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吉川英治が描く松廼家露八への眼差し。 [気になる下落合]

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 上落合553番地に家を建てて住んでいた吉川英治Click!は、せっかく新築した木の香りも高い邸にはだんだん寄りつかなくなり、旅先や温泉地ですごすことが多くなっていく。浪費家でときにヒステリーを起こす、やす夫人から逃げるためだった。
 吉川英治は一時期、下落合にも住んでいるようだが、上落合で建築中の自邸を監督する仮住まいの借家だった可能性が高そうだ。上落合553番地(現・上落合2丁目)の新邸は、少なくとも1928年(昭和3)には竣工していたとみられ、時事通信社が出版していた『時事年鑑』などでは、1931年(昭和6)までの居住が確認できる。1932年(昭和7)半ばには、杉並町高円寺1016番地に転居しているので、せっかく建てた新邸には彼の30歳代後半の時期、わずか5年弱しか住まなかったことになる。
 そもそも、吉川英治が上落合に自邸を建設したのは、やす夫人の浪費癖を抑えるためだった。貯金をぜんぶはたいて家を新築してしまえば、やす夫人は実質的にムダづかいができなくなるという算段だったが、それでも周囲に迷惑をかける浪費癖は収まらず、おカネさえあればそれをすべてつかい切るまでの散財をやめなかった。自由につかえるカネがなくなると、癇癪を起こしては夫にまとわりつくため、吉川英治はまったく仕事に集中できなかったようだ。今日的な病名でいえば、カネを目の前にするとなんらかの強迫観念にとらわれる精神疾患の一種(パーソナリティ障害)ともいえそうだが、結局、やす夫人とは1937年(昭和12)に協議離婚することになる。
 晩年には「九星気学」に凝っていた池波正太郎Click!は、この上落合時代の吉川英治について随筆『吉川氏の星』(1982年)の中で、次のように書いている。
  
 人間の一生は、衰運五年、盛運四年の繰り返しによっていとなまれてゆく。吉川氏の年譜によると昭和五年(三十八歳)の項に「家事かえりみず、内事複雑、出奔して沿革の温泉地を転々」とある。この年は衰運の二年目で、九紫の星は暗剣殺と重なってしまう。どうにもならぬ年まわりだ。おそらく、その前年から苦悩が始まっていたにちがいない。
  
 池波正太郎はこう書くが、妻を選んで生活をともにした結果、そもそも性格から生活観までがまったく合わなかったわけで、「九紫の星」に起因するかどうかは不明だが、責任の一半は確実に吉川英治自身の「人を見る眼」にあるのだろう。
 吉川英治は、上落合時代に前期の代表作となる、『松のや露八』の構想を練りはじめている。松廼家露八(まつのやろはち)は、新吉原Click!をはじめ各地の遊廓や花街Click!幇間Click!(太鼓もち)だった人物だが、もともとは幕府一ツ橋家の近習番頭取・土井家の長男という旗本格の家柄で、本名は土肥庄次郎といった。土肥庄次郎(松廼家露八)ほど、明治以降の小説や随筆に数多く記録された人物はいないのではないか。1895年(明治28)に『文学界』へ連載がスタートした、樋口一葉Click!『たけくらべ』にも早々に登場している。また、それだけ江戸東京では人気の高い幇間だったのだろう。
 土肥庄次郎は1833年(天保4)、小日向武島町(現・文京区水道1~2丁目)に生まれ、子どものころから剣術や槍術、砲術、馬術、泳術などを習わせられ、それぞれの腕前は免許皆伝並みだったというが、特に祖父・土肥半蔵が得意だった槍術に関しては、人に教えてまわるほどの腕だった。ところが、槍術を教えてまわると教授料の小遣いが手もとに入り、懐が温かくなると当時の若者たちがそうだったように新吉原へ入りびたり、特に幇間(太鼓もち)の芸技にあこがれて、ついには土肥家から勘当されてしまう。
松のや鶴八1990講談社.jpg 松廼家露八.jpg
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彰義隊碑上野.JPG
浅草寺鎮護堂幇間塚112名1968.jpg
 家督は弟の土肥八十三郎が継ぐことになり、土肥庄次郎は両刀を腰に指して世を渡るよりは、遊芸の道で生きるほうが気が晴れると、吉原の幇間・荻江清太へ弟子入りしている。同時に、座敷長唄の一派として流行していた「荻江節」の荻江露友にも弟子入りし、荻江露八と名のるようになった。だが、同じ江戸市中で幇間として生きる荻江露八(土肥庄次郎)は、土肥家にとっては家名の恥っつぁらしで、面汚し以外の何者でもなかったため、1857年(安政4)のある日、小日向へ呼びだされて祖父や親から切腹を命じられた。ところが、介錯に名のりでた叔父・土肥鉄次郎の粋なはからいで、彼の首ではなく髷だけ落として坊主にし、庄次郎は死んだこととして「江戸処払い」(江戸追放)の処分で済んでいる。
 1857年(安政4)に大江戸をあとにした露八は、大阪や長崎、京などの遊廓や待合で幇間としてすごしているが、どの町々も露八の性にはあわず、明治維新とともに大江戸へひそかに舞いもどっている。そして、なぜか土肥庄次郎の本名にもどって彰義隊Click!に参加し、弟の土肥八十三郎が隊長をつとめる第一赤隊の「第一赤隊外応接係」という、珍妙な役職を与えられている。もちろん、ほかの隊にはこんな役職はなく、そのまま解釈すれば対外スポークスマンまたは応接・接待係、あるいは間諜の役割りもあったのかもしれない。弟の土肥八十三郎にしてみれば、太鼓もちになって勘当され、江戸を追放された兄を隊士に迎えるのに、隊内でもそのポジションにかなり苦労したのだろう。
 吉川英治の『松のや露八』では、弟の土肥八十三郎がなぜか「尊王攘夷」思想の持主で、江戸を出奔して倒幕に加わるという正反対の妙な展開になっている。もちろん、薩長政府流れの大日本帝国がつづく当時としては、彰義隊に肩入れをしたような小説は書きにくかったろうし、幕臣だった土肥庄次郎(松廼家露八)をかなり臆病で滑稽に描いている点も、薩長閥が生きていた当時の遠慮した表現なのだろう。もし同作が、大日本帝国が滅亡した敗戦後に書かれたとすれば、まったく異なる展開になっていたかもしれない。
 土肥庄次郎(露八)は、応接・接待係にしては常に最前線で戦っている。「隊外応接」だから、やってきた敵と最前線の急先鋒として常に対峙するのは、「接待係」だからしょうがないのかもしれないが、まずは黒門Click!を出て忍川の三橋で敵を迎撃している。畳を何枚か重ねてバリケードを築き、敵の侵入を防ごうとしたが、スナイドル銃の貫通力には無力でたちまち黒門まで後退している。そこでも、スナイドル銃とアームストロング砲でひどいめに遭った露八は、いくら武術で鍛えても刀鎗や弓矢が銃火器Click!にかなうわけがないと悟り、根岸から古巣の新吉原へと落ちのびた。新吉原へ落ちのびるのが、いかにも松廼家露八(土肥庄次郎)らしくておかしいが、彼をかくまう馴染みの妓楼があちこちにあったのだろう。
黒門.JPG
彰義隊の墓(円通寺).jpg
土肥庄次郎記念碑(円通寺).jpg
 それでも、彰義隊の残党狩りがきびしくなると、露八は新吉原をでて千住から飯能、伊香保と逃れ、品川沖に停泊していた榎本武揚の幕府艦隊に合流する。ここで、露八は松本良順Click!とは異なり、榎本武揚に説得され仙台から箱館(函館)へ向かおうとするが、乗船した咸臨丸が老朽化しており、暴風雨に遭って難破し静岡の駿河湾(清水港)へ漂着してしまう。ここで、露八は箱館いきをやめて新吉原へもどるが、ほどなく徳川慶喜Click!が住み幕臣たちが集まっていた静岡の花街で幇間をしている。だが、慶喜をはじめ幕臣たちが続々と東京へもどりはじめると、露八も再び新吉原に落ち着いている。
 事実を追いかけるだけで、時代小説そのもののような土肥庄次郎(松廼家露八)の生涯だが、なぜ旗本をやめ太鼓もちになった露八が、ハナから負けると知れている彰義隊の戦いに舞いもどってきたのか、現代でもさまざまな解釈がなされている。彼の彰義隊への参加に、「太鼓もち風情が」と蔑んだ彰義隊頭取だった本多晋は、のちに反省して次のように述べている。1906年(明治39)に刊行された、『文章倶楽部』(臨時増刊号)から引用してみよう。
  
 余かつて翁(松廼家露八)の業を賤しみことありしが、倩々(つくづく)方向の世間を見れば、所謂顕官紳士なる者、五斗米の為めに其腰を屈め、朝に卿儻(きょうとう)に驕(おごり)て、夕に権門に阿附し、賄(まかない=賄賂)を収めて公事を私し、巧に法網を潜て靦然(てんぜん)耻ぢざる者少からず。翁や平素紅粉の輩に伍し、客を迎て頭を低るゝは其分なり、諛言(ゆげん)を献するは其業なり、弦歌舞踏は其芸に糊(こす)るなり、一も世に耻ることあるなし。余が是を賤みしは洒々落々たる其心事を知らざりしのみ。(カッコ内引用者註)
  
 いわば、彰義隊頭取の“自己批判”の文章だが、幕府の旗本も薩長政府の官吏たちも、権勢のある者たちへ心にもない阿諛追従を並べたてては日々の飯を食い、少しでも利益を得ようと媚びへつらうあさましい様子はまったく同じで、松廼家露八(土肥庄次郎)は身をもって象徴的な職業を選び、あからさまで皮肉をこめた生き方を演じて見せたのだろう……と想像している。そこにはハッキリと、近代的な自我にめざめた本多晋の思考がうかがえ、松廼家露八に対する現代的な解釈に通じるものが感じられる。
 けれども、これではなぜ露八が幇間の仕事を放りだして、必敗の上野戦争に馳せ参じたのかが不明だ。それまでも、幇間を“休業”しては何度か幕府軍に加わっている。危機を迎えた幕府に恩義を、また旗本という武家としての矜持を常から感じていたのなら、幇間を廃業して幕府軍に“一浪人”として参加してもよかったはずだ。だが、露八はすぐに幇間業へと舞いもどり、いわゆる主な戊辰戦争へは参戦していない。そして、多勢に無勢で敗れるのが自明な彰義隊の上野戦争へ参戦している。これは、戦場が北へと移るとに転戦していった医師・松本良順Click!とは、明らかに異なる選択であり意志を感じる。
 大江戸へ薩長軍が進駐してきた際、新吉原にもどっていた露八は、なにか我慢のできない出来事に遭遇しているのではないか。幕末に起きた薩摩の益満休之助Click!による婦女子への無差別辻斬りや火つけ押込み強盗の件か、荒廃した故郷である江戸の街の姿か、あるいはわがもの顔にふるまいはじめた傲慢な薩長への反感か、とにかく堪忍袋の緒を切るなんらかの事件ないしは事態に遭遇しているのかもしれない。それについて、松廼家露八は生涯口にすることはなく、明治以降も新吉原へ客としてやってくる、政府高官となった昔なじみの榎本武揚と酒を酌み交わしては、ひょうきんな芸を見せるだけだった。
 余談だが、大江戸の街を恐怖に陥れたテロリスト・益満休之助だが、彰義隊との上野戦争で受けた銃創がもとで死亡している。だが、“流れ弾”といわれるこの銃創は背後から、すなわち「味方」から撃たれたとする解釈が現代では多く見うけられる。江戸市中で混乱を引き起こすため、婦女子をはじめとする一般市民を大量に殺傷したテロ活動の口封じのために、上野戦争のドサクサで薩長軍から消されたのではないかという解釈が主流だ。
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 松廼家露八が、わずか77年Click!で滅んだ薩長政府(大日本帝国)の最期を見とどけていたら、どのような感慨をおぼえただろうか? 本多晋のように解釈すれば、それでも幇間を平然とつづけていたのかもしれない。あるいは、敗戦後に吉川英治が『松のや露八』を執筆していたら、どのようなストーリー展開になっていたのだろうか? 太鼓もちでありながら、それでも鋭い武家の眼差しを失っていない彼の肖像を見るにつけ、ひょうきんで臆病で胡乱な人物には、決して描かなかったような気が強くするのだが……。

◆写真上:1931年(昭和6)まで、上落合553番地に建っていた吉川英治の新邸跡。
◆写真中上は、1990年(平成2)に出版された吉川英治『松のや露八』(講談社版/)と主人公の松廼家露八(土肥庄次郎/)。中上は、戦前に撮影された書斎で執筆中の吉川英治。中下は、上野山に建立された彰義隊戦死者碑。は、1968年(昭和43)に浅草寺の鎮護堂に建立された112名の幇間名が刻まれた幇間塚。
◆写真中下は、千住の円通寺に保存された上野寛永寺の黒門。門柱や格子のあちこちが、強力なスナイドル銃で穴だらけだ。は、同じく円通寺に眠る彰義隊士たちの墓。は、同寺の土肥庄次郎記念碑。土肥庄次郎(松廼家露八)の実質的な墓所だが、現在は記念碑の中央から折れて上半分は碑の裏側に置かれている。
◆写真下は、新吉原の中央を貫く仲之町で吉原稲荷(吉原弁天)社側から眺めた大門方面。中上は、1888年(明治21)に作成された広瀬源之助『吉原細見記』の幇間リスト。中下は、晩年の松廼家露八。下左は、寺井美奈子『松廼家露八』を収録した1969年(昭和44)出版の『ドキュメント日本人9/虚人列伝』(學藝書林)。下右は、昨年(2023年)出版された目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち/明治の名物幇間 松廼家露八の生涯』(文学通信)。
おまけ
 明治末近くに描かれたとみられる、新吉原の夜景(作者不詳)。右手に見えている3階建ての楼閣は、その建物の意匠からのちに板橋へと移築された「新藤楼」だろうか。
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落合第一府営住宅での暮らしが長い河野伝。 [気になる下落合]

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 目白文化村Click!の第一文化村に建てられた中村正俊邸Click!神谷卓男邸Click!の設計、安食勇治邸Click!(のち会津八一邸Click!)が建てられる直前、同邸敷地に建っていたモデルハウスClick!、また文化村倶楽部Click!の設計なども手がけている可能性が高いのが、箱根土地本社Click!に嘱託社員としてつとめていた建築士・河野伝(傳:つとう)だ。
 河野伝は、大正期に目白文化村の建設がスタートする以前から、下落合の落合第一府営住宅Click!に住んでいたとみられ、F.L.ライトClick!に師事していたころから堤康次郎Click!とは知りあいだった可能性が高い。落合府営住宅の土地は、もともと堤康次郎Click!郊外遊園地Click!のひとつである不動園Click!を前谷戸に開発していた時代に、下落合の地主(下落合出身の妻の姻戚Click!含む)との協業により、将来の住宅地開発を意識した戦略上から、東京府へ寄付した目白通り沿いの土地だった。だから、落合第一府営住宅の河野伝邸も、堤康次郎が箱根土地設計部の嘱託社員としての契約を前提に、東京府住宅協会への便宜をはかる声がかり(口利き)で建設されているのかもしれない。
 下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸は、目白通りに近い北端、同じ落合第一府営住宅内の沖野岩三郎邸Click!(8号)から道路を隔てて東へ2軒隣り、土屋文明邸Click!(20号)からもやはり道路を隔てて北へ2軒隣りという位置に建っていた。河野邸の北東側には、銭湯「菊ノ湯」Click!が営業しており、風向きによっては煙突からの煤煙で洗濯物が汚れたかもしれないが、会社へは邸前の道をそのまま南へ250mほど歩けば、3分前後でレンガ建ての箱根土地本社ビルのエントランスに立つことができたろう。
 河野伝は、1920年(大正9)にはすでに竣工していたとみられる同邸に住みはじめ、箱根土地本社が1925年(大正14)に国立Click!へ移転したあとも、下落合にそのまま住みつづけている。日本紳士録や興信録によれば、1941年(昭和16)現在も下落合3丁目1502番地に住んでおり、おそらく1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、自宅が全焼するまで住みつづけているとみられる。なお、たとえば1931年(昭和6)に刊行された『日本人事録』(日本人事通信社)などでは、河野伝の住所を「下落合目白文化村」としているが、彼が目白文化村に住んだことは一度もない。河野伝は、大正中期から1945年(昭和20)まで、一貫して落合第一府営住宅16号に住んでいる。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら彼は収録されていない。
 河野伝は、1896年(明治29)に宮崎県で生まれ、京都高等工芸学校の建築家を卒業すると、帝国ホテルClick!を建設中だったF.L.ライトに師事している。だから、書籍や資料類には建築家としての仕事について書かれたものが圧倒的に多く、拙サイトでも下落合の箱根土地本社と目白文化村開発の関係から、彼の建築分野についての仕事に多く触れてきた。けれども、昭和初期には箱根土地の開発事業、すなわち建築業務の全般から離れがちになり、河野伝の関心は明らかに音響や映像の世界へと向かっている。昭和期に入ると、ほどなく箱根土地の嘱託社員を辞めてしまったのだろう。
 昭和初期の映画関係の資料では、河野伝は建築家ではなく映像分野の“業界人”として紹介され、下落合1502番地の住所には「コーノトーン研究所」の名称が付加され、建築家の肩書は副次的な扱いになっている。たとえば、1935~1936年年(昭和10~11)にキネマ旬報社から刊行された『全国映画館録』では、下落合3丁目1502番地の河野邸は「コーノトーン研究所」であり、姻戚とみられる河野亨という滝野川に住む人物が、技術部門を担当している様子がうかがえる。1936年(昭和11)には、「コーノトーン映画録音研究所」と社名を変更し、本社および工場を河野亨が住んでいた滝野川に設定している。そして、大阪に出張所を設け名古屋、高松、小樽の3ヶ所には特約店を設置している。
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 さらに、1941年(昭和16)には研究所の拠点を豊島区巣鴨6丁目1336番地に移転しており、事業はコーノトーン式発声映写機製作販売と明記されており、代表者も河野伝と河野亨のふたり体制となっていた。また、創業を1931年(昭和6)4月としており、コーノトーン研究所が本格的かつ組織的にビジネスを開始したのが同年なのだろう。それ以前は、あくまでも個人的な研究所の体裁だったとみられる。
 1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所がすでに映画の最前線にいた様子を伝える記事が残っている。同年1月5日にキネマ週報社から刊行された「キネマ週報」の、「トーキー時代◇簡易保険局のトーキー映写機試験とその成績◇」から引用してみよう。
  
 当日神田日活館の競映に参加した国産トーキー業者はP.Wトーキー、コーノトーン、オールキネマ、岡本洋行の四社であつた。当日参加しなかつたもの以外に呼ばれていた者も相当あるとのことである。試験委員としては通信省技師、日活社員と買上元たる簡易保険局の人々等で、厳然たる中に試験が開始せられた。試験フヰルムは日活のウエスタン式による「丹下左膳」の一部とP.C.Lの「ほろよひ人生」の一部を使用したが、此の試験フヰルムにはそれぞれ特長があり一概に良い録音とは言はれないが国産トーキーの代表的なもので高音低音共に試験にはもつてこいのものである。
  
 1934年(昭和9)の時点で、コーノトーン研究所は政府機関のコンペに参加するほどに、「発声映写機」の製品開発が進んでいたことがわかる。
 研究所の名がしめすとおり、コーノトーンはトーキー映画時代の音声と映像がシンクロする発声機や映写機を開発し、日本国内ばかりでなく海外へも輸出しはじめている。戦前に制作された、コーノトーンの仕組みを解説するパンフレットには、大きな広告プレートが屋上近くに設置されたビル(滝野川区滝野川にあった研究所ビルか?)がメインビジュアルとなっており、トーキー映画の普及とともにコーノトーン映画録音研究所は大きく躍進したのだろう。このころの河野伝は、同研究所の所長としてコーノトーン事業に傾注しており、すでに建築の仕事はほとんど辞めてしまったと思われる。
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全国映画館録1935キネマ旬報社.jpg コーノトーンパンフレット.jpg
 また、トーキー映画との関連でコーノトーン式の製品開発を「戦後」とする資料や記事も多いが、明らかに昭和期に入るとともに下落合の河野伝邸、および滝野川区滝野川の河野亨邸は「コーノトーン研究所」と名づけられており、1945年(昭和20)の敗戦の時点で、すでに20年近くにわたる研究開発の履歴を確認することができる。先の「キネマ週報」の記事や、「コーノトーン」パンフレットの制作、滝野川の河野亨邸をR&Dならびに工場敷地の本拠地とし、各地に出張所や特約店を展開していったのは1935年(昭和10)前後だから、昭和の最初期から研究開発を約10年間ほどつづけたうえで、ようやく製品化(量産化)にこぎつけたのが同年あたり……ということになるのだろう。
 当時、日本の映画館では活動弁士Click!が活躍する無声映画の時代から、トーキー映画Click!が急速に普及しはじめており、映画の撮影現場ではフィルムとシンクロして音声をひろうマイクや録音機、全国の映画館ではフィルムを映写する際には音声と映像が連動して再生できる映写機が、飛ぶように売れはじめていた時期と重なっている。コーノトーン映画録音研究所は独自に開発した録音再生技術をベースに、この波に乗って大きく成長し、海外にまでコーノトーン式35mm映写機を輸出するまでになったのだろう。
 また、1935年(昭和10)を契機にコーノトーン仕様をはじめ、映像と音声を同時に録画・録音し再生できるトーキー映画の撮影も活発化している。同年に誠光堂から出版された、仲木貞一,・吉田正良共著『最新トーキーの製作と映写の実際』から引用しよう。
  
 本邦のトーキー革新期に於ける主なる作品としては、/日本発声=大尉の娘。叫屋小梅。ふるさと。物言はぬ花。雨下天晴(支那映画)。/映音式=舶来文明街。昼寝もできない。/コーノトーン式=午前二時半。/土橋式=マダムと女房。若き日の感激。其他。/吉阪式=東京近郊巡り。漫画数篇。オリムピツクサウンドニュース。東日、大毎サウンドニュース其他。/PCL式=昭和新選組。とても笑へぬ話。純情の都。
  
 この中で、コーノトーン仕様を採用した監督:細山喜代松『午前二時半』(富士発声/1932年)は観たことがないが、吉阪式のおそらくドキュメンタリー映画とみられる『東京近郊巡り』(詳細不詳)が気になっている。ほぼ同時期の作品と思われるが、昭和初期の東京郊外だった落合地域を撮影してやしないだろうか。
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 1940年(昭和15)になると、河野伝は映画の企画製作にも取り組んでいる。同年4月には、いずれも教育ドキュメンタリー映画の『音感』と『オモチヤの科学』を製作している。滝野川のコーノトーン映画録音研究所には、映画撮影用のスタジオも設置されていたのだろう。

◆写真上:下落合1502番地(落合第一府営住宅16号)の河野伝邸跡(画面左手)で、奥のやや右手に見えている高層マンションの隣りが箱根土地本社跡。
◆写真中上は、河野伝が設計した第一文化村の中村正俊邸。中上は、同じく第一文化村の神谷卓男邸とのちに安食邸建設予定地に建つモデルハウス。中下は、やはり河野伝設計といわれる1926年(大正15)撮影の国立駅Click!は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第一府営住宅16号の河野伝邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる河野邸で右手の排煙は銭湯「菊ノ湯」。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる河野邸。中下は、河野伝()と1936年(昭和11)発行の「全国映画館録」収録の河野伝・河野亨「コーノトーン研究所」()。下左は、1935年(昭和10)発行の「全国映画館録」収録のコーノトーン映画録音研究所と各出張所・特約店。下右は、コーノトーン技術の解説パンフレット。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「コーノトーン発声機」媒体広告。中上は、海外まで輸出されたコーノトーン35mm映写機。中下は、1940年(昭和15)出版の『日本文化映画年鑑』(文化日本社)に掲載された河野伝・製作『音感』と『オモチャの科学』の紹介。

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先生と生徒が逆転した会津八一と曾宮一念。 [気になる下落合]

会津八一「筆洗水滴」1929頃.jpg
 会津八一Click!が1929年(昭和4)ごろ、盛んに油絵を描いていたのはあまり知られていない。その作品の多くは知人にやったり、デッサンを練習したスケッチブックも弟子にあげてしまったり、目白文化村Click!にあった文化村秋艸堂Click!山手大空襲Click!で全焼してしまったりと、あまり作品が残っていないせいもあるのだろう。
 会津八一Click!は、早大文学部英文科を卒業しており、もともと西洋美術には興味をもっていたとみられる。目白豊川町Click!の自宅に、小泉八雲Click!の三男で絵ばかり描いて勉強しない小泉清Click!を下宿させたり、下落合の落合尋常小学校Click!脇に通う霞坂に自邸をかまえていた関係から、周辺の画家たちと交流したりしているので、書や画の墨筆とは別に、自然に油彩の絵筆をとってみたくなったのだろう。
 下落合464番地の中村彝Click!とは一度きりしか邂逅していないが、下落合623番地の曾宮一念Click!とは落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!時代も、また下落合1321番地の第一文化村(目白文化村)に移った文化村秋艸堂Click!時代も、会津八一が癇癪を起して「無礼者!」と破門状を送りつけられることもなく、しじゅう親しく交流している。早稲田中学校Click!では、曾宮一念Click!が5年生のとき、会津八一は英語教師として赴任してきており、クラブ活動の美育部(いわゆる美術部)では生徒指導にあたっている。同校美育部からは、中村彝や曾宮一念、萬鉄五郎Click!鶴田吾郎Click!、野口柾夫、小泉清Click!、大内章正、内田巌Click!、吉武正紀、大泉博一郎ら数多くの洋画家を輩出している。
 ちなみに、第一文化村に建っていた旧・安食勇治邸へ、会津八一が霞坂Click!から転居したのは1935年(昭和10)のことだが、安食邸の“貸家”を紹介したのが曾宮一念Click!だった可能性が高いことがわかる。テニス好きな安食一家と曾宮一念は、かなり以前からの知り合いだったようで、「この家は私の友人安食勇治氏が持主であった」(「秋艸堂をしのぶ」1965年)と書いているので、安食一家は第一文化村の邸宅を売却したのではなくどこかへ転居したあと、代わりに会津八一へ自邸を貸していたことがわかる。その仲介をしたのが、両者ともに親しい曾宮一念ではなかっただろうか。
 曾宮一念は、霞坂時代にも増して文化村秋艸堂には散歩がてら足しげく通っており、料治熊太Click!ともしばしば顔をあわせていると思われる。会津は、霞坂から文化村へ転居するころ女中も変えているが、曾宮は留守がちな会津に代わって、女中の“きい女史”とともに来客の対応に追われており、会津いわく「無礼なる来客」のほとんどは彼の傲岸不遜な態度に対する苦情だった。また、霞坂秋艸堂時代の少女だった女中の“しまさん”や、文化村時代の新しい“きい女史”を呼ぶときは名前を呼ばす、いつも「オンナ!」と怒鳴って呼びつけていたそうで、曾宮一念もビックリして慣れるまで時間がかかったらしい。
 会津八一が、頻繁に洋画を描いていたのは霞坂の秋艸堂時代で、弟子の安藤更生Click!がその様子を観察している。1965年(昭和40)に中央公論美術出版より800部限定で刊行された、『会津八一の洋画』収録の安藤更生「会津八一の洋画」から引用してみよう。
  
 先生の油絵は昭和四年に描いたものしか残ってゐない。否、昭和四年にしか洋画は描かなかったと云った方が正確だらう。四十九歳の時である。なぜ昭和四年になって油絵を描いてみる気になったかは、よくわからない。先日も、当時毎日のやうに秋艸堂へ出入りしてゐた料治熊太さんに訊いてみたが、料治さんも「ただ何となく描いてみようと思ってやってみたんだな」といふ返事だった。(中略) まづスケッチブックを買って来て、鉛筆でデッサンをはじめた。画材は書斎にあった簡単なかたちをしたものを選んで、厚い洋書、四角い紙箱、ガラスのコップ、マッチ箱などだった。曾宮さんに相談して洋画の約束などの指導を受けた。(中略) それから神田の文房堂へ行って、スケッチ箱だのパレット、絵具、画筆などの道具一式を買って来た。これも曾宮さんの示唆があったのだらう。大学が夏休みになってから、毎日裸でスケッチ判へ油絵を描いてゐた。画材はやはり身辺の文房具や書物の類だったが、紅い根來塗の小盆に厚い切子ガラスのコップをのせた静物が一番傑作で、これは誰にも与へずに、後までも秋艸堂に掛ってゐたが、戦災で焼失してしまった。
  
 おそらく、文房堂Click!へ画材道具を買いにいったときも、曾宮一念が同行しているのだろう。早稲田中学時代の、先生と生徒の関係が逆になってしまった会津八一だが、曾宮一念は霞坂の秋艸堂へ毎日通っては洋画の基礎を教えている。
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 会津八一は、書の余白に草花や百萬塔などの墨絵を以前から描いてはいたが、いわゆる“文人画”の域を出ていなかったので、絵画の勉強は3Dの物体を2Dに写すデッサンの基礎からだった。洋画に用いる道具について、その使用法からひとつひとつ学んでいる。曾宮が同行したとみられる文房堂で、会津は3号の箱と油絵の具一式をそろえている。
 では、気むずかしくてなにかと怒鳴るクセのある癇癪もちの生徒の、にわか先生となってしまった曾宮一念の証言を、同画集の「秋艸堂をしのぶ」より引用してみよう。
  
 「普通立体を表わすには明暗の度合による」位の事は話したと思うが、会津さんは飲み込みが早く、且つ良い意味での器用な人であったと思われる。あの大柄で一見フテブテしい體に似ぬ繊細で而も確に物を把握する明敏さを持っていた。この点では鈍重とは反対な人のように思われる。最初の作は小形の李朝の水滴で陶器の質と立体とが落付いた気品を表わしていた。「岸田劉生に擬すか」と笑っていた。今度、複製される三点の画の中には、この水滴処女作が無い。その翌週には梨瓜三個を盆にのせてかいてあった。前に比してらくらくと描写され、野菜の生々しさがよく出ていた。風景や花や人物はかかなかったようである。二、三の静物をかいて案外うまく行ったのと、その頃から専門の方の多忙とで画はかかなくなったらしい。
  
 曾宮一念は洋画を教えるかたわらで、霞坂秋艸堂の様子をいろいろ観察している。会津は、昭和初期に起きた熱狂的なハトブームClick!に影響されたものだろうか、スズカケバトを何箱も飼っていた。ハトたちの世話をしながら、いちいち話しかけていたというから、霞坂では孤独な生活だったのだろう。曾宮は、スズカケバトのつがいをもらっている。佐伯祐三Click!からは、1927年(昭和2)の第2次渡仏直前に7羽のニワトリClick!をもらっているので、下落合ではなにかと鳥に縁のある曾宮一念だ。
 曾宮は2羽のハトを水彩画で描き、会津八一にプレゼントしている。そのお返しに、会津八一からは「湘潚夢裡秋」と書いた色紙をもらっており、彼は中国の漢詩からの引用ではないかと推測しているが、「潚湘八景詩」をもじった会津のオリジナルではないだろうか。本来は「潚湘」と書くところ、書や字のかたち(構成)や好みから「湘潚」としているような気がする。当時、会津八一は書の構成について、「自分は新聞の活字によって文字の組立を工夫した」などと曾宮に語っているので、これが冗談でなければ書は絵画と同様、手先の技術や器用さではなく構成がもっとも重要なテーマだととらえていたことになる。また、曾宮には書跡が「一見曲っても重力の釣合をとって書けば良い」とも話している。
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 曾宮一念は、会津八一に関して面白い証言も、『会津八一の洋画』収録のエッセイに残している。曾宮と会津とはかなり親密だったが、同時に画家仲間でもある渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)とも友人だった。つまり、ふたりの関係について双方から想いのたけを聞けた、唯一の人物が曾宮一念だったことになる。中でも驚いたのは、1931年(昭和6)に再婚相手の亀高五市が死去すると、会津八一は亀高文子に追悼文を寄せていることだ。つまり、渡辺與平Click!が死去したあともそうだが、亀高五市の死去後も懲りずにさっそく彼女を訪ねて、神戸のアトリエを訪問している。
 曾宮一念は、会津との最初のきっかけを亀高文子から直接聞いている。それによれば、渡辺家に会津八一が早稲田大学の当時は学長だった高田早苗Click!(ちなみに総長は大隈重信Click!)をともなって訪ねてきたときにはじまる。
  
 渡辺家は早稲田の近くにあって父親が学生を愛していたので学生の出入が多かったという。(文子がいた事も一因だろうが) 或る時高田早苗博士と会津さんとが改った服装で訪ねて来た。文子に結婚を申込みに来たのだという。どう断ったか知らないが、それは受けられなかった。こんな事は詳しく聞くべきでない。「どうして断ったの?」「どことなく私は嫌いだったから」 そのイキサツはそれ以上きかなかった。ただ、與平の死後に会津さんが再び結婚を申込んだこと、更に五市の死後訪問した事をきいた。與平との事は若いローマンスとして画学生間にもてはやされたし、再婚の時は真面目な亀高船長談まで紙上にのって文子さんの立場を明にしてあった。
  
 「詳しく聞くべきでない」などとしながら、曾宮一念はしっかり彼女からいろいろな証言を引きだしているのがおかしい。渡辺ふみの父親である日本画家の渡辺豊洲は、娘が洋画家になりたいというのを喜び、わざわざ横浜から本郷菊坂町の女子美術学校Click!が近い家へ転居するほど、当時としてはめずらしい柔軟な考え方のできる人物だったので、愛娘が「どことなく嫌い」といえば、なにか理由をひねりだしてはモノモノしい会津からの求婚を断ったのだろう。だが、会津八一はあきらめなかった。
 渡辺與平が死去したあと、会津八一は自身の肖像画Click!を描いてくれるよう渡辺ふみに依頼している。彼女にとっては気の進まない仕事だったろうが、夫に先立たれた母子家庭では少しでも収入を増やしたかったにちがいない。彼女は、当時の会津宅(高田馬場時代か?)へ出かけて仕事をしていたことも、曾宮の“取材”で明らかにかっている。
 やはり、「どことなく嫌い」な人物がモチーフではいいタブローなどできるはずもなく、渡辺ふみ(亀高文子)本来の作品からほど遠く、ひどい仕上がりとなっている。また、描かれた会津八一の悲し気な表情も、理解しえないふたりの関係性を如実に表していそうだ。
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 曾宮一念は、ふたりが結婚しなくてよかったとしている。渡辺ふみが、再婚して画業を自由につづけられたのは、理解があり寛容だった亀高五市がいたからで、女中を「オンナ!」と怒鳴って呼びつける会津八一では、ほどなく破局したにちがいないと結んでいる。

◆写真上:1929年(昭和4)ごろ、霞坂秋艸堂で制作された会津八一『筆洗・水滴』。
◆写真中上は、第一文化村の安食邸で1935年(昭和10)より会津八一が借りていた文化村秋艸堂。は、1935年(昭和10)撮影の文化村秋艸堂応接室。(以上AI着色) は、文化村の会津八一(1943年撮影/)とアトリエの曾宮一念(1923年撮影/)。
◆写真中下は、1965年(昭和40)刊行の限定800部『会津八一の洋画』(中央公論美術出版)。は、会津八一のスケッチ帖に残された多彩な静物のデッサン。
◆写真下は、1929年(昭和4)制作の会津八一『書帙・燭台・マッチ箱』。は、同年の『鉢・書籍』。は、渡辺ふみ(亀高文子/)と、まったく気のりがせずにサッサと仕事を済ませて帰りたかったのではないかとみられる渡辺ふみ『会津八一像』(1914年/)。
おまけ
 神戸の赤艸社女子洋画研究所のアトリエで制作する亀高文子(1923年/AI着色)。
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「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。 [気になる下落合]

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 拙サイトでは、これまで1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が起きた際、被災地をスケッチしてまわった有島生馬Click!と同道した竹久夢二Click!や、被災地を写生めぐりした河野通勢Click!佐伯祐三Click!についてご紹介してきた。この中で、佐伯祐三Click!は東京では聞き慣れない大阪方言が災いしたのか、デマを信じた自警団Click!から地元の人間ではない「不穏分子」とみられ、暴行を受けているとみられる。したがって、その際に自警団に没収されたものか、関東大震災のスケッチ類は残されていない。
 竹久夢二Click!は、有島生馬Click!と同行してたので自警団から誰何(すいか)ぐらいはされているだろうが、その知名度の高さから危害を加えられるようなことはなかった。被災地で見たこと聞いたこと経験したことを、同年9月14日~10月4日にかけ都新聞に画文記事『東京災難画信』として、ほぼリアルタイムで連載している。
 多くの画家たちClick!が、特に被害が大きかった東京市街の被災地をめぐっていたとき、蕗谷虹児Click!はどこでなにをしていたのだろうか。前年より、宝文社から雑誌「令女界」が創刊され、その表紙イラストや物語・詩の挿画、絵はがきなどの仕事が多忙をきわめていた時期と重なるときに、関東大震災は起きている。蕗谷虹児の描く女性たちは「令女型」などと呼ばれ、他の挿画家たちの絵とは区別され特別視されるようになっていた。ちょうど、竹久夢二が描くはかなげな女性たちを「夢二型」と称したのと対照的に、彼の作品は大正デモクラシーとモダニズムを体現した女性たちの代名詞となっていた。
 蕗谷虹児Click!は1923年(大正12)、湯島天神近くの上野広小路も近い本郷区坂下町(現・文京区湯島3丁目)の借家に、最初の妻である川崎りんといっしょに住んでいた。この借家では、3月には子ども(長男)も生まれ、4月には川崎りんとの婚姻届けを出している。父親は前年に病没していたが、ふたりの弟たちとはいっしょに暮していた。
 この本郷坂下町の家について、蕗谷虹児の幼年期から青年期にいたるまでをたどる、1967年(昭和42)に出版された自伝小説『花嫁人形』(講談社)から少し引用してみよう。
  
 本郷坂下町に、吟味した材料で、自分が住むために新築している、大工の棟梁の家があった。/「こんな綺麗な新築の家に、余命いくばくもない父を、住まわせることができたらどんなによかろう。」と、一彦は思ったので、断られるのを承知のうえで、人を介して「向う二年間だけでよいから、特に貸し家として貸してもらえないものか。その代わり、家賃は出せるだけだす。」と交渉させると、/あの家は、ごらんのとおり貸し家普請ではないのだが、わしの建てた家が、それほど気に入ってくれたのなら貸してあげてもよい。」と、家主の棟梁が言ってくれたので、一彦は、言いなりの手金を払うと、この新築の家の壁の乾くのを待って、谷中の間借りの部屋から引っ越して行った。その後を追うようにして、りえ子の母が、りえ子を伴れて手伝いに来てくれた。
  
 「一彦」が自身の分身である蕗谷一男(虹児)であり、「りえ子」が結婚していっしょにパリへ渡航することになる最初の妻の「川崎りん」だ。このとき、家具類を「上野Mデパート」に注文したとあるが、上野広小路の松坂屋デパートだろう。
 貸家普請ではなく、大工の棟梁が自宅用に建てた住宅で、造りも強固だったのだろう、大震災でもたいした被害はなく、また火災の延焼からもまぬがれている。蕗谷虹児にとって、本郷区坂下町は以前から見馴れた街だったろう。彼は極貧時代に、芝区金杉橋にあった日米図案社に近接する米屋2階の下宿から、当時は本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社(のち講談社)の社屋へ、頻繁に作品の挿画をとどけに通っていたからだ。
蕗谷虹児「生き残れる者の嘆き」.jpg 蕗谷虹児「絶望」.jpg
蕗谷虹児「落ちゆく人々の群れ」.jpg 蕗谷虹児「落陽」.jpg
蕗谷虹児「戒厳令」.jpg 蕗谷虹児「焼跡の月」.jpg
 大工の棟梁が普請したこの家の間取りはかなり広く、ふたりの弟とともに住んでいた金杉橋の3畳下宿や、谷中の間借りで使用していたときの家具調度は、アッという間に片づいてしまったようだ。新築なので掃除の必要もほとんどなく、手伝いに訪れた「りえ子」(川崎りん)母子も手持ち無沙汰だったのではないか。つづけて、従来の下宿から持ちこんだ家具調度類について、『花嫁人形』から引用してみよう。
  
 一彦は一人で苦笑して、芝金杉橋の三畳の間借り時代から愛用してきた、手ずれで杉の木目が現れてきている机代わりの、図板に向かった。/座布団は、破けて綿が出かかっているものを古毛布でくるんだものであったし、座右の火鉢は、台所のコンロと同じ素焼きのものだったのが、長い間の一彦の手垢とあぶらで、今では赤い瀬戸焼の艶になっている。/一彦の背後の壁一坪をふさいでいる本箱も古道具屋で見つけた飾り気のないもので、それへいつかたまってしまった雑多な本がつめ込んであるが、これも部屋の飾りにはならない。何故かというと、一彦に必要な参考書ほど痛(ママ:傷)んでいて、表紙が取れたり、背皮が破けていたからであった。一彦はその本棚に凭れて、この家へ引っ越してきて、まず床の間に掛けた、山樵道人の軸に目をやるのであった。(カッコ内引用者註)
  
 この家で、蕗谷虹児は関東大震災に遭遇している。大震災が起きたときの様子を書いた記録は見あたらないが、前年に父親が死去していたため、彼は妻と生まれてちょうど6ヶ月の長男、それに弟たちとともに大火災Click!と風向きを気にしながら、避難の準備をしていただろう。おそらく、避難先は緑濃い湯島天神の境内か上野公園を想定していたにちがいない。だが、上野山を除いて上野駅周辺や下谷一帯はほぼ全滅状態であり、ヘタに避難していたら大火流Click!に巻きこまれて危うかったかもしれない。
 迫る延焼は、幸いにも蕗谷虹児アトリエまではとどかなかった。周囲が少し落ち着いてからだろう、蕗谷虹児は被災した街々を「転げあるき」(余震や障害物が多かったのだろう)しながら、被害の様子をスケッチしてまわった。ひとりで歩いたのか、あるいは弟たちを連れていったのかは不明だが、さまざまな街角の人物像を写生している。
 大震災の当初は、そのまま悲惨な被災風景と絶望に打ち沈む人物たちを描いていたが、大震災から月日がたち焼け跡にバラックが建ちはじめ、復興への歩みが少しずつはじまると、彼ならではの抒情的な女性や子どもたちの描写が見えはじめる。また、震災当初はおそらく焼け跡の風景自体がモノトーンだったのだろう、モノクロ表現だった震災画集や絵はがきも、復興のきざしが見えはじめたころからカラー印刷に変わっている。もっとも、当初のモノクロ印刷は当然、印刷会社も被害を受けているので、4色分解のオフセット印刷機が破損して使えなかったのかもしれないが。
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蕗谷虹児「焼土に立つ(焼け跡のしののめ)」.jpg 蕗谷虹児「鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)」.jpg
蕗谷虹児「夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)」.jpg 蕗谷虹児「幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)」.jpg
 竹久夢二は、都新聞に連載(1923年9月14日~10月4日)した「東京災難画信」では、描いた街や地域の情報を記録しているが、蕗谷虹児Click!は特に町名や地域名を記載せず、それぞれの震災画には見たまま感じたままの、被災地の情景タイトルをつけている。したがって、どこの街角を描いたのかは不明で抽象的であり記録的な震災画ではないが、反面、彼はその状況における人々の想いや感情に心を寄せているように見える。彼の描く震災画は叙事的ではなく、どこまでも叙情的なのだ。
 本郷坂下町の焼け残った自宅から、蕗谷虹児はどのように被災地をめぐり歩いたのだろうか。芝金杉橋下宿から、本郷坂下町にあった大日本雄弁会講談社へよく作品をとどけに通っていたことは先述したが(カネがないので市電Click!には乗れず全行程が徒歩だった)、彼がよく歩いて知悉しているこの講談社入稿ルートは、『花嫁人形』の記述によれば金杉橋から芝を抜け、新橋、銀座、日本橋、神田を通って本郷坂下町へとたどるものだった。したがって、震災画を描きに通ったルートも、あらかじめよく知っていたこの道筋がメインだった可能性が高いのではないか。
 すなわち、このルートには東京の繁華街である神田や日本橋、銀座(これらの街々は全滅Click!)が含まれており、震災画のモチーフにするにはもってこいの街々だったと思われるからだ。蕗谷虹児は坂下町の自宅を出ると、南下して外濠(神田川)に架かる昌平橋Click!をわたり、神田や日本橋、銀座の焦土Click!や住宅街の焼け跡を描いてまわったのではないだろうか。もちろん、自宅近くの上野広小路へと出て、下谷地域の上野駅や周辺の街々(上野山を除きほぼ全滅)も歩いているだろう。
 こうして、蕗谷虹児の震災画は記念絵はがきとなり、第1集は『生き残れる者の嘆き』『絶望』『落ち行く人々の群』『落陽』、第2集は『戒厳令』『焼跡の日』『尋ね人』『家なき人々』などなど、震災から間もない時期に発行しつづけている。また、第4集からはカラー印刷となり、大震災の現場を直接表現して伝えるのではなく、被災者たちの感情に寄り添うように描かれた人物中心の表現へ徐々に変化していく。このあたり、画家ではなく挿画家だった蕗谷虹児ならではの表現だろう。
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 いまでこそ、震災の被災地を描いた記念絵はがきなどを発行・販売したら、出版社や画家は顰蹙をかい批判されるだろうが、当時はTVやラジオもなく、地元の新聞も輪転機が破壊されたため、被災地の様子を伝えるメディアがなにもなかった。東京とその周辺にいた多くの画家たちは、その惨状を全国や世界へ、あるいは後世に伝えようと筆をとっている。

◆写真上:1923年(大正12)9月5日に、陸軍所沢飛行第五大隊の偵察機が東京市街地を撮影した空中写真。麹町区の番町上空から西を向いて撮影しており、遠景に見えているのは代々幡(代々木)から原宿にかけての街並み。中央にある西洋館は赤坂離宮(現・迎賓館)で、その向こう側に拡がっているのは神宮外苑の森。
◆写真中上は、震災から間もなく発売された震災絵はがきで蕗谷虹児『生き残れる者の嘆き』()と同『絶望』()。は、蕗谷虹児『落ちゆく人々の群れ』()と同『落陽』()。は、蕗谷虹児『戒厳令』()と同『焼跡の月』()。
◆写真中下は、蕗谷虹児『尋ね人』。は、カラー化された同『焼土に立つ(焼け跡のしののめ)』()と同『鳥も塒を焼かれたり(バラツクの夕暮)』()。は、同『夜に迷ひし小鳥の如く(仮家への帰途)』()と『幼き者も辻に立ちたり(新聞売子)』()。
◆写真下は、1926年(大正15)ごろパリのアトリエで撮影された蕗谷虹児とりん夫人。背後にはサロン・ドートンヌ入選作の『混血児とその父母』(1926年)と、パリの日本人芸術家たち第3回展に出品する描きかけのキャンバスが見えている。中上は、1967年(昭和42)出版された蕗谷虹児の自伝小説『花嫁人形』(講談社)の函()と表紙()。中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲Click!11日前に偵察機F13Click!によって撮影された、空中写真にみる最後の蕗谷虹児アトリエ。は、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲Click!8日前の蕗谷虹児アトリエだが、すでに4月13日夜半の空襲で焼失しているとみられる。
おまけ
 手もとにある蕗谷虹児『花嫁人形』が、著者のサイン入りであることに読み終えてから気がついた。捺されている篆刻は、大正後期から用いられている角丸の正方形のもので、パリへ持参したものと同一だと思われる。かなりすり減って何度か彫りなおしているとみられるが、左下の枠が大きく欠けている点や文字のかたちなどから、下落合のアトリエから疎開先の山北町へと“避難”させていた、虹児のお気に入りだった篆刻の1顆なのだろう。
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下落合での制作が15年つづいた上原桃畝。 [気になる下落合]

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 きょうは、めずらしく日本画家を取りあげてみたい。おそらく、蘭塔坂上にアトリエをかまえた岡不崩Click!や一ノ坂上の本多天城Click!の記事以来ではないだろうか。洋画家ばかりでほとんど紹介していないが、落合地域には日本画家も大勢住んでいる。
 下落合473番地にアトリエをかまえていたのは、女性の日本画家・上原登和子(上原桃畝)だ。ちょうど、中村彝Click!アトリエのすぐ西隣りの区画、目白福音教会Click!に建つメーヤー館Click!の南に隣接した位置で、夏目漱石Click!を愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校Click!)に招聘した、大正期には浅田知定邸Click!が建つ広い敷地内にあたる。
 上原桃畝は、大正初期から小石川区原町15番地のアトリエに、1926年(大正15)まで住んでいたことが確認できるので、下落合473番地に転居してきたのは1927年(昭和2)、昭和の最初期だとみられる。そして、面白いことに下落合には1941年(昭和16)ごろまで住んでいたが、同年以降は再び小石川区原町15番地へともどっている。彼女は東京市麻布の出身だが、小石川原町の家は当時のおそらく実家だったのだろう。上原桃畝は結婚をせず、生涯日本画家として独身を張りとおした女性だ。
 上原桃畝は、最初に荒木寛畝に師事したが、寛畝の死後は愛弟子で養子になっていた荒木十畝につづけて師事している。先代師匠の荒木寛畝は特異な日本画家で、江戸期は土佐藩の御用絵師を勤めていたが、明治以降は洋画家に転向している。だが、しばらくすると再び日本画家へと復帰しているので、ひとことでいえば写生を繰り返してデッサンの基礎をしっかり修得した日本画家という、当時としては特別な位置にいた人物だ。その弟子である上原桃畝もまた、デッサンの勉強から入っているとみえて、ときに洋画と見まごうような、3Dの陰影が精確な作品も残している。
 『落合町誌』Click!には、上原桃畝が「邦画家」として人物一覧に掲載されているが、人となりの紹介文がない。彼女について、ここは1913年(大正2)に美術研精会から刊行された「研精美術」9月号収録の、田口黄葵『隠れたる作家上原桃畝女史』から引用してみよう。
  
 此の中(荒木寛畝社中)におつて巍然四囲を顧みず塵俗を超越して向上の一路を辿る女性がある。年歯漸く三十にして家庭和楽を想はず、技術と学芸の研磨に日も猶ほ足らざるが如き女性がある。同塾を訪ふて最も未来を有する閨秀作家はと問はゞ何人も此の女性即ち上原桃畝女史を推すであらう。/女子は性来頭脳の明晰な人で、従つて理智の勝つた人である。言葉を換へて言へば、頭脳の明晰なるが故に感情の興進にまかせて動くことの出来ぬ人である。然して其理智は細節に拘泥せずしてよく大局を摑み、総てを寛容する度量となつて表はれて居る。(中略) 女史は神来の興を駆つて一気画を成す天才的才能を有する人にあらずして、撓まざる努力の推積によつて成る人である。其作に感興の充溢を見る能はずして健全なる意志の発現を見るも亦当然といはなければならない。明晰なる頭脳強固なる意志の一事は万事をなして、哲学に科学に自然の探究に究めざればやまざるの努力を生じ、読書と旅行とに多大の趣味を持たしめて居る。(カッコ内引用者註)
  
 だいだい、上原桃畝の性格やモノの考え方がわかる紹介文だ。彼女は、師の荒木寛畝と十畝の跡を継ぐように、のち東京女子高等師範学校Click!(現・お茶の水女子大学)の美術教師に就任している。文展には何度か入選しつづけ、1919年(大正8)からはじまる第1回帝展にも、日本画部門だけでなく絵画部門全体で唯一の女性画家として入選している。
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 帝展の資料を探していたら、興味深い記事を見つけた。1924年(大正13)に発行された「芸天」(芸天社)12月号で、第5回帝展がらみの記事にも上原桃畝は登場しているが、そのネームの横に中村彝『老母の像』が紹介されている。もちろん、中村彝は帝展無鑑査で審査員にも任命されていたが、同年の上野竹の台で第5回帝展が終了した1ヶ月後、1924年(大正13)12月24日に下落合464番地のアトリエで死去している。
 また、同記事の下には、のちの敗戦直後に下落合の蘭塔坂上に住んでいたとみられる、鎌田りよClick!のもとへ通うことになる平沢貞通Click!(平澤大璋)が、京橋の日米ビルディングで個展を開催するという記事も見えている。そのほか、落合地域にゆかりの深い洋画家たちの名前が多数登場しているので、ことさら目を惹いた記事だった。
 では、第1回帝展で唯一の女性画家として入選した上原桃畝の様子を、1919年(大正8)10月11日に発行された読売新聞から引用してみよう。
  
 帝展の紅一点
 日本画洋画彫刻三部を通じて唯一の閨秀入選者/夢の如く喜ぶ上原桃畝女史
 日本画、洋画、彫刻三部を通じて入選せる女性は、僅かに日本画に六曲片双の『春光』一点を以て選ばれた上原桃畝(三八)女史一人である△此名誉ある女史を入選発表と共に昨日午後四時小石川原町の自宅に逸早く報を齎すと、流石に包み切れぬ嬉しさを見せて女史は語る 「私が? 私一人ですつて? まるで夢のやうです。私は故荒木寛畝さんに就いて習ひましたが、先生の亡き後は十畝さんにもお世話になつてゐます△文展の第四回に『つつじ』を出して入選しました、其後近年まで出品しませんでしたが一昨年来又出すやうになりました 今回入選の『春光』は寒竹に梅を配した構想で、出来るだけ青くせずに、日光を出さうと勤めました、製作には八月二十四日から△一月位かゝりました 大変厳選だといふ話ですから、無論駄目と思つてゐましたのに、本当に夢のやうです、十畝さんの退かれた後は女子高等師範学校に勤めて外の方と共に一週に三日宛図画科を受持つてゐます、家は母と姉夫婦と其の子供とで五人暮らしです△師匠の寛畝さんも私の売残りは困つたものだと屡云つてゐらつしやいました」
  
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 上原桃畝から、師の「売残り」などという言葉を引きだすのが、男性記者による当時のインタビューらしいが、この記事からも小石川原町の家はやはり実家だったらしい様子がわかる。彼女はこのあと、実家を出て独立し下落合473番地へアトリエをかまえて転居してくるわけだが、このあたりの事情は中村彝も頼りにしていた、画壇の動向Click!に詳しい日本画家で洋画家でもある夏目利政Click!あたりがよく知っていそうな気がする。
 また、大正期には広大な敷地だった下落合743番地の浅田邸だが、1926年(大正15)に浅田知定が死去すると相続のためか分割され、敷地内には三間道路が敷設されている。分割された14敷地の中のいずれかが上原桃畝のアトリエだが、1938年(昭和13)作成の「火保図」に掲載されたネームには、残念ながら上原邸は採取されておらず見あたらない。おそらく、名前が不記載の6邸(無記名7邸のうち1邸は根岸邸なので、差し引き残り6邸)のうちのいずれかが上原桃畝アトリエだろう。
 下落合に転居するまで、上原桃畝は日本美術協会や日本画会、文展、帝展、帝国絵画協会、読画会などへ出品して入選を繰り返している。また、下落合では1928年(昭和3)5月に日本画会「翠紅会」の結成に参加し、主要メンバーのひとりとして活躍していた。彼女は、ときにスキャンダラスな洋画の女性画家たちとは異なり、いつも女性画家とともに行動していたらしく、旅行や外出も同輩の女性画家とよく待ち合わせては出かけていたようだ。上掲の「明晰なる頭脳強固なる意志」という人物評を見ても、自尊心が強く自身を律して、自我を貫きそうな強い意志力を備えた女性像を連想させる。
 画家仲間の三木初枝と連れだち、当時の師宅を訪れた様子を1923年(大正12)に大日本藝術協会から刊行された、「藝術」2月号の荒木十畝による談話から引用してみよう。
  
 寒き暁から飛出して清水公園から日比谷公園へと、三四ヶ所を雪のよささうな所を廻つて歩いた、老人の冷水とでも云ふのであらう、どこへ行つても画師には出会はぬが、素人の写真道楽家のやうなのが、至る所でパチパチやつて居た、日比谷公園では年老つた婦人が寒さうな格講して雪の写生をして居た、これも老人の冷水の連中だと思ふた。/その日の午後我家の雪見にとて、上原桃畝、三木初枝両女史が訪ねてくれた、尺余の雪に朝来またまた降足したので、この日一日の風情に別条はあるまいと思うて居たが、午後には木の枝には雪が落着いて居なくなつた、その両女史の写生を乞得たのが、本誌の挿画となつた。
  
 同誌には、上原桃畝『軒のにはとこ』と題する色紙の雪景色が掲載されている。
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 1941年(昭和16)には、上原桃畝の住所は小石川区原町15番地にもどっているので、母親が病気かあるいは亡くなりかしたのだろうか。日本画家は、洋画家とは異なりリアルな風景画は描かないだろうが、『軒のにはとこ』のように庭先のスケッチぐらいは残しているかもしれない。およそ15年ほどつづいた、上原桃畝の下落合におけるアトリエ生活だった。

◆写真上:上原桃畝のアトリエがあった、下落合473番地界隈の現状。
◆写真中上は、蝶を追うネコを描いた上原桃畝『題名不詳』(部分)。は、第5回日本画展に入選した同『野路』。は、東京女子高等師範学校の教師だったせいで女弟子が多く日本画と洋画の双方を描いた荒木寛畝()と弟子の上原桃畝()。
◆写真中下は、1919年(大正8)10月11日刊行の読売新聞。は、第20回読画会展に入選した上原桃畝『六月の花園』。は、1924年(大正13)発行の「芸天」12月号に見る上原桃畝の動向で、見開きには中村彝や平沢大璋の情報が掲載されている。
◆写真下は、下落合時代の1928年(昭和3)5月撮影の「翠紅会」記念写真。左端が上原桃畝で、後列右からふたりめが親しかったらしい三木初枝。中上は、1931年(昭和6)出版の大山広光『文帝展二十五年史』(美術批評研究社)掲載の上原桃畝。中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合473番地界隈。は、1923年(大正12)2月8日の大雪の日に三木初枝とともに荒木十畝邸を訪れ、庭先で色紙に描いた上原桃畝『軒のにはとこ』。

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