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ロケが行われた七ノ坂の大正住宅。 [気になる下落合]

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 下落合(中落合・中井含む)の西部は、下落合の東部や中部に比べ二度にわたる山手空襲Click!の被害をあまり受けてはおらず、近年まで大正期や昭和初期に建てられた住宅がたくさん残っていた。特に、蘭塔坂(二ノ坂)Click!から西側は近代建築の住宅だらけで、学生時代には街角丸ごと登録有形文化財にでもできそうな風情をしていた。
 先日、知人から「新宿の高層ビル群が見える、戦前に下落合の南斜面へ建てられたらしい住宅を使って、全編ロケーションしためずらしいドラマを見つけた!」……と連絡をいただき、さっそく当該の作品を視聴してみる。はい、まちがいなく下落合4丁目(現・中井2丁目)で撮影されたものだ。また、撮影場所もすぐに特定することができた。ドラマの撮影時、この邸宅はハウススタジオとして使用されていたのか、あるいは建て替えの直前に空き家となっていた邸の撮影が許可されたものか、ほとんどのシーンが邸内外のロケであり、室内の様子もよくとらえられている。
 坂道を下った先には、道路に沿って西武新宿線が走り、その線路の向こう側には落合公園の緑地が拡がっている。即座に撮影場所を特定できたのは、道路に面して西武線が平行に敷かれている点と、まるでバームクーヘンのピースのような、アールをきかせた独特な形状のマンション「落合公園ハウス」が、同公園の森の向こう側(旧・下落合5丁目)に見えたからだ。このマンションの円筒形をした建築(エレベーターホール?)が、このような角度で見える目白崖線の斜面は、七ノ坂をおいて他にない。ドラマの撮影は、七ノ坂Click!の中腹にあった今井勝太郎邸でロケが行われている。
 今井邸は戦前どころか、関東大震災Click!からほどなく建てられた大正建築だ。外観は、当時の典型的な日本家屋だが、撮影された内部の様子からすると板張りの洋間もあったのではないかと思われる。1926年(大正15)作成の、「下落合事情明細図」に描かれた七ノ坂にもすでに採取されており、大正末から宅地開発が盛んだった目白学園Click!中井御霊社Click!のすぐ南側にあたる一画で、建設された当時は下落合2152番地(のち下落合4丁目2152番地)の邸宅だ。
 くだんのドラマは、1993年(平成5)に制作された原作・連城三紀彦で監督・南部英夫の『夢の余白』Click!という作品だ。当時は、かなり視聴率が稼げていたとみられる、いわゆる2時間サスペンスドラマの1作で、林美智子や池上季実子、平幹二郎ら芸達者な舞台俳優たちが出演していた。ドラマのストーリーはともかく、昼夜を問わずに登場する七ノ坂の坂上や坂下の光景、今井邸の室内の様子がよくわかる屋内シーンなどに惹きつけられた。サスペンス(?)ドラマではなく、大正期の下落合に建てられた日本家屋の記録映像として観ると、たいへん興味深い画面ではないだろうか。
 撮影時(1993年)は、七ノ坂の一段下(南側)の住宅敷地に赤い屋根の2階家が建ち、今井邸の1階テラスに面した居間からは、新宿方面の眺めがさえぎられていたが、建築当時はテラスの先にある芝庭から新宿駅西口の一帯にあった淀橋浄水場Click!の光る水面が、よく眺められたのではないだろうか。ドラマでも、おそらく今井邸の2階から、屋上にクレーンを残したままの東京都庁Click!が望見できる。都庁は1991年(平成2)に丸の内から新宿へ移転してきたが、2年後の当時でも、いまだ部分的に工事中だったのだろう。
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 今井邸の室内の柱や床板、ドアなどは黒光りして、大正期の住宅らしいしぶくて落ち着いた色あいを見せており、同邸の西側や北側には大正期のほぼ同時期に建てられたとみられる、灰色の瓦屋根の古い日本家屋とみられる住宅群が何軒かとらえられている。そういえば、下落合4丁目2162番地の仲嶺康輝・林明善のアトリエClick!や、歌手で東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の教授だった渡辺光子(月村光子)Click!が住んでいた寺尾光彦邸は、今井邸から西へ3軒隣りの八ノ坂に面していた。
 少し細かい余談だが、今井邸のある七ノ坂は、坂上が旧・小野田定次郎邸へT字に突きあたるが、その上にある目白学園を映したシーンは登場していない。ただし、エキストラに同学園の制服を着せたとみられる2名の女子を登場させており、昼間の六ノ坂下=中井4号踏み切り脇でのアクシデントや、夜間の七ノ坂を上がる今井邸の玄関シーン(弓道部の部活帰り?)を撮影している。だが、目白学園の正門は六ノ坂上にあり、同学園生徒が七ノ坂を、しかも夜間に上がるのは不自然だろう。また、今井邸の北西側にある中井御霊社は、境内の杜が冒頭のカメラがパンするシーンでチラリととらえられている。
 大正期から七ノ坂に住んでいた今井勝太郎は、1870年(明治3)に東京市内で生まれ育った、内閣印刷局に勤務する国家公務員だった。1934年(昭和9)に国際公論社から出版された『東京紳士録』によれば、印刷局主事となっており、同時に内閣印刷局総務部経理課会計掛長と用度掛長を兼務していた。1934年(昭和9)の時点で64歳なので、とうに内閣印刷局は定年退職していたとみられるが、そのあとも嘱託として同局に勤めていたのかもしれない。国家公務員のせいか、今井勝太郎は1932年(昭和7)に編纂された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、辞退をしたのか名前が掲載されていない。
 今井勝太郎が、下落合へ自邸を建設して転居するきっかけになったのは、もちろん関東大震災だと思われるが、それ以前には麻布区麻布六本木町に住んでいたものだろうか。当時の短歌を収録した文芸誌に、同姓同名の人物を見つけることができるが、職業が公務員なので作品を発表している人物が同一人物かは不明だ。
 今井邸の2階部分は、部屋が1室ないしは小さめな2室のコンパクトな造りで、1階部分に過重な負荷をかけない設計になっているのも、関東大震災による建築分野への影響のひとつだろう。同様の大正建築は、絵画にも数多く描かれており、例を挙げれば佐伯祐三Click!『テニス』Click!に描かれた第二文化村Click!外れの宮本邸Click!や、同じく佐伯がスケッチブックに残した素描Click!の『屋根の上の職人』あるいは『洋館の屋根と電柱』も、同じような設計・構造で建設された住宅事例だ。
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 震災後、行政により重い瓦葺きの住宅建設が禁止された時期があり、その間に建てられた住宅、または震災被害を修復した住宅の屋根は、スレートかトタンに変更され、あるいは瓦状の屋根の風情を保ちたい住宅には、「布瓦」Click!と呼ばれる石綿で造られた軽量の代用品が用いられている。こちらでも、佐伯祐三アトリエの屋根に一時期葺かれていた布瓦(おそらく石綿瓦Click!)について、過去の記事でもご紹介している。
 七ノ坂沿いの住宅は、大正後期からの開発にもかかわらず、ひな壇の造成に用いられていたのは大谷石Click!による縁石や擁壁ではなく、東京土地住宅Click!から開発を引き継いだ箱根土地Click!が造成したとみられる、蘭塔坂(二ノ坂)Click!と同様にコンクリート造りだった。ドラマが撮影された1993年(平成5)、いまだ坂道(道路)と同じ平面に車庫を設置する邸はほとんどなく、開発当時のコンクリートによる古い擁壁が、そのままよく残された七ノ坂の様子がとらえられている。これは、大谷石による擁壁がほとんどだった少し前の三ノ坂や五ノ坂、六ノ坂の住宅地にもいえることだが、たとえば七ノ坂の今井邸から中井駅までは直線距離で500m余なので、歩いても7~8分ほどで西武線を利用できたため、クルマの必要性をそれほど感じなかったせいもあるだろう。また、どうしてもクルマが欲しい家庭では、七ノ坂の上か下の駐車場を借りて利用していたと思われる。
 さて、これだけ書いてサヨナラではドラマの制作者にあまりにも失礼なので、少しだけ『夢の余白』について触れておきたい。「黒のサスペンス」とショルダーがつけられた同ドラマは、親子2代にわたって愛人をつくり、父親は家を出て愛人と再婚し、息子は家になかなか帰ってこなくなった家庭環境を前提に、家に取り残された仲の悪い嫁と姑がいがみあう、もう七ノ坂がたいへんなことになっているストーリーなのだ。平幹二郎の、優柔不断でなかなか意思決定できない「僕」Click!を連発する父親と、短時間で気持ちが大きく揺れ動く林美智子の演技が秀逸なのが救いだろうか。観ているこっちまでが暗鬱とした気分になる、どこがサスペンスなんだと思ってしまうドロドロの展開だ。
 アルトサックスによるスタンダード『As Time Goes By』Click!が流れるどこかのJAZZバーで、父と子がしみじみと語るシーンは、まるで同曲のハンフリー・ボガートで有名なセリフ「(昨日?)そんな昔のことは忘れた」「(今夜?)そんな先のことはわからないさ」といった、ふたりの刹那的な雰囲気そのままの情景なのだが、バーの次に起きる出来事がサスペンスといえばいえるだろうか。このあとは、ネタバレになるので興味のある方はどうぞ。
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 上落合829番地のなめくぢ横丁Click!で暮らした檀一雄Click!ではないが、「火宅」になってしまった家庭に大正期の落ち着いた和館はあまり似合わない。ドラマではなく、下落合の西部に建てられた大正建築を観察するには、もってこいの映像記録だとは思うのだけれど。

◆写真上:ドラマ『夢の余白』(1993年)のロケ地となった、七ノ坂を坂下から望む。
◆写真中上:同ドラマでとらえられた、30年以上も前の七ノ坂からのパノラマ風景。
◆写真中下:同じく、大正後期に建設された今井勝太郎邸とその周辺。いちばん下の、交通事故寸前のシーンに映る中井4号踏み切り端の床屋だが、その左手にあった六ノ坂下のパン屋で、学生時代の散歩の途中でパンを買った憶えがある。
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる今井邸。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる今井邸。中下は、1989年(昭和64)に撮影された空中写真にみる今井邸とその周辺。は、坂上から眺めた七ノ坂の風景。
おまけ
 大正末に佐伯祐三が描く日本家屋。建築中の屋根(素描)と、『テニス』に描かれた第二文化村に隣接する宮本邸。下は、今世紀に入っても残っていた二ノ坂上の和館群。
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コメント 8

サンフランシスコ人

「関東大震災Click!からほどなく建てられた大正建築だ.....」

東京で、100年以上も大震災が無いのは、地質学的に例外なのでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2024-04-24 04:49) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
現在は、関東大震災がプレート型で、江戸安政大地震は活断層による直下型という見解が多いようですが、その周期はまったく不明です。
by ChinchikoPapa (2024-04-24 09:48) 

サンフランシスコ人

メキシコ人で、地震研究者になりたい学生に関東の大学ヘ留学してもらって、活断層の調査を頼めないかな....
by サンフランシスコ人 (2024-04-26 06:39) 

ChinchikoPapa

わざわざ日本に来なくても、環太平洋の地震地帯である米国西海岸には、地球物理学ないしは地震学の優秀な教室があるのではないでしょうか?
by ChinchikoPapa (2024-04-26 11:54) 

サンフランシスコ人

メキシコ人の地震研究者が、2023年に能登半島を訪問していたら、2024年1月1日の被害が少なかったでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2024-04-27 03:17) 

ChinchikoPapa

メキシコと日本の地震学者の学術的交流は盛んのようですが、いま主要テーマになっているのは南海トラフを震源とする「東南海沖地震」ですので、来日しても能登半島にはまずいかないのではないかと。
by ChinchikoPapa (2024-04-27 10:42) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。昭和のドラマを見ると、まだ日本が経済的に元気な時代だったのだなと思います。最近の円安がというわけではないのですが、経済的にますます衰退し、年寄りばかりの国に成り果ててしまったような。海外からは安い国と思われているのでしょうね。最近では、粗暴犯が増えていますので貧富の差も、昭和の頃よりかなり広がっているように思います。都内のマンション価格が高騰しているようですが、海外の投資家に買われているのでしょうか。落合地域はいつまでも閑静な住宅街であり続けてほしいものです。
by pinkich (2024-04-27 16:21) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
最近、「日本はこんなに凄いんだ、優れてるんだ」というようなコンテンツを多々見かけますけれど、自信喪失と先行き不安の裏返しのように思えてなりません。人は謙虚さをなくして、己を過信し誇りはじめて学ばなくなったら、そこで成長は“おしまい”なのですが、組織や社会でもまったく同様ですね。近々、書こうと思っているのですが、最近ICTの重要なテーマのひとつにプロセスマイニングという手法があります。いかにムダを省いた少人数で、最大の成果を上げることができるのかという、AIをかませた仕組みづくりですが、あらゆるモノづくり(農業含む)に応用できそうな、少子化環境に大きく寄与できそうなシステム概念だと思います。ドイツが先駆ですが、少人数でも生産性を維持できる、あるいはより高められる指標づくりに欠かせない、これからの日本には不可欠な考え方だと思います。まあ、少子化といっても、日本の人口はお隣りの韓国やヨーロッパ諸国にくらべれば、かなり多いほうなんですけどね。
by ChinchikoPapa (2024-04-27 20:11) 

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