志賀直哉が画家になった下落合のアトリエ。 [気になる下落合]
1938年(昭和13)の春に、志賀直哉Click!は15年間もつづいた奈良生活を切りあげ東京へやってきている。東京を離れてから、松江、京都、鎌倉、赤城、我孫子、京都、奈良と転居していたので、約25年ぶりの東京だった。当初は戸山ヶ原Click!のすぐ近く、淀橋区諏訪町226番地(現・新宿区高田馬場1丁目)の借家に落ち着いている。
戦前は、戸塚第二小学校(当時は戸塚第二尋常小学校)から南の諏訪通りClick!へと抜ける道が、諏訪町226番地の区画へ丁字型にぶつかって貫通していなかった。いまでは、諏訪通りへとまっすぐ抜けられるが、諏訪町226番地は日本美容専門学校の本館がある一帯の区画だ。ちなみに、親父が日本橋から学校へ通うのが遠くてたいへんなので、1943年(昭和18)の17歳のころから戦後まで下宿していた、諏訪町224番地(山手大空襲Click!から奇跡的に焼け残った)の東隣りの区画が226番地だ。
志賀直哉は、周旋屋が紹介してくれた安普請の借家が気に入らず、もう一度探しなおすよう依頼しているが、代わりに紹介されたのが二二六事件Click!で処刑された北一輝Click!の旧宅だった。東京にやってきて早々、「226番地」に「226事件」と寝ざめの悪い数字の符合に悩まされたが、とりあえず諏訪町226番地の借家でガマンして暮らしている。そのかわり、近くに仕事場としてアパートを借りることにした。
当時は、改造社から刊行がつづいていた『志賀直哉全集』のゲラ校正がおもな仕事で、前年に長年の懸案だった『暗夜行路』をついに完結させてから、小説はまったく書かなくなっていた。そして、同全集の月報で「私は此全集完了を機会に一ト先づ文士を廃業」すると小説家を辞める宣言をした志賀が、近くに探していた仕事場とは洋画を制作するアトリエだった。志賀はアパートを紹介してくれた友人ともども、落合地域が明治末の古くから画家たちアトリエのメッカであったのを、あらかじめ知っていたのだろう、聖母坂の下落合2丁目722番地に竣工したばかりのモダンアパート、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」Click!の部屋を借りることにしている。
志賀直哉から、作品を書く気力が失われたのは、現代ではさまざまな説が提出されているが、やはり、社会全体に暗く立ちこめた日中戦争の影が大きく影響し、志賀から表現するモチベーションを奪っていったのだろう。ことあるごとに、「甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものである」「黙つてはゐられない、業が煮える」「馬鹿な戦争で頭のはちを割られて死んだんだ」……などなど、特高Click!に密告Click!されたら即座に検挙Click!されそうな言質を、周囲の家族や友人知人に会うたびに漏らしている。また、近衛文麿Click!のブレーンになっていた志賀直方のことを、「叔父は晩年ファッショになり」と書いているので、近衛政権Click!とその取り巻きをファシスト政権と位置づけていた様子がうかがえる。
下落合にアトリエをもって通いはじめる様子を、1942年(昭和17)に小山書店から出版された志賀直哉『早春』から、少し長いが引用してみよう。
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翌朝、私は寝床の中で、一日のうち何時間か全く他の何ものにも煩はされる心配のない一人居の時間を持つ事が出来れば、東京でも、少しは落ちつけるだらうと思つた。アパートメントの部屋を借りるのも一策だと、そんなことを考へた。友が訪ねて来たのでそのことを話すと、下落合にいいアパートがある筈だといひ、電話でその場所を訊いてくれた。私と友と家内と三人でそれを見に出かけた。十畳に八畳、それに湯殿、台所までついた、思ひの外の部屋が空いてゐた。温水の暖房装置もあり、新しく、小綺麗で、今ゐる家より遥かに居心地もよささうであつた。/此所を借りて、私の気持は幾らか落ちつきを取もどした。昼少し前に行つて、夕方帰つて来るのだが、続いた日もあるが、何かと故障があり、三日に一度、四日に一度といふ程度で、仕事らしい仕事は出来なかつた。然し兎に角、一人静かにゐられ、仕事を仕たい時、出来るといふ安心だけでも、気持に何となく余裕が出来た。
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「仕事は出来なかつた」と書いているが、これは物書きの仕事のことであって、彼はまったく別の仕事を下落合のアトリエではじめようとしていた。
志賀直哉は、五ノ坂下の洋館に住む林芙美子Click!の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」Click!通いとは正反対に、諏訪町226番地の家を出ると、350mほどで西武線の始点・高田馬場駅Click!まで歩き、そこから電車に乗ってひとつめの下落合駅へは4~5分で着いただろう。当時の電車はスピードも遅く、また運行ダイヤもいまほど密ではないので、実際にはかなりの時間がかかっていたと思われる。下落合駅からは、林芙美子と同様に2~3分でアパートのエントランスにたどり着けたはずだ。
もっとも、散歩がてらで歩いていくとすれば、諏訪町の家をでたあと早稲田通りへと抜け、当時は駅前広場が存在していない山手線・高田馬場駅Click!前から斜めに栄通りClick!へと入り、田島橋Click!をわたると薬王院Click!の参道筋へでる東西道を左折して聖母坂下へと抜け、下落合のアパートへ最短でたどり着くことができる。全行程は1,700mほどなので、20分もかからずアパートの階段を上ることができただろう。林芙美子Click!が五ノ坂下から、中ノ道(やがて雑司ヶ谷道Click!)を東へ歩いた場合と東西でまったく逆コースになるが、志賀直哉の徒歩コースのほうがやや遠いことになる。だが、もしふたりが散策がてら歩いて下落合の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」へ通ったとすれば、着物姿の林芙美子と洋装の志賀直哉とでは、同じぐらいの通い時間ではなかったろうか。
さて、志賀直哉の下落合アトリエでは、原稿用紙に向かいながら絵を描くという、「文士廃業」後の仕事がスタートしていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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十年前北京で買つて来た、唐俑の犬を原稿用紙に悪戯書きに写生した事が始まりで、翌日にはスケッチブック、消ゴム、鉛筆等を求めて、その写生を始め、案外に物の形がとれるところから絵を描く事に異常の興味を覚へるやうになつた。スケッチブック三冊程を描きつぶした後、友に頼んで油絵の道具を求めて貰ひ、今度は油絵を描き始めた。/絵が描けたら幸福であらうとは前からよく頭に往来した考へであつたが、同時にそれは自分に全然不可能な事として、嘗て実行を試みた事はなかつた。奈良十三年間の交友は殆ど画家達であつたが、いたづらにも絵筆を持つた事は一度もなかつた。それが近頃急に描いて見る気になり、異常の興味を覚えるといふのは自分でも想ひがけない事だつた。
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こうして、不愉快きわまりない時代に絶望し厭世観に満ちた志賀直哉は、生きる気力を回復させるために、下落合で小説家から画家に“転向”した。
下落合で描かれた画面は、本人も書いているように静物画がほとんどだったが、のちに旅先の『式根島風景』など風景画も手がけるようになった。志賀直哉は、代々木初台にあった田中平一アトリエへ通い、梅原龍三郎Click!や武者小路実篤Click!といっしょにモデルClick!を雇って、人体デッサンの勉強もしている。
梅原龍三郎は、志賀の画面を見て「丹念に腰を据ゑて書いた」と評し、のちに中川一政Click!は「厳粛なものですよ、描写はね」といったきり、誰も褒めてはくれない画面だった。ふたりにしてみれば、まったく基礎ができていないと思ったのかもしれない。また、盛んに「首狩り」Click!をしていたころの岸田劉生Click!が存命で絵を見たら「バッカ野郎!」Click!と、二度目のパンチが飛んできたかもしれない。
1994年(平成6)に岩波書店から出版された阿川弘之『志賀直哉』によれば、下落合のアトリエや旅先などで描かれた10作品の現存が確認できるとしている。「志賀直哉作の油絵は、十四年五月式根島へ旅した時出来た『式根島風景』、藍の花瓶にさした紅白のバラ、その他、黄水仙と木瓜の絵、庭のつつじの絵等々、約十点が現存する」と書かれているが、いまから30年前の情報であり、現在では新たに発見された作品も含めると、もう少し増えているのかもしれない。
志賀直哉が、イーゼルに固定されたキャンバスへ向かう姿は、なかなか想像しにくい。下落合のアパートでは、どの部屋をアトリエにしていたのだろうか。志賀が描写する室内の様子から、天井が2階まで吹き抜けで大きな窓のある画室仕様ではないように思う。志賀直哉は、1939年(昭和14)5月末に奈良の家を処分し、諏訪町の家から世田谷区新町2丁目370番地の住宅を購入して転居している。同時期に、下落合のアトリエも解約しているのだろう。志賀と入れ替わるように、同アパートの仕事部屋へ通ってきたのが林芙美子だった。
ところで、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」は戦前の第三文化村Click!にあった目白会館文化アパートClick!、あるいは戦後の目白坂にあった目白台アパートClick!と同じように、さまざまな人物たちが去来していそうで、今後とも気をつけてみたいテーマだ。
◆写真上:1941年(昭和16)に洪洋社から刊行の『書誌情報』に掲載された、竣工から3年経過の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」の様子(以下同)。
◆写真中上:上は、同アパートの出入口部。中上は、中庭から聖母坂のエントランスを眺める。中下・下は、同アパートの居室いろいろ。当初の洋間仕様が住民から敬遠されたのか、3年後のこの時期には室内に畳が敷かれている。
◆写真中下:上・中上は、板張りと畳の折衷室内。中下は、2階の廊下部。下は、入口から台所をのぞいたもので右手スリッパの置かれているのが玄関。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)に下落合のアトリエで制作されたらしい志賀直哉『静物(仮)』。中上は、制作年不詳の同『静物(器)』。中下は、1941年(昭和16)ごろ制作の同『花瓶(仮)』。下は、ほぼ同時期にアパートに通っていた志賀直哉(左)と林芙美子(右)。
上落合の林武は妻のマネジメントにぞっこん。 [気になる下落合]
以前、画家仲間だった小林和作の紹介で、1922年(大正11)から上落合に住んでいた林重義Click!と林武Click!のアトリエについてご紹介Click!している。上落合での生活は、林重義のほうが少しだけ早く上落合725番地のアトリエに、次いで林武が斜向かいの上落合716番地のアトリエに落ち着いている。そして、林武は1925年(大正14)ごろ目白通りをはさみ、落合第二府営住宅の北側にあたる長崎村4095番地へと転居している。
この間、林武は現存している画面Click!と同一かどうかは厳密に規定できないが、上落合側から下落合の目白崖線沿いに建つ東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔を描いたとみられる『落合風景』と、目白文化村Click!の第一文化村に建つ箱根土地本社(当時は中央生命保険倶楽部)Click!を描いた『文化村風景』Click!を、1926年(大正15)の第13回二科展に出品している。また、第9回二科展の『林の道』(1922年)や、第10回二科展の『道』(1923年)なども落合地域の風景を写した可能性がある。
これら風景作品と同時に、林武は人物画や静物画を描いているが、すべての人物画は自身の連れ合いを描いたものだ。1922年(大正11)から1926年(大正15)まで制作された、人物画タイトルを列挙すると『本を持てる女』『丸まげの女』『女の顔』『妻の像』『女の首』『婦人像』と、これらすべてが幹子夫人をモデルにしている。幹子夫人については、林武が絵を描かずに遊んでいると、とたんにツネられて叱られたエピソードは以前の記事Click!でご紹介しているが、これら婦人像はモチーフに迷った林武をツネりながら、ハッパをかけて描かせたものではないだろうか。
前の記事では、林重義が林武のアトリエへ遊びにいくと、応接してしゃべるのはおもに奥さんのほうで、林武は終始ニコニコしていたという逸話をご紹介していたが、きょうは手足がツネられてアザだらけだったかもしれない林武の、この魅力的でちょっと怖い奥さん=幹子夫人について取りあげてみたい。実は、美術資料をあれこれ参照していると、ことのほか幹子夫人のエピソードが多く残されていることに気づいたからだ。彼女は、林武の連れ合いであると同時に、美術の鑑識眼やフォアキャスティング(3~5年先を読む中計的な事業予測の現代経営学・現代経済学用語)の能力を備えた、当時としてはめずらしいスゴ腕で有能なマネージャーでありプレゼンテーターだったのだ。
画家を“陰”あるいは“縁の下”で支える内助の功的な妻の姿は、おしなべて多くの画家たちの伝記や記事などに美談として登場しているが、画家の前面に立ち“表”でマネジメントや制作プランまでを仕切るような妻の姿は、ほとんど他に例がないのではないか。それは単なる“出しゃばり”とか“嬶天下”とは異なり、ほんとうにその道の才能がある優秀な伴侶だったと思われるのだ。現代なら、さしづめ営業・販売部門のマネージャー(事業部長)か役員をまかせられそうな雰囲気さえ漂う。ただし、自分の思いどおりに仕事をしない部下の手足をツネッて、パワハラで訴えられるかもしれないのだが。w
渡辺幹子(のちの幹子夫人)との出逢いは、林武が早稲田大学の美術教授・紀淑雄が創立した、戸塚町荒井山474番地(現在の早大各務記念材料技術研究所の西側敷地)の日本美術学校に通っていたころだ。林武が彼女を見初め、熱い思慕から追いかけるような状況だったようだが、幹子夫人は母方の先祖がお玉が池Click!の端に道場を開設した北辰一刀流Click!の剣術家・千葉周作Click!であり、父方の先祖が江戸の漢学者の末裔だった。林武は麹町区番町が故郷なので、同じ江戸東京の出身者同士で気があったのだろう、ふたりはすぐに結婚している。1921年(大正10)の第8回二科展で、林武は『婦人像』(関東大震災Click!で焼失)が入選し、おまけに「樗牛賞」まで受賞しているが、もちろんモデルは幹子夫人だった。
ところが、当の林武は『婦人像』を二科展に出品した憶えなどなかった。同作が、当時の二科会では新しい表現に感じられ、審査員からも高評価を受けると予測した幹子夫人が、夫には無断でナイショにして勝手に出品したのだ。驚いたのは幹子夫人よりも、むしろ制作した林武のほうだったろう。当時の様子を、1959年(昭和34)に時の美術社から出版された、菊地芳一郎『現代美術家シリーズ/林武』から引用してみよう。
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当時の二科会での受賞は、とうていこんにちの展覧会氾濫を背景とする受賞選奨の安売りとは比べものにならなかった。画壇は官展と在野展との二大陣営に対立し、帝展の特選がただちに新作家としての前途を約束されたように、二科展での受賞もこれに匹敵する意義と権威をもつた。(中略) 武の受賞はこれ(中川紀元の諸作)につづくものであり、翌十一年(1922年)には「本を持てる婦人」(ママ:『本を持てる女』)・「静物」などを出品して、更に二科賞をかさねている。これについてもいろいろ伝説的な逸話がつたえられているようである。たとえば<勝気で武の芸術を信じきつていた夫人は、こんどは二科賞をとらなくちやだめよ、と武をはげまし、電柱に石を投げつけて、それがうまく命中したら二科賞だとか、下駄をけあげて、それが表にむいたら二科賞だとか、まるで子供のようなことをいつて武を元気づけた>などといわれるのも、みんな愛と希望にもえたつ若い芸術家夫妻の新生活を躍如としてほうふつとさせるものがあろう。(カッコ内引用者註)
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文中の『本を持てる女』も幹子夫人がモデルであり、そのとき林武自身が撮影したとみられる写真も残っている(冒頭写真)。著者は「勝気」だと書いているが、江戸東京の女子がマネジメント全般を仕切るのはごく普通で、伝統的に当たり前Click!のことだ。
幹子夫人は、単に「勝気で武の芸術を信じ」ていたというよりも、他の逸話からも強く感じるのだが、彼女自身がクールな独自の芸術観をもち、それを先どりしながら林武の耳に吹きこんだようにさえ思える。1922年(大正11)に二科展へ出品し、「二科賞」を受賞した『本を持てる女』や『静物』にも、彼女のアドバイスが少なからず入っているのではないか。電柱に石を命中させ、下駄を蹴りあげて“表”をだすのも(ずいぶん練習したと思われるが)、明らかに夫に自信をもたせ暗示にかけようとしている意図が感じられる。
だが、二科展での入選作や受賞作は売れるだろうが(ちなみに大震災で焼失した「樗牛賞」の『婦人像』は120円で売れていた)、それだけでは生活費のすべてをまかなうことは困難だった。そこで、画家達は画商や画廊と親しくなったり、ときに佐伯祐三Click!のような頒布会を運営してもらいながら、作品を広く販売することになる。けれども、幹子夫人はいずれの手法もとらず、夫の芸術がわかるのは自分だけだと考えていたものか、自身がマネージャー兼セールスレディとなって、ビジネス街の重役や美術好きをターゲットに、鋭意アプローチ&美術トークを繰り広げてゆく。
そして、しまいには林武の作品を進んで購入してくれた人物を中核とした、独自の営業ルートを構築しつつ販売ネットワークを拡大していき、林武のパトロン的な人脈まで形成していくほどの手腕だった。もはや画家の妻としてのスタンスではなく、林武の作品を独占して販売する、プロの画商のように思える展開だ。同書より、林武を横にすえながら、当時の様子を幹子夫人本人に少し長めだが語ってもらおう。
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樗牛賞、二科賞をもらつたからというので、誰も画を買いにきてくれるわけではないでしよう。(中略) そこでこうなつてはもう何もかも一切体あたりで行くほかないというので、わたしは林の作品をかかえて名刺一枚で丸の内の会社街へ画を売りに出かけたわけです。絵を売り歩くなんて辛いものですよ。わたしは幼いときから家は零落していたが、父系が学者だつたし、母はまたどちらかといえば、お金を軽蔑するような気風(きっぷ)の中で大きくなりました。そんなわたしが、お金のために絵を売り歩くのだから、いくら亭主の画を信頼していても、時には自信を失つてポロポロ涙をこぼしながら街を歩いたこともありますが、画が売れなかつたというので、空手で家へ帰つては林にすまないでしよう。作品は小品だから、十円札一枚つかまないうちにはどんなに夜中になつても家へは帰らない決心で歩きました。しかし、それでもあの当時よろこんで買つて下つた人が、いまも大きな心の支持者になつてくれております。(中略) いまはなくなられましたが久原鉱業の遠藤良三さん(中略)というお方は、たいへん厚意的で絵はよくわからぬが、奥さんの熱心なところを買いましょうというわけで、自分で買つたりいくたび人にも世話して下さつたりしました。
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彼女は、林武の作品の魅力を飛びこみ先の顧客へていねいにプレゼンし、その人物が林ファンになるころには次の顧客を紹介してもらう、あるいはその顧客が中心となってスター型の顧客ルートを開拓する……というような、非常に地道な販売ルートの構築をめざしていったようで、彼女が語る上記の言葉は、まるでトップセールスの営業レディが自身の経験談を、同職の後輩に語っているかのような雰囲気さえ感じる。
このあと、林武は1926年(大正15)に二科会会友となり、ほぼ同時に前田寛治Click!や里見勝蔵Click!らが結成した1930年協会Click!に参画している。1930年(昭和5)には、二科会を脱退して独立美術協会Click!の創立メンバーとなっているが、これらの行動もまた、美術界のトレンドに敏感で先読みのできる、幹子夫人のアドバイスによるのかもしれない。
◆写真上:1922年(大正11)ごろ撮影された、洋装の「本を持てる女」=幹子夫人。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)ごろ撮影の林武・幹子夫妻。中上は、寺斉橋Click!から眺めた林武アトリエ跡の上落合716番地(左手)で当時は中井駅がない。中下は、1922年(大正11)制作で「二科賞」を受賞の林武『本を持てる女(妻)』。下は、1927年(昭和2)制作の第2回1930年協会展に出品された同『女の顔(妻)』。
◆写真中下:上は、同じく1930年協会第2回展に出品された林武『女の顔(妻)』。中上は、1929年(昭和4)制作の1930年協会第4回展に出品された同『扇子を持てる女(妻)』。中下は、1929年(昭和4)制作の同展に出品された同『ブルーズの女(妻)』。下は、1934年(昭和9)に滞在先のヨーロッパで描かれた同『女の顔(妻)』。
◆写真下:上は、戦前の幹子夫人(左)と1955年(昭和30)ごろ撮影されたとみられる幹子夫人(右)。中は、1958年(昭和33)に制作された林武『妻の顔』。下は、頼りがいのある妻をまたまたモデルにして制作中とみられる、1955年(昭和30)ごろ撮影された林武。
下落合が端緒の資産家令嬢連続誘拐事件。 [気になる下落合]
敗戦後の連合軍が占領する混乱期、落合地域では米軍による政治的な鹿地亘拉致・誘拐事件Click!や、松川事件にからんだとみられる亀井よし子誘拐事件Click!など、キナ臭い誘拐事件や謀略事件が起きていたが、身代金が目的の“純粋”な営利誘拐事件の戦後第1号は、下落合2丁目761番地(現・下落合4丁目)に住む日本帝国工業の専務取締役・清水厚Click!の令嬢誘拐事件だ。同誘拐事件が、のちの「住友令嬢誘拐事件」へと直接つながるのだが、殺人をともなう凶悪犯罪とはやや性格が異なり、また少女たちが犯人をかばうような証言をしているため、「凶悪」とはやや異なる犯人像が印象づけられている。
犯人の樋口芳男は、10代で未成年だった戦時中の1944年(昭和18)にも、松平子爵の女子学習院初等科5年生だった雅子嬢を3日間連れ歩いて逮捕され、判決後に八王子少年刑務所に収監されている。ところが、米軍に予告されていた1945年(昭和20)8月2日の八王子大空襲Click!の直前、7月30日に刑務所から脱走し、敗戦直後に起きた上記の資産家令嬢を次々とねらった誘拐事件で逮捕されるまで逃走をつづけている。
警察が「資産家令嬢連続誘拐事件」と名づけた、その発端となる下落合の清水家の事件について、1974年(昭和49)に神奈川県警察本部から刊行された『神奈川県警察史/下巻』より、「資産家令嬢清水潔子誘拐事件」の資料より引用してみよう。
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樋口芳男が敢行した誘拐事件である。昭和二一年三月十四日午後三時一〇分ごろ、東京女子大(ママ:日本女子大)付属国民学校初等科六年清水潔子(一二歳)を学校の帰途待ち伏せし「私は警察の者だが、あなたはある誘拐団に狙われている。私はあなたのお父さんから頼まれてあなたを守っている」と誘拐し、茨城県那珂郡自連町古徳の実母のもとへ連れこみ、実母には甲府の戦災孤児だといつわり六月一〇日までいた。その後北海道に飛び雨籠郡深川村の養狐場の番人となり、潔子は女事務員として働かせた。しかしこの長い逃避行中、潔子は樋口を“優しい兄さん”として少しも疑わなかった、といわれる。(カッコ内引用者註)
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今日から見れば、警察を名乗った犯人の言葉を容易に信じてしまう、12歳の少女を不可解に感じるかもしれないが、世の中は敗戦直後の騒然とし殺伐とした混乱期であり、資産家の家をねらった強盗や殺人、泥棒事件はめずらしくなく、食糧難により毎日多くの餓死者がでるような状況だった。また、当時の警察官は今日のようにきちんと制服を着ている者は少なく、特に都市部ではその多くが復員兵のようなボロボロのカーキ色をした兵隊服、あるいはくたびれた国民服にゲートルを巻き「警視庁」の腕章姿が多かった。
また、ちまたには空襲で親を失った戦災孤児があふれ、樋口が茨城の村にある実家へ少女を連れ帰り、「戦災孤児を助けた」などといえば、なんら不自然さを感じずに受け入れられるような社会だった。樋口は実家に潔子嬢をあずけ、一度東京へともどり下落合の清水家に連絡をつけて、娘を預かっていると母親を脅し1,000円を払わせている。娘が行方不明になって3日め、清水家では初めてこれが誘拐事件だと知ったのだろう。
同年5月、逃亡先だった北海道の勤務先でも、両親を失った20歳そこそこの男と少女が、就職口を探している「兄妹」というふれこみであれば、詳しい経歴などをチェックすることなく、気の毒に思って雇用したのだろう。樋口がどこかで盗んだものか、「引揚証明書」を持っていたのも“強み”だった。野坂昭如Click!が書いた『火垂るの墓』Click!のような子どもたちが、食べ物を求め各地をさまよい歩いているような時代だった。
北海道でのふたりは牧場の管理事務や、「兄」の樋口は日雇人夫で、「妹」は子守りや掃除婦として働き、函館から札幌、旭川へ転々としている。仕事がなくカネがないとき、樋口は自分の食事は抜いて潔子嬢には必ず食べさせていたという。このころから、本来は被害者であるはずの彼女は、樋口に大きな信頼を寄せるようになった。今日的にいえば、典型的な「ストックホルム症候群」となるのだろうが、屋外などで寝ざるをえない場合は蚊に刺されないよう、ひと晩じゅう就寝中の彼女から蚊を追うなど、犯人の「自己犠牲」をともないながら事件は妙な展開になっていく。
同年8月、逃亡生活が北海道から石川県の金沢へ移ると、さすがに「お父さんから頼まれ」た「警察の者」というのがウソであることに気づき、潔子嬢は樋口へ何度も「ほんとうのことをいつて下さい」と迫っている。樋口はそれに負け、自分が八王子の少年刑務所から脱獄した囚人であること、身代金目的で彼女を誘拐したことをなぜか正直に告白している。ところが、彼女は「ほんとうのことをいつて下さつた」と逆に喜び、別に警察へ駈けこむこともなく、世話になった家の同年代の娘にブローチを買いにでかけている。また、兼六園公園では樋口と並んで記念写真にも収まっている。
8月中、ふたりは京都にでて久世郡の大阪逓信講習所淀分署に勤め、樋口は農業助手として勤務し、潔子嬢は女中として住みこみで働いた。彼女には逃げるチャンスはいくらでもあったろうが、このとき樋口の計画か潔子嬢の提案かは不明だが、下落合の清水家へ身代金要求の手紙をだしている。文面は潔子嬢の筆跡だったが、彼女が脅されて無理やり書かされたとは思えない。以下、神奈川県警の同資料から引用しよう。
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ここで樋口は潔子の実家に身代金一万五〇〇〇円を要求した文書を同女に書かせ、九月二日京都七条郵便局から速達で発送した。潔子の父母は一万五〇〇〇円を用意し、警視庁刑事一〇人に守られて京都に向ったが、ちょっとの油断から樋口に金をまきあげられたうえ逃走された。しかし潔子は無事父母のもとへもどった。樋口はこの長い潔子との生活中同級生の住友邦子の話をきき、第二の犯行を計画したのである。
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9月10日に東本願寺で、母親による身代金の受けわたしが行なわれたが、警視庁の刑事たちは犯人を刺激するのを危惧した母親にまかれて現場にはいなかった。境内に潔子嬢が現れたのでカネを置き、母娘は東本願寺から立ち去っている。樋口は、置かれた1万5,000円を手に入れるとどこかへ姿を消した。潔子嬢を無事に保護したものの、10人も刑事を張りこませながら大失態を演じた面目丸つぶれの警視庁は、彼女がもっていた兼六園での記念写真から、犯人が八王子少年刑務所を脱走した樋口芳男ではないかと見当をつけている。
そのころ樋口は、9月12日に藤沢市辻堂の白百合高女付属国民学校に通う、5年生の少女に声をかけたが怪しまれて失敗。つづけて、潔子嬢から聞きだした元・同級生の住友邦子(12歳)が下校するのを、9月17日に同校の近くで待ちぶせした。樋口に「警察の者だが重大事件が起き、いまあなたは悪い人にねらわれているので守ってあげる」と声をかけられた邦子嬢は、「はい、わかりました」といってすんなり同行している。
彼女があっさり信じてしまったのは、きたる9月23日の三菱財閥の解散を皮きりに、GHQによる財閥解体が進められようとしており、住友財閥の周辺も騒然としていて“重大事件”だらけだったからだ。彼女は大人たちの狼狽ぶりから、まもなくこれまでに経験したことのないような重大事が起こりそうなリアリティを強く感じていたのだろう。神奈川県警は、誘拐を目撃していた友人たちの証言をまとめ、犯人は「年齢が二十四、五歳/身長一・六メートルぐらい/面長で色黒、月形の眉/右目の下に大きな泣き黒子/口元に吹き出物があり、女のような優しい言葉を使う」という特徴をつかんでいる。
9月20日、邦子嬢が誘拐されてから4日めに、下落合の潔子嬢は両親に付き添われて警視庁へ出頭し、犯人の顔には「吹き出物」と「泣き黒子」があったと証言している。同日、警視庁と神奈川県警は樋口芳男を全国に指名手配した。こうして9月23日の朝、岐阜県警中津川署は雑貨商の家に宿泊していた樋口を逮捕し、いっしょだった邦子嬢を保護している。彼女は警察に、初めて映画を観たり果物を買って食べたり変装したりと、いままで経験したことのない1週間でおもしろかったという趣旨の証言を残している。
当時、世間は犯罪であふれており、刑事事件については逮捕から起訴、裁判期間の短縮が司法界の大きな課題だった。樋口が逮捕されてから1ヶ月後、早くも横浜地裁で一審判決が下されている。1963年(昭和38)出版の、『司法沿革誌』(法務省)から引用してみよう。
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十月三十一日 樋口芳男に対する営利誘拐、恐喝、逃走事件の第一審判決(横浜地方裁判所)/被告人は、営利誘拐罪により服役中、刑務所から逃走し、東京都淀橋区下落合帝国工業専務清水厚長女潔子(十三歳)を誘拐し、身代金一万五千円を喝取し、更に、横浜市戸塚区東俣野町住友吉左衛門長女邦子(十二歳)を誘拐して検挙されたもので、被告人に対し懲役十年が言い渡された。
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記者や関係者が詰めかけた傍聴席には、江戸川乱歩Click!の姿が目撃されている。
樋口は千葉刑務所に収監されたが、3日後に新憲法公布で恩赦となり、服役は9年3ヶ月に減刑されている。また、6年後の1952年(昭和27)には講和条約の恩赦で7年6ヶ月に減刑され、刑務所では模範囚だったものか刑期満了以前の1954年(昭和29)1月に仮釈放されている。服役中に学んだ自動車運転の技術を活かし、ドライバーになって家庭を作ることをめざしたようだが、1961年(昭和36)に窃盗の疑いで再び警視庁築地署に逮捕されている。
◆写真上:七曲坂Click!の上、下落合2丁目761番地にあった清水厚邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合の清水厚邸。中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸。下は、事件の翌年1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。
◆写真中下:上は、1946年(昭和21)9月23日の読売新聞に掲載された金沢市兼六園を散歩するふたりの記念写真。中は、令嬢誘拐事件を記録した神奈川県警の捜査資料。下は、1946年(昭和21)9月23日に岐阜県中津川で逮捕された樋口芳男。
◆写真下:上は、事件発生後に刑事たちが詰める横浜市の住友吉左衛門邸の玄関前。下は、1946年(昭和21)10月31日に横浜地裁で一審判決を受ける樋口芳男。
グリーンコート・スタヂオ・アパートメントを拝見。 [気になる下落合]
聖母坂の下落合2丁目722番地(のち721番地)に建っていた「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」は、以前にも少しご紹介Click!している。当時は「グリンコート」または「グリン・スタヂオ・アパート」と呼ばれ、最先端の設備を備えたモダンアパートClick!だった。二度の山手空襲Click!からも焼け残り、戦後は名称をちぢめて「グリン亭」あるいは「旅館グリン荘」と改名し、1970年(昭和45)ごろまで建っていた。わたしは1974年(昭和49)以降、同アパートの基礎部や地下階の廃墟を目にしている。
このアパートの1室を一時期、林芙美子Click!が借りて仕事部屋に使い、また小説家を廃業宣言した志賀直哉Click!が下落合のアトリエにしていたことをご教示いただいたのは、林芙美子記念館Click!「ざくろの会」の吉川友子様からだ。今回は、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」(以下ネームが長いので戦前に多い「グリンコート」で表記)の内部を拝見してみよう。ちなみに、1939年(昭和14)に仕事部屋を借りていた林芙美子は、「グリンコート」を「グリン・ハウス」と表現している。
広めの部屋をもつ「グリンコート」が竣工し、入居者の募集を開始したのは1938年(昭和13)の早春あたりからだとみられ、設計は鷲塚誠一で施工は坂本工務所だった。竣工当時の資料によれば、10~14坪の部屋が8室で、「アトリエに通ずる吹抜の大型部屋と独身アパートの三種類」と書かれている。本来の意味からすれば、「スタヂオ・アパートメント」はスタジオやアトリエに使える「ワンルーム」の概念だが、1室の広さが20~25畳大とかなり広く、竣工時の写真から間仕切りされた室もあったようなので、家族連れの利用や事務所、文字どおり写真スタジオなどにも使えそうな仕様だ。基本的には、地下1階・地上2階建てだが、聖母坂沿いに久七坂筋のかよう急斜面に建てられていたため、正面から見ると屋上にも陽当たりのよい部屋がある3階建てのように見える。いま風の表現でいえば、おカネ持ち向けの高級賃貸マンションといったところだろうか。
外装は、モルタル塗りで外壁は淡いグリーンの塗料を、腰壁はダークオリーブ色の塗料を吹きつけたカラーリングで、木製の部分はオリーブ色の、西陽よけの藤棚は白のペンキ塗りという外観だった。屋上は、雨水を逃がす片面が微妙に傾斜のついた平面で、防水機能のあるモルタル仕上げの施工となっている。
聖母坂に面したエントランスは、聖母坂による南北の緩傾斜と、東側の久七坂筋の西向き斜面による急傾斜があるため、玄関に向かって階段を上る設計になっており、壁面はモザイクのタイル張りで、入口の壁にはアパートメント内の案内図や告知票などを貼れる、ガラスカバーつきの掲示板が備えられている。以前にも触れたが、中庭にはスイレンの花が咲く「水蓮プール」と呼ばれた蓮池が設置されていた。
1938年(昭和13)に発行された「建築世界」4月号より、設計者の鷲塚誠一「グリンコート・スタヂオ・アパートメントの設計に就て」から、少し引用してみよう。
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敷地は東京の住宅地である下落合の高台で、六間道路表通と一間半裏通に取囲まれた可成不規則な高低と型ではあつたが集合住宅の設計には反へつて面白い設計が出来るものと想つた。又裏通より二階の各室に外部よりの出入口を設け従来の二割強の廊下階段のスペースを、レンタブル、(ママ:・)スペースに替用し得るし、此の種の営利的建物には適すると思つたが此の設計は条令云々で従来の廊下に変更を余儀無くされた。敷地は多辺型で一九二坪。建物は延坪二三二坪で、地階鉄筋コンクリート造り一九坪、壱階一一五坪、弐階一一五坪である。/東京市の人口密集率、交通、地代、等(ママ)の関係から従来のアパート及び長屋建築の間取りに、音楽家、画家向きの吹抜け、大窓アトリエタイプの部屋、出来得るだけ各室の待遇を均等にすべく苦心した。(カッコ内引用者註)
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この文章からもわかるように、鷲塚誠一は落合地域の特色を意識したものか、設計時から「グリンコート」の住民に音楽家や画家などを想定していたことがわかる。だからこそ、入居者募集の当初から画家(当時、志賀直哉は小説家を廃業していたので画家に分類する)がアトリエとして、作家が仕事部屋として、さらに音楽家でヴァイオリニストの鈴木共子がスタジオとして借りていたのだろう。
米国帰りの鷲塚誠一にしてみれば、欧米に見られるアパートのような仕様で設計したかったと思われるが、自治体の条例や消防法、いろいろな規制、建築主からの注文などで思いどおりには設計できなかったのを、同誌の「グリンコート・スタヂオ・アパートメントの設計に就て」で匂わせている。特に、聖母坂の規制(新たに規定された補助45号線Click!の拡幅工事計画予定)により、表通りに面したデザインや設計が想定とは異なったことにも触れている。室内の様子について、同誌の彼の文章からもう少し引用してみよう。
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室内面積小なる場合は造作書棚とか小食卓等を付加して平均収得を計つた。既存のアパートの各室が概して六畳間を標準として居る今日、地代と建築主の理解と相俟つて八畳間に向上させ、各室の面する庭園も豊富な芝、植込、水蓮プール等を設けた事は居住者にとつては福音である。/従来此種アパートに改良する余地があり乍ら習慣に捉はれ過ぎて改良し得なかつたものは便所であるが、本設計では和風便所の観念を捨てゝ(和風便器を用ひ乍ら)浴場、洗面場、便所の三つを一つのブロツクに収め、清潔、スペースの整理、使用上の便利等に於て実際上充分効果を上げ得たこと、――此の問題は此種建築に限らず住宅等にも適用されるべきものと思ふ。/アパート生活に関連する設備中重要な要素の一つとして戸締が云はれるが、独身アパートに於ける場合と異なり此種家族アパートに於ては一層戸締り方法も複雑になつて来る。その対案としてダツチドアーを使用したのであるが、扉そのものゝ性能と相俟つて所期の目的は達せられた様である。
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米国で暮らした鷲尾誠一としては、洋式便器を設置したかったのだろうが、和式便器にしたのはコストを勘案した建築主との妥協によるものだろうか。浴室やトイレの写真を見ると、座って用を足す洋式便器の設置を前提としたかのような設計になっている。ちなみに、当時の下落合の洋風建築には、かなりの割合で洋式便器が採用されていた。
さて、山手大空襲Click!の延焼をまぬがれ戦災をくぐり抜けた「グリンコート」だが、敗戦直後の様子は残念ながらわからない。敗戦とともに、アパートの名称だった「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS」をやめ、「GREEN HOUSE」に改名しているのかもしれず、その名称を林芙美子が戦後に記憶していた可能性もあるだろうか。
1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」を参照すると、すでに「グリン亭」という名称に変わっている。今日では料理屋のようなネームだが、このころからアパートを廃業しホテル業(旅館業)へ転換する計画がもち上がっていたのかもしれない。敗戦とともに、所有者が変わっている可能性もありそうだ。1963年(昭和38)の同図では、「旅館グリン荘」と記載されており、宿泊施設になっていたことがわかる。「旅館」という名称から、本来は洋風の板張りだった部屋の多くには、畳が敷かれていたものだろうか。
当時、聖母坂で旅館を運営するメリットとはなんだったのだろう。国際聖母病院Click!へ長期入院・加療が必要な患者の、家族用の宿泊施設として利用されたのだろうか。また、目の前に全農中央鶏卵センターClick!(現・JA全農たまご株式会社)や保谷硝子本社(現・HOYA株式会社)が建設されたため、仕事やビジネス用のホテル代わりに利用されたものだろうか。下落合駅前にあったホテル山楽Click!のように、東京への修学旅行生たちを泊めたとは、建物の仕様や規模からちょっと考えづらいのだが……。
1956年(昭和31)に、筑摩書房が撮影した「グリン亭」の写真が残っている。同社が出版した、『日本文学アルバム/林芙美子』に掲載されたもので、「昭和十四年一月に、家から近いグリン・ハウスに仕事場を持った」というキャプションが添えられている。「家から近い」とあるが、当時、林芙美子は下落合4丁目2133番地Click!の自称“お化け屋敷”Click!に住んでおり、自宅からは少し遠い仕事場だったことがわかる。志賀直哉のアトリエがあったため、それに惹かれて借りていたニュアンスも感じられる。
林芙美子は、五ノ坂下で中ノ道Click!(=下の道Click!/現・中井通り)を東へ450mほど歩き、中井駅から西武線の電車に乗ると2~3分ほどで次の下落合駅に着いた。現在は1分で到着するが、当時の電車はいまほどスピードのでる車両ではなかった。彼女は下落合駅で降りると、西ノ橋Click!をわたってカーブする道なりに、いまだ十三間通りClick!(新目白通り)が存在しない西坂Click!がかよう徳川義恕邸Click!の丘麓にでた。徳川邸の昭和期「静観園」Click!がある斜面を左に見ながら、およそ2~3分で「グリンコート」に着いただろう。もっとも、現在の運行ダイヤほど密ではない当時は、中井駅のホームで電車を待つよりも、そのまま中ノ道を歩いたほうが、1,200m(徒歩12~13分)ほどなので早く着けたかもしれない。
林芙美子が坂を上りはじめると、関東乗合自動車Click!が大きなエンジン音と排気ガスをまき散らし、泥だらけのタイヤをきしませながら、彼女を追い抜いて「国際聖母病院前」停留所、次いでターンテーブルのある坂上の終点「椎名町」停留所Click!へ向け上っていった。
◆写真上:1938年(昭和13)に撮影された、下落合2丁目722番地の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」。背後の突きでた屋根は810番地の鈴木邸。
◆写真中上:上は、同アパートの1階と2階の平面図。中上は、同アパートのエントランス階段部。中下は、薄緑色の外壁と窓。下は、通常より広めな廊下。
◆写真中下:上から下へ、同アパート中庭の水蓮プール、バルコニーと大窓、同じく陽当たりのよい仕様のアトリエ、間仕切りのある部屋、そして便所と浴室。なお、同アパートにあった志賀直哉のアトリエについては、改めて記事にする予定だ。
◆写真下:上は、戦後1947年(昭和22)の空中写真にみる「グリンコート」。中上は、「全住宅案内図帳」の1960年(昭和35)および1963年(昭和38)に記載された「グリン亭」と「旅館グリン荘」。中下は、1956年(昭和31)出版の『日本文学アルバム/林芙美子』(筑摩書房)に掲載された戦後の「グリン亭」。下は、聖母坂に面した同アパート跡の現状。
手塚緑敏『下落合風景』を再検証する。 [気になる下落合]
以前、キャンバスに重ね描きをしたとみられ、絵画の勉強をはじめて間もないころの習作と思われる、手塚緑敏Click!の『下落合風景』Click!をご紹介したことがあった。だが、落合地域の情景が、時代ごとにおおよそ見えるようになった現代の眼からは、同作は下落合の風景ではなく、「上落合風景」であることがわかる。下落合のエリアは、画面左手の一部にほんの少ししか見えていない。
手塚の『下落合風景』は、少し前にご紹介した椿貞雄Click!が描く『美中橋(美仲橋)』Click!の描画ポイントとは、およそ正反対の位置から上落合の風景を描いている。ただし、美仲橋は画面左手の枠外に外れている。そして、周辺に家々が増えていることから、1925年(大正14)に描かれた『美中橋(美仲橋)』のしばらくのち、上落合の耕地整理が進んだ昭和初期ごろの風景だということも想定できる。手塚緑敏は、1930年(昭和5)に上落合850番地Click!にあった尾崎翠Click!の旧宅2階へ、彼女の仲介で林芙美子Click!とともに転居してきているので、ちょうどそのころに描かれたものだろう。
では、描かれたモチーフをひとつひとつ検証してみよう。まず、射光からも想定できるように、右手が尾根筋に早稲田通りがとおる南側だ。手前に落葉樹が見える平家は、願正寺と境妙寺の境内つづきの斜面に建てられた、上高田316番地の住宅(住民名不詳)だ。この住宅は、二度の山手空襲Click!をくぐり抜け、戦後まで焼け残っていた。右手に見える、緑の屋根と高い煙突を備えた施設は、上落合897番地の落合火葬場(現・落合斎場)Click!だ。そして、火葬場の煙突から少し離れた、やや遠くに描かれた左側の煙突は、落合火葬場の北東並びにあった上落合895番地の銭湯「吾妻湯」(のち「帝国湯」)だ。
当時もいまも、落合火葬場(落合斎場)は東京博善社が運営しているが、同社を創立したのは木村荘八Click!の父親・木村荘平Click!であることはすでに記事にしている。江戸期からつづく落合火葬場Click!を、東京博善社が経営しはじめる明治期の様子を、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した『昔ばなし』(非売品)から引用してみよう。
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明治の末頃、この火葬場が独立企業となりそれを機会に、今までのような野天焼をやめてカマを造るようにした。こんな計画を知った私たちの祖父たちは、反対か!賛成か!と考えたが結局これを誘致すると言う(ママ)こととなった。その理由は、(1)今まであったし、今度は今までより施設が良くなる。(2)村に税金が入るから……であった。特に当時は、山手通りから以西は人家は無く、畑と山林であり、煙公害も感じなかったし、煙はみんな上高田の方へ飛んで行ってしまっていた、と云う(ママ)ことであった。/現在は株式会社の博善社と言う(ママ)会社であり、落合と町屋で火葬場を経営している。(カッコ内引用者註)
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画面に描かれた高い煙突だが、戦後、同施設がリニューアルされて落合斎場となり、煙突が廃止されてからすでに久しい。夏目漱石Click!や大杉栄Click!など、歴史教科書に登場するそうそうたる人たちが最期に“利用”した同施設だが、わたしもそのうちお世話になるのだろう。排煙は、みんな「上高田の方へ飛んで行っ」たというのはひどい話のように思えるが、上高田側の地域も人家などほとんどなかった明治時代の話だ。
手塚緑敏は、願正寺あるいは境妙寺へと向かう参道筋の上り坂、あるいはその斜面から東北東を向いて描いているのがわかる。手前の平家住宅の向こう側(東側)には、谷間を妙正寺川へと注ぐ小川(兼灌漑用水)が流れていたが、左手につづく空き地一帯が、のちに牧成社牧場Click!の放牧地あるいは牧草地となる草原だ。火葬場の煙突と、「吾妻湯」の向こう側に見えている木々は、上落合653番地界隈にあった森で、いまだ住宅が少なかった当時は、ここまで商店街(現・上落合銀座通り)は伸びてきていない。
また、中央に描かれた茶色い煙突状のものは、1929年(昭和4)現在で上落合銀座通り沿いの南側、上落合635番地にあった火の見櫓のように思えるが、画角からするともう少し右手、銭湯「吾妻湯」の煙突寄りでなければ位置的には合致しないことになる。ただし、同火の見櫓は1935年(昭和10)現在の地図では上落合銀座通りの北側、上落合833番地に移設されているようなので、手塚の『下落合風景』が描かれた1930年(昭和5)以降、すでに移設されたあとの風景をとらえているのかもしれない。
さて、火の見櫓とみられる突起左手のはるか向こうに見える煙突は、上落合の高台にあった上落合436番地の、残念ながら新型コロナ禍の最中の2021年に閉業してしまった銭湯「梅の湯」のものだ。手塚の描画ポイントから眺めると、いまでは目立たなくなってしまった上落合東部の丘陵地帯の様子がよくわかる。この丘陵左手の谷底を流れているのが妙正寺川だ。そして、その対岸に見えている、木々に覆われたひときわ高い丘陵地が、振り子坂Click!や六天坂Click!、見晴坂Click!などが通う下落合3丁目界隈(現・中落合1丁目)の翠ヶ丘Click!(山手通り=改正道路工事が計画されると樹木が伐採され、「赤土山」と呼ばれることが多くなる)ということになる。
下落合の丘の手前にポツンと1軒、オレンジ色の屋根とみられる大きな家屋が描かれている。ちょうど、中井駅Click!や落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)のかなり手前に位置するあたりだが、最勝寺の屋根には見えず、鋭角な屋根から西洋館のようだ。この位置に見えそうな大きな建物は、上落合810番地に早くから建てられていたアパート「幸静館」の屋根だろうか。換言すれば、このオレンジ色の屋根をもつ西洋館の右手には、2階建ての落合第二尋常小学校や最勝寺の屋根が遠望されてもよさそうなのだが、手塚緑敏は省略しているのかもしれない。あるいは、同西洋館の右手には、なにやら太い平筆の跡が2本横に入っているので、同作は描きかけのまま放置された未完の画面になるのだろうか。
手塚緑敏については、林芙美子Click!の連れ合いだったことが書かれるぐらいで、その画業についてはほとんど資料が存在していない。昭和初期の、落合地域に拡がる風景を描いた画家として、あえて拙サイトで取りあげているぐらいのものなのだが、その人物像については妻が怒鳴ろうが浮気をしようがなにもいわないClick!、「温好な性格」の人物というような印象談しか目にしてこなかった。もっとも、林芙美子と結婚してしばらくすると、どうしても絵が売れずに画家をやめてしまったせいもあるのだが、1940年(昭和15)前後に撮影されたとみられる、松本竣介アトリエClick!で歓談する写真も残されており、絵画への興味を完全に失ってしまったわけではなさそうだ。
もう少し、その人物像について書かれたものがないか探したのだが、林芙美子の死去した直後の1951年(昭和26)に創元社から出版された松村梢風『近代作家伝・下巻』が、彼についてやや詳しく触れているだろうか。同書より、少し引用してみよう。
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(林芙美子は)野村(吉哉)と漸く別れて当分独り暮しをしてゐたが、親友平林(たい子)が小堀(甚二)と結婚して幸福になつたのを見て、自分もかうしてはゐられないといふ気持になり、画学生であつた手塚緑敏と正式に結婚した。手塚は長野県下高井郡平岡村の人で、郷里も相当の家で毎月四十円位の送金を受けてゐた。手塚は至極温好で善良な人であつたので、彼女にとつて生涯よい夫となつた。初めは堀の内に借家をして新家庭を営んだ。其の家は四五間あつたので、彼女は其の一間を貸すことにした。(中略) 手塚と結婚してからも生活は苦しかつた。手塚も勿論絵は売れない。博覧会のペンキ画をかきに行つたこともある。(カッコ内引用者註)
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手塚緑敏は、いまだ妙正寺川の蛇行を修正する整流化工事で水没していない、上落合850番地の家から画道具を手に外へ出ると、南にかよう三の輪通りClick!をめざして歩いていった。通りの交差点で、借家を紹介してくれた左手(東側)にある上落合842番地の尾崎翠が住む2階家を一瞥したあと、交差点のすぐ右手(西側)にある上落合851番地の今西中通アトリエClick!へ立ち寄っているのかもしれない。
今西中通Click!もまた、1930年(昭和5)に渋谷道玄坂から同地へ転居して間もない時期だった。以来、近所同士の手塚と今西はしばしば訪ねあっては、画業について語りあったり将棋を指す間がらだった。今西中通は、1933年(昭和8)に林芙美子の『放浪記』が出版されると、出版記念祝いとして同家に『春景色』(25号)をプレゼントしている。また、手塚・林家からは今西の結婚祝いに鉄瓶が贈られている。
手塚緑敏が訪ねたアトリエに、今西中通はおめあての女性「フサ」がいる喫茶店に出かけて不在だったかもしれない。手塚は、南へ下って上落合銀座通りへ出ると、落合火葬場のある西の方角へしばらく歩いていった。ほどなく火葬場の前をすぎてまわりこみ、境妙寺や願正寺の山門へ抜けられる坂道を上ると、ちょうど「吾妻湯」と火葬場の煙突がややズレて見える斜面にイーゼルをすえてスケッチをはじめた……そんな情景が浮かぶ作品だ。
◆写真上:1930年(昭和5)すぎの制作とみられる、手塚緑敏『下落合風景(上落合風景)』。
◆写真中上:上は、同画面の拡大で火葬場と「吾妻湯」の煙突。中上は、同じく遠望する上落合の丘上で開業していた「梅の湯」の煙突。中下は、同じく下落合の丘とアパート「幸静館」とみられる大きな西洋館。下は、小川が流れる手前の谷間。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画位置とモチーフ群。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる画角。中下は、1930年(昭和5)ごろ撮影の手塚緑敏(左)と、1940年(昭和15)前後に松本竣介アトリエで撮影された同人(右)。下は、1930年(昭和5)ごろ上落合850番地の借家で撮影された手塚緑敏(右)と林芙美子。
◆写真下:上は、戦後まもなく撮影された上落合850番地。妙正寺川の整流化工事で“水没”し、川中に見える段差の上あたりが850番地の敷地だった。中は、上高田第2住宅が建っているので斜面には立てない描画ポイントの現状。下は、先ごろ閉業した「梅の湯」。