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山岳は遠きにありて愛でるもの。 [気になる下落合]

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 室生犀星Click!は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠じたが、その伝でいえば「ヒグラシは遠きにありて愛でるもの」ということになるだろうか。遠くの森や山の中で、暮れなずむなかカナカナカナ……と静かに響く合唱を聞くと、どことなくうら寂しくしみじみとした晩夏の気分にさせてくれるけれど、早朝の5時前後から、寝室のすぐ裏に生える樹木で「カナカナカナ! これでもカナカナカナ!」などと怒鳴られては、朝っぱらから殺意をもよおすほどの騒音だ。
 今年の夏は、ことのほかセミが多く、9月下旬になってもアブラゼミとツクツクボウシは鳴きやまなかったけれど、山々でもセミたちの声は例年になくかまびすしかったのではないだろうか。少し前の記事Click!にも書いたが、わたしはなんとなく薄気味の悪い山岳よりも、精神をデフォルトにもどしてくれて弛緩でき、気が許せる海Click!のほうが好きなので、大人になってから向かう先は海のほうが圧倒的に多かった。
 ところが、古いアルバムを整理していて気づくのだが、そこに貼られて残された写真類を見ると、親父Click!は若いころから圧倒的に海よりも山、それもアルプス級の標高の高い峰々が好きClick!だったらしい。山の写真は、親父の年齢を問わず多く残されているけれど、海の写真は千代田小学校Click!の高学年に、千葉県勝浦の興津海水浴場へ出かけた臨海学校Click!のみしか見あたらない。東京大空襲Click!で実家にあったアルバム類が焼け、そもそも写真があまり残っていないせいもあるのだろうが、ひょっとすると戦前から戦後にかけて若い子たちの間では、熱狂的な登山ブームでもあったものだろうか。
 当時のそんな山好きの若い子なら、必ず読んでいた本の1冊だと思われるものに、1942年(昭和17)に大新社から出版された大泉黒石Click!『山の人生』がある。日本の文学界や、その息のかかった出版社からは悪意にもとづき“ウソつき”呼ばわりされて意図的に排除され、昭和10年代以降はおもに日本の山岳や、山々の温泉場に関するルポルタージュを書いていた大泉黒石Click!だが、同書の中に山の怪談を記録した一文が掲載されている。
 『谷底の絃歌』と題されたノンフィクション(ほんとにあった怖い話)は、日米戦がはじまる前後に大泉黒石が尾瀬沼の帰りに、群馬県の片品川渓流沿いにある老神温泉に逗留した際、道連れになっていた登山家から聞かされた話だ。当時もいまもある、大旅館「白雲閣」の温泉につかりながら、怪談の口火をきったのは黒石だった。このころの黒石は、文学界から締めだされたあと、ようやく“山岳旅行作家”としての執筆活動が軌道に乗り収入も安定してきてきたのか、大きな旅館へ宿泊する余裕があったようだ。
 『山の人生』(大新社/1942年)を底本とする、2017年(平成29)に山と渓谷社から出版された東雅夫・編『山怪実話大全岳人奇談傑作選』より、同作から引用してみよう。
  
 (黒石の怪談)あれから沼山峠を越えて東へ一里の山中に、矢櫃平といって、摺鉢の底みたような熊笹の原がある。ここは源義家に追われた安部惟任一族が、はるばる奥州から利根へ逃げ込むときに、矢櫃、鎧櫃などを埋匿したというので、矢櫃平の名称があるんだそうですがね。不思議なことには、只今でもこの笹原に足踏入れると、方角の見当がつかなくなって、立往生する。御承知の通り、山の中で頼りになるものは地図でしょう。それがですよ。持っている地図の文字や線が消えてしまって、いつの間にやら、白紙になっている。だから何方へ行ったらいいか、サッパリわからず、迷いに迷いながら、やっとのことで笹原を脱出て見ると、その白紙が、また、いつの間にやら元の地図になっているんだそうです。(カッコ内引用者註)
  
 安部惟任一族の話は、「やびつ=矢櫃」地名へ辻褄をあわせるための後世の付会だろう。安部一族が、わざわざ奥州からより障害や敵対勢力が多そうな、関東へと落ちのびてくるなど考えにくい。落ちのびるとすれば、奥州の南ではなく北だろう。
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 また、登場している「やびつ」の由来だが、神奈川県の丹沢山塊にもヤビツ峠という名称が存在している。もちろん、「矢櫃」の伝説などとは無縁で、当てはめる漢字も不明のため昔からカタカナで「ヤビツ峠」と表記されたままだ。いまでは、丹沢登山やキャンプ場へと向かうターミナル的な起点になり、休日にはかなり賑わう峠になっている。
 ちょうど、丹沢山塊のどこへ向かうにもおよそ都合がいい、少し開けた感じのする峠の空間(路線バスも通う)なのだが、ヤビツとは「ヤ・ピト゜」が転訛した原日本語(アイヌ語に継承)ではないかと疑っている。「ヤ・ピト゜」とは「神々しい丘」あるいは「(尊称としての)丘(山)様」というような意味になる。
 大泉黒石は、この怪談を事前に知っていたら、尾瀬を訪ねたついでに矢櫃平へ足をのばすのだったと残念がっているが、山にいる樵夫や炭焼きの話によれば、この現象はまちがいなく安部一族の幽魂のなせるワザなのだそうだ。ひょっとすると、地図の細かな文字や線が見えなくなるのは、登山による過度の疲労からにわかに低血糖症となり、視力に異常をきたして手もとのモノが見えづらくなっていたのではないだろうか。そうまともに解釈しては、せっかくの怪(あやかし)なのに身もふたもないのだけれど。
 さて、黒石の怪談に対し、途中から山の道連れになっていた登山家は、もっと怖い話を語りだしている。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 私の知っている山の温泉宿の二階座敷に、近ごろ女の幽霊が出たり、真夜中になると、床の下から嬰児の泣声がきこえる、という噂が立ったんです。(中略) 噂は段々ひろがって、その土地の新聞にまで書立てられるほど、有名になった。温泉宿の人達の話によると、その温泉宿は、もと部落の者の墓地だったところへ建てたんだそうで、墓地の持主の娘が旅商人の胤を宿して、女の子を生んだ。父親が怒って嬰児を里子に出して終った。娘は気が違って淵に身を投げて死んだ。父親は家をたたんで他国へ行っちまった。その家と墓地を無代同様に買ったのが、温泉宿の主人で、墓地のそばに温泉が湧いているもんだから、墓地を取払って宿屋を建てたんですな。(中略) 世間には物好が多いから、こいつァ面白い、嬰児の泣声なんざ、聞えなくってもいいが、別嬪の幽霊にはお目にかかりたいもんだ、というわけで、温泉の効果なんか何うでもいい連中が、どしどし押しかけていく。
  
 こちらのほうが、因縁が多少ハッキリしているので怖い話だろう。里子に出されたはずの、嬰児の泣き声が床下から聞こえるのは、実は里子に出したことにして父親が村人に知られぬよう、秘密でナニしてるのではないか?……とか、小野不由美の『残穢』Click!(新潮社/2012年)的な不気味さや気持ちの悪さすら漂っている。
 女の幽霊が、知らないうちに「別嬪」化されているのはちょっとひっかかるけれど、ひそかに流した「別嬪」な女幽霊のウワサが各地からの宿泊客を万来させる、温泉旅館によるステルスマーケティングの成功例とみてまちがいないのではないか。これで温泉街に置き屋でも備われば、男性客をターゲットにした街の振興プロモーションは大成功となる。“座敷わらし”効果の「別嬪」幽霊版と考えれば、あながちピント外れでもなさそうだ。地元の新聞に“怪異”をリークしたのは、実はこの旅館の関係者だった可能性が高い。
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 現在では、「事故物件」へ泊まりたがる物好きや、検証型or肝試し型のYouTuberのために、いわくつきの客室をネットでリリースしている旅館やホテルも多いようだ。経営側にしてみれば、幽霊が出ようが出まいが知ったこっちゃないわけで、「別嬪」幽霊が出なくても「たまたま日が悪かった」とか、「彼女との相性が悪かった」とか、「泊まる前に寺社に参ったのがいけなかったんだ」とか、「もともと霊感がないからかも」とか、「自分は気が強いから出にくいんだろう」とか、自ら勝手な理屈をひねりだしては諦めて帰っていくだけだろう。そんなことで、なかなか予約が埋まらない“わけあり部屋”が回転するのであれば、経営者としては御の字で願ってもない客筋となるわけだ。
 登山家が語った温泉宿は、連日「満員の盛況です。逆宣伝も巧く当ると此の通り」と、やはり温泉宿によるステルスマーケティングを疑っている。また、安部一族の呪い譚も、勝手に私有地の山へ入りこむ「登山家よけの禁厭に、地図が白紙になるなんて、途方もないことをね」と、登山家はハナから信用していない様子がうかがえる。
 だが、この理屈っぽい登山家でも、まったく説明不能な出来事に遭遇している。同じく上州の四万温泉から入りこんだ、雨見山の深い谷間で道に迷い、日が暮れてしまったので山の斜面でたまたま見つけた、廃墟のような小屋で一夜を明かすことになった。
  
 夜中に目が醒めると、何うでしょう。宵会の座敷で芸者が、三味線ひいて唄い騒ぐような賑やかな物音が、真暗い谷底から聞えて来るじゃありませんか! この山奥に料理屋でもあるまいし、不思議に思って聞いているうちに、賑やかな音はパッタリ絶えてしまった。
  
 翌朝、近くの掛茶屋に寄ったので昨夜の経験を話すと、茶屋の爺さんが36年前の出来事を教えてくれた。雨見の谷には、もともと賑やかな炭焼き部落があり、越後三俣からきた5人の芸者が住みついて紅灯の店を出していたという。だが、谷間の大雪崩に家ごと巻きこまれ、芸者5人は全員が建物とともに流され全滅してしまった。深夜になると、谷底から聞こえてくる三味線や唄声は、惨死した女たちの亡霊のしわざだろう……とのことだった。
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 くだんの登山家も、自分が現場で直接体験していることだから説明がつかず、思わずゾッとしたのだという。これだから、山岳には不可解で得体の知れないモノが棲みつき、うごめいているような感じがつきまとうので苦手なのだ。わたしは、やっぱり海のほうがいい。

◆写真上:おそらく北穂高の細い尾根筋から、親父がカメラを北に向けて撮影したとみられる「アルプス銀座」(北アルプス)の峰々。1949年(昭和24)の撮影で、右手には当時はまだ名づけられていなかった「ゴジラの背」Click!が見えているはずだ。
◆写真中上:大泉黒石と同じく、上州での山歩きで親父が1943年(昭和18)ごろに撮影した山岳の写真。は、岡本あたりの山から向かいの山々を望んだ風景。は、明らかに手前が妙義山で奥が浅間山とみられる。は、榛名山方面だろうか。
◆写真中下は、1949年(昭和24)に親父が喜作新通りから燕岳とみられる山をとらえた写真。は、尾根筋から穂高連峰をとらえたとみられる写真。は、同時期に槍ヶ岳の容姿からしておそらく東鎌尾根の尾根筋より西を向いて撮影した峰々。戦後間もないこの時期、親父は北アルプスを次々と制覇しようとしていたように思える。
◆写真下は、1941年(昭和16)に箱根の大涌谷あたりで撮影されたとみられる写真。もちろん当時はロープウェイなど存在せず、すべて足による登攀だったろう。は、明らかに東京府立三中(現・両国高校)の制服姿をした生徒たちのパーティが、箱根の駒ヶ岳付近を登攀中の姿をとらえたもので親父もこの中にいたのだろう。下左は、1942年(昭和17)に出版された大泉黒石『山の人生』(大新社)。下右は、同書の『谷底の絃歌』が収録された2017年(平成29)出版の『山怪実話大全岳人奇談傑作選』(山と渓谷社)。
おまけ1
 戦後撮影の1枚で、上高地の小梨平あたりだと思われるが、キャンプにもよく出かけたものだろうか。三角巾にショートパンツ、ハイソックスの野営炊事係らしいとてもかわいい女子が、丸太をわたした梓川とみられる岸辺に写っているが、ちなみに母親ではない。(爆!)
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おまけ2
 苦労して山頂付近まで登攀すると、ミニスカートにパンプスの女子たちや走りまわるガキどもに、杖をついた老人までがいて、「いままでの苦労はいったい何だったんだ!」と愕然とする、同じく北アルプス南端の乗鞍岳。だから、山はイヤなんだよね(ちがうか)。
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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。国破れて山河ありというのが、敗戦後の心境であったのかと思います。ウクライナにロシアが侵攻し、いままたイスラエルとアラブ諸国が事実上戦争に突入しています。こんな状況で株価がバブル後最高値とは、、なにかがおかしいのではないかと考えます。
by pinkich (2023-10-14 19:29) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
確かに過酷で悲惨な激動の敗戦があったにもかかわらず、山に登ればそこには少しも変わらない日本の自然が横たわっていた……という感慨は湧いたんじゃないかと思います。どこかで戦争が勃発すると、あるいは戦争が拡大すると軍需を見こして株価が上がるという、戦前戦後に見られた日本の景況をいやでも想起してしまいますね。
by ChinchikoPapa (2023-10-14 20:52) 

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