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三岸好太郎『茶畑』は大正末の下落合風景。 [気になる下落合]

茶畑跡地.JPG
 幕末から落合地域とその周辺では、狭山茶の栽培が流行っていた。1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000カラー地形図Click!を参照すると、目白崖線沿いのあちこちに茶畑が採取されているのが目につく。狭山茶の収穫は長くつづき、地域によっては大正末から昭和初期までつづいた茶畑もあったようだ。
 こちらでも、下落合の女子が出かけている清水徳川家Click!(現・甘泉園公園)や大隈重信邸Click!にあった茶畑の娘茶摘みイベントClick!をはじめ、長崎村五郎窪4213番地の茶畑に囲まれた西洋館Click!に住む大泉黒石Click!の「茶中館」、義父が狭山茶栽培の名人だった西落合の貫井冨美子Click!という方の証言などをご紹介した。これらの茶畑は、大規模栽培でコストダウンをはかる静岡茶の市場進出に押され、徐々に衰退していったのだろう。だが、自宅で飲む茶葉ぐらいは、昭和期に入っても栽培していたかもしれない。
 三岸好太郎Click!が、下落合のすぐ南に隣接する戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)、すなわち下落合からも見える現在の戸塚第三小学校Click!の近くに住んでいたとき、『茶畑』Click!というタブローを描いているのは以前にも拙サイトでご紹介している。その記事の中で、「好太郎は頻繁に落合地域を訪ねていたのではないか」と書き、「下落合を描いた画家たち」の中にこの作品を含めていた。事実、この『茶畑』に描かれた情景は、下落合の東部風景そのものだったのだ。
 また、下落合の東部に残っていた茶畑農家を描いたこの作品は、多くの資料で規定されている1928年(昭和3)の制作ではなく、三岸夫妻の上戸塚時代だった1926年(大正15)に描かれたタブローであることも判明している。美術史研究家で美術評論家の桑原住雄のインタビューに答えて、1964年(昭和39)にそう証言しているのは、上戸塚の新婚家庭でいっしょに暮していた妻の三岸節子Click!だ。
 1964年(昭和39)に角川書店から出版された、桑原住雄『東京美術散歩』(角川新書)より、三岸節子へのインタビューにもとづく文章を引用してみよう。
  
 この絵は二人が新所帯をもって二年たった大正十五年の作品である。描かれている場所は下落合一丁目から二丁目(現・下落合1~4丁目+中落合1~2丁目の一部)あたりの一角、好太郎が二十五歳の作品だ。当時、二人の愛の巣は高田馬場から下落合のほうへ行く途中の戸塚一丁目(ママ)あたりの二軒長屋だった。イーゼルをじかに畳に立て、描くほうも畳にすわりこんでがんばった。(中略) まだ西武線ができない前のことで、下落合のこのあたりが文化村といわれていたこのころ天気がいいと好太郎はよく絵を描きに下落合の高台に行った。札幌一中を卒業して十八歳の年に上京してきた彼には下落合あたりの茶畑が気に入ったらしく、特に銀色の緑が好きであった。北海道には茶畑はもちろんなかったが、わらぶきの家やキリの木なども彼にはもの珍しく好ましいものだった。そういう道具だてのそろった下落合は彼の画想をかきたてたのである。(カッコ内引用者註)
  
 「戸塚一丁目」は、もちろん戸塚3丁目の誤りだが、さらにいえばこの時代は東京35区制Click!の以前なので、戸塚町(上戸塚397番地Click!)には丁目表記は存在していない(ことになっている)。桑原住雄は、1932年(昭和7)以降の地図を参照しながら、三岸節子に取材しているのだろう。同様に、「下落合一丁目から二丁目」も建前上Click!は存在していないが、三岸好太郎Click!が好んで出かけていたエリアは、現在の近衛町Click!から国際聖母病院Click!の西側あたり、すなわち第三文化村Click!あたりまでということになる。
 文中にもあるとおり、「天気がいいと好太郎はよく絵を描きに下落合の高台に行った」ということなので、上戸塚時代の作品がどれほど残っているのかは不明だが、「下落合風景」がけっこう混じっているのかもしれない。ちょうど、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!を描いていたのと同時期なのがおもしろい。また、この時期は貧乏だったせいか、佐伯祐三のようにキャンバスの裏表Click!に風景を描いており、里見勝蔵Click!から習った手製のキャンバスに描いた作品は、ボロボロになって残りにくかったらしい。ちなみに『茶畑』の裏面には、桑原住雄がじかに確認したところなにも描かれていなかったようだ。
狭山茶(所沢市).jpg
茶畑1880.jpg
桑原住雄「東京美術散歩」1964角川.jpg 三岸好太郎1927.jpg
 さて、この茶畑は下落合のどこの風景だろうか? 茶の木を育成すると、4~6年ほどで茶葉が収穫できるようになるといわれている。そして、そのまま手入れをつづけると30~50年間は収穫できるが、その後は収穫率が落ちるため、その間に幼木を育てては収穫を繰り返す栽培サイクルの確立が必要になるとのことだ。一度、この栽培サイクルをはじめると長くつづけることになるため、明治期に形成された茶畑が大正末まで残っていたのではないかと想定できるだろう。
 明治期に茶畑が拡がっていた、下落合の地形図(1880年)を再び参照してみよう。のちに、目白停車場(地上駅)Click!が設置される谷間のすぐ西、下落合と高田村金久保沢Click!にあった茶畑は、山手線の敷設とともに住宅地が形成されているので、大正末までは残らなかったろう。1895年(明治28)ごろに近衛篤麿邸Click!が建設され、1922年(大正11)から近衛町が開発される位置にあった茶畑も、大正末まで存続したとは考えにくい。同じく、近衛新町Click!として売りだされ、ほどなく東邦電力Click!林泉園住宅地Click!が開発された林泉園の南にも、茅葺き農家や茶畑は残らなかったとみられる。
 唯一、可能性があるのは目白崖線の山麓、藤稲荷Click!の南側に通う雑司ヶ谷道Click!沿いの斜面にあった、規模の小さめな茶畑だろうか。1925年(大正15)作成の1/10,000地形図や、『茶畑』と同年の1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を見ると、このエリアは耕地整理が進み旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)沿いの工場敷地(空き地)と田畑とが混在するような風景だった様子がうかがえる。下落合の東部で、大正末まで茅葺き農家が残っていても不自然には感じない位置だ。
 もちろん、大正末まで残っていた茶畑は出荷を前提とした生産農家ではなく、『茶畑』の画面からもうかがえるように、すでに自宅あるいは親族一同で消費するための栽培だった可能性が高い。また、茅葺き農家の向こうに、大きめの西洋館のような建築物や三角屋根の住宅が見えているが、西洋館は小松益喜『(下落合)炭糟道の風景』Click!(1927年)に描かれた雑司ヶ谷道沿いに建つ基督伝道隊活水学院Click!だろうか。
 1964年(昭和39)現在、『茶畑』は三岸節子が所有しており、インタビューは上鷺宮の三岸アトリエClick!で行われている。上戸塚時代の夫妻アトリエには、久保守Click!が毎日のように遊びにきていたようで、ときに鳥海青児Click!横堀角次郎Click!らも顔を見せていた。『茶畑』の描画ポイントは、三岸節子も記憶になかったようだが、「好太郎が死んでずいぶんたっているのに私はまだ生きているんですよ」と、桑原住雄のインタビューに答えている。
三岸好太郎「茶畑」1926.jpg
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藤稲荷1925.jpg
藤稲荷1926.jpg
 桑原住雄は、絵画作品の描画位置を特定するために、当事者あるいは本人が死去している場合は身近にいた人物(遺族など)、さらには地元の人々にインタビューし、その結果をもとに必ずモチーフになった現場を熱心に歩きまわって取材している。わたしも、改めて見習わなければならない厳密な“ウラ取り”=ファクトチェックの取材姿勢だが、『茶畑』のケースは「下落合の現場はすっかり昔のおもかげを失い、大小さまざまの住宅がいっぱいに建てこんでいる」ため、まったく描画場所の見当がつかなかったせいか、国際聖母病院Click!の屋上に入れてもらい、下落合2丁目(1964年当時)の北北東へ向けてカメラのシャッターを切っている。だが、福の湯Click!の煙突が見えるこのあたりには、『茶畑』の描かれた1926年(大正15)現在、すでに茶畑をもつ茅葺き農家が残っていたとは考えにくい。
 この徹底した取材姿勢は、牧野虎雄Click!『凧揚げ』Click!でも踏襲されており、タコ揚げの場所を近所に取材してまわり長崎村新井(のち椎名町1丁目)の空き地Click!だったことをおおよそ特定し、描かれている「日の丸」の角ダコが牧野虎雄自身のタコだったことまで調べあげて推定している。また、中村彝Click!『目白の冬』Click!では、当の中村彝アトリエを購入して住んだ鈴木誠Click!に取材しており、一吉元結工場Click!の干し場がアトリエの細い道を隔てた西側Click!にあったこと、そこに杭が何本も打たれ糸を架けては干していたことなどを取材している。おそらく、画面に描かれた目白福音教会Click!宣教師館(メーヤー館)Click!も、鈴木誠Click!に示唆されて訪れているのだろう。
 桑原住雄が『東京美術散歩』を書くきっかけになったのは、1960年代前半の当時、岸田劉生Click!の『切り通し風景』がそっくりそのまま、代々木地域に残っていたのに気がついたことからスタートしている。いまだ当時は、画家本人あるいは画家の遺族や友人たちが生きていた時代であり、描画場所について具体的な証言を取材しやすかったことと、画面に描かれた風景の片鱗が残っていたことが機縁だった。そして、現場を歩きながら綿密に取材を重ねていく桑原の手法は、美術記者をつとめていた時代に培われたもののようだ。
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 わたしも、学生時代に歩きまわった落合地域の光景に、さまざまな画家たちが描く「落合風景」の片鱗が残っており、その記憶や足でまわりながら形成された地形や街並みなどの雰囲気や土地勘に頼りつつ、同じような記事を書きつづけてきた。だが、実際の光景を目撃している人たちが物故し少なくなるにつれ、現場の“ウラ取り”取材が困難になりつつある。前世紀からつづく、さらに変貌が激しい落合地域の風景の中で、これまで収集してきた地元の証言類は、よりかけがえのない貴重なものになっていると感じるきょうこのごろだ。

◆写真上:藤稲荷社の山麓で、大正期まで茶畑が残っていたと思われる斜面の現状。
◆写真中上は、所沢地域に拡がる甘くてコクが深めで風味が濃厚な狭山茶の栽培畑。は、1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000地形図にみる落合地域とその周辺域に点在する茶畑。下左は、1964年(昭和39)に出版された桑原住雄『東京美術散歩』(角川書店)。下右は、1927年(昭和2)に撮影された三岸好太郎。
◆写真中下は、妻・三岸節子の証言によれば1926年(大正15)に下落合東部の茶畑農家を描いた三岸好太郎『茶畑』。中上は、先述した1880年(明治13)作成の地形図にみる藤稲荷周辺の部分拡大。中下は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる同所。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同所。
◆写真下は、1964年(昭和39)に国際聖母病院の屋上から北北東を向いて撮影された下落合の街並み。上部の中央やや右手に見える煙突が銭湯「福の湯」で、聖母坂筋から目白通り方向を眺めている。は、1924年(大正13)に長崎村で制作された牧野虎雄『凧揚げ』。は、広大な原っぱがあった描画位置を訪ねた1964年(昭和39)当時の様子。
おまけ
 桑原住雄が訪ねた1964年(昭和39)当時の、鈴木誠アトリエと敷地の西側に建つ母家。
鈴木誠アトリエ1964.jpg
鈴木誠アトリエ母家.jpg

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