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「もう少し眠ってから立上がりますからね」尾崎翠。 [気になる下落合]

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 先日、吉屋信子Click!をめぐる二度めの街歩きをした際、吉屋信子記念会の会長・藍田收様より、吉屋信子と尾崎翠Click!が同時に入選している、1915年(大正4)に刊行された「文章世界」6月号(博文館)の当該ページをわざわざお送りいただいた。
 尾崎翠は、鳥取で大岩尋常小学校の代用教員をしていた時代で、いまだ「尾崎みどり」の筆名で投稿しており、栃木高等女学校に通う吉屋信子とは同じ19歳だった。吉屋信子Click!は、この数ヶ月後(1915年)に東京へとやってきて兄のもとに寄宿するが、尾崎翠は1919年(大正8)に目白の日本女子大学校Click!の国文科へ入学するため東京にきて、ほどなく同大学の春秋寮で生涯の友となる松下文子Click!と同室になっている。
 久しぶりに「尾崎みどり」(尾崎翠Click!)の名前に出あったので、彼女が上落合842番地(1932年以降は上落合2丁目841番地)の借家2階で頭痛薬ミグレニンの依存症となって、被害妄想にとらわれ幻覚を見るようになり、兄に鳥取へ連れもどされたあとの経緯いについて、彼女の身近にいた肉親の証言なども含めご紹介してみたい。
 1930年(昭和5)前後に上落合にいた尾崎翠は、10歳ほど年下の高橋丈雄との関係を含め、「すごい小説を書くお姉さん」(群ようこ)のような存在だったろうか。彼女のものごとにこだわらない、男っぽくてサバサバした性格も、むしろ「お姉さん」というよりは「お姐さん」という印象を抱かせたかもしれない。確かに、とても戦前の近代文学とは思えない、戦後1960年代の現代文学とみまごう新しい作品を次々と生みだしていた彼女の姿は、男女を問わず文学に関心のある人々に少なからぬ衝撃を与えただろう。
 東京から鳥取にもどる途中で、列車の窓から何度か飛び降りようとした錯乱気味の尾崎翠だが(創作の現場である東京から、どうしても離れたくはなかったのだろう)、鳥取に着きミグレニンの薬物依存が消えてくると、衰弱するどころかたちまち健康を取りもどしている。すぐにも東京へもどりたかったのだろうが、東京行きを援助してくれた母親の世話や兄をはじめ相次ぐ肉親の死などで、自分の子どものように甥や姪たちの面倒までみることになり、なかなか東京へもどるきっかけがつかめなかったようだ。
 1940年(昭和15)に、ずっと自宅で介護をつづけていた母親が死去した際、松下文子からとどいた供物の礼状に、尾崎翠は「私はもう少し眠ってから立上がりますからね」と返信している。母親の介護疲れで気持ちが沈んでいたせいもあるのだろう、東京を離れてから7年の歳月が流れていた。だが、尾崎翠が「立上が」ることを時代が許さず、すぐに日本は太平洋戦争へと突入していく。
 尾崎翠は男っぽい性格だったからだろうか、彼女に育てられた甥や姪たちは、半分父親のような半分母親のような印象をのちのちまで抱いている。そんな「翠パパ」「翠ママ」の姿を、2016年(平成28)に尾崎翠フォーラム実行委員会から出版された『尾崎翠を読む-新発見史料/親族寄稿/論文編』より、甥の小林喬樹という方の証言から引用してみよう。
  
 手紙の文面でもそうですが、男のような話し方の部分がかなりあり、江戸っ子のべらんめえ口調のことも度々ありました。歯切れのよいタンカをきるというか、聞いていて溜飲の下がる思いがすることがよくありました。(中略) 翠伯母は、ものの考え方が科学的・合理的であり、人の考えないアイデアを思いつく人だったと思います。(中略) 翠伯母は、人を見下(くだ)すとか鼻持ちならない尊大さとかとは無縁の人でした。しかし、矜持を保つというか、内心での自尊心は相当強かったのではないかと思います。/人を声高に誹謗したり口汚く罵るなどということは全くありませんでしたが、鑑識眼は鋭く、短い的確な言葉で斬って捨てていました。ですからそれが痛烈な批判であっても、サッパリとしていて、後味のよいものでした。
  
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 このあたり、上落合時代の寡黙で地味で目立ちたがらない尾崎翠の印象とは少し異なり、肉親の子どもたちを相手に気を許して、心を張らず飾らない素の姿を見せていたのだろう。彼女が「べらんめえ」の、(城)下町Click!言葉(の中でも江戸からつづく職人言葉)を話しているところなど、ちょっと従来の尾崎翠イメージからは想像もつかない。
 彼女は、甥や姪の面倒をみながら、そして母親の介護をつづけながら、上落合にいるときと同様に文学作品には欠かさず目を通していたようだ。また、上落合時代は武蔵野館Click!公楽キネマClick!へ頻繁に通ったように、鳥取の地元でも映画鑑賞は熱心につづけ、映画雑誌も欠かさず読んでいた様子がうかがわれる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 寺町の家の、八畳の一間が翠伯母の生活空間でしたが、粗末な本棚には、キネマ旬報、改造、文藝春秋などの雑誌や、改造社の現代日本文学全集、レベッカ、風と共に去りぬ、二十四の瞳、ノンちゃん雲に乗るなどの本が並んでおりました。/普段は手内職をするほかは、拡大鏡で一日中、新聞や雑誌、本を丹念に読んでいました。映画にもよく連れていって(ママ)もらいましたが、見るのは洋画ばかりで、当時川端通りにあった帝国館によく連れて行って(ママ)もらったものです。(中略) いつの頃でしたか、翠伯母がNHK鳥取放送局の番組に出るとか出ないとかの話があったとき、翠伯母がNHKを「日本薄謝協会」と皮肉ったことを、私も、私の姉もよく覚えています。
  
 尾崎翠の書棚の様子から、この証言の記憶が1950年代前半あたりのものだとわかる。日本が敗戦を迎え、食糧難の時代がつづいた戦後も彼女はペンをとっていない。NHKが、尾崎翠の健在を戦後初めて確認したとき、彼女は出演を固辞しているが、それは「日本薄謝協会」のせいではなかっただろう。w 派手なことが嫌いで、寡黙に懸命に生きて大好きな煎茶を呑みタバコをふかしながら、ひたすら静かに執筆していたいというのが、彼女の文学スタイルであり生活やふるまいの矜持だったのだろう。
 尾崎翠は、1933年(昭和8)に上落合を去ってから戦後まで沈黙をつづけている。したがって、東京では彼女はミグレニン中毒で長期療養中、あるいは病気で廃人同様になり再起不能、さらにはひどいのになると鳥取で死んだことにされていた。それは、友人だった(はずの)林芙美子Click!が出版界に死亡情報を流したせいでもあるが。
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 尾崎翠が鳥取で母親を弔っていたころ、落合時代には近所の上落合545番地Click!に住んで知りあいだった大田洋子Click!が、東京朝日新聞の懸賞小説に入選し、鳥取の彼女のことを文章に書いている。それによれば、尾崎翠は病気でもっか療養中だとされており、あまり親しくなかった大田洋子の言葉に彼女は少なからずカチンときたのだろう。
 1940年(昭和15)に一度だけ、尾崎翠はさっそく東京朝日新聞へ久しぶりに原稿を送り「反論」している。その記事の内容を、1998年(平成10)に文藝春秋から出版された群ようこ『尾崎翠』から、少し長いが孫引きしてみよう。
  
 次に大田洋子は私が未だに郷里で病弱な日を送つてゐるものと誤認してゐる。それきり文通もなく殊に私の郷里埋居の長く、沈黙の久しい罪であらう。しかしこれは黄金の沈黙かも知れないと思つてゐる。(中略) 大田洋子は私の健康に対する誤認を解かなければならない。あの駄作に次ぐ幾つかの聯作を企てたりして心身の疲れ切つた帰郷であつたから洋子はそのまゝ私が何年も疲労を持越してゐるものと考へてゐるらしい。とんでもない事である。帰郷して二ケ月もするうち健康はとみに盛返して来た。これを聞かせたら洋子は卒倒するかも知れない。その顔を見たいものである。(中略)/で、健在の幾年間は、仕事の上では大いに笑はれる資格があつたし、晩年の母にとつては少しばかりよい子供であつたかの気もするし、多くの甥や姪の『叔母さん』であつた。まあそんな生活である。都会の一隅に住んでつまらないものを少しばかり物してゐた独りものゝ私しか知らない大田洋子ではあつたが、郷里へ来れば母もあつたし肉親も多い。まづありふれた世界の一員である。落合での一人ぐらしの如く物事に超然としても居られなかつた。妹の結婚、母の死等、世の中といふものはまことに冠婚葬祭の世の中であつた。私がもし自然主義作家の席末でも汚してゐたとしたら、こんな生活を克明に描破して洋子へも健在を謳はせたかも知れないと思ふのである。
  
 下町言葉の「べらんめい」が得意だったらしい彼女は、「どっち向いて誰のこと書いてんだい? あたしゃ、ちゃんと元気で生きてるってばに!」と、長谷川時雨Click!並みにノド元まで出かかったのではないだろうか。ついでに、当時の文壇では支配的だった「自然主義作家」=「私小説」家たちのつまらない作品群へ、チクリと皮肉な針を刺すのも忘れていない。この文章を読むかぎり、尾崎翠はまったく変わらずに健在だったことがわかる。
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 尾崎翠が母親の死後、戦争や生活に追われることなく再びペンを執っていたら、日本文学の20年も30年も先をいく表現を予感させるような作品が、次々に生まれていたのではないかと思うと残念でならない。大田洋子Click!への「反論」を、東京朝日新聞に書いていたちょうどそのころ、松下文子の返信には「もう少し眠ってから立上がりますからね」と書いている。「すごい小説を書くお姉さん」には、ぜひもう一度「立上が」ってほしかったのだ。

◆写真上:昭和初期のころに撮影された、30歳前後の尾崎翠。(AI着色)
◆写真中上は、吉屋信子記念会会長・藍田收様よりお送りいただいた吉屋信子と尾崎翠がともに「秀才投票」で入選している1915年(大正4)刊行の「文章世界」6月号(博文館)。は、1914年(大正3)の「女子文壇」8月号(女子文壇社)に入選した尾崎翠。は、1920年(大正9)刊行の「新潮」1月号(新潮社)に掲載の尾崎翠。
◆写真中下上左は、1917年(大正6)撮影の21歳の尾崎翠。上右は、1931年(昭和6)8月22日刊の都新聞の取材に答える尾崎翠(35歳)。「1週間も髪を洗っていない」と撮影を嫌がっているが、早く近所の銭湯「三の輪湯」Click!で洗ってきてほしい。は、1920年(大正9)の「文章倶楽部」2月号に掲載された尾崎翠(24歳)の肖像。(各AI着色)
◆写真下上左は、2016年(平成28)に出版された『尾崎翠を読む』(尾崎翠フォーラム実行委員会)。上右は、1998年(平成10)に出版された群ようこ『尾崎翠』(文藝春秋)。は、鳥取県岩美郡岩美町の愛宕山にある西法寺に建立された尾崎翠生誕碑。

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