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佐伯祐三が描いた『林』を考察する。 [気になる下落合]

佐伯祐三「林」1920頃.jpg
 1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』に、モノクロ写真で『林』とタイトルされた作品(画集No.371)の小さなモノクロ画像が掲載されているのを、遅まきながら改めて気づいた。わたしは、佐伯祐三Click!の展覧会などで『林』の画面を実際に観たことがないし、カラー図版でも目にしたことが一度もない。既存の画集や図録に収録されるのもまれで、講談社版の『佐伯祐三全画集』のみではないだろうか。
 したがって、現在では所在がわからなくなっている「行方不明」作品の可能性が高く、講談社では画集に収録しているものの、実際に作品を撮影しておらず、画面のモノクロ写真のみが入手できただけの収録だったりすると、とうに戦災で失われている作品なのかもしれない。『林』の制作年は1920年(大正9)ごろと曖昧に規定されているが、キャンバスサイズも不明なら作品の由来も記録されていないため、どこかに掲載されていた既存のモノクロ画像を反射原稿にしているだけで、実際に作品を前にスタジオで撮影して、画集に収録したものとは思えないのだ。
 『林』の画面を眺めてみると、強い陽光が明らかに林間の左手から射しており、かなり逆光気味で描かれているのがわかる。手前のケヤキかクヌギの若木ように見える横並びの樹林は、ほとんどシルエット状に黒っぽく(色濃く)描かれており、枝々から葉をほとんど落としていることから、描かれた季節は晩秋から冬の情景のように思われる。
 よく観察すると、手前に斜めに並ぶ密集した樹林は、画家がイーゼルをすえている地面とほぼ同じような高さの位置に生えているが、強い陽光が当たってハレーション気味の背後に見えている樹林は、その根元が急激に上部へとせり上がるように描かれているのがわかる。すなわち、これらの樹林は急激な斜面=バッケ(崖地)Click!に繁っているのであり、佐伯祐三は崖地の地形の下部あるいは谷状の底から、バッケ(崖地)を斜めに眺めながらキャンバスに向かっていることになる。
 『林』と似た地形や構図で樹林を描いた作品には、1922年(大正11)ごろの制作とされている『東京目白自宅附近』Click!がある。『林』と同じく、いまだ宅地造成が行われていない自然地形のままの急斜面に繁る樹林を描いているが、同じく晩秋か冬に描かれており木々のほとんどが落葉し下草も枯れている。わたしは、「自宅附近」というタイトルと陽光の射し方などから、同作を下落合661番地にある佐伯アトリエのすぐ南側に口を開けた谷戸、すなわち西ノ谷(不動谷)Click!の斜面を描いたものだと想定している。
 『東京目白自宅附近』の陽光は右手上空から射しており、「交友会」会長の青柳正作Click!落合(第一)尋常小学校Click!の教師で『テニス』Click!をプレゼントした青柳辰代Click!の夫妻邸前に拡がる青柳ヶ原Click!の西側斜面、すなわち現在の情景でいえば丘上が造成で大きく削られているが、国際聖母病院Click!敷地の西側斜面を描いたものだと考えている。佐伯祐三は『東京目白自宅附近』を制作するために、養鶏場Click!のある当時は南へと抜けられた路地(現在は住宅でふさがれている)を通って西ノ谷(不動谷)へと下りていき、谷底にイーゼルをすえて北東の方角を向きながら同作を描いているとみられる。
 佐伯アトリエのすぐ南側に口を開けた谷戸について、唯一、証言を残した人物が存在している。下落合でもパリでも、彼の身近にいた親友の山田新一Click!だ。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。
佐伯祐三「林」部分拡大.jpg
西ノ谷(不動谷)1921.jpg
聖母病院斜面1.jpg
  
 (クリスマスの)前日になると――当時の佐伯のアトリエの裏手は谷になっていて、今では公園になっている近所の池では、付近の農家の人達が大根やゴボウを洗っているのどかな田園地帯であったが、その雑木林のなかに常緑樹も間々生えていて、我々の仲間の数人が谷へ降りて、クリスマスツリーに手頃なモミの木を見立てて、鋸で切り倒した。これをアトリエに持って帰り、その狼藉の犠牲になったモミの木に、立派なデコレーションを飾り付けた。そしてパーティの準備を始めたのだが、(中略) この晩の情景を思い起すと、何やら知らず思い出し笑いが、今も込みあげてきてしかたがない。その宵、集まった仲間で今も存命なのは、僅かに童画の大家となった武井武雄Click!、同じクラスメイトの江藤純平Click!、そして札幌出身で、後に大連女子美の校長をし、現在、「新世紀」の委員をやっている二瓶等Click!夫妻。もうそのくらいになってしまった。寂しい思いがしてならない。(カッコ内引用者註)
  
 同じ落合町内をはじめ、佐伯アトリエの周辺に住んでいた彼の親しい友人たちが、こぞって佐伯アトリエで開かれたクリスマスパーティに参加していた様子がうかがえる。文中に書かれた佐伯「アトリエの裏手」、つまり北側に採光窓のあるアトリエの裏手(南側)の谷が、『東京目白自宅附近』を描いたとみられる西ノ谷(不動谷)だ。
 また、「今では公園になっている」その公園とは、国際聖母病院の敷地に接した西側の急斜面下にいまもある“新宿区立聖母病院脇遊び場”のことだ。大正の中期、この公園位置の近くには湧水池があり、青柳ヶ原の反対側(東側)に口を開けた谷戸=諏訪谷Click!と同様に、付近の農家が収穫した野菜を洗う“洗い場”Click!のあったことがわかる。この湧水池は、箱根土地Click!による第三文化村Click!開発の進捗や、さらにその南側の宅地開発によって埋め立てられているとみられるが、1935年(昭和10)前後には谷戸の聖母坂Click!への出口近くに、人工的な湧水池が設置され釣り堀屋Click!が開業していた。
 『東京目白自宅附近』は、西ノ谷(不動谷)に下りた谷底で制作されているとみられるが、山田新一が「雑木林」と書いているように、1922年(大正11)現在は谷底に湧水源からの小流れがある、ほとんど手つかずで自然のままの谷戸地形だった。この谷戸に開発の手が及ぶのは、1924年(大正13)に行われた箱根土地による第三文化村の造成(北側)と、1931年(昭和6)に青柳ヶ原の丘上を削り整地して建設された国際聖母病院Click!の開業、それにつづき1940年(昭和15)前後に行われた第三文化村境界の南側から、聖母坂へと抜ける谷戸の新たな追加造成……という開発経緯だ。
西ノ谷1926.jpg
佐伯祐三「目白自宅附近」1922頃.jpg
聖母病院斜面2.jpg
西ノ谷1936.jpg
 『東京目白自宅附近』(1922年ごろ)に描かれた西ノ谷(不動谷)は、両側から崖地が迫る比較的狭い谷戸地形だったと思われるが、1924年(大正13)に行われた箱根土地による第三文化村の開発で、谷戸北側のおもに東側の崖地が崩されて整地され、南へ向けたひな壇状の住宅敷地が造成されている。この時点で、谷戸北側の幅は大きく拡げられたが南側は手つかずで、相変わらず自然の渓谷のような面影を残していただろう。
 その時代に描かれたのが、佐伯祐三「下落合風景」シリーズClick!の1作で1926年(大正15)ごろに制作された『目白風景』Click!だ。同作の画面を仔細に観察すると、谷戸の突きあたりにある奥の地形は広めで開けているように描かれているが、手前(南側)の地形は開発の手が入らない青柳ヶ原の自然のままだった西側斜面が、画家のすぐ右手まで迫っているのがわかる。西ノ谷(不動谷)の南側が開発されるのは、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、先述の釣り堀屋が開業しているだけでほとんど手つかずのままだが、1944年(昭和19)の空中写真を参照すると、谷戸の南側すなわち聖母坂への出口までが大きく拡げられて(谷戸東側の崖地が崩されて)整地が進捗し、造成された住宅敷地に大きな屋敷が数軒建設されているのが見てとれる。
 さて、1920年(大正9)ごろの制作とされている『林』にもどろう。この作品は、『東京目白自宅附近』(1922年ごろ)とほぼ同時期に制作された画面ではないだろうか。『林』はモノクロ画像のみなので、『東京目白自宅附近』と同様にルノアールばりの色使いで描かれているのかどうかは不明だが、わたしには同時期に西ノ谷(不動谷)の一画をとらえて制作しているように思われる。同作は、1920年「ごろ」とされているので、キャンバス裏などに制作年が記載されているわけではないだろう。少なくとも、1968年(昭和43)に『佐伯祐三全画集』が出版された時点での推定だと思われる。
 『東京目白自宅附近』は、谷戸への陽光の射し方から午前中に西ノ谷(不動谷)の北東を向いて、すなわち青柳ヶ原の西側につづく急斜面を描いているとみられるが、『林』はその反対側につづく崖地(画面の様子からして少なくとも高さが6m以上の地点)を、陽が西へ傾いた同じような晩秋から冬の季節に描いているのではないだろうか。そして、『林』の丘上にはのちに「八島さんの前通り」シリーズClick!(別名:星野通りClick!)とタイトルされる、東京府の補助45号線(のちに敷設される聖母坂へ変更)が南北に通っていることになる。
西ノ谷1938.jpg
西ノ谷西側斜面1.jpg
佐伯祐三「目白風景」1926頃.jpg
 現在、西ノ谷(不動谷)Click!は大きく拡げられ、渓流があった谷底も埋め立てられて当初の峡谷のような風情はどこにも残っていない。谷戸の東西に、そそり立つように向かいあっていたバッケ(崖地)も、おもに東側(青柳ヶ原側)が崩され均されてひな壇状の宅地となっているが、擁壁が築かれた西側の崖には当時の急斜面の面影がかすかに残っているだろうか。

◆写真上:画集では、1920年(大正9)ごろの制作とされている佐伯祐三『林』。
◆写真中上は、『林』に描かれた急斜面部分の拡大。は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる西ノ谷(不動谷)の様子。は、聖母病院脇遊び場から東側の国際聖母病院(旧・青柳ヶ原)側の崖地を見る。宅地開発で谷戸が拡幅され、谷底が埋め立てられているので、青柳ヶ原の急斜面はもっと手前の位置にあっただろう。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる西ノ谷(不動谷)。フリーハンドの大雑把な地図だが、第三文化村の開発が谷戸の北側で進捗しているのがわかる。中上は、1922年(大正11)ごろに制作された佐伯祐三『東京目白自宅附近』。中下は、国際聖母病院側に残るバッケ(崖地)の現状。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる西ノ谷(不動谷)と、その周辺に拡がる住宅街の様子。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる西ノ谷(不動谷)。左側が北の変則的な地図で、同谷戸の聖母坂への出口近くに釣り堀屋が開業しているが、谷戸南部の宅地開発はまったく進んでいないのがわかる。また、第三文化村の造成とともに敷設された谷底の南へ向かう新道は途中でとぎれ、谷戸を北上する江戸期からとみられる旧道が東側(地図では青柳ヶ原の斜面にあたる上部)に残っており、この旧道が西ノ谷(不動谷)をへて長崎不動尊へ向かう参道筋だった可能性が高い。は、西ノ谷(不動谷)西側のバッケ(崖地)。急斜面を垂直に近く修正し、大谷石による擁壁を築いているのがわかる。は、1926年(大正16)ごろ制作の西ノ谷(不動谷)を描いたとみられる佐伯祐三『目白風景』。
おまけ1
 西ノ谷(不動谷)の北側から、文化村の新道が通う谷底を眺めたところで、両側の邸宅は第三文化村。大量の土砂が谷底に敷かれ、新道の傾斜もスロープ状に修正されているとみられる。下の写真は、聖母病院脇遊び場から西側のバッケ(崖地)の擁壁を眺めたところ。この地点でおよそ6m前後の高さがあり、『林』が描かれたのはこのあたりだろうか。
西ノ谷北側から.jpg
西ノ谷西側斜面2.jpg
おまけ2
 佐伯アトリエから東北東へ、直線距離で1,100mのところにある目白庭園の晩秋。ご近所のゆかりさんからお送りいただき、あまりに美しいので掲載させていただいた。
目白庭園20231216.jpg

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