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平均湿度60%超の国における油絵の美とは? [気になる下落合]

中村彝アトリエフィニアル2013.JPG
 これまで、下落合に中村彝Click!のアトリエがあるせいか、彝の視点からあるいは彼の近くにいた人々の一方的な視点から、周囲の風景や人物について記述することが多かった。特に中村彝とは相いれなかった人々、彼の病状が悪化する前(新宿中村屋Click!アトリエClick!以前)、若いころの横柄で傲慢だったらしい性格Click!や、美術表現などでことさら対立した人々の側からの視点を、ほとんどご紹介してこなかったのに気づく。
 中村彝は、結核が進行して衰弱する以前は血気盛んで議論好き、ときには暴力で相手をねじ伏せようとまでしたのは、1915年(大正4)8月に思いどおりにならない相馬俊子Click!との恋愛で、日本刀Click!を振りまわしたことでもうかがえる。自分の思いどおりにならないと、すぐにキレやすいわがままな人物像をそこに見いだせるようだ。先に「議論好き」と書いたが、さまざまな記録や証言を参照すると、彼の場合は自身の意見に賛同ないしは一部でも同意しない相手とは、ほとんどハナからケンカ腰ではなかったろうか。
 その傲慢な性格が弱まったのは、病状と恋愛とに諦念が混じるようになった、下落合464番地Click!にアトリエを建て転居してきてからのように見える。悪化する病状や、小サイズのタブローでさえ弱まりつづける体力と相談しなければ描けなくなっていく制作活動を通じて、無鉄砲さが消え「メメント・モリ」的な心境に変化した、あるいは人と対峙する余力があるなら制作へ……といった、明らかに死を意識しはじめたことによる性格の変化なのだろう。彼の周囲にいた、下落合の親しい友人たちの気づかいや思いやりも多分にあったとみられ、彝の尖った感情や精神は日々やわらげられたのかもしれない。
 だが、そんな“丸くなった”はずの彝の性格でも、怒りとともに罵倒せずにはいられない相手がいた。新宿中村屋時代から対立をつづけていた、もちろん岸田劉生Click!だ。中村彝のような性格の人物は、痛いところ(弱点など)を突かれると、あるいは自身の思いどおりの論旨へ収着しないと、改めて自身の言動や表現を振り返り検証する余裕もなく、より強烈な激情とともに怒りを爆発させかねないタイプのように思える。
 新宿中村屋時代から彝のアトリエを訪問していた岸田劉生について、1977年(昭和52)の中央公論美術出版から刊行された鈴木良三Click!『中村彝の周辺』から引用してみよう。
  
 岸田(劉生)も正宗(得三郎)も彝さんにとってはライバルとしてよい相手だったのだろう。お互いに激論を交えていたそうである。/彝さんのアトリエに押しかけて来た岸田は深更に到るも論が果てず、帰りそこねてとうとう彝さんのところへ泊り込むことになってしまった。あとでこれを聞いた清宮彬が岸田に、「中村彝は肺病なんだぞ、おまへ肺病がこわくないのか」とおどかされ、岸田は真青に顔の色をかえてふるえていたそうである。従ってそれ以来あまり挑戦して来なくなったらしいが、彝さんは「要するに岸田の絵なんて悪写実だよ」と屡々私達にももらしていた。(カッコ内引用者註)
  
 鈴木良三は中村彝の身近な親友のひとりなので、岸田劉生を揶揄して、ことさら彝の肩をもっているような表現に留意する必要があるだろう。この一文につづき、劉生が高名になったのは早逝したからで、それが「天才扱いにする好材料」であり「希少価値」だからだと書いている。だが、鈴木良三は美術愛好家の眼差しを忘れている。
 この文章が書かれた1977年(昭和52)の時点で、やはり早逝した佐伯祐三Click!長谷川利行Click!は「天才扱いにする好材料」であり「希少価値」だったにもかかわらず、彼らの作品群が改めて陽の目をみて話題になるのは、ようやく没後30~40年もの時間が経過したあとのことだった。だが、大正期に大きく注目された中村彝とその作品群は、彼が早逝しているにもかかわらず、残念ながら一時期は世間から忘れ去られていったかのように見える。
中村彝「椅子によれる女」1919.jpg
中村彝遺作展覧会目録(1925画廊九段).jpg
岸田劉生+麗子.jpg 中村彝.jpg
 岸田劉生を「りゅうせい」と読める人は多いが、中村彝は「なんて読むの?」という人たちが、わたしの経験も含めていまでも圧倒的に多い。それを、画商が「早逝」したから「希少価値」として売りだしに注力したせいだ、あるいはマスコミが「天才扱い」したからだだけでは、あまりに美術愛好のインフラを形成するArt lover(ファン)たちの眼差しをないがしろにし、バカにしすぎた言葉だろう。美術ファンにとっては、どこまでいっても作品を好きか嫌いか(美しいと思うかそうでないか)、またはどちらでもないかの世界であって、その作品の時代的な存在意味(表現技巧や美術史での位置づけ)は二の次なのだ。
 初めて協和音やモードさえ廃して、より自由な無調の世界へと踏みだしたE..Dolphy(fl)やO.Coleman(as)は、フリーJAZZを創造した音楽家として大きな存在意味をもつが、彼の演奏が「好き!」というのとは別問題だ。(わたしは、どちらでもないけれど) 新ウィーン楽派のA. SchönbergやA. Webernは、現代音楽に直結するさまざまな作品を残したが、その作品の好き嫌いと、彼らの音楽史における学術的な存在や意味とは、またぜんぜん別世界のテーマなのだ。(わたしは、Schönbergはこよなく好きだけれど)
 だから、日本的(あるいは東洋的)な香りがプンプンする泥臭くてグロテスクで、どこか湿度が60%以上もありそうな環境下、西洋絵の具で描く劉生の構成や色合いの画面が「好き!」「美しい!」と感じる人が大勢いたとして、それは彼が「早逝」して「希少価値」だからでも、周囲が「天才扱い」したからでもないと考えている。ましてや、“大衆ウケ”しそうな表現効果をねらってもいない。むしろ当時の画壇からいえば、劉生の作品群は中村彝が身を置くアカデミズム(文展・帝展)から外れた異端的な存在だった。
 数多くの美術ファンが、劉生の画面に「好き!」Click!と感じる美を見いだし、彼の絵を求めたがゆえに画名が広く知れわたり、いまにつづく劉生ブームが形成されているのだろう。それは「悪写実だよ」では済まない、西洋の画道具を手段として借りうけ制作されたにもかかわらず、どこか日本人の琴線に響く「美」に対する好みや嗜好、感覚に直結するモチーフであり表現でもあるからだろう。
 中村彝は1919年(大正8)、下落合のアトリエで岸田劉生の作品を酷評している。
  
 態々見にいらつしやる価値ハ(ママ)ありません。場中で僅かに見るべき、岸田君の如きも自然の各相と特質とを再現するのに、全然その方法を誤ついいる。画面が硬く寒く貧しくなるその原因ガ(ママ)どこにあるか、それについての反省と努力とガ(ママ)全然かけて居るとしか思へません。木村荘(ママ:八)、その他ニ(ママ)至つては全く熱も生命もない形式的な神秘的耽美に過ぎません。林檎一個が持つて居るあの偉大なる「マッス」ヤ(ママ)異常なる輝きに関しては彼らの画面ハ(ママ)何の感激も脅威をも語つて居ない(カッコ内引用者註)
  
岸田劉生「美乃本体」1941.jpg 近代画家研究資料「岸田劉生Ⅲ」1977.jpg
岸田劉生「早春之一日」1920.jpg
岸田劉生「古屋君の肖像」(草持てる男の肖像)1916.jpg
 これは、柏崎にいるパトロンのひとり洲崎義郎Click!あての手紙(同年12月)の中で綴られている、第7回草土社展(赤坂溜池・三会堂)の感想だが、彝は同時期に美術誌あるいは新聞へも展評(もちろん酷評)を書いているとみられる。
 この年、鵠沼時代Click!の岸田劉生は草土社展ばかりでなく、白樺派10周年記念に連動した生前最大の個展(京橋加賀町・日本電報通信社)が開催され、同展はつづけて京都(京都府立図書館)でも開かれている。劉生にとっては、生涯でもっとも繁忙な時期にあたり、また鵠沼で立てつづけに「麗子像」を(ついでに「麗子漫画」シリーズClick!をw)制作していた時期にも相当する。『劉生日記』Click!を見ても、その忙しさや慌ただしさが感じられるが、そんな多忙のなか劉生は中村彝の酷評に目を通しているようだ。
 それに対する劉生の反応が彼の死後、1940年(昭和15)に河出書房から出版された岸田劉生『美乃本体』に、「雑感集」の1編として収録されているので引用してみよう。
  
 僕の画を一顧の価もないやうな態度で批評し去った人の画を見たが、あまりつまらないものなので、へーと思つた。その人の画のつまらない事は前から知つてはゐたが、その画は又あまりに下らないものだつた。/かういふ画を描いてゐてよく、あんな事が言へたものだと思つた。その人にとつては、ああいふものを描く事が芸術上正しい事なのかしら。(中略) 兎に角どちらにしろ、ああいふ画を描いてゐるといふ事は、芸術になくてはならぬものに対して不明であり、さういふ欲望を真に知らないものである事を證明してゐるのだから、ああいふ画を描く人から、僕が悪口を言はれても名誉になつて不名誉にならぬ事は事実だ。/馬の耳に念仏は通じないのだ。通じなくても念仏のせゐではないのだから。
  
 「美」はきわめて感覚的かつ直感的なものであり、言語として表現できない領域を多分に含んでいるのだから、いくら言葉を探して選び表現をしつくして議論しても、わからない奴には死ぬまでわからないのでムダと、突き放しているような文章だ。
 岸田劉生にしてみれば、中村彝の作品は日本における「美」や油絵の具という西洋画道具の表現課題にほっかむりした、レンブラントやルノワール、セザンヌなどの安直なコピーあるいは単なる西洋かぶれのエピゴーネン(模倣追随者)で、「バッカ」野郎Click!にしか見えなかっただろう。「芸術になくてはならぬものに対して不明」とは、日本における「西洋画」表現ならではのオリジナリティ(を創造する「さういふ欲望」)を指していると思われる。「日本で西洋製の油絵の具を拝借し、あえて美を表現・追求する意味とはなにか?」という、制作の大前提となる絵画表現の大きな命題が、なぜ無視され(あるいは意図的に知らんぷりされて忘れられ)、置き去りにされているんだよ?……と感じていたのかもしれない。
第7回草土社展ポスター1919(清宮彬).jpg
岸田劉生「魔邪鬼と踊る麗子」1920頃.jpg
 岸田劉生は、「僕の画にだつて欠点はあるだらう」と書き「欠点は欠点だ」と認めている。その上で、中村彝と同様にガンコで意固地な彼は、自作について「その欠点をかくしきつてゐる芸術的魅力がある」と自画自賛している。確かに劉生のいうとおり、彼の作品(漫画含むw)は晩年の日本画(京都時代)はともかく、いまでもその深い魅力を失ってはいない。

◆写真上:2013年(平成25)に復元直後の、中村彝アトリエの屋根に載るフィニアル。
◆写真中上は、上落合503番地に住んだ辻潤Click!の妻になる小島キヨClick!を描いた中村彝『椅子によれる女』(1919年)。は、1925年(大正14)に画廊九段で開かれた「中村彝遺作展覧会」目録。下左は、1917年(大正6)ごろ撮影された岸田劉生と麗子Click!下右は、下落合464番地のアトリエにおける中村彝(撮影:清水多嘉示Click!)。
◆写真中下上左は、1941年(昭和16)出版の岸田劉生『美乃本体』(河出書房)。上右は、1977年(昭和52)出版の『近代画家研究資料/岸田劉生Ⅲ』(東出版)。は、1920年(大正9)制作の麗子が鵠沼の畑を走る岸田劉生『早春ノ一日』。は、下落合2113番地に住んだ古屋芳雄Click!を描いた岸田劉生『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』。
◆写真下は、清宮彬が制作した1919年(大正8)の第7回草土社展ポスター。は、最近発見された劉生の連作漫画で蓄音機の音楽にあわせ『妖怪と踊る麗子』(1920年ごろ)。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。岸田劉生と中村彝は仲が良くなかったのですね。岸田劉生の評価は、今では揺るぎないものがありますが、その昔は、そうでもなかったようですね。羽黒堂の木村東介氏もそのようなことを書いていた記憶があります。劉生の評価が急激に高まったのは、戦後なのかもしれません。papaさんの記事にも、岸田劉生が、絵画館に展示する作品の描き手に選ばれなかった記事がありましたね。今日の評価からは、考えられないことですが。
by pinkich (2023-07-22 11:37) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
岸田劉生の画面には、どこなく親父から上の世代の東京の匂い、湿度が高い日に匂っていた木や畳、土ぼこり、クレオソート、石炭、仁丹などの香りがまざったような、独特な街の雰囲気が漂ってくるようで好きですね。同郷のせいか、劉生が書いたものも面白く共感できる点が多のも、ことさら取りあげたくなるポイントなのかもしれません。あと、この人は特別グロテスクな麗子像はともかく、少女を描くと抜群の空気感(匂いまで)や実在感を表現できる画家だと感じます。
by ChinchikoPapa (2023-07-22 15:18) 

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