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女性の好みが180度変わる中村彝。 [気になる下落合]

中村彝アトリエテラス.JPG
 1924年(大正13)5月27日(火)に、下落合464番地の中村彝アトリエClick!では、親しい周囲の人々を集めた昼食会Click!が芝庭で開かれている。いつも中村彝アトリエへ出入りしている、親しい画家や友人知人が20人ほど集まり、また1921年(大正10)に死去していた親友の中原悌二郎Click!は、代わりに彼の作品『墓守老人』が“出席”している。だが、彝アトリエへもっとも頻繁に出入りしていた下落合623番地の曾宮一念Click!の姿が、その日に撮影された記念写真にはない。
 ちょうどそのころ、曾宮一念は静岡県の田子浦村にいた。3月下旬から写生旅行に出かけており、下諏訪から鰍沢、富士川経由で大宮、そして河口近くの田子浦村まで画道具を背負いながら旅をつづけていた。中村彝には、旅先での居所を知らせていたらしく、5月27日の昼食会には出てこいと再三連絡をもらっていたようだ。中村彝は、同年の12月24日に死去するので、死期をさとった彼が開いた「この会も友人らへの別れの意であった」と、曾宮一念は述懐している。つづけて、「あの時一時帰京してスグ引き返せばよかった」と、のちの随筆で悔やんでいる。
 中村彝と曾宮一念が初めて出あったのは、1915年(大正4)12月に今村繁三Click!邸で開かれた牛鍋会Click!の席上でだった。当時の彝は、相馬俊子Click!との結婚を反対され新宿中村屋で日本刀を振りまわしたり(8月)、同家への出入りを以降いっさい禁止されたり(11月)と、精神的には最悪の状態にあった。以来、ふたりは同じ下落合にアトリエをかまえ、彝が死去するまで9年の付き合いになる。曾宮一念も、中村彝と新宿中村屋のことはウワサで知っていたので、知りあった当初はその話題には触れないようにしていた。
 だが、ふたりが親しくなるにつれ、彝のほうから曾宮にコトの経緯をぽつりぽつりと語りはじめている。当時、彝の女性の好みはハッキリしていた。1972年(昭和47)に木耳社から出版された、曾宮一念『白樺の杖』から引用してみよう。
  
 それが二、三年経つうちにモデルの話から女の話も彼の口に出るようになった。それらの言葉を集めてみると、俊子は美人では無い。頬は年中霜焼しているようなブンドウ色の女中型だ。ブンドウは豆の一種らしい。優美に取済ました美人でない女中型が好ましい。そして働いている時が一番美しい。彼女は鈍感な性格だった――大たいこのようであった。彼の裸婦の詩に「顔は日の如く赤く」とあるのはブンドウ色の美化であろう。/失恋した恋人の姿を彼自身の口を借りて記すまでもなく彼の幾つかの作品が良く伝えている。私がこの事を記すわけは、この後に通り過ぎる影のように出て来る別の女と余り型が違うからである。その前に体の重そうな非優美型を好いたということは何に因ったのだろう。
  
 相馬俊子は、確かに“おさんどん”型の女性で、洗練された美人ではないけれど、「鈍感な性格」だったかどうかは彝の一方的な主観なので不明だ。
 むしろ、彼女の微妙な感覚や心理の動き、心の機微がうまく読めず、女性に不馴れでひとりよがりな恋心を一方的に爆発させた、むしろ中村彝のほうが「鈍感」だった可能性さえある。彼の研究生時代を知る友人たちは、気が強く強引な性格でよくいえば豪快、ともすれば横柄さClick!をともなう人間像の証言をいくつも残している。それが、病状が進行するにつれ経年とともに、正反対の優しく謙虚な性格へと変貌をとげていくわけだが、曾宮一念と出会ったころはいまだ血気盛んな一面を残していたのだろう。
 「ブンドウ」とは、どうやらエンドウ豆のことで、通常は青い(緑のClick!)色をしている。彝がいう「ブンドウ色」は、日本の在来種にあったムラサキエンドウのさやの色のことではないだろうか。現在は、ムラサキエンドウといえばエジプトのツタンカーメン遺跡で発見された「ツタンカーメン」種が主流だが、彝はどこかで日本の在来種が栽培されたエンドウ畑で、「ブンドウ色」のさやを見たのかもしれない。記念写真19240527.jpg
.曾宮一念「梨畑道」.jpg
ムラサキエンドウ.jpg
 曾宮一念へ女性の好みを語ってから数年後、彼はまったく異なる女性の好みを彝から見せつけられることになる。曾宮に語った「ブンドウ色の女中型」で、「優美に取済ました美人でない女中型が好まし」く思うといってるそばから、それとは正反対の女性に惹かれ、「子供が欲しくなった」などといっているのだ。
 1920年(大正9)1月ごろ、水戸からやってきたばあやの岡崎キイClick!が腎臓病を悪化させてしばらく入院し、家事ができない彝は東京日日新聞に「女書生募集」の広告を出している。すると3月末頃に、ややしゃべり言葉に東北方言が混じる、太田タキという女性がやってきた。柏崎の洲崎義郎Click!が連れてきた土田トウClick!が1ヶ月ほどで帰り、かわりに酒井億尋Click!の紹介で佐渡から大工の河野輝彦Click!がやってきたあとのことだ。ヴァイオリンを手にやってきた太田タキは、家事を手伝うかわりに給料はどうでもいいから、ここでヴァイオリンを思いきり弾かせてくれといった。体力のいる井戸の水汲みさえできなかった彝は、ともかく家事をまかせられるならと彼女を雇っている。
 鼻先が少し下がり気味で、目が吊り上がっている太田タキの容貌について、彝はさっそく曾宮一念に「鋸の目立てには困るね、と顔をしかめ」た。新聞広告を見て、せっかく家事を手伝いにきてくれた女性に、「鋸の目立て」(吊り上がり目)だと容貌にケチをつけている。だが、いっしょに暮しているうちに、彝は太田タキがだんだん気に入ったようで、彼女に「情欲を感じ出し」ている。1926年(大正15)に岩波書店から出版された『藝術の無限感』所収の、1920年(大正9)4月20日付け洲崎義郎あての書簡から引用してみよう。
  
 〇〇さんは勝手で何かせつせと働いて居ります。若し土田のばあやがどうしても来られない様ならば、強ひて他の女を頼むよりも〇〇さんに居て貰ひます。僕は一時(それもほんの一日二日でしたが)どう言ふ訳か(多分ルーベンスのスリーグレースに刺戟されて)少し〇〇さんに情欲を感じ出したので、之は僕の健康にとつての一大事であり、又〇〇さんにとつてもよくない事だと思つたので、急いで「ばァや」に来て貰う気になつたのです。
  
 だが、彝がほんとうに気に入った女性は、この「〇〇さん」こと太田タキではない。このあと、洲崎義郎から懇願されたのだろう、柏崎から土田トウが三度めにやってきて、太田タキがアトリエを去ったあとのことだ。土田トウは、このときも1ヶ月ほどで帰郷してしまい、短期間だが5月に「神田のヲバサン」がアトリエに出入りして家事を手伝っている。このあと、中村彝は自炊生活に入ったことになっているのだが、曾宮一念の証言はちがう。
中村彝1920.jpg
中村彝アトリエ.JPG
曾宮一念「白樺の杖」1972.jpg 曾宮一念.jpg
 中村彝が、俊子以来の“本命”だととらえた19歳の少女は、曾宮一念の記憶では「太田」姓だったとのことなので、生活に困っている彝の話を聞いた太田タキが、姻戚の女性を紹介したものだろう。『白樺の杖』より、曾宮一念の証言を聞いてみよう。
  
 バイオリンが居なくなって未だ噂を我々がしていた頃だから半年足らずの後であったろう。私が庭から彼の室に上ってゆくと一人の女がちょうど辞去の挨拶をしているところであった。私には女性というものが実際の年よりも年上に見えるのが常である。その人は既に少女と呼ぶには落付き過ぎ、淑やかで優美な若婦人に見えた。ほんの立話で出口に送った。その後一ヶ月たってもう一度彼の家で会った。物静かで美しかったのと、化粧をしていなかったのを今も覚えている。私が二度見かけた間に数回訪ねて来たらしい。というのは、その二度目に私が会った日、女が帰ると、中村は私に「ボクも子供が欲しくなったのさ」と云った。恥かしそうというよりも、真面目なことを彼が云う時の癖で一口に続けて話した。
  
 曾宮一念は、ヴァイオリンの太田タキと19歳の「太田某女」とを分けて書いているので、両者を混同しているのでないことは確かだ。また、「太田某女」は太田タキが紹介した「従妹」だとも書いているので、確かな記憶なのだろう。
 だが、結婚して子どもが欲しいとまでいった「太田某女」は、中村彝が常々いっていた「ブンドウ色」の頬をした「女中型で非優美型」だった好みの女性とは、まるで正反対のとびきり洗練された優美な容貌をしていた。そのとき「ぜんぜんちがうじゃん!」と、曾宮は病気の中村彝に突っこみは入れなかったけれど、さすがに『白樺の杖』ではいってることと実際がちがいすぎると指摘している。
 そんな言行不一致な中村彝は、同年6月28日付けの洲崎義郎あての手紙で、その少女についてこんなことを書いている。『藝術の無限感』から引用してみよう。
  
 それからも一つ奇抜な御報告を致しませうか。これは余り奇抜だし、それに僕としては少し艶つぽすぎるので今の処この事だけは誰にも黙つて居るのですが。最近ある非常に美しい少女(拾九歳)が私を愛して、十月に学校を卒業したら早速僕のところへ来て、僕の世話をしたり、僕の「モデル」になつたりして上げ度いと言つてくれるのです。その人は大して利口の性質ではないかも知れませんが、然し大変に優しい心と何時も平和で快活で、深い信仰の喜びとでも言つた様なものを持つ人の様です。肉体や顔ダチは豊満無類で、日本人には珍しい程立派な、私の趣味に実によくかなつたタイプの女性です。
  
 中村彝は、「誰にも黙つて居る」と書きながら、曾宮一念にはあふれる恋心をベラベラしゃべってしまい、もうウキウキ気分だったのが透けて見える。この少女の前では、「ブンドウ色」の「女中型で非優美型」の女性など、どこかへ消し飛んでしまったようだ。すでに、「私を愛して」くれているなんてことにまでなっている。彝の妄想は止まらない。
デッサン「自画像」1922.jpg
中村彝「婦人像」1922.jpg
中村彝告別式19241227.jpg
 そんな中村彝の様子を見て、「太田某女」はその執着心や目つきから「ちょっと、このヲジサン、マジヤバかも」と、だんだん怖くなってきたのだろう。彝によれば、「例の少女が又しても周囲の反対と僕自身の病的な情熱とに脅かされて」(8月19日付け洲崎義郎あて書簡)、アトリエへこなくなってしまった。自身も「病的な情熱」と認識してはいるが、怖くなって少女のほうから離れていくのは、相馬俊子のときとまったく同様のケースだった。

◆写真上:アトリエのテラスにある扉の向こう側、居間兼寝室で中村彝は太田タキの従妹といわれる少女と、いったいなにを熱心に話していたのだろうか。
◆写真中上は、1924年(大正13)5月27日に開かれたアトリエでの昼食会だが曾宮一念の姿がない。は、大正中期に田子浦村で描いたとみられる曾宮一念『梨畑道』。は、ムラサキエンドウのいわゆる「ブンドウ色」のさや。
◆写真中下は、ちょうど太田タキや「太田某女」がやってきた1920年(大正9)に撮影されたアトリエ庭の中村彝。は、現在の中村彝アトリエ記念館。下左は、1972年(昭和47)に木耳社から出版された曾宮一念『白樺の杖』。下右は、1917年(大正6)ごろ中村彝アトリエで撮影された曾宮一念で、手前には中原悌二郎Click!が座っている。
◆写真下は、1922年(大正11)に描かれたデッサンで目が異常に怖い中村彝『自画像』。は、同年に制作された中村彝『婦人像』だが誰を描いたものだろうか? は、1924年(大正13)12月27日に行われた中村彝の告別式に出席した曾宮一念。彼のすぐ背後には会津八一Click!が、彼の左横には鶴田吾郎Click!の姿が見える。

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やはりあった目白文化村絵はがきセット。 [気になる下落合]

目白文化村えはがきセット袋.jpg
 昨年の春、目白文化村Click!の風景を撮影した絵はがきClick!をはじめ、そこに建っていた邸の外観Click!やその内部を箱根土地が撮影した写真が数多く残されていることから、「目白文化村絵はがきセット」が存在したのではないかと記事にしていた。それは、箱根土地が目白文化村を分譲し終えたあと、新設される予定の国立駅Click!(1926年築)前に本社Click!を移転して同地を開発する際、プロモーションの一環として「国立分譲地絵はがきセット」の販促ツールを、盛んに制作していることから想定していたものだ。
 案のじょう、「目白文化村絵はがきセット」は存在していた。古書店で画家たちの絵はがきを探していて、偶然、「下落合」のキーワードで発見することができた。絵はがきが5枚ひと組になったセットのタイトルは、『目白文化村絵葉書(五枚一組)』というもので、写されている各邸の様子や、販促材として絵はがきが東京各地に郵送された時期から推定すると、1923年(大正12)の前半あたりではないかと推定することができる。
 以前にもご紹介していたが、目白文化村の風景を写した人着のカラー絵はがき×2種を、箱根土地は1923年(大正12)4月から5月にかけて見込み顧客あてに集中して郵送しており、絵はがきセットも追加の販促材として、そのころ制作されたものだろう。ちょうど、もっとも分譲面積が広い第二文化村を、箱根土地が販売しているまっ最中のことだ。あるいは、わざわざ現地を見学にやってきた顧客たちへ、ノベルティとして配ったのが同絵はがきセットなのかもしれない。
 ただし、中身の絵はがきに採用されている写真類は、前年すなわち1922年(大正11)に販売された第一文化村の邸が多いため、同年に竣工した際に撮影されたものも含まれているのだろう。5枚の絵はがきには、以下の5邸が紹介されている。(カッコ内引用者付記)
 ・渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観 (第一文化村)
 ・神谷卓男氏邸/門及玄関 (第一文化村)
 ・西成甫氏邸/サンポーチ (第二文化村)
 ・永井博氏邸/応接室 (第一文化村)
 ・永井博氏邸/厨房 (第一文化村)
 このうち第一文化村の前谷戸の淵、下落合1601番地に建っていた永井博邸は、箱根土地の役員である永井外吉の姻戚の家で、おそらく前谷戸を埋め立てた1923年(大正12)6月Click!ののち、大正末には邸をリニューアルして永井外吉Click!一家が住んでいる。姻戚関係だからこそ、応接室や厨房など邸内の写真が撮影できたのだろう。また、昭和に入ると永井邸敷地の南側には新たに山浦邸が建設されている。
 また、箱根土地の絵はがきに神谷卓男邸Click!がしばしば登場するのは、当時、箱根土地の建築部にF.L.ライトClick!の弟子だった河野伝Click!が勤務しており、自社の建築作品として大きくPRしたかったのではないかとみられる。同様に、絵はがきに含まれている中村正俊邸Click!も彼の設計だ。このあと、河野伝は箱根土地本社の国立移転とともに、中央線・国立駅の設計にたずさわっている。
 これら5枚の絵はがきを観察すると、面白いことがわかる。絵はがきは、それぞれモノクロ印刷ではないのだ。写真は確かにモノクロだが、それぞれの写真に薄いカラーをかぶせて変化をつけている。2種類が制作された、「目白文化村絵はがき」の人着カラー印刷とまではいかないが、これら5枚の絵はがきはモノクロ印刷ではなく2色で印刷されている。これは、絵はがきが5枚そろって見比べないと、なかなか気づかない特徴だろう。
神谷卓男氏邸/門及玄関.jpg
目白文化村絵はがき表19230522.jpg
 まず、「神谷卓男氏邸/門及玄関」はがきと「永井博氏邸/応接室」はがきは、薄い黄色の版がかぷせてある。また、「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがきは薄いブルーが、「永井博氏邸/厨房」はがきには薄いオレンジが掃かれている。そして、微妙なのが「西成甫氏邸/サンポーチ」のはがきだ。一見モノクロ印刷に見えるのだが、その色の深みから薄いベージュ色をかぶせているように見える。いずれもモノクロ印刷ではなく、手間とコストをかけた2C印刷だ。
 ひょっとすると、箱根土地には印刷にこだわりのあるマニアックな人着や、微妙な色指定をして製版所にまわすグラフィックデザイナーのような人物がいたか、あるいは印刷所の制作部に同様の人物がいた可能性が高い。その人物は、4C印刷や2C印刷で生じるビジュアル効果を熟知しており、写真の特性にあわせて色指定をしている気配が濃厚だ。それぞれの人着の絵はがきも含め、デザインや版下がかなりていねいに作られている様子を見ても、色彩感覚や印刷効果を知悉した人物の存在が浮かぶ。
 さて、前回の記事で「神谷卓男氏邸/門及玄関」はがきと、永井博邸の内部絵はがきは詳しくご紹介しているので、今回は他の絵はがきについて書いてみたい。まず、「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがきだが、いまだ未建設だった早稲田大学講師の末高信邸の敷地から、中村邸と渡辺邸の方角を向いて撮影したものだ。末高信の妹が設計した末高邸Click!は、1924年(大正13)に竣工するので、この写真は1923年(大正12)以前(おそらく1923年早々)に撮影されていることがわかる。
 中村邸は、第一文化村が販売された1922年(大正11)のうちに、神谷邸とほぼ同時期に竣工(ともに河野伝による設計)しているとみられ、彫刻やオブジェが飾られたモダンな邸内の様子は、以前の記事でご紹介済みだ。また、末高邸の邸内についても、女性の設計らしい細やかな邸内の調度や家具類についてもご紹介している。
 また、大きくて独特な三角屋根の切り妻を見せる渡辺昭邸については、その2軒隣りの南側に建っていた、外観が西洋館で内部がすべて和室だっためずらしい鈴木安三邸Click!について記事にしたとき、渡辺邸の南面する外観写真をご紹介している。昭和に入ると、独特な外観をした渡辺邸はあっさりと解体され、岡崎邸が建設されることになる。
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渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観.jpg
 「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがきの左すみに、まるで北国の住宅のような、勾配のきつい三角屋根の住宅が見えているが、中村邸の南側に接して建っていた稲垣守克邸だ。第一文化村に口を開ける前谷戸側から撮影した、人着のカラー絵はがきを参照すると、稲垣邸はかなり大きな2階建ての西洋館で、ハーフティンバー様式を採用した外壁に赤い大きな屋根を載せていた。
 渡辺邸もそうだが、当時の邸は今日とは異なり短命で、住民が交代すると家が築5~10年でもあっさり解体される事例が多い。稲垣邸も、昭和になると金子邸に建て替えられている。また、同絵はがきの右すみには、少し遠めに建築中の住宅がとらえられているが、文化村のテニスコートの先にある河野岩吉邸だとみられる。
 次に、「西成甫氏邸/サンポーチ」はがきを見てみよう。東京帝大教授の西成邸は、1923年(大正12)に販売された第二文化村の北側エリアに建てられているので、この絵はがきセットの中ではいちばん新しい撮影ではないかと思われる。邸の色彩はわからないが、おそらく焦げ茶色の下見板張り外壁に屋根下の軒は白い漆喰外壁、窓枠も白で屋根はおそらくオレンジ系かグリーン系の外観だったのではないだろうか。当時の典型的な西洋館で、どこか別荘風な趣きのデザインになっている。
 南面するサンポーチには、太陽光をめいっぱい採り入れられるよう両開きの扉や窓が、1階の天井近くまで穿たれている。大谷石で造られた階段の手前にはテラスか芝庭があり、扉や窓の内側はサンルームになっているのかもしれない。同じような意匠の住宅は、下落合4丁目(現・中井2丁目)のアビラ村Click!に通う三ノ坂の途中、島津家Click!が開発した別荘風住宅Click!「四十九号邸」Click!でも見ることができる。
 同絵はがきの右すみには、2階建てとみられる住宅の屋根がチラリととらえられているが、西成邸の斜向かいに三間道路をはさんで建っていた、早稲田大学教授の寺尾元彦邸だろう。寺尾邸の敷地は、1936年(昭和11)の空中写真ではすでに空き地になっているので、昭和に入るとどこかに転居していると思われる。
西成甫氏邸/サンポーチ.jpg
目白文化村分譲地地割図1925.jpg
目白文化村19450402.jpg
 「目白文化村絵はがきセット」が現実に存在したことで、もうひとつ気になることがある。いまのところ、目白文化村の人着によるカラー絵はがきは2種類が確認できるが、まだほかにも制作されているのではないか?……という疑問だ。国立へ移転したのち、多彩な絵はがき類を大量投入して展開される箱根土地の販促活動を見ていると、まだまだ知られていない目白文化村絵はがきがあるのではないか?……と、つい想像してしまうのだ。

◆写真上:1923年に制作されたとみられる、「目白文化村絵はがきセット」の封筒。
◆写真中上は、以前にもご紹介している第一文化村の「神谷卓男氏邸/門及玄関」はがき。は、同邸の人着カラーの「目白文化村の一部」はがき。
◆写真中下は、「永井博氏邸/厨房」と「永井博氏邸/応接室」の各はがき。は、「渡邊明氏邸と/中村正俊氏邸の外観」はがき。各絵はがきには、それぞれ異なる薄めのカラーがほどこされた2C印刷になっている。
◆写真下は、第二文化村に建っていた「西成甫氏邸/サンポーチ」はがき。は、1925年(大正14)作成の「目白文化村分譲地地割図」にみる各邸の位置と撮影方向。は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲11日前の目白文化村。
おまけ
ハトほどの大きさの、まるでオウムのようなインコが、6~7羽の群れでときどきやってくる。ジュジュジュ、キィキィキィ、クェクェクェ、ミャーミャーミャーと鳴き声がやかましく、他の野鳥たちは鳴りをひそめてしまう。おそらく、いろいろな野鳥や動物の鳴き声をマネしていると思うのだが、どうか人間の言葉だけは憶えないでいてほしい。
インコ.jpg

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落合地域の旧家に嫁いだ女性。 [気になる下落合]

宇田川邸跡.jpg
 1928年(昭和3)に、19歳で落合地域の旧家に嫁いできた女性は、いったいどのような生活を送っていたのだろうか。いつもご紹介するのは、大正期から拓けたモダンで新しい落合地域の姿だが、昭和初期でさえ近郊農村の面影を強く残していた同地域には、江戸期から連綿とつづく旧家があちこちに存在していた。そこでは、オシャレでモダンな洋風生活とは、まったく無縁な生活が営まれていた。
 上落合189番地に嫁いだ、宇田川利子という女性の証言を聞いてみよう。彼女が生れたのは、旧・神田上水をはさんだ戸塚町上戸塚(現・高田馬場3丁目)で、嫁ぎ先である上落合側が地形的に少し低いため、婚家から実家が望見できたということなので、ほんの数百メートルしか離れていない旧家に嫁いだということになる。
 1909年(明治42)に生れた彼女の子ども時代は、落合地域やその周辺域で生まれた子たちと同じように、自然の中で思いきり遊びながら育っている。実家は、1916年(大正5)ごろには農家をやめていたというから、嫁ぎ先の宇田川家と同様に当時は上戸塚の地主だったのだろう。少女時代の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が発行した、『新宿に生きた女たちⅢ』所収の宇田川利子「落合の旧家に嫁いで」から引用してみよう。
  
 子どものころ、夏は神田川や妙正寺川で男も女もいっしょくたで川遊びしました。流れがさらさらしていて、とてもきれいだったんです。長女ですから弟たちを連れていって面倒みました。兄弟中で私だけが女だったんですの。(中略) 子どもの大事な仕事は水汲みでした。井戸から水汲んで、お風呂や台所まで手桶で運ぶんですよ。台所には大きなかめが二つあって、煉瓦づくりのへっついが二つ並んで間に穴があいていて、一つにはいつも茶釜にお湯が沸いてました。(中略) 小学校を終えてから、牛込矢来の岩佐女学校まで四キロの道を歩いて通いました。当時、上の学校に行けたのは四〇人中五人ぐらいでしたね。子守に出たり、高等科出て袴はいて電話局に勤めた人もいました。そのあと、お嫁に行くまで戸塚裁縫塾にお裁縫習いに行きましたの。男や女の袴、訪問着、綿入れ丹前、何でも縫いましたね。
  
 戸塚裁縫塾のほか、彼女は東京の娘らしく長唄を習いに、千代久保橋Click!のたもとにあった師匠宅へ通っている。その帰り道、彼女は夫の父親である宇田川忠蔵に見初められ(夫に見初められたわけではない)、結婚話がトントン拍子に進んでいった。もちろん、彼女のまったく知らないところで、親同士が勝手に決めた結婚だった。
 見合いは彼女の実家で行われ、夫となる男性とその義母(後添え)、それに仲人がやってきてほとんど結婚の日どりまでが決められてしまった。彼女は髪を乙女島田に結い、髷(まげ)に花櫛を指して前に花簪(かんざし)、うしろに銀の平打ち(簪)を指して見合いの席に出ている。これらの小間物のうち、おそらく櫛と銀の平打ちは江戸期からの細工もので、母親の持ち物だったのではないだろうか。
 1928年(昭和3)1月に見合いをし、3月にはもう結婚式の段取りになっているが、その間、将来の夫となる男とは一度も逢わせてはもらえなかった。結婚式当日は、朝から近所の髪結いがきて支度をし、お披露目のために俥(じんりき)の幌を外して両親や親戚数人と列をつくって上落合に向かっている。小滝橋Click!までくると、嫁ぎ先に出入りする半纏を着た職人たちが、「宇田川」の名が入った提灯をもって出迎えていた。上落合189番地の宇田川家の門には、家紋入りの高張提灯が設置されていて、両親や親戚一同は表玄関から入れるが、嫁の彼女は内玄関からしか入れてもらえない。ちなみに、上落合189番地の宇田川邸は村山知義・籌子アトリエClick!の東隣り2軒めの家だ。
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 結婚式を挙げる部屋には、御簾が下げられ大神宮と八幡、御嶽Click!の3社が奉られていて、夫になる男性は床の間の前に座っていた。神主からお祓いを受ける神式の結婚式だったが、この神主は宇田川家の北隣り、当時は上落合200番地にあった月見岡八幡社Click!(戦後に約80m北へ遷座/現・八幡公園)からきていたのだろう。翌日は親戚まわりで、挨拶をしに宇田川本家から親戚一同、檀家寺、氏神の社などを俥で次々とまわり、3日目には彼女の実家への里帰りということで、やはりお披露目から俥の幌を外し大勢の親戚一同を引き連れて上戸塚の家へ挨拶に出向く。そして、4日目には落合町役場へ婚姻届けを提出しに出かけて、ようやく結婚の儀式が終わるという段取りだった。つまり、結婚式とその披露をするのに4日間も費やしたことになる。
 夫となった人物は、蔵前の東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業して、近くの戸山ヶ原Click!にある陸軍科学研究所Click!に勤める技師だった。日米戦争の開始と同時に陸軍技術少佐になったが、軍機Click!だらけの危うい仕事Click!をしていたせいか、仕事の内容については結婚後も、そして敗戦ののちも沈黙して妻に語ろうとはしなかったようだ。
 結婚当初、婚家の姑は後妻であり先妻との間でできた子が3人(先妻の長男が結婚相手)、後妻の子が3人の計9人家族の大所帯で、彼ら日常生活の面倒は姑と彼女がすべてみることになった。彼女も3人の子どもを嫁ぎ先で産んでいるので、最終的には12人の家族の面倒をみなければならなかった。宇田川家では舅が圧倒的にワンマンで、彼女が作ったことのない料理にまごついていると、「赤飯も焚けなくてそばも打てなくてよく嫁にきたものだな」と、さんざん小言をいわれた。彼女が産んだ子どもが、ふたりともつづけて女子だったので、さっそく舅に「今度女だったらお嫁さん取り替える」といわれている。
 夫の給料はすべて舅に“提出”し、夫婦は毎月20~25円の“お小遣い”をもらって生活していた。当然、それだけでは生活に足りず、実家から持ってきた着物などをやりくりしながら不足分を捻出している。子どもが小学校に上がるときに、なにひとつ買ってあげられないことに改めて愕然としたようだ。夫と話していると、「ぺちゃぺちゃ話をするな、新婚でもでれでれするな」とすぐに舅から叱責が飛んできた。
 裁縫塾を出ているので、家内の縫い物はすべて彼女の仕事になった。大家族なのでいくら縫っても縫い足りず、その数は1,000枚をゆうに超していた。
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 手だって職業病の手になってしまいましたの。こうやって仕事するから二本ずつくっついちゃって間が離れてくっつかないんですよ。こっちの手なんか腱鞘炎になってしまいましたの。体が丈夫だから続いたんだと思いますよ。/子ども寝かしつけてから、一〇時になっても、背縫の一本でも縫っておかなくてはって、電気の笠をずーっと下におろしてきて縫うんです。それでも近所の奥さんと話ができる訳もなく、よく私、ノイローゼにならずにすんだと今になると思いますよ。夜中にかい巻きの中に首を突っこんで、声を殺してヒイヒイ泣きました。枕が冷たくなっちゃうんです。枕ひっくり返してまた寝るんです。
  
 毎日の買い物はすべて姑がして、彼女はこれを煮るあれを焼くという指示どおりに働くだけで、彼女自身の好みはまったく反映されなかった。女は家の中にいるのがあたりまえで、満足に外出さえさせてもらえなかったようだ。
 やがて姑が死ぬと、舅はふたりめの後添えと結婚し新たに子どもが生れた。そのせいか、舅の関心は後添えとその子どもに向かい、ようやく彼女はひと息つける生活になったようだ。そんな中で、彼女はレコードを聴く楽しみをおぼえた。舅が持っていた蓄音機からは、童謡や軍歌などが流れていたが、それに合わせて歌うのが楽しくなった。
  
 父は孫の男の子がかわいくて、かわいくて、外へ出さなかったんですよ。それでレコード聞かせてたんですね。それが私も楽しみになりましてね。/それやこれやしているうちに、私の哲学ができちゃったんですよ。一日が終わって真っ暗になって、真夜中の突き当たりまで行っても、朝になって薄い紙一枚ずつでも世の中明るくなるのだから、自分もそのつもりにならなきゃねって。「心に太陽、唇に歌を」って思ったの。
  
 豊多摩郡落合町の300年つづいた旧家の家庭環境は、江戸東京の町場における家庭環境から見れば、当時でさえ「信じられない」ような光景だったろう。農家の柱は体力のある男であり、一家のマネジメントを女性が手がける町家の家庭生活とは正反対の規範が、昭和に入ってからもいまだ郊外ではつづいていた。もっとも、農家でも女性が一家のマネジメントを握るケースもよく耳にするので、宇田川利子のケースを東京郊外の農村家庭として、いちがいに一般化することはできないかもしれないが……。
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 上落合186番地の村山アトリエClick!では、電気冷蔵庫に電気洗濯機、電気掃除機など最先端の輸入家電を駆使して合理的な結婚生活Click!を送り、米国雑誌を読みながら健康トレーニングを欠かさない村山籌子Click!が生活する、わずか2軒隣りの宇田川家では、江戸期と大差ない封建的な「農村的生活」を送る宇田川利子が暮らしていた。いかにも元・農家とモダンな近代建築が混在する、東京郊外の新興住宅地だった落合地域ならではの情景だろうか。

◆写真上:旧・月見岡八幡社に隣接していた、上落合189番地の宇田川忠蔵邸跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる宇田川忠蔵邸。は、第1次山手空襲の直前である1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真にみる宇田川邸とその界隈。は、1927年(昭和2)ごろに撮影された妙正寺川。
◆写真中下は、1933年(昭和8)撮影の結婚式のとき俥(じんりき)でわたった木製の小滝橋。は、夫婦が婚姻届けを提出した1932年(昭和7)撮影の落合町役場。は、1928年(昭和3)に撮影された上落合の旧家(福室家)の葬儀風景で、江戸期とさほど変わらない形式で営まれていた。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗4-落合地区篇-』1994年より)
◆写真下は、1932年(昭和7)撮影の宇田川家ではもっとも古い下落合1792番地の宇田川傳五郎邸。は、1992年(平成4)に解体された上落合の茅葺き福室家住宅。(同上)

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陸軍将校室でクロポトキンを読む立野信之。 [気になる下落合]

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 以前、飯田徳太郎の故郷である銚子の犬吠埼に建つ貸し別荘「日昇館」Click!で、飢餓状態に陥って身動きがとれなくなっていた、壺井繁治Click!と福田寿夫について記事にしたことがある。別荘の紹介者である飯田徳太郎が、平林たい子Click!とともに福田が所持していたなけなしのカネを持ち逃げし、ふたりは東京へもどることもできず餓死寸前まで追いつめられた。そこへ、救いの「女神」のように登場したのが、小豆島からやってきたばかりの岩井栄(壺井栄Click!)だったことも書いた。
 ちょうどそのとき、貸し別荘から平林たい子とともにカネを持ち逃げしたあとか、あるいは持ち逃げする以前のことかは不明だが、飯田徳太郎は千葉の佐倉歩兵第57連隊に入営中だった立野信之を兵営に訪ねている。同連隊に所属する、隣りの中隊には蔵原惟人Click!が入営していたので、飯田は蔵原も同時に訪問していたのかもしれない。
 立野信之というと、1933年(昭和8)2月20日の深夜に、築地警察署で虐殺された小林多喜二Click!の通夜に駆けつけ、遺体の枕元で鹿地亘Click!らとともに腕を組んでいる写真が印象的だ。立野信之の右隣りには上野壮夫Click!が、左隣りには山田清三郎Click!が、彼の背後には岩松惇(八島太郎)Click!小坂多喜子Click!、そして窪川稲子(佐多稲子)Click!ら落合地域との関連が深い人々の姿が見える。その立野信之自身も、昭和初期には落合町葛ヶ谷15番地の、片岡鉄兵Click!邸に留守番のため転居してくることになる。
 飯田徳太郎との面会の様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語―その時代と人間像―』から引用してみよう。
  
 門衛所の面会室で会ったが、飯田は平林たい子と銚子で何日か暮らしていたといい、同じアナーキストで詩人の壺井繁治夫妻とも一緒だ、と話した。/「金がないもんだからね、毎日イワシばかり食っていたよ。五銭も出すと、イワシがすり鉢に一杯買えるんだよ」/飯田は屈託のない笑顔で、そんなことをしゃべった。ずいぶん無茶な生活で、金にも困っているような話だったが、しかしそれも兵隊のわたしにとっては羨望の的でしかなかった。/飯田はわたしと同年配で、同じ千葉県出身であるが、郷里が銚子に近い香取のほうだから、飯田の発案で、二組の男女は銚子に都落ちしていたのではあるまいか、と想像される。――因に飯田の父親は香取郡の警察署長をしていた筈である。/どうやら飯田は、金策のために上京する途中、ふと気まぐれに立ち寄ったらしく、取りとめのない雑談を交しただけで、じきに立ち去った。
  
 上気の文章を読んで、「おや?」と思われた方もいるだろう。銚子の別荘で、餓死寸前だった壺井繁治たちを訪ね、小豆島を出てから初めて壺井に再会したはずの岩井栄が、立野信之の記憶ではすでに壺井繁治・壺井栄夫妻Click!ということになってしまっている。もちろん史実は、小豆島から出てきたばかりの岩井栄(壺井栄)が、上京後に初めて壺井繁治と出会ったのは銚子のボロ別荘であり、いまだふたりは結婚をしていない。
 銚子の貸し別荘にアナキストたちがこもっていたのは、雑誌『ダムダム』が資金不足から創刊号だけで廃刊になってしまった、1924年(大正13)の11月以降であり、立野信之が同書に書いている佐倉歩兵連隊の門衛所で飯田徳太郎と面会したのは、同年の暮れから翌1925年(大正14)明けの早い時期の出来事だったとみられる。
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 さて、飯田徳太郎は「平林たい子と銚子で何日か暮らしていた」と立野信之に話しているが、当初から貸し別荘にこもっていた仲間は岡田竜夫、矢橋公麿、福田寿夫、壺井繁治、平林たい子、そして飯田徳太郎の6人だったはずだ。そして、飯田と平林が福田のカネを持ってドロンしたあと、最後まで残っていたのは壺井繁治とカネを盗まれて身動きがとれなくなった福田寿夫のふたりであり、そこへ上京後わざわざ銚子まで壺井繁治を訪ねてきた岩井栄(のち壺井栄)に窮地を救われるという経緯だ。つまり、飯田が立野に話したニュアンスから推定すると、平林たい子とふたりでカネを持ち逃げしたあと、すでに同棲をはじめていたころに入営中の立野信之を訪ねている可能性が高そうだ。
 いつか、大正時代の軍隊生活は、昭和の軍国主義が強まる時期のそれとはだいぶ様相が異なり、大正デモクラシーを反映してか、思想的にもかなり鷹揚な環境だった様子を、国立公文書館に保存されている陸軍報告書をベースに記事Click!にしたことがある。立野信之が軍隊生活で経験した内容を見ても、その印象が強くする。
 立野信之は、「社会主義かぶれの反軍思想をいだき、帝国主義戦争反対」(同書)であり、軍隊にイヤイヤ入営したにもかかわらず、予想外の快適な生活を送っている。身体の大きな彼は、行軍訓練などはそれほど辛くはなかったが、やや脚気の症状があり、それを軍医に診てもらうと「しばらく入院しておれ」ということになった。そこで、彼は好きな文学作品をたくさん読むことができたが、退院すると上官だった横尾特務曹長は「お前は教練の役には立たんから、中隊の事務をやらせようと思うが……百分比はできるかね?」と訊いて、立野を内勤にしてくれた。
 おそらく特務曹長は、彼が「社会主義かぶれ」で「反軍思想」の持ち主であり、その思想に関する読書好きで勉強好きなのを、入営前からあらかじめ知っていたのだろう。教練予定表を作成する事務にまわしてくれ、しかも短時間で終わる業務を時間をかけてやれとアドバイスしている。同書より、再び引用してみよう。
  
 特務曹長はわたしに前期の予定表の見本と、その他必要な書類や用紙や文房具などをよこしてから、「書類は班内で作ってよろしい。あまり急ぐ仕事ではないから、一時間でできるものは一日で、一日でできるものは三日か四日かかって、丁寧にやれ。但し、班の兵が教練に出るまでは、忙しそうに仕事をしておれ。兵が出てしまえば、寝転んでいようと、本を読んでいようと、それはお前の勝手だ。要は上手にやることだ」/まるで、わたしの心中を見抜いているようなご託宣である。願ってもないご用命だった。わたしは人の好い特務曹長の指示通り、一時間でできる仕事は一日がかりで、一日でできる仕事は三、四日がかりで書類を作った。
  
 立野信之は業務を短時間で片づけると、手箱の中から持参した無政府主義者・クロポトキンが書いた『倫理学』を取りだし、せっせと読書にはげんでいた。
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 しばらくすると、兵隊たちの所持品検査が実施された。軍隊の「所持品検査」は、私物になにを持ちこんでいるかではなく、官給した物品を遺失せずにちゃんと手もとに揃えているかの検査だ。立野信之は、クロポトキンの書籍をうっかり官給品の手箱の中に入れっぱなしにしておいたので、すぐに見つかってしまった。
 ところが、横尾特務曹長は手箱からその本を見つけるや、検査の責任者である権藤少尉に聞こえるよう「クロパトキン将軍のあらわした本かね?」(同書)と立野に訊いてきた。クロパトキン将軍とは、日露戦争が勃発したときにロシアが構築した旅順要塞の司令官だった人物だ。もちろん特務曹長は立野をかばうため、わざと「クロポトキン」を「クロパトキン」に置きかえ、とっさの機転で検査官の耳に入れたのだろう。だが、陸軍士官学校Click!を卒業したばかりの権藤少尉には通じなかった。以下、つづけて引用してみよう。
  
 (少尉は)つと手をのばして特務曹長から本を取り上げ、チラッと一瞥してから、/「こういうものを持ってちゃいかん!」/本を取り上げたまま、さっさとつぎの兵の所持品の点検に移った。/あとで権藤少尉に呼ばれて行くと、少尉は頤を突き出して、/「こういう本を内務班で読んではいかん……読みたかったら、オレの部屋で読め」(カッコ内引用者註)
  
 こうして、アナキズムの本は少尉の居室でなら自由に読んでいいことになった。
 おそらく、立野信之の上官だった横尾特務曹長や権藤少尉は、のちに陸軍皇道派と呼ばれるようになる、社会主義に共鳴していた若き軍人たちではなかったかと想定することができる。したがって、アナキズムにかぶれている立野のことは入営前から把握しており、近しい思想の持ち主として目をかけたのかもしれない。
 立野信之は、2年間の兵役義務を終え1等卒の階級で除隊することになった。このときも、横尾特務曹長らは彼を「上等兵」として除隊させようと奔走している。上等兵卒だと、軍人恩給の額が1等卒よりもかなりいいため、いくらかでも生活の足しになるからだ。結局、上等兵卒は上部で認められなかったが、彼ら軍人たちが立野信之に見せた好意は、軍国主義が横行する昭和の陸軍ではありえない、大正時代ならではの光景だろう。のちに、立野信之が二二六事件Click!を主題に本を書くが、このときの体験が大きく影響しているとみられる。
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 立野信之が「文芸戦線」に小説を書くようになってから、権藤中尉(少尉から昇進)とは、横光利一に連れられて入った新宿三越裏のカフェ「ミハト」で再会している。180cmの大丈夫で、佐倉では「連隊一の暴れん坊」といわれた権藤中尉は、立野を見つけると「おう!」と声をあげて近づき、「盛んに書いとるじゃないか」と彼の肩を親しげにたたいた。「文芸戦線」に目を通し共感している権藤中尉は、まちがいなく陸軍皇道派の士官であり、のちに起きる二二六事件Click!ではなんらかの役割りを演じていたのではないだろうか。

◆写真上:新宿駅東口の、淀橋区角筈1丁目1番地にあったカフェ「ミハト」跡の現状。
◆写真中上は、戦前の絵葉書にみる銚子の犬吠埼灯台。は、佐倉歩兵第57連隊の兵営に設置された門衛。右手に見える建物が、立野信之と飯田徳太郎が面会した門衛所。は、1933年(昭和8)2月21日に小林多喜二Click!の通夜で撮影された立野信之。その周囲には、落合地域ではお馴染みの人々がとらえられている。
◆写真中下は、1935年(昭和10)2月21日に神田の中華料理店「大雅楼」で開かれた「小林多喜二を偲ぶ会」記念写真の立野信之。は、「文芸戦線」の1927年(昭和2)5月号()と、1929年(昭和4)11月臨時増刊号()。は、1962年(昭和37)出版の『青春物語―その時代と人間像―』(河出書房新社/)と、戦後の撮影とみられる立野信之()。
◆写真下は、1938年(昭和13)ごろに作成された「火保図」にみる新宿駅東口のカフェ「ミハト」。(新宿歴史博物館「新宿盛り場地図」より) は、ほてい屋デパートの屋上から眺めた新宿カフェ街一帯。は、昭和初期に撮影された新宿三越裏の新宿カフェ街。このまま正面の新宿三越のほうへ歩いていくと、右手にカフェ「ミハト」があるはずだ。

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長谷川利行のスケッチブック。 [気になる下落合]

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 『江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。』Click!シリーズ記事の連載途中だが、展覧会の開催期限がある急いで書きたい記事ができたため、そちらを優先して書いてみたい。
  
 下落合630番地Click!里見勝蔵アトリエClick!へ、長谷川利行Click!がときどき訪問して食事や酒をご馳走になっていた話を、以前記事Click!にしたことがある。上戸塚(現・高田馬場4丁目)に住んでいた片想いの相手である藤川栄子アトリエClick!も含め、長谷川利行が歩いたであろう下落合の散歩コースを想定したものだ。
 そこにはもうひとり、利行に誘われて同行していた画家がいたことを、一昨年からうかがっていた。1930年協会展に出品していた画家のひとりであり、のちに独立美術協会の会員になる谷中の洋画家・熊谷登久平だ。ふたりは連れ立って里見アトリエに上がりこみ、ひと晩で日本酒を3升も空けたことがあったという。
 谷中の熊谷登久平アトリエ跡へご案内いただいたのは、日暮里富士見坂を守る会Click!池本達雄様Click!だ。そして、わたしは熊谷邸で信じられないものを目にすることになった。この世には存在しないといわれていた、長谷川利行が愛用していたスケッチブックだ。朝日新聞が、昨年(2020年)1月14日に「『日本のゴッホ』東京素描 放浪画家・長谷川利行のスケッチ発見」と、写真入りで記事にする3ヶ月前のことだった。
 長谷川利行と熊谷登久平は当時、気のおけない親友同士の間がらだったようで、ふたり連れ立っていろいろな洋画家たちを訪問していたらしい。特に長谷川利行Click!は、1930年協会Click!の第2回展(1927年6月17日~30日/上野公園日本美術協会)へ『公園地域』と『陸橋のみち』、『郊外』の3作品が入選して以来、同協会の会員画家あるいは出品画家たちを訪ねることが多かったとみられる。そんな機会に、親友だった熊谷登久平を誘い、里見勝蔵アトリエへ同行したものだろう。
 熊谷登久平も、1930年協会の第3回展(1928年2月11日~26日/上野公園内日本美術協会)に、熊谷徳兵衛の名前で『雪の工場地』『軽業』の2点が入選している。つづいて、同協会の第4回展(1929年1月15日~30日/東京府美術館)では徳兵衛改め熊谷登久平の名で『居留地風景(横浜)』と『冬』の2点が、最後の第5回展(1930年1月17日~31日/東京府美術館)には『千厩風景』と『雪の気仙沼港』の2点がそれぞれ入選している。つまり、ふたりは昭和初期から1930年協会展では常連画家だったわけで、お互い連れ立って出かける機会も多かったのだろう。
 熊谷登久平のご子孫にあたる熊谷明子様Click!から、さっそく熊谷アトリエに遺されたスケッチブックを拝見する。利行のスケッチブックは、おそらくこの世に1冊しか存在しないと思われるので、緊張しながら黄ばんだページを1枚1枚めくっていく。
 長谷川利行が生存中から、彼の熱心な作品コレクターであり、ミツワ石鹸Click!で役員をつとめていた下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)の衣笠静夫Click!コレクションにも、スケッチブックまでは含まれていなかっただろう。スケッチブックは、少し茶色がかったグレーの無地の表紙で、どこへ出かけるにも手軽に持ち歩けるよう、約135mm(タテ)×約200mm(ヨコ)とかなり小さめなサイズだ。見るからに廉価そうな用紙の各ページには、利行らしい筆づかいで手ばやくスケッチした街中の人物たちや風景、憶え書きとして書きとめられたとみられる乱雑な文章が横溢していた。
 わたしは、寸法を測る表紙のみを撮影し、中身のスケッチ類は遠慮して撮影しなかったのだが、熊谷明子様が撮影されたスケッチの写真類を引用してもかまわないとお許しをいただけたので、拙記事にそのほんの一部だがピックアップして掲載してみたい。おそらくカフェか喫茶店で描いたのだろう、すばやく勢いのある鉛筆の走り描きでとらえられた会話する人物たち、銀座の路上だろうかモガと和服姿らしい女性が立ちどまり会話をする様子などなど、風景ではなくほとんどが人物像の描写だ。
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人物スケッチとともに、そこになぐり書きされた文章の筆跡は、彼の出した手紙やハガキ類と比較すると、まちがいなく長谷川利行のものだろう。お互い親しく交流する中で、利行が訪問した際に熊谷登久平のもとへスケッチブックを置き忘れていったか、あるいはなにかの記念にスケッチブックを譲渡したものだろうか。
 熊谷登久平アトリエ跡を訪問してから、2020年に入りCOVID-19禍が急拡大したためにすっかりご無沙汰してしまったのだが、先日、熊谷明子様からわざわざご連絡をいただいた。根津駅の近くにある「池之端画廊」Click!で、谷中や上野界隈の家々に残る画家たちの作品群を集めた、地元ならではの展覧会が開かれるという。そこで展示される画家たちは、同地域ではお馴染みの長谷川利行や熊谷登久平をはじめ、1930年協会の画家たちが描いた作品なども多い。また、東京美術学校(現・東京藝術大学)の門前にある沸雲堂Click!からも、秘蔵の作品が出品されるとうかがった。
 これは見逃がす手はないと、さっそく池之端画廊へ出かけてきた。「―明治・大正・昭和―時代を彩った洋画家たち(Ⅱ)」と題された展覧会に展示されている画家は、先の長谷川利行と熊谷登久平に加え、里見勝蔵Click!鈴木千久馬Click!麻生三郎Click!内田巌Click!、鶴岡政男、朝井閑右衛門、岡田三郎助Click!、寺内萬治郎、三雲祥之助、田中岑、村岡平蔵Click!、絹谷幸二、岡田謙三、浅尾丁策Click!らだ。そして、池之端画廊を経営されているのは、なんと鈴木千久馬のご子孫である鈴木英之様ご夫妻だった。
 展示作品でめずらしかったのは、薄塗りであっさりと水彩風に描かれた長谷川利行の『柿』と、岡田三郎助のめずらしい大きな日本画、麻生三郎が墨1色で描いた『浅尾丁策像』、そして画家たちに描け描けと勧められて制作した浅尾丁策の『トレド風景』だろうか。展示されている作品は、すべて地元の個人蔵のものばかりで、めったに目にする機会のない画面も多い。鈴木様に許可をいただき、展示作品の何点かを撮影させていただいた。
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 ちょっと余談だが、沸雲堂には整理されていない画家たちの作品が、まだ数多く保存されているともうかがった。以前、浅尾丁策が池袋Click!にあった豊島師範学校Click!近くの骨董店で発見して購入した、佐伯祐三の『便所風景』Click!について記事にしているが、1888年(明治21)から東京美術学校の門前で画道具を扱ってきた同店には、いまだ画家たちのめずらしい作品が眠っているのではないかと思うとワクワクする。
 池之端画廊には、周辺の散策マップや地元の資料なども置かれていて、谷中や根津、上野界隈を気軽に散歩する起点にはもってこいだ。
 ◆「―明治・大正・昭和―時代を彩った洋画家たち(Ⅱ)」展
  2021年2月3日(水)~2月21日(日) 池之端画廊(月・火曜は休廊)
 また、2月末から3月にかけては地元にアトリエがあった熊谷登久平展が開かれる。
 ◆「野獣派 昭和モダン 熊谷登久平」展
  2021年2月24日(水)~3月14日(日) 池之端画廊(月・火曜は休廊)
 池之端画廊は東京美術学校(現・東京藝大)が近いため、周囲は日本画家や洋画家、美術関係者たちの旧居跡だらけだ。画廊の周辺は、もともと広大な大河内子爵邸の敷地があり、界隈には藤野一友(洋画家)や加藤栄三(日本画家)、富田温一郎(洋)、大河内信敬(洋/河内桃子Click!の実家)、堀田秀叢(日)、狩野深令(日)、佐藤朝山(彫刻家)、望月春江(日)、鈴木美江(日)、池上秀畝(日)、岩田正己(日)、岡倉天心Click!……etc.と、上野桜木地域とともにアトリエ村ならぬ“アトリエ街”を形成していたような土地がらだ。
 COVID-19禍で家に引きこもりがちになり、体力も免疫力も落ちて健康のバランスを崩す方も多いようなので、たまには混雑や「密」を避けつつ、外をゆっくり散歩するのも健康のためにはいいのではないだろうか。
 熊谷登久平アトリエに遺された長谷川利行のスケッチブックは、地元の台東区が文化事業をすべて外注委託業務にし、文化財を受け入れられる施設もなく、また信じられないことに行政側(教育委員会)には専門の学芸員が存在しない(!?)とのことなので、いまだ寄贈先が決まっていないらしい。おそらくこの世に1冊しか存在しない利行のスケッチブックを、なんとか劣化して朽ち果てないうちに、後世へ保存することができないものだろうか?
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 長谷川利行は、1930年代に新宿の武蔵野館裏にあった天城画廊Click!でまとまった仕事をして、周辺に拡がる街の風景作品をいくつか残しているが、その地域的なつながりから新宿区に寄贈していただくというのはいかがなものだろうか? もっとも、現在はCOVID-19禍の真っただ中で、各地の自治体はそれどころではないとは思うのだが……。

◆写真上:熊谷登久平アトリエに遺された、長谷川利行が愛用したスケッチブック。
◆写真中上は、約135mm(タテ)×約200mm(ヨコ)とポケットに入りそうな長谷川利行のスケッチブック。は、熊谷明子様が撮影されたスケッチの一部。は、昭和初期に描かれた長谷川利行『熊谷登久平像』と同じく『自画像』(1928年)。(スケッチ画像は「熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター」ブログClick!より)
◆写真中下は、池之端画廊の入口と1・2階の展示室。は、薄塗りでめずらしい長谷川利行『柿』。は、里見勝蔵の『女』シリーズと並ぶ長谷川利行『自画像』。
◆写真下は、順番に熊谷登久平『キリストの昇天』、麻生三郎『浅尾丁策像』、岡田三郎助の日本画、里見勝蔵『ルイユの家』。は、池之端画廊の展覧会案内×2葉。

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