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「怪談乳房榎」の地元伝承と芝居との相違。 [気になる下落合]

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 三遊亭圓朝の噺をはじめ、ときに芝居や講談、映画、TVの時代劇などに登場した『怪談乳房榎(かいだん・ちぶさえのき)』は、いまの若い子はともかく、中年以上の方はご存じではないだろうか。その舞台となった南蔵院Click!は、下落合の山手線ガードClick!をくぐって目白崖線の麓、神田川(当時は神田上水)沿いを歩いて直線距離約900mほどのところにある。そして、南蔵院の天井画を描いていた絵師の殺害現場は下落合だ。
 圓朝の怪談噺は明治のことで、もちろん実際に聴いたことはないが、『怪談乳房榎』の芝居はときたま上演され、映画やTVの時代劇などでもたびたび取りあげられ制作されているので、子どものころから何度か観た記憶がある。この7年ほど前にも、歌舞伎で中村勘九郎や中村獅童、中村七之助らが演じているが、TVやネットでも夏がくると三大怪談とともに繰り返し放映されている。親の世代だと、2代目・實川延若(えんじゃく)が当たり役の正助を演じた「十二社滝の場」Click!が有名で、「南蔵院」や「落合蛍狩り」の場よりも一幕上演の機会が多かったのではないだろうか。
 『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』の舞台となったお岩さんClick!の家は雑司ヶ谷四谷町(四家町)Click!にあり、『怪談乳房榎』の舞台となった大鏡山南蔵院は高田氷川社の斜向かいの砂利場と、この超有名な怪談資産をふたつも抱える隣りの高田町がうらやましくてしかたがない。ロンドンの怪談ツアーのように、ぜひ豊島区のイベントで「怪談散歩」か「怪談美術展」、「怪談映画祭」でも企画していただきたいものだ。
 『怪談乳房榎』をご存じない方のために概略を記すと、因果はめぐる式のオドロオドロしい物語だ。子ども(真与太郎)が生まれたので、梅若詣でに出かけた人妻のお関(怪談噺では「おきせ」と語られることが多い)に、ひと目惚れした浪人の磯貝浪江はお関に近づくため、その亭主である絵師の菱川重信へ弟子入りする。重信は、南蔵院から天井画を描く注文を受けたため、下高田村まで出張して仕事をはじめる。その留守の間に、浪江は赤子の真与太郎を殺すと脅して、無理やりお関と密通してしまう。
 浪江は、下男・正助(圓朝噺では正介)を馬場下町の飲み屋へと誘い出し、菱川重信を殺そうと持ちかけるが、正助が断ると「殺す」と脅して殺害計画へ無理やり引き入れる。正助は、菱川重信を落合の蛍狩りClick!へと連れだし、「落合土橋」のあたりで待ち伏せた浪江に斬り殺されてしまう。正助は、最初の手はずどおり南蔵院へと駈けもどり、菱川重信の遭難を報告するが、住職は絵師なら先ほどもどり本堂で仕事をしていると答えるのを聞いてゾーッとする。「そんなはずは……」と、正助が本堂をのぞきにいけば、血だらけの物凄い菱川重信の亡霊が、龍の絵に最後の目を入れ消えていくところだった。
 このあと浪江とお関は夫婦になるが、今度は重信の子の真与太郎が邪魔になるので正助に殺してこいと命じる。そして、浪江の悪仲間である“うわばみ三次”(芝居のみに登場)に、裏を知りすぎた正助も殺害するよう依頼する。以下、1953年(昭和28)に白水社から出版された戸板康二『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』から引用してみよう。
  
 重信を殺して、その妻のお関をわが物にした浪江は、邪魔になる子供を滝へ捨てて来いと下男の正助に命じた。十二社の大滝まで来た正助は、赤子の無心な顔を見ると、どうにも殺せない。とつおいつしてゐると、滝壺に重信の霊が現れ、この子を育てて自分の恨みを晴らしてくれれば、一旦悪人に加担した罪は許してやるといつて消える。正助が行きかけようとする所へ、うはばみ三次が匕首をかざして切りつける。この幕は、正助と三次とを、何度も替る、手のこんだ立ち廻りの面白さと、滝に使ふ本水の涼しさとによつて、独特の夏芝居の雰囲気をもつてゐる。
  
 落語では、正助は真与太郎を滝壺へ投げこむが、重信の亡霊が赤子を助けて正助に仇討ちを命じるくだりになっている。さて、このあとまだまだ話はつづき、正助は板橋でひそかに真与太郎を養育して、浪江の妻となったお関は乳に腫れ物ができ、浪江は誤ってお関を殺してしまい、最後には重信が真与太郎に憑依して仇討ちを果たす……といった筋立てだ。
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 『怪談乳房榎』は、三遊亭圓朝がゼロからこしらえた創作怪談ではなく、そのベースとなった怪談が南蔵院に代々伝わっている。圓朝は、この伝承のエピソードを思いっきりふくらませて「実話怪談」に仕立てたのだろう。江戸期の南蔵院が、天井画を絵師に依頼したのは事実で、幽霊が描いたとされる牡竜と牝竜の画が、台風(あるいは火災という説もある)で本堂が消失するまで実際に存在していた。古典落語や芝居では、菱川派の絵師となっているが、南蔵院が依頼した絵師は狩野派と伝えられている。
 1929年(昭和4)4月20日に、南蔵院へ実際に取材した江副廣忠のレポートが残っている。同年に三才社から出版された、『高田の今昔』Click!から引用してみよう。
  
 嘗て狩野朱信(あけのぶ)と云ふ絵師が此の天井へ「雄竜、牝竜」を描きに来て居るうちに、留守の妻が武家出の弟子と密通して、其の発覚を恐れ、或夜夫の朱信に蛍狩を勧め、わざわざ落合村の田島橋へ誘ひ出して姦夫と協力して殺して了つた。其の時絵はまだ牡竜の晴を入れて居なかつたので、朱信の幽魂が来て之を描き入れた。其の為に幽霊の描いた方の眼は、特に凄味があつて色が変つて居たと云ふ事である。しかし其の本堂は今から八十二年程前に頗る古かつたので大風で倒れて了つて、因縁附きの天井絵も跡方(ママ)も亡くなつたのは惜しい事である。(カッコ内引用者註)
  
 地元の伝承では、ねんごろになった武家出の弟子と妻が共謀し、下落合の「落合土橋」ではなく田島橋で絵師を謀殺したという、ありがちな痴情のもつれによる殺人事件ということになっている。この伝承では、絵師の幽霊はむしろ話を盛りあげるための添え物であり、妻と弟子が共謀して師匠を殺したというセンセーショナルな出来事のほうが、人のウワサにのぼりやすい事件として記憶され、今日まで語り継がれてきたように思える。
 また、狩野朱信は天井画のほか4枚の杉戸にも絵を描いており、それらは大風で本堂が倒壊したあとガレ木の整理の際に見つかって、南蔵院でたいせつに保存されていた。同寺で火災があったとすれば杉戸も燃えているはずで、大風でバラバラに倒壊したという伝承のほうにリアリティを感じる。江副廣忠は、実際に4枚の杉戸を拝観しているが、塵埃で薄汚れてはいたものの、枝ぶりのいい松が描かれていたのを確認している。
 寺側の証言がかなり具体的であり、本堂の倒壊が1929年(昭和4)の時点から82年ほど前の大風というと、1847年(弘化4)に江戸を襲った台風とみられる。調べてみると、同年7月に日本列島を縦断したとみられる台風が各地に被害をもたらしており、南蔵院本堂の倒壊はこの台風に起因しているのかもしれない。南蔵院は1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で全焼しているため、現在では江戸期由来の本堂部材はまったく残っていない。
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 さて、地元の伝承では殺害現場を田島橋Click!としているが、怪談噺や芝居では「落合土橋」としているケースが多い。この落合土橋とは、田島橋より上流の妙正寺川(北川・井草流)Click!の出口に架かる、江戸前期の1690年代に了然尼Click!が普請した比丘尼橋Click!のことと思われ、江戸後期の1788~1791年(天明8~寛政3)にかけて幕府普請奉行所が編纂した『上水記』によれば、まさに比丘尼橋の位置に架かる橋名が落合の「土橋/西橋」と採取されている。1808~1811年(文化5~8)に、幕府が編纂した「御府内場末往還其外沿革図書」には、残念ながら橋名は採取されていないが、幕末に作成された「下落合村絵図」や「上落合村絵図」には、すでに「西橋」(西ノ橋)とのみ記載されている。
 幕末になると、妙正寺川と神田上水が落ち合う湿地帯がホタル狩りの名所となっており、江戸市街から多くの夕涼み客を集めたとみられ、この橋も土橋から欄干のある木橋へ架け替えられていた様子は、三代豊国・二代広重によって描かれた『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景「落合ほたる」Click!から推定することができる。ただし、江戸市内あるいは明治期の東京市内で発行されていた既存の名所案内では、新しい橋名の西ノ橋ではなく「落合土橋」のまま記載されていた可能性が高い。
 つまり、圓朝の噺や芝居の演目に『怪談乳房榎』が取りあげられたころ、幕末から明治にかけての落合ホタル狩り名所は、すでに神田上水に架かる田島橋周辺ではなく、さらに上流の妙正寺川に架かる西ノ橋(旧・落合土橋/比丘尼橋)周辺へと移動しており、田島橋よりは落合土橋のほうが聴衆や観衆には馴染みがあって響きやすく、またホタルが舞う名所でのリアルな殺人現場として、怪談噺の上でも舞台上でも効果的で格好のロケーションだったのではないだろうか。夏に演じられる怪談噺や芝居を観聴きして、実際に下落合の「殺人現場」へホタル狩り(肝だめし)にやってきた、明治期の人たちも数多くいたにちがいない。
映画「怪談乳房榎」1958新東宝.jpg 三遊亭圓朝.jpg
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 南蔵院に伝承された怪談話の田島橋は、現在では目の前にエステー本社や東京富士大学のキャンパスがある一画で、落語や芝居の『怪談乳房榎』に登場する落合土橋(西ノ橋)のほうは、西武新宿線の下落合駅前になっている。両橋とも、1935年(昭和10)前後に行われた神田川や妙正寺川の直線整流化工事で、多少は架設位置を変えているけれど、いずれにしても江戸期の絵師の亡霊がさまようには、あまりにも賑やかすぎる風情となっている。

◆写真上:妻と弟子に謀殺された、狩野派の絵師による天井画があった南蔵院。
◆写真中上は、1857年(安政4)に作成された尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」の南蔵院界隈。は、幕府普請奉行所が天明から寛政年間にかけて編纂した『上水記』(1788~1791年)より。は、幕末に作成された「下落合村絵図」。
◆写真中下は、戦前から2代目・實川延若の当たり役だった正助の「十二社大滝の場」。は、戦後まで新宿でも有数の花柳界となっていた十二社大池周辺。は、1936年(昭和11)に撮影された高田南町の南蔵院とその周辺。
◆写真下上左は、1958年(昭和33)に上映された『怪談乳房榎』(新東宝)。上右は、怪談噺が特異だった三遊亭圓朝。は、映画『怪談乳房榎』のワンシーン。

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1930年(昭和5)に課せられた税金づくし。 [気になる下落合]

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 1930年(昭和5)に出版された『高田町政概要』Click!(高田町役場)には、巻末に付録として町村レベルの自治体に関係する税金の一覧と、各種申請書や届出書の様式(書類)への詳しい記入例などが掲載されている。これを見ていると、当時の行政側の徴税に関する考え方や、税金を払う当時の住民たちの暮らしなどが透けて見えてくる。
 当時の所得税は、第一種所得税・第二種所得税・第三種所得税の3種類に分けられていて、町村の自治体で扱うのは第三種所得税だった。その税率表によれば、年間に1,200円を超える所得があった住民には、8%の所得税が賦課されている。1935年(昭和5)の給与額から換算した当時の1円は5,000円前後だから、年間600万円ほどの収入があった人は8%、すなわち約48万円を所得税として納付する義務があった。もちろん累進課税なので、所得が増えれば増えるほど税率は高くなっていく。
 年間1万円を稼げば9.5%、5万円だと17%、10万円だと21%、100万円だと27%が所得税として計算された。たとえば100万円は、今日の貨幣価値に換算すると50億円ぐらいだから、よほど裕福な華族かおカネ持ちの企業家でなければ稼げない額だ。50億ほど稼いでも、13億5,000万円が税金としてもっていかれる額だった。所得税の税率一覧では、400万円の36%まで掲載されているが、1930年(昭和5)から数えて10年ほど前までは、第一次世界大戦の成金ブームで年間にそれぐらい稼げる戦争商人がいたかもしれない。
 また、法人や個人への営業収益税は純利益に対して法人の場合3.6%、個人の場合は同じく2.8%を納付しなければならなかった。たとえば、1,000円(約500万円)ほどの純利益が出れば、法人の場合は36円(約18万円)、個人の場合は28円(約14万円)が税金だった。営業収益税のほかにも、営業しているだけで賦課される営業税(現在の事業税)というのがあり、これが業種業態ごとに非常に細かく分類規定されている。
 たとえば、商品の販売店や飲食店、旅館、貸席業、運送業、下宿業などは、売上高の0.5%が営業税として徴収される。商店の場合、年間の売り上げ高が2,000円(約1,000万円)ぐらいだとすると、そのうち10円(約5万円)が営業税ということになる。これが金融業だと売上高の11%、周旋屋(引っ越し屋)や問屋業だと5%、料理屋だと1.6%、製造業や印刷業、出版社、写真館だと0.5%、銭湯は1.1%……などなど、非常に細かく業種業態が規定されている。ただし、床屋の場合は一律1円90銭(約9,500円)だが、従業員がひとり増えるたびに1円ずつ加算されていった。
 同じ一律の営業税で面白いのは、芸者の置屋の場合で、芸者ひとりにつき月額4円80銭(約2万4,000円)、「小芸者」つまり半玉ひとりにつき月額1円90銭(約9,500円)が課せられた。これを年額に換算すると、芸者がひとりいれば57円60銭(約28万8,000円)、半玉でさえ22円80銭(約11万4,000円)もかかったことになる。また、遊技場では1930年(昭和5)ごろ大ブームとなっていた玉突き場(ビリヤード)Click!が高く、玉突き台1台につき年間で45円(約225,000円)も取られている。ブームで流行っている事業から、税金を取れるときにたくさん取っておくというのは、いまも昔も変わらないようだ。雀荘などの場合は、ゲーム台1台につき年間24円(約12万円)が課税されていた。
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 以上の業種業態は、年間または月間で課せられている税金だが、開業するごとに日割計算で課税される業種もあった。たとえば、寄席や映画館は開館するごとに30銭(約1,500円)が徴収される。また、「遊覧所」のような事業、たとえば遊園地やサーカス、見世物小屋などは、やはり開業(開設)した日ごとに1円50銭(約7,500円)が課せられた。一見、安い税額のように見えるけれど、もし年間300日ほど開館した寄席や映画館は90円(約45万円)、「遊覧所」の場合には450円(約225万円)ほどが、お客の入りにかかわらず税金で消えていくので、法人や商店に比べればかなり高額だったのがわかる。
 次に「雑種税」と呼ばれる、人々の暮らしと密接に関連する物品にかけられていた税金を見ていこう。たとえば、自宅に馬車があった場合(そんな家はめったにないが華族屋敷には常備していた)、2頭立て馬車は年間110円(約55万円)、1頭立てだと75円(約37万5,000円)、自家用人力車はふたり乗りが年間15円(約7万5,000円)、ひとり乗りの俥(じんりき)が9円(約4万5,000円)、自家用車(マイカー)が5馬力以下が年間49円(約24万5,000円)、10馬力以下が82円(約41万円)となっている。このあたりの華族邸やおカネ持ちの屋敷では、自家用の馬車や俥(じんりき)、自動車を所有するのがめずらしくなかったので、目白・落合地域の自治体にはいい収入源となっていただろう。
 また、荷運び用の馬車には年間8円50銭(約4万2,500円)、牛車の場合は細かく規定されていて、大型の荷台のものは荷馬車と同額が年間に徴収されている。庶民に手がとどく自転車にも課税されており、年間2円60銭(約1万3,000円)の納税義務が課せられていた。自転車に付属するリアカーを所有していると、年間にプラス1円20銭(約6,000円)も取られた。自動車とともに、大正末ごろからおカネ持ちの間でブームになっていたオートバイは、年間14円(約7万円)の税額だった。
 ただし商売用の自動車、たとえば魚市場や青果市場へ生産物を運んだり、地方から穀物を運んでくる物流トラックなどには一律課税ではなく、年間の取引高に応じた税金が架けられている。「特殊自動車」と名づけられたこれらのクルマは、魚市場と青果市場の場合は取引高の0.0001%、米穀市場の場合は0.00004%、その他の市場の運搬車は0.0002%とかなり優遇税率が設定されていたのがわかる。これは、税金が物流全体の経費に与える影響を考慮し、生活必需品の物価を安定させるための措置なのだろう。
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 昭和初期の郊外では、どこの住宅でもイヌを飼うペットブームにわいていたが、イヌ1頭あたり年間8円(約4万円)の税金が取られている。もちろん、そこらをうろついたり魚屋の前でスキをうかがっているネコは無税だ。一方、家畜は牛が1頭あたり年間80銭(約4,000円)、馬が64銭(約3,200円)、ヤギ・ヒツジ・ブタが16銭(約800円)だった。郊外に多かった「東京牧場」Click!などで、牛を100頭ほど飼育していれば、年間で80円(約40万円)ほどの税金が発生していた。ひょっとすると、落合火葬場Click!の裏手にあたる上高田の裕福な「乞食部落」に隣接して、ヤギ牧場Click!を経営していた秋山清Click!も、納税期には金策に苦労していたかもしれない。
 そのほか、職業に賦課される税金というのもあった。たとえば、「遊芸師匠」と呼ばれる長唄や清元Click!、常磐津、義太夫、小唄、三味Click!謡曲Click!、琵琶、詩吟、日本舞踊などの師匠(おしょさん・おしさん)Click!は、1等から4等までの芸レベルで等級づけされ、1等の場合は年額50円(約25万円)が課税されている。また、「技芸士」と呼ばれる落語家、講談師、奇術師、活動写真弁士などは同様に1等から5等までのレベルが決められ、1等の場合は年間64円(約32万円)も納税しなければならなかった。同様に、太鼓持ち(幇間)も1等と2等があり、1等の場合は月額4円(約2万円)、年額にすると48円(約24万円)なので、遊芸師匠とあまり変わらない税額だった。
 職業の中でも、とび抜けて税金が高額なのは、歌舞伎や新派などの役者や映画俳優たちで、1等から7等まで分類されている。1等は年間400円(約200万円)で、2等が240円(約120万円)、いちばん安い7等でも9円(約4万5,000円)だった。1930年(昭和5)現在、あちこちから引っぱりだこだった高田町雑司ヶ谷旭出43番地(のち目白町4丁目43番地)に住んだ、華族出身の映画スター・入江たか子(東坊城英子)Click!や、人気が高かった新派の水谷八重子Click!などは、おそらく1等~3等あたりの税額規定を受けていたのではないだろうか。
 また、舞台や映画、各種展覧会、相撲などを楽しむのも「観覧料」と呼ばれる課税の対象だった。たとえば、50銭~1円未満の入場料では、1回の税額が2銭(約100円)、歌舞伎の桟敷席や相撲の砂かぶりなど高額な席で、たとえば7円(約3万5,000円)ほど支払うと25銭(約1,250円)の税金が発生した。つまり、なにか楽しいことをしようと行楽に出かけたり、いわゆる遊楽をともなう施設やイベントへ入場したりすると、そこには「よくきたね、いらっしゃい!」と役所の“納税課”が待ちかまえていたわけだ。
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 この遊楽のために、どこかへ入場・入館する際に発生する「入場税」は、ありとあらゆる施設に拡大され、戦時中は中断されたものの、戦後も引きつづき課税されつづけたが、1989年(昭和64)にすべての売買行為に課税する消費税の導入とともに廃止された。ただし、ゴルフ場の利用のみ、現在でも「娯楽施設利用税」と同等のものが課税されている。

◆写真上:西側から見た高田町役場跡の現状で、右手の緑は学習院の森。
◆写真中上は、「雑司ヶ谷の鬼子母神が舞台の、新派の芝居をやってるから観たいわ」などというと、1等席ならふたりで60銭(約3,000円)ほどの税金が発生した。写真は『残菊物語』で、お徳の水谷八重子(右)と菊之助の花柳章太郎(左)。は、ビリヤードの台は1台につき年間45円(約225,000円)も課税された。(小川薫アルバムClick!より)
◆写真中下は、学習院馬場で乗馬をする院生たち。この地域は華族屋敷には馬車が、目白駅の運送店には荷馬車Click!が、さらに乗馬用の馬たちもたくさんいたので動物税は多かっただろう。は、大黒葡萄酒Click!の荷馬車とトラック。ワインは生活必需品ではないので、生鮮食料品用の物流馬車やトラックに比べ税金が高かった。
◆写真下は、小泉清アトリエClick!の表側だった鷺宮の小泉ビリヤード。は、「年間8円(約4万円)払えワン!」のイヌと、「なにしてようが無税で勝手だニャ」のネコ。

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児島善三郎アトリエで稽古の『太陽のない街』。 [気になる下落合]

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 1920年(大正9)ごろ、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の門前近くに開店していた駄菓子屋の奥まった部屋に、赤坂の電信局へ勤務する佐々木孝丸Click!が下宿していた。エスペラントを学んでいた彼は、毎日のように隣接する雑司ヶ谷509番地の秋田雨雀邸Click!を訪ねていたが、秋田もまたときどき佐々木を訪ねては誘いだして、雑司ヶ谷や神楽坂あたりをブラブラ散歩している。この散歩には、ときにワシリー・エロシェンコClick!が加わっていた。ほぼ同時期に雑司ヶ谷24番地へ転居し、のちに『高田の今昔』Click!を書くことになる江副廣忠も、秋田邸で佐々木孝丸と顔をあわせているかもしれない。
 それから8年後、1928年(昭和3)9月に上落合502番地へ国際文化研究所Click!を設立する際、佐々木孝丸は所長に秋田雨雀を招聘している。メンバーには、蔵原惟人Click!林房雄Click!、佐々木孝丸、永田一脩、辻恒彦、小川信一(大河内信威)、片岡鉄兵Click!らがいて、機関紙『国際文化』を編集・発行していた。佐々木孝丸は当時、村山知義アトリエClick!から北へわずか100m足らず、月見岡八幡社Click!(現・八幡公園)の北側にあたる上落合215番地(のち村山アトリエの並び上落合189番地へ転居)に住んでいた。
 上落合の家について、1959年(昭和34)に現代社から出版された佐々木孝丸『風雪新劇志―わが半生の記―』から、少しだけ引用してみよう。
  
 今度は上落合の村山知義のマヴォー的な怪奇な様相をした三角形の家のすぐそばに、こじんまりとした二階建ての貸家を見付けてそれへ引き移つたのだ。私の市ヶ谷滞在中に、妻が、山田清三郎夫妻と相談して、そこにきめたのであつた。一年半ぶりで、自分たち家族だけの住居をもつことになつたわけであつた。
  
 上落合の借家を紹介した山田清三郎Click!だが、このとき自身も上落合791番地へ転居していたころだ。また、1928年(昭和3)現在、村山知義アトリエをはじめ敷地内の借家を含む建物は全面リニューアル中だったと思われ、村山知義・村山籌子Click!のふたりは、いまだ下落合735番地のアトリエClick!に仮住まいをしていたかもしれない。
 「市ヶ谷滞在中」というのは、佐々木孝丸が友人と食堂でランチをしていたら、いきなり特高Click!に逮捕され、「深夜路上で泥酔し婦女に乱暴しようとした現行犯」の罪状で29日間、市ヶ谷刑務所に拘留されていたことをさしている。あからさまな罪状デッチ上げによる、特高の不当逮捕でありイヤガラセだが、国家安全維持法をカサにきた今日の香港公安警察と同様に、治安維持法をカサにきた特高によるこの手のデッチ上げ事件やイヤガラセは、別にめずらしくなくなっていた。
 国際文化研究所の設立から、およそ半年ほどたった1929年(昭和4)4月、ちょうど小山内薫Click!が急死してから1年後に、築地小劇場の劇団が内部対立から、とうとう「新築地劇団」と「劇団築地小劇場」とに分裂した。日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に属し、左翼劇場の俳優・劇作家(兼翻訳家)・演出家のかけもちをしていた佐々木孝丸は、小林多喜二Click!の『蟹工船』上演をめぐる新築地劇団とのゴタゴタから、同劇団にも所属することになり、目のまわるような忙しさになった。
 同年11月には、新築地劇団でレマルクの『西部戦線異状なし』(脚色/演出・高田保Click!)を上演することになったが、偶然にも劇団築地小劇場も同作(脚色/演出・村山知義)を上演することになった。新築地劇団は帝劇Click!で、劇団築地小劇場は本郷座で上演したが、両舞台とも近来にない大ヒットとなった。劇場には入りきれない観客が押し寄せたため、新築地劇団は翌月に新橋演舞場で追加公演を行っている。
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 もちろん、脚本は特高の検閲Click!でズタズタに削除されていたが、消された重要なセリフの場面にくると、そこだけセリフをいわず無言劇で演じるというジェスチャー作戦を行なったため、観客は削除されたセリフをおおよそ想像することができた。ちなみに、俳優として出演するときは佐々木孝丸のままで、劇作家(兼翻訳家)のペンネームは「落合三郎」、演出家は「香川晋」と名のっているが、「香川」は少年時代をすごした馴染みのある第2の故郷であり、「落合」は自宅のある地元の上落合からとったものだろうか。
 1930年(昭和5)2月、左翼劇場は徳永直Click!原作の『太陽のない街』を上演することになった。脚色は小野宮吉と藤田満雄で、演出を村山知義が担当し、舞台装置は金須孝だった。左翼劇場の俳優だけでは出演者が足りず、新築地劇団から応援の俳優として山本安英や細川ちか子、高橋豊子、山川好子、沢村貞子(沢村さだ)Click!三島雅夫Click!、笈川武夫、小沢栄太郎らが参加している。
 舞台『太陽のない街』は、左翼劇場はじまって以来の空前のヒットとなり、同年2月3日から11日までの9日間にわたり築地小劇場で上演されたが、500人が定員の同劇場に入り切れない、それ以上の観客たちが劇場の周囲を取り巻いた。そのときの様子を、1936年(昭和11)に沙羅書店から出版された、山本安英『素顔』から引用してみよう。
  
 稽古場が狭いというので、代々木の児島善三郎氏のアトリエを借りて稽古をし出したのが、初日の約十日前、旧評議会の人達で、実際に共印争議を指導した人達が、毎日稽古場へ詰めかけては、あの人は少し笑いすぎる、実際はあんなに笑う男ではない――宮地は、今少し大柄だつた。(読点ママ)とか、芝居と現実とをごつたにした、少し困る意見も飛び出しては来ましたが、それもみんな、過去の自分達の舞台にかける喜びの為であつたのでしよう。「太陽のない街」程の大入りは先ずなかつたと言つて差支えないでしよう。/プロレタリア劇団の本城である、左翼劇場の久し振りの公演である事や、芝居も今までの争議物のような固苦しい物でなく、大衆に親しみ易く盛り込んである事や、五百人定員の築地小劇場から毎日五百人乃至それ以上の客を満員の為に帰してしまいました。
  
 書かれている児島善三郎Click!のアトリエとは、代々木初台572番地(現・初台2丁目)に建っており、ちょうど明治神宮や代々木練兵場Click!(現・代々木公園)の西側一帯に拡がる丘陵地の、丘上にあたる眺めのいい一画だった。佐々木孝丸は、代々木に住んでいたことがあるので、そのあたりには土地勘があったのだろう。このころの児島善三郎は、1928年(昭和3)にパリから帰国したあと、1930年協会Click!に参加して間もないころだった。写生旅行など、なんらかの都合でアトリエをしばらく空けることがあったのだろうか。
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 わずか10日間しか稽古をしなかった『太陽のない街』だが、幕を開けてみれば連日満員の大ヒットとなった。入場できず、築地小劇場を取り囲む群集は、少しでも舞台の様子をうかがおうと聞き耳を立てたりしていた。「いっそのこと、劇場の中ではなく外で芝居をやったら」などという冗談まで出たほどで、定員の500人よりもはるかに多い人々が、入場できずに劇場の周囲を取り巻いていた。
 国際文化研究所の所長だった秋田雨雀は、雑司ヶ谷の自宅からステッキをついてわざわざ築地まで歩いてきたが、3日間とも断られて観劇できずに諦めて帰っていった。また、原作者の徳永直でさえ満員で入場できず、2日連続で断られている。なお、小沢栄太郎は築地小劇場での『太陽のない街』が、初舞台でデビュー作となった。
 さて、上落合に住んだ佐々木孝丸も、村山知義Click!立野信之Click!宇野千代Click!が編集する雑誌「スタイル」のAD(アートディレクター)をしていた下落合の松井直樹Click!に劣らず、東中野駅前にあった酒場の「ユーカリ」のことを印象深く記憶している。佐々木孝丸『風雪新劇志-わが半生の記-』から、その想い出を引用してみよう。
  
 連れ立つて、よく新宿辺を飲み歩いたりしたが、ことに、東中野の駅の近くにあつた「ユーカリ」という酒場では、そこの娘のよつちやんという、表面如何にも無邪気そうで、その実、したたかにヴァンプ性を内包した少女をめぐつて、四角、五角の「さやあて」が演じられたりもした。/林、村山、杉本たちのドン・ファンぶりも仲々見事なもので、凡人の追随を許さぬものがあつたが、中でも杉本の迅速果敢なことは一頭地を抜いており、そのため、いつの間にか「良吉」が「エロ吉」と呼ばれるようになつたほどである。
  
 「林」は林房雄、「村山」はもちろん村山知義のことだが、この“よっちゃん”について記録に残す落合住民が多いところをみると、佐々木が観察しているように無邪気さを装いながら、どこか小悪魔的な雰囲気を漂わせた妖婦のような女の子だったのだろう。きっと、ヲジサンたちは各自「よっちゃんは、自分だけに心を許してるにちがいない」などと思いこまされてしまい、毎晩せっせと「ユーカリ」に通っては店の売り上げに貢献していたようだ。たぶん、“よっちゃん”のほうが1枚も2枚も上手だったような気がする。
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 佐々木孝丸は、その容貌から「善玉」よりも「悪玉」の配役のほうが多く、あこぎな資本家や右翼、官憲、ヤクザの親分、暴力団、性悪な地主などを演じることが多く、地方公演などへ出かけると芝居と現実の区別がつかなくなり激高した観客から、舞台上で殴られるという事件がしばしば起きた。だが、それほど役が板についていた、つまりリアルに演じられたからこそ観客は夢中で興奮したのであり、「役者冥利」につきると自ら慰めている。

◆写真上:佐々木孝丸が最初に住んだ、上落合215番地あたりの現状。
◆写真中上は、1959年(昭和34)に出版された佐々木孝丸『風雪新劇志』(現代社)の表紙カバー()と内扉()で装丁は洋画家の芥川沙織。は、1950年代末に滝沢修が撮影した佐々木孝丸。は、上落合215番地界隈の現状。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる代々木初台572番地界隈。は、1934年(昭和9)制作の代々木練兵場の写生とみられる児島善三郎『代々木の原』。は、1936年(昭和11)に沙羅書店から出版された山本安英『素顔』()と著者()。
◆写真下は、戦後に撮影された娘婿の千秋実(左)と佐々木孝丸。は、上落合215番地の次に転居した上落合189番地あたりの現状。この上落合189番地の家は村山アトリエに近接した東側にあたり、旧家・宇田川家Click!が建てた貸家の1軒だったと思われる。

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隣り村同士でまったく異なる「おびしゃ」祭り。 [気になる下落合]

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 落合地域にお住まいの方なら、「おびしゃ(お歩射)祭り」をご存知の方は多いだろう。下落合村の御霊社Click!あるいは葛ヶ谷村(→落合村葛ヶ谷→西落合)の御霊社Click!で、毎年正月の1月13日に行われる祭礼のことだ。
 金子直德が寛政年間に書いた『和佳葉の小図絵(若葉の梢)』には、下落合(中井)御霊社と葛ヶ谷御霊社は「上下の御霊の宮」と書かれており、祭神は「諾再二柱」すなわち国産みの神であるイザナギおよびイザナミの2柱だったことが記録されている。現在、中井御霊社の祭神は「仲哀天皇・応仁天皇・仁徳天皇・鹿島大明神」であり、葛ヶ谷御霊社は「仲哀天皇・神功皇后・応仁天皇・武内宿禰」とされ、本来の日本の神々とはまったく関係のない「神」が祀られている。おそらく、薩長政府が1870年(明治3)に発布した大宣教令Click!により、廃社の脅しをかけられた社側が政府の宗教政策におもねるために、祭神の“全とっかえ”をしているケースだと思われる。
 同時期に、神田明神Click!の主柱から平将門Click!が外され(1984年に復活)、下落合の神田明神分社が廃社となり、ついでに下落合の大(第)六天Click!2社から女神のカシコネを外しているのだろう。江戸東京地方に限らず、日本じゅうの社に奉られていた神々を勝手に交換したり、いうことをきかない社は廃社にしたりと、バチ当たりなこと(「日本の神殺し」政策Click!と呼ばれる)を繰り返した薩長政府が造った国家は、わずか70年ほどで破産・滅亡するのだが、1945年(昭和20)以降も祭神を本来のものにもどさない社は少なくない。これにより、わずか70年余で消されてしまった日本の神々(特に地方地域に根づく独自の地主神々や地霊)は、膨大な数にのぼるとみられる。
 下落合と葛ヶ谷の御霊社について、金子直德『和佳葉の小図絵』(『江戸西北郷土誌資料』より)の原文と、1958年(昭和33)に現代語訳で出版された海老澤了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)の双方から引用してみよう。
  
 (原文)堀の内は此橋(落合土橋)をわたり行。橋手前より西に行ばしいな町へ出、根岸通を行ば田中辺に行。此村に御霊の社あり、上下の御霊の宮あり、諾再二柱の神と云。 (現代語訳)この橋を渡って行く、橋の手前から西に行けば椎名町へ出、根岸通りを行けば田中辺に出られる。この村に御霊の社があって、上下の御霊の宮には、伊邪那岐・伊邪那美の二神が祀られている。(カッコ内引用者註)
  
 「上下の御霊の宮」は中井御霊社と葛ヶ谷御霊社で、どちらが上宮でどちらが下宮か規定されていないが、素直に考えれば旧・神田上水の上流にある村が上落合村、下流にあるのが下落合村という呼称と同じように、妙正寺川(北川Click!=井草流)の上流にある葛ヶ谷御霊社が上宮、下流にある中井御霊社が下宮になるだろうか。ただし、江戸期は南東の方角にある千代田城Click!に近いほうを「上」、遠いほうを「下」とした事例もかなりあるので、その場合は上下が逆転することになる。いずれにしても、この2社は創建年が不明なほど、古えの昔から落合地域で奉られている。
 これら御霊社には、正月の祭りである「おびしゃ(お歩射)」が古くから伝わっている。祭りの趣旨は、農村地帯らしく五穀豊穣と子孫繁栄だが、まるで武家の祭礼のように弓矢を用いる点が非常にめずらしく、同様の「おびしゃ」祭りは東京23区内では落合地域にある2社と、大田区の多摩川べりにある六郷社のわずか3社にすぎない。
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 祭りの様子を、1982年(昭和57)に発行された『ガイドブック/新宿区の文化財(4)-史跡(西部篇)』(新宿区教育委員会社会教育課)から引用してみよう。
  
 現在のびしゃ祭りは午前中に行われる。直径約一メートルの的が鳥居に吊るされる。三重の黒円の的の中央には烏二羽(雄と雌。烏の夫婦だという)と鰯を描いた半紙が貼付してある。烏を描いた的は全国的にも珍らしい。午前十時頃になると、氏子地区の役員が神社に集まり、祭典を行う。びしゃ祭りは(一)文木の授受、(二)ご神酒の儀、(三)引弓の儀の三部からなる。(一)は前年の当番から今年の当番に的を作る時に使用される文木(分木)を渡す式。(二)は勧盃祝言の式で、神酒をいただき、高砂や四海波などの「野謡」が歌われる。(三)は鳥居の的を射る式で、弓を御神酒で清めてから拝殿の入口に立ち、最初の矢を空に向けて射、次に二本を的に向けて射る。矢が的中することはないが、矢を拾うと家が繁盛するといわれている。昔は矢に殺到して怪我人がでるほどであった。
  
 引用の「おびしゃ」は葛ヶ谷御霊社の様子を記したものだが、文木(分木)とは正円を描く的(まと)を作るのに欠かせない木製のコンパスのことだ。毎年1月13日に行われる現代の「おびしゃ」祭りだが、以前は前年の暮れから祭りに用いる“どぶろく”を仕込むところからはじまるので、祭礼の期間はのべ44日間もあったという。明治期の祭りでは前年に結婚した新婚夫婦が紹介されるなど、村内のコミュニティ形成+コミュニケーションの場としての意味合いが強かったようだ。
 中井御霊社の「おびしゃ」祭りも、上記の行事とほとんど変わらないが、同じ正月の1月13日でも午前ではなく午後に行われている。また、的は鳥居ではなく拝殿から20mほどのところに吊るされ、年男が空ではなく鬼門の方角に向かって最初の矢を射る。次に、的に向かって射るがそれで終わりではなく、次々と氏子の代表たちが矢を射って、最後に神主が射的して終わる。中井御霊社は、五穀豊穣とともに安産を祈願する祭りとなっていて、出産が近い妊婦の参詣者が多いようだ。
 中井御霊社には、「永禄癸亥」年の銘が入った分木(文木)が保存されており、1563年(永禄6)すなわち少なくとも室町期から、「おびしゃ」祭りが行われていたことが判明している。祭礼で弓矢を用いることといい、葛ヶ谷御霊社にみられるように、まるで野外で行われる薪能を想起させる「野謡」が謡われることといい、この2社の祭りには純粋な農村の祭礼・神事というよりも武門の匂いがしている。
 これはわたしの想像だが、周辺の鎌倉期の事蹟Click!などを踏まえると、起源は鎌倉期ないしは平安期にまでさかのぼるのではないだろうか。射的による社への奉納行事は、鎌倉では平安期からの鶴岡八幡宮をはじめ、あちこちの社で行われている神事だ。このあたり、古くから関東に平安期から伝わる「五郎(ごろう)」の鉄人武将伝説Click!の社と、「御霊(ごりょう)」の社との中世における習合が、大きなテーマとして基層に横たわっていそうだ。
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 葛ヶ谷村の西隣り、葛ヶ谷御霊社から西北西へわずか1,000mのところに江古田(えごた)村の氷川明神社(スサノオ=牛頭天王)があり、ここでも大正期まで「おびしゃ(お備社)」祭りが行われていた。ところが、落合地域にある2社の「おびしゃ」とはまったく異なり、開催時期も異なれば弓矢もまったく使わない祭礼だった。
 江古田地域に伝わった「おびしゃ」祭りの概要を、1973年(昭和48)に出版された堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品)から引用してみよう。
  
 江古田村には、大正の末頃まで「お備社(おびしゃ)」という行事があった。この行事は、毎年十月二十九日の氷川神社例祭の前夜に行われた前夜祭であって、当日は、組仲間の者が定められた宿に集って「お備社行事」をしたのである。村中三十余軒が二軒づつ一組となり、順番に各家々より白米五合と銭三十銭か五十銭づつ集めて、行事の費用に当て、それで、酒肴などを適当に支度して二十八日の夜、お備社の宿で床の間に掛けた「氷川神社の御神号」の掛物に神酒と供物を上げ、その前で、皆が祝い酒を飲み、そして、黒塗の椀に白米の飯を高く盛り上げた「お高盛り」と呼ぶ御飯を一粒残さず食べた。その頃は大食の者が多かったから、たいていの人は残さず食べてしまった。この儀式が終るのは、夜の十時か十一時頃であった。
  
 ちなみに、江古田の「おびしゃ」については同書よりも、1955年(昭和30)に出版された熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)のほうが、ここで引用できないほどの詳細な記録を残しているので、興味のある方はそちらを参照してほしい。
 このように、江古田地域の「おびしゃ」は農村の純粋な祭りの匂いが濃く、「武」の匂いはまったく感じられない。江戸期には、白米がことのほか貴重だったと思われるので、それを「組仲間」のメンバーたちが腹いっぱい食べられるところに、「おびしゃ」の醍醐味があったのだろうし、また江古田氷川社本祭の「前夜祭」として「おびしゃ」自体が独立した祭礼でないところも、隣りの落合地域とでは決定的な相違点だ。
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 鎌倉期を起源とするにしても、江古田地域側の「おびしゃ」は弓矢による射的の神事がいつの間にか廃れてしまい、時代経過とともに純粋な農村の祭礼・神事へと変貌してしまったのに対し、落合地域側の「おびしゃ」は昔日の祭礼・神事の姿をそのままとどめていた……そんな気が強くしている。落合側は「お歩射」と表記するが、江古田側は氷川明神社の本祭礼に備える「お備社」(前夜祭)に変化してしまったのではないだろうか。ちなみに落合地域の東側、雑司ヶ谷村の鬼子母神や高田村の氷川社でもお奉射(びしゃ)祭りが行われていたが、前者は江戸期までに絶え、後者は成人式の儀式の行事へと変化してしまったようだ。

◆写真上:1980年代まで茅葺きだった、下落合(現・中井2丁目)の中井御霊社。
◆写真中上は、中井御霊社へ通う急坂の「御霊(ごりょう)坂」。「御霊坂」を「おんりょう(怨霊)坂」と読む情けない人がいるので平仮名に改められたと聞く。は、中井御霊社の現状。は、同社で正月に行われている「おびしゃ(お歩射)」祭り。
◆写真中下は、中井御霊社に掲げられた江戸期の「おびしゃ」絵馬。は、西落合の葛ヶ谷御霊社。は、同社の「おびしゃ(お歩射)」祭り。
◆写真下は、江古田(えごた)にある江古田氷川明神社。は、夕暮れ間近な鎌倉の鶴岡八幡宮。拝殿への階段(きざはし)左側にある大イチョウが、暴風で倒れる直前に撮影したもの。は、平安期から行われているといわれる同宮の流鏑馬神事。

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松山中学出身の安倍能成と『坊っちゃん』。 [気になる下落合]

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 1906年(明治39)に夏目漱石Click!が『坊っちゃん』を発表したとき、「四国辺の中学」を舞台にした同作を読んだ安倍能成Click!は、どのような感想を抱いただろうか。「四国辺の中学」は、明らかに漱石自身が赴任した愛媛県松山市の愛媛県尋常中学校=(旧制松山中学校)がモデルであり、安倍能成Click!は松山が故郷で同中学校の卒業生だった。
 また、漱石の友人だった正岡子規Click!も松山中学の出身であり、『坊っちゃん』が子規の死から4年後に発表されている点にもやや留意したい。漱石はまだ学生だった若いころ、帰省した子規を訪ねて松山を訪れており、松山にはいくらか土地勘があったはずだ。そのころから、漱石は松山の風土・環境や人情にどこか馴染めず、しじゅうイライラして胃を痛めていたのではないだろうか。
 安倍能成の知りあいで、同じ松山出身の同窓生の友人は、『坊っちゃん』について「松山人を侮辱するものだと憤慨」(『朝暮抄』より)し、以降、漱石作品を忌避していた様子が安倍のエッセイに見えている。それとは逆に、安倍能成の友人だった愛媛出身の医学者・真鍋嘉一郎は、「松山の名誉、松山中学校の名誉だ」として、舞台で『坊っちゃん』が演じられるとアドバイザーとして積極的に参画していたりする。
 1937年(昭和12)に書かれた、安倍能成の『坊っちゃん』をめぐる随筆には、作品に対する明確な姿勢や具体的な感慨・感情は書かれていない。『くにことば』と題された随筆は、自身のことを「愛郷の精神は余りない男だ」の書きだしではじまり、松山方言についての「評論」のみに終始し、『坊っちゃん』については「松山の地方語を最もよく活用した小説である」と、できるだけ客観的な姿勢で評価しようとしている。いろいろ文句のひとつも書きたいところだが、師匠の夏目漱石をあからさまに批判するわけにもいかないので、一歩身を引いて第三者的な立場から作品の当たり障りのない評論に徹している……、わたしにはそんな感触がするめずらしいエッセイだ。
 安倍能成が第一高等学校長だった1938年(昭和13)に、岩波書店から出版された『朝暮抄』所収の『くにことば』から、少し長いが引用してみよう。
  
 坊つちやんが宿直の晩にいたづらをされた時の生徒との問答は、坊つちやんの竹を割るやうな、短気な直截な気持、又それを表現する東京語との対照によつて、生徒の方の意地わるい、多数を頼んで先生を呑んでかゝつて居る、冷静な気持を示すといふ文学的効果の為に、松山語がいくらか誇張的に生ぬるく用ひられて居る所もあり、「なもし」が少し濫用され過ぎても居る。それに「な、もし」と「な」の所へ点を打つのは、詞の成立からはそれでよいが、調子の上からはぶちこはしになつて居る。坊つちやんが天麩羅を食つちや可笑しいかといふと、「然し四杯は過ぎるぞな、もし」といふ。君等は卑怯といふ事の意味を知つて居るか、といふと、「自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もし」といふ。或は「バツタた何ぞな」と生徒が聞いて、実物を見せられると、「そりや、イナゴぞな、もし」といつたり、入れないものがどうして床の中に居るんだ、と詰問されて、「イナゴは温い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」などといふのは、一方が愈々ぢりぢりするのを、片方が益々落著(ママ:落着)払つて居る対照的効果を発揮するには十二分であるが、併し少し下宿のおばあさんの詞つきが少年の生徒の詞の中に乗り移つて居るといふ恐れもある。(カッコ内引用者註)
  
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 安倍能成の文章にしては、かなり持ってまわったような表現で、『坊っちゃん』の評価にあちこちで気をつかっている様子がうかがえる。漱石の文章で、「な」と「もし」の間に「、」を付加することは文法上は正しいが、調子が「ぶちこはし(打壊し)」Click!だと江戸東京方言で苦言を呈する。「バツタた何」は「バツタとは何」という意味で、漱石が松山方言を正しく採取しているのは褒めるが、漱石が操る生徒たちの松山方言は若者らしくなく年寄り臭いと批判している。
 このアンビバレントな感覚の文章は、『くにことば』の最後までつづくので、安倍能成が『坊っちゃん』に抱いていた感想もまた、漱石の作品を評価する面と漱石に反発する面とで同様だったのだろう。冒頭に「愛郷の精神は余りない」と書いておきながら、文章のあちこちから安倍能成が感じていた「愛郷の精神」のコンプレックス(感情複合体)を感じるのは、わたしだけではないと思う。
 安倍能成は、「田舎の中学の空気、先生、生徒の類型を確かに把んでこれを描出し得た所に特色がある。この作の意図からいへば、松山の方言は実に巧みに利用されたといつてよい」と、最終的には『坊っちゃん』をおおよそ評価しているが、作品全体の流れや構成、登場人物などにはあまり触れず、松山方言のみの記述で終わっている。タイトルが『くにことば』だから、それでまったく不自然ではないのだけれど、どこか『坊っちゃん』の作品評が手もとから突き放され、宙に浮いた感じを受けるのだ。
 さて、わたしも「坊っちゃん」ほどではないけれど、こらえ性がなく気が短いので、おそらく作品では誇張されているのかもしれないが、描かれた多くの登場人物たちのような応対をされ、「ぞな、もし」の話し言葉で地元の人たちからいい加減な、半分バカにしたような受け答えをされたら、まちがいなくストレスが積み重なり、ほどなく針が危険なレッドゾーンへ振りきれるんじゃないかと思う。
 『坊っちゃん』の随所から、漱石のイライラした感情が伝わってくるが、それは別に「坊っちゃん」ともども漱石が「竹を割るやうな」性格だからではなく、地域性からくる風土や人情のちがいで「水があわない」せいだろう。その逆もしかりで、『坊っちゃん』に登場するようなカリカチュアライズされた松山人でなくとも、ふつうの松山人が四国から東京へやってきたら、たいていは「水があわない」と感じるのではないだろうか。そこでは、ちょっとばかり「東京のうどんは醤油の汁にひたしてあるような代物」と、こちらでは「病人食」扱いの食べ物へ文句のひとつClick!もいいたくなるのかもしれない。w
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 安倍能成は、『くにことば』の中で徳川時代の武家言葉と町人言葉についても触れている。「坊っちゃん」が下宿する家の「お婆」について、再び同書から引用してみよう。
  
 「お婆の言ふことをきいて、赤シヤツさんが月給をあげてやらうと御言ひたら、難有うと受けて御置きなさいや」/「お婆の言ふことをきいて」といふのは、何も松山に限つた表現ではないが、松山生れの私にはそれが実に松山的に感ぜられる。「御置きなさいや」の「や」も松山でよく使ふ詞である。「下さいね」とか「下さいよ」といふ場合に、「つかあさいや」といふ。「や」には、それをつけない場合よりも親愛、親昵の気持がある。序にいふが、このおばあさんの詞は士族の詞である。かういふ城下町では皆さうであるやうに、士族の詞と町家の詞とは大分違ふ。恐らく今は大分混淆して来ただらうとは思ふが。この現象は独り松山だけのことでなく、方言を研究する人の恐らく疾くに注意して居る所であらう。
  
 安倍能成は、「城下町では皆さうである」と書いているが、同じ城下町Click!である江戸東京では必ずしもそうとはいえない。江戸時代も中期をすぎると、武家言葉はどこか無粋で野暮で“カッコ悪い”という感覚が広まり、幕府の旗本や御家人たちは日常の生活言語として町言葉をふつうにしゃべりはじめている。それは、町人たちからの借金がかさみ、首がまわらず頭が上がらなくなったからではないだろう。武家たちの耳にも、江戸の町言葉が洗練されて美しく聞こえていたからだ。
 勝海舟へインタビューし、その表現をできるだけ忠実に再現してまとめた、『氷川清話』を読まれた地元の方ならピンとくるだろうが、彼の話し言葉は多くが町言葉であって武家言葉ではない。幕末になると、幕閣でさえ町言葉でしゃべる人間が出現していた。ちなみに、ここでいう町言葉Click!とは、多くの時代劇で町人がなぜか口にする、「べらんめえ」調のかなり品が悪く不可解な職人言葉のことではない。ときに、武家言葉が下地の武骨な山手言葉よりもやさしく繊細に聞こえる、商人言葉がベースのていねいな町言葉Click!のことだ。松山ではどうだったのかは知らないが、武骨で硬直化した武家言葉よりも町言葉にあこがれ、生活言語としてつかっていた武家もいたのではないだろうか。
 安倍能成は、『坊っちゃん』に登場する人物たちについてはあまり触れてないが、地元の松山出身者は「うらなり」と「マドンナ」と下宿の「お婆」ということになるだろうか。ほかの主要な登場人物たちは、「坊っちゃん」を含めほとんどが別の地方出身であり、別に物語の舞台が松山でなくても当時はありがちなエピソードだったのではないだろうか。中には、漱石自身が松山で経験したことももちろん含まれているのだろうが、ひときわせっかちな「坊っちゃん」と対照的にカリカチュアライズしやすかったのが、どこかのんびした「な、もし」の松山方言をつかう松山人だったのかもしれない。
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 そういえば、松山の中学校で「長いものには巻かれない」のが、江戸東京の出身である「坊っちゃん」Click!と会津出身の「山嵐」なのも、薩長政府に対する漱石の“想い”が感じられて面白い。1905年(明治38)の春に理科学校を卒業して、ほどなく初夏の陽射しの中を数学教師として赴任し、同年10月にはすでに「赤シャツ」と「野だいこ」を打(ぶ)ん殴って東京にもどっているというから、正味5ヶ月ぐらいしか教師をしていなかったことになる。わたしは、「坊っちゃん」ほど気が短くはないつもりだが、それでも同じような境遇に置かれ同じ目にあったりしたら、はたして5ヶ月間も我慢できるかどうかわからない。

◆写真上:1970年(昭和45)に制作されたドラマ『坊っちゃん』の主人公役で、同役ではあまり違和感をおぼえなかった竹脇無我。喜久井町の夏目坂で撮影されたもので、背後に見えているのは下落合の安倍能成が揮毫した「夏目漱石生誕之地」記念碑。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月9日に撮影された「夏目漱石生誕之地」除幕式での安倍能成。右側は漱石の曾孫にあたる女の子で、「落合新聞」同年3月14日号より。は、米倉斉加年Click!の「赤シャツ」が秀逸な『坊っちゃん』の1シーン。のちに松坂慶子Click!が「マドンナ」役のときも米倉が好演しており、同役は米倉のイメージが強い。
◆写真中下上左は、松山中学校の教師時代の夏目漱石。上右は、装丁に中村彝Click!の『海辺の村(白壁の家)』があしらわれた角川文庫版『坊っちゃん』(1970年)。下左は、『くにことば』が収録された1938年(昭和13)出版の安倍能成『朝暮抄』(岩波書店)。下右は、1949年(昭和24)に学習院の開講式で登壇した学内民主化を推進する院長の安倍能成。
◆写真下は、夏目漱石の生誕地から500mほどしか離れていない夏目漱石邸跡(終焉地)にできた漱石山房記念館。散歩に出られる距離だが、手前の「すず金」Click!にひっかかって記念館はゆっくり訪れていない。は、館内に再現された夏目漱石の書斎。は、東京の町場と乃手の中間あたりの風味をしている漱石も常連だった「すず金」のうな重。

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