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陸軍火薬20箱が山手線の踏み切りで大爆発。 [気になるエトセトラ]

爆発事故現場写真.jpg
 これは、落合地域とその周辺域にも無縁ではない事故だったと思われるので、あえてご紹介したい。落合地域および周辺域で起きた、さまざまな鉄道事故をこれまでいくつかご紹介してきた。明治期から絶えない飛びこみ事故Click!(=人身事故Click!)をはじめ、線路内への侵入による列車事故Click!、スピードの出しすぎによる脱線事故Click!、線路土手の崩落事故Click!など、その種類は多岐にわたっている。
 だが、こんなケタ外れな山手線の事故は前代未聞で、かつて一度も聞いたことがない。1918年(大正7)8月5日(月)の午後、山手線・恵比寿停車場と目黒停車場との間の踏み切りで、陸軍東京砲兵工廠 目黒火薬製造所(通称:目黒火薬庫/のちに海軍技術研究所)から運びだしていた大量の火薬を積んだ荷車が、山手線の踏み切り内に侵入して目黒方面からやってきた外回り電車に突っこみ大爆発を起こした、にわかには信じられないような事故だ。大量火薬の爆発で山手線の車両は大破し、陸軍の下請けをしていた運送業者や電車の乗客合わせて36名が死傷する大惨事となった。
 目黒火薬庫は、現在の防衛装備庁艦艇装備研究所の敷地にあり、そこから山手線の線路をわたって恵比寿貨物駅へと運びこもうとしていたようだ。恵比寿停車場は、当初は近くのビール工場(ヱビスビール製造所Click!)出荷用の貨物駅として設置されており、旅客営業がスタートしたのは1906年(明治39)10月からだった。恵比寿駅と目黒駅の間は、丘陵地帯を掘削して山手線を敷設した地点が多く、目黒火薬庫側から線路際に出るには、傾斜が急な坂道を下らなければならなかった。
 1918年(大正7)8月6日の東京朝日新聞より、事故の様子を引用してみよう。
  
 火薬荷車 電車と衝突して爆発/目黒踏切の大惨事
 死傷者丗六名を出す/物凄じき現場の光景
 目黒火薬庫にては五日朝来 大阪砲兵工廠に向け民間に払下を為すべき鉱山用火薬を恵比寿駅に向け積出しを為すべく 芝区金杉一の十五佐生文治郎の叔父なる佐生喜之助<六四>が午後二時八分荷車に該火薬二十箱を積み込み 芝区金杉川口町二 津久井亀太郎<五三>後押しとして従ひ 恵比寿駅を距る約二町目黒街道踏切に近き坂路(ママ)に差掛りし時 恰も目黒方面より院線電車百八十五号(運転手石橋正一 車掌石田増吉)が警笛をならしつゝ進行し来りしが 此時踏切<番>なる府下目黒村字三田関根貞吉<五二>は 電車の近づけるに気付かざるものゝ如く多少閉鎖に手遅れたる由にて将に閉鎖せんとせる刹那 同所は坂道(ママ)の事とて荷車は余勢の為め直に停まらず 其儘ズルズルと線路上に出で進行し来れる電車運転台に接触し 約四五尺も引摺られしより其の震動を受けて 積載しありし二十箱の火薬は忽ち大爆音と共に数丈の大火柱となつて爆発……(カッコ内引用者註)
  
 もう、記事の前半をちょっと読んだだけでイヤな予感しかしない。民間に払い下げられる鉱山採掘用の火薬なので、より破壊力の大きな砲爆弾用の火薬=爆薬ではなく、荷車に積んで運んでいたのは黒色火薬だと思われるが、それでも大量の黒色火薬が一度に爆発すればとんでもない威力があっただろう。当時の火薬箱は木製で、1箱に積みこむ火薬量は最大20kgと規定されていたらしい。したがって、それを20箱も積んでいた荷車は、最大400kgの黒色火薬を運んでいたことになる。
 記事を読むと、大阪砲兵工廠から民間(鉱山会社)へ払い下げる予定の火薬を、地元の大阪で調達せず東京の目黒火薬庫に発注していたのがわかる。民間向けなので、特にマル秘の軍事物資輸送のような警戒体制はとられておらず、目黒火薬庫の下請け運送業者に恵比寿貨物駅までの運搬を依頼したのだろう。この運送業者も、ふだんから同火薬庫に出入りしている、信頼のおける業者だったにちがいない。
東京朝日新聞19180806.jpg
陸軍砲兵工廠目黒火薬製造所.jpg
恵比寿停車場(明治末).jpg
 爆薬ではなく火薬なので、400キロの爆弾ほど破壊力はなかったと思われるが、それでも第二次世界大戦中に戦爆機が装備できた250キロ爆弾ほどの威力はあったかもしれない。火柱と爆風により、電車の窓ガラスはすべて砕け散り車両は黒焦げで大破した。
  
 電車は硝子戸全部破壊され外廓は黒焦となり 運転手石橋正一始め乗客三十五名の重軽傷を出し 荷車曳き喜之助は無惨にも火傷の上 首胸を轢断されて即死せり、爆発後附近の石垣は約六七間真黒となり 蝙蝠傘や少女のリボン下駄等半焦て飛散せる等頗る惨憺たるものあり 尚架空線の火焔の為焼け落ちたる等爆発の猛烈さを想はしめたり 猶同駅には負傷者の家族知己等続々詰めかけ駅員は一々其応接に忙殺され居たり 一方東京地方裁判所よりは小野山口両検事即時出張臨検した責任は誰か 踏切番は閉鎖したと主張す
  
 さて、この踏み切りとはどこのことだろうか? 1918年(大正7)当時の恵比寿貨物駅から「約二町目黒街道踏切」、すなわち200m強ほど目黒駅寄りの踏み切りということになる。ほぼ同時期の1916年(大正5)の地図を参照すると、同位置に踏み切りは1ヶ所しかない。現在の恵比寿南橋、通称「アメリカ橋」が架かっている位置だ。
 アメリカ橋は、日本の鉄鋼技術や架橋技術をアピールするため、1906年(明治39)に米国で開催されたセントルイス万国博覧会に出品されている。同博覧会が終了したあと、橋の資材一式は日本にもどり保存されていたが、大正末に鉄道省が買いあげ、1926年(大正15)に「目黒街道踏切」上へ架橋されている。ちなみに、「1906年(明治39)に架橋」とする史料が多々見られるが、それはセントルイス万博での展示架橋のことで、山手線における架橋ではない。おそらく、危険な踏み切りで従来から事故が多発していたのだろう、爆発事故から8年後に跨線橋は目黒街道踏み切り上に設置されている。
 事故の重軽傷者は、最寄りの鉄道病院や赤十字病院、東京病院、山田病院、高輪病院、瀬戸病院へ分散して運びこまれたが、いずれも爆発による火傷と爆風で飛び散ったガラスの破片による裂傷、爆発の衝撃による打撲などで、重傷者は全治2ヶ月ほど、軽傷者は自宅療養者も含め全治1~2週間ほどのケガと報道されている。
 新聞には各病院へ入院した31名と、自宅療養者4名の乗客名簿が掲載されているが、その住所から多くの人々が恵比寿駅か、次の渋谷駅で降りる住民だったことがわかる。また、その先の新宿駅で降りたり中央線に乗りかえたりしそうな乗客が6名、新大久保で下車しそうな乗客が2名、高田馬場で下車しそうな乗客が1名で、あとは訪問先か勤務先へと向かう乗客だったとみられる。
火薬箱1915.jpg
恵比寿地図1916.jpg
目黒街道踏切跡1936.jpg
 午後の早い時間帯の事故だったせいか乗客には女性も多く、負傷者35名のうち名前から判断するかぎり12名が女性だった。また、中には東京にやってきて、たまたま山手線を利用したため爆発事故に巻きこまれた人たちもおり、岩手県水沢町からきていた40歳の女性や、香川県綾歌郡岡田村からきた17歳の少女も重傷を負っている。
 この少女は、香川県女子師範学校の教諭にともなわれ、淀橋町柏木に住む学習院助教授の家で行儀見習いをするために同家へ向かう途中だった。その柏木の番地からすると、新宿駅で降りて中央線に乗りかえ、次の大久保駅で下車する予定だったと思われる。なお、教諭の名前は負傷者リストには含まれておらず無事だったとみられるので、赤十字病院に入院した師範学校の教え子に付き添っていたのだろう。
 また、乗客には「有名人」もいた。同紙の記事より、つづけて引用してみよう。
  
 奇禍に遭へる子爵夫人/東京病院に入院/顔と両腕に負傷
 負傷したる府下大崎字桐谷四〇 元松前福山藩主子爵松前勝廣氏夫人すが子(二四)は希望に依り直に東京病院に入院せるが 無惨にも顔面全部及び両腕に包帯を為し 副院長高木喜宣氏診察を為せるが中村鉄道院総裁、金杉英五郎氏夫人、井伊子爵家等の見舞客引きもきらず鈴木家扶は曰く、「今日は夫人は女中も連れず外出して五反田より乗車して此の奇禍に遭つたのです」松田少将夫人と令嬢 良人田中中尉を見送つての帰途……(後略)
  
 なお、荷運び業者の人夫で即死した佐生喜之助は、芝区新網町で老いた妻とふたり暮らしだった。事故の当日は、朝から火薬20箱を積む荷馬車を目黒火薬庫から恵比寿貨物駅まで、すでに3回も往復していた。目黒火薬庫でいっしょに働いていたとみられる甥が、4度目に荷車を手押しで運ぼうとするのを見て過労を心配し止めたが、「馬に曳かせては可愛さうだから」と後押しの津久井亀太郎とともに人力で運んでいったという。
 この事故は一見、落合地域とはなんら関係ないように思えるが、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!陸軍戸山学校Click!大久保射撃場Click!などの施設が設置されていたため、当然ながら銃砲弾など火薬類を含む軍事物資は鉄道を介して輸送されていた。
 そして、それらの物資は近くの貨物駅で下ろされ、下請け業者の荷車や馬車・牛車、または大きくて重要な物資であれば、軍用トラックなどで戸山ヶ原に運びこまれていただろう。そして、それらの貨物輸送を扱っていた鉄道駅とは、下落合の西隣り高田町にある山手線沿いの目白貨物駅Click!であり、南隣りにあった戸塚町の西武高田馬場駅Click!だった。同じ大正期には弾薬・火薬のみならず、陸軍の「兵器、器材鉄道貨車搭載演習」Click!として陸軍所沢飛行場から飛行機まで分解し、西武線の貨物列車(無蓋車)で運搬されている。
目黒街道踏切.jpg
恵比寿南橋(戦後).jpg
目黒火薬製造所河川改修工事.jpg
 これらの駅で、軍事物資の輸送にかかわる事故はいまだ発見できないが、この記事の山手線火薬爆発事故がそうだったように、意図的に記録を消し去るか、あるいは目立たなくするような措置がとられているような気がする。国立公文書館に保管されている陸軍関連の資料を追いかけてみても、この目黒火薬庫にからむ大事故の記録は発見できない。

◆写真上:1918年(大正7)8月5日、爆発現場である「目黒街道踏切」付近の様子。
◆写真中上は、1918年(大正7)8月6日に発行された爆発事故を伝える東京朝日新聞。は、東京砲兵工廠目黒火薬製造所の平面図。は、明治末に撮影された恵比寿停車場。右手には、倉出中とみられる積み荷の山が見られる。
◆写真中下は、東京砲兵工廠による1915年(大正4)の鉱山用黒色火薬箱。は、1916年(大正5)作成の「東京全図」にみる恵比寿駅(貨物駅)と目黒街道の踏み切り。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「目黒街道踏切」跡。1926年(大正15)に跨線橋の恵比寿南橋(アメリカ橋)が架けられたため、踏み切り跡の面影はない。
◆写真下は、1948年(昭和23)の斜めフカン写真でたどる目黒火薬庫から恵比寿貨物駅までの火薬箱運搬ルート。は、戦後に撮影されたアメリカ橋。は、爆発事故と同時期に行われていた目黒火薬製造所の改修工事。「河川改修」「水流変更」とは目黒川のことで、江戸期から河川沿いの水車小屋Click!では黒色火薬Click!を生産しており(爆発事故Click!も多発していた)、大正期まで木炭などの粉砕動力には水力が使われていたとみられる。

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