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昔日の乾漆像を復活させた山本豊市。 [気になる下落合]

山本豊市アトリエ跡.jpg
 つい最近知ったのだが、もの心つくころ湘南電車Click!(東海道線)に乗って横浜や東京へ出るとき、いつも目にしていた大船駅前の大船観音寺(曹洞宗)に建立されている大船白衣観音(びゃくいかんのん)を、戦後に改めて完成させたのは、下落合1丁目297番地にアトリエをかまえていた彫刻家・山本豊市なのだそうだ。
 大船観音が計画されたのは戦前だが、戦争で工事がすぐにいき詰まり、山本豊市が観音の面差しを含めてデザインし、1960年(昭和35)にようやく完成している。おそらく、完成からしばらくして親に連れられ同寺を訪れているのだろう、白亜の巨大な観音前の階段で撮影された、小学校低学年ぐらいの写真がわが家のアルバムに残るが、わたしはおぼろげな記憶しかない。むしろ、同観音の北東側にあった横浜ドリームランド(廃園)へと向かう、モノレールの駅(確かすぐに廃止)のほうが印象に残っている。
 大船観音は戦後、第二次世界大戦で犠牲になったアジア全土の死者、および広島と長崎の原爆犠牲者を弔うためのシンボルとなり、今日でも境内には色とりどりの折り鶴が絶えない。大船観音は、ことのほか女性らしい容貌をしているが、山本豊市はその面差しを制作するにあたり、奈良市にある法華寺の本尊・十一面観音立像を想起しながら創作したと書いている。わたしも何度か訪れている、法華寺の十一面観音は好きな仏像のひとつで、柔和な表情だが唇に残る朱色が妙になまめかしい印象を受ける。蓮の花や葉が飛翔する光背(こうはい)に、当初の彩色が薄っすらと残る同観音像は面白いので、確か中学の夏休みに美術の宿題で水彩に描いて提出したけれど、洋画がベースの美術教師から「なんだこれは?」と、一顧だにされなかった思い出がある。w
 大船観音について、1979年(昭和54)7月28日に発刊された日本経済新聞より、山本豊市のエッセイ「わが心の像」から引用してみよう。
  
 ところで私は、戦後間もなく、つくりかけのまま放置されていた鎌倉市にある大船の大観音を新たに作り上げたことがある。観音の頭上にいただく化仏の大きさが身のたけ1メートル50ほどもあろうかという大きな観音だった。30分の1ぐらいのミニチュアを作って拡大した。その制作の間じゅう、この十一面観音の顔が脳裏にシュッシュッと現れては消えた。
  
 化仏(けぶつ)だけで1.5mもあるケタちがいのサイズだが、鎌倉や奈良の大仏よりもはるかに大きく、半身の高さが25.39mもある大観音だった。
 東京出身の山本豊市が、新宿御苑近くのアトリエ周辺が戦災で焼け野原となり、下落合に転居してアトリエをかまえたのは敗戦直後のことだ。下落合1丁目297番地は、ちょうど北側に御留山Click!を背負う南斜面で、丘下の雑司ヶ谷道Click!(鎌倉支道)の南側にはいまだ工場や水田が拡がり、アトリエからは新宿駅東口の「中村屋の土蔵造りの屋根」が見えたと回想している。新宿御苑の近くにアトリエをかまえたのは、1929年(昭和4)に5年間のフランス留学から帰国してすぐのころだった。
 1899年(明治32)に東京で生まれた山本豊市は、戸張孤雁Click!に師事して彫刻を学んでいる。1924年(大正13)に念願のフランスへ留学すると、グラン・ショミエールに通いながら彫刻家ブルデルについて学んでいるが、「君の彫刻は彫刻ではない、絵だ」といわれてしまう。ここまでは、拙サイトではおなじみの清水多嘉示Click!とまったく同じ経路だが、清水多嘉示がブルデルのもとにとどまり学びつづけたのに対し、山本豊市は弟子はとらないといわれていたマイヨールに強く魅かれている。
 そこで、山本はマルリー・ル・ロワにあるマイヨールのアトリエを訪ねると、弟子はとらないが作品は見てやるということになり、近所に転居した山本は制作した作品を批評してもらいに、ほぼ毎日マイヨールのアトリエへ通うようになる。ときにマイヨールは、山本のアトリエにやってきて指導してくれることもあったようだ。こうして、ロダンから本格的にはじまる日本の近代西洋彫刻は、ブルデル(清水多嘉示)とマイヨール(山本豊市)の系譜がそろい、両者が帰国するとともに大きく開眼していくことになる。ちなみに、清水多嘉示Click!と山本豊市は1929年(昭和4)にふたり仲よく連れだって帰国しているので、師事する彫刻家は別でも留学中は親しく連絡をとりあっていたのだろう。
大船白衣観音像(大船観音寺).jpg
法華寺十一面観音立像.jpg
不空羂索観音立像(東大寺法華堂).jpg
阿修羅像(興福寺).jpg
 さて、山本豊市というと彫刻家として知られているが、奈良時代の乾漆技法を現代によみがえらせた人物としても有名だ。奈良期の乾漆像といえば、すぐにも東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索観音立像(ふくうけんじゃくかんのんりゅうぞう)や、興福寺の阿修羅像が思い浮かぶが、これら高名な乾漆像がどのような技法や制作過程で造られたのか、その技術が途絶えて詳細は不明だった。それに興味をおぼえた山本豊市は、試行錯誤を繰り返しながら現代版乾漆像の創作に成功している。
 乾漆像はブロンズ像とは異なり、特に人体を制作した際に表面(肌面)が金属質の光沢をもちすぎず、しっとりと潤いのある質感を表現できる。やや時間が経過した乾漆像は、地肌の透明感が増すのか人体をそのまま固めたような、リアルで生々しい味わいが生じるように見える。また、人体に限らず布やモノなどもテカテカ光りすぎず、落ち着いた雰囲気を醸しだせるメリットがある。だが、半永久的に保存できるブロンズ像とは異なり、乾漆像は長時間が経過するとヒビ割れや剥脱の劣化が進むので、漆表面の定期的なメンテナンスが必要となるデメリットも付随するだろう。
 山本豊市は帰国後、奈良や京都などをまわって仏像を研究するが、乾漆技法に惹かれた直接の原因は、昭和10年代には「非常時」の戦時体制となり、彫刻に必要な物資が不足したからだという。ブロンズなど金属はもちろん、石膏や粘土など彫刻には不可欠な材料が手に入りにくくなったためだ。戦時下では、金属不足でブロンズ像を鋳造できないため、石膏像に着色して出品する彫刻家も多かったようだ。だが、石膏像に色を塗るのがイヤだった山本豊市は、戦時でも不足せずふんだんにある漆に目をつけた。そして、ブロンズ像の代わりに乾漆像の制作を思い立つ。
 1936年(昭和11)の改組第1回帝展には、早くも乾漆彫刻として制作された『岩戸神楽』が出品されている。戦後の代表作としては、1955年(昭和30)制作の『裸女』をはじめ、1957年(昭和32)制作の『とぶ』、1963年(昭和38)制作の『仰』、さらに1968年(昭和43)制作の『立女』と、コンスタントに乾漆作品を発表している。そして、1970年(昭和45)ごろになると、展覧会では出品する乾漆彫刻の点数が増えていったようだ。
山本豊市「無題」乾漆.jpg
山本豊市「坐女」1949.jpg
山本豊市「坐女」乾漆.jpg
山本豊市「髪」乾漆部分.jpg
 当時の様子を、1972年(昭和47)に三彩社から出版された『画室訪問』に収録の、1970年(昭和45)に行われたインタビュー「山本豊市」から少しだけ引用してみよう。
  
 ――しかし、今、乾漆といえば唐招提寺の鑑真和上像とか、興福寺の阿修羅像などが、直ぐ思い出される乾漆の名作ですけれど、いちばん盛んだった奈良時代以降、この伝統は断絶していたんでしょう。研究のためにはどんな資料がありましたか。
 「何もないんですよ。乾漆の技術は中絶しましたけれど、漆そのものは伝っていましたし、乾漆の作り方も一応聞いていました。しかし漆のことはよくわからないのでまづ(ママ:まず)漆の勉強から始めたわけです。ある老人の塗師がいましてね。その人に来て貰って勉強しました。この老人ひどい聾でしてね。二人で話していると声が大きくなるので、まるで喧嘩してるみたいなんですよ。またこのおじいさんは親切な人でいろいろの資料を探して来てくれましてね。とても助かりました。」
  
 1970年代の初めごろから、山本豊市の展覧会ではブロンズや木彫り、大理石、テラコッタなどよりも乾漆彫刻の作品が増えていったようだ。
 山本豊市の手法は、やはり奈良期の仏像に多い塑像Click!でまず下地をつくり、その表面を漆でコーティングする技術で、一見すると金属のように感じるが手でなでると木彫りに近いような感触だったらしい。その感触を、実際に触ってみた柳亮は『彫刻の10人』(日動画廊/1959年)の中で、「木よりは緻密で表面張力に富み、金属のように光を撥ね返えす硬さはなく、中和な光沢と滑らかさのうちに、肉づけのもつ弾力や材質からくる作調の暖かみを有効に保有させる利点」をもっていると書いている。
 乾漆彫刻の質感は、たおやかな仏体を表現するのに適していたように、山本豊市にとってはやわらかな人体を表現するには最適な技法だったのだろう。ブロンズ像は、いくらやわらかな曲線で表現しても、金属の硬さや冷たさのほうが勝ってしまうが、乾漆像は指で押すとへこみそうな弾力性や、体温を感じさせる表現が可能なように見える。
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山本豊市1984.jpg
山本豊市@下落合.jpg
山本豊市「三人」新樹会展1961「協力の像」.jpg
 下落合の山本豊市は、新宿区に関連する作品も残している。新宿中央公園には、1457年(康正3)に江戸城Click!を築いた太田道灌Click!にちなむ山吹の里Click!伝説『久遠の像』が建っており、また東京メトロの新宿駅プロムナードには地下鉄建設にちなむレリーフ『協力の像』が設置されている。だが、『協力の像』は山本豊市が新樹会展に出品した『三人』(1961年)と同一の作品であり、当時の営団地下鉄が流用を依頼したものだろうか。

◆写真上:下落合1丁目297番地の、山本豊市アトリエ跡の現状(左手)。
◆写真中上は、大船駅を通過するたびに目につく大船観音寺の大船白衣観音像。中上は、大船観音の制作中に山本豊市が想い浮かべていた奈良・法華寺の十一面観音立像。中下は、乾漆像といわれて思い浮かぶ東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索観音立像。は、乾漆像の代表作で認知度が高い興福寺の阿修羅像。
◆写真中下は、制作年不詳の山本豊市『無題』(乾漆)。中上は、1949年(昭和24)制作の同『坐女』(乾漆)。中下は、そのバリエーションとみられる制作年不詳の同『坐女』(乾漆)。は、制作年不詳の同『髪』(部分/乾漆)。
◆写真下は、1960年(昭和35)に作成された「東京全住宅案内帳」にみる山本豊市アトリエ。中上は、1984年(昭和59)に撮影された空中写真にみる同アトリエ。中下は、下落合のアトリエで制作する山本豊市。は、1961年(昭和36)制作の山本豊市『三人』(ブロンズ)。なぜか、東京メトロ・新宿駅のプロムナードでは、レリーフ『協力の像』とタイトルされ設置されている。新宿駅の地下鉄工事および地下街建設で、営団+国鉄+新宿区の3者協力を記念したものだろうか。でも、なぜ3者のシンボルが全裸の女性なのかは不明だ。

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目白文化村に大江戸定飛脚の頭領家がいた。 [気になる下落合]

江戸定飛脚問屋和泉屋本店.jpg
 内国通運の常務取締役・吉村佐平が、下落合1639番地すなわち第二文化村Click!へ転居してきたのは、1924年(大正13)の春だった。吉村佐平は、同社の社長である吉村甚兵衛の弟で、社内の実務は兄をサポートする弟の吉村佐平が実質的に切り盛りしていた。吉村家は、江戸中期からつづく町飛脚の定飛脚(じょうびきゃく)問屋「和泉屋」の直系子孫であり、明治に入ってからも運輸業をそのまま継承した唯一の定飛脚の家系だ。
 定飛脚問屋は、江戸五街道はもちろん日本全国に拡がる街道筋の宿駅に飛脚人足や伝馬(荷をリレーする馬)を置き、運輸のルートを網の目のように張りめぐらして、各地の産品や商品などの荷物や、書状などを配送する役目を負っていた。江戸も後期になると、継飛脚(江戸幕府の御用飛脚)や大名飛脚(各藩の抱え飛脚)の業務も代行で引き受けるようになり、いわば今日の郵便事業とほとんど変わらない役目をはたしている。
 定飛脚(町飛脚)の5大問屋(五人組)は、五街道の起点である日本橋Click!に店舗をかまえていたが、吉村家の「和泉屋」も日本橋左内町で営業していた。ちなみに、当時の至急速達便の場合は日本橋から宿駅ごとに伝馬を乗り継ぎ、小荷物や書状の配達を最短78時間で大坂(大阪)まで走り抜けた。また、早便(飛脚)で日本橋から大坂まで7日前後、中便は同じ都市間で25日前後、並便は30日(1ヶ月)ほどで配送されている。
 この運輸ネットワークは、明治期に入ってからもそのまま事業を継続しているが、国営の郵便事業を起ちあげようとする明治政府と鋭く対立することになった。薩長政府への反感が渦巻いていた、江戸市内の定飛脚問屋が政府の命令へ素直に従うはずもなく、政府は郵便事業の責任者に旧・幕臣の前島密Click!を任命することになる。これは郵便事業に限らず、薩長政府が企画するさまざまな官営事業への反発や抵抗を少しでも抑制Click!するために、江戸市内に顔がきく(名の知られた)旧・幕閣や旧・幕臣たちを次々と登用せざるをえなくなり、当該の事業を委託・委任していく一例にすぎない。当時の江戸市民にしてみれば、この街の言葉を話さない新参者がどこからか街に入りこんで、やたらカサにきて威張り散らしているとしか映らず、ソッポを向いていたからだ。
 明治の近代史というと、政府内のおもに薩長要人の言動(いわゆる「英雄史観」)のみが取りあげられがちだが、実際に社会やそれを支えるインフラを整備し運用していたのは、多くの場合、大江戸からつづく仕組み(社会システム)や企業そのものであり、また旧幕の人材や江戸市民たちだったことは、今日ではより強調されていい史実だろう。
 明治政府の郵便事業は、前島密が五人組の定飛脚問屋各店をまわって繰り返し説得を重ねた結果、1874年(明治7)には郵便事業の下請け企業となる陸運元会社の設立に成功している。このとき、同社へは定飛脚問屋の関係者のほとんどが出資しているが、五人組問屋のうち4店が郵便時代の趨勢には商売にならないと営業を停止し、運輸事業から次々と撤退している。だが、当時は半官半民の経営基盤だった陸運元会社を足がかりに、新しい時代の民営による運輸事業を構想していたのが、同社の最大出資者であり定飛脚問屋・和泉屋の頭領だった9代目・吉村甚兵衛だった。したがって、大江戸の和泉屋が屋号を陸運元会社に変更した……というとらえ方もできるかもしれない。
 翌1875年(明治8)になると、吉村甚兵衛は陸運元会社を内国通運株式会社(資本金5万円)に改組し、官営ではなく本格的な民間の運輸事業へと乗りだしている。社屋も、日本橋区北新堀河岸へと移転した。だが、社長の9代目・吉村甚兵衛が急死し、跡を襲名するはずの10代目・吉村甚兵衛はまだ幼かったため、和泉屋時代からの佐々木荘助という人物が中継社長として就任している。佐々木社長は、全国の旅館と提携して宿泊客の荷物をとどける旅行運輸網、いわゆる「手ブラ旅行」のネットワークを構築し、内国通運の基盤を固めていった。
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 だが、ネットワークの急激な全国拡大で赤字が徐々に累積し、佐々木はその責任をとって無配当の株主たちに自刃して謝罪している。当時の経緯を、1912年(明治45)に中央評論社から出版された遠間平一郎『財界一百人』から、少し長いが引用してみよう。
  
 (会社を継いだ10代目)現社長甚兵衛氏、時に年僅かに十九、弟佐平氏と共に東京高等商業学校(現・一橋大学)に在りしが、佐々木の責を負ふて死するを聞くや、奮然起ちて、会社に入りて庶務を掌(つかさど)り、実弟佐平氏をして神田支店の受付たらしむ、吉村兄弟の会社に於ける夫れ斯くの如し、佐平氏が今や内国通運会社の常務取締役として、運輸界に卓越したる、豈朝夕(あにちょうせき)にして期し得たるものならんや(中略) 内国通運会社は事実上に於ける吉村一家の有する所のものにして、佐々木以下各社長は難局に際し会社経営の任に当ると同時に、吉村家の復興に力(つと)めたりき(中略) 佐平氏、幼少より会社に入り、茲に十数年社務に関与せるを以て、一として知らざるなく通ぜざるはなく、而も温良孝謙能(よ)く人を容れ、最も社交に長す、質、強健ならざるも読書を好み、文学美術音楽の趣味を有(も)ち、時に一中節に欝を遣り、就中(なかんづく)茶道を修めて和敬清寂の風韻を偲ぶ、超俗優雅、真に掬すべきものにあらずや。(カッコ内引用者註)
  
 この文章からもわかるように、内国通運社の実力者は社長の10代目・吉村甚兵衛ではなく、事業の中心は弟の常務取締役・吉村佐平だったことがうかがえる。事実、さまざまな資料では社長の甚兵衛よりも、弟のほうに多くの紹介スペースが割かれているので、吉村佐平のほうが運輸事業の仕事に向いていたのではないか。
 ただし、吉村佐平自身が社長に就くことはなく、あくまでもNo.2の位置で会社の事業を切り盛りしていた。ちなみに、佐平の「佐」は内国通運の発展期に尽力し、赤字転落で責任を感じ自刃した佐々木荘助を記念し、苗字1文字の「佐」をとって改名したものだ。
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 1928年(昭和3)に、内国通運から国際通運株式会社と社名を変更して業務を拡大すると、吉村佐平は専務取締役に就任しており、運輸の経営と実務に明るい彼の手腕は、運輸業界全体を牽引するまでになっていた。1934年(昭和9)に、当時の主要な企業人を取材した経世社出版部刊行の中島従宜『昭和財界の人物』では、同社の社長ではなく彼が取材を受けている。同書より、「国際通運専務取締役/吉村佐平君」から引用してみよう。
  
 兎に角、君(吉村佐平)の如き、実務に明るい手腕のある人材に依つて、経験と蘊蓄とを傾けて、之が経営に任じてゐる事は同社(国際通運)の社礎を一層に鞏固にするであらう事は、想察するに難くない。君は又、数個の運送会社に関係してをり、斯界の権威として相当大きな足蹟を残してゐる。今後に於ける君は、国際通運を主体として、大に我国交通界に、雄飛を試むるであらうと思はれるが、君の如き、殆んど幼少時代から、此の道の空気にもまれて人となり、何から何まで通暁する士を以て固めてゐることは、どれだけ国際通運が今後の発展に力強き歩調を辿るであらうかを予想されると共に、一段と強味なるべきを思はしめるものである。(カッコ内引用者註)
  
 「文学美術音楽の趣味」をもつ吉村佐平が、第二文化村(下落合1639番地)に住んでいたのは、それほど長い期間ではなかったとみられる。「文学美術音楽の趣味」からか、あるいはモダン好みで新しもの好きだったものか、文化村には1924年(大正13)から1927年(昭和2)ごろまで住んでいたと思われる。ひょっとすると、9代目・吉村甚兵衛(父親)が急死さえしなければ、芸術の道へ進みたかったのかもしれない。
 下落合1639番地の住所は、のちに小説家の池谷信三郎Click!が住んでいた番地と同じで、彼は1927年(昭和2)9月から住みはじめているから、ひょっとすると池谷信三郎は吉村佐平が建てた住宅を借りて住んでいたのかもしれない。
 箱根土地Click!が、1925年(大正14)に作成した「目白文化村分譲地地割図」でも、「内国通運常務取締役/吉村佐平」のネームを確認できる。だが、目白文化村は市街地からは遠く出社がたいへんと感じたものか、その後は麹町区富士見4丁目8番地へ、つづいて赤坂区伝馬町3丁目15番地と東京市の中心部に転居している。余談だが、吉村佐平が住んでいた戦前の自宅が、江戸期の定飛脚にちなんだ赤坂伝馬町というのがおもしろい。
 さて、日中戦争が起きると、政府は“戦時輸送”を想定して運輸会社の合同・合併を推進している。国際通運は、同社を中心に周辺の大小の運輸会社を合併し、より大きな運輸企業へと生まれ変わった。1937年(昭和12)に誕生した、大江戸定飛脚から直系の新会社は社名も変更し、国際通運から日本通運株式会社、短縮した呼称を日通(にっつう)に改めている。
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 「ゆうパック」に統合される前まで、日通の宅配便トラックに描かれたマスコットキャラクターは「ペリカン」だった。でも、大江戸の和泉屋からつづく史的経緯を踏まえれば、別の宅配便業者が採用している「飛脚」こそ、同社にふさわしいキャラクターだったろう。

◆写真上:幕末まで日本橋左内町にあった、大江戸定飛脚問屋「和泉屋」本店。
◆写真中上は、安藤広重Click!『東海道五十三次・平塚』(部分)に描かれた走る町飛脚。背後には高麗山Click!が描かれ、花水川に架かる東海道の花水橋Click!も描かれている。は、明治初期も変わらずに左門町で開業していた和泉屋。は、内国通運の社長だった10代目・吉村甚兵衛()と、実弟で常務取締役の吉村佐平()。
◆写真中下は、日本橋にあった内国通運本社屋。は、国際通運の本社が入居していた丸ノ内の郵船ビルヂング。は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」に記載された下落合1639番地の吉村佐平邸。
◆写真下は、1941年(昭和16)制作の日本通運の2色刷り媒体広告。は、いまや懐かしくなりつつある日本通運のペリカン便を記念した宅配便ミニカーセット(TAKARATOMY)。は、現在の日本通運が運行するNIPPON EXPRESS(NX)便の輸送トラック。

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佐伯祐三アトリエの「裏」の中村善策アトリエ。 [気になる下落合]

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 親父が風呂へ入ると、気持ちよさそうに呻っていた謡曲「隅田川」Click!や、唄っていた唱歌「鎌倉」Click!のほかに、北大寮歌の『都ぞ弥生』がある。なぜ、縁もゆかりもない北海道大学の寮歌を唄っていたのかは不明だが、わたしも聴きおぼえて「♪都ぞ弥生の雲紫に~花の香漂う宴遊の筵~」と、なんとか2番ぐらいまではいまでも唄える。そんな北大寮歌にしっくりくる風景画を描いた画家が、落合好きな中村善策Click!だ。
 北海道は小樽出身の中村善策が描く、明るい色調と独特な構図の風景作品を評して、洋画界では「善策張り」と呼ばれていたそうだ。「劉生張り」という言葉が示すように、当時の独自な個性やオリジナリティを象徴する表現は、よく「〇〇張り」と呼ばれた時代だった。同郷で知りあいだったとみられる小林多喜二Click!も、彼の画面には惹かれていたようで、友人あての手紙にこんなことを書き残している。1936年(昭和11)にナウカ社から出版された、『小林多喜二日記』収録の「斎藤次郎への手紙」から引用してみよう。
  
 一九二八年十月二十日
 最近こつちで画の展覧会を沢山見てゐる。中村善策の個展は、蓋し、然し何んと言はふと素晴らしいものだと思つた。最近の画は昔程の、君の所謂「色彩の交響楽」はなくなつたが、時代順に見てくると、そこから、抜けて来たのだ、といふ気がした。今日は大地社を見る。島田(正策)も本気にやつてゐる。安心してくれ。(カッコ内引用者註)
  
 中村善策は、1918年(大正7)に神戸YMCA外国語学校英語科に入学すると、そのまま神戸で就職するが、小樽洋画研究所が主催する展覧会へ作品を応募しつづけている。1922年(大正11)にはスペイン風邪に罹患し、一時は神戸で危篤状態に陥るが、足の関節に後遺症が残ったもののなんとか回復して故郷に帰った。このときから、小樽洋画研究所へ通い本格的に絵画の勉強をはじめている。
 1924年(大正13)3月、23歳で東京にやってきて滝野川で間借りし、翻訳の仕事をしながら川端画学校へ通っている。翌1925年(大正14)には、第12回二科展へ『風景』を出品して入選、1926年(大正15)の第13回二科展では『海の見える風景』『夏の港街』『窓外展望』の3点が入選しているので、画家としては順調なすべりだしといえるだろう。だが、1928年(昭和3)に舞子夫人との結婚を機に、再度小樽へともどっている。そして、1931年(昭和6)に新美術家協会への入会とともに、小樽から下落合へと転居してくる。
 このとき、下落合のどこに引っ越してきたのかアトリエの住所が不明で、鈴木良三の記憶も曖昧だ。そのときの様子を、1999年(平成11)に木耳社から出版された梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』では、次のように記述されている。
  
 昭和元(一九二六)年三十歳で落合も高田馬場近くに住み画家としての本格的な生活に入った。今の中井辺にあたる。このあたりは太平洋画会の永地秀太、一水会の新開(ママ:新海)覚雄、酒井亮吉、中出三也、甲斐仁代夫妻の諸氏も住んでいた。
  
 中村善策が、下落合へやってきたのは1931年(昭和6)のことで、鈴木良三の記憶には齟齬が見られる。1926年(大正15)なら、彼はまだ25歳だ。
 また、落合地域に住む方がこの文章を読んだら、頭が混乱してわけがかわらないのではないだろうか。「高田馬場近く」に住みながら「中井辺」(中井駅近く)と書いているが、下落合東端の山手線線路から中井駅までは、直線距離でたっぷり1.7kmもある。また、「中出三也、甲斐仁代夫妻」Click!が当時住んでいた上高田422番地は、山手線の線路から直線距離で2.8kmも離れている。「高田馬場近く」としながら、これでは落合地域の東西約3km以内のどこかにアトリエがあったことになり、さっぱり見当がつかないのだ。
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中村善策「クレパス画の描き方」1939表紙.jpg 中村善策「クレパス画の描き方」1939奥付.jpg
 さらに、鈴木良三は「一水会」としているが、これはのちに中村善策が属する美術団体(すなわち鈴木良三がこの文章を書いた時点での所属団体)で、当時は新美術家協会に所属していた。同会の仲間には、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上に住んでいた新海覚雄Click!がいるので、ひょっとすると金山平三アトリエClick!も近い下落合2080番地界隈に住んでいたのかもしれない。この間、彼は二科展や新美術家協会展などに出品しつづけ、1934年(昭和9)には北海道芸術家協会会員に、1936年(昭和11)には第23回二科展に『白い燈台』『独航船』を出品し、二科特待賞を受賞している。
 また、この時期に「日本美術年鑑」の記録によれば下落合から豊島区長崎南町3丁目4110番地へと転居している。この番地は下落合のすぐ北隣り、目白通りをはさんで下落合側にある小野田製油所Click!の斜向かい、落合第三府営住宅Click!の真向かいにあたる一画だ。目白通りをわたり南へ下れば、目白文化村Click!を縦断し中井駅のある目白崖線の坂下へと抜けることができた。同じ新美術家協会の仲間だった新海覚雄アトリエまでは、当時の道筋をたどれば徒歩7~8分でたどり着いただろう。
 翌1937年(昭和12)になると、二科会を脱退した安井曾太郎Click!有島生馬Click!が結成した一水会に参加し、第1回展には『けむり』『山と渓流』『ポプラの道』を出品して、会員に推薦されている。また、新美術家協会展にも出品しつづけ、写生旅行がつづく多忙な制作のかたわら、1939年(昭和14)に教育美術振興会から『クレパス画の描き方』を出版するなど、このころから美術教育に関する著作を多く手がけはじめている。
 さて、下落合へ再び転居してくるのはこの年だ。中村善策の画集や図録の年譜では、1943年(昭和18)に「下落合へ移る」としているものが多いが、『クレパス画の描き方』(1939年)の奥付を見ると、すでに下落合2丁目666番地となっている。したがって、長崎南町から下落合への転居は1938~1939年(昭和13~14)のころだと思われる。またしてもごく近所に転居しており、長崎南町の旧アトリエから下落合の新アトリエまでは、直線距離で640mほどしか離れていない。すなわち、中村善策の新アトリエは、下落合2丁目661番地の佐伯祐三アトリエClick!(当時は佐伯米子Click!アトリエ)に近接した区画だ。
 再び、前掲の『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』の証言から引用してみよう。
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 そして昭和十八(一九四三)年になって佐伯君の裏へ引っ越して来たのであった。善策さんは非常な名文家でもあり、『山下新太郎先生制作余談』や油絵の描き方や風景画の実技、油絵のスケッチ、風景画の四季淡彩スケッチの描き方、風景画の技法分解などを書き、和歌も、書も、日本画もなかなかうまくこなした。殊にいい喉をして江差追分を歌わせると実に名調子で、聴衆をホロリとさせるものがあった。
  
 鈴木良三は、下落合への再転居を1943年(昭和18)としているが、これは当時の画集や図録に掲載されていた年譜の誤記を踏襲したものだろう。
 さて、1938年(昭和13)現在、下落合2丁目666番地には10軒もの住宅が建っている。このうち、明らかに以前から住んでいた住民は、八島知邸Click!納三治邸Click!で変わっておらず、残りの8軒のうちのいずれかが中村善策アトリエということになる。この中で、納三治邸の庭先にある小さな1軒の貸家は除いてもよさそうだ。なぜなら、この貸家は吉田博・ふじをアトリエClick!の真向かいにあり、もしこの住宅が中村善策のアトリエだとすれば、鈴木良三は「佐伯君の裏」あるいは「佐伯君のアトリエと直ぐ背中合わせ」とは書かず、当時は鶴田吾郎Click!とともに訪問していた吉田アトリエの前と書いていたはずだからだ。
 そう考えると、佐伯祐三アトリエの正面玄関を「表」とすれば、その「裏」(北北西側)であり「背中合わせ」にある住宅とは、八島知邸の敷地北側に建っていた3軒の666番地の住宅のうちいずれか1軒、さらには北から南へと入る袋小路の突きあたり、すぐ西側に建っている住宅がもっとも佐伯アトリエに近く、“怪しい”ということになる。あるいは、「背中合わせ」を優先すれば、星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)に玄関が向いて建つ、いちばん西端の家が「(住宅の)裏」同士が向きあっていることになり、「背中合わせ」の中村善策アトリエということになるだろうか。
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、屋敷林に囲まれた佐伯アトリエは延焼をまぬがれたが、すぐ北北西側にあった中村善策アトリエは全焼している。二科展へ出品したすべての作品と、他のタブローあわせて200点以上が焼失しているが、中村夫妻は長野県へ疎開していて無事だった。戦後、中村善策は下落合でのアトリエ再建をあきらめたのか、上落合へ転居している。どうやら、中村善策も落合地域の風情に惹かれたひとりのようで、死去するまで同地域を離れていない。
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 戦後のアトリエは、上落合1丁目217番地(現・上落合1丁目8番地)の小さな住宅を購入している。だが、しばらくすると増築して本格的なアトリエやリビングと、2階部を拡張する大がかりなリフォームを実施している。このころには、スペイン風邪の後遺症である足の関節炎が悪化したためか、ステッキを手に写生旅行へでかけるようになっていた。

◆写真上:1951年(昭和26)に制作された、中村善策の生まれ故郷『小樽港』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)制作の中村善策『独航船』。中上は、1937年(昭和12)制作の同『けむり』。中下は、同年制作の同『椿の庭』。は、1939年(昭和14)出版の同『クレパス画の描き方』(教育美術振興会)中扉()と奥付()。奥付を見ると、すでに下落合2丁目666番地に転居済みだったことがわかる。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合2丁目666番地界隈。中上は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された同番地界隈。中下は、下落合2丁目666番地の中村善策アトリエがあった区画(右手)。下左は、1978年(昭和53)に撮影された制作中の中村善策。下右は、新美術家協会に集った若い画家たちを描いた竹田道太郎『画壇青春群像』(雪華社/1960年)。
◆写真下は、1940年(昭和15)に制作された中村善策『秋』。中上は、1953年(昭和28)に制作された同『日本橋附近』。2041年といわず、ぶざまな高速道路を取っぱらったまともな日本橋Click!のこのような姿を1日でも早く見たい。中下は、1964年(昭和39)に制作された同『石狩の野』。は、1968年(昭和43)に制作された同『張碓のカムイコタン』。
おまけ
 1957年(昭和32)の空中写真と1960年(昭和35)の「東京全住宅案内帳」にみる、上落合1丁目217番地の中村善策アトリエ。袋小路の奥に建てられているが、同アトリエはつい最近まで現存しており、中村彝アトリエClick!の現存を確認したとき以来の驚きだった。
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下落合の丘上を発掘調査した大里雄吉。 [気になる下落合]

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 落合地域にあった古墳のうち、昭和初期に月見岡八幡社Click!守谷源次郎Click!と考古学者の鳥居龍蔵Click!らが発掘調査チームを編成し、およそ37基の大小古墳を確認している様子を、以前、2ページにわたって記事Click!にしている。
 それ以前の大正期には、下落合の丘上を中心に大里雄吉Click!がいくつかの地点で発掘調査を行っていたことが判明した。彼の名前は、少し考古学や古代史をかじった方なら、全国各地の遺跡調査の資料類にその名前が登場するので、ご存じの方も多いのではないだろうか。大里雄吉は、当時の東京府を中心に関東地方をはじめ、全国規模でおもに「石器時代」=「史前学」の発掘調査を展開していた在野の考古学者だ。むしろ在野だったからこそ、アカデミックな学閥や学会にとらわれず自由な研究が可能だったのだろう。
 弥生時代以前の日本史を研究することを、当時はよくいえば「史前学」、悪くいえばウッホッホの原始人や蛮族が跋扈していた「皇民化」以前の時代であり、「皇国史観」Click!とは無縁な研究分野ということで、日本史のアカデミズムでは“冷や飯食らい”Click!の代表格だった。だからこそ、アカデミックな舞台では研究者が満足に育たず、在野の研究者や好事家に依存するしかなかったともいえる。
 いまでこそ日本の縄文時代の文化は、類例を見ない土器の芸術的な形状から世界的に注目されているし、先土器(プレセラミック)時代あるいは打製石器時代と規定されていた旧石器時代Click!の遺跡から、素焼きとみられる土器Click!磨製石器Click!が戦後次々と発見され、世界の常識や通説を180度ひっくり返す、まさにコペルニクス的な転換をした日本の旧石器時代遺跡も、海外の考古学会から特に注目を集めている。換言すれば、1945年(昭和20)の敗戦後になってようやく、自国の歴史に泥を塗りつづけた大日本帝国の「日本史」が止揚され、偏見や先入観のない科学的かつ実証主義的(感情的・宗教的・神話的ではなく論理的)な研究が可能になったということだ。
 大里雄吉のすごいところは、戦後に本格的な学術調査が行なわれる遺跡のほとんどについて、大正期から昭和初期にかけすでに発掘を行っており、戦後は彼の記録を参考にしながら本格的な調査・研究がなされた遺跡も少なくない。たとえば、戦後に大がかりな発掘調査が行なわれた静岡県の登呂遺跡は、大里が大正末からすでに遺物を発見しており、1927年(昭和2)には早くも土器の側面に付着した籾殻跡から、水田跡をともなう規模の大きな弥生遺跡を予告している。これはほんの一例にすぎないが、大正期から戦前にかけての彼の調査から、戦後に発掘された遺跡群については、発見の端緒として必ず多くの資料に大里雄吉の名前が登場している。実は、下落合の目白学園落合遺跡の発掘も、大正期の大里雄吉による調査報告に由来している可能性が高い。
 たとえば、1984年(昭和59)に発行された「東京考古」4月号収録の織笠昭『石器形態の復元』には、大里雄吉が発見した旧石器について次のように述べている。
  
 第二次世界大戦前から戦後にかけて採集され発表された資料のいくつかは、岩宿遺跡の発掘以降に先土器時代の所産としてあらためて注目されることになった。(中略) 大里雄吉氏と氏の採集した石器もまた学史のなかに記憶しておくべきだろう。(中略) ここにとりあげる石器も大里氏というひとりの個人的な努力によって半世紀の長きにわたり保管されていたものである。こうした努力については、大里氏の研究のいくつかをみても明らかである。大里氏は自身の見聞きした新発見の遺跡をまとめ地名表として発表している(略)。また雑誌に論文を投稿する他に『土器石器』という雑誌を主宰したりパンフレットを発行することによって、埋もれた資料・学史の掘り起こしに努力されている。
  
 大正期、大里雄吉は日本橋区蛎殻町3丁目12番地に住んでいたが、昭和期に入ると杉並区天沼1丁目55番地(のち天沼2丁目9番地)に転居しており、そこで武蔵野文化協会に参加して盛んに東京各地の遺跡を発掘調査している。その日常的な活動が、戦後になって東京郊外だった特に豊多摩郡や北豊島郡、荏原郡などの遺跡発見・発掘に直結した様子がうかがわれる。彼の興味は東京だけでなく、近県の関東地方全域におよび、さらには北海道や東北、中部、関西にまで足跡を残している。また、彼は考古学以外にも民俗学や文学(特に石川啄木Click!について)、中国文化史などにも造詣が深く、いくつかの研究書を発表している。
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 大里雄吉は、下落合の丘上ではどのような地点の発掘調査を行っているのだろうか。1928年(昭和3)に岡書院から出版された、東京帝国大学が編纂している『日本石器時代遺物発見地名表 追補第1/訂5版』より、落合町のみをリストアップしてみよう。ちなみに、戦前につかわれていた「石器時代」というネーミングは、旧石器時代や縄文時代、弥生時代を区別することなく、すべてゴッチャにした日本の「原始時代」という概念だ。
  ①落合町 下落合 近衛新町  土器
  ②落合町 下落合 薬王院附近  土器
  ③落合町 下落合 大上  土器
  ④落合町 下落合 大上 自性院ノ東ノ丘陵  土器
 この中で、の「近衛新町」については以前の記事でも触れているが、の「薬王院附近」とはどこのことだろう。時代は昭和最初期で、下落合横穴古墳群Click!は未発見(1966年発見)であり、同寺東側の一帯からは縄文・弥生期の土器片が頻繁に見つかるエリアだ。新宿区による埋蔵文化財包蔵地の試掘調査で、2005年9月には野鳥の森公園つづきの解体された住宅の跡地から、縄文・弥生期の土器片が発見されたし、つい先日、2024年9月にも同公園の南側に建っていた住宅跡地から土器片が採取されている。
 だが、「薬王院附近」が同寺の西側であれば、以前に「摺鉢山」Click!の小名とともに想定した下落合摺鉢山古墳(仮)Click!のエリアにかかるため、土器片ではなく埴輪片Click!だった可能性もありそうだ。このあたり、関東には大規模な古墳Click!は存在しない……などといわれていた当時の「常識」=皇国史観Click!を踏まえると、大里雄吉がどこまで土器片と埴輪片を区別していたかは不明だ。の「大上」は、おそらく目白学園Click!の丘一帯のことだろう。敗戦直後から現代まで、大規模な発掘がつづいている目白学園落合遺跡Click!に眠っていた、縄文・弥生・古墳期のいずれかの土器片だとみられる。
 の「自性院ノ東ノ丘陵」は、地理的にいえば葛ヶ谷(西落合)エリアで渋澤農園があったあたりだ。大正末になると、佐伯祐三Click!連作「下落合風景」Click!の1作「渋澤農園分譲地」Click!として宅地造成が進んだ一帯で、大里雄吉は樹林が伐り倒された赤土が露出する開発予定地で、記載の土器片を採取しているのかもしれない。
 また、自性院Click!は境内西側から古墳の羨道とみられる横穴が記録されており、同寺自体が古墳上に築かれた可能性がある。したがって、薬王院ケースと同様に「土器」とは書かれていても、埴輪片だった可能性もありそうだ。ちなみに、自性院の所在地はいまは西落合となっているが、大正期の当時は「下落合大上」エリアに含まれていた。大里雄吉は、残念ながら当時の葛ヶ谷Click!(西落合)地域へは、本格的な調査の足を伸ばしていないようだ。
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 さて、上掲の①~④の発掘地点を見ると大里雄吉の発掘調査ポイントと、鳥居龍蔵+守谷源次郎の調査チームのそれとがまったく重複していないことにお気づきだろうか。大里雄吉は、おもに下落合の丘上にある「石器時代」遺跡を調査し、鳥居龍蔵+守谷源次郎チームは上落合の全域と、目白崖線の急斜面を中心に古墳の調査を実施している。これは換言すれば、鳥居龍蔵+守谷源次郎の発掘調査チームは、下落合の丘上はすでに大里雄吉が大正期から調査をしていた(あるいは調査をつづけている)のを知悉しており、それ以外の場所を選んで調査を実施していた……とも解釈できるのだ。
 もちろん、1901年(明治34)生まれの大里雄吉は、30歳ほども年上の大先輩である鳥居龍蔵をよく知っていただろうし、事実、講演会をともにすることも多かった。1920年(大正9)7月24日に、鳥居龍蔵と大里雄吉が同席した東京帝大での講演会の様子を、武蔵野文化協会が刊行する「武蔵野」第3号から引用してみよう。
  
 安倍叔君は大学内の史蹟として旧前田邸を大学へ寄付せられしことより構内の石像並に古墳等の紹介をされた。次に上羽貞幸氏は西ヶ原の貝塚が煙滅せんとしつゝあることを警告せられ。盥田力蔵氏は越中島に於ける陶磁片の研究談あり。次に鳥居龍蔵氏は浅草待乳山の有史前の考察談ありて小憩し三島海雲氏より其研究になる清涼飲料にして且つ特効栄養剤たるカルピスの説明及び実物の御披露ありて一同其美味を賞した。次に井下清氏の浅草公園古墳盛土と待乳山の土質研究談、大里雄吉氏の岩淵町の遺跡談等あり尽る処を知らざるも門限のある関係上十時少し前閉会散会した。
  
 これは、武蔵野文化協会が東京帝大の会場を借りて開催した講演会の様子だが、三島海雲Click!カルピスClick!についての研究発表を行っているのが面白い。彼もまた、武蔵野文化協会の会員だった。鳥居龍蔵と、その発掘調査チームが発表した待乳山古墳Click!浅草寺境内の古墳群Click!のレポートも興味深いが、東京帝大のキャンパスにあった旧・加賀藩前田家上屋敷の古墳とは、同屋敷庭園の築山Click!のひとつにされていた「椿山古墳」のことだろう。同古墳は保存されず、現在は赤門脇の総合研究棟から医学部の南側一帯に墳丘群があった。
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 余談だが、下落合1500番地に建っていた落合第一府営住宅Click!18号に住み、外務省へ書画骨董などの海外輸出について、執拗に問い合わせを繰り返していた大里雄吉Click!という人物がいるが、同姓同名の別人だろうか。考古学者の大里雄吉は、日本橋区内と杉並区内での居住は確認できるが、落合町ないしは淀橋区下落合での居住記録は見あたらない。もし、下落合の大里雄吉が同一人物であれば、より詳細な目白崖線沿いの調査記録があってもよさそうなのだが……。また、もうひとつ余談をつづきのエピソードだが、鳥居龍蔵は1953年(昭和28)の1月に下落合の国際聖母病院Click!で、肺炎のため82歳で死去している。

◆写真上:1920年(大正9)の夏、京王線の柴崎駅前に集合した武蔵野文化協会の遺跡調査チーム一行。この日は、調布周辺の遺跡調査が目的だが、各時代ごとに興味のある調査チームに分かれて目的地の遺跡へ向かっているようだ。
◆写真中上は、落合斎場裏にあたる斜面の横穴古墳群を発掘中の鳥居龍蔵(右)と守谷源次郎(左端)の調査チーム。は、1924年(大正13)に日本学術普及会から刊行された「歴史地理」11月号の大里雄吉の「石器時代遺跡新発見地名表」。
◆写真中下:全国にわたる「石器時代」の遺跡を網羅する、1928年(昭和3)に東京帝国大学が編纂し岡書院から出版された『日本石器時代遺物発見地名表』。大里雄吉の発掘成果も同書に掲載されているが、その発見数と調査遺跡の多さに圧倒される。
◆写真下は、調布の光照寺で発見された板碑を調査中の武蔵野文化協会メンバー。は、深大寺付近で休憩する同協会メンバー。調査には、家族連れも参加していたようだ。は、2005年(平成17)9月に下落合4丁目の丘上を試掘調査する新宿区の考古学チーム。この調査では、縄文時代と弥生時代の遺物(土器片)が出土している。

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東京府住宅協会の落合府営住宅を拝見する。 [気になる下落合]

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 かなり以前から、おもに目白通り沿いに拓かれた落合府営住宅Click!について、拙サイトでは記事にしてきた。そこでは、1922年(大正11)から目白文化村Click!の開発を予定していた箱根土地Click!堤康次郎Click!が、1920年(大正9)2月に設立された東京府住宅協会Click!に買収した土地の一部を「寄付」している様子も記述している。
 だが、落合府営住宅の第一から第四の住宅地の、すべての土地を「寄付」しているわけではない。堤康次郎Click!が「寄付」したのは、第一文化村の北側に位置する一部の敷地だけで、同時に「提供」と書かれている敷地も存在している。「提供」は、タダで進呈する「寄付」とはちがい、地代は発生していたのだろう。事実、東京府が周辺の地主(箱根土地含む)から土地を借りていた様子が記録されている。
 中央社會事業協會社會事業研究所が、1922年(大正11)に刊行した紀要「社会事業」6月号には、東京府が運営する東京府府営住宅が落合府営住宅を建設するために、下落合の地主から20年間の契約で1坪あたり3銭の借地料を支払っている事例が報告されている。堤康次郎が「寄付」した土地はごく一部であり、残りは地主(箱根土地含む)との間で借地契約を取り交わしての落合府営住宅の建設だった。
 周辺の地主から借り入れた土地が、落合第一府営住宅から落合第四府営住宅までの敷地の、いずれに相当するのかは明確でないが、1920年(大正9)の東京府住宅協会設立とほぼ同時にスタートしている、住宅建設が早かった落合第一・第二府営住宅よりも、その西側あるいは南西側にあたる、やや遅れて住宅建設がはじまった落合第三・第四府営住宅のケースは、当初、ほとんどが地主からの借地だったのではないだろうか。
 これらの落合府営住宅は、住宅協会の甲種会員(85%)への分譲による“持ち家”制度が主流であり、賃貸契約による貸家を前提とする乙種会員(15%)は少なかった。そのほか、関東大震災Click!で住宅不足が深刻になると、1軒の家をシェアして利用する“間貸し”制度(丙種会員)が急増することになる。1922年(大正11)の時点で竣工していた府営住宅は、代々幡町笹塚に63戸、落合村下落合に151戸、淀橋町十二社に22戸、世田谷村に140戸だった。当時の様子を、1922年(大正11)に刊行された「社会事業」6月号から引用してみよう。
  
 下落合の分は三室乃至五室のものゝ外六室(延三十二坪余三十二畳位)及七室(延四十一坪三十八畳位)のものより二階建門構浴室物置もある。本協会の住宅は年賦月賦売渡(最長十五年賦)と普通の貸渡と間貸と三種ある、而して売渡又は貸渡を受けんとする者は協会の会員と為るのである。売渡を受ける者は甲種会員、普通貸渡を受ける者は乙種会員、貸間を使用する者は丙種会員と為る。而して此代金若は使用料は会費として払込むのである。故に住宅の大小及年賦月賦年数の長短に応じて異るのである。而して例へば前記落合分七室の家を十五年間の月賦買受とすれば毎月約六十円を十五年間納める、之を完納すれば家屋の所有権を得る、但敷地は協会が二十箇年の契約にて私人から借りて居るのである(下落合ノ分ハ目下一坪三銭デアル)。
  
 落合府営住宅は、多くが「六室」から「七室」の甲種会員向け分譲住宅だったので、東京府住宅協会へ月々60円を15年間(「七室」ケース)にわたり納めなければならなかった。また、土地が借地であれば、たとえば「六室」(約32坪)だと約1円/月の地代が発生することになる。現在の貨幣価値に換算すると、61円は約41,000円ほどで安いと感じてしまうが、当時は諸物価がいまと比べて格段に安く、大卒の初任給が50~60円だった時代だ。
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 落合府営住宅には、管理職クラスの官吏やサラリーマンが多く住み、ある程度暮らしに余裕のある給与所得がなければ、甲種会員になって分譲住宅を手に入れられなかった。拙ブログで、落合府営住宅の住民としてご紹介してきた人々には、官吏やサラリーマンはあまりいないが、いずれも所得が高めな仕事をしている人物が多い。
 たとえば、作家で牧師の沖野岩三郎Click!(落合第一府営住宅8号)をはじめ、洋画家の長野新一Click!(第三府営住宅24号)、歌人で国文学者の土屋文明Click!(第一府営住宅20号)、建築家で映像機器コーノトーンの開発者の河野伝Click!(第一府営住宅16号)、洋画家の江藤純平Click!(第三府営住宅24号)、貿易ビジネスで外務省びいきの大里雄吉Click!(第一府営住宅18号)などがいる。また、官吏としては陸軍参謀本部陸地測量部の製図科班長Click!だった若林鶴三郎(第三府営住宅16号)と佐藤武道(第四府営住宅20号)、変わったところでは目白中学校Click!の生徒で、不動園の第一文化村開発を日々観察していた松原公平Click!(第二府営住宅24号/親の職業は不明)などをご紹介している。
 甲種会員がほとんどだった落合府営住宅だが、「六室」住宅の平面図が残っている。建物は2階建てで、1階には玄関の間(2畳半)をはじめ、居間(8畳)、茶の間(6畳)、老人室(4畳半)、女中部屋(3畳)、物置(1畳半)、それにトイレが2ヶ所に3畳大の浴室を備えている。2階には、客間(8畳)と次の間(6畳)があり、子どもが生まれた場合はこれらの部屋を活用するのだろう。府営住宅の新しい試みは、1階建ての「三室」住宅から広い2階建ての「七室」住宅まで浴室が設けられており、銭湯にいく必要がなかったところだろうか。また、「六室」「七室」が多かった落合府営住宅には、必ず女中部屋が付属していた。
 これらの府営住宅(というか分譲住宅)は、公共機関(東京府)が会員を募集して持ち家を供給するという新しい試みで、のちに類似の事業があちこちで行われるようになる。その様子を、1997年(平成9)に書かれた大月敏雄の論文『集合住宅における経年的住環境運営に関する研究』(東京大学)から、少し引用してみよう。
  
 東京府住宅協会は、大正9年2月、東京府によって交付された5万円を基金とする財団法人で、政府低利融資として185万2千円を借り入れ、大正11年末に至る7ヵ所512戸の家屋を供給している。他の公益住宅供給が、基本的に建設後に入居者を募集するのに対し、東京府住宅協会の場合は、「会員制」を設けることによって、経営の合理化を図っていた。(中略) 東京府住宅協会では、「分譲住宅」の試みも行われ、賃貸住宅供給に比べてかなり人気が高かった。この成功が、後に内田祥三によって評価され彼の田園都市計画に用いられ、さらには震災後の同潤会による分譲住宅供給へ引き継がれていくのである。
  
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 さて、落合府営住宅を建設するためには、実際にどのような施策が現地で行なわれていたのだろうか。当時の落合村下落合は、いまだ東部の近衛町Click!も中部の目白文化村も、また西部のアビラ村(芸術村)Click!も存在せず、華族たちの別荘地Click!だった明治期の面影を強く残していただろう。したがって、大規模な宅地造成や住宅街を建設するにあたり、近くにある土木建設業の工務店に声をかけて協力を依頼するなどというわけにはいかなかった。周囲は農家の田畑がほとんどで、街が形成されていたのは清戸道Click!(現・目白通り)沿いの、江戸期からつづく椎名町Click!界隈のみだった。
 すべての工事は、市街地から専門家たちを呼び寄せ(出張させ)、落合府営住宅の建設予定地に常駐させる必要があった。そのために、東京府住宅協会では建設予定地に「落合府営住宅出張所」を建設し、常に工事関係者を集めて打ち合わせができるよう、また寝泊りができるようにしている。これにより、落合府営住宅の建設ばかりでなく、数年後に建設予定の目白文化村や近衛町の計画を知った建設業者は、続々と落合地域やその周辺域に集合することになった。府営住宅誘致の「寄付」や「提供」がまんまと成功したと、堤康次郎は陰でほくそ笑んでいたかもしれない。
 1905年(明治38)ごろ、赤坂区溜池に建設会社を起業した眞瀨佐助という人物は、のち一時期は宮内省内匠寮木工部に勤務していたが、落合府営住宅の計画を知ると同出張所に勤務し、府営住宅の建設が終わると同時に長崎町で建設請負会社を設立している。1930年(昭和5)に帝国興信所から刊行された、『土木建築請負信用録』より引用してみよう。
  
 眞瀨佐助 建築請負業/営業所 東京府北豊島郡長崎町二一一八番地
 (前略)小石川区指ヶ谷町一四六番地建築業越川吉五郎氏の徒弟となり熱心に三ケ年修業の後、明治三十八年七月独立して赤坂区溜池二番地に建築請負を開業したるも同四十三年廃業し宮内省内匠寮木工部に奉職、大正十年一月同省辞職、同年二月東京府建築課に奉職し落合府営住宅出張所詰となりて勤務、同十年五月辞職と同時に独立して現地に斯業を開始し長崎町役場、下谷区入谷町桜井病院を主なる得意先として大工六名を使用して年請負高三万三千円内外を算し技術の優秀を以て知らる。現に長崎町土木建築組合評議員、立憲民政党長崎町幹事である。
  
 眞瀨佐助と大工チームのおもな実績としては、落合府営住宅の建設・補修をはじめ葉山・箱根・沼津・日光・田母沢など各御用邸の修繕などが挙げられている。ちなみに、長崎町2118番地は武蔵野鉄道の線路も近い、安達牧場Click!の西隣りにあたる区画だ。
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 このように、1920年(大正9)からスタートする落合府営住宅の建設は、下落合における住宅街の開発の嚆矢となった事業であり、明治期に形成された華族の別荘地から、東京郊外の田園地域における「文化住宅」街へと脱皮する端緒となる事業でもあった。

◆写真上:1945年(昭和20)4月2日にF13Click!によって撮影された、第1次山手空襲Click!(4月13日夜半)直前の落合第一・第二府営住宅最後の姿。第一府営住宅の一部は、改正道路(山手通り)工事のため南側の一部がかなり削られている。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第一・第二府営住宅。は、落合第一・第二府営住宅跡の現状。
◆写真中下は、落合府営住宅で多かった2階建て「六室」住宅の平面図。は、「下落合事情明細図」にみる第三府営住宅とその現状。
◆写真下は、「下落合事情明細図」にみる第四府営住宅とその現状。は、1921年(大正10)撮影の代々幡町に建設された笹塚府営住宅で「四室」住宅が主流だった。
おまけ
 山手大空襲で第一・第二府営住宅は全滅したが、第三府営住宅はほとんど全域が無傷で、第四府営住宅も南東側の一部を除いてほとんどの住宅が戦災から焼け残った。
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