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大泉黒石もはまった神奈川の化石採集。 [気になる下落合]

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 わたしは子どものころ、よく化石採集Click!に出かけた。小学生の高学年になると、自転車で近場にある更新世(昔は洪積世と呼ばれた)の地層が露出しているところへ、クラスの友だちと出かけたりした。それ以前は、親に連れられ神奈川や東京の化石を産出する地点をめぐり、夏休みの自由研究にして学校へ提出したりしていた。
 神奈川県では、すぐ近くの大磯や二宮に露出していた二宮層群Click!(魚貝類やサメの歯などの化石)であり、足柄地域の足柄層群(貝類やサンゴなどの化石)、三浦半島の横須賀から観音崎あたりの宮田層群(ナウマンゾウや魚貝類、鳥類足跡などの化石)をよく訪れていた。東京では、武蔵野Click!を歩きがてら、五日市Click!盆地(現・あきるの市)の五日市町層群(古生代~新生代の多種多様な化石)にも出かけている。
 これらの化石は、わたしの部屋でたいせつに保存したかったのだが、夏休みの自由研究で宿題として学校へ提出したりすると、教師から学校へ寄贈してくれといわれて二度ともどってはこなかった。おそらく、学校側から両親へ先に話をつけていたものだろう、自由研究が学校からもどらなくても親たちはなにもいわなかった。箱根の温泉からの帰り道、足柄山地へ立ちより山道を10km以上歩きながら苦労して採集した、20個以上の貝化石がもどってこなくなってから、わたしは二度と採集した化石を学校へ自由研究として提出することはなかった。人がせっかく苦労して集めた化石を、学校にタダ盗りされて怒りが湧かないほどガキではなくなっていたからだ。いまでも、当時の化石採集用の大小タガネ類やハンマーは、棄てずにそのまま家に残している。
 神奈川県の化石産地を、大泉黒石Click!も子どもたちを連れながらゾロゾロ歩いている。彼は大岡昇平Click!のように地質学にも詳しかったらしく、更新世(黒石の時代は洪積世)中期~後期の質のいい化石は、神奈川県の地層から産出するのを知っていたのだろう。ちなみに、黒石が住んでいたここ下落合でも貝化石は産出するが、関東ロームを5m前後も掘り下げないと砂質性のシルト層にはぶつからない。目白崖線のバッケ(崖地)Click!に、うまくシルト層が露出している箇所(その多くが湧水の出口になっている)では採集できるが、たいがい濃い樹林と下草におおわれて容易に掘ることができないか、すでに住宅が建ち並んでいて探すのがたいへんだし、うっかり掘ったりすると「あ~た、宅の土地でいったい何してるんですの?」と、地主のヲバサンに怒られたりするから厄介だ。
 大泉黒石は、子どもたちには常に丁寧語の「ですます」調で接し、親と子ではなく対等の人間同士のように応対していたらしい。父親のどこかよそよそしい態度には、子どもでさえ人格を尊重するやさしい愛情を感じた子もいれば、苦手で逃げ出したいと感じた子もいたようだ。また、黒石は子どもたちの教育には熱心で、化石採集も子どもたちに地球の歴史について興味をもたせるため、教育の一環として出かけたのかもしれない。
 神奈川県の化石採集について、1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)の付録「黒石廻廊/書報No.1」より、二女・大泉淵『幼き日の思い出』から引用してみよう。
  
 化石を採りに行った時のことです。電車で行ったか歩いたかは忘れましたが、場所は横須賀でした。もう私も小学生です。単衣を尻はしょりしてカナヅチを手に持ち、ハンカチを腰にはさんだ父の後ろからついて行くと、小高い丘を上り切った所に白い崖があって、さまざまな貝の化石が沢山ありました。丹念に採集した化石を、大事そうにハンカチに包んでいる父を見ている内に、私はなぜだかもの悲しくなりました。/家庭のことをかえりみない父ではありましたが、こと教育に関しては全く熱心でありました。
  
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横須賀磯.JPG
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 黒石は、娘の大泉淵がまだ年端もいかない小学生だったにもかかわらず、当時としてはありえない「英語」を教えはじめている。毎日、新しい単語カードを作っては娘にわたしていた。その日の単語カードを父親の部屋へもらいにいくと、「昨日のは覚えましたか?」といわれて必ずテストをされた。父親が仕事で不在のときも、欠かさずに単語カードは事前に用意されていて、彼女は情けない思いをしたようだ。大泉淵は「英語」がイヤでイヤでしかたがなかったようなのだが、のちに女学校へ通うようになってから、このときの単語カードがずいぶん役に立ったと書いている。
 また、小学生のクラスメイトが遊びにくると、大泉黒石は紅茶をいれて大人の来客に接するようにご馳走したり、まるで年ごろの娘が遊びにきたかのようにていねいに接待し、息子のポー(大泉滉)の「嫁さんになってもらえませんか?」などと頼んだりしている。黒石は、「小学生の女の子にそのようなことを礼儀正しく真面目に話す」ことができる、子どもたちにしてみれば常識はずれで面食らうようなオトナ(父親)だったようだ。
 大泉淵は、子どものころからいっぷう変わったそんな父親が苦手で、彼女はいつも父親から逃げまわっていたらしい。大泉黒石としては、かわいい娘たちを連れて歩くのが楽しくてしかたがなかったのかもしれないが、小学生の娘にしてみれば迷惑以外のなにものでもなかった。「黒石廻廊/書報No.1」から、つづけて彼女の証言を聞いてみよう。
  
 私達はいつも父親から逃げたいという態勢でした。父は背が高いうえ脇も見ずに真直ぐ大またで歩くので、向うから父が来たと分ると、なるべく背を低くしてすりぬけるようにします。ひとたびつかまって、「一緒に来ませんか」といわれたが最後、私達の習慣としてイヤということは出来なかったものですから、何処へ連れて行かれるか分ったものではなかったのです。彫刻家、画家、映画の監督さんの家、など。つかまるのは外とは限らず、家にいても「一緒に来なさい」といわれたら運が悪いとあきらめるわけです。その日はどっちでつかまったか分りませんが、私は銀座の南蛮というバーに連れていかれ、その揚句おきざりにされて、母をひどく心配させたこともありました。とにかく父と歩くと実にお腹が空くので困るのです。
  
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 上記の彫刻家や画家の中には、同じ下落合のアビラ村(芸術村)Click!ないしは落合地域に住んでいた人物が含まれていたのかもしれない。また、「映画の監督さん」は日活向島撮影所の脚本部にいたとき以来の友人たちだと思われ、中には『血と霊』の溝口健二Click!も含まれていたのだろう。銀座のバー「南蛮」は、その店名から同郷の長崎出身のママが切り盛りする、昔から馴染みの店だったのだろうか。
 大泉黒石の子煩悩は、東京帝大近くの本郷に住んでいたころからのようで、やはり長男の大泉淳を連れては散歩や見物に出かけていたようだ。大泉黒石の本郷時代というと関東大震災Click!の前、1920年(大正9)ごろのことだ。やはり、小学校に通いはじめた大泉淳を散歩に誘っては、当時はめずらしかった飛行機を見に出かけたりしている。
 1988年(昭和63)出版の『大泉黒石全集』(緑書房)の付録「黒石廻廊/書報No.2」より、今度は長男・大泉淳『黒石の思い出』から、その父親黒石像を引用してみよう。
  
 その後本郷の、帝大から程遠からぬ所に引越した。父は赤門通りの、いちょう並木の落葉が散り敷く坂道をよく散歩していた。郷里長崎の石畳の坂道の面影を求めていたのかも知れない。或は散歩の間に小説の構想を練っていたのであろう。坂の途中に屋台店があって油で揚げて砂糖をまぶした薩摩芋を売っていた。父は時々そこに立ち寄って土産にそれを買って帰り、油に滲んだ新聞紙の包を開けて親子でそれをつまんだものである。後年、大学芋と呼ばれる同種の芋を見る度に帝大の近くにあった、あの屋台店のことを思い出す。
  
 帝政ロシアの官僚だった父親の遺産がつきてカネがなくなり、一高を中退せざるをえなかった大泉黒石は、どこかに東京帝大への未練があったものだろうか、本郷では帝大周辺をよく散歩している。家族がいた当時、創作の合い間にも子どもたちのことを気にかける子煩悩でやさしい父親だったようだが、娘たちにとっては「逃げたい」存在だった。もっとも、父親が煙たいのは、別に大泉黒石の娘たちに限らないのだろうが……。
 大泉黒石は毎年、夏休みになると故郷の長崎へ家族旅行に出かけている。すでに長崎には、黒石の身寄りや姻戚はひとりもいなかったが、やはり生まれ育ったところなので彼を生涯惹きつけてやまない街だったのだろう。長崎では仕事をせず、1ヶ月間をただなにもせずに遊んで暮らしていたらしい。子どもたちを連れていたので、もちろん名所史跡めぐりはしただろうし、散歩や食べ歩き、海水浴などにも連れていっただろう。ときに、子どもたちの夏休みの宿題をみてやるなど、ひと月を作家ではなく父親としてすごしている。
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 大泉淵の姉の家には、大泉黒石が海岸でひろい集めた美しい貝殻の入った箱があった。彼女の姉の娘、黒石にとっては孫娘のために集めた貝殻だった。横須賀の化石採集へ娘たちを連れだしても、まったく喜ばなかったのを憶えていたものか、更新世の貝化石ではなく現代のきれいな貝殻ばかりを集めたらしい。大泉淵は、孫娘のために砂浜でしゃがみながらひとつひとつ、きれいな貝殻を選んでひろっている父親の姿が浮かび、「胸を熱くして一粒の貝を手のひらにのせると私はながいこと見つめておりました」と、エッセイを結んでいる。

◆写真上:関東大震災のときに地中から浮上した、貝化石を数多く含む二宮層。
◆写真中上は、横須賀市の観音崎に露出する地層と磯。は、麻布か本郷時代に撮影された大泉一家だが子どもはまだふたりしかいない。
◆写真中下は、下落合の砂質シルト層から見つかる貝類化石(「新宿区立図書館紀要Ⅰ」/1967年)。左上から右下へ順にカガミガイ(他)、ナミガイ、ヤツシロガイ、オオノガイ、ミルクイの化石。は、同じく同紀要より左上から右下へ順にブラウンイシカゲガイ、ホソスジカガミガイ、トリガイ、イタヤガイ、ウチムラサキ(?)、アサリの化石。は、大磯海岸のこゆるぎの浜に関東大震災の直後から露出した二宮層。
◆写真下は、1923年(大正12)秋の関東大震災直後に上映された大泉黒石×溝口健二監督『血と霊』(日活)のポスター。大震災後の騒然とした中での上映で、観客の入りがかなり悪かった。は、1923年(大正12)2月に故郷の長崎を訪れた大泉黒石(前列中央)。
おまけ
 神奈川の代表的な化石産出地層で、上が二宮町に露出する二宮層と、下が足柄上郡山北町に露出する足柄層群。足柄層群からは貝のほか、サンゴの化石も多数発見されている。
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アヨアン・イゴカー

黒石は、随分変人のようなところもあるように見えますが、興味深い人ですね。
我が家は川崎市の北部ですが、近所の山に横穴があり(軍隊が戦時中に掘り掛けた後のようですが)そこの壁面に、化石になりかけの脆い貝が沢山埋まっていました。子供の頃、探検と称して、何度か行って採ってきたことがあります。私有地なので、今は入ることはできませんが。
by アヨアン・イゴカー (2023-09-03 14:39) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
魅力的な地層が露出しているところは、たいがい私有地か、寺社の立入禁止の場所なんですよね。それを避けるとすると、隆起した山の登山道とか海岸べりに露出し風化した地層ばかりになります。
いまの住所一帯で、化石を探したことは一度もありませんが、旧・新の石器を探して関東ロームが露出した崖地を掘っていたら、地主のおばさんに怒られたことが一度ありました。w
by ChinchikoPapa (2023-09-03 20:08) 

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