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「老子!」と黒石少年にトルストイはいった。 [気になる下落合]

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 下落合2130番地に住んだとみられる大泉黒石Click!は、1924年(大正13)に文学講演旅行へ出かけている。黒石は1922年(大正11)に、ロシア文学が成立する“前史”ともいえる『露西亜文学史』(大鎧閣)を出版しており、明治末から大正期に起きた空前のロシア文学ブームの中で“本史”の続編出版が待望されているような状況だった。
 だが、日本文壇から排斥され出版機会を奪われたせいもあるのだろう、ついに『露西亜文学史』の“本史”を執筆できなかった。もし、大泉黒石Click!がつづけて『続・露西亜文学史』を書いていたら、19世紀から20世紀にかけての世界文学における一大山脈(父親と同郷で近所にいたトルストイClick!とはかろうじて同時代で、ヤースナヤ・ポリャーナとモスクワで都合三度も会っている)を、同時代のフランスやイギリスなどの文学界と重ねて、グローバルなマクロ的視界でどのように認識していたかが描かれ、非常に貴重な文学史料になったと思うと残念でならない。
 1924年(大正14)の春、福岡高等学校の学生たちを中心に開催された文芸講演会には、大泉黒石のほか辻潤Click!高橋新吉Click!が出席する予定だった。もう、アナキズムとダダClick!の匂いしかしないメンバーだが、実際に講演したのは辻潤Click!ひとりだった。高橋新吉は、故郷である愛媛県の伊方町に寄りたくなったのか四国へわたってしまい、大泉黒石はやはり故郷の長崎県八幡町(現・長崎市)に足を延ばしたままもどらなかった。したがって、文芸講演会で登壇したのは辻潤ひとりだった。
 当時は福岡高等学校の学生で、のちに作家で文芸評論家になる福田清人がその様子を記憶している。1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.6」(1988年7月29日)より福田清人『大泉黒石のスナップ』から引用してみよう。
  
 「買って下さった券には、私の他に詩人の高橋新吉と作家の大泉黒石の名が印刷されている。福岡で会ってしゃべる約束だったが、高橋は四国へ消え、大泉も郷里長崎へ行くと言って現れない。僕が三人ぶん話すから我慢してくれ給え」/前日、三、四人の青年を連れて高校の門前に五十銭の入場券を売りに来た辻潤は、黒のソフトに黒マントそのままの格好で壇上に立ち、前の卓上にビール瓶があり、時々コップに注いで飲んでは語りつづけた。
  
 福田清人は長崎の同郷であり、日本文学ではなく世界文学の視野だった大泉黒石の話を聞けなかったのによほど失望したのか、講演の様子を鮮明に憶えている。
 大泉黒石は、実際に生活した日本やロシアはもちろん、同時代のフランス(居住)やドイツ、イギリス(居住)などの文学に精通し、中国(居住)は特に古典文学に詳しかった。このような作家は、大正期から昭和初期にかけて日本にはほかにおらず、多くの私小説家は知識や視野、体験レベルからして大泉黒石にはまったく刃が立たなかったろう。文壇からの激しい嫉妬や、意図的・計画的な疎外(“あいの子”差別を含む嫌がらせ)を受けるのは、当時の日本では必然だったとみられる。
 特に国家を否定し、キリスト者的で謙虚な姿勢を貫きながら生活するトルストイとの邂逅は、大泉黒石の創作や生活におけるどのような政治的権力も認めないトルストイズム的アナキズムとして、人生における経糸的な思想にまで昇華していたのではないだろうか。彼の愛読書の1冊だった老子『道徳経』は、少年時代に出会ったトルストイからの強い教示を受けたものだっだ。トルストイもまた、老子の著作からは強い影響を受けている。
 また、自身の極貧生活を題材にした作品は、明らかにゴーリキーを意識したものだと思われ、黒石の怪奇趣味はゴーゴリやチェーホフのような味わいがあり、登場人物たちの内面告白的なモノローグやセリフは、ドストエフスキーの作品を直接的に連想させる。このような創作の流れに、フランスやドイツ、イギリス、中国、日本などの古典・現代文学から吸収したさまざまな思想や表現が加味されているのが、日本語で書かれているものの「日本文学」には到底収まりそうにない、大泉黒石の広大な文学ワールド(表現世界)を形成している。
大泉黒石「老子」1922新光社.jpg
大泉黒石(少年時代).jpg
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 日記にでもつけておけばいいような「私小説」(「純文学」??)で、ごくごく小さくこじんまりとまとまっていた当時の文壇にしてみれば、この広大な視界をもつ作家が自分たちの貧相な世界を映す鏡のようにも見えて脅威となり、極力いなくなってほしい人物のひとりになっていったのは想像に難くない。今年(2023年)に岩波書店から出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』では、彼の文学的素養について次のように書いている。
  
 こうしたことのすべては、二〇世紀前半を生きた日本の文学者、知識人として稀有なことである。幼くしてモスクワとパリに学んだことが決定的であった。単一の、絶対の母国語をもたないこと。言語とはつねに複数の言語であり、大切なのはいつでもその場にあって、身近に語られている言語を用いて書くことだ。驚くべきことであるが、黒石にとってエクリチュールの始まりとは、パリのリセ時代になされたフランス語のヴィクトル・ユゴー博物館訪問記である。やがてそれは日本語に取って替わられるのであるが、ロシア語はもとより、ドイツ語、英語、フランス語に通じているという語学的才能と経験は、彼の文学に独自の言語的混淆をもたらすことになった。(中略) 黒石に漢文的教養がなかったかというと、実はその逆である。中国の艶笑小説に蘊蓄を傾けたり、漢籍でもかなり専門的なところまで踏み込んで論じている。
  
 これらのことは、同書にも「久米正雄ら既存の文壇作家たちが危機感を感じる。黒石への違和感を口にし、彼を警戒する」と書かれているとおり、日本文壇から「虚言癖」として排斥される理由にもなった事蹟だが、すべて事実だったことが指摘されている。ちまちました私小説家があふれ、ゾロゾロ群れたがる当時の文壇にとって、彼のような作家はスケールが大きすぎて理解不能で意味不明だったのだろう。日本文学は、「自然主義」文学以来の誤解と履きちがえによる「純文学」的な「私小説」の流れから、ようやく脱却できるかもしれない大きなチャンスを、自らの悪意と揶揄と冷笑で意図的につぶしている。大泉黒石の排斥は、日本文学史における最大レベルの損失のひとつだろう。
 それでも書きつづけるところに、大泉黒石のすごさ……というか図太い神経があるのかもしれない。『預言』の自序では、日本の文壇にはなにも期待していない旨を表明し、高田町から目白台を舞台にしたドストエフスキーばりの物語を紡ぎ、『老子』では自身なりに消化したアナキズム思想をトルストイの思想と重ねあわせて追究し、江戸期の長崎を舞台にした最後の長編小説『おらんださん』では、日本語の独特な表記法(ルビ)に着目・応用しながら、それまで誰も見たことのない多国籍的かつ実験的な小説を創造してみせた。
黒石怪奇物語集1925新作社.jpg 大石黒石「おらんださん」1941大新社.jpg
大泉黒石「山と渓谷」1931二松堂書店.jpg 大泉黒石「渓谷行脚」1933興文書院.jpg
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 恥ずかしながら、わたしも最近まで彼の作品を読むことはなかった。大泉黒石が下落合に住んでいたことは、林芙美子の著作でずいぶん以前から知っていたが、読まなかった理由のひとつには戦前の本以外、戦後は出版物そのものがほとんど存在しなかったこともあるだろう。緑書房による『大泉黒石全集』(1988年)は出版されていたが、部数が少ないせいかかなり高価で手が出ず、なかなか「読めなかった」ともいえるだろうか。
 『大泉黒石全集』の「黒石廻廊/書報No.6」(1988年7月29日)には、英文学者で東京大学教授だった由良君美が『反戦文学と黒石』と題して、次のように書いている。
  
 分からず屋の言い分など、どうでもよい。<一流の>・<二流の>、<主流の>・<傍流の>、<純文学の>・<大衆文学の>とやくたいもないゴタクをならべている暇に、偏見を括弧にいれ、虚心にテクストに対面し、その内在的評価を試みたらよかろう。そのとき、右(=上)にのべた三者は互いに雁行する価値を現わすことであろうし、黒石の『ほろ馬車巡礼』と『人生見物』の位置付けもおのずから定まってくるであろう。(カッコ内引用者註)
  
 大正期から昭和初期(ひょっとすると「戦後」もしばらくだが)にかけての、狭隘な「私小説」で「純文学」のつまらない文壇のゴタクなどどこかへうっちゃっておき、素直に黒石作品に対して接すれば、いかに当時の「純文学」とは比較にならないほどの広大な、そして巨大な創造(想像)力にあふれているかがわかるだろう。
 しかも、大泉黒石の作品群は想像世界を空まわりする、地に足の着かない荒唐無稽で浮薄な表現ではなく、実地の経験や物語の現場を実際に見て聞いて歩いて踏まえたうえでの、非常にリアルかつシリアスな記述に驚かされるにちがいない。それが、底の知れない視野狭窄症で「井里的青蛙」(黒石の漢文風にw)に陥っていた、当時の日本文壇にはまったく理解できなかったとしても、むしろ当然の帰結というべきだろうか。
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神田上水大洗堰1935.jpg
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 大泉黒石は『俺の自叙伝』(1919年)で、「露西亜に来ると日本へ帰りたくなるし、日本に一年もいるとたまらないほど露西亜が恋しくなる。俺は二つの血に死ぬまで引き回されるんだろう。そして最後に引っ張った土が俺の骨を埋めるに決まっている」と書いている。最後に黒石が引っ張られたのは、ロシアではなく日本だった。それは、彼の作品がほとんど日本語で書かれていることも含め、日本文学史にとってはかけがえのない幸甚なことだろう。

◆写真上:大泉黒石が少年時代に、実家の近くで邂逅した晩年のレフ・トルストイ。
◆写真中上は、トルストイにも奨められた老子の思想を主題にすえる大泉黒石『老子』(新光社/1922年)。は、少年時代に長崎の写真館で撮影された大泉黒石。は、大泉黒石がよく散歩したとみられる下落合4丁目(現・中井2丁目)の五ノ坂。
◆写真中下上左は、1925年(大正14)出版の『黒石怪奇物語集』(新作社)。上右は、1941年(昭和16)出版の黒石最後の長編『おらんださん』(大新社)。中左は、1931年(昭和6)出版の大泉黒石『山と渓谷』(二松堂書店)。中右は、1933年(昭和8)出版の同『渓谷行脚』(興文書院)。黒石は山歩きが大好きだったが、出版社から小説の注文が絶えたため、やむなく日本の山々や温泉などの紀行文を書くようになった。筆に脂の乗りきった時期だっただけに、日本文学にとってはまさに“宝のもち腐れ”状態だった。は、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)だが未収録の作品がかなり多い。
◆写真下は、大泉黒石の長編『預言』の舞台となった目白台近くの江戸川Click!(現・神田川)。は、『預言』にも登場する1935年(昭和10)撮影の旧・神田上水Click!と江戸川との分岐点だった大洗堰Click!は、1924年(大正13)ごろ『預言』を執筆中の大泉黒石。
お知らせ
 拙サイトでも繰り返し登場している画家・八島太郎(岩松惇)Click!だが、山田美穂子様Click!より明日のNHK-Eテレで日曜美術館『故郷は遠きにありて~絵本画家 八島太郎~』(望郷の絵本画家)が放映されるとのことです。スケジュールは以下のとおりです。
■『故郷は遠きにありて~絵本画家 八島太郎~』(日曜美術館)
 ・放送日:8月27日(日) AM9:00~9:45
 ・再放送:9月3日(日) PM8:00~8:45
 わざわざお知らせくださり、ありがとうございました。>山田様
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skekhtehuacso

大泉黒石さんの最後の写真を見て、
「なんとなく大泉滉に似ているなぁ」
と思ったら、親子だったんですね!
by skekhtehuacso (2023-08-25 22:10) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
『預言』を書いていた関東大震災のころから大正末にかけてが、いちばん大泉滉にそっくりな風貌をしています。あっ、大泉滉がお父さんによく似ているのですが。w 同じ年齢ぐらいの写真を、Photoshopで加工して同じ髭や髪型に同じメガネにすると、ちょっと見分けがつきにくいと思います。
by ChinchikoPapa (2023-08-25 22:42) 

アヨアン・イゴカー

>『続・露西亜文学史』を書いていたら
これだけ語学が堪能な黒石が書いてたら、と想像するのは楽しいですね。
それにしても、文芸講演の登壇予定者が二名もトンズラするなんて、入場券を買った人は詐欺にあったような気分でしょうね^^;
by アヨアン・イゴカー (2023-08-27 13:44) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
そうですね、少なくとも同時代に存在した露・英・仏・独・中・日の各国語で書かれた、ロシア文学に関する主な参考資料には目を通して書けていたはずで、またそれらの書籍や資料を各国に滞在中(独は除く)に蒐集していたとみられますので、とても充実した視野の広い「露西亜文学史」が書けていたのではないかと思います。あるいは、どこかの大学が黒石を文学史講師に招聘していれば……とも思います。講演会を予告して、講師がバックレて来ないのは詐欺ですね、ww
by ChinchikoPapa (2023-08-27 17:55) 

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