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曾宮一念と鶴田吾郎の「どんたくの会」教科書。 [気になる下落合]

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 下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!では、アトリエ竣工Click!直後から絵画を趣味にする人たちを対象に、画塾の第1次「どんたくの会」Click!が開講していた。講師は同アトリエの曾宮一念Click!と、当時は目白通り沿いの下落合645番地の借家に住んでいた鶴田吾郎Click!だった。発案・企画したのは鶴田吾郎で、「どんたくの会」Click!の名称は曾宮一念が付けたが、生徒募集には当初10人ほどが参集している。
 「どんたくの会」は、1921年(大正10)から途中で1923年(昭和12)の関東大震災Click!をはさみ、中村彝Click!が死去する1924年(大正13)ごろまでつづいたといわれるが、曾宮一念の『半世紀の素描』(1982年)では2年半としているので、開講3年になるかならないうちに閉じてしまったのだろう。毎週の日曜日、正午から午後5時までの5時間にわたる授業で、月に4~5回ほど開講された当時の月謝は、教材や材料費は別にして5円だった。
 曾宮一念のアトリエを教室にしたが、素描の授業は鶴田吾郎が教え、油彩画の授業は曾宮一念が担当している。当時、ふたりの画家は今村繁三Click!の援助だけでは食べられず、また作品もほとんど売れないので、定収入を得るためにはじめた画塾だった。だが、関東大震災で下落合645番地の借家が傾き、家族ともども住めなくなった鶴田吾郎は、下落合436番地の夏目利政Click!に相談して下落合804番地Click!にアトリエを設計・建設してもらっている。おそらく、中村彝の死からその事後処理、そしてアトリエ建設の多忙さが重なって、鶴田吾郎は「どんたくの会」まで手がまわらなくなったのだろう。
 「どんたくの会」に通ってきた生徒は、落合地域と周辺域の住民たちがほとんどだったろうが、遠くて通えない生徒たちのため、あるいは全国の絵画を趣味にしたい人たちに向け、講義録をまとめたような洋画の「教科書」を作成している。1925年(大正14)に弘文社から出版された、鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』がそれだ。全体構成は、「素描」と「水彩画」、「油絵」の3章に大きく分かれているが、それぞれの絵画の特徴や画道具の解説など、実技を意識したかなり具体的な編集方針を採用している。第1次「どんたくの会」の集大成として、ふたりで編集し出版したものだろう。
 少し横道へそれるが、大正時代も中期になると絵画を趣味にする美術ファンが急増し、展覧会へ作品を観賞しにいくだけでなく、自分でも水彩や油彩を問わずに描いてみようとする人々を対象に、さまざまな技術本やノウハウ本、解説本、教材などが出版されている。わたしの手もとにあるのは、1917年(大正6)に書店アルスから出版された山本鼎Click!『油絵ノ描キカタ』をはじめ、三宅克己Click!『水彩画の描き方』(アルス/1917年)、石井柏亭『我が水彩』(日本美術学院/1916年)、後藤工志『水絵の技法』(アルス/1926)など、同様の書籍が美術系の出版社から次々に刊行されていった。
 鶴田と曾宮の『油絵・水彩画・素描の描き方』では、「素描」ではデッサンの意義にはじまり、木炭画、石膏写生、素描技巧、垂鉛と測棒、明暗法と立体、明暗の強弱、線画、定着、素描と材料……とかなり実践的だ。ところどころにイラストが描かれ、道具の種類や使い方が詳しく解説されている。当時は、西洋画(特に油彩画)の材料がかなり高価で、家計に余裕のある人々が楽しむ趣味だったが、ありあわせのモノや画道具の自作など、できるだけおカネをかけないで絵を楽しむ方法も紹介している。
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 中でも読みごたえがあるのは、やはりボリュームがもっとも厚い「油絵」の章なのだが、具体的な画道具や技法のこと細かな解説や使い方のほかに、西洋の油彩画の歴史や国内における同画の歴史など、趣味としての油絵制作に直接関係のない項目まで記述している点だ。また、同章は後半にいくにしたがって、絵画制作の教科書というよりも洋画界の最新動向や、絵画をめぐるエッセイ(世間話)のような内容になっていくので、西洋画の勉強をスタートさせたい初心者向けというよりも、曾宮一念と鶴田吾郎の美術や絵画に対する考え方(思想)を紹介する読み物としての面白さが加わってくる。
 おそらく、文章表現の技術に関しては、のちにエッセイ類を数多く出版している曾宮一念Click!のほうが優れていたと思われるが、明らかに海外を放浪した経験のある鶴田吾郎が執筆したとみられる箇所も散見される。絵画展覧会を「技術と思想の競技場」と規定する、同書の「展覧会の絵」から少し引用してみよう。
  
 展覧会は芸術作品の発表場所であつて、互に芸術家の技術や思想の競技場にも見られますが、また一般公衆の前に開展するのでありますからそこに純不純の世間的価値を上下することがあつて、芸術家なるものが互に誹謗しあふ弊害も生じ一時的名声を求めんが為に純芸術家の立場を離れて様々な対世間的技巧をするといふことも伴なつてきます。また或る団体が他の意見を異にせる団体に対して、政策上に於て一も二もなく之れを一蹴し去るといふが如きこともありますが、是等は決して純正芸術家としてとるべきことではなく、要するに展覧会なるものが次第に興行化されて来た為であつて、其の興行なるものに携はる一部の計画家が斯かる態度をとることがたまたま生じるので、夫れが誇大されて美術界の不評の種ともなるのであります。
  
 おそらく、上記の文章は二科も文展/帝展も春陽会も、独立美術協会も一水会も、まったく画家の属する集団にはとらわれず、派を超えて多くの画家たちと交流をしつづけていた曾宮一念Click!が書いたものではないかとみられる。
 これが、もし鶴田吾郎が書いた文章であるならば、彼はわずか15年後にはまったく正反対の生き方(絵画制作のしかた)、すなわち軍人と見まごうような服装をしながら戦地を駆けまわり、政府による軍国思想によって統制された美術に同調し、戦争画Click!を描かない画家たちに対して「一も二もなく之れを一蹴し去るが如きこと」をしたことになり、深刻な主体性の自己撞着に陥ってしまうからだ。
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 「展覧会の絵」につづいて、同書の巻末近くには「洋画家と洋行」というエッセイが掲載されている。ちなみに、この時点で曾宮一念は洋行経験がないので、文章を書いているのは海外を放浪した鶴田吾郎ではないかと思われる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 日本の自然は美しいが難しいといふことは洋行して帰つたものに多く出る言葉であります。自然の示すところの色彩は何れかと言へば暗く、複雑にして快明を欠き渋く且つ対色上の美しい効果を多く示してをりません、習慣となれば左程にも感じないのでありますが海外より一歩日本の土を踏むと全体に墨色の多量に含むでゐることを先ず直感します。また日本人の衣服などに於ても外国人と正反対に部分的にて美しい色を表しても全体として大きく眺めた場合、殆んど対色上の美しさや、肉体を包むところの服装の線などが決して画的興味を起させるに甚だ貧しいのであります、むしろ支那人の服装の方がはるかに線などの表れが自然であり絵画的ではないかと思はれます。/小さな例ではあるが右のやうな絵画制作の画因が万事対象より受ける感興が弱い為に、をのずと外国で勉強してゐねよりも感激が薄らぐ故に技量が劣つてくるやうに見えるのでありませう、
  
 これは、当時の洋行した画家が抱く一般的な感想なのだろう。当時の洋画家は、日本にもどってくるとみんなくすんだ色あいに見え、思うように油絵の具が載らないし、フォルムも把握しにくいように思うのだろうが、それは西洋で開発された油絵の具の色彩感から日本の風景を見るからであって、やがて帰国した画家たちはその齟齬や乖離した感覚を埋めようと、あれこれ研究し腐心することになるようだ。
 たとえば、ここ江戸東京地方の伝統的な色彩感覚Click!は周囲の風景に見あうよう、中間色(いま風にいえばパステルカラー調)に美感や美意識を見いだし数百年の時間をかけて発達Click!させたのであり、油絵の具の鮮やかで艶やかな色彩から見れば曖昧模糊として捉えどころがないような、多彩な色を灰をまぶしたハケで薄っすらと掃いたような、シブくて淡い(はかなげな)色あいをしているものが多いが、昔の人たちはそれらの色彩が「日本の自然」や「街の風景」にはよく似あい、無理なく溶けこんで美しいと考えたからだろう。江戸東京では、この美意識がいまでもガンコに受け継がれ生きつづけているが……。
 そこへ明治・大正期を通じて、西洋の風景に適合するよう開発された油絵の具を持ちこんだわけだから、違和感を感じるのはむしろ当然だったにちがいない。ましてや、パリの街角から当時の日本へもどってくれば、艶やかで鮮やかな油絵の具に見あう風景などどこにもないじゃないか……と感じても、なんら不思議ではなかっただろう。
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 わたしは不勉強なので知らないが、洋行した画家がたとえばフランスで風景を描くときに使用した絵の具の種類と、帰国してから風景を描くときに使用した絵の具の種類を詳細に比較すると、特徴的な面白い結果が得られるのではないかと想像している。すでにそのような研究をされている方がいるのかもしれないが、空や木々の緑、地面の土の色ひとつとってみても、フランスと日本では絵の具の混合がかなり異なっているのではないだろうか。

◆写真上:下落合623番地に建っていた、曾宮一念アトリエ跡(右手の駐車場)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』(弘文社/)とその奥付()。は、1917年(大正6)出版の山本鼎『油絵ノ描キカタ』(アルス/)とその奥付()。は、1921年(大正10)からの第1次「どんたくの会」と1931年(昭和6)からの第2次「どんたくの会」が開かれた曾宮一念アトリエの内部。
◆写真中下:いずれも『油絵・水彩画・素描の描き方』収録の作品で鶴田吾郎『松山』()、曾宮一念『アネモネ』(1925年/)、鶴田吾郎『土を掘る人』()。
◆写真下は、庭に立つ曾宮一念と下落合のアトリエ(提供:江崎晴城様Click!)。は、1931年(昭和6)ごろに撮影された第2次「どんたくの会」の曾宮一念(右端)。

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