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箱根土地主催の目白文化村写真コンクール。 [気になる下落合]

渡辺邸.JPG
 1924年(大正13)の11月、箱根土地Click!は写真月報社から発行されていた「写真月報」12月号の誌上で、下落合の目白文化村Click!に建つモダンな住宅街の雰囲気を感じさせる街角(住宅)写真の、「目白文化村懸賞写真募集」という写真コンクールを開催している。
 同誌に掲載された応募要項を、そのまま引用してみよう。
  
 目白文化村懸賞写真募集
 一、題材 市外下落合目白文化村にある住宅建築物
 一、応募印画 大さ及点数制限なし/但し必ず台紙に貼り。裏面に撮影日時。/
  題目。住所氏名を明記すること。応募印画は返却せず
 一、 締切 大正十三年十二月二十日
 一、 届先 市外下落合目白文化村箱根土地株式会社宛
 一、 審査 小西写真専門学校 結城林蔵氏/東京写真研究会主幹 秋山轍輔氏/
  『カメラ』主筆 高桑勝雄氏
 一、 褒賞 壱等 五拾円 壱名 弐等 参拾円 五名 参等 拾円 拾名
  選外佳作 若干名 商品贈呈/但し一人一賞とし、同一人にて二点以上入賞の際は最高
  賞一点を採る。褒賞は永く保存せられたき方には御希望により本社に於て調整すべし。
  審査発表 大正十三年十二月二十五日 目白文化村本社階上に印画陳列、審査発表。
  
 褒賞された作品について、「永く保存せられたき方」には箱根土地本社で相談に応じるとしているので、これらの入選作は箱根土地本社屋Click!の壁面に、パネルにして架けられていた可能性もありそうだ。ひょっとすると、これらの懸賞写真はいまでもどこかに眠っているのかもしれない。なぜなら、箱根土地は翌1925年(大正14)には国立(くにたち)Click!へ移転しており、下落合で戦災に遭うことはなかったからだ。国立は戦後まで本格的な住宅街が形成されず、ほとんど空襲を受けていない。
 なお、審査員のネームで小西写真専門学校の教授だった結城林蔵は、下落合1379番地の第一文化村で暮らした住民で、昭和期に入ると東京写真専門学校を創立している。また、東京美術学校Click!東京高等工業学校Click!の教授もつとめていた。第一文化村の神谷卓男邸Click!から、二間通りをはさんで西隣りに位置する敷地だ。
 さて、「目白文化村懸賞写真募集」に対して、12月20日の締め切り日までに300点をゆうに超える応募作品が集まっている。これらの作品には、もちろん目白文化村の住民たちもこぞって応募していただろうが、住民ではなく落合・目白地域に住むカメラが趣味の人たちや、市街地に住むアマチュアカメラマンたちも、下落合にやってきてはカメラのレンズを文化村の街角へ向けていたにちがいない。1924年(大正13)の11月末から暮れにかけ、目白文化村の道をカメラ片手にゾロゾロ歩く人々を見て、箱根土地の写真コンクールを知らない住民たちは、「いったいなにごと?」と訝しんだかもしれない。
井門邸.JPG
神谷邸.jpg
梶野邸.jpg
安食邸(会津邸).jpg
末高邸.jpg
中村邸.jpg
林邸.jpg
 コンクールの結果を、1925年(大正14)の「写真月報」2月号より引用してみよう。
  
 目白文化村懸賞写真審査
 箱根土地株式会社にては、目白文化村建築物の写真画懸賞を以て募集しつゝありしが、客歳十二月二十日の締切期日までに参百数十点の作品集まり結城林蔵、秋山轍輔、高桑勝雄三氏の審査にて左記の三十六及び佳作三十点を入選せしめた。
  
 以下、同誌に掲載された入賞作品リストを見てみよう。ただし、入選の写真自体は「写真月報」に掲載されておらず、いろいろな資料を漁ったが発見することができなかった。
入選作.jpg
 なんだか、入選者の苗字を見ていると、文化村の住民がかなり多くまじっていそうだけれど、「静かな」とか「淋しい」「静日」などのタイトルから、大正期の目白文化村が市街地からはかなり離れた東京の郊外住宅地だった風情が感じられる。
 「画家の或る日」は、文化村を写生してまわる画家をとらえた写真だと思われるが、当時はイーゼルを立てモダンな西洋館群をモチーフに制作する画家の姿が、村内のあちこちで見られただろう。当時の下落合はモダン住宅で飼うペットブームClick!で、特にイヌClick!は人気が高かった。「主を待つ犬」は、目白文化村のどこかで勤めから帰る飼い主を待つイヌをとらえたものだろう。同コンクールの入選作が発表された1925年(大正14)、死んだ主人の帰りを渋谷駅頭で待つ“ハチ公”が評判になるのは、もう少しあとのことだ。
 3等の当選者には、作品「無題」を応募した伊藤文子という女性がいるが、下落合2108番地Click!に住んでいた吉屋信子Click!がイヌを連れて近所を散歩をするとき、いつもコンパクトな「ベストポケット・コダック」Click!を携帯していたように、大正末になるとカメラを手にする女性もそれほどめずらしくなくなっていく。
前谷戸埋め立て.jpg
目白文化村風景192508.jpg
鈴木邸.jpg
松下邸.jpg
宮本邸.jpg
安東邸(解体直前).jpg
石橋邸.JPG
 入選作のタイトルから、課題である「目白文化村にある住宅建築物」のとおり、大正末の西洋館を中心とした邸宅群がとらえられていると想像できるが、ぜひ入選作の画面を見てみたい。モノクロの画面しか残っていない笠原吉太郎Click!『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!以来、久しぶりに“指名手配”の下落合コンテンツだ。
 箱根土地は、目白文化村ばかりでなく新宿にあった遊園地「新宿園」Click!や、東大泉を開発した「大泉学園都市」Click!のテーマでも、同様に「写真懸賞募集」を行っている。このような手法が、SP施策として現地に人を集めやすいと考えたのだろうか。
 大泉学園のケースを、1924年(大正13)の「写真月報」12月号から引用しよう。
  
 大泉学園都市内写真懸賞募集
 箱根土地株式会社の経営する大泉学園内の写真を左記規定によつて募集してゐる。/大泉学園都市は学校を中心として大泉公園、電車、停車場、公園道路、娯楽場を新設して新住宅地を経営せんとする全面積五十萬坪、富士を眺め松林うちつゞく近郊最高の形勝地(ママ:景勝地)なる由にて目下その一部を分譲売出中である。/大泉都市に至るには、省電山手線池袋駅にて武蔵野電鉄(ママ)に乗換へ約二十分にて新設東大泉駅に着。東京駅より東大泉駅までは約一時間を要すといふ。(カッコ内引用者註)
  
 箱根土地が、いまだ学校の誘致をあきらめていないころの大泉学園都市分譲の様子だが、ここでは武蔵野鉄道のことを「武蔵野電鉄」と表現しているのが面白い。西武鉄道村山線のことを、地元でも地図制作会社でもマスコミでも「西武電鉄」と表現していたのと同じ感覚だろうか。また、「五十萬坪」と書かれているが、実際に敗戦時まで開発されたのはその半分弱ほどの面積だった。やはり市街地から遠かったせいか、戦後1947年(昭和22)に撮影された空中写真でさえ、開発済みのエリアでも空き地がかなり目立っている。
吉田邸.jpg
須藤邸.jpg
箱根土地.jpg
中央生命保険.jpg
渡辺邸2.jpg
入選者発表.jpg
 目白文化村でも大泉学園でも、また新宿園でも写真コンクールが催されているところをみると、東京商科大学Click!(現・一橋大学)の誘致に成功した国立(くにたち)でも、同様のコンクールが行われていたのではないか。国立は戦災をほとんど受けていないので、それらの応募作品がどこかに残されてやしないだろうか。もっとも、国立は戦後にならないと住宅街が形成されていないので、撮影のモチーフはかなり限られるような気がするけれど。

◆写真上:第一文化村にいまも残る、日本画家の旧・渡辺玉花アトリエ。
◆写真中上からへ、解体された井門邸(第一文化村)、神谷邸(同)、梶野邸(同)、安食邸(のち会津八一邸/同)、末高邸(同)、中村邸(同)、林邸(同)。
◆写真中下からへ、前谷戸の埋め立てと文化村倶楽部(左手のライト風建築/1923年)、第一文化村の二間道路で正面は神谷邸の門(1925年)、鈴木邸(第二文化村)、松下邸(同)、宮本邸(同)、先年解体された安東邸(同)、石橋邸(同)。
◆写真下からへ、吉田邸(第三文化村)、須藤邸(同)、箱根土地本社ビル、第一文化村から眺めた旧・箱根土地本社(中央生命保険倶楽部)と穂積邸、第二文化村の鈴木邸から見る第一文化村の渡辺邸(冒頭の渡辺玉花邸とは別)、いちばん下は1925年(大正14)発刊の「写真月報」2月号(写真月報社)に掲載された「目白文化村懸賞写真審査」結果。これら目白文化村写真の邸宅および街角風景は、すべて過去の拙記事でご紹介済みClick!だ。

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