SSブログ

吉川英治が描く松廼家露八への眼差し。 [気になる下落合]

吉川英治邸跡.jpg
 上落合553番地に家を建てて住んでいた吉川英治Click!は、せっかく新築した木の香りも高い邸にはだんだん寄りつかなくなり、旅先や温泉地ですごすことが多くなっていく。浪費家でときにヒステリーを起こす、やす夫人から逃げるためだった。
 吉川英治は一時期、下落合にも住んでいるようだが、上落合で建築中の自邸を監督する仮住まいの借家だった可能性が高そうだ。上落合553番地(現・上落合2丁目)の新邸は、少なくとも1928年(昭和3)には竣工していたとみられ、時事通信社が出版していた『時事年鑑』などでは、1931年(昭和6)までの居住が確認できる。1932年(昭和7)半ばには、杉並町高円寺1016番地に転居しているので、せっかく建てた新邸には彼の30歳代後半の時期、わずか5年弱しか住まなかったことになる。
 そもそも、吉川英治が上落合に自邸を建設したのは、やす夫人の浪費癖を抑えるためだった。貯金をぜんぶはたいて家を新築してしまえば、やす夫人は実質的にムダづかいができなくなるという算段だったが、それでも周囲に迷惑をかける浪費癖は収まらず、おカネさえあればそれをすべてつかい切るまでの散財をやめなかった。自由につかえるカネがなくなると、癇癪を起こしては夫にまとわりつくため、吉川英治はまったく仕事に集中できなかったようだ。今日的な病名でいえば、カネを目の前にするとなんらかの強迫観念にとらわれる精神疾患の一種(パーソナリティ障害)ともいえそうだが、結局、やす夫人とは1937年(昭和12)に協議離婚することになる。
 晩年には「九星気学」に凝っていた池波正太郎Click!は、この上落合時代の吉川英治について随筆『吉川氏の星』(1982年)の中で、次のように書いている。
  
 人間の一生は、衰運五年、盛運四年の繰り返しによっていとなまれてゆく。吉川氏の年譜によると昭和五年(三十八歳)の項に「家事かえりみず、内事複雑、出奔して沿革の温泉地を転々」とある。この年は衰運の二年目で、九紫の星は暗剣殺と重なってしまう。どうにもならぬ年まわりだ。おそらく、その前年から苦悩が始まっていたにちがいない。
  
 池波正太郎はこう書くが、妻を選んで生活をともにした結果、そもそも性格から生活観までがまったく合わなかったわけで、「九紫の星」に起因するかどうかは不明だが、責任の一半は確実に吉川英治自身の「人を見る眼」にあるのだろう。
 吉川英治は、上落合時代に前期の代表作となる、『松のや露八』の構想を練りはじめている。松廼家露八(まつのやろはち)は、新吉原Click!をはじめ各地の遊廓や花街Click!幇間Click!(太鼓もち)だった人物だが、もともとは幕府一ツ橋家の近習番頭取・土井家の長男という旗本格の家柄で、本名は土肥庄次郎といった。土肥庄次郎(松廼家露八)ほど、明治以降の小説や随筆に数多く記録された人物はいないのではないか。1895年(明治28)に『文学界』へ連載がスタートした、樋口一葉Click!『たけくらべ』にも早々に登場している。また、それだけ江戸東京では人気の高い幇間だったのだろう。
 土肥庄次郎は1833年(天保4)、小日向武島町(現・文京区水道1~2丁目)に生まれ、子どものころから剣術や槍術、砲術、馬術、泳術などを習わせられ、それぞれの腕前は免許皆伝並みだったというが、特に祖父・土肥半蔵が得意だった槍術に関しては、人に教えてまわるほどの腕だった。ところが、槍術を教えてまわると教授料の小遣いが手もとに入り、懐が温かくなると当時の若者たちがそうだったように新吉原へ入りびたり、特に幇間(太鼓もち)の芸技にあこがれて、ついには土肥家から勘当されてしまう。
松のや鶴八1990講談社.jpg 松廼家露八.jpg
吉川英治.jpg
彰義隊碑上野.JPG
浅草寺鎮護堂幇間塚112名1968.jpg
 家督は弟の土肥八十三郎が継ぐことになり、土肥庄次郎は両刀を腰に指して世を渡るよりは、遊芸の道で生きるほうが気が晴れると、吉原の幇間・荻江清太へ弟子入りしている。同時に、座敷長唄の一派として流行していた「荻江節」の荻江露友にも弟子入りし、荻江露八と名のるようになった。だが、同じ江戸市中で幇間として生きる荻江露八(土肥庄次郎)は、土肥家にとっては家名の恥っつぁらしで、面汚し以外の何者でもなかったため、1857年(安政4)のある日、小日向へ呼びだされて祖父や親から切腹を命じられた。ところが、介錯に名のりでた叔父・土肥鉄次郎の粋なはからいで、彼の首ではなく髷だけ落として坊主にし、庄次郎は死んだこととして「江戸処払い」(江戸追放)の処分で済んでいる。
 1857年(安政4)に大江戸をあとにした露八は、大阪や長崎、京などの遊廓や待合で幇間としてすごしているが、どの町々も露八の性にはあわず、明治維新とともに大江戸へひそかに舞いもどっている。そして、なぜか土肥庄次郎の本名にもどって彰義隊Click!に参加し、弟の土肥八十三郎が隊長をつとめる第一赤隊の「第一赤隊外応接係」という、珍妙な役職を与えられている。もちろん、ほかの隊にはこんな役職はなく、そのまま解釈すれば対外スポークスマンまたは応接・接待係、あるいは間諜の役割りもあったのかもしれない。弟の土肥八十三郎にしてみれば、太鼓もちになって勘当され、江戸を追放された兄を隊士に迎えるのに、隊内でもそのポジションにかなり苦労したのだろう。
 吉川英治の『松のや露八』では、弟の土肥八十三郎がなぜか「尊王攘夷」思想の持主で、江戸を出奔して倒幕に加わるという正反対の妙な展開になっている。もちろん、薩長政府流れの大日本帝国がつづく当時としては、彰義隊に肩入れをしたような小説は書きにくかったろうし、幕臣だった土肥庄次郎(松廼家露八)をかなり臆病で滑稽に描いている点も、薩長閥が生きていた当時の遠慮した表現なのだろう。もし同作が、大日本帝国が滅亡した敗戦後に書かれたとすれば、まったく異なる展開になっていたかもしれない。
 土肥庄次郎(露八)は、応接・接待係にしては常に最前線で戦っている。「隊外応接」だから、やってきた敵と最前線の急先鋒として常に対峙するのは、「接待係」だからしょうがないのかもしれないが、まずは黒門Click!を出て忍川の三橋で敵を迎撃している。畳を何枚か重ねてバリケードを築き、敵の侵入を防ごうとしたが、スナイドル銃の貫通力には無力でたちまち黒門まで後退している。そこでも、スナイドル銃とアームストロング砲でひどいめに遭った露八は、いくら武術で鍛えても刀鎗や弓矢が銃火器Click!にかなうわけがないと悟り、根岸から古巣の新吉原へと落ちのびた。新吉原へ落ちのびるのが、いかにも松廼家露八(土肥庄次郎)らしくておかしいが、彼をかくまう馴染みの妓楼があちこちにあったのだろう。
黒門.JPG
彰義隊の墓(円通寺).jpg
土肥庄次郎記念碑(円通寺).jpg
 それでも、彰義隊の残党狩りがきびしくなると、露八は新吉原をでて千住から飯能、伊香保と逃れ、品川沖に停泊していた榎本武揚の幕府艦隊に合流する。ここで、露八は松本良順Click!とは異なり、榎本武揚に説得され仙台から箱館(函館)へ向かおうとするが、乗船した咸臨丸が老朽化しており、暴風雨に遭って難破し静岡の駿河湾(清水港)へ漂着してしまう。ここで、露八は箱館いきをやめて新吉原へもどるが、ほどなく徳川慶喜Click!が住み幕臣たちが集まっていた静岡の花街で幇間をしている。だが、慶喜をはじめ幕臣たちが続々と東京へもどりはじめると、露八も再び新吉原に落ち着いている。
 事実を追いかけるだけで、時代小説そのもののような土肥庄次郎(松廼家露八)の生涯だが、なぜ旗本をやめ太鼓もちになった露八が、ハナから負けると知れている彰義隊の戦いに舞いもどってきたのか、現代でもさまざまな解釈がなされている。彼の彰義隊への参加に、「太鼓もち風情が」と蔑んだ彰義隊頭取だった本多晋は、のちに反省して次のように述べている。1906年(明治39)に刊行された、『文章倶楽部』(臨時増刊号)から引用してみよう。
  
 余かつて翁(松廼家露八)の業を賤しみことありしが、倩々(つくづく)方向の世間を見れば、所謂顕官紳士なる者、五斗米の為めに其腰を屈め、朝に卿儻(きょうとう)に驕(おごり)て、夕に権門に阿附し、賄(まかない=賄賂)を収めて公事を私し、巧に法網を潜て靦然(てんぜん)耻ぢざる者少からず。翁や平素紅粉の輩に伍し、客を迎て頭を低るゝは其分なり、諛言(ゆげん)を献するは其業なり、弦歌舞踏は其芸に糊(こす)るなり、一も世に耻ることあるなし。余が是を賤みしは洒々落々たる其心事を知らざりしのみ。(カッコ内引用者註)
  
 いわば、彰義隊頭取の“自己批判”の文章だが、幕府の旗本も薩長政府の官吏たちも、権勢のある者たちへ心にもない阿諛追従を並べたてては日々の飯を食い、少しでも利益を得ようと媚びへつらうあさましい様子はまったく同じで、松廼家露八(土肥庄次郎)は身をもって象徴的な職業を選び、あからさまで皮肉をこめた生き方を演じて見せたのだろう……と想像している。そこにはハッキリと、近代的な自我にめざめた本多晋の思考がうかがえ、松廼家露八に対する現代的な解釈に通じるものが感じられる。
 けれども、これではなぜ露八が幇間の仕事を放りだして、必敗の上野戦争に馳せ参じたのかが不明だ。それまでも、幇間を“休業”しては何度か幕府軍に加わっている。危機を迎えた幕府に恩義を、また旗本という武家としての矜持を常から感じていたのなら、幇間を廃業して幕府軍に“一浪人”として参加してもよかったはずだ。だが、露八はすぐに幇間業へと舞いもどり、いわゆる主な戊辰戦争へは参戦していない。そして、多勢に無勢で敗れるのが自明な彰義隊の上野戦争へ参戦している。これは、戦場が北へと移るとに転戦していった医師・松本良順Click!とは、明らかに異なる選択であり意志を感じる。
 大江戸へ薩長軍が進駐してきた際、新吉原にもどっていた露八は、なにか我慢のできない出来事に遭遇しているのではないか。幕末に起きた薩摩の益満休之助Click!による婦女子への無差別辻斬りや火つけ押込み強盗の件か、荒廃した故郷である江戸の街の姿か、あるいはわがもの顔にふるまいはじめた傲慢な薩長への反感か、とにかく堪忍袋の緒を切るなんらかの事件ないしは事態に遭遇しているのかもしれない。それについて、松廼家露八は生涯口にすることはなく、明治以降も新吉原へ客としてやってくる、政府高官となった昔なじみの榎本武揚と酒を酌み交わしては、ひょうきんな芸を見せるだけだった。
 余談だが、大江戸の街を恐怖に陥れたテロリスト・益満休之助だが、彰義隊との上野戦争で受けた銃創がもとで死亡している。だが、“流れ弾”といわれるこの銃創は背後から、すなわち「味方」から撃たれたとする解釈が現代では多く見うけられる。江戸市中で混乱を引き起こすため、婦女子をはじめとする一般市民を大量に殺傷したテロ活動の口封じのために、上野戦争のドサクサで薩長軍から消されたのではないかという解釈が主流だ。
新吉原仲之町.JPG
吉原細見記1888広瀬源之助.jpg
松廼家露八晩年.jpg
ドキュメント日本人9虚人列伝1969学藝書林.jpg 明治の名物幇間・松廼家露八の生涯2023.jpg
 松廼家露八が、わずか77年Click!で滅んだ薩長政府(大日本帝国)の最期を見とどけていたら、どのような感慨をおぼえただろうか? 本多晋のように解釈すれば、それでも幇間を平然とつづけていたのかもしれない。あるいは、敗戦後に吉川英治が『松のや露八』を執筆していたら、どのようなストーリー展開になっていたのだろうか? 太鼓もちでありながら、それでも鋭い武家の眼差しを失っていない彼の肖像を見るにつけ、ひょうきんで臆病で胡乱な人物には、決して描かなかったような気が強くするのだが……。

◆写真上:1931年(昭和6)まで、上落合553番地に建っていた吉川英治の新邸跡。
◆写真中上は、1990年(平成2)に出版された吉川英治『松のや露八』(講談社版/)と主人公の松廼家露八(土肥庄次郎/)。中上は、戦前に撮影された書斎で執筆中の吉川英治。中下は、上野山に建立された彰義隊戦死者碑。は、1968年(昭和43)に浅草寺の鎮護堂に建立された112名の幇間名が刻まれた幇間塚。
◆写真中下は、千住の円通寺に保存された上野寛永寺の黒門。門柱や格子のあちこちが、強力なスナイドル銃で穴だらけだ。は、同じく円通寺に眠る彰義隊士たちの墓。は、同寺の土肥庄次郎記念碑。土肥庄次郎(松廼家露八)の実質的な墓所だが、現在は記念碑の中央から折れて上半分は碑の裏側に置かれている。
◆写真下は、新吉原の中央を貫く仲之町で吉原稲荷(吉原弁天)社側から眺めた大門方面。中上は、1888年(明治21)に作成された広瀬源之助『吉原細見記』の幇間リスト。中下は、晩年の松廼家露八。下左は、寺井美奈子『松廼家露八』を収録した1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人9/虚人列伝』(學藝書林)。下右は、昨年(2023年)出版された目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち/明治の名物幇間 松廼家露八の生涯』(文学通信)。
おまけ
 明治末近くに描かれたとみられる、新吉原の夜景(作者不詳)。右手に見えている3階建ての楼閣は、その建物の意匠からのちに板橋へと移築された「新藤楼」だろうか。
明治後期新吉原(作者不詳).jpg

読んだ!(24)  コメント(0) 
共通テーマ:地域