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1926年(大正15)に大泉黒石は下落合にいた。 [気になる下落合]

黒部峡谷鐘釣温泉1930頃.jpg
 これまで、大泉黒石Click!の転居先を順にたどっていくと、さまざまな資料でその住所や引っ越し時期の混乱が多く見うけられた。それを、本人が出版社へ居住地をとどけ出る『文芸年鑑』(二松堂書店版→改造社版)などをたどりながら、転居年とともに住所を規定する記事Click!を書いた。それをベースに考察すると、大泉黒石Click!が下落合4丁目2133番地に住んでいた林芙美子・手塚緑敏邸Click!の裏(おそらく下落合2130番地)に転居してくるのは、1936年(昭和11)ごろと推定していた。
 ところが、大泉黒石Click!はもっと早い時期から、下落合のまったく別の場所に住んでいたのだ。それが判明したのは、1926年(大正15)9月21日発行の読売新聞の「転居」欄だ。そこに掲載されていた住所は、「下落合2丁目744番地」となっている。落合地域の丁目表記Click!は、「公式」では1932年(昭和7)に淀橋区が成立したあととされているが、1925年(大正14)の「出前地図」Click!や翌1926年(大正15)の「下落合事情明細図」Click!にも記載があるとおり、大正末期の落合町時代からすでに丁目表記が住民レベルまで浸透し、一般的に使用されていたことが改めて証明された資料でもある。
 大泉黒石Click!が下落合に住んだのは、1926年(大正15)現在で確認できる長崎村大和田2028番地から、昭和初期に高田町へもどるまでの間ということになる。そして、同年9月には下落合744番地に住んでいたが、少なくとも1932年(昭和7)の『文芸年鑑』(改造社版)によれば、高田町鶉山1501番地だったことが判明している。つまり、長崎村大和田2028番地の家で暮らしたのは比較的短く、まもなく下落合(2丁目)744番地へ転居していたことになる。大泉黒石は“引っ越し魔”だったようだが、これで大正末から昭和最初期における住所の空白が、ひとつ埋まったことになる。
 下落合744番地は、薬王院墓地の北側に位置する区画であり、教育紙芝居や貼り絵作家として有名な高橋五山邸Click!のすぐ東側に接する区画だ。少し南へ歩けば、薬王院の森(現・新墓地)や同院の旧・墓地、そして大正中期からは夏目利政Click!が設計し服部建築土木Click!が関わったとみられる、洋画家の鈴木良三Click!鈴木金平Click!有岡一郎Click!鶴田吾郎Click!柏原敬弘Click!服部不二彦Click!たちのアトリエが集中的に建っていた、下落合800番地台のエリアにも近い。
 1926年(大正16)9月における周辺の情景は、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!を参照すれば、おおよその雰囲気を把握することができる。しかも、大泉黒石邸があった下落合744番地は、佐伯祐三が風景のモチーフを求めて頻繁に歩いていた散歩コースとも重なっており、大泉黒石も執筆の合い間に散歩へ出ていたとすれば、ふたりは付近のどこかですれ違っている可能性さえある。下落合744番地の比較的近い周辺を描いた作品は、現存する画面のみをカウントすれば、同年秋から冬にかけ9点(画面は行方不明だが制作した作品×3点を加えると12点)ほどが確認できる。
 1926年(大正15)の9月20日前後という時期は、佐伯祐三が残した「制作メモ」Click!によれば9月20日に『曾宮さんの前』Click!『散歩道』Click!、9月21日には『洗濯物のある風景』Click!と下落合4丁目の西端にあるかなり離れた場所の風景写生に向かっているが、9月22日には『墓のある風景』Click!に『レンガの間の風景』と、下落合744番地に近接した地点にもどって制作していたことがわかる。大泉黒石が、付近の住宅街や坂道を散歩するのが日課であれば、イーゼルを立てて制作する佐伯祐三の姿を見ている可能性が高いことになる。もし、ふたりがすれ違っていないとしても、佐伯祐三はその散歩コースからして、まちがいなく大泉黒石邸の前を歩いているだろう。
 また、大泉黒石Click!が下落合744番地に住んでいたころ、村山知義・村山籌子夫妻Click!は上落合186番地にあったアトリエClick!の建て替えのために、一時的に下落合735番地のアトリエClick!に転居しているが、その家もまた大泉邸のすぐ西側に接している区画だった。1926年(大正15)9月1日に行われた、佐伯祐三の二科賞受賞に関する記者会見Click!(東京朝日新聞社)の半年後、すでに1927年(昭和2)3月には村山知義・籌子夫妻が下落合735番地で暮らし、同様の記者会見(同新聞社)を開いているので、大泉黒石はアサヒグラフなどを見てこの事実も知っていたかもしれない。
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大泉黒石1926.jpg
制作メモ1926.jpg
佐伯祐三散歩道コース.jpg
 さて、1926年(大正15)という時点は、黒石にとってどのような年だったのだろうか? 岩波書店から出版された、四方田犬彦『大泉黒石』(2023年)の年譜を見てみよう。
  
 1926年(大正15年) 33歳
 「人間廃業」を『中央公論』に連載し、文録社から刊行。『俺の自叙伝』の全編を改題し、毎夕社出版から『人間開業』として刊行。『預言』を本来の題名で雄文堂から再刊。この頃から国粋論者や混血児排斥論者による風当たりが強くなり、ますます文壇で敬遠されるようになる。もっとも短編の創作はまだまだ盛ん。
  
 年譜では、国粋主義者や混血児排斥論者たちが、出版社に圧力をかけて大泉黒石を日本の文学界から排斥しようとしたとあるが、もっとも熱心に「排斥運動」を繰り広げたのは、「私小説」家が群れ集う当の日本文壇だった。彼らは、自身の体験にもとづかない100%創作による作品(世界文学的な視点でいうならいわゆる通常の小説)を認めず、黒石の悪評を文学界や出版会に流しては“ウソつき”呼ばわりをして歩いている。
 久米正雄は、黒石とその作品の悪評をふれ歩き、「白米の中に砂が交っている」(佐々木勝)すなわち日本文壇の中に異物で“エセ作家”がいると書き、「黒石はひどいうそつきだ」(田中貢太郎)と周囲に話してまわり(100%創作の小説作品を書くとなんでウソつきになるのだろう?)、「(黒石は)ロシア語が話せない」(村松梢風)とすぐに見透かされるようなデマを飛ばし……などなど、これほど当時の「私小説」家集団=文壇が躍起になって文学界はおろか、出版界からも排斥しようとした小説家はほかにいないだろう。そこには、次々とベストセラーを記録する作家への嫉妬と、その人物が日本人とロシア人との「あいの子」であったがための差別意識とを、容易に読みとることができる。
 当時の様子を、他に排斥された作家を含め、同書よりもう少し引用してみよう。
  
 大正時代の日本人の小説観は恐ろしく生硬で偏狭なものであった。「作者」の実体験をそのままいかなる虚飾も交えず書き写し、精神の道徳的な達観を得るという「私小説」が金科玉条のものと見なされ、こうした心境に無縁の作品は正統なる小説規範から脱落した、下流の娯楽書き物であると見なされていた。夢野久作や江戸川乱歩のように非日常的状況を描く作家たちは、文壇から遠く離れた地点に追いやられてきた。黒石もまたしかり、たび重なる自己劇化と細部の事実誤認が重なり、彼の功名を憎む固陋な「純文学」作家に攻撃の隙を与えてしまったのである。
  
佐伯祐三「下落合風景(散歩道)」1926.jpg
佐伯祐三「墓のある風景」1926.jpg
佐伯祐三「下落合風景」曾宮さんの前1926.jpg
セメントの坪(ヘイ)1926夏.jpg
 その結果は、20世紀の後半から21世紀の今日にいたるまでの、人気がありよく読まれている小説の傾向や流れを見れば明らかだろう。大正期の当時、文壇を牛耳っていた「私小説」家たちの作品は、ほんの数人の例外を除いてはとうに忘れ去られ(わたし流にいえば、「だからどうした?」の日記にでもつけとけばいいレベルの低品質しか見いだせず、創造力+想像力の欠如した作品群であり)、1960年代の夢野久作Click!江戸川乱歩Click!などの復活を見るまでもなく、遠い道のりだったが21世紀に入りようやく大泉黒石も復活してきた……というように映っている。
 世界文学から遠く離れ、底の知れない視野狭窄症で「井里的青蛙」だった日本の文壇は、次々と実体験ではない「奇想天外」(江戸川乱歩らと同じく「私小説」家たちにはそう映っただろう)な作品を生みだしてはベストセラーとなり、純粋な日本人ではない大泉黒石を文学界から排除・追放したくなるのは、なかば必然的ななりゆきだった。
 文壇を形成していた「私小説」家たちは、黒石が彼らの思いも及ばない広い視野と経験と、思想と言語能力を備えた創作者だったのをついに見抜けなかった。『大泉黒石―わが故郷は世界文学-』で、四方田犬彦は彼の才能について短く次のようにまとめている。
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 混血と言う出自、ロシア文学への歴史的関心、トルストイとの出逢い、パリ体験、レールモントフへの熱狂、老子思想、屠畜業との関わり、ドイツ表現派への憧れ、怪奇幻想の嗜好、虚言癖という中傷、文壇追放、峡谷行脚、故郷長崎への思慕、中国とオランダをめぐる異国趣味、コスモポリタニズム……。さまざまな言葉が走馬灯のように現れては消えていく。一人の文学者が、いくら複数の言語に長けているとはいえ、よくもこれだけの世界の拡がりを体験し、エクリチュールとして結実させたものだと驚嘆しないわけにはいかない。
  
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 つい先ごろ、1988年(昭和63)に『大泉黒石全集』第6巻の短編集『葡萄牙女の手紙』(緑書房)を読み終えたが、作品の完成度にムラはあるもののおしなべて面白い。特に、上掲の文中に出てくる「怪奇幻想の嗜好」にもとづく奇譚の短編は、サキときにはオー・ヘンリーの日本版を思わせる、いずれも秀逸な作品だ。第9巻の『おらんださん』をはじめ、第4巻の『預言』Click!など長編小説も、主題にすえたダイナミズムに魅せられて引きこまれるが、次々と読みたくなる小説家であることはまちがいない。大正期の文壇にいわせれば、これらはいずれも事実や実体験にもとづかない「通俗小説」「大衆小説」になるのだろうが、世界文学の視界でとらえるなら、これらの作品群こそが100%の創造力+想像力により生まれた物語であり、「日記」レベルの品質を超えたところに成立する文学そのものだろう。

◆写真上:1930年(昭和5)ごろ撮影の、黒部峡谷の鐘釣温泉につかる大泉黒石(奥)。
◆写真中上は、1925年(大正14)の北が下になる下落合及長崎一部案内(出前地図)にみる下落合744番地。中上は、大泉黒石が住んだ1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同番地。谷邸と佐々木邸の間が空き地だが、無住の貸家が建っていたのではないか。中下は、佐伯祐三「制作メモ」による1926年(大正15)9月20日前後の制作状況。は、下落合744番地周辺で制作する佐伯祐三の描画ポイント(コメント欄参照)。
◆写真中下:周辺に展開する佐伯祐三「下落合風景」で『散歩道』()、『墓のある風景』(中上)、『曾宮さんの前』Click!(中下)、『セメントの坪(ヘイ)』Click!()。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合744番地。「下落合事情明細図」(1926年)に描かれた空き地表現の位置に、西洋館とみられる住宅が建っているのがわかる。は、この一帯は空襲の被害を受けていないので1947年(昭和22)の空中写真では、同番地の区画を鮮明に確認することができる。は、下落合744番地の現状(路地右手)。

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ものたがひ

1926年9月・黒石・佐伯をキーワードとして浮かび上がる下落合、面白いですね!
by ものたがひ (2023-11-24 09:41) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
面白いですね。大泉黒石が、再び高田町へ転居するのに数年の間があったとしたら、もう少しエピソードが眠っているような気がします。佐伯も新聞の転居欄に目を通していたら、大正中期からベストセラー作家の黒石が、曾宮アトリエの近くに転居してきたのを知っていたかもしれません。『レンガの間の風景』が、ちょっと気になりますね。w
by ChinchikoPapa (2023-11-24 10:19) 

ChinchikoPapa

ちょっと、真ん中の空中写真の図版を作りなおしてみました。(リロードしてください) より正確に記録すると、佐伯祐三の記者会見写真の背後にある、従来「セメントの坪(ヘイ)」(1926年8月以前の制作)と規定していた「下落合風景」画面は10号ほどのサイズなので、「制作メモ」にある15号サイズの画面(行方不明)と、曾宮一念が証言している自宅の軒下を入れて描いた同作(40号/行方不明)を加えると、行方不明作品は「浅川ヘイ」を加えて3点、現存する作品は9点となります。したがって、佐伯祐三が散歩道のコース沿いに描いた作品は、このエリアだけで12点も描かれていたことになります。さらに、「レンガの間の風景」が久七坂筋の風景作品となると、行方不明が1点増えて計13点になりますね。
by ChinchikoPapa (2023-11-24 15:38) 

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