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山登りは晩秋がいちばんという話。 [気になる下落合]

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 子どものころから多彩な山々に登ったけれど、この山は「素晴らしかった!」というようなのは特にない。もとより、わたしは海辺Click!のほうが向いている人間だからだろう。海には気がゆるせるが、山には得体のしれない不気味さClick!を感じるからかもしれない。だが、親父は山のほうがよかったらしく、わたしを山歩きClick!によく連れだした。
 身近なところでは鎌倉から三浦半島、箱根連山、大山、丹沢山塊、足柄、はては富士山や日本アルプスまで、さまざまな山々へわたしを連れていってくれたが、親父が海へ向かった回数は少ない。ひとりで行動できるような年齢になったとき、わたしが向かった先は山ではなく近くの海や、日本各地の海辺だった。山は、確かに体力や忍耐力がつくし、達成感や充実感が湧くし、めざす山頂からの眺めは素晴らしいのだが、根がめんど臭がりでいい加減なわたしには、“ただそれだけ”のように感じるのだ。
 海に浸かって感じるような、心身ともにリラックスさせてくれ、心や精神をデフォルトにもどしてくれるような深い魅力を、わたしは残念ながら山に感じることはついぞなかった。ただ、これまでさまざまな山に登ってきて、山道に見られる山岳植物や昆虫、動物などの名前を憶えるのは知識が拡がって面白いし、ときに地層がむき出しになった崖から化石を採集Click!するのも楽しいし、山で野営地を整備してテントを張り、焚き木を集めながら飯盒炊爨をするのも魅力的なのだが、よく考えてみればそれらの行為が楽しいのであって、別にことさら“山”でなくてもいいことに気づくのだ。
 子どものころ、親に連れられて出かけた山は、おそらく危険がないようにということでほとんどが夏山だったが、確かに山の植物に花が咲き、昆虫や動物が数多く見られるのは夏場だから、それにまとまった休みがとれるのは夏休みだから、わたしの好みや都合にあわせてくれたのだろう。低山の植物だが、ウラシマソウClick!とそれによく似たマムシグサに興味をもったのも、夏山のハイキングだったように思う。神奈川県の低山には、これらの山草がよく生えているが、同時にその名のとおりマムシにもよく出あった憶えがある。
 ハイキングで山道を歩いているとき、近くにいた女子たちがフリーズして無言になるのは、たいがいその先にヘビがとぐろを巻いていることが多かった。シマヘビやヤマカガシなら、大きな動物(人間)の気配を感じればたいてい逃げるが、マムシは警戒してその場で動かなくなるし、アオダイショウClick!は昔から人と共存してきた経緯が記憶された遺伝子から、他のヘビほど人間を警戒したりはしない。だから、女子たちの先にいるのは、たいていマムシかアオダイショウだった。アオダイショウClick!なら、「かわいいね」(爆!)といってその横をスッと通りすぎればそれだけだが、マムシは落ちている木の枝かなにかで草むらへ追いやってからでないと、安心して歩けなかった。
 ちょっと余談だが、千代田城Click!のお濠端にある歩道の柵には、ときどきシマヘビがからまって日向ぼっこをしていることが多く、歩道を歩いていた昼休みでランチの女子たちが「ギャーーッ!」といって血相を変えながら逃げていくという話を、何度か聞いたことがある。いちばん耳にするのは、九段下から番町あたりの内濠だが、市ヶ谷から四ッ谷にかけての外濠にもいるのだろうか。都会に住んでいるシマヘビは、クルマの騒音がうるさかろうが、女子たちClick!が悲鳴をあげながらすぐ近くを走りぬけようが、すでに環境適応してしまったのか逃げないらしい。日光浴で暖まりながら、「うるささヘビー級の女たちだ」とでも思っているのかもしれない。
 いつごろから、親たちがわたしを山に連れていってくれるようになったのか、ハッキリした記憶がない。いちばん最初に記憶している、というか苦しかった地獄のような山は、箱根の旧・東海道(箱根旧街道)を歩いたことだ。おそらく、小学校の1年生ではなかったかと思う。夏に出かけたのだが、箱根の山上は涼しかったらしく暑さの記憶はない。当時、箱根旧街道はほとんど江戸期のままの姿をしており、現在のようにきれいに整備などされていなかった。箱根湯元から歩きはじめ、元箱根の芦ノ湖畔へと抜ける山道だが、つづら折りの山道が多々あるので総距離は10kmをはるかに超えていただろう。しかも、滝廉太郎が詠うように「箱根の山は天下の剣」で、箱根外輪山はほとんどが急峻な坂道のコースなのだ。
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 江戸期から石畳は敷かれていたが、とんでもない急坂を登りつづけ下りつづけ、途中で弁当を食べて大休止はしたと思うのだが、およそ10kmほどは歩いたとみられる甘酒茶屋で、わたしはついにダウンしもう歩けないと泣きだした。「足が棒になる」という喩えがあるが、脚の感覚が鈍くなって自分の思うように動かせなくなるほど、6歳のわたしにはきつい山歩きだった。その当時、甘酒茶屋を切り盛りしていたお婆さんが、甘いものを飲ませればすぐに治るといって、わたしはオレンジジュースとコーラ(チェリオClick!だったか? 炭酸飲料)を飲んだ憶えがある。考えてみれば、急峻な旧・東海道が通う箱根の山道に、なぜ江戸期の大昔から“甘酒”の茶屋があるのかよくわかるエピソードだ。
 そこで1時間ほど休み、甘いものを飲みつづけたせいだろうか、しばらくすると体力が回復し、箱根関所のある元箱根まで出ることができた。いまの整備がゆきとどいた箱根旧街道ではなく、1960年代ごろは江戸期そのままの道筋であり、おそらく総距離にするとゆうに12~13kmはあったと思う。そんなけわしい山道に、6歳の子どもをつれていく親も親だが、わたしにとって箱根連山は大山や丹沢山塊よりもキツイ山々として強烈に印象づけられている。もっとも、クルマのドライブルートで箱根に出かける人たちには、この山々のほんとうのけわしさはわからないだろう。
 子どものころから、夏山ばかりを登った記憶が多いが、大人になってからのわたしは秋に登る山が好きだ。それも樹々が色づいたころではなく、紅葉があらかた散ってしまった晩秋か、初雪がチラつきはじめる初冬の登山が快適で気持ちいい。
 穴八幡の下宿から、目白崖線を上って下落合の丘をよく散策していたらしい若山牧水Click!も、同じようなことをいっている。1925年(大正14)に改造社から出版された、若山牧水『樹木とその葉』収録のエッセイ「自然の息自然の声」から引用してみよう。
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 私はよく山歩きをする。/それも秋から冬に移るころの、ちやうど紅葉が過ぎて漸くあたりがあらはにならうとする落葉のころの山が好きだ。草鞋ばきの足もとからは、橡(トチ)は橡、山毛欅(ブナ)は山毛欅、それぞれの木の匂を放つてゞも居る樣な眞新しい落葉のからからに乾いたのを踏んで通るのが好きだ。黄いな色も鮮かに散り積つた中から岩の鋭い頭が見え、其處には苔が眞白に乾いてゐる。時々大きな木の根から長い尾を曳いて山鳥がまひ立つ。その姿がいつまでも見えて居る樣にあらはに明るい落葉の山。/それも余り低い山では面白くない。海拔の尺數も少ない山といふうちにも暖國の山では落葉の色がきたない。永い間枝にしがみついてゐて、そしていよいよ落つる時になるともううす黒く破れかぢかんでゐる。一霜で染まり、二霜三霜ではらはらと散つてしまふといふのはどうしても寒国の高山の木の葉である。(カッコ内引用者註)
  
 わたしは、晩秋に歩く高山もいいが、周囲の見晴らしがきく低山でも楽しい。紅葉がなくなるので、登山者やハイカーの姿がなくなり、風の音となびく草木の音しか聞こえないような静黙な山歩きが面白い。街の喧騒から逃れ、リセットされるような気分を味わえるからだろうか。それとも、わたしにとっての海と同様に、なにも考えずに精神的なデフォルト感へ、心のおもむくまま自然と浸れるからだろうか。
 少し前、いまだ未整理のアルバム類をひっくり返していたら、まったく記憶にない山の写真がゾロゾロと出てきた。コダックのリバーサル(ポジ)フィルムEktachromeに記録された、小学校低学年とみられるわたしもいっしょに写る山の写真だが、これらの風景にまったく憶えがない。道路には雪が見えており、山道は一面の枯れ草が拡がっているので、おそらく晩秋か、初雪が降った初冬のころに登った山なのだろう。
 樹木が少ない山々の様子から、かなり標高の高いことがわかる。Ektachrome用のプラスチックでできた専用ケースに入っていたもので、プリント・ネガ袋に親がよく書き残していた撮影場所や日付けの記載もなく不明だ。ポジを見ているうちに、大きな湖が写っていたので、どうやら箱根外輪山のうちのいずれかの山だと想像がつく。おそらく、その山容から富士山が間近に見える、箱根外輪山では北側に位置する金時山ではないかと想定できる。だが、撮影日が晩秋ないしは小雪まじりの初冬のせいなのか、富士山はすっぽりと雲に隠れて見えない。いや、見下ろす芦ノ湖でさえ霧にかすんでハッキリとは見えていない。
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 わたしは、このフィルムに写る情景にまったく見憶えがない。わたしの容姿からして、先述した地獄の箱根旧街道を歩いたころと、それほど年数が隔たっているとは思えないのだが、この山登りは記憶の中からスッポリと抜け落ちている。ひょっとすると、わたしは昔から晩秋または初冬の登山が性にあい、ことさら快適な山歩きだったせいで記憶に残らなかったのか、あるいは記憶から無意識に丸ごと削りとってしまいたいほど、箱根旧街道の上をいくつらい思いをして登ったかのどちらかだろう。写真のわたしの表情からすると、どうやら涼しく快適な山登りだったせいで、また金時山の目前に大きな富士山も見えず、他の山歩きに比べて印象が薄れ、しだいに忘れ去ってしまったような気配が濃厚なのだ。

◆写真上:Ektachromeのポジフィルムに記録された、金時山とみられる枯草が風になびく急斜面。ちょっと滑落したら、無傷では済まなさそうなヤバい急傾斜だ。
◆写真中上:すでに冠雪しているので、初冬のころに登った金時山だと思われる。
◆写真中下:その山容から金時山と思われ、いちばん下の大きな湖はおそらく芦ノ湖。
◆写真下は、1881年(明治14)に制作された小林清親Click!『箱根山峠甘酒茶屋』。わたしが歩いたころと、あまり変わらない風景だ。は、雄大な富士山を堪能できる金時山の山頂(手前)。おそらく、現在は外国人の山好きやハイカーたちで連日賑わっているのだろう。は、1925年(大正14)出版の若山牧水『樹木とその葉』(改造社/)と著者()。

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