So-net無料ブログ作成
気になる下落合 ブログトップ
前の5件 | -

わたしの頭はクウルなのかもしれません。 [気になる下落合]

白蓮歓迎会19210211.jpg
 このサイトでは、おもに関東大震災Click!ののち下落合753番地Click!に転居してきたあとの、九条武子Click!の生活についてクローズアップClick!してきた。また、九条武子が書いたエッセイや私信Click!、インタビューなどの内容から、彼女の思想や信条Click!、活動、日常生活Click!趣味Click!などについても触れてきている。
 今回は、九条武子が下落合へやってくる以前、すなわち九条良致との結婚直後から、夫の12年間にもおよぶ「英国留学」ののち、表面上の“つくろい”や建て前上はともかく、別居を決意して夫と訣別するまで、どのような考え方や社会観、認識をしていたのかを垣間見てみたい。九条武子は、帰国してほぼ12年ぶりに再会した夫と、最初はやり直そうとしていたようだ。1921年(大正10)の早い時期に、中村富久野子のインタビューに答えて、「これからは一家の主婦となつて、直接に總ての交渉が迫つて来ました。でもまだ幼稚園を出たばかりのものですから、半年か一年も経たなければ、とてもうまくはまゐりますまい」と答えている。
 だが、すでに自身の生活には大きな疑問を抱きはじめており、「私は今まで、物質に係のない生活をして参りました」が、それはマズイことだと明確に意識している様子がうかがえる。中村富久野子は、それを「平民的な思想」と表現するが、単純な階級観のみによる自身の立場への疑義にとどまらず、夫である九条良致との修復しようのない思想的あるいは性格的な対立が、彼女を突き動かしているようにも感じとれる。
 1921年(昭和10)に発刊された「婦人世界」2月号から、中村富久野子によるインタビュー記事『十二年目に同棲の春に逢うた九条武子夫人と語る』から引用してみよう。九条武子は、マスコミの記者から直接取材を受けることは、下落合時代になってからはともかく当時はまれで、彼女の親しい友人や、友人から紹介された知人がインタビュアーになることが多い。中村富久野子も、そんな知り合いのひとりなのだろう。
  
 「(前略) 一体に私どもは、勿体ない生活をしてゐます。これに慣れて、呑気な気分に浸つてしまふのが常です。でも私のみは違反者となるつもりです。」貴族社会の安逸な生活に飽きたらない夫人の想ひは、その紅唇を迸つて鋭く出ました。/また何処までも平民的な夫人の性格が、その言葉には溢れてゐます。/「父からは、比較的厳格な教育を受けて来ましたが、兄たちは実に自由(フリー)に導いてくれました。その結果は、女とも男ともつかぬやうな性格の者ができてしまひました。」と夫人は微笑まれて、/「家の中の整理がつきましたら、今まで出来なかつた勉強を、これから始めます。たびたび外出もいたしますから、電車にも乗つてみて、早く東京の地に親しみたいと思つてゐます。」/爽やかなお言葉の中には、この貴人に思ひ設けなかつた強い音が、時時耳を打つ。私は驚いて顔を上げました。
  
九条武子1921.jpg
九条夫妻1909.jpg 九条夫妻1921.jpg
 ここでは、すでに夫をはじめ、その贅沢な暮らしや周囲の華族たちからも、「私のみ」を切り離して「違反者」になることを宣言しているように受けとれる。また、後世では常に「美人」と書かれる彼女の言動を見るかぎり、「女とも男ともつかぬやうな性格」ではなく、明らかに男っぽくて一度決めたらテコでも動かない頑固さと、挑戦的で雄々しい性格をしていた様子がうかがえる。
 インタビュアーはとまどいつつ、あくまでも彼女を華族の枠にあてはめ、あらかじめカテゴライズされた美辞麗句を駆使して、既存の「九条武子像」を崩さないように努めてはいるが、すでにその枠からはみ出しそうな勢いだ。関東大震災をきっかけに、「家の中の整理」をするだけでなく、夫との関係もさっさと「整理」して別居し、彼女は下落合へやってくることになる。
 わたしが同記事で面白いと感じるのは、インタビューする中村富久野子が華族の「夫人」あるいは「麗人」としての答えや反応を期待して、事前に準備してきたとみられる頭の中の想定問答が、次々と裏切られ壊されていく点だろうか。インタビュアーは、はからずもそれを「平民的」と表現しているが、「華族的」で理想的な麗人像を取材しようと思ったら、ぜんぜんちがう結果になってしまいそうなので、できるだけこの手の記事でつかわれる美辞麗句を文章中に散らしながら、なんとか予定調和の内容にもっていこう(記事が没にならないようにまとめよう)としているのが透けて見える。
 九条武子の過去の育ちや、「麗人」としてのエピソードあるいは趣味の話を大幅に増やし、せっかく対面できた取材であるにもかからわず、彼女との実際のやり取りは全体の4分の1にも満たない。著者は、華族界の「違反者」の話が深まるとマズイと思ったものか、趣味のテーマに話題を変えようとする。
 九条武子は、子どものころから活花に茶道、謡(うたい)、舞踊、ヴァイオリンと多趣味だったが、これらの趣味があったからこそ新婚後まもない時期から12年もの間、恋しい夫の不在にも押しつぶされずに耐えられたのでは?……という、どこか決まりきった答えが予測できる型どおりの質問に、九条武子は「私の頭はクウルなのかも」と、これまた取材者の期待を裏切り意表をつくような返事をしている。
竹柏会1921.jpg
華族会館麹町区内山下町.jpg
華族会館倶楽部.jpg
  
 「よく十年の長い間、お心もお体もお健やかにゐらせられたのが、私どもには不思議に思はれます」 心おきない質問に、夫人は微笑みながら、/「一つには趣味の生活もあつたからでせうが、有難いことには、お腹の中にゐる時から、自然に頭に浸みこんだ信仰の念は、何事につけても、諦めが早うございます。それと同時に、苦痛の伴はない努力があつて、いつもスラスラと心をのばして暮らしてゐます。ある新聞にヒステリイになつたと書かれましたが、三度の御飯もおいしく頂いて、人一倍お寝坊のできるヒステリイであつたら、私は何時までもこの病でゐたい、と女中たちと話しました。あるひは私の頭は、冷静(クウル)なのかもわかりませんよ」/夫人に理智の閃きはあれど、これを以て、その全部と見ることができませうか。
  
 想定とは異なる返事が、あまりに次々と返ってくるのにじれったくなったのか、著者は半分投げやりな感じでインタビューを終えたようだ。このあと、昔の短歌作品を再び引っぱりだし、穏便な予定調和で終われそうな文末の“まとめ”に入ろうとしている。
 おそらく取材者は帰りぎわ、辞令のつもりだったのか夫がようやく帰朝したあと、これから東京の「社交界」では「どのようなご活躍を?」とでも訊いたのだろう。この質問に対し、九条武子はおそらくインタビュアーを驚愕させた答えを返している。華族同士が集まり、ただ交際するだけの「社交界は意味がない」といったのだ。
  ▼
 「忙しい生活にもなつたことですから直接に公共のお役にたつ会ならば、働かして頂きませうが、意味のない社交界へは、失礼するつもりです。」
  
 このとき、彼女は大島の着物に藤色の半襟をのぞかせ、黒っぽい羽織を着ていたようだが、中村富久野子に一礼すると、当時の女性としては160mをゆうに超えるスラリとした長身のうしろ姿を見せながら、長い廊下の奥へと消えていった。
九条武子邸跡.JPG
九条武子下落合1.jpg
九条武子下落合2.jpg
 「無意味な社交界」へ出入りする夫を批判したばかりでなく、華族会館に集ってゲームや音楽、美食、酒など無為徒食にあけくれる華族全員の姿勢を暗に“刺した”ことになる。だが、九条武子の彼女らしい本格的な活動は、麹町区三番町の九条邸を出てから1923年(大正12)の関東大震災をはさみ、下落合へ転居してくるころから始動することになる。

◆写真上:1921年(大正10)2月11日、短歌会「竹柏会」出席のため東京へもどった柳原白蓮Click!の上野精養軒における歓迎会。右から左へ伊藤燁子Click!(柳原白蓮)、九条武子、藤田富子、跡見花渓、加賀文子で立っているのは佐々木信綱。
◆写真中上は、夫が12年ぶりに英国から帰国したころの九条武子。下左は、1909年(明治42)に結婚した当時の九条武子と九条良致。下右は、夫の帰国直後に撮影された九条夫妻だが、ふたりの関係を象徴するかのような写真。
◆写真中下は、「竹柏会」の記念写真で、右から左へ樺山常子、九条武子、大谷籌子、三条千代子、佐々木雪子(佐々木信綱夫人)。は、関東大震災前は麹町区内山下町にあった華族会館の入口(上)と館内にあった倶楽部(下)。
◆写真下は、下落合753番地の九条武子邸跡の敷地だが現在は2棟の住宅が建設されている。は、下落合の邸内における親友によるスナップ写真で、書斎で仕事をする九条武子(上)と近所の野良ネコを餌付けして縁側でくつろぐ彼女(下)。

読んだ!(17)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

いつから下落合が「日本文化村」なのだ? [気になる下落合]

オバケ坂上.JPG
 下落合(現・中落合/中井含むClick!)の西坂Click!を上りきった突き当たりに、介護付き有料老人ホームが建設中だ。高額な入居費用の同施設には、「グランダ目白落合」という名称がつけられている。「目白落合」という聞きなれない名称もおかしいが、そのチラシのキャッチとリードを見て、思わず身体がのけぞってしまった。
  
 優雅なひとときをご提案する、全41室の小規模ホームが誕生!
 かつて「日本文化村」と呼ばれた、趣ある閑静な住宅街で、心穏やかに、いつまでもご自分らしい暮らしを----。ベネッセの介護付有料老人ホーム/グランダ目白落合
  
 下落合は、いつから「日本文化村」などと呼ばれるようになったのか、「心穏やかに」自分らしく暮らせないので、のけぞってしまったのだ。
 下落合の中部にあった目白文化村Click!のことを、地元の人たちや画家・作家たちが地名どおりに「下落合文化村」Click!という別名(通称)で表現するのは聞いたことがあるし、当時は東京郊外にあたる落合地域の文化住宅地全体(近衛町Click!アビラ村Click!など含む)のことを、大正期から昭和初期にかけてのマスコミ表現をそのまま、大雑把で概念的かつ抽象的に「下落合文化村」と呼称されているのは承知しているけれど、「日本文化村」というのはまったくの初耳だ。
 なんだか、以前はよくTVで放映されていた、「きょうはセラミック包丁に、このセラミックナイフをお付けして、なんと9,980円! …♪マルマルのニーニーニーニー」の、テレホンショッピングが得意な通販会社名のようではないか。じゃあ、入居費用も特別サービスでおまけがついて安いのかというと、これがけっこうな金額なのだ。標準入居金が1,380万円、月額利用料が258,580円で、さらに介護保険の自己負担分がかかるから、頭金は別にして老後に毎月30万円以上の収入がなければお小遣いも捻出できないので、「日本文化村」はとても安売り通販のようなわけにはいかない。
 施設内のサービス内容はというと、「介護職員を24時間、看護職員を日中365日配置」とミッションクリティカルな介護サービスに加え、「四季折々の食材、器や盛り付けにもこだわるお食事」が提供され、「心身ともに健やかに。機能訓練指導員を配置」するという、なにもせずただ毎日をボーッと暮らせる(非常にうらやましい環境w)、いたれりつくせりのサービス内容だ。そして、入居者の「ライフスタイル」にあわせた暮らしができる例として、地下の音楽スタジオやティールーム、酒も飲めるラウンジ、カルチャー講座などの設置が予定されている。マタンゴでX星人のお姐さんClick!も入居してる、「やすらぎの郷」レベルの待遇なのだ。
 この会社は、次回の介護付き有料老人ホームとして「グランダ常盤台弐番館」の建設を予定しているとか。東京の「文化村」や近代建築がお好きな方なら、もうなんとなくお気づきだろう。この会社の建てる老人ホームは、大正期から昭和初期にかけて“郊外文化住宅地”と呼ばれた地域にマトを絞って、次々と同様の施設を建設しようとしているようなのだ。そのうち、「グランダ国立」とか「グランダ大泉学園」、「グランダ池田山」、「グランダ華洲園」、「グランダ田園調布」とかの介護付き有料老人ホームのチラシが、新聞の挟みこみやポストに配布されるのかもしれない。(もうすでに存在したりして?)
グランダ目白落合.jpg
グランダ目白落合(西坂).jpg
グランダ目白落合建設中.JPG
目白文化村1941.jpg
 もう1ヶ所、オバケ坂の樹々を伐採して緑の環境を打(ぶ)ち壊してくれた、タヌキの森Click!に建設中の「ソナーレ目白御留山」という同様の老人ホームもある。こちらは、まるで大型低層マンションのような仕様だが、そのキャッチとリードを引用してみよう。
  
 自然豊かな都心に誕生する、新しいホーム。
 「本当の長生き」とは何かを追求します。手厚い介護のできる環境と、ご入居者ご自身に合った生活を実現するライフケアプランで、ご自身らしい「本当の長生き」を私たちは追求しています。/介護付有料老人ホーム/ソナーレ目白御留山
  
 「自然豊かな」環境を打(ぶ)ち壊し(冒頭写真)にして、いったいなにをいっているのかと腹立たしいが、ホーム内の介護サービスメニューは西坂の「グランダ目白落合」とほぼ同様だ。御留山Click!から西へ250mも離れ、大倉山(権兵衛山)Click!のさらに西側のタヌキの森に建設しているのに、「ソナーレ目白御留山」というネームも恥ずかしく感じるほどだが、もっと離れているマンションに「御留山」とついている物件もあるので、おかしな建物名はこの施設に限らない。
 ただし、入居に必要なおカネは、西坂の「グランダ目白落合」どころではない。たとえば「前払いAプラン」の場合には、入居時に2,365万円超が必要で、月々の利用料は269,500円、「Bプラン」では入居時に1,771万円超かかり、月々の利用料が380,000円と、とんでもないメニューになっている。ちなみに、毎月均等の「Cプラン」は月々691,500円と途方もない金額だ。これ以外にも、敷金や介護保険などの必要経費がかかるので、たとえば「Bプラン」を選んだとすると、頭金は別にしても毎月50万円ほどの収入のある老後を送っている人でなければ、とても安心して入居できそうもない。
ソナーレ目白御留山.jpg
ソナーレ目白御留山(タヌキの森).jpg
ソナーレ目白御留山(オバケ坂).JPG
 ちょっと考えればわかりそうだけれど、下落合には国際聖母病院Click!と目白病院の2ヶ所の救急指定病院が存在し、それなりの規模で各科の医師や看護士がそろう、比較的めぐまれた地域だ。また、各種の専門医院も数多く開業している。その近くにマンションかアパートを買うか借りるかして、警備会社による日々の見守りサービス(映像+腕時計タイプのヘルスマネジメント用スマートデバイス)を契約したほうが、よほど安上がりに済むのではないだろうか。ちなみに、上記の料金体系は自分ひとりで入居する場合であって、夫婦で入居の場合はまた異なる条件になるのだろう。
 建設業者は、「ご近隣の皆様」と題するビラをタヌキの森の周辺地域に配布しているようで、「今後も当ホームの建設工事にて、いま暫くご迷惑ご不便をお掛けいたしますが、何卒ご理解ご協力賜りたく」と記載しているが、キャッチフレーズに「自然豊かな」と書いておきながら下落合の住民が100年来親しんできた、野鳥の森に隣接するオバケ坂(うちの坂Click!)の豊かな自然を打(ぶ)ち壊しておいて「ご理解ご協力」もないものだ。いっていることとやってることが正反対で、日本語が不自由なのか、はたまた用法を知らないのかまったくお話にならない。
 最近、東京でも緑が比較的豊かな地域へ、老人施設を建設するのがブームのようだ。それは、都内にある集合住宅が飽和状態になり、マンションやアパートを合計すると23区内だけで、実に47万室を超える空き室がカウントされている現状と無縁ではないのだろう。今度の台風19号と、つづく大雨災害でも明らかなように、予想される大震災などで電気(や水道)が途絶えると、高層マンションでは即座に災害難民が発生しかねない危機的な状況(基本的なリスク管理だと思うが)を、東日本大震災Click!のとき以来目の当たりにして、今後は高層マンションの上階で空き家が増加するという課題が加わるのかもしれない。だが、老人施設を都内へ企画する際に、かろうじて保存されている保護林も含めた緑地を破壊してまで建設するのは、なんとしても止めたい大きな社会課題のひとつだろう。
常盤台1935頃.jpg
国立(昭和初期).jpg
田園調布(昭和初期).jpg
 さて、下落合はそのうち「日本文化村」どころか、「東京文化村」(なんだか演劇が上演されそうな)とか、「日本文化センター村」とかw、「西武文化村」とかわけのわからない、意味不明な名称で呼ばれるようにならないともかぎらない。下落合で史的に存在したのは「目白文化村」、強いて当時の地元で呼ばれていた通称(別称)にしたがえば「下落合文化村」であって、「日本文化村」などかつてこの世には存在していない。

◆写真上:ケヤキなど大樹が繁る雑木林が、丸裸にされたオバケ坂上部の惨状。
◆写真中上は、西坂上に建設中の「グランダ目白落合」のチラシ。「日本文化村」というのは、いったいどこにあったのだろう? は、西坂の上に建設中の様子。(空中写真はGoogle Earthより) は、1941年(昭和16)に斜めフカン撮影の第一・第二文化村。
◆写真中下は、オバケ坂上のタヌキの森に建設中の「ソナーレ目白御留山」チラシ。は、建設中の様子。は、東側の緑地が破壊されたオバケ坂上部。
◆写真下:大正末から昭和初期に開発された東京郊外の文化住宅地で、1935年(昭和10)ごろの常盤台()、1940年(昭和15)ごろの国立()、同じく田園調布()。

読んだ!(18)  コメント(27) 
共通テーマ:地域

やはり存在した目白文化村絵はがきシリーズ。 [気になる下落合]

目白文化村絵はがき1.jpg
 わたしの手もとには、初期の第一文化村のほぼ全景を撮影した、もっとも知られている目白文化村Click!絵はがきClick!が2枚と、第一文化村の神谷邸と北東側に隣接する敷地に建てられた箱根土地のモデルハウスとみられる西洋館が写る絵はがきClick!が1枚の、計3枚がある。いずれも人着がほどこされたカラー絵はがきで、発送された時期や宛先の住所などから、箱根土地がどのようなマーケティングをベースにDMを展開していたかを類推した記事Click!も書いていた。
 また、目白文化村の風景を写した写真が2種あることから、さらにDM用に印刷された同様の絵はがきがシリーズで存在するのではないか?……という記事も書いている。その推測は、やはり当たっていたのだ。人着による鮮やかなカラー絵はがきではないが、モノクロの絵はがきが複数制作されていた。しかも、モノクロ絵はがきのうちの2枚は、第一文化村に建つ邸の室内を写したもので、応接間とキッチンが撮影されている。そのうちの1枚が、永井外吉邸の応接間をとらえた冒頭の写真だ。
 わたしはうかつにも、この3種の絵はがきが収録された本を、14年ほど前に入手して読んでいたにもかかわらず、うっかり見落としていた。その書籍とは、2002年(平成14)に河出書房新社から出版された内田青蔵『消えたモダン東京』だ。当時、目白文化村を調べはじめたばかりで、次々と関連する書籍や資料に目を通していたため、気づかずに読み飛ばしていたらしい。なんとも情けないことに、先日、蔵書の整理をしていたときにパラパラめくっていて気づいたしだいだ。
 永井博・永井外吉邸は、1923年(大正12)に埋め立てClick!が完了した第一文化村の前谷戸の北寄りに建っていた邸宅だ。永井外吉は堤康次郎Click!の妹と結婚し、1920年(大正9)に箱根土地が設立されると監査役に就任している役員のひとりだ。また、上落合136番地に東京護謨が設立された際は、実質的な事業責任者として経営役員に送りこまれている。永井外吉が箱根土地の経営陣だったせいで、邸内の写真を撮らせてツール(DM)を作成し、販促プロモーションに利用したのだろう。
 永井外吉について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から引用してみよう。
  
 東京護謨(株)取締役 永井外吉 下落合一,六〇一
 石川県士族永井孝一氏の二男にして拓務大臣永井柳太郎氏の従弟である、(ママ) 明治二十二年十月の出生、同二十七年家督を相続す。郷学を卒へるや直に業界に入り前掲会社の外、嘗ては駿豆鉄道箱根土地(ママ)、東京土地各会社の重役たりしことあり。家庭夫人ふさ子は拓務政務次官堤康次郎氏の令妹である。
  
 下落合4丁目1601番地(現・中落合3丁目)の永井邸は、第一文化村の北辺の二間道路に面している。清水多嘉示Click!が、1935年(昭和10)前後にその二間道路上で撮影した写真Click!でいうと、撮影者の背後40mほどのところに大きな永井邸が建っていたはずだ。初期の永井邸の竣工は、1989年(平成元)に出版された『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に掲載された、「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」から想定すると、1923年(大正12)中あるいは翌年にかけての早い時期だったとみられる。第一文化村では神谷卓夫邸とならび、かなり大きな西洋館だった。
永井外吉邸1926.jpg
永井外吉邸1936.jpg
永井外吉邸1941.jpg
 ところが、おそらく当初の世帯主である永井博が死去したものか、永井外吉は大正末に既存の邸を解体して、さらに大きな邸へとリニューアルしているとみられ、この絵はがきの写真はリニューアル後、つまり昭和初期に竣工した邸内をとらえている可能性がある。その根拠は、箱根土地が当初制作した「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」に採取されている家のかたちと、同じく『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に収録された同邸の平面図とが、まったく一致しないからだ。
 また、目白文化村の空中写真にとらえられた永井邸、あるいは1938年(昭和13)に作成された「火保図」に収録の永井邸は、前者の大正期作成の地割図に描かれた邸のかたちとは異なっているが、後者の平面図とはよく一致している。さらに、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三の『下落合風景』Click!では、永井邸のあるはずの位置が空き地になっており、なんらかの看板が建てられているので(「永井邸建設予定地」とでも書かれていただろうか)、同作は旧・永井博邸が解体されたあと新たな永井外吉邸が建てられるまでの、その刹那の情景をとらえている可能性が高いことだ。
 昭和初期まで、つまり箱根土地本社が下落合から次の開発地域である国立Click!へ移転(1925年12月)してしまったあとまで、目白文化村のDM用絵はがきが制作されていたとすれば、なかなか売れなかった深い谷間の第四文化村Click!や、第二文化村の北側に予定されていた箱根土地の社宅建設敷地Click!の処分(第二文化村の追加分譲販売)とからめた、販促ツールづくりの一環ととらえることもできる。
 さて、冒頭写真の応接間は、永井外吉邸の南東側に突きでた位置に設置されており、窓からは南側の庭が眺められただろう。また、南面に設置された両開きのガラス張りドアから、ポーチや庭へと出ることができた。写真は、応接間の北西側にあった入口から、南東側を向いて撮影されたものだろう。南からの強い陽射しでハレーションを起しているが、画面左奥のドアが開いているので、肉眼では庭先が見えていたはずだ。また、暖炉がわりに置いてあるのは電気ストーブのようで、目白文化村にかなり遅れてガス管が引かれる以前に撮影されたものと思われる。
 これは目白文化村に限らないが、下落合の中部から西部にかけてはガス管の敷設が遅れ、その間、ストーブなどの暖房機器や台所の調理器具は電気製品が主流だったため、月々の電気代がかなり高額になって困ったというお話をうかがっている。
目白文化村絵はがき2.jpg
目白文化村絵はがき3.jpg
文化村絵はがき2表19230522.jpg
 永井邸のもう1枚は、台所をとらえたものだ。やはりガスがいまだ引かれておらず、鍋釜は白いタイルを貼った竈で、湯は電気コンロで沸かしていたようだ。女中部屋も近い、奥の廊下の壁には古い壁かけ電話が見えているので、やはり文化村に電話が急速に普及しはじめた昭和初期に撮影されたものだろう。先の応接間もそうだが、台所も実際に使われている状態をほぼそのまま撮影しているので、このモノクロ絵はがき2葉は「文化村の暮らし」というようなコンセプトのもと、顧客へよりリアルな目白文化村での生活をアピールする目的で作られたものだろうか。
 絵はがき2枚の写真は、タテヨコの比率が異なっているが、これは『消えたモダン東京』に掲載する際、レイアウトに合わせ写真がトリミングされているのだろう。手もとにある目白文化村絵はがき(人着カラー)と比較してみると、永井邸の応接間を撮影した冒頭写真の比率が、既存のカラー絵はがきとほぼ同じ比率になっている。
 さて、もう1枚のモノクロ絵はがきは、永井邸の南西80mのところに建っていた第一文化村の神谷卓男邸Click!(下落合3丁目1328番地)を写したものだ。この写真も、同書に掲載するにあたりトリミングがほどこされ、絵はがきの比率とは異なっている。ライト風の神谷邸は、南東に向いた門前から北西の母家を撮影しており、換気をしているのか窓の仕様が細かく観察できてめずらしい。
 同じ第一文化村の中村正俊邸Click!と同様に、フランク・ロイド・ライトClick!の弟子である河野伝による設計と推定されているが、目白文化村が建設されたとき河野伝は箱根土地の設計部に勤務していた。したがって、箱根土地社内の設計チームが手がけた作品として、既存の人着カラー絵はがきの神谷邸とともに、販促にはもってこいの“商材”だったのではないだろうか。ちなみに、もうすぐ復元される三角屋根の国立駅舎も、箱根土地の河野伝が設計したといわれている。
 絵はがきの主人・神谷卓男は、東邦電力Click!の常務取締役をつとめていたが、『落合町誌』の「人物事業編」には収録されていない。なお、姻戚だとみられる東邦電力の理事兼秘書役の神谷啓三も、下落合367番地の林泉園住宅地Click!に住んでいたが、こちらは『落合町誌』に収録されている。以下、同誌から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三 下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛氏の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり、夫人甲代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
永井外吉邸1938.jpg
近衛邸応接室.jpg
島津邸台所.jpg
 箱根土地による目白文化村は、第一文化村(1922年)、第二文化村(1923年)、第三文化村(1924年)、第四文化村(1925年)、そして第二文化村追加分譲(大正末~昭和初期)と5回にわたり販売されている。(勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」Click!販売は除く) そのつど、新聞には販売広告が出稿され、販促プロモーションが行なわれたとみられるので、DM用に制作された絵はがきも、まだまだ存在する可能性がありそうだ。

◆写真上:モノクロの目白文化村絵はがきの1枚で、第一文化村の永井外吉邸応接間。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる永井外吉邸。同事情明細図の作成時は、旧・永井博邸のままだったかもしれない。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる新たな永井邸。
◆写真中下は、目白文化村絵はがきの1枚で永井邸の台所。電話機の手前に、スーツ姿の人物の半身がブレて写っているが永井外吉本人だろうか。は、同じく絵はがきでトリミングされた神谷卓男邸。は、神谷邸を写したカラーの同絵はがき。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる第一文化村の永井外吉邸と神谷卓男邸。は、近衛町Click!の北側に竣工した近衛文麿邸Click!(下落合436番地)の応接間。は、アビラ村Click!に建っていた島津源吉邸Click!(下落合2095番地)の台所。当時は輸入品が主流で高価だった電気レンジに電気コンロ、電気冷蔵庫、換気扇、そして電気炊飯器と、ガス管が敷設されていないため“オール電化”のキッチンだった。

読んだ!(18)  コメント(21) 
共通テーマ:地域

上落合郵便局近くの大ケヤキの下で。 [気になる下落合]

上落合郵便局.jpg
 1930年(昭和5)5月に、詩人・上野壮夫と結婚した作家・小坂多喜子Click!は妙正寺川の北側、葛ヶ谷(のち西落合)の飛び地である御霊下(のち下落合5丁目)で、新婚生活をスタートしているようだ。まったく同じ時期の1930年(昭和5)5月、上落合842番地Click!に転居していた尾崎翠Click!は、知人の林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻に自身が1928年(昭和3)6月まで松下文子とともに住んでいた、大きく蛇行する妙正寺川の南側にあたる上落合850番地の空き家Click!を紹介している。
 林芙美子・手塚緑敏夫妻は、すぐにこの家へ引っ越してくるが、妙正寺川をはさみ対岸の葛ヶ谷御霊下(北側)に、小坂多喜子と上野壮夫Click!の最初の新婚家庭があったとみられる。もちろん、現在の妙正寺川は1935年(昭和10)前後からスタートした直線整流化工事Click!がほどこされ、蛇行を繰り返していた当時の川筋とは大きく異なっている。上記の林芙美子・手塚緑敏夫妻が暮らした上落合850番地の家は、現在の妙正寺川の川筋では大半が“水没”しており、北岸の家並みや道筋も大きく異なっている。
 林・手塚夫妻が上落合850番地の家を引き払い、1932年(昭和7)に五ノ坂Click!下の下落合2133番地に建っていた、自称“お化け屋敷”Click!と呼んだ大きな西洋館Click!へ転居したのは、『放浪記』がヒットして印税が入ったせいもあるのだろうが、すでに妙正寺川の直線整流化工事が予定されており、いずれ近いうちに立ち退かなければならないのを承知していたからだと推測している。
 さて、妙正寺川をはさみ上落合850番地の林・手塚邸の対岸にあったとみられる小坂多喜子・上野壮夫夫妻の家は、おそらく落合町葛ヶ谷御霊下836番地、ないしは同857番地のどちらかだろう。同地が1932年(昭和7)に下落合5丁目へ編入されたのちも、この地番はそのまま変わっておらず、下落合には2丁目と5丁目とで同時に800番台の地番が並列することになってしまった。1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、南岸にある林・手塚夫妻が暮らした上落合850番地の家々は、妙正寺川の工事にひっかかってすでに解体・撤去されているが、工事にはひっかからなかった北岸の家々は、ほぼそのままのかたちで残っているのがわかる。
 2007年(平成19)に図書新聞から出版された、小坂多喜子の次女である堀江朋子の『夢前川』から、当時の様子を引用してみよう。
  
 (中井)駅を降りるとすぐ左手に妙正寺川。そのほとりに新婚の父と母が暮らし、その川を隔てて向かい側に林芙美子が住んでいた。昭和五年頃のことである。その後すぐ二人は、(上落合)郵便局近くの家に移り、林芙美子も他へ移った。その川淵を歩くのは二度めである。十年ほど前の記憶を辿ってみた。佇まいは、殆どかわっていない。小さな民家。古びたアパート、酒場。妙正寺川を挟んで南側は、昭和二十年五月に激しい空爆をうけたが、北側は、キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた。父と母が住んだのは妙正寺川の川縁の南側だったろうか、北側だったろうか。(カッコ内引用者註)
  
 川向こうに林芙美子が住んでいたとすれば、まちがいなく北側だったろう。妙正寺川は、当時の川筋とはまったく形状が変わってしまっている。
上落合850番地界隈1938.jpg
上落合850現状.JPG
御霊下836・857現状.JPG
上落合郵便局1936.jpg
上落合郵便局1941.jpg
 このサイトの記事をお読みの方なら、いくつかの気になる記述にお気づきだろう。落合地域の街並みは、下落合と上落合を問わず1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!とで、大半が焼失している。著者が書いている国際聖母病院Click!は、4月13日の焼夷弾攻撃に対して必死の消火活動Click!が試みられ(それでも一部焼失はまぬがれなかった)、また戦争末期には同病院をねらった戦闘爆撃機(P51だとみられる)の空爆により、250キロ爆弾の直撃を受けている。
 「キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた」は、戦後にGHQのGSないしはG2などの言論工作機関Click!が意図的に流布した、日本を占領しやすくするための結果論的プロパガンダだろう。米軍が公開している米国公文書館Click!の空襲資料には、「病院を避けた」というような指令や命令はどこにも存在していない。特に(城)下町Click!にあった公的病院や入院施設のある大規模な医院は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でことごとく焼きつくされている。
 さて、このあと小坂多喜子・上野壮夫夫妻はすぐに上落合へ転居している。当時の様子を、1967年(昭和42)に不同調社から発行された「槐」復刊第4号収録の、堀田昇一『わが日わが夢(三) 五、「落合ソヴェト」風土記』より、上掲書から孫引きしてみよう。
  
 中井駅のそばの橋をわたって南の方へいくと、つきあたりに小さい郵便局があり、大きな欅がたっていた。先日そのあたりを歩いてみたら、もう大きな欅の木はきりはらわれて見られなかったが、当時は大きな幹が帝々とそびえたって、あたりの一点景をなしていた。その郵便局の前に、三・一五、四・一六の公判の裁判長であった宮城某という男が住んでいた筈だ。当時は表札をかくし、別の名札をかけていたのではないか、と思う。のちに参議院議員などにもなったようである。
  
 橋は妙正寺川をわたる寺斉橋Click!で、郵便局は上落合665番地の上落合郵便局のことだ。「裁判長であった宮城某」とは、上落合郵便局の向かいの角地に大きな屋敷を建てて住んでいた、裁判官ではなく東京地裁で検事をしていた宮城長五郎のことだ。
宮城長五郎邸1938.jpg
上落合郵便局1938.jpg
上落合郵便局1948.jpg
 宮城は治安維持法の策定にも関わっているが、三・一五事件Click!では特高Click!に検挙された「思想犯」を、どしどし起訴して豊多摩刑務所Click!へ送りこんだ弾圧の中心人物のひとりだ。治安維持法が拡大解釈されるにつれ、共産主義者や社会主義者ばかりでなく政府に「異」を唱える人物を、思想や信条を問わず片っ端から弾圧していく。宮城は、上落合の「落合ソヴェト」のまん真ん中に位置する大きな屋敷に住んでいたため、報復を怖れたのか表札を隠していたのだろう。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」には、上落合730番地に「宮城」の名が採取されているので、そのころには不安が薄れたのか表札を架けていたと思われる。堀田昇一は「参議院議員」と書いているが、宮城は1942年(昭和17)に死亡しているので貴族院議員の誤りだ。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、やはり後難を怖れたのか「人物事業編」には掲載されていない。
 落合郵便局の近くに住んだ小坂・上野夫妻の様子を、『夢前川』から引用してみよう。
  
 新宿上落合郵便局。この郵便局はいつ頃からあるのだろうか。窓口の女性に尋ねてみる。少しお待ち下さい、と言って女性は二階に上がった。四、五分ほど待ったろうか。二階から降りてきた女性は、笑顔で大正十三年三月に創設されました、という。父と母が妙正寺川のほとりの新婚の家から移り住んだ家は、やはりこの郵便局の側だ。私は思わず微笑んだ。外ら出てあたりを見回す。付近は民家をそのまま改築したような二階建のアパート、小さな店、床屋、特高に踏み込まれた家はどのあたりか。大きな欅があったと母は書き残しているが、欅は見当たらなかった。
  
 この大ケヤキは、上落合郵便局の南側にある中村家、ないしはさらに南に位置する高山家の大きな邸宅敷地に生えていた屋敷樹だとみられる。同ケヤキは、空襲で焼けたが戦後に息を吹き返し、1970年代まで伐られずに生えていたと思われる。上落合郵便局の周囲は、先の宮城邸もそうだが大邸宅が建ち並ぶ一帯で、改正道路(山手通り)の建設工事Click!はいまだスタートしていない。
 その大ケヤキの近くということは、小坂多喜子・上野壮夫夫妻の2軒めの新婚家庭は、上落合665番地ないしは同667番地の家々のうちのどれかで、上落合666番地の中村家が建設した借家の1軒だった可能性がある。中村邸の南側にある高山彦太郎・松之助邸も、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」によれば一帯の地主だった。
大ケヤキ跡現状.jpg
小林多喜子1933.jpg 堀江朋子「夢前川」2007.jpg
 1932年(昭和7)の秋、小坂・上野夫妻は一時的に阿佐ヶ谷へと転居するが、翌1933年(昭和8)の秋に再び上落合829番地へもどってくる。その短い阿佐ヶ谷時代に、小林多喜二Click!が虐殺される事件に遭遇することになるのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:上落合665番地(現・上落合2丁目)にある、上落合郵便局の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合850番地の林・手塚邸の位置と対岸の御霊下836・857番地界隈。いずれかの住宅が、小坂多喜子・上野壮夫が新婚早々に住んだ家だろう。は、大半が“水没”した上落合850番地の現状(上)と、対岸の御霊下836・857番地の現状(下)だが実際は川筋が蛇行していたためもう少し北側にずれる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合郵便局界隈(上)と、1941年(昭和16)に斜めフカンで撮影された空中写真の大ケヤキ周辺(下)。
◆写真中下上・中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合郵便局とその周辺。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる上落合郵便局周辺。
◆写真下は、大ケヤキが生えていたあたりの現状。下左は、1933年(昭和8)2月20日に撮影された小林多喜二の通夜の席での小坂多喜子と窪川稲子(佐多稲子)Click!。薄暗い室内で、フラッシュはたかれているがシャッタスピードが遅いため、ふたりともブレて写っている。下右は、2007年(平成19)に出版された堀江朋子の『夢前川』(図書新聞)。

読んだ!(20)  コメント(22) 
共通テーマ:地域

家出して下落合に直行した小坂多喜子。 [気になる下落合]

鈴木文四郎邸跡.JPG
 1930年(昭和5)2月、神戸にあるパルモア英学院の修業式のあと、小坂多喜子(ペンネーム:小坂たき子)Click!は家出同然に汽車で単身東京へとやってきて、そのまま下落合に直行している。当時、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建つ、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!に住んでいた、神戸時代からの知り合いである片岡鉄兵Click!を訪ねるためだ。
 だが、あいにく片岡鉄兵は講演旅行に出て不在で、当時は片岡家の書生だった大江賢次Click!と光枝夫人が応対している。何度も映画化された『絶唱』で有名な小説家・大江賢次だが、独立して上落合732番地で暮らすようになる少し前の話だ。のちに大江賢次は、上野壮夫Click!と小坂多喜子が結婚して住みはじめた上落合829番地の“なめくじ横丁”Click!へ、頻繁に顔を見せるようになる。
 片岡邸で1泊したあと、神戸時代からのつき合いだったボーイフレンドを下宿に訪ねるが迷惑顔をされ、しかたがなく神戸からあらかじめ電報で知らせておいた、上落合469番地Click!神近市子Click!を訪ねている。昼にカレーライスをご馳走になったあと、多喜子はそのまま神近市子の家に寄宿することになった。
 その当時のことを、小坂多喜子は鮮明に憶えている。1986年(昭和61)に三信図書から出版された、小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 東中野から曲りくねった道をかなり奥迄行くと、西武線の中井駅の方におりてゆく道がある。そのゆるく曲った角の石だたみの奥深くに神近家はあり、隣家は鈴木文史朗という朝日新聞の論説委員か何かをしていた人の家だったが、私の家出してきた時には喜劇俳優の古川ロッパ邸であったように思う。その隣家の庭の木立ちがすかして見える垣根に沿った奥深い家の玄関に、娘にしてはすこし年をとった律儀そうな女中さんが三ツ指をついて、「先生が電報を差上げようかといっておられたところでした」といった。
  
 ちなみに、鈴木文四郎Click!(ペンネーム:鈴木文史朗)の家は上落合470番地で、古川ロッパ邸Click!は道をはさんだ向かいの上落合670番地で別々の家だ。
 神近市子Click!と鈴木厚の夫妻には、すでに3人の子どもたちがいて安定した生活をつづけていた。「寒い時にはも足が痛むのですよ。刑務所の冬の寒さが一番身にこたえました」という彼女の言葉を、小坂多喜子は記憶している。神近市子は、小坂多喜子にいろいろな仕事を紹介しはじめた。その中に、牛込区四谷左内町31番地の長谷川時雨Click!が主宰する「女人藝術」編集部Click!や、飯田橋駅の近くにあった全国購買組合連合会中央会事務所などで校正業務のアルバイトがあった。
 それでも生活は苦しく、身につけてきた高価なものは質草となって次々に消えていった。ある日、片岡鉄兵から3円のカネを借りてもどると、神近市子はいつになく激昂して多喜子を叱った。21歳の娘が、人から借りた(半ばもらった)カネで生活しようという性根が、神近市子には我慢ならなかったのだ。
 こういうところに、神近市子の潔癖で妥協しないまっすぐ性格が垣間見えるのだが、多喜子はカネを返そうとはしなかった。本人に断りもなく、片岡鉄兵は多喜子をモデルにした『生ける人形』(1928年)を発表し、彼女はすぐに抗議の手紙を送っていたので、作品のモデル料というような感覚も含まれていたのかもしれない。
 神近市子の姿を、もう少し『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 あるとき雑誌か何かの座談会に出るため盛装して、隣家の朝日新聞論説委員鈴木文史朗邸の垣根の側に立った神近さんの美しさに私は一瞬息を飲む思いだった。お召の着物に黒っぽい蔦の葉模様か何かのこはまちりめんの羽織姿で、薄くおしろいをはたいたほりの深い顔はつりあがった眼が奥深く輝いていて、私はそのときどういうわけかドイツの女性を連想して重ね合わせていた。私がそのときアメリカでもフランスでもなくドイツの女性を連想したのは、その無駄のないひきしまった知的な美しさからそう感じたのだった。
  
神戸パルモア英学院.jpg
片岡鉄兵邸跡.jpg
片岡鉄兵邸1938.jpg
 わたしが小坂多喜子に興味をもったのは、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿2丁目71番地の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎Click!の「出版・入獄記念会」の記念写真Click!で、亀井勝一郎の前に立つ彼女の姿を見てからだ。昭和初期に入獄中の人物は除き、プロレタリア芸術運動をになった在京の人々が勢ぞろいしている写真だが、その中でひときわ派手なコスチュームを着て写る彼女が、場ちがいのように浮いて見えた。彼女を追いかければ、落合地域をめぐる興味深い物語がたくさん見つかりそうだと直感した、わたしの勘はまちがっていなかったようだ。
 その後、神近市子の紹介から山田清三郎と富本一枝Click!に会い、東京へやってきてから約1ヶ月後に戦旗社出版部への就職が決まった。1928年(昭和3)現在、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!は新宿駅西口の淀橋浄水場Click!近くへ移転しており、同様に中井駅からすぐのところにあった上落合689番地の戦旗社出版部Click!は、有楽町駅近くの五番館2階へと移転していた。
 ちょうどこのころ、戦旗社は全日本無産者芸術連盟(ナップ)からの独立問題をめぐってゴタゴタがつづいていた時期と重なる。特に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)内での対立がつづき、独立反対派には山田清三郎や鹿地亘Click!川口浩Click!らが、独立賛成派には江口渙や貴司山治、西沢隆二たちがいた。同誌の主要な執筆者だった小林多喜二Click!中野重治Click!壺井繁治Click!たちはみな獄中にあり、蔵原惟人Click!は海外にいて戦旗社の内紛には関われなかった。
 小坂多喜子が戦旗社につとめはじめたころの様子を、2007年(平成19)に図書新聞から出版された多喜子の次女である堀江朋子『夢前川』から引用してみよう。
神近市子邸跡上落合469.JPG
神近市子邸1938.jpg
全日本無産者芸術連盟ナップ跡.JPG
  
 目の高さに電車の走るのが見える線路よりの部屋が編集部、その反対側の部屋が出版部だった。猪野省三が出版部長、部員は多喜子一人。向かい合わせの机で、校正やわりつけの仕事をした。月給三十円。/その頃、戦旗社主事山田清三郎、経理部長壺井繁治、組織部長宮本喜久雄、編集長林房雄、のちに中野重治、そして上野壮夫。古澤元や田邊耕一郎なども姿を見せた。/小林多喜二「蟹工船」と徳永直「太陽のない街」の新聞広告原稿を猪野が作成し、そのゲラが刷り上がった。猪野が、その身体つきのように丸っこい字で書いた原稿がゲラ刷りになった感激で多喜子は高揚していた。朝日新聞横ぶち抜きの広告ゲラだった。猪野と二人で、ゲラを見ていると、うしろから上野壮夫がのぞき込んだ。編集部に時々顔を見せる男だ。
  
 小坂多喜子が、神戸の家を出たのが1930年(昭和5)2月、神近家から独立して近くに小部屋を借り戦旗社Click!に就職したのが1ヶ月後の3月下旬、そこで上野壮夫と出逢い結婚したのが2ヶ月後の5月、ほぼ同時に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)加入……と、彼女にとっては目のまわるような激動の1年間だった。
 神戸時代から、多喜子は東京で発行されていた文芸誌「若草」などへ作品を送っていたが、本格的な小説は1932年(昭和7)に文芸誌「プロレタリア文学」に執筆した『日華製粉神戸工場』だ。最初期の同作について、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎『プロレタリア文学史/下巻』から引用してみよう。
  
 小坂たき子「日華製粉神戸工場」(同上)、作者は神近市子をたよって東京に出、上野壮夫と結婚した。この作は、満州事変で中国市場を一時的に失った日華製粉が、支店合併と従業員の整理で不況をきりぬけようとするのを、会社側に協力する組合幹部をけって総連合の革命的反対派の指導で、出征兵士の丘陵の全額支給、馘首者の即時復職、時間延長の割増金要求の闘争が、ストライキに発展するまでのことをあつかっていねが、こうした題材にさけがたい概念的なつくりものからすくわれ、ダラ幹の阪本、酒飲みで正義派の中年職工の秋原、阪本と「鞄」の組合書記の河上、反対派の若い闘士で大胆で人なつこい松本などの個性が、かなり浮彫りに描かれていた。
  
神近市子邸1936.jpg
小坂多喜子1934.jpg 小坂多喜子1935頃.jpg
 小坂多喜子は、戦前戦後を通じて小説家でありエッセイストだが、当初は「小坂たき子」のペンネームで執筆していた。それは、プロレタリア文学の雄である小林多喜二Click!と名前が3文字までかぶり、本人からもそれを指摘されて気おくれがしたからのようだ。その小林多喜二とは戦旗社出版部で初めて出会い、築地署で虐殺された際は夫の上野壮夫とともに通夜の席へ駆けつけることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:小坂多喜子が何度も歩いたカーブの道で、右手にある上落合公園の向こう側が古川ロッパ邸跡で、道をはさんだ向かい側が鈴木文四郎(文史朗)邸跡。
◆写真中上は、小坂多喜子が修業式から東京へ飛びだした神戸市中央区のパルモア英学院。は、下落合1712番地の第二文化村にあった片岡鉄兵邸跡で右手の白い柵あたり。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる片岡鉄兵邸。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸跡。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる神近市子邸。鈴木文四郎邸は五味邸をはさんだ2軒隣りであり、小坂多喜子の文章は記憶ちがいだろうか。は、1928年(昭和3)に上落合460番地で結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部跡。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる神近市子邸とその周辺で、赤い矢印は冒頭に掲載した現状写真の撮影ポイント。下左は、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎の「出版・入獄記念会」記念写真に写る小坂多喜子。下右は、1934~35年(昭和9~10)ごろに撮影された小坂多喜子。

読んだ!(22)  コメント(26) 
共通テーマ:地域
前の5件 | - 気になる下落合 ブログトップ