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箱根土地の社員と結婚した女性の話。 [気になるエトセトラ]

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 先週、拙ブログへの訪問者数がのべ2,400万人(2,400万PV)を超えました。昨年の後半は3ヶ月余にわたり更新をサボったにもかかわらず、いつも拙い記事をお読みいただきありがとうございます。また、11月24日で拙サイトがスタートしてから丸19年(2004年11月24日)が経過し、今週から20年目に入りました。今後とも、よろしくお願いいたします。
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 下落合の目白文化村Click!や東大泉の大泉学園Click!、谷保の国立(くにたち)学園都市Click!などを開発した、箱根土地Click!の社員と結婚した新潟県出身の女性の記録が新宿区に残っている。野崎かんという方は、女学校を卒業したあと17歳で、国立に住んでいた親戚を頼って東京にやってきており、その家で3年間をすごしている。
 同郷の越後高田の出身で、箱根土地へ勤めていた夫とは国立の米屋を介して知り合い、1934年(昭和9)に結婚している。そして、国立駅の駅前広場に面した箱根土地本社ビルの近くに建っていた社宅へ入居している。彼女がちょうど20歳のときだった。ちなみに、この社宅は箱根土地が野崎夫婦のために用意した、一戸建ての平屋だった。
 1934年(昭和9)ごろの国立といえば、関東大震災Click!で大きな損害を受けた東京商科大学Click!(現・一橋大学)が、ようやく1927年(昭和2)に神田区一ツ橋から移転をはじめて7年目にあたり、箱根土地では同地の宅地販売に全力を傾注していた時期と重なる。だが、大学施設は徐々に移転を完了しつつあったものの、東京市街地から離れた国立の宅地は思うほどには売れず、箱根土地では赤字つづきで社員給与の遅配などが発生していた。
 先年の記事でもご紹介したが、SP用の国立絵はがきClick!を数多く制作しては、市街地の見込み顧客先にあてて大量に配布していたのはこのころのことだ。野崎かんの夫は、国立駅前の本社勤務ではなく、麹町区丸の内ビルディング8階の箱根土地(株)丸の内出張所に勤務していたので、国立分譲地開発におけるマーケティングの最前線で仕事をしていた人なのだろう。上記のSP絵はがきの制作にも、直接かかわっていたのかもしれない。
 当時の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、野崎かん『小滝橋通りの近くで』から引用してみよう。
  
 社宅は会社(国立駅前の箱根土地本社)のすぐそばにあって、一戸建ての平屋でした。うち一軒だけだけだったんです。箱根土地会社は貧乏会社でしてねえ。月給なんてもらわない月もあったんですよ。その代わり、堤さんの家に行けば社員は家族同様。第二次世界大戦のころは土地がたくさんありましたでしょ、だから畑で野菜をたくさん作っていて、うちの主人たちが行くと、あがってご飯食べろっていってね、帰りには、野菜なんかどっさり持たせてくれるんです。ほんとに不自由しませんでした。(カッコ内引用者註)
  
 堤康次郎Click!のことだから、社員には「貧乏だ、どうしよう、カネがない」などといいながら、余剰金を別の事業へ投資していた可能性も多分にありそうだけれどw、さまざまな当時の証言類を勘案すると、おしなべて箱根土地の社員は大切にされていたようだ。それは堤自身というよりも、その家族や上長たちがつくりあげた社風のようなものが、大正期からつづく箱根土地には残っていたのかもしれない。
 この文章にも書かれているが、太平洋戦争がはじまっても東京商科大学の周囲はポツポツ教師や職員用の住宅が建ちはじめていたけれど、かんじんの国立分譲地全体の敷地にはほとんど住宅が建っておらず、「土地がたくさんありましたでしょ」の状態で、いまだアカマツの林がつづく昭和初期からの新興分譲地の風景そのままだった。これは敗戦後も、そのままの風景がしばらくつづくことになる。
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 「国立から丸の内まで通うのが遠くてたいへん」と、箱根土地社員の奥さん自身がこぼすとおりw、市街地からウンと離れた国立から丸の内へ出るには、当時の中央線の電車(1929年より電化)に乗り、エンエンと東京駅まで乗りつづけなければならない。また、時間帯によっては国分寺で車両を乗り換える必要があっただろう。いまでこそ、国立駅から東京駅までは50~55分で到着するが、当時の鉄道ダイヤや電車のスピード、各駅の停車時間などから考慮すれば、たっぷり2時間近くはかかりそうだ。
 おそらく、夫の側から「遠くてたいへんだからイヤだ」といいはじめたのだろう。結婚してから3年後の1937年(昭和12)に、野崎夫妻は淀橋区(現・新宿区の一部)の柏木(現・北新宿)に借家を見つけて転居している。彼女へのインタビュー内容からして、中央線・大久保駅のすぐ西側、小滝橋通りに面した借家だったと思われる。何年かのちに、小滝橋通りに架かる中央線のガード近く(南側)にある、柏木教会の隣りに引っ越している。当時の小滝橋通りの界隈について、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 国立から丸の内まで通うのが遠くてたいへんだったので、この辺に家を捜していたんです。今の三和銀行のところが薬屋さんで、その隣が人力屋さんだったんです。その人力屋さんが大きくおやりになっていて、だんだんと自動車を置くようになったんです。ハイヤーみたいなのをね。こちら側の小西金物屋さん、大塚さんの魚屋さんはそのころからあったんですよ。その隣の西野布団屋さんの奥さんがいいかたでしてね。柏木教会の隣の家が空いてるから聞いてごらんなさいって教えていただいて、そこに戦争中、強制疎開で壊されるまでいたんです。/強制疎開で家が壊されるとき、柏木教会の植村環先生が若松町のほうに教会の方の大きなお屋敷があるから、そこへ移りなさいっておっしゃってくださったんですけどね、どうしてもこの柏木から離れたくなくて……。
  
 野崎夫妻は、小滝橋通り沿いの柏木地域がよほど気に入ったのだろう、同地域で大きめな空き屋敷を見つけて住みつづけている。確かに、新宿駅へ出るのも大久保駅からひとつなので、住み慣れると買い物やどこへ出るにも便利な立地だ。
 戦時中に行われた柏木地域の建物疎開Click!は、新宿駅方面から山手線沿いにのびてくる「山手線沿線其ノ四」線Click!のことで、山手線つづきの中央線沿いに建つ住宅群も壊して、幅50mにわたる防火帯をつくる破壊工事のことだ。「疎開」という名前がついてはいるが、もちろん家を追われて壊される住民への補償はほとんどなかった。
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 上落合の南に隣接した柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の、ちょうど中央線をはさんだ北側の小滝橋通り沿い、すなわち淀橋市場Click!淀橋区役所Click!豊多摩病院Click!陸軍科学研究所・技術本部Click!などがある一帯は、1945年(昭和20)4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!で大半が焼失していたが、野崎夫妻が住む屋敷のある中央線の南側=柏木4丁目は、いまだ爆撃を受けていなかった。
 だが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!は、焼け残った山手線西側の住宅街への徹底した絨毯爆撃だったので、野崎邸もついに罹災している。おそらく夫の仕事の都合なのだろう、野崎家は疎開することなく柏木へ住みつづけていた。
  
 五月二五日の空襲のときも、ここにいました。上の子どもたちは、私の母の妹が十日町の方に住んでいたので、そこに疎開させていたんですが、二人の小さな子がいっしょにいましたので、一人をおんぶして、一人を乳母車に乗せて、ガードの横の草原のところに逃げました。そのうちに淀四小学校が焼け出して、ガードがトンネルみたいになって火がはいって来るんですよ。ガードの真下にいたんですが、こわくて向こう側へまた逃げました。五丁目(現北新宿四丁目)はもう四月一三日の空襲で焼けていたんですが、まだ残っていた青物市場の国技館の屋根みたいになっているのが、みんな火がついてバリバリ、バリバリ燃えて……。鉄骨だけが残ったんです。八時ごろになって家のところに戻ってくると、すっかり焼けてしまって、物置に買い込んであった練炭や炭がボウボウ燃えてました。
   
 この証言により、上空から見るとピラミッドのような淀橋市場の屋根は、二度の山手空襲Click!で焼け落ちて鉄骨だけになっていたものの、戦後早々に復旧されていた様子が1947年(昭和22)の米軍による空中写真からも確認できる。東京の西部一帯では、卸(市場)や流通のカナメとなっていた拠点なので、行政が復興を急いだものだろう。
 野崎一家は、当初は小滝橋通りにある柏木教会のすぐ北側100mほどのところ、中央線の高架近くにあった原っぱから延焼の具合を見てガード下へと避難しているが、大火災で空気が急激に膨張して起きる火事嵐Click!により、炎の先がガード下をくぐって吹きこんできたため、淀橋区役所や淀橋市場の北側(柏木5丁目)へと逃れている。戸山ヶ原Click!陸軍科学研究所・技術本部Click!は、いくら空き地や森林が残っていても戦時中は立入禁止だったので、野崎一家は比較的空きスペースが多かった淀橋市場側へ逃れたのだろう。
 国土計画興業(旧・箱根土地)は、府立(1944年より都立)第六中学校(現・新宿高校)の校舎が建物疎開で解体されるとき、その部材を丸ごと購入していた。同社では、その膨大な部材を罹災した社員の家屋再建に提供している。
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 野崎かんの夫は、手先が器用な人物だったらしく、戦後まもなく同社のトラック数台で運ばれてきた材木を使って、柏木に6畳×2室に各4畳半の台所と食堂、それに風呂場と便所に玄関をつけた家を建ててしまった。同家には、1955年(昭和30)まで住むことになる。

◆写真上:2005年(平成17)に撮影した淀橋第四小学校。旧・淀橋第四尋常小学校(戦時中は淀橋第四国民学校)で、もうすぐ創立104周年を迎える。
◆写真中上は、1927年(昭和2)ごろに箱根土地のチャーター機が国立駅上空から南を向いて撮影したとみられる空中写真。は、同時期に国立駅の西側上空から撮影したとみられる写真。は、国立駅前の水禽舎と箱根土地本社ビル(右手)。
◆写真中下は、戦後の1947年(昭和22)に米軍機から撮影された国立地域。開発から20年以上が経過しているが、アカマツの疎林が拡がり住宅はあまり建っていなかった。は、1936年(昭和11)撮影の柏木地域。は、現在も同位置にある柏木教会。
◆写真下は、建物疎開が行われる直前の1944年(昭和19)に撮影された柏木地域。は、小滝橋通りに架かる中央線ガード。は、いまも散見される戦後まもない住宅建築。

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