経営者へ転身する前の洋画家・島津一郎。 [気になる下落合]
下落合(4丁目)2096番地にある旧・島津一郎アトリエClick!の主であり、島津源吉Click!の長男・島津一郎Click!について、これまであまり触れてこなかったので少し書いてみたい。ただし、彼が島津製作所の取締役になる以前、1932年(昭和7)に東京美術学校西洋画科を卒業し、しばらく洋画家として活動した時期に限定したいと思う。
島津一郎は、東京美術学校の西洋画科を卒業しているが、卒業後の一時期、同美術学校の彫刻科塑像部へ通っていたらしい様子が、1935年(昭和10)に刊行された『東京美術学校一覧』で確認することができる。だからこそ、美校在学中の1931年(昭和6)に吉武東里Click!の設計で竣工した絵画用のアトリエに近接して、彫刻の作業用アトリエが付属しているのがストンと納得できる美校の記録だ。少し余談だが、島津一郎が卒業した1932年(昭和7)を最後に、東京美術学校の西洋画科は油画科と科名を変更している。
下落合では、満谷国四郎Click!に師事していた島津一郎だが、美校を卒業した直後から画会の展覧会へは積極的に出品している。東京府青山師範学校の付属小学校を卒業した、洋画家をめざす同窓生で東京美術学校の卒業生および在校生5人が集まり、1932年(昭和7)からスタートした東京の画会「靑巣会」が活動の中心だった。靑巣会の結成時には、島津一郎のほか黒田頼綱、楢原健三、島崎政太郎、そして中山正義が参加していた。少し遅れて木下幹一が加わり、ほどなく会員が6名になっている。なお、東京の画会「靑巣会」と書いたのは、まったく同名の画会「靑巣会」が岡山県にも存在し、昭和初期に展覧会を毎年開催しているので留意する必要があるからだ。
この画家志望者たちが集った靑巣会について、1933年(昭和8)12月に銀座紀伊国屋で開催された靑巣会第2回展を観賞した、島津一郎と美校を同期卒業の画家・白川一郎の展評を、1934年(昭和9)刊行の「美術」1月号(美術発行社)より引用してみよう。
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靑巣会は/「同人は東京美術学校卒業生在学生にて青山師範附属小学校よりの旧友であります。」/と招待文にもある如く、溢れるばかりの親睦と友情とを以て、集へる新人の一団である。/同人諸氏は、此の団楽裡に於て、其の年来の努力を、作品の質と量に夫々具現し、四十六点の画面は、手堅い手法のうちに、温雅の美を、親しみ深く感じしめる。/然し又他面、其の温雅の内に、積極的なるもの――思ひ切つてぶつかつた新人の意気が、今少しあればなどと、将来の飛躍を思ひ、思はないでもない。深く大きいものへの内訌透徹への苦しみ静慄を望む。
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このときの島津一郎は、『けし』『室内』『窓』の3点を出品しており、いずれも島津アトリエか島津邸母家の室内あるいは庭園の一画を描いたものだろうか。白川一郎は、「三点共に温かく柔かなる色感、筆触、一寸ボンナールを想はしめる」と評しているが、「ボンナール」は、もちろんフランスの“ナビ・ジャポナール”(日本かぶれ)な画家P.ボナールのことだ。また、3点のうちでは『室内』が力作だとしている。
なお、靑巣会展は毎年暮れの12月に開催するのが慣例だったようで、会場も銀座紀伊国屋と決めていたようだ。上記の第2回展の前年、1932年(昭和7)の第1回展も12月3日から7日まで銀座紀伊国屋で開かれている。ちなみに、銀座6丁目にあった銀座紀伊国屋は、新宿の紀伊国屋書店の銀座店で1930年(昭和5)にオープンし、本店のギャラリーClick!と同様に2階をレンタルギャラリーとして美術家に開放していた。靑巣会の第1回展を撮影した記念写真が残されているが、銀座紀伊国屋のギャラリーはかなり広かった様子がうかがえる。
1934年(昭和9)の靑巣会第3回展ごろから、師事していた満谷国四郎Click!の影響が色濃くなったものか、先輩画家の猪熊弦一郎は「満谷氏のにほひ」が強すぎるとしている。1935年(昭和10)刊行の「美術」1月号より、猪熊の島津一郎評を引用してみよう。
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島津一郎君。「曇り日」は情味のある画である。静かな美しさを持つて居るが作画動機の感激が小さい。「みづき」色感は仲々面白いと思つてゐるが味の仕事にならない事を望む。/もつと画面にかぢりついた苦しみの跡も見度いものだ。画面の左方は成巧(ママ:功)してゐるが右方の黄色の花は少々一様になつて平凡に終つてゐる。「磯」は一番佳作だと思つた。「湖畔」及び「早春」は満谷氏のにほひで君のよき処を逃がしては居まいか。
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島津一郎は、第3回展では5点の作品を出展しているのがわかる。しかも、前年の第2回展が室内や身のまわりのモチーフばかりだったものが、今回は風景画が主体だったようで、作品のタイトルから画因を探して遠出をしている様子がうかがえる。満谷国四郎にアドバイスを受けたか、あるいは満谷に同行して制作しているのかもしれない。
以降、靑巣会の展覧会は1936年(昭和11)の第5回展まで開催されているが、それからの記録が見あたらないので、おそらく1937年(昭和12)ごろに解散しているのだろう。第5回展は1936年(昭和11)の少し早め、11月21日から25日の5日間にわたり銀座紀伊国屋で開かれている。同展の様子を、1937年(昭和12)に刊行された「美術」1月号から引用してみよう。この展評には署名がなく、「美術」編集部の文責となっているようだ。
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青山師範の附属小学校出身の同窓の五名の集りだが、何処となくゆとりのある飽迄趣味に活きた友情を感ずる(中略) 島津一郎の情熱的な光へのセンシビリテーは、フオーブから更に表現主義へと、朗らかに進展して行かうとする、色彩画家であるが余りに抒情を求めて聊か割切れないレアリズムへの分析に苦慮してゐる所が見える。これは亦、消極的な個性の弱さからであるかも知れない。
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読み方によっては、「ゆとりのある飽迄趣味」=プロの画家ではないと痛烈な批判にも解釈できる表現だが、この5回展を最後に靑巣会は活動を停止・解散しているようだ。
靑巣会の(おそらく発展的な)解散後、島津一郎のネームはふたつの画会に見ることができる。ひとつは、「立陣社」という画会で島津一郎は13名の同人のひとりとして参加している。1937年(昭和12)7月23日から27日の5日間、立陣社近作洋画小品展が銀座青樹社で開かれているが、彼も小品を出展しているのだろう。銀座青樹社は、画商で実業家の鈴木里一郎が経営していた青樹社画廊のことだ。この展覧会についての展評は記録になく、島津一郎がどのような作品を展示していたのかは不明だ。
また、もうひとつは1936年(昭和11)創立の画会「銀座美術協会」だ。同画会について、1937年(昭和12)に刊行された『日本美術年鑑』(美術研究所)から引用してみよう。
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昭和十一年二月房野德夫の発起にて発会。「芸術発表の合理化、芸術行動の実際化」を趣旨とする。同年四月銀座聯合会公園の下に銀座通両側商店ウインドウにて洋画展を開催す。/[会員]井手坊也、房野德夫、島津一郎、石川滋彦、木下幹一、川端實、富川潤一、三輪孝、沼田一郎、大貫松三、島崎政太郎、副島秀生、黒田頼綱、眞木小太郎、須田壽、千葉樹、笹岡了一
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会員名を見ると、靑巣会の画家が4名も参加しているのがわかる。銀座通連合会Click!による全面バックアップで、銀座通りのショウウィンドウへ画家たちの作品を並べてしまおうという、これまでにない斬新な企画だった。銀座美術協会の事務所は、銀座4丁目の三和ビル内に置かれ、毎年洋画展覧会というよりは街頭美術イベントが開かれた。
なぜ、銀座通連合会を巻きこんだ、このような大規模な美術イベントが可能だったのかといえば、顧問や賛助者に高名な画家たちの名前がズラリと並んでいたからだろう。顧問には岡田三郎助Click!、賛助出品者には下落合にアトリエのある大久保作次郎Click!や牧野虎雄Click!をはじめ、伊原宇三郎Click!、辻永Click!、寺内萬治郎Click!、柚木久太Click!、中村研一Click!、安宅安五郎Click!、清水良雄Click!、高間惣七Click!、田辺至Click!、中野和高Click!、そして小林萬吾Click!らが名を連ねていた。銀座美術協会の街頭イベントは、その後も1943年(昭和18)まで継続されているが、敗戦色が露わになった翌年から中止になっている。
さて、島津一郎の作品(画面)は見つけるのがむずかしかった。1936年(昭和11)刊行の「美術」11月号に掲載された『婦人像』は、靑巣会第5回展に出品されたものだろうか。また、1937年(昭和12)刊行の「美術」5月号に残る『室内』は、1933年(昭和8)の靑巣会第2回展に出品作品と同一のものだろうか。1934年(昭和9)の靑巣会第3回展のあと、風景作品へ積極的に取り組んでいる様子がうかがえるが、特に下落合の西部、島津アトリエがあったアビラ村(芸術村)Click!の風景をモチーフにした画面がないかどうか気になっている。
◆写真上:下落合2096番地の、自身のアトリエの前に立つ島津一郎(AI着色)。
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)刊行の『東京美術学校一覧』の彫刻科塑像部に名が見える島津一郎。中上は、島津一郎が卒業した西洋画科教室。中下は、1932年(昭和7)に銀座紀伊国屋で開かれた靑巣会第1回展の記念写真。印刷が不鮮明だが、後列中央が島津一郎とみられる。下は、1937年(昭和12)刊行の『日本美術年鑑』にみる靑巣会の紹介文。当時の同会事務局が、下落合の島津アトリエだったことがわかる。
◆写真中下:上は、1920年(大正9)に竣工した大熊喜邦Click!と吉武東里Click!の設計による島津源吉邸Click!(AI着色)。中上・中下・下は、1931年(昭和6)ごろ竣工した吉武東里の設計による島津一郎アトリエの外観および内観で、島津邸敷地の東側(三ノ坂寄り)に建っていた。おそらく下落合はおろか、日本でも最大クラスのアトリエ建築だろう。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の「美術」11月号に掲載の島津一郎『婦人像』。中上は、1937年(昭和12)の「美術」5月号に掲載の島津一郎『室内』。中下は、1931年(昭和6)ごろに撮影された刑部人Click!(左)と島津一郎(右)。下は、島津一郎アトリエの前で撮影された島津家の記念写真(AI着色)。左から右へ島津一郎、島津源吉、七面鳥Click!、島津とみ、島津源蔵。よく見ると、左端の島津一郎と右端の島津源蔵のズボンの裾や靴が泥だらけだが、刑部人アトリエClick!の湧水池Click!周辺を歩き、思わず泥濘にでもはまったのだろうか? なお、島津家の家族写真は刑部人のご子孫である中島香菜様Click!のご提供による。
アトリエ建築を見て、大阪府高石市にある“キャラバシ園”を思い出しました。
かつて(ブログ開始前に)徘徊したことがあったのですが、ここも大正期に建築された三角屋根の洋風建築物が少なからず残っておりました。
by skekhtehuacso (2024-04-30 22:25)
skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
キャラバシ園はいったことがないのですが、静かそうなお屋敷街ですね。その昔は、なんとなく画家や写真家が集まりそうな、モダンな雰囲気を漂わせてます。東京でいいますと、下落合よりも古いモダンな町並みの、西片町とか大和郷あたりの風情が想い浮かびます。
by ChinchikoPapa (2024-04-30 23:13)
papaさん いつも楽しみに拝見しております。島津一郎氏の画業を紹介する記事がいままでなかったので、貴重な記事ですね。戦前の画家は、金持ちか赤貧かの両極端ですね。島津一郎氏や宮本恒平氏が前者で、今西中通氏などが後者です。画家にかぎらず、戦前は貧富の差が激しかったと思います。戦後はその差がかなり縮まりましたが、最近はまた持てるものと持たざるものの格差がかなり広がってきていると思います。株価はバブル後最高値となっているのですが、テレビをつけると節約術を紹介する番組が多いようです。落合でもOKは大賑わい。格差社会を実感します。
by pinkich (2024-05-19 09:14)
pinkichさん、コメントをありがとうございます。
金融証券など、モノづくりや仕組みづくりをしない「虚業界」が栄え、社会の生活実態とますます乖離していくのは、まともな経済の法則からいえば、そもそも“破綻”していることになります。企業構造で考えれば、財務部だけが社外投資で利益を上げ、かんじんの開発・生産・物流・販売部門が大赤字……というような、不健全きわまりない経営構造ですね。財務部門だけが景気がよく、あとの分野はふるわず給与が変わらないでは、事業全体が破綻しているのと同じです。昨日も、首都圏のマンションでは80万戸の部屋が空き室というニュースが流れましたが、金融バブルと不動産バブル(地価はそれほど上昇していないのでマンションバブルでしょうか)は遠からず破綻して、さらに状況は悪化しそうな気がします。
by ChinchikoPapa (2024-05-19 09:36)