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佐伯祐三の『目白風景』は下落合風景だ。 [気になる下落合]

佐伯祐三「目白風景」1927頃.jpg
 ようやく、山本發次郎Click!が蒐集していた佐伯祐三Click!作品を収録し、佐伯の死後1937年(昭和12)に座右宝刊行会から出版された『佐伯祐三画集』を観ることができた。もちろん、わたしがもっとも惹かれたのは、おそらく山本發次郎が名づけた『目白風景』Click!という地元の画面だ。そして、同作品の大きな画像を入手することができた。
 当初、「佐伯祐三-芸術家への道-」展図録(練馬区立美術館/2005年)に掲載されている小さな画像と『目白風景』というタイトルから、わたしは単純かつ安易に下落合の東隣り、高田町金久保沢の谷間にある目白駅(地上駅)Click!近くの谷間風景だろうと17年前に想定していたが、改めて詳しく観察することができる大きな画面で確認すると、これがとんだまちがいであることが判明した。同作を仔細に観察すると、目白駅のある金久保沢Click!に接した近衛町Click!バッケ(崖地)Click!を描いた画面などではなく、まちがいなく『下落合風景』シリーズClick!の1作であることがわかる。小さな画像では曖昧だったが、崖地の丘上に屋敷など存在していなかった。1926年(大正15)から翌年にかけ、金久保沢の谷戸Click!に太陽を背にして描けるような、このような風景は存在していない。
 『佐伯祐三画集』では、「目白時代」と名づけられた章目次(山本發次郎の命名らしい)に同作は分類されているが、佐伯は目白Click!という地名の場所に住んだことは一度もない。彼がアトリエを建設した下落合661番地から、当時は目白という小石川区(現・文京区の一部)の地名で呼ばれていたエリアまで、ゆうに2km以上は離れている。以前、開業が間近な中井駅前の風景を描いた『目白の風景』Click!でも書いたけれど、『目白風景』も同様に『下落合風景』の1作とするのが当時の史的事実と重ねあわせても妥当だろう。
 さて、『目白風景』の画面を仔細に観察してみよう。まず、太陽は画家の背後やや右寄りから射しているように見える。周囲の枯れた草木らしい表現から、季節は晩秋または冬、あるいは枯草を残したまま迎えた早春だろうか。手前右手の地面に描かれた明るい絵の具は、残雪のようにも見えている。また、画面の右手から奥にかけ、崖地がつづく谷戸のような地形がうかがえる。影の濃さから、かなり深い谷戸のようで、奥に連なる家々は谷戸の突きあたりの丘上に建っているように見えている。手前から左手の家屋までつづく土地も、谷戸の西側につづく尾根筋のようだ。
 画面の左側に見えている大きく描かれた2階家には、高めの物干し竿に洗濯物や蒲団類だろうか、晴天日にあわせてなにかが干されているような描写に見える。すぐに思い浮かぶのが、佐伯の「制作メモ」Click!にある『洗濯物のある風景』Click!だが、この画面は同作ではないとみられる。なぜなら、1926年(大正15)9月21日(火)の天候は、東京中央気象台の記録によれば曇天で、翌日から4日間も雨が降りつづくので厚い雲におおわれた、薄暗い曇天ではなかったかと思われるからだ。それに、カラー画面で確認しないと最終的な規定はできないが、描かれた風情はどう見ても9月とは思えない。
 右手の丘上には、ほとんど樹木が生えておらず背の高めな雑草が生い繁っているだけなので、木々を伐採してなんらかの整地作業が行われた可能性を感じさせる。将来の住宅地化を踏まえ、樹木を伐採したあとの原っぱが拡がっているのだろうか。南側を背にして、あるいは仮に早朝の朝日があたる風景を想定したとしても、このような風情の谷戸地形が見られる場所は、大正末の現在、下落合では3ヶ所しか存在していない。すなわち、下落合の東部にある林泉園Click!谷戸と、中部ののちに国際聖母病院Click!が建つ青柳ヶ原Click!の西側に口を開けた西ノ谷(不動谷)Click!の谷戸、そして第一文化村Click!に切れこんだ前谷戸Click!だ。
目白風景1.jpg
目白風景2.jpg
曾宮一念「冬日」1925.jpg
 ただし、『目白風景』に描かれた谷戸周辺の家々を観察すると、東邦電力Click!の建てた社宅群=洋風のテラスハウスClick!中村彝アトリエClick!が建つ林泉園Click!周辺でもなければ、1926年(大正15)現在で谷戸周辺にオシャレな西洋館が見えず、谷戸の幅がかなり狭いので第一文化村の前谷戸でもないだろう。残るのは、左手(西側)の丘筋に〇あ井邸(1文字目不明/昭和初期に建て替えられ佐久間邸)の2階家が入り、右手に樹木の伐採が進んだ青柳ヶ原の丘の崖線がつづき、谷戸の突きあたりの下部には造成されて間もない第三文化村の敷地が拡がる、青柳ヶ原の西ノ谷(不動谷)Click!だろう。
 青柳ヶ原に繁っていた樹木の伐採は、おそらく住宅地の開発を前提としていたのだろう、1924年(大正13)ごろからすでにはじまっており、その様子は同年から1925年(大正14)にかけての冬季に制作されたとみられる樗牛賞Click!を受賞した曾宮一念Click!『冬日』Click!でも、その様子を知ることができる。1931年(昭和6)になると、青柳ヶ原には国際聖母病院Click!が建設されるが、それ以前は箱根土地Click!の第三文化村開発に刺激された地主が、丘上を宅地開発用に整地しはじめていたのかもしれない。
 そして、もうひとつ西ノ谷(不動谷)ならではの特徴が、『目白風景』の谷戸の奥に描かれている。谷戸の突きあたり、すなわち西ノ谷(不動谷)に第2の「洗い場」Click!を形成していた湧水源の丘上の地形が、左手(西側)から右手(東側)へゆるやかに傾斜していることだ。これは、下落合の他の谷戸には見られない大きな特徴で、左手の尾根筋へ上がれば、もちろん「八島さんの前通り」(大正期の補助45号線)Click!が南北に通っている。
 佐伯祐三が描く『八島さんの前通り』(1926年)では、帽子をかぶった人物(ときにイヌを連れた人物)が、右手の坂道へ下っていく様子が描かれている。その傾斜が、西ノ谷(不動谷)へと下りる谷戸突きあたりの坂道であり、『目白風景』に描かれた谷戸奥の傾斜だ。すなわち、佐伯祐三は箱根土地による第三文化村の開発地と、樹木を伐採して同様に造成中だったと思われる、青柳ヶ原の段丘西端を描いているとみられる。
 ちなみに、寺の息子の佐伯はこの谷戸に形成された洗い場に繁る低木で、パーティー用のクリスマスツリーを調達している。昭和期に入ると、野菜を洗う農家がなくなったのか洗い場は埋め立てられ、少し南の谷戸の出口近くに、湧水を利用した釣り堀Click!が開業している。また、右手の切り立った崖地も、昭和期に入ると緩斜面にならされ姿を消している。
八島さんの前通り.jpg
目白風景3.jpg
西ノ谷1926.jpg
 佐伯祐三は、「八島さんの前通り」から外れて東側の須藤邸敷地(庭先?)に入りこみ、西ノ谷(不動谷)西側の尾根筋へイーゼルをすえ、北側を向き太陽を背にして『目白風景』を描いている。番地でいえば、下落合678番地の須藤邸敷地内だ。この風景の背後(南側)、50mほどのところには笠原吉太郎アトリエClick!(下落合679番地)があり、そのモダンな2階家Click!の一部が屋敷林から突出して見えていたのかもしれない。
 谷戸の突きあたりに見える三角屋根の家は、佐伯が『テニス』Click!をプレゼントした落合第一小学校Click!の教員・青柳辰代Click!が住む青柳邸(下落合658番地)だろう。少し間をあけ、右手(東側)に見えかかっている大きめな屋敷は、廃業した養鶏場Click!跡に建っているハーフティンバーの建築様式を採用した西洋館の中島邸(のちに早崎邸/同658番地)であり、その間に見えている大きめな家屋は、地主の高田福太郎邸(同659番地)だと思われる。佐伯祐三アトリエClick!(同661番地)は、高田邸の左手(西側)、青柳邸の背後(北側)に隠れてモノクロ画像では描かれていないように見える。
 さて、画面左手に描かれている洗濯物を干した2階家は、〇あ井邸(1字不明/下落合667番地)で、佐伯がイーゼルを立てている手前に黒い影が映る家が須藤邸(同678番地/昭和初期に建て替えられて東條邸)だと思われるが、谷戸の突きあたりにはもうひとつ大きなテーマとなる情景が描かれている。それは、三角屋根をした青柳邸の左側(西側)に、なにやら大規模な屋敷と見られるモチーフが、薄いコントラストで描かれていることだ。まるで小学校の校舎のような2階家なのだが、1階部分がなにかに隠れているようでハッキリしない。あたかも、住宅建築にみられる養生のようだと考えて、ハタと気がついた。
 青柳邸の西隣りの広い敷地には、1926年(大正15)の暮れあたりから、“『”の字型をした赤い屋根の大きな納三治邸Click!の建設が着工していたはずだ。池袋駅近くの雑司ヶ谷953番地で曙工場Click!を経営していた納三治は、大家族だったのかこの一帯でもひときわ巨大な西洋館を建設している。納邸は、翌1927年(昭和2)の初夏には竣工または竣工間近の時期を迎えており、その様子は「八島さんの前通り」を北側から描いた、『下落合風景』Click!(1927年6月の1930年協会第2回展Click!出品作)にとらえられている。
 青柳邸の左側に描かれているフォルムが、建設途上の納三治邸であるとすれば、『目白風景』の制作時期は1926年(大正15)内ということはありえない。画面の描写では、すでに棟上げを終えたような様子だが、とても竣工しているようには見えないことから、少なくとも1927年(昭和2)の冬の終わりから早春ごろに描かれた可能性が高いということになる。
西ノ谷1936.jpg
西ノ谷1.JPG
西ノ谷2.JPG
 できれば、『目白風景』はカラー画像で観てみたいものだが、1945年(昭和20)5月15日の神戸空襲で、佐伯コレクション104点(一説には約150点)のうち、岡山へ疎開しそびれていた60%以上の作品が焼失しているので、『目白風景』もその中に含まれていたのだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)の冬か、早春に制作されたとみられる佐伯祐三『目白風景』。
◆写真中上は、佐伯祐三『目白風景』に描かれた風景モチーフの部分拡大。は、1925年(大正14)制作の諏訪谷を描いた曾宮一念『冬日』。西ノ谷(不動谷:西側)とは青柳ヶ原の丘をはさみ反対側(東側)の諏訪谷から南西の方角を向き描いたもので、青柳ヶ原にはいまだ伐採されずに残っている樹林がとらえられている。
◆写真中下は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三『八島さんの前通り』の1作。右手の帽子をかぶった男の下りていくのが、西ノ谷(不動谷)へと通う坂道。同作が描かれた時期、八島知邸の南側にある納三治邸の建設予定地には、縁石が設けられておらず草地のままの状態なのがわかる。この納邸敷地の整地状態によって、「八島さんの前通り」シリーズの制作順Click!がわかることはすでに記事に書いた。は、谷戸突きあたりの部分拡大。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイントとその周辺の家々。すでに多くの住宅が建て替えられており、青柳ヶ原には国際聖母病院が建設されている。また、この空中写真からも佐伯邸の西並びにある納三治邸の巨大さがわかるだろう。は、住宅が建ち並び描画ポイントには立てないので、谷底から撮影した西ノ谷(不動谷)の現状。佐伯は左手に見える大谷石の築垣の、さらに上にある斜面を上った位置あたりから谷戸の突きあたりを向いて描いているとみられる。は、「八島さんの前通り」から西ノ谷(不動谷)へと下る坂道。ちょうど、吉田博・ふじをアトリエClick!(大正末は大塚邸)の跡に建っていた邸(かつてお話を聞かせていただいた料亭「桃山」の社長邸)の解体工事中だった。
おまけ
 1935年(昭和10)前後に、青柳ヶ原(すでに国際聖母病院敷地)から撮影された西ノ谷(不動谷)。見えている西洋館は、谷戸西側の尾根筋に建つ佐久間邸(右)と東條邸(左)。佐伯は、東條邸(建て替え前の旧・須藤邸)敷地あたりにイーゼルをすえ、同様に新築の佐久間邸(建て替えられる前は〇あ井邸)を画面左に入れて『目白風景』を描いているとみられる。
不動谷・西ノ谷.jpg
2階のベランダか高い物干しざおに架けられた、風で揺れる洗濯物?
洗濯物.jpg

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読んだ! 17

コメント 4

ものたがひ

落合道人さま、こんばんは。失われた作品だとすると、この図版が頼りですね。私には洗濯物は認識できず、細部はよくわからないのですが^^;、青柳ケ原を下って振り返り、整地中の崖地を描くのは、佐伯らしく感じます。
なお、事情明細図の667番地は「さか(左可の変体仮名)井」さんかも?
by ものたがひ (2023-07-06 23:14) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
記事のいちばん下に画像をアップしたのですが、2階のベランダか、あるいは庭に立てた高い物干しへ、横に渡した物干しざおに洗濯物が干されて、風に揺れているように見えるのです。特に、赤囲み枠のいちばん左側には、筒袖が縦になった二つ折りの半纏(?)のようなものが確認できます。
667番地の「〇あ井」は、「さか井」なのですね。崩し字が読めず、「〇あ井邸」などと書いてしまいました。「酒井」「坂井」「逆井」などで『落合町誌』に当たってみましたが、残念ながら下落合667番地では見つかりませんでした。
by ChinchikoPapa (2023-07-07 10:15) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。papaさんの描画ポイント探しは、とりわけワクワクします。下落合も時代とともに様変わりしているので、描画ポイント探しはなかなか難しそうですね。素人感覚としては、昔の下落合の写真があれば、描画ポイントも探しやすいのではと考えるのですが、なかなか古い写真などもないのでしょうか?
by pinkich (2023-07-07 23:14) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
戦前から下落合に住み、拝見させていただいたアルバムは、できるだけ拙サイトでご紹介するようにしていますが、アルバムが存在しないいちばん大きな理由は、山手大空襲による火災で焼失しているのと、もはや大正末から3~4世代が経過していますので、整理されて存在しないのが大きな要因のように思われます。特に、落合地域から他所へ転居される際などに、廃棄されてしまったケースもあるようですね。特に、上落合は空襲でほぼ全滅状態ですので、戦前の写真や資料は非常に貴重な存在となっています。
by ChinchikoPapa (2023-07-08 10:56) 

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