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目白会館から妙齢婦人へハガキばらまき事件。 [気になる下落合]

目白会館2007.JPG
 1928年(昭和3)の秋口から翌年にかけ、山手線や中央線沿いに住む若い女性ばかりにあてて、大量のハガキが舞いこみはじめた。差出人は、東京市外落合町目白文化村Click!「目白会館内 木村」と書かれており、意味不明の内容だった。
 ハガキの裏面には、ガリ版(謄写版)刷りで以下のようなことが書かれていた。
  
 あなたは昭和三年九月九日、下関発特急で午前十一時頃品川駅へ下車なすつた方と違ひますか。さうでしたらお知らせ下さい。 落合町目白文化村 目白会館内 木村
  
 なにやら、松本清張Click!の時刻表を駆使した短編小説のプロローグのようだが、これを見た若い女性たちは、わけがわからず薄気味の悪い文面だったので、父親に相談するか、あるいは夫に相談して善後策を検討しただろう。相手には自身の住所がバレており、娘や妻の安全・安心を考慮すれば事件性の臭いさえ漂うハガキだった。けれども、「木村」という差出人は落合町目白文化村の「目白会館」Click!という住所を明記しているので、それほど深刻な状況だとは考えず黙殺した人たちも大勢いたかもしれない。
 のちに判明するが、この不可解な文面の刷られたハガキはゆうに1,000枚を超える量が投函されており、おもに東京市郊外の西部地域にバラまかれていた。1928年(昭和3)の時点で、逓信省が発行するハガキ1枚の値段は1銭5厘なので、たとえば1,500枚を購入するには22円50銭ものカネが必要だったことになる。物価指数にもとづき、今日の貨幣価値に換算すれば1万4,310円となり、ガリ版印刷も街中の印刷所へ依頼していたとすれば、おそらく現在の貨幣価値では2万円を軽く超える出費だったと思われる。当時の大卒初任給は50~60円だったので、その月給の大半がハガキ購入と印刷につぎこまれたことになる。
 目白会館で暮らす住民は、さすが裕福で余裕だ……などと感心している場合でなく、不安に思った娘の親や兄弟、あるいは妻の夫や親族たちが下落合1470番地の目白会館めざして、「木村」にハガキの真意を詰問しようと押しかける事態になっている。訪問するのはハガキを受けとった女性ではなく、必ず「いかつい男」がやってきたという。
 その様子を、報知新聞に連載のコラム「談話室」から引用してみよう。なお、同コラムはのちに千倉書房から『談話室漫談篇』として、1929年(昭和4)に出版されている。
  
 その葉書をもらつた婦人は出向かないで、必ずいかつい男が目白会館を訪問して、/「実に怪しからん。木村といふ人に会はせてくれ給へ」といふ見幕を示す。/目白駅から旧目白中学校の方へ行つて、ライオン・ガレーヂといふ横を左へ折れたところに目白会館がある。なる程あとからあとから奇異な葉書を持つ人が来る。/「木村といふ人はゐるかね」
  
 この時期、目白中学校Click!が練馬に移転Click!してから数年後なので、その跡地はいまだ草ぼうぼうの広い空き地Click!が拡がる原っぱClick!だったろう。
 文中に、「ライオン・ガレーヂ」という店舗が登場するが、大正末から営業している街中に増えはじめた乗用車の整備を引き受ける町工場で、江戸川自動車商会の河合鑛が創立して経営していた。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を見ると、目白通りから目白会館へ左折し南へ入る東西の角地に自動車整備会社は見あたらないが、目白通りをはさんだ向かいの長崎町の通り沿いを見ると、同じく1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」には、長崎町大和田1963番地にライオンガレージの前身である「二葉自動車(双葉自動車)」のネームを発見することができる。
品川駅付近.JPG
山手線新宿駅1928頃.jpg
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 目白通りのライオンガレーヂは、1925年(大正14)に創立されたはずだが、翌年につくられた「長崎町事情明細図」では二(双)葉自動車の旧名のままになっている。ちょっと横道にそれるが、目白通りで双葉自動車やライオンガレーヂを経営した河合鑛について、1932年(昭和7)によろづ案内社から出版された『現代日本名士録』より引用してみよう。
  
 河合鑛 小石川区音羽町九ノ一二 電話牛込四、五四三/江戸川自動車商会総支配人、大正自動車(株)専務、ライオンガレーヂ経営者 明治三二年六月生、東京市
 帝都自動車業界に声望隆々たる氏は、河合清次郎氏の長男として市内芝区に生誕した。当家は代々江戸に住み、徳川幕府の御用を勤め畳表の納入を業としてゐた。(中略) 除隊後更に帝国自動車学校に学んだ。同校卒業後目白自動車商会に勤めたが幾何もなく之を辞し、大正十二年十二月市外長崎町に独力を以て双葉自動車商会を創立し、翌十三年四月匿名組合の江戸川自動車商会を興し、更に同十四年双葉自動車商会を廃して同所にライオンガレーヂを開設し、又江戸川自動車商会の姉妹会社たる大正自動車株式会社の専務に選ばれた。(後略)
  
 このあと、河合鑛は1932年(昭和7)に東京の西部を走る武蔵野乗合自動車(現・小田急バス)を創立して社長になり、戦後の1950年(昭和25)には関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)の社長に就任し、乗用車トヨペットの生産を開始している。また、自動車に関連するさまざまな団体の理事を歴任しているのが資料類に見えている。
 さて、本筋にもどろう。「奇異な葉書」を手に、目白会館へ怒鳴りこんだ「いかつい男」たちは、まず同アパートの主事(管理人)に木村本人が不在であることを告げられる。そして、「あなたの御用件はわかつて居りますから」と、わけ知り顔で応接されることになる。ますます奇怪に感じた男たちは、主事室で次のような話を聞かされることになる。報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』より、つづきを引用してみよう。
官製はがき.jpg
談話室漫談篇1929千倉書房.jpg 現代日本名士録1932よろづ案内社.jpg
交通機関懇親会1940日本乗合自動車協会.jpg
  
 葉書差出人の木村といふのは若い製図師であるが、昭和三年九月九日下関からの特急で上京の途中、急に病気になつて苦しみはじめたところを、一人の婦人が親切に介抱してくれた。その時はそのまゝ婦人の名も聞かずに別れたが、今になつて一度は礼を述べたいと思ふと、矢もたてもたまらなくなつて、その婦人が品川駅で下車したといふ記憶をたよりに、多分それは山手線か中央線の沿線にゐる人だらうと、役場やその他で手当り次第に妙齢婦人の名を調べ、かくは葉書を出したのだといふ。
  
 なにやら、数寄屋橋の「君の名は」(菊田一夫Click!)の世界を想起するが、木村という製図師にややパラノイア的な性格を想像してしまうのは、おそらくわたしだけではないだろう。山手線と中央線沿線の町役場を片っ端から訪問し、生年月日を調べて20歳前後の女性の名前と住所を1,000人以上も転記してもち帰り、あらかじめ謄写版で印刷しておいたハガキの表に、アパートの1室でエンエンと毎日、女性あての住所・氏名を書きつづけている男の姿を想像すれば、彼女たちの肉親でなくても不気味な気配や、えもいわれぬ危機感をおぼえるのは、しごく当然ではないだろうか。
 ましてや、娘や妻の住所を確実に知られているので、いつ彼女たちの前に突然現れ危害を加えられないとも限らない……と、周囲の者たちは考え危惧したにちがいない。中には、娘や妻にまとわりつく変質者や尾行者(ストーカー)を疑い、警察にとどけた家庭もかなりあったようだ。さっそく、ハガキを出した各地の警察署から呼びだしを受け、「木村」は仕事どころではなくなり日々警察署へ出頭するのが日課のようになっていく。
 各町の警察署では、あのような奇妙なハガキを妙齢の婦人たちに投函するのは「怪しからん」と叱責されているが、「木村」は逓信省が発行する官製ハガキを使い、助けてくれた恩人を探しているのが犯罪であるというなら、「警察の力で調べてくれるのか?」と逆に取調官へ食ってかかるため、違法行為が見あたらない以上どうしようもなく、二度と同じ警察署には呼ばれなくなったようだ。結局、助けてくれた女性が見つかったかどうかは不明だが、「あっ、わたしのことだ」と心あたりのある女性がいても、ちょっと執拗で気味(きび)の悪い男なので名のりでなかったのではないか。各地の役場をわざわざ訪ね歩き膨大な手間やコストを費やすなら、なぜ新聞各紙の尋ね人欄を利用しなかったのかが不可解だ。
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ライオン・ガレーヂ1938.jpg
矢田津世子1931頃.jpg
 「木村」のおかげで新聞ダネとなり、第三文化村の目白会館は東京西部にその名があまねく知れわたったけれど、アパートの主事は「木村さんのお蔭で、私は仕事などする暇もなく、毎日皆さんに事情をお話するので日が暮れます」と、ボヤくことしきりだったという。

◆写真上:2007年(平成19)に撮影した、第三文化村の目白会館跡(右手)。
◆写真中上は、八つ山橋Click!から撮影した東海道線や新幹線、横須賀線、山手線、京浜東北線などの鉄路が走る品川駅付近。は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅・山手線ホーム。は、1931年(昭和6)ごろにに撮影された中央線。
◆写真中下は、昭和初期に販売されていた1銭5厘の官製ハガキ。中左は、1929年(昭和4)に報知新聞調査部が出版した『談話室漫談篇』(千倉書房)。中右は、1932年(昭和7)に出版された『現代日本名士録』(よろづ案内社)。は、1940年(昭和15)に日本乗合自動車協会が発行した「交通機関懇親会」の出席者名簿。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる同町1963番地の二葉(ママ:双葉)自動車だが、すでにライオンガレーヂになっていたはずだ。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる「いかつい男」たちがたどる目白会館クレームコース。は、1931年(昭和6)ごろ目白会館で撮影された妙齢婦人の矢田津世子Click!(AI着色)。

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ロケが行われた七ノ坂の大正住宅。 [気になる下落合]

七ノ坂1.JPG
 下落合(中落合・中井含む)の西部は、下落合の東部や中部に比べ二度にわたる山手空襲Click!の被害をあまり受けてはおらず、近年まで大正期や昭和初期に建てられた住宅がたくさん残っていた。特に、蘭塔坂(二ノ坂)Click!から西側は近代建築の住宅だらけで、学生時代には街角丸ごと登録有形文化財にでもできそうな風情をしていた。
 先日、知人から「新宿の高層ビル群が見える、戦前に下落合の南斜面へ建てられたらしい住宅を使って、全編ロケーションしためずらしいドラマを見つけた!」……と連絡をいただき、さっそく当該の作品を視聴してみる。はい、まちがいなく下落合4丁目(現・中井2丁目)で撮影されたものだ。また、撮影場所もすぐに特定することができた。ドラマの撮影時、この邸宅はハウススタジオとして使用されていたのか、あるいは建て替えの直前に空き家となっていた邸の撮影が許可されたものか、ほとんどのシーンが邸内外のロケであり、室内の様子もよくとらえられている。
 坂道を下った先には、道路に沿って西武新宿線が走り、その線路の向こう側には落合公園の緑地が拡がっている。即座に撮影場所を特定できたのは、道路に面して西武線が平行に敷かれている点と、まるでバームクーヘンのピースのような、アールをきかせた独特な形状のマンション「落合公園ハウス」が、同公園の森の向こう側(旧・下落合5丁目)に見えたからだ。このマンションの円筒形をした建築(エレベーターホール?)が、このような角度で見える目白崖線の斜面は、七ノ坂をおいて他にない。ドラマの撮影は、七ノ坂Click!の中腹にあった今井勝太郎邸でロケが行われている。
 今井邸は戦前どころか、関東大震災Click!からほどなく建てられた大正建築だ。外観は、当時の典型的な日本家屋だが、撮影された内部の様子からすると板張りの洋間もあったのではないかと思われる。1926年(大正15)作成の、「下落合事情明細図」に描かれた七ノ坂にもすでに採取されており、大正末から宅地開発が盛んだった目白学園Click!中井御霊社Click!のすぐ南側にあたる一画で、建設された当時は下落合2152番地(のち下落合4丁目2152番地)の邸宅だ。
 くだんのドラマは、1993年(平成5)に制作された原作・連城三紀彦で監督・南部英夫の『夢の余白』Click!という作品だ。当時は、かなり視聴率が稼げていたとみられる、いわゆる2時間サスペンスドラマの1作で、林美智子や池上季実子、平幹二郎ら芸達者な舞台俳優たちが出演していた。ドラマのストーリーはともかく、昼夜を問わずに登場する七ノ坂の坂上や坂下の光景、今井邸の室内の様子がよくわかる屋内シーンなどに惹きつけられた。サスペンス(?)ドラマではなく、大正期の下落合に建てられた日本家屋の記録映像として観ると、たいへん興味深い画面ではないだろうか。
 撮影時(1993年)は、七ノ坂の一段下(南側)の住宅敷地に赤い屋根の2階家が建ち、今井邸の1階テラスに面した居間からは、新宿方面の眺めがさえぎられていたが、建築当時はテラスの先にある芝庭から新宿駅西口の一帯にあった淀橋浄水場Click!の光る水面が、よく眺められたのではないだろうか。ドラマでも、おそらく今井邸の2階から、屋上にクレーンを残したままの東京都庁Click!が望見できる。都庁は1991年(平成2)に丸の内から新宿へ移転してきたが、2年後の当時でも、いまだ部分的に工事中だったのだろう。
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 今井邸の室内の柱や床板、ドアなどは黒光りして、大正期の住宅らしいしぶくて落ち着いた色あいを見せており、同邸の西側や北側には大正期のほぼ同時期に建てられたとみられる、灰色の瓦屋根の古い日本家屋とみられる住宅群が何軒かとらえられている。そういえば、下落合4丁目2162番地の仲嶺康輝・林明善のアトリエClick!や、歌手で東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の教授だった渡辺光子(月村光子)Click!が住んでいた寺尾光彦邸は、今井邸から西へ3軒隣りの八ノ坂に面していた。
 少し細かい余談だが、今井邸のある七ノ坂は、坂上が旧・小野田定次郎邸へT字に突きあたるが、その上にある目白学園を映したシーンは登場していない。ただし、エキストラに同学園の制服を着せたとみられる2名の女子を登場させており、昼間の六ノ坂下=中井4号踏み切り脇でのアクシデントや、夜間の七ノ坂を上がる今井邸の玄関シーン(弓道部の部活帰り?)を撮影している。だが、目白学園の正門は六ノ坂上にあり、同学園生徒が七ノ坂を、しかも夜間に上がるのは不自然だろう。また、今井邸の北西側にある中井御霊社は、境内の杜が冒頭のカメラがパンするシーンでチラリととらえられている。
 大正期から七ノ坂に住んでいた今井勝太郎は、1870年(明治3)に東京市内で生まれ育った、内閣印刷局に勤務する国家公務員だった。1934年(昭和9)に国際公論社から出版された『東京紳士録』によれば、印刷局主事となっており、同時に内閣印刷局総務部経理課会計掛長と用度掛長を兼務していた。1934年(昭和9)の時点で64歳なので、とうに内閣印刷局は定年退職していたとみられるが、そのあとも嘱託として同局に勤めていたのかもしれない。国家公務員のせいか、今井勝太郎は1932年(昭和7)に編纂された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、辞退をしたのか名前が掲載されていない。
 今井勝太郎が、下落合へ自邸を建設して転居するきっかけになったのは、もちろん関東大震災だと思われるが、それ以前には麻布区麻布六本木町に住んでいたものだろうか。当時の短歌を収録した文芸誌に、同姓同名の人物を見つけることができるが、職業が公務員なので作品を発表している人物が同一人物かは不明だ。
 今井邸の2階部分は、部屋が1室ないしは小さめな2室のコンパクトな造りで、1階部分に過重な負荷をかけない設計になっているのも、関東大震災による建築分野への影響のひとつだろう。同様の大正建築は、絵画にも数多く描かれており、例を挙げれば佐伯祐三Click!『テニス』Click!に描かれた第二文化村Click!外れの宮本邸Click!や、同じく佐伯がスケッチブックに残した素描Click!の『屋根の上の職人』あるいは『洋館の屋根と電柱』も、同じような設計・構造で建設された住宅事例だ。
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 震災後、行政により重い瓦葺きの住宅建設が禁止された時期があり、その間に建てられた住宅、または震災被害を修復した住宅の屋根は、スレートかトタンに変更され、あるいは瓦状の屋根の風情を保ちたい住宅には、「布瓦」Click!と呼ばれる石綿で造られた軽量の代用品が用いられている。こちらでも、佐伯祐三アトリエの屋根に一時期葺かれていた布瓦(おそらく石綿瓦Click!)について、過去の記事でもご紹介している。
 七ノ坂沿いの住宅は、大正後期からの開発にもかかわらず、ひな壇の造成に用いられていたのは大谷石Click!による縁石や擁壁ではなく、東京土地住宅Click!から開発を引き継いだ箱根土地Click!が造成したとみられる、蘭塔坂(二ノ坂)Click!と同様にコンクリート造りだった。ドラマが撮影された1993年(平成5)、いまだ坂道(道路)と同じ平面に車庫を設置する邸はほとんどなく、開発当時のコンクリートによる古い擁壁が、そのままよく残された七ノ坂の様子がとらえられている。これは、大谷石による擁壁がほとんどだった少し前の三ノ坂や五ノ坂、六ノ坂の住宅地にもいえることだが、たとえば七ノ坂の今井邸から中井駅までは直線距離で500m余なので、歩いても7~8分ほどで西武線を利用できたため、クルマの必要性をそれほど感じなかったせいもあるだろう。また、どうしてもクルマが欲しい家庭では、七ノ坂の上か下の駐車場を借りて利用していたと思われる。
 さて、これだけ書いてサヨナラではドラマの制作者にあまりにも失礼なので、少しだけ『夢の余白』について触れておきたい。「黒のサスペンス」とショルダーがつけられた同ドラマは、親子2代にわたって愛人をつくり、父親は家を出て愛人と再婚し、息子は家になかなか帰ってこなくなった家庭環境を前提に、家に取り残された仲の悪い嫁と姑がいがみあう、もう七ノ坂がたいへんなことになっているストーリーなのだ。平幹二郎の、優柔不断でなかなか意思決定できない「僕」Click!を連発する父親と、短時間で気持ちが大きく揺れ動く林美智子の演技が秀逸なのが救いだろうか。観ているこっちまでが暗鬱とした気分になる、どこがサスペンスなんだと思ってしまうドロドロの展開だ。
 アルトサックスによるスタンダード『As Time Goes By』Click!が流れるどこかのJAZZバーで、父と子がしみじみと語るシーンは、まるで同曲のハンフリー・ボガートで有名なセリフ「(昨日?)そんな昔のことは忘れた」「(今夜?)そんな先のことはわからないさ」といった、ふたりの刹那的な雰囲気そのままの情景なのだが、バーの次に起きる出来事がサスペンスといえばいえるだろうか。このあとは、ネタバレになるので興味のある方はどうぞ。
今井勝太郎邸1926.jpg
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 上落合829番地のなめくぢ横丁Click!で暮らした檀一雄Click!ではないが、「火宅」になってしまった家庭に大正期の落ち着いた和館はあまり似合わない。ドラマではなく、下落合の西部に建てられた大正建築を観察するには、もってこいの映像記録だとは思うのだけれど。

◆写真上:ドラマ『夢の余白』(1993年)のロケ地となった、七ノ坂を坂下から望む。
◆写真中上:同ドラマでとらえられた、30年以上も前の七ノ坂からのパノラマ風景。
◆写真中下:同じく、大正後期に建設された今井勝太郎邸とその周辺。いちばん下の、交通事故寸前のシーンに映る中井4号踏み切り端の床屋だが、その左手にあった六ノ坂下のパン屋で、学生時代の散歩の途中でパンを買った憶えがある。
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる今井邸。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる今井邸。中下は、1989年(昭和64)に撮影された空中写真にみる今井邸とその周辺。は、坂上から眺めた七ノ坂の風景。
おまけ
 大正末に佐伯祐三が描く日本家屋。建築中の屋根(素描)と、『テニス』に描かれた第二文化村に隣接する宮本邸。下は、今世紀に入っても残っていた二ノ坂上の和館群。
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第三文化村の目白会館で暮らした人々。 [気になる下落合]

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 以前より、拙サイトでは下落合1470番地に建っていた第三文化村Click!目白会館文化アパートClick!に住んでいた、作家の矢田津世子Click!や同じく龍膽寺雄Click!、あるいは洋画家の曾宮一念Click!について触れてきていた。ただし、曾宮一念Click!の場合は綾子夫人の病気と、それに起因する離婚に関連した一時的な居住だったとみられ、ほどなく下落合623番地の自邸兼アトリエClick!にもどっている。
 目白会館文化アパートClick!には、建設とほぼ同時にアパートの管理人室、当時の呼称でいえばアパートメント主事室へ代表の電話が引かれている。竣工直後の、1927年(昭和2)に設置されたのは「大塚86-3621番」で、冒頭の「大塚」は大塚電信電話局のことだ。また、1929年(昭和4)には代表番号がひとつ増え、「牛込34-2933番」が追加されている。アパートに備えつけの電話を利用する住民たちが増え、主事室の電話を2台に増設したのだろう。だが、のちに住民たちがアパートの各部屋へ個人用の電話機を設置する事例が急増し、代表番号の電話利用は減ったのではないだろうか。「大塚86-3621番」の代表番号は1934年(昭和9)までの利用で、その後は牛込局のみとなっている。
 目白会館に住んだ住民を、昭和初期(1927~1935年)の紳士録や興信録を通じて調べてみると、その職業は多種多様だが、おしなべて裕福な住民が多かったのではないかと思われる。当時の最先端をいくモダンなアパートメントは、月々の家賃も高く、また家賃とは別に設備費や共有費(応接室や談話室、浴室、洗濯室などの利用費)も発生したとみられ、それなりに多めの収入がある人でないと住めそうもなかったからだ。芸術家を含め、個人である程度の高収入が見こめる自営業の人物や、高学歴で給料も多めなサラリーマン、大学や専門学校に勤める教授、官公庁の幹部クラスの役人などが多く見うけられる。
 まず、芸術家でみると上記の3人のほかに、1929年(昭和4)ごろから洋画家の佐藤文雄Click!が暮らしている。佐藤文雄は、近くに住む田口省吾Click!と同じ秋田県の出身で、東京美術学校Click!(現・東京藝術大学美術部)を卒業したあと、しばらくして学習院Click!の向かいにある川村学園Click!へ美術教師として勤務しているので、目白通り沿いの通勤しやすい近所に住まいを探したものだろう。下落合のあと世田谷に転居してから、戦前は牧野虎雄Click!が中心となっていた画会「旺玄社」に所属し、戦後は佐藤文雄らが中心となって「旺玄会」を起ち上げたが、顧問には牧野虎雄のほか森田亀之助Click!が名前を連ねている。いずれも、戦前は下落合の住民たちだ。
 戦前の旺玄社について、1937年(昭和12)に美術研究所から出版された『日本美術年鑑/昭和12年版』収録の、旺玄社展についての展評から引用してみよう。
  
 旺玄社は牧野虎雄外二十数名の同人に依つて組織されてゐるが、牧野を除いては所謂既成作家として知名の画家は少く、比較的年少な新進洋画家の団体である。そして出品を公募して同人作品の外二百数十点の一般出品を入選させ、総計三百六十三点を陳列して量に於ては大展覧会を開いてゐる。従つて全体として技術の程度はかなり低く、此の量に対して見るべき作品の少いことは怪しむに足りないであらう。併し一般に新奇を衒ひ或は無理をした大作と云ふ如きものが少く、真面目に自己の道を進んでゐる手頃な作品が多かつたことは好もしく見られる所であつた。
  
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 同展には、「旺玄社賞」のほか「目白賞」や「中村彝賞」などが設けられ、いかにも下落合をはじめ目白駅の周辺に住む画家たちを中心に結成された画会の特色が顕著だ。たとえば、1937年(昭和12)1月に東京府美術館で開催された、第4回旺玄社展覧会の入賞者を見ると、中村彝賞には鈴木良三Click!が選ばれ、他の入賞者には佐藤文雄をはじめ深沢省三Click!深沢紅子Click!など、この近所に住んでいた画家たちの名前が目につく。なお、佐藤文雄アトリエに通った弟子のひとりには、アニメ監督の宮崎駿Click!がいる。
 ほかに芸術家としては、詩人の山路青佳が1934年(昭和9)ごろから住んでいる。和歌山県の出身で、詩誌の「詩人現代」や「日本詩壇」、あるいは「歌謡音楽」などへ詩や歌詞を掲載していた人物だが、戦後の創作の様子はよくわからない。また、音楽関係者では東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)出身で、1930年(昭和5)の時点では日本交響楽団(当時の略称は国響=現・NHK交響楽団)に所属していた、フルート奏者の丸山時次が住んでいる。丸山時次も、その後の消息は記録が少ないのでよくわからない。
 公務員としては、東京商科大学教授で同大学付属の東京商科専門学校の教授も兼任していた、如水会会員で歴史学者の金子鷹之助が1929年(昭和4)ごろから住んでいる。京都府の出身で、自身も東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し1919年(大正8)から1923年(大正12)にかけての4年間、イギリスとフランス、それにドイツへ留学して帰国後に同大学へ勤務しはじめている。戦時中は、積極的に軍部や戦争へ協力したものだろうか、1947年(昭和22)に同大学を追放され免官となった。
 1931年(昭和6)ごろには、愛知県出身の航空工学の専門家で、逓信省の航空技師(航空官)だった松浦四郎が住んでいる。松浦四郎は、航空機の技術や歴史についての多彩な本を執筆しており、1933年(昭和8)には文部省嘱託となっている。おそらく、1927年(昭和2)に逓信省と帝国飛行協会の嘱託としてヨーロッパを視察旅行した、下落合801番地(転居後は下落合1丁目476番地)の安達堅造Click!ともコンタクトがあったとみられる。
 目白会館文化アパートの住民で、サラリーマンと思われる人物は3人ほど見つけることができる。まず、芝区愛宕山放送所にある(社)東京中央放送局(日本放送協会関東支部)に勤務していたのが、熊本県出身で早大電気工学科を卒業した岡松眞尚だ。電気学会の会員で、1928年(昭和3)ごろから目白会館に住んでいる。
 また、千葉県出身で1931年(昭和6)ごろから住んでいたのが、帝国海上火災保険(現・損害保険ジャパン)に勤務していた杉本貞雄という人物だ。面白いことに、杉本も航空機分野のいわば専門家で、同保険会社の航空課に勤務している。ちょうど、上記の松浦四郎と杉本貞雄の居住時期がピタリと一致するので、両者には交流があったのではないか。
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 目白会館には、土木建築会社の経営者も住んでいる。本社は東京市麻布区笄町にあり、工場(作業場)は同区の霞町に開設されていた、鈴木組の代表・鈴木茂一だ。また、第三文化村の目白会館は落合町支店として登録されているので、鈴木組は下落合とその周辺で盛んだった開発や建築を手がけていたのだろう。鈴木組は1929年(昭和4)に設立され、代表の鈴木茂一が居住していたのは1933年(昭和8)ごろからだ。新潟県出身の鈴木茂一は、一般の住宅建設も手がけたが、商業ビルやアパートメント、倉庫、競馬場、変電所など、規模の大きな土木をともなう施設の建設が得意だったようだ。
 佐賀県の出身で、東京帝大の法学部を卒業した小川忠惠という人物も、1933年(昭和8)ごろに住んでいた。法学士で、勤務先の記述が見つからないことから、弁護士の個人事務所として目白会館で開業していたものだろうか。戦前、東京帝大大学院法学政治学研究科が刊行していた法律誌「国家学会」の会員であり、同誌の刊行へ盛んに資金カンパしている様子が記録されている。戦後になると、自治体の行政に関連した著作に小川忠惠のネームが数多く見られ、特に大阪府や同府吹田市に関するものが多いので、敗戦を機会に地方公務員として勤務していた可能性がある。
 明らかに無職の住民も、目白会館には住んでいた。興信所の信用調査や、人物紹介を兼ねた興信録・紳士録などで、氏名と住所以外は空欄という山本安三郎という人物だ。1934年(昭和9)ごろに住んでいるが、無職で収入がなければ家賃が高額な目白会館には住めないので、最初は地方の裕福な家庭の学生か東京の地主ではないかと考えた。だが、のちに芭蕉研究家で俳人として有名になる山本六丁子(安三郎)に気づき、当時はすで隠居するような年齢になっていたため無職だったのではないかと思いあたった。山本安三郎の前職は医師なので、目白会館に住むころには十分な貯えがあったのだろう。
 こうして、第三文化村に建っていた目白会館の住民を調べてみると、ほとんどの人物が高収入を得られる職業だったことがわかる。当時、モダンでオシャレなアパートメントへ住むには、一戸建ての借家よりもかなり高額な家賃が必要であり、目白文化村のネームとともに一種のステータスでもあったのだろう。昭和初期のアパートメント居住者は、住所に番地を省略して記載せず、町名のすぐ下にアパート名を記すだけの場合が多い。目白会館文化アパートの場合は、「東京市外落合町目白文化村 目白会館」という表記が多く、東京市35区制Click!が施行されたあとは「淀橋区下落合目白文化村 目白会館」の住所表記が目立つ。
龍膽寺雄1930.jpg
矢田津世子1932.jpg
曾宮一念193510美術.jpg
 部屋番号などの具体的な表記がなくても、郵便物が住民たちへ支障なくとどくのは、目白会館を管理運営していた主事が郵便物や荷物などをまとめて受けとり、各部屋に配布するか、当該の住民が帰宅するのを待って手渡すなどのサービスをしていたからだ。いま風にいえば、いろいろ依頼できるコンシェルジュ付きの高級マンションというところだろう。

◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館文化アパート跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1933年(昭和8)に東京朝日新聞社で開催された同郷の画家たちによる秋田美術展。は、1957年(昭和32)制作の佐藤文雄『花と水』。は、1946年(昭和21)発行の「自由美術」5月号に掲載された旺玄社→旺玄会の告知。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館文化アパート。は、1935年(昭和10)ごろに南側の斜めフカンから撮影された目白会館。は、第1次山手空襲Click!直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された目白会館。
◆写真下は、1930年(昭和5)に撮影されたモダンアパートをわたり歩く龍膽寺雄。は、目白会館時代の1932年(昭和7)に撮影された矢田津世子。は、1935年(昭和10)10月撮影の1931年(昭和6)に自ら設計し増築した「静臥小屋」Click!の南庭に立つ曾宮一念。

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下落合を描いた画家たち・高瀬捷三。 [気になる下落合]

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 山形県の米沢市上杉博物館に収蔵されている、高瀬捷三『下落合風景』は1921年(大正10)制作とされているが、キャンバス裏へ記載があるとか、なにか具体的な根拠のある年紀だろうか? わたしは、画面を観てほどなく描画ポイントを想定できたが、1921年(大正10)では描かれた住宅の建設時期とつじつまが合わないのだ。少なくとも、この風景は1924年(大正13)以降でなければ、下落合の実景とは合致しない。
 では、画面を仔細に観察してみよう。陽光はやや右手から射しており、正面から右手にかけてが南側だと想定することができる。なぜ正面まで南に含めるのかといえば、右手に描かれた坂道の存在だ。東西にのびる目白崖線の、丘上へと通う下落合の坂道のほとんどが時代を問わず、おおよそ南北に拓かれているからだ。しかも、正面に向けて全体の地形が傾斜しているのが画面からは判然としている。正面を南とした場合は右手が西となり、太陽がやや西へ傾いた昼下がりの情景ということになる。
 手前の緩斜面には畑地(ダイコン畑か)が残り、高瀬捷三がイーゼルを据えている地面は、畑地よりさらに高い位置なのがわかる。左手の丘上には、スパニッシュ風(米国西海岸タイプのスペイン風デザイン)の洋館が描かれており、ほぼ同時期に建てられたとみられる赤い屋根の洋館が奥に見える丘上と、右手に描かれた坂道の下にも建設されている。また、地付きの農家とみられる灰色の屋根も、右手の坂下には確認できる。
 右手の坂道には、坂下へと向かう人物がひとり描かれている。この人物の右手には、まるで橋の欄干のような柵(いま風にいえばガードレール)が設けられている。したがって、この柵のさらに右側は、滑落すると危険な深い崖地(谷底)になっているか、あるいは描かれた畑地のある斜面から噴出する、湧水を逃がす水路が設置されている可能性が高い。下落合の斜面=バッケ(崖地)Click!は、関東ロームClick!シルト層および礫層Click!が露出しやすく、自然に湧水が流れでて泉や池を形成したり、農地開墾や宅地造成などで斜面を掘削すると、地下水が噴出するような地勢をしている。
 左手の丘上に建つ洋館群だが、これらの住宅が建てられているということは、丘上に通う道路を想定しなければ不自然だろう。しかも、この道路は左手の住宅群を抜けて正面奥へ向かうとともに、右手の坂道と同じく南へ向け傾斜が深くなるはずだ。そして、丘上の住宅地を南北に通う道路と、右手の湾曲した南へ通う坂道との間には、近接した両坂を往来できる坂道が設置されていた可能性が高い。画面の正面を、左から右へと下がる畑地の変色した草地の境界が、両坂を連結する細い小坂なのかもしれない。
 畑地の土手(境界)にある草が変色しているところをみると、秋の風景だろうか。樹々の葉もやや茶が混じり変色しかかりのように見えるが、落葉がはじまっていないので10月下旬から11月ごろにかけての風景だと思われる。高瀬捷三は、下落合の尾根道沿いを歩くうち、あちこちに建てられはじめたモダンな西洋館と畑地が混在する風景に画因をおぼえ、小高い山の草むらが拡がる斜面へ、画材を抱えながら入りこんだのだろう。左手には、イーゼルを立てた位置とあまり変わらない高さの丘があり、右手の坂道のさらに右側は、谷戸地形で急激に落ちこんでいる。谷底には樹木が鬱蒼と繁っているが、その樹間から谷戸の随所で湧いた小流れが光って見えただろうか。
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 下落合(現・中落合/中井含む)の、特に目白文化村Click!がある中部に古くからお住まいの方なら、すでに画面から描画ポイントを特定できているのではないだろうか。高瀬捷三は、のちに改正道路(山手通り)Click!の工事計画が具体化する1930年代には、「赤土山」Click!と呼ばれることが多くなった丘上の、斜面ないしは崖淵から南側を向いて『下落合風景』を描いている。右手に一部描かれたカーブする坂道は、坂下に向かうにつれて大きく湾曲している、第二文化村からつづく振り子坂Click!だ。
 左手の丘上の、洋館群を縫うようにして敷設されているのは、六天坂Click!筋の三間道路だろう。左端に屋敷の半分ほどしか見えていないのは、六天坂上へ1924年(大正13)に竣工した中谷義一郎邸Click!だ。画面の左手枠外、画家の左横には、同じく赤い屋根をしたより大きな西洋館が建っていたはずだ。有岡一郎Click!『或る外人の家』Click!で描いている、ドイツ人のギル夫人Click!が住む家だ。中谷邸の奥、六天坂へと下る三間道路の右手に描かれているのは、こちらも新築まもない大きな屋敷の上仲尚明邸だろう。
 また、右手の振り子坂沿いに目を向けてみよう。坂下の中ノ道Click!(下の道=現・中井通り)へと向かっているのか、あるいはそこから上ってきたのかは人物の姿勢が曖昧なので不明だが、この時期に西武線Click!はいまだ敷設されておらず中井駅は存在しない。大きく西から東へカーブして、坂下へと抜ける振り子坂の、おそらく右手に建っていた西洋館は竣工まもない陸辰三郎邸で、坂下に近い陸邸の向こう側に見えている古い屋敷は、農家で地主だった宇田川新次郎邸ではないだろうか。
 さて、高瀬捷三について少し書いてみよう。山形県米沢市出身の高瀬が、当初、師と仰いだのは岸田劉生Click!だが、劉生が1929年(昭和4)に死去すると、弟子で同郷だった椿貞雄Click!に師事している。関東大震災Click!ののち、高瀬捷三が出品していたのは春陽会展Click!大調和展Click!であり、のちに国画会Click!展へも出品するようになる。1944年(昭和19)の40歳を迎えた時点で、春陽会展への入選は3回、大調和展で特大学賞を受賞、国画会では13回入選と、洋画家の中堅的な存在になっていた。
 また、この間、椿貞雄が結成し米沢出身の画家たち9人を集めた画会「七渉会」にも、高瀬は積極的に出品している。同画会は1926年(大正15)に結成され、1927年(昭和2)に第1回展を開催している。その様子を、1929年(昭和4)6月9日刊の米沢新聞から引用してみよう。ちなみに、同記事は1992年(平成4)に刊行された「米沢市史編集資料」より。
  
 米沢出身の洋画家椿貞雄氏を中心として、米沢人のみでなる七渉会では、今秋東京丸善本店に於て、第三回の展覧会を開催して、大いに米沢の画家達の腕前を天下に発表すべく目下準備中で、過日千葉県船橋町三丁目の椿氏方で/土田文雄、村山英雄、村山政司、高瀬捷三、上杉勝雄、佐藤豊吉、山下品蔵、志賀三郎、椿貞雄/等の会員が集合し、種々協議するところあった。七渉会は故郷の奇勝関根ナナワタリを偲んで名付けられたものである。
  
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 ここで、下落合の重要な人物が登場している。岸田劉生Click!の愛弟子で、のちに高瀬が師事する椿貞雄だ。椿貞雄は1924年(大正13)から1925年(大正14)に鎌倉町扇ヶ谷192番地へ転居するまで、下落合2118番地に住んでいる。この番地は、翌1926年(大正15)に吉屋信子Click!が自邸を建てる下落合2108番地へ、丘上の道から南へ折れる道路の西側角にあたる敷地だ。ちょうど、四ノ坂と五ノ坂の中間地点にあたる。
 この事実から、高瀬捷三の『下落合風景』は椿貞雄を訪ねたときか、あるいは高瀬自身も下落合の借家に住んでいたか(または椿邸に寄宿していたか)は不明だが、1921年(大正10)の制作ではなく、1924年(大正13)以降の作品である可能性が高いと思われるのだ。そのような経緯を想定すれば、左手に描かれた竣工後の中谷邸をはじめ、周囲に拡がる下落合の風情に時代のズレによる違和感をおぼえないからだ。
 高瀬捷三の『下落合風景』が発表されたのは、1926年(大正15)2月26日から3月20日まで、上野公園竹之台陳列館で開かれた春陽会第4回展であり、高瀬は同作と『鎌倉風景』『風景』の3点を出品している。この時点で1921年(大正10)制作の、つまり5年も前に描いた作品を出展するとは思えない。したがって、『下落合風景』は前年か前々年に制作されたと考えるのが自然なのだ。わたしは、1925年(大正14)の制作ではないかと考えている。また、『鎌倉風景』は同年に椿貞雄が鎌倉へ転居したあと、扇ヶ谷(おおぎがやつ)Click!のアトリエを訪ねて描いた画面ではないだろうか。もう1点の『風景』は、下落合か鎌倉のどちらかの風景作品だろう。
 このように考えてくると、高瀬捷三の足どりがおおよそ見えてくる。彼は1924年(大正13)または1925年(大正14)の秋、椿貞雄のアトリエを訪ねたあと、丘上の道をたどりながら落合第一尋常小学校Click!落合町役場Click!のある東側へと歩いてきた。その途中、赤い屋根の大小西洋館が建ち並ぶ六天坂あたりにさしかかると、画因をおぼえて翠ヶ丘(のち赤土山)のほうへ歩いていった。左手(東側)に見えるギル夫人邸は、いかにもこのあたりに住む画家が描いていそうなので、建設されて間もない中谷邸から振り子坂にかけての谷戸を見下ろす構図で写生することにした……。
 ちなみに、現在は大きく地形が改造され、改正道路(山手通り)の敷設で赤土山は崩されて消滅し(というか逆に掘削された土砂は谷戸の埋め立てにも使われた)、戦後の十三間通りClick!(新目白通り)のより深い掘削工事で、残りの山らしい風情が丸ごと破壊されてしまった。現在は、『下落合風景』の描画ポイントに立とうとしても、クルマの往来が激しい山手通りの真ん中あたりになり、また視点も画面とは正反対に中谷邸のある六天坂の丘を見あげるような、“地下”の視点から眺望するような地形に改造されている。
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 高瀬捷三が春陽会へ出品した、『風景』というタイトルの画面が気になる。『下落合風景』と同時期の、もうひとつの「下落合風景」ではないだろうか。また、下落合2118番地に1年余ほど住んでいた椿貞雄にも、下落合を描いた作品が存在していないかどうか、これから注意してみたいテーマだ。なお、七渉会の上杉勝輝も『目白風景』『落合風景』を、同じく山下品蔵も『落合風景』を同時期に描いているので、下落合の椿貞雄アトリエを頻繁に訪問していたか、あるいは彼らも近くにアトリエをかまえていたのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)ごろに制作されたとみられる高瀬捷三『下落合風景』。
◆写真中上中上は、『下落合風景』の六天坂上にある中谷邸と振り子坂の湾曲部分の画面拡大。中下は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる描かれた風景界隈。
◆写真中下は、高瀬捷三『下落合風景』に描かれている1924年(大正13)以降に見られた下落合の風景モチーフいろいろ。は、同作が出品された1926年(大正15)2月~3月開催の春陽会第4回展目録で、同年に刊行された「芸天」3月号(芸天社)より。は、1931年(昭和6)に神田文房堂のギャラリーで開かれた七渉会第5回展の様子。右からふたりめに椿貞雄がいるが、高瀬捷三はこの中に写っているだろうか。
◆写真下は、Google Earthで見た『下落合風景』の現状。手前の赤土山は、1940年前後の改正道路(山手通り)と戦後の十三間通り(新目白通り)の工事で全的に失われている。は、坂上から眺めた六天坂の現状。は、1924年(大正13)竣工の中谷邸。

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「近衛町」と「長崎町」を耕す川村女学院。 [気になる下落合]

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 以前、目白駅前の目白市場Click!で喫茶&飲食店を運営する、昭和初期の川村女学院Click!で学ぶ生徒たちClick!についてご紹介していた。院長の川村文子による、女子の実践教育の一環として1929年(昭和4)の夏よりスタートした店舗だった。
 この飲食・喫茶店が、いつごろまでつづいたのかは不明だが、まるでヨーロッパの古城のようなデザインをした、目白駅前に位置する目白市場(現・トラッド目白の位置)に入る店舗は、生徒たちのセーラー服に白い割烹着ないしはエプロン姿(ちなみにキャンパス内でも家政科の生徒はこの姿が普通だった)とともに、モダンでオシャレな店だったのではないだろうか。運営の中心となっていたのは、同学院の「割烹部」(高等部家政科)だ。この目白市場について、1932年(昭和7)に東京毎夕新聞社から出版された『東京の現勢』では、次のように報告している。
  
 市場の規模及び設備/(中略) 新市部に於ては蒲田及び目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく 殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店式に設計せられたる市場である。
  
 「新市部」とは、1932年(昭和7)10月に施行された東京市35区制Click!のことで、目白市場は旧・高田町にあるので同年より豊島区に属することになった。
 川村女学院が、生徒の家族や一般の人たちへ授業の成果物(製造品)を販売するのは、1925年(大正14)から「バザー」と名づけて行なわれていた。目白市場ができると、接客が必要な料理や喫茶、雑貨などは実践教育として同市場内で販売されたとみられるが、それまでは年に春4月と秋10月の2回にわたり「学院バザー」および「謝恩バザー」を開催し、授業で製作したさまざまな物品(手芸品が中心だったようだ)を販売している。今日でいえば、多彩な模擬店が並ぶ学園祭のような催しだったろうか。
 「バザー」のはじまりは、同学院の「音楽会」で多種多様な製品を販売したのがきっかけだったようだ。販売されたのは、生徒たちが毎週火曜と金曜に設けられた「自習時間」で、技芸修得を目的とした教育の一環として製作する日用品が中心だった。当初は、ガーゼ布やハンカチ布へ縁縫いをしたような単純な「技芸」だったが、徐々に複雑な手芸・工芸品にまで製作の範囲を拡げていった。子ども用のお手玉をはじめ、百華眼鏡(万華鏡)、手提げ袋、切符入れ、キューピー人形の着せかえ洋服、封筒づくり、造花づくりなど、しまいには多種多様な製品づくりにまで挑戦するようになった。
 年に2回開催される「バザー」と、それとは別の「謝恩バザー」について、1934年(昭和9)に川村女学院鶴友会雑誌部から出版された『川村女学院十年史』より引用してみよう。
  
 学院のバザーは、バザーとは言つても他の一般のものとは余程趣旨の異なるものであつて、陳列品の主体は生徒の製作品であつて、それも極めて簡単な手芸品が其の大部分である。それでも父兄の方方(ママ)が年々大勢お出かけ下さつてなかなかの盛会である。このバザーの収益は主として公益事業に充てられるのであつて、災害の場合に奉仕部より贈る慰問費の一部ともなるのである。/謝恩バザーといふのは、主催者として卒業生が中心となり、学院の職員であるところの旧師のために謝恩の意を表したいといふところから由来して居るのであつて、其の収益の一部を職員の勤績功労者の慰労等に充てたいといふ趣意が含まれて居るのである。
  
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 これらのバザーでは、「手芸品」が大部分を占めると書かれているが、川村女学院の園芸部が収穫した生花や野菜なども販売されていたのではないだろうか。同学院では、生徒たちの寮舎があった高田町と長崎町で、わりと規模が大きめな農園を経営している。そこでは、生花・野菜を育てるばかりでなく、家畜(ヒツジなど)も飼育されていた。
 また、割烹部を中心とした高等部家政科では、目白市場Click!にオープンした飲食&喫茶店の料理に、農園で収穫した野菜類などを材料に用いていたのではないだろうか。割烹部は、高等部家政科の生徒と家事科の教職員、および卒業生などで構成されており、学院内の会食や音楽会、バザーなどにおける食事会や接待などの料理・喫茶いっさいを担当していた。割烹部は、1924年(大正13)に川村女学院が創立された直後から活動しており、同学院では1934年(昭和9)の時点でもっとも古いサークル活動となっている。
 では、高田町と長崎町に農園のある園芸部の活動を同書より引用してみよう。
  
 質素の風を養成すると共に、花を愛することが女性には特に必要である、といふ院長の考から、創立のはじめ頃から、我が学院には園芸部が設けられたのであつた。そして主として和田先生の指導のもとに、或は学院の校庭に或は長崎町の農場に或は近衛町の農園に於て、部員である職員及生徒が土に親しんで居る。播種、害蟲の駆除、除草、其の他園芸の仕事は実に愉快であると言つて居る。
  
 「和田先生」とは、同学院教師の和田德三のことだ。ここでは、草花の育成についてしか記載されていないが、農場あるいは農園には野菜も植えられ、ニワトリの飼育やヒツジの放牧も行われていた。ちなみに、「女=花好きという刷りこみ教育じゃないか」とか、「わたし花粉症なので花は大っキライ!」とかいう声は存在せず、当時の川村女学院は「良妻賢母」教育が川村文子の創立趣旨だったので、「女性とはこうあるべきもの」という画一的な教育が、なんら不自然かつ不可解に感じられなかった時代だ。
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 さて、「長崎町の農場に或は近衛町の農園」とは、いったいどこのことだろうか? まず、「近衛町の農園」は、すぐに場所を特定することができる。現在でも、川村女子大学の校舎や図書館、学生寮が建っている目白3丁目の崖上Click!キャンパスだろう。
 1932年(昭和7)までは高田町金久保沢1142~1146番地、東京35区制の施行で豊島区が成立してからは目白町1丁目1142~1146番地で、淀橋区下落合の近衛町Click!ではなく北東側に隣接するエリアだ。豊島区の成立とともに、本学キャンパスが目白町2丁目で農園が目白町1丁目なので、キャンパスを明確に区別するために、東京土地住宅Click!が開発した下落合側の住宅地名「近衛町」Click!を借用したものだろう。
 もう1ヶ所の「長崎町の農場」は、武蔵野鉄道・東長崎駅Click!の北側、長崎仲町3丁目3793番地にあった。1932年(昭和7)までは長崎町水道向3793番地で、豊島区になってからは長崎仲町の新しい町名+番地となっている。『川村女学院十年史』が出版された1934年(昭和9)の時点では、いまだ周囲には住宅よりも畑地が多い風情だった。
 「近衛町の農園」に比べ、「長崎町の農場」のほうが規模が大きく、前述したように家畜舎や鶏舎まで設けられていた。飼われていたヒツジは年に一度、羊毛が採取されて毛糸への加工のうえ、編み物に使われていたものだろうか。ニワトリの飼育は、鶏卵の採取が目的だったのだろう。1936年(昭和11)の空中写真で確認してみると、「近衛町の農園」は同学院の建物(寮舎など)と近衛町の開発で開かれた三間道路にはさまれた、それほど広くはない農園の耕作だが、「長崎町の農場」はヒノキ林や芝生、あるいは飛び地として家畜舎や牧草地などもあって、かなり本格的な農場として営まれていたようだ。
 『川村女学院十年史』(1934年)に収録の、川村文子「序にかへて――過ぎし十年の回顧」では、園芸部について「和田先生も、十周年を機会に園芸部の拡張発展を計つて下さるといふことで、これも楽しみの一つ」と書いているので、同年以降はさらに「長崎町の農場に或は近衛町の農園」の耕作規模を拡げていったのかもしれない。
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 戦前から戦後にかけ、目白駅のホームで行われていたガーデニングは同学院園芸部の活動であり、山手線の線路土手に咲く花々の世話もまた、園芸部が少なからず協力しているのだろう。これら園芸部の院外活動は、創立10周年を契機にスタートしたのかもしれない。

◆写真上:川村学園(左手)と、川村中学校・川村高等学校(右手)の現状。
◆写真中上は、1930年(昭和5)ごろに制作された小熊秀雄『目白駅附近』(部分)。椿坂から坂上を描いたもので、正面に見える古城のような建築が目白市場。中上中下は、川村女学院の本校舎と第二校舎。は、1934年(昭和9)に川村女学院鶴友会雑誌部から出版された『川村女学院十年史』()と、同学院の創立者・川村文子()。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「近衛町の農園」=目白町1丁目のキャンパス。中上中下は、同年の写真にみる「長崎町の農場」と同平面図。は、長崎仲町の農場で飼育されていたヒツジとニワトリが見える。
◆写真下は、1930年(昭和5)に撮影された元・川村院長邸。中上は、1934年(昭和9)現在のキャンパス平面図。中下は、同年に目白市場側から撮影された川村女学院全景。は、現在は川村学園女子大学になっている下落合の近衛町に隣接する「近衛町の農園」跡。
おまけ
 『川村学園40年のあゆみ』(1964年)には、本校舎から西南西を向いて1925年(大正14)に撮影されたパノラマ写真が掲載されている。中央左寄りに、3年前に橋上駅化された目白駅舎Click!とともに、そこには下落合の近衛町も写っているが、なぜかキャプションには「目白文化村」と誤記されている。w また、遠景ながら画面に戸田康保邸Click!のとらえられているのがめずらしい。写真下は、戦後に目白駅ホームの花壇を手入れする同校生徒たち。
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