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第一寮棟で暮らした学生たち。(上) [気になる下落合]

学習院昭和寮跡.jpg
 近衛町Click!の南端にある、下落合1丁目406番地(現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)がひどいことになっている。寮棟のあった敷地や、西側のテニスコート周辺にあった緑が根こそぎ伐採され、バッケ(崖地)Click!下の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)の際まで含めて、大規模な集合住宅が建設される予定だという。これでまた目白崖線の緑が消え、斜面から丘上にかけて灰色のビルが出現するわけだ。
 さて、すでに解体されてしまった学習院昭和寮の4棟には、どのような学生たちClick!が暮らしていたのだろうか。昭和寮は、旧・学習院高等科の学生たちを入寮させていたので、今日の学制でいえば大学の教養課程を学ぶ、17歳から20歳ぐらいまでの若者たちだ。以前から、昭和寮で起きた出来事Click!エピソードClick!を中心に書いてきたので、今回は入寮していた学生たちに焦点を当て、その横顔を少しご紹介してみたい。
 学習院昭和寮Click!には、本館の南側に4棟の寮舎が建っていたが、そのうちの第一寮には15人の学生が入居していた。たいがいが皇族や華族、資産家の家庭出身者たちだが、お気楽にスポーツへ打ちこむ学生もいれば、さまざまな苦労を重ねて入学してきた学生もいて、寮生の顔ぶれは多彩だったようだ。1933年(昭和8)2月に発行された寮誌「昭和」Click!第8号には、第一寮の14室に住む学生たちのプロフィールが掲載されている。いちおう、氏名はイニシャルで書かれているが、学習院高等部へ通う学生が見たら、すぐに誰かが特定できただろう。
 同誌に掲載された、一寮生『一寮十五勇士』から引用してみよう。全14人しか紹介されていないが、最後の15人目は著者の「一寮生」だからだ。
  
 多分昭和寮の杜に鶯の囀ずる頃には私も此のなつかしいクリーム色の寮舎から、チユーブ入のライオン歯磨の様に、永遠に追出されなければならないでせう。ですから此の出口に留つてゐる間にチユーブの内容を、一般に招介(ママ:紹介)し又広い世界の空気をつぎ込む役目をするのも決して無益ではありますまい。併し内容物は歯磨とは一寸異つた血も肉も思考もある人間です。
  
 このような序文ではじまる第一寮の学生紹介は、寮誌「昭和」の12ページ分を占めたかなり長めの読み物となっている。ふだんから付き合っている、親しい友人たちを紹介するわけだから、いわゆる「仲間うち」でしか通用しない文脈や符丁、いわず語らずの共有経験を暗示する含みのある表現も多いが、昭和初期に下落合へ集合していた学習院生たちの特徴を、よく捉えている文章だと思われる。
 ◎第一室 文二乙 YK君
 「タイアン」というあだ名で、山登りが得意な学生。第一室は特に湿気がひどく、室内はカビだらけだったようだ。明るい性格のようで、どこか口八丁手八丁のようなとぼけた面もあったらしい。一寮全体が明るくなると、周囲から歓迎されている様子だ。
  
 尖い頭脳と体に不釣合な太い膽力の所有者で、本院否日本山岳会の権威の一人です。専門雑誌に寄稿して立派に原稿料を稼いでゐます。然し君の過去は決して平坦なものではなく、随分険阻な山道を歩いて来た様に見受けられます。
  
宮内庁公文書館1.jpg 宮内庁公文書館2.jpg
第一寮1932.jpg
学習院昭和寮12.JPG
 ◎第二室 文一丙 AM君
 かなり肥った学生だったらしく、「豚」などと書かれている学生。第一室のYK君が痩せていたのに対し、第二室の学生は丸々とした体格で童顔だったらしい。
  
 大のスポーツフアンでもあり亦スポーツマンでもあります。対附中戦の大将として本院の柔道史を飾り、又山岳部の委員として働いてゐるわけなんですが。最近は時代の波におされてかラグビー選手として偉大な体躯をグランドに現してゐます。
  
 ◎第三室 理二甲 MK君
 おカネ持ちで、絵に描いたようなイケメンだった学生。寮では読書室主任を引き受け、夏休みになると鎌倉の別荘へ出かけるのを楽しみにしている。また、軍事ヲタクClick!だったらしく当時の軍備に通じており、著者に「帝国主義者」と呼ばれている。
  
 スカールの名手。先日も井口盃レースに出場して活躍されました。未来はエンジニヤーとして我が建築界を背負つて立つ人。どうです皆さん! 新家庭の愛の巣を作る場合、君にお願いしては、又大の陸海軍通、と云ふよりは寧ろ帝国主義の権化です。
  
 ◎第四室 文三甲 FH君
 明るい性格のようだが、在寮時に不幸がつづいていた学生。文章も、FH君への慰めと励ましからはじまっている。入寮して1年もたっておらず、昭和寮では新人だった。努力を重ねる性格だったらしく、「ササ熊」というペンネームで寮日誌を引き受けている。
  
 スポーツのデパートです。生辞引(ママ:生字引)です。不明の点があつたら一寮の四室へいらつしやい。成る程見掛けは至つてしとやかな君も一旦丸裸になれば筋骨隆々たるモサです。柔道は二段、ラグビーは本院のnumberOne’兎に角すごい体です。
  
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 ◎第五室 理一乙 KM君
 「マホメツト」というあだ名のついた、青瓢箪のような学生。外出の札をかけっぱなしにして、寮のオバサンに外から鍵をかけられ、出られなくなったエピソードはすでにご紹介している。一寮の「変人」で、寮仲間との協調性がまるでなかったようだ。
  
 見掛けによらず、頭脳の明晰なること秋の夜の如きものです。世間は、殊に現代は性格を完備せる人間、之を換言せば人間の全性格や広範な知識を余り要求しないでせう。寧ろすぐれた深い一部分を望んで止みません。一くせある君の前途は決して平凡な人間には終らないでせう。それにしても、もう少し寮生との融和をはかつて欲しいと思ひます。
  
 ◎第六室 理三乙 GM君
 身長が低くて「胎児」というあだ名がついていたが、学習院の理系ではトップの成績だったようだ。一寮のティールームと電話の当番を引き受けていた。学習院では唯一のオカッパ頭で、別に「Poko(ポコ)」というあだ名もあった。
  
 来春の千葉医大受験準備で、秋の夜長を雄々しくも奮闘を続けてゐます。医者を友達に持てとはよく云ひますが、私は何だか不安です。蛙やバツタの調子で解剖された日にや、命がいくらあつても足りそうもありませんから。なるなら内科ですな。それより大のスポーツフアンである君には寧ろスポーツ医学は如何です。
  
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 当時の学習院昭和寮で暮らした学生たちは、みななんらかのスポーツをしていた。部屋に引きこもって、勉強や読書に専念するような学生は、むしろめずらしかったのだろう。そのような学生は、ここに登場している変人の「マホメツト」君ことKM君と、後編に登場する「熊さん」こと内気で引きこもりのBN君のふたりぐらいだろうか。
                                <つづく>

◆写真上:寮棟が解体され、周囲の樹林が伐採された学習院昭和寮の跡。左手の背景は、大黒葡萄酒工場Click!の跡地に建つ高田馬場住宅で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真中上は、宮内公文書館に残る1923年(大正12)5月28日に帝室林野局が東京土地住宅から近衛町の敷地42・43号Click!を購入したときの記録。(東京市及附近所在御料地調/識別番号61683) は、1932年(昭和7)に学習院が撮影した昭和寮の空中写真にみる第一寮。ちょうどこの撮影時、記事に登場している学生たちが暮らしていた。は、昭和寮の東側から眺めた第一寮(右)と第二寮。(提供:野口純様)
◆写真中下は、解体前の昭和寮の寮棟。は、昭和初期に撮影された寮室。
◆写真下は、学生たちが暮らした第一寮の入口。は、寮棟北側にある本館の階段。

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下落合を描いた画家たち・安藤広重/二代広重。 [気になる下落合]

藤稲荷社1.JPG
 下落合の御留山Click!中腹にある藤稲荷(東山稲荷)Click!には、水垢離を行なえる滝があったというのだが、いったいどのような形状の滝で、御留山のどこにあったのかがハッキリとはつかめなかった。1836年(天保7年)に刊行された斎藤月岑の『江戸名所図会』の巻之四「天権之部」Click!を見ると、長谷川雪旦の挿画には雑司ヶ谷道Click!に面した御留山の麓、藤稲荷の鳥居の東側に、どうやら小滝のような水流が見てとれるので、おそらく茶屋などが並んだ雑司ヶ谷道に面して、高さ数メートルの落水があったのだろうと想定していた。だが、それが具体的にどのようなかたちの滝で、滝の周囲の風情がどうだったのかまでは、『江戸名所図会』の表現では抽象的すぎて不明だった。
 同書には「藤杜稲荷社」として記載されているが、その記述はそっけない。
  
 藤杜稲荷社 岡の根に傍ひてあり また東山稲荷とも称せり 霊験あらたかなりとてすこぶる参詣の徒(ともがら)多し 落合村の薬王院奉祀す
  
 また、『江戸名所図会』よりも40年ほど前の寛政年間に書かれた、金子直德の『和佳場の小図絵』でも、同稲荷社の記述はわずかだ。
  
 東山稲荷大明神 俗に藤のいなりと云(いう) 大藤ありしが 今は若木あり 別当落合村真言宗薬王院と云
  
 おそらく『江戸名所図会』の斎藤月岑は、大江戸(おえど)Click!西北の資料である金子直德の『和佳場の小図絵』を参照しているとみられるが、滝の記述はどこにも表れない。同書に金子直德が添付した絵図「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」には、藤稲荷は「東山稲荷」として採取されているが、滝の表現はまったく見られない。
 また、金子直德が描いた画文集『若葉抄』の「東山藤稲荷社」にも、滝はどこにも採取されていない。幕末に作成された、堀江家文書のひとつである「下落合村絵図」には、下落合氷川社の北側(実際は北東側)に「藤稲荷」が描かれているが、こちらも滝の表現はない。だが、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』には、金子直德のみの著作ばかりでなく多種多様な資料を参照しているのだろう、藤稲荷社の滝が登場している。
 同書は、著者が実際に訪れた当時の情景(戦後の1950年代)と、江戸後期の情景描写があちこちで混在しているとみられるが、藤稲荷について少し長めに引用してみよう。
  
 落合氷川神社の東北の高地の麓に碑を建て、それに東山正一位稲荷大明神と彫り付けてある。つまさきのぼりに四、五十段の石段を登ると、頂上に宮社及び庵室がある。麓には瀧があり、水垢離場があり、社の北には縁結びの榎という神木がある。また大藤があってことに名高い。東南一面の耕地を展望して、風色見事である。春は花・時鳥によく、夏は蛍一面に飛びかう有様は、まことに奇観である。秋は紅葉、冬は雪、ことに仲春、紫雲草(れんげそう)の一面に咲きむれているのは、毛氈を敷いたようで、まことに雅景というほかない。/当稲荷社は、王子稲荷よりも年暦が古く、むかし六孫王源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天(だきにてん)の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。什物には、正宗の太刀一振があった。(中略) さらに水垢離場の崖には石の小天狗が据え付けられてある。寛延三年の作である。また外(ほか)に不動尊の石像もある。これには寛延五年刻とある。
  
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金子直德「若葉抄」東山藤稲荷社.jpg
 雑司ヶ谷の海老澤了之介は、下落合の事情にうとかったのか目白崖線につづく丘の地元の“山名”を記していない。ここに登場する「高地」は御留山のことであり、藤稲荷社の本殿があったのは「頂上」ではなくて中腹だった。御留山のピークは、藤稲荷の境内からさらに50mほど山道を西へ登ったあたりだ。
 また、「神社(じんじゃ)」Click!は明治以降の薩長政府教部省が規定した呼称だし、「東山正一位稲荷大明神」の石碑は戦後に建立されたものだ。さらに、寛延年間は4年までで「五年」は存在しない。単に「寛延四年」の誤写か、あるいは不動明王は寛延4年に彫刻されたが奉納は翌年に予定されていた可能性もある。寛延4年は10月27日までで、以降は「宝暦」と改元されている。
 御留山の西つづきの大倉山(権兵衛山)Click!と同様に、御留山にも神木があったのがわかる。大倉山の神木は樫の木Click!だったが、御留山の神木は榎だったらしい。板橋の大六天Click!にある「縁切り榎」Click!は昔から有名だが、下落合には「縁結び榎」があったのだ。この神木の伝承が現代までつづき榎が残っていたら、藤稲荷社は下落合の思わぬ観光名所(いまならパワースポット)になっていたかもしれない。
 御留山山麓の蛍狩りClick!や、三代豊国・二代広重の「書画五十三次・江戸自慢三十六興」第30景『落合ほたる』Click!について、あるいは奉納されたとみられる「正宗の太刀」Click!についてはすでに記事にしているので繰り返さない。
 由来が不明なほど古い藤稲荷社には、ヒンドゥー教に由来する陀祇尼天(荼吉尼天)が奉られているというが、もちろん後世(室町期以降)によるものだろう。「源経基の勧請といわれ」る伝承が残っているようだが、わたしはこれも後世の付会(後付け)由来ではないかと強く疑っている。山には深い雑木林が拡がり、御留山からは各所で水量が豊富な泉水が噴出し、平川Click!(旧・神田上水→現・神田川)に向け急峻なバッケ(崖地)Click!が連なる地形から、由来が不明な藤稲荷は朝鮮半島から畿内へと持ちこまれた農業の神「稲荷神」などではなく、周囲の考古学的な発掘成果や旧蹟・地名・川(沢)名などから、もちろん古代の大鍛冶=タタラの神「鋳成神」Click!が、室町期ないしは江戸期に転化して稲荷社になっているのではないかと想定している。
 なぜなら、藤稲荷社に奉納されていたのが真贋の課題はともかく、目白=鋼の代表的な作品である刀剣(「正宗」の太刀)である点に留意したい。また、藤稲荷から西へ1,000m余のつづき斜面から戦時中、改正道路(山手通り)Click!の工事現場でタタラ遺跡をしめす鐡液Click!(=金糞/かなぐそ)、すなわちスラグが少なからず出土しているからだ。
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 さて、なかなか見つからなかった藤稲荷の水垢離場にあった滝の図絵だが、ようやくその全貌を描いた作品を見つけることができた。よく地域史料や歴史資料に引用される、地域の風景を描いた浮世絵や『江戸名所図会』などからいったん離れ、江戸へ物見遊山にやってきた見物客向けに土産物として売られていた冊子(観光ガイド)類を参照したら、藤稲荷の滝が描かれていたのだ。安藤広重Click!と二代広重が描いた『絵本江戸土産』の第9編に、藤稲荷の滝が大きくフューチャーされている。
 同書の全10編が、日本橋馬喰町の金幸堂からひと揃いで出版されたのは1864年(元治元)のことだが、安藤広重は1858年(安政5)にすでに死去している。第7編までが安藤広重が描き、それ以降は二代広重が描いたとされているが、モチーフとなった場所へ師と弟子が連れ立ってスケッチに出かけているのは、それ以前からスタートしていたかもしれない。同書の藤稲荷のページから、添えられた文を引用してみよう。
  
 藤稲荷に瀧あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ
  
 これを読むと、少なくとも二代広重は夏場に藤稲荷へと出かけ、水垢離場に入って実際に流れ落ちる滝に打たれてみたのかもしれない。だが師弟が連れ立ち、それ以前に下落合をスケッチしているとすれば、ふたりで滝の下までいって冷たい湧水のしぶきを浴びている可能性もある。ただし、安藤広重はそのころ60歳近い年齢だったから、実際に現場へ赴いたとしても「冷気肌を徹して」は体調が悪くなるので、「鎮平、おまえ浴びてこい」「師匠、もう10月ですぜ。勘弁してくださいよう」「よし。じゃ、わたしがいく」「師匠がいくなら、しゃあねえな、わたしもご一緒しますがね」「どうぞどうぞ」「……オレは上島か!」と、二代広重に任せただろうか。
 絵を細かく観察すると、不動明王の石像下には湧水を落とす龍の口が設置されているのが見える。おそらく銅製の龍の口だろうが、滝の正面から見て流水を剣に見立てた、刀剣の彫り物に多く縁起のよい「剣呑み龍」、つまり不動明王の化身として象徴させたものだ。海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』に登場している石像の「小天狗」は、滝の右手に設置されていたものか描かれていない。
 手前の雑司ヶ谷道沿いには、“お休み処”とみられる式台や屋根に板か簾を拭いた茶屋が並んでいるのは、『江戸名所図会』などの情景と同じだ。このような仕様の茶屋は、1909年(明治42)10月発行の『東京近郊名所図会』Click!によれば明治末まで残っており、東京郊外を散策する観光客や、近衛騎兵連隊Click!演習兵士Click!を相手に休憩所として商売をしていたとみられる。下落合には、明治末に3ヶ所の茶屋が記録されており、2ヶ所は下落合4丁目(現・中井2丁目)の小上(蘭塔坂Click!上)だが、もう1ヶ所は藤稲荷からもう少し西へ歩いた下落合氷川明神社Click!近くの本村にあった。
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豊多摩郡落合村1911.jpg
藤稲荷社2.JPG
 広重の『絵本江戸土産』には、下落合の藤稲荷だけでなく落合周辺に散在する名所が、あまり引用される機会もなく、めずらしい構図で描かれている画面が少なくない。機会があれば、高田村や戸塚村、雑司ヶ谷村、小石川村などの情景を改めてご紹介したい。

◆写真上:急峻な崖地がつづく、御留山の中腹にある藤稲荷社の現状。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』に添えられた「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」より。田島橋の犀ヶ淵Click!まで採取されているのに、藤稲荷(東山稲荷)の滝が描かれていない。は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』に採取された藤稲荷の滝。は、金子直德『若葉抄』に著者が描いた藤稲荷だが滝が見えない。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された荒廃が進んだ藤稲荷の境内。は、広重『絵本江戸土産』に描かれた藤稲荷の水垢離場。
◆写真下は、広重『絵本江戸土産』に描かれた滝の拡大。は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村図」をもとに各画面の描画方向を書き入れたもの。ただし、いずれも鳥瞰図のため視点が高い。は、藤稲荷の滝があったあたりの現状。1940年(昭和15)からスタートした第一徴兵保険(のち東邦生命)の宅地開発Click!で、御留山の西南部が崩され道路(おとめ坂)が敷設されている。また、戦後は大蔵省の官舎建設のために、御留山東側の深い谷戸Click!も地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋められた。

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うなぎの「天井ぬけの極高非道」。 [気になる下落合]

蒲焼きのペーパークラフト.jpg
 「♪ひととせを今日ぞ祭りの当たり年~警護、手古舞い華やかに~」と、親父が湯につかりながら唄いそうな清元Click!『神田祭』Click!だが、学校の授業より優先した三味Click!のおさらい会や芝居、千代田小学校Click!の授業をサボらせて円タクで見物してまわった二二六事件Click!東京市街Click!など、わたしの祖母にはつまらない学校へ通わせるよりも、優先する「実地学習イベント」がたくさんあった。
 そんな親たちを反面教師にしたせいか、親父は非常にマジメな性格の人間に育ち、謹厳実直な公務員として生涯を終えている。だが、そんな真面目で融通がきかないカタイ親に育てられたせいか、わたしは逆に軟弱な性格に育ったようだ。学生時代には、親父との議論でまず負けることはなかったが、女子との議論ではすぐ折れるという軟弱ぶりを発揮し、クラスメイトから「らしいやね」などといわれていた。
 先日、1977年(昭和52)に東京書房から出版された川口昇『うなぎ風物誌』を読んでいたら、親父が育った家庭環境にそっくりな記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。著者の川口昇は日本橋鉄砲町の出身で、うちの元・実家からは南西に1,000mほどのところだが、同書より少し引用してみよう。
  
 ある日、授業中に教室の戸があいて、私の長姉が入って来た。そして田中先生に何事か話していたあと、田中先生が「家に用事があるそうだから帰ってよろしい」といわれた。一寸てれくさかったが帰り仕度をして、姉と一緒に教室を出た。家に帰ると他所行の着物を着せられ、その中に川上といふ人力車宿から二台の車が来て家の前に止った。やがて母や姉達とその人力車に乗せられ、着いたところはニ長町の市村座だった。/「なァんだ」と子供心にも思った。それからは芝居へ連れて行かれる時は、学校へ行く前に話してくれと、その時に云ったような気がする。/当時の市村座は菊五郎、吉右エ門、三津五郎、彦三郎、勘弥、東蔵、菊次郎といった、若手芝居で人気があった。
  
 川口昇の母親と、うちの祖母がピタリと重なるような気がするのだ。学校の教師には、おそらく長姉に家族の誰かがケガをしたか病気になった……などといわせているのかもしれない。マネするのを怖れたのか、わたしには詳しく話してはくれなかったが、おそらく親父も芝居や帝劇の舞台、新作映画にと、祖母に連れ歩かれていたのではないだろうか。学校の勉強よりも、江戸東京では「常識」であり「世間並み」だった舞台や音曲に関する「教養」や「素養」のほうが、よほど大切だと感じていた世代だ。
 余談だが、わたしは母親からよく「勉強しなさい」といわれて不愉快に育ったせいか(いくらいわれても家では宿題さえせず、よく罰として学校の廊下に正座させられていた)、わたしの子どもには「勉強しろ」とは一度も口にしたことがない。子ども時代にたっぷり遊ばないと「大人になってから遊んでも面白かないぞ」とか、遊びを通じて人間関係の機微を識り多彩な経験をするから「心の引き出しがいくつもできて、多角的な視座・視点が獲得できるんだぜ」とか、いい加減なことをいっては遊ばせていたので、学校のお勉強はあまり芳しくはなかったけれど、それでもなんとか一家を構えたり、わたしが見ても「いい女」のガールフレンドを連れてこられる男たちに育っている。
 著者は、鉄砲町の蒲焼き屋「大和田」(旧・親父橋大和田)の四男として生まれており、自身は大手銀行へ就職してまったくちがう道を歩んで家業を継がなかったが、うなぎの研究では蒲焼きヲタクの間で広く知られている。うなぎと芝居のかかわりといえば、すぐに落合地域の北東隣り、目白駅の向こう側の雑司ヶ谷四ツ谷(四ツ家)町Click!を舞台にした、4世南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』が思い浮ぶ。もちろん、三幕の「砂村隠亡堀の場」に登場する直助権兵衛のうなぎ搔きだ。
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 直助権兵衛 以前は直助中頃は、藤八五父の薬売り、今は深川三角屋敷寺門前の借家住み、見世で商う代物は三文花に線香の、煙りも細き小商人、後生の種は売りながら片手仕事に殺生の、簗を伏せたり砂村の隠亡堀で鰻かき、ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛と金箔付の貧乏人さ。
 ちょっと余談だけれど、「隠亡堀の場」で民谷伊右衛門がお弓を川へ蹴り落としたあと、直助と交わすセリフで「首が飛んでも……」が、原作にないことをつい最近知った。うなぎとからめた印象的な台詞だが、同芝居が大坂(阪)で上演された際に、特に台本へ加えられたものらしい。
 直助 伊右衛門さん、なるほどお前は強悪(ごうあく)だなァ。
 伊右衛門 天井ぬけの不義非道。
 直助 働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)、どうで仕舞は身を割かれ。
 伊右衛門 首が飛んでも動いてみせるワ。
 直助 まことに関心、奇妙。
 この台詞について、宇野信夫が監修した舞台のことを同書より引用してみよう。
  
 宇野信夫さん監修で鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」が先年国立劇場で中村勘三郎、松本幸四郎の主演で上演された。宇野さんはその解説で、隠亡堀で伊エ衛門の「首が飛んでも」の名ぜりふは、大阪の上演本「いろは仮名四谷怪談」にあるので、この台本はあまり上等とは思われませんが、こうした名ぜりふは取入れましたと言っている。
  
 わたしは、民谷伊右衛門の「雑司ヶ谷四谷町浪宅」の近く(直線距離で1.5kmほど)に住みながら、「砂村隠亡堀」=南砂町は訪ねたことがない。ひょっとすると子どものころ、親は連れていってくれたのかもしれないが、まったく憶えがない。大人になってからも出かけていないのは、ただただ遠いからだ。
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川口昇「うなぎ風物誌」1977.jpg うなぎめし弁当1960年代.jpg
 「砂村隠亡堀」は、現在の江東区南砂3丁目にある疝気(せんき)稲荷Click!あたりといわれているが、うなぎ搔きの直助権兵衛がなぜ堀割りが縦横に走り、「江戸前」のうなぎがふんだんに獲れる地元の深川界隈から、わざわざ砂村まで“出張”してきているのかがわからない。ついでに、釣竿をかついで雑司ヶ谷村から砂村までやってきた民谷伊右衛門の散歩にいたっては、なおさら不可解だ。直線距離で片道12km(道を歩いたらゆうに15kmで往復30kmは超えるだろう)もあるところへ、いくら江戸期の人々は健脚だったとはいえ、釣竿かついで散歩に出かけるだろうか? よほど急ぎ足で帰らないと、夏なら魚籠の中の釣った魚が傷みだしそうな距離だ。
 まあ、それをいうなら面影橋あたりから神田上水へお岩と小平の死骸を打ちつけて放りこんだ戸板が、なぜ砂村まで流れ着いて“戸板返し”ができるのかも意味不明なのだ。夜中とはいえ、神田上水へドボンと大きな音を立てて“ゴミ”を棄てたりしたら、見廻りの水道番にしょっぴかれるのがオチだし、うまく水道番屋の監視はすり抜けても、遺体の戸板は椿山Click!下の大洗堰Click!にひっかかって、それより下流へは流れていかないだろう。万が一、関口から上水開渠Click!を流れて水戸藩上屋敷Click!まで流入したりすれば大騒ぎとなり、即座に悪事が露見してしまう。そんな一か八かのリスクが高い“殺し”をやってしまう伊右衛門は、よほど楽観主義者のオバカか大ボケかましに見える。それに、うなぎ搔きの直助権兵衛がことさらユーモラスでドジに感じられてしまうのは、少し足を悪くしたあとの、先々代の勘三郎Click!が演じた役を観ているからかもしれない。
 もうひとつ、わたしの実家があった日本橋の薬研堀界隈(現・東日本橋)を舞台にした矢田弥八『露地の狐』という芝居があるが、わたしは一度も観たことがない。(子どものころ、親に連れられ観賞したかもしれないが記憶にない) もともと、14代目・守田勘弥が得意とした芝居のようだが、薬研堀にある蒲焼き屋「花川」という見世が登場する。まるで落語の『うなぎの幇間(たいこ)』そっくりの筋立てだが、14代目の死去とともに上演されることがなくなったのだろう。
 通りがかりの幕府御家人を、「花川」へ引っぱりこんで蒲焼きをおごらせようとするのだが、逆に食い逃げされてしまうという他愛ないストーリーだ。勘定を払えない幇間(野太鼓)の主人公が、「花川」の見張りを連れて大川端をウロウロするという奇妙な筋立てで、機会があれば観てみたいうなぎ芝居のひとつだ。
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 さて、うなぎといえば街角で気軽に食べられる“うな丼”か、芝居茶屋への冷めない出前から生まれた“うな重”なのだが、最近は高価すぎてなかなか気楽に蒲焼き屋の暖簾をくぐるというわけにはいかない。このデフレが収まらない世の中で、高度経済成長期のようなインフレーション状態にあるのが、タバコとオーディオClick!蒲焼きClick!なのだ。「天井ぬけの極高非道」とは、伊右衛門ではなくうなぎClick!のことだ。

◆写真上:高価でちょくちょくは食べられず、せめてペーパークラフトの蒲焼きで……。
◆写真中上は、「砂村隠亡堀の場」で15代目・市村羽左衛門の伊右衛門と2代目・市川左団次の直助権兵衛。は、1953年(昭和28)撮影の疝気稲荷社境内。は、周囲の風景が一変し隠亡堀の面影が皆無になった現在の疝気稲荷社。
◆写真中下は、うなぎ鉤にうなぎ魚籠を担ぎお岩さんの鼈甲櫛を見つけた直助権兵衛。下左は、1977年(昭和58)に出版された川口昇『うなぎ風物誌』(東京書房)。下右は、1960年代に水戸で売られていた「うなぎめし」弁当で180円が羨ましい。
◆写真下は、大正時代から営業をつづける上落合の蒲焼き「源氏」Click!は、親父の遺品のひとつで1948年(昭和23)に出版された『名せりふさわり集』(第一書店)。

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画塾「どんたくの会」の月謝は5円。 [気になる下落合]

曾宮一念アトリエ跡.JPG
 10月1日からSo-netブログのドメインが変わり、名称も「SSブログ」へ変更になるとか。昨年のSSL対応は理解できるが、今回のドメイン変更には呆れた。昨年のSSL対応で、外部からのリンクの修正を少しずつ4ヶ月かけて済ませたが、今度はドメインの修正を延々とつづけなければならないのか。しかも、今回のWebサーバはSSL対応ではないようだ。再びSSL対応などということになったら、わたしは何度、メンテ作業をやらされるハメになるのだろう。システム計画や運用管理戦略を、ちゃんと立ててるのか?
  
 鶴田吾郎Click!は、アトリエを持っていなかった1921年4月から1923年(大正12)9月までの間、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!で制作し帝展へ出品している。曾宮アトリエで描かれたタブローで、現在判明しているものが3点ほどある。
 1921年(大正10)に制作された、新築のアトリエから写生に出かけようとしている曾宮一念をとらえた『初秋』Click!。同年に描かれた、アトリエの中でぼんやりと立っている曾宮一念を描いた『余の見たる曾宮君』。同作は、翌1922年(大正11)の第4回帝展で入選している。そして、1922年(昭和11)に曾宮邸の隣りに住んでいた植木屋の娘を描いた『農家の子』Click!の3点だ。この3作とも、すでにこちらでご紹介している。
 鶴田吾郎は、仕事をするときは曾宮アトリエを訪ねていたようだが、ふだんすごしていたのは兄が紹介してくれた下落合645番地の借家Click!だった。1920年(大正9)には、新婚の“その”夫人との間に長男・徹一が生まれていたが、鶴田の家には若い画家たちや画学生たちが集まっては酒盛りをして騒いでいたようだ。当時の様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版より刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 山の画家で通った茨木猪之吉などは、四、五日も泊りがけで来ていて、最後にもう倦きたから帰るんだといって、どこかまた出掛けて行くことがあり、曾宮は毎日のようにやって来ては、彼一流の話をして一人で愉しんでいるようであった。朝来て、また夕方になって手拭をぶらさげて湯屋に行こうと誘うこともあった。/私達の生活は、勿論定収入というものはない。絵だって頼まれもしないし、余程困った時には電車賃だけつくって、滅多にしない絵を買って貰うことをしたり、少しばかりの原稿料が入ったりするくらいのことだった。
  
 ここに登場する「湯屋」は、鶴田吾郎宅から東南東へ100mほど、曾宮アトリエからも北へ150mのところにある、目白通り沿いで現在も営業中の「福ノ湯」のことだろう。すでに大正期の地図に採取されているので、下落合でも最古クラスの銭湯だ。
 今村繁三Click!から支援を受けていたとはいえ、ふたりの画家には定収入がないため曾宮一念が鶴田にもちかけ、絵を趣味にするアマチュア画家相手の画塾を開くことになった。資金は曾宮が10円を用意し、画塾設立のパンフレットや生徒たちがアトリエで使う履物、椅子、休憩で必要な土瓶と茶碗、モチーフとなる静物などを準備している。画塾の名前は、曾宮がオランダ語で日曜を意味する「どんたく」がいいと、日曜画家にひっかけて「どんたくの会」と決めた。
 このとき、「どんたくの会」の趣意書を考案したのは鶴田吾郎で、パンフレットを新聞社あてに郵送している。その全文を、『半世紀の素描』から引用してみよう。
鶴田吾郎「余の見たる曾宮君」1921.jpg 鶴田吾郎「農家の子」1922.jpg
鶴田吾郎邸跡.JPG
  
 自然の美しさを知ること、解ることが何人にとっても生きがいの有る事と思います。/この美しさを表すには画をかくのが最善の方法です。/こういう意味から画家として志す方でなくとも、特に日曜だけを自然研究に費して、深い、愉快な生活をしたいという人々の為めにこの会を開きます(御夫人も差支えありません)。/右のようなお心さえあれば、全く初歩からはじめます。/科目は、素描(鉛筆木炭)及び彩画(油絵水彩)とします。/講師は鶴田吾郎、曾宮一念の両氏がうけもちます。/会場は曾宮氏のアトリエを用いますが、郊外写生にも出かけます。/会費は一ヶ月五円とします。但要具、材料は会員の皆さんの自弁です。/第四日曜日は会員作品の批評をし合う茶話会にあてます。そして、時には別に講師を招いて美術に就いての種々の話をしてもらいます。研究時間は当分毎日曜正午より五時までと致します。/入会希望の方は左記事務所へ御申越し下さい。/用具その他委細御きき合せの方(三銭切手封入)には御答へします。
  
 どんたくの会は、月に4~5回の教室なので、生徒さえ集まればなんとか元はとれると考えたらしい。新聞の消息欄に、どんたくの会の趣意書が掲載されると、翌週には10人ほどの生徒が集まった。この時点で、曾宮一念が出した資金10円は回収できている。なお、曾宮一念が主宰した第2次どんたくの会では、会費が10円に値上がりしている。授業は、石膏デッサンを鶴田が受けもち、油彩の静物画は曾宮一念が担当した。
 鶴田吾郎は、「恐らく画室を解放して土、日などにアマチュアの絵の勉強を施すことになったのは、このどんたくの会が最初ではなかったろうか」と書いているが、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、もっと早くから画塾Click!を開いて絵を趣味にする近所の人たちや女学生を集めていたし、下落合679番地の笠原吉太郎Click!もまた、アトリエClick!でおもに女学生たちを相手に絵を教えていた。外山卯三郎Click!と結婚した一二三(ひふみ)夫人Click!も、笠原吉太郎が主宰していた画塾に通ってくる生徒のひとりだった。
鶴田吾郎「初秋」1921.jpg
鶴田吾郎「半世紀の素描」1982.jpg 曾宮一念「画家は廃業」1992.jpg
 1921年(大正10)から、2年弱ほどつづいたどんたくの会は、曾宮と鶴田のケンカで終わってしまったが、その仲たがいの内容についてはふたりとも黙して語らない。では、曾宮一念の側からどんたくの会について書かれた文章を、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された『画家は廃業』より引用してみよう。
  
 日曜の画学校だったどんたくの会は、初めの第一次は私と鶴田とで始めました。第一次の生徒は、住友海上火災保険の元社長の花崎さんたちです。今村繁三さんから後援費をいくらかもらっていましたが、絵が売れるわけじゃない。アトリエができたんだから、二人で日曜日だけの絵の塾をやろうということになり始めたのです。/腰かけだけは近所の道具屋から最も安いのを買ってきました。描くものは主に静物です。たまにモデルを頼むこともありました。今の油彩の教授なんていうのは、子供を教えるのに、一時間から二時間くらいで帰して、交代させるそうです。その自分の人は、朝九時ごろ来ると、日が暮れるまでいたものです。日曜に頑張って描いてました。それを鶴田と代わり番こに、描けない人はなんとかまとめてやりました。
  
 住友海上火災保険の関係者のほか、鶴田吾郎によればのちの美術評論家・今泉篤男Click!も、一高の制服を着たまま習いにきていた。当時の今泉篤男は画家をめざしていたようで、帝大の学生時代には1930年協会展に応募して入選している。
 パトロンの今村繁三Click!の名前が出ているけれど、このあと関東大震災Click!と昭和の大恐慌で今村銀行は経営が傾き、画家への援助どころではなくなってしまう。晩年の今村繁三が、曾宮アトリエから南へわずか260m、聖母坂の下にあたる下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)の小さな邸で暮らし、死去Click!することになるとは、曾宮一念も鶴田吾郎も当時は夢想だにしなかっただろう。
曾宮一念「麦秋(白潟)」1943.jpg
鶴田吾郎「池袋への道」1946.jpg
鶴田吾郎「早春の日光三山」1946.jpg
 曾宮一念と鶴田吾郎は、ときに連れ立って風景画のモチーフを探しに練馬方面まで遠征している。あるとき、曾宮は大根の収穫を終えた黒い畝を6号に描き、鶴田はカシの木に囲まれた農家をSM(サムホール)に描いたようで、曾宮の抜群の記憶力によれば「三月一日」とのことだ。どんたくの会をふたりで開催していた、1922年(大正11)か1923年(大正12)のいずれかの3月1日のことだろう。

◆写真上:曾宮一念のアトリエ跡から、諏訪谷のある南側を眺めた現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の第4回帝展に入選した鶴田吾郎『余の見たる曾宮君』()と、翌1922年(大正11)に制作された鶴田吾郎『農家の子』()。は、関東大震災で傾き住めなくなってしまった下落合645番地の鶴田吾郎邸跡。
◆写真中下は、1921年(大正10)に新築のアトリエから写生に出ようとする曾宮一念を描いた鶴田吾郎『初秋』。同年の4月、建設中のアトリエの参考にとカラーリングを見学に訪れた佐伯祐三Click!は、腰高の板壁を同じグリーン系に塗っている点に留意したい。は、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』()と、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された曾宮一念『画家は廃業』()。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された素描彩色の曾宮一念『麦秋(白潟)』。は、1946年(昭和21)制作の鶴田吾郎『池袋への道』と同『早春の日光三山』。

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東京郊外にあった「遊園地」の系譜。 [気になる下落合]

新井薬師公園1.JPG
 明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。
 その名称のとおり「庭園を回遊する地」のことで、特に乗り物や遊具、展示館などは存在しなかった。現代風にいえば、整備された森林公園ないしは緑地庭園といったところだろうか。施設や整備が豪華で、手入れがいきとどいた大規模な遊園地は有料のところもあったが、むしろ現在の公園と同様に無料で誰もが気軽に利用できた施設も少なくなかった。経営主体も、地域一帯に広い土地を所有する地主が敷地の一画を活用した例や、広大な華族屋敷の一部を開放したもの、将来の宅地開発を見こんだディベロッパーが集客目的で開園したもの、参詣者でにぎわう寺社境内の一部を庭園化したもの、地域の自治体が設置したものなど形態もさまざまだった。
 「遊園地」の元祖型は、早くも江戸期の後半(大江戸時代)から郊外各地で見られていた。オオシマザクラとエドヒガンザクラを掛けあわせソメイヨシノClick!を産みだした、江戸の植木職人たちが大勢集まって住み、幕末に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンによれば、ロンドン王立植物園を凌駕する「世界最大のフラワーセンター」だった染井地区(現・駒込地域)をはじめ、ウメやキク、ショウブ、ツツジなどを屋敷の庭園や畑地に隣接して植え、季節になると観光客に見せていた「花屋敷」Click!あるいは「〇〇(花の名前)屋敷」の系譜など、明治以降に「遊園地」へと直結していく素地は、すでに大江戸(おえど)Click!の郊外で早くから育まれていた。
 落合地域にも、そのような遊園地がいくつか存在していた。たとえば明治期の下落合でいうと、近衛篤麿邸Click!の敷地内にあった谷戸の湧水源を整備し、庭園のような風情に仕立てて開放した「落合遊園地」Click!が挙げられる。牛込区馬場下町41番地(現・新宿区馬場下町)に下宿していた若山牧水Click!が、散歩がてら下落合を訪れて『東京の郊外を想ふ』に記録している庭園だ。
 東京土地住宅Click!「近衛町」Click!につづき、1923年(大正12)に落合遊園地を含む一帯を「近衛新町」Click!として販売したが、そのほとんどの敷地を東邦電力Click!が買い占め、のちに「落合遊園地」改め「林泉園」Click!と名づけた谷戸の湧水源だ。中村彝Click!は、1916年(大正5)に「落合遊園地」の北側にアトリエを建設したが、死去する1年ほど前、1923年(大正12)ごろから名称が「林泉園」Click!に変わり、社宅の西洋館群Click!やテニスコートなどが造られるのを庭先から眺めながら、晩年をすごしていただろう。
 また、下落合の中部では、箱根土地Click!堤康次郎Click!落合府営住宅Click!の土地を東京府に寄付したあと、その南側に「不動園」Click!という遊園地を開発している。落合遊園地と同様に谷戸地形を活用した遊園地で、府営住宅の住民たちへ憩いの場を提供するような趣向だったが、もちろん不動園は郊外への「人寄せ」プロモーションの一環だったとみられ、ほどなく同園は解体され1922年(大正11)より目白文化村Click!の建設がスタートしている。不動園の様子や、それが壊される過程を第二府営住宅に住んでいた目白中学校の生徒Click!が観察して、学内誌に記録を残している。
 箱根土地は、不動園を解体して文化村住宅地に整地したあと、下落合1340番地の本社ビルClick!建設とともに、その南側に造園した庭を改めて「不動園」Click!と名づけ、文化村をはじめ周辺の住民に開放している。また、前谷戸の弁天社Click!がある北西側の湧水地も、昭和初期までは遊園地風の風情(弁天社裏の谷戸にはモモの樹林が植えられていたようだ)を残して、周辺の住民に開放していた。第一文化村の北側、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄Click!が、弁天池のほとりで遊び長女・彩子様Click!を抱っこしている写真Click!が残されている。
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 上落合の近くには、小滝台の上に四季折々の花々を咲かせる、明治期に造られた華洲園Click!(御花畑)があった。街道(現・早稲田通り)を越え、バッケ(崖地)Click!に通う急坂を上ると丘上が開け、広大な花畑が拡がっていた。この郊外遊園地もまた、大正期に入ると宅地造成が開始され、周辺でも名うての高級住宅街に変貌している。
 近隣住民たちや観光客に開放されていた、これらの郊外遊園地は昭和期に入るとその多くが住宅街となり、現在ではほとんど残されていないが、その雰囲気を感じとることができる「遊園地」(というか今日では「公園」や「庭園」と呼称される)は、明治期から大正期にかけて東京郊外だったエリアで、いまでもかろうじて見ることができる。落合地域の近くでは、大正初期に造られた新井薬師遊園(のち新井薬師公園)が、当時の遊園地にもっとも近い風情を残しているだろうか。
 新井薬師遊園は、妙正寺川へと下る新井薬師の北北西側に展開する丘の斜面と、麓全体を包括した敷地で、いまでは中野通りに南北を分断されているが、新井薬師境内の緑地も加えるとかなり広めな公園となる。明治期からつづいた遊園地の特徴として、広場があり一画には花々が植えられ、築山や斜面には武蔵野の雑木林が繁り、湧水源を含む谷間には池ないしは泉が形成されている……という“お約束”の風景と、同園はよく一致している。1914年(大正3)開園と、明治期からつづく遊園地ではないものの、本来は新井薬師の境内だった敷地を遊園地化して、参詣者や周辺の住民たちへ開放したものだ。
 現在の新井薬師公園は、1934年(昭和9)に改めて公園として整備されたあとの姿だが、江戸期には梅照院(新井薬師)の修行場でもあった経緯から、大正期の風情はより“自然公園”に近い趣きだったのではないかと想定できる。現在は、斜面には雑木林に囲まれた広場や児童館、児童遊園などが設置され、麓には妙正寺川へと注ぐ湧水源のひとつだったとみられる“ひょうたん池”(小規模化したとみられる)が残されているが、いずれも昭和期の公園化とともに本来の姿とはかなり異なっているのではないだろうか。
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 その旧・新井薬師遊園を取材していたら、気になる地形を見つけてしまった。当初は、郊外遊園地らしく斜面に盛り土をし、築山に見立てて木や花を植えたのだろうと考えていたが、家にもどって各時代の空中写真を検証すると、この築山がどうやら戦後すぐのころまで“鍵穴”のかたちをしているのに気がついた。特に、一帯が空襲を受けた戦後の焼け跡写真を観察すると、地面の色が異なり鍵穴のフォルムが浮きでて見えるようだ。全長は60m前後で、それほど大きな規模のフォルムではない。確かに地形的にも、谷間へ向けた見晴らしのいい斜面に位置しており、古代人が古墳を築造するにはもってこいの場所だ。念のため、周辺で発掘された古墳期の集落跡がないかどうか確認したが、地元の新井地域でも、また隣接する沼袋地域Click!でも古墳期の住居跡が発見されている。
 残念ながら、新井薬師公園の発掘記録は見あたらないが、水戸徳川家の上屋敷庭園だった後楽園古墳や上野公園の摺鉢山古墳Click!、三田の土岐美濃守の下屋敷庭園だった亀塚古墳Click!、新宿駅西口の松平摂津守下屋敷庭園にあった新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、大名庭園や公園を造園する際に築山としてそのまま墳丘が利用された前方後円墳の残滓ではないだろうか。また、丘上にあたる新井薬師の境内自体も、もともとはどのような敷地の形状をしていたのかに興味をひかれる。
 昭和期に入ると、東京郊外の小規模な遊園地は次々と姿を消すか、大規模な遊園地はアトラクションやゲーム、パビリオンを備えた新しい呼称としての“遊園地”に変貌していったけれど、新井薬師のケースは遊園地から公園へとスイッチしたために、大正期の風情をなんとか想像することができるめずらしい事例だ。また、戦後もしばらくたつと遊具のある一般的な公園とは別に、本来の意味での「遊園地」に近い風情の施設が、再び自然公園や緑地庭園として整備されるようになってきた。
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 下落合でいえば、規模は小さいが第二文化村の島峰徹Click!邸の跡地に造られた「延寿東流庭園」Click!や、下落合の南側に接した上戸塚地域にある「藤兵衛公園」などが該当するだろうか。明治期から大正期にかけての郊外遊園地に比べれば面積や規模がかなり小さいので、さすがに丘や斜面などは存在しないけれど、小流れがあって池があり樹木が繁茂している風情は、100年前を模した「ミニ遊園地」とでもいうべき存在といえるだろう。

◆写真上:新井薬師公園の斜面に見られる、現在は40mほどが残る“ふくらみ”部分。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された林泉園。(提供:堀尾慶治様Click!) は、1925年(大正14)制作の松下春雄『文化村入口』に描かれた箱根土地本社前の庭園「不動園」と、第一文化村の谷戸にあった弁天池で遊ぶ松下春雄。(提供:山本彩子様) は、大正初期に撮影された小滝台の華洲園(御花畑)。
◆写真中下は、公園として再整備された直後の1936年(昭和11)に撮影された新井薬師公園。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された新井薬師公園。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる鍵穴状のフォルム。
◆写真下は、丘麓にある新井薬師公園のひょうたん池。中野通りが貫通する、背景左手の斜面から丘上までが新井薬師公園になっている。は、下落合の目白文化村(第二文化村)にあった島峰邸跡に造られた延寿東流庭園。は、上戸塚(現・高田馬場3丁目)の中村邸跡に造られた日本式庭園の藤兵衛公園。
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