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実は美味しい“冷や飯喰らい”の妙。 [気になるエトセトラ]

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 わたしの母方の祖父は、冷や飯(ひやめし)が好きだった。祖父に限らず、冷や飯が好きな人が昔はたくさんいたように思う。“冷や飯喰らい”というと、江戸の武家の間では“厄介叔父”などとも呼ばれ、嫡子(長男)以外の弟たちは家の中では煙たがられたようだ。どこかへ養子のもらい手もない、あまり優秀でない、または幸運にめぐまれない男たちは生涯、家長あるいは嫡子が食事をしたあと、残った冷めた飯を遠慮しながらこっそり食わなければならない存在で、“石(ごく=米)つぶし”ともいわれて蔑まれた。
 だが、中国や朝鮮半島由来の儒教思想に根のある、「家制度」にまつわるこのような習慣は、幕府の小旗本や御家人の間ではあまり根づかず、ましてや江戸の町人(商家・職人)の世界では家庭内の様相Click!がまったく異なっていた。一家の女性Click!(いわゆるお上Click!)がマネジメントをつかさどる家庭が多く、男は職技=仕事に精通して店(たな=企業)や家の経営は女性に委任する、男女の役割分担(分業化)が進んでいた。そのような家では、お上Click!の統括のもと“冷や飯喰らい”は不良にでもなっていなければ存在せず、兄弟そろって同じ仕事(職技)に励む家も少なくなかった。
 少し横道へそれたけれど、“冷や飯喰らい”はあまりいい意味の言葉ではないが、炊きたての熱い飯ではなく、冷や飯を好んで食べる人が昔は多かった。もちろん、電子(保温)ジャーや電子レンジなど昔は存在しなかったので、冷や飯を食べる機会も多かったのだろうが、熱い飯では米の味がよくわからず、あえて飯を冷ましてから食べる人がたくさんいたのだ。冷めた飯のほうが、熱々の飯よりもじっくり噛みしめて味わえるので、米がもつ本来のうまさがよくわかり美味しいと感じたのだろう。
 夏場の小腹満たしには、冷や飯の上に冷ました煎茶をかけて食べる冷や茶漬けClick!が好まれ、冬でも炊きたてではなく、飯を冷ましてから食事をする人たちが多かった。ただし、おみおつけ(味噌汁)やおすまし(すまし汁)は熱々でなければダメで、どのようにしたらもっともうまい飯が食べられるのか、昔の人たちはいろいろ食事の工夫や作法にこだわっていたにちがいない。確かに、熱々の飯よりは少し冷ましてから食べたほうが、米のうまさや銘柄による味わい、風味のちがいなどがよくわかる。
 わたしも食べ物には意地きたないが、もっと意地きたない人の言葉を聞いてみよう。冷や飯以外は食わないといっているのは、ことのほか食にうるさい作家の子母澤寛Click!だ。1977年(昭和52)に出版された『味覚極楽』(新評社版)から引用してみよう。
  
 しかしこの時にきいた飯の味は冷や飯が本物だということは間違いない。私は道重さんの話をきいていったい本当かどうかと、試してみたのが病みつきで三十年来飯は冷や飯に限るとしている。寒中に冷や飯へ水をかけて沢庵で、なんてところまではいかないが、絶対熱い飯は喰わない。いや、喰えなくなってしまった。そのため朝など、女中さんが困ることもあるらしいが、少し硬目の冷や飯に、その代りだしのよく利いた舌の焼けるようなうまい味噌汁、これが私の一番好物で、ずっと今日までこれをやっているのだから、道重さんも地下で微笑していられるかも知れない。
  
 「道重さん」とは、徳川家の菩提寺Click!で巨刹のひとつである芝増上寺Click!の大僧正・道重信教のことだ。冬でも冷や飯に水をかけて食べていたらしいが、3000年前のシャカの教えのとおり「肉を喰うと慈愛の精神がなくなる」と説いた、動物の殺生を禁ずる戒律をもつ仏教僧Click!としては、しごくあたりまえの食生活だったのだろう。旅行などでよその地方に出かけ、現地で馴れないものを食べては吐いていたというから、ふだんから食べ馴れた飯(米)を持参する、まるで配給制度があった食糧難時代Click!のような趣きだが、それほど食や味に関してはうるさい人物だったらしい。
 わたしの親父も、熱々の飯が苦手だった。多少ネコ舌だったせいもあるのだろうが、少し冷ましてから食べたほうがうまいといっていた。母方の祖父Click!も同様で、食事の最初に飯をよそらせ、しばらく酒を飲んだあと、ほどよく冷めたころを見はからって食べていた。この人も食に関してはこだわりがあり、めっぽううるさい人だった。
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 江戸の芝居茶屋から普及したうなぎ飯(うな重Click!)だが、あれは炊きたての飯の熱さを逆に利用したもので、すぐに食べなくても(幕間になるまでしばらく放置しても)、うなぎの焼きたて感が保てるための工夫だった。脂がのっているうなぎは、冷めると硬くなるので蒸しを強くするが、それでも芝居が役者のセリフまわりで長丁場だったりすると、皮が硬くなり食べにくくなる。うなぎが適度に温かみを保ち、飯がほどよく冷めたころ、双方がいちばん美味しく食べられるコツだったのだろう。
 ちょっと余談だが、わたしはときに蒲焼きClick!の皮がパリッとして香ばしいのも好きで棄てがたい。たっぷりと蒸しをきかせて、口の中でとろけるような蒲焼きもいいが、焦げめの香ばしさを残したタレの味が映える食味も好きだ。現在は前者が乃手の店に多く、後者が今日いわゆる下町Click!と呼ばれている地域の店に多いだろうか。
 蒲焼きヲタクだった新派Click!の俳優・伊井蓉峰Click!は、とにかく蒲焼きの皮が硬いなどもってのほかで、通りがかりではなくいきつけの店で蒲焼きをちぎろうと、箸を立てたら皮が抵抗してうまくいかず、さっそく店の親父に文句をいったところ、皮の硬いのが好みの客が増えているといわれた。「馬鹿なことで、うなぎは皮があってなきがごとしを上とするもんだ」と、子母澤の取材では話しているが、おそらく伊井は蒸しにたっぷりと時間をかけられる、高級な蒲焼き屋ばかりを食べ歩いていたのだろう。
 ざっかけない蒲焼き屋では、通りすがりの客の回転も考えるため、蒸しの時間を短縮して出すことが多いのか、焼きが強い蒲焼きにお目にかかることがある。だが、それはそれなりにまた香ばしくタレがのって美味しく食べられるもので、わざわざ「上」だの「下」だのというほどのことでもないように感じる。もっともダメな蒲焼き屋(伊井の表現にならうなら「下」)は、うなぎの泥臭さをうまく処理できていない、料理の初歩的な技術からして知らないか、手抜きをしているような店だ。
 さて、新宿の河田町には小笠原伯爵邸がいまもレストランとなってそのまま残るが、その小笠原家の誰かが京で面白い飯の食い方をしている。おそらく、江戸期の逸話ではないかと思われるが、まるで江戸市中で暮らした忙しい職人か俸手振(ぼてふり)、日雇取(ひようとり)のような食事の「作法」だ。同書より、子爵・小笠原長生が語る伝承を引用してみよう。
  
 むかし私の家の何代目かの人間が京都へ使いに行って宮中で御膳が出た。小笠原流の一家の者だ、どんなふうにして飯を食うだろうとさらでだにこんなことにはやかましい公卿さん達は唐紙障子のかげにかくれてすき見をしている。小笠原はただちにこれに気がついたのでまずいきなりお汁もお平のおわんもふたをとると飯の上へざぶりと汁をかけ、その上へお平をまた打ちかけ、また香の物を打ちかけてさくりと食い出した。公卿達は肝をつぶした。なあんだ小笠原一家の者だなどといって、あれでは田夫野人にも劣るというので、しきりに冷笑したが、いよいよ膳部を下げて箸を洗うことになってはじめてびっくりした。そんな荒っぽい食い方をしているにもかかわらず、箸の先が二分とはよごれていなかった。小笠原流などといってむやみに形式ばかり論ずるがそんなものじゃないということを示した訳である。
  
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 わたしの世代でいえば、これは「木枯し紋次郎」風な食い方で、こんなことをすればわたしの家でもさっそく「お行儀が悪い!」と母親から叱責されただろう。
 だが、礼儀や礼法で形式化された食べ方では、食事のほんとうの美味しさや醍醐味がわからないのは、『味覚極楽』でも多くの人が証言している。炊きたてで熱々のご飯を出して客をもてなしたり、うなぎを香ばしく皮がほんの少しパリッとするところ残して出したところ、かえって嫌な顔をされるシチュエーションもあることを考えると、料理というのはほんとうに奥が深くてむずかしいものだと思う。食に対する個々人の趣味嗜好はもちろんあるが、その外枠の“くくり”として地域・地方の食文化のちがいもあるのだろう。
 やはり冷や飯が好きだったとみられる、子母澤寛Click!がインタビューした当時は民政党の影のボス、実質的な党首だった榊田清兵衛はこんなことを書いている。
  
 江戸生粋の料理でつづいた「八百善」がこの節はもなどを出したりするくらいで、いわゆるむかしからのうまい物屋もだんだんなくなってしまう。/江戸の料理というものは今ではなかなか味わえない。いろんなことはいっても上方料理の影響が利いて第一魚の切り方からが変わっている。それに支那料理風が流れこんだり、西洋風がはいったりして、つまり自然のものその物の味を出して、すべて淡白にやっていくという江戸料理よりは調味料をうまく使って食わせるというやり方が多くなっている。
  
 新鮮な素材がふんだんに手に入る、自然の風味を活かした料理が確かに江戸東京地方の大きな特徴であり持ち味なので、ゴテゴテといじくりまわすような料理を榊田が批判するのも無理はない。榊田が話すころから東京の料理屋の味、つまり“うまいもん”Click!の風味が少しずつ変化してきたのだろう。ただし、彼は政界のボス的な存在なので、八百善のような高級料理屋や新橋・赤坂あたりの料亭などで食事をする機会が多かったにちがいない。そのような店では明治以降、薩長政府の政治家や役人たちの舌にあわせた味つけを、あえてするようになっていたのに気づく。
 八百善でハモ(鱧)が出たのが、よほど腹立たしく気障りだった榊田だが、確かに多彩な太平洋の魚に比べそれほどうまいとも思えないハモは、いまでも東京では普及していない。
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 わたしも、冷や飯食いをマネしようと何度か試みたのだが、湯気が立つ炊きたての飯の香りも棄てがたく、いまではかわりばんこClick!に味わうようになった。だから、道重信教や子母澤寛などにいわせれば、いまだ舌が未熟で米のほんとうの味を知らないのかもしれない。

◆写真上:新宿・河田町にある、2000年(平成12)よりレストランとなった小笠原長幹邸。
◆写真中上は、毎日食べるご飯で近ごろは山形の「つや姫」が定番。は、めずらしくサルといっしょに写らない子母澤寛。は、芝の増上寺境内。
◆写真中下は、新派の人気俳優だった伊井蓉峰のブロマイド。は、牛込区(現・新宿区の一部)の河田町にレストランとして残る小笠原長幹邸(1927年築)。
◆写真下は、天保年間に制作された安藤広重Click!『江戸高名会亭尽/八百善』。は、民政党のボスだった榊田清兵衛。は、目黒不動ではなく巣鴨「にしむら」のうな重。
おまけ
 クーラーの冷たい風が苦手なのか、夏になるとどこかの天井近くで昼寝をする凶暴なアライグマ……ならぬ、うちのオトメヤマネコ(6歳♀)も猫舌で冷や飯しか食わない。
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サンフランシスコ人

米国では、乾燥気候の場所が多いので、冷や飯が大変まずいですよ...
by サンフランシスコ人 (2023-09-06 03:35) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
水分が抜けデンプン質が悪くならないようにするには、冷凍保存がいいのかもしれないですね。もっとも、パサパサになった飯は中華の炒飯にはピッタリです。
by ChinchikoPapa (2023-09-06 10:14) 

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