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村山知義の上落合再訪で「神社がない!」。 [気になる下落合]

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 村山知義Click!は、旧・八幡通りClick!や旧・神田上水(1966年より神田川)に向けてゆるい斜面を形成している、上落合(1丁目)186番地の200坪ほどの土地に25年間も住んでいた。母親があちこち歩いては探してきた借地で、地主は「すぐその下に住んでいるごく人のいい夫婦」だったと書いているので、東向きの緩斜面のすぐ2軒隣りに屋敷をかまえていた、この区画一帯の地主である宇田川家だったろう。
その後、元上落合人さんからのご教示で、村山知義・籌子アトリエの敷地は東隣りにある中村銀太郎家から借りていたことが判明しました。詳細はコメント欄を参照ください。
 村山知義Click!が東京帝大文学部に入学した1921年(大正10)、母親と弟の3人家族は上落合の家に転居してくる。彼が生まれた市街地の神田区末広町Click!とは異なり、豊多摩郡落合村は江戸期とさほど変わらない風情や風俗、生活習慣がそのままつづいていた。このときから7年後に、地主である上落合189番地の宇田川家に嫁いできて、苦労を重ねたた宇田川利子という方の証言を、以前こちらでも記事でご紹介Click!している。近くの街道筋が、鶏鳴坂Click!などと現役で呼ばれていたころだ。
 上落合186番地の借地へ最初に建てた住宅について、1970年(昭和45)に東邦出版社から刊行された村山知義『演劇的自叙伝1』から引用してみよう。ちなみに、この建物はのちに設計・建築する「三角アトリエ」Click!とは異なり、最初期の住宅のことだ。
  
 そこへ下見張り、赤瓦の屋根、洋館まがいの、小さな二階屋を建てた。当時は洋館を建てた経験のある大工はごく少なかったので、変な、折衷的な建物だった。/私はその場所をひと目見て気に入ってしまった。弟を指揮して、方々さがし歩いて、赤煉瓦の屑を拾い集めた。目白の高台との間の下落合の低地帯にはゴム工場などがあったので、使い残しの煉瓦が棄ててあった。それでやっと、高さ四尺ほどの煉瓦の門柱を一本立てた。セメントは左官屋にわけて貰った。しかし、二本は立てられなかったので、もう一本は木の棒だった。/そこに小さな白ペンキ塗りの扉を付け、スロープには、もとからあったつつじをズラリと、玄関に通じる小路の両側に植えた。
  
 「目白の高台」とは、もちろん下落合の高台のことで、上落合側の高台からは旧・神田上水や妙正寺川をはさみ、下落合の緑におおわれた目白崖線が見わたせた。1921年(大正10)では、洋館を建てた経験のある大工はまだ周辺には少なかっただろう。同時期にアトリエを建設していた佐伯祐三Click!は、大規模な洋館建築が建ち並ぶ明治期からの別荘地Click!だった大磯Click!から、手馴れた大工をわざわざ紹介してもらっている。
 いまだ農家や、農家つづきの地主が多かった上落合では、この洋館もどきの家は周囲の風情からは浮いてずいぶん目立っていただろう。村山知義が「赤煉瓦の屑」を集めたゴム工場は、箱根土地Click!堤康次郎Click!が出資していた東京護謨工場Click!のことで、現在のせせらぎの里公苑から落合水再生センターClick!あたり一帯で操業していた。同工場のゴム製品を、大八車Click!に乗せて駒形の履物屋まで納品し、帰りに神田市場で仕入れた青果を積んで帰った、上落合の青果商の証言Click!もご紹介していた。
 当所の家は、1階が客間とダイニングキッチンで、2階が家族の部屋となっており、建物面積が3間半×2間半(6.36m×4.54m)と非常に小さく建設費も安かっただろう。当時はクヌギの林が多く、上落合の斜面や妙正寺川沿いには田畑が拡がっている田園風景だった。1927年(昭和2)以降は「昭和通り」と呼ばれ、村山邸の南側を走る江戸期からの街道筋だった丘上の馬場下通り(現・早稲田通り)は、大きなケヤキなどが繁る江戸期からの街道そのままの風情で、夜が明けるころには野菜を満載した大八車が往来していた。村山知義は一高の帽子をかぶり、画道具を抱えながら上落合の周辺を散策しては写生している。
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 翌1922年(大正11)1月に、村山知義は東京帝大を中退するとベルリン遊学に出発している。そこで絵画を学びながら、「大未来派展」や「デュッセルドルフ国際美術展」などへ出品し、同年9月にはベルリンのトワルディー画廊で個展を開いている。また、ドイツ劇場でニッティ・インペコーフェンの舞踏を観て、すっかりとりこになった。
 そして、帰国後の1923年(大正12)2~5月にかけ、彼は自身の設計で「三角の家」(本人は「奇怪なアトリエ」と表現)を建設している。アサヒグラフに掲載された三角アトリエについては、これまで拙ブログでも折にふれ繰り返し記事にしてきたが、翌1924年(大正13)6月に結婚して村山籌子Click!が住むようになってからのエピソードも、過去に数多くの記事Click!ご紹介Click!している。この三角アトリエは、1930年(昭和5)の初めに音楽家で建築家の濱徳太郎に貸していたが、1937年(昭和12)に取り壊されている。
 アトリエを濱徳太郎に賃貸したあと、村山夫妻が入居した隣りの日本家屋は新築で、そのほかにも敷地内にアパートを建設したようだが、自宅をリフォームするために大正末ごろから住んでいたのが、下落合735番地のアトリエClick!だった。このアトリエにも、アサヒグラフの記者が取材に訪れ何枚かのバリエーション写真が残されている。
 さて、『演劇的自叙伝』を執筆中に、上落合での暮らしを思いだして懐かしくなったのだろう、戦後、村山知義は急に上落合186番地の自宅跡を再訪したくなったようだ。戦前の村山邸には上落合をはじめ、下落合、東中野、長崎の各地域に住んだ左翼運動がらみの文化人や芸術家が多数訪れて集い、打ち合わせや集会ばかりでなく、ときには演劇の稽古場などにも使われていたため、特に思い入れの強い場所だったろう。また、ようやく自由な表現ができるようになった矢先、敗戦直後の1946年(昭和21)8月に鎌倉で死去した村山籌子Click!と、22年間もいっしょに暮らした土地でもあった。
 無性に上落合へ出かけたくなった様子を、同書よりつづけて引用してみよう。ちなみに、この文章が書かれた当時、村山知義は上落合にほど近い大久保に住んでいた。
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 私は不意に、上落合の家のもとあったところに行ってみたくなったので、寝坊している妻を起して、二人で出掛けた。午前八時、小、中学生の登校姿にたくさん出会う。厳寒の早朝の散歩は爽快だ。散歩のつもりで、ユックリ歩いて、二十分でもとの家の前についた。(中略) その筋向いが山岡さんの家のあったところで、むろん、戦災で一面に焼けたところなので、むかしの面影は全くないが。その一丁目二七番地の家には「山岡寓」という表札が出ていた。(中略) 八幡神社の裏手の石段を上って、私は驚いた。神社がない!/確か二年ほど前、ここに来た時には、戦後建て直された神社があった。それがいまは影も形もなく、新宿区立の「八幡公園」というものになっており、ギッコンバッタンやブランコやの遊び道具が具えてある。/神社から道路一つ隔てた、神田川との間の低地帯には、あのころ大きな製氷会社が建てられ、火事になって、大騒ぎをしたことなどがあったが、すっかり取りはらわれ、立て看板によれば都の「処理場」が建てられようとしている。恐らく塵芥のだろうが、どうしてこんな町の真ん中につくるのだろう?
  
 上落合の家があった場所に惹かれるのか、村山知義は「二年ほど前」にも訪問しているので、このときが戦後初めての訪問でなかったことがわかる。月見岡八幡社Click!は、宮司だった守谷源次郎Click!と氏子連の決断によって1962年(昭和37)中にほぼ全社殿を現在地に遷座しているので、村山知義が訪れたのは1964年(昭和39/68歳)ごろだというのがわかる。「寝坊している妻」とは、再婚した女優の清洲すみ子(三繩濱)のことだ。
 文中に「山岡さんの家」が出てくるが、日露戦争で左目を失明し「独眼竜将軍」と呼ばれた山岡熊治邸で、未亡人の山岡淑子は宮中で女官長をつとめていた。村山知義の母親・村山元子とは、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の後輩にあたり親同士は親しく交流していた。1941年(昭和16)に村山元子が死去すると、葬儀などで世話になった村山知義は挨拶に出向いている。その玄関口で、山岡淑子から「あなたにはあなたの信念もあり、芸術もおありでしょう。けれど、あなたはこの上もない親不孝な方ですよ」と叱られたのが、強く印象に残ったようだ。この山岡邸をすぎ、北へ70mほど道を進めばすぐ左手に、遷座後の月見岡八幡社を発見できていたはずなのだが。
 ここで、村山知義は新たに敷設され関東バスの路線通りとなっていた新・八幡通りと、月見岡八幡社の表参道に面していた旧・八幡通りClick!とを取りちがえているのがわかる。八幡通りは、月見岡八幡社の移転とともに、八幡公園の入り口あたりの位置で計測すると70mほど西へ移動、つまり旧・村山アトリエの敷地に近づいていた。火事があった上落合2番地の山手製氷工場Click!は、その敷地が旧・八幡通りの東側に面していたのであり、新・八幡通りからはゆうに100m近く東に離れた位置にあたる。
 文中の「処理場」とは、当時は東京都の「落合下水処理場」と呼ばれた施設で、現在は神田川や妙正寺川の「浄化水源」Click!の役割りはもちろん、都内西部の渋谷川や古川、目黒川などの水質向上のための実質的な「水源」となっている落合水再生センターClick!のことだ。
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 懐かしくなった村山知義は、戦時中に小滝橋から上流へ歩き旧・神田上水の近くに住んでいた中野重治・原泉夫妻Click!の旧居跡を訪ねているが、「全く見当がつかなかった」とガッカリしている。この家は、上落合(1丁目)481番地の借家Click!から、豊多摩刑務所Click!に服役中の中野重治の釈放を待って転居した、柏木5丁目1130番地の家のことだ。当時は、旧・神田上水の直線整流化工事の真っ最中で、あたり一帯が空き地だらけであり、その後、戦災にも遭い街の様子が一変していたので、馴染んでいたはずの村山知義の土地勘がまったくきかなくなっていたのだろう。1978年(昭和53)に出版された『中野重治全集』第26巻(筑摩書房)に収録の随筆『子供と花』に描かれた、近所のワルガキClick!たちが登場するあの家だ。

◆写真上:上落合186番地にあった、村山知義・村山籌子アトリエの現状。
◆写真中上は、ドイツ留学中に撮影された村山知義(左)。右端で大泉洋に似た顔をしているのは、親しくなった永野芳光だろうか。中上は、1918年(大正7)に「囚われの鳥」を踊るドイツの舞踏家ニティ・インペコーフェン。中下は、帰国直後の1923年(大正12)ごろ自由学園で踊る村山知義。は、同年ごろ上落合のアトリエで踊る村山知義。自由学園Click!での舞踏とは異なり、体毛をすべて剃っているのがわかる。
◆写真中下は、村山アトリエ跡(右手)と月見岡八幡社の裏参道へと抜けられた小路。は、1927年(昭和2)に下落合735番地のアトリエで撮影された村山夫妻。は、1930年(昭和5)に竣工したばかりの上落合の邸前で撮影された村山一家。
◆写真下は、1935年(昭和10)に宮司・守谷源次郎が撮影した村山アトリエ側から見た月見岡八幡社の裏参道。は、現在は八幡公園となっている裏参道つづきの小路。は、1935年(昭和10)に同じく守谷源次郎が撮影した月見岡八幡社の茅葺き拝殿。以上の写真のうち、現状写真ではない戦前の古写真は、大正末から昭和初期にかけ村山知義が実際に目にしていた風景で、すべてAIエンジンによる推論着色。
おまけ
 クラシック伴奏の舞踏で恍惚となり、裸のまま寝てしまったのだろうか?w 下は1938年(昭和13)作成の「火保図」(左手が北)にみる村山知義・籌子アトリエの界隈。
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元上落合人

記事を楽しく、また興味深く拝見しました。
私は独立して離れたものの、上落合出身です。自分の生まれ育った町について古い情報を知ることができ、大変嬉しく思います。

この記事を拝見し、私の知る情報をお伝えしたく、コメント差し上げます。

村山知義氏が住んでいた上落合1-186は、宇田川家の土地ではなく、188番地の中村家の所有地です。宇田川家の所有地は189番地の東側を中心に広がっていた(水再生センターの敷地)と聞いています。

村山氏がこの地に転居したのが大正10年ごろということを考えると、「ごく人のいい夫婦」というのは当時の中村家の代である中村銀太郎、よ祢のことだと思われます。

ちなみに記事に取り上げられている宇田川利子の娘が中村家に嫁いでおり、宇田川、中村の両家は隣同士ながら姻族関係にもあたります。

以上、ご参考まで。
by 元上落合人 (2024-01-08 23:02) 

ChinchikoPapa

元上落合人さん、たいへん貴重なコメントをありがとうございます。
宇田川利子さんの証言から、宇田川家は一帯の地主で周囲に貸家や貸店舗を建てて所有していたと書かれていましたので、わたしはこの一画も宇田川家の所有地だと勝手に想定・解釈していました。水再生センターの敷地といいますと、宇田川家の所有地は自邸から旧・八幡通りにかけての一帯ということなのですね。誤りを訂正していただき、ありがとうございます。
中村邸は、村山知義アトリエのほぼ東隣りに当たり、中村銀太郎という方は『落合町誌』(P341)にも「地主」として記載されていますね。同誌を細かくチェックしていればそれに気づき、村山邸の敷地について「宇田川家ではないのでは?」という疑念が湧いていたのかもしれませんが、調査不足でお恥ずかしい限りです。
さっそく、記事中に註釈を入れて訂正したいと思います。ありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。
by ChinchikoPapa (2024-01-09 10:14) 

元上落合人

ChinchikoPapa 様
ご返信ありがとうございます。また訂正の件、お手数をおかけしました。

私は今でも上落合に実家があり、ちょくちょく顔を出していますので、また関連情報があればお知らせします。

また、このブログを引き続き拝読させていただきます。
by 元上落合人 (2024-01-13 17:44) 

ChinchikoPapa

元上落合人さん、ごていねいにありがとうございます。
また、なにかお気づきの点がありましたら、こちらへコメントをお寄せいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2024-01-13 21:24) 

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