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ネコを「虎」と強弁する大橋の見世物小屋。 [気になる猫]

両国広小路跡(本所).JPG
 江戸期の大橋(両国橋)Click!の西詰めと東詰めには、延焼防止のための広場に近い道路が設置され、両国広小路Click!と呼ばれていた。そして、日本橋側の米沢町の北側をおおざっぱに西両国(現・東日本橋)、本所側の南本所元町あたりを東両国と通称していた。もっとも、現在の大橋(両国橋)は本来の位置から40~50mほど北側に移動して架けられているので、当時の広小路は本所側にその道筋の一部が残っているにすぎない。(冒頭写真)
 この当時は江戸一の繁華街だった大橋の両詰めで、江戸後期には盛んに見世物が小屋がけしていた。「小屋」といっても、40間×11間(約72.8m×約20m)もある巨大な建物や、高さが4~5階建てのビルに匹敵する「小屋」もあり、明治以降や今日イメージする見世物小屋とはまったく異なる建造物だ。浮世絵にも描かれ、江戸東京博物館には大橋のジオラマも展示されているので、ご存じの方も多いかもしれない。余談だが、わたしの先祖はすでに西両国の南側に位置する日本橋米沢町ないしはは薬研堀界隈Click!に住んでいたので、新しい見世物がかかるとさっそく見物しに出かけていっただろう。
 見世物小屋は当時、大橋の両詰めと浅草の奥山が有名で、大橋は本所側にある回向院Click!の催事に合わせ、奥山は浅草寺Click!の催事に合わせて開催されるのが一般的だった。江戸期の見世物は、明治以降に流行った淫靡猥雑なコンテンツとはかなり異なり、見世物文化研究所の川添裕の分類によれば細工ものや曲芸・演芸もの、動物もの、そして人間ものに分類されるといい、特に多かったのが細工ものと曲芸・演芸ものだった。
 細工の見世物というのは、ギヤマン(ガラス)や貝殻などを使った巨大細工、編み籠や竹細工、一文銭などを用いた大きな人物像や動物など、今日でいえばテーマパークや遊園地、リゾート地などにありそうな趣向のものだった。美術的ないい方をすれば、それらは江戸の巨大なインスタレーションと呼べなくもない作品群だ。本来は別の目的のために作られたモノ(たとえば竹籠)が、高さ2丈6尺(約8m)もの三国志に登場する関羽に姿を変えてしまうところが、細工見世物の面白さとダイナミズムだったのだろう。曲芸・演芸ものは、その名のとおり今日のサーカスやマジックショーのような見世物だ。
 これらの見世物で当たり(ヒット)をとると、ゆうに数千両の売上があったというから、当時の商売としては最大のイベント興行だったろう。ひとたび大ヒットすれば、芝居(歌舞伎)小屋の収益を大きく上まわったというから、全国各地の寺社が見世物小屋を勧請したがるのも無理はなかった。川添裕によれば、大当たりの見世物は武家や町人を問わず、大江戸(おえど)の全人口の半分(70~80万人)が押しかけるような盛況だったという。大江戸では、そんな見世物小屋が参集するのは、広小路(広場状の火除地)のある大橋(両国橋)と、外濠(神田川)の浅草御門(浅草見附)の彼方にある浅草寺裏の奥山が中心だった。
 見世物の大多数は、細工ものと曲芸・演芸ものが主流だったが、回数はそれほど多くはないものの動物見世物も大きな話題を呼んでいる。特に、海外の動物はほとんど誰も見たことがなかったため、そのたびに大騒ぎとなった。まず、1824年(文政7)には駱駝(ヒトコブラクダ)の夫婦が江戸にやってきて、にわかにラクダブームが起きている。入場者数は1日に5,000人といわれ、6ヵ月ものロングラン興行だったという。
広重「東都名所両国橋夕涼全図」.jpg
広重「東都名所両国橋夕涼全図」部分.jpg
国安「駱駝之図」1824.jpg
かつ川長徳斎「海獣俗よんで海怪うみのおばけ」1838.jpg
 その入場料による収益は数千両にのぼり、ラクダにちなんだ多種多様なグッズの売上も含めると、莫大な利益が計上されたのだろう。ラクダは、オシドリと同様に夫婦和合の象徴とされる動物で、また麻疹(はしか)や疱瘡(天然痘)の予防にきくなどといわれ、さまざまなご利益グッズが作られ販売されている。2頭のラクダは、その後、10年以上にわたって日本全国を巡業してまわったというから、その人気のほどがうかがわれる。
 次に、1838年(天保9)にはアザラシの見世物小屋が大橋詰めに建った。相模湾で漁師の網にかかったもので、以前から馬入川(相模川)の河口域で2頭の海獣が目撃されていた。いまでこそ、前世紀よりはきれいになった多摩川や荒川、中川などでアザラシはたまに目撃されているが、当時は見たことがない人々が多かったせいか、たちまち大評判となった。愛嬌のあるアザラシのことを、「海怪(うみおばけ)」などと呼んで囃し立てているところをみると、当初は海の「怪獣」として売りだそうとしていたものだろうか。
 1851年(嘉永4)には虎(トラ)の見世物小屋が両国橋に建った……が、斎藤月岑の日記に挿入された絵を見ても、どうしてもトラには見えずネコなのだ。2021年4月28日発行の日本経済新聞に掲載された、藤原重雄「日本史のネコ十選」より引用してみよう。
  
 豊後(大分県)から生け捕ってきたもので、小犬の大きさで尾が太く、とても太っていて、薄鼠色に茶色の斑があり、生餌を食した。別の随筆では、鳴き声が聞こえないように拍子木でごまかしていたといい、月岑も「虎にあらず猫の一種なり」と記している。また別の記録では、対馬で捕獲したとしており、月岑が記す特徴からも、ツシマヤマネコであったらしい。真実を明かした方が、今日では珍しがられたかもしれない。
  
 大分県にトラが棲息していたというのは、かつて一度も見聞きしたことがないし、ニャンコのような鳴き声だったというから記事の想定が正しいのだろう。身体が「小犬」ほどのサイズというから、対馬でツシマヤマネコの幼体をひろったものだろうか。
斎藤月岑日記「虎」18511021.jpg
ツシマヤマネコ.jpg
オトメヤマネコ.jpg
 ニャーオという鳴き声を、見物客に聞かれないよう拍子木の音でごまかしていたらしいが、けっこうな人出があったようなので、ヤマネコをトラに化けさせたわりには収益が多かったのかもしれない。実際のトラを、誰も見たことがないので成立しえた見世物だったのだろう。この伝でいけば、うちのちょっと凶暴なオトメヤマネコも、大橋西詰めにかかる見世物小屋では、トラで十分押しとおすことができそうな気がする。
 ところが、その9年後にはホンモノの獰猛なトラがやってくるというので、大江戸は再び大騒ぎとなった。生餌として与えられたニワトリを、追いまわしては一撃で仕留めて食べてしまう大きな猛獣に、武家も町人も熱狂したのだろうが、当時の浮世絵を参照するとどう見ても縞模様のトラではなく、身体にブチブチの斑点が入ったヒョウなのだ。
 獅子(ライオン)もトラも実物を一度も見たことがない当時の人々は、それでもトラには縞模様があることぐらいは絵画を通じて知っていたので、「ありゃ、虎じゃなくて豹だぜ」と指摘する人がでてきたものか、ヒョウはトラのメスだということで話が落ち着いたらしい。そんなところで納得してしまうのも、今日から見れば妙な気がするが、大型のネコ科の動物を見るのは初めてだったので、「トラでもヒョウでも、とにかくスッゲ~!」と、その迫力に圧倒されたのだろう。少なくとも、9年前のツシマヤマネコよりは、トラへ少しだけ近づいたのはまちがいない。
 さて、1863年(文久3)には久しぶりに象(インドゾウ)が見世物小屋にやってきている。江戸へ安南(ベトナム)からインドゾウが初めてやってきたのは、1729年(享保14)の徳川吉宗の時代のことなので、すでに当時を知る人はいなくなっており、人々は「その昔、うちのご先祖が象というべらぼーな動物が通るてんで、いっさん見に出かけたらしいんだけどさ」と、もはや昔話のように子孫へ語られていたにちがいない。
 インドゾウの見世物は、幕末で最大のヒットとなったが、めずらしい海外の動物は長崎からもたらされるのではなく、このインドゾウは開港したばかりの横浜に上陸して、すぐに大江戸へとやってきている。ラクダやトラもそうだが、ゾウもまた神獣や霊獣のたぐいであって、そのご利益にあやかろうと多彩なグッズ商売が生まれている。特にゾウは、普賢菩薩の化身であって信仰する人々にはありがたい動物だったのだろう。
広景「虎の見世物」1860.jpg
芳豊「中天竺舶来大象之図」1863.jpg
大橋(両国橋).JPG
 さて、享保年間に安南(ベトナム)から江戸へとやってきたインドゾウだが、飼育・管理費がかかりすぎるため幕府から払い下げられ、中野村の農民たちが引きとって余生の面倒をみることになった。このとき、落合地域からは大挙して見物客が中野村へ押しかけているとみられ、相変わらずその人気は高かったにちがいない。インドゾウの体調が悪くなると、面倒をみていたのが象小屋から北へ1,500mの位置にある、上落合村の馬医(現在の獣医に相当)だったことから、ことさら落合の村々ではなじみの動物になっていたのではないか。

◆写真上:本所側の旧・両国広小路跡で、突き当りの向こう60m先は大川(隅田川)。
◆写真中上は、2葉とも1841年(天保12)ごろ制作の広重Click!『東都名所両国橋夕涼全図』。(手前が日本橋側で川向こうが本所側) 大橋両詰めの広小路には、大小さまざまな見世物小屋が並んでいる。は、1824年(文政7)制作の国安『駱駝之図』。は、1838年(天保9)に制作された長徳斎『海獣/俗よんで海怪(うみのおばけ)』。
◆写真中下は、1851年(嘉永4)10月21日の『斎藤月岑日記』に描かれた「虎」のスケッチ。どう見てもニャンコだが、ツシマヤマネコでもめずらしかったろう。は、ツシマヤマネコ。は、江戸期なら「虎」になれたかもしれないオトメヤマネコ。
◆写真下は、1860年(万延元)に制作された広景『虎の見世物』。どう見てもトラではなくヒョウなのだが、トラのメスということで一件落着したらしい。は、1963年(文久3)に描かれた芳豊『中天竺舶来大象之図』。このゾウは人には慣れており、お辞儀をする芸まで憶えていたらしい。は、現在の大橋(両国橋)の中央付近から日本橋側を眺めた夜景。左端の灯りが点いているビルの一帯が、江戸期に西両国の広小路があったあたり。

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十二支にネコの入る隙間はあるか。 [気になる猫]

豊春「菖蒲湯」1770年代.jpg
 あけまして、おめでとうございます。旧年中も、みなさまにはたいへんお世話になりました。本年も「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。
  
 さて、このサイトをはじめてから昨年で二度めの「申年」、今年で二度めの「酉年」を迎えているわけだけれど、いつも気になるのが十二支になぜ「猫年」がないのか?……という、ネコClick!好きなわたしには気になるテーマだ。古くから人間のごく身近にいる動物にもかかわらず、干支に「猫」が加えられていない。
 干支(あるいは十二支)という概念が朝鮮半島ないしは中国からもたらされた際、そのままローカライズせずに使用してしまったのは、当時の日本にネコが棲息していなかったと説明されることが多い。ネコが輸入され、人に飼われはじめたのは平安期ごろで、干支が導入された時期にはまだ存在していなかった……と解説する文献も多いけれど、縄文遺跡からヤマネコばかりでなく、イエネコClick!の骨が見つかっている考古学的な成果を踏まえるなら、当然、もっと早くから人の近くにネコがいたと解釈すべきだろう。
 十二支に「猫年」を採用する国は、意外に多い。タイ、ベトナム、チベット、ブルガリア、ベラルーシ……とまだまだあるのかもしれないが、もともと中国では身近な動物を干支に選んだとされているので、これらの国々ではネコがことさら人間の近くで丸くなっていたのだろう。でも、「身近」といわれるわりには「辰年」などと、この世に存在しない(と思われる)架空の龍が含まれているのがちょっと不可思議だ。ほかの動物はすべて人の近くに実在するにもかかわらず、龍だけが特別なのだ。中国で“龍”は、皇帝を象徴する動物として位置づけられることが多いので、庶民の象徴として無理やり「身近」に位置づけるため、ことさら選ばれたものだろうか?
 たとえば、日本の十二支から「辰」を外し、「猫」にするとなにか不都合が起きるだろうか?w 時刻の概念から見ると、「辰ノ刻(たつのこく)」は仕事に出かける前に朝食をとる「食時」に相当する。いまの時間になおせば、午前7~9時ぐらいの感覚だろうか。こんな朝っぱらから、食事する時間が龍というのもおかしいので、「猫ノ刻」としたほうがよりフィットするかもしれない。ちょうど、そろそろご主人が起きる時間だと、ネコが寝床へやってきて、顔といわず頭といわず、「朝だにゃん、そろそろメシくれにゃん!」と前足で押し押しするか、あまりにご主人が起きないと、頬っぺたを肉食獣らしいザラザラの舌でベロベロ舐めたりする時間帯だからだ。
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 また、十二支による方位の課題はどうだろうか。「辰ノ方(たつのかた)」とは、いまでいう東南の方角だけれど、これも龍よりはネコのほうがなんとなくシックリくる。真夏を除けば、ネコClick!は朝になると陽の当たる窓辺で寝そべるか、窓の外を飽きもせず眺めているか、ヒマそうにダラダラすごしていることが多い。レースのカーテンの向こう側に入りこみ、お腹がいっぱいになった満足げな表情をして顔を洗っているか、毛づくろいをしているか、ときにレースに爪を立ててカーテンのぼりに興じたりするのは、たいがい東ないしは南の窓辺なのだ。
 暦(こよみ)のうえで「辰ノ月」は、さてどうだろう? 現代の暦でいうと3月のことだが、新しい年度がはじまる矢先、春を迎えた新鮮な気配の中、龍が天へとのぼる勢いのある季節だととらえるのは、一見ふさわしいように思えるけれど、龍の昇天は別に正月でも新年度がスタートした4月でもいいような気がする。3月を「猫ノ月」にすれば、ネコが1年のうちでいちばん元気でうるさい時期、つまり「さかり」がついてニャーオニャオとあたりかまわず鳴きまくり、ときには人間から水を打(ぶ)っかけられたりするのだが、それでもめげずに毎晩ニャーオニャオと浮かれ歩いてる時期なので、やはりここは「猫ノ月」としたほうが現実的でふさわしいような気がする。
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 ところで、陰陽五行の「辰」は「陽(よう)」で「土(ど)」を意味するといわれるが、まさに太陽の光が大好きで、いつも地面でゴロゴロしている、そこらの野良ネコににこそピッタリな意味づけではないか。「辰」=龍は、たいがい水中にひそむか天空を飛翔しているのであり、土の地べたでゴロゴロなどしないものだ。だから、「辰」の代わりに「猫」をもってきても、なんら問題は起きそうにない。
 ついでに、四神相応なんて概念も朝鮮半島や中国から輸入されているけれど、これもついでに「青龍」に代わりネコClick!を導入したらいかがなものか。北の「玄武」、南の「朱雀」、西の「白虎」、東のまねきネコClick!風「青猫(にゃん)」ということで、ネコ科が2匹になってしまうけれど気にしない。陰陽五行の発祥地とされる中国から見て、東に位置する日本列島は、まことに平和と安楽を好み、しじゅうゴロゴロして楽しそうな雰囲気を漂わせ、海外の観光客には大人気のエリアなのだけれど、あまりに甘くみくびりすぎると爪や牙でひっかかれて、ちょっとひどい目に遭うんだよ……ぐらいのスタンスが、平和志向のこの国のカタチにはとてもよく似合うような気がするのだ。
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 きょうは正月ということで、浮世絵に登場するネコたちを江戸の街中心に集めてみた。ネコが登場する『源氏物語』の「女三宮」に取材したものから、日本橋河岸をウロついていそうな野良ネコのたぐいまで、浮世絵には数えきれないほどのネコが描かれている。縄文期から現代にいたるまで、ネコがどうやって爆発的に全国へ繁殖・展開していったものだろうか? 大江戸の街角は、いまも昔もそこらじゅうネコだらけなのだ。

◆写真上:1770年代に描かれた豊春『菖蒲湯』。
◆写真中上は、春信『風流五色墨』(1766年ごろ)。は、湖龍斎『見立忠臣蔵七段目』(1780年ごろ)。は、歌麿『見るが徳栄花の一睡』(1801年ごろ)。
◆写真中下は、国貞『風流相生盡』(1831年)。は、国芳『鏡面猫と遊ぶ娘』(1845年ごろ)。は、国芳『艶姿十六女撰』(1850年ごろ)。
◆写真下は、国芳『妙でんす十六利勘降那損者』(1845年ごろ)。は、芳年『新柳二十四時』(1877年)。は、国周『錦織武蔵の別品』(1883年)。
おまけ:広重『名所江戸百景』(1857年)。
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ネコだらけの下落合にいるネコ。 [気になる猫]

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 以前、下落合753番地に建っていた九条武子Click!の邸をご紹介Click!したとき、彼女に抱かれているネコや庭先にいるネコが、いまの下落合をウロついているネコたちにそっくりだったのに驚いた記憶がある。おそらく、九条武子は邸内にネコを飼っていたわけでなく、庭先で付近のネコにエサをあげていた、いわゆる“外ネコ”たちが写っているのだろう。
 なんだか、現代の下落合にいる野良ネコたちに混じって九条武子が存在しているようで、不思議な感覚をおぼえたものだ。写真に撮られたネコの中には、九条邸のバッケ下にある野鳥の森公園で、親にはぐれてピーピー鳴いているところをひろった、いまわたしの家でふんぞり返っているメスネコにそっくりなやつまでいる。このネコは、おおよそ三毛ネコと虎ネコと黒ネコと白ネコの合いの子、つまり得体の知れない超雑種の日本ネコだと思うのだけれど、九条武子とともに写るネコたちも、みな得体の知れない下落合の雑種ネコたちだ。
 江戸期の下落合村から落合村へと変わった明治期も、九条武子がオバケ坂Click!の道筋に転がっている石を「子供が転ぶと怪我をするから」と、その名も“ネコ”を購入して整備していた大正期も、また周囲の夜空が真っ赤になった山手空襲Click!の昭和期も、下落合のネコたちはどこかへみんな集まって、あるいはどこかへ身を潜めては、日々営々とすごしてきたのだろう。これはネコばかりでなく、縁の下のタヌキClick!たちも同様だったにちがいない。
 九条武子が抱っこするネコが、いまもそのまま下落合で生きつづけているわけはないのだが、ネコという動物はどこか、そんな不滅感のある不思議な魔性を感じさせる動物だ。そういえば、この微妙な感覚をうまく表現した文章があった。1996年(平成9)に白水社から出版された、わたしの得意ではないショーペンハウワー『意志と表象としての世界』(有田潤・訳)から引用しよう。
  
 ----もしわたしがだれかに、この中庭でたわむれている猫は三百年前そこで同じように跳びはね、ずるく立ちまわった猫と同一のものだ、と真顔で断言しようものなら、その人はわたしを気違いとおもうであろう。わたしはそれを知らぬではない。がしかしまた、今日の猫が三百年前の猫と徹頭徹尾別物であるとおもうのはこれ以上に狂気の沙汰であることをも知っている。
  
 いま、この文章を書いていると、そばのクッションに寝ころんでいるネコが、ヒゲを前に向けてジッとこちらを見ている。なんだか悪口を書いているそばから、宝石のようなその眼で見透かされているように感じるのだが、このような人を突き放してクールに見すえる眼差しをもつところもまた、ほかのペットにはない、ネコならではの野性味であり面白さなのだろう。
九条武子ネコ1.jpg 九条武子ネコ2.jpg
 ネコは、なにかに怒ったり集中したりするとヒゲが前に出てきて、まるでレーダーのように対象物へと向けられるのだが、そのだいじな白いヒゲが床にボトンと落ちていることがある。手に取るとごわごわしていて、まるでバネか針金のような剛毛なのだが、どうやら季節に関係なく用済みになったら抜け落ちるものらしい。いくら抜け落ちても、ヒゲの数が減らないところをみると、何度でも繰り返しごわごわ生えてくるものなのだろう。
 メスのくせにヒゲがあるのもおかしいけれど、見ているとネコにとっては生活そのものを左右するとてもだいじな器官のようだ。『不思議の国のアリス』に登場する「チェシャ猫」は、身体が徐々に消えていくのに、最後まで口もと、つまりヒゲのある口まわりが消えずに残っているのも象徴的だ。このヒゲは非常に強靭だそうで、材料工学の世界では「ひげ結晶」と呼ばれているとか。ある条件のもとで実験をすると、鋼よりもはるかに強い耐性を記録するらしい。1984年(昭和59)に毎日新聞社から出版された、わたしの好きな楠田枝里子『気分はサイエンス』から引用してみよう。
  
 古典となっているジョン・テニエルの挿絵では、殆んど顔だけになったチェシャ猫に、立派なひげと大きに口が、ことさらに強調して描かれていました。それじゃ、にやにや笑いだけが残ったとは違うんじゃない? 追及は、なおも急で、お母さま方はあわてて話をそらします。/「ひげには三種類あってね、髭はくちひげ、鬚はあごひげ、髯はほおひげのことなのよ。猫のひげはどれかな」/でも、女性時代の習いなのか、このところ、ひげはとんと人気がありませんね。/そんななかで、昨今注目を集めているのが、ウィスカーという「ひげ結晶」です。別名、猫のひげ、とも呼ばれる、これは、極く細い線状結晶で、強さに特徴があります。 (後略)
  
 余談だけれど、ひょんなきっかけから楠田枝里子氏とは、四谷の喫茶店「オレンジ」(とうに閉店しただろう)で待ち合わせをして、1時間ほどお話をしたことがある。当時は、まだ日テレのアナウンサーをしており、石坂浩二とともに「おしゃれ」という番組を担当されていたように思う。
 わたしは、理工系の女子(年上なのでこういう言い方は失礼なのだが)とはほとんど話をしたことがないので、そのお話がかなり新鮮で面白かったのをよく憶えている。残念ながらネコにまつわる話は出なかったけれど、信州へコホーテク彗星を観測に出かけた話や、大学へ導入された機動隊に下の駐車場へ蹴落とされた話など、面白いエピソードをずいぶんうかがった。画家ではパウル・クレーがお好きなようで、特に美術や絵画のお話も強く印象に残っている。
春信「風流五色墨素丸」1766-68.jpg 豊国「当世やつし女三宮」1789-1801.jpg
 ネコが好きな人とキライな人とがいっしょになると、どうやら悲劇がどんどん拡大していくようだ。下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に、1941年(昭和16)から和館Click!を建てて住んでいた林芙美子Click!あてに、1975年(昭和50)に新潮社から出版された『三島由紀夫全集』第25巻所収の、わたしの好きでない三島由紀夫Click!が出した手紙から引用してみよう。
  
 林さんはどちらかというと、猫よりも犬の方がお好きのように拝察しますが、只今飼っておいでになりますか? 「美しい私の猫よ・・・・・・金と瑠璃の入りまじったおまえの美しい眼の光りに・・・」という詩句のためではないが並外れて猫好きの私が、このごろは猫運がわるくて、立て続けに二匹亡くしまして、近ごろの仕事部屋は寂しくてたまりません。あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、そんなことはばからしいと思っているので、あの小ざかしいそうな顔つき、きれいな歯並、冷めたい媚び、何ともいえず私は好きです。
  
 大のネコ好きだったらしい三島由紀夫と、むしずが走るほどネコが大きらいだった瑤子夫人、それに、だいじな息子から飼いネコを預かって、たいせつにかわいがっていた三島の母親も加わり、家の中は修羅だった様子がいまに伝えられている。
 ネコ好きが「トンデモナイ!」と思う歌に、『山寺の和尚さん』という作品がある。山寺の坊主が、毬を蹴りたくなったので、「♪猫を紙袋(かんぶくろ)に押し込んで~ ポンとけりゃニャンと鳴く~」というあれだ。ちなみに、この歌は童謡ではなく戦前につくられた「ジャズ」なのだが、音符が並ぶ楽譜が存在し、そのとおりに演奏しそのまま唄うのは、1940年代に起きたビ・バップ革命からモダンJAZZ以降の今日的な音楽概念からいえば、JAZZではなく歌謡曲ないしはポップスなので、当時の言葉でいえば流行歌と呼ぶのが正しいだろう。
 この『山寺の和尚さん』を、歌人たちがその性格とともに表現するとしたら、どのような文体になるのかをパロディで書いたのは、下落合4丁目2123番地に住み、あらゆる文学に精通していた作家・中井英夫Click!だ。思わず噴きだしてしまう一節を、1975年(昭和50)に潮出版から刊行された、わたしの好きな中井英夫Click!の『増補新版・黒衣の短歌史』から引用してみよう。
  
 声色にならって、Λ山寺の、と参りましょう。ハイ、ヤマデラノ・・・・・・
 斎藤茂吉 山寺の和尚は毬が蹴りたいのである。しかるに毬は見当らぬ。即ち毬は蹴りたいけれども毬はないといふことゝなつた。余としても不本意に堪へぬのであるが、今の状態では諦むるより仕様がない。さうではあるまいか。
 窪田空穂 山寺の和尚は毬が蹴りたかつた。これは恐らく非常なものであつたと思はれる。毬を蹴りたいと思ひながら毬を求むることが出来ない。これは我々にも経験のあることで、私自身についていへば、さびしい、いやな、味気ない思ひのするものである。
 斎藤史 和尚は毬が蹴りたかつたのでございます。山寺では無理もなかろうつて? ごじょうだん。山寺と申すところは、それほど味気なくはございません。猫もをります。紙袋もあります。猫を紙袋につめれば、そのまま毬の代り----とんでもございません。猫は生きて、をります。生命の火を燃やしてをります。ぽんと蹴ればにやんと鳴くのでございます。
 阿部静枝 山寺の和尚はまりを蹴りたく、まりがないので猫を見つけた。紙袋につめてポンと蹴り、蹴ってニャンという。こうして遊ぶ姿は自然にかなっているが、これでは猫が可哀想ではないか。(中略)
 宮柊二 和尚は山寺で孤独であつた。朝のお斎をいただいてしまふと、和尚には一日が切なく、やりきれなかつた。和尚の坐つてゐる縁側にも淡い日あしがのびて、それは疲れた人の呟きの様に弱々しかつた。和尚はその時はじめて鞠を蹴らうと思ひついたのである。
  
 中井英夫のパロディは、引用するとキリがないのでこのへんで・・・。
国芳「艶姿十六女仙豊干禅師」1848-54.jpg 広重「浅草田圃酉の町詣」1857.jpg
 下落合の南、大久保百人町Click!に住んだ寺田寅彦Click!は、「私は猫に対して感ずるような純粋な温かい愛情を人間に対して懐く事の出来ないのを残念に思う」と『子猫』(『寺田寅彦全集・第2巻』岩波書店)に書いた。ネコ好きの人は、ときに人に対しては冷たく、あまり優しくないのもまた事実なのだが、人間のごく近くにいながら、どこかいちばん遠いところにいる存在のようなネコだからこそ、人は気がおけず気が向いたときに気疲れせず、安心してかわいがれるのかもしれない。

◆写真上:ときどき舌をしまい忘れていることがある、うちのわがままなメスネコ。
◆写真中上:九条武子とともに記念写真へ収まる、下落合の“外ネコ”たち。
◆写真中下は、1766~68年(明和年間)に制作された鈴木春信『風流五色墨』のうち「素丸」。は、1789~1801年(寛政年間)に刷られた歌川豊国『当世やつし女三宮』。
◆写真下は、1848~54年(嘉永年間)の歌川国芳『艶姿十六女仙』のうち「豊干禅師」。は、1857年(安政4)制作の安藤広重Click!『名所江戸百景』のうち「浅草田圃酉の町詣」。


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化けネコは温泉旅行に出かけるか。 [気になる猫]

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 先日、ご先祖が日本橋浜町にお住まいだったTigerkidsさんClick!より、発情期のネコがうるさいといって、空気銃で撃ち殺したお祖父様のエピソードをうかがった。そうしたら、わたしにも子どものころに銃の記憶があるのを思いだした。おそらく、幼稚園に通っていたころの出来事だろうか、祖父が庭で空気銃をかまえてスズメを撃ち落としたのだ。
 おそらく戦時中あるいは敗戦直後の、食糧難の時代が話題になっていたのだと思う。おふくろが、祖父の家(つまり実家)の生垣だったマサキの芽を、「つませてください」といって訪ねてきた母子の話を、「かわいそうだったわね」としていたのを憶えている。そして、スズメがご馳走の時代だった・・・というような話題になっていったのだ。「スズメって美味しいの?」と、わたしが訊ねたのだろう。「ああ、美味いよ。ちょっと待ってなさい」といって、祖父は床の間近くに置いてあった刀箪笥の最下段から、いきなりライフル銃(子どもにはそう見えた)を取りだしたのだ。
 西部劇でしか見たことがないようなライフル銃(実は空気銃なのだが)を、布の袋からスッと取りだすと、祖父は盆栽が50鉢以上は並べられた、それほど広くはない庭へと下りていった。わたしも庭へ出たのだが、祖父は鉄砲をかまえたまま空のあちこちに銃口を向けるだけで、なかなか発射しようとはしなかった。子ども心にも、まさか、こんな街中の住宅街で撃ちゃしないだろうと、どこかでタカをくくっていたのだが、5分ほどしてパーンと乾いた音とともに、スズメが屋根から軒下へ転がり落ちてきた。祖父はそれをひろうと、わたしの手に持たせてくれた。手のひらが、生温かい感触とともに血だらけになったのを憶えている。
 空気銃といっても、今日のBB弾が飛びだすエアーガンとはまったく異なり、充分に殺傷力のあるものだ。当時から銃刀法の規制対象になっていて、ときどき警官が立ち寄っては銃や刀剣の保管を確認していく巡回が行なわれていた。刀剣は、現在のように地域の教育委員会・文化財担当の管轄ではなく、いまだ所轄の警察署が管理する時代だった。祖父の家によくやってきた初老の巡査は、職務にことさら忠実だったわけではなく、自身も刀剣が趣味なので上がりこんでは、祖父と1時間ほど話しこむこともめずらしくなかったらしい。
 さて、スズメの羽をむしって料理してくれたのは伯母なのだが、戦争中にやむをえず調理のしかたをおぼえたのだろう、手馴れた様子だった。伯母は、スズメの唐揚げを作ってくれたのだが、これがビックリするほど美味かった。しつこい脂がなく、フライドチキンよりも数段美味だ。丸ごと焼いて、フルーツソースを添えても美味いだろう。いまでは飲み屋で、骨ごと香ばしく食べられるスズメの唐揚げは、それほどめずらしいメニューではないけれど、確かに戦中戦後の食糧難時代を考えれば、スズメはたいそうなご馳走だったにちがいない。その後、「こんな住宅街のまん中で、鉄砲を撃たないでちょうだい!」と、祖父が近隣から抗議を受けたかどうかはさだかでない。
松谷みよ子「異界からのサイン」2004.jpg 安藤広重「にゃん喰渡り」1842.jpg
 さて、ちょっとこじつけめいているのだけれど、日本橋浜町で撃ち殺されたネコは、その後、化けて出やしなかっただろうか。もっとも、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、東日本橋Click!(薬研堀界隈Click!)ともども焦土と化してしまった一帯なので、人々の恨みや口惜しさの念のほうがひしめいて、ネコのお化けも戦後は出にくかっただろう。
 化けネコというと、すぐに四世南北の芝居『独道中五十三駅(ひとりたび・ごじゅうさんつぎ)』(岡崎の猫)や、『花野嵯峨猫魔稿(はなのさが・ねこまたぞうし)』(鍋島化け猫騒動Click!)などが有名だが、ネコが化けるのは、なにも江戸期に限らない。全国の民話を蒐集してまわっている、松谷みよ子の『現代民話考』(全12巻/筑摩書房)にも、たくさんの「化け猫」に関するフォークロアが採取されている。夏なので、今日まで語られつづけている化け猫の怪について、取り上げてみたい。21世紀の現代、実は日本全国のあちこちで、いまだ化け猫は口承されているのだ。2004年(平成16)に筑摩書房から出版された、松谷みよ子『異界からのサイン』より引用してみよう。
  
 渡辺さんは猫が大好きで、五、六匹はいつもいたが、みんなよく人のいうことを聞き分ける利口な猫だったという。/ある日、その中のタマという雌猫が前足に怪我をして戻ってきたが、次の日には姿を消し、何日か経っても帰らない。/死ぬときは姿を隠すというから、どこぞで死んでいるのではと案じていると、ひょっこり戻ってきた。足の怪我も治って元気になっている。/「どこへ行っていたのタマは。すっかり元気になってよかったね」/渡辺さんはタマを抱きあげて言ったが、タマはニャアというだけだった。/ところが追いかけるように、月岡温泉から、「宿泊料請求書」が届いた。/宛名は「渡辺タマコ様」で、不審に思って宿に問い合わせると、渡辺タマコ様は色白のとてもきれいな女の人で、いつもからだごとお湯には入らず、手だけひたしていました。ということだった。/この話は昭和二、三(一九二七、二八)年ごろのことだという。久美子さんのお母さんは、小学生のころ、祖母のハナさんからこの話を聞かされていたそうである。/猫が人間に化けて湯治に行った、などという話は、この一つだけだろうと思っていたら、なんとまだあった。
  
三代豊国「東駅いろは日記」1861.jpg
歌川国輝「東海道岡部宿猫石由来之図」.jpg
 上記の怪談は、生きているネコが人に化けた例だけれど、死んだネコがやってきて「いま、死んだみたいだニャー」と、エサをくれた家に知らせにくる律儀なネコ霊の話もある。化けて出たというよりは、霊になってさまよい歩いたということだろうか。やはり雌ネコなので、どうやら化け力や霊力は、雄ネコよりも雌ネコのほうが高いらしい。再び、同書より引用してみよう。
  
 小平次という猫がいた。交通事故で下半身をやられ、からだは曲り、片目で、それでも生き抜いた。その姿が何度殺されても生き返る怪談の「小幡小平次」のように思われて、小平次と名をつけた。しかし、年とともに垂れ流しのあわれな姿になって、ベランダの外へくる。エサをやるとなかに入りたがる。「ダメ」というとじっとガラス戸の外で我慢している。いわゆる外猫だった。/しばらく姿を見せなかった。大家の娘さんがからだをふいてやったりしていたので、そこで暮らしている安心して忘れるともなく忘れていたが、ある日の明け方、優子さんの夫、明彦さんは、すさまじい叫び声にとびおきた。/「小平次がきた、小平次がきた」/と、優子さんが叫んでいる。それもぎゃーっという叫び声をともなっていたから、電気をつけたが猫などいるはずもない。戸はぴっちり閉まっている。/大家の娘さんにきくと、/「小平次は死にました」/といった。優子さんが叫び声をあげたその時刻だった。白と茶の、雌猫だったという。
  
 ネコは、人間のもっとも身近にいる動物にもかかわらず、日本では十二支などなんらかの役割りを背負った動物としては規定されず、位置づけられてはこなかった。だからだろうか、ネコはあらゆる役目から自由であり、気ままであり、ニャンともやりたい放題なイメージが古くから形成されてきている。同様に、人間のごく近隣で棲息しながら、気ままで自由な生活をしてきたキツネやタヌキもまた、よく化けては人を驚かせてくれるのだ。でも、人間から強い役割りを背負わされた動物たち、イヌや馬、牛、ときに猿などは、あまり化けた話を聞かない。人の近くで暮らしていながら、人のことなどおかまいなしに生活できるところに、きっと“化け力”が育まれる秘密があるのだろう。
フェニックス小島1924.jpg 小島善太郎「猫の話」.jpg
 現代の落合地域は、ネコにタヌキと化け動物がたくさん棲んでいるけれど、いまだ化けネコも化けダヌキの話も聞かない。なんらかの切羽つまった状況、あるいは危機的な事態に直面しないと彼らは化けないとすれば、とりあえずは満足な暮らしをしている・・・ということだろうか。下落合では、佐伯祐三Click!一家がフランスで化けネコに遭遇し、小島善太郎Click!が経緯を記録している。

◆写真上:「ニャンか用なのかニャ?」とでかい態度の、うちにいる雑種の下落合ネコ。
◆写真中上は、2004年(平成16)に出版された松谷みよ子『異界からのサイン』(筑摩書房)。は、1842年(天保13)に制作された安藤広重の版画『にゃん喰渡り』。江戸期に大橋界隈の見世物小屋で流行った「乱杭渡り」をもじったもので、ネコが杭ならぬ鰹節をわたっている。
◆写真中下は、1861年(文久元)に歌川国貞(三代豊国)が制作した役者絵『東駅いろは日記』。は、嘉永年間に歌川国輝が描いた芝居絵『東海道岡部宿猫石由来之図』。
◆写真下は、1924年(大正13)にフランスの社交界で上演された舞台で“フェニックス”に変化(へんげ)した小島善太郎。は、フランスから帰国後に小島善太郎が記録した『猫の夢』の生原稿。佐伯祐三は、「化け猫」ではなく「猫のおばけ」Click!と表現していたのがわかる。


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ネコの身体にトラネコの痕跡を探す。 [気になる猫]

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 謹賀新年
 今年は、1950年(昭和25)以来の寅年(庚寅:かのえとら)ということで、突然だけれどうちの♀ネコClick!の身体に残る、トラネコの痕跡を意味もなく探してみたい。うちのネコは、下落合の野鳥の森公園に棄てられていたのを拾ってきた、純粋な日本の血統書なし正真正銘Click!の野良雑種ネコだ。2001年(辛巳)の初夏に生まれたようだから、いま満8歳ということになる。
 九条武子邸Click!の庭先で餌づけされてかわいがられ、曾宮一念Click!のアタマを抱えさせ、ひょっとすると佐伯祐三Click!一家とともにパリ郊外のクラマールまで、三味線を弾きに憑いていき夢の中に化けて出たClick!かもしれない、地付き下落合ネコの40代ほど経過した末裔なのだ。
 さて、まず目につくのが両眼のすぐ上の額正面にある、キジトラ(黒トラ)の模様。この模様のせいで、まるでアタマの上にセンター分けの髪の毛があるように見えるのだ。それから、頭部から顔の横へとつづく右頬のやはりキジトラ模様は、歌舞伎の「曾我五郎十郎」の隈取りのような、あるいは新幹線が横揺れして手元が狂い、アイラインを引き損なった(右頬にはみ出してしまった)、出張中のビジネスウーマンみたいな様子をしている。
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 次に目立つのが、これまたキジトラ模様がブチッと入った右足の太腿。白毛が大半の胴体に、なぜかここだけキジトラの植林があり、遠目で見ると太腿にタトゥーを入れた、壷振りのお姐さんのような風情なのだ。そして、最後に大々的なトラ模様が入っているのが、壷振りのお姐さんには見られないシッポ。その模様は複雑で、茶トラとキジトラとが織りなす複雑な合いの子模様をとなっていて、まさに雑木林のような状況だ。さすがに、武蔵野で育った純下落合ネコの系譜なのだ。
 以上、全身で4ヶ所のトラ模様が入ったうちの♀ネコは、高い声を上げる若い女の子が大の苦手で、「キャーッ、超かわいー!」とか「わーっ、ニャンコだぁー!」とかの黄色い声を上げて不用意に近づこうものなら、シャーッと威嚇音を出して毛を逆立て、手を出せばガブッClick!と噛みつかれてたちまち血を見ることになる。ご機嫌がナナメだと、なぜか飼い主のわたしもとばっちりを受けて噛みつかれ、ときどき出血することもあるから、彼女のご機嫌をとるのはけっこうたいへんだ。
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 プライドが高く、魚介類はアジ(マアジは食べるけどムロアジは食べない)、サケ(マスは食べない)、マグロ(カジキは食べない)、カツオ、ホタテの貝柱の5種類しか食べず、カニとシラス(無塩)と鈴廣のカマボコを少々、気が向けばちくわとバターをほんの少し・・・という具合で、他の魚や魚介加工品はいっさい受けつけずに埋めるという、到底ネコとは思えない嗜好をしている。それに、なぜか和菓子の和三盆で煮た小豆と、天津甘栗をほんの少しだけ味見するのが好きらしい。
 隣家の大きなゴールデンレトリバーが「ワンッワンッ!」と近づくと、窓の内側でそっぽを向き「おまえニャンか、相手にできないニャン」と知らん顔で無視しているけれど、たまにタヌキが路地を歩いたりすると、「おまえは誰ニャン!?」ととたんに大きな声で鳴いて呼び止めようとする。
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 もちろん、タヌキはネコなどハナから相手にしていないので、さっさと近所の畑へ向かって歩き去るのだが、しばらくの間、彼女は「タヌキがいたニャン! あんたも見たニャン?」と家じゅうにニャーニャー触れまわるので、タヌキが近くに来ていることを知ることができるのだ。

■写真上:額に入ってるキジトラ(黒トラ)模様で、ちょうど真ん中に白い分け目がある。
■写真中上が、右頬に入るキジトラの隈取り。が、右太腿に入るキジトラのタトゥー風植林。
■写真中下:シッポの表裏へ縞々状に残る、ご先祖ネコたちのキジトラと茶トラの密な痕跡。
■写真下は、シッポの先端。は、下落合♀ネコの全身像。


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