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「アビラ村」の名は上高田で受け継がれた? [気になる下落合]

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 1922年(大正11)に東京土地住宅Click!による開発をスタートした、下落合の西部一帯におけるアビラ村(芸術村)Click!計画だが、1925年(大正14)に同社が経営破綻するとともに開発は中途半端のまま終わっている。その後、島津家Click!による島津邸敷地内のおしゃれな住宅地開発Click!や、勝巳商店地所部Click!による昭和10年代の「目白文化村」Click!開発などについては、すでに記事にしてご紹介してきた。
 地元の落合地域ではアビラ村(芸術村)Click!について、それほど印象的には語り継がれなかったようだが、東京市内では下落合の新たな郊外住宅地開発として、かなり注目を集めていた様子がわかる。現在の「流行語辞典」に相当するものとして、当時は鈴響社から出版されていた『社会ユーモア・モダン語辞典』という刊行物があった。その1932年(昭和7)版にも、「アビラ村」は収録されている。東京土地住宅による開発がストップしたのが1925年(大正14)のことなので、その7年後、いや後述するが大洋社の『現代常識新語辞典』(1938年)にも掲載されているので、13年後まで「アビラ村」という芸術村=住宅地のワードが、東京市街地では活きていたということになるだろうか。
 鈴響社の『社会ユーモア・モダン語辞典』(1932年版)から、そのまま引用してみよう。
  
 アビラ村
 東京市外上落合(ママ)にある美術家の村、地勢がスペインに似て居るより此の名起る。
  
 もちろん、「上」落合は「下」落合の誤りだが東京土地住宅の三宅勘一Click!や、すでに下落合の西部に住んでいた芸術家たちClick!が相談して名づけたとみられる「アビラ村」の由来が、わりと正確に記載されている。「上落合」が単なる誤植か、あるいは編者である社会ユーモア研究会の勘ちがいかは不明だが、1930年代までアビラ村(芸術村)が当時の「流行語辞典」にも収録されていた様子がわかる。
 また、面白いことに同辞典の発行者は鈴木照子という女性で、1932年(昭和7)現在は高田町巣鴨代地3531番地、つまり現在の目白2丁目あたりに在住していた。下落合からは、目白通りや山手線をはさんだ斜向かい、目白駅Click!前の川村学園Click!から北への道筋を入り、直線距離で100mほどの位置に住んでいた女性だ。
 ちょっと余談だけれど、北海道にも「アビラ村」は古くから存在している。現在の北海道勇払郡安平町のことだが、漢字が当てはめられてからアビラと読まれるようになったのだろう。本来の発音は「ア・ピラ」ではなかったろうか。ア・ピラ=「a-pira」ないしは「ar-pira」はもちろんアイヌ語で、「a」は強調の接頭語で「すごい」「大きな」「けわしい」で「pira」は崖地(バッケ)Click!で急峻な崖地の意、または「ar」だとすれば「片」「片側」で片側のみ崖地というような意味になる。
 ちなみに、片岸ないしは両岸に多くの崖地を望む谷底を流れる旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)は、江戸期以前には平川(ヒラカワ)と呼ばれていたが、この「ヒラ」の語源は「pira」、すなわち崖地ではないかと疑っている。原日本語の「ピラ」に「平」の漢字を当て、後世の日本語である「川」を付加して呼んでいたのではないか。「pira」川は、そのまま「崖川」の意味になる。
 さて、1932年(昭和7)ごろまで当時の「流行語辞典」にまで掲載されるほど、「アビラ村」の認知度はそこそこ高かったようだが、同時にアビラ村(芸術村)Click!の範囲が東京土地住宅Click!が開発していた下落合エリアにとどまらず、より範囲が西側へと大きく拡大しているようだ。それは、当時の随筆や小説などにも登場している。
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アビラ村1936.jpg
 たとえば、1936年(昭和11)に信正社から出版された丹羽文雄Click!の随筆集『新居』にも、「アビラ村の神様」という一文が収録されている。同書より、少し引用してみよう。
  
 アビラ村は巴里の近郊にある村名(ママ)と聞いてゐる。中野の西武電車の走る中井と新井の中間の風景がそのアビラ村によく似てゐるといふので、この土地の人々はアビラ村と呼びならしてゐた。丘あり、雑木林あり、起伏の豊かな土地である。氷川神社もこの一部で、社殿のうしろには池があつた。魚も住みかねる澄み切つた小さい池で、水は常にあふれてゐた。そばを通る人は何かなし立ちどまり水の中をのぞいてみたくなる曰くのありげな池である。水底には落葉が沈んで、青黒く、神の池にふさはしい静まり方をしてゐた。画家は好んで、この池に画架を立てるのだつた。
  
 アビラ村は、当のアビラ村(芸術村)に含まれる蘭塔坂(二ノ坂)Click!上に住んでいた、下落合4丁目2080番地の金山平三Click!も描いているように、フランスの「巴里」ではなくスペインのアビラ県にある県都の名称であり、丹羽文雄は随筆を書くにあたってなにか大きな勘ちがいをしているようだ。この文章を読むと、「土地の人々」がアビラ村と呼んでいたのは、上高田氷川明神社Click!のある丘陵あたりということになる。
 当時、丹羽文雄は下落合の西隣りにあたる中野区上高田305番地(現・上高田4丁目)、いまはちょうど中野区立第五小学校のあるあたりの借家に住んでいたので、上高田の氷川社までは桜ヶ池不動堂Click!(現・不動院)の脇を歩き、わずか150mほどの距離だった。この随筆では、「アビラ村」と呼ばれていた上高田の丘陵を越えて、丹羽文雄のいる家まで遊びにくる友人の秦鳴雄のことを書いたものだ。だが、わたしは古い『中野区史』Click!(1943~1973年)でも、またこのあたりの明治以降の地域誌である『ふる里上高田の昔語り』Click!(1982年)などでも、上高田の丘陵地に「アビラ村」の名称を見たことがない。
 もうひとつ、上高田氷川社の「社殿のうしろ」と書かれているが、同社境内に池があったのは社殿の南側(社殿に向かって左横)ではないか。それとも、1926年(大正15)の大改修で社殿の背後に移設されていたものだろうか。同社の社殿は、1926年(大正15)から住民たちが資金を出しあって大改修が行われており、丹羽文雄が目にした上高田氷川社は、いまだ木の香が残る真新しい建築だったろう。
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桜ヶ池不動堂.JPG
 丹羽文雄は触れていないが、上高田で池といえば桜ヶ池不動講が組織されていた、上高田氷川社の鳥居前(東側)にある湧水で形成された桜ヶ池Click!が昔から有名なので、地誌本などにもよく登場している。また、不動堂と同池が改修されるのは1954年(昭和29)なので、丹羽文雄は古い時代の不動堂および桜ヶ池を目にしていただろう。
 画家が好んで、上高田氷川社の周辺をスケッチしていた様子が記録されているが、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作『洗濯物のある風景』Click!で、桜ヶ池の不動堂を目にして立ち寄っていないかが気になる。『洗濯物のある風景』の描画ポイントと、桜ヶ池不動堂はわずか200mしか離れておらず、途中は西武線が敷設される以前のバッケが原Click!で遮蔽物がないため、不動堂と桜ヶ池はよく見通せただろう。また、上高田のバッケが原近くに住んでいた画家としては、中出三也Click!甲斐仁代Click!、少し遅れて耳野卯三郎Click!らがいたので写生に歩いていたかもしれない。
 同随筆の中で、丹羽文雄は「その内にはこのアビラ村も赤い屋根の安普請で埋まつてしまふんだよ。いまの内だ。せいぜい鑑賞してをくんだな。いつかはアビラ村も一つの伝説になつてしまふだらう」と友人に語っているが、随筆『新居』が書かれた1936年(昭和11)の時点で“本家”である下落合のアビラ村(芸術村)には、日本画・洋画家や彫刻家などのアトリエが建ち並び、すでに丘陵に通う坂道の上下には住宅街が形成されていた。上高田のアビラ村が「伝説」化したかどうかは疑わしいが、下落合のアビラ村(芸術村)は戦後にかけて、確かに伝説化していったようだ。
 もうひとつ、アビラ村が登場している丹羽文雄の随筆ではなく小説がある。1936年(昭和11)に改造社から出版された『この絆』に収録の、短編『古い恐怖』から引用してみよう。
  
 その様子が秦眞吉には噛みつくことの出来ない、ふてぶてしい感じを感じさせた。彼は頭を垂れ、部屋を歩きまはつてから長椅子に仰向けにぶつ倒れた。健康なその身体は弾機(バネ)のため、感情的に少時震へてゐた。中野もこの辺は画家などにアビラ村と呼ばれてゐるだけに、深夜は静寂の底にあつた。とも子は口もきかずにぢつとしてゐた。いつか彼女の神経は、秦の心の内で燃えさせる音楽に耳をかたむけてゐるかのやうであつた。
  
 「中野もこの辺は画家などにアビラ村と呼ばれてゐる」と書くが、丹羽文雄と周辺にいた友人たち(作家や画家を含む)が、下落合西部のアビラ村(芸術村)開発を耳にして、上高田の丘陵地帯も勝手にそう呼びならわしていただけなのではないだろうか?
丹羽文雄「新居」1936.jpg 丹羽文雄「この絆」1936.jpg
新しい言葉の字引1927改訂版実業之日本社.jpg 現代常識新語辞典1938大洋社.jpg
バッケが原南端.JPG
 当時の「流行語辞典」では、先述の『社会ユーモア・モダン語辞典』のほかに、近似する辞典類として『新しい言葉の字引』(実業之日本社/1925年)や『近代新用語辞典』(修教社書院/1928年)、『新しい言葉の泉』(創造社/1928年)、『現代常識百科事典』(朋文堂/1928年)、『現代新語辞典』(亜紀書院/1930年)、『新語辞典』(有宏社/1930年)、『モダン語と新主義学説辞典』(松寿堂/1931年)、『社会百科尖端大辞典』(文武書院/1932年)、『現代語大辞典』(一新社/1932年)、『モダン新語辞典』(日本図書出版社/1933年)、そして『現代常識新語辞典』(大洋社/1938年)などが続々と出版され、「アビラ村」も収録されているけれど、すべて下落合のアビラ村(芸術村)を「上落合」と誤記している。これは、もっとも早い時期にこの種の辞典を企画・出版した、1925年(大正14)の実業之日本社『新しい言葉の字引』が誤記したため、売れると見こんだ後続の出版社による辞典類が、すべて“ウラ取り”(ファクトチェック)をせず単に書き写してきたせいなのだろう。

◆写真上:昭和初期の降雪日に撮影された、バッケが原から上高田の丘陵を眺めたところ。丹羽文雄は、手前の住宅のような借家に住んでいたのだろう。
◆写真中上は、1932年(昭和7)出版の『社会ユーモア・モダン語辞典』(鈴響社)の表紙()と奥付()。は、同辞典の「アビラ村」解説。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合のアビラ村(芸術村)と上高田の「アビラ村」の位置関係。
◆写真中下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる上高田氷川社と「アビラ村」の丘上。は、上高田氷川明神社。は、東光寺別院の桜ヶ池不動堂。
◆写真下は、1936年(昭和11)出版の丹羽文雄の随筆集『新居』(信正社/)と短編小説集『この絆』(改造社/)の中扉。中左は、「流行語辞典」の嚆矢とみられ1925年(大正14)からつづく実業之日本社『新しい言葉の字引』(1927年改訂版)。中右は、1938年(昭和13)出版の『現代常識新語辞典』(大洋社)。は、上高田のバッケが原南部の現状。
おまけ
 戦後改修された桜ヶ池の現状と、上高田時代に撮影されたとみられる書斎の丹羽文雄。
桜ヶ池.JPG 丹羽文雄1935頃.jpg

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