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岸田劉生がベタ褒めの千家元麿。 [気になる下落合]

千家元麿邸跡.jpg
 1929年(昭和4)から、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)で暮らした詩人の千家元麿Click!は、同じ白樺派などからの影響を受けた歌人・土屋文明Click!とは異なり、自己の理想や思想性について現実社会の「矛盾」や「限界」にはほとんど頓着せず、どこまでも限りなく自身の世界へ引きこもる姿勢を保ちつづけた。
 そういう、“浮世離れ”した作品が本格的に評価されるのが、彼が生きた同時代ではなく戦後の危機的な(破滅的な)状況が去り、まがりなりにも平和な時代を迎えてからだったことも、彼の詩が人生や生活に“余裕”のある時代にこそ輝きを増して、読み継がれていくものだという気が強くする。千家元麿の作品は、その多くが理想を語り美を愛で愛情深い眼差しにあふれているが、昭和初期から1945年(昭和20)8月の敗戦まで、それらのテーマは軍靴に踏みにじられるか、表現することさえはばかられるような社会に陥っていた。
 落合に住んでいたころ、またはその少しあとの時代の作品に、『蒼海詩集』(文学案内社/1936年)の中に収められた「冬の日」と題する詩がある。一部を引用してみよう。
 (前略)群集の中にゐるのを嫌つて/市井を脱れて野へ来る時/孤独を見出したよろこび/野は蕭殺と変つた姿や/華やかに夏の日を憶ひ/花もなく放縦の趣きが消えて/素朴な冬となつた/閑寂に心惹かれる。
 この詩に対して、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、『日本の詩歌』第13巻の編集委員である伊藤信吉は、「冬の日」について次のように書いている。
  
 長らく自己の世界に安住してぬくぬくと惰眠をむさぼっていた形の詩人が、プロレタリア文学の勃興などで窮地に追いつめられて、ふるい立って荒涼とした冬景色に対し、われとわが身に鞭をあてている悲壮な姿が見える。こういう態度から新しい境地がひらけ、社会にも積極的に立ち向かうようになり、多くの意欲的な長い詩を書くことになったが、この方向では千家の特色は発揮されにくかった。彼は素朴な単純な、そして瞬時の感動に身をひたして直感的に歌い上げることに特色をもつ詩人だったからだ。
  
 千家元麿は、大正末から昭和初期にかけて、練馬や池袋、長崎、そして落合町葛ヶ谷と当時は東京近郊の田園地帯エリアを転々としているが、彼が住んだ当時の葛ヶ谷(現・西落合)の冬景色は、第二文化村Click!宮本恒平Click!が上高田の耳野卯三郎アトリエを描いた、『画兄のアトリエ』Click!に見られる雪景色のような風情だったろう。
 そもそも、千家元麿が最初の詩集『自分は見た』を出版したのは1918年(大正7)、第1次世界大戦のただ中で巷間ではスペイン風邪Click!が流行していたが、それまでの日本では経験したことのない大正デモクラシーと呼ばれた、自由で闊達な雰囲気が横溢しはじめていた時代だ。そのような時代の端緒に、千家元麿は処女詩集を発表しているのであり、やがて1928年(昭和3)の大規模な思想弾圧Click!にはじまり満州事変を経たあと、1932年(昭和7)の海軍将校による犬養毅首相暗殺による政党政治の実質的な終焉にいたる時代まで、千家元麿の主要な詩集は出版されている。
 『自分は見た』(玄文社)の出版に際し、その装丁をまかされた岸田劉生Click!は、持ち前の“感激屋”サービス精神を発揮して、序文に次のようなことを書いている。
千家元麿.jpg 岸田劉生.jpg
千家元麿「自分は見た」(玄文社)1918.jpg 千家元麿「自分は見た」内扉.jpg
千家元麿「自分は見た」見返し.jpg
  
 (前略)自分は千家の最初の本の序文をかく喜びを与えてくれた本屋に感謝する。千家も喜んでくれた。自分は日本の今の詩壇からは門外漢かも知れない。しかし本当の詩には自分は門外漢ではない。自分はもう自分の確信を語るのに遠慮はしない。そして自分は千家の詩を褒めるのに躊躇はしない。自分は日本に真の詩人がいるかと聞かれた時に、自分は「いる」と答える光栄を有している。そして自分は今の日本の詩人で誰を一番尊敬しているかと云われても、自分は即座に答えることが出来る。そして今の日本で最もよき詩集はなんだと聞かれても自分はたちどころに答えることが出来る。その詩人は千家であって、その詩集はこの本である。
  
 かなりオーバートーク気味な岸田劉生Click!の文章だが、確かにそれまでの明治文学と白樺派に代表される大正期のそれとは、「私」「自分」「おれ」「ボク」と表現される一人称の主体、すなわち「近代人の自我」と呼ばれるものの深まりには隔世の感があった。千家元麿の出現は、単に白樺派の詩人としての範疇のみならず、限りなく内向的とはいえ深い自我を備えた新しい詩人群の登場の一端だったのだろう。
 千家元麿が死去したとき、武者小路実篤は追悼文で「彼はまた自然をいつも讃嘆していた。また哀れな者、貧しき者、よく働くものの味方だった。彼は或る時自分のことを楽園詩人と呼んでいたが、たしかに現代のどん底生活の内に楽園の夢を見ることが出来た稀有な男だ。僕は多くのよき友人を持つが、その内でも千家は思想的に僕に一番近かった」(1948年)と書いている。だが、彼の作品に登場する「哀れな者、貧しき者、よく働くもの」たちが抱える課題や矛盾に対して、それを解決し変革しようとする意志には向かわず、詩人の意識は自身の内側へ深くふかく沈潜していったようだ。
 同じ白樺派の仲間だった長与善郎Click!は、千家元麿について「時には野獣の如く脱線もする、が或る時には天使の涙をこぼす尊い人格。華族の子として生れながら半年以上を陋巷に過ごし貧窮の中に暮して常に天楽を改めなかった彼」と書いている。千家の「野獣の如く脱線」は、あくまでも生活上におけるハメを外したエピソードであって、その思想性から「野獣の如く脱線」することはなかった。
千家元麿(晩年).jpg 千家尊福.jpg
出雲大社内千家家.jpg
 千家元麿は、1888年(明治21)に麹町区三番町で生まれている。彼の父親は、以前こちらでも東京府知事をつとめたときのエピソードとともにご紹介Click!しているが、出雲王朝Click!の末裔である千家尊福(たかとみ)だ。彼は長男として生まれたが、早くから「不良少年」化して家出事件を繰り返し、実家との関係はほぼ絶縁同然だったようだ。武者小路実篤とは、フュウザン会の岸田劉生Click!木村荘八Click!の紹介で知り合っている。
 処女詩集『自分は見た』には、生れたばかりの子どもを題材にした詩作が多い。だが、その慈しみ大事に育てた長男は戦争にとられ、あえなく戦死している。晩年の『遺稿から』収録の「小感」で、千家元麿は人生に開き直るような作品を残している。
 私が社会国家のために/何も貢献せず/安逸に自然の中を美し快感に飽腹して/空しく時間を費したとて/わるい事ではあるまい/私はこの大地を愛し/自ら畑は作らないでも見て歩いて/感激して暮らしたとて/空しい事とは思はないのだ
 確かに「わるい事ではあるまい」で、白樺派的な個人主義により自由かつ勝手だとは思うが、わたしが自分の息子を無理やり戦争にとられて喪ったりしたら、とてもその怒りから社会的・国家的に無関心でいられることなどありえないだろう。
 『日本の詩歌』第13巻の「解説」で、伊藤信吉はこう書いて結んでいる。
  
 千家元麿の人間的な愛や生活者に寄せる愛は、一転して認識の弱さ狭さに転化する。「おお」の感嘆詞は千家元麿の精神と肉体が、一種純粋な「感動体」であったことをしめすと同時に、その感動によって、認識の弱さ脆さをしばしば招来した。/感動は平凡な対象に虹の光彩を投げかけ、平凡な対象にいきいきとした生命を吹きこむ。千家元麿は感動で対象を包むことのできる詩人だったが、同時に感動によって認識を遮断した。人間性の文学、人生的・人道的詩人としての積極性と限界性がそこにあった。
  
長与善郎(漫画).jpg 千家元麿(漫画).jpg
千家元麿詩集(一燈書房)1949.jpg 千家元麿詩集(岩波)1951.jpg
 落合に住んでいた1929年(昭和4)ごろ、千家元麿は九州を周遊している。全集本ブームClick!だった当時の出版界では、改造社版の現代日本文学全集『現代日本詩集』と新潮社版『現代詩人全集』、そして金星堂版『現代詩高座』に彼の作品が収録されている。

◆写真上:落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)の千家元麿邸跡。
◆写真中上は、若き日の千家元麿()と岸田劉生()。は、1918年(大正7)出版の岸田劉生装丁による詩集『自分は見た』(玄文社/復刻版)の表紙・内扉・見返し。
◆写真中下は、晩年の千家元麿()と父親の千家尊福()。は、島根県出雲市大社町の出雲大社の境内にある千家邸(現・千家国造館)。
◆写真下は、岸田劉生『劉生日記』Click!に描かれた“劉生漫画”の長与善郎()と千家元麿()。長与善郎のいい加減な描き方が、あまりといえばあんまりだ。は、戦後に出版された千家元麿の代表的な詩集で、1949年(昭和24)に出版された一燈書房版の『千家元麿詩集』()と、1951年(昭和26)に出版された岩波文庫版の『千家元麿詩集』()。

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下落合を描いた画家たち・長野新一。(3) [気になる下落合]

長野新一「郊外のある新開地」1925.jpg
 画家の眼は、広角から望遠まで自由自在だ。拙サイトでもっとも取り上げている、佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」シリーズClick!の画面は、ほぼ見たとおりそのままの画角で情景をとらえているので50~55mmの標準レンズといったところだろう。
 これまでご紹介してきた長野新一の作品は、『養魚場』Click!(1924年)や『落合村』Click!(1926年)はほぼ標準レンズのような画角だが(『落合村』はやや広角気味か?)、1925年(大正14)に発表された『郊外の或る新開地』は同じ下落合の風景を描いてはいても、かなり広い画角をしている。レンズでいえば、28mmの広角レンズといったところだろうか。また、モチーフのとらえ方もややデフォルメしているようで、稲葉の水車Click!の『養魚場』のようなリアルな描き方とは、少なからず異なるような趣きだ。
 『郊外の或る新開地』が、1925年(大正14)の2月から3月まで開催の第6回帝展に出品されているとすれば、実際に制作されたのは前年の1924年(大正13)の秋から暮れにかけてかもしれない。画面を観察すると、常緑樹とは別に落葉した樹々が描かれており、そのぶん建物の多くが遠くまで見通せている。1924年(大正13)の、晩秋あたりの風景だろうか。同作は、以前にも一度ご紹介しているが通りいっぺんの解説だったので、より史的な土地勘が獲得できた現在の視点から、改めて同作を取りあげてみたい。
 『或る郊外の新開地』の画面は、陽光が画家の背後から射しており、南側から北側を向いて描かれているのが明らかだ。長野新一がイーゼルを立てている場所は、以前の規定とあまり変わらないけれど、前の記述では手前の窪地を妙正寺川北岸の道路と想定していた。だが、風景や家々の見え方からいって、この窪地は妙正寺川の流れの可能性が高い。当時は小川だった妙正寺川の南岸から、北側の目白崖線に連なる丘陵を向いて描いており、画家のすぐ左手(西側)には地元で「どんね渕」Click!と呼ばれた、妙正寺川の特徴的な流域があった。また、画家の右手(東側)には、江戸期からつづく小さな西ノ橋(比丘尼橋)Click!が妙正寺川に架かっており、さらにその向こう側には、地名の由来となった妙正寺川と旧・神田上水(1966年より神田川)が落ちあう合流点があるはずだ。
 長野新一は、一面に田圃(稲の収穫は終わっていただろう)が拡がる下落合の向田と呼ばれた字名の区域、水田を横切る畦道の傍らにイーゼルをすえていると思われる。この一帯は、やがて妙正寺川の直線整流化工事とともに、西武線の下落合駅前を形成する一画だ。画家の背後には、目白変電所Click!へとつづく東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!が並び、さらにその向こうには堤康次郎Click!らが創立したばかりの、上落合の前田地区にあった東京護謨工場Click!の建屋が見えていただろう。
 1924~1925年(大正13~14)の時点で、左手の丘上に見えている大きな建築物は、徳川義恕邸Click!の旧邸とその建物群で、昭和期に入って建設されるより大きな新邸よりも、やや北寄りの位置に建っていた。また、この時代の「静観園」(ボタン園)Click!は建物の北側にあり、いまだ東側の斜面には移動していない。徳川邸のすぐ右側、丘下の手前に見えている大きな屋根の日本家屋は、「一年の計は春(元旦)にあり」で有名な安井息軒の孫にあたる人物が住んでいた安井小太郎邸(三計塾)Click!だ。安井邸の向こう側には、不動谷(西ノ谷)Click!諏訪谷Click!が合流する湧水池が形成された谷間があり、その北側の高台には1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!が建設される青柳ヶ原Click!が拡がっている。
下落合1924(西坂).jpg
地形図1909.jpg
どんね渕.jpg
 その右手に白っぽく描かれているのは、諏訪谷の出口へ急斜面の崩落を防ぐために築かれた、コンクリートの大規模な擁壁だとみられる。この擁壁は、徳川義恕邸の庭からバラ園Click!のある東側を向いて1926年(大正15)ごろに描かれた松下春雄Click!『徳川別邸内』Click!でも、諏訪谷の出口に高く築かれているのが確認できる。昭和期に入ると、聖母坂の開拓とともに擁壁は撤去され、改めて雛壇状の宅地開発が進むことになる。
 また、下落合にお住まいの方ならもうおわかりだと思うが、擁壁の右手にある丘には急峻な久七坂Click!が通い、その急斜面には佐伯祐三が「下落合風景」の1作として描いた、丘上から見下ろす大きな赤い屋根をもつ池田邸Click!が、樹間からチラリとのぞいている。そして、丘の切れ目の右手(東側)、画面の右端に電柱へ隠れるように描かれている建物が、現在はコンクリート造りに建て替えられてしまったが、明治初年からつづく薬王院Click!(明治初年に藤稲荷Click!の界隈から現在地へ移転)の丘上にあった旧・本堂だ。
 大きな安井邸の屋根や、その前に並ぶ建てられたばかりらしい住宅群(現在、これらの家屋敷地はすべて十三間通り=新目白通りClick!の下になっている)の手前には、葉を落とした樹々に沿って半円を描く道筋が通っている。その中央やや右側に、淡い色合いで描かれたとみられる葉が変色しているらしい大きな樹木は、旧・ホテル山楽Click!の敷地に相当し現在でも目にすることができる、黄色に変色したイチョウの大木ではないか。すなわち、1924~1925年(大正13~14)に描かれた同作は、少なくとも鎌倉時代から村落が形成されていた下落合(字)本村Click!と呼ばれる一帯だ。関東大震災Click!の影響から、このあと下落合の東部から中部にかけ住宅が爆発的に急増する直前の情景を描いている。
 長野新一が立っているのは、当時の住所でいえば下落合(字)向田2350~2356番地と上落合(字)前田289~292番地の境界あたりに拡がる田圃の畦道上、のちの上落合1丁目275番地界隈で、現在の上落合1丁目17番地の西武新宿線の線路寄りないしは線路内の地点だろう。
長野新一「郊外のある新開地」1925註釈.jpg
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 さて、長野新一は以前にも書いたように下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にアトリエをかまえていた。すぐ近くの同じ落合第三府営住宅には、帝展仲間で転居前の西ヶ原でも近所同士だった、同じ東京美術学校卒で岡田三郎助に師事した江藤純平Click!(下落合1599番地=落合府営住宅3-24号)のアトリエがあった。長野新一は江藤純平よりも4歳年上だが、おそらく仲がよかったふたりは相談して、下落合の落合府営住宅Click!に転居してきているのだろう。
 ふたりのアトリエの東側、下落合1385番地Click!の落合第二府営住宅のエリアには、帝展仲間の松下春雄Click!がアトリエをかまえていた。また昭和期に入るとほどなく、同じ西ヶ原で画家グループのひとりだった、長野新一よりも5歳年上の片多徳郎Click!が、曾宮一念アトリエClick!の斜向かいにあたる下落合734番地へ転居してくることになる。3人の出身地は大分県であり、長野新一は同県速見郡日出町、江藤新平は同県臼杵市、片多徳郎は同県国東郡高田町でみんな同郷人だった。ただし、長野新一が江藤純平のように、片多徳郎Click!とも親密に交流していたかどうかはさだかでない。
 さて、長野新一のご遺族より先日、作品画像を2点お送りいただいた。1点は、1926年(大正15)に描かれた第7回帝展出品作の『赤き蒲団と裸女』で、もう1点が1931年(昭和6)に制作された『本を読む人』(大分県立芸術館では仮題『人物』)だ。2作とも下落合のアトリエでの制作だと思われるが、このうち『本を読む人』の背景に描かれている庭先が、落合第三府営住宅にあったアトリエの庭である可能性が高い。
 庭にはユリの花が咲き乱れ、おそらく6~7月ごろの情景だろう、右端の柵の向こう側にはアジサイとみられる青色の花も咲いている。洋間の床は、なんらかの敷物か薄い板のようなもので覆われており、その表面が絵の具で汚れているように見えるので、長野新一のアトリエに遊びにきた人物をモデルに描いたものだろうか。陽光の射し方から、落合第三府営住宅の南側に面した1室なのかもしれない。
 1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、落合府営住宅3-11号の住宅(長野新一アトリエ)は主棟(大棟)がふたつに分かれた屋根のかたちをしている。空中写真が撮影された当時、長野新一が死去してから3年が経過しており、すでに当時は酒井邸となっていた。また、同区画は二度にわたる山手空襲からも焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真を参照すると、より鮮明に建物の様子を観察することができる。
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 『本を読む人』が制作された当時、長野新一は東京美術学校の助教授に就任していたが、おそらく健康上の理由から1932年(昭和7)に美校を辞職し、翌1933年(昭和8)に死去している。画家の仕事としては、これから本格的に脂がのる時期を目前にしての急死だった。

◆写真上:1924年(大正13)晩秋の制作とみられる、長野新一『郊外の或る新開地』。
◆写真中上は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。は、地形がよくわかる1909年(明治42)の同所。は、大正期の撮影とみられる妙正寺川の「どんね渕」で、写生する画家のすぐ左手に見えていただろう。
◆写真中下は、『郊外の或る新開地』に描かれたモチーフの特定。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にあった長野新一アトリエ。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる元・長野新一アトリエと、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所。
◆写真下は、1926年(大正15)に制作された長野新一『赤き蒲団と裸女』。は、1931年(昭和6)に制作された同『本を読む人』。は、長野新一アトリエ跡の現状(右手)。
★掲載している『赤き蒲団の裸女』と『本を読む人』の2作品の画像は、長野新一の孫娘にあたられる大塚邦子様からのご提供による。
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「首塚」や「馬塚」の下には古墳がある。 [気になる下落合]

将門首塚.jpg
 千代田区の大手町にある将門首塚古墳(柴崎古墳)Click!のほかに、関東には怪談が付随する有名な「首塚」がもうひとつある。群馬県の安中市にある、碓氷川の河岸段丘上に広がる“古墳の巣”のようなエリアで発見された、簗瀬(やなせ)八幡平の「首塚」、考古学的には「梁瀬首塚古墳」または古くから「原市町12号墳」と呼ばれる古墳時代の遺構だ。北東側には、釣り鐘型の周壕域まで含めると全長130mを超える、前方後円墳「梁瀬二子塚古墳」(旧・原市町13号墳)に隣接している。
 大手町の将門首塚Click!は、古墳時代に造営された小型の前方後円墳にちなみ、なんらかの禁忌譚Click!が語られつづけ、後世に「将門の首が飛んできて落ちたので葬った」という怪異譚が付会されたとみられるが、同古墳のあった柴崎村の敷地には730年(天平2)ごろ、すでに出雲神のオオナムチ=オオクニヌシを奉った神田明神Click!が造営されており、のちに「首塚」伝説とともに平将門Click!も主柱に祀られることになる。これに対し、梁瀬の首塚はその名のとおり室町期に埋葬されたとみられる、刀傷のある頭蓋骨が墳丘の東側斜面(玄室の外郭地中)から150体分も出土している。
 この150体分の頭蓋骨は下顎の骨がないため、以前にどこかに葬られていた遺体の頭骨だけを掘りだし、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の墳丘東側へ改葬されたものとみられている。頭骨が埋められた上には、1783年(天明3)に噴火した浅間山の火山灰の混じる覆土がのっており、田畑の開墾かなにかにともない江戸時代に改葬されたのが明らかだ。
 江戸期以前の改葬(墓地の移転)では、頭骨のみを掘りだして別の場所へ埋葬するのは、特にめずらしくない習慣だった。これらの頭骨は、室町時代に生きた日本人の形質を備えており、なんらかの戦乱による犠牲者ではないかと推測されている。古墳のある場所は、甲斐の武田氏と群馬の安中氏とが激しく争った地域であり、梁瀬首塚古墳の北西側は武田信玄が築いた八幡平陣城跡とされている。
 また、墳丘の両側からは中世の板碑Click!が7基がまとめて発掘されており、そのひとつには「建武四年」(1337年)の年紀が刻まれていることから、中世から近世にかけてまで、梁瀬首塚古墳の墳丘が「特別な祭祀場所」であったことがわかる。つまり、拙ブログでは以前から書いてきている「屍家(しんや・しいや)」伝承Click!、あるいは禁忌伝承Click!が語られてきた忌み地Click!であり、そのため隣接する梁瀬二子塚古墳とともに開墾や開拓がなされず、現在まで良好な状態のまま保存が可能だったのだろう。
 2003年(平成15)に安中市教育委員会から発行された、『梁瀬二子塚古墳/梁瀬首塚古墳/市史編さん事業及び都市計画道路建設事業に伴う範囲確認調査及び埋蔵文化財発掘調査報告書』(もう少しタイトルの長さがなんとかならなかったものだろうか?)より、直径23m余の円墳・梁瀬首塚古墳についての発掘状況について引用してみよう。ちなみに、同古墳は過去に何度か発掘されており、1931年(昭和6)に近所の小学生が発見した150体分の頭蓋骨は、1952年(昭和27)の東京大学による発掘調査ですでに取り除かれている。
  
 首塚関連 首塚に関連する遺構・遺物は全く検出されなかった。したがって、首塚は古墳東側(石室の裏込めの外側)のごく限定された部分に頭骨が並べられていたのみであった可能性が高い。近現代馬墓 埋葬馬の検出された墓壙が墳丘北側トレンチで確認された。馬骨の遺存状態は良好であり、生後半年ほどの子馬であることが宮崎重雄氏の鑑定により明らかとなった。覆土には浅間A軽石が混入しており、近現代の馬が埋葬されていた場所と判断される。
  
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 梁瀬首塚古墳には、人間の遺体(古墳の被葬者)ばかりでなく、それが墳墓あるいは屍家と伝えられていた近世にも150体分もの「首」が改葬され、さらに近現代にかけては動物(家畜)の死体までが埋葬されていた。
 この事実にピンとこられた方は、拙ブログをていねいに読まれている方だろうか。そう、落合地域にも「馬塚」Click!と呼ばれる墳墓が存在していた。従来は、江戸期に農耕馬や伝馬などの家畜が死ぬと葬られた動物墓と解釈されがちだったが、なぜその場所があえて「墳墓」として選ばれているのかという、より深いベースとなる史的テーマだ。
 落合地域の「馬塚」は、1932年(昭和7)に出版された『自性院縁起と葵陰夜話』(自性院)によれば、葛ヶ谷448~449番地(現・西落合1丁目と同2丁目の境界)あたり、いまでは新青梅街道(旧・江戸道)の下になってしまった地点に存在していた。これだけ見るなら、街道(江戸道)を往来する伝馬や荷運馬が倒れて死んだので、街道沿いに葬ったようにとらえられがちだが、「馬塚」の周辺には「丸塚」や「天神山」Click!「四ツ塚」Click!、「塚田」など古墳地名が随所に散在しているエリアだということに留意したい。
 すなわち、もともとは屍家あるいは禁忌地として伝承されてきた場所、つまり田畑に開墾もされず忌み地として放置されていたエリアに、動物の死骸も埋葬しているのではないかという想定が成り立つ。少し前に記事にした、徳川吉宗Click!が輸入したアジアゾウClick!が中野村で病死し、60樽ほどに塩漬けした死骸の肉が腐敗したため、大きな塚が数多く見られた近くの桃園地域に埋葬したのではないか……というエピソードにも直結する課題だ。梁瀬首塚古墳のケースは、まさに古墳をベースにして造られた「首塚」であり「馬塚」だったのだ。
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将門首塚古墳.JPG
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 大正期、月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!は、鳥居龍蔵Click!の考古学チームをわざわざ落合地域に招聘して、つごう37基の古墳Click!を確認(一部は発掘調査)している。しかし、このとき調査・発掘してまわったのは上落合のほぼ全域と、下落合の東西につづく目白崖線の急斜面(バッケClick!沿い)が主体であり、下落合の丘上(地形図に採取された正円のニキビ状突起物Click!についても記事にしているが)、および葛ヶ谷(西落合)の全域はまったくの手つかずだったと思われる。
 したがって、下落合や葛ヶ谷に伝えられていた丸塚や天神山、四ツ塚、塚田などの地点は、なんの調査や確認・観察もされずに開拓(耕地整理Click!)や道路工事、住宅地造成で消滅してしまった……ということなのだろう。もし、「馬塚」のエリアが中世に入ってなんらかの墓地や改葬場所として利用されていたなら、より強烈かつ印象的な名称がつけられて、梁瀬首塚古墳のように道路計画からも外されて現存していたかもしれない。
 梁瀬首塚古墳からの出土品について、同報告書からつづけて引用してみよう。
  
 (前略) 墳丘・周溝から普通円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物・馬・盾・靫が出土している。埴輪の大半は藤岡産埴輪で、特記すべきことは全身立像の部品が出土している。全トレンチから形象・器材形埴輪が出土している。特に石室西側の3・4トレンチから馬が出土している。6世紀後半に造られた古墳である。
  
 梁瀬首塚古墳からは、形象埴輪や土器片などが発見されたが、それ以前に改変あるいは盗掘されたのか豪華な副葬品は発掘されなかった。だが、隣接する梁瀬二子塚古墳(6世紀初頭の前方後円墳)からは、明治以降に環頭太刀をはじめとする鉄刀類Click!や甲冑類、出雲の碧玉Click!や糸魚川の翡翠Click!、水晶、琥珀、ガラス、金銅など数々の宝玉・宝飾品、土器・須恵器などの豪華で膨大な副葬品が発見され、地主の小森谷家に代々保存されてきている。南武蔵勢力と密接に同盟していたとみられる上毛野(かみつけぬ)勢力が、ヤマトに対抗するためか日本海側の北陸(越:こし)や出雲とも連携していた痕跡が見えてたいへん興味深い。
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 梁瀬首塚古墳で語られている怪談は、将門首塚古墳で語られつづけ各地に類似伝承が残る、まわりくどいタタリ譚Click!などよりも、もっと直截的であからさまだ。「甲冑を着た落ち武者たちの亡霊を見た」とか、「首のない鎧姿の武士の幽霊を見た」とか、「どの道を選んで走っても、なぜか呼ばれるように首塚の前に出てしまう」とかのありがちな怪異だ。後世に「首塚」と名づけられたがゆえ、「心霊スポット」にされてしまった古墳本来の被葬者にしてみれば、「おまえら、いい加減にしてくれろ」と地下で迷惑がっているだろう。

◆写真上:整備されすぎてしまった、大手町の将門首塚古墳(柴崎古墳)跡。
◆写真中上は、1968年(昭和43)に将門塚保存会から出版された『史蹟将門塚の記』の表紙()と裏表紙()。わが家には初版と4刷(1982年)があるので、初版は神田明神の氏子150万人の家庭へ配布され、4刷は親父が家にあるのを忘れ神田明神で新たに買い求めたものだろうか。は、柴崎古墳(将門首塚古墳)の後円部前に安置された神田明神の神輿2基で、緑の繁る墳丘が残っていることから関東大震災以前に撮影されたもの。は、明治初期に描かれた将門首塚古墳(柴崎古墳)の後円部。
◆写真中下は、鳥居龍蔵の考古学チームが撮影した関東大震災直後の将門首塚古墳(柴崎古墳)。は、整備される以前の風情があった将門首塚古墳跡。は、群馬県安中市の旧・原市町にある梁瀬首塚古墳(八幡平の首塚)。
◆写真下は、1932年(昭和7)出版の『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された絵図。は、梁瀬首塚古墳に隣接する6世紀初頭の梁瀬二子塚古墳。は、梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳の位置関係で、縦横に描かれた筋は発掘調査(2003年)のトレンチ。
おまけ
 2003年(平成15)に安中市教育委員会が実施した、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の発掘調査の様子。墳丘へ向けて、5本のトレンチ(調査溝)の掘られている様子がわかる。は、近代に埋葬されたとみられる出土した仔馬の全身骨格。
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曾宮一念と鶴田吾郎の「どんたくの会」教科書。 [気になる下落合]

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 下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!では、アトリエ竣工Click!直後から絵画を趣味にする人たちを対象に、画塾の第1次「どんたくの会」Click!が開講していた。講師は同アトリエの曾宮一念Click!と、当時は目白通り沿いの下落合645番地の借家に住んでいた鶴田吾郎Click!だった。発案・企画したのは鶴田吾郎で、「どんたくの会」Click!の名称は曾宮一念が付けたが、生徒募集には当初10人ほどが参集している。
 「どんたくの会」は、1921年(大正10)から途中で1923年(昭和12)の関東大震災Click!をはさみ、中村彝Click!が死去する1924年(大正13)ごろまでつづいたといわれるが、曾宮一念の『半世紀の素描』(1982年)では2年半としているので、開講3年になるかならないうちに閉じてしまったのだろう。毎週の日曜日、正午から午後5時までの5時間にわたる授業で、月に4~5回ほど開講された当時の月謝は、教材や材料費は別にして5円だった。
 曾宮一念のアトリエを教室にしたが、素描の授業は鶴田吾郎が教え、油彩画の授業は曾宮一念が担当している。当時、ふたりの画家は今村繁三Click!の援助だけでは食べられず、また作品もほとんど売れないので、定収入を得るためにはじめた画塾だった。だが、関東大震災で下落合645番地の借家が傾き、家族ともども住めなくなった鶴田吾郎は、下落合436番地の夏目利政Click!に相談して下落合804番地Click!にアトリエを設計・建設してもらっている。おそらく、中村彝の死からその事後処理、そしてアトリエ建設の多忙さが重なって、鶴田吾郎は「どんたくの会」まで手がまわらなくなったのだろう。
 「どんたくの会」に通ってきた生徒は、落合地域と周辺域の住民たちがほとんどだったろうが、遠くて通えない生徒たちのため、あるいは全国の絵画を趣味にしたい人たちに向け、講義録をまとめたような洋画の「教科書」を作成している。1925年(大正14)に弘文社から出版された、鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』がそれだ。全体構成は、「素描」と「水彩画」、「油絵」の3章に大きく分かれているが、それぞれの絵画の特徴や画道具の解説など、実技を意識したかなり具体的な編集方針を採用している。第1次「どんたくの会」の集大成として、ふたりで編集し出版したものだろう。
 少し横道へそれるが、大正時代も中期になると絵画を趣味にする美術ファンが急増し、展覧会へ作品を観賞しにいくだけでなく、自分でも水彩や油彩を問わずに描いてみようとする人々を対象に、さまざまな技術本やノウハウ本、解説本、教材などが出版されている。わたしの手もとにあるのは、1917年(大正6)に書店アルスから出版された山本鼎Click!『油絵ノ描キカタ』をはじめ、三宅克己Click!『水彩画の描き方』(アルス/1917年)、石井柏亭『我が水彩』(日本美術学院/1916年)、後藤工志『水絵の技法』(アルス/1926)など、同様の書籍が美術系の出版社から次々に刊行されていった。
 鶴田と曾宮の『油絵・水彩画・素描の描き方』では、「素描」ではデッサンの意義にはじまり、木炭画、石膏写生、素描技巧、垂鉛と測棒、明暗法と立体、明暗の強弱、線画、定着、素描と材料……とかなり実践的だ。ところどころにイラストが描かれ、道具の種類や使い方が詳しく解説されている。当時は、西洋画(特に油彩画)の材料がかなり高価で、家計に余裕のある人々が楽しむ趣味だったが、ありあわせのモノや画道具の自作など、できるだけおカネをかけないで絵を楽しむ方法も紹介している。
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 中でも読みごたえがあるのは、やはりボリュームがもっとも厚い「油絵」の章なのだが、具体的な画道具や技法のこと細かな解説や使い方のほかに、西洋の油彩画の歴史や国内における同画の歴史など、趣味としての油絵制作に直接関係のない項目まで記述している点だ。また、同章は後半にいくにしたがって、絵画制作の教科書というよりも洋画界の最新動向や、絵画をめぐるエッセイ(世間話)のような内容になっていくので、西洋画の勉強をスタートさせたい初心者向けというよりも、曾宮一念と鶴田吾郎の美術や絵画に対する考え方(思想)を紹介する読み物としての面白さが加わってくる。
 おそらく、文章表現の技術に関しては、のちにエッセイ類を数多く出版している曾宮一念Click!のほうが優れていたと思われるが、明らかに海外を放浪した経験のある鶴田吾郎が執筆したとみられる箇所も散見される。絵画展覧会を「技術と思想の競技場」と規定する、同書の「展覧会の絵」から少し引用してみよう。
  
 展覧会は芸術作品の発表場所であつて、互に芸術家の技術や思想の競技場にも見られますが、また一般公衆の前に開展するのでありますからそこに純不純の世間的価値を上下することがあつて、芸術家なるものが互に誹謗しあふ弊害も生じ一時的名声を求めんが為に純芸術家の立場を離れて様々な対世間的技巧をするといふことも伴なつてきます。また或る団体が他の意見を異にせる団体に対して、政策上に於て一も二もなく之れを一蹴し去るといふが如きこともありますが、是等は決して純正芸術家としてとるべきことではなく、要するに展覧会なるものが次第に興行化されて来た為であつて、其の興行なるものに携はる一部の計画家が斯かる態度をとることがたまたま生じるので、夫れが誇大されて美術界の不評の種ともなるのであります。
  
 おそらく、上記の文章は二科も文展/帝展も春陽会も、独立美術協会も一水会も、まったく画家の属する集団にはとらわれず、派を超えて多くの画家たちと交流をしつづけていた曾宮一念Click!が書いたものではないかとみられる。
 これが、もし鶴田吾郎が書いた文章であるならば、彼はわずか15年後にはまったく正反対の生き方(絵画制作のしかた)、すなわち軍人と見まごうような服装をしながら戦地を駆けまわり、政府による軍国思想によって統制された美術に同調し、戦争画Click!を描かない画家たちに対して「一も二もなく之れを一蹴し去るが如きこと」をしたことになり、深刻な主体性の自己撞着に陥ってしまうからだ。
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 「展覧会の絵」につづいて、同書の巻末近くには「洋画家と洋行」というエッセイが掲載されている。ちなみに、この時点で曾宮一念は洋行経験がないので、文章を書いているのは海外を放浪した鶴田吾郎ではないかと思われる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 日本の自然は美しいが難しいといふことは洋行して帰つたものに多く出る言葉であります。自然の示すところの色彩は何れかと言へば暗く、複雑にして快明を欠き渋く且つ対色上の美しい効果を多く示してをりません、習慣となれば左程にも感じないのでありますが海外より一歩日本の土を踏むと全体に墨色の多量に含むでゐることを先ず直感します。また日本人の衣服などに於ても外国人と正反対に部分的にて美しい色を表しても全体として大きく眺めた場合、殆んど対色上の美しさや、肉体を包むところの服装の線などが決して画的興味を起させるに甚だ貧しいのであります、むしろ支那人の服装の方がはるかに線などの表れが自然であり絵画的ではないかと思はれます。/小さな例ではあるが右のやうな絵画制作の画因が万事対象より受ける感興が弱い為に、をのずと外国で勉強してゐねよりも感激が薄らぐ故に技量が劣つてくるやうに見えるのでありませう、
  
 これは、当時の洋行した画家が抱く一般的な感想なのだろう。当時の洋画家は、日本にもどってくるとみんなくすんだ色あいに見え、思うように油絵の具が載らないし、フォルムも把握しにくいように思うのだろうが、それは西洋で開発された油絵の具の色彩感から日本の風景を見るからであって、やがて帰国した画家たちはその齟齬や乖離した感覚を埋めようと、あれこれ研究し腐心することになるようだ。
 たとえば、ここ江戸東京地方の伝統的な色彩感覚Click!は周囲の風景に見あうよう、中間色(いま風にいえばパステルカラー調)に美感や美意識を見いだし数百年の時間をかけて発達Click!させたのであり、油絵の具の鮮やかで艶やかな色彩から見れば曖昧模糊として捉えどころがないような、多彩な色を灰をまぶしたハケで薄っすらと掃いたような、シブくて淡い(はかなげな)色あいをしているものが多いが、昔の人たちはそれらの色彩が「日本の自然」や「街の風景」にはよく似あい、無理なく溶けこんで美しいと考えたからだろう。江戸東京では、この美意識がいまでもガンコに受け継がれ生きつづけているが……。
 そこへ明治・大正期を通じて、西洋の風景に適合するよう開発された油絵の具を持ちこんだわけだから、違和感を感じるのはむしろ当然だったにちがいない。ましてや、パリの街角から当時の日本へもどってくれば、艶やかで鮮やかな油絵の具に見あう風景などどこにもないじゃないか……と感じても、なんら不思議ではなかっただろう。
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 わたしは不勉強なので知らないが、洋行した画家がたとえばフランスで風景を描くときに使用した絵の具の種類と、帰国してから風景を描くときに使用した絵の具の種類を詳細に比較すると、特徴的な面白い結果が得られるのではないかと想像している。すでにそのような研究をされている方がいるのかもしれないが、空や木々の緑、地面の土の色ひとつとってみても、フランスと日本では絵の具の混合がかなり異なっているのではないだろうか。

◆写真上:下落合623番地に建っていた、曾宮一念アトリエ跡(右手の駐車場)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』(弘文社/)とその奥付()。は、1917年(大正6)出版の山本鼎『油絵ノ描キカタ』(アルス/)とその奥付()。は、1921年(大正10)からの第1次「どんたくの会」と1931年(昭和6)からの第2次「どんたくの会」が開かれた曾宮一念アトリエの内部。
◆写真中下:いずれも『油絵・水彩画・素描の描き方』収録の作品で鶴田吾郎『松山』()、曾宮一念『アネモネ』(1925年/)、鶴田吾郎『土を掘る人』()。
◆写真下は、庭に立つ曾宮一念と下落合のアトリエ(提供:江崎晴城様Click!)。は、1931年(昭和6)ごろに撮影された第2次「どんたくの会」の曾宮一念(右端)。

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ついにはデパートのようになった公設市場。 [気になる下落合]

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 落合地域には、公設と思われる市場が大正末から昭和初期にかけて2ヶ所確認できる。ひとつは、大正末には開業していた中井駅前に近い下落合市場Click!、もうひとつが月見岡八幡社Click!(旧境内)の向かいにあった上落合市場Click!だ。ただし、上落合市場のほうは何度か移転しているように思われる。公設市場の設計仕様でいえば、いずれも第二号あるいは第三号に類する木造建築だったらしく、山手空襲Click!であえなく焼失している。
 公設市場が、第一次世界大戦後に起きた米騒動に起因しているのは以前の記事Click!でも取り上げたが、関東大震災Click!をはさみ新たな公設市場の設置が東京各地で盛んになった。特に、全滅に近い被害を受けた東京市の市営市場は、震災後に耐震防火の設計がもっとも重視され、鉄筋コンクリート仕様の燃えにくい市営市場が急増していく。公設市場の設置当初の様子を、1930年(昭和5)に興文堂書院から出版された、復興調査協会『帝都復興史』第参巻の「公設市場」から引用してみよう。
  
 (公設市場の)創立当時は其の規模も小さく設備も不完全なるを免れず、且つ其の商品も白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類に過ぎなかつた為め、一般市民に利用されなかつたが、漸次その設備を改善すると共に販売品を安価に供給するため当局は種々研究を重ねたる結果、一般小売商に比して優良品を比較的安価に提供し得るに至つた為め、従来小売商人の暴利に苦しめられつゝあつた一般市民の公設市場利用熱は漸次高まり震災当時に於ては創設当時よりも市場数増加せるのみならず、各市場の取扱品目は著しく増加し、市民特に中産階級以下の日常生活に欠く可らざるものとして発展しつゝあつた。(カッコ内引用者註)
  
 ところが、市街地の公設市場はいまだ木造が多く、関東大震災によって大半が焼失している。震災当時は、市街地(東京15区Click!)に設置された東京市設市場が11ヶ所、近郊の郡部に設置された東京府設市場が31ヶ所あったが、このうち市街地および近郊の15ヶ所の市場が、大震災による大火災で商品在庫も含めて全焼している。
 関東大震災の以前に企画されていた市場の設計図案によれば、鉄筋コンクリート造りの市場建築モデルである「第一号」が存在していたが、建設費に手間やコストがかかるためか、いまだ数が少なかったのだろう。実際に建てられた市場は、木造平家建ての設計図モデル「第二号」か、あるいは壁のない吹き抜けの木造建築だった設計図モデル「第三号」が多かったとみられる。落合地域に大正末から昭和初期にかけて建設された公設市場は、この「第二号」あるいは「第三号」の設計図がベースとなって建設されているのだろう。
 鉄筋コンクリート造りによる公設市場(設計図第一号)の図面を見ると、正面の間口(8間半)は広めの道路に面していることが建設の前提で、残りの壁面(3面)はほかの建設敷地に隣接していることが条件とされている。建物の構造は地上2階に地下1階で、地下は市場内に出店している店舗の商品を備蓄・保管する倉庫として活用できるようになっている。各売店からは、専用階段を利用して地下倉庫へ下りることができた。
 鉄筋コンクリートの公設市場について、売店部分の室内仕様を見てみよう。1922年(大正11)に内務省社会局から発行された、『公設市場設計図及説明』から引用しよう。
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 天井高前方ニ於テ十一尺五寸後方ニ於テ十尺トス 階段ノ外ニ必要アレハ床ニ上ゲ蓋ヲシテ商品ノ上下ニ便ス、陳列段ハ階段反上ゲ蓋ヲ考慮シテ本設計ニ依レルモ(ノ)ハ単ニ一例ヲ示スニ過ギズシテ売品ノ種類、性質ニ応ジ出店人ニ於テ任意設計スルヲ可トス、例ヘハ肉店、魚店ノ類ハ図面ノ如ク床上七尺迄ヲ硝子張、夫ヨリ上部梁迄ヲ金網張リトシテ蠅ヲ防ギ出札所ニ於ケルカ如ク切符売場及売品受渡口ヲ設クルカ如シ/売台甲板ハ幅一尺五寸高三尺三寸木製ニシテ一端ヲ出入ノ通路トス、冬期ニ於テ下部ニ暖房用放熱器ヲ装置スルコトヲ得、夜間ニ於テ甲板上部ニ自在戸ヲ立テ昼間ハ間仕切壁ニ沿ヒテ畳ミ置クヲ得シム、尚店内適宜ノ位置ニ洗浄用給水栓及運搬シ得ル金属製屑鑵ヲ備フルモノトス(カッコ内引用者註)
  
 2階の売店スペースは、市場の店舗数が増えたときのための予備室、あるいは市場の事務室として利用できるようになっている。売店の解説には上水道しか書かれていないが、各店には端に掘られた下水溝(排水溝)が設置されており、通風換気は各売店ごとに換気口を装備し、通路上部の天井両側には換気窓がうがたれて、常に外気が取りこめる設計となっていた。また、従業員や顧客用のトイレは浄化槽を備えた水洗式を採用し、「大」用の個室が4室、小便器が5個それぞれ設置されていた。
 鉄筋コンクリート造りの市場(第一号)は、1922年(大正11)の時点で建設費が坪単価280円と見積もられており、建物だけで72,240円の予算が必要だった。それに加え、商品の陳列棚や送風機、浄化装置、照明、水道(工事)などの設備や機器に別途費用が発生した。これに対して、木造による公設市場の設計図(モデル第二号)は建設費が坪単価160円で12,460円、木造吹き抜けの市場(モデル第三号)なら建設費が坪単価140円で13,500円ほどだった。第二号の木造市場より第三号の建設費が高いのは、想定されている敷地面積が第三号のほうが18.5坪ほどよけいに広いためだ。
 こうして、東京市内や東京府の郡部には次々と公設市場が開業していったが、関東大震災以降は鉄筋コンクリート造りによる建物が急増していくことになる。特に街道沿いには、内務省社会局による『公設市場設計図及説明』の設計図にまったくとらわれない、おシャレなデザインをした大型の公設市場が次々と建設されていく。
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 下落合の近隣でいえば目白駅前に開業した、まるで古城のようなデザインをしていた目白市場Click!、長崎バス通り(目白バス通り)に開業していた、戦後の名曲喫茶のような意匠の長崎市場Click!、そして公設市場というよりもむしろデパートのように大型化した、目白通り沿いの「椎名町百貨店」Click!(開設当初は「椎名町市場」だった?)と、鉄筋コンクリート造りの公設市場は年々大型化していった。
 公設市場内で扱う商品も、大正期の「白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類」どころではなく、デパートや今日の大型スーパーマーケットと同様に、食品から日用雑貨までありとあらゆる商品を取りそろえた販売構成になっていく。中には、目白駅前にあったオシャレな目白市場のように買い物ついでや通勤通学客を見こんだ、川村学園Click!の経営による女学生の喫茶店Click!までが出現するようになっていった。
 昭和初期の様子を、復興調査協会『帝都復興史』第参巻から引用してみよう。
  
 而して其の販売品目も創設の当初は米穀其他八種目に限定されてゐるが、発展に伴れて漸次増加され、日用品の外荒物類、麺類、罐詰等の準日用品をも販売し、更に金物類、洋品、雑貨、庶民階級向の呉服類等にも及んで広く販売されるに至つた 即ち震災後に於ける公設市場一般の販売品目は、白米、雑穀、乾物、野菜、漬物、佃煮、罐詰、鮮魚、干盬魚、牛豚其他の肉類、和洋酒、清涼飲料水、洋品雑貨、味噌、醤油、麺類、砂糖、菓子、パン類、茶、陶器、荒物、金物、傘、履物、薪炭の二十七種類に拡張され、市民の生活必需品は大部分市場に於て整へ得られるに至つた。
  
 つまり、当初は米価をはじめ、生活には欠かせない食品や燃料の急激な値上がり対策として、必要最小限の商品8種に限定して安価に販売していた公設市場が、昭和期に入るとまるでデパートかスーパーのような大型店舗へと衣がえし、必ずしも生活弱者だけではなく一般市民までターゲットに入れた、大規模な流通機関にまで発展してしまったのだ。
 これでは、周囲の店舗や商店街はたまったものではないだろう。公設市場が、いつの間にか強力な競合相手として立ちはだかったことになる。東京じゅうの商店街から、東京市や東京府へ抗議が殺到したと考えても、あながちピント外れではないだろう。
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 椎名町に設置された大型の市場が、地図上から「公設市場」の記号がいつのまにか消え、なぜ「椎名町百貨店」という私設のような名称になっているのか、なぜ1930年代には公設市場が次々と姿を消していったのか、そこに地元商店街との激しい軋轢を感じるのだ。

◆写真上:長崎町の目白通り沿いにあった、「椎名町百貨店」跡の現状。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)発行の『公設市場設計図及説明』(内務省社会局)。上右は、1930年(昭和5)出版の復興調査協会『帝都復興史』第参巻(興文堂書院)。は、鉄筋コンクリート建築の「公設市場第一号」設計図面。
◆写真中下は、「公設市場第一号」の設計図面。は、木造の「公設市場第二号」の設計図面。は、壁がなく吹き抜けの「公設市場第三号」の設計図面。
◆写真下は、ダット乗合自動車の終点折返し場の東側に建っていた1935年(昭和10)ごろの目白駅前のオシャレな「目白市場」。は、目白通り沿いに建っていたもはや市場というよりはデパートに見える1933年(昭和8)撮影の「椎名町百貨店」。は、まるで戦後の名曲喫茶のような意匠に見える1940年(昭和15)ごろ撮影の長崎バス通りに開業していた「長崎市場」。(「目白市場」と「長崎市場」は小川薫アルバムClick!より)

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