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山手線と目白停車場は「迷惑至極ニ御座候」。 [気になる下落合]

山手線階段.JPG
 先に、佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!の1作『ガード』Click!にからめて、日本鉄道(株)が敷設する品川-赤羽線(現・山手線)で構築される線路土手により、金久保沢Click!湧水流Click!(主流)が遮断されてしまうため、(下)高田村と下落合村の双方で田圃(下落合側は東耕地と丸山の水田/高田側は八反目の水田)の灌漑用水の水路確保が、敷設当時の大きな課題だったことを書いた。だがそれ以前に、そもそも線路土手を築き線路を通すこと自体にも、大きな問題が発生していたようだ。
 1884年(明治17)3月に、下落合村や上落合村をはじめ、葛ヶ谷村、江古田村、上鷺宮村、下鷺宮村、上沼袋村、下沼袋村、新井村、上高田村、中荒井村、中村の計12村が共同で東京府知事あてに、「鉄道停車場御設置願」を提出している。これは、前月の同年2月に提出された北豊島郡の各町村による「鉄道停車場設置追願」に連動しているとみられ、北豊島郡からさらに各村へ働きかけが行われたとみられる。
 東京都が日本鉄道に関する公文書として保管している、上落合村と下落合村が含まれた「鉄道停車場御設置願」を、2006年(平成18)に豊島区立郷土資料館から刊行された『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集)から引用してみよう。
  
 南豊島郡下落合村外二村北豊島郡中新井村外一村東多摩郡江古田村外六村各戸長及右村々総代、茲ニ奉請願候旨、謹シテ開陳仕候、既ニ客歳八月第弐拾九号公布ヲ以テ当府下品川ヨリ埼玉県下川口ニ至ル汽車線路布設相也候趣詳知仕候、就テハ該線路ノ途北豊島郡高田村ニ係ル清戸往還筋ノ傍ラニ該停車場ノ御設置相成度、之レ出願ノ要点ナリ、而テ此地位ハ甲州街道ト中仙道ノ間道ニテ埼玉神奈川両県地方内ヨリ繭生糸并ニ製茶ノ諸物貨ヲ京浜両地ニ運輸スルノ便路即チ清戸道ト称スル該道ノ咽喉ヲ占メ専ラ農商通行ノ多キコト他道ニ譲ラサルモ従来車馬ノ運輸ノ用ニ供スルモノ乏シキカ故ニ(後略/以下上落合・下落合など各村列記)
  
 1884年(明治17)2月21日付けで、北豊島郡各町村から東京府知事あてに出された「鉄道停車場設置追願」のほうには、高田村をはじめ高田千登世町、雑司ヶ谷村、高田若葉町、雑司ヶ谷旭出町、長崎村、上板橋村、下練馬村、上練馬村、中新井村、谷原村などの戸長や総代の署名が添えられている。これらの文書に書かれている「清戸往還」「清戸道」Click!は、多少道筋は異なるものの、ほぼ現在の目白通りのことだ。
 ところが、停車場の設置以前に、日本鉄道が線路を敷設するための土地買収で、当時の土地の実勢価格とは合わない低い買収額を提示したのだろう、さっそく紛糾しているようだ。1884年(明治17)4月21日付けの、東京府の地理課と租税課が作成した文書には、地権者からのクレームが数多く寄せられていた様子が透けて見える。同資料より、当該文書を引用してみよう。ちなみに、最初期の路線計画では品川-赤羽間ではなく、品川-川口間として予定されていたため、公文書での表記はすべて「品川川口間鉄道」と表記されている。
  
 品川々口間鉄道北豊島郡滝野川村より(ママ)南豊島郡下落合村ニ至ル間曩ニ地券面代価ヲ以テ買上之義、別紙丁号之通御達相成候処、今般実地売買相場ト格別之相違有之趣ヲ以、現今相当代価ヲ以買上之義、丙号之通願出因テ評価人ニ付シ調査為致候(後略)
  
 せっかく鉄道が敷設されると思ったら、提示された用地の買取価格が実勢地価よりもはるかに低い額だったので、線路沿いの多くの地主が納得できず腹を立てたのだろう。実際に取引きされている実勢地価ではなく、農地に適用される固定資産税評価額などで買取り地価を計算されたのでは、所有者はたまったものではないだろう。現在でさえ、土地の実勢価格に比べ、固定資産税の評価額はその5~6割程度に抑えられている。
目白停車場(大正初期).jpg
金久保沢01.JPG
金久保沢02.JPG
 線路沿いの地主たちが、土地の“半額セール”をやらされるのに激怒した様子は、「田畑乏敷場所ニテ手作等ニ差支甚難渋仕候間、何卒相当代価ヲ以テ御買上被成下度候」(新田堀之内村)、「右代価ニテハ各所有者ニ於テ難渋仕候間、相当代価ヲ以御買上ケ被成下度、此段奉願候也」(池袋村)、「小村同様之土地ニて(ママ)畑地少ク甚難渋仕候間、何卒相当代価ヲ以御買上被成下度候」(巣鴨村)、「御買上相成候て(ママ)ハ、実ニ各自迷惑仕候義ニ御座候」(高田村)と、沿線の村々からは次々と抗議の文書がとどいていた。特に、停車場を予定されている高田村の文書は、その表現がことさらきつい印象を受ける。
 また、わずか1年前にはあれほど熱心だった高田村金久保沢の停車場誘致だが、やはり土地の買収問題で相当こじれている。ことに、高田村の地主たちは東京府あての「鉄道線路ニ係ル停車場御買上ノ義ニ付歎願」では、ついに「迷惑至極」とまで書いている。
  
 今回私共所有地之内鉄道停車場敷地ノ為メ、曽テ公用土地買上規則第四則前項ニ拠リ、該地券面ヲ以御買上相成候旨御達有之候、然ルニ目下農家非常困難之場合ニ際シ、前顕御規則ニ拠リ御買相成ては(ママ)実ニ各自迷惑至極之義ニ御座候、何卒前情御洞察之上、相当之代価ヲ以御買上被成下旨、此段奉歎願候也
  
 この文書は、1885年(明治18)4月16日に東京府知事へ提出されたものだが、おそらく高田村金久保沢の停車場敷地に関しては、鉄道線路の敷設および線路土手の構築とは異なり、停車場の建物(駅舎)とその関連施設を建設するために、農地ではなく宅地並みの評価額で「御買上」してくれなければ、地主たちにしてみれば「迷惑至極」だといいたかったように思える。3名の地主署名に加え、当時の高田村戸長・新倉徳三郎Click!の署名も添えられている。以降、明治期の「土地収用法」をカサにきた日本鉄道と、沿線住民との対立は訴訟沙汰も含め豊島線(現・山手線)の建設では、さらに深刻化していくことになる。
 しかも、カンのいい読者や鉄道マニアの方なら、すでにお気づきではないかと思うが、この停車場用地の買収をめぐる歎願書(というかほとんど抗議書に近い)が、目白停車場Click!が開業したと鉄道史へ「公式」に記録されている同年3月16日よりも、1ヶ月もあとの日付だという点に留意したい。開業したとされる3月16日は、プラットホームに汽車が停車するだけで、目白停車場の駅舎(初代・地上駅)建設工事の進捗はおろか、存在すらしていなかったのではないか。今日、「〇〇駅が開業」というと、すでに駅舎が完成して改札口がオープンしているイメージが強いが、1885年(明治18)3月16日の目白停車場「開業」は、ずいぶん様相が異なっていたとみられる。
 「開業」していたとすれば、駅員は踏切番小屋のようなところにいて、切符の検札や販売をおこなっていたのだろうか。ちなみに、用足しはどうしたのだろう。敷地の買収でもめにもめていて駅舎が存在しない目白停車場では、佐伯祐三方式Click!だったのだろうか。(爆!) 周囲には、金久保沢の奥に向かって田圃や茶畑などを埋めたてた、一面の空き地が拡がる原っぱと、湧水源の近くには雑木林、谷の東側(椿坂側)には江戸期に植林されたとみられる杉林だけだった。もっとも、当初は駅員が誰もいない無人停車場で、汽車の車掌が乗降客へ切符の販売から検札までを行っていた可能性もあるだろう。
目白貨物駅跡1970年代後半.jpg
椿坂(旧・西坂).JPG
下落合側坂.JPG
 保存された歎願書によれば、同年4月16日の時点で「鉄道停車場敷地」は、地主が「買上代価」にまったく納得・同意しておらず、いまだ土地売買契約書に署名・捺印していない様子が明確に見てとれる。土地の名義が日本鉄道側に変更されなければ、いくら東京府が間に立ち土地売買の仲介・斡旋をしていたとしても、「停車場敷地」の予定地へ駅舎などの施設建設を勝手に着工できなかったろう。
 また、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』には、金久保沢の湧水源から流れでる用水路が線路土手で遮断されて溜池(明治以降は血洗池)へ流入しなくなってしまうため、線路土手をくぐる暗渠水路(用水路ガード)の設置を申請する文書も保存されている。高田村の戸長だった新倉徳三郎Click!から東京府知事へあてた、1886年(明治19)3月1日の文書「鉄道御布設ノ為メ村道及田養水路変換御設置上申」だ。同資料より、再び引用してみよう。
  
 品川々口間鉄道御布設ニ付、当村千五拾六番地之村道及田養水路(ママ:用水路)ノ義、線路敷地内ニ相成、現今通行及ヒ水路ニ差支候旨、各地主より(ママ)申出ニ付、実地取調候処、目下差支候間、御検査之上、別紙図面之通リ、同番地先ヘ巾壱間五合村道并巾壱間ノ水路、更ニ御設置被成下候度、此段上申候もの(ママ)也(カッコ内引用者註)
  
 上申書には、道路や水路に関する図面が添付されていたようだが、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』には収録されていない。だが、以前に目白駅の橋上駅化Click!でご教示いただいた平岡厚子様Click!より、高田村の上申書前後に作成したとみられる図面を数種類お送りいただいた。それを参照すると、金久保沢1056番地の「村道」とは、線路土手の構築で下敷きになってしまった道路で、その不便を解消するため新たに設置された学習院側に通う椿坂Click!のことだろうか。
 また、線路土手を横切る用水路は、以前にご紹介した「北豊島郡図」(1887年)に描かれたとおり、目白停車場の前をしばらく線路と並行に南下したあと、西側からガード状の用水路が線路を斜めにくぐって、東側へと抜ける仕様を想定していたのがわかる。
水路1.jpg
水路2.jpg
水路3.jpg
 小島善太郎Click!と佐伯祐三が東西の線路土手に描いた、椿坂の下部にあったとみられる線路をくぐり、(字)東耕地や(字)丸山へと灌漑用水を供給する用水路のガードについては、豊島区が編纂した『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』では区外となるのでもちろん収録されていないが、東京都公文書をはじめどこかに同資料が保管されてやしないかとても気になっている。さらに、その佐伯祐三が描く下落合ガードだが、線路土手で下落合村から高田村へと抜ける雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)が遮断されてしまうため、当初は土手を上って下りる面倒な踏み切り仕様だったことも判明しているので、機会があればまた書いてみたい。

◆写真上:下落合ガードの脇にあった、山手線の線路に上る土手階段。ガードが設置される前の踏み切りには、こんな階段が設置されていただろうか。
◆写真中上は、大正初期の目白停車場(日本鉄道が設置した初代・地上駅とは明らかに設計図面が異なる2代目・地上駅と思われる)の記憶をもとに描かれたスケッチ。この地上駅は、1922年(大正11)の橋上駅化までつづく。は、目白通りから金久保沢へ下る先週火事があったバッケ階段。は、下落合側から下るバッケ(崖地)Click!坂。
◆写真中下は、1970年代後半に撮影された目白駅東側の目白貨物駅跡。は、休日の朝でほとんど人がいない目白貨物駅跡の東側に通う椿坂(高田側の呼称は旧・西坂)。は、同じく山手線沿いに目白駅までつづく下落合側の坂。
◆写真下:「品川川口間鉄道」(現・山手線)の敷設時に、高田村側からの要望で計画された金久保沢の湧水源から線路土手の下を横切る用水路図面3種。

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サンフランシスコ人

「汽車の車掌が乗降客へ切符の販売から検札までを行っていた可能性もあるだろう....」

車掌・検札無しや切符の販売自動化.....約50年前にサンフランシスコ(から郊外まで)の地下鉄が開通するまで、世界のどこにも存在しなかった?

「土地買収で、当時の土地の実勢価格とは合わない低い買収額を提示したのだろう.....」

英国の真似をした???
by サンフランシスコ人 (2023-07-25 01:07) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
鉄道切符の自販機は、いまから100年以上も前、20世紀初頭の確かロンドンがはじめてだったと思います。用地買収のモデルは、その換算に租税率(東京府租税課)がからみますので英国の税制とは関係ありませんが、鉄道敷設については英国をモデルにしていますね。明治期の図面類は、英語で書かれたものが多いようです。
by ChinchikoPapa (2023-07-25 14:00) 

サンフランシスコ人

約50年前に開通したサンフランシスコ(から郊外まで)の地下鉄.....何度でも使用可能な切符の完全自動の販売機、高度なソフトウェアで改札口の出入時に運賃計算、電車車両もほぼ自動運転......大仰天でした!
by サンフランシスコ人 (2023-07-26 04:51) 

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