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アナキストの中学同級生が特高になると。 [気になる下落合]

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 さまざまな仕事をやりつくし、いよいよ食うに困ったら「俺に出来る仕事は泥棒か乞食か文学者だ」と、『俺の自叙伝』に書いた大泉黒石Click!は、1918年(大正7)に革命干渉で日本がシベリア出兵すると、報道とつながる特派員的なジャーナリストとして、多種多様な雑誌や新聞に文章を発表しはじめている。また、1919年(大正8)の春までロシアに滞在し、のちのロシア文学史の執筆に活用するつもりだったのだろう、ロシアの古い伝説や俗謡の研究をつづけた。そして、同年に帰国するとともに作品を発表しはじめている。
 翌1920年(大正9)から本格的に小説を書きはじめ、関東大震災Click!をはさみ、下落合2130番地に転居してきてからの昭和初期までには、文学好きなら誰でも知るベストセラー作家になっていた。そのせいか文芸愛好サークルなどから依頼され、日本各地で講演会を開いている。以前の記事では、辻潤Click!高橋新吉Click!がいっしょだった福岡の文芸講演会Click!について書いたが、大泉黒石Click!と高橋新吉は故郷である長崎と伊方に帰ってしまい、実際の講演会では辻潤Click!のみが登壇している。
 大泉黒石は、文学の視野はグローバルだが、日本の芝居や講談、落語、古典、俳句、川柳などにも深く通じていて、エッセイではそれらのシャレのめしやパロディなどもよく登場している。逆に、それを知らない日本人が読んだら、ちょっと恥ずかしくなるような教養であり知識量だ。そのせいだろうか、学校などからも講演を頼まれて出かけている。
 『俺の自叙伝』(岩波書店版/2023年)では、その一例として早大にお呼ばれして講演会を開いた経緯が記録されている。その内容が傑作なので、同書より引用してみよう。
  
 ある時早稲田大学の学生がやって来て、学校で講演をしてくれと言うから、よろしいと一言の下に承知した。ところが、その出掛ける前の日に少々飲み過ぎたために、演壇に立って「諸君」と言ったら目が回って、いきなり吐いてしまった。すると五百人ばかりの聴衆が余程気に入ったと見えて一斉に拍手した。講演はそれでお了いである。吐くのは苦しいが、お蔭で拙い話をせずに事件が落着したかと思うと嬉し涙が零れたことがある。俺はそのくらいお饒舌りが不得意である。
  
 大正末か昭和初期ごろとみられる、この早大の講演会では、大泉黒石が演壇で二日酔いによる嘔吐をしたにもかかわらず、聴衆がシラケたりせずに拍手喝采を浴びたのは、彼のトルストイ主義的アナキズムの思想を学生たちが知悉していたのと、大震災後の時代的な背景との重なりが大きく影響しているとみられる。
 すでに、社会から大正デモクラシーの自由闊達さが失われ、特高Click!の創設による思想弾圧がますます激しさを増していた時期だった。まるで、精神生活や論理的な思考回路=理性(自我)が侵食されていると感じて嘔吐感を繰り返す、戦後の実存主義者・サルトルのような情景ではないだろうか。それを敏感に感じとっていた学生たちは、大泉黒石が登壇して「吐いた」ことで、視野狭窄で狭隘な文壇や息苦しさを増す社会に対する、黒石ならではの的を射た「饒舌」なパフォーマンスと解釈したような気配さえ感じる。まもなく自殺(1927年)する芥川龍之介Click!は、吐き気ではなく「ぼんやりした不安」に苛まれつづけ、日に日に追いつめられていった。
 大泉黒石は「お饒舌は苦手」と書いているが、確かに講演会や座談会などでのしゃべりが苦手な作家は多い。ただ、家族たちにさえ敬語をつかいつづける彼のていねいな言葉づかいは、むしろ聴衆には説得力をもって受けとめられたのではないだろうか。演壇に上ると、まるで政治家のように大上段にかまえて話す講演者が多かった時代に、黒石の独特な語りかけるような押しつけがましくない話し方は、今日からみれば聴きやすかったように思える。
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 ちょっと余談だが、家でセミ時雨に耳を傾けていると面白いことに気づく。セミたちは天候の変化に敏感だといわれるが、雨が降るしばらく前になるとセミたちの合唱がピタリとやむ。ミンミンゼミやアブラゼミ、8月に入るとツクツクボウシもそうだが、微妙な気圧や湿度の変化へ敏感に反応するのだろうか、昼間でも深夜でも雨の前には静寂になる。ところが、セミの種類によってその“敏感”さにちがいがあることに気づく。
 アブラゼミやツクツクボイシは、少しぐらいの小雨の前なら鳴きやまない。ところが、ミンミンゼミはちょっとした通り雨や小雨の前にも、ピタリと鳴きやむ。それだけ、周囲の環境に敏感な器官を体内に備えているのだろうか。ヒグラシは、おもに早朝と夕暮れにしか鳴かないのでよくわからないが……。つまらない喩えだが、環境変化に敏感なミンミンゼミは、社会(自身のいる世界)の“荒天”を鋭敏に予知していた、芥川龍之介であり大泉黒石なのかもしれない。大泉黒石の場合は、ペテルブルクで二月革命を経験しているが、そこでも敏感に危機を予知していたように思える。
 大泉黒石は、東京で死去した祖母の遺骨を長崎の墓へ納めるために帰郷したとき、講演旅行とまちがえられたことがあった。どこで嗅ぎつけたのか、新聞記者が彼の写真とともに「日本文壇有数の社会主義者」が来崎しているという見出しで記事を載せた。この記事のおかげで、プライベートな帰郷が実際に地元のサークルから文芸講演を依頼されることになるのだが、厳密にいえば彼はアナキストであって、このときは国家を前提とする「社会主義者」ではなかったはずだ。
 さて、旧友の来崎記事を見て旅館まで訪ねてきた、中学時代の同級生がいた。故郷の長崎で特高Click!の刑事になった、「島田喜八」という人物だ。「島田」は学生時代、さかんに社会主義やアナキズムを研究しており、黒石たちと学内を暴れまわった悪友のひとりだった。実は、カネがない黒石はこの裕福な旧友から、東京へ帰る旅費を借りようとあてにしてきたのだ。そのときの会話を、前掲の『俺の自叙伝』からつづけて引用してみよう。
  
 「今度はどういう御用件でこちらへお出でになったのでありますか? 新聞には演説のためにと書いてありましたが――やはりそうでありますか」と言った。乱暴な旧友が久闊の言葉とも思われぬ。俺は当てが外れてムカッ腹が立った。金の都合はどうでもならあ、俺は何よりも、警察の高等係になった俺の旧友を見たくないのだ。高等と名乗って出る奴ほど下等なものはないだろう。現金な話だが、こんな下等動物には用がないと思うと一刻も早く追い返したくなった。/「あれは間違いでさ、格別用はないが来たくなったから来たのです。僕は気の向いた所へ自由に出掛ける権利がないだろうか?」/「いや、それはもう仰有るまでもないことであります。そこでご帰京の予定は?」と島田の訊問は型のとおりだ。俺は何でも悪く取る。「だからさ、今言ったような気まぐれな僕が、町へ着くや否や、いつ帰ろうなんて考えるものでしょうか?」/「いや大きにごもっとも、さぞお疲れでありましょう」と、流石にきまり悪くテレている。無愛想な俺の剣突を一々もっともに聞くところから按ずるに、この男はまだ出来立ての刑事だ。
  
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 このあと、「島田」は次々と阿諛追従を並べたて、「先生のご名声は当地にまで轟いておりま」すなどと、「あなた」が「先生」に変わり、黒石が「不愉快だよ!」というとようやく引きあげていった。なにやら、桐野夏生『ナニカアル』Click!(新潮社/2012年)に出てくる卑屈で慇懃で剽軽な私服憲兵のようだが、特高が手をまわしたのだろう黒石は宿泊していた旅館「大黒屋」を追いだされ、予定されていた文芸講演会は黒石が登壇する以前に、特高が送りこんだスパイの「機械工」にジャマされつぶされている。
 ちょっと余談だが、大泉黒石の語学獲得能力は天才的だったようで、東京へやってきてから数年間で東京方言(城)下町言葉Click!をマスターしているとみられる。『俺の自叙伝』を読んでいると、あちこちに流暢な東京弁Click!が顔をのぞかせている。
 大泉黒石は、よく家族を連れて長崎へ遊びに出かけているが、そのときも特高がピタリと彼のあとを尾行していたのだろう。子どもたちはそれに気づかなかったようだが、両親は背後の気配に気がついていたと思われる。長崎にいる間、黒石はまったく原稿用紙には向かわず美味しいと評判の料理屋を食べ歩きしたり、長崎が舞台となる小説の構想を練ったりしていた。長崎ですごす家族の情景は、長男・大泉淳がよく記憶している。
 1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.3」(1988年4月20日)より、大泉淳『父、黒石の思い出②』から引用してみよう。
  
 石畳の坂道を何回か上下して、寺町や父の卒業した鎮西学院を、父は懐かしげに私に紹介した。街に出る度にチャンポンを食べに支那料理屋に連れて行かれた。それは、いつも小さな薄暗い店で、部屋の片隅に黒い堅いベッドが置いてあり、長いキセルが側に立てかけてあって私の目には一種異様な雰囲気を感じたものである。/その頃の父が酒に溺れていたということはない。むしろ、甘、辛に関らず食べ物には興味があった。冷たい甘い水飴水を飲んで乾いた喉を潤した。擂りつぶした胡麻を主材にした、少し甘未のある胡麻豆腐も父の好物で、売り声を聞きつけては毎日のようにそれを買ったものである。(中略) あの頃が、父の生涯の最も平穏な思い出の頃であったかも知れない。/長崎は父の文学の構想上でもその背景になっていたと思われる。
  
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 大泉黒石は、「俺に出来る仕事は泥棒か乞食か文学者だ」と書くが、もうひとつ落合地域の特性に則していえば、そこに「画家」も含まれるだろうか。事実、黒石は絵がうまく、戦前に出版された旅行記などには、自身でスケッチブックに描いた挿画を掲載している。『大泉黒石全集』の函表にも、彼の挿画が採用された。五ノ坂下の隣家(下落合2133番地)には画家志望の手塚緑敏Click!が住んでいたので、ひょっとすると交流があったのかもしれない。

◆写真上:特にうまい店を知っていたようで、大泉黒石が好んで食べた長崎ちゃんぽん。
◆写真中上は、雑司ヶ谷時代の撮影とみられる大泉黒石。は、1930年(昭和5)出版の本地正輝『悲しき剣舞』(三洋社)を推薦する大泉黒石。児童向け小説家などと書かれ、日本文学から意図的に排除されはじめている様子が伝わる。は、1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)添付の「書報No.1」(左)と「書報No.3」(右)。
◆写真中下は、下落合2133番地の五ノ坂下にあった林芙美子・手塚緑敏邸Click!。大泉邸は、裏庭右手の奥(2130番地)にあったとみられる。は、林芙美子に抱かれる大泉淵。淵は成人すると、林芙美子の清書などを手伝う秘書のような仕事をしている。は、1928年(昭和3)7月撮影の日本画家たちと写る大泉黒石(前列の右端)。
◆写真下:1933年(昭和8)出版の、大泉黒石『渓谷行脚』(興文書院)の黒石挿画。
おまけ
 深夜になっても鳴きつづける、下落合の安眠妨害セミ時雨。(8月末録音)

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アヨアン・イゴカー

黒石という人は、魅力的な人ですね。泥棒か乞食か文学者か、という選択肢が、実に小気味がいいです。ご紹介の挿絵も、岡本一平のようで、味があり、目を引かれます。
by アヨアン・イゴカー (2023-10-01 11:30) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
作品をいろいろ読みますと、グローバルな視界から書かれたものが多く、“世界史の中の日本文学”を読んでいるような気がしてきます。同時代の作家の、どこまでも限りなく内向化する私小説(体験小説)が、「日記にでも書いておけば」と感じるようになってしまうのは、彼ならではのダイナミズムなのでしょうね。久米正雄をはじめ、当時の「文壇」作家たちが危機感をおぼえて彼を排除、あるいは「大衆作家」「“虚言癖”作家」「異端作家」などのレッテルを貼りたがるのが分かるような気がします。
by ChinchikoPapa (2023-10-01 19:29) 

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