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学生も教師もいない無人の学習院昭和寮。 [気になる下落合]

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 下落合406番地(のち下落合1丁目306)番地、近衛町Click!の地割番号でいえば42・43号地Click!に建っていた学習院昭和寮Click!から学生が消えたら、いったい何に使われていたのだろうか。昭和寮は、そんな“空っぽ”時代を一度経験している。
 1928年(昭和3)に竣工した学習院昭和寮Click!には、学習院へ通う学生たちClick!が入居し、翌1929年(昭和4)から年2回にわたり寮誌「昭和」Click!が発行されている。この寮誌を読み進めていくと、昭和寮で起きていた出来事Click!事件Click!、また当時の学生生活Click!などがよくわかるのだが、昭和寮が完成した直後から学習院につとめる教授・教師たちも、おそらく第1寮~第4寮ではなく本館Click!に入居していたと思われる。中には家族連れもあったようなので、本館の広めな部屋をあてがわれていたのだろう。
 昭和寮に住む教授・教師たちは、単に学生たちを監督するためではなく、貸家やアパートの代わりに借りていたとみられる。なぜなら、学習院に勤務する教職員は、同院敷地内(目白町1丁目1057番地)にある学習院官舎ないしは昭和寮に入居できなければ、街中の借家や自宅から目白駅まで通勤するのがふつうだった。官舎や昭和寮の寮費は格安だったと思われ、人気が高く入居をクジ引きで決めていたのではないか。
 昭和寮の管理は、舎監棟があるように選任の管理者(こちらも学習院関連校の教授・教師ら)がいるので、入居した教授・教師たちは寮の運営にはノータッチだったろうが、ときには学生たちと懇親会や談話会、あるいは学生たちが催すゲストを招いたイベントなどには参加していたとみられる。また、戦時中は軍人を招いての「戦況報告会」なども開かれており、そこでは盛んに議論なども行われていたようだ。
 だが、戦争も末期が近づくにつれ、学習院昭和寮の学生寮棟は空きが目立つようになる。もちろん、召集令状を受けとり故郷へ帰った学生もいれば、1943年(昭和18)には東條内閣が閣議決定した「学徒戦時動員体制確立要綱」により、「学徒出陣」Click!で召集され戦場に送られた学生たち、あるいは「勤労動員」で各地の生産現場へ配置された学生・生徒たちが続出し、学校から多くの学生や生徒たちの姿が消えてしまったからだ。
 ガラ空きになった昭和寮には、これまで自宅(借家やアパートなど含む)から通っていた学習院の教授・教師たちが、戦時体制の一環として入居することになる。ただし、第1寮のみは地方出身の生徒たちが少人数(1944年現在)暮らしていたようだ。入寮した教授・教師たちは、家族を故郷や地方に疎開させたあと、残った数少ない理系や兵役免除の学生・生徒たちを教えたり、自身がテーマとする仕事=研究を東京でつづけたりするのが目的だったが、もうひとつ当局から与えられた重要な仕事として残った生徒たちの統率と、学習院を“防衛”するという任務もあった。
 別に“防衛”するといっても武器をもって戦うわけではなく、町内の防護団Click!と同じく学習院の校舎を米軍の空襲から守る、すなわち米機が落とす焼夷弾で火災が発生した場合には、防護団と同様に消火につとめるという任務を負っていたのだ。だが、バケツリレーや消火ばたきなどでB29による絨毯爆撃Click!の火災を食いとめられるはずもなく、1945年(昭和20)4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!で、校舎の6割ほどが焼き払われている。だが、キャンパスの大半が灰塵に帰したものの、皮肉なことに下落合の学習院昭和寮は、たび重なる空襲にも耐えて戦後を迎えている。
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 戦時中、学習院昭和寮で暮らしていた学習院講師で、1940年(昭和40)には学習院中等科の教師(同校3年生を収容した青雲寮の舎監も兼務)だった人物の記録が残っている。平安期を中心に古典文学の研究者で、平岡公威(三島由紀夫Click!)の恩師でも有名な国文学者の清水文雄だ。彼は雑誌「文藝文化」を発行しつつ、同誌の同人とともに関口町207番地にあった佐藤春夫Click!の自宅を頻繁に訪問していたようだが、昭和寮に入居した当時も学習院中・高等科で教えていた。それまでの自宅は、疎開した友人の好意で世田谷区大蔵町に住んでいたが、1944年(昭和19)に学習院昭和寮へと転居してくる。
 清水文雄が昭和寮へ転居するまでの経緯を、1963年(昭和38)に広島大学教育学部国語教育会から刊行された、「国語教育研究」第8号の年譜より引用してみよう。
  
 同十九年(一九四四) 四十一歳
 三月、家族を本籍地<広島県安佐郡深川村>に疎開させ、同じく家族を長野に疎開させた栗山<理一>の好意により、その宅(世田谷区大蔵町一八七一[現在の砧町一一一])に移る。八月、雑誌統合の政府要請を機に、第七十号をもって「文芸文化」終刊。十月、新宿区下落合一丁目三〇六、学習院昭和寮に転居、自炊生活に入る。今年後半に入り、戦局いよいよ苛烈となり、学徒動員により教え子相次いで出陣するを送る。(< >内引用者註)
  
 空襲が激しくなると、清水文雄は学習院中等科1年生の約80名の生徒たちを引率して、栃木県の日光市へ疎開し同地で敗戦を迎えている。
 敗戦後、中等科の校舎が全焼してしまったため目白町のキャンパスにはもどれず、臨時に静岡県沼津市に学習院沼津学寮を開設、つづいて東京都小金井町にあった文部省研修所の建物を借りて仮校舎とし授業がつづけられた。つまり、昭和寮には戦災で家を失った教職員たちが入居していたが、教師たちが生徒の疎開に同行するようになる戦争末期、昭和寮はついに舎監もいない無人の“空っぽ”状態となった。
 昭和寮が無人になる直前、空襲の警戒警報が発令されるたびに、昭和寮の教職員たちは学習院の校舎を“防衛”するために、キャンパスへ駆けつけなければならなかった。その様子を、1968年(昭和43)に広島大学教育学部国語教育会から刊行された「国語教育研究」第14号収録の、清水文雄『王朝文学研究の道―学問と私―』より引用してみよう。
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 戦争が末期に近づくにつれ、都市居住者の地方疎開もはじまり、家族の別れ別れの生活が常態になってくると、教育も研究も、そしてそれにたずさわる者の心も、日常性をそのまま保持することが困難になった。/戦時最後の冬の、ある雪の夜のことであった。そのころ私は、東京下落合にある学習院昭和寮に、同じく妻子を疎開させた同僚たちと住んでいた。警戒警報が出るたびに徒歩で十分ばかりの校舎を守るために出かけねばならなかった。その夜のことをしるした手記の中に、つぎのような一節がある。/「雪はまだしきりに降りつづいていた。戸外に下り立つとすでに積雪は膝に届くばかりである。/寮の門を出てまっすぐに三町ほどゆくと、ひろいアスファルトの通りへ出る。深夜の大通りを、同寮のY氏と二人で、降りつむ雪を踏みしだいて歩きながら、私は妙に昂然たる思いにとらえられていった。(後略)
  
 1945年(昭和20)冬の大雪は、1月の宮本恒平『画兄のアトリエ』Click!の数日前か、または30cmを超える2月の積雪Click!の日だろう。「深夜の大通り」とは、近衛町を「三町」ほど歩くと出られる目白通りのことだ。米軍は、前年の暮れから同年2月にかけ、郊外域で兵器実験を兼ねた少数機による空襲Click!を散発的に行っている。
 敗戦とともに、華族学校としての学習院は解体され、改めて学習院大学としてスタートすると、昭和寮の第1寮~第4寮までを利用したのは、学生ではなく同大の教職員たちだった。また、本館は1949年(昭和24)から学習院女子教養学園の校舎として利用されている。ちなみに、1951年(昭和26)に高等教育研究会が発行した、学習院女子教養学園の入学案内(進学の手引)には「豊島区下落合一の四〇六」となっている。
 「豊島区」は新宿区の誤りだが、ここでややこしいのが番地の表記だ。昭和寮が建てられた当時、住所は落合町下落合406番地だった。つづいて、東京35区制Click!が施行されると下落合1丁目306番地になり、戦後の微細な番地変更では下落合1丁目306番地と復活した406番地に敷地が分割されている。北側の本館や舎監棟は406番地で、南側の寮棟のあるほうが306番地になっていた。したがって、同じ敷地内であるにもかかわらず、本館あてと寮棟あてとでは郵便の住所番地が異なっていたことになる。戦後の資料で、昭和寮の所在地が下落合1丁目306番地と406番地とで混在するのは、そのような事情が影響しているのだろうが、その後も同寮の番地は微変更されつづける。
 1952年(昭和27)に、昭和寮は学習院大学の施設拡充のため中央商事に売却され、寮棟に住んでいた教職員は年度末までに退居するよう通告されている。たとえば、同大学の文学部教授だった松尾聡という方は、同年の「平安文学研究」9月号(平安文学研究会)で、「青山北町四丁目四十四番地に生まれ、戦災にあふまで住みつゞけ、近くまた現住の新宿区下落合一丁目の学習院昭和寮が売払われて追出される」と書いている。その後、昭和寮は日立製作所が買収し日立目白クラブClick!となるのだが、学習院の教職員が「追出され」たあとまで住みつづけた教授もいるので、寮棟の居住は個別の契約ではなかっただろうか。
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 1966年(昭和41)に英語青年編集部から刊行された『英語年鑑1966年版』で、学習院大学の文学部教授だった宇佐美邦雄という方は、現住所が学習院昭和寮(同年には下落合1丁目414番地)となっている。「絶対やだ! 通勤に便利だし、ずっとここに住みたいのだ!」と強く主張した人は、居住権の問題などもありそのまま住みつづけられたものだろうか。

◆写真上:夕闇が迫る、学習院昭和寮(日立目白クラブ)の寮棟(解体)。
◆写真中上は、1940年(昭和15)刊行の『大衆人事録』(帝国秘密探偵社)に掲載された昭和寮在住の学習院教授。は、戦後1947年(昭和22)刊行の『出版社・執筆者一覧』(日本読書新聞社)に掲載された学習院の法学教授とみられる人物。は、1948年(昭和23)刊行の『文芸年鑑』(日本文芸家協会)に掲載された学習院教授。
◆写真中下は、学習院昭和寮の本館。は、本館2階の部屋と本館ロビー。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる学習院の焼け跡と昭和寮。は、本館を使って授業が行われた学習院女子教養学園の募集要項で、1951年(昭和26)に刊行された『進学の手引・技能養成』(高等教育研究会)より。は、1966年(昭和41)に刊行された『英語年鑑』(英語青年編集部)にみる昭和寮在住の学習院大学教授。
おまけ
 1938年(昭和13)に撮影された寮棟と、1932年(昭和7)撮影の空中写真にみるカメラをかまえた本館屋上からの撮影位置。下は、1945年(昭和20)5月17日にF13Click!より撮影された学習院。4月13日夜半の空襲後に、いまだ焼け残っている木造校舎らしい数棟が見えているので、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼失校舎がより増えているのだろう。
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