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「山手線」の測定標杭を引っこ抜け。 [気になる下落合]

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 明治期に起きた鉄道敷設の反対運動Click!には、よく鉄道本などに書かれているその理由として、蒸気機関車の排煙で火事が多発するから、機関車の振動で作物の生育が悪化するから、線路沿いの電線を伝ってスズメが集まるから、いち早く伝染病Click!が拡がるから……などなど、現代から見ると中にはやや滑稽な理由も含まれている。確かに、利用者で混雑するターミナル駅や電車を介して、COVID-19(新型コロナウィルス感染症)Click!あるいはインフルエンザが拡散されていったケースもあるだろう。
 だが、切実な理由から激しい反対運動を繰り広げたのは、当の鉄道敷地や駅舎予定地の地主たちだった。日本鉄道(株)が、「品川川口間鉄道」(現・山手線)を計画して沿線の住民たちに発表したとき、鉄道誘致を展開していた村々は喜んだだろうが、それが憤激に変わるのにさして時間がかからなかった。日本鉄道が用地を適正な実勢価格で買いとるどころか、地主たちは“半額セール”Click!をやらされることになったからだ。
 しかも、日本鉄道の「鉄道を敷いてやる」的な強引で傲慢な姿勢も、沿線地主たちを激怒させた要因だろう。所有者に断りもせず無断で農地や宅地に侵入し、勝手に測量しては境界杭(測定標杭)を打ち並べ、いきなり社員が所有者の家にやってきて、境界杭を打った土地を実勢価格の半額で売るべしと、明治期の土地収用法をカサにきて上意下達式にいい残していった……というようなケースがほとんどだったからだ。
 怒った農地や宅地の所有者たちは、日本鉄道が勝手に測量して自分の土地に打ちこんでいった境界杭を、片っぱしから引っこ抜いて工事の妨害をつづけることになる。東京都の公文書館には、これら「測量杭行方不明」事件あるいは「測定標杭妨害」事件の報告書が、東京府庶務課の記録として多数残されている。それは、高田村や下落合村の周辺に限らず、品川方面から徐々に北上していく激しい反対運動だったとみられる。おそらく、日本鉄道の横暴と土地の“半額セール”の情報は、またたくまに「品川川口間鉄道」計画沿線の村々に伝わっていったにちがいない。
 わたしの手もとには、「品川川口間鉄道」の工事計画が進む1880年(明治13)に作成された、東京都公文書館に保存されている『往復録第一類/東京府庶務課』の資料があるが、目黒村や渋谷村、代々木村などにおける妨害事件の詳細が多数記録されている。実力行使をともなう、あまりに激しい反対運動だったせいか、中には工部省から東京府へ問い合わせた「工部省より鉄道沿線測定標杭妨害の件に付照会」までが記録されている。これらは、荏原郡(現・品川区/目黒区含む)をはじめ南豊島郡(現・渋谷区/新宿区含む)、北豊島郡(現・豊島区/北区含む)と、現在の山手線西側のすべての地域を含んでいる。
 たとえば、1880年(明治13)4月29日に記録されている、工部省の書記官・杉実信から東京府知事・松田道之あてに出された、目黒・渋谷・代々木の3村における「標杭取棄」事件に関する照会文書を、東京都公文書館の保存資料からそのまま引用してみよう。
  
 東京前橋間沿線ニ付 既ニ測量線路ハ標杭打チ立候処 此程中何物之取棄候〇〇願上 目黒渋谷代々木村等ニ於テ右測定之標杭三四本抜取之有者〇〇〇 又昨今中下渋谷村ニテ一二本紛失ニ及ヒ 夫レカ為メ実測点検之多大ニ不都合ヲ生シ候義ニ付 決シテ之等ノ所業無キ様沿道村民ニ無漏厳〇〇〇旨 至急〇〇〇〇〇〇度 此段及付照会〇也(〇は判読不明字)
  
 この時点で、3村における測定標杭の「取棄」事件は、34本+12本の計46本にも及んでいたことがわかる。いざ工事に取りかかろうとすると、目印となる標杭がまったくなく作業を中断し、もう一度測量からやり直しになったケースも多かったにちがいない。
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 東京府庶務課では、「妨障害無之様沿線村々ヘ至急告示」を繰り返すが、激怒した地主たちは聞く耳をもたなかった。ついには各村々の戸長へ、標杭が引っこ抜かれないよう見張れとまで命じている。だが、沿線村々の戸長も自身の土地が勝手に測量され、“半額セール”の災厄に巻きこまれた人物もいたとみられ、日本鉄道への妨害や東京府への抗議はなくならなかった。むしろ、村の利害を代表する戸長が率先して、村民とともに標杭を引っこ抜いていたケースもあったのではないだろうか。なんだか、1970年代の三里塚闘争を想起させるような、実力行使をともなう激しい反対運動が展開されている。
 高田村の戸長・新倉徳三郎Click!にも、測定標杭が「行方不明」になって妨害されないよう、監視・管理をちゃんとしろという命令が東京府からとどいているようなので、高田村の「品川川口間鉄道」敷設予定地あるいは目白停車場設置予定地でも、そのような事例が発生していたのだろう。しかし、日本鉄道が勝手に設置した測定標杭を、24h365dにわたり見張ることなど不可能なので、標杭の「取棄」事件は工事が強行されるまでつづいていたのではないだろうか。高田村における測定標杭の引っこ抜き妨害事件、あるいは新倉徳三郎あての東京府庶務課からの命令書は、残念ながらいまだ発見できていない。
 この反対運動は、豊島線(池袋停車場から分岐する現・山手線)の計画が具体化する明治後期には、その激しさを増している。1901年(明治34)に東京府知事だった千家尊福Click!の周囲には、日々寄せられる「意見書(苦情・抗議書)」が山積していたとみられる。日本鉄道が、品川川口鉄道につづき豊島線の敷設を進めていたため、その土地買収をめぐって敷設工事を監督する立場にある東京府へ抗議が殺到したとみられるからだ。
 千家府知事は、庶務課あるいは鉄道敷設に関する業務を行う部局の担当者を呼んで、「これはいったい、どうなってるのかね?」と、さっそく照会しただろうか。寄せられた「意見書」=苦情・抗議書のほとんどが、池袋駅を起点とする豊島線の沿線地主からで、そろいもそろって土地収用に関して激怒している内容だったからだ。千家尊福の性格からして、これはあとあとまで尾を引いてマズイなと感じたかもしれない。のちに、怒った沿線の地主たちにより、次々と土地買収に関する訴訟が起こされ事態は深刻化していくことになる。
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 中には、鉄道敷設に必要なギリギリの土地だけの面積しか買収しない日本鉄道のせいで、自宅の軒が停車場とくっついてしまうような住宅も出現した。当然、家の建て替えあるいは移築をしなければならなくなるが、それに対する移転費・補償費もまったく出ないというありさまだった。農地や宅地を所有する住民たちの怒りは、標杭の「取棄」事件のように直接的には日本鉄道へと向かったが、それを監督・指導すべき東京府へも続々と「意見書(苦情・抗議書)」が寄せられている。
 たとえば、実勢価格を無視して土地の“半額セール”を迫られた、巣鴨村池袋にある重林寺住職の宮崎真誠という人は、1901年(明治34)に下記のような「意見書」を東京府に提出している。ちなみに、同寺は境内へ勝手に日本鉄道の測量隊が無断で侵入し、地価の半額で買収すると「強請」=ゆすられたとして許しがたいと書いている。
 2006年(平成18)に豊島区立郷土資料館から刊行された、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集)から引用してみよう。
  
 豊島線鉄道用地ニ係ル当寺所有ノ地所ニ対シ日本鉄道会社長ヨリ土地収用審査会裁決申請セラレシニ付、右ニ対スル意見呈出仕候/一 日本鉄道会社ニ於テ当寺所有ノ地所買収ニ付、無断ニ測量シ、且ツ壱坪金弐円五拾銭ト所定之強請セラレ候次第ニ付、承諾致シ難ク候事/一 鉄道用地ニ対シ地所売渡ニ応セザルモノニ無之候間、相当ノ代価ヲ以テ買収有之度、即チ壱坪五円ノ割ヲ以テ買収有之度事/一 壱坪ノ代価金五円ヲ以テ相当ト認メタル理由ハ、先年当村学校設立ノ際、所有者地所一纏メニテ壱坪金弐円五拾銭ノ割ヲ以テ買収セラレ候、又壱坪四円ニテ売渡セシ地所モ有之候、然ルニ、今回鉄道会社ノ買収ニハ地所ノ取捨有之候間、残地ノ補償等併セテ壱坪五円ヲ請求候事
  
 つまり、2円50銭/坪の価格は、実勢価格にまったく合わない算定評価であるばかりでなく、鉄道用地から少しでもはみ出した土地は買収の対象にならないため、農地にも宅地にも活用できない中途半端な狭い変形地があちこちにできてしまうので、それも含めて日本鉄道に買いとってほしいという要望だ。自宅の一部に駅舎がかかり、駅舎と自宅がくっついてしまうという非常識なケースは先述したが、少しでも鉄道用地から外れた土地がどうなろうと、あとは知ったこっちゃないという日本鉄道の横柄で傲慢な姿勢が、このあと東京府の土地収用審査会への訴訟事件を次々と生じさせる結果となった。
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 明治後期ともなれば、私鉄の敷設計画も増えてきている時期で、山手線エリアよりもさらに市街地から離れた計画の沿線地で、3~5円/坪で鉄道会社が買収している情報も伝わっていたとみられる。あまりにもひどい日本鉄道の高圧的な態度と、実勢価格の半額となる買収価格に、山手線沿線の地主たちは次々と堪忍袋の緒を切っていったのだろう。

◆写真上:1897年(明治30)ごろ、池袋停車場近くを走行する現・山手線の汽車。
◆写真中上は、東京都公文書館に保存されている測量標杭の「取棄」事件の記録いろいろ。は、工部省から東京府への「なんとかしろ」の文書。w
◆写真中下上左は、1880年(明治13)に東京府庶務課がまとめた『往復録第一類』。上右は、2006年(平成18)に刊行された『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集/豊島区立郷土資料館)。は、1903年(明治36)に撮影された池袋停車場の先で分かれる品川川口線と豊島線の分岐点。は、同年撮影の池袋停車場。
◆写真下は、1894年(明治27)に作成された日本鉄道平面・断面図。すべて英語表記で単位はCN(センチニュートン)で統一されているが、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!下落合ガードClick!地点はいまだ隧道が認可されておらず「LEVEL CROSSING 29CN」と踏み切りが設置されていた。は、1884年(明治17)6月に裁定された下落合村と高田村を結ぶ下落合ガードの設置請願書に対する鉄道局の拒否回答。鎌倉支道の同道が、線路土手で遮断されて荷車の通行が困難なため、両村では東京府を介して隧道(ガード)の設置を請願しているとみられるが、当初は鉄道局ににべもなく拒否されている。は、1891年(明治24)作成の地形図に記載された山手線を横ぎる踏み切り表現の雑司ヶ谷道(新井薬師道)。地図下に見える、早稲田通りや旧・神田上水のガード表現と比べるとちがいが明らかだ。

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