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誰ノ御蔭デコンナ罹災者ニナツタンダ。 [気になるエトセトラ]

帝国議会議事堂.jpg
 以前にも、敗戦時に焼却されず残った特高警察資料Click!をもとに何度か記事Click!を書いているが、特高Click!がある人物をマークClick!したり思想・宗教弾圧で検挙して拷問を加えたりしたのは、別に共産主義者や社会主義者、アナキストだけではない。昭和10年代になると、民主主義・自由主義者、エスペランティスト、キリスト者、英語教師、反戦・厭戦を口にする人物たちなどを、文字どおり片っぱしから検挙Click!している。
 また、肥大化した組織の常として、検挙や起訴の“成績”が思うようにあがらないと、「人民戦線事件」Click!や「横浜事件」のように、ありもしない「事件」を次々とデッチ上げ、ふだんから気に食わない学者や芸術家たち、いうことをきかない出版社やマスコミをこれみよがしに弾圧Click!していった。まるで、今日のロシアや中国の国情を見るようだが、いまから80年ほど前まで日本で起きていた地つづきの現実だ。
 今回は、太平洋戦争が開戦する直前(1941年8月)の時点で特高に検挙・起訴された人物と、あまたの犠牲者を生みながら敗戦を迎え、大日本帝国が滅亡する直前(1945年8月)の時点で検挙・起訴された人物について、同じ東京市内の本郷区と淀橋区に在住していたふたりの人物にしぼって、その検挙理由や罪状も含めてご紹介したい。
 まず、1941年(昭和16)8月に本郷区春木町(現・文京区本郷3丁目)に住む、店舗の支配人だった壇小三郎という人が、「反戦反軍言辞」を理由に検挙・起訴された事例で、隣組臨時常会に出席しているときの発言がもとで摘発されている。当時、日米関係の緊張が高まっており、また中国の戦線では「破竹の勢い」の進撃がなくなり、国民党や共産党と対峙する前線では苦戦または膠着状態がつづいているような戦況だった。
 2019年(平成31)にパブリブから出版された高井ホアン『戦前反戦発言大全』に収録の、1941年(昭和16)8月5日付け「特高月報」より引用してみよう。
  
 戦争は破壊である、文化を破壊し人名(ママ:人命)を損傷し財産を滅失して人々を苦しめるものであるからどんな場合でも最後まで手を尽して戦争を避くべきである、破壊を伴う戦争はどんな場合でも罪悪である、支那事変は二・二六事件の延長として日本軍部の急進的分子が意識的に計画して起したもので一般国民には関係がないのだ(。) 軍部は事変前に国際的危局迫ると言って軍用機の準備、兵員の訓練に努力して事変始まるのを予想してその準備をして居たのである、軍人の職業は戦うことだ、軍人は戦場で死ねばどんな場合でも戦死として扱はれ靖国の神として祭られるし、その遺族は遺族扶助料をもらい生活まで保護されるが、一般国民は空襲などの為死んでも又は職域奉公に倒れても何の保障もなく酬われる所がないのです(後略/カッコ内引用者註)
  
 まったく当時の史的事実と社会状況を率直つか現実的に述べているにすぎず、また戦争末期の空襲や戦時中のインフレ、政府の財政破綻などを正確に予測するなど、非常にまともで論理的かつ分析力・認識力に優れた知的な人物像が浮かぶ。
東京大空襲.jpg
下落合空襲1.jpg
 これに対して、特高は「反戦反軍に渡る造言飛語を為す」として検挙のうえ、ただちに送検(起訴)している。単に事実を話し、「このままいくと……」の近未来予測を少ししただけで逮捕されるのは、学者や評論家たちまでをも弾圧しはじめている、現在のロシアの社会状況に酷似している。先日、「戦争はやめよう」というプラカードを持ち、街角に立っていただけで逮捕されたロシアの少女がいたが、当時の日本で同様のことをしたなら特高による激しい拷問により、五体満足では出てこられなかったかもしれない。
 隣組臨時常会での発言が特高に知られたのは、もちろん出席者あるいは近所の誰かの密告(チクり=タレこみ)によるものだ。国家による全体主義Click!的、あるいはファシズム的な傾向が強まれば強まるほど、現代の中国やロシア、ミャンマー、あるいは北朝鮮などを問わず監視と密告は奨励され褒賞されていく。戦時中の「隣組」Click!は、相互監視と密告奨励をセットにし双方の弾圧機能をになった、人間の想いや感情、思想・宗教の吐露さえいっさい許容しない、恥ずべき愚劣な「亡国」制度のひとつだろう。
 やや横道にそれるが、これまで拙サイトには日本語を勉強する外国人の方々から、少なからずコメントが寄せられてきた。当然、中国の方々からのコメントも書きこまれていたが、最近はそれが途絶えて久しい。もちろん、中国の監視組織による当局への密告、あるいは日本国内で組織化されているとウワサされる「中国警察」の密告・摘発への懸念から、沈黙せざるをえなくなったのだろう。非常に残念なことだ。
 さて、次は敗戦間近の摘発事例を見てみよう。淀橋区柏木1丁目(現・新宿区西新宿7~8丁目)に住んでいた能瀬貞子という女性が、特高により「重要特異流言飛語」として検挙・起訴されたケースだ。たいそうな厳めしい摘発用語が付加され、数々の違反名や罪名が列挙されているが、単に配給の行列に並んでいた際、よくある女性同士の世間話、あるいは井戸端会議として交わされた話の内容にすぎない。
 こちらは、1945年(昭和20)8月3日に発行された「官情報第629号」に掲載された事例だ。ちなみに、「特高月報」は1944年(昭和19)の11月号を最後に、おそらく物資不足のためか廃刊になっており、戦争末期にはすでに存在しなかった。では、同書より「官情報629号」に掲載された「重要特異流言飛語発生検挙」から、少し長いが引用してみよう。
焼夷弾と火災.jpg
下落合空襲2.jpg
  
 1、此ンナニ大勢焼ケ出サレテ、私達ハスキ好ンデコノヨウナ目ニ遭ツタンジヤアルマイシ/デモネー戦争ハ此ノ秋位デ勝ツトカ負ケルトカ区切リガツクツテ話ジヤナイノ 七、八月頃ハトテモ空襲ガ激シクナルソウデスヨ。/2、負ケテモ殺サレルノハ上ノ方ノ人達ダケナンダ 私達ミタイノ下ノ物ハ殺サレヤシナイハヨ 負ケテモ私達ハ別ニ悪イコトシテル訳ジヤナシ殺サレルノハ上ノ偉イ人達ダケナンデセウ/3、本当ニ近衛サンヤ東條サンガモツト確(しっか)リシテ亜米利加ト手ヲ握リサヘスレバコノヨウナコトニナラナクテ済ンダンダ/亜米利加デ最初斯(ママ:其)ンナニナラナイ内ニ手ヲ握ラウトシタノヲ近衛サンガ頑固ニ振リ切ツチヤツタカラコンナ戦争ニナツチヤツタンダハ 其ノ為大勢ノ人ガ焼ケ出サレタリナンカシテ苦シムノダハ/罹災者罹災者ツテネー人ヲ邪魔扱ヒシテ誰ノ御蔭デコンナ罹災者ニナツタンダカ判リヤシナイハ。/4、天皇陛下ハ立派ナ防空壕ニデモ這入ツテ納ツテンデセウネ 天皇陛下、天皇陛下ツテ奉ツテ居ルケレ共 別ニ天皇陛下ニ喰ベサシテ貰ツテル訳ジヤナシ 反ツテコツチデ働イテ喰ベサシテヰル様ナモンダ/天皇陛下ナンテアツテモナクテモ同ジダ 御天道様ト米ノ飯ハツイテ廻ツテルンデスモノ。(カッコ内引用者註)
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 いつも庶民の眼は、鋭くて的確で正しい見本のような女性の言葉だ。まことにもっておっしゃるとおりで、真珠湾攻撃やマレー沖海戦について「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」といい、<♪勝チ抜ク僕ラ少国民~天皇陛下ノ御為ニ~>とうっかり唄ったとたん、「うちじゃ、そんなこと教えていないよ!」と厳しく叱責した川田順造の母親Click!や、真珠湾攻撃の前日まで銀座や日本橋で上映されていた米国映画をふんだんに観ていたせいか、「米国に勝てるわけがない」といって祖父や親父たちの言論をリードしていたらしいうちの祖母Click!(学生の親父はそう公言して交番のお巡りに引っ張られている)と同様、高等教育を受けたわけでもない女性たちの直感(皮膚感覚)や洞察力の鋭利さには恐れ入る。
 ただ、熊瀬貞子は「秋位」に「負ケル」と予想していたようだが、それよりも1ヶ月ほど早い藪入り(旧盆)Click!の8月15日に、日本は無条件降伏して敗戦を迎えている。この井戸端会議の内容が漏れたのも、誰かの密告によるものだろう。
 他の女性たちに対する彼女のおしゃべり=世間話についた罪状、すなわち7月11日に起訴された容疑は、刑法第74条違反(天皇への不敬罪)、陸軍刑法第99条違反(反戦・反軍思想)、言論集会結社等臨時取締法第17・18条違反(女性たちの井戸端会議が集会結社にあたる/爆!)だった。ずいぶん厳めしい罪状が女性たちに付与されたものだけれど、今日から見ればまことに滑稽でバカバカしさすら漂う。ただし、人々が集まり世間話をしただけで逮捕されるのは、民主派を弾圧しつづけるミャンマーや少し前の香港のケースと同様で、「反国家的集会結社」で逮捕された人たちはどれほどの数にのぼるのだろうか。
 おそらく、彼女は裁判所の法廷に引きだされることもなく(そもそも裁判所は焼けて機能しておらず、法廷要員さえ空襲で満足に集まらない状況だった)、どこかに拘禁されて1ヶ月後の敗戦を迎えていると思われるが、無事に戦後を生きのびていてほしいと願う女性だ。
焼夷弾攻撃.jpg
早稲田上空B29.jpg
 敗戦が近い街角で、とある女性が「今頃新聞で敵の軍艦を何艦轟沈、我が方の損害は軽微と書いてあるけど、我が方が多く沈んでゐるのでせう」と発言してすぐに検挙されている。だが、事実はまさにそのとおりで、「大本営発表」こそが造言飛語の出どころだったのだ。ロシアや中国の治安当局が、反戦や民主思想に関する「取り締り」の際に発表する、ほとんどウソで塗り固められたその口実や理由を、後世の歴史は決して許容しやしないだろう。

◆写真上:戦後すぐの撮影とみられる、帝国議会議事堂Click!周辺の焼け野原。
◆写真中上は、1945年(昭和20)3月10日夜半の東京大空襲Click!で撮影された燃えるビルや住宅街。は、同年5月17日撮影の目白駅と下落合東部の空襲被害。
◆写真中下は、東京で撮影された焼夷弾攻撃の様子。は、1945年(昭和20)5月17日にF13Click!によって撮影された第2次山手空襲Click!直前の下落合中部および椎名町の様子。上部には武蔵野鉄道・椎名町駅が見え、右下には国際聖母病院が写る。
◆写真下は、米誌「LIFE」に掲載された焼夷弾攻撃の様子。は、夏目坂Click!上空を飛ぶB29。眼下上部には早稲田大学の大隈記念講堂と、右下には早稲田小学校が見えている。
おまけ
 郵便ポストの中で、大きなカブトムシ♀が死んでいた。カラスに追われたものか、娘が見つけていたらアオダイショウClick!以来、再びキャーーッ!が近所じゅうに響いただろう。
カブトムシ♀.jpg

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。ロシアと中国は戦前の日本のように言論の自由がないようですね。言論の自由がない国に生まれなくてよかったー。ところで、papaさんの祖母にあたる方は、大変偉い方のようですね。アメリカの映画を見て国力の差を痛感していとは、、
by pinkich (2023-08-25 22:21) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
別に祖母をエライとは思いませんが(家庭内ではお上で、エラかったようですがw)、川谷順造の母親がそうだったように、さまざまな“情報”を得たりネットワークを駆使できる、街で暮らす女性ならではの生活観のような、論理ではなく皮膚感覚のようなものが身についていたんだと思います。それらの“情報”は映画ばかりでなく、米国製品や文化的なモノなどからも、敏感に吸収していたのだと思います。
by ChinchikoPapa (2023-08-25 23:09) 

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