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西坂上は現代美術と現代音楽の交叉点。 [気になる下落合]

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 新型コロナ禍が終息したせいか、春ごろから落合地域とその周辺域の街歩きが多く、吉屋敬様と甲斐文男様たちとの吉屋信子の散歩道歩きClick!を皮切りに、上落合の吉武東里邸Click!と近所にある建築作品(跡)めぐり、日刊自動車新聞の編集委員の方との下落合の安達堅造邸Click!跡まわり、喫茶店ワゴンClick!と檀一雄・尾崎一雄・林芙美子らの文学史蹟めぐり、阿部展也アトリエを購入された方々とのアトリエ跡の探訪散歩、春につづき吉屋敬様をはじめ吉屋信子記念会や栃木市立文学館の方々との吉屋信子の下落合足跡めぐり、大泉黒石Click!『預言』Click!に描かれた目白(台)地域めぐり……などなど、知人と散歩がてら歩いたものを含めるとさらに多くなる。きょうは、数多い街歩きの中でも新事実が判明した、現代美術の阿部展也アトリエに焦点をあてて記事にしてみよう。
 以前の記事Click!にも書いたが、これまで下落合における阿部展也アトリエの所在地が不明確なままだった。それぞれ証言者による「記憶がまちまちで悩ましい」と書いたが、今回、阿部展也アトリエを購入して住まわれていた方(仮にM様)と、M様をご紹介してくれた方(仮にA様)のご好意により、同アトリエの位置を明確に規定することができた。紹介者のA様は、M様の夫が高校教師をされていたときの教え子にあたる方だ。
 また、1950年代に実施されたとみられる下落合の番地変更で、よけいにわかりづらくなっていた点もあるだろうか。今回、M様とA様たちとともに街歩きをしながらお話をうかがうことで、ようやくはっきりとアトリエ位置を確認できたので、改めてご報告したい。同時に、今日につながる現代美術と現代音楽にかかわる興味深い事実も判明したので、それも併せてご紹介したいと思う。
 まず、当初は阿部展也アトリエの位置として、星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)沿いにある下落合2丁目679番地(現・中落合2丁目)の証言があった。この家は、彫刻家の松浦万象によれば「アトリエを借りて仕事をしていた」ということだった。この番地の位置にあるのは笠原吉太郎アトリエClick!なので、わたしは戦後に絵画の仕事をしなくなった笠原吉太郎のアトリエを、一時的に借りて仕事をしていたのではと想定Click!した。だが、山中典子様Click!ら笠原家のご子孫に、そんな記憶はないとのことだった。
 また、沸雲堂Click!浅野丁策(金四郎)Click!は戦後、下落合の画家たちへ画道具を届ける際に「阿部さん自身の設計」による「瀟洒なホワイトハウス」を建てて住んでおり、そのアトリエは川口軌外アトリエClick!の近くだったと証言している。一ノ坂上にある下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)の川口アトリエと、国際聖母病院Click!の西側にあたる下落合2丁目679番地の区画とでは、直線距離でもたっぷり600m以上は離れている。この時点で、なにかがおかしいと感じて前回の記事を書いたしだいだ。
 だが、阿部展也アトリエを購入して住まわれていたM様は、下落合2丁目679番地(のち680番地)の阿部展也アトリエを、1957年(昭和32)に購入されて住んでいる。すでに阿部展也は渡欧しており、M様が売買契約をされたのは夫人の阿部敏子だった。この事実をベースに再考すると、先の松浦万象と浅野丁策の証言は、滝野川から下落合へ転居してきた当初、一時的に「アトリエを借りて仕事をしていた」借家が一ノ坂上の川口軌外アトリエ近くにあり、そこで「阿部さん自身による設計」が行われ、下落合2丁目679番地に建設中の「瀟洒なホワイトハウス」の工事進捗を監督していたのであり、両者は戦災にも焼けなかった一ノ坂上の仮住まいと、西坂Click!上の阿部展也アトリエとを混同して記憶・記述しているのではないか?……という想定が成立しそうだ。
 特に沸雲堂の浅尾丁策(金四郎)は、下落合に住む多くの画家たちへ絵の具をはじめ画材や画道具をとどけがてら、アトリエに入れてもらいしばしば作品を観賞したり制作過程を見学したりしていた。川口軌外のもとへも画材をとどけていたが、下落合2丁目661番地の脚が悪かった佐伯米子Click!アトリエClick!(佐伯祐三アトリエClick!)にも、絵の具を頻繁にとどけている。つまり、阿部展也アトリエが下落合2丁目679番地にあったとしたならば、川口軌外アトリエの近くとは書かず、確実に佐伯米子アトリエClick!あるいは同じ道沿いの下落合2丁目667番地に建つ吉田博・ふじをアトリエClick!の近くと書いていたはずだからだ。つまり、一時的に住んでいた仮住まいのアトリエと、新築した下落合2丁目679番地のアトリエとに記憶の齟齬が生じている可能性だ。
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阿部展也アトリエ1963.jpg
阿部展也アトリエ1965.jpg
 また、もうひとつの混乱要素として、わたし自身のミスもあったようだ。下落合2丁目679番地の区画特定では、当初から戦後1965年(昭和40)に新宿区が作成した「住居表示新旧対照案内図」をベースに、同番地の区画を規定してしまっていた。戦後の同年の時点で、下落合2丁目679番地の区画に笠原吉太郎アトリエは含まれていたが、1950年代に行われたとみられる小規模な番地変更、すなわち下落合2丁目679番地→680番地の阿部展也アトリエの敷地を、最初から除外して考察を進めてしまっていた可能性が高い。したがって、戦後の空中写真を眺めても阿部展也アトリエに隣接する北側の区画(679番地)を眺めるばかりで、すぐ南に隣接する680番地(旧・679番地)に建っていた「瀟洒なホワイトハウス」=阿部展也アトリエに目を向けず見逃すことになった。
 1957年(昭和32)の秋、敏子夫人から阿部アトリエを購入されたM様は、2年後の1959年(昭和34)に門前で家族の記念写真を撮影されている。(冒頭写真) 集合写真の左手に見えているのが、2年前まで阿部展也が仕事をしていたアトリエ「瀟洒なホワイトハウス」だ。その名称から、建築当初は外壁が白いペンキで塗られていたのだろう。
 阿部展也アトリエは平家だが、敷地が西ノ谷(不動谷)Click!までつづいていたので、東西に細長い敷地に建つアトリエだった。家内には、24畳サイズのアトリエがあり、その奥には台所やトイレなどがつづいていた。アトリエには、北側にたくさんの窓が設置されていたが、南側には窓がまったくなかったという。また、阿部展也の寝室は星野通りに面した南西角の別棟で、冒頭の記念写真に写るM様家族の背後にチラリと見えている自動車の位置にあったが、アトリエを買収後すぐに取り壊されている。このアトリエでは、定期的に阿部展也の呼びかけによる「アトリエ研究会」(日曜研究会)が開催され、先の松浦万象や瀧口修造Click!イサム・ノグチClick!江川和彦Click!たちが集っていた。すなわち、当時は東京における注目すべき現代美術の拠点のひとつになっていたのだろう。
 M様は阿部展也アトリエを購入後、1963年(昭和38)ごろまでに曳き家や増改築を重ねており、漸次建物の形状が多少変化している。また、1973年(昭和48)には既存の建物をすべて解体し、同敷地へ新たな住宅を建設されている。やはり、敷地に合わせて東西にやや長い建物だったが、東側に庭園を造られたそうだ。細長い敷地といっても、当時の宅地の面積は現在の住宅敷地に比べ何倍もあったので、庭はかなり広かったという。
 東側の西ノ谷(不動谷)Click!に面した崖地には、大きな柿の木が生えており、柿がたわわに実った晩秋のある日、M様のご主人(高校教師)が実を採ろうと柿の木に登ったところ、枝が折れて5~6mほど下の谷底へ落ちたが、ケガもなく無事に済んだというエピソードをうかがった。当時は、なにもかもコンクリートやアスファルトで崖地や地面を固めてしまわなかったため、土面や草むらがクッションになって無事に済んだのかもしれない。
星野通り.JPG
阿部展也・敏子夫妻.jpg
阿部展也.jpg 平尾貴四男・妙子夫妻.jpg
 さて、阿部展也アトリエの星野通りをはさんだ向かいには平尾邸が建っていた。この平尾邸に関しては、「平尾昌晃さんの実家」という誤伝Click!が地元でかなり根強く語られているが、この平尾邸は平尾昌晃の伯父にあたる現代音楽家の平尾貴四男邸だ。きっと、最初は平尾昌晃の姻戚邸だといわれていたのが、当時のウェスタンやロカビリーのブームのさなか、いつのまにか「キャーッ、日劇の舞台でギター抱えて寝転がっちゃう平尾昌晃のご実家よ! 今度、お庭にカラーテープ投げこんじゃおうかしら。ミッキー・カーチスのお家も下落合なの!?」などと、落合地域の女子たちの間でかまびすしく伝えられはじめたのが、ウワサの出発点ではないだろうか。w
 平尾貴四男は現代音楽家だが、その連れ合いである平尾妙子も音楽の教則本などで高名な音楽家であり、その娘もピアニスト(平尾はるな)、甥も歌手で作曲家(平尾昌晃)と“音楽一族”だった様子がわかる。平尾邸は戦前から建っており、二度にわたる山手大空襲Click!にも焼けることなくそのまま残っていた。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には採取されていないが、1944年(昭和19)に撮影された空中写真では確認できるので、おそらく物資や人材がそれほど欠乏していなかった1939~1943年(昭和14~18)のどこかで建設されているとみられる。ちなみに、建設当初から平尾邸だったのか、それとも戦後になって平尾家が同屋敷を購入しているのかはさだかでない。
 平尾貴四男は、管弦楽曲やヴァイオリンソナタ、ピアノソナタなど数多くの現代音楽(室内楽曲が多いだろうか)を作曲しているが、後進の指導や育成にも熱心だったことで知られている。いわゆる弟子筋にあたる音楽家には、冨田勲や一柳慧、宇野誠一郎などがいる。当然ながら、彼らは師匠宅である平尾邸によく出入りしていただろう。
 余談だけれど、わたしは20代後半からJAZZClick!とは別に、冨田勲のシンセ演奏をはじめ、一柳慧と高橋悠治(水牛楽団)、ときに吉原すみれ(トライアングルツアー)を加えた現代音楽のコンサートへしばしば足を運んだので、これら音楽家たちの名前は懐かしい。当時は版画ブームだったせいか、彼らのコンサートポスターはリトグラフで1枚1枚ていねいに刷られたもので、現存すればけっこうなプレミアがついているのではないか。
 ということで、もう読者のみなさんはお気づきではないだろうか。下落合2丁目679番地(のち680番地)の阿部展也アトリエでは、当時の前衛表現を中心とする現代美術や先進造形の作家たちが集う、「アトリエ研究会」(日曜研究会)が定期的に開かれていた。そして、向かいに建っていた下落合3丁目1436番地(のち1433番地/現・中落合2丁目)の平尾貴四男邸では、1970年代以降に現代音楽の中核をになう若手の現代音楽家たちが出入りしていた。つまり、星野通りをはさんだ阿部展也邸と平尾貴四男邸は、期せずして現代美術と現代音楽の“交叉点”になっていたのだ。ちなみに、阿部家の敏子夫人と平尾家の妙子夫人は、道路をはさんだお隣り同士の昵懇の間がらだったそうで、両家は親しく往来していたのだろう。
阿部展也アトリエ跡.jpg
平尾邸跡.JPG
星野通り古建築.jpg
 ときに、阿部展也アトリエで「日曜研究会」が開かれ、米国から帰国したイサム・ノグチがF.L.ライトClick!がデザインした室内の家具調度品の意匠について「講義」をしていると、平尾家から斬新なメロディラインのピアノ曲が聴こえてきたかもしれない。誰が弾いているのか、譜面があるのかインプロヴィゼーションなのか、研究会のメンバーはほんの少し息をつめてピアノ演奏に耳をすませたが、すぐにまたイサム・ノグチが語るインテリアデザインの話に耳を傾けた……、思わずそんな情景を想像してしまう下落合の街角なのだ。

◆写真上:1959年(昭和34)に撮影された、下落合2丁目679番地に住むM様の家族集合写真で、左手に見えている洋風建築が旧・阿部展也アトリエだ。
◆写真中上は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる阿部展也アトリエ。は、すでにM様邸になったあとの阿部展也アトリエ跡。は、1965年(昭和40)に作成された「住居表示新旧対照案内図」(新宿区)。すでにこの時点で阿部展也アトリエは680番地に変更されており、わたしはその北側区画である679番地の家々に目を向けていた。
◆写真中下は、西坂へ向かう星野通りの現状。は、下落合のアトリエで撮影された阿部展也・敏子夫妻と子どもたち。は、阿部展也()と平家貴四男・妙子夫妻()。
◆写真下は、阿部展也アトリエ跡の現状。は、平尾貴四男・妙子邸跡の現状。は、M様も記憶されていた星野通り沿いに建つ戦後まもないころに建設された古住宅。
おまけ
 1963年(昭和38)作成の「住宅明細図」にみる、西坂上の阿部展也アトリエがあった住宅街の様子。悩ましいことに、同図では下落合2丁目の番地記載が001番ずつズレている。
住宅明細図1963.jpg

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。描画ポイントやアトリエの特定作業は、papaさんしかできない得意技ですね。最近、木村荘八の最晩年の油彩を何点か拝見する機会があり、この杉並区和田堀の風景の現在地が気になりました。しかし、ネットの情報もなく、図録では45歳で和田堀本町832に転居というところまでは、調べがつきました。当時の地番が現在のものと一致するはずもなく、素人には、ここまでが限界です。学芸員も現在地の特定作業には関心がないのでしょうかね?
by pinkich (2023-11-25 19:31) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
和田堀(本町)832番地の木村荘八アトリエは、いまの杉並区和田1-51-5です。以前の記事中で、木村アトリエの特定をしていました。木村荘八は、このアトリエで画業のかたわら「小唄学校」を開設していて、ちゃっかり「校長」におさまっていますね。w
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2016-04-27
生徒たちには、新派のそうそうたるメンバーが集まっていて、どのような集まりが持たれたのか興味津々です。岸田劉生は旧派好きで新派ギライでしたが、もし生きていたら名誉校長ぐらいには就いていそうです。
by ChinchikoPapa (2023-11-25 20:24) 

pinkich

papaさん ありがとうございます。すでに昔の記事で特定されていたわけですね。和田堀公園あたりかといった素人の推測とは大幅に異なる位置で驚きました。大きな洋館などもいずれは特定できそうですね。木村荘八も蕗谷虹児と同様、タブローがやりたくて、そちらで評価されることが本望であったものの、現実は挿絵画家としての評価が高かった画家ですね。少し前の東京ステーションギャラリーでの展覧会では、その当時の天皇陛下(現在の上皇陛下)がご観覧されていましたから、もう少し画業が見直されてもいいのではと思うのですがー
papaさんのブログは、後世への遺産となることでしょう。
by pinkich (2023-11-25 22:17) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、重ねてコメントをありがとうございます。
木村荘八は、自身の著作(随筆)でもすべて挿画を描いていますので、どうしても挿画家のようなイメージになってしまいますね。和田堀アトリエの木村荘八は、家の周囲に展開する武蔵野の情景を、けっこうタブローに仕上げたりスケッチに残したりしていますので、地元の方が描画場所を特定して現状と比較すると面白そうです。拙ブログは、この記事のように「遺産」ではなく、番地を「違算」したケースがありますので、あまり信用できません。w
by ChinchikoPapa (2023-11-26 09:46) 

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