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落合第一尋常小学校の校長ボコボコ事件。 [気になる下落合]

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 1928年(昭和3)1月28日に、上野精養軒Click!では全国校長会や全国教育51団体の主催による、中学校の「試験撤廃祝賀会」が開かれていた。その会場で、落合第一尋常小学校Click!の校長・大塚常太郎は、同祝賀会に参加していた同役職の小学校長たちから、ボコボコに殴られヒドイめに遭っている。冗談のような話だが、事実だ。
 小学校の校長たちによる、ひとりの校長への集団暴行なので立派な刑事事件だが、大塚校長は警察には被害とどけを出さなかったらしい。そのかわり、この年の3月を最後に落合第一尋常小学校を辞め、同校には新校長として佐口安治が就任している。大塚常太郎は、その後も東京市内の小学校校長を歴任しているので、この事件をきっかけに教師を辞めてしまったわけではない。では、なぜこんなことが起きてしまったのだろうか?
 大正末から昭和初期にかけ、小学校から中学校へ進学する際の受験戦争が、子どもの親たちまで巻きこんで過熱していた。ちょうど、1960~1970年代に登場した「教育ママ」「教育パパ」に象徴される、大学受験戦争のようなありさまだったようだ。当時の中学校は5年制で、それを終えると高等学校に進むわけだが、当時の高校は現代とは異なり大学の予科に相当するので、進学校の中学校(現代の高校に近い感覚)に入学できれば、次の進学先である大学への切符を手に入れたも同然だった。
 だから、小学校時代から親たちは中学受験に向けて子どもの尻をたたいていたわけで、最初から尋常高等小学校を卒業したら働きはじめる子どもたちは別にして、中学校への進学組は教師たちも特に目をかけ力を入れて教えていたのだろう。そのあまりに加熱しすぎた受験戦争に待ったをかけたのが、文部省や各種教育団体だった。すなわち、中学の入学試験撤廃を打ちだしたのだ。中学への入学は、小学校の校長から送られてくる内申書(成績+生活態度)のみを判断材料に、入学者を決定するよう通達が行われた。
 ところが、頭を抱えてしまったのが当の中学校だった。少し考えればわかることだが、Aという小学校でトップの成績を修めた生徒でも、Bという小学校では中程度に相当しかねないことは、地域や学区ごとに学力がてんでバラバラな状況を見れば明らかだった。だが、A小学校もB小学校も成績優秀生徒には、両校とも「特等」の内申書を作成することになる。だから、中学校側としては、A小学校の「特等」生徒をそのまま入学させてしまうと、より優秀な生徒が入学機会を奪われてしまうのではないかと懸念した。
 また、もうひとつ別の問題も生じていた。中学受験が、小学校の内申書しだいになるのを知った親たちの間では、校長や教師たちへ盆暮れの付け届けはもちろん、料亭やレストランに招いては高額な酒食でもてなすなど、常軌を逸した接待攻勢が聞かれるようになっていく。事実、小学校から中学校への進学を希望する生徒たちの内申書が、ほぼ全員トップクラスの成績というような、当時の用語でいえば「情実地獄」のありえない小学校も出現している。中には、最優秀の「特等」成績を修めた生徒が、なぜか20人もいる小学校さえあった。また、先手を打つと称して、進学希望先の中学校にいる校長や教師たちの自宅にまで押しかけ、贈物・接待攻勢に乗りだす親たちまでが現れた。
 裏口入学の詐欺師も登場している。「どこそこの中学校には顔がきくので、おカネをあるていど積めば内申書が悪くてもなんとかなる」……と親の弱みにつけこみ、同年3月28日付け東京朝日新聞によれば、「試験地獄が生んだ驚くべき新犯罪」の見出しで、情実入学をネタに500~1,000円(物価指数をもとに現代価値に換算すると31万8,000~63万6,000円)を、多くの親たちから騙しとった事件の記事が掲載されている。
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 受験戦争をなくそうと試みられた中学校の入試廃止だったが、教育現場の腐敗=「情実地獄」を招きかねない事態を見るにつけ、文部省の態度は急にグラグラしはじめる。中学校側も、これでは生徒の実力がわからないので、入学試験と同等の各種諮問をやるけどいいよね?……と文部省に念押しし、結局、大多数の中学校では実質的な入学試験がそのまま継続している。文部省は、その動きに対して「交渉の度毎に態度が変る」を繰り返し、結局、ほぼ全中学校での名称を変えた入学試験を黙認するかたちとなった。東京府立第一中等学校の川田校長が、同年3月の入試について談話を発表している。
 「今度の様に試験課題から採用決定までに苦心したことはない……小学校で一番を十人も二番を十五人も作つたところがあるとの事だ。何れを甲、乙と決め難いからといふことだが内申を受けた方は鳥渡考へさせられる。僕のところなどにも父兄が訪問にきて物を置いて行き一々それを返送するのにどれ位骨が折れたか知れない」。
 このような状況や流れの中で、上野精養軒での全国小学校長会などが主催した冒頭の「試験撤廃祝賀会」だったのだ。会場には、鳩山一郎首相代理や永野修身文相、平塚広義東京府知事らが出席して行われ、永野文相が「我々は教育の本義の上からも児童育成の上からも、今日試験地獄の名ある現制度を改革する必要ありとして改正を断行した次第でありまして、敢て世論の非難を恐れず実施した次第であります」と挨拶した。けれども、試験廃止に異議を唱えているのは「世論の非難」ばかりでなく、当の受験される中学校側の廃止反対や教育現場の腐敗を懸念する強い批判だった。
 さっそく、中学校側の出席者からヤジが飛び、入試廃止を推進してきた教育評論家たちとの間でケンカに近い激しい応酬となった。誰も永野文相のあいさつなど聞いてはおらず、会場は乱闘寸前の混乱状態になったようだ。そんな緊迫した状況の中で、どうやら教育現場の腐敗=「情実地獄」に腹を立て、中学校の入試廃止には反対だったらしい落合第一尋常小学校Click!の校長・大塚常太郎は、不用意なことを叫んでしまったようだ。
 以下、1929年(昭和4)出版の『昭和年史/昭和三年』(年史刊行会)から引用しよう。
  
 (永野文相が)手前みそをならべたにもかゝわらず、席上中学校長側と教育評論家協会側との間に激論が起こつたり、或は府下落合小学校長大塚氏が「預つてゐる生徒全部に満点の成績をくれても之を取締る規則がない」と情実の猛烈になつて来ることを皮肉つただけで、同席の他の小学校長から「馬鹿なことをいふ奴はなぐれ」といつて乱打されたり、全くお話にならない混乱に陥つた。此の混乱は実に新制度の未熟と欠陥に起因してゐるものと見るべきであつた。(カッコ内引用者註)
  
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 もう、上野精養軒の会場は昭和初期の戸塚町議会Click!にも似た、格闘技リングと化してしまったようだ。自分の意見に反対の者は殴って血を流させて黙らせるという、しごく単純でフィジカルな「論理」だ。落合第一尋常小学校の大塚校長は、美味しい思いをして「入試廃止」賛成の小学校長たちの間にまぎれこんだためヒドイ目に遭ったのか、それとも当時はほとんどの小学校長が「入試廃止」に賛成で、全国校長会も組織全体の統一見解としてそれでまとまっており、大塚校長のような存在が“異端”だったのかはさだかでないが、少なくとも学校長ともあろう者が、寄ってたかってひとりの校長を「乱打」するなど、上掲の文章のとおり「お話にならない」常軌を逸した行為だろう。
 混乱の様子は、さっそく翌日の新聞でも詳しく報道されているようだが、会場でボコボコにされた大塚校長に対して、落合第一尋常小学校に子どもを通わせていた親たちはどのような感慨をおぼえたのだろう? 学校へ「情実地獄」の攻勢をかけるには、カネ持ちや地域の有力者が有利なことはいうを待たず、ふつうの勤め人家庭の親たちにしてみれば、子どものためにしてやれることには限界がある。そんなふつうの親たちから見れば、「大塚校長よくぞ叫んでくれた!」と歓迎されそうだが、このボコボコ事件のわずか2ヶ月後に、大塚校長は落合第一尋常小学校から転出している。
 結局、文部省が「入試廃止」を決めたにもかかわらず、中学校では入学試験に代わり「筆記諮問」と「口頭試問」=表現を変えた入学試験がつづくという、ほとんど詐欺のような結果に終わった。同年の教育専門誌「教育」6月号(茗渓会)は、以下のように総括している。
  
 当局の弁護なるもの一ツに一大痛棒を呈したい。曰く「何といつても此度の一大収穫は小学校の準備教育を廃止したことである」と。成る程準備教育は一時止めた。併し是はペテンにかかつて止めたのだから今後益々盛になるとも決して衰へまい。ペテン、勿論当局者には毛頭此の如き考へのなきは充分知悉して居る。唯事実がペテンになつた丈である。
  
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 結局、小学校における受験の「準備教育」は行われなくなったが、以前にも増して「補習」という名の受験勉強が熱心に行われるようになる。中学校側も、入学試験は全廃したが「筆記諮問」「口頭試問」は実施する……、まさにコトバだけを操る口八丁のペテンだ。

◆写真上:前谷戸の谷間にプールが設置されている、落合第一小学校の校庭。
◆写真中上は、1929年(昭和4)5月24日に松下春雄Click!が旧・箱根土地本社Click!の前庭からモッコウバラ越しに撮影した、竣工直後の落合第一尋常小学校の講堂と西ウィングの校舎。は、1932年(昭和7)に市郎兵衛坂側から前谷戸越しに撮影された落合第一尋常小学校。は、1960年代に撮影された落合第一小学校の運動会(AI着色)。
◆写真中下は、1960年代の戦災をくぐり抜けさすがに老朽化が進んだ同校校舎。下左は、1929年(昭和4)に出版された『昭和年史/昭和三年』(年史刊行会)。下右は、1927年(昭和2)に出版された岡田怡川『学校から実社会へ我が児に何を為さしむべき乎』(章華社)。性格や思考を推し測る児童向け「知能テスト」のはしりで、落合第一尋常小学校の校長・大塚常太郎がモデル校として全面的に協力している。
◆写真下:落合第一小学校の、南側にある体育館()と北側にある校門()の現状。

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skekhtehuacso

永野修身って、オランウータン顔した海軍の人ですよね。
文部大臣までやっていたとは知りませんでした。
それとも同姓同名の別人でしょうか?
by skekhtehuacso (2024-04-07 20:57) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
わたしも「あれ?」と思って、もう一度資料を参照しましたが、やはり永野修身となっていますね。このときの文相は水野錬太郎のはずですが、1928年(昭和3)に「祝賀会」が開かれたちょうどそのころ水野自身の辞任騒動がもちあがり、田中内閣でゴタゴタが起きていた時期と重なりますので、こちらも代理だったものでしょうか。海軍兵学校長のあと、日本の教育について自由学園の羽仁もと子と親密に交流していた時期でもあり、水野に代理を頼まれて出席したかもしれないですね。くだんの資料は、文相「代理」を落としてしまったのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2024-04-07 21:59) 

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