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東京からきたって顔は絶対しないで1931年。 [気になる下落合]

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 少し前に、「東京へいってくら」「江戸へいってくら」という感覚が、戦後まで残っていた中野地域の事例Click!をご紹介したが、その際、落合地域にもまったく同様の地域感覚が残っていたのではないかと書いた。事実、やはり残っていたのだ。
 1931年(昭和6)に、麹町区三番町(現・千代田区三番町)生まれの女性が、恋愛結婚をして落合町葛ヶ谷Click!(現・西落合)の旧家へ嫁いできたとき、夫から「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」と頼まれている。つまり、裏返せば落合町は「東京」ではないという感覚が夫にも、また家族や近隣の人々にも、当時まであった様子がうかがえる。「東京」は仕事や買い物で出かけるエリアであり、妻にした女性は地元にしてみれば「東京」から嫁いできたという、明確な地理的認識があったと思われる。
 彼女が生まれ育った麹町区三番町は、千代田城Click!の内濠に接したすぐ西側の町で、本丸から西へわずか1km足らずしか離れていない。江戸期には大旗本が軒を並べて住んでいた地域であり、(城)下町Click!の中では乃手(山手)Click!と呼ばれた中枢エリアだ。日本橋や神田あたりの町場からは、商家から借りたカネを返さないで踏み倒す、幕府の身分が高い横柄な武家が住んでいた、「人が悪いよ糀町(麹町)」と呼ばれたエリアでもある。w 彼女はまちがいなく江戸東京における、(城)下町の中核地域で生まれ育ったことになる。
 では、どこから先が「東京」だったのかというと、おそらく中野地域とまったく同様に新宿駅の山手線内側あたりから“向こう”という感覚だったのではないだろうか。中野地域の事例は中央線・中野駅だったが、落合地域の場合は目白駅あるいは高田馬場駅から山手線Click!に乗り、新宿駅の東口で降りた先、神田から事業移転してきたデパート伊勢丹Click!(旧・ほていや百貨店Click!)から先が「東京」……という感触だろうか。
 この意識は、江戸後期に朱引き墨引きClick!が大きく拡大され、市街地が拡がって大江戸(おえど)Click!と呼ばれるようになり、甲州街道の内藤新宿Click!と東海道の品川宿Click!が廃止され、大江戸に編入されて町奉行の管轄になったころからのエリア認識なのは明らかだ。また、新宿駅の東口から四谷方面に歩けば、大江戸の市街地と郊外とを分けるメルクマールとなっていた、四谷大木戸Click!が設置されていた地点でもある。
 21世紀の今日、東京の(城)下町で生まれ育った女性が結婚して落合地域に転居してきたとして、夫から家族や近所に「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」などと頼まれたりしたら、「ハァ? あなたなにいってんの?」とまったくトンチンカンな会話になってしまう。東京でもっとも賑やかな街を抱え、都庁も移転してきた新宿が、東京の「副都心」から「都心」と呼ばれるようになって数十年たつが、わずか100年足らずの間に、これだけ“東京”という街に対する認識に変化が生じたわけだ。
 これと同じことが、江戸(江戸前期)→大江戸(江戸後期)の街でも起きているとみられる。江戸前期には、(城)下町の中心街といえば神田であり日本橋だったろうが、途中から大川(隅田川)Click!の東側である本所Click!深川Click!向島Click!地域が下総から江戸市中に編入されるとともに、江戸後期の繁華街の中心地は日本橋地域の東側へと移り、大橋(両国橋)Click!を中心としたエリアClick!が大江戸(おえど)でもっとも賑やかな街へと変貌していく。そして、明治期に入れば日本橋の南側に位置する銀座Click!と、大橋(両国橋)の北側に位置する浅草Click!が繁華街の中心になっていく。
 さらに、昭和期に入ると東京15区制が35区制Click!へと拡大し、(城)下町からは武蔵野Click!と呼ばれていた新宿駅Click!の周辺が急速に発展して、戦後は渋谷と池袋がそれにつづく……というような経緯だ。明治以降、丸ノ内3丁目の松平土佐守屋敷跡(1457年に江戸城Click!を築いた太田道灌Click!像の位置)から動かなかった東京都庁(旧・東京府/東京市合同庁舎)だが、行政機関が淀橋浄水場Click!跡の新宿駅西口へ丸ごと移転するとともに、都内の地域をとらえる意識や地場感覚はめまぐるしく変化している。
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 では、1931年(昭和6)に落合町葛ヶ谷へ嫁いできた、乃手育ちの貫井冨美子という方の証言を聞いてみる。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された、『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の「西落合・葛ヶ谷村界わいの暮らし」から引用しよう。
  
 主人の家は代々この葛ヶ谷村(西落合)でございまして、村の世話役のようなことをしていたようですが、お父さまは三三歳で、お母さまも早くに亡くなって、主人はおじいさまとおばあさまに育てられたそうですから、随分と苦労が多かったと思いますよ。私が参りましたときは、広い家に主人と、主人の亡くなった姉の忘れ形見の小学校四年生の男の子と、ばあやの三人きりでした。/結婚いたしましたときに、主人は「こういう子どもがいるけれども、大事に可愛がってやってくれ」って申しました 「それから、“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないでほしい」 そして「村の人と仲よくやってくれ」って申しました。/こちらへ参りましたころここは田舎で、長崎へ行くまでずうっとすすきの原っぱで、こうもりが飛んでいて、そのもっと先は竹藪で、私は見ませんでしたけれど、きつねがいたって言ってました。
  
 現在でも、神田川や妙正寺川の橋下にはアブラコウモリが棲息して、夕暮れになるとたくさん飛びまわるし、さすがにキツネは見ないがタヌキはそこそこ歩きまわっている。でも、ススキの原っぱは井上哲学堂Click!のほうまでいかないと見られない。
 上記の文章から推察するに、当時の落合町葛ヶ谷の東京方言と、彼女のいわゆる乃手弁Click!(東京方言山手言葉)からして、かなり異なっていたのではないかと思う。身のまわりに「ねえや」(女中)がふたりもついて育った彼女が、「私=わたくし」などというと違和感をおぼえて、「村」の衆は「ちぇっ、気どってやがる」と感じたかもしれない。「じゃあだんじゃねえやな。おとーさまったって、正月にゃ葛ヶ谷消防組の出初式でハシゴ乗りしちゃアラヨッてんで、上機嫌できこしめしちゃ赤い顔してたオヤジじゃねえか。なにがおとーさまだい」などと、陰口をたたいていたかもしれない。w
 文中から、耕地整理Click!の最中だった落合町葛ヶ谷(現・西落合)の時代でさえ、江戸期からつづく「葛ヶ谷村」の意識そのままだったことがわかる。彼女が、早大理工科の恋人の出身地である葛ヶ谷に、それほど抵抗感なく入りこめたのは、身体が弱かったせいで20歳をすぎてから母親の知り合いが住んでいた長崎町で療養生活を送っており、早くからその周辺域の土地勘が備わっていたせいもあるのかもしれない。「当時はとっても遅いんでございますのよ」という彼女が恋愛結婚したのは、すっかり身体が丈夫になった27歳のときだった。
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 当時の葛ヶ谷は、耕地整理が進捗しているとはいえ一面に農地が拡がる一帯で、農家があちこちに散在するような環境だった。農家では白米は食べず、今日では健康食といわれる雑穀米だったようで、白米は神棚に載せるご飯ということで「のんのまんま」と呼ばれていた。また、魚は「うみちいちい」と呼ばれ、椎名町Click!交番横Click!にあった“ひのや”という魚屋から、毎日棒手振(ぼてふり)の店員が売りにきていた。この交番は、現在の三角形の敷地にある“二又交番”のことではなく、その向かい(長崎バス通り入口の東側)にあった古い位置の交番だ。近隣には、パーマがかけられる美容院がなかったので、彼女はしかたなく長い髪をうしろで丸めてとめるようなヘアスタイルをしていた。
 「村」の風習については、昔から家にいた「ばあや」がいっさいを飲みこんでいて、どこかへ出かけるときも「あっちへ行くんならこっちから出ていけ」とか、「行きと帰りが違う道を通るんだ」とか、いろいろ教えてくれたようだ。ざっくばらんな市街地とは異なり、近所や親戚と円満につきあうためには、いろいろやかましい地域のしきたりや“お約束”があったらしい。だが、このばあやはもともと生粋の神田っ子だったので、彼女とはウマがあったようだ。休みの日には芝居を見にいき、目白駅Click!から俥(じんりき)Click!を飛ばしては葛ヶ谷まで帰ってきたそうだから、評判の芝居や役者の話なども彼女にしてくれたのだろう。
 彼女が嫁いだ家の、周辺に拡がる風景を同書よりつづけて引用してみよう。
  
 竹の子なんかは家の裏の竹藪で掘るから買ったことはございませんでした。掘りたて穫れたてのは、そのまま食べられまして、えぐくないんですのよ。おいしかったですよ。竹で籠作りもこの辺は盛んだったようですよ。/うちではお茶を作っていたそうで、主人の父はお茶作りがとっても上手だったんですって。できたら障子に向かってパッと投げると、それが障子にささったって主人がよく話しておりました。家の周りにもお茶の木がたくさんございましたよ。この辺りは見渡すかぎり畑で、遠くに落合の火葬場の煙突が見えたんですよ。それで「昨日は友引だったから今日は煙がよく見える」なんて申してました。
  
 大泉黒石Click!が、長崎村五郎窪4213番地Click!に転居した際、周囲を茶畑で囲まれた自邸(西洋館)のことを「茶中館」と名づけているようだが、当時の長崎地域や落合地域には明治期からの茶畑(栽培していたのは狭山茶)が、あちこちに残っていたのだろう。
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 「わたくしは番町ですのよ」と奥さん、「あたしは神田っ子なのよ」とばあや、こんなふたりがいる家の中で「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないでほしい」と夫が頼んだとしてもどだい無理な話で、姑も舅も小姑もすでに亡くなって不在だった貫井家で、ふたりは市街地の様子やウワサ話をあれこれ楽しげにおしゃべりしていたのだろう。西落合に住んだ貫井冨美子という方の話は面白いので、機会があればまたご紹介したい。

◆写真上:西落合は戦時中に爆撃をほとんど受けていないため、あちこちに古い家屋を見ることができる。以下のモノクロ写真は、2003年(平成15)にコミュニティ「おちあいあれこれ」が編纂した『おちあいよろず写真館』より。
◆写真中上は、1917年(大正6)ごろに撮影された葛ヶ谷・貫井家の正月風景。は、1945年(昭和20)ごろに撮影された西落合の地元消防団。は、昭和初期には葛ヶ谷のどこからでも眺められた荒玉水道Click!野方配水塔Click!(1929年竣工)。
◆写真中下は、1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000地形図Click!にみる葛ヶ谷村。東側の長崎村側から、当時の流行だった狭山茶栽培の茶畑が増えてきている様子がわかる。は、貫井冨美子が結婚する前年1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図にみる葛ヶ谷地域。耕地整理が終わった地域から、新しい道路が碁盤の目のように敷設されている。は、昭和初期の住宅とみられる和洋折衷の近代建築。
◆写真下は、1925年(大正14)ごろに撮影された葛ヶ谷耕地整理記念写真。前列の左からふたり目が、当時の町長で落合耕地整理組合の組合長も兼ねていた川村辰三郎Click!。この中に、葛ヶ谷(西落合)では旧家だった貫井冨美子の連れ合いが写っている可能性がある。は、昭和初期に設置され現在でも道路沿いに長くつづく大谷石の宅地用縁石。は、戦後になって西落合の原っぱで撮影されたとみられる紙芝居屋に集まる子どもたち。

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山岳は遠きにありて愛でるもの。 [気になる下落合]

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 室生犀星Click!は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠じたが、その伝でいえば「ヒグラシは遠きにありて愛でるもの」ということになるだろうか。遠くの森や山の中で、暮れなずむなかカナカナカナ……と静かに響く合唱を聞くと、どことなくうら寂しくしみじみとした晩夏の気分にさせてくれるけれど、早朝の5時前後から、寝室のすぐ裏に生える樹木で「カナカナカナ! これでもカナカナカナ!」などと怒鳴られては、朝っぱらから殺意をもよおすほどの騒音だ。
 今年の夏は、ことのほかセミが多く、9月下旬になってもアブラゼミとツクツクボウシは鳴きやまなかったけれど、山々でもセミたちの声は例年になくかまびすしかったのではないだろうか。少し前の記事Click!にも書いたが、わたしはなんとなく薄気味の悪い山岳よりも、精神をデフォルトにもどしてくれて弛緩でき、気が許せる海Click!のほうが好きなので、大人になってから向かう先は海のほうが圧倒的に多かった。
 ところが、古いアルバムを整理していて気づくのだが、そこに貼られて残された写真類を見ると、親父Click!は若いころから圧倒的に海よりも山、それもアルプス級の標高の高い峰々が好きClick!だったらしい。山の写真は、親父の年齢を問わず多く残されているけれど、海の写真は千代田小学校Click!の高学年に、千葉県勝浦の興津海水浴場へ出かけた臨海学校Click!のみしか見あたらない。東京大空襲Click!で実家にあったアルバム類が焼け、そもそも写真があまり残っていないせいもあるのだろうが、ひょっとすると戦前から戦後にかけて若い子たちの間では、熱狂的な登山ブームでもあったものだろうか。
 当時のそんな山好きの若い子なら、必ず読んでいた本の1冊だと思われるものに、1942年(昭和17)に大新社から出版された大泉黒石Click!『山の人生』がある。日本の文学界や、その息のかかった出版社からは悪意にもとづき“ウソつき”呼ばわりされて意図的に排除され、昭和10年代以降はおもに日本の山岳や、山々の温泉場に関するルポルタージュを書いていた大泉黒石Click!だが、同書の中に山の怪談を記録した一文が掲載されている。
 『谷底の絃歌』と題されたノンフィクション(ほんとにあった怖い話)は、日米戦がはじまる前後に大泉黒石が尾瀬沼の帰りに、群馬県の片品川渓流沿いにある老神温泉に逗留した際、道連れになっていた登山家から聞かされた話だ。当時もいまもある、大旅館「白雲閣」の温泉につかりながら、怪談の口火をきったのは黒石だった。このころの黒石は、文学界から締めだされたあと、ようやく“山岳旅行作家”としての執筆活動が軌道に乗り収入も安定してきてきたのか、大きな旅館へ宿泊する余裕があったようだ。
 『山の人生』(大新社/1942年)を底本とする、2017年(平成29)に山と渓谷社から出版された東雅夫・編『山怪実話大全岳人奇談傑作選』より、同作から引用してみよう。
  
 (黒石の怪談)あれから沼山峠を越えて東へ一里の山中に、矢櫃平といって、摺鉢の底みたような熊笹の原がある。ここは源義家に追われた安部惟任一族が、はるばる奥州から利根へ逃げ込むときに、矢櫃、鎧櫃などを埋匿したというので、矢櫃平の名称があるんだそうですがね。不思議なことには、只今でもこの笹原に足踏入れると、方角の見当がつかなくなって、立往生する。御承知の通り、山の中で頼りになるものは地図でしょう。それがですよ。持っている地図の文字や線が消えてしまって、いつの間にやら、白紙になっている。だから何方へ行ったらいいか、サッパリわからず、迷いに迷いながら、やっとのことで笹原を脱出て見ると、その白紙が、また、いつの間にやら元の地図になっているんだそうです。(カッコ内引用者註)
  
 安部惟任一族の話は、「やびつ=矢櫃」地名へ辻褄をあわせるための後世の付会だろう。安部一族が、わざわざ奥州からより障害や敵対勢力が多そうな、関東へと落ちのびてくるなど考えにくい。落ちのびるとすれば、奥州の南ではなく北だろう。
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 また、登場している「やびつ」の由来だが、神奈川県の丹沢山塊にもヤビツ峠という名称が存在している。もちろん、「矢櫃」の伝説などとは無縁で、当てはめる漢字も不明のため昔からカタカナで「ヤビツ峠」と表記されたままだ。いまでは、丹沢登山やキャンプ場へと向かうターミナル的な起点になり、休日にはかなり賑わう峠になっている。
 ちょうど、丹沢山塊のどこへ向かうにもおよそ都合がいい、少し開けた感じのする峠の空間(路線バスも通う)なのだが、ヤビツとは「ヤ・ピト゜」が転訛した原日本語(アイヌ語に継承)ではないかと疑っている。「ヤ・ピト゜」とは「神々しい丘」あるいは「(尊称としての)丘(山)様」というような意味になる。
 大泉黒石は、この怪談を事前に知っていたら、尾瀬を訪ねたついでに矢櫃平へ足をのばすのだったと残念がっているが、山にいる樵夫や炭焼きの話によれば、この現象はまちがいなく安部一族の幽魂のなせるワザなのだそうだ。ひょっとすると、地図の細かな文字や線が見えなくなるのは、登山による過度の疲労からにわかに低血糖症となり、視力に異常をきたして手もとのモノが見えづらくなっていたのではないだろうか。そうまともに解釈しては、せっかくの怪(あやかし)なのに身もふたもないのだけれど。
 さて、黒石の怪談に対し、途中から山の道連れになっていた登山家は、もっと怖い話を語りだしている。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 私の知っている山の温泉宿の二階座敷に、近ごろ女の幽霊が出たり、真夜中になると、床の下から嬰児の泣声がきこえる、という噂が立ったんです。(中略) 噂は段々ひろがって、その土地の新聞にまで書立てられるほど、有名になった。温泉宿の人達の話によると、その温泉宿は、もと部落の者の墓地だったところへ建てたんだそうで、墓地の持主の娘が旅商人の胤を宿して、女の子を生んだ。父親が怒って嬰児を里子に出して終った。娘は気が違って淵に身を投げて死んだ。父親は家をたたんで他国へ行っちまった。その家と墓地を無代同様に買ったのが、温泉宿の主人で、墓地のそばに温泉が湧いているもんだから、墓地を取払って宿屋を建てたんですな。(中略) 世間には物好が多いから、こいつァ面白い、嬰児の泣声なんざ、聞えなくってもいいが、別嬪の幽霊にはお目にかかりたいもんだ、というわけで、温泉の効果なんか何うでもいい連中が、どしどし押しかけていく。
  
 こちらのほうが、因縁が多少ハッキリしているので怖い話だろう。里子に出されたはずの、嬰児の泣き声が床下から聞こえるのは、実は里子に出したことにして父親が村人に知られぬよう、秘密でナニしてるのではないか?……とか、小野不由美の『残穢』Click!(新潮社/2012年)的な不気味さや気持ちの悪さすら漂っている。
 女の幽霊が、知らないうちに「別嬪」化されているのはちょっとひっかかるけれど、ひそかに流した「別嬪」な女幽霊のウワサが各地からの宿泊客を万来させる、温泉旅館によるステルスマーケティングの成功例とみてまちがいないのではないか。これで温泉街に置き屋でも備われば、男性客をターゲットにした街の振興プロモーションは大成功となる。“座敷わらし”効果の「別嬪」幽霊版と考えれば、あながちピント外れでもなさそうだ。地元の新聞に“怪異”をリークしたのは、実はこの旅館の関係者だった可能性が高い。
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 現在では、「事故物件」へ泊まりたがる物好きや、検証型or肝試し型のYouTuberのために、いわくつきの客室をネットでリリースしている旅館やホテルも多いようだ。経営側にしてみれば、幽霊が出ようが出まいが知ったこっちゃないわけで、「別嬪」幽霊が出なくても「たまたま日が悪かった」とか、「彼女との相性が悪かった」とか、「泊まる前に寺社に参ったのがいけなかったんだ」とか、「もともと霊感がないからかも」とか、「自分は気が強いから出にくいんだろう」とか、自ら勝手な理屈をひねりだしては諦めて帰っていくだけだろう。そんなことで、なかなか予約が埋まらない“わけあり部屋”が回転するのであれば、経営者としては御の字で願ってもない客筋となるわけだ。
 登山家が語った温泉宿は、連日「満員の盛況です。逆宣伝も巧く当ると此の通り」と、やはり温泉宿によるステルスマーケティングを疑っている。また、安部一族の呪い譚も、勝手に私有地の山へ入りこむ「登山家よけの禁厭に、地図が白紙になるなんて、途方もないことをね」と、登山家はハナから信用していない様子がうかがえる。
 だが、この理屈っぽい登山家でも、まったく説明不能な出来事に遭遇している。同じく上州の四万温泉から入りこんだ、雨見山の深い谷間で道に迷い、日が暮れてしまったので山の斜面でたまたま見つけた、廃墟のような小屋で一夜を明かすことになった。
  
 夜中に目が醒めると、何うでしょう。宵会の座敷で芸者が、三味線ひいて唄い騒ぐような賑やかな物音が、真暗い谷底から聞えて来るじゃありませんか! この山奥に料理屋でもあるまいし、不思議に思って聞いているうちに、賑やかな音はパッタリ絶えてしまった。
  
 翌朝、近くの掛茶屋に寄ったので昨夜の経験を話すと、茶屋の爺さんが36年前の出来事を教えてくれた。雨見の谷には、もともと賑やかな炭焼き部落があり、越後三俣からきた5人の芸者が住みついて紅灯の店を出していたという。だが、谷間の大雪崩に家ごと巻きこまれ、芸者5人は全員が建物とともに流され全滅してしまった。深夜になると、谷底から聞こえてくる三味線や唄声は、惨死した女たちの亡霊のしわざだろう……とのことだった。
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 くだんの登山家も、自分が現場で直接体験していることだから説明がつかず、思わずゾッとしたのだという。これだから、山岳には不可解で得体の知れないモノが棲みつき、うごめいているような感じがつきまとうので苦手なのだ。わたしは、やっぱり海のほうがいい。

◆写真上:おそらく北穂高の細い尾根筋から、親父がカメラを北に向けて撮影したとみられる「アルプス銀座」(北アルプス)の峰々。1949年(昭和24)の撮影で、右手には当時はまだ名づけられていなかった「ゴジラの背」Click!が見えているはずだ。
◆写真中上:大泉黒石と同じく、上州での山歩きで親父が1943年(昭和18)ごろに撮影した山岳の写真。は、岡本あたりの山から向かいの山々を望んだ風景。は、明らかに手前が妙義山で奥が浅間山とみられる。は、榛名山方面だろうか。
◆写真中下は、1949年(昭和24)に親父が喜作新通りから燕岳とみられる山をとらえた写真。は、尾根筋から穂高連峰をとらえたとみられる写真。は、同時期に槍ヶ岳の容姿からしておそらく東鎌尾根の尾根筋より西を向いて撮影した峰々。戦後間もないこの時期、親父は北アルプスを次々と制覇しようとしていたように思える。
◆写真下は、1941年(昭和16)に箱根の大涌谷あたりで撮影されたとみられる写真。もちろん当時はロープウェイなど存在せず、すべて足による登攀だったろう。は、明らかに東京府立三中(現・両国高校)の制服姿をした生徒たちのパーティが、箱根の駒ヶ岳付近を登攀中の姿をとらえたもので親父もこの中にいたのだろう。下左は、1942年(昭和17)に出版された大泉黒石『山の人生』(大新社)。下右は、同書の『谷底の絃歌』が収録された2017年(平成29)出版の『山怪実話大全岳人奇談傑作選』(山と渓谷社)。
おまけ1
 戦後撮影の1枚で、上高地の小梨平あたりだと思われるが、キャンプにもよく出かけたものだろうか。三角巾にショートパンツ、ハイソックスの野営炊事係らしいとてもかわいい女子が、丸太をわたした梓川とみられる岸辺に写っているが、ちなみに母親ではない。(爆!)
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おまけ2
 苦労して山頂付近まで登攀すると、ミニスカートにパンプスの女子たちや走りまわるガキどもに、杖をついた老人までがいて、「いままでの苦労はいったい何だったんだ!」と愕然とする、同じく北アルプス南端の乗鞍岳。だから、山はイヤなんだよね(ちがうか)。
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「山手線」の測定標杭を引っこ抜け。 [気になる下落合]

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 明治期に起きた鉄道敷設の反対運動Click!には、よく鉄道本などに書かれているその理由として、蒸気機関車の排煙で火事が多発するから、機関車の振動で作物の生育が悪化するから、線路沿いの電線を伝ってスズメが集まるから、いち早く伝染病Click!が拡がるから……などなど、現代から見ると中にはやや滑稽な理由も含まれている。確かに、利用者で混雑するターミナル駅や電車を介して、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)Click!あるいはインフルエンザが拡散されていったケースもあるだろう。
 だが、切実な理由から激しい反対運動を繰り広げたのは、当の鉄道敷地や駅舎予定地の地主たちだった。日本鉄道(株)が、「品川川口間鉄道」(現・山手線)を計画して沿線の住民たちに発表したとき、鉄道誘致を展開していた村々は喜んだだろうが、それが憤激に変わるのにさして時間がかからなかった。日本鉄道が用地を適正な実勢価格で買いとるどころか、地主たちは“半額セール”Click!をやらされることになったからだ。
 しかも、日本鉄道の「鉄道を敷いてやる」的な強引で傲慢な姿勢も、沿線地主たちを激怒させた要因だろう。所有者に断りもせず無断で農地や宅地に侵入し、勝手に測量しては境界杭(測定標杭)を打ち並べ、いきなり社員が所有者の家にやってきて、境界杭を打った土地を実勢価格の半額で売るべしと、明治期の土地収用法をカサにきて上意下達式にいい残していった……というようなケースがほとんどだったからだ。
 怒った農地や宅地の所有者たちは、日本鉄道が勝手に測量して自分の土地に打ちこんでいった境界杭を、片っぱしから引っこ抜いて工事の妨害をつづけることになる。東京都の公文書館には、これら「測量杭行方不明」事件あるいは「測定標杭妨害」事件の報告書が、東京府庶務課の記録として多数残されている。それは、高田村や下落合村の周辺に限らず、品川方面から徐々に北上していく激しい反対運動だったとみられる。おそらく、日本鉄道の横暴と土地の“半額セール”の情報は、またたくまに「品川川口間鉄道」計画沿線の村々に伝わっていったにちがいない。
 わたしの手もとには、「品川川口間鉄道」の工事計画が進む1880年(明治13)に作成された、東京都公文書館に保存されている『往復録第一類/東京府庶務課』の資料があるが、目黒村や渋谷村、代々木村などにおける妨害事件の詳細が多数記録されている。実力行使をともなう、あまりに激しい反対運動だったせいか、中には工部省から東京府へ問い合わせた「工部省より鉄道沿線測定標杭妨害の件に付照会」までが記録されている。これらは、荏原郡(現・品川区/目黒区含む)をはじめ南豊島郡(現・渋谷区/新宿区含む)、北豊島郡(現・豊島区/北区含む)と、現在の山手線西側のすべての地域を含んでいる。
 たとえば、1880年(明治13)4月29日に記録されている、工部省の書記官・杉実信から東京府知事・松田道之あてに出された、目黒・渋谷・代々木の3村における「標杭取棄」事件に関する照会文書を、東京都公文書館の保存資料からそのまま引用してみよう。
  
 東京前橋間沿線ニ付 既ニ測量線路ハ標杭打チ立候処 此程中何物之取棄候〇〇願上 目黒渋谷代々木村等ニ於テ右測定之標杭三四本抜取之有者〇〇〇 又昨今中下渋谷村ニテ一二本紛失ニ及ヒ 夫レカ為メ実測点検之多大ニ不都合ヲ生シ候義ニ付 決シテ之等ノ所業無キ様沿道村民ニ無漏厳〇〇〇旨 至急〇〇〇〇〇〇度 此段及付照会〇也(〇は判読不明字)
  
 この時点で、3村における測定標杭の「取棄」事件は、34本+12本の計46本にも及んでいたことがわかる。いざ工事に取りかかろうとすると、目印となる標杭がまったくなく作業を中断し、もう一度測量からやり直しになったケースも多かったにちがいない。
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 東京府庶務課では、「妨障害無之様沿線村々ヘ至急告示」を繰り返すが、激怒した地主たちは聞く耳をもたなかった。ついには各村々の戸長へ、標杭が引っこ抜かれないよう見張れとまで命じている。だが、沿線村々の戸長も自身の土地が勝手に測量され、“半額セール”の災厄に巻きこまれた人物もいたとみられ、日本鉄道への妨害や東京府への抗議はなくならなかった。むしろ、村の利害を代表する戸長が率先して、村民とともに標杭を引っこ抜いていたケースもあったのではないだろうか。なんだか、1970年代の三里塚闘争を想起させるような、実力行使をともなう激しい反対運動が展開されている。
 高田村の戸長・新倉徳三郎Click!にも、測定標杭が「行方不明」になって妨害されないよう、監視・管理をちゃんとしろという命令が東京府からとどいているようなので、高田村の「品川川口間鉄道」敷設予定地あるいは目白停車場設置予定地でも、そのような事例が発生していたのだろう。しかし、日本鉄道が勝手に設置した測定標杭を、24h365dにわたり見張ることなど不可能なので、標杭の「取棄」事件は工事が強行されるまでつづいていたのではないだろうか。高田村における測定標杭の引っこ抜き妨害事件、あるいは新倉徳三郎あての東京府庶務課からの命令書は、残念ながらいまだ発見できていない。
 この反対運動は、豊島線(池袋停車場から分岐する現・山手線)の計画が具体化する明治後期には、その激しさを増している。1901年(明治34)に東京府知事だった千家尊福Click!の周囲には、日々寄せられる「意見書(苦情・抗議書)」が山積していたとみられる。日本鉄道が、品川川口鉄道につづき豊島線の敷設を進めていたため、その土地買収をめぐって敷設工事を監督する立場にある東京府へ抗議が殺到したとみられるからだ。
 千家府知事は、庶務課あるいは鉄道敷設に関する業務を行う部局の担当者を呼んで、「これはいったい、どうなってるのかね?」と、さっそく照会しただろうか。寄せられた「意見書」=苦情・抗議書のほとんどが、池袋駅を起点とする豊島線の沿線地主からで、そろいもそろって土地収用に関して激怒している内容だったからだ。千家尊福の性格からして、これはあとあとまで尾を引いてマズイなと感じたかもしれない。のちに、怒った沿線の地主たちにより、次々と土地買収に関する訴訟が起こされ事態は深刻化していくことになる。
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 中には、鉄道敷設に必要なギリギリの土地だけの面積しか買収しない日本鉄道のせいで、自宅の軒が停車場とくっついてしまうような住宅も出現した。当然、家の建て替えあるいは移築をしなければならなくなるが、それに対する移転費・補償費もまったく出ないというありさまだった。農地や宅地を所有する住民たちの怒りは、標杭の「取棄」事件のように直接的には日本鉄道へと向かったが、それを監督・指導すべき東京府へも続々と「意見書(苦情・抗議書)」が寄せられている。
 たとえば、実勢価格を無視して土地の“半額セール”を迫られた、巣鴨村池袋にある重林寺住職の宮崎真誠という人は、1901年(明治34)に下記のような「意見書」を東京府に提出している。ちなみに、同寺は境内へ勝手に日本鉄道の測量隊が無断で侵入し、地価の半額で買収すると「強請」=ゆすられたとして許しがたいと書いている。
 2006年(平成18)に豊島区立郷土資料館から刊行された、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集)から引用してみよう。
  
 豊島線鉄道用地ニ係ル当寺所有ノ地所ニ対シ日本鉄道会社長ヨリ土地収用審査会裁決申請セラレシニ付、右ニ対スル意見呈出仕候/一 日本鉄道会社ニ於テ当寺所有ノ地所買収ニ付、無断ニ測量シ、且ツ壱坪金弐円五拾銭ト所定之強請セラレ候次第ニ付、承諾致シ難ク候事/一 鉄道用地ニ対シ地所売渡ニ応セザルモノニ無之候間、相当ノ代価ヲ以テ買収有之度、即チ壱坪五円ノ割ヲ以テ買収有之度事/一 壱坪ノ代価金五円ヲ以テ相当ト認メタル理由ハ、先年当村学校設立ノ際、所有者地所一纏メニテ壱坪金弐円五拾銭ノ割ヲ以テ買収セラレ候、又壱坪四円ニテ売渡セシ地所モ有之候、然ルニ、今回鉄道会社ノ買収ニハ地所ノ取捨有之候間、残地ノ補償等併セテ壱坪五円ヲ請求候事
  
 つまり、2円50銭/坪の価格は、実勢価格にまったく合わない算定評価であるばかりでなく、鉄道用地から少しでもはみ出した土地は買収の対象にならないため、農地にも宅地にも活用できない中途半端な狭い変形地があちこちにできてしまうので、それも含めて日本鉄道に買いとってほしいという要望だ。自宅の一部に駅舎がかかり、駅舎と自宅がくっついてしまうという非常識なケースは先述したが、少しでも鉄道用地から外れた土地がどうなろうと、あとは知ったこっちゃないという日本鉄道の横柄で傲慢な姿勢が、このあと東京府の土地収用審査会への訴訟事件を次々と生じさせる結果となった。
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 明治後期ともなれば、私鉄の敷設計画も増えてきている時期で、山手線エリアよりもさらに市街地から離れた計画の沿線地で、3~5円/坪で鉄道会社が買収している情報も伝わっていたとみられる。あまりにもひどい日本鉄道の高圧的な態度と、実勢価格の半額となる買収価格に、山手線沿線の地主たちは次々と堪忍袋の緒を切っていったのだろう。

◆写真上:1897年(明治30)ごろ、池袋停車場近くを走行する現・山手線の汽車。
◆写真中上は、東京都公文書館に保存されている測量標杭の「取棄」事件の記録いろいろ。は、工部省から東京府への「なんとかしろ」の文書。w
◆写真中下上左は、1880年(明治13)に東京府庶務課がまとめた『往復録第一類』。上右は、2006年(平成18)に刊行された『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集/豊島区立郷土資料館)。は、1903年(明治36)に撮影された池袋停車場の先で分かれる品川川口線と豊島線の分岐点。は、同年撮影の池袋停車場。
◆写真下は、1894年(明治27)に作成された日本鉄道平面・断面図。すべて英語表記で単位はCN(センチニュートン)で統一されているが、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!下落合ガードClick!地点はいまだ隧道が認可されておらず「LEVEL CROSSING 29CN」と踏み切りが設置されていた。は、1884年(明治17)6月に裁定された下落合村と高田村を結ぶ下落合ガードの設置請願書に対する鉄道局の拒否回答。鎌倉支道の同道が、線路土手で遮断されて荷車の通行が困難なため、両村では東京府を介して隧道(ガード)の設置を請願しているとみられるが、当初は鉄道局ににべもなく拒否されている。は、1891年(明治24)作成の地形図に記載された山手線を横ぎる踏み切り表現の雑司ヶ谷道(新井薬師道)。地図下に見える、早稲田通りや旧・神田上水のガード表現と比べるとちがいが明らかだ。

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山登りは晩秋がいちばんという話。 [気になる下落合]

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 子どものころから多彩な山々に登ったけれど、この山は「素晴らしかった!」というようなのは特にない。もとより、わたしは海辺Click!のほうが向いている人間だからだろう。海には気がゆるせるが、山には得体のしれない不気味さClick!を感じるからかもしれない。だが、親父は山のほうがよかったらしく、わたしを山歩きClick!によく連れだした。
 身近なところでは鎌倉から三浦半島、箱根連山、大山、丹沢山塊、足柄、はては富士山や日本アルプスまで、さまざまな山々へわたしを連れていってくれたが、親父が海へ向かった回数は少ない。ひとりで行動できるような年齢になったとき、わたしが向かった先は山ではなく近くの海や、日本各地の海辺だった。山は、確かに体力や忍耐力がつくし、達成感や充実感が湧くし、めざす山頂からの眺めは素晴らしいのだが、根がめんど臭がりでいい加減なわたしには、“ただそれだけ”のように感じるのだ。
 海に浸かって感じるような、心身ともにリラックスさせてくれ、心や精神をデフォルトにもどしてくれるような深い魅力を、わたしは残念ながら山に感じることはついぞなかった。ただ、これまでさまざまな山に登ってきて、山道に見られる山岳植物や昆虫、動物などの名前を憶えるのは知識が拡がって面白いし、ときに地層がむき出しになった崖から化石を採集Click!するのも楽しいし、山で野営地を整備してテントを張り、焚き木を集めながら飯盒炊爨をするのも魅力的なのだが、よく考えてみればそれらの行為が楽しいのであって、別にことさら“山”でなくてもいいことに気づくのだ。
 子どものころ、親に連れられて出かけた山は、おそらく危険がないようにということでほとんどが夏山だったが、確かに山の植物に花が咲き、昆虫や動物が数多く見られるのは夏場だから、それにまとまった休みがとれるのは夏休みだから、わたしの好みや都合にあわせてくれたのだろう。低山の植物だが、ウラシマソウClick!とそれによく似たマムシグサに興味をもったのも、夏山のハイキングだったように思う。神奈川県の低山には、これらの山草がよく生えているが、同時にその名のとおりマムシにもよく出あった憶えがある。
 ハイキングで山道を歩いているとき、近くにいた女子たちがフリーズして無言になるのは、たいがいその先にヘビがとぐろを巻いていることが多かった。シマヘビやヤマカガシなら、大きな動物(人間)の気配を感じればたいてい逃げるが、マムシは警戒してその場で動かなくなるし、アオダイショウClick!は昔から人と共存してきた経緯が記憶された遺伝子から、他のヘビほど人間を警戒したりはしない。だから、女子たちの先にいるのは、たいていマムシかアオダイショウだった。アオダイショウClick!なら、「かわいいね」(爆!)といってその横をスッと通りすぎればそれだけだが、マムシは落ちている木の枝かなにかで草むらへ追いやってからでないと、安心して歩けなかった。
 ちょっと余談だが、千代田城Click!のお濠端にある歩道の柵には、ときどきシマヘビがからまって日向ぼっこをしていることが多く、歩道を歩いていた昼休みでランチの女子たちが「ギャーーッ!」といって血相を変えながら逃げていくという話を、何度か聞いたことがある。いちばん耳にするのは、九段下から番町あたりの内濠だが、市ヶ谷から四ッ谷にかけての外濠にもいるのだろうか。都会に住んでいるシマヘビは、クルマの騒音がうるさかろうが、女子たちClick!が悲鳴をあげながらすぐ近くを走りぬけようが、すでに環境適応してしまったのか逃げないらしい。日光浴で暖まりながら、「うるささヘビー級の女たちだ」とでも思っているのかもしれない。
 いつごろから、親たちがわたしを山に連れていってくれるようになったのか、ハッキリした記憶がない。いちばん最初に記憶している、というか苦しかった地獄のような山は、箱根の旧・東海道(箱根旧街道)を歩いたことだ。おそらく、小学校の1年生ではなかったかと思う。夏に出かけたのだが、箱根の山上は涼しかったらしく暑さの記憶はない。当時、箱根旧街道はほとんど江戸期のままの姿をしており、現在のようにきれいに整備などされていなかった。箱根湯元から歩きはじめ、元箱根の芦ノ湖畔へと抜ける山道だが、つづら折りの山道が多々あるので総距離は10kmをはるかに超えていただろう。しかも、滝廉太郎が詠うように「箱根の山は天下の剣」で、箱根外輪山はほとんどが急峻な坂道のコースなのだ。
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 江戸期から石畳は敷かれていたが、とんでもない急坂を登りつづけ下りつづけ、途中で弁当を食べて大休止はしたと思うのだが、およそ10kmほどは歩いたとみられる甘酒茶屋で、わたしはついにダウンしもう歩けないと泣きだした。「足が棒になる」という喩えがあるが、脚の感覚が鈍くなって自分の思うように動かせなくなるほど、6歳のわたしにはきつい山歩きだった。その当時、甘酒茶屋を切り盛りしていたお婆さんが、甘いものを飲ませればすぐに治るといって、わたしはオレンジジュースとコーラ(チェリオClick!だったか? 炭酸飲料)を飲んだ憶えがある。考えてみれば、急峻な旧・東海道が通う箱根の山道に、なぜ江戸期の大昔から“甘酒”の茶屋があるのかよくわかるエピソードだ。
 そこで1時間ほど休み、甘いものを飲みつづけたせいだろうか、しばらくすると体力が回復し、箱根関所のある元箱根まで出ることができた。いまの整備がゆきとどいた箱根旧街道ではなく、1960年代ごろは江戸期そのままの道筋であり、おそらく総距離にするとゆうに12~13kmはあったと思う。そんなけわしい山道に、6歳の子どもをつれていく親も親だが、わたしにとって箱根連山は大山や丹沢山塊よりもキツイ山々として強烈に印象づけられている。もっとも、クルマのドライブルートで箱根に出かける人たちには、この山々のほんとうのけわしさはわからないだろう。
 子どものころから、夏山ばかりを登った記憶が多いが、大人になってからのわたしは秋に登る山が好きだ。それも樹々が色づいたころではなく、紅葉があらかた散ってしまった晩秋か、初雪がチラつきはじめる初冬の登山が快適で気持ちいい。
 穴八幡の下宿から、目白崖線を上って下落合の丘をよく散策していたらしい若山牧水Click!も、同じようなことをいっている。1925年(大正14)に改造社から出版された、若山牧水『樹木とその葉』収録のエッセイ「自然の息自然の声」から引用してみよう。
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 私はよく山歩きをする。/それも秋から冬に移るころの、ちやうど紅葉が過ぎて漸くあたりがあらはにならうとする落葉のころの山が好きだ。草鞋ばきの足もとからは、橡(トチ)は橡、山毛欅(ブナ)は山毛欅、それぞれの木の匂を放つてゞも居る樣な眞新しい落葉のからからに乾いたのを踏んで通るのが好きだ。黄いな色も鮮かに散り積つた中から岩の鋭い頭が見え、其處には苔が眞白に乾いてゐる。時々大きな木の根から長い尾を曳いて山鳥がまひ立つ。その姿がいつまでも見えて居る樣にあらはに明るい落葉の山。/それも余り低い山では面白くない。海拔の尺數も少ない山といふうちにも暖國の山では落葉の色がきたない。永い間枝にしがみついてゐて、そしていよいよ落つる時になるともううす黒く破れかぢかんでゐる。一霜で染まり、二霜三霜ではらはらと散つてしまふといふのはどうしても寒国の高山の木の葉である。(カッコ内引用者註)
  
 わたしは、晩秋に歩く高山もいいが、周囲の見晴らしがきく低山でも楽しい。紅葉がなくなるので、登山者やハイカーの姿がなくなり、風の音となびく草木の音しか聞こえないような静黙な山歩きが面白い。街の喧騒から逃れ、リセットされるような気分を味わえるからだろうか。それとも、わたしにとっての海と同様に、なにも考えずに精神的なデフォルト感へ、心のおもむくまま自然と浸れるからだろうか。
 少し前、いまだ未整理のアルバム類をひっくり返していたら、まったく記憶にない山の写真がゾロゾロと出てきた。コダックのリバーサル(ポジ)フィルムEktachromeに記録された、小学校低学年とみられるわたしもいっしょに写る山の写真だが、これらの風景にまったく憶えがない。道路には雪が見えており、山道は一面の枯れ草が拡がっているので、おそらく晩秋か、初雪が降った初冬のころに登った山なのだろう。
 樹木が少ない山々の様子から、かなり標高の高いことがわかる。Ektachrome用のプラスチックでできた専用ケースに入っていたもので、プリント・ネガ袋に親がよく書き残していた撮影場所や日付けの記載もなく不明だ。ポジを見ているうちに、大きな湖が写っていたので、どうやら箱根外輪山のうちのいずれかの山だと想像がつく。おそらく、その山容から富士山が間近に見える、箱根外輪山では北側に位置する金時山ではないかと想定できる。だが、撮影日が晩秋ないしは小雪まじりの初冬のせいなのか、富士山はすっぽりと雲に隠れて見えない。いや、見下ろす芦ノ湖でさえ霧にかすんでハッキリとは見えていない。
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 わたしは、このフィルムに写る情景にまったく見憶えがない。わたしの容姿からして、先述した地獄の箱根旧街道を歩いたころと、それほど年数が隔たっているとは思えないのだが、この山登りは記憶の中からスッポリと抜け落ちている。ひょっとすると、わたしは昔から晩秋または初冬の登山が性にあい、ことさら快適な山歩きだったせいで記憶に残らなかったのか、あるいは記憶から無意識に丸ごと削りとってしまいたいほど、箱根旧街道の上をいくつらい思いをして登ったかのどちらかだろう。写真のわたしの表情からすると、どうやら涼しく快適な山登りだったせいで、また金時山の目前に大きな富士山も見えず、他の山歩きに比べて印象が薄れ、しだいに忘れ去ってしまったような気配が濃厚なのだ。

◆写真上:Ektachromeのポジフィルムに記録された、金時山とみられる枯草が風になびく急斜面。ちょっと滑落したら、無傷では済まなさそうなヤバい急傾斜だ。
◆写真中上:すでに冠雪しているので、初冬のころに登った金時山だと思われる。
◆写真中下:その山容から金時山と思われ、いちばん下の大きな湖はおそらく芦ノ湖。
◆写真下は、1881年(明治14)に制作された小林清親Click!『箱根山峠甘酒茶屋』。わたしが歩いたころと、あまり変わらない風景だ。は、雄大な富士山を堪能できる金時山の山頂(手前)。おそらく、現在は外国人の山好きやハイカーたちで連日賑わっているのだろう。は、1925年(大正14)出版の若山牧水『樹木とその葉』(改造社/)と著者()。

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大泉黒石の転居先が混乱していて悩ましい。 [気になる下落合]

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 大泉黒石Click!に関する居住地と、その転居ルートが錯綜して混乱しているようだ。黒石自身の証言と、家族たちの証言にも大きな食いちがいが見られる。特に、本郷から雑司ヶ谷へと転居してからの証言に、研究者を含めかなりの混乱が生じている。
 今回は、大泉黒石Click!が住んだといわれている居住地について、その記述を書籍や資料から追いかけながら、できるだけ順番にたどっていきたい。まずは、わたしが大泉黒石について記事を書くのにベースとしていた、巻末に年譜が付属する岩波書店から出版された最新の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(2023年)から引用してみよう。
  
1921年(大正10年) 28歳
 文士生活はますます軌道にのり、雑司ヶ谷へ転居。(後略)
1924年(大正13年) 31歳
 (前略)この頃は椎名町から転居して、下落合の中井に住む。書生2、3人を置き、家賃50円。隣家では林芙美子が『放浪記』を書いていた。(後略)
  
 上記の1921年(大正10)に雑司ヶ谷への転居は、本郷から高田町雑司ヶ谷442番地へ転居したことを指している。これは、二松堂書店版の『文芸年鑑』1923年版(国立国会図書館収蔵:以下同)でもそうなっているし、また1988年(昭和63)に緑書房から出版された『大泉黒石全集』第6巻の巻末に収録された、由良君美「大泉黒石掌伝」でもそう規定されている。
 この住所は、大泉黒石が『俺の自叙伝』の中で以下のように書いている家だ。
  
 雑司ヶ谷で黒石の邸はどこだと尋ねれば直ぐ解る。三条家と背中合わせに偉大なる冠木の門があるだろう。門の内に物凄い大銀杏が、サガレン半島から押し寄せて来る空っ風と腕押しをしながら、北斗星を脅やかしているはずだ。その枝に赤ん坊のおしめが干してある。
  
 確かに、目白通り(高田大通り=清戸道Click!)に面した大きな華族の三条屋敷の裏側(北側)に、高田町雑司ヶ谷442番地は位置しているのでまちがいない。
 だが、わたしが先の年譜をおかしいと気づきはじめたきっかけは、大泉黒石が1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の前後に書いた長編小説『預言』の「自序」だった。同作が、作者の了解をとらず『大宇宙の黙示』と改題して1923年(大正12)に新光社から出版された本の当初「自序」ではなく、改めて原題の『預言』にもどし1926年(大正15)に雄文堂出版から刊行された改訂版の、「再刊の序」として書かれた以下の文章だ。
  
 (前略) かくして、再び本来の面目に還つて世に出る運びとなった。著者の欣びには誠に少なからぬものがある。/大正十五年九月一日東京府下長崎村大和田の寓居にてしるす
  
 これによれば1926年(大正15)9月現在、大泉黒石は長崎村大和田にいたことになる。同様に、『文芸年鑑』(二松堂書店版)の1926年版を調べてみると、長崎村(同年に町制へと移行)の大和田2028番地(江戸期には椎名町と呼ばれていた清戸道Click!沿いのエリア)に住んでいたことがわかる。しかし、この間にはいくつかの転居先が抜けている。
 ちなみに、いわずもがなだが混乱を避けるために書いておくと、大泉黒石の東京における転居先で「長崎」という地名が頻出するが、これは当然ながら彼の生まれ故郷である九州の「長崎」のことではなく、東京府北豊島郡長崎村(1926年より長崎町)のことだ。
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 まず、高田町雑司ヶ谷442番地のあとの、長男・大泉淳の証言がある。1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」には、「家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った」と証言している。このとき小学生だった大泉淳は弟とともに、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)を走る汽車(おそらく貨物列車)に轢かれそうになっている。
 雑司ヶ谷442番地の家の「後ろ」、小学生が気軽に遊びにいけるような場所に武蔵野鉄道は走っていない。高田町内で、武蔵野鉄道が「程遠からぬ所」を走るのは、高田町雑司ヶ谷の御堂杉か西原、あるいは上屋敷(あがりやしき)あたりの住所だ。大泉一家は短期間のうちに、高田町雑司ヶ谷内を一度転居しているのではないか?
 また、年譜は雑司ヶ谷から椎名町(長崎村大和田)へ転居したとなっているが、実は関東大震災の翌年1924年(大正14)に転居したのは、長崎村五郎窪4213番地だったことが『文芸年鑑』1924年版(二松堂書店版)で確認できる。つまり、長男の大泉淳が電車に乗って通いつづけた雑司ヶ谷の高田第一小学校は、最寄りの武蔵野鉄道・東長崎駅から乗車したのであり、大泉黒石が毎朝息子を見送った駅舎も同駅ということになる。大泉淳の証言に、ときどき「東長崎」が登場するのは、この長崎村五郎窪時代のことだろう。
 長崎村五郎窪4213番地は、ダット乗合自動車Click!が通う長崎バス通りClick!も近い一画で、五郎久保稲荷Click!から通りをはさみ南へ120mほどの区画、五郎窪一帯の大地主だった岩崎千之助邸Click!の北西にあたる敷地なので、大泉淳の記憶に残る茶畑に囲まれた大きめな西洋館は、岩崎家が建てて賃貸住宅にしていた邸だった可能性が高い。
 さて、長男の大泉淳は長崎村で関東大震災に遭遇したと書いているが、大泉黒石は雑司ヶ谷で大震災に遭ったとしているようだ。すでに他の記事Click!でご紹介している一文だが、四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(2023年)より大震災前後を引用してみよう。
  
 黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。
  
 雑司ヶ谷一帯が、関東大震災の被害をあまり受けていないのは、以前の記事でも触れて書いたとおりだが、文中で「下長崎」と架空の地名(?)で書かれている転居先が、東長崎駅も近い長崎村五郎窪4213番地だったことがわかる。
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 このあと、大泉黒石は1926年(大正15)の『文芸年鑑』(二松堂書店版)、および同年の『預言』に書かれた「再刊の序」にあるとおり、長崎村大和田2028番地に転居している。五郎窪4213番地の家から、東南東へ930mほどのところにある敷地だ。しかし、ここでも研究者を悩ませる課題がある。長崎町内を転居していたはずの大泉一家だが、1925年(大正14)に誕生した三男・大泉滉(ポー)の出生地が「雑司ヶ谷」になっていることだ。つまり、1924年(大正13)の長崎村五郎窪と、1926年(大正15)の長崎町大和田との間に、大泉家は高田町にもどっているのではないかという可能性だ。残念ながら、1925年(大正14)の『文芸年鑑』(二松堂書店版)は国立国会図書館でも欠番となっている。
 では、長崎町大和田の次に上掲の年譜どおり、ようやく下落合の西部へ転居したのかと思えば、実はここからがますますややこしいのだ。大泉黒石は、長崎町大和田2028番地から、再び高田町の雑司ヶ谷近くへともどっているのだ。この一連の高田町→長崎町→高田町の往復転居あたりの事情から、黒石本人も子どもたちも、また研究者も前後関係の文脈がわからなくなり、彼の住居が混乱している要因ではないかとみられる。
 1932年(昭和7)に改造社から出版された『文芸年鑑』1932年版によれば、大泉黒石の新たな住所は高田町鶉山1501番地であることがわかる。同所は、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のすぐ南側に位置する敷地であり、現在はちょうど明治通り(環5)の下になってしまったあたりの番地だ。したがって、黒石自身や家族たちの鬼子母神とその周辺にからんだエピソードや証言は、双方の時代が前後し錯綜して語られている可能性がある。
 では、今度こそ年譜にあるように下落合へ転居してきたのかといえば、実際はまったく異なるのだ。1932年(昭和7)に出版された『文芸年鑑』(改造社版)によれば、今度は下落合とは正反対の方角、板橋区(1932年より東京35区制が施行)の中新井1丁目71番地に転居したとされている。ところが、お気づきかと思うが困ったことに、今度は『文芸年鑑』が記載ミスをやらかしている。中新井町があるのは板橋区ではなく練馬区だ。同住所は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の練馬駅の南側にあたる位置だ。
 そして、ここからもすぐに転居して、1936年(昭和11)に改造社ではなく新たに第一書房から出版された『文芸年鑑』によれば、板橋区(ママ)下石神井町北1丁目305番地に居住している。再び、『文芸年鑑』の改造社版→第一書房版でも記載ミスが引き継がれ、練馬区を板橋区と誤記している。この住所は、現在の西武池袋線・石神井公園駅の近くにあたるとみられる敷地だ。ちなみに、練馬区内の中新井と下石神井について、大泉黒石や家族たちが証言している文章を、わたしはいまだ発見できていない。
 このあと、ようやく下落合へ転居してくることになるが、その時期は1936年(昭和11)以降ということになり、下落合2133番地Click!に住んだ林芙美子Click!が裏庭の様子と、転居してきた大泉一家の様子を書いた『柿の実』(1934年)は、転居前後の記述においては時系列的に正しいということがわかる。ただし、「七人の子供を引き連れた此家族」(『柿の実』)と書かれている大泉家だが、男子3人+女子2人で「五人の子供」が正しい。おそらく林芙美子は、大泉家にいた学生の書生たちを実子と勘ちがいしているのだろう。
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 こうして、大正期から昭和初期にかけ大泉黒石の転居先を追いかけると、黒石の研究者はもちろん、子どもたちまでも記憶に残る情景がどこの家でのものなのか、混乱している様子がよくわかる気がする。ましてや研究者たちは、最初に九州の長崎と東京府北豊島郡の長崎とでややこしくなり、高田町雑司ヶ谷内での転居、あるいは高田町と長崎町の往復転居で混乱し、『文芸年鑑』の練馬区と板橋区の誤記に頭を抱え、落合町下落合の住所に首をひねっているのではないだろうか? これでは、現在の目白や雑司ヶ谷、練馬、そして下落合の街々をよく知る地元の人間でなければ、転居先の具体的な特定は容易ではないだろう。

◆写真上:『預言』執筆時の、1923年(大正12)ごろに撮影されたとみられる大泉黒石。
◆写真中上は、1923年(大正12)出版の『文芸年鑑』(二松堂書店版)に掲載の大泉黒石住所。旧所有者がメモ書きしたのか、すでに長崎村五郎窪への転居先が手書きされている。中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる同所。中下は、1924年(大正13)出版の『文芸年鑑』(二松堂書店版)掲載の大泉黒石住所。は、1926年(大正15)作成の「長崎町西部事情明細図」にみる同所。
◆写真中下は、1926年(大正15)に出版された『文芸年鑑』(二松堂書店版)掲載の大泉黒石住所。中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」にみる同所。同時代のはずだが、残念ながら長崎町大和田2028番地に大泉邸は採取されていない。中下は、1932年(昭和7)に出版された『文芸年鑑』(改造社版)掲載の大泉黒石住所。は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる同所。
◆写真下は、1934年(昭和9)出版の『文芸年鑑』(改造社版)にみる大泉黒石住所。は、1936年(昭和12)出版の『文芸年鑑』(第一書房版)に掲載の大泉黒石住所。いずれも、練馬区を板橋区と誤記。下左は、今年(2023年)出版の大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波書店)。下右は、同年出版の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(岩波書店)。

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