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陸軍に“占拠”される以前の戸山ヶ原の情景。 [気になるエトセトラ]

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 このところ、陸軍科学研究所Click!陸軍技術本部Click!など、戸山ヶ原Click!がらみのテーマではキナ臭い記事がつづいているので、陸軍に全体を“占拠”される以前の、武蔵野の面影が色濃い同地域について、少しまとめて書いてみたい。
 これまで、戸山ヶ原Click!の風景や情景などについては三宅克己Click!正宗得三郎Click!中村彝Click!中原悌二郎Click!小島善太郎Click!曾宮一念Click!佐伯祐三Click!萬鐵五郎Click!濱田煕Click!などの絵画作品やエッセイについては、機会があるごとに数多くご紹介してきたように思うが、文芸がらみの作品類に登場する戸山ヶ原の記事は、夏目漱石Click!小泉八雲Click!江戸川乱歩Click!岡本綺堂Click!ぐらいしか思い浮かばず、美術分野に比べてかなり少なかったように思う。
 そこで、きょうは文章として描かれている戸山ヶ原について、少しご紹介してみたい。なお、既出の人物たちはできるだけ避け、これまで拙サイトではあまり取りあげてこなかった文学者たちの、「戸山ヶ原風景」の描写を中心にピックアップしてみよう。
  影のごと今宵も宿を出でにけり 戸山ヶ原の夕雲を見に  若山牧水
 若山牧水Click!が、早大近くの高田八幡(穴八幡)Click!に接する下宿から、下落合方面へ散策にやってくる様子を、『東京の郊外を想ふ』(改造社『樹木とその葉』収録/1925年)を引用しながら18年ほど前に記事Click!にしている。戸山ヶ原の夕暮れに、かけがえのない美しさを感じたのは若山牧水Click!だけではない。大久保町西大久保205番地に住んだ、フランス文学者の吉江孤雁(喬松)もそのひとりだった。1909年(明治42)に如山堂から出版された、随筆集『緑雲』より晩秋の風景を少し引用してみよう。
  
 或夕方私は戸山の原へ出て、草の深く茂つた丘の上へ登り、入り日の後の鈍色の雲を眺めて立つてゐた。すると不意にけたゝましい音をたてて、空を鳴きつれて行くものがある。驚いて見上げると、幾百かの群鳥が一団となつて、空も黒くなるばかりに連なつて行くのであつた。それは私の立つてゐる丘から、さまで隔らない空の上であるから、羽音まで明らかに聞えて怖ろしい位であつた。(中略) 其渡鳥が過ぎた翌日であつた。夕嵐が烈しく起つて原を吹き、杜を吹き、枯草を飛ばし、僅かに残つてゐた木の葉を挘ぎちぎり、雲の中から霰がたばしつて来た。もう秋の終り、今日よりは冬の領ぞ、とやう感ぜられた。私は又一人、嵐に吹かれながら野路を辿つて行つた。
  
 渡り鳥はおそらくカリやカモの群れであり、近くの自然に形成された湧水池や、田畑にある溜池などへ北の国から飛来したものだろう。
  ひとところ夕日の光濃くよどむ 野の低き地をなつかしみ行く  前田夕暮
 同じく、戸山ヶ原の夕暮れをめでた歌人に前田夕暮Click!がいる。大久保町西大久保201番地に住んだ前田夕暮は、戸山ヶ原を含む大久保を「第二の故郷」として愛した。1940年(昭和15)に八雲書林から出版された前田夕暮『素描』から、その様子を引用してみよう。
  
 私は西大久保に明治四十三年から昭和九年六月まで二十五年間の間棲んでゐた。(生れた村には十六、七年しかをらなかつた) で、西大久保は私の第二の故郷であつた。その第二の故郷に棲みついた長い「時」のながれのなかの戸山ヶ原こそは、いろいろの意味で親しい交渉をもつてゐた。若し、私の過去の作品のなかから、この戸山ヶ原を削除したならば、可成り淋しいものになるにちがひない。私はこの戸山ヶ原を夕日ヶ丘といひ、またただ草場とよんでゐた。(中略) 私はよく戸山ヶ原に行つた。その頃の戸山ヶ原は、高田馬場寄りの東南一面、身を埋めるばかりの草原であつた。その草原のなかを細い一本の路が雑木林のはしをうねつて戸塚の方に通つてゐた。秋になると、その野路をコトコトと音をたてゝ荷車を挽いた農夫が行つた。
  
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 吉江孤雁の西大久保205番地や、前田夕暮の同201番地は山手線・新大久保駅も近い、現代でいえば金龍寺墓地の周辺にあたる住宅街であり、当時は秋になるとスズムシが鳴き、空には渡り鳥の群れがいきかう、夕日がとびきりキレイな郊外の閑静な住宅地(現・大久保1丁目界隈)だったろう。大久保通りを越え、少し北へ歩けば戸山ヶ原の広大な草原や雑木林が拡がり、静かに歌作をするには最適な散策地だったにちがいない。
 ちなみに、上記の住所は新大久保駅から220mほど東へ歩き、大久保通りから南へ数十メートル入ったあたりの番地に相当する。つまり、現代では周囲を“韓流”商店に囲まれ、そこから南へ200mほど歩けば新宿の歌舞伎町という、とんでもなく賑やかな立地になってしまった。金龍寺の山門脇には、集まる観光客の多さや騒音に怖れをなしたのだろう、「檀信徒以外立入禁止」「撮影禁止」の立て看がいかめしく設置されている。大久保の文士たちが現代に現れたら、きっと目をまわして卒倒するにちがいない。
 明治末の戸山ヶ原について、小説家で詩人の岩野泡鳴との間で恋愛のゴタゴタを抱えていた作家・遠藤清子(のち岩野清子)は、1915年(大正4)に米倉書店から出版した『愛の争闘』に収録の「大久保日記」で、戸山ヶ原を次のように描いている。
  
 明治四三年六月八日 夕ぐれの戸山の原を一緒に散歩した。夕陽が小さい鳥居の立つてゐる森の間に沈みかけてゐた。目白につゞく一帯の麦圃はもう充分に熟してゐた。馬鈴薯畑には白く花がついてゐた。雲雀が私達の頭上で囀つてゐた。
  
 「一緒に散歩した」のは、もちろん恋愛相手の岩野泡鳴だ。このとき岩野には妻があり、9歳年下の遠藤清子とは大久保で同棲生活を送っていた。「小さい鳥居」とは、皮肉なことに大久保通りをはさんで金龍寺の北東に建っていた、戸山ヶ原の夫婦木社(現・大久保2丁目)のことだろう。草むらから、空へ垂直に飛びたつヒバリの声を聞きながら、戸山ヶ原を複雑な想いを抱いて歩くふたりだったのではないだろうか。
 戸山ヶ原といえば、戸川秋骨の文章をどこかで読んだ方もおられるだろうか。田山花袋Click!永井荷風Click!とともに、戸山ヶ原の風情を記録したひとりだ。1913年(大正2)に籾山書店から出版された、『そのまゝの記』収録の「霜の朝の戸山の原」から引用しよう。
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 戸山の原は、原とし言へども多少の高低があり、立樹が沢山にある、大きくはないが喬木が立ち籠めて、叢林を為した処もある。そしてその地上には少しも人工が加はつて居ない。全く自然のままである。若し当初の武蔵野の趣を知りたいと願ふものは此処にそれを求むべきであらう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽はれて居て、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人の擅まゝ散策するに任す。四季の何時と言はず、絵画の学生が此処其処にカンヴァスを携へて、この自然を写して居るのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊園地である。その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものがある。
  
 物音が途絶えたような静謐な住宅街と、昔日の武蔵野の姿をとどめた戸山ヶ原の存在は、多くの文学者や画家たちを惹きつけてやまなかったようだ。
  ねがはくば戸山が原の赤樫の かげに木洩れ日あびて眠らむ  並木秋人
 文人たちが、戸山ヶ原を北にのぞむ西大久保や東大久保、あるいは山手線の外側にあたる百人町へ参集したのには理由がある。明治期のベストセラーとなった1冊、『武蔵野』Click!を著した国木田独歩Click!もまた大久保に住んでいたからだ。明治末の当時、36歳で病没したこの作家の人気は衰えず、彼の面影を慕って大久保界隈はさしづめ文士村のような様相をていしていた。また、東京郊外だったこともあり、家賃や物価が安かったのも、貧乏暮らしが多かった作家や画家たちを惹きつけた理由だろう。
 1999年(平成11)に岩波書店から出版された、歌人で国文学者の窪田空穂『わが文学体験』から、国木田独歩の家を訪ねた様子を引用してみよう。
  
 とにかく当時の西大久保は、貧しい者の代名詞のようになっていた文学青年の好んで住んでいた所で、私には親友関係となっていた吉江孤雁、前田晃、水野葉舟など、みな西大久保の小さな借家に住んでいた。誰も内心には、一種の寂蓼感を蔵していたので、よく往ったり来たりしていた。(中略) 独歩の家は、私達仲間とほぼ同じ程度の小家であった。一間道路に面して、青垣根で仕切った三室か四室くらいの平屋であった。そのころは貸家は幾らでもあり、したがって家賃も安かった。独歩の家は家賃十五円程度の家で、二十円はしなかったろうと見えた。書斎は広く、八畳ではなかったかと思うが、これが家の主室で、客室でもあり、寝室でもあったろう。装飾品は何もなく、机が一脚すわっているだけで、がらんとして広く感じられた。
  
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川瀬巴水「冬の月戸山ヶ原」1931.jpg
 戸山ヶ原は、大正期に入ると山手線の内側(東側)には、陸軍の近衛騎兵連隊Click!が駐屯し、大久保射撃場Click!軍医学校Click!戸山学校Click!第一衛戍病院Click!などをはじめ多種多様なコンクリート施設が建設されていく。昭和に入ると、それまでは「着弾地」などと呼ばれて建物が少なく、子どもたちの格好の遊び場や大人たちの散歩道となっていた山手線の外側(西側)の戸山ヶ原にも、陸軍科学研究所・技術本部Click!のビル群がひしめくように建設されていく。江戸川乱歩Click!の作品に登場した、戸山ヶ原の大きな目印だった「一本松」Click!も、陸軍科学研究所の敷地が北へ大きく拡張されるにつれ戦時中に伐採されている。

◆写真上:戸山ヶ原を東西に分ける山手線で、ビル側が明治~大正期の射撃演習場跡。
◆写真中上:戸山・大久保地域に残る、昔日の戸山ヶ原の面影いろいろ。
◆写真中下は、西側の戸山ヶ原から戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)へ移設された天祖社Click!は、昔日の戸山ヶ原を想像させる風景いろいろ。
◆写真下は、明治期と変わらない昔ながらの戸山ヶ原風景。は、いまも残る防弾土塁のひとつ。は、1931年(昭和6)に制作された川瀬巴水『冬の月 戸山ヶ原』。

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