葉・針葉樹林の記号が多い。そんな樹林帯を抜け、丘上の街道筋へと抜ける山道(坂道)のことを、江戸期から周辺では特に固有名をつけることなく、一般名称としてのバッケ坂と呼んでいたのだろう。バッケ坂という呼称が先か、平間寺の墓地が先でそこに通う坂道だからそう呼ばれたのかは、厳密には規定できないが(わたしはバッケ坂の呼称が先だと考えている)、それが墓地の存在ともからめていつからか「バケサカ(化坂)」と呼ばれるようになり、地域の小名にも採用されているのではないか。
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 現在でも「く」の字の化坂は、坂の中途まで緑の多い宮前公園があり、宅地開発とともに傾斜角がかなり修正された様子が見える。だが、昭和初期であれば鬱蒼とした樹林におおわれ、緑のトンネルのような風情だったろう。ちょうど、下落合の野鳥の森公園Click!がある急坂が、わたしの学生時代までハイキングコースの山道と見まごうようなバッケ坂(通称「オバケ坂」Click!)だったのと同様に、江戸東京方言であるバッケの意味が通用しなくなった時代のどこかで、「オバケ坂」や「幽霊坂」のケースと同じく、バッケ坂が「化坂」へと表記を変えたように思われるのだ。ただし、目黒の化坂ケースは証言類からすると、ほんとうにお化けが出たため、転訛(転化)がわりと早めに起きているのかもしれないけれど。w

◆写真上:ツバキ林があった、化坂の坂下から「く」の字屈曲部の坂上を眺めた現状。右側は宮前公園で、八雲氷川明神とともに出雲の影Click!が濃い地域だ。
◆写真中上は、ピンボケで恐縮だが1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる本来の化坂の位置と目黒区が「化坂」と誤って規定した坂道の位置。中上は、ちょうど博子さんの祖父が自邸の敷地を決めたころ、1936年(昭和11)の空中写真にみる化坂と田畑だらけだった周辺の様子。中下は、同年の別角度から撮られた空中写真にみる化坂界隈。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる化坂界隈。
◆写真中下中上は、博子さんが生まれたあと1975年(昭和50)と1979年(昭和54)に撮影された空中写真にみる化坂。中下は、化坂中腹から坂上を見上げたところで右手は宮前公園。は、化坂の坂上から坂下を見下ろした現状。
◆写真下は、化坂沿いに設置された夜の宮前公園の緑地。は、下落合(現・中井2丁目)の西端に通うバッケ坂。は、下落合の野鳥の森公園脇に通うオバケ坂(2006年撮影)。
おまけ
 落合地域の周辺に、昭和初期あるいは戦後まで残っていた「バッケ」地名。は、住所表記の字名として残っていた戸塚町(大字)下戸塚(字)バッケ下(現・新宿区西早稲田3丁目)。は、下落合の南あたる戸塚町上戸塚(現・新宿区高田馬場4丁目)に残った「バッケが原」。は、下落合の西側に隣接する中野区上高田に残った「バッケが原」と「バッケ坂」。
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吉川英治が描く松廼家露八への眼差し。 [気になる下落合]

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 上落合553番地に家を建てて住んでいた吉川英治Click!は、せっかく新築した木の香りも高い邸にはだんだん寄りつかなくなり、旅先や温泉地ですごすことが多くなっていく。浪費家でときにヒステリーを起こす、やす夫人から逃げるためだった。
 吉川英治は一時期、下落合にも住んでいるようだが、上落合で建築中の自邸を監督する仮住まいの借家だった可能性が高そうだ。上落合553番地(現・上落合2丁目)の新邸は、少なくとも1928年(昭和3)には竣工していたとみられ、時事通信社が出版していた『時事年鑑』などでは、1931年(昭和6)までの居住が確認できる。1932年(昭和7)半ばには、杉並町高円寺1016番地に転居しているので、せっかく建てた新邸には彼の30歳代後半の時期、わずか5年弱しか住まなかったことになる。
 そもそも、吉川英治が上落合に自邸を建設したのは、やす夫人の浪費癖を抑えるためだった。貯金をぜんぶはたいて家を新築してしまえば、やす夫人は実質的にムダづかいができなくなるという算段だったが、それでも周囲に迷惑をかける浪費癖は収まらず、おカネさえあればそれをすべてつかい切るまでの散財をやめなかった。自由につかえるカネがなくなると、癇癪を起こしては夫にまとわりつくため、吉川英治はまったく仕事に集中できなかったようだ。今日的な病名でいえば、カネを目の前にするとなんらかの強迫観念にとらわれる精神疾患の一種(パーソナリティ障害)ともいえそうだが、結局、やす夫人とは1937年(昭和12)に協議離婚することになる。
 晩年には「九星気学」に凝っていた池波正太郎Click!は、この上落合時代の吉川英治について随筆『吉川氏の星』(1982年)の中で、次のように書いている。
  
 人間の一生は、衰運五年、盛運四年の繰り返しによっていとなまれてゆく。吉川氏の年譜によると昭和五年(三十八歳)の項に「家事かえりみず、内事複雑、出奔して沿革の温泉地を転々」とある。この年は衰運の二年目で、九紫の星は暗剣殺と重なってしまう。どうにもならぬ年まわりだ。おそらく、その前年から苦悩が始まっていたにちがいない。
  
 池波正太郎はこう書くが、妻を選んで生活をともにした結果、そもそも性格から生活観までがまったく合わなかったわけで、「九紫の星」に起因するかどうかは不明だが、責任の一半は確実に吉川英治自身の「人を見る眼」にあるのだろう。
 吉川英治は、上落合時代に前期の代表作となる、『松のや露八』の構想を練りはじめている。松廼家露八(まつのやろはち)は、新吉原Click!をはじめ各地の遊廓や花街Click!幇間Click!(太鼓もち)だった人物だが、もともとは幕府一ツ橋家の近習番頭取・土井家の長男という旗本格の家柄で、本名は土肥庄次郎といった。土肥庄次郎(松廼家露八)ほど、明治以降の小説や随筆に数多く記録された人物はいないのではないか。1895年(明治28)に『文学界』へ連載がスタートした、樋口一葉Click!『たけくらべ』にも早々に登場している。また、それだけ江戸東京では人気の高い幇間だったのだろう。
 土肥庄次郎は1833年(天保4)、小日向武島町(現・文京区水道1~2丁目)に生まれ、子どものころから剣術や槍術、砲術、馬術、泳術などを習わせられ、それぞれの腕前は免許皆伝並みだったというが、特に祖父・土肥半蔵が得意だった槍術に関しては、人に教えてまわるほどの腕だった。ところが、槍術を教えてまわると教授料の小遣いが手もとに入り、懐が温かくなると当時の若者たちがそうだったように新吉原へ入りびたり、特に幇間(太鼓もち)の芸技にあこがれて、ついには土肥家から勘当されてしまう。
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 家督は弟の土肥八十三郎が継ぐことになり、土肥庄次郎は両刀を腰に指して世を渡るよりは、遊芸の道で生きるほうが気が晴れると、吉原の幇間・荻江清太へ弟子入りしている。同時に、座敷長唄の一派として流行していた「荻江節」の荻江露友にも弟子入りし、荻江露八と名のるようになった。だが、同じ江戸市中で幇間として生きる荻江露八(土肥庄次郎)は、土肥家にとっては家名の恥っつぁらしで、面汚し以外の何者でもなかったため、1857年(安政4)のある日、小日向へ呼びだされて祖父や親から切腹を命じられた。ところが、介錯に名のりでた叔父・土肥鉄次郎の粋なはからいで、彼の首ではなく髷だけ落として坊主にし、庄次郎は死んだこととして「江戸処払い」(江戸追放)の処分で済んでいる。
 1857年(安政4)に大江戸をあとにした露八は、大阪や長崎、京などの遊廓や待合で幇間としてすごしているが、どの町々も露八の性にはあわず、明治維新とともに大江戸へひそかに舞いもどっている。そして、なぜか土肥庄次郎の本名にもどって彰義隊Click!に参加し、弟の土肥八十三郎が隊長をつとめる第一赤隊の「第一赤隊外応接係」という、珍妙な役職を与えられている。もちろん、ほかの隊にはこんな役職はなく、そのまま解釈すれば対外スポークスマンまたは応接・接待係、あるいは間諜の役割りもあったのかもしれない。弟の土肥八十三郎にしてみれば、太鼓もちになって勘当され、江戸を追放された兄を隊士に迎えるのに、隊内でもそのポジションにかなり苦労したのだろう。
 吉川英治の『松のや露八』では、弟の土肥八十三郎がなぜか「尊王攘夷」思想の持主で、江戸を出奔して倒幕に加わるという正反対の妙な展開になっている。もちろん、薩長政府流れの大日本帝国がつづく当時としては、彰義隊に肩入れをしたような小説は書きにくかったろうし、幕臣だった土肥庄次郎(松廼家露八)をかなり臆病で滑稽に描いている点も、薩長閥が生きていた当時の遠慮した表現なのだろう。もし同作が、大日本帝国が滅亡した敗戦後に書かれたとすれば、まったく異なる展開になっていたかもしれない。
 土肥庄次郎(露八)は、応接・接待係にしては常に最前線で戦っている。「隊外応接」だから、やってきた敵と最前線の急先鋒として常に対峙するのは、「接待係」だからしょうがないのかもしれないが、まずは黒門Click!を出て忍川の三橋で敵を迎撃している。畳を何枚か重ねてバリケードを築き、敵の侵入を防ごうとしたが、スナイドル銃の貫通力には無力でたちまち黒門まで後退している。そこでも、スナイドル銃とアームストロング砲でひどいめに遭った露八は、いくら武術で鍛えても刀鎗や弓矢が銃火器Click!にかなうわけがないと悟り、根岸から古巣の新吉原へと落ちのびた。新吉原へ落ちのびるのが、いかにも松廼家露八(土肥庄次郎)らしくておかしいが、彼をかくまう馴染みの妓楼があちこちにあったのだろう。
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 それでも、彰義隊の残党狩りがきびしくなると、露八は新吉原をでて千住から飯能、伊香保と逃れ、品川沖に停泊していた榎本武揚の幕府艦隊に合流する。ここで、露八は松本良順Click!とは異なり、榎本武揚に説得され仙台から箱館(函館)へ向かおうとするが、乗船した咸臨丸が老朽化しており、暴風雨に遭って難破し静岡の駿河湾(清水港)へ漂着してしまう。ここで、露八は箱館いきをやめて新吉原へもどるが、ほどなく徳川慶喜Click!が住み幕臣たちが集まっていた静岡の花街で幇間をしている。だが、慶喜をはじめ幕臣たちが続々と東京へもどりはじめると、露八も再び新吉原に落ち着いている。
 事実を追いかけるだけで、時代小説そのもののような土肥庄次郎(松廼家露八)の生涯だが、なぜ旗本をやめ太鼓もちになった露八が、ハナから負けると知れている彰義隊の戦いに舞いもどってきたのか、現代でもさまざまな解釈がなされている。彼の彰義隊への参加に、「太鼓もち風情が」と蔑んだ彰義隊頭取だった本多晋は、のちに反省して次のように述べている。1906年(明治39)に刊行された、『文章倶楽部』(臨時増刊号)から引用してみよう。
  
 余かつて翁(松廼家露八)の業を賤しみことありしが、倩々(つくづく)方向の世間を見れば、所謂顕官紳士なる者、五斗米の為めに其腰を屈め、朝に卿儻(きょうとう)に驕(おごり)て、夕に権門に阿附し、賄(まかない=賄賂)を収めて公事を私し、巧に法網を潜て靦然(てんぜん)耻ぢざる者少からず。翁や平素紅粉の輩に伍し、客を迎て頭を低るゝは其分なり、諛言(ゆげん)を献するは其業なり、弦歌舞踏は其芸に糊(こす)るなり、一も世に耻ることあるなし。余が是を賤みしは洒々落々たる其心事を知らざりしのみ。(カッコ内引用者註)
  
 いわば、彰義隊頭取の“自己批判”の文章だが、幕府の旗本も薩長政府の官吏たちも、権勢のある者たちへ心にもない阿諛追従を並べたてては日々の飯を食い、少しでも利益を得ようと媚びへつらうあさましい様子はまったく同じで、松廼家露八(土肥庄次郎)は身をもって象徴的な職業を選び、あからさまで皮肉をこめた生き方を演じて見せたのだろう……と想像している。そこにはハッキリと、近代的な自我にめざめた本多晋の思考がうかがえ、松廼家露八に対する現代的な解釈に通じるものが感じられる。
 けれども、これではなぜ露八が幇間の仕事を放りだして、必敗の上野戦争に馳せ参じたのかが不明だ。それまでも、幇間を“休業”しては何度か幕府軍に加わっている。危機を迎えた幕府に恩義を、また旗本という武家としての矜持を常から感じていたのなら、幇間を廃業して幕府軍に“一浪人”として参加してもよかったはずだ。だが、露八はすぐに幇間業へと舞いもどり、いわゆる主な戊辰戦争へは参戦していない。そして、多勢に無勢で敗れるのが自明な彰義隊の上野戦争へ参戦している。これは、戦場が北へと移るとに転戦していった医師・松本良順Click!とは、明らかに異なる選択であり意志を感じる。
 大江戸へ薩長軍が進駐してきた際、新吉原にもどっていた露八は、なにか我慢のできない出来事に遭遇しているのではないか。幕末に起きた薩摩の益満休之助Click!による婦女子への無差別辻斬りや火つけ押込み強盗の件か、荒廃した故郷である江戸の街の姿か、あるいはわがもの顔にふるまいはじめた傲慢な薩長への反感か、とにかく堪忍袋の緒を切るなんらかの事件ないしは事態に遭遇しているのかもしれない。それについて、松廼家露八は生涯口にすることはなく、明治以降も新吉原へ客としてやってくる、政府高官となった昔なじみの榎本武揚と酒を酌み交わしては、ひょうきんな芸を見せるだけだった。
 余談だが、大江戸の街を恐怖に陥れたテロリスト・益満休之助だが、彰義隊との上野戦争で受けた銃創がもとで死亡している。だが、“流れ弾”といわれるこの銃創は背後から、すなわち「味方」から撃たれたとする解釈が現代では多く見うけられる。江戸市中で混乱を引き起こすため、婦女子をはじめとする一般市民を大量に殺傷したテロ活動の口封じのために、上野戦争のドサクサで薩長軍から消されたのではないかという解釈が主流だ。
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 松廼家露八が、わずか77年Click!で滅んだ薩長政府(大日本帝国)の最期を見とどけていたら、どのような感慨をおぼえただろうか? 本多晋のように解釈すれば、それでも幇間を平然とつづけていたのかもしれない。あるいは、敗戦後に吉川英治が『松のや露八』を執筆していたら、どのようなストーリー展開になっていたのだろうか? 太鼓もちでありながら、それでも鋭い武家の眼差しを失っていない彼の肖像を見るにつけ、ひょうきんで臆病で胡乱な人物には、決して描かなかったような気が強くするのだが……。

◆写真上:1931年(昭和6)まで、上落合553番地に建っていた吉川英治の新邸跡。
◆写真中上は、1990年(平成2)に出版された吉川英治『松のや露八』(講談社版/)と主人公の松廼家露八(土肥庄次郎/)。中上は、戦前に撮影された書斎で執筆中の吉川英治。中下は、上野山に建立された彰義隊戦死者碑。は、1968年(昭和43)に浅草寺の鎮護堂に建立された112名の幇間名が刻まれた幇間塚。
◆写真中下は、千住の円通寺に保存された上野寛永寺の黒門。門柱や格子のあちこちが、強力なスナイドル銃で穴だらけだ。は、同じく円通寺に眠る彰義隊士たちの墓。は、同寺の土肥庄次郎記念碑。土肥庄次郎(松廼家露八)の実質的な墓所だが、現在は記念碑の中央から折れて上半分は碑の裏側に置かれている。
◆写真下は、新吉原の中央を貫く仲之町で吉原稲荷(吉原弁天)社側から眺めた大門方面。中上は、1888年(明治21)に作成された広瀬源之助『吉原細見記』の幇間リスト。中下は、晩年の松廼家露八。下左は、寺井美奈子『松廼家露八』を収録した1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人9/虚人列伝』(學藝書林)。下右は、昨年(2023年)出版された目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち/明治の名物幇間 松廼家露八の生涯』(文学通信)。
おまけ
 明治末近くに描かれたとみられる、新吉原の夜景(作者不詳)。右手に見えている3階建ての楼閣は、その建物の意匠からのちに板橋へと移築された「新藤楼」だろうか。
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落合第一府営住宅での暮らしが長い河野伝。 [気になる下落合]

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 目白文化村Click!の第一文化村に建てられた中村正俊邸Click!神谷卓男邸Click!の設計、安食勇治邸Click!(のち会津八一邸Click!)が建てられる直前、同邸敷地に建っていたモデルハウスClick!、また文化村倶楽部Click!の設計なども手がけている可能性が高いのが、箱根土地本社Click!に嘱託社員としてつとめていた建築士・河野伝(傳:つとう)だ。
 河野伝は、大正期に目白文化村の建設がスタートする以前から、下落合の落合第一府営住宅Click!に住んでいたとみられ、F.L.ライトClick!に師事していたころから堤康次郎Click!とは知りあいだった可能性が高い。落合府営住宅の土地は、もともと堤康次郎Click!郊外遊園地Click!のひとつである不動園Click!を前谷戸に開発していた時代に、下落合の地主(下落合出身の妻の姻戚Click!含む)との協業により、将来の住宅地開発を意識した戦略上から、東京府へ寄付した目白通り沿いの土地だった。だから、落合第一府営住宅の河野伝邸も、堤康次郎が箱根土地設計部の嘱託社員としての契約を前提に、東京府住宅協会への便宜をはかる声がかり(口利き)で建設されているのかもしれない。
 下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸は、目白通りに近い北端、同じ落合第一府営住宅内の沖野岩三郎邸Click!(8号)から道路を隔てて東へ2軒隣り、土屋文明邸Click!(20号)からもやはり道路を隔てて北へ2軒隣りという位置に建っていた。河野邸の北東側には、銭湯「菊ノ湯」Click!が営業しており、風向きによっては煙突からの煤煙で洗濯物が汚れたかもしれないが、会社へは邸前の道をそのまま南へ250mほど歩けば、3分前後でレンガ建ての箱根土地本社ビルのエントランスに立つことができたろう。
 河野伝は、1920年(大正9)にはすでに竣工していたとみられる同邸に住みはじめ、箱根土地本社が1925年(大正14)に国立Click!へ移転したあとも、下落合にそのまま住みつづけている。日本紳士録や興信録によれば、1941年(昭和16)現在も下落合3丁目1502番地に住んでおり、おそらく1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、自宅が全焼するまで住みつづけているとみられる。なお、たとえば1931年(昭和6)に刊行された『日本人事録』(日本人事通信社)などでは、河野伝の住所を「下落合目白文化村」としているが、彼が目白文化村に住んだことは一度もない。河野伝は、大正中期から1945年(昭和20)まで、一貫して落合第一府営住宅16号に住んでいる。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら彼は収録されていない。
 河野伝は、1896年(明治29)に宮崎県で生まれ、京都高等工芸学校の建築家を卒業すると、帝国ホテルClick!を建設中だったF.L.ライトに師事している。だから、書籍や資料類には建築家としての仕事について書かれたものが圧倒的に多く、拙サイトでも下落合の箱根土地本社と目白文化村開発の関係から、彼の建築分野についての仕事に多く触れてきた。けれども、昭和初期には箱根土地の開発事業、すなわち建築業務の全般から離れがちになり、河野伝の関心は明らかに音響や映像の世界へと向かっている。昭和期に入ると、ほどなく箱根土地の嘱託社員を辞めてしまったのだろう。
 昭和初期の映画関係の資料では、河野伝は建築家ではなく映像分野の“業界人”として紹介され、下落合1502番地の住所には「コーノトーン研究所」の名称が付加され、建築家の肩書は副次的な扱いになっている。たとえば、1935~1936年年(昭和10~11)にキネマ旬報社から刊行された『全国映画館録』では、下落合3丁目1502番地の河野邸は「コーノトーン研究所」であり、姻戚とみられる河野亨という滝野川に住む人物が、技術部門を担当している様子がうかがえる。1936年(昭和11)には、「コーノトーン映画録音研究所」と社名を変更し、本社および工場を河野亨が住んでいた滝野川に設定している。そして、大阪に出張所を設け名古屋、高松、小樽の3ヶ所には特約店を設置している。
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 さらに、1941年(昭和16)には研究所の拠点を豊島区巣鴨6丁目1336番地に移転しており、事業はコーノトーン式発声映写機製作販売と明記されており、代表者も河野伝と河野亨のふたり体制となっていた。また、創業を1931年(昭和6)4月としており、コーノトーン研究所が本格的かつ組織的にビジネスを開始したのが同年なのだろう。それ以前は、あくまでも個人的な研究所の体裁だったとみられる。
 1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所がすでに映画の最前線にいた様子を伝える記事が残っている。同年1月5日にキネマ週報社から刊行された「キネマ週報」の、「トーキー時代◇簡易保険局のトーキー映写機試験とその成績◇」から引用してみよう。
  
 当日神田日活館の競映に参加した国産トーキー業者はP.Wトーキー、コーノトーン、オールキネマ、岡本洋行の四社であつた。当日参加しなかつたもの以外に呼ばれていた者も相当あるとのことである。試験委員としては通信省技師、日活社員と買上元たる簡易保険局の人々等で、厳然たる中に試験が開始せられた。試験フヰルムは日活のウエスタン式による「丹下左膳」の一部とP.C.Lの「ほろよひ人生」の一部を使用したが、此の試験フヰルムにはそれぞれ特長があり一概に良い録音とは言はれないが国産トーキーの代表的なもので高音低音共に試験にはもつてこいのものである。
  
 1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所は政府機関のコンペに参加するほどに、「発声映写機」の製品開発が進んでいたことがわかる。
 研究所の名がしめすとおり、コーノトーンはトーキー映画時代の音声と映像がシンクロする発声機や映写機を開発し、日本国内ばかりでなく海外へも輸出しはじめている。戦前に制作された、コーノトーンの仕組みを解説するパンフレットには、大きな広告プレートが屋上近くに設置されたビル(滝野川区滝野川にあった研究所ビルか?)がメインビジュアルとなっており、トーキー映画の普及とともにコーノトーン映画録音研究所は大きく躍進したのだろう。このころの河野伝は、同研究所の所長としてコーノトーン事業に傾注しており、すでに建築の仕事はほとんど辞めてしまったと思われる。
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全国映画館録1935キネマ旬報社.jpg コーノトーンパンフレット.jpg
 また、トーキー映画との関連でコーノトーン式の製品開発を「戦後」とする資料や記事も多いが、明らかに昭和期に入るとともに下落合の河野伝邸、および滝野川区滝野川の河野亨邸は「コーノトーン研究所」と名づけられており、1945年(昭和20)の敗戦の時点で、すでに20年近くにわたる研究開発の履歴を確認することができる。先の「キネマ週報」の記事や、「コーノトーン」パンフレットの制作、滝野川の河野亨邸をR&Dならびに工場敷地の本拠地とし、各地に出張所や特約店を展開していったのは1935年(昭和10)前後だから、昭和の最初期から研究開発を約10年間ほどつづけたうえで、ようやく製品化(量産化)にこぎつけたのが同年あたり……ということになるのだろう。
 当時、日本の映画館では活動弁士Click!が活躍する無声映画の時代から、トーキー映画Click!が急速に普及しはじめており、映画の撮影現場ではフィルムとシンクロして音声をひろうマイクや録音機、全国の映画館ではフィルムを映写する際には音声と映像が連動して再生できる映写機が、飛ぶように売れはじめていた時期と重なっている。コーノトーン映画録音研究所は独自に開発した録音再生技術をベースに、この波に乗って大きく成長し、海外にまでコーノトーン式35mm映写機を輸出するまでになったのだろう。
 また、1935年(昭和10)を契機にコーノトーン仕様をはじめ、映像と音声を同時に録画・録音し再生できるトーキー映画の撮影も活発化している。同年に誠光堂から出版された、仲木貞一,・吉田正良共著『最新トーキーの製作と映写の実際』から引用しよう。
  
 本邦のトーキー革新期に於ける主なる作品としては、/日本発声=大尉の娘。叫屋小梅。ふるさと。物言はぬ花。雨下天晴(支那映画)。/映音式=舶来文明街。昼寝もできない。/コーノトーン式=午前二時半。/土橋式=マダムと女房。若き日の感激。其他。/吉阪式=東京近郊巡り。漫画数篇。オリムピツクサウンドニュース。東日、大毎サウンドニュース其他。/PCL式=昭和新選組。とても笑へぬ話。純情の都。
  
 この中で、コーノトーン仕様を採用した監督:細山喜代松『午前二時半』(富士発声/1932年)は観たことがないが、吉阪式のおそらくドキュメンタリー映画とみられる『東京近郊巡り』(詳細不詳)が気になっている。ほぼ同時期の作品と思われるが、昭和初期の東京郊外だった落合地域を撮影してやしないだろうか。
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 1940年(昭和15)になると、河野伝は映画の企画製作にも取り組んでいる。同年4月には、いずれも教育ドキュメンタリー映画の『音感』と『オモチヤの科学』を製作している。滝野川のコーノトーン映画録音研究所には、映画撮影用のスタジオも設置されていたのだろう。

◆写真上:下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸跡(画面左手)で、奥のやや右手に見えている高層マンションの隣りが箱根土地本社跡。
◆写真中上は、河野伝が設計した第一文化村の中村正俊邸。中上は、同じく第一文化村の神谷卓男邸とのちに安食邸建設予定地に建つモデルハウス。中下は、やはり河野伝設計といわれる1926年(大正15)撮影の国立駅Click!は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第一府営住宅16号の河野伝邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる河野邸で右手の排煙は銭湯「菊ノ湯」。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる河野邸。中下は、河野伝()と1936年(昭和11)発行の「全国映画館録」収録の河野伝・河野亨「コーノトーン研究所」()。下左は、1935年(昭和10)発行の「全国映画館録」収録のコーノトーン映画録音研究所と各出張所・特約店。下右は、コーノトーン技術の解説パンフレット。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「コーノトーン発声機」媒体広告。中上は、海外まで輸出されたコーノトーン35mm映写機。中下は、1940年(昭和15)出版の『日本文化映画年鑑』(文化日本社)に掲載された河野伝・製作『音感』と『オモチャの科学』の紹介。

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先生と生徒が逆転した会津八一と曾宮一念。 [気になる下落合]

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 会津八一Click!が1929年(昭和4)ごろ、盛んに油絵を描いていたのはあまり知られていない。その作品の多くは知人にやったり、デッサンを練習したスケッチブックも弟子にあげてしまったり、目白文化村Click!にあった文化村秋艸堂Click!山手大空襲Click!で全焼してしまったりと、あまり作品が残っていないせいもあるのだろう。
 会津八一Click!は、早大文学部英文科を卒業しており、もともと西洋美術には興味をもっていたとみられる。目白豊川町Click!の自宅に、小泉八雲Click!の三男で絵ばかり描いて勉強しない小泉清Click!を下宿させたり、下落合の落合尋常小学校Click!脇に通う霞坂に自邸をかまえていた関係から、周辺の画家たちと交流したりしているので、書や画の墨筆とは別に、自然に油彩の絵筆をとってみたくなったのだろう。
 下落合464番地の中村彝Click!とは一度きりしか邂逅していないが、下落合623番地の曾宮一念Click!とは落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!時代も、また下落合1321番地の第一文化村(目白文化村)に移った文化村秋艸堂Click!時代も、会津八一が癇癪を起して「無礼者!」と破門状を送りつけられることもなく、しじゅう親しく交流している。早稲田中学校Click!では、曾宮一念Click!が5年生のとき、会津八一は英語教師として赴任してきており、クラブ活動の美育部(いわゆる美術部)では生徒指導にあたっている。同校美育部からは、中村彝や曾宮一念、萬鉄五郎Click!鶴田吾郎Click!、野口柾夫、小泉清Click!、大内章正、内田巌Click!、吉武正紀、大泉博一郎ら数多くの洋画家を輩出している。
 ちなみに、第一文化村に建っていた旧・安食勇治邸へ、会津八一が霞坂Click!から転居したのは1935年(昭和10)のことだが、安食邸の“貸家”を紹介したのが曾宮一念Click!だった可能性が高いことがわかる。テニス好きな安食一家と曾宮一念は、かなり以前からの知り合いだったようで、「この家は私の友人安食勇治氏が持主であった」(「秋艸堂をしのぶ」1965年)と書いているので、安食一家は第一文化村の邸宅を売却したのではなくどこかへ転居したあと、代わりに会津八一へ自邸を貸していたことがわかる。その仲介をしたのが、両者ともに親しい曾宮一念ではなかっただろうか。
 曾宮一念は、霞坂時代にも増して文化村秋艸堂には散歩がてら足しげく通っており、料治熊太Click!ともしばしば顔をあわせていると思われる。会津は、霞坂から文化村へ転居するころ女中も変えているが、曾宮は留守がちな会津に代わって、女中の“きい女史”とともに来客の対応に追われており、会津いわく「無礼なる来客」のほとんどは彼の傲岸不遜な態度に対する苦情だった。また、霞坂秋艸堂時代の少女だった女中の“しまさん”や、文化村時代の新しい“きい女史”を呼ぶときは名前を呼ばす、いつも「オンナ!」と怒鳴って呼びつけていたそうで、曾宮一念もビックリして慣れるまで時間がかかったらしい。
 会津八一が、頻繁に洋画を描いていたのは霞坂の秋艸堂時代で、弟子の安藤更生Click!がその様子を観察している。1965年(昭和40)に中央公論美術出版より800部限定で刊行された、『会津八一の洋画』収録の安藤更生「会津八一の洋画」から引用してみよう。
  
 先生の油絵は昭和四年に描いたものしか残ってゐない。否、昭和四年にしか洋画は描かなかったと云った方が正確だらう。四十九歳の時である。なぜ昭和四年になって油絵を描いてみる気になったかは、よくわからない。先日も、当時毎日のやうに秋艸堂へ出入りしてゐた料治熊太さんに訊いてみたが、料治さんも「ただ何となく描いてみようと思ってやってみたんだな」といふ返事だった。(中略) まづスケッチブックを買って来て、鉛筆でデッサンをはじめた。画材は書斎にあった簡単なかたちをしたものを選んで、厚い洋書、四角い紙箱、ガラスのコップ、マッチ箱などだった。曾宮さんに相談して洋画の約束などの指導を受けた。(中略) それから神田の文房堂へ行って、スケッチ箱だのパレット、絵具、画筆などの道具一式を買って来た。これも曾宮さんの示唆があったのだらう。大学が夏休みになってから、毎日裸でスケッチ判へ油絵を描いてゐた。画材はやはり身辺の文房具や書物の類だったが、紅い根來塗の小盆に厚い切子ガラスのコップをのせた静物が一番傑作で、これは誰にも与へずに、後までも秋艸堂に掛ってゐたが、戦災で焼失してしまった。
  
 おそらく、文房堂Click!へ画材道具を買いにいったときも、曾宮一念が同行しているのだろう。早稲田中学時代の、先生と生徒の関係が逆になってしまった会津八一だが、曾宮一念は霞坂の秋艸堂へ毎日通っては洋画の基礎を教えている。
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 会津八一は、書の余白に草花や百萬塔などの墨絵を以前から描いてはいたが、いわゆる“文人画”の域を出ていなかったので、絵画の勉強は3Dの物体を2Dに写すデッサンの基礎からだった。洋画に用いる道具について、その使用法からひとつひとつ学んでいる。曾宮が同行したとみられる文房堂で、会津は3号の箱と油絵の具一式をそろえている。
 では、気むずかしくてなにかと怒鳴るクセのある癇癪もちの生徒の、にわか先生となってしまった曾宮一念の証言を、同画集の「秋艸堂をしのぶ」より引用してみよう。
  
 「普通立体を表わすには明暗の度合による」位の事は話したと思うが、会津さんは飲み込みが早く、且つ良い意味での器用な人であったと思われる。あの大柄で一見フテブテしい體に似ぬ繊細で而も確に物を把握する明敏さを持っていた。この点では鈍重とは反対な人のように思われる。最初の作は小形の李朝の水滴で陶器の質と立体とが落付いた気品を表わしていた。「岸田劉生に擬すか」と笑っていた。今度、複製される三点の画の中には、この水滴処女作が無い。その翌週には梨瓜三個を盆にのせてかいてあった。前に比してらくらくと描写され、野菜の生々しさがよく出ていた。風景や花や人物はかかなかったようである。二、三の静物をかいて案外うまく行ったのと、その頃から専門の方の多忙とで画はかかなくなったらしい。
  
 曾宮一念は洋画を教えるかたわらで、霞坂秋艸堂の様子をいろいろ観察している。会津は、昭和初期に起きた熱狂的なハトブームClick!に影響されたものだろうか、スズカケバトを何箱も飼っていた。ハトたちの世話をしながら、いちいち話しかけていたというから、霞坂では孤独な生活だったのだろう。曾宮は、スズカケバトのつがいをもらっている。佐伯祐三Click!からは、1927年(昭和2)の第2次渡仏直前に7羽のニワトリClick!をもらっているので、下落合ではなにかと鳥に縁のある曾宮一念だ。
 曾宮は2羽のハトを水彩画で描き、会津八一にプレゼントしている。そのお返しに、会津八一からは「湘潚夢裡秋」と書いた色紙をもらっており、彼は中国の漢詩からの引用ではないかと推測しているが、「潚湘八景詩」をもじった会津のオリジナルではないだろうか。本来は「潚湘」と書くところ、書や字のかたち(構成)や好みから「湘潚」としているような気がする。当時、会津八一は書の構成について、「自分は新聞の活字によって文字の組立を工夫した」などと曾宮に語っているので、これが冗談でなければ書は絵画と同様、手先の技術や器用さではなく構成がもっとも重要なテーマだととらえていたことになる。また、曾宮には書跡が「一見曲っても重力の釣合をとって書けば良い」とも話している。
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 曾宮一念は、会津八一に関して面白い証言も、『会津八一の洋画』収録のエッセイに残している。曾宮と会津とはかなり親密だったが、同時に画家仲間でもある渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)とも友人だった。つまり、ふたりの関係について双方から想いのたけを聞けた、唯一の人物が曾宮一念だったことになる。中でも驚いたのは、1931年(昭和6)に再婚相手の亀高五市が死去すると、会津八一は亀高文子に追悼文を寄せていることだ。つまり、渡辺與平Click!が死去したあともそうだが、亀高五市の死去後も懲りずにさっそく彼女を訪ねて、神戸のアトリエを訪問している。
 曾宮一念は、会津との最初のきっかけを亀高文子から直接聞いている。それによれば、渡辺家に会津八一が早稲田大学の当時は学長だった高田早苗Click!(ちなみに総長は大隈重信Click!)をともなって訪ねてきたときにはじまる。
  
 渡辺家は早稲田の近くにあって父親が学生を愛していたので学生の出入が多かったという。(文子がいた事も一因だろうが) 或る時高田早苗博士と会津さんとが改った服装で訪ねて来た。文子に結婚を申込みに来たのだという。どう断ったか知らないが、それは受けられなかった。こんな事は詳しく聞くべきでない。「どうして断ったの?」「どことなく私は嫌いだったから」 そのイキサツはそれ以上きかなかった。ただ、與平の死後に会津さんが再び結婚を申込んだこと、更に五市の死後訪問した事をきいた。與平との事は若いローマンスとして画学生間にもてはやされたし、再婚の時は真面目な亀高船長談まで紙上にのって文子さんの立場を明にしてあった。
  
 「詳しく聞くべきでない」などとしながら、曾宮一念はしっかり彼女からいろいろな証言を引きだしているのがおかしい。渡辺ふみの父親である日本画家の渡辺豊洲は、娘が洋画家になりたいというのを喜び、わざわざ横浜から本郷菊坂町の女子美術学校Click!が近い家へ転居するほど、当時としてはめずらしい柔軟な考え方のできる人物だったので、愛娘が「どことなく嫌い」といえば、なにか理由をひねりだしてはモノモノしい会津からの求婚を断ったのだろう。だが、会津八一はあきらめなかった。
 渡辺與平が死去したあと、会津八一は自身の肖像画Click!を描いてくれるよう渡辺ふみに依頼している。彼女にとっては気の進まない仕事だったろうが、夫に先立たれた母子家庭では少しでも収入を増やしたかったにちがいない。彼女は、当時の会津宅(高田馬場時代か?)へ出かけて仕事をしていたことも、曾宮の“取材”で明らかにかっている。
 やはり、「どことなく嫌い」な人物がモチーフではいいタブローなどできるはずもなく、渡辺ふみ(亀高文子)本来の作品からほど遠く、ひどい仕上がりとなっている。また、描かれた会津八一の悲し気な表情も、理解しえないふたりの関係性を如実に表していそうだ。
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 曾宮一念は、ふたりが結婚しなくてよかったとしている。渡辺ふみが、再婚して画業を自由につづけられたのは、理解があり寛容だった亀高五市がいたからで、女中を「オンナ!」と怒鳴って呼びつける会津八一では、ほどなく破局したにちがいないと結んでいる。

◆写真上:1929年(昭和4)ごろ、霞坂秋艸堂で制作された会津八一『筆洗・水滴』。
◆写真中上は、第一文化村の安食邸で1935年(昭和10)より会津八一が借りていた文化村秋艸堂。は、1935年(昭和10)撮影の文化村秋艸堂応接室。(以上AI着色) は、文化村の会津八一(1943年撮影/)とアトリエの曾宮一念(1923年撮影/)。
◆写真中下は、1965年(昭和40)刊行の限定800部『会津八一の洋画』(中央公論美術出版)。は、会津八一のスケッチ帖に残された多彩な静物のデッサン。
◆写真下は、1929年(昭和4)制作の会津八一『書帙・燭台・マッチ箱』。は、同年の『鉢・書籍』。は、渡辺ふみ(亀高文子/)と、まったく気のりがせずにサッサと仕事を済ませて帰りたかったのではないかとみられる渡辺ふみ『会津八一像』(1914年/)。
おまけ
 神戸の赤艸社女子洋画研究所のアトリエで制作する亀高文子(1923年/AI着色)。
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「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。 [気になる下落合]

番町上空から原宿方面.jpg
 拙サイトでは、これまで1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が起きた際、被災地をスケッチしてまわった有島生馬Click!と同道した竹久夢二Click!や、被災地を写生めぐりした河野通勢Click!佐伯祐三Click!についてご紹介してきた。この中で、佐伯祐三Click!は東京では聞き慣れない大阪方言が災いしたのか、デマを信じた自警団Click!から地元の人間ではない「不穏分子」とみられ、暴行を受けているとみられる。したがって、その際に自警団に没収されたものか、関東大震災のスケッチ類は残されていない。
 竹久夢二Click!は、有島生馬Click!と同行してたので自警団から誰何(すいか)ぐらいはされているだろうが、その知名度の高さから危害を加えられるようなことはなかった。被災地で見たこと聞いたこと経験したことを、同年9月14日~10月4日にかけ都新聞に画文記事『東京災難画信』として、ほぼリアルタイムで連載している。
 多くの画家たちClick!が、特に被害が大きかった東京市街の被災地をめぐっていたとき、蕗谷虹児Click!はどこでなにをしていたのだろうか。前年より、宝文社から雑誌「令女界」が創刊され、その表紙イラストや物語・詩の挿画、絵はがきなどの仕事が多忙をきわめていた時期と重なるときに、関東大震災は起きている。蕗谷虹児の描く女性たちは「令女型」などと呼ばれ、他の挿画家たちの絵とは区別され特別視されるようになっていた。ちょうど、竹久夢二が描くはかなげな女性たちを「夢二型」と称したのと対照的に、彼の作品は大正デモクラシーとモダニズムを体現した女性たちの代名詞となっていた。
 蕗谷虹児Click!は1923年(大正12)、湯島天神近くの上野広小路も近い本郷区坂下町(現・文京区湯島3丁目)の借家に、最初の妻である川崎りんといっしょに住んでいた。この借家では、3月には子ども(長男)も生まれ、4月には川崎りんとの婚姻届けを出している。父親は前年に病没していたが、ふたりの弟たちとはいっしょに暮していた。
 この本郷坂下町の家について、蕗谷虹児の幼年期から青年期にいたるまでをたどる、1967年(昭和42)に出版された自伝小説『花嫁人形』(講談社)から少し引用してみよう。
  
 本郷坂下町に、吟味した材料で、自分が住むために新築している、大工の棟梁の家があった。/「こんな綺麗な新築の家に、余命いくばくもない父を、住まわせることができたらどんなによかろう。」と、一彦は思ったので、断られるのを承知のうえで、人を介して「向う二年間だけでよいから、特に貸し家として貸してもらえないものか。その代わり、家賃は出せるだけだす。」と交渉させると、/あの家は、ごらんのとおり貸し家普請ではないのだが、わしの建てた家が、それほど気に入ってくれたのなら貸してあげてもよい。」と、家主の棟梁が言ってくれたので、一彦は、言いなりの手金を払うと、この新築の家の壁の乾くのを待って、谷中の間借りの部屋から引っ越して行った。その後を追うようにして、りえ子の母が、りえ子を伴れて手伝いに来てくれた。
  
 「一彦」が自身の分身である蕗谷一男(虹児)であり、「りえ子」が結婚していっしょにパリへ渡航することになる最初の妻の「川崎りん」だ。このとき、家具類を「上野Mデパート」に注文したとあるが、上野広小路の松坂屋デパートだろう。
 貸家普請ではなく、大工の棟梁が自宅用に建てた住宅で、造りも強固だったのだろう、大震災でもたいした被害はなく、また火災の延焼からもまぬがれている。蕗谷虹児にとって、本郷区坂下町は以前から見馴れた街だったろう。彼は極貧時代に、芝区金杉橋にあった日米図案社に近接する米屋2階の下宿から、当時は本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社(のち講談社)の社屋へ、頻繁に作品の挿画をとどけに通っていたからだ。
蕗谷虹児「生き残れる者の嘆き」.jpg 蕗谷虹児「絶望」.jpg
蕗谷虹児「落ちゆく人々の群れ」.jpg 蕗谷虹児「落陽」.jpg
蕗谷虹児「戒厳令」.jpg 蕗谷虹児「焼跡の月」.jpg
 大工の棟梁が普請したこの家の間取りはかなり広く、ふたりの弟とともに住んでいた金杉橋の3畳下宿や、谷中の間借りで使用していたときの家具調度は、アッという間に片づいてしまったようだ。新築なので掃除の必要もほとんどなく、手伝いに訪れた「りえ子」(川崎りん)母子も手持ち無沙汰だったのではないか。つづけて、従来の下宿から持ちこんだ家具調度類について、『花嫁人形』から引用してみよう。
  
 一彦は一人で苦笑して、芝金杉橋の三畳の間借り時代から愛用してきた、手ずれで杉の木目が現れてきている机代わりの、図板に向かった。/座布団は、破けて綿が出かかっているものを古毛布でくるんだものであったし、座右の火鉢は、台所のコンロと同じ素焼きのものだったのが、長い間の一彦の手垢とあぶらで、今では赤い瀬戸焼の艶になっている。/一彦の背後の壁一坪をふさいでいる本箱も古道具屋で見つけた飾り気のないもので、それへいつかたまってしまった雑多な本がつめ込んであるが、これも部屋の飾りにはならない。何故かというと、一彦に必要な参考書ほど痛(ママ:傷)んでいて、表紙が取れたり、背皮が破けていたからであった。一彦はその本棚に凭れて、この家へ引っ越してきて、まず床の間に掛けた、山樵道人の軸に目をやるのであった。(カッコ内引用者註)
  
 この家で、蕗谷虹児は関東大震災に遭遇している。大震災が起きたときの様子を書いた記録は見あたらないが、前年に父親が死去していたため、彼は妻と生まれてちょうど6ヶ月の長男、それに弟たちとともに大火災Click!と風向きを気にしながら、避難の準備をしていただろう。おそらく、避難先は緑濃い湯島天神の境内か上野公園を想定していたにちがいない。だが、上野山を除いて上野駅周辺や下谷一帯はほぼ全滅状態であり、ヘタに避難していたら大火流Click!に巻きこまれて危うかったかもしれない。
 迫る延焼は、幸いにも蕗谷虹児アトリエまではとどかなかった。周囲が少し落ち着いてからだろう、蕗谷虹児は被災した街々を「転げあるき」(余震や障害物が多かったのだろう)しながら、被害の様子をスケッチしてまわった。ひとりで歩いたのか、あるいは弟たちを連れていったのかは不明だが、さまざまな街角の人物像を写生している。
 大震災の当初は、そのまま悲惨な被災風景と絶望に打ち沈む人物たちを描いていたが、大震災から月日がたち焼け跡にバラックが建ちはじめ、復興への歩みが少しずつはじまると、彼ならではの抒情的な女性や子どもたちの描写が見えはじめる。また、震災当初はおそらく焼け跡の風景自体がモノトーンだったのだろう、モノクロ表現だった震災画集や絵はがきも、復興のきざしが見えはじめたころからカラー印刷に変わっている。もっとも、当初のモノクロ印刷は当然、印刷会社も被害を受けているので、4色分解のオフセット印刷機が破損して使えなかったのかもしれないが。
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蕗谷虹児「焼土に立つ(焼け跡のしののめ)」.jpg 蕗谷虹児「鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)」.jpg
蕗谷虹児「夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)」.jpg 蕗谷虹児「幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)」.jpg
 竹久夢二は、都新聞に連載(1923年9月14日~10月4日)した「東京災難画信」では、描いた街や地域の情報を記録しているが、蕗谷虹児Click!は特に町名や地域名を記載せず、それぞれの震災画には見たまま感じたままの、被災地の情景タイトルをつけている。したがって、どこの街角を描いたのかは不明で抽象的であり記録的な震災画ではないが、反面、彼はその状況における人々の想いや感情に心を寄せているように見える。彼の描く震災画は叙事的ではなく、どこまでも叙情的なのだ。
 本郷坂下町の焼け残った自宅から、蕗谷虹児はどのように被災地をめぐり歩いたのだろうか。芝金杉橋下宿から、本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社へよく作品をとどけに通っていたことは先述したが(カネがないので市電Click!には乗れず全行程が徒歩だった)、彼がよく歩いて知悉しているこの講談社入稿ルートは、『花嫁人形』の記述によれば金杉橋から芝を抜け、新橋、銀座、日本橋、神田を通って本郷坂下町へとたどるものだった。したがって、震災画を描きに通ったルートも、あらかじめよく知っていたこの道筋がメインだった可能性が高いのではないか。
 すなわち、このルートには東京の繁華街である神田や日本橋、銀座(これらの街々は全滅Click!)が含まれており、震災画のモチーフにするにはもってこいの街々だったと思われるからだ。蕗谷虹児は坂下町の自宅を出ると、南下して外濠(神田川)に架かる昌平橋Click!をわたり、神田や日本橋、銀座の焦土Click!や住宅街の焼け跡を描いてまわったのではないだろうか。もちろん、自宅近くの上野広小路へと出て、下谷地域の上野駅や周辺の街々(上野山を除きほぼ全滅)も歩いているだろう。
 こうして、蕗谷虹児の震災画は記念絵はがきとなり、第1集は『生き残れる者の嘆き』『絶望』『落ち行く人々の群』『落陽』、第2集は『戒厳令』『焼跡の日』『尋ね人』『家なき人々』などなど、震災から間もない時期に発行しつづけている。また、第4集からはカラー印刷となり、大震災の現場を直接表現して伝えるのではなく、被災者たちの感情に寄り添うように描かれた人物中心の表現へ徐々に変化していく。このあたり、画家ではなく挿画家だった蕗谷虹児ならではの表現だろう。
パリの画室1926頃.jpg
蕗谷虹児「花嫁人形」1967講談社函.jpg 蕗谷虹児「花嫁人形」1967講談社表紙.jpg
蕗谷虹児アトリエ19450402.jpg
蕗谷虹児アトリエ19450517.jpg
 いまでこそ、震災の被災地を描いた記念絵はがきなどを発行・販売したら、出版社や画家は顰蹙をかい批判されるだろうが、当時はTVやラジオもなく、地元の新聞も輪転機が破壊されたため、被災地の様子を伝えるメディアがなにもなかった。東京とその周辺にいた多くの画家たちは、その惨状を全国や世界へ、あるいは後世に伝えようと筆をとっている。

◆写真上:1923年(大正12)9月5日に、陸軍所沢飛行第五大隊の偵察機が東京市街地を撮影した空中写真。麹町区の番町上空から西を向いて撮影しており、遠景に見えているのは代々幡(代々木)から原宿にかけての街並み。中央にある西洋館は赤坂離宮(現・迎賓館)で、その向こう側に拡がっているのは神宮外苑の森。
◆写真中上は、震災から間もなく発売された震災絵はがきで蕗谷虹児『生き残れる者の嘆き』()と同『絶望』()。は、蕗谷虹児『落ちゆく人々の群れ』()と同『落陽』()。は、蕗谷虹児『戒厳令』()と同『焼跡の月』()。
◆写真中下は、蕗谷虹児『尋ね人』。は、カラー化された同『焼土に立つ(焼け跡のしののめ)』()と同『鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)』()。は、同『夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)』()と『幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)』()。
◆写真下は、1926年(大正15)ごろパリのアトリエで撮影された蕗谷虹児とりん夫人。背後にはサロン・ドートンヌ入選作の『混血児とその父母』(1926年)と、パリの日本人芸術家たち第3回展に出品する描きかけのキャンバスが見えている。中上は、1967年(昭和42)出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』(講談社)の函()と表紙()。中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲Click!11日前に偵察機F13Click!によって撮影された、空中写真にみる最後の蕗谷虹児アトリエ。は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲Click!8日前の蕗谷虹児アトリエだが、すでに4月13日夜半の空襲で焼失しているとみられる。
おまけ
 手もとにある蕗谷虹児『花嫁人形』が、著者のサイン入りであることに読み終えてから気がついた。捺されている篆刻は、大正後期から用いられている角丸の正方形のもので、パリへ持参したものと同一だと思われる。かなりすり減って何度か彫りなおしているとみられるが、左下の枠が大きく欠けている点や文字のかたちなどから、下落合のアトリエから疎開先の山北町へと“避難”させていた、虹児のお気に入りだった篆刻の1顆なのだろう。
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下落合での制作が15年つづいた上原桃畝。 [気になる下落合]

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 きょうは、めずらしく日本画家を取りあげてみたい。おそらく、蘭塔坂上にアトリエをかまえた岡不崩Click!や一ノ坂上の本多天城Click!の記事以来ではないだろうか。洋画家ばかりでほとんど紹介していないが、落合地域には日本画家も大勢住んでいる。
 下落合473番地にアトリエをかまえていたのは、女性の日本画家・上原登和子(上原桃畝)だ。ちょうど、中村彝Click!アトリエのすぐ西隣りの区画、目白福音教会Click!に建つメーヤー館Click!の南に隣接した位置で、夏目漱石Click!を愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校Click!)に招聘した、大正期には浅田知定邸Click!が建つ広い敷地内にあたる。
 上原桃畝は、大正初期から小石川区原町15番地のアトリエに、1926年(大正15)まで住んでいたことが確認できるので、下落合473番地に転居してきたのは1927年(昭和2)、昭和の最初期だとみられる。そして、面白いことに下落合には1941年(昭和16)ごろまで住んでいたが、同年以降は再び小石川区原町15番地へともどっている。彼女は東京市麻布の出身だが、小石川原町の家は当時のおそらく実家だったのだろう。上原桃畝は結婚をせず、生涯日本画家として独身を張りとおした女性だ。
 上原桃畝は、最初に荒木寛畝に師事したが、寛畝の死後は愛弟子で養子になっていた荒木十畝につづけて師事している。先代師匠の荒木寛畝は特異な日本画家で、江戸期は土佐藩の御用絵師を勤めていたが、明治以降は洋画家に転向している。だが、しばらくすると再び日本画家へと復帰しているので、ひとことでいえば写生を繰り返してデッサンの基礎をしっかり修得した日本画家という、当時としては特別な位置にいた人物だ。その弟子である上原桃畝もまた、デッサンの勉強から入っているとみえて、ときに洋画と見まごうような、3Dの陰影が精確な作品も残している。
 『落合町誌』Click!には、上原桃畝が「邦画家」として人物一覧に掲載されているが、人となりの紹介文がない。彼女について、ここは1913年(大正2)に美術研精会から刊行された「研精美術」9月号収録の、田口黄葵『隠れたる作家上原桃畝女史』から引用してみよう。
  
 此の中(荒木寛畝社中)におつて巍然四囲を顧みず塵俗を超越して向上の一路を辿る女性がある。年歯漸く三十にして家庭和楽を想はず、技術と学芸の研磨に日も猶ほ足らざるが如き女性がある。同塾を訪ふて最も未来を有する閨秀作家はと問はゞ何人も此の女性即ち上原桃畝女史を推すであらう。/女子は性来頭脳の明晰な人で、従つて理智の勝つた人である。言葉を換へて言へば、頭脳の明晰なるが故に感情の興進にまかせて動くことの出来ぬ人である。然して其理智は細節に拘泥せずしてよく大局を摑み、総てを寛容する度量となつて表はれて居る。(中略) 女史は神来の興を駆つて一気画を成す天才的才能を有する人にあらずして、撓まざる努力の推積によつて成る人である。其作に感興の充溢を見る能はずして健全なる意志の発現を見るも亦当然といはなければならない。明晰なる頭脳強固なる意志の一事は万事をなして、哲学に科学に自然の探究に究めざればやまざるの努力を生じ、読書と旅行とに多大の趣味を持たしめて居る。(カッコ内引用者註)
  
 だいだい、上原桃畝の性格やモノの考え方がわかる紹介文だ。彼女は、師の荒木寛畝と十畝の跡を継ぐように、のち東京女子高等師範学校Click!(現・お茶の水女子大学)の美術教師に就任している。文展には何度か入選しつづけ、1919年(大正8)からはじまる第1回帝展にも、日本画部門だけでなく絵画部門全体で唯一の女性画家として入選している。
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荒木寛畝.jpg 上原桃畝1919.jpg
 帝展の資料を探していたら、興味深い記事を見つけた。1924年(大正13)に発行された「芸天」(芸天社)12月号で、第5回帝展がらみの記事にも上原桃畝は登場しているが、そのネームの横に中村彝『老母の像』が紹介されている。もちろん、中村彝は帝展無鑑査で審査員にも任命されていたが、同年の上野竹の台で第5回帝展が終了した1ヶ月後、1924年(大正13)12月24日に下落合464番地のアトリエで死去している。
 また、同記事の下には、のちの敗戦直後に下落合の蘭塔坂上に住んでいたとみられる、鎌田りよClick!のもとへ通うことになる平沢貞通Click!(平澤大璋)が、京橋の日米ビルディングで個展を開催するという記事も見えている。そのほか、落合地域にゆかりの深い洋画家たちの名前が多数登場しているので、ことさら目を惹いた記事だった。
 では、第1回帝展で唯一の女性画家として入選した上原桃畝の様子を、1919年(大正8)10月11日に発行された読売新聞から引用してみよう。
  
 帝展の紅一点
 日本画洋画彫刻三部を通じて唯一の閨秀入選者/夢の如く喜ぶ上原桃畝女史
 日本画、洋画、彫刻三部を通じて入選せる女性は、僅かに日本画に六曲片双の『春光』一点を以て選ばれた上原桃畝(三八)女史一人である△此名誉ある女史を入選発表と共に昨日午後四時小石川原町の自宅に逸早く報を齎すと、流石に包み切れぬ嬉しさを見せて女史は語る 「私が? 私一人ですつて? まるで夢のやうです。私は故荒木寛畝さんに就いて習ひましたが、先生の亡き後は十畝さんにもお世話になつてゐます△文展の第四回に『つつじ』を出して入選しました、其後近年まで出品しませんでしたが一昨年来又出すやうになりました 今回入選の『春光』は寒竹に梅を配した構想で、出来るだけ青くせずに、日光を出さうと勤めました、製作には八月二十四日から△一月位かゝりました 大変厳選だといふ話ですから、無論駄目と思つてゐましたのに、本当に夢のやうです、十畝さんの退かれた後は女子高等師範学校に勤めて外の方と共に一週に三日宛図画科を受持つてゐます、家は母と姉夫婦と其の子供とで五人暮らしです△師匠の寛畝さんも私の売残りは困つたものだと屡云つてゐらつしやいました」
  
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 上原桃畝から、師の「売残り」などという言葉を引きだすのが、男性記者による当時のインタビューらしいが、この記事からも小石川原町の家はやはり実家だったらしい様子がわかる。彼女はこのあと、実家を出て独立し下落合473番地へアトリエをかまえて転居してくるわけだが、このあたりの事情は中村彝も頼りにしていた、画壇の動向Click!に詳しい日本画家で洋画家でもある夏目利政Click!あたりがよく知っていそうな気がする。
 また、大正期には広大な敷地だった下落合743番地の浅田邸だが、1926年(大正15)に浅田知定が死去すると相続のためか分割され、敷地内には三間道路が敷設されている。分割された14敷地の中のいずれかが上原桃畝のアトリエだが、1938年(昭和13)作成の「火保図」に掲載されたネームには、残念ながら上原邸は採取されておらず見あたらない。おそらく、名前が不記載の6邸(無記名7邸のうち1邸は根岸邸なので、差し引き残り6邸)のうちのいずれかが上原桃畝アトリエだろう。
 下落合に転居するまで、上原桃畝は日本美術協会や日本画会、文展、帝展、帝国絵画協会、読画会などへ出品して入選を繰り返している。また、下落合では1928年(昭和3)5月に日本画会「翠紅会」の結成に参加し、主要メンバーのひとりとして活躍していた。彼女は、ときにスキャンダラスな洋画の女性画家たちとは異なり、いつも女性画家とともに行動していたらしく、旅行や外出も同輩の女性画家とよく待ち合わせては出かけていたようだ。上掲の「明晰なる頭脳強固なる意志」という人物評を見ても、自尊心が強く自身を律して、自我を貫きそうな強い意志力を備えた女性像を連想させる。
 画家仲間の三木初枝と連れだち、当時の師宅を訪れた様子を1923年(大正12)に大日本藝術協会から刊行された、「藝術」2月号の荒木十畝による談話から引用してみよう。
  
 寒き暁から飛出して清水公園から日比谷公園へと、三四ヶ所を雪のよささうな所を廻つて歩いた、老人の冷水とでも云ふのであらう、どこへ行つても画師には出会はぬが、素人の写真道楽家のやうなのが、至る所でパチパチやつて居た、日比谷公園では年老つた婦人が寒さうな格講して雪の写生をして居た、これも老人の冷水の連中だと思ふた。/その日の午後我家の雪見にとて、上原桃畝、三木初枝両女史が訪ねてくれた、尺余の雪に朝来またまた降足したので、この日一日の風情に別条はあるまいと思うて居たが、午後には木の枝には雪が落着いて居なくなつた、その両女史の写生を乞得たのが、本誌の挿画となつた。
  
 同誌には、上原桃畝『軒のにはとこ』と題する色紙の雪景色が掲載されている。
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 1941年(昭和16)には、上原桃畝の住所は小石川区原町15番地にもどっているので、母親が病気かあるいは亡くなりかしたのだろうか。日本画家は、洋画家とは異なりリアルな風景画は描かないだろうが、『軒のにはとこ』のように庭先のスケッチぐらいは残しているかもしれない。およそ15年ほどつづいた、上原桃畝の下落合におけるアトリエ生活だった。

◆写真上:上原桃畝のアトリエがあった、下落合473番地界隈の現状。
◆写真中上は、蝶を追うネコを描いた上原桃畝『題名不詳』(部分)。は、第5回日本画展に入選した同『野路』。は、東京女子高等師範学校の教師だったせいで女弟子が多く日本画と洋画の双方を描いた荒木寛畝()と弟子の上原桃畝()。
◆写真中下は、1919年(大正8)10月11日刊行の読売新聞。は、第20回読画会展に入選した上原桃畝『六月の花園』。は、1924年(大正13)発行の「芸天」12月号に見る上原桃畝の動向で、見開きには中村彝や平沢大璋の情報が掲載されている。
◆写真下は、下落合時代の1928年(昭和3)5月撮影の「翠紅会」記念写真。左端が上原桃畝で、後列右からふたりめが親しかったらしい三木初枝。中上は、1931年(昭和6)出版の大山広光『文帝展二十五年史』(美術批評研究社)掲載の上原桃畝。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合473番地界隈。は、1923年(大正12)2月8日の大雪の日に三木初枝とともに荒木十畝邸を訪れ、庭先で色紙に描いた上原桃畝『軒のにはとこ』。

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『落合町誌』の基盤となった『落合町現状調査』。 [気になる下落合]

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 東京市では、1932年(昭和7)10月に迫った東京市35区制Click!を目前に、新たに形成される20区内に含まれる町村の概況について、その実態調査を前年に実施している。市庁舎内へ、新たに臨時市域拡張部という部署を新設して、市域へ新たに編入される町村へ調査員を派遣したり、さまざまなデータを収集させたりした。
 1年後に、淀橋区(現・新宿区の一部)へ編入される落合町にも、東京市臨時市域拡張部から派遣された調査員が、町の様子を視察したり多種多様な自治データを収集したりしている。そして、1931年(昭和6)11月に「市域拡張調査資料」として、折りこみ地図を含めると50ページ弱のコンパクトな冊子にまとめて刊行していた。ガリ版(謄写版)による手刷りで作成された調査資料冊子は、東京市臨時市域拡張部の編集による『豊多摩郡落合町現状調査』と名づけられ関連部局に配布されている。
 ところが、この資料に目を通していると、すでにどこかで読んでいる、あるいはどこかで一度目にした統計資料(表組のレイアウトまで酷似)、あるいは分類表など既視感を強く感じた。そう、1年後の1932年(昭和7)8月に落合町誌刊行会から出版される、『落合町誌』Click!の編集のしかたやレイアウトにそっくりなのだ。いや、このいい方は逆さまで、『落合町誌』の「第四篇 現勢」でで綴られている「人口」や「行政」、「財政租税」「教育」「寺社及教会」「衛生」「各種団体」「交通」「産業」「電燈瓦斯水道」などの記述や統計資料、レイアウトなど、ときに文章までが、前年に東京市臨時市域拡張部が編集した『豊多摩郡落合町現状調査』と、非常によく似ているのだ。
 つまり、『落合町誌』(1932年)の「緒言」、「第一篇 維新前の沿革及歴史的考証」「第二篇 寺社の沿革」「第三篇 明治維新後期」の前半73ページまでと、後半の「第五篇 人物事業編」の216ページから最後まではオリジナルの制作コンテンツだが、真ん中の74ページから215ページ(141ページ分)まで、すなわち落合町の「現勢」を語る中心的な内容は、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』から、よくいえばそのままの引用または流用、悪くいえばほぼ丸ごとパクリの編集に近い構成になっていることがわかる。
 いい方を換えれば、『落合町誌』の編集者兼発行者(編集責任者)である近藤健蔵は、落合町の「現勢」は東京市臨時市域拡張部による調査結果の内容をおおよそ踏襲し、落合町の歴史や暮らしている住民たちの紹介に力点を置いて編集したかった……ということになるだろうか。では、落合町の現勢について、東京市の『豊多摩郡落合町現状調査』に収録された「町勢現況」から少し引用してみよう。
  
 妙正寺川ノ西南大字上落合ノ地ハ中野町野方町ニ起レル岡脈連亘シテ一帯ノ高台ヲナシ東北部下落合ノ地ハ目白台ニ連ル一帯ノ高阜ニシテ小丘陵ノ起伏スルモノ多ク展望開ケ且ツ樹林ニ恵マレ最適ノ住宅地タリ。又町ノ北方大字葛ヶ谷ノ地方ハ概シテ平坦ナル畑地ヲナセリ。(中略) 前述セル如ク本町ノ地勢ハ妙正寺川ノ流域及大字葛ヶ谷ノ地ヲ除ク外ハ土地高燥ニシテ起伏ニ富ミ展望開ケテ好個ノ住宅地ヲナス。サレバ全町ヲ通シテ良住宅多ク目白文化村、翠丘住宅地等特ニ名高シ。/交通機関ハ省線目白駅ノ便ヲ有スルト共ニ西武電車線ノ町内ヲ縦貫スルモノアリ。然レドモ町ノ西北部地方ハ未ダ交通上不便ナル地域アリ。/将来此ノ方面ニ交通機関ノ完備スルハラバ本町ノ殆ンド全部ハ住宅地トシテ発展ヲナスベキ状勢ニアルモノナリ。
  
豊多摩郡落合町現状調査目次.jpg
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 下落合の南側と上落合の東側を流れる、旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)の流域については存在が忘れられているし、目白文化村Click!と同時期(1922年)に開発がスタートした近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!の記載がないが、「翠丘住宅地」(ママ:翠ヶ丘Click!)すなわち今日では十三間通りClick!(新目白通り)の貫通で分断されてしまい、ほとんどネームが伝承されなくなってしまった、六天坂Click!から西坂Click!あたりにまでかけての丘陵地帯に形成された住宅街については触れている。
 もうひとつ、「西武電車線」という地元ではあまり聞き慣れない用語がつかわれているが、同書に挿入された地図には「西部電気鉄道」と記載されているので、地元や同時代の各種地図、あるいは当時のマスコミの一般用語として普及していた「西武電鉄」Click!と書くところを、新宿駅から荻窪方面へ通っていた通称「西武電車」Click!(西武軌道線)と混同したか、あるいは西武鉄道が媒体広告を使い繰り返し浸透を図った、「西武電車」Click!の愛称(戦前は普及しなかった)を踏襲したものだろうか。
 さて、『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)に掲載された多種多様な統計表は、1930年(昭和5)に実施された国勢調査にもとづいて掲載されている。それを、ほぼそのまま表組のかたちや項目、レイアウトまで借用したのが『落合町誌』(1932年)の「第四篇 現勢」だ。これに、数字が判明している表には1931年(昭和6)分の実数値を追加して掲載しているが、不明なものは東京市の表組のまま1930年(昭和5)現在で収録している。ほかに、町長や町会議員、町議会、各尋常小学校や教育機関の紹介、在郷軍人会の活動などを付加し、「第四篇 現勢」は東京市の資料に比べやや肉厚に編集されている。
 編集責任者の近藤健蔵は、公的資料を参照すればすぐに情報を入手できる「第四篇 現勢」の大半の情報は、東京市が調べた『豊多摩郡落合町現状調査』をほぼそのまま踏襲し、むしろ歴史や名所・史跡の紹介、そして住民や町内の事業紹介に注力したかったように見える。近藤健蔵は、もともと東京市電気局に勤務しており、退職してからは上落合721番地で化粧品・文房具店を開業している。その人物像を、『落合町誌』のほぼ最後に掲載された文章から引用してみよう。
  
 栗原新和会副会長 近藤健蔵  上落合七二一
 軒滴石を穿つと言ふ諺がある、人生に於ける如何なる小さな努力でも其の継続に依つて相応の結果を得、収穫を挙ぐると云ふ事は疑もない事実である。之が氏の社会公共に対する思想行動の核心を為すものにして、亦方今町衛生委員、栗原新和会副会長、第二小学校児童保護会評議員として郷党の間に声望ある所以に外ならない、氏は近藤兼吉氏の長男にして落合の地に生れ、大正二年東京市電気局に勤め、昭和元年退職後化粧文房具商を経営する、努力鉄膓の士である、一面前記公職に推されて治績尠からざる而巳乃木講社の先達と為り或は自治研究会の組織に介在する等、孜々(しし)として当町文化の発展に資するところ多大である、(以下略)
  
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 東京市の電気局に、わずか13年ほどしか勤務しなかったのは、おそらく先代の跡を継ぐためだったのではないか。先代の近藤兼吉は、上落合の地主だったのかもしれない。彼は上落合にもどり、「化粧文房具店」を開業している。
 上落合721番地は、ちょうど中井駅の南側、寺斉橋Click!をわたってすぐ右手の角地だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、その位置に「文具店」のネームを見つけることができる。これが、文房具および化粧品を扱っていた近藤商店だろう。また、『落合町誌』を発行した落合町誌刊行会も同地番となっているので、ここが実質的に同誌編集局の役割りをはたしていたにちがいない。
 編者の近藤健蔵は、同誌「自序」の中で「顧れば本書の編録に着手せしより約半歳」と書いているので、『落合町誌』は約6ヶ月で編纂されたことがわかる。これほど短期間で、400ページを超える町誌を編集・執筆できたのは、まさにベースとして東京市による『豊多摩郡落合町現状調査』が存在したからだろう。しかも、かつて彼は東京市に勤めていた。同誌の「自序」より、もう少し引用してみよう。
  
 然るに落合町には古来其の歴史を語るべき記録がない、発達変遷の跡を知るべき郷土史がない、落合町に生れ、落合町に人と為り、落合町に居住する人々の多数は、愛国の至誠を培ふべき、郷土に関して何等の知識を有たない、之れ不肖自ら揣らずも此の編纂を企画したる所以である、乍併(しかしながら)修史の事業の容易ならざるは史家にあらざるも亦肯定するに難からず、而も短日稿を脱し倉卒編を了したるを以て、精粗繁簡、素より欠陥なきを保せずと雖(いえども)、町史の大本を示し、現勢を述べ、自治政の実態を叙し得たることは、三万町民諸氏の前に捧ぐるに躊躇しない。
  
 これを読んでも分かるが、わずか6ヶ月で出版するには、他資料からの援用が不可欠だったにちがいない。しかも、近藤健蔵は5~6年前まで東京市の職員であり、『豊多摩郡落合町現状調査』の存在は、当時の同僚あるいは来町した調査員から聞いて知っていた可能性が高い。また、だからこそ出版の6ヶ月前、すなわち1932年(昭和7)の2月あたりに執筆を開始し、同年8月の前半に脱稿、8月27日に滝野川で営業していた土井軍平印刷所へと入稿し、8月31日には発行という短い制作リードタイムが可能だったのだろう。
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 近藤健蔵は、もともと文章を書くのが好きだったのではないか。よく作家たちに「商店を経営するならどんな店?」というような昭和期のアンケートを見かけるが、「(古)本屋」や「文房具屋」と答える人が多かった記憶がある。文房具類は、物書きのもっとも身近な道具だ。彼は元来、文章を書くのも読むのも好きだったからこそ、400ページをゆうに超える『落合町誌』を、わずかな期間で編集できたのかもしれない、そんな気が強くするのだ。

◆写真上:西へ入る道路が山手通りの敷設でつぶされた、寺斉橋南詰めの近藤健蔵が経営する化粧文具店があった上落合721番地あたりの現状。
◆写真中上:東京市による、ガリ版刷りの『豊多摩郡落合町現状調査』の内容。
◆写真中下上左は、東京市が発行した『豊多摩郡落合町現状調査』(1931年)表紙。上右は、近藤健蔵が出版した『落合町誌』(1932年)函と背。は、『豊多摩郡落合町現状調査』に掲載の落合町地図。1930年(昭和5)7月には西武電鉄の下落合駅Click!は聖母坂の下に移動しているが、同地図では下落合氷川明神前のままになっている。
◆写真下は、『落合町誌』の中扉()と著者・編者の近藤健蔵()。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる上落合721番地界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる上落合721番地で「文具店」のネームが収録されている。
おまけ
 下落合を取材中に近藤健蔵も目にしてたとみられる、大正期から変わらない下落合風景。
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