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先生と生徒が逆転した会津八一と曾宮一念。 [気になる下落合]

会津八一「筆洗水滴」1929頃.jpg
 会津八一Click!が1929年(昭和4)ごろ、盛んに油絵を描いていたのはあまり知られていない。その作品の多くは知人にやったり、デッサンを練習したスケッチブックも弟子にあげてしまったり、目白文化村Click!にあった文化村秋艸堂Click!山手大空襲Click!で全焼してしまったりと、あまり作品が残っていないせいもあるのだろう。
 会津八一Click!は、早大文学部英文科を卒業しており、もともと西洋美術には興味をもっていたとみられる。目白豊川町Click!の自宅に、小泉八雲Click!の三男で絵ばかり描いて勉強しない小泉清Click!を下宿させたり、下落合の落合尋常小学校Click!脇に通う霞坂に自邸をかまえていた関係から、周辺の画家たちと交流したりしているので、書や画の墨筆とは別に、自然に油彩の絵筆をとってみたくなったのだろう。
 下落合464番地の中村彝Click!とは一度きりしか邂逅していないが、下落合623番地の曾宮一念Click!とは落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!時代も、また下落合1321番地の第一文化村(目白文化村)に移った文化村秋艸堂Click!時代も、会津八一が癇癪を起して「無礼者!」と破門状を送りつけられることもなく、しじゅう親しく交流している。早稲田中学校Click!では、曾宮一念Click!が5年生のとき、会津八一は英語教師として赴任してきており、クラブ活動の美育部(いわゆる美術部)では生徒指導にあたっている。同校美育部からは、中村彝や曾宮一念、萬鉄五郎Click!鶴田吾郎Click!、野口柾夫、小泉清Click!、大内章正、内田巌Click!、吉武正紀、大泉博一郎ら数多くの洋画家を輩出している。
 ちなみに、第一文化村に建っていた旧・安食勇治邸へ、会津八一が霞坂Click!から転居したのは1935年(昭和10)のことだが、安食邸の“貸家”を紹介したのが曾宮一念Click!だった可能性が高いことがわかる。テニス好きな安食一家と曾宮一念は、かなり以前からの知り合いだったようで、「この家は私の友人安食勇治氏が持主であった」(「秋艸堂をしのぶ」1965年)と書いているので、安食一家は第一文化村の邸宅を売却したのではなくどこかへ転居したあと、代わりに会津八一へ自邸を貸していたことがわかる。その仲介をしたのが、両者ともに親しい曾宮一念ではなかっただろうか。
 曾宮一念は、霞坂時代にも増して文化村秋艸堂には散歩がてら足しげく通っており、料治熊太Click!ともしばしば顔をあわせていると思われる。会津は、霞坂から文化村へ転居するころ女中も変えているが、曾宮は留守がちな会津に代わって、女中の“きい女史”とともに来客の対応に追われており、会津いわく「無礼なる来客」のほとんどは彼の傲岸不遜な態度に対する苦情だった。また、霞坂秋艸堂時代の少女だった女中の“しまさん”や、文化村時代の新しい“きい女史”を呼ぶときは名前を呼ばす、いつも「オンナ!」と怒鳴って呼びつけていたそうで、曾宮一念もビックリして慣れるまで時間がかかったらしい。
 会津八一が、頻繁に洋画を描いていたのは霞坂の秋艸堂時代で、弟子の安藤更生Click!がその様子を観察している。1965年(昭和40)に中央公論美術出版より800部限定で刊行された、『会津八一の洋画』収録の安藤更生「会津八一の洋画」から引用してみよう。
  
 先生の油絵は昭和四年に描いたものしか残ってゐない。否、昭和四年にしか洋画は描かなかったと云った方が正確だらう。四十九歳の時である。なぜ昭和四年になって油絵を描いてみる気になったかは、よくわからない。先日も、当時毎日のやうに秋艸堂へ出入りしてゐた料治熊太さんに訊いてみたが、料治さんも「ただ何となく描いてみようと思ってやってみたんだな」といふ返事だった。(中略) まづスケッチブックを買って来て、鉛筆でデッサンをはじめた。画材は書斎にあった簡単なかたちをしたものを選んで、厚い洋書、四角い紙箱、ガラスのコップ、マッチ箱などだった。曾宮さんに相談して洋画の約束などの指導を受けた。(中略) それから神田の文房堂へ行って、スケッチ箱だのパレット、絵具、画筆などの道具一式を買って来た。これも曾宮さんの示唆があったのだらう。大学が夏休みになってから、毎日裸でスケッチ判へ油絵を描いてゐた。画材はやはり身辺の文房具や書物の類だったが、紅い根來塗の小盆に厚い切子ガラスのコップをのせた静物が一番傑作で、これは誰にも与へずに、後までも秋艸堂に掛ってゐたが、戦災で焼失してしまった。
  
 おそらく、文房堂Click!へ画材道具を買いにいったときも、曾宮一念が同行しているのだろう。早稲田中学時代の、先生と生徒の関係が逆になってしまった会津八一だが、曾宮一念は霞坂の秋艸堂へ毎日通っては洋画の基礎を教えている。
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文化村秋艸堂応接室1935_color.jpg
会津八一1943.jpg 曾宮一念1923.jpg
 会津八一は、書の余白に草花や百萬塔などの墨絵を以前から描いてはいたが、いわゆる“文人画”の域を出ていなかったので、絵画の勉強は3Dの物体を2Dに写すデッサンの基礎からだった。洋画に用いる道具について、その使用法からひとつひとつ学んでいる。曾宮が同行したとみられる文房堂で、会津は3号の箱と油絵の具一式をそろえている。
 では、気むずかしくてなにかと怒鳴るクセのある癇癪もちの生徒の、にわか先生となってしまった曾宮一念の証言を、同画集の「秋艸堂をしのぶ」より引用してみよう。
  
 「普通立体を表わすには明暗の度合による」位の事は話したと思うが、会津さんは飲み込みが早く、且つ良い意味での器用な人であったと思われる。あの大柄で一見フテブテしい體に似ぬ繊細で而も確に物を把握する明敏さを持っていた。この点では鈍重とは反対な人のように思われる。最初の作は小形の李朝の水滴で陶器の質と立体とが落付いた気品を表わしていた。「岸田劉生に擬すか」と笑っていた。今度、複製される三点の画の中には、この水滴処女作が無い。その翌週には梨瓜三個を盆にのせてかいてあった。前に比してらくらくと描写され、野菜の生々しさがよく出ていた。風景や花や人物はかかなかったようである。二、三の静物をかいて案外うまく行ったのと、その頃から専門の方の多忙とで画はかかなくなったらしい。
  
 曾宮一念は洋画を教えるかたわらで、霞坂秋艸堂の様子をいろいろ観察している。会津は、昭和初期に起きた熱狂的なハトブームClick!に影響されたものだろうか、スズカケバトを何箱も飼っていた。ハトたちの世話をしながら、いちいち話しかけていたというから、霞坂では孤独な生活だったのだろう。曾宮は、スズカケバトのつがいをもらっている。佐伯祐三Click!からは、1927年(昭和2)の第2次渡仏直前に7羽のニワトリClick!をもらっているので、下落合ではなにかと鳥に縁のある曾宮一念だ。
 曾宮は2羽のハトを水彩画で描き、会津八一にプレゼントしている。そのお返しに、会津八一からは「湘潚夢裡秋」と書いた色紙をもらっており、彼は中国の漢詩からの引用ではないかと推測しているが、「潚湘八景詩」をもじった会津のオリジナルではないだろうか。本来は「潚湘」と書くところ、書や字のかたち(構成)や好みから「湘潚」としているような気がする。当時、会津八一は書の構成について、「自分は新聞の活字によって文字の組立を工夫した」などと曾宮に語っているので、これが冗談でなければ書は絵画と同様、手先の技術や器用さではなく構成がもっとも重要なテーマだととらえていたことになる。また、曾宮には書跡が「一見曲っても重力の釣合をとって書けば良い」とも話している。
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 曾宮一念は、会津八一に関して面白い証言も、『会津八一の洋画』収録のエッセイに残している。曾宮と会津とはかなり親密だったが、同時に画家仲間でもある渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)とも友人だった。つまり、ふたりの関係について双方から想いのたけを聞けた、唯一の人物が曾宮一念だったことになる。中でも驚いたのは、1931年(昭和6)に再婚相手の亀高五市が死去すると、会津八一は亀高文子に追悼文を寄せていることだ。つまり、渡辺與平Click!が死去したあともそうだが、亀高五市の死去後も懲りずにさっそく彼女を訪ねて、神戸のアトリエを訪問している。
 曾宮一念は、会津との最初のきっかけを亀高文子から直接聞いている。それによれば、渡辺家に会津八一が早稲田大学の当時は学長だった高田早苗Click!(ちなみに総長は大隈重信Click!)をともなって訪ねてきたときにはじまる。
  
 渡辺家は早稲田の近くにあって父親が学生を愛していたので学生の出入が多かったという。(文子がいた事も一因だろうが) 或る時高田早苗博士と会津さんとが改った服装で訪ねて来た。文子に結婚を申込みに来たのだという。どう断ったか知らないが、それは受けられなかった。こんな事は詳しく聞くべきでない。「どうして断ったの?」「どことなく私は嫌いだったから」 そのイキサツはそれ以上きかなかった。ただ、與平の死後に会津さんが再び結婚を申込んだこと、更に五市の死後訪問した事をきいた。與平との事は若いローマンスとして画学生間にもてはやされたし、再婚の時は真面目な亀高船長談まで紙上にのって文子さんの立場を明にしてあった。
  
 「詳しく聞くべきでない」などとしながら、曾宮一念はしっかり彼女からいろいろな証言を引きだしているのがおかしい。渡辺ふみの父親である日本画家の渡辺豊洲は、娘が洋画家になりたいというのを喜び、わざわざ横浜から本郷菊坂町の女子美術学校Click!が近い家へ転居するほど、当時としてはめずらしい柔軟な考え方のできる人物だったので、愛娘が「どことなく嫌い」といえば、なにか理由をひねりだしてはモノモノしい会津からの求婚を断ったのだろう。だが、会津八一はあきらめなかった。
 渡辺與平が死去したあと、会津八一は自身の肖像画Click!を描いてくれるよう渡辺ふみに依頼している。彼女にとっては気の進まない仕事だったろうが、夫に先立たれた母子家庭では少しでも収入を増やしたかったにちがいない。彼女は、当時の会津宅(高田馬場時代か?)へ出かけて仕事をしていたことも、曾宮の“取材”で明らかにかっている。
 やはり、「どことなく嫌い」な人物がモチーフではいいタブローなどできるはずもなく、渡辺ふみ(亀高文子)本来の作品からほど遠く、ひどい仕上がりとなっている。また、描かれた会津八一の悲し気な表情も、理解しえないふたりの関係性を如実に表していそうだ。
会津八一「書帙燭台マッチ箱」1929.jpg
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亀高文子.jpg 渡辺ふみ「会津八一像」1914.jpg
 曾宮一念は、ふたりが結婚しなくてよかったとしている。渡辺ふみが、再婚して画業を自由につづけられたのは、理解があり寛容だった亀高五市がいたからで、女中を「オンナ!」と怒鳴って呼びつける会津八一では、ほどなく破局したにちがいないと結んでいる。

◆写真上:1929年(昭和4)ごろ、霞坂秋艸堂で制作された会津八一『筆洗・水滴』。
◆写真中上は、第一文化村の安食邸で1935年(昭和10)より会津八一が借りていた文化村秋艸堂。は、1935年(昭和10)撮影の文化村秋艸堂応接室。(以上AI着色) は、文化村の会津八一(1943年撮影/)とアトリエの曾宮一念(1923年撮影/)。
◆写真中下は、1965年(昭和40)刊行の限定800部『会津八一の洋画』(中央公論美術出版)。は、会津八一のスケッチ帖に残された多彩な静物のデッサン。
◆写真下は、1929年(昭和4)制作の会津八一『書帙・燭台・マッチ箱』。は、同年の『鉢・書籍』。は、渡辺ふみ(亀高文子/)と、まったく気のりがせずにサッサと仕事を済ませて帰りたかったのではないかとみられる渡辺ふみ『会津八一像』(1914年/)。
おまけ
 神戸の赤艸社女子洋画研究所のアトリエで制作する亀高文子(1923年/AI着色)。
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