SSブログ

東京からきたって顔は絶対しないで1931年。 [気になる下落合]

西落合1.JPG
 少し前に、「東京へいってくら」「江戸へいってくら」という感覚が、戦後まで残っていた中野地域の事例Click!をご紹介したが、その際、落合地域にもまったく同様の地域感覚が残っていたのではないかと書いた。事実、やはり残っていたのだ。
 1931年(昭和6)に、麹町区三番町(現・千代田区三番町)生まれの女性が、恋愛結婚をして落合町葛ヶ谷Click!(現・西落合)の旧家へ嫁いできたとき、夫から「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」と頼まれている。つまり、裏返せば落合町は「東京」ではないという感覚が夫にも、また家族や近隣の人々にも、当時まであった様子がうかがえる。「東京」は仕事や買い物で出かけるエリアであり、妻にした女性は地元にしてみれば「東京」から嫁いできたという、明確な地理的認識があったと思われる。
 彼女が生まれ育った麹町区三番町は、千代田城Click!の内濠に接したすぐ西側の町で、本丸から西へわずか1km足らずしか離れていない。江戸期には大旗本が軒を並べて住んでいた地域であり、(城)下町Click!の中では乃手(山手)Click!と呼ばれた中枢エリアだ。日本橋や神田あたりの町場からは、商家から借りたカネを返さないで踏み倒す、幕府の身分が高い横柄な武家が住んでいた、「人が悪いよ糀町(麹町)」と呼ばれたエリアでもある。w 彼女はまちがいなく江戸東京における、(城)下町の中核地域で生まれ育ったことになる。
 では、どこから先が「東京」だったのかというと、おそらく中野地域とまったく同様に新宿駅の山手線内側あたりから“向こう”という感覚だったのではないだろうか。中野地域の事例は中央線・中野駅だったが、落合地域の場合は目白駅あるいは高田馬場駅から山手線Click!に乗り、新宿駅の東口で降りた先、神田から事業移転してきたデパート伊勢丹Click!(旧・ほてい屋百貨店Click!)から先が「東京」……という感触だろうか。
 この意識は、江戸後期に朱引き墨引きClick!が大きく拡大され、市街地が拡がって大江戸(おえど)Click!と呼ばれるようになり、甲州街道の内藤新宿Click!と東海道の品川宿Click!が廃止され、大江戸に編入されて町奉行の管轄になったころからのエリア認識なのは明らかだ。また、新宿駅の東口から四谷方面に歩けば、大江戸の市街地と郊外とを分けるメルクマールとなっていた、四谷大木戸Click!が設置されていた地点でもある。
 21世紀の今日、東京の(城)下町で生まれ育った女性が結婚して落合地域に転居してきたとして、夫から家族や近所に「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないで」などと頼まれたりしたら、「ハァ? あなたなにいってんの?」とまったくトンチンカンな会話になってしまう。東京でもっとも賑やかな街を抱え、都庁も移転してきた新宿が、東京の「副都心」から「都心」と呼ばれるようになって数十年たつが、わずか100年足らずの間に、これだけ“東京”という街に対する認識に変化が生じたわけだ。
 これと同じことが、江戸(江戸前期)→大江戸(江戸後期)の街でも起きているとみられる。江戸前期には、(城)下町の中心街といえば神田であり日本橋だったろうが、途中から大川(隅田川)Click!の東側である本所Click!深川Click!向島Click!地域が下総から江戸市中に編入されるとともに、江戸後期の繁華街の中心地は日本橋地域の東側へと移り、大橋(両国橋)Click!を中心としたエリアClick!が大江戸(おえど)でもっとも賑やかな街へと変貌していく。そして、明治期に入れば日本橋の南側に位置する銀座Click!と、大橋(両国橋)の北側に位置する浅草Click!が繁華街の中心になっていく。
 さらに、昭和期に入ると東京15区制が35区制Click!へと拡大し、(城)下町からは武蔵野Click!と呼ばれていた新宿駅Click!の周辺が急速に発展して、戦後は渋谷と池袋がそれにつづく……というような経緯だ。明治以降、丸ノ内3丁目の松平土佐守屋敷跡(1457年に江戸城Click!を築いた太田道灌Click!像の位置)から動かなかった東京都庁(旧・東京府/東京市合同庁舎)だが、行政機関が淀橋浄水場Click!跡の新宿駅西口へ丸ごと移転するとともに、都内の地域をとらえる意識や地場感覚はめまぐるしく変化している。
葛ヶ谷正月風景1917頃.jpg
西落合消防団1945頃.jpg
西落合2.JPG
 では、1931年(昭和6)に落合町葛ヶ谷へ嫁いできた、乃手育ちの貫井冨美子という方の証言を聞いてみる。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された、『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の「西落合・葛ヶ谷村界わいの暮らし」から引用しよう。
  
 主人の家は代々この葛ヶ谷村(西落合)でございまして、村の世話役のようなことをしていたようですが、お父さまは三三歳で、お母さまも早くに亡くなって、主人はおじいさまとおばあさまに育てられたそうですから、随分と苦労が多かったと思いますよ。私が参りましたときは、広い家に主人と、主人の亡くなった姉の忘れ形見の小学校四年生の男の子と、ばあやの三人きりでした。/結婚いたしましたときに、主人は「こういう子どもがいるけれども、大事に可愛がってやってくれ」って申しました 「それから、“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないでほしい」 そして「村の人と仲よくやってくれ」って申しました。/こちらへ参りましたころここは田舎で、長崎へ行くまでずうっとすすきの原っぱで、こうもりが飛んでいて、そのもっと先は竹藪で、私は見ませんでしたけれど、きつねがいたって言ってました。
  
 現在でも、神田川や妙正寺川の橋下にはアブラコウモリが棲息して、夕暮れになるとたくさん飛びまわるし、さすがにキツネは見ないがタヌキはそこそこ歩きまわっている。でも、ススキの原っぱは井上哲学堂Click!のほうまでいかないと見られない。
 上記の文章から推察するに、当時の落合町葛ヶ谷の東京方言と、彼女のいわゆる乃手弁Click!(東京方言山手言葉)からして、かなり異なっていたのではないかと思う。身のまわりに「ねえや」(女中)がふたりもついて育った彼女が、「私=わたくし」などというと違和感をおぼえて、「村」の衆は「ちぇっ、気どってやがる」と感じたかもしれない。「じゃあだんじゃねえやな。おとーさまったって、正月にゃ葛ヶ谷消防組の出初式でハシゴ乗りしちゃアラヨッてんで、上機嫌できこしめしちゃ赤い顔してたオヤジじゃねえか。なにがおとーさまだい」などと、陰口をたたいていたかもしれない。w
 文中から、耕地整理Click!の最中だった落合町葛ヶ谷(現・西落合)の時代でさえ、江戸期からつづく「葛ヶ谷村」の意識そのままだったことがわかる。彼女が、早大理工科の恋人の出身地である葛ヶ谷に、それほど抵抗感なく入りこめたのは、身体が弱かったせいで20歳をすぎてから母親の知り合いが住んでいた長崎町で療養生活を送っており、早くからその周辺域の土地勘が備わっていたせいもあるのかもしれない。「当時はとっても遅いんでございますのよ」という彼女が恋愛結婚したのは、すっかり身体が丈夫になった27歳のときだった。
地形図1880.jpg
地形図1930.jpg
西落合3.JPG
 当時の葛ヶ谷は、耕地整理が進捗しているとはいえ一面に農地が拡がる一帯で、農家があちこちに散在するような環境だった。農家では白米は食べず、今日では健康食といわれる雑穀米だったようで、白米は神棚に載せるご飯ということで「のんのまんま」と呼ばれていた。また、魚は「うみちいちい」と呼ばれ、椎名町Click!交番横Click!にあった“ひのや”という魚屋から、毎日棒手振(ぼてふり)の店員が売りにきていた。この交番は、現在の三角形の敷地にある“二又交番”のことではなく、その向かい(長崎バス通り入口の東側)にあった古い位置の交番だ。近隣には、パーマがかけられる美容院がなかったので、彼女はしかたなく長い髪をうしろで丸めてとめるようなヘアスタイルをしていた。
 「村」の風習については、昔から家にいた「ばあや」がいっさいを飲みこんでいて、どこかへ出かけるときも「あっちへ行くんならこっちから出ていけ」とか、「行きと帰りが違う道を通るんだ」とか、いろいろ教えてくれたようだ。ざっくばらんな市街地とは異なり、近所や親戚と円満につきあうためには、いろいろやかましい地域のしきたりや“お約束”があったらしい。だが、このばあやはもともと生粋の神田っ子だったので、彼女とはウマがあったようだ。休みの日には芝居を見にいき、目白駅Click!から俥(じんりき)Click!を飛ばしては葛ヶ谷まで帰ってきたそうだから、評判の芝居や役者の話なども彼女にしてくれたのだろう。
 彼女が嫁いだ家の、周辺に拡がる風景を同書よりつづけて引用してみよう。
  
 竹の子なんかは家の裏の竹藪で掘るから買ったことはございませんでした。掘りたて穫れたてのは、そのまま食べられまして、えぐくないんですのよ。おいしかったですよ。竹で籠作りもこの辺は盛んだったようですよ。/うちではお茶を作っていたそうで、主人の父はお茶作りがとっても上手だったんですって。できたら障子に向かってパッと投げると、それが障子にささったって主人がよく話しておりました。家の周りにもお茶の木がたくさんございましたよ。この辺りは見渡すかぎり畑で、遠くに落合の火葬場の煙突が見えたんですよ。それで「昨日は友引だったから今日は煙がよく見える」なんて申してました。
  
 大泉黒石Click!が、長崎村五郎窪4213番地Click!に転居した際、周囲を茶畑で囲まれた自邸(西洋館)のことを「茶中館」と名づけているようだが、当時の長崎地域や落合地域には明治期からの茶畑(栽培していたのは狭山茶)が、あちこちに残っていたのだろう。
耕地整理記念写真1925頃.jpg
西落合4.JPG
西落合紙芝居(戦後).jpg
 「わたくしは番町ですのよ」と奥さん、「あたしは神田っ子なのよ」とばあや、こんなふたりがいる家の中で「“東京”から来たからっていう顔は絶対にしないでほしい」と夫が頼んだとしてもどだい無理な話で、姑も舅も小姑もすでに亡くなって不在だった貫井家で、ふたりは市街地の様子やウワサ話をあれこれ楽しげにおしゃべりしていたのだろう。西落合に住んだ貫井冨美子という方の話は面白いので、機会があればまたご紹介したい。

◆写真上:西落合は戦時中に爆撃をほとんど受けていないため、あちこちに古い家屋を見ることができる。以下のモノクロ写真は、2003年(平成15)にコミュニティ「おちあいあれこれ」が編纂した『おちあいよろず写真館』より。
◆写真中上は、1917年(大正6)ごろに撮影された葛ヶ谷・貫井家の正月風景。は、1945年(昭和20)ごろに撮影された西落合の地元消防団。は、昭和初期には葛ヶ谷のどこからでも眺められた荒玉水道Click!野方配水塔Click!(1929年竣工)。
◆写真中下は、1880年(明治13)に作成されたフランス式1/20,000地形図Click!にみる葛ヶ谷村。東側の長崎村側から、当時の流行だった狭山茶栽培の茶畑が増えてきている様子がわかる。は、貫井冨美子が結婚する前年1930年(昭和5)作成の1/10,000地形図にみる葛ヶ谷地域。耕地整理が終わった地域から、新しい道路が碁盤の目のように敷設されている。は、昭和初期の住宅とみられる和洋折衷の近代建築。
◆写真下は、1925年(大正14)ごろに撮影された葛ヶ谷耕地整理記念写真。前列の左からふたり目が、当時の町長で落合耕地整理組合の組合長も兼ねていた川村辰三郎Click!。この中に、葛ヶ谷(西落合)では旧家だった貫井冨美子の連れ合いが写っている可能性がある。は、昭和初期に設置され現在でも道路沿いに長くつづく大谷石の宅地用縁石。は、戦後になって西落合の原っぱで撮影されたとみられる紙芝居屋に集まる子どもたち。

読んだ!(22)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

読んだ! 22

コメント 2

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。タイトルからてっきり関西、大阪の話かと思いました。昔は落合地域も東京とは言えないほど辺境の地だったわけですね。今年は久しぶりに阪神が優勝しましたが、東京では試合のもようも放送されず、野球人気の凋落ぶりを見たような気がします。papaさんは何のスポーツがお好きですか?
by pinkich (2023-10-02 17:25) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
子どものころは、水泳も野球もサッカーも山登りも好きでしたが、大人になってからは仕事が忙しくてスポーツどころではなかったですね。かといって、TVでスポーツを観戦するかというと、それもほとんどなく別の遊びに時間を費やしてました。実際に試合を見に出かけたのは、ラグビーと野球ぐらいです。プロ野球はほとんど観ませんが、札束で有力選手をかき集めるような、軍隊でもないのに「軍」と名のる巨人がキライで、このチームが負けてくれると少しうれしいですね。
by ChinchikoPapa (2023-10-02 18:35) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。