SSブログ

大泉黒石の転居先が混乱していて悩ましい。 [気になる下落合]

大泉黒石1923頃.jpg
 大泉黒石Click!に関する居住地と、その転居ルートが錯綜して混乱しているようだ。黒石自身の証言と、家族たちの証言にも大きな食いちがいが見られる。特に、本郷から雑司ヶ谷へと転居してからの証言に、研究者を含めかなりの混乱が生じている。
 今回は、大泉黒石Click!が住んだといわれている居住地について、その記述を書籍や資料から追いかけながら、できるだけ順番にたどっていきたい。まずは、わたしが大泉黒石について記事を書くのにベースとしていた、巻末に年譜が付属する岩波書店から出版された最新の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(2023年)から引用してみよう。
  
1921年(大正10年) 28歳
 文士生活はますます軌道にのり、雑司ヶ谷へ転居。(後略)
1924年(大正13年) 31歳
 (前略)この頃は椎名町から転居して、下落合の中井に住む。書生2、3人を置き、家賃50円。隣家では林芙美子が『放浪記』を書いていた。(後略)
  
 上記の1921年(大正10)に雑司ヶ谷への転居は、本郷から高田町雑司ヶ谷442番地へ転居したことを指している。これは、二松堂書店版の『文芸年鑑』1923年版(国立国会図書館収蔵:以下同)でもそうなっているし、また1988年(昭和63)に緑書房から出版された『大泉黒石全集』第6巻の巻末に収録された、由良君美「大泉黒石掌伝」でもそう規定されている。
 この住所は、大泉黒石が『俺の自叙伝』の中で以下のように書いている家だ。
  
 雑司ヶ谷で黒石の邸はどこだと尋ねれば直ぐ解る。三条家と背中合わせに偉大なる冠木の門があるだろう。門の内に物凄い大銀杏が、サガレン半島から押し寄せて来る空っ風と腕押しをしながら、北斗星を脅やかしているはずだ。その枝に赤ん坊のおしめが干してある。
  
 確かに、目白通り(高田大通り=清戸道Click!)に面した大きな華族の三条屋敷の裏側(北側)に、高田町雑司ヶ谷442番地は位置しているのでまちがいない。
 だが、わたしが先の年譜をおかしいと気づきはじめたきっかけは、大泉黒石が1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の前後に書いた長編小説『預言』の「自序」だった。同作が、作者の了解をとらず『大宇宙の黙示』と改題して1923年(大正12)に新光社から出版された本の当初「自序」ではなく、改めて原題の『預言』にもどし1926年(大正15)に雄文堂出版から刊行された改訂版の、「再刊の序」として書かれた以下の文章だ。
  
 (前略) かくして、再び本来の面目に還つて世に出る運びとなった。著者の欣びには誠に少なからぬものがある。/大正十五年九月一日東京府下長崎村大和田の寓居にてしるす
  
 これによれば1926年(大正15)9月現在、大泉黒石は長崎村大和田にいたことになる。同様に、『文芸年鑑』(二松堂書店版)の1926年版を調べてみると、長崎村(同年に町制へと移行)の大和田2028番地(江戸期には椎名町と呼ばれていた清戸道Click!沿いのエリア)に住んでいたことがわかる。しかし、この間にはいくつかの転居先が抜けている。
 ちなみに、いわずもがなだが混乱を避けるために書いておくと、大泉黒石の東京における転居先で「長崎」という地名が頻出するが、これは当然ながら彼の生まれ故郷である九州の「長崎」のことではなく、東京府北豊島郡長崎村(1926年より長崎町)のことだ。
大泉黒石住所1923文芸年鑑(二松堂書店).jpg
雑司ヶ谷442.jpg
大泉黒石住所1924.jpg
五郎窪4213.jpg
 まず、高田町雑司ヶ谷442番地のあとの、長男・大泉淳の証言がある。1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」には、「家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った」と証言している。このとき小学生だった大泉淳は弟とともに、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)を走る汽車(おそらく貨物列車)に轢かれそうになっている。
 雑司ヶ谷442番地の家の「後ろ」、小学生が気軽に遊びにいけるような場所に武蔵野鉄道は走っていない。高田町内で、武蔵野鉄道が「程遠からぬ所」を走るのは、高田町雑司ヶ谷の御堂杉か西原、あるいは上屋敷(あがりやしき)あたりの住所だ。大泉一家は短期間のうちに、高田町雑司ヶ谷内を一度転居しているのではないか?
 また、年譜は雑司ヶ谷から椎名町(長崎村大和田)へ転居したとなっているが、実は関東大震災の翌年1924年(大正14)に転居したのは、長崎村五郎窪4213番地だったことが『文芸年鑑』1924年版(二松堂書店版)で確認できる。つまり、長男の大泉淳が電車に乗って通いつづけた雑司ヶ谷の高田第一小学校は、最寄りの武蔵野鉄道・東長崎駅から乗車したのであり、大泉黒石が毎朝息子を見送った駅舎も同駅ということになる。大泉淳の証言に、ときどき「東長崎」が登場するのは、この長崎村五郎窪時代のことだろう。
 長崎村五郎窪4213番地は、ダット乗合自動車Click!が通う長崎バス通りClick!も近い一画で、五郎久保稲荷Click!から通りをはさみ南へ120mほどの区画、五郎窪一帯の大地主だった岩崎千之助邸Click!の北西にあたる敷地なので、大泉淳の記憶に残る茶畑に囲まれた大きめな西洋館は、岩崎家が建てて賃貸住宅にしていた邸だった可能性が高い。
 さて、長男の大泉淳は長崎村で関東大震災に遭遇したと書いているが、大泉黒石は雑司ヶ谷で大震災に遭ったとしているようだ。すでに他の記事Click!でご紹介している一文だが、四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(2023年)より大震災前後を引用してみよう。
  
 黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。
  
 雑司ヶ谷一帯が、関東大震災の被害をあまり受けていないのは、以前の記事でも触れて書いたとおりだが、文中で「下長崎」と架空の地名(?)で書かれている転居先が、東長崎駅も近い長崎村五郎窪4213番地だったことがわかる。
大泉黒石住所1926.jpg
大和田2028.jpg
大泉黒石住所1932文芸年鑑(改造社).jpg
鶉山1501.jpg
 このあと、大泉黒石は1926年(大正15)の『文芸年鑑』(二松堂書店版)、および同年の『預言』に書かれた「再刊の序」にあるとおり、長崎村大和田2028番地に転居している。五郎窪4213番地の家から、東南東へ930mほどのところにある敷地だ。しかし、ここでも研究者を悩ませる課題がある。長崎町内を転居していたはずの大泉一家だが、1925年(大正14)に誕生した三男・大泉滉(ポー)の出生地が「雑司ヶ谷」になっていることだ。つまり、1924年(大正13)の長崎村五郎窪と、1926年(大正15)の長崎町大和田との間に、大泉家は高田町にもどっているのではないかという可能性だ。残念ながら、1925年(大正14)の『文芸年鑑』(二松堂書店版)は国立国会図書館でも欠番となっている。
1926年(大正15)9月には、大泉黒石は長崎町大和田から下落合(2丁目)744番地へ転居していることが、その後の調査で判明Click!している。
 では、長崎町大和田の次に上掲の年譜どおり、ようやく下落合の西部へ転居したのかと思えば、実はここからがますますややこしいのだ。大泉黒石は、長崎町大和田2028番地から、再び高田町の雑司ヶ谷近くへともどっているのだ。この一連の高田町→長崎町→高田町の往復転居あたりの事情から、黒石本人も子どもたちも、また研究者も前後関係の文脈がわからなくなり、彼の住居が混乱している要因ではないかとみられる。
 1932年(昭和7)に改造社から出版された『文芸年鑑』1932年版によれば、大泉黒石の新たな住所は高田町鶉山1501番地であることがわかる。同所は、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のすぐ南側に位置する敷地であり、現在はちょうど明治通り(環5)の下になってしまったあたりの番地だ。したがって、黒石自身や家族たちの鬼子母神とその周辺にからんだエピソードや証言は、双方の時代が前後し錯綜して語られている可能性がある。
 では、今度こそ年譜にあるように下落合へ転居してきたのかといえば、実際はまったく異なるのだ。1932年(昭和7)に出版された『文芸年鑑』(改造社版)によれば、今度は下落合とは正反対の方角、板橋区(1932年より東京35区制が施行)の中新井1丁目71番地に転居したとされている。ところが、お気づきかと思うが困ったことに、今度は『文芸年鑑』が記載ミスをやらかしている。中新井町があるのは板橋区ではなく練馬区だ。 同住所は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の練馬駅の南側にあたる位置だ。
わたしはここで、初歩的なミスを犯している。練馬区が成立したのは戦後の1947年(昭和22)のことで、当時は練馬区のほとんど全域が板橋区に包含Click!されていた。
 そして、ここからもすぐに転居して、1936年(昭和11)に改造社ではなく新たに第一書房から出版された『文芸年鑑』によれば、板橋区(ママ)下石神井町北1丁目305番地に居住している。再び、『文芸年鑑』の改造社版→第一書房版でも記載ミスが引き継がれ、練馬区を板橋区と誤記している。この住所は、現在の西武池袋線・石神井公園駅の近くにあたるとみられる敷地だ。ちなみに、練馬区内の中新井と下石神井について、大泉黒石や家族たちが証言している文章を、わたしはいまだ発見できていない。
 このあと、ようやく下落合へ転居してくることになるが、その時期は1936年(昭和11)以降ということになり、下落合2133番地Click!に住んだ林芙美子Click!が裏庭の様子と、転居してきた大泉一家の様子を書いた『柿の実』(1934年)は、転居前後の記述においては時系列的に正しいということがわかる。ただし、「七人の子供を引き連れた此家族」(『柿の実』)と書かれている大泉家だが、男子3人+女子2人で「五人の子供」が正しい。おそらく林芙美子は、大泉家にいた学生の書生たちを実子と勘ちがいしているのだろう。
大泉黒石住所1934.jpg
大泉黒石住所1936文芸年鑑(第一書房).jpg
大泉黒石「俺の自叙伝」2023.jpg 四方田犬彦「大泉黒石」岩波書店2023.jpg
 こうして、大正期から昭和初期にかけ大泉黒石の転居先を追いかけると、黒石の研究者はもちろん、子どもたちまでも記憶に残る情景がどこの家でのものなのか、混乱している様子がよくわかる気がする。ましてや研究者たちは、最初に九州の長崎と東京府北豊島郡の長崎とでややこしくなり、高田町雑司ヶ谷内での転居、あるいは高田町と長崎町の往復転居で混乱し、『文芸年鑑』の練馬区と板橋区の誤記に頭を抱え、落合町下落合の住所に首をひねっているのではないだろうか? これでは、現在の目白や雑司ヶ谷、練馬、そして下落合の街々をよく知る地元の人間でなければ、転居先の具体的な特定は容易ではないだろう。

◆写真上:『預言』執筆時の、1923年(大正12)ごろに撮影されたとみられる大泉黒石。
◆写真中上は、1923年(大正12)出版の『文芸年鑑』(二松堂書店版)に掲載の大泉黒石住所。旧所有者がメモ書きしたのか、すでに長崎村五郎窪への転居先が手書きされている。中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる同所。中下は、1924年(大正13)出版の『文芸年鑑』(二松堂書店版)掲載の大泉黒石住所。は、1926年(大正15)作成の「長崎町西部事情明細図」にみる同所。
◆写真中下は、1926年(大正15)に出版された『文芸年鑑』(二松堂書店版)掲載の大泉黒石住所。中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」にみる同所。同時代のはずだが、残念ながら長崎町大和田2028番地に大泉邸は採取されていない。中下は、1932年(昭和7)に出版された『文芸年鑑』(改造社版)掲載の大泉黒石住所。は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる同所。
◆写真下は、1934年(昭和9)出版の『文芸年鑑』(改造社版)にみる大泉黒石住所。は、1936年(昭和12)出版の『文芸年鑑』(第一書房版)に掲載の大泉黒石住所。いずれも、練馬区を板橋区と誤記。下左は、今年(2023年)出版の大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波書店)。下右は、同年出版の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(岩波書店)。

読んだ!(22)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

読んだ! 22

コメント 2

アヨアン・イゴカー

転居を追いかける作業は、風景も区画も建物も変わり続けるので、難しい作業ですね。
黒石の写真の次に紹介されている名簿に、沖野岩三郎の名前があり、嬉しくなりました。私の父方の祖父が神戸から1923年春に引っ越してきて二か月ほど寄寓していたのが、賀川豊彦に紹介された沖野宅だからです。沖野は小説家でもあり牧師でもあり、和歌山県で伝道中に大逆事件に巻き込まれ、その時の自分をモデルにして『宿命』と言う小説を書いたそうです。
by アヨアン・イゴカー (2023-09-10 01:56) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
それは、たいへん奇遇ですね! その沖野岩三郎ですが、1920年に牧師を辞任したあと、下落合1510番地に転居してきます。ちょうど、第一文化村の北側、土屋文明邸から北西へ三間道路をはさんだ目白通りも近い2軒隣りの家になります。近々、沖野岩三郎については記事にしようと思い、資料を集めている最中でした。
by ChinchikoPapa (2023-09-10 09:58) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。