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仕舞に脂がのった時期に急逝した観世喜之。 [気になる下落合]

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 以前の記事で、親父が芝居のほかに謡曲(うたい)Click!の趣味ももっていたことを書いた。家の天井にとどく書棚には、山岳Click!清元Click!建築Click!仏教彫刻Click!芝居本Click!など大量の書籍にまじり、能楽Click!の本もたくさん並んでいたのを憶えている。また、観世流のLPレコード全集もあり、休日や舞台の前にはそれらをカセットテープに録音して携帯していたのだろう、しじゅう浚う声が聞こえてきた。
 黙阿弥Click!七五調セリフClick!などとは異なり、わたしは謡曲の詞(コトバ)にはまったく興味が湧かなかったので、それらの書籍類を開くことはなかったけれど、親父が部屋や風呂場などでうなっているのを聞いていると、いつの間にか詞や節まわしを憶えてしまうことがあった。部屋や風呂場から聞こえてきたのは、いまから思えば『隅田川』や『羽衣』『橋弁慶』『舟弁慶』『高砂』『敦盛』などだったと思いあたる。特に『橋弁慶』と『隅田川』は、親父の練習期間が長かったのかいまでも片鱗を憶えていて謡える。ふだんは近くの稽古場に通ったのだろうが、正式な発表会のときは銀座6丁目にある観世宗家の能楽堂、あるいは神楽坂駅の近くにある矢来能楽堂に出かけているのかもしれない。わたしは、謡いにはまったく興味が湧かなかったので、あえて訊いたことがない。
 この矢来能楽堂の前身は、下落合515番地(1932年以降は下落合1丁目511番地)に住んでいた初代・観世喜之邸の邸内にあった能舞台だ。観世喜之が、下落合に自邸と能舞台を建設して転居してきたのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後だ。1911年(明治44)に建設され、それまで観世九皐会の拠点だった神田西小川町の能舞台が、大震災の影響で全焼したためだった。震災の翌年、1924年(大正13)には下落合515番地に観世喜之邸が早くも竣工し、同時に舞台披(びら)きも行なわれている。
 以来、1930年(昭和5)9月に牛込区(現・新宿区の一部)の矢来町60番地に、いわゆる矢来能楽堂が完成するまで、観世九皐会(通称:矢来観世/観世喜之家)の本拠地は下落合にあった。その後も、観世喜之は下落合に住みつづけているが、残念ながら1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、名前が収録されていない。そこで、1933年(昭和8)に聯合通信社から刊行された『日本人事名鑑/昭和9年版』より、その人物紹介を引用してみよう。
  
 観世喜之 観世流能楽師(略) 淀橋区下落合一ノ五一一
 【略歴】本名を喜太郎と称し観世清之の長男 明治十八年二月東京市神田区に出生 同四十年家督を嗣ぐ 幼にして父清之に就き観世流能楽の薫陶を受け同卅年初めて舞台を踏み同卅四年畏くも明治大帝並に昭憲皇太后両陛下御前に於て上覧に供するの光栄に浴し爾来数次に亘て各宮家に御前演能を勤む 観世流能楽の大家として知らる古今亭の雅号を有す
  
 1924年(大正13)の竣工当時、下落合515番地(のち下落合1丁目511番地)の観世邸+能舞台は、目白駅から目白通りを西へ向かい、近衛家Click!の所有地に建つ目白中学校Click!のキャンパスをすぎてすぐの街角を左折すると、60mほど南下した右手にあった。おそらく震災直後から観世喜之が死去するまで、当時の能楽師や謡曲を趣味にしていた人たちには、ふだんから通いなれた“謡い”の道筋だったろう。
 能楽の関連本に、1枚の舞台写真が残されている。1929年(昭和4)の夏に撮影されたものだが、シテを演じているのは観世喜之で、演目は深草少将の怨霊に苦しめられる老婆になった小野小町の『卒塔婆小町』だ。同年は、いまだ矢来能楽堂が落成する以前で、この写真にとらえられた能舞台が、下落合515番地の観世邸内にあった舞台ではないかとみられる。舞台の手前には、観客の入れる見所(観客席のこと)もあり、かなり大きめな建物だったのではないかと思われる。戦前の空中写真にとらえられた、観世邸敷地の道路に面した東側に見えている、まるで寺院の堂のような正方形の建築がそれだろうか。
下落合能舞台1929夏・卒塔婆小町.jpg
観世喜之「能楽審美」1925観世流改訂本刊行会.jpg 初代観世喜之.jpg
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 観世喜之の弟子だった、戸田康保Click!については前回の記事でも書いたが、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(のち目白町4丁目41番地)の戸田邸と観世邸は、目白通りをはさみ直線距離で250mほどしか離れていない。戸田康保は、謡いを浚いに足しげく師宅を訪問していたのだろう。1925年(大正14)に、観世流改訂本刊行会から出版された観世喜之が演じる写真帖『能楽審美』には、戸田康保が序文を寄せている。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 現時観世流能楽の泰斗として名声嘖々たる観世喜之師が演能の粋を蒐めた写真帖であります。斯道今日の興隆は師等の努力が与つて大に力のあつた事は世間周知の事実であります。而も師は久しい間その研鑽を怠らず今や全く円熟の境に入つて其妙技を発揮して居られます。(中略)唯洗練されたる師の型がコロタイプ写真版に撮られて実物其儘の姿態を机上に展開され永久に記念さるゝに至つた事は誠に珍とし喜びに堪へぬ次第であります。想ふに此企は同好の人々の間に持て囃さるゝばかりでなく、美術鑑賞家の書架を賑はし画家彫刻家の好参考にも供せられて更に続刊を待望せらるゝに至るであらうことを信ずるものであります。
  
 この『能楽審美』(昭和期に入り能楽審美社から刊行される同名の月刊能楽雑誌とは別)に掲載された写真類が撮影されたのも、下落合の観世喜之邸に付属していた能舞台ではないかとみられる。大判のカメラで撮影され、当時としては最高品質のコロタイプ印刷で制作された同写真帖は、明治期以来の仕舞型や装束、小道具、作り物などを研究するうえでも貴重な一級資料となっているのだろう。価格はどこにも記載されていないが、今日、古書店で入手しようとすれば軽く万単位の値段になりそうだ。
 ここで余談だけれど、観世喜之の身長はどれぐらいだったのだろうか。写真類から推察するに、160cm前後の能を演じるには違和感がなく、ちょうどよい背丈のように見える。これは芝居の役者にもいえることだが、現代の能舞台で『隅田川』とか『安達原(黒塚)』の老婆を演じるシテが、175~180cmのガタイではどうにも様にならないのだ。上掲の戸田康保の言葉を借りれば、「洗練されたる……型」にはならず、どこか仕舞も含めて滑稽に見えてしまう。『卒塔婆小町』の老衰した小野小町が、面が小さく見え顔が横からはみだすほど栄養がゆきとどき二重アゴでは、およそ興ざめなのと同じだ。
 芝居では、親父が気にしていたのは、坂東三津五郎Click!の養子になった女形の坂東玉三郎が、梅幸や松緑Click!などと共演したときだ。玉三郎は、当時としては身長が高く173cmだったので、舞台ではとんでもない大女となり(現代女性では別にめずらしくないが)、他のベテラン役者たちが小男に見えて吞まれてしまう。玉三郎も気にしてか、背をかがめて猫背気味に演じていた印象があるけれど、カヨワクなければならない荒事の“おやま”が、立役者よりも大きなガタイをして立派では様にならないのだ。
 子どものころ、17代目・中村勘三郎Click!の夏芝居『東海道四谷怪談Click!(あずまかいどう・よつやかいだん)』(国立劇場だったか?)を観にいったとき、晩年に近い勘三郎は足が悪く、しかもよく肥っていた。勘三郎のお岩さんClick!が舞台に登場すると、大向こうから「中村屋!」の掛け声とともに客席のあちこちから笑いが漏れていた。中村屋もそれをよく承知していて、亡霊になってからのお岩さんは静かにス~ッと現われなければならないのに、あえて肥った身体をジタバタさせながら出現して客席を笑わせていた。
 ぜんぜん怖くはなく、共演の役者もつい笑ってしまいセリフに詰まる『東海道四谷怪談』なのだが、観客は大看板である中村勘三郎のお岩さんを観に、わざわざ劇場まで足を運んでいるのであって、南北の怪談を怖がりにきているのではないのでまったく問題はなかった。だが、芝居の舞台では許されるゆるめな演出でも、能楽ではそれが許されない。
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 観世喜之の養子(甥)で、のちに2世・観世喜之を名のるようになる観世武雄は、師の稽古の厳しさについて書いている。観世喜之が56歳で死去した、1940年(昭和15)刊行の「謡曲界」5月追悼号に収録の、観世武雄『教へる時の父』から少し引用してみよう。
  
 シテの稽古をしていたゞいたのは、九才の折で岩船が初めです。子供ごゝろでしたが、能が好きな癖に、こんな難しいことなら、いつそ病気になつちまはうかと思ふ程の厳格そのものゝ稽古でした。/年を経るに従つて尚々喧くなり、十四才を覚えてゐますが、羽衣の仕舞で、マネキ扇をするところで、三四度なほして呉れましたが、なおすと言つても、四度目位には扇子で肘を叩かれたのです。そして、五度目にはまだいけず、舞台から見所へ突き落されたことを覚えてゐます。
  
 跡とりには非常に厳格な師匠だったようだが、おそらく能楽を習いに通っていた弟子や謡いの生徒たちにも、かなり厳しかったのではないだろうか。先述のように、観世喜之は芸に脂が乗りきった時期に下落合で病没している。
 観世喜之は、1940年(昭和15)までに軽く1,000番(回)を超える舞台を踏んでいる。同年には「独演能」に挑戦しようとしていたが、身体の調子が悪く延びのびになっていた。演目も、『仲光』『定家』『安達原』の3番を予定している。死去する同年に謡曲界発行所から刊行された『能楽謡曲芸談集』収録の、観世喜之『独演能』から引用してみよう。
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 大体私の演じた能は千番となつたので、その記念の為といつてはをかしいですが、まあ千といふ数も一つの区切りでありますので、そんな意味からも、これだけの能を舞つてきた私が一日に幾つかの能をやつてみるのも面白いと考へました。こんな原因もあるのです。/しかし、千番といひましても、実際はそれを超してゐることゝ思ひます。以前は、ずつと自分の舞つた能を手帖につけて居りました。それがあの大震災ですつかり焼いて了ひまして、私としては非常に残念なことなのですが、震災前の記録は、ですから全然なくなつて了つたのです。
  
 この芸談からわずか5年後、東京大空襲Click!山手大空襲Click!であまたの能楽に関する貴重な資料類や面、衣装、小道具、作り物などの文化財が数多く焼失したことだろう。
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 戦争は人命を奪うとともに、貴重な歴史遺産をも全的に消滅させる文明・文化破壊であることを改めて確認しておきたい。矢来町の能楽堂は空襲で全焼したが、下落合の観世邸+能舞台は延焼が迫ったものの、濃い屋敷林が幸いして焼け残り、なんとか戦後を迎えている。

◆写真上:1925年(大正14)出版の観世喜之による写真帖『能楽審美』(観世流改訂本刊行会)より、めでたい席などで一節がよく謡われる『高砂』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)夏に撮影された下落合の舞台で演じられたとみられる『卒塔婆小町』。中左は、先述の写真帖『能楽審美』の表紙。中右は、晩年に近い初代・観世喜之。は、写真帖『能楽審美』より『羽衣』と『隅田川』。
◆写真中下からへ、同書より『安達原』、『舟弁慶』、『松風』、『望月』。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合515番地の観世喜之邸。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。中下は、戦後1947年(昭和22)撮影の焼け残った観世喜之邸と能楽堂。は、観世喜之邸の現状。

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西武線の「開通」が2ヶ月も早い陸軍記録。 [気になる下落合]

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 この春、千葉市美術館で「板倉鼎・須美子展」Click!を観賞するついでに、千葉駅の近くにある鉄道第一連隊Click!の本部跡を散策してきた。1926年(大正15)の暮れ、現在の西武線の敷設演習Click!を実施した、あの鉄道連隊Click!のひとつだ。
 鉄道第二連隊が駐屯していた津田沼駅も通過したが、こちらは連隊本部がほぼ駅前の繁華街にあたり、当時の面影は皆無に近いが、鉄道第一連隊のほうは連隊内の作業場も含め、いくつかの遺構や遺物が現代まで保存されている。
 拙サイトでは早い時期から、開業前の西武線を頻繁に往来する貨物列車の目撃情報をテーマに、地元の資料類や国立公文書館に残る鉄道連隊の記録を調べてきた。すると、西武線が開業する以前に、多摩湖建設Click!のために膨大な建築資材(セメントや砂利など)が集積され、一大物流拠点となっていた東村山から、それら資材を陸軍の大規模な施設の建設が計画されていた戸山ヶ原Click!へ、続々と搬入されていたらしい様子が透けて見えてきた。そして、鉄道連隊が西武線敷設を演習先に選んだのも、東村山からの資材運搬ルートの確保という目的が大きかったように思われる。
 特に、1926年(大正15)内に軌条(レール)の敷設が完了し、翌年から下落合氷川明神前の下落合駅Click!より、大正末に鉄筋コンクリートの大型橋梁化が完了していた田島橋Click!を経由して、さまざまな資材・物資が戸山ヶ原Click!へと運びこまれ、流弾被害防止のために建設された大久保射撃場Click!(1927年築)を皮切りに、山手線をはさんだ東西の戸山ヶ原Click!には、大規模なコンクリート建築が次々と建設Click!されていくことになる。
 この取材の過程で、1926年(大正15)の暮れに鉄道第一連隊の演習本部が置かれていた、野方町の須藤家(野方町江古田1522番地)の証言記録Click!を発見し、井荻駅付近から下落合駅(氷川社前)、そして山手線の線路土手下(西側)にあたる高田馬場仮駅(第1仮駅)位置までの演習が、わずか1週間足らずで結了していること。また、田無町(のち田無市本町3丁目)の増田家に演習本部が置かれた、鉄道第二連隊とみられる司令部(中華民国の武官が演習を視察している)は、東村山駅付近から田無駅の先(東側)まで複線軌道を敷設するリードタイムが、わずか8日間だったことも判明している。
 つまり、東村山から山手線の西側土手下までの軌条敷設は、1926年(大正15)の暮れのうちに、のべ2週間ほどで結了していたことになる。そして、鉄道第一連隊の工兵曹長・笠原治長が発明した新兵器=「軌条敷設器」(制式に採用されてからは「軌条引落架」)について、翌1927年(昭和2)1月13日に西武線演習の成果を踏まえて、制式申請の書類が陸軍省(審査は陸軍技術本部)に提出されている。
 西武線敷設が、1926年(大正15)のうちにほぼ結了していたことは、所沢の地元新聞にも報道されている。同年12月5日に発刊された、「所澤魁新聞」から引用してみよう。
  
 川越線の電化工事は、千葉鉄道聯隊の援助により、東村山から高田馬場間の複線レールも殆んど敷設を終つたので、更らに村山・所澤間を複線に拡張して明春早早には開通の予定で、既に新型ボギー車二十台は村山駅に廻送されてゐるが、同車を利用すれば川越から高田馬場まで約四十五分で到著(ママ:着)し得る高速度であると(ママ:。)
  
 同記事は、同線の電化工事の予告を報道したものだが、「千葉鉄道聯隊」は千葉県の千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊の統合表現だと思われる。
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 さらに、過去の記事では高田馬場仮駅が二度設置されていた面白い事実も明らかになった。最終的に省線・高田馬場駅と並行して乗り入れるのに、ふたつの仮駅が山手線の西側と、山手線ガードClick!をくぐった東側に存在していたので、当時、次々と日本記録を塗り替えていた三段跳びの選手にちなみ、地元では「高田馬場駅の三段跳び」と呼ばれていたことも、先の須藤家の記録から判明している。
 そして、省線・高田馬場駅に隣接したホームへ西武線が乗り入れると、その南側には周囲から「砂利置き場」と呼ばれた広い建材置き場Click!が設置されている。もちろん、東村山方面から運ばれてくる砂利やセメントなどの建築資材や物資を、戸山ヶ原の陸軍施設Click!へ安定して供給するのと同時に、西武線の高田馬場-戸山ヶ原-早稲田間の「地下鉄西武線」建設Click!のためにストックしておく物流拠点だったと思われる。
 1927年(昭和2)の早い時期、すなわち西武線が同年4月16日の開業を迎える以前に、東村山から下落合へ建築資材が続々と運びこまれ、戸山ヶ原方面へトラックによるピストン輸送が行なわれていたことも想像に難くない。当時の下落合住民たちは、開業前にもかかわらず西武線を頻繁に往来する貨物列車を目撃しては、不可解さとともに印象的な光景として記憶にとどめたのだろう。
 さて、ここでもうひとつ、鉄道連隊は1926年(大正15)の年内に西武線の敷設演習を終えたあと、いつからセメントや砂利などの資材を東村山から運搬しはじめたのか?……というテーマが残っていた。1927年(昭和2)4月16日の開業直前や開業後では、大量の建材や物資をいっぺんに運びこむのは実質的に困難であり、建築資材を運搬するリードタイム自体を、かなり余裕をもって長めに設定しなければならなかったはずだ。
 また、西武線は電気鉄道なので、軌条敷設が完了したあとは、さまざまな電化設備の設置工事も並行して行われていただろう。さらには、演習では戦場と同様に臨時の木造橋だったとみられる、河川をわたる橋(大きな河川はないが)を鉄橋に造り変える工事や、大急ぎで構築した軌条を支える基盤(鉄道連隊では「路盤」と呼称)を補強する追加工事などもあったとみられる。乗客を運ぶ電鉄車両に比べ、はるかに重量のある資材を運搬することになる貨物列車の運行を考慮すると、補強工事は入念に行われたにちがいない。事実、驚異的なスピードで実施される鉄道連隊の軌道敷設演習では、路盤の脆弱さや敷設した軌条の無理な湾曲(カーブ)などから、少なからず脱線転覆事故も起きていた。これら煩雑な各種工事の合い間をぬいながら、東村山からの資材運びを行わなければならなかっただろう。
 そこで、貨物列車の運行準備が整った時期、つまり各種工事に邪魔をされず線路も補強され、西武線が実質的に「開通」したタイムスタンプを確認できる資料が残されていないかどうか、これまであちこち調べてみたけれど、国立公文書館(陸軍関連記録)にも西武鉄道の記録にも見あたらなかった。おそらく、国内の軍事物資輸送ルートはマル秘扱いのため、記録が残りにくかったのだろうとあきらめかけていた。ところが、思いもよらぬところに東村山駅から高田馬場(実質は氷川社前の下落合駅)までの「開通」記録が残されていた。意外にも、陸軍所沢飛行場Click!に保存されていた資料類だ。
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 陸軍所沢飛行場では以前にご紹介したように、大正期に入ると飛行船・気球や飛行機を分解して無蓋車に積み、戦場へ運搬する演習を西武鉄道と連携して何度も実施している。だから、西武線が山手線(近く)まで延長されたのに留意し、ことさら記録にとどめたのではないか。当該の記録は、陸軍所沢飛行場の資料を整理して年譜式にまとめた、1978年(昭和52)刊行の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)に掲載されていた。
 同書には、1927年(昭和2)2月15日の項目に、「西武鉄道、東村山=高田馬場間開通」と記載されている。つまり、西武線が実際に営業を開始する同年4月16日より2ヶ月も前に、陸軍では同線がすでに「開通」したと認識していたことがうかがえる重要な記録だ。換言すれば、2月15日から開業日までの2ヶ月間が東村山に集積された建築資材を、大量に運搬する期間として設定されたリードタイムであり、下落合の住民たちが開業前の線路上を走る貨物列車を、何度も目撃した時期と重なるのだろう。
 この2ヶ月間で、どれだけの量の建築資材が戸山ヶ原へ運びこまれたのかは不明だが、その直後から先述した大久保射撃場Click!をはじめ、陸軍軍医学校Click!陸軍(第一)衛戍病院Click!陸軍技術本部Click!陸軍科学研究所Click!など戸山ヶ原の各エリアに、コンクリート建築が次々と竣工していくことになる。
 さて、ここで鉄道連隊の部隊編成について触れてみよう。千葉鉄道第一連隊を例にとると、ひとつの作業中隊には兵員が250名ほどで、この構成は1.5kmの軌道敷設を11時間で完了するのを前提に編成されているという。中隊は4つの小隊に分かれ、軌道(レール)を敷く土地の測量や敷設記録を作成する「測量小隊」をはじめ、均地(整地)や経始(中心線定義)、枕木を設置する「第一小隊」、枕木や軌条、接続ボルトなどを運搬して軌条を敷設し金具で固定する「第二小隊」、線路の高低を土や砂利で修正したり、枕木にイヌクギを打ちこんで仕上げていく「第三小隊」とに分かれていた。
 それぞれ歩兵の訓練に加え、専門の技術を身につけた兵員(技術兵)ばかりで、1941年(昭和16)まで鉄道第一連隊は3個中隊の編成になっており、また作業部隊とは別に材料廠部隊が設置され、兵員は1,300名ほどいたという。だが、太平洋戦争がはじまると、兵員はほぼ倍増の2,500名にまで増員された。鉄道連隊に関する記録は、実際に同連隊に勤務していた人物が証言している、1990年(平成2)3月に千葉市史編纂委員会が発行した『千葉いまむかし・No.3』(非売品)収録の、岩村増治郎「懐想の鐡道第一聯隊」に詳しい。
小沢敬司「所沢陸軍飛行場史」1978非売品.jpg 千葉いまむかし199003.jpg
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 千葉駅近くの千葉公園には、鉄道第一連隊の遺構が残されているが、「懐想の鐡道第一聯隊」によれば訓練用トンネルの位置は当時のままで、保存にあたり加工されただけだという。また、同公園には訓練用のコンクリート橋脚やウィンチ台座が保存されている。

◆写真上:千葉公園に残る、鉄道連隊のマークがついた訓練用の隧道(トンネル)。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる千葉駅付近の鉄道第一連隊。中上は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる空襲で壊滅的な被害を受けたとみられる同連隊跡。中下は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる津田沼駅の鉄道第二連隊。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同連隊。
◆写真中下は、千葉鉄道第一連隊の連隊内演習地。右上に見えているトンネルは、現在も同位置に保存されている。中上は、保存された訓練用のトンネル。中下は、訓練用のコンクリート橋脚。は、訓練時にウィンチを設置する台座跡。
◆写真下上左は、1978年(昭和53)出版の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)。上右は、1990年(平成2)刊行の『千葉いまむかし・No.3』(千葉市史編纂委員会/非売品)。は、軌条敷設器(軌条引落架)を使って演習する鉄道連隊。は、1928年(昭和3)6月22日に陸軍技術本部による軌条引落架の審査が結了し制式採用予定の通知。
おまけ
 千葉公園には、千葉駅周辺に展開した陸軍施設の案内板が設置されている。新宿区の戸山ヶ原も陸軍施設が集中していた地域であり、「新宿区平和都市宣言」の趣旨からも同様の案内板が欲しい。もっとも、鉄道連隊などの千葉とは異なり、戸山ヶ原は毒ガス兵器などを開発していた陸軍科学研究所Click!や、軍医学校防疫研究室(731部隊国内本部)Click!など内容がシビアな案内板となりそうだが、歴史や事実を「なかったこと」にしてはならない。
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下落合を描いた画家たち・椿貞雄。 [気になる下落合]

椿貞雄「美中橋」1925春陽会展.jpg
 先ごろ、下落合2118番地にアトリエをかまえていた椿貞雄Click!が、1925年(大正14)の春陽会第3回展に「下落合風景」とみられる画面をいくつか出品していることを書いた。その中で、『美中橋』と題する作品を2点出品しており、そのうちの1点は同年の『みづゑ』4月号(春陽会号)に画像が紹介されていることに気がついていた。でも、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていないとも書いた。ところが、わたしの親しい友人が「みづゑ」の同号を探しだし、わざわざ『美中橋』の画面をコピーしてお送りくださったので、改めて同作について詳しく検討してみたい。
 以前の記事で、『美中橋』は下落合(現・中落合/中井含む)の南を流れる、妙正寺川に架かっていた「美仲橋」ではないかと書いた。もっとも、大正期の美仲橋は現在の位置ではなく、蛇行を繰り返す妙正寺川のやや上流にあり、いまの美仲橋から60mほど西に架橋された簡易な木造橋だった。おそらく、画面が描かれた1925年(大正14)の当時、美仲橋は架けられて数年ほどだったろう。椿貞雄は、地元の人から橋名を「みなかばし」と聞いてはいたが、漢字表記はしっかり認識していなかったと思われる。
 「みづゑ」掲載の画面を見たとたん、大正中期の落合風景だと直感できる作品だった。描かれた橋は、あまり手間をかけず間にあわせに架けられたらしい木製橋であり、橋下を流れているのは妙正寺川だろう。大正末には、蛇行する旧・神田上水Click!および妙正寺川Click!の整流化工事が、数年後(実際は昭和期)に実施される計画が広く知られていたとみられ、半恒久的な鉄筋コンクリート製の架橋工事は行われていない。
 椿貞雄は、以前にもご紹介したように春陽会展へ『美中橋(1)』と『美中橋(2)』の2点を出品しているが、「みづゑ」に掲載された画面は価格が高いほう、すなわちキャンバスサイズが大きい『美中橋(2)』のほうではないかとみられる。ちなみに、『美中橋(2)』は250円だが『美中橋(1)』は120円と半額以下なので、後者はサイズも小さめな画面なのだろう。同展への椿出品でもっとも高額なのは、同じく下落合を描いたと思われる『江戸川上流の景』と、アビラ村(芸術村)Click!の道を描いたとみられる『晴れたる冬の道』の2点で、それぞれ500円の値がついている。
 『美中橋』の画面は、後方左手から光線が当たっており、そちらが南側か南に近い方角と考えたほうが自然だろう。当初は、西陽が射している夕景かとも考えたが、妙正寺川の流筋やモチーフの陰影からすると不自然だ。仔細に観察してみると、手前の河原に生えた草叢が枯れて薄茶か黄色をしているらしいこと、遠景右隅に描かれたケヤキと思われる大木が落葉していることなどを踏まえると、真冬に描かれた風景だとみられる。冬の射光を前提とすれば、この画面は午前中に描かれたものだと想定できる。
 画面の右手、なだらかな丘上に見えている大屋根は伽藍建築であり、明らかに大きめな寺院が建っているとみられる。橋下の川筋は画面の右手、すなわち北方向へ蛇行しているとみられ、右手から左手へとつづくなだらかな丘下の谷あいにも、小流れか灌漑用水路などがありそうな気配だ。その丘下の位置、画面の左手にはなんらかの施設と思われる建物群や数本の煙突、さらに農家か小屋のような建物が集合して見てとれる。その丘麓に生える樹木も、すべて葉を落としているのが判然としている。これらの画面情報を踏まえ、午前中の射光を考慮すれば、この風景に見あう場所は落合地域でたった1ヶ所しか存在しない。
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美仲橋南西1921.jpg
 椿貞雄は、当時は落合町葛ヶ谷御霊下872番地(のち下落合5丁目)あたりの妙正寺川に架けられた旧・美仲橋の東側から、南西の方角を向き上落合(左手)と上高田(右手)の丘上の寺町が拡がる風景を写生していることがわかる。
 先述したとおり、昭和期に入ると蛇行した妙正寺川の流れをできるだけ直線に修正するとともに、美仲橋は五ノ坂つづきの道筋につながるよう、描かれた旧・美仲橋の位置から60mほど下流へ新たな現・美仲橋として建設されている。1929年(昭和4)には、美仲橋はすでに五ノ坂つづきの位置(現在地)へ架け替えが終わっているので、簡易な旧・美仲橋が架けられていた期間はおそらく6~7年ではなかったろうか。
 右手の丘上に見えているのは、中野町上高田324番地に建つ江戸初期の慶長年間に創建された神足寺本堂の大屋根だ。神足寺は、1607年(慶長12)に行心和上によって江戸市街の木挽町(現・中央区銀座)に建立されたが、1910年(明治43)になると銀座地域の商業地化とともに、現在地の上高田へ移転してきている。実は、神足寺については拙サイトにも何度か登場しており、佐伯祐三Click!『堂(絵馬堂)』Click!探しですでに同寺を訪問していた。また、神足寺が建つ丘の東斜面には古墳末期とみられる横穴古墳群が集中して築造Click!されており、上落合へ鳥居龍蔵Click!を招聘した月見岡八幡社Click!守谷源次郎Click!が、考古学チームを組んで昭和初期に発掘調査を行った逸話もご紹介している。
 その左手に見えている屋根は、上高田320番地の願正寺の屋根だろう。願正寺は、1912年(大正元)に上高田へ移転しているが、それまでは牛込区原町、その前は江戸の麹町、さらに以前は神田に建立されていた。拙ブログをお読みの方なら、すでにお気づきかと思うが明治期に建っていた牛込区原町3丁目25番地の願正寺Click!境内に下宿していたのが、三宅克己Click!に入門を断られた中村彝Click!だ。上高田の寺町は戦災をまぬがれ、願正寺は昔の面影が残る古建築なので、中村彝が見ていた本堂と同じものかもしれない。
 神足寺を含む上高田の寂しい丘上の寺町は、大正期から昭和初期にかけ夜間に行われた町内パトロールの順路になっており、怖い思いをしながら金輪のついた鉄棒をジャラジャラ鳴らし、拍子木を連打しながら巡回した印象的な記録が残っている。少し横道へそれるが、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田の昔語り』(非売品)より、夜警の様子を引用してみよう。
神足寺本堂.jpg
神足寺山門.jpg
旧美仲橋筋の道.jpg
  
 道順は、上高田本通りから原田屋さん前まで行く。次に宝仙寺の東側の墓道の間を抜け、願正寺や神足寺の間を抜け「洗い場」の雑木山を木の枝につかまりながら下る。下は耕地整理中の家一軒もない草っ原の所謂「ばっけの原」、これを抜けて氷川様前から、今度は東光寺の前から光徳院前まで行き、更に東光寺の裏手の狭い道を抜け、上高田小学校辺を一巡し、新井薬師駅辺から再び本通りら出て、詰所に戻った。
  
 地図を見れば、いまでも容易にたどれるパトロールの道順だが、大正期から昭和初期にかけては人家もないようなエリアが多く、夜警の当番を嫌がっていた様子も記録されている。ところで、上高田の地元民も最寄りの西武線・新井薬師前駅を、「新井薬師駅」Click!と呼んでいたのがわかる証言だ。この書籍に限らず、中野区教育委員会が編纂した資料類でも、駅名から「前」を抜いて「新井薬師駅」というのが地元では昔から恒常化していたようだ。ちなみに、別テーマで調べていた中野区刊行の戦後資料でも、多くが一貫して「新井薬師駅」と表記しているので(下段おまけ参照)、わたしも少し安心した。w
 さて、なぜ上高田の町内パトロールがそれほど怖かったのか、その答えは椿貞雄『美中橋』の画面左手に描かれた施設群だ。この位置に見えるのは、のちに牧成社牧場Click!が開業する谷間の突きあたりにある、落語「らくだ」Click!でも広く知られていた江戸時代からつづく落合火葬場Click!だ。寺々の墓地中道をゆく夜警パトロールは、この火葬場が近くに見える寺町の丘がいちばん怖かったのではないだろうか。
 描かれた煙突のうち、画面左のいちばん高い煙突が落合火葬場のもの、その右手のわずかに低めな煙突が大正期から営業していた銭湯「吾妻湯」(1935年ごろから「帝国湯」)、そして左端のいちばん低い煙突が最初は火の見櫓かと思ったのだが、1925年(大正14)現在は未設なので、火葬場に付属する焼却炉の煙突だろうか。
 画道具を抱えた椿貞雄は、1924年(大正13)暮れないしは1925年(大正14)年明けの冬の朝、アトリエをあとにすると上ノ道=アビラ村の道Click!(現・坂上ノ道)を西へ60mほど歩き、五ノ坂を下って中ノ道Click!(=下ノ道/現・中井通り)へと出た。当時、五ノ坂下は丁字路になっており、南側は一面の水田が拡がっていたので、道を右折(西進)すると約60mで妙正寺川へと下る田圃の畦道にさしかかる。朝日はすでに高く昇っており、霜が降りた田圃や妙正寺川の土手は、キラキラと光を反射していたのかもしれない。
 この畦道を南南東の方角へ95mほど歩くと、『美中橋』の描画ポイントである旧・美仲橋へとたどり着くことができた。椿貞雄は、旧・美仲橋をわたらず蛇行する妙正寺川の土手沿いを少し東へ歩くと、冬で水抜きされた田圃の葛ヶ谷御霊下900番地(のち下落合5丁目900番地)界隈にイーゼルを立てて、南西の方角を向きながら『美中橋』を描いている。朝早めにアトリエを出たせいか、制作時間はたっぷりあっただろう。午前中におおまかな構図を決め絵の具をざっとの薄塗りすると、あとはアトリエ内での仕事だったのかもしれない。
美仲橋南西1936.jpg
願正寺.jpg
椿貞雄「置賜駅風景」1925中央美術展.jpg
 1925年(大正14)で第3回を迎えた春陽会展だが、会員の椿貞雄は同展で14点もの作品を展示している。その中に、故郷の米沢風景を描いた『置賜駅前風景』という作品がある。どのような画面かは不明だが、同年の中央美術展には『置賜駅前風景』のバリエーション作品とみられる「前」を抜いた『置賜駅風景』を出展している。こちらの画面は、『日本美術年鑑』(1925年版/中央美術)に残されている。「みづゑ」に掲載された『美中橋(2)』とみられる画面だが、バリエーション作品の『美中橋(1)』をはじめ、「下落合風景」と思われる他の作品の画面が、どこか異なるメディアに残されてやしないだろうか。

◆写真上:1925年(大正14)発表(制作は前年?)の、椿貞雄『美中橋(美仲橋)』。
◆写真中上は、画面右に描かれた大正期の神足寺とみられる伽藍大屋根の拡大。は、画面左に描かれた建物群と煙突の拡大。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる御霊下900番地の描画ポイントと推定画角。
◆写真中下は、大正期から何度か改修されている神足寺本堂の現状。は、なだらかな丘を麓から見上げた神足寺山門の現状。は、西武線に断ち切られているが旧・美仲橋へ向かう水田の畦道跡は同線路の南側にいまも残る。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画位置とその周辺。は、移築だとすれば中村彝も目にした源正寺の本堂。は、1925年(大正14)の中央美術展に出品された椿貞雄『置賜駅風景』で『置賜駅前風景』(春陽会展)のバリエーション作品だと思われる。
おまけ
 五ノ坂下につづく美仲橋を南側から撮影したもので、『美中橋』に描かれた旧橋から60mほど下流に架かっている。中の2葉は現在の落合斎場で、昔の暗い火葬場の面影は皆無だ。下は、たとえば中野区刊行の『中野区勢概要』(1964年版)にみる西武線の「新井薬師駅」。この伝でいけば、「高輪G/W」駅はほどなく「高輪駅」Click!と表記されそうだ。w
現美仲橋.jpg
落合斎場.jpg
落合斎場2.jpg
中野区勢概要「新井薬師駅」1964.jpg

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カメラマン徳川慶喜が写した目白崖線沿い。 [気になる下落合]

国際仏教学大学院大学馬車廻しの築山跡.JPG
 明治中期になると、下落合には華族Click!やおカネ持ちの別邸あるいは本邸がポツポツと建てられはじめるが、そんな当時の風情を彷彿とさせる写真が残されている。徳川幕府の15代将軍で、音羽の谷間をはさんだ目白崖線の東側につづく丘陵の一画、小石川区小日向第六天町54番地に住んだカメラが趣味の徳川慶喜Click!だ。
 しばらく巣鴨1丁目の屋敷にいたが、近くに山手線Click!の巣鴨駅が建設されるのを聞き、騒々しいのがキライなので小日向大六天町の南斜面、大久保長門守教義の屋敷跡に引っ越してきたのは、1901年(明治34)のことだった。目の前には、大洗堰Click!のやや上流から分岐し、後楽園Click!の水戸徳川屋敷跡へとつづく旧・神田上水Click!の小流れが残り、江戸川Click!(1966年より神田川Click!)越しに自身が将軍になってから一度も入城したことのない、千代田城Click!の外濠に位置する牛込見附Click!から市ヶ谷見附Click!四谷見附Click!方面が見わたせる眺めのいい敷地だった。
 第六天町の屋敷からの眺めについて、徳川慶喜の孫にあたる女性の証言を、1986年(昭和61)に朝日新聞社から出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』収録の、徳川幹子「十五代さまの周辺」から引用してみよう。
  
 第六天のお屋敷はいく度もうかがったことがあり、よく存じております。父の話では、このお屋敷は慶喜さまがお建てになったものではなく、とてもお気に召されて移り住まれたものだそうです。ただ、このお屋敷のお入口は、車一台がやっと入るくらいの広さで、たしか、角の写真屋のそばから入ったところにご門があったと記憶しています。/この辺りは小日向台町――つまり高台になっていました。慶喜さまのお部屋は、お二階ではなかったけれども高台にあって、お部屋の下のお庭がずーっと茗荷谷の方に向かって下っていて、その下に江戸川(神田川)が流れており、その先の九段の台の方に靖国神社の鳥居が見えました。鳥居はお部屋からも見えました。
  
 茗荷谷と江戸川では、屋敷の北と南とで方角が逆なので、明らかに徳川幹子の勘ちがいだろう。南斜面の下は、江戸期より水道端と呼ばれていた。
 当時もいまも、小日向の南斜面は寺々が建ち並び、緑が多く家々がそれほど密集していないが、徳川慶喜が転居してきたころは、深い森の中に大きめな屋敷が点在するような趣きだった。静岡時代からカメラが趣味だった慶喜は、さっそく周辺の風景や屋敷の人々を撮影しはじめている。まず、屋敷南側の芝庭を撮影した写真①には、築山や生垣越しに、先述した外濠の北西側に位置する各城門(見附)方面が見わたせるパノラマだ。
 遠景の中央から右手にかけてこんもりと繁る森は、牛込見附(門)からつづく神楽坂の丘上あたりから早稲田方面へと連なる、当時はキリ(桐)の森に竹林が密生していた地域だろう。明治期の神楽坂は、夏目漱石Click!の随筆『硝子戸の中』でも描写されているように、追剥ぎでも出そうな鬱蒼とした森林地帯で、女性のひとり歩きも危ない薄暗い寺町でもあった。周囲には、狭山茶Click!を栽培する茶畑農家が多く、寺々の伽藍とその境内森が散在するぐらいで、神楽坂とその周辺に料亭や置屋、待合茶屋などが(城)下町Click!から移転してくるのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降のことだ。
 つづいて、徳川邸の東側を撮影した写真②を見てみよう。江戸川(神田川)が大きくクラックする、大曲(おおまがり)Click!から東側に拡がる小石川町、後楽園から水道橋にかけての風景が写っている。左手の遠景にとらえられている4~5本の煙突群は、陸軍砲兵工廠(のち陸軍造兵廠+工科大学)の敷地で、煙突の間に見え隠れしている森が旧・水戸徳川邸の後楽園だ。左手に見える屋根は、新坂に沿って建つ家令住宅の1軒だろうか。屋根の向こうに、横木に碍子をたくさん載せた白木の電信柱Click!(電話線柱)が見えている。初期の電話線は、1本のケーブルに複数の回線を収容できなかったため、電話の設置が増えるたびに電柱にわたすケーブルも急増していった。
徳川慶喜邸第六天町.jpg
徳川邸1921.jpg
写真①徳川邸南.jpg
 次に、徳川邸の東側を写した写真③を見てみよう。中央の樹間にとらえられている大きな屋敷は、小日向第六天町8番地に建っていた元・会津藩の9代藩主・松平容保邸だ。歴史好きの方なら、明治以降に徳川慶喜と松平容保の家が隣り同士で暮らしているのを見たら、少なからず感慨をもよおすだろう。ただし、松平容保は1893年(明治26)にすでに死去しており、屋敷は長男の松平容大が継いでいた時代だ。余談だが、この松平容大はおもしろい人物で、学習院に入れられたが校風がまったく合わず、学校当局に徹底して反抗したため退学・追放処分となり、のちに東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業している。
 撮影時の松平容大屋敷は、徳川邸の半分弱ほどの規模だが、白木の電信柱が見えているので、すでに電話の引かれていたことがわかる。また、松平邸の周辺に住宅が建てこんでいないことから、撮影時期が明治末あたりだったことも推定できる。そろそろ松平容大の健康が思わしくなく、徳川慶喜も見舞いに出かけていたころだろうか。松平容大邸の背後に見えている、緑豊かな丘陵地帯が小日向台町(現・小日向)だ。
 これら写真から、華族の本邸や別邸が散在していた明治末から大正初期にかけての下落合風景も、薄っすらと想像できそうだ。目白崖線沿いの南斜面には、江戸期そのままに濃い樹林帯が形成されており、坂道を上りはじめると森林の隙間から、ところどころに大きな屋敷の屋根がチラチラと顔をのぞかせているような風情だった。ただし、落合地域のほうが小日向よりも開発が遅いため、建てられる華族やおカネ持ちの本邸・別邸には和館でなく、西洋館もめずらしくなくなっていく。
 徳川慶喜は、自邸と周辺ばかりでなく近所をあちこち散策しながら、風景を切りとってはカメラに収めている。慶喜が愛用していたカメラは、広い画角で風景撮影に適したパノラマカメラと、人物撮影やスナップなどに使われたとみられるプレモカメラ、それにレンズがふたつ装備され立体写真を撮影できるミニマムパルモスステレオカメラの、当時は最先端だったフィルム仕様の高級輸入カメラだった。
 徳川邸の南を流れる、江戸川(神田川)の風景も頻繁に撮影している。写真④は、神田上水と江戸川が分岐する50mほど下流にあった、江戸期からの大洗堰を写したものだ。現在の大滝橋あたりの風景だが、画面に写る川全体が江戸川の流れで、真ん中に渡されている長い木樋は、さらに下流に設置された関口水車Click!を廻すための導水樋だ。神田上水は、右手に写る住宅の向こう側を流れており、徳川慶喜が第六天町に転居してきた1901年(明治34)まで、東京の上水道インフラClick!として現役で使用されていた。右手に目白山(椿山)の南麓と急斜面が見えるが、現在は江戸川公園Click!となっている。その斜面や丘上には、目白不動尊Click!や関口尋常小学校、山県有朋邸(椿山荘)などがあった。
 花見の名所だった、江戸川(神田川)の桜並木Click!をとらえた写真も残されている。写真⑤は、江戸川に架かる中之橋から上流を眺めた風景で、遠く霞みがちに見えている小さめな橋は、明治期の西江戸川橋だろう。現在は、西江戸川橋と中之橋の間に小桜橋が架かっている。江戸川の岸辺には、花見舟を着けられるように桟橋状の窪みが見られるが、川のあちこちに浮いて見える大きな魚籠のような施設は、江戸川名物だったウナギの生け簀Click!だと思われる。画面左側の道路は、十三間に拡幅された現在の目白通りと上空は首都高5号池袋線、右側の道路はTOPPAN本社前の道路だ。その江戸川沿いの風景だろうか、花見の季節に撮影された写真⑥も残されている。「塩延餅」と書かれた、小さな「御休息所」がとらえられており、この水茶屋の娘なのだろうか小さな女の子が写っている。
写真②徳川邸東.jpg
写真③徳川邸西.jpg
写真④大洗堰.jpg
パノラマカメラ.jpg 将軍が撮った明治1986朝日新聞社.jpg
 さて、徳川慶喜は旧・神田上水をそのまま上流へとたどり、新井薬師まで足を運んでいる。小日向の山麓から、目白崖線沿いの道をそのまま西進したと思われるが、当然、下落合では雑司ヶ谷道Click!と呼ばれた新井薬師道を通っただろう。そのころには、山手線の土手を登る踏み切りClick!ではなく、下落合ガードClick!が完成していただろうか。
 新井薬師の表参道から、連続写真のように本堂までを写しているようだが、写真⑦はさまざまな商店が並ぶ参道をすぎて、本堂の手前で撮影したものだ。新井薬師は戦災を受けていないので、徳川慶喜が撮影した明治末の姿を、現在でもそのまま目にすることができる。本堂の右手から、竹竿に結ばれて垂れ下がる幟は、新井薬師の周辺で営業している多種多様な料理屋や茶店、商店などの広告だ。
 このほかにも、徳川慶喜は東京をはじめ近県まで遠出して、カメラのシャッターを切っていたようで、名所旧蹟ばかりでなく現在では失われてしまった近代建築なども被写体にしており、それらの写真はかけがえのない貴重な歴史資料となっている。
 ちょっと脱線するが、明治末に徳川慶喜が目白崖線沿いを西進する妄想が止まらない。カメラを膝に乗せ、あちこちの屋敷を訪ねては撮影がてら歓談するのを楽しんだらしい慶喜だが、おそらく新井薬師(梅照院薬王寺)へも家令数名とともに馬車を駆って参詣に出かけているのだろう。屋敷を出発し、馬車が音羽の谷間から大洗堰あたりにさしかかると……。
 「あすこの、目白山Click!の森から飛びでた2階の屋根は、誰の屋敷だい?」
 「はい、山県有朋Click!公爵様は椿山荘のお屋敷です」
 「絶対に近寄らん、早く馬車を飛ばせ! なんなら、馬糞をお見舞いしてやれ!」
 「……はぁ」
 「大きな池が見えるなぁ、あすこの大屋敷は誰のかな?」
 「はい、先年、超能力の透視実験Click!とやらをやられた細川護成Click!侯爵様です」
 「おう、どんとこいの屋敷か。今度、包丁正宗Click!をカメラで撮りたいものだな」
 「……はぁ」
 「ところで、あすこの川向うに見えている大屋根は、誰の屋敷かな?」
 「はい、大隈重信Click!侯爵様のお屋敷と、先年改名した早稲田大学の校舎です」
 「娘茶摘みClick!女学生好きClick!なスケベジジイに用はないわ! 休憩はならんぞ!」
 「……はぁ、まだ出立して15分ばかりですので。……そのお隣りが伯爵の……」
 「甘泉園の清水徳川家は、お気の毒だったな。もう、なにもいうな」
 「……はぁ」
 「ところで、学習院の向こっかわの鉄道脇の丘上に見え隠れする屋根は誰んちだい?」
 「はい、つい先だて亡くなりました近衛篤麿Click!公爵様のお屋敷です」
 「金輪際、用はないわ! 馬どもにムチをくれろ!」
 「近々、その西隣りに相馬子爵Click!様も、赤坂からお屋敷を移されるとか」
 「ほう。……なら、いつかそっちへ遊びに寄ろうか」
 「その北側には、戸田康保Click!子爵様のお屋敷もありますが」
 「きょうは新井薬師だ、また今度にしよう」
 「……はぁ」
 「あすこの、岬の突端のような丘上にある西洋館は誰んちだい?」
 「はい、尾張様Click!から出られた徳川義恕Click!男爵様の別邸でございます」
 「ちょいと、寄ってこうか」
 「……こちらは、お訪ねになるんで? 出立してまだ30分ですが」
 「渋沢栄一君ちのボタンは撮ったし、ここもボタン栽培Click!に凝ってるらしいやね」
 「しかし、男爵様がご在宅かどうか」
 「なぁに、まだ陽も高いし、留守ならちょいと庭に入れてもらって一服しようや」
 「…………こんなにおヒマで、はたしてよろしいのでしょうか」
 「あん? なんか、いったかい?」
 「いえ、では急坂Click!を上りますので、おつかまりください」
写真⑤江戸川.jpg
写真⑥花見.jpg
写真⑦新井薬師.jpg
 写真集に収録された画面は、徳川慶喜が写したほんの一部の写真だろう。ほかにも、神田川沿いの風景をはじめ、東京各地の写真が多く残されているにちがいない。中には、明治末の下落合の写真も混じっているかもしれないので、ぜひ全画面を見てみたいものだ。

◆写真上:現在は国際仏教学大学院大学キャンパスになっている、第六天町の徳川慶喜邸跡の現状。正門の馬車廻し跡から、南向きに撮影したところ。
◆写真中上は、小日向第六天町の高台に位置していた徳川慶喜邸(本人撮影)。は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる徳川邸と松平邸。は、写真①で徳川邸母家の南芝庭から築山と生垣越しに南側の眺望を撮影したもの。
◆写真中下は、写真②で徳川邸の東側風景で砲兵工廠から後楽園あたりの眺望。中上は、写真③で徳川邸の西隣りに建つ松平容保・容大邸と小日向台の森林。中下は、写真④で江戸期を通じて江戸川(神田川)に設置されていた明治末の大洗堰。下左は、徳川慶喜が愛用した風景撮影用のパノラマカメラ。下右は、1986年(昭和61)に出版された『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集―』(朝日新聞社)。
◆写真下は、写真⑤で桜並木がつづく花見の名所だった江戸川を中之橋から上流を向いて。は、写真⑥で花見の季節に撮影された水茶屋。は、写真⑦で新井薬師の本堂。
おまけ1
 目白山(椿山)の丘上に建てられていた、1878年(明治11)築の山県有朋邸(椿山荘)。
椿山荘(山方有朋邸).jpg
おまけ2
 徳川慶喜は周辺の風景ばかりでなく、散歩の途中で出会った人々や事物などもスナップ写真として撮影している。“洗い場”でダイコンを洗う農民と、ススキにたかるカマキリ。
ダイコン洗い.jpg
ススキとカマキリ.jpg

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(8) [気になる下落合]

曾宮一念「風景」1920.jpg
 少し前にも触れたが、画面に既視感があると感じたのは、この造成地にあるキリの木だった。曾宮一念Click!が1920年(大正9)に描くキりの木は、1923年(大正12)制作の『夕日の路』Click!でも、やや成長した枝ぶりで再度描かれている。それは、もとの角地の道端ではなく、曾宮の造園によってアトリエの南西庭に移植されたあとの姿だ。
 曾宮一念Click!は、1921年(大正10)3月初めに下落合623番地へ建設中だったアトリエが竣工後、綾子夫人が臨月だったためすぐには新居へ引っ越しはせず、長男・俊一Click!の出産(3月22日)を待ち、同年の3月末に淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地の借家Click!から下落合へ転居してきている。キリの移植を軸に考えると、わたしが描かれた画面の風情に既視感があるのはあたりまえのことだった。画面の前の道を歩きながら、しょっちゅうこの風景を目前にして散策しているからだ。当時と同様に、曾宮一念アトリエClick!跡は広い空き地となって舗装され、長年にわたり駐車場として利用されてきた。一時期は、北側に小さな医院が開業していたが、現在はその敷地も含めて駐車場になっている。
 『風景』に描かれた造成地は、中村彝Click!によれば夏目利政Click!が借地権を管理する地所で、夏目が曾宮にアトリエの建設を勧めたのではないか。ひょっとすると、ドロボーClick!に入られた下落合544番地に住んだ際、曾宮一念は彝の仲介で夏目にアトリエ敷地探しを依頼してから、淀橋町柏木へ転居しているのかもしれない。
 曾宮がアトリエを建てたあと、この一帯には片多徳郎Click!(下落合734番地)や牧野虎雄Click!(下落合604番地)、蕗谷虹児Click!(下落合622番地)、一時的だが村山知義・籌子夫妻Click!(下落合735番地)などのアトリエが集中するが、これも夏目利政Click!によるマネジメントだった可能性がある。下落合800番地台の“アトリエ村”Click!につづき、夏目利政はここでも“アトリエ村”を形成しようとしていたのではないか。余談だが、さまざまな画集を発行していた後藤真太郎Click!の座右寶刊行会本社も下落合735番地、つまり村山アトリエと同番地なので、これも夏目による紹介だったのかもしれない。
 夏目利政は、当該の土地を所有しているのではなく、借地権およびその管理を地主から委託され、画家たちを勧誘してはアトリエを建てていたフシが見える。曾宮一念アトリエも、ふたりで打ち合わせながら夏目が図面を引いているのではないか。
 当時の様子を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!より、大正9年7月21日付け洲崎義郎Click!あての手紙から引用してみよう。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 曾宮アトリエは、下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、西へ約210mほど歩く諏訪谷Click!に南面した位置にあった。のち1926年(大正15)の夏、佐伯祐三Click!が画面の左手から連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描く、あの場所だ。
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曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
桐の木1920.jpg 桐の木1923.jpg
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 『風景』を描いた1920年(大正9)の時点で、地鎮祭は終っていたものだろうか。自身の住宅を建てる前、その敷地を写真に収めるのは今日ではありがちなことだが、曾宮一念はタブローに仕上げて保存したのだろう。画面の様子から、季節は秋の風情だが、曾宮アトリエが竣工するのは、翌1921年(大正10)3月のことだ。したがって、アトリエが完成する5~6ヶ月ほど前、そろそろ地鎮祭が終わり建設に取りかかりそうな1920年(大正9)10月下旬あたりの情景だろうか。では、画面を仔細に観察してみよう。
 まず、曾宮アトリエClick!の敷地に接する北側には、1926年(大正15)の時点で「下落合事情明細図」に記載されている青木辰五郎邸が、いまだ建設されていないのがわかる。なにかの畑地(上部が紅葉しはじめた植木畑だろうか?)になっていたようで、ほどなく北側の位置には青木邸が建設されている。鶴田吾郎Click!によれば、青木邸は植木農家だったということで、その家の娘のひとりを描いた『農家の子』Click!(1922年)がタブローで残されている。昭和期に入ると、青木邸の敷地には新たに三沼邸が建設されている。
 画面の左手に見えている、濃い灰色の大きな屋根と赤い屋根の家屋群が、東京美術学校のOBだった下落合622番地の日本画家・川村東陽邸だ。曾宮一念が隣りにアトリエを建てた当時、川村東陽Click!は画業そっちのけで落合村会議員(のち町会議員)の職務に就いていたとみられ、なにかと羽振りがよく近隣に対して威張っていたのだろう。のちに、曾宮一念との間で川村家の飼いネコをめぐる「ウンコ戦争」Click!を引き起こすことになるが、『風景』を描いている曾宮一念は当時、そんなことは知るよしもなかった。
 川村東陽は、1932年(昭和7)に東京35区Click!制が施行されるころ、淀橋区議会議員に立候補するためか下落合から転居している。その広い跡地(画面では左手一帯)には、蕗谷虹児アトリエClick!をはじめ白井邸や谷口邸Click!などが建設されている。ちなみに、曾宮アトリエの西隣りにあたる下落合622番地の谷口邸は、昭和初期から海軍の八八艦隊構想に対し軍縮外交を優先して、米内光政Click!とともに最後まで日米開戦に反対しつづけた、元・聯合艦隊司令長官の退役海軍大将・谷口尚真邸だ。
 画面の奥に見えている、ややキリの木の陰になっている赤い屋根の2階家は、1926年(大正15)現在でいえば荒木定右衛門邸(下落合621番地)だが、これも既視感が生じた大きな要因のひとつで、現在でも灰色の屋根が乗る2階家の向こう側(北側)、東西に長い同じ敷地の位置に、赤い屋根の2階家が同様の向きで建っている。昭和期に入ると、荒木邸の敷地には新たに木村邸が建設されている。
 荒木定右衛門邸の少し左手(西側)、薄いグレーの主屋根を南北に向けて西陽が当たる2階家は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でいえば山田邸(下落合630番地)ということになる。ちなみに、山田邸の少し北西側、同じ下落合630番地の森田亀之助邸Click!の南側には、昭和に入ると里見勝蔵Click!がアトリエをかまえて京都から転居してくる。佐伯祐三が1926年(大正15)10月10日に描いた『森たさんのトナリ』Click!の、あの一画だ。ひょっとすると、左手の遠方に見えている2階家が、『森たさんのトナリ』に描かれた2階家の近くに建つ住宅なのかもしれない。距離感からいえば、ちょうどそのあたりに見えたはずだ。
曾宮一念「荒園」1925.jpg
庭の曾宮一念.jpg
浅川ヘイ1920.jpg 浅川ヘイ1923.jpg
浅川ヘイ.jpg
 さて、興味深い画面の右手(東側)を観察してみよう。右側に描かれた、北へと向かう道筋はやわらかく東へとカーブしている。現在は、できるだけ直線化されているが、宅地の関係からどうしても修正しきれない北寄りの道は、東側へ曲りこんだまま現在にいたっている。道路の右端は、板を並べてつないだような簡易板塀に蔦がはっているような表現で描かれているが、この塀の向こう側が下落合604番地の大きな浅川秀次邸の敷地だ。
 浅川邸の板塀は、関東大震災の前後に造りかえられたらしく、高価そうな和風の白い腰高の練塀が広い屋敷を取り囲んでいた。それは、曾宮一念の『夕日の路』(1923年)でも見ることができるが、その仕様から浅川邸は大きな和風建築だったとみられる。また、曾宮アトリエの建設や浅川邸の新たな練塀の築造とともに、道路の直線化も促進されたと思われるが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現状とはやや異なりいまだ中ほどから東へゆるやかにカーブしている様子が見てとれる。また、1938年(昭和13)ごろになると浅川邸は転居し、かわって土井邸(おそらく洋館)が建設されている。
 曾宮一念は西陽が好きなのか、『風景』(1920年)でも『夕日の路』(1923年)でも橙色の光線で風景を描いている。その夕陽に照らされた浅川邸の新たな練塀を、1926年(大正15)10月22日に描いたのが佐伯祐三の『浅川ヘイ』Click!だ。いまだ実見はおろか、戦災をくぐり抜けて現存しているかさえ不明な作品だが、おそらく曾宮一念の『風景』同様にパースのきいた構図で、重い瓦を載せた和風の白い練塀がつづく、赤土が剥きだしの道路を描いていると思われる。たぶん、サインがないためどこかに埋もれているのかもしれないが、心あたりのある方はぜひコメント欄にでもご一報いただきたい。
 曾宮一念は、『風景』の中央に描き、アトリエの建設とともに庭の西側に移植したキリの木について、著書に想い出を記している。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』より、下落合へ転居してきた当時の様子を引用してみよう。
  
 もう二十年も前のことになる。思ひがけないよくて安い地所を見付けたと思つてゐると私の借りた日から地代が二倍にされてゐる。それに前の借地人二年分の地代も払へといふことで、まづこんなものかと驚いたものである。然しこゝへは以前来て路端の桐の木を写生したことがあり、ちようどこの木は私の借りた地所と路との傾斜面に根を張つてゐた、ことはつておくがこの木もその時買ひ取れといふので以来私のものとなつてゐるのである。(中略) さて家を建てることになつたが履脱ぎ三尺の土間もつけられない始末なので、庭の周囲の垣根の予算などあらう筈がなく、丸太に針金の手製で間に合はす積りでゐるとこれも東南に四十間を立派な檜垣を作らされてしまつた。(青文字引用者註)
  
 この敷地と路端との境界に生えていた「桐の木」は、アトリエを建てる前から曾宮一念の印象的なモチーフになっていたようで、『風景』(1920年)や『夕日の路』(1923年)につづき、第12回二科展で樗牛賞を受賞する『荒園』(1925年)までつづけて描かれている。
曾宮一念アトリエ1936.jpg
諏訪谷入口.JPG
セメントの坪(ヘイ).jpg
セメントの坪(ヘイ)現状.JPG
 どうやら、借地権を管理していた夏目利政は、かなりの商売上手というか“やり手”だったようで、曾宮一念は手もなく彼に丸めこまれてアトリエを建てているようだ。夏目は、地主や建設事務所からコミッションをもらって、画業とは別に生活の足しにしていたのだろう。

◆写真上:1920年(大正9)に、アトリエの建設予定地を描いた曾宮一念『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。中上は、1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。中下は、『風景』と『夕日の路』のキリの拡大。は、曾宮一念アトリエ跡の現状。
◆写真中下は、1925年(大正14)制作の『荒園』(提供:江崎晴城様)にみる移植されたキリ(右手)。中上は、庭にたたずむ曾宮一念(提供:江崎晴城様)。中下は、『風景』と『夕日の路』の浅川邸練塀の比較。は、写真の浅川邸練塀の拡大。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる『風景』の描画ポイントと曾宮一念アトリエ。中上は、『風景』の描画ポイント跡の現状で右側の坂道は諏訪谷へと下る。中下は、1926年(大正15)の夏(9月1日以前)に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。は、『セメントの坪(ヘイ)』の現状と印は『風景』描画ポイント。佐伯がイーゼルを立てた『セメントの坪(ヘイ)』の川村東陽邸敷地は、やがて谷口邸の建設予定地となり、1935年(昭和10)ごろに谷口尚真一家が赤坂から転居してくることになる。
おまけ1
 谷口尚真は、満洲事変の際に日中戦争は絶対反対、ましてや日米戦争などもってのほかと、死ぬまで一貫して戦争に反対しつづけた。軍国主義の体制内で、日本の「亡国」招来を見通せていた数少ない提督のひとりだ。後輩の米内光政とも親しく、戦争へと突き進む日本の「静かなる盾」の役割りをはたしていたが、1941年(昭和16)に下落合で死去している。敗戦間際に、陸軍から生命を狙われていた米内光政Click!は、自宅へは帰れず“潜行”して隠れ家を転々としているが、下落合の林泉園近くで頻繁に目撃されている。谷口尚真の人脈がらみで、下落合の隠れ家にいた可能性もありそうだ。写真は、谷口尚真(左)と米内光政。下は、画家たちのアトリエに囲まれた1938年(昭和13)の谷口尚真邸。海軍の提督でありながら、一貫して戦争に反対しつづけた谷口尚真については、また機会があれば書いてみたい。
谷口尚真.jpg 米内光政.jpg
諏訪谷界隈1938.jpg
おまけ2
 武蔵野らしく、下落合の森に実るヤマグワの実。ジャムにしてもパイにしても、色どりがきれいでベリーのように甘酸っぱくて美味しいだろう。
クワの実1.JPG

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