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聖母坂沿いで空襲から焼け残った家々。 [気になる下落合]

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 戦後、爆撃効果の測定Click!用に米軍の偵察機F13Click!が住吉町あたり(現・東中野)の上空から撮影した空中写真を見ると、画面の右すみに下落合の聖母坂Click!沿いで焼け残った住宅街がとらえられている。空中写真のレンズ特性から、画面の端にあたる地上の風景にはひずみが生じるので、斜めフカンからとらえられたのと同じ見え方となって、当時の住宅群を立体で観察することができる。きょうは、かろうじて戦災をまぬがれた下落合の、聖母坂沿いの建物群を詳しく観察してみたい。
 まず、最初に目につくのは、コンクリートの厚さが60cmと陸軍の要塞か、戦艦のバルジなみ(舷側の喫水線一帯に設置された対魚雷用の防御で、大和型戦艦Click!には暑さ60cm前後のコンクリートが充填されていた)の「装甲」Click!が施されていた国際聖母病院Click!だ。空襲の際に、同病院は焼夷弾の雨にみまわれたが、医師や職員たちによる必死の消火活動Click!が功を奏して、施設の一部を焼失するだけで済んでいる。また、敗戦の直前には特に同病院を意図的にねらった戦爆機が、250キロ爆弾をフィンデル本館の屋上めがけて投下しているが、先述の分厚いコンクリート構造のため、屋上のすみにコンクリートの凹みClick!をつくるだけではね返し、院内はほとんど無事だった。
 国際聖母病院の周囲、特に東・西・北側は焼け野原だったが、南側は諏訪谷Click!不動谷(西ノ谷)Click!で斜面の陰になっており、また樹林が豊富に残っていたため延焼をまぬがれている。聖母病院の北側が、一面の焼け野原だったにもかかわらず、佐伯祐三Click!アトリエClick!がかろうじて焼け残ったのは、濃い屋敷林に囲まれていたからだろう。
 さて、焼け残った住宅街でまず目につくのは、静観園Click!バラ園Click!などの庭園が畑になっているとみられる西坂の徳川義恕邸Click!だ。写っている大きな西洋館は、昭和初期に位置を南へずらして建設された新邸で、旧邸Click!や旧・静観園のあった敷地にはすでに家々が建ち並んでいる。その北側には、「八島さんの前通り」Click!沿いに南原繁邸Click!笠原吉太郎アトリエClick!、小川邸などが焼けずに残っているのが確認できる。
 さらに、その上(北側)の第三文化村Click!に建つ屋敷群も無事で、斜めフカンからだと建物の形状までがわかり、その多くが西洋館だったことがわかる。目白通りに近い、第三文化村の家々や目白会館・文化アパートClick!は、隣接する落合第一および第二府営住宅Click!とともに空襲でほぼ全滅状態だったが、谷間につづく第三文化村の南部、および南へと傾斜して下っている緑の多い斜面は、ほとんど延焼をまぬがれている。
 めずらしいところでは、不動谷(西ノ谷)にあった湧水の小流れ沿いに、1935年(昭和10)ごろから開業していたとみられる釣り堀Click!を確認することができる。また、徳川邸のバッケ(崖地)Click!下には、いまだ庭園池が残っていたのがとらえられている。その徳川邸の南側へ目を向けると、川村景敏邸Click!安井邸Click!、日米開戦の直前に開業したホテル山楽Click!などは無事だが、佐々木久二邸Click!とその周辺は空襲で焼失している。
 聖母坂の東側に目を移すと、関東バスClick!の聖母坂営業所(車庫)の北側に、下落合2丁目721~722番地の「火保図」(1938年)によれば「グリン・スタディオ・アパート」Click!が斜めフカンでとらえられている。ところが、またしても「火保図」は、このアパートの名前採取をまちがえていることが判明した。火災保険料の料率計算に直結する地図なので、建物の構造や意匠には注意をはらって採取しているようだが、住民名や施設名などにはいい加減なケースがまま見られる。
 「グリン・スタディオ・アパート」(火保図)の名称は、「グリーンコート・スタヂオ・アパートメント」というのが正式名称だ。同アパートのネームプレートには、英文で「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS」と書かれていたため、火保図の採取者は判読できる英文字だけをひろって記録したのではないか。戦前戦後を通じたフカン写真や、「火保図」などからではわからなかったが、同アパートの聖母坂の上部は地上2階建てで、聖母坂の下部が地上3階建てだったように見える。特に3階部分は、ペントハウス風の部屋が南西に向けて斜めに並んでおり、建築当時としてはオシャレでモダンなアパートだった様子がうかがえる。
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 今回は聖母坂に建っていた、当時としては最先端の設備を備えた同アパートに焦点を当ててみよう。1938年(昭和13)に発行された「アパート案内」(アパート案内社)の爽涼青空号から、グリーンコート・スタヂオ・アパートについて引用してみよう。
  
 本館は現代人の簡易生活の基本を尊敬し、同時に諸設備の完全を計つた本邦最初のスタヂオアパートメントで近代建築の粋を一堂に集中した観がある。/大東京の中心より約三十分の閑静なる高級住宅地の下落合高台に有り、世界的に有名なる徳川侯邸の牡丹園をながめ本邦随一の評ある聖母病院に相対して居る。附近一帯は四季を通じて緑の色深くグリンコートの名に相応しい。/本館前を通ずる、関東バスの便は新宿へ七分、省線高田馬場駅へ徒歩八分、目白駅へ十二分、西武電車下落合駅へ二分の交通網、丸ビル街へは小滝橋より早稲田を経て市営バスにて二十三分、尚又諸官庁、新橋方面へは日比谷バスの直行の便等あり。通学に目白学習院、日本女子大学、川村女学校、自由学園、早稲田大学等至便の地。
  
 不動産業者のコピーなのでオーバートーク気味だが、「近代建築の粋を一堂に集中」したのと、「四季を通じて緑の色深」かったのは事実だ。また、この時期には静観園は徳川邸の東側斜面に移動しており、同アパートの上階からはよく見えたのだろう。でも、東京駅から同アパートまで30分ではとても着かないし、関東バスで新宿駅へは現代の車両スピードでも10分以上はかかる。省線高田馬場駅までは、十三間通り(新目白通り)Click!が存在しなかった当時、走らないかぎり8分では絶対にたどり着けない。わたしの足でさえ、速足で10分以上はかかるだろう。目白駅まで12分も無理で、速めに歩いてもやはり15分はたっぷりかかる。下落合駅へ2分は、十三間通りでの信号待ちがない当時としては、下り坂を小走りでいけばリアルな数値だろうか。
 「近代建築の粋を一堂に集中」しただけあって、館内は最新の設備が整えられている。設計は鷲塚誠一で、作りつけのモダンな家具調度やオーブンレンジ、ガスレンジ、給湯器、ダブルベッド、スチーム暖房などの設備があらかじめ装備されており、地下室は住民たちの倉庫(不使用品収納)が用意されていた。この地下室の廃墟は、1990年代の終わりごろまで残っていて、当時は廃材置き場に使われていたのを憶えている。
 また、地上の構造物はとうに解体されていたが、わたしが初めて下落合に足を踏み入れた高校時代から、ずっと駐車場として使われていた。つまり、グリーンコート・スタヂオ・アパートの地下廃墟の上、本来ならアパートの1階部分にあたる平面(ひょっとすると坂の途中の建築なので中2階のフロアかもしれない)が駐車場にされていたわけで、聖母坂を歩くたびにその異様な光景に目をうばわれていた。
 地下室はコンクリートと一部は大谷石で構築されており、同アパートの基礎も兼ねていたのだろう。1938年(昭和13)の「火保図」によれば、地上の建物はコンクリート建築ではなく、木造モルタル建築として採取されている。また、「火保図」にも描かれているとおり、中庭には睡蓮プール(蓮池)が設置され、ほとんどの部屋から見下ろすことができた。
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 同アパートは、大正末から昭和初期に多く見られた三角屋根(主棟)をかぶせた意匠ではなく、今日のコンクリート・アパートと同様に屋上も含めて四角い形状をしている。(ただし、北側は道路の関係から△状のデザイン) また、3階の部屋は建物の向きとは異なり、できるだけ窓を南側に向けようと斜めずらして構築されていたのが見てとれる。
 「スタヂオ・アパート」とは、いまの用語でいうとワンルームのことだが、内部の居間+ダイニング+寝室も含めたワンルームなのでかなり広い。スタジオや工房を開業できるほどワンルームの面積が広いということから、「スタヂオ・アパート」と呼ばれたのだろう。同アパートで一番大きな部屋は、22畳サイズを上まわる洋間だった。このワンルームとは別にバスやトイレ、キッチンなどの設備が付属するわけで、今日のワンルームマンションのイメージとはまったく異なる。つづけて、「アパート案内」から引用してみよう。
  
 本館は専門家の建築士鷲塚誠一氏の設計監督によるもので、同氏の在米十七年間の生活及びアパート研究の結果が各所に容易に見られる。表玄関より水蓮プールのある中庭を通じて各スタヂオアパートの独立玄関に通じる。玄関入口の扉は北欧地方のダツチドアーを採用し、住居各位の保健上各室内は最大限度の大硝子窓フロワーマステイツク(ママ)床、防湿押入、タイル貼台所、便浴室、タイル浴槽、就中台所は現代主婦の誇にたるケツチン(ママ)で天火付ガスレンヂ、理研アルマイト洗濯、器具入ガラス戸棚等の諸設備。/温水暖房、水洗便所、メデイシンカビネツト、公衆洗濯室の湯、アイロン台、地階には住居各位の不用品保管室(保険付)等設備あり、二階には家具付ホテルサービスの短期貸室あり。
  
 設計師の鷲塚誠一は、米国で17年間も暮していたそうだが、関東大震災Click!を経験しているのかいないのかで、米国のアパートをマネたらしい22畳サイズを超える広さのワンルームの構造が気になる。すべてが地階と同じ鉄筋コンクリート構造ならともかく、木造モルタル造りではかなりの強度不足ではなかったろうか。
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 部屋数は20戸で、18畳サイズの洋間が55円から、22畳超の洋間が最高で70円とかなり高額な賃料だった。おそらく見晴らしのいい南西の部屋だろう、20畳サイズでダブルベッドが設置された部屋は75円もした。ちなみに、1937年(昭和12)における大卒公務員の初任給が75円という時代だった。数が少ないが和室(8~10畳)もあり、台所やベッドなどは付属していたが浴室がなかったので、館内には共同浴場も備わっていた。管理人による清掃サービスがあり、室内に敷かれたフローリングの定期的なワックスがけサービスも行われていた。

◆写真上:聖母坂に面した、グリーンコート・スタヂオ・アパート跡(中央のマンション)。
◆写真中上は、1948年(昭和23)の空中写真にみる聖母坂沿いの延焼をまぬがれた住宅街。この坂道の両側だけはなんとか延焼をまぬがれているが、周囲はいまだ焼け跡とバラックだらけだ。は、写真にとらえられた住宅などの特定。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみるグリーンコート・スタヂオ・アパートだが、またしてもネームを誤採取している。は、1979年(昭和54)の空中写真にみる同アパート跡。は、1990年代に撮影した同アパートの地下廃墟。
◆写真下は、当時を思いだして描いたグリーンコート・スタヂオ・アパートの地下廃墟で上は駐車場になっていた。は、聖母坂からの同アパートへと入るエントランス。下左は、同アパートの階段でロビーの一画には当時大流行していたバウハウス風のパイプ椅子が置かれている。下右は、全体が白いタイル貼りのトイレと洗面所、そして浴室。
おまけ
第1次山手空襲の直前、1945年(昭和20)4月2日に撮影されたグリーンコート・スタヂオ・アパートと、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲(5月25日)直前の同アパート。
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「大温室」があるお屋敷の風景。 [気になる下落合]

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 落合地域やその周辺に建っていた大きな屋敷には、大型の温室を備えた邸が少なくない。たとえば、明治期から下落合700~714番地に邸をかまえていた西坂Click!徳川義恕邸Click!には、南側の広大な庭園にいくつかの温室があったし、同じく明治から下落合に隣接する雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!には、ことさら「大温室」と呼ばれた巨大な施設があった。
 また、戸田邸が1930年(昭和5)の計画では下落合へ転居Click!するために、雑司ヶ谷旭出の敷地を引き払うと、そのあとに建った徳川義親邸Click!にもまた、同じような大温室があったかもしれない。戸田邸の名物だった大温室を、記憶が錯綜して徳川邸のものだと勘ちがいをしているのかもしれないが、確かに地元の資料には「徳川義親邸の大温室」という証言Click!が残されている。目白通り沿いの下落合で生まれた岩本通雄の、『江戸彼岸櫻』Click!(私家版/講談社出版サービスセンター)から引用してみよう。
  
 この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。
  
 この様子からすると、六天坂Click!の丘上にあった植物栽培が趣味のギル邸Click!跡に建てらた津軽義孝邸Click!にも、大きな温室があったのではないかと想定することができる。なぜなら、1936年(昭和11)に撮影された空中写真には、母家の南にひろがる広大な芝庭の東側に家屋のような大きめの建築物が見えており、以降の空中写真にも同建物がとらえられている。だが、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、この建物が採取されていない。火災保険の料率算定基礎資料である「火保図」は、人のいる家屋や施設以外の建物は採取されないので、大型の温室だった可能性がある。
 また、近衛篤麿邸(のち近衛文麿邸)Click!相馬孟胤邸Click!に、大規模な温室があったかどうかはさだかでない。特に明治期からある近衛邸には、その時代背景から存在していたように思える。また相馬邸の場合、もし温室があれば「相馬家邸宅写真帖」Click!に掲載されそうだが、庭園(御留山Click!)のどこにも温室とおぼしき施設はとらえられていない。そのかわり、相馬邸母家の南東側には、全面ガラス張りのような2階建ての「居間」が建設されており、その中で熱帯・亜熱帯の植物や樹木が栽培されていた可能性がある。
 明治後期から、華族やおカネもちの大邸宅には、競うように温室が建設されている。別に植物愛好家や、ガーデニングが趣味の人たちが急増したからではない。当時、南洋の植物を温室で育てる、ヨーロッパ由来のハイカラなブームがあったからだ。しかも、温室には「植物栽培」という目的ばかりでなく、邸宅の重要な応接室や社交場、ときには食堂としての役割が付与されていた。ヨーロッパの王室や貴族が、寒さに弱い樹木や草花を冬の間だけ避難させる、オランジェリー(避寒施設)を原型とする温室は、19世紀の半ばにイギリスで開発されている。鉄骨構造で全面ガラス張りという建築手法と、蒸気で室内を温めるスチーム暖房技術などが工業生産で可能になったのと、世界中の植民地、ことに南洋の島々からもたらされるめずらしい植物や樹木類を、枯らさずに育成しつづけるニーズがあったからだ。イギリスにいながらにして、南国の雰囲気を味わえる「人工楽園」ブームが起きている。
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 当時のイギリスで、王族や貴族の別なく大ブームとなった温室の様子を、恵泉女学園大学の園芸文化研究所が2004年(平成16)に発行した「園芸文化」第1号収録の、新妻昭夫『英国の温室の歴史と椰子のイメージ』から引用してみよう。
  
 結論だけをいえば、工業技術の発展が全面ガラス張り温室を可能にした。とくに鉄骨とガラスという工業製品が、大型ガラス温室の建築を可能にした。あとは材質の改良と安価に大量にという生産技術の問題であり、またそれをどう組み立てるかという建築学の問題である。そこにさまざまな人がさまざまな考案を競いあった。また暖房の手段として、温度むらのあるストーブに変(ママ:代)わって、水蒸気による暖房が考案され、熱帯植物の栽培に必要な温度だけでなく湿度をも供給した。(中略) オランジェリーから全面ガラス張り温室への転換にともなって、建造物の長軸が90度回転した。オランジェリーは南にガラス窓を向けるため長軸は東西方向だったが、全面ガラス張り温室は太陽が東から昇って西に沈むまで太陽光線を受けるよう長軸が南北にとられるようになったのである。
  
 現在でも、多くの温室は主棟(長軸)が南北を向いて建てられている。また、建築技術が進むと大型の温室を超え、「大温室」と呼ばれる巨大な温室が出現している。それは、南洋の島々に生えるヤシの木を育成するという、イギリス人に限らずヨーロッパ人があこがれた“ヤシの木蔭”を実現するための施設だった。
 こうして王族や貴族の邸内には、大温室が次々と建設されていく。これらのケーススタディで蓄積された大型の温室技術は、1851年(嘉永4)のロンドン万国博の会場で、パクストン設計による「水晶宮=クリスタルパレス」にそのまま応用されている。
 一方、ヨーロッパ各地では温室を自分や家族が楽しんだり、訪問者へ咲いためずらしい花々を見せて自慢するだけでなく、公共施設あるいは娯楽施設として建設し、一般の市民が楽しめるパレス(御殿)として開放しようとする動きが出はじめている。「ウィンター・ガーデン」思想と呼ばれるこの考え方は、徐々にヨーロッパ全体へと拡がり公設や私設の別なく、「ウィンター・パレス」あるいは「フローラ・アクアリウム」などと呼ばれている。
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 また、王族や貴族たちが市民からの社会的な圧力を受け、大邸宅の敷地を一般の市民に開放する、いわゆる“下賜公園”にも大温室が付属していたため、19世紀半ばには社会の階層を問わず“温室ブーム”ともいうべき流れがヨーロッパを席巻したらしい。そして、温室の大型化にともない、単に植物を育てるだけでなく、温室内にビリヤード場やコーヒーハウス、読書室、美術展示室などを設置する大温室も出現している。だが、さすがにタバコは植物に悪影響があるので、温室内は禁煙が原則だったようだ。
 当時の大温室の様子を、先述の新妻昭夫論文から引用してみよう。
  
 1838年に完成したパリの植物園の温室は、社交場をそなえた最初のガラス温室のひとつだった。(参照頁略) 1847年にパリのシャンゼリゼに開設されたウィンター・ガーデンは、植物学ではなく商業的な動機から作られ(同略)、舞踏場、食堂、喫茶店、菓子店、読書室があって、パリのリゾートとして名物になったという。(中略) ここには大陸ヨーロッパで発展した貴族の社交の場であったオランジェリーが市民の憩いの場に変貌していく、また英国で発展した植物学の研究施設としての大型温室が市民の開かれた教養・娯楽施設に変貌していく、平行しつつ、ある一点に集約されていく過程が見られる。
  
 つまり、南国の植物を育てて観賞するはずの大温室が、徐々に社交場やレストラン、喫茶室など別の用途へと流用されていった様子がうかがえる。
 ヨーロッパにおけるこの大流行を、明治以降の皇族や華族が見逃すはずはなく、東京にあった彼ら大邸宅の庭には、次々と大温室が建設されるようになった。そして、そこでは単にめずらしい植物や木々を育てるばかりでなく、ときに招待した客たちをもてなす応接室や食堂として使われたり、あるいは家族の健康を維持するためのサンルームとして用いられたりしている。特に日本では、結核の流行が猖獗をきわめていたため、緑に囲まれて暖かく、空気が清浄な温室は日光浴もかねて、健康維持を目的とした使われ方もされていたのだろう。
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 落合地域やその周辺域の、あちこちに建っていたとみられる大温室だが、特に下戸塚の大隈重信邸Click!にあった大温室は、招待客の接待や食事会・茶話会などによく使われ有名だった。「伯爵大隈家写真帳」には、晩餐会やパーティーなどが開かれた巨大な温室内の様子が掲載されているが、もはや温室というよりも草花を飾ったまるでホールのような意匠だ。

◆写真上:新宿御苑の旧・大温室で、現在は新しい大温室に建て替えられている。
◆写真中上は、1926年(大正15)の松下春雄Click!『下落合男爵別邸』に描かれた西坂・徳川義恕邸の温室。は、1919年(大正8)撮影の戸田康保邸大温室。
◆写真中下は、小石川植物園に残る大温室。は、新宿御苑にあった旧・大温室。は、戸塚町下戸塚稲荷前50番地の大隈重信邸に建っていた大温室。
◆写真下:いずれも、大隈邸にあった大温室の内部で撮影された人着写真。
おまけ
 目白にある温室で、中にいると冬でも汗ばむほど暖かい。
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公楽キネマの周辺に写る上落合の家々。 [気になる下落合]

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 月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!が、大正末か昭和の最初期に上落合530番地にあった火の見櫓から東を向いて撮影した、上落合521番地の公楽キネマClick!とその周辺の写真をすでにご紹介していた。きょうは、公楽キネマの周辺にとらえられた住宅や早稲田通り沿いの商店について、できるだけその詳細を特定してみたい。
 参考にするのは、公楽キネマが1933年(昭和8)に発行していた映画案内パンフレットの週刊「公楽キネマ」Click!へ、映画の観客をターゲットに出稿していた周囲の商店広告や、1938年(昭和13)に作成された「火保図」、そして同時期の各種地図類などだが、撮影時期が大正末から昭和初期ごろということなので、10年ほどのちに記録された「火保図」とは、住民や商店、施設などに若干の齟齬があるかもしれない。
 また、1932年(昭和7)に東京35区制Click!の施行で淀橋区Click!が成立し、落合町が消滅(地域が上落合・下落合・西落合へ)するとともに、道路や路地の拡張工事などが行われ、それにともない若干の地番変更がなされていると思われる。もちろん、写真当時の道路や路地は拡幅整備工事の前であり、「火保図」の時代とはかなり異なっている点にも留意したい。以上のようなテーマをご承知のうえで、読み進めていただければと思う。
 まず、火の見櫓の下に見えている風景から見てみよう。火の見櫓と同じ早稲田通り沿いの真下に見えている屋根は、上落合530番地の守田医院だ。院長は守田武雄という人で、内科と小児科が専門の医者だった。実は、撮影者の背後のすぐ真下も医者で、岡本一之助が院長の岡本医院だった。こちらも専門は内科と小児科で、火の見櫓をはさんでまったく同じ診療科目の医院がふたつ競合して並んでいたことになる。
 守田医院の屋根から、狭い路地をはさんで視線を上(東側)に移していくと、早稲田通り沿いの商店群が並んでいる。当時の早稲田通りは、幅わずか三間(約5.5m)ほどしかなく、写真でもおわかりのようにかなり狭かった。その通りに面して、2階建てのひときわ目立つ大きなかまえの商店が、週刊「公楽キネマ」に広告を掲載していた武蔵屋・加藤錦造商店だろう。上落合524番地の同店は、清酒の卸し問屋兼小売りをしていた酒店だ。
 武蔵屋・加藤錦造商店の向こう側(東側)にも、細い道が左右(南北)に通っていたが、「火保図」(1938年)の時代になると大幅に拡幅され、しかも道筋が屈曲していたため早稲田通りへの出口は直線化工事のため元の小道よりも手前(西側)になるので、「火保図」(1938年)の時点では公楽キネマの西側に細長い三角形の、まるでロータリーのような敷地が取り残されてしまっているのがわかる。写真には未設で写っていないが、この新しく敷設されたのが現在の上落合中通りと呼ばれている道路だ。
 守田医院の近くにもどって、商店群のすぐ裏に2軒の大きめな家が写っている。「火保図」とは、住宅の配置が少し異なるが、庭に洗濯物がたくさん干されている家が、上落合528番地で地主の加藤喜崇邸、左手の画面から半分切れているのが上落合525番地(のち527番地)の武蔵屋を経営していた加藤錦造邸だろうか。一帯の520番地台の地番には加藤姓が多く、姻戚関係だったものか月見岡八幡社の氏子総代であり、大久保射撃場の移転・廃止運動Click!を上落合地域でリードした加藤公太郎Click!もまた、上落合524番地に住んでいた。
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加藤錦造邸前.JPG
 次に、公楽キネマの近隣に目を移してみよう。いまだ拡幅される以前の、小道だったプレ上落合中通り沿いに建っている家々は、公楽キネマの建物と重なる手前が、1938年(昭和13)の時点では上落合523番地の倉持医院だ。この医院の詳細は不明で、1932年(昭和7)の『落合町誌』Click!には収録されていないので、1932年(昭和7)から「火保図」が作成される1938年(昭和13)の間に新規開業していると思われるが、この写真が撮影されたころは別の住民が住んでいたのだろう。倉持医院も内科・小児科だったりすると、この近所では患者の奪いあい状態だったろう。
 のちに倉持医院となる住宅の左隣り(北隣り)が金井邸、そのさらに北隣りが川上邸という並びだ。金井邸や川上邸の向こう側(北東側)には、東南から北西へ斜めに抜けるゆるいカーブの路地があるはずで、左端に写っているモダンな西洋館は露地の向こう側(東側)にある、上落合516番地の大きな小布施邸と思われる。その小布施邸の右斜め上(東並び)に見える、2階建てのこちらもかなり大きな和館が上落合517番地の林邸だろう。
 そして、小布施邸の屋根の上にチラリと見えている住宅は、上落合486番地のこちらも敷地が広く大きな屋敷だった山岡邸だ。また、林邸の右手(南側)に見えている大小2軒の家は、左手前が砥目邸で右奥が大きな戸川邸だと思われる。以上の邸のうち、早稲田通りから北へと入る小道(現・上落合会館通り)に面しているのは、南から北へ戸川邸、林邸、山岡邸の3軒ということになる。このあたり、大きな住宅が建ち並ぶお屋敷街だった様子が写真にとらえられていてよくわかる。
 さて、写された画面の遠景を見ていこう。まず、前述の現・上落合会館通りの沿道西側に並んでいた、戸川邸・林邸・山岡邸の3屋敷の向こう側、大きな樹木が繁り公楽キネマの屋根上のほうまで林が連なっているのが、当時は広い境内だった月見岡八幡社だ。同社の境内は、表参道の入口鳥居のある旧・八幡通りClick!の階段(きざはし)までつづき、移転後の現在の境内に比べると約2倍ほどの広さがあった。
 月見岡八幡社の裏参道の鳥居がある路地、すなわち写真では戸川邸の前あたりに上落合186番地の村山知義Click!村山籌子Click!「三角アトリエ」Click!があるはずだが、遠くて確認することができない。もし、同写真が昭和初期の撮影だとすると、すでに「三角アトリエ」は解体されて、村山家の広い敷地内には新しいアトリエや複数の借家、アパートなどが建設中だったはずだ。その際、村山夫妻は仮住まいとして、下落合735番地のアトリエClick!に転居していて上落合には不在だった。
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 月見岡八幡社の西北端には、改正道路(山手通り)工事で破壊された大塚浅間古墳Click!から移設した落合富士Click!が再構築され、その手前の上落合202番地には大きな山本邸が建っていたはずだが、画面にはとらえられていない。山本邸も「火保図」(1938年)では採取されているので、1935年(昭和10)前後に建設された住宅ではないかとみられる。公楽キネマの屋根の左側、暖炉の煙突があるオシャレな西洋館っぽい住宅は、おそらく上落合186番地の池田邸で、小道をはさんで右手(南側)に見えている屋根が太田邸だろうか。
 なお、月見岡八幡社の樹林の間から、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの前田地区Click!に建つ工場からの排煙が見えているが、方角的にみると旧・八幡通りの向こう側(東側)に建っていた、日本テラゾ工業所または大井製綿工場の排煙だろう。前田地区は大正期からの工業地域で、写真が撮影された時期には大井製綿工場の左手(北側)には小松製薬工場、昭和電気工場、東京護謨工場などが、また日本テラゾ工業所の右手(南or南東)には山崎精薬綿工場、東京製菓工場、山手製氷工場などが操業していた。
 早稲田通り沿いの遠景を見ると、公楽キネマの手前(西隣り)には店名不明の食堂が営業していたが、樹木に隠れてそれらしい商店は見えない。公楽キネマの向こう側(東隣り)に、チラリと見えている1階建ての商店は、「公楽キネマ」に広告を出稿していた上落合519番地のカチドキ堂看板店だろう。その数軒先には、沿道に戸川邸・林邸・山岡邸が並んでいた、前述の現・上落合会館通りの早稲田通り出口があるはずだ。
 いまだ拡幅・直線化の整備工事前で、大きく蛇行する早稲田通りに目を向けると、特に公楽キネマ周囲の路上には多くの人出があるようなので、守谷源次郎は休日あるいは祭日(社の祭礼日)に火の見櫓へ上り撮影したものだろうか。現・上落合会館通りの向こう側(東側)に、ひときわ大きく光って見える屋根は、上落合189番地の大野邸のものかもしれない。大野邸のさらに向こう側(東側)には、商店街がにぎやかな旧・八幡通りが左右(南北)に通っていて、月見岡八幡社の表参道へと入る鳥居と階段があったはずだ。
 さらに、旧・八幡通りに近い位置に高い煙突が見えるが、上落合192番地で開業していた銭湯の竹ノ湯だろう。竹ノ湯の背後(東側)のやや遠景に、大きめなコンクリート造りとみられるビルのような建物がとらえられているが、これが戦災からも焼け残った山手製氷工場の建屋だ。この製氷工場の右手(南側)が、関東乗合自動車小滝橋車庫Click!(のち東京市電気局自動車課小滝橋営業所/現・都バス小滝橋車庫)があるはずで、ほどなく旧・神田上水をまたぐ小滝橋だが、そこで画面が切れていて判然としない。また、竹ノ湯の左手(北側)には当時、上落合市場が開業していたはずだが、公楽キネマの背後に隠れてよく見えない。
八幡公園.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺3.jpg
早稲田通り小滝橋方面.JPG
山手製氷工場1956.jpg
 大正末から昭和の最初期に撮られた写真へ、このように住民名や施設名を当てはめて眺めてみると、単なる古写真だった画面が、がぜん人々の息吹を感じとれるリアルな街角写真へと変貌するのが不思議で面白い。また近いうちに、いまから75年ほど前に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された下落合の西坂・徳川邸Click!(新邸)や、聖母坂沿いのグリン・スタディオ・アパートメントなどの住宅街写真でもやってみたいと考えている。

◆写真上:大正末から昭和初期ごろ、守谷源次郎宮司が撮影した公楽キネマ周辺。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の落合町市街図にみる撮影ポイントと画角。中上は、左手の茶色いマンションあたりが火の見櫓跡。中下は、写真手前にとらえられた家々の特定。は、当時の上落合525番地にあった加藤錦造邸跡(左手)の現状。
◆写真中下は、左手に戸川邸や林邸、山岡邸などの大きな屋敷が並んでいた現・上落合会館通りの現状。中上は、写真の左奥に写る住宅の特定。中下は、1935年(昭和10)ごろに守谷宮司が撮影した月見岡八幡社の裏参道の階段(きざはし)と鳥居で、画面の右手背後が村山知義アトリエ。は、現在の八幡公園に残る裏参道跡。
◆写真下は、八幡公園から眺めた落合水再生センターの敷地で、1962年(昭和37)以前は先に見える野球場の手前を通っていた旧・八幡通りまでが月見岡八幡社の境内だった。中上は、写真の右奥に写る建造物の特定。中下は、現・八幡通りの早稲田通り出口から小滝橋方面を眺めたところ。は、1956年(昭和31)に守谷宮司が撮影した山手製氷工場。コンクリートの建屋は戦災からも焼け残り、戦後も操業をつづけていた。

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ピースをくわえてダミ声でしゃべる「天使」。 [気になる下落合]

十返千鶴子邸跡.JPG
 三田村鳶魚Click!は、「幽霊を、あるとして無い証拠を挙げるのも、無いとしてあるという現実を打破しようとするのもコケの行き止まりだ」としているが、それが物理的な存在でない以上「科学の眼」では存在しないものの、幽霊譚そのものは確実に存在しているので、それが民俗的に人間にとってどのような意味をもつのかを考えるのは、逆に大きな意味をもつことになるのだろう。幽霊を「いる」「いない」と論争したところで、三田村鳶魚のいう「コケの行き止まり」になって非生産的なことにちがいない。
 最近、なにやら記事が怪談づいているけれど、下落合の住民にもこんな話が残っていた。権兵衛坂Click!が通う大倉山Click!の中腹、下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)には、中井英夫Click!『虚無への供物』Click!に登場する「下落合の牟礼田の家」のモデルになった、見晴らしのいい十返千鶴子Click!十返肇Click!夫妻邸が建っていた。十返千鶴子は2006年(平成18)に死去する前、下落合に中村彝アトリエClick!が現存することをエッセイ「下落合-坂のある散歩道-」を通じて教えてくれた、わたしにとっては重要な人物だ。
 十返千鶴子は、夫の十返肇をかなり早くから亡くしており、その後、43年間もひとり身を張り通した女性だが、42歳のときに思いがけなく幽霊に遭遇して会話までしている。ほかならぬ夫の十返肇の幽霊で、下落合の自邸ではなく旅行先の海外で出会っている。ちなみに、文芸評論家で編集者の十返肇は、1963年(昭和38)に49歳で病死しているので、記事の出来事はその3年後ということになる。
 1966年(昭和41)に発行された東京タイムズに掲載の「フローレンスの亡霊」とタイトルされた記事を、それが収録されている1969年(昭和44)に社会思想社から出版された今野圓輔『日本怪談集―幽霊篇―』から孫引きしてみよう。
  
 約二カ月間のアメリカ・ヨーロッパの旅から帰ってきた十返千鶴子さん、三年前になくなった夫君肇さんの亡霊を、フローレンスで見たと大さわぎ。/というのは、その町のホテルについた千鶴子さんを、着物姿で、虎造ばりのダミ声でたずねてきた肇さんは「着物の柄までわかるんですよ。たびをはいていたし、足もありましたよ」とのこと。二人は世間ばなしの末、夜もふけ、さてということになったが、肇さんの亡霊は、「それだけはあかんのや。わいは、フローレンスの文壇にいるが、まだ下ッぱで、それをしたら追放されてしまうのや。かんにんや」と、ピースを口にくわえたまま、白い翼をパタパタさせて、窓から飛んでいってしまった。「幻なんてものではありません。本当に生きているのと同じでしたよ」としきりと、名残りおしそうな十返さんでした。
  
 浪花節の虎造なみに、ダミ声を張りあげてしゃべっていたとすれば、ずいぶんうるさくて耳ざわりだったろう。十返肇の声を、わたしは聞いたことがないが、東京が長いにもかかわらず、ふだんからこのように大阪弁(出身は香川)のようなしゃべり方をしていたものだろうか。文中の「フローレンス」とは、米国サウスカロライナ州の都市のことだと思うが、なぜ十返肇がこんなところに化けてでるのかもさっぱりわからない。
十返肇.jpg 十返千鶴子.jpg
十返千鶴子「夫恋記」1984.jpg 東京人199103.jpg
 十返肇は、1935年(昭和10)に大学を卒業すると、在学中から参加していた中河與一Click!の主宰する「翰人」の同人となっている。そして、吉行エイスケClick!に師事して文学を志したが(師事する作家をまちがえている気もするが)、途中で企業の宣伝部に就職して広告の仕事をしたあと、第一書房に入社して「新文化」の編集長をつとめた。戦後は文芸評論が中心で、その対象は海外文学というよりは国内文学の評論活動が多い。
 つまり、彼の死後、米国のフローレンス市までわざわざ出かけていって、そこの文壇の「下ッぱ」になっている意味が不明なのだ。生前に、米国文学の評論家や研究者であれば不思議ではないが、彼は日本文学をおもな対象とする評論家だったはずだ。しかも着物姿で、日本でしか販売されていないピース(両切り缶ピース)を吸いながら出現している。きわめつけは、「白い翼」をパタパタさせながら、窓から空へ飛びだしていったことで、米国では幽霊になると背中に天使のような羽根が生えるのか……と、がぜん十返千鶴子証言のリアリティを薄め、信憑性を根底からゆるがしかねない姿をして現れている。
 十返千鶴子は、現在の小池真理子が体験を綴っているのと同様に、夫の死に大きな喪失感と痛手を受けており、その後、夫を思いつづける暮らしをしていたのは『夫恋記』(1984年)などの内容からも明らかだが、死別の衝撃で思いつめたそんな感情が、旅先の米国のホテルで孤独感とともにあふれだし、思いもかけない羽の生えた夫の幽霊を夢か現(うつつ)に出現させた……とでもいうのだろうか。
 そこまで慕われていたら、男としては死んでも本望だろうが、それほど慕っても懐かしんでもいない、死んでようやく世話から解放されせいせいしている妻のもとへ、夫の幽霊が白い羽をパタパタさせながら「かんにんや~」とダミ声のくわえタバコで現れたりしたら、「うるさい!」とキンチョールでもシューッと噴きかけられて、羽根をパタつかせながら「かなわんな~」と窓から逃げていくのだろうか。よほど仲のいい夫婦でなければ、十返千鶴子のような“怪談”証言は生まれにくいのだろう。
十返夫妻(下落合).jpg
十返千鶴子邸2007.JPG
 十返夫婦とは逆に、妻が先に死んでしまい、死後も夫を慕いつづけ亡霊となって現れるという怪談は、古今東西を問わず数が多い。女性の幽霊のほうが、なにかと凄味があって怖いのだろうけれど、冒頭の江戸研究家・三田村鳶魚にちなんで、江戸前期の代表的な仮名草子である1661年(寛文元)に出版された鈴木正三『因果物語』から、とある仲のいい夫婦にまつわる怪談をピックアップしてみた。しかも、死んだ妻の幽霊は裏切った夫の前ではなく、後妻におさまった女性の前に「うらめしや」と出現して悩ませている。現代語訳は今野圓輔で、「夫は恨まぬが」から引用してみよう。
  
 江戸の麹町のある人の妻が重病にかかって死ぬ前、その夫に向かって、「もし自分が死んだ後に、家の下女を後妻にでもしたら、きっと祟りをするであろう。よくよく覚えていなさい」と遺言しておいた。/ところが男は、妻が死んで間もなく、その遺言も忘れて、下女を女房に直すと、そこへ妻の幽霊が現れて、下女の髪をむしり取ろうとするので、その痛さ、苦しさ、恐ろしさに下女は大声で泣き叫ぶ。驚いて人びとが集まって来て、よくよく見ると何の変わったこともない。けれども人がいなくなると、また幽霊が手をのべて、ちくちくむしり取ろうとする。こうした事が度重なって、下女の頭には、ついに一本の髪の毛も残らず、とうとうあえなく死んでしまったという。
  
 麹町(江戸期は糀町)での出来事なので、おそらく小旗本の屋敷内で起きた怪談なのだろう。おそらく、この屋敷の主人は婿養子で、生前は妻に頭があがらなかったのではないか。迷惑なのは、主人から頼まれて後妻に入った「下女」のほうだ。
 生前の約束を守らず、「なかったこと」にして無責任な行ないをしているのは夫のほうであり、本来なら夫の前に「うらめしや」と化けてでるのが理屈のはずだが、よほど夫が好きだったものか、後妻に嫉妬してとり憑き殺すというまったく筋ちがいなことをしている。そんなに夫への未練があるのなら、夫をとり殺してあの世へ芝居の「道行き」よろしく連れていけばいいのに……と考えるのは、あまりにも合理的で現代的な発想だろうか。
 また、仲のよい夫婦のもとには、先に死んだ夫なり妻なりが慕わしげに化けてでるのであれば、仲の悪い夫婦の場合は、なおさら執念深く復讐すべき相手の前へ、恨みごとを並べつつ呪いや祟りをもたらす悪霊となって、頻繁に出現してもよさそうなものだが、案外そのような怪談は少ない。相手を殺害したりすれば別だが、単に仲が悪いぐらいの夫婦では、先にどちらかが死んでも残されたほうはせいせいして、さっそく相手を忘却のかなたへと押しやるせいで、幽霊の出現率も非常に少ないのではないかと想像できる。
カバネル「ヴィーナスの誕生」1863.jpg
鈴木正三「因果物語」1661寛文元.jpg 新刻因果物語挿画(山本平左衛門板)1963.jpg
 つまり、思いが深ければ幽霊が出現し、思いが薄く逆に嫌いか、どうでもよければ幽霊の出現率が低下するのは、どうやら残された妻なり夫なりの心理や記憶に、その主因が求められそうな気がするのだ。十返千鶴子は、よほど夫思いの女性だったのではないだろうか。

◆写真上:新宿駅方面が一望できる、権兵衛坂の中腹にあった十返邸跡の現状。
◆写真中上は、十返肇()と十返千鶴子()。下左は、1984年(昭和59)に新潮社から出版された十返千鶴子『夫恋記』。下右は、十返千鶴子のエッセイで中村彝アトリエの現存を気づかせてくれた1991年(平成3)発行の「東京人」3月号。
◆写真中下は、下落合の自宅でくつろぐ十返肇・十返千鶴子夫妻。は、十返千鶴子が死去した翌年(2007年)に撮影した十返千鶴子邸。
◆写真下は、くわえタバコに和服姿でダミ声のおしゃべりな「天使」が、「かんにんや~」と現れたらどうしたもんだろう。カバネルの『ヴィーナスの誕生』(1863年/部分)より。下左は、1661年(寛文元)に出版された鈴木正三『因果物語』。下右は、その3年後の1663年(寛文3)に出版された『新刻因果物語』(山本平左衛門版)の挿画。

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旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(下) [気になる下落合]

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 にぎやかな商店街Click!が、旧・八幡通りClick!沿いに形成されていた昭和初期のころ、月見岡八幡社Click!の祭礼には住民たちが大勢集まっていただろう。神輿や山車は、旧・八幡通りを起点に各町内を巡行し、再び同社の前に集合していたにちがいない。旧・八幡通りの商店街でも、祭礼の日には提灯や飾りつけが華やかだった様子を想像できる。
 ちなみに、月見岡八幡社には神輿や山車はなく、祭りで巡行するのは昭和初期から上落合の町々で誂えた“町神輿”だった。現在の祭りの様子を、1994年(平成8)に新宿歴史博物館から出版された『新宿区の民俗(4)/落合地区篇』から引用してみよう。
  
 上落合地区の神輿は、町会で持つ町神輿である。月見岡八幡神社には、昭和初期から神輿はなかったそうである。現在の町会で所有している神輿は、東部町会が、大人神輿一・子供神輿三、中央町会が子供神輿一、三丁目町会が大人神輿一・子供神輿一、である。はっぴや揃いのゆかたなどは、町会ごとに用意している。神輿の収納は、月見岡八幡神社にある神輿蔵を借用している。各町会とも神輿は町内を巡行し、宮入はない。
  
 これは、月見岡八幡社が1962年(昭和37)に現在地へと遷座し、旧・八幡通りが消滅して新・八幡通りが敷設されたあとの祭礼の姿だが、旧・八幡通りに面していた時代もさほど変わらない神輿の巡行が行なわれていたのだろう。もっともにぎわったのは、1940~1941年(昭和15~16)に行われた祭礼だったようで、守谷源次郎Click!も神輿と山車が練り歩く様子をスケッチに残している。
 この祭礼には、「表祭」と「裏祭」があったというのは、上落合に長く住む古老の証言だ。別に、祭り自体に表裏があるわけでなく、落合柿Click!のよく実をつける年が「おもて」で、それほど実がならない年が「うら」と称していただけのようだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が出版した、『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 お祭りに「おもて祭」と「うら祭」とあるそうですが、神社としては「おもて」も「うら」もないそうです。/ではどうして「おもて」「うら」というようになったのかしら……/古老の話では、昔、落合一帯は柿の名産地であったそうです。/柿は一年おきになるので、柿のなる年は祭を盛大にやると言うので、その年は「おもて祭」と言うようになったそうです。従って柿がならない年は「うら祭」と言うことになります。
  
 落合柿が名産品だったのは、江戸後期から明治期にかけてだったと思われるので、そのような祭りの表現は大正期に入ると、早々に忘れ去られたのだろう。
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 カキの木も含め、二度にわたる山手大空襲Click!で上落合はほぼ丸焼けになり壊滅したせいか、あるいはもともと工場敷地が多かったせいか、1956年(昭和31)ごろに撮影された旧・八幡通りの東側から南側にかけての街並みには樹木が少ない。
 1980年(昭和55)出版の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』Click!(非売品)に収録された、月見岡八幡社付属の愛育園(保育園)の屋根上から東を向いて撮影された写真には、小滝橋の西詰めに近い位置に建っていた山手製氷工場Click!の建屋がとらえられている。このビルは、戦前からバスの小滝橋車庫の北側に建っており、爆撃されているにもかかわらず焼け落ちなかったのは鉄筋コンクリート構造だったからとみられる。戦後も、しばらくはそのまま使われつづけたようだが(製氷工場ではなかったかもしれない)、1960年代の後半になって解体されているようだ。
 次に、小滝橋方面を撮影した写真には、先の山手製氷工場の建物の一部と、早稲田通り方面の風景が写っているが、やはりあちこちの焚き火の煙だろうか、遠景がかすんでよく見えない。少し高くなった位置の地平線に、横へ連なるように見えている四角い黒い影は、おそらく北西側から眺めた戸山ヶ原Click!アパート群Click!だろう。
 そして、南側を向いて撮影した写真には早稲田通りへと出る直前の、旧・八幡通りの様子が記録されている。また、右手には小滝台住宅地Click!の急峻な斜面が見えており、丘上には同住宅地に建っていた屋敷のひとつが見えている。小滝台住宅地も空襲でほぼ全滅しているので、写真にとらえられている丘上の建物は戦後のものだろう。小滝台の左手(東側)に見えているかなり高い煙突は、焼け残った中野伸銅工場のものだろうか。
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 旧・八幡通りに目を移すと、路上の人物がふたり見えている。手前に見えている制服姿の人物は、腕章をして自転車に乗った巡査か郵便配達員だろう。そして、その後方を歩く人物の姿が面白い。肩からなにやら白い布バッグ状のものを袈裟がけに下げ、左手には薄い大きめな板のようなものを抱え、右手はこれも大きめなバッグ(?)のような、西風にあおられていそうな薄くて四角い手さげ包みをもっている。頭にはベレー帽をかぶっていそうで、見るからに写生帰りの画家のような風体の人物だ。
 左手で抱え右手に下げているのは、2枚とも布のようなものに包んだキャンバスのように見え、サイズから想像すると双方とも20号ぐらいだろうか。写生地へ出かけるところか帰りなのかは不明だが、この時期の画家が集まる写生地というとどこだろう? 大正期が終ったばかりの昭和初期、上落合の早稲田通り沿いを描いたとみられる作品に、下落合727番地に住んでいた宮坂勝Click!『初秋郊外』Click!がある。戦後の画家は、下落合の坂道あたりから復興する新宿方面の眺望を描きにでもいくのだろうか。
 戦災で大きなダメージを受け、戦後は落合下水処理場の建設のための用地買収で、空き地だらけになってしまった旧・八幡通り沿いでは、戦前はにぎやかだった月見岡八幡社の祭礼も、あまり盛り上がらなかったのではないだろうか。そろそろ、龍海寺跡の敷地へ遷座する話も出ていたのかもしれない。にぎやかだった以前の祭りの様子を、前出の『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 大正の初め頃までの「お祭り」は、近郷近在でも有名であった。それは、村中総出で大きな屋台や桟敷を作り、浅草から芸人を呼んで夜どおし芝居をやったからです。その頃境内に「力石」という石があった。丸い石で「二十貫」「三十貫」と刻んであり、村の若者達はカツイだり、さし上げたりして力自慢をしました。昔の八幡さまは本当に素朴な建物であり、拝殿の天井が格天井となっていた。その一枚一枚に江戸時代の有名な画家の「谷文晁」の筆による色彩鮮やかな花鳥の絵が書いてありました。空襲のとき、神主さんがやっと一枚だけ助け出すことが出来たそうです。
  
 この「神主さん」とは守谷源次郎のことだが、谷文晁に依頼して制作してもらった天井画Click!のうち、たまたま空襲のときには1枚だけ取り外して別の場所に保管されていたため、延焼の難を逃れたというのが事実のようだ。
月見岡八幡社南東側眺望.jpg
月見岡八幡社南側眺望1.jpg
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 戦前に撮影された旧・八幡通りの写真は、残念ながら発見することができなかったが、1936年(昭和11)から1944年(昭和19)、そして空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!から撮影された空中写真などを見ると、沿道にはたくさんの商店と見られる家々が建ち並んでおり、当時はにぎやかだった商店街の様子を想像することができる。その繁華な街も、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で壊滅してしまった。
                                 <了>

◆写真上:現・八幡通りから眺めた、旧・月見岡八幡社の境内の一部(八幡公園)。
◆写真中上は、右手の八幡公園から中央の現・八幡通りにかけての旧・月見岡八幡社の境内跡。は、現・八幡通りから落合水再生センター内にかけての同社境内の跡地。は、落合中央公園の野球場手前までが同社境内の跡地。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる空襲で壊滅した旧・八幡通り界隈。明星尋常小学校の焼け跡には、すでに4棟のアパートが建ち並んでいる。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる旧・八幡通りで、すでに落合下水処理場建設の用地買収がかなり進捗している。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる消滅した旧・八幡通りで、現在の新・八幡通りが西側へ新たに敷設されている。
◆写真下は、旧・月見岡八幡社の境内から南東側を撮影した写真。焚き火の煙でかすんでいるが、右手に見えているビルが旧・山手製氷工場。は、同社より南南東の風景で遠景に連なるのは戸山ヶ原のアパート群だろう。は、同社から南側の旧・八幡通り沿いの風景。小滝台のバッケ(崖地)Click!が右に見え、路上にふたりの人物がとらえられている。

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