『目白風景』は佐伯のちょっとした勘違い? [気になる下落合]
佐伯祐三は、所番地の表記にかなり神経質だ。『下落合風景』シリーズで、妙正寺川の対岸にある下落合の家々を描いても、イーゼルを立てた描画ポイントが上落合なら、きちんとその所在地を「制作メモ」Click!へ几帳面に残している。『目白風景』(1926年・大正15)と題されたこの作品も、だからおそらくは下落合の風景ではないだろう。でも、当時「目白」と表現されたこの場所は、いったいどこのことを指しているのだろうか?
佐伯がこの絵を描いたのは、旧・下落合のあちらこちらで『下落合風景』シリーズを描きつづけていた時期だ。でも、タイトルには「目白」と付いてはいるが、1926年(大正15)当時、現在の目白と呼ばれる住所表記の地域は、すべて高田町か長崎町の一部だった。
●高田町高田(金久保沢の一部)・・・現・目白1丁目
●高田町大原・・・現・目白2丁目
●高田町雑司谷旭出(金久保沢の一部)・・・現・目白3~4丁目
●長崎町荒井・・・現・目白4~5丁目
つまり、当時は省線・目白駅の周囲、高田町界隈には「目白」という地名は存在しなかった。では、佐伯が『下落合風景』ではなく『目白風景』としたのは、いったいどのあたりだろうか? 絵の様子からすると、中央には扇状に空地が広がり、左手には和風のどっしりとした家、右手には小さな崖線か土手のような段差があるのが見え、右手のさらに高い崖上には木立が寄り添うように大きな西洋館のようなフォルムが描かれている。(描きかけなのかもしれない) 正面の遠景には、かなりの家々が建ち並んでいて、比較的密な住宅街があることを示している。
わたしは、佐伯が『目白風景』と名づけたのは、省線・目白駅のごく間近だからではないかと考えた。佐伯祐三が、そう名づけても不自然ではないほど、目白駅のかなり近くを想定すると、描かれた風景に該当する場所は1箇所しかない。それは、山手線の線路をはさんで学習院の反対側、つまり下落合側へ逆Г字型に切れ込んだ、高田町金久保沢の“飛び地”だ。「金久保沢風景」としたのではタイトルとして据わりが悪いし、「高田風景」では高田馬場駅と混同するとでも考えた佐伯は、目白駅がごく近くなので、あえて『目白風景』としたのではないだろうか?
『下落合風景』の画材を求めて歩きまわっていた佐伯祐三は、鎌倉古道(雑司谷道)が山手線に突き当たり、学習院へと抜けるガードClick!を描いている。彼は、ガードからなだらかな上り坂や平地が連続する線路沿いの道を、目白駅方面へとやってきて、この描画ポイントを発見したのではないか? 最初は、地理的に考えても落合町の下落合エリアだと判断したかもしれない。おもむろにイーゼルを据えて描き始めてはみたが、山手線の西側(外側)にもかかわらず、なにかのきっかけでここが下落合ではないのに気がついた。そこで、『下落合風景』とはせずに、地名にかなり神経質な佐伯は、あえて『目白風景』という画題にしたのではないか?
当時、目白駅周辺を地名とはかかわりなく、漠然と「目白」と呼んでいたことは、中村彝の作品からもうかがえる。中村彝は、下落合にあるメーヤー館を描いて、『目白の冬』Click!というタイトルを付けていた。もっとも、これらの建物の敷地が「目白福音教会」、あるいは「目白英語学校」とすでに呼称されていたせいもあるのかもしれないが・・・。大正期、このあたりに移転してきた施設、あるいは建てられた企業や商店には、最寄り駅である「目白」を冠する名称がちらほら目立ち始めている。
1936年(昭和11)の空中写真を見ると、家々が増えているとはいえ、それらしい地形と家々の並びを、高田町金久保沢に見つけることができる。下落合の丘へと抜けられる西側の斜面には豊坂稲荷が鎮座し、品川赤羽鉄道(山手線)が貫通する以前は、そこここで泉が湧く谷間だったところだ。学習院の血洗池を形成する泉も、この谷間の湧水源のひとつだったろう。余談だが、品川赤羽鉄道は北上するにつれ、このような谷間を巧みに縫うようにして敷設されている。
佐伯祐三は、山手線の「ガード」を描いた前後に、線路沿いを北上してこの風景を見つけた。絵の画角外の左側は、平坦な道路を隔てて山手線の線路が、右側は下落合の丘が拡がっている。当然、佐伯は一連の『下落合風景』シリーズの1枚として、この作品を描き始めたのだ。ところが、仕事をしていて通りがかった人に、「おや、佐伯先生、やってるね。でもあんた、ここは下落合じゃないよ」と教えられたのか、あるいは帰宅してから地図を見て気づいたものか、ここが落合町下落合ではなく、高田町高田の金久保沢だということが判明した。「下落合やぁ思うて描いたのに、やってもうた。こらぁあかんわ」とため息をついた彼は、いつものタイトルではなく、描画ポイントのすぐ左手にあった目白駅から『目白風景』としたのではないだろうか。
この絵は個人蔵なのか、あるいは戦災で焼失してモノクロ写真しか残っていないものか、戦後は講談社版の『全画集』に収録されているだけで、展覧会では観たことがなかった。佐伯祐三の作品に、『目白風景』と題された絵は、わたしの知りうる限りこの1作品しか見当たらない。ほんとうは『下落合風景』シリーズのはずだったのに、ちょっとした勘違いから『目白風景』というタイトルにせざるをえなくなってしまった・・・。わたしは、そんなことを想像しながら楽しんでいる。
では、この作品を場所特定の空中写真Click!に19として記載しよう。
■写真上:佐伯祐三『目白風景』(1926年・大正15)。
●地図:1924年(昭和4)に作成された高田町市街図。
■写真中:左は、1936年(昭和11)に上空から撮影された高田町金久保沢あたり。描画ポイントのすぐ東側には、省線・目白駅のプラットホームが南北に白く見えている。西側には、下落合の丘陵が広がる。右は、絵の描画ポイントとほぼ同じ位置からの現状。まったく面影がないと思って出かけたのだが、右手の土手状の地形や丘上の下落合の家並みなど、案外当時の風情が残っていた。目白駅へと近づくにつれ、このあたりは斜面ではなく平地となっている。
■写真下:左は、雑司谷道のガード下から眺めた、線路沿いのだらだら坂。わずかな傾斜の坂と平地を繰り返しながら、400mほどで目白駅に至る。右は、描画ポイントから道へと出たところ。目の前に、当時よりはかなり延長されたJR目白駅のホームが見える。
私は聖母病院で生まれ、佐伯祐三画伯の屋敷のすぐそばで生活し、落合第一小学校、落合中学校を卒業したものです。現在50代のサラリーマンです。
会社のパソコンで「目白文化村」を発見し、ほとんど毎日のようにインターネットの「お気に入り」で拝見しています。
私が幼児のころ、佐伯画伯は亡くなっておりましたが、奥様の米子さんはご健在で、画伯の隣の家の前で近所の子供たちが遊んでいる前を、ハイヤーを待たせた米子さんが着物姿で黒い松葉杖で横切って行く姿が目に焼きついて
います。画伯の家と隣家は壁がなく、大きな木が整然と並び、壁代わりになっていました。私が卒業した落合第一小学校の校医は熊倉先生でした。
音楽の先生は戦前から勤めていた先生で、学校に米軍の飛行機がやってきて
銃撃を受け逃げ回ったことを授業で話していたことが記憶に残っております。
by 鈴木敏夫 (2006-04-09 09:59)
鈴木さん、コメントをありがとうございます。また、「目白文化村」のお気に入りへの登録、ありがとうございます。<(_ _)>
確か米子夫人は、1972年(昭和47)ぐらいまでご存命でしたね。わたしは、亡くなられたすぐ後ぐらいから下落合を散策するようになりました。当時はまだ、佐伯祐三邸の敷地にはアトリエだけでなく、母屋もそのまま残されていました。米子夫人が存命中に、「落合新聞」を発行していた竹田助雄氏は、『下落合風景』の場所特定をやりましょうと夫人に話されていたようですが、1972年に夫人が亡くなってから、結局そのままになってしまったようですね。当時であれば、『下落合風景』の場所特定も、現在よりははるかに容易だったのではないかと思います。わたしが初めて下落合に足を踏み入れた1974年でさえ、旧・下落合1~4丁目では古い建物があちらこちらに見られました。
熊倉医師は、落一小学校の校医をされていたのですね。これも初めてうかがう、めずらしいお話です。下落合(中落合/中井2含む)の点の物語が、少しずつ線へとなってくるような気がします。ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2006-04-10 00:34)