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目白崖線沿いにつづくタタラ遺跡を考える。 [気になる下落合]

剣呑龍庚申塚.JPG
 わたしの知るかぎり、目白崖線沿いで鉄滓(てっさい)=金糞・鐵液(かなぐそ:スラグ)Click!が出土した場所は3ヶ所ある。ただし、それらの鉄滓=金糞が鉧(けら)Click!のかたまりのままだったのか、または鉧からすでに目白(鋼)Click!を取りだしたあとの残りカスだったものか、あるいはより低温で製錬された鋳物などに用いる銑鉄状のものだったのかは、出土したそれらが廃棄されてしまったようなのでハッキリしない。
 目白崖線沿いで、もっとも東側に位置する金糞の出土地点は古い目白坂Click!が通う目白山(椿山=現・椿山荘の山)Click!だ。その名のとおり、目白(鋼)の山へ室町末または江戸最初期に足利から勧請された不動尊は、目白坂の崖地に安置され目白不動Click!(新長谷寺境内)と名づけられている。不動が勧請されたのちは、目白(鋼)などの鉄材を加工する金工師や彫刻師、鋳物師らの崇敬を集め、境内には刀装具の雲龍丸鍔Click!や、刀剣彫刻に多い不動明王の化身である剣呑龍(+庚申塚)の記念碑などが残されている。
 おそらく上代からつづく、この金(かね)=鉄にゆかりの深い目白山(椿山)からは、おそらく鋳物とみられる“鉄の馬”Click!が出土している。出土時期は明確でないが、目白不動がらみの記録からすると同不動が勧請されたのと同時期ごろではないかと思われる。また、目白山の山頂付近の崖地には、窯や火床、竃などの神である荒神社が「幸神社」Click!と名を変えて(おそらく変名は江戸期以降だろう)現存している。これらの事蹟から、出土した金糞は急斜面を利用して山砂鉄ないし川砂鉄を鉄穴=神奈(かんな)流しClick!により採集したのち、大量の木炭を用いて製錬したタタラ遺跡があったとみるのが自然だろう。
 ちなみに、室町期以前で金といえば「かね」=鉄のことで、今日いわれる金(Gold)ではない。金(きん)は、金(かね)とは区別され通常は黄金(こがね)と呼ばれていた。今日でこそ金属価値でいえば、貨幣やメダルなどでは金・銀・銅の順が一般的だが、室町期以前はそのプライオリティの最上段に君臨していたのが金(かね)=鉄だった。
 近代においてさえ、19世紀の「鉄は国家なり」(ビスマルク)という言葉が示すように、金(かね)は農・工業の効率性や生産力を飛躍的に高め、また多種多様な武器・兵器を生産して領土を防衛するには必要不可欠な価値(交換価値ではなく使用価値)の高い金属のままだった。日本でもまったく同様に、弥生時代から金(かね)=鉄の製錬は、あらゆる金属採取の最上位に位置づけられる最優先の事業だった。
 目白崖線沿いでは、目白山(椿山)から西北へ1,000mほどのところ、神田久保Click!の呼ばれた谷間(中世からの日本語の「たなら相通」により本来は「神奈(鉄穴)久保」か?)の北側につづく急斜面の上に金山稲荷(鐵液稲荷)Click!があった。その名が示すとおり、この急斜面からも鐵液=金糞が多く出土している。神田久保には、その斜面を利用した棚田があったというが、この棚田自体が神奈(鉄穴)流しの跡地の再利用であった可能性が高い。そして、丘上近くに設置された金山(鐵液)稲荷(日本女子大学寮内にあったが現在は遷座?Click!)は農業神としての、おもに近世に展開する近畿の朝鮮由来の稲荷ではなく、日本古来からつづく本来の「鋳成(いなり)」神ではなかったろうか。
 金山稲荷とその周辺斜面は、興味深いことに古墳期の横穴古墳群Click!または鎌倉期とみられる“やぐら”Click!が発見されており、江戸期には近江出自の刀鍛冶集団である石堂一派Click!(石堂流派は不明だが石堂孫左衛門Click!の名が伝わる)が工房をかまえている。おそらく江戸期の石堂派は、古くからの金山(鐵液)稲荷の事蹟に惹かれ工房をかまえたのだろう。
 そして、神田久保の谷間から西へ1,400mほどのところに、山手線・目白駅Click!のある金久保沢Click!の谷間がある。金久保沢は、いつごろからか別名「金和久沢(金湧く沢)」Click!と呼ばれており、その湧水源一帯はタタラの資源となる川砂鉄の採集には最適なエリアだったとみられる。だが、金久保沢から金糞(鉄滓)が見つかったという記録は、わたしの知るかぎり存在していない。ひょっとすると、日本鉄道関連の資料には品川-赤羽線(現・山手線)を敷設する際に、金糞が出土した経緯が工事記録として残されているのかもしれない。
目白山(椿山).JPG
幸神社(荒神社).JPG
鉄滓(てっさい)金糞・スラグ.jpg
 そして、目白崖線沿いにあるタタラ遺跡の3ヶ所めが、下落合(現・中落合/中井含む)の山手通りが敷設された下落合1764~1790番地一帯(戦前は通称・赤土山と呼ばれていた)の斜面だ。改正道路(山手通り)Click!工事中Click!、1943年(昭和18)前後に大きなタタラ遺跡を想定させる大量の金糞が出土している。だが、戦時下だったこともあり、満足な調査や記録がなされないまま遺跡は全的に破壊された。
 大量の金糞が斜面から出土しているということは、室町期以降の生産性の高い足踏み鞴(ふいご)が付属する大規模で効率的な製錬炉を用いたタタラ場ではなく、焼き物の登り窯(竪炉)と同様に自然の風を窯の中に呼びこむ、鎌倉期以前のタタラ場を想起させるのだ。このタタラ遺跡の周囲には、弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉の各時代の遺跡が散在しているが、いずれの時代のタタラ場だったものかは調査記録がないので不明だ。
 斜面のタタラ遺跡について、群馬県渋川市にある「金井製鉄遺跡」を見てみよう。1976年(昭和51)に玉川大学出版部から刊行された黒岩俊郎『たたら』から引用してみたい。
  
 同遺跡は「榛名山二ッ岳、相馬鐵に連なる吾妻山、御袋山等の諸山を西に負い、東北は吾妻川に沿う旧金島村金井部落の東北部」にあり、部落は一帯の段丘の上段段丘上にあり、中段が畑、下段が、吾妻川ぞいのせまい水田といったところにある。遺跡は、この中段と上段のさかい目にある。「鉄滓はこの傾斜地五〇〇メートル程の幅をもってひろがっている」というのだから、相当大規模な製鉄基地であったことが推定される。(中略) たたら炉は、この炭窯のある中段から四〇メートルほど南西によった上段傾斜面につくられている。炉の規模は、長径九〇センチ、短径五五センチ、壁高は最高五五センチ、平均四〇センチ内外であり、炉底は約一五度東側に傾斜しており、東側から送風した跡がみとめられる。
  
 同遺跡は、すでに製錬炉や鞴が用いられる14世紀以降の遺跡だが、それ以前も砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しの必要性から、また自然の風に頼った登り窯(竪炉)状のタタラ場を設置する関係から、同様に段丘の傾斜地形が活用されていた。
 谷間や谷戸の湧水源から流れでる、川沿いの段丘に堆積した川砂鉄あるいは山砂鉄を神奈(鉄穴)流しで採集し、周囲の森林を伐採して大量の木炭を焼いて燃料とし、斜面を活用した竪炉を築いてタタラを行い、製錬した鉧(けら)から武器や農器具などにする目白(鋼)を採取する……、この一連の作業は専門職としての工人=大鍛冶(タタラ)集団によって行われていた。彼らは砂鉄が枯渇するか、タタラ場の周囲で炭焼きに必要な森林を伐りつくすと、別の場所へと移動する“わたり歩き”Click!の集団だった。
神田久保.JPG
金山(日本女子大寮).JPG
金山稲荷(鐡液稲荷)1955.jpg
大森金山社(古墳).JPG
 大鍛冶たちは1ヶ所に定住することなく、多くの場合は段丘にはさまれた河川を遡上してタタラ場を設置し、段丘の斜面を活用した竪炉から目白(鋼)を製錬しては販売していた。彼らが移動せざるをえないのは、山砂鉄や川砂鉄が枯渇することもまれにはあっただろうが、おもに膨大な炭燃料を消費するため周囲の森林を伐採しつくしてしまうことにあったようだ。なぜなら、いまだ豊富に砂鉄資源が残っているタタラ遺跡からも、大鍛冶たちは移動していったことが顕著だからだ。
 以前の記事で2.5トンの鉧を精製し、そこからわずか100kgの目白(鋼)を取りだすのに約12トンもの木炭か必要だと書いた。だが、これは現代のできるだけ効率化された「日刀保出雲タタラ」の事例であって、斜面に竪炉を築造する古代タタラとは比較にならない数値だ。古代には、窯内の温度を上げるためより多くの木炭が必要だったことは想像にかたくない。大鍛冶集団の森林伐採について、同書より再び引用してみよう。
  
 たたらは、砂鉄採集により、厖大な土砂流を下流にもたらし、斐伊川の例でいえば、出雲市近くでは、川底が民家の二階あたりまで堆積し、また宍道湖を毎年埋めたてていった。/たたらは、さらに厖大な木材をその燃料としているために山を荒し、上記の土砂流をさらに促進したはずである。明治以降の日本の工業化過程における公害の原点を足尾鉱山による渡良瀬川の鉱害に求めるならば、日本の有史以来の公害の原点は、このたたら製錬の発達とともに激増していったにちがいない下流農民への被害の増大に求められねばならない。
  
 大鍛冶(タタラ)集団は、一度タタラ場を設置した場所へは二度とやってこない、いわゆる「漂白民」ではない。タタラには、“わたり歩き”の30年周期説というのが存在し、一度森林を丸裸にしても30年後には再び濃い森林が形成されているため、砂鉄資源の多い場所では30年ごとに巡回するサイクルで、反復しながらタタラを操業しているという。
 目白崖線沿いで操業し、おそらく良質な目白(鋼)を製錬していた大鍛冶たちは、どこからやってきてどこへ消えてしまったのだろうか。タタラ遺跡の発掘記録が存在しないので、あくまでも想像にすぎないが、わたしの感触では周囲に散在する古墳Click!百八塚伝承Click!の密度や展開から考えると、彼らは古墳時代あるいは奈良時代の初期あたりに、平川Click!(のちに神田上水/現・神田川)を遡上し、途中で平川から金川(のち弦巻川)Click!沿いに池袋・板橋方面へ、また平川から金川(のちカニ川)Click!沿いに角筈(新宿)方面へ、さらに平川から井草流(のち北川Click!/現・妙正寺川)沿いに落合地域の西隣りにある片山タタラ場Click!へ、そして平川(神田川)の本流へと遡上していったと思われる。
 そして、この流域沿いには、斐伊川の聖域と出雲勢力Click!を想起させる、出雲神(クシナダヒメ/スサノオ/オオクニヌシ=オオナムチ)を主柱とする、創立年代がたどれないほど古くからの氷川明神社Click!が、数多く展開している点も見逃せない事蹟だろう。
赤土山斜面.JPG
目白(鋼).jpg
黒岩俊郎「たたら」1976玉川大学.jpg 黒岩俊郎「金属の文化史」1991アグネ.jpg
 かつて、目白崖線沿いで大規模な炭焼き窯の遺跡が発掘されたかどうか、わたしは浅学のために知らない。たとえば、古墳時代から平安時代まで連続する「上落合二丁目遺跡」Click!(1995年発掘調査)では、焼き窯の跡や周辺樹木の炭化材、窯に設けられた羽口、窯底の焼土などが発見されているが、それらは土師器や須恵器を焼成する窯だったようだ。判明しているだけで3ヶ所にわたる目白崖線のタタラ遺跡近くには、必ず大量の木炭を生産した窯跡があるはずだが、もはやすべてが住宅街の下で発見するすべはないのかもしれない。

◆写真上:目白不動に残る、小鍛冶(刀鍛冶・金工師)の荒神と庚申信仰が合体した剣呑龍の碑で、江戸期に入ると荒神が「幸神」や「庚申」などへ転化していった。
◆写真中上は、目白山(椿山)の山頂(現・椿山荘)あたり。は、山頂近くの斜面に残る幸神社(荒神社)。は、タタラ遺跡から出土する金糞(鉄滓=スラグ)。
◆写真中下は、神田久保へと降りるバッケ(崖地)Click!坂。中上は、金山(鐵液)稲荷が建立されていた金山(現・日本女子大学寮)。中下は、1955年(昭和30)に撮影された金山稲荷(別名:鐵液稲荷)。は、大森西に残る古墳の上に建立された大森金山社。
◆写真下は、中井駅へと下り斜面がつづいていた赤土山跡(現・山手通り)。は、わたしの手もとにある日本刀剣保存協会(日刀保)出雲タタラで製錬された目白(鋼)。は、1976年(昭和51)出版の黒岩俊郎『たたら―日本古来の製鉄技術―』(玉川大学出版部/)と、1991年(平成3)出版の黒岩俊郎『金属の文化史』(アグネ/)。
オマケ
 玄関のインターホンに、巨大なミヤマカミキリムシが出現した。宅配便の、特に女性スタッフは怖くてボタンが押せそうもないので、すべて置き配になりそうだ。
ミヤマカミキリムシ.jpg

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