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パナマ運河の設計図提出を拒んだ青山士。 [気になる下落合]

パナマ運河を通過するアイオワ級戦艦ミズーリ.jpg
 拙サイトへのべ2,300万人ものご訪問、ありがとうございます。休止中も、毎日さまざまなページへアクセスいただいていたようで恐縮です。重ねて厚くお礼申し上げます。
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 昭和に入ってからだが、下落合には土木建築家の青山士(あきら)が住んでいた。土木建築家Click!は、おもに社会インフラの大規模な建造物や構造物を設計・建設するのがおもな仕事であり、建物作品を設計・建設する建築家に比べて相対的に地味な存在だ。建築作品は人目を惹くが、社会インフラの建造物は「あって当たり前」あるいは「目に触れることがまれ」な存在であり、あえて“作品”として人目を惹くことはあまりない。
 現代でいえば、社会インフラ系のシステム開発あるいは基盤技術の設計・開発の技術者は目立たないが、その上に構築される多種多様なサービスやアプリケーションを開発・提供する技術者が、ICTの“花形”のように映るのと同様の感覚だろうか。基礎研究や基盤技術のR&Dが中心の「上流」開発と、個々のカスタマーやコンシューマーに接して目立つサービスを直接提供する「下流」開発にも、同じようなことがいえるかもしれない。
 青山士は、約8年間にわたりパナマ運河の設計・建設にたずさわった唯一の日本人技師であり、17年間にわたる荒川放水路の設計・建設を主導し、また信濃川の大河津分水路の改修工事も指揮した人物だ。つまり、現代の東京でいくら台風や大雨が降っても、隅田川Click!(大川または旧・荒川)が氾濫しないのは青山士が設計した荒川放水路(現・荒川)のおかげだし、パナマ運河を通過し大西洋の艦船が太平洋へと抜けられるのも、運河の少なからぬ部分の設計・建設を担当した青山士のおかげ……というわけだ。
 でも、パナマ運河を通過したり同運河のニュースに接するとき、または荒川放水路(現・荒川)を鉄道や自動車で越えるとき、あるいは信濃川の大河津分水路をわたるときに、あえて青山士の名を思い浮かべる人は、その専門分野の人でないかぎりほとんどいないだろう。それだけ、社会インフラを設計・建設する土木建築家は、必要不可欠な事業にもかかわらず地味で目立たない存在なのだ。
 青山士は、1897年(明治30)に第一高等学校Click!に入学すると、無教会主義のキリスト教者・内村鑑三Click!に師事している。彼が死去するまで謙虚かつ良心的で実直だったのは、内村の教えが多大に影響しているとみられる。こちらでも大正期から住んでいた、内村鑑三Click!の弟子である西坂Click!は下落合702番地の南原繁Click!たちが結成した、「白雨会」Click!メンバーの活動について少しご紹介しているが、青山士は彼らよりひとまわり上の世代であり、1900年(明治33)に東京帝大工学部土木工学科へ入学している。
 青山士が座右の銘としたのは、内村鑑三が『求安録』(1893年)で引用した英国の天文学者J.ハーシェルの言葉、「I wish to leave the world better than I was born.(生まれた世界をより良いものにして、わたしはこの世を去りたい)」だった。青山士の晩年、彼の事業や業績を記録して顕彰するために、下落合の自邸を訪ねてきた清水生の取材に対し、青山は次のように答えている。1942年(昭和17)に道路改良会発行の土木建築誌「道路の改良」9月号に収録された、清水生『内務技監の今昔(五)』から引用してみよう。
  
 過日平井君に遇つたら会で書いてゐる「内務技監と(ママ)今昔」と題する記事に付いて今度はあなたの番になるから清水と云ふ人が行くから会つて話してくれとのことであつたが、僕はその際に僕のことを書くのは棺桶に入つてからでよいだらうと云つて置いたやうな次第で、夫れは人の伝記や批判又は功罪と云つたやうなものを書くのは生前の人では却々書きにくいものであるからそう云つたのであつた。
  
 「平井君」は、帝大の土木工学科で後輩の平井喜久松だと思われるが、いかにも歯の浮くような阿諛をともなう顕彰を嫌う、内村鑑三の弟子らしい答えだ。
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荒川放水路1924.jpg
 青山士は、1903年(明治36)に東京帝大を卒業すると、恩師である廣井勇教授の勧めでパナマ運河の設計・建設のため、コロンビア大学の教授への紹介状を手に米国へ単身わたっている。このときの渡航は自費で、肉親から100円を借り、廣井教授の紹介で大倉喜八郎Click!から渡航費100円の借金をして出かけている。
 このあと、さまざまな経緯をへて青山士はパナマ運河の設計・建設に参画するのだが、スエズ運河を開拓したレセップスがパナマ運河の建設にも挑戦して二度とも失敗している経緯をみても、同運河の建設は困難につぐ困難をきわめた。パナマは高温多湿で、マラリアや黄熱病など伝染病の蔓延に加え、建設予定地のけわしい地形とともに最悪の開発現場だった。約8年後の1911年(明治44)、パナマ運河の建設が80%ほど進んだところで青山士は帰国している。米国における反日感情の高まりから、軍事的にも重要なパナマ運河で、日本人の土木設計技師を雇用しているのが困難になったからだといわれている。
 帰国後の青山士は、内務省で技師の手腕をふるいはじめる。隅田川(大川)の氾濫を抑え、市街地の洪水を防止する荒川放水路の設計・建設や、“あばれ川”といわれた信濃川の治水工事などをへて、同省の内務技監のポストについている。
 この青山士の経歴に目をつけたのが、米軍を相手にあちこちで苦戦や敗退を繰り返していた軍部だった。実質の引退生活を送っていた下落合の自宅へ、1943年(昭和18)にひとりの海軍少尉が訪れて、パナマ運河の設計図の提出を要求した。青山士は拒否しているが、おそらく内務省つながりの特高Click!か、あるいは憲兵隊に圧力をかけられたものか、最終的には強制的に設計図を事実上“没収”されている。
 その様子を、2010年(平成22)発行の「近代日本の創造史」第10号(近代日本の創造史懇話会)に収録された、石田三雄『明治の群像・断片【その4】』から引用してみよう。
  
 晩年の青山にとって大変つらい出来事があった。太平洋戦争中のことである。昭和18年の秋、東京下落合の自宅に一人の海軍少尉が訪問してきた。最近開発した超大型潜水艦に折りたたみ式の爆撃機を搭載して、パナマ運河を爆撃しようという秘密計画があり、「そのためにパナマ運河の詳細を知りたい。ついては運河の設計図などを提供してほしい」というのが用件であった。青山は、「私は運河を作るためにパナマに行った。壊すためではない」と答えて、いったんお引き取り願った。しかし「国のため」という要求に抗することができず、最後には海軍は貴重な図面を手にすることになった。そのころ退却に退却を重ねていた日本軍には、すでに計画を実行する余力はなかったのだが。灼熱地獄のパナマの難工事を思い出して、青山はきっと一人で涙を流していたに違いない。
  
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伊400型潜水艦カタパルト.jpg
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 海軍のパナマ運河爆撃とは、「超大型潜水艦」=潜水空母「伊400型」に爆撃機「晴嵐」×3機を搭載して太平洋を横断し、パナマ沖から爆撃機を発進させて同運河を空襲するという、当時の戦況からみればほとんどSFに近い無謀な計画だった。伊400型潜水空母は、6,000トン(水中)を超える軽巡洋艦なみの大型潜水艦で、途中の給油もなしに太平洋を米軍に発見されないで横断することなど、制海権や制空権を奪われている当時の戦況からみてありえない作戦だった。
 日本海軍がパナマ運河の爆撃にこだわったのは、米国の東海岸にある造船所で建造された艦船、あるいは大西洋に展開している米国艦隊が、太平洋へ短期間で回航されるのを阻止する目的があったのだが、とうに戦機を逸した不可能な計画だった。
 また、パナマ運河は米国の艦船建造にも多大な制約や影響を与えている。パナマ運河を通行するためには艦船の全幅が制限されるため、米海軍は40センチ×3連装(アイオワ級戦艦Click!)以上の主砲をもつ戦艦を建造できなかった。「大和」型戦艦Click!(46センチ砲×9門)のように、それ以上の主砲を搭載するためには、主砲斉射時の衝動や転覆のリスクを防ぐために、艦船の設計幅をより大きくとらなければならないが、その代償としてパナマ運河を通行できないという深刻なジレンマを抱えていた。
 結局、日本海軍はパナマ運河の爆撃を中止した(中止せざるをえなかった)が、敗戦時の青山士の心境は複雑だったろう。自身が設計・建造にたずさわったパナマ運河を通行して、機動部隊を中心に米艦隊が続々と太平洋に展開し、日本を敗戦へと導いたかたちになったからだ。1948年(昭和23)、彼は家族とともに下落合を離れ、生まれ故郷の静岡県磐田市にある実家で静かに息を引きとっている。
 さて、下落合の青山邸はどこにあったのだろうか。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、「青山」の名前がひとり採取されているが、下落合426番地の青山家は町会議員をつとめる佐賀県出身の家系であり無関係だ。おそらく、1935年(昭和10)前後に下落合へ転入してきている可能性が高いのだろう。
 青山士が、利根川治水専門委員をつとめていたのが1935年(昭和10)、つづいて神宮関係施設調査委員の仕事をしていたが、1936年(昭和11)11月に依願退職している。下落合に自邸をもち、引退後の生活をつづけるようになったのはこのころからではないだろうか。そのような仮説を立て、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をしらみつぶしに探してみると下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)、すなわち第二文化村Click!の安藤又三郎邸の東隣りに青山邸を見つけることができる。
青山士「ぱなま運河の話」私家版1939.jpg 青山士.jpg
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 現在の家並みでいえば、石橋湛山邸Click!の東隣り、または安倍能成邸Click!の斜向かいの位置に相当する。この敷地は、大正期の「目白文化村分譲地地割図」(1925年)では山田邸であり、大正末から昭和初期にかけては山中邸、その後は敷地が2分割されたようで青山邸ともう1邸になっている。はたして、引退した青山士の下落合邸はこの屋敷だろうか……。

◆写真上:パナマ運河を通過するアイオワ級戦艦「ミズーリ」で、3連装の40センチ主砲9門を装備した同型艦が、同運河を通過できる戦艦の最大サイズだった。
◆写真中上は、工事用の鉄道が通うパナマ運河の工事現場で、深く掘削した崖下には複数のトロッコ軌道が敷かれているのが見える。は、パナマ運河の建設にたずさわる土木建築技師たちで、前寄りの中央が若き日の青山士。は、大正期に撮影された荒川放水路の工事現場と、1924年(大正13)の竣工時に撮影された記念写真。
◆写真中下は、パナマ運河爆撃用に設計された伊400型潜水空母。は、戦後の米軍摂取時に横須賀で撮影された伊400型潜水空母のカタパルトと爆撃機格納庫。右手に見えるのは敗戦時、海上に浮かんでいた唯一の戦艦「長門」で水爆実験場であるビキニ環礁へ向かう直前の姿。は、伊400型潜水空母の搭載用に開発された爆撃機「晴嵐」。
◆写真下は、1939年(昭和14)に出版された青山士『ぱなま運河の話』(私家版/)と著者()。は、日本海軍が青山士から“没収”したパナマ運河平面図の一部。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1712番地(第二文化村)の青山邸。

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I Love Shimo-Ochiai in the Summertime。 [気になる下落合]

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 拙ブログがスタートして18年、初めて横文字でタイトルを書いてしまった。実は、下落合を散歩していると、ときどき子どもじみた夢想をすることがある。それは何年も、いや何十年何百年も前に消えてしまった風景が、とある街角を歩いているときにフッと脳裡をよぎるからだと感じている。以前の記事でも書いたが、六天坂Click!を上っていくとオレンジの鮮やかな屋根の中谷邸が見えはじめ、丘上にたどり着くと黄色いモッコウバラが咲き乱れる赤い屋根のギル邸Click!が姿を現す……というような幻想・幻視のたぐいだ。
 こういう幻(まぼろし)は、親父Click!アルバムClick!にある写真類、地元の写真集、地誌本、地図や絵図、江戸期の浮世絵Click!などを見つづけてきたせいか、「おや、あすこの女連としゃべりながら蒲焼き屋Click!を出て水菓子の千疋屋Click!に入るのは、文紗のうす物を着た芝居帰りのうちの祖母(ばあ)さんじゃないか?」……というように、故郷の日本橋地域ではよく起きていたが、どうやら下落合に住み、やがて拙ブログを長期間つづけているうちに落合地域の古写真や昔の空中写真、さまざまな画家たちが描いた風景などを見つづけてきたせいか、この地域でもそのような幻覚や幻視が起きるようになったらしい。
 ちょっと余談だけれど、拙ブログでは落合地域あるいは落合町と書いて、ときに「新宿区の片隅にある離れのような地域」と表現しているので、落合町をかなり狭い街だと勘ちがいされている、特に東京地方以外の方が多いようだ。「小さな町内に、ずいぶんいろいろな人が住んでいたのですね」は、いつも聞かされる言葉のひとつだけれど、確かに新宿区全体からみればわずか15%弱の面積であり、東京全体から見ても他の大きな街に比べれば相対的に小さな街にすぎないのだが、別の地方の方々にもわかりやすく書くとすれば、たとえば落合町(落合地域)は横浜駅のある西区の面積の38%ほどに相当する。たいがいの方が訪れている京都を例にとれば、京都駅のある下京区の40%ほどの広さだ。大阪市でいえば、通天閣に隣接した天王寺区の約56%ほどが落合町の面積だと比定すれば、およそ感覚的におわかりいただけるだろうか。だから、「新宿区の片隅」といってもけっこう範囲が広く、隅々までていねいに見て歩くとすればとても1~2日ではまわりきれない。
 さて、そんな落合地域で近道をしようと林泉園Click!の谷間を歩いていて、晴天の日がつづくにもかかわらず、マンホールの中からいまだ枯れない激しい水流の音が聞こえたりすると、たちどころに豊かな湧水源だった当時の様子を、清水多嘉示Click!『風景(仮)』(OP595)Click!とともに思い浮かべたりする。すると、東邦電力が建てた赤い屋根のシャレた社宅群やテラスハウスに囲まれているような、あるいは中村彝Click!のスケッチ『林泉園風景』Click!と同様に、林泉園住宅地の中に足を踏み入れているような、どこからか目白林泉園庭球部Click!の練習音が聞こえてきそうな錯覚におちいることがある。
 薬王院の旧・墓地前Click!久七坂Click!筋を歩いていて、背後から急に足音が聞こえたりすると、キャンバスと画道具を抱えた汚らしい身なりの佐伯祐三Click!がフラフラとついてきて、「きょうも制作ですか?」と声をかけると「あのな~、ここな~、わしの散歩道Click!でんね、……そやねん」とつぶやいて通りすぎるような気がする。山手通りの工事で、現在は一ノ坂に面した2階家の窓からニコッと笑いかけ、ガラス越しに「ヤ・タ・サ・カ」(矢田坂Click!)と口唇のかたちがいってる矢田津世子Click!が見えたり、林芙美子Click!の自宅前を通ったりすると、血相を変えた彼女が門の格子戸をガラガラと開け勢いよく飛びだしてきて、「ちょっと、待ちなさいよ! あんた、またあたしの悪口を書いてるじゃないのさ!」といきなり怒鳴られそうなので、そそくさと通りすぎたりする。
 上落合郵便局の近くにいけば、大江賢次Click!の借家に潜伏した小林多喜二Click!が変装しながら出てきて、特高Click!が張りこんでいそうな中井駅ではなく、また特高が駅前の交番に大きな鏡をすえつけていつも改札口を見張っている東中野駅でもなく、東の高田馬場駅Click!方面へ抜けようとするので、「あなたも西武線の新井薬師前駅のことを、つい笙野頼子Click!と同様に新井薬師駅Click!といっちゃったりするんですね」と訊くと、シーーッと指を鼻にあてながら細い路地を選んで消えていく、うしろ姿が見えたりする。近くの中野重治Click!宅に寄れば、連れ合いの原泉Click!白装束Click!に榊の枝葉をふりまわしながら、「あだぁん!(うわっ!) こらまたなんだら、おみゃなにかに憑かれとる。明神様の祟りじゃ~!」と出雲弁で飛びだしてきそうでおっかない。
 下落合にもどると、目白中学校Click!の跡地あたりで伊藤ふじ子Click!を見かけたので、急いで追いついて「ぜひ、“彼は”のあとの手記を完成させてください」とお願いする。夏の七曲坂を下っていると、夕闇にまぎれて乱れた浴衣姿で駈け上がってくるのは、奥さんをうまくまいて上落合の自宅から下落合の旧宅方面へ逃げてきた、原稿用紙が入っているらしい封筒とカバンを重そうに抱えて息切れしている吉川英治Click!だ。
 八幡公園Click!の近くで大型家電店のトラックを見かければ、家電マニアの村山籌子Click!がまたなにか高価な製品を注文し、どこかで「もう、しようがねえな、しようがねえな」とぼやく村山和義Click!の声が聞こえてくる。落合第二小学校のあたりを歩けば、大きな野々村邸に臨時の憲兵隊分署が置かれたのは、やはり上落合にプロレタリア作家や美術家が多く住んでいたからだろうなと想像し、北隣りの吉武東里邸Click!の前を通れば、関東大震災Click!のとき帝国議会議事堂Click!大蔵省の設計プロジェクトClick!は、ここでなんとか事業が継承できたんだと、霞が関の国会議事堂の姿が浮かんでくる。
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 寺斉橋をわたって下落合側へ帰ろうとすると、橋の手前で白いミグレニンの錠剤をラムネのようにポリポリかじりながら、着物姿の尾崎翠Click!がフラつく足どりで前を横切ったりするし、寺斉橋北詰めの喫茶店の前を通ると、「ワゴン」Click!萩原稲子Click!が色っぽい流し目をしながらドアの前でタバコを吸っていて、背後のドアが急に開くと安ウヰスキーで酔っぱらった檀一雄Click!太宰治Click!が、なにかヘラヘラ笑いながら肩を組んで出てきて、稲子ママに手をふったりする。中ノ道(下の道)Click!に出ると、もぐら横丁から辻山医院Click!へ寄ろうと歩いてきた尾崎一雄Click!と、第二文化村から振り子坂Click!を下りてきた片岡鉄兵Click!とがバッタリ、一瞬足を止めてにらみ合いをしている。
 坂道をのぼって目白文化村Click!に出ると、近衛町Click!もそうだけれど、どこにどのような意匠の邸が建っていたのか、古写真や絵画、空中写真などからかなり見えてきているので、すぐに「誰々さんち」といい当てられそうだ。変なじいちゃんClick!社交ダンス教室Click!を開いていた、アビラ村Click!にある赤い屋根のアトリエClick!が跡形もなく消えても、どこからか蓄音機が奏でる佐渡おけさClick!が風にのってかすかに響いてくる。六天坂Click!を下っていると、右手のバッケ(崖地)Click!から「この玄室には、玉砂利の上に碧玉の勾玉Click!鉄刀Click!が残ってるぞ!」という声が聞こえてくる。のぞくと、守谷源次郎Click!鳥居龍蔵Click!の考古学チームが、古墳のひとつを発掘しているようだ。
 これらの幻視や幻想は、酔っぱらっているからでも、別に変なクスリをやっているからでもない。先年、吉屋信子Click!の姪にあたる吉屋敬様と、甲斐仁代Click!の甥にあたる甲斐文男様と楽しくおしゃべりしていて、COVID-19禍が収まったら下落合2108番地(現・中井2丁目)の吉屋信子邸Click!跡から、彼女が作品のファンだった下落合1385番地(現・中落合3丁目)の甲斐仁代・中出三也アトリエClick!まで、当時の目白文化村コースどおりに散歩しましょうとお約束したが、作家の吉屋敬様は吉屋信子に髪型から雰囲気まで似ているので、シェパードClick!でも連れ歩いたらめまいを起こしそうな錯覚におちいるだろう。
 いや、落合地域を往来する“有名人”ばかりでなく、もう一歩踏みこんだ幻視・幻想を見ることもある。妙正寺川の谷間を通れば、低空をドーリットル中佐が搭乗するB24の<2344機>Click!がフルスピードで飛んでゆく爆音が聞こえ、「日本の戦闘機はどうした、対空砲火はどうした!?」と叫ぶ防護団員Click!の男が、ムダとは知りつつ爆撃機を追って走っていく。聖母坂の下を歩けば、大正期のハイカーによるタバコの火の不始末Click!で、西坂・徳川邸Click!斜面の林から青柳ヶ原Click!の草原一帯まで燃え拡がり、落合消防組Click!が小型の蒸気ポンプを重そうに引きずりながら、手に手に鳶口を持って駆けつけてくるのが見える。
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 箱根土地Click!堤康次郎邸Click!の斜向かいで強盗傷害事件Click!が発生し、若妻がひとりで留守番をする家へ隣家の資産家のドラ息子が強盗に入り、ナイフを突きつけてカネを出せと脅したところ、逆に若妻にナイフを奪われ顔や手をむやみに切りつけられて逃げだし、駆けつけた警視庁の等々力警部が「よしっ、わかった! 犯人はおまえだ」と血濡れのナイフを手にした若妻を逮捕しようとしたら、「あんた、バッカじゃないの? 強盗に入られたのはわたしのほうだってば!」といわれ、「よし、わかった! 犯人は隣りの息子だ」と隣家へドカドカと踏みこんでいく、そんなおかしな情景が浮かんだりする。
 中村彝アトリエの近くを夜に歩けば、戦争を終結に導くために、ひそかに画策をつづける米内光政Click!が、夜目にも白い着流しのままとある屋敷から散歩にでたところを、陸軍の徹底抗戦・一億玉砕を叫ぶアタマのおかしい「亡国士官」たちに雇われたスパイの尾行が明らかなので、「そろそろ隠れ家を、別の場所に変えたほうがいいですよ」と、すれちがいざま囁いたりする。高田馬場2号踏み切りClick!をわたれば、特別編成の軍用列車の通過を見送りに、指田製綿工場Click!を中心とした軍国少年・少女たちClick!が線路土手に集まっている光景が浮かび、警備する在郷軍人会の男に「軍用列車が通りすぎたあと、すぐに品川方面からやってくる貨物列車が向こう側の貨物線を通過するので、絶対に子どもたちを線路内に入れちゃダメだ」と、しつこく念を押したりする……。
 そう、文学好きならお気づきかと思うが、このような幻視・幻想は米国のジャック・フィニイが見ていた幻視・幻想とそっくりなのだ。フィニイが見ていたのは、イリノイ州のゲイルズバーグやニューヨークのブルックリンの街並みだが、それと同じようなことが東京の落合町の街角でわたしにも起きているようだ。米国のたいへん有名な小説なので、読んだ方も多いのではないだろうか、『I Love Galesburg in the Springtime』(Jack Finney/1963年)で、邦訳は福島正実・訳『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房/1980年)だ。ちょっと、英国のR.ウェストールに似た作家の米国タイプで、こういう表現やテーマをもつ作品を描く小説家は、きっと各国にひとりやふたりは存在しているのだろう。
 街角を歩いていると突然、過去の情景とつながってしまったり、ゲイルズバーグらしい街並みや自然が破壊されたり消滅しそうになると、どこからともなく過去から“復元力”のようなものが働いて、もとの姿や風景にもどそうとする……というような、少なからずノスタルジーを含んだ妄想のたぐいの作品だ。もちろん、現実には妄想がそのまま実現することなどありえないが、そんな妄想を抱く人物がひとりでも多く街中に増えれば、すなわちその街の歴史やアイデンティティをよく知る住民が増えれば、主体的に取り組むなんらかの活動を通じて現実的な力となり、無秩序な破壊や消滅を止められるかもしれない。そう、従来は単なる世迷言などといわれてたはずなのに、日本橋の上に架かるぶざまな高速道路を取っぱらう事業Click!が、今年からようやく始動したように……。
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 そんな他愛ない妄想を抱くようになったのは、わたしが高校生Click!のころから眺めていた落合地域の風景と、現在のそれとが大きく異なってきているからだろう。わたしの記憶に残る緑豊かで落ち着いた、静かな家々が建ち並ぶ街並みと、現在の個性や風情がどんどん失われてゆく街並みとの乖離が大きくなればなるほど、近くの氷川明神社Click!のクシナダヒメか、氏神である神田明神社Click!のオオクニヌシあるいは将門Click!かは知らないけれど、どこからかゲニウス・ロキ(地霊)Click!が耳もとに囁きかけ、妄想のたぐいをどこまでも際限なくふくらませるのかもしれない。
 今年の夏は、落合地域にある小中学校の生徒たちの自由研究や、このあたりにある大学の課題レポートなどに拙サイトが活用・引用されていたようなので、とっても嬉しい。

◆写真上:いまや、下落合(現・中落合/中井含む)らしい風景を探すのもたいへんだ。
◆写真中上:3葉とも、わたしの学生時代からあまり変わらない下落合の街角風景。
◆写真中下上左は、1963年出版のJack Finney『I Love Galesburg in the Springtime』。上右は、1980年に邦訳が出た『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房)。は、同小説の米国版挿画。は、1913年撮影のゲイルズバーグの大通り。
◆写真下は、イリノイ州ゲイルズバーグにある大通りの現状。(Google Street Viewより) は、雪が降るとよけいなものを隠してくれるので昔の下落合風景らしくなる。は、久しぶりに手塚緑敏Click!・林芙美子アトリエを裏のバッケ(崖地)Click!斜面から。
おまけ1
 わたしが小学生になり、世間で流れる音楽が耳に入りはじめたころ、ことさら強く印象に残っている歌謡曲がこれ。別にモスラClick!にちなんでいるわけでなく、さまざまな音楽を聴いてきたいまでも、同時代の歌謡曲の中では感覚が新しく秀逸な作品だと思う。ザ・ピーナッツ『ウナ・セラ・ディ東京』は、日本につづき各国でもヒットし、次の『恋のバカンス』はほぼリアルタイムでソ連(現・ロシア)でも大ヒットを記録したと聞いている。半世紀を超える昔の曲だが、きょうの記事や拙サイトのテーマらしきものに無理やりこじつけて、歴史は教科書のように時代ごとや章ごとに都合よく区切られているのでも他所(よそ)事でもなく、きょうもまた連綿とこの地方やこの街でつづいているのであり、人々の喜怒哀楽の生を日々重ねているのだ……という意味をこめて。この曲を聴くと、かつて記事に登場した人々にからめ「(あなたたちのこたぁ)忘れちゃいないよ」と、つい返したくなるのだ。
ウナ・セラ・ディ東京.jpgClick!♬
おまけ2
 先の9月1日、岸田劉生日記をめぐる関東大震災の記事Click!を書いたが、震災の2年前、1921年(大正10)に片瀬海岸の御休み処(喫茶店)で撮影された記念写真を、熊谷明子様よりお送りいただいた。左が劉生に頼まれ、岸田一家の罹災記念写真を撮影した片瀬写真館の熊谷治純で、中央が岩手から東京へやってきたばかりの熊谷登久平、右側の前掛けをしている人物は御休み処の主人だろうか。「江ノ島やさして汐路に跡たるる 神はちかひの深きなるべし」と、鎌倉期の『海道記』に由来する短歌スタンプが押されているので、片瀬写真館のカメラマンのひとりが撮影したものかもしれない。なお、岸田一家の被災写真を撮影した熊谷治純は、『勝海舟日記』に登場する横浜の豪商・熊谷伊助の孫にあたる。
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明治の近衛旧邸と昭和の近衛新邸との間に。 [気になる下落合]

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 下落合に建っていた近衛邸の推移としては、まず近衛篤麿Click!が1895年(明治28)に学習院の院長へ就任するのとほぼ同時期に、下落合417番地の広大な敷地へ自邸(近衛旧邸Click!)を建てて住んでいる。次いで1904年(明治37)に近衛篤麿が死去すると、跡を継いだ12歳の近衛文麿Click!が同邸に家族とともに住み(京都帝大の学生時代を除く)、1922年(大正11)に学習院の学友だった三宅勘一Click!が常務取締役をつとめる東京土地住宅Click!へ依頼して、近衛旧邸の広大な敷地で近衛町Click!の開発を推進している。
 つづいて、近衛文麿は1924年(大正13)の暮れに、麹町へ250坪ほどの新たな邸を建設して転居するが、数年でイヤになり下落合へともどってくる。近衛文麿の次男である近衛通隆様Click!(藤田孝様Click!による)の証言によれば、市街地の麹町では交通の便がよすぎて日々訪問客が絶えず、家族全員が応接に疲れてウンザリしてしまったとのことだ。こうして、麹町へ転居してからほどなく下落合436番地へ改めて新邸建設を計画し、1929年(昭和4)11月に竣工(近衛新邸Click!)すると同時に、再び下落合へともどってきている。
 だが、上記の転居の推移には、わずかながら“すき間”があることにお気づきだろう。1922年(大正11)に、近衛町の開発がスタートすると同時に近衛篤麿が建てた大きな近衛旧邸は解体されている。そして、1924年(大正13)に麹町の新居へ移るまでの2年間余、近衛一家は下落合のどこに住んでいたのかというテーマだ。そしてもうひとつ、近衛文麿が転居した麹町時代の期間でも、下落合には近衛邸がなくなることなく継続して存在している。おそらく、篤麿の後妻である貞子夫人をはじめ、文麿の姉・武子や秀麿Click!、直麿、忠麿ら兄弟たちが暮らしつづけていたものだろう。
 たとえば、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町」の地図では、目白中学校Click!の南側に広い「近衛邸」の敷地が採取されている。また、目白中学校Click!練馬Click!へと移転したあと、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、目白中学校の跡地を含めた区画全体が「近衛邸」として記載されている。
 さらに、近衛新邸が竣工する直前の1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」では、北の目白通りから目白中学校跡地を南へ下る道筋と、東側の近衛町通りから西へと入る道筋とが描かれた「近衛邸」が採取されている。地番でいうと下落合432~456番地にまたがる広い敷地だが、これは同年11月に下落合436番地に竣工する近衛新邸ではなく、それ以前の近衛邸が建っていた敷地および地番を採取しているものだ。
 そして、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)の近衛新邸が採取されているが、1929年(昭和4)の「落合町全図」よりもかなり東寄りの敷地であり、ちょうど舟橋了助邸Click!夏目利政アトリエClick!の北側一帯にあたる。ネームも「近衛別邸」として記録されており、これは前年の1937年(昭和12)に文麿が荻窪の「荻外荘」Click!を手に入れて住むようになっていたからだが、当初は下落合が本邸であり、より郊外の荻外荘は別邸(別荘)だったはずだ。ひょっとすると、交通の便がよくなった昭和初期には、麹町時代と同様に下落合への訪問客が急増したため、荻窪に引っこんですごす時間が急激に増え、ほどなく荻外荘が“本邸”になってしまったのかもしれない。
 さて、近衛篤麿が1895年(明治28)ごろに建設した近衛旧邸(和館)と、近衛文麿が1929年(昭和4)に麹町邸から避難するように建てた近衛新邸(西洋館)とは、地図類に邸の形状が具体的に描かれ、また写真類も撮影されて残っている。特に近衛新邸は、昭和期に入って清水組(現・清水建設)により建設されているので、邸の外観や内観、平面図などの図面類もよく保存されている。だが、近衛旧邸が解体された直後から近衛新邸が竣工するまでの期間、年代的にいえば1922年(大正11)から1929年(昭和4)までの約7年間、目白中学校とその跡地の南側にあった“過渡的”な近衛邸の様子が、これまでまったくわからなかった。
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 ところが、わたしの手もとにある地図類では唯一、1922年(大正11)9月に都市計画東京地方委員会によって測量・作成された1/3,000地形図をベースにしているとみられるが、その補修版を戦後になって出版した日本地形社の地図の1枚に、目白中学校の南側に建っていた広い近衛邸の建物群が採取されているのに気がついた。従来は、近衛文麿が建てた近衛新邸だと思いこみ見すごしていたのだが、よくよく観察すると下落合432~456番地にまたがる敷地に、母家を中心とした建物群が採取されている。
 都市計画東京地方委員会による1/3,000地形図は、その後1926年(大正15)9月をはじめ何度か補修をされているが、戦後になると先述の日本地形社が補修を引き継いでいるようだ。近衛旧邸の解体から近衛新邸の建設までの期間、わずか7年ほどしか存在しなかった幻の近衛邸だが、採取されていたのは戦後の1947年(昭和22)に日本地形社が補修した1/3,000地形図だった。ただし、1926年(大正15)時点での1/3,000地形図には、下落合432~456番地はすでに斜線表現(住宅街)で描かれているのに、なぜか1947年(昭和22)の同図では、大正中期から同地番にあった近衛邸が“復活”している。
 さらに、同地形図は不可思議な特徴を備えており、1929年(昭和4)に近衛新邸が竣工するとともに、邸は解体され敷地も分譲されてしまったはずの、上記の“過渡的”な近衛邸がそのままなのをはじめ、1925年(大正14)には中野広町へ転居してしまったはずの相馬邸Click!(大正中期の姿)が克明に描かれていたり、近衛町Click!がいまだ開発直後(1922年)のように描かれていて、住宅がほとんど採取されていないなどおかしな点がたくさんある。
 では、1922年(大正11)現在の家々や施設はそのままに、鉄道や道路の表現だけ最新のものに変えているだけかと思いきや、目白通りはいまだ拡幅前の状態だし、下落合の北側に接した戸田康保邸Click!が1934年(昭和9)に転居してくる徳川義親邸Click!になっていたりする。神田川は、直線整流化工事(1935年前後に実施)が行われる以前の蛇行したままの姿で、1927年(昭和2)に開業する西武電鉄Click!は描きこまれている。
 そうかと思えば、下落合の北側に拡がる街は目白町ではなく、大正期の雑司ヶ谷旭出や長崎村、西巣鴨町のままであり、敗戦直前に廃止された武蔵野鉄道Click!上屋敷駅Click!がそのまま描かれている。目白福音教会Click!の周囲は草原や空き地だらけでほとんどの住宅が未採取だが、東邦電力による林泉園住宅Click!は細かく描かれれており、1932年(昭和7)に開校した落合第四小学校Click!も採取されている。
 要するに、大正の中期から後期と昭和の最初期、昭和10年代から戦時中、そして一部は敗戦後の情報までが混在し、メチャクチャな表現になっているのが1947年(昭和22)に補修された(?)1/3,000地形図ということになる。換言すれば、大正後期から昭和の最初期にかけ、いずれかの時点で記録された約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸をそのまま残して、戦後に“先祖返り”表現になってしまっているのが同地形図の特異性なのだろう。
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 さて、当の近衛邸の様子を仔細に観察してみよう。まず、下落合432~456番地の敷地には北側と西側、そして南側には塀がめぐらせてあったようで、正門は目白通りから南へと下る突きあたりに設置されている。ただし、目白中学校が練馬へ移転する以前は、近衛邸の北側は同中学校のキャンパスになっており、このような道路や正門は存在しなかったはずだ。したがって、同地図の表現は移転後の1926年(大正15)から、近衛新邸が竣工する1929年(昭和4)までの姿をとらえたものだろう。それまでの正門は、近衛町通りに面した東側に設置されていたとみられ、実際に東側にも旧・正門らしき門が描かれている。
 敷地内には、大きな母家の建物が採取されているが、目白通りをはさんだ徳川義親邸の母家とそれほど変わらないサイズだが、御留山Click!に建っていた相馬邸の母家に比べると半分ほどの規模だろうか。西洋館か和館かは不明だが、広大な近衛旧邸の家族や家令たちのことを考慮すると、2階建ての西洋館ないしは和洋折衷館だったのではないだろうか。母家の東側、正門のすぐ右手には大きな蔵があり、母家の南東側には家令たちの住居だろうか、東西に細長い建物が建っている。また、母家の西北側にも小さな(といっても通常の住宅1軒分ぐらいはある)物置きのような建造物が確認できる。
 近衛邸の西南北側が塀で囲まれているのに対し、東側に連続する塀が存在しないのは、当初は東側にも塀が設置されていたものの、近衛文麿一家が麹町から再び下落合へともどる近衛新邸の建設計画が具体化しており、その工事計画が進捗していたために取り払われていた……とも解釈できる。すなわち、描かれている約7年間しか存在しなかった近衛邸は、1929年(昭和4)11月の近衛新邸が竣工する直前、1928年(昭和3)ごろの姿ではないかと想定することができそうだ。わたしの手もとにある地図を観察する限り、この幻の近衛邸の具体的な姿をとらえた地図は、日本地形社の1/3,000地形図(1947年補修版)のみとなっている。
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 固定観念とは怖しいもので、戦後1947年(昭和22)補修の1/3,000地形図には「空襲で焼けたはずの近衛新邸が、削除・修正されないまま残っている」と思いこんで疑わなかった。何気なく地図類をひっくりかえして眺めていたら、松本清張Click!の『Dの複合』の主人公のように「アッ!」と気がつき、描かれている近衛邸が明らかに近衛新邸の形状とは異なるのを発見したしだいだ。こういう思いこみがないかどうか、先入観によりフィルタリングされた観察をしていないかどうか、さまざまな資料を改めて見直してみる必要がありそうだ。

◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸の正門跡。この門は、約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸の門跡でもある。
◆写真中上は、下落合417番地の近衛旧邸で撮影された近衛篤麿の家族。左から近衛直麿、近衛貞子(近衛篤麿夫人)、武子、文麿、秀麿、忠麿(手前)。は、1929年(昭和4)に竣工した下落合436番地の近衛新邸。は、1934年(昭和9)に近衛新邸の応接間で撮影された近衛家の娘たち。左から右へ近衛温子、近衛昭子Click!、近衛秀麿。
◆写真中下からへ、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる近衛旧邸、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町」にみる約7年間しか存在しなかった近衛邸、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる目白中学校移転後の同邸表現、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる同邸、そして1938年(昭和13)の「火保図」にみる近衛新邸。
◆写真下:いずれも1922年(大正11)測図1947年(昭和22)補修の、1/3,000地形図(日本地形社)の記載表現。からへ、約7年間しかなかった近衛邸とその建物群の拡大、ほぼ開発当初と変わらない姿のままの近衛町、1925年(大正14)に転居したはずの御留山の相馬孟胤邸、そして下落合に接して建つ徳川義親邸。いちばんは、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合436~437番地の近衛新邸と下落合432~456番地の“過渡的”な近衛邸跡。

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短編のうまさを感じる文化村の池谷信三郎。 [気になる下落合]

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 目白文化村の第二文化村Click!に住んだ作家に、ドイツ留学の学生同士であり一高Click!の先輩だった村山知義Click!と親密な関係だった池谷信三郎がいる。ふたりは、一高時代から知りあっていたとみられるが、お互いの留学先がベルリン大学だったのでより親しくなったのだろう。池谷新三郎は、東京帝大を休学してベルリンにいったがのちに帝大を退学し、村山知義は東京帝大を中退してからベルリンへと向かっている。
 1923年(大正12)の関東大震災で、池谷の実家が被害を受けたためにベルリンから帰国したあと、ヨーロッパの新進芸術運動から影響を受けた戯曲や小説を次々と発表するようになる。特に1925年(大正14)には、ベルリンでの滞在経験をテーマにした『望郷』が、時事新報社の募集した懸賞小説に入選している。また、同年に村山知義たちと結成した演劇集団「心座」に参画し、戯曲『三月三十二日』を築地小劇場で上演した。翌1926年(大正15)には、戯曲の代表作ともいえる『おらんだ人形』を発表している。
 なお、時事新報社に連載された『望郷』の挿画は村山知義Click!が担当したが、あまりにも絵が斬新すぎて読者の不興をかい、連載の途中で降板させられている。だが、その後に出される池谷信三郎の『望郷』(時事新報社/1925年)や『橋・おらんだ人形』(改造社/1927年)などの著作は、村山知義による装丁で出版された。
 戯曲『おらんだ人形』は、当時のモダンなアパートメントClick!ですごす青年たちの、「恋愛の機微」を描いた1幕ものの会話劇なのだが、アメ車の「パツカアド」や女が会話するとき口にする小粒の「チヨコレイト」、卓上でナイトがすべるチェス盤、ボールによるテーブルマジック、会話に登場する銀座の喫茶店資生堂Click!など演出の道具立てはモダンで、当時としては斬新でカッコよかったのかもしれないが、これらの道具立てや書割(おそらくモダンな)を差し引いて舞台を眺めたら、伝統的でありがちな男女の「惚れた腫れた」劇をクールな感覚の会話で再現しただけ……のようにも思える。
 『おらんだ人形』の前年、1926年(大正15)にはベルリンを舞台にした主人公が外国人の小説『街に笑ふ』を逗子の海辺で執筆し、また翌1927年(昭和2)には同じくベルリンの外国人(おそらくドイツ人)を主人公にした小説『橋』を鎌倉で執筆している。特に後者の『橋』は、池谷信三郎が創作した代表的な短編といわれているが、『街に笑ふ』も含めて今日的な目から見ると、あまり出来がいいとも思えず内容が面白くない。主人公に外国人をすえて、異国の幻想的な街の風景を背景にしながら、不思議でつかみどころのないな味わいのする小説に仕上げているので、当時としては新鮮でめずらしく評判になった作品なのかもしれないが、現代からみると印象が散漫で読後の印象が希薄だ。
 たとえば滞日経験が数年のドイツ人作家が、日本人を主人公にして東京の街中をさまよわせたとしても、おそらくリアルで的確、深くて面白い物語が創造できるとは思えないのと同様に、どこかウソ臭さが鼻についてしまうのだ。ちょうど、昔日の米国やイタリア映画に登場する「日本人」たちのように、いったいどこの国に育ちどのようなアイデンティティを備えた人間なのか、“国籍不明”感が濃厚に漂うのにも似ているだろうか。
 少し横道にそれるが、観光客の外国人(特に欧米人が多いだろうか)が感謝して礼をいうとき、なぜか両手を合わせて拝む仕草をすることがある。東南アジア諸国などの宗教的な生活習慣とは異なり、日本では両手を合わせて人物を拝む慣習はおしなべて死者(ホトケ)に対してであり、「オレは仏教徒Click!でもないし、まだ死んじゃいねえぞ。無礼なことするな!」と、誰も彼らを注意しないのだろうか?
 社会観や生活観がまったく異なる、外国人を主人公にすえるのであれば、おそらくはその国や街、地域に根づいて文化や風俗、習慣と密に同化しなければ、いくら幻想的な場面を多用したとしても、リアルな情景の創造や心理の描写はむずかしいのではないだろうか。
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 これは別に外国と日本に限らず、国内の地方・地域においても同様だろう。以前の記事Click!にも書いたけれど、いくら自身の出自とは異なる地方・地域で長期間暮らしたとしても、その地方・地域の根にあるアイデンティティに同化していなければ(あるいは同化をどこかで拒否していれば)、当の地方・地域の住民から見ればトンチンカンClick!なことをいったり書いたりしているのに気がつかない。
 一所懸命に図書館や資料室に通って勉強しても、そこに記録されているのは粗いザルの目にひっかかったほんのわずかばかりな史的事実のみで、多くの文化や風俗、習慣、出来事は地方・地域ごとの家庭など生活の中で日々伝承され後世に残されていく。それに気づかず、すべてわかったような顔をして“お勉強発表会”のようなことをしても、その現場・地場の住民にしてみれば「??」となるのは当然のことではないだろうか。出来事は図書室や資料室で起きているのではなく、地方・地域のその現場で起きていることなのだというのは、拙サイトへ記事を書いていて痛感しつづけているテーマのひとつだ。
 池谷信三郎の小説には、むしろ故郷の東京を舞台にした作品に、今日的な目から見ても光る作品が多い。たとえば、エンディングが唐突で安易な尻きれトンボ感が強く、少し長くなっても登場人物たちの言動をていねいにすくいとり熟成させたほうがいいのではないかと思うのだが、下落合時代に書かれた中編の『花はくれなゐ』は、けっこう飽きずに最後まで読ませる作品だ。また、同年の短編『縁』や『郵便』も、途中から先が読めるような流れで最後はやはり安易な予定調和へと落としこんではいるが、物語のテンポや展開がH.モーパッサンやO.ヘンリーを彷彿とさせるような味わいを見せている。
 池谷信三郎は、村山知義Click!の「心座」が解散したあと、舟橋聖一Click!らとともに「蝙蝠座」へ参画するが、そのわずか3年後の1933年(昭和8)に結核が悪化し、若干33歳で死去している。残された彼の作品を読むかぎり、戯曲よりも小説のほうが面白く(ただし外国人が主人公の小説=ベルリンものは除く)、その後も活躍していたら短編の名手になっていそうな「未完の器」的な作家ではないだろうか。残念ながら、現代では池谷信三郎の作品に触れられる機会は非常に少なく、昭和初期に刊行された古書を手に入れるか、オムニバス全集の中にちらほら収録された代表作といわれる作品を参照するしかなさそうだ。
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 池谷信三郎は下落合1639番地、すなわち目白文化村の第二文化村(いまの感覚だと第一文化村か?)に、1927年(昭和2)9月から1929年(昭和4)まで住んでいる。下落合1639番地は広くない区画で、大きめな屋敷が2棟並んで建っていた。第一文化村から第二文化村へと、南西方面に抜ける広めの三間道路(センター通り)に面しており、同地番の角から西側の細い道をまがると、地元の住民たちが「オバケ道」と呼んでいた細い路地が、落合第四府営住宅Click!の境界に沿ってカーブをしながらつづいている。
 第二文化村が売りだされた当初、1923年(大正12)にこの敷地は早々に売れたとみられ、1925年(大正14)に作成された「目白文化村分譲地地割図」では、吉田義継邸(北側)と吉村佐平邸(南側)になっている。ただし、実際に住宅を建設していたか建設予定地のままだったかどうかは不明で、いまだ土地の購入者名を記載しただけだったのかもしれない。
 1926年(大正15)になると、「下落合事情明細図」によれば北側の吉田邸の敷地は空き地ないしは空き家だが、南側の吉村邸の敷地は石田義雄邸になっている。ちょうどこの時期に、池谷信三郎は郊外に家を探していたとみられ、下落合1639番地の北側の空き地に家を建てたか、あるいは空き家を借りるかして入居している可能性が高い。
 ちなみに、池谷信三郎が1929年(昭和4)に目白文化村から転居してしまうと、そのあとは「火保図」(1938年現在)によれば佐藤邸(北側)および松田邸(南側)に住民が変わっている。目白文化村は、長く住みつづける住民がいる一方で、大家が屋敷を賃貸ししていたところなどは住民名がコロコロと変わるため追いかけるのがむずかしい。また、池谷信三郎が目白文化村にいた時期は、金融恐慌から大恐慌へと世界経済が大混乱していた時代と重なるので、住民の移動や入れ替わりが激しかったのだろう。「東京都全住宅案内帳」(1960年現在)によれば、戦後は竹内邸(北側)と杉本邸(南側)に変わっていた。
 なお、池谷信三郎が目白文化村に住んでいた1929年(昭和4)、おりからの円本ブームClick!から平凡社がシリーズで出版していた「新進傑作小説全集」の第2巻が、『池谷信三郎集』として世にでている。ちなみに、第1巻は『犬養健集』で第3巻が『佐々木茂索集』、第4巻が『横光利一集』、第5巻が以前にもご紹介した『片岡鉄兵集』Click!だった。
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 昭和に入ると、池谷信三郎は文芸誌へ作品を次々と発表していき、中河與一Click!や石浜金作、菅忠雄、川端康成Click!などと懇意になる。だが宿痾の結核は、おそらく自身が満足する作品を残す時間を与えてはくれなかった。なお、文藝春秋Click!菊池寛Click!は、1936年(昭和11)より早逝した彼を記念して、文芸誌「文学界」に池谷信三郎賞を設置している。

◆写真上:下落合1639番地にあった、第二文化村の池谷信三郎邸跡(道路左手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の池谷信三郎『望郷』(新潮社/)と、1927年(昭和2)出版の同『橋・おらんだ人形』(改造社/)。ともに、村山知義の装丁・挿画による。は、1931年(昭和6)出版の同『遥かなる風』(新潮社/)と、著者の池谷信三郎()。は、1927年(昭和2)上演の心座『スカートをはいたネロ』の舞台。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に平凡社から出版された「新進傑作小説全集」シリーズの『池谷信三郎集』()と著者のサイン()。中左は、1925年(大正14)作成の「目白文化村分譲地地割図」にみる下落合1639番地。中右は、ちょうど池谷信三郎が住んでいた1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる同番地。は、西洋館とみられる住宅の形状がよくわかる1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同地番。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1639番地界隈。は、『池谷信三郎集』(平凡社)収録の著者プロフィール。は、死去する少し前に文学仲間と撮影した記念写真で、左から池谷信三郎、中河與一、石浜金作、川端康成、菅忠雄。

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開発中の「渋澤農園分譲地」を歩く佐伯祐三。 [気になる下落合]

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 佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作、目白通り(当時は葛ヶ谷街道と呼ばれることが多かった)を描いた1926年(大正15)ごろのカラー画面をようやく観ることができた。以前にも一度、朝日新聞社版の『佐伯祐三全画集』(1979年)に収録されたモノクロ画像Click!でご紹介していたが、カラー画像によって新たに判明した風景の様子を踏まえ、改めて描画ポイントを検証してみたい。
 本作品のカラー画像は、某オークションに出品されたカタログに掲載されていたものだが、モノクロ画像ではうかがい知れなかった詳細な情報を得ることができる。また、本作品に描かれた画面の風景は、該当しそうなタイトルが「制作メモ」Click!には見あたらず、変色(紅葉)あるいは落葉しはじめた並木の様子を考慮すれば、1926年(大正15)10月以降に制作された可能性の高いことがわかる。
 そして、モノクロ画面では幅広い道路(目白通り=葛ヶ谷街道)右手の緩斜面が、雑草や低木が繁る草原か空き地のように見えていたが、カラー画像を確認すると下が草とりのゆきとどいた地面で、樹木が一定の間隔をあけて植えられており、しかも枝葉には剪定の手入れがなされているように見える。すなわち、右手の一帯は開発されたばかりの造成地や新興住宅地に多い、新築住宅の庭木を生産・供給する植木農園Click!だったのではないだろうか。そうなると、話がちょっとちがってくる。なお、右手の緩斜面は葛ヶ谷へと落ち込む斜面を修正し、目白通りを水平に保つために盛られた人工的な斜面(法面)だろう。
 以前のモノクロ画面で試みた描画ポイントの特定では、目白通り沿いに空き地や草原が多く残る落合第三府営住宅Click!の一画を、通りから眺めた風景だと想定していたのだが、その位置には植木農園のような施設は存在していない。カラー画像を改めて細かく観察すると以前の描画位置の特定から、さらに目白通りを200mほど西へ進んだポイントから東を向いて描いた画面ではないかと思われる。なぜなら、目白通りの右手(南側)には大正前期から植木農園とみられる「渋澤農園」が開業しており、佐伯がこの作品を描いた当時は東側から徐々に農園をつぶし、「渋澤農園分譲地」として販売中だったからだ。
 この作品が描かれる3年前、1923年(大正12)の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園は目白通り沿いの南側に拡がる大きな農園だったことがわかる。地番でいうと、下落合1551~1559番地から葛ヶ谷(現・西落合)にまたがる広い一帯だ。農園の東寄りには、農園主の渋澤邸と思われる大きな建物が採取されている。ところが、翌年に発行された「出前地図」Click!(下落合及長崎一部案内図/西部版Click!)では、一部の敷地が販売されはじめていたものか、地域一帯が「渋澤農園分譲地」という名称で記録され、農園の東寄りにあった渋澤邸とみられる大きな建物は解体されたのか見あたらない。
 同図によれば、渋澤農園の東端がすでに宅地造成を終えており、目白通り沿いの東端には2軒の建物が採取されている。また、渋澤農園の南側や西側に接して、住宅が建てられはじめている様子が見てとれる。ただし、「出前地図」の表記は要注意で、その地域にある程度の土地勘がある人々(住民たち)を対象に制作された地図であるせいか、道路や土地の形状は大きく変形されていい加減であり、また家々や施設の表記には場合によって100m以上の誤差が生じている点にも留意する必要があるだろう。「出前地図」は街並みや地形、土地の形状や距離などの正確さよりも、地元の住民が目的の住宅ないしは商店を探しだす利便性を優先した地図だからだ。
 事実、1925年(大正14)の「出前地図」と、同年の1/10,000地形図(修正図)とを比較すると、渋澤邸はいまだ解体されずに残っており、また渋澤農園の東西や南側も「出前地図」に描かれたようには、それほど住宅は建てこんでいないのがわかる。「出前地図」(下落合及長崎一部案内図/西部版)に採取された渋澤農園分譲地は、同地図の右上隅に描かれており、少し離れた南側や西側に建ちはじめた住宅を、大胆に距離をちぢめて採取している可能性を否定できない。また、北側(「出前地図」では下)の長崎村側(1927年より長崎町)には商店街があるように描かれているが、1929年(昭和4)現在の1/10,000地形図でさえ、住宅らしい家がポツンと1軒採取されているだけだ。おそらく、東側(同地図では左側)に並んでいた長崎村側の商店をひろっているうちに、スペースが足りずに少しずつ西側(同地図では右側)へとずれ、押してきてしまったのではないか。
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 昭和初期の1/10,000地形図を参照すると、渋澤農園分譲地にはようやく家々が建ちはじめ、周囲にも住宅が増えているが、1929年(昭和4)現在でもまだまだ空き地が目立つような風景だった。このあたり一帯が家々で埋まるのは、1935年(昭和10)をすぎてからだが、1940年(昭和15)から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、再び空き地が増えていく。それは、放射7号線(現・十三間通りClick!=新目白通り)計画が具体化し、葛ヶ谷(西落合)と長崎町の境界線に沿うように、道路工事が進捗してきたからだ。
 さて、画面に描かれたモチーフを具体的に観ていこう。1926年(大正15)現在、道幅が三間を大きく超える街道なみの道路は、以前にも書いたように下落合には目白通りしか存在していない。通り沿いには、トチノキ(マロニエ近種)のような街路樹が植えられ、モノクロ画像ではわからなかった紅葉や、落葉が進んでいるのがわかる。道路の右手(南側)は、ゆるやかな斜面を形成していて、そこには住宅の庭木用と思われる低木が一定の間隔ごとに植えられており、見るからに当時の落合地域には多かった植木農園だ。目白通りから、同農園の関係者ではない人々が勝手に入りこまないよう、道路沿いに柵が設置されているのも、ここが単なる空き地ではなく植木農園だった名残りを示している。
 渋澤農園では、新築住宅には不可欠な庭木用の樹木ばかりでなく、庭園に造られる花壇のために草花の種や苗を生産・供給する種苗(しゅびょう)農園も事業化していたのかもしれない。なぜなら、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図を参照すると、渋澤邸とその周辺には樹木の記号が描かれているが、葛ヶ谷にまたがる西側一帯はやはり周囲を柵に囲まれた草地表現になっている。そこには、さまざまな草花の種や苗が植えられ、育てられていたと考えても不自然ではないからだ。
 樹木の向こうに見えている赤い屋根の西洋館は、すでに農園主の渋澤邸ではない。分譲された敷地へ、新たに建設されたばかりの邸宅だ。すでに、1925年(大正14)の「出前地図」に渋澤邸が採取されていないのに加え、佐伯が描いた邸のかたちが、1/10,000地形図に採取された大きなL字型の渋澤邸と形状が一致しないからだ。佐伯が描いた邸は、凸字のような形状をしており、また樹木農園や種苗農園の関連建物とは思えない、屋根上に尖がりフィニアルを載せたように見えるモダンなデザインをしている。また、同邸の向こう側にも、赤い屋根の住宅が1軒見えている。
 さらに、パースのきいた目白通りの奥(東側)を見ると、樹木にさえぎられて見通しは悪いが、道路沿いに平家の建物が並んでいそうな気配がある。このあたりが、「出前地図」に採取された「溝口印刷所」や「加藤邸」だろうか。また、目白通りの左手には下水用の側溝Click!が設置されており、庭木を剪定した長崎村側の住宅が建っていそうだ。1929年(昭和4)の1/10,000地形図では、この位置には住宅が1軒しか採取されていないが、下水をわたる小さな石橋が見えるので、その邸の門へと通じる架け橋なのかもしれない。
赤屋根西洋館.jpg
空中写真1936.jpg
空中写真19450402.jpg
 描かれているのは、先述のように下落合1551~1559番地(のち下落合4丁目1551~1559番地)の一帯で、目白通りの左手は長崎村4142番地(のち椎名町6丁目4142番地)だ。そして、佐伯がイーゼルをすえているのは葛ヶ谷57番地(のち西落合1丁目105番地)と長崎村4142番地の境界あたり、目白通りの北側ということになる。現在の場所でいえば、佐伯祐三は目白通りと十三間通り(新目白通り)、そして新青梅街道がまじわる交差点の真ん中、やや北寄りの位置でほぼ真東を向いて制作していることになる。
 さて、画面に描かれた赤い屋根のモダンな西洋館は、写真などで特定が可能だろうか。下落合1559番地の一画に建てられたとみられる同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」によれば、同地番の「奥田」邸(1926年現在は助産婦の奥田ノブが住んでいた)に相当する。1936年(昭和11)の空中写真では粒子が粗くてよくわからないが、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲Click!(4月13日)の直前、より鮮明な米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真には、渋澤農園跡の分譲地に奥田邸とみられる住宅がとらえられている。凸字のようなかたちと、佐伯が描いた邸のかたちとがよく一致している。だが、同年4月13日夜半あるいは5月25日夜半の空襲のどちらかは不明だが、幹線道路沿いにバラまかれた焼夷弾によって同邸は焼失しているようだ。戦後1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、まったくちがう形状の住宅が新たに建設されている。
 佐伯祐三が、『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)を描いたころ、渋澤農園分譲地は東側から徐々に宅地造成が進んでいる真っ最中だったろう。奥田邸の西側(画面の手前)には、いまだ植木農園の風情が残り、東側に拡がる縁石が設置されたばかりの造成地には新しい道路が拓かれ、建てられたばかりの電柱群Click!が南へ向かってのびている。
 そして、1930年協会Click!画家たちClick!に興味のある方は、もうお気づきだろうか? 奥田邸のさらに奥(南東側)に見えている、赤い屋根を載せた家屋の右手(南側)あたり、地番でいうと下落合1560番地には1926年(大正15)の秋現在、前田寛治Click!がアトリエをかまえていたはずだ。佐伯祐三は、下落合の西北端にあたる前田寛治のアトリエClick!に立ち寄ったあと、あちこちが造成中で工事中の渋澤農園分譲地を眺めながら、画道具を抱えて歩いてきた。いまだ空き地の多い赤土がむき出しの造成地には、ポツンポツンと住宅が建設されはじめている。佐伯は目白通りを北へわたると、建てられたばかりの赤い屋根を載せた奥田邸をモチーフに入れて、さっそくパースをきかした画面の構図を決めにかかる。下落合661番地の佐伯アトリエClick!から、直線距離で900mほど西へ離れた下落合の風景だ。
奥田邸1938.jpg
奥田邸跡現状.jpg
目白通り描画ポイント.jpg
 ひとつ気になるのは、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、前年作成の「出前地図」(1925年)の表現とはかなり異なり、渋澤農園分譲地の目白通り(葛ヶ谷街道)に面したちょうど真ん中あたり、奥田邸のすぐ北側に「溝口印刷所」が描かれている点だ。また、「出前地図」には採取されている「加藤」邸が、「下落合事情明細図」では造成を終えた宅地(空き地)表現になっている。「下落合事情明細図」もフリーハンドの地図なので、実際の位置関係や距離感が曖昧で錯誤が多いのは「出前地図」と同様なのだが……。

◆写真上:1926年(大正15)秋に描かれた佐伯祐三『下落合風景(葛ヶ谷街道)』(仮)で、前田寛治のアトリエから直線距離で約100mしか離れていない。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる渋澤農園。は、宅地分譲がはじまった1925年(大正14)作成の「出前地図」。南北が逆の同地図だが、いまだ渋澤農園の周囲は家々が稠密ではないので、かなりデフォルメされているとみられる。は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。
◆写真中下は、下落合1559番地の奥田邸と比定できる西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)と1945年(昭和20)4月2日の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる奥田邸とその周辺。は、奥田邸のあったあたりの現状(左手)。は、佐伯祐三の描画ポイントから画角風景の現状。現在は、3本の幹線道路の交差点北寄りの位置にあたり、当時の面影はまったくなく佐伯祐三の描画位置に立てば数秒でクルマにはねられるだろう。さっそく同作のカラー画像と描画ポイントを『下落合風景画集』Click!に反映したが、この6月1日に第8版を出したばかりなのに、すでに第9版ということになるのだろうか?w

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