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「目白教会」を伝道教会と福音教会が綱引き。 [気になる下落合]

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 早稲田大学Click!第一高等学院Click!(教養課程)で、1923年(大正12)から戦後の1952年(昭和27)までの30年間にわたり、生物学を教えていた教授に本間誠がいた。親父は、戦時中から戦後にかけて諏訪町(現・高田馬場1丁目)に下宿Click!して、同高等学院の理科に在籍していたので、確実に本間教授の講義を受けているだろう。
 本間誠は、東京帝大農学部(遺伝学)に入学すると、身体を壊してしばらく静岡県の伊東で静養するうちに、伊東教会へ通うようになり洗礼を受けている。1915年(大正4)には、帝大農学部の近くに下宿して中渋谷日本基督教会講話所(現・中渋谷教会)へ通うようになった。大学を卒業後、1921年(大正10)にはキリスト教の教師試験を受験してパスし教師試補の資格を得て、教会での礼拝説教活動ができるようになった。早大の第一高等学院で教職に就いたのは、その翌々年ということになる。きょうはクリスマスの直前でもあるので、近所にある教会について少し書いてみたい。
 1921年(大正10)秋に富路子夫人と結婚すると、高田町高田1442番地(現・雑司が谷3丁目)加藤方の2階を借りて住みはじめている。現在では、ちょうど都電荒川線Click!の鬼子母神電停西側にある雑司が谷地域文化創造館のあたりだ。6畳+4畳半+3畳の狭い部屋だったが、本間夫妻はここの6畳間で1922年(大正11)2月に、目白日本基督教会講話所を設立している。のちの目白伝道教会、現在もある目白町教会の前身だった。
 毎週水曜日の午後に講話会が開くようになったが、場所がらか通ってくるのは近くに下宿する早大生が多かったようだ。多いときには30名ほどが6畳に集まったが、階下の加藤家から「家が古いから大勢二階に上ると危ない」「取次が面倒だ」といわれ、近隣からも「下宿の他の学生の勉強の邪魔になる」など苦情が相次いだため、同年8月には高田町大原1558番地(現・目白2丁目)に一戸建ての借家を見つけて移転している。
 1923年(大正13)に、本間誠が早稲田第一高等学院へ就職するころになると、折りたたみイスを30脚そろえオルガンも寄贈されたので、木曜夜の祈祷会と日曜礼拝がスタートしている。1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」には、高田町1558番地に「本間誠」の名前を見つけることができる。目の前に「東京牧場」Click!のひとつ、博勇社牧場が拡がるのどかな一帯だった。また、同年から礼拝堂の建設と、伝道教会設立に向けた計画が具体化していく。以前より、目白講話所が奥まった敷地にあるのでわかりにくく、もう少し目白駅に近い敷地が求められた。
 こうして、1928年(昭和3)の暮れに本間夫妻は多大な借金をして、高田町大原1600番地の家屋と借地権を手に入れ、北側の家にはまだ人が住んでいたので、南側の家を牧師館と講話所にしている。新たな敷地は、目白駅から直線距離で250mほど、川村学園Click!のすぐ北東側にあたる位置で、以前の敷地に比べて100mほど駅に近くなった。翌1929年(昭和4)には、目白日本基督教教会講話所が中渋谷教会から承認され、改めて目白伝道教会として活動していくことになった。
 さて、キリスト教徒でもないわたしが、なぜ目白伝道教会(現・目白町教会)に惹かれたかといえば、本間教授が早大第一高等学院に通った親父の恩師である点もあるけれど、もうひとつ、当時の記録に思わぬ人物の名前を見つけたからだ。
 早大第一高等学院は、現在の早大文学部や早稲田アリーナ37号館(旧・記念会堂Click!)などがある戸山キャンパスにあったのだが、そこで教えていた本間教授の姿を、1969年(昭和44)に刊行された『目白町教会四十年史』(日本基督教団目白町教会)収録の、渡鶴一「早稲田大学における本間先生との出会い」および神沢惣一郎「早稲田大学教授としての本間誠先生」から、少し長いが引用してみよう。
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 第一高等学院は少し離れた戸山町の、現在記念会堂のある敷地にあつた。幾棟も木造二階建の校舎が立ち並んでいる中で、先生の教室は奥まつた一番南寄りの棟の二階に位置していた。窓外には隣接の陸軍戸山学校の藪や木立が見え、そちらの方から、晴れた冬の日など、授業時間の静けさの中へ雉子の鳴声がひゞいて来たりした。この教室に隣つて博物関係の標本室があつて、その一隅の窓際に先生のデスクがあり、此処が、今から想えばお粗末な、だが当時にあつては先生達の中では比較的恵まれた部類に属する、先生の研究室?で、此処で先生はおよそ二十年間、つまり大戦末期の昭和十九年六月に第一高等学院が陸軍に徴用されるまで、研究や思索に多くの時を過ごされたのであつた。(渡鶴一)
 あるとき先生が講義の終りに、ひる休み自分の研究室で聖書購読の集りをしているから、関心のある人は出席して欲しいといわれたことがある。私は友人の〇〇〇〇君(註釈略)と二人でその会に出たことがあるが、これが共助会の集りであつた。私は当時すでにキリスト教青年会の集会にも出ていたので、その後続いて出席することを遠慮したが、友人はその後先生からこれを読みなさいといわれてわたされたといつて、ガラテア書講解をみせてくれた。(神沢惣一郎)<人名伏字引用者>
  
 第一高等学院の南の校舎から見えた、戸山ヶ原Click!陸軍施設群Click!が興味深い。渡鶴一は「戸山学校」と書いているが、校舎の南側に接して見えていたのは陸軍軍医学校Click!であり、またキャンパスの西側に現在の箱根山通りをはさんで見えていた建物は、731部隊(石井部隊)Click!の国内本拠地だった防疫研究室Click!のはずだ。
 神沢惣一郎の回想の中に、友人として本間誠の集まりへいっしょに出席する「〇〇〇〇君」が登場しているが、歴史学(政治史が中心で専門は近代政治史・政治思想史)の〇〇教授は、わたしが選択していた専門課程のゼミ論(卒論)の担当教授で、アルバイトや野暮用などでゼミをサボりがちなわたしの成績表に、いまでも信じられないが数少ない“マル優”をくれた教授だった。つまり、〇〇教授もまた親父と同様に本間誠の教え子だったということで、がぜん目白町教会への興味が湧いてきたというしだいだ。
 もうひとつ、『目白町教会四十年史』には面白いエピソードが伝えられている。1940年(昭和15)に宗教法人法が施行されると、日本基督教会では「日本基督教団」法人化のため、各教会の責任者が同意書を提出することになった。もちろん、目白伝道教会では本間牧師が署名・捺印し教会本部に送っている。その後、法人格の日本基督教団が創立され、改めて各地域の教会名が再検討されることになった。同書より、その様子を引用してみよう。
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空襲下の目白駅周辺19450517.jpg
  
 昭和十六年六月二十四、二十五日には、日本基督教団創立のための総会が開かれ、教団が創立された。その後、当教会の名称は日本基督教団目白教会となることと思ったが、下落合一丁目の目白福音教会が目白教会という名をとりたく希望し、打ち合せ会の時、創立の古い方がとるべきだとの意見に支配され、私たちは目白教会と称えることができなくなったが、われわれの教会は目白町にあるから目白町教会と名付けようということになり、その様に届け出たのであつた。/昭和十七年三月八日に「旧名称 目白日本基督教会、新名称 日本基督教団目白町教会、教会主管者 本間誠」として教会規則認可の申請を出し、それに対して、三月三十一日附で、東京府松村光麿知事により「教会規則を定むるの件認可す」という文書が五月二十七日にとどいた。その時から今の名称を用いているのである。
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 このとき、目白伝道教会は1932年(昭和7)の東京35区制Click!により豊島区目白町2丁目1600番地であり、目白駅も近いので「目白教会」となるのが自然だった。ところが、下落合1丁目492番地にあった福音教会が、明治末から山手線の駅名をかぶせて目白福音教会Click!と名乗っており、こちらのほうが歴史も古く規模も大きかったので、どうしても譲らなかったのだろう。下落合にある目白福音教会が「目白教会」となり、目白伝道教会はしかたがないので当時の住所から「目白町教会」と改名することになった。
 「うちは、古くからずっとやってんだからね」、「けど、おたくは下落合ざんしょ?」、「こっちは明治末からやってんだからさぁ。ちなみに、おたくはいつから?」、「そりゃ、12年前の昭和4年からだけどもさぁ。でもねぇ、信仰や教会てえもんにゃ古いも新しいもねえやな」、「じゃあだんじゃねえやね、うちは明治末からやってんだからさぁ」……と、こんなくだけた裏店(うらだな)の屋号争いみたいな会話を牧師さんたちがするはずないがw、およそ創立総会ではこのような成りゆきだったのだろう。
 このとき、目白福音教会が地元の地名を尊重して「下落合教会」となっていれば、目白伝道教会はそのまま素直に「目白教会」を名のることができていたのだろう。もっとも、現在では下落合教会(下落合みどり幼稚園)Click!が、戦後間もない時期から第二文化村Click!(現・中落合Click!)に存在しているので、「下落合」はすでに使えなくなっているけれど。
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 落合地域と同様に、目白町(高田地域)も激しい空襲被害を受けている。戦時中や戦後すぐのころは、信者会員の数が徴兵・徴用や疎開のせいで激減し、1945年(昭和20)12月にはわずか63名になってしまった。同年6月の「教会通信」によれば「周辺焼跡が数十歩に迫る」と記されており、同教会がかろうじて延焼をまぬがれている様子が伝えられている。

◆写真上:高田町1600番地(現・目白2丁目)に創立された目白町教会の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる本間誠邸と教会予定地。は、1930年(昭和5)に撮影された目白伝道教会の日曜学校で後列中央が本間誠。は、1933年(昭和8)撮影の目白伝道教会外観。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された目白伝道教会内部。は、1969年(昭和44)に刊行された『目白町教会四十年史』(日本基督教団目白町教会/)と、同教会の牧師・本間誠()。は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機F13Click!によって撮影された第2次山手空襲Click!(5月25日夜半)直前の目白駅とその周辺。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の目白町教会。空襲で延焼が「数十歩に迫」ったことがわかる。は、1959年(昭和34)に撮影された目白町教会の外観と内部。

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サンフランシスコ人

「同高等学院の理科に在籍していたので.....」

1923年の"理科"は、2023年の何でしょうか?

by サンフランシスコ人 (2023-12-23 01:44) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
戦前の高等学校は、いまの大学における教養課程ですから、その意味からすると早大理工学部教養課程ということになりそうです。
by ChinchikoPapa (2023-12-23 09:57) 

アヨアン・イゴカー

>〇〇教授もまた親父と同様に本間誠の教え子だったということで、がぜん目白町教会への興味が湧いてきたというしだいだ。

自分との関係、というのは興味を抱くきっかけになりますね。
私も賀川豊彦に興味を持ったのは、父方の祖母が神戸の賀川の伝道所でオルガンを弾いたりしてその運動に参加していたからでした。

by アヨアン・イゴカー (2023-12-23 10:14) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
自分の知り合いが資料の中に出てくると、思わずドキッとしますね。もう一度、資料を改めて最初から読み直したりします。
沖野岩三郎の資料を読んでいると、随所に賀川豊彦が登場してきますね。神戸の伝道所では、無理解な人々からかなりひどい目に遭っているようですが(文字どおり「死線を越える」ような)、大正後期から昭和期に入ると、両人は「私小説」家が集う文壇から「牧師作家」などと呼ばれて軽視され、「通俗作家」の仲間入りにされてしまいます。いまでも、そのイメージがつきまとっているようですが。
by ChinchikoPapa (2023-12-23 11:41) 

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